考えたこと2

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うすうす知ってた 田辺聖子
ポプラ文庫のTanabe Seiko Collectionの第5巻。
田辺聖子はいろんな出版社の文庫本が出ているが、これは初めて見た。
ポプラ社、という出版社。
2009年に出していた。

短編を集めて文庫にした本。
田辺聖子のインタビューが出ている。

この本は微妙な男女関係を書いている短編集。
ややこしい関係だが、田辺聖子の小説に出てくる男女はわりとあっさりしている。
それが大人なのだ、ということだろう。

30代、40代でよく読んだ。
田辺聖子の文庫本は70冊以上。
小説を読む楽しみを教えてくれた作家だ。

2019年に亡くなった。
亡くなった母がまだ普通だった頃。
母もたくさん読んでいた。

田辺聖子を最初に読んだのは、実家から借りて帰った本。
あのとき読まなければ、出会わなかったかもしれない。

久しぶりに読んだが、やっぱり田辺聖子は面白い。


| hdsnght1957kgkt | | 22:20 | - | - |
星を継ぐもの 創元SF文庫
星を継ぐもの 創元SF文庫

次男がGWで図書館で借りて文庫を持って帰ってきた。
1941年ロンドン生まれの、ジェイムズ.P.ホーガンというSF作家の長編デビュー作らしい。
1977年に書いた作品。

面白いというので、借りて読んで初日に電車の中で読み始め、2日で読了。
久しぶりに面白いSF小説を読んだ。

昔はよくSFを読んだが、日本の作家が多かった。
SFと言っても、軽いもの。

70年代、80年代はSFが多かった。
本屋にSFというコーナーがあった時代。
星新一もいたし、筒井康隆もいたし、光瀬龍もいたし。豊田有恒もいた。
まだ茶色く変色した文庫本が本棚にある。

その当時にこんな作品があったのか、と驚いた。

作者が一気に書いたというだけあって、一気に読ませる。
発想は今でも通用すると思う。
だいぶ荒唐無稽だが…。

一切ロマンスの要素はなく、ハードなSFの部類だ。

去年創元SF文庫で新板が出た、その文庫本。

この本を読めたのは今年の連休の収穫だった。


| hdsnght1957kgkt | | 16:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
風の果て 藤沢周平
上下2冊の時代小説。
藤沢周平の得意な、お家騒動というか、上層部の派閥争いの小説。
この本は母が中古で買ったものだと思う。
定価は420円だが、裏表紙に鉛筆で300円と書いてあった。

この当時の文庫はだいたい8.5ポイントの字で印刷されている。
今のものは9.25ポイントだそうだ。
今ならもっと分厚くなっていただろう。
ちょっとページが茶色に変色しているが、読み出すと気にならない。

出だしは、主人公の現在から始まる。
そこからすぐ、子供時代に戻り、同じ道場に通う5人組の話になる。
ところどころで、今と過去が入れ子になっている。
なぜわかるかというと、名前が変わるからだ。

5人の中で主人公は正義感の強い、隼太という少年。
江戸時代には次男、三男は婿に出るか、厄介者になるしかなかった。
隼太は婿に出て、藩の要職まで上りつめる。
その縦糸と、5人の仲間がどうなっていくかという横糸がこの物語を作っている。

藤沢周平の筆力はすごい。
まるで江戸時代に武士として仕事をしていたようだ。
それも架空の藩だ。

結局栄華を極めても、ある意味若い頃の夢を捨てて、虚しさが去来する。

もう老境になった身には、染みる小説だった。



| hdsnght1957kgkt | | 10:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
消えた女 藤沢周平
藤沢周平の時代小説。
彫師伊之助のシリーズの1作め。
手違いで2作めを先に読んでしまった。

昭和58年の初版だから、1983年。
今から40年前。
さすがに時代小説だけあって、全く古さは感じない。
当然といえば、当然だが、いろんな機器を使わず、人間の目と耳と足とカンを頼りに物語が進むのは心地よい。

版木彫り職人をしながら、どこかに消えた昔の親分の娘を探す、という物語。
主人公の伊之助は、家庭を失った孤独な男。
自分のルールを持って、ブレないところが魅力で、乾いた存在。
でも、ウェットなところもあって、そこが一層人間らしい。

藤沢周平の新趣向の捕物帖だと背表紙に書いてある。
だいたい、お家騒動とか、派閥争いとか、人情ものとか、そんな舞台が多いような印象だが、この捕物帳は新しい藤沢周平(と言ってももう亡くなっているが)の挑戦だったらしい。

池波正太郎の鬼平犯科帳などとは違って、孤独で重い感じの小説。
それでも、楽しめる。

最後まで読んで、よかったなあ、という読後感が残る。

母の本棚から持ってきた本。
まだまだある。



| hdsnght1957kgkt | | 13:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
漆黒の霧の中で 藤沢周平
藤沢周平の時代劇小説。
事情があって岡っ引きを辞めた伊之助という彫師が主人公。
彫師というのは版画のもとになる版木を彫る職人のことだ。

実家から持って帰った本を適当に病院に持ってきて、薄めの本から始めようと読み出してから、シリーズ2作めであることがわかった。
1作めも持ってきていたので、読み直そうかと思ったが、面倒になって読み通した。

暇だから9時すぎに消灯しても1日で1冊読めてしまう。
それはこの本が面白いからだろう。

藤沢周平は時代小説の名手。
テレビではいろいろ見たが、本はほとんど読んでいない。

実家の本棚にはたくさんあった。
母も高齢になってから読んだらしく、本が古びていない。

この本はハードボイルドと裏表紙に書いてあったが、たしかにそんな趣の小説。
今や仕事でもない犯罪捜査に伊之助がしかたなく取り組んでいく。
そういうシチュエーションはハードボイルド向きなのかと思う。

ちょっと世捨て人風の感じもよくわかる。
何より、心理描写をセリフに交えながら、江戸の人たちが話しているという気がする。

何度か命の危機にもさらされるが、そのあたりの描写も見事だ。

さすが藤沢周平という作品。
新潮文庫514円は安い。

現在はKindleの電子版は515円だが、紙の文庫は649円。

紙の本は高くなった。



| hdsnght1957kgkt | | 19:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
人は家畜になっても生きる道を選ぶのか? 
人は家畜になっても生きる道を選ぶのか? 森田洋之著 南日本ヘルスリサーチラボ

医師であり、医療ジャーナリストである森田洋之氏が著者。
どの出版社からも出版を断られ、クラウドファンディングで一夜にして目標を達成し、本になった。

一日で読んでしまった。
帯にこう書いてある。

「医療法第1条には、「医師は(中略)国民の健康な生活を確保するものとする。」と書いてある。この2年間のコロナ対策で、経済は落ち込み、学校は休校・リモートになり、高齢者は施設に閉じ込められた。その結果、2020年の自殺者は激増し、子供の自殺は過去最高となった。果たして我々医療従事者は本当に「国民の健康な生活」を確保できたのだろうか?」

この本はいい本だ。

経済学部を出て医学部に行ったという経歴の持ち主だけあって、広い目でコロナ禍を見ている。
ぼくもずっと海外比較で日本は被害が2桁少なく、欧米の真似をしなくてもいいと思っていた。
彼も、同じ意見だった。

日本が世界一の人口あたりの病床保有していて、コロナ患者の死者数も人口あたりで、アメリカの1/10以下。
それでもなぜ医療崩壊するのかというと、コロナに対応しない病床が多いからだ。
他国では医療は公的なものということだが、日本では国立や公立の病院は少なく、民間の病院が多数。
要はどうしても儲け主義になってしまう。

おまけに、病院自体がコロナが怖いとなってしまうと、コロナ病床を断る。
マスコミで「専門家」が煽ったために、患者も怖がってよりつかない。
自称専門家たちの罪は重い。

諸外国では国や公的機関が運営しているので、機動的に動ける。
実際、患者数に応じてダイナミックに増減している。
日本は今回本当に被害が小さかったので、こんなポンコツな医療体制でも死者が少なくて済んだのだろう。

第1章にはこんなことが書いてある。

「自動車の製造を止めれば、交通事故で死ぬ年間100万人の命を救えたはずだ。でも僕らは歴史上決してその選択肢をとらなかった。意識するかしないかにかかわらず、我々はリスクと共存し、それを許容して生きてきたのだ。
 それなのに今、コロナによる恐怖と医療従事者による「ゼロリスク」の先導は世界中の経済を止め、生活を破壊し、人々は自らカゴの中に入ろうとしている。そして巨大な権力は近い未来、医療が持つ壮大な力を巧みに利用するだろう。(もしかしたら今がその時かもしれない)得るものに比べて失うものが大きすぎはしないだろうか。バランスが圧倒的に悪過ぎはしないだろうか。その時になって我々は、
「あ〜、あのコロナパニックが始まりだったんだ」
と気づくのかもしれない。
そんな未来を子ども達に残してしまうのか…しかも自分たちがその片棒を担いでいるのか…。漠然とそんなことを思っていたときに聞いたのが、

「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」

と言う言葉だったのである。」

お隣の中国では、すでにそうなっているのではないか、とぼくは思う。

マスクの効果に関しても、アメリカのノースダコタ州とサウスダコタ州の比較で説明している。
ノースダコタはマスクを義務化し、経済制裁も強固に実施し、サウスダコタはマスク義務なし、経済制裁もほぼ無し、いわゆるノーガードに近いゆるい感染対策。
その両者の感染者数を比較してみると、ほとんど一緒できれいに同じ曲線を描いている。

今のワールドカップでも、マスクなどしていない。
一体、日本はどうなっているのか。

また、デンマークとスウェーデンの感染者数の比較でも、ロックダウンの効果の検証ができる。
デンマークはロックダウンを厳格にやり、スウェーデンは厳格なロックダウンはしなかった。
当初スウェーデンは感染が拡大したが、デンマークの感染者はあとから激増し、累計の感染者数もスウェーデンを追い抜いてしまった。
つまり、外食の営業を停止しても、関係ないということだ。

森田氏は言う。

「果たして我々日本人は、「社会全体の最適解」をきちんと考えているのだろうか?
感染症の恐怖に引きずられて、自ら殻の中に閉じこもってしまってはいないのだろうか?
子ども達に明るい未来を残すためにも、いまきちんと社会を正常に戻しておく必要があるのではないだろうか。」

コロナ死だけを特別扱いする、ダブルスタンダードについても言及している。
毎年肺炎で10万人以上死んでいるが、コロナ死は2年で2万人以下。
どちらも感染症であり、どちらも主に高齢者。
コロナのみを偏重する専門家・メディア・政治家は「肺炎死を軽視している」ことに気づいていない、という。

ぼくは、普段マスコミに出ることがない感染症の専門家たちが、いちびっているようにさえ見える。
最初によく出てきて、思い切り恐怖を煽っていたおばちゃんや、緊急事態だと勝手に記者会見して、何もしなければ40万人死ぬなどと言った学者などは戦犯だと思う。

第5章に書いてある「日本の医療の構造的欠陥」は、著者が経済学部の大学院で授業をした記録。
これを読めば、いかに日本の医療が無駄を生み出しているか、よくわかる。

そういえば、2014年に「「病院」がトヨタを超える日」という本の記事を書いたのを思い出した。

あの本にも「日本の病院は7割が赤字であること、現在の医療は”装置産業”であって、資金調達が必要なこと、実際儲かっているのは設備投資をしない病院や、診療報酬点数の高い医療を優先する病院であって、患者のことを考えていない病院であること」と書いてあった。
こういう病院が今はコロナバブルで儲けているのかもしれない。

今まで豊かだったから、こういうムダが通ってきたのだろう。
でも、今からは人口が減り、どんどん貧しくなる。
次の世代がちゃんと暮らしていけるように、ぼくらは繋いでいかないといけない。

でも、そんなことを考えている政治家やマスコミは見えない。
それが根本的な問題なのだろう。




| hdsnght1957kgkt | | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネコたちをめぐる世界
ネコたちをめぐる世界 日高敏隆 小学館

実家から持って帰ってきて読んだ。
日高敏隆は有名な動物行動学者。
残念ながら2009年に亡くなっていた。
2005年に「春の数え方」というエッセイ集を読んだ。
それ以外にも何冊かは読んだと思う。

この本は日高家で飼われたネコたちを観察した記録。
と言っても、雑誌に連載されていたもので、観察記録というよりは読み物になっている。
作者はネコ派で、奥さんもネコ好き。
だから、京都の家に1匹のネコをもらってきて、自由にさせていると、どんどん増えた。
ネコのオスメスの違い、家で飼われているネコの特徴、ネコの家族の振る舞いや家出などが書かれている。

家に何匹もネコがいて、ネコ用の扉を作って出入り自由にしていると、外からオスネコが入ってきて、家のオスと縄張り争いをする。
動物は尿でマーキングをするので、大事に尿を貯めるらしい。
そして、縄張りを示すときには、特別な腺から特に臭い液が出る。
何度も家の中で騒動が起こり、家中にネコの匂いが漂って「大変だった」という。
普通の人なら、我慢できずに家の出入りをやめるだろうが、さすが動物学者だけあって、それでもネコの自由を奪わない。
これには感心した。

と同時に、こういう人が近所にいると、周りの家も大変だろうと思う。
あとがきでお詫びはしているが…。

イヌとネコはどちらも人間と仲良しだが、ネット上では圧倒的にネコが多いと思う。
なぜだかわからない。
人数的には拮抗しているはず。
でもまあ、ネコの方が人間を考えさせるのはわかる。
イヌは人間を主人だと思っているが、ネコは同類だと思っているとどこかに書いてあった。

作者は動物学者だけあって、ネコを見る目は鋭い。
どのネコがどういう性格というのも、よく見抜いている。
人間にもいろんな性格があるように、ネコにも臆病なのやあけっぴろげなのがいる。
そういうネコたちと生活するのは、大変だが面白いとも思う。

この人は有名な「ソロモンの指輪」という動物行動学者のローレンツ(ノーベル賞をとった)の本を訳している。
その経緯も書かれていて、興味深い。

ネコがどう世界を見ているのかという実験の話などもあり、ネコ観が養われる。
1989年初版だが、こういう本は古くならない。
また、この本を読んでいると、人間同士が争っているのが バカバカしく思える。

アマゾンで見たが、この本はもう絶版。
それでも中古で流通しているのがありがたい。

ネコが好きなら、読んで損はないと思う。





| | | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペンギン・ハイウェイ
ペンギン・ハイウェイ 森見登美彦著 角川書店

アマゾンで中古の単行本を買って、今日読み終えた。
こないだ見たアニメの原作だ。

映画を先に見ておいて、よかったのかもしれない。
年をとって、だいぶ想像力が鈍っているから、それを補ってくれたように思う。
かなり忠実に映画化されている。さすがアニメだと思う。
そして、この本の世界をよく表している「絵」だった。

この本は男の本だ。
ぼくは主人公のアオヤマくんが好きだ。
アオヤマくんを好きになれるかどうかで、この物語をわかるかどうかが決まる。

以前、宮部みゆきを読んだ時に、この人は素晴らしいストーリーテラーだと思った。
だいたい、小説というのは女性作家の方が上手だ。
世界最古の長編小説、源氏物語を書いた紫式部も女性だったのだ。

たしかにハードボイルドなどの現実味があふれる小説なら、男の作家もいい。
でも、本当に空想的なストーリーで、ここまで書ける男性作家がいたのは発見だった。

適度に空想科学的なものが出てくる。
空想科学的といっても、ワームホールなどという宇宙科学者たちが真剣に論じているものだ。
作者はそういうものに精通しているのだろう。
それら科学的なものと、ペンギンという生き物をセットしたところにこの本の面白さがある。

そして、不思議な「お姉さん」。
最後まで名前も出てこない。
歯科医の受付という、ごく普通の仕事をしている。
その彼女が持っている不思議な力と、歯科医の受付という仕事をセットしたところにも面白さがある。

でも、この物語の本筋は、主人公のアオヤマくんとお姉さんを含む、彼を取り巻く人達にある。
彼の小学生友だちたち。
家族や海辺のカフェの店長、友だちの家族など、キャラクターとして実在しないような人たちであるにもかかわらず、本を読んでいると存在感がある。

本の帯に「少年には忘れられない夏がある。」と書いてある。
文字通り、そういうことなのだ。

少年の頃の忘れられない夏休み。
子供時代の夏休みの「切なさ」を思い出した。

アオヤマくんやその友だちもいつかは大人になる。
大人になっても、きっと覚えているだろう、そんな思い出。
そういうものを、作者はきっと書きたかったのだろうと思う。

いい物語を読めた。


| | | 11:37 | comments(2) | trackbacks(0) |
マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと
マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと ジョン・クローガン ハヤカワ文庫

アマゾンで中古で買った。

著者はアメリカの新聞社のコラムニスト。
13年にわたって飼っていた、ラブラドール・レトリーバーの「マーリー」の事を書いた本。
結婚とほぼ同時に飼い始め、別れるまでのエッセイだ。
「マーリー」はレゲエのボブ・マーリーから名付けた名前。

ブリーダーの所でラブラドールを買ったのだが、どうもあまりよくないブリーダーだったらしく、犬の両親を確かめられなかった。
引き取って帰る途中、父親らしい犬を見たのだが、不安を感じさせる犬だった。

案の定、もらってきたイヌは精神的に不安定で、標準的なラブラドールとは違う「おバカな犬」だった、という。
カミナリ恐怖症で、カミナリが鳴るとガレージに置いてある頑丈なケージをも破壊する。
自分が血を流しても、どこかに逃げようとする始末。
いつもよだれを垂らし、飛びつき癖があり、訓練所では失格する。
散歩をすれば飼い主を引っ張り回し、40キロの身体でぶつかってきたりする。
家中のものを壊し、何でも食べる。

最初の方を読んでいると、よく我慢できるなあと思う。
マーリーが壊して修理したお金で、きっとヨットが買える、と書いてあった。

しかし、読んでいるうちに、だんだんとマーリーが愛せる犬になってくる。
飼い主の気持ちが伝わってくるのだ。

最後にお別れする時は、涙が出る。

誰かが、イヌは寿命が短いけど、その短い一生で人間と同じだけ愛情を注いでくれる、と言っていた。
そういうエッセイだった。

大型犬は人に近いという。
なるほど、そうかもしれない。
アメリカみたいに広い家と土地があれば、いいんだろう。

日本では場所がなあ…。

| | | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
みおつくし料理帖
みおつくし料理帖 高田郁 ハルキ文庫

NHKで時代劇をやっているのを見て、読んでみようと思ってここに書いたら、大学時代の友人が10巻を貸してくれた。
友情に感謝。

シリーズ10巻あって、1巻あたり4つくらいの料理が出てくる。
もちろん、それに因んだストーリーが絡む。

主人公は澪(みお)という料理人。
天性の味覚を持って生まれたが、今は天涯孤独の身の上。
料理の腕を見込まれて、大阪で修業をするが、店は潰れて今は母親代わりの女主人と一緒に江戸に出てきている。
事故で別れた幼馴染が、何の因果か吉原で太夫になっていることを知り、救い出したいと思う。
これが10巻全体を貫く縦糸。
横糸は勤めている料理屋の面々が織り成す人間関係。
主人公の恋もあれば、商売敵の料理屋との競争もある。

高田郁という人は、以前「銀二貫」という時代小説を読んだ。
その時も、絵になる小説を書く人だと書いたが、このシリーズもそう思う。
マンガの原作をやっていただけのことはある。

随所にホロリと泣かせる場面が散りばめられている。
料理を食べた何気ない客の一言が、主人公を喜ばせる。
もちろん、笑わす場面もある。

料理や食材、味、においなどの模写もいい。
澪のいる「つる屋」に行ってみたくなる。
このへんも絵になる小説だろう。

この人は市井の職人が好きだ。
主人公の澪が作る料理は、高い食材もでないし、庶民が食べられるもの。
歴史には名を残さないが、そういう職人たちが今の料理を作ってきたという澪の思いもある。
その人たちを愛でたいという気持ち。
読んでいて励まされるのは、澪がいつも安い値段で材料をムダにせず、それでいて美味しいものを作ろうとすること。
そして、それを食べる人たちが、料理人に感謝の気持ちを持つことだ。

自分はどういう料理人を目指すのか、というのも10巻を貫くテーマになっている。
一流の料亭で腕を振るうのか、それとも…。
その道をみつけ、生きていくのだ。

こういう時代小説を読んで楽しめるのは、本当に幸せなことだと思う。

みおつくし料理帖、全10巻。
読みだしたらやめられない。

このシリーズも睡眠不足注意だ。


| | | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
「十年先を読む」発想法
「十年先を読む」発想法 西澤潤一 講談社文庫

ブックオフで見つけて中古で買った。
もう絶版で普通の本屋では手に入らないだろう。
180ページほどの本。

著者の西澤純一郎氏は光ファイバー関連の発明で有名な東北大の博士。
90歳でまだ存命だ。
「独創は"常識"との闘いである」「ごくわずかの差が巨大なのだ」「いまどきの若いものはだめだ」「技術開発に終わりはない」「"光"に向かって進め」という4章立て。
内容は工学部での発明の苦労や考え方、教育論などが書いてある。

面白いのは、お決まりの「いまどきの若いものはだめだ」という章。
自分は年をとったからそういうのだが、ギリシャの昔からそういう意見はあるということを前置きしている。
この本は1985年に出された。
その当時ぼくは28歳。
この人の言う、「若いもの」に入っているだろう。

まず、最近の若いものはいうことをきかないという。
それを指摘すると、「人からいわれてやるのは研究じゃない」というが、よその研究所に行ったら部下ができて、その部下に指示を出している、という。
自分が命令するのは研究であっても、人からいわれるのは研究じゃないという理屈があるか、ということだ。
ごもっとも。

また、研究面で、海外でやっている事は信じるが、日本でやっても信じない、ということも書かれている。
そういう感じはあったんだろう。
古き良き時代だと、今なら思える。

若い人たちを見て、こう書かれている。

「どうも、世の中全体が、若い人を甘やかし過ぎたのではないか。戦後の数々の失敗の中で、筆頭にあげられるべきは、教育の失敗ではないかと、この頃しみじみ思う。
 社会の一員として生きていく場合、義務も束縛もあるという感覚が、欠如している。豊かになりすぎて、責任を痛感する時期が、成長過程の中でなくなったのではないか。
 私たちの時代は、上級学校に進む場合、親に頼んで進学させてもらったものである。いまの子どもたちは、親に頼まれて学校に行ってやっている、という感覚である。会社に入るときも、一部上場の会社に就職してくれと、親に頼まれるありさま。子どものためではなく、親の見栄を押し付けているにすぎない。
 たしかに、戦前は、絶対的に貧乏だったから、大学に進みたいということになれば、家族が総力をあげて、その子どもにできるだけのことをしてやろうとした。その分、子どもも、責任を痛感したのである。
 いまその立場が逆転してしまっている。親が、子どもを甘やかしすぎるのである。私たちに対しても、”教育とは教えてもらうもの”だから、勉強しなくてもわかる講義をしろ、というヤツもいる。
 生きていくという厳しさがない。頼まれて生きてやっているんだ、ぐらいに思っているようである。ぼくたちを生かしておかないなら、おまえたちがわるいんだ、といういいかたになるのである。」

自分が若い頃も、エライ先生からはそういう風に見られていたということだ。

ギリシアの象形文字の壁画にも、「今どきの若いものは…」と書いてあったという。
若い人は年をとってしっかりするんだろう。

時代は繰り返す、ということがよくわかった。


| | | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
幸福の船
幸福の船 平岩弓枝 新潮文庫

平岩弓枝の本は時代小説を1冊読んだ覚えがあるだけ。
この本は実家で借りてきた。
どちらかというと、テレビの脚本などで有名な人だ。
「御宿かわせみ」シリーズはいつか読みたいと思う。

この本は世界一周の客船が舞台。
何ヶ月かかけて、世界を回るという贅沢な船だ。
ヒロインは船医の娘で、いろいろあって、仕事もやめてこの船に父親と一緒に乗った。

豪華客船というのは、乗ったことがないが、何百人という客がいて、船内は一つの世界になっている。
そこで繰り出される人間模様を描く小説。

小説の後に、阿川弘之と作者が対談していて、海軍好きの阿川に付き合って、船が好きになったという経緯が語られる。
なるほど。
阿川はいくつもの客船に乗ったことがあるらしい。

作者は実際に客船に乗って、起こったことをヒントに小説にした。
日本を出て、スリランカ、紅海、スエズ運河、イスタンブール、ヴェニスなど、いろんなところに寄港していく。
乗ろうと思ったら、お金がかかるし、時間も要る。
まあ、夢のような世界だ。

こういう世界こそ、小説でないと味わえない。

贅沢だが、その贅沢ができる人たちが必ずしも幸せとは限らない。

そこが人生の妙。

いつかそういう船に乗ってみたいと思っている人は、読んでみたらいいと思う。


| | | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀二貫
銀二貫 高田郁 幻冬舎時代小説文庫

NHKでやっている土曜時代劇「みをつくし料理帖」が面白いので、元となる小説の作者、高田郁の本を実家で借りた。
この「銀二貫」というのも2014年にテレビ化されていた。
また再放送しないかな。

「銀二貫」というのは、大阪の寒天商が天満の天神さんに寄進しようとして持っていたお金。
それがひょんなことから、京都で主人公を助け、大阪に連れ帰り、丁稚として使うためのお金に化ける。
口うるさい番頭や気のいい丁稚仲間、寒天職人などに育てられ、一人前の寒天商になっていく主人公。
途中何度かの火事があり、焼け出されたりするが、二十数年を経てようやく銀二貫を天満の天神さんに寄進できるようになるという話。
もちろん、寒天を使った料理屋の娘とのロマンスもある。
なかなかいい本だった。

この高田郁という人は、もともとマンガの原作者をしていたとのことで、絵になる小説を書く人だ。
大阪が舞台ということもあり、馴染みのある地名が多かったからかもしれないが…。

作中の料理は必ず自分で作ってみる、ということらしい。
解説に書いてあった。
そういう研究熱心さが小説の中にも現れている。

それにしても、新しくできた文庫は字が大きい。
ページ数の割にはすぐに読める。
文字の量が半分とは言わないが、だいぶ少ないと思う。
老眼対応だ。

若いころに読んだ文庫本は、今よりももっと字が小さかった。
日本全体がまだまだ若かったんだろう。
ページ数を減らして、紙の値段を安くして、本を出すという文庫の位置づけもある。
ネットで調べると昔は文字フォントが7.5ポイントだったとのこと。
それが今は9.25ポイントまで大きくなっているらしい。
時代小説など、高齢者の方が読者が多いから、ページ数が増えて値段が上がっても字を大きくする方が江手に取ってもらいやすいということだ。

やっぱり字が大きいと読みやすい。

時代は変わったなあと、時代小説を読んで思った。


| | | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぐうたら人間学
ぐうたら人間学 遠藤周作 講談社文庫

ずっと前に買っていて、今回本棚から出してきて読んだ。
もう遠藤周作が亡くなってだいぶ経つが、この本は1976年の出版だから40年前の本。
でも、そんなに古さを感じないのは、ぼくも同じ時代を生きているからだろう。

遠藤周作は1996年に73歳で亡くなっているから、この本は20年前に50歳前半で出されたということだ。
一番油が乗っているときだったと思う。
彼は72年にネスカフェの「違いの分かる男」の宣伝にも出て、マスコミでも有名だった。
そんな時期、彼が書いていたエッセイを集めて出版したのがこの本。

彼はフランス文学を修めたのだが、その先生の話や言った言葉が「狂った秀吉」というエッセイに出てくる。

「遠藤君、人間の一生で一番生きるのがムツかしいのは老年です。若い時や壮年時代は失敗しても社会が許してくれます。まだ役に立つからです。しかし、役にたたなくなり、顔も体も醜くなった老年には世間は許してくれません。その時、どう美しく生きるか、今から考えておきなさい」

持つべきものは師だ。

「年をとりました」という項では、今まだ健在の佐藤愛子の話が出てくる。
当時は彼女も50代になるかどうかというところだろう。
電話での会話だ。

周:「なに今してんネン」
愛:「なにも、してへん。テレビで「ガメラ対ギャオス」いう子供映画、見てるネン」
周:「あれ、おもしろいわ。亀のおばけの出てくる映画やろ。働かんのか」
愛:「原稿用紙、見るのイヤになってん」
周:「年やなあ。ぼくかて、もう駄目や。この頃、溲瓶(しびん)枕元においてんのや。年で便所が近うなったさかいなア。あんた、まだ溲瓶使うてへんのか」
愛:「まだや。でもあの溲瓶をつかう音、ええもんやわ。人生のわびしさがあるわ」
周:「君も…年とったなあ」
愛:「何、言うか。あたし、まだ若いつもりやッ」
周:「若うないで。若うないで。若い頃の君やったら、司葉子さんや犬飼智子さんを狙うた泥棒がイの一番に入った筈や。あの泥棒は美人好みやさかい、彼が避けて通るようになったら、もう年とったことやがな」
愛:「何、言うか。一週間のうち、必ず泥棒に入らしてみせるから」

当時の様子が伺えて面白い。
司葉子が出てくるところが昭和だ。

「死について」という項では共感できる話が出てくる。

「あなたは自分が死んだ翌日も空が晴れ、街には自動車が列をなして走り、テレビではC.Mのお姉ちゃんが相変わらず作り笑いを浮かべて唄を歌っているのを考えると、妙に辛く悲しくないだろうか。あなたの死にもかかわらず、世界が相変わらず同じ営みをつづけているのだと思うと悲しくないだろうか。
 当たり前の話だって。もしそういう心境をお持ちの方なら、悟りをひらいた方だ。たしかに我々が死んだって、社会や世界は昨日と同じ営みをつづけていくにちがいないのだが、それを思うと、やはり何だか辛く悲しいのは人情なのである。」

そういう思いは誰しもあるだろう。
会社の先輩が、若くして父親をなくしたのだが、父が亡くなった日も空は晴れて普通の日だということが何故か不思議だった、と言っていた。
そういうものだ。

こういうちょっと昭和の香りがするエッセイがたくさん載っている。

元々はキリスト教の純文学の人なんだが、こういうざっくばらんな「ぐうたら」シリーズの方が有名になった。

生きている間は読まかったなあ。

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桜ほうさら
桜ほうさら 宮部みゆき PHP文芸文庫

PHP文芸文庫というのができていた。
昔は新潮、文春、講談社、角川、ハヤカワあたりだけだったが、今はいろんな会社が文芸関係の文庫を出している。
同じ作家の同じ本が、出版社を変えて出ている場合もあったりして、時々間違えそうになる。

「桜ほうさら」は2013年の出版。2016年に文庫で出た。
信州の方の方言である「ささらほうさら」をもとに作った著者の造語。
「ささらほうさら」は、「いろんなことがあって、大変だった」という意味。
まさしく主人公は大変な苦労をする、というストーリー。

小さな藩の小さな事件が元で、父が死んだ。その真相を解明しようとする次男が主人公。
宮部みゆきらしく、「文字」がテーマのミステリー。
上巻では大きな動きはなく、主人公の周りの様子が淡々と描かれる。
それでも、下巻であれが伏線だったのかということが散りばめられている。

字は結構大きく、老眼でも読みやすい。
その代わり、ページ数が上下で800ページほどあり、長くなっている。
これも高齢化の影響だろう。

こちらはこないだ読んだ「妻はくノ一」よりもちゃんとした時代小説、という感じだ。
読み応えがある。
全ての伏線がつながって、最後にまとまるという宮部みゆきの手腕はさすが。

主人公は長屋住まいで、回りの人たちも生き生きと描かれる。
庶民の暮らしの中にドラマはある。
そして、いつの世も家族の問題はややこしい。

実家の母から借りてきて読んだ。

こういう小説が良くなってきた。
| | | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
Fランク化する大学
Fランク化する大学 音真司 小学館新書

著者は15年以上商社に勤務していたサラリーマン。
30代の半ばに仕事の傍ら大学院に行って、博士課程の論文を書くために退職した、という経歴の持ち主。
大学院の6年間で800冊の専門書を読破したとのこと。

その後、5年間の非常勤講師を3つの大学でやったという。
今は大学を辞めて、自身の会社を経営している。
大学教員は輝かしい職業だと思っていた、という。
その経験でこの本を書いた。
ぼくも大学に転職した時には「大学の先生はエライもの」と思っていたから、よくわかる。

Fランクというのは、予備校が大学のランク付けをするために作った言葉だ。
この本にも説明されているが、「Fランク」とは、受ければ誰でも合格する大学、という意味。
Fランク大学というと、ともすればそこにいる学生を侮蔑的にいう風潮があるが、著者はそれを否定する。

「大学を取り巻く「Fランク化」という現象は、学生のみならず、教員にも、大学運営側にも生じていることであり、さらにいえば、社会に通用する人材を育成することが仕事である大学やその教員が、その役目を半ば放棄していることが、諸問題の出発点にあるように思えてならない。」

この先生は正しいと思う。
長くなるが、教師が怒らなくなっている、というところを引用する。

「こんなことがあった。女子比率の高い、首都圏のB大学のことである。初回の講義だった。履修人数は少なく30人程度だった。私はいつものように気合を入れて、この科目の概要を説明していた。全15回の授業で何を話し、どういうことをみんなに理解してほしいのかを話した。その話の次には、前章にも記載したように、私の講義のルールである出席を取らない代わりにメモを出してくださいとか、私語は犯罪であるから厳しく取り締まるよといった解説をしようとしていた。
 ところがその矢先に、何かのきっかけで、ある女子学生が立ち上がって教室を歩き回り、わざわざ友人とハイタッチをした。イエーイ、イエーイといった感じで、無邪気そうではある。私は本気で怒鳴った。
「おい。こら、ふざけるんじゃない!お前だよ、お前!なに、顔を伏せているんだよ!聴きたくないなら出ていけよ!お前なんかに俺の講義を聴いてもらわなくても、こっちは全然構わないんだよ!」
 最初に教室を歩きまわった女子学生を、徹底的に怒鳴りつけた。あとで問題となっても、B大学をクビになっても構わないと思った。たぶん、私は怒りで震えていたと思う。教室は静まり返った。その女子学生と周辺の友人たちは、真っ赤な顔をして、うつむいている。中には驚いて、少し涙ぐんでいる者もいる。年齢の離れた大人が本気で怒ったので、恐さを感じたのかもしれない。
 彼女たちに、みな悪気はないのだ。大学の講義中に、歩きまわって友人とハイタッチをすることが悪いことである認識がない。これは学生本人にも問題はあるが、それと同時に、今までこの学生に携わってきた教員にも問題があるということだ。
 この講義の最後に回収したメモを読んでいて、気づいたことがあった。「先生が怒ってくれて、見ていてスッキリした。あの子たち、いつもうるさくて、でも全然ほかの先生は注意しなくて、いつもモヤモヤして頭に来ていた。」このようなメモが何枚もあった。
 私が怒鳴りつけた学生は、たまたま今回の私の講義だけでうるさかったのではない。この学生はいつもうるさいのだ。そして、これらの学生が毎回騒いでいるときに、教員が注意していない。講義中にハイタッチして歩きまわる学生を、講義の責任者である教員が注意をしない。これは学生もおかしいが、教員もあきらかにおかしい。メモを読んでいて、「Fランク化」しているのは決して学生だけではないと思った。つまり教員も本気で学生を指導しておらず、大学も手をこまねいているということである。」

これとほぼ同じ内容のことを、ぼくも勤めていた大学の企業出身の先生から聞いた。
いい先生だった。
マジメに教育のことを考えている先生は、そういう疑問にいきつくのがFランクの大学だ。

たしかに、学生にも問題はあるが、それを放置する先生がほとんど。
入れた学生を教育する、という視点ならちゃんとやらないといけない。
でも、それを諦めている教員も多い。
非常勤講師なら、給料が安いというのもあるだろう。
でも、せめて高い給料をもらっている専任教員なら、それはやる義務がある。
形式だけであるとしても、彼らが教授会で入学者を決定しているのだから。

こういうことを続けていると、まともな学生は学校不信に陥り、まともでない学生は学校をバカにする。
彼らも心の底ではいいことをしていると思っていないと思う。
でも、そういうことを許すのは、その学校の教師である。
言い方は悪いかもしれないが、教員がどれだけ本気かを「値踏み」している部分もあるんだと思う。
いくら学校の事務局が「私語撲滅キャンペーン」などやっても、教員が本気にならないと効果はない。

しかし、大人数の授業でも私語がない先生もなかにはいる。
その年のベストティーチャーに選ばれた非常勤の先生だった。
倫理学の授業だったが、学生に卑近なテーマから問題を抽出し、毎回質問をなげかけ、学生に考えさせる。
残念ながら次年度他校の専任になってしまったが…。

昔の大学なら、私語をする学生はいなかったし、講義は聴くものだったが、今のFランク大学ではそんなことは無理だ。
そして、専任教員は大教室の授業を避け、非常勤講師が受け持つという悪循環もある。

話はそれたが、この本はそんな中で、熱意を持った非常勤講師が書いた本だ。

最初の授業の前に、前任の教員からの「引き継ぎ会議」というものがあったらしい。
そこでまず洗礼を受ける。
女子学生がキャバクラで働いているとか、そのために講義中は寝るとか、盗難もあるのでトイレに行くときもカバンを持って行ったほうがいいとか…。
「ヨーロッパ」が国の名前だと思っている学生がいるというのもあった。
世界地図がわからないのだ。

これはぼくも在職中に、顔見知りの英語の非常勤教師から言われたことがある。
「ぼくらはアメリカ人だから、世界地理など知らなくても大丈夫だが、君らは日本人だろう。貿易で食っていかないといけないのに、学生は世界の地理がわかってないぞ。今日は国の名前で授業をしたのだが、中近東がアフリカにあることになっていた…」
ほんまかいなと思ったが、複数の専任教員に確認したら、中にはそういう学生もいる、ということだった。
そういう学生を入試で選別して入学させているのが、Fランク大学だ。
でも、中学、高校は何をやってるのか、と思う。

非常勤講師の控室での話で、Fランク化が広く日本の大学で起きているということが語られる。
ぼくの認識も同じだ。
偏差値だけでは語れない劣化があると思う。

さらに、非常勤講師は薄給である事に驚く。
1科目について、2万数千円から3万円というのが相場。
どこに行っても似たようなもの。
文科省の大学院重点化から、大学は博士の量産をしてしまい、いくらでも非常勤講師のなり手がいる、というのが給料が低止まりしている原因。
著者も言っているが、マジメに授業をやろうと思うと準備等を含めて週に7コマ程度が限度。
でも、非常勤講師でずっと年を取ってしまうと、食えないからコマ数を増やす。
そうすると必然的に授業は手抜きになる。
Fランク化にはそういう問題も含まれる。

そして著者はいかに静かに授業を聞かせるか、ということの工夫を書いている。
まず最初の講義に力を入れたという。
毎回最初の講義の時は足が震えたとのこと。

ぼくも先生にどうやっているのか、聞いた。
いろんな方法があるらしいが、ぼくの尊敬する先生は「簡単や。うるさかったらこっちが話すのを止めたらいいんや。そうしたら、スーッと静かになる。」と言っていた。
マジメな先生はみんな独自の方法を持っている。

最悪なのはマイクの音量を大きくし、「そこうるさい」などと言うこと。
大きな声は私語をも大きくする。
そうなると、学級崩壊状態になるようだ。

さらに、教員がマジメにやると学生も熱心に聞くようになる。
前回の授業の最後に集めた学生のメモをもとに、授業の最初にフィードバックをしたりすると、積極的に授業に参加する学生が出てくる。
Fランク化しているというのは、学生だけが原因ではない。
学生は教師が変えることができる。
これは真実。

ぼくが就職支援の仕事をしている時に、ほとんどの科目が「優」という学生が来た。
「君すごいなあ」というと、「私、おかしいと思います。そんなに頑張ってないんです。回りに聞いたらみんな「優」や言うてます。」という。
成績分布をこっそり調べてみたら、「優」が多い授業がたくさんあった。
本来は上位20%程度という成績のはずだが、下手をすると50%が「優」という授業も多い。
だから、優の上の「秀」を作った、という笑えない話もある。
下の方を通そうとすると、上はみんな「優」になる、ということもあるらしい。
単位を出すことありき、で授業をやっているのだ。
あんまり落とすと、教務課に怒られる、ということもあるとのことだった。
前年度大量に落ちると、次年度の教室が足りなくなったりするからだろう。

専任教員の手抜き講義についても書いている。
非常勤講師は評判が悪いと更新してもらえないから、ある意味しっかりやるのだが、専任教員はそんなことはないので、極端に手を抜くものもいるとのこと。
これも真実。
ぼくもたくさん見た。
よくあるのが、ディスカッション型の授業で、ここでも紹介されている。

「学生から聞いた2つの例を紹介する。1つは「講義をしない講義」として有名なものらしい。50人程度の履修者の授業だが、まず教員がはじめに簡単に今日のテーマを話し、その解説を行う。次に50人の学生をいくつかのグループに分け、そのテーマについてディスカッションをさせる。次に各グループから出た意見を発表させる。教員が最後に意見を述べて、講義は終了となる。
 グループによるディスカッションがムダであるとは思わないし、学生に意見を発表させることも大切かもしれない。しかし、それは、ある程度の基本的な講義を行い、学生に基礎的な知識や情報を提供したうえでの話だろう。たとえば3回程度の講義を経たうえで、4回目にディスカッションをするということであれば理解もできる。
 大学で講義を行ったことのある経験者として言わせてもらえば、知識がないままで学生が議論をしても、ほとんど何も出てこない。学生がもとから持っている少ない知識や感覚だけで議論をし、抽象的な空論に終始することになってしまう。
 ちなみに、この講義を受けていた学生に感想を聞いてみたところ「役に立っているとは思わない。だけど、友だちと話してそれで終わりだから、ラクに単位が取れていい」そうである。」

最近よく聞くアクティブラーニングの危険性がこれだろう。
基礎知識も何も無しで議論しても仕方がない。
それは手抜き授業になってしまう。
そこはわかっているんだろうか。

もう1つの例は、専任教員が授業を頻繁に休講して、補講期間にまとめて授業をする、というもの。
実際、朝の9時から夜の7時くらいまでの授業になり、結局3時間くらい講義をしてあとは省略となる。
体のいい授業放棄だろう。
この事例も見たことがある。

専任教員のレベルの低さはなぜ起こるかについても書いている。
結局採用の方法がずさんであり、古い専任教員の縁故が多いからということだ。
手抜き講義を行う専任教員は教育者として最低だが、研究者としてはどうか、ということについても、著者は「素晴らしい研究者は素晴らしい教育者であることが多い」と書いている。
ぼくもそう思う。
まともな人は何をやってもまともなのだ。
「講義に手を抜く教員は研究者としても評価できない」ということだ。

辛口だが、真実をついている。
長くなった。

後半は大学の問題点は何かとか、良い大学の見分け方、大学生活はゼミで決まる、というような内容。

共感するところが多い。
できれば、今の初等、中等教育の問題点についても、突っ込んでほしかった。

そこが解決しないと、大学の問題は解決しないと思う。

ちょっと悲しくなるが、これが現状だという本。

| | | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
妻はくノ一
妻はくノ一 風野真知雄 角川文庫

再放送でテレビでやっていて、面白そうだったので1〜10巻をまとめ買いして4日間で一気読みした。
まとめ買いといっても、ブックオフで中古で買ったので1冊108円。
1080円でこれだけ楽しめたら安い。

物語は平戸の藩士が1ヶ月の間結婚した相手が幕府のお庭番のくノ一(女忍者)だった、という話。
主人公は天文学を修めた船乗りで、謎解きが好きな男。
妻が忘れられず、若いのだが平戸の家を隠居して江戸に探しに出てきた。
寺子屋の先生をしながら、平戸藩主の屋敷に通っていろいろと事件の謎解きをする、というのが横糸。
それに、幕府の密偵であるくノ一の妻の動向が縦糸となって描かれる。

時代劇としては、江戸時代に平戸から出てきて、標準語で普通に話していたり、こんな言葉は江戸時代に使っていなかったのではないかというようなことがあるが、そんなことは物語の面白さでどうでもいい。
忍者の術など荒唐無稽なものも出て来るが、これもご愛嬌。
要はエンターティメントなのだ。
そう思って読むほうがいい。

読みだしたらやめられない。
毎回のエピソードも面白いが、物語が進むにつれて主人公とくノ一がだんだんと窮地に陥り、どうやってそれを抜け出すのか先が気になる。
だから、どんどん先に行く。
そうなると10巻はあっという間に終わる。

睡眠不足注意。


| | | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
「みんなの意見」は案外正しい
「みんなの意見」は案外正しい ジェームズ・スロウィッキー 角川文庫

最近、ダイバーシティという言葉をよく聞く。
「多様性」と訳されるが、これは主に企業の人事畑で使われるような言葉。
組織の中の多様性は大事だ、というような感じ。
その多様性がなぜ大事なのか、ということの答えがこの本。

「はじめに」のところで、牛の見本市の場面を例に引く。
雄牛の重さを当てるコンテストが行われ、それに800人がエントリーしたという。
畜産農家や食肉店の人間が多かったとはいうものの、800人もいると家畜の重さについてほとんど知らない人もいて、その人たちが一票を投じた。
イギリスの科学者ゴールトンは、みんなの平均的な意見よりも専門家の意見のほうが正しい、ということを検証しようとして、この投票の結果を見た。

「ゴールトンはグループの平均値が、まったく的外れな数値になると予想していた。非常に優秀な人が少し、凡庸な人がもう少し、それに多数の愚民の判断がまざってしまうと、結論は愚かなものになると考えたからだ。だが、それは間違いだった。予想の平均値は1197ポンドだったが、実際の重さは1198ポンドだったのである。血統の善し悪しに関係なく、「みんなの意見」はほぼ正しかった。」

「プリマスでゴールトンがその日偶然発見したことは、この本の核心にある単純だが力強い真実である。適切な状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中で一番優秀な個人の知力よりも優れている。優れた集団であるためには特別に優秀な個人がリーダーである必要はない。集団のメンバーの大半があまり知識がなくても合理的でなくても、集団として賢い判断を下せる。一度も誤った判断を下すことがない人などいないのだから、これは嬉しい知らせだ。」

もちろん、集団の狂気という言葉もあるし、過去の事例を見れば集団的にヒドイことをした例もある。
それらは、集団が賢くあるための条件を満たしていなかったからだ。

「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、決して合意や妥協から生まれるのではないから、多様性と独立性は重要だ。認知の問題に直面した賢明な集団は、メンバー全員にとってハッピーな結論に到達するべく、各人に意見を変えるよう求めたりしない。その代わり、市場価格や投票制度などを使って集団のメンバー個人の意見を集約し、集団全体としてみんなの意見を明らかにするよう試みる。逆説的な感じもするが、集団が賢い判断をするためには、個々人ができるだけ独自に考えて、行動することが不可欠である。」

ここで多様性ということが出てくる。
集団で最も適切なことを決めようと言う時には、多様性(と独立性)が大事なのだ…、というよりそういう多様性のある組織を作らないと、集合知が使えなくなるということだろう。
だから、組織には多様性が必要ということになる。

特に日本の場合、高度成長期は欧米という目標があって、それにキャッチアップするということだったから、暗黙の合意や妥協を備えた組織でやってこられたが、その目標を達成して、新たな目標を立てる段階になった時、合意と妥協の組織ではダメになったんだと思う。
グーグルのような多様性を持って、自ら理想を掲げ、何でもやってみるというような、緩い縛りの組織が必要になってくるんだろう。

この本を読むと、そういう多様性が大事だということがよくわかる。

第2章ではオールズモビルというアメリカの昔の自動車メーカーが、クルマの揺籃期に成功したPR活動の例を引いている。

「このアプローチの成功の鍵を握るのは、絶対成功しそうもないような大胆なアイディアを後押しし、積極的に投資するシステムの存在だ。また、このシステム以上に重要なのが多様性だ。これは社会的多様性ではなく、認知的多様性のことである。同じ基本コンセプトを少しずつ変えただけのアイディアよりも、発想が根本から違う多様なアイディアがたくさん出てくるように、起業家の発想には多様性が必要だ。
 それに加えて資金を持っている人の多様性も必要だ。分権化された経済のメリットの一つには、意思決定をする権力が(ある程度までは)システムの中で分散している点にある。だから、豊富な資金をもつ出資者たちがみんな似たような考えだと、せっかくのメリットも活かされない。出資者たちの考え方が似ていれば似ているほど、彼らが評価するアイディアも似通ってしまうので、一般の人の目に触れる新商品の種類やコンセプトが限られてしまう。逆に、出資者たちにも認知的多様性があれば、ものすごく過激で、ありえなさそうなアイディアに賭ける人が出てくる蓋然性は高くなる。資金調達先の多様性がアプローチの多様性につながるのだ。」

「多様性は二つの側面で影響を及ぼす。多様であることで新たな視点が加わり、集団の意思決定につきものの問題をなくしたり、軽減したりできる。
 多様性の奨励は、有権者や市場などの大きな集合体よりも小さな集団やメンバーが限定されているかっちりとした組織体にとってより大きな意味を持つ。その理由は極めて単純だ。市場などはそもそも規模が大きく、資金さえあれば誰でも参入できる。参入障壁が低いということは、すでに一定の多様性が保証されているのと同じである。
 会社などの組織の場合は、それとは対照的に認知的多様性を積極的に奨励しなければならない。特に組織が小規模であればあるほど、特定の偏向を持った少数の人物が不当に影響力を行使して、集団の意思決定を簡単に歪めることができるので、多様性を大事にしなければならない。」

ぼくがアップルよりもグーグルを信頼するのは、まさにそういうところだ。
スティーブ・ジョブズは素晴らしいデザイナーだったが、一方で専制君主でもあった。
そのやり方はどう受け継がれたのかはわからないが、長い目で見ればアップルの戦略よりもグーグルのほうが多様性という意味で優れているのだと思う。

そして専門性の危険さに警鐘を鳴らす。
ウォートン・ビジネススクールの教授J.スコット・アームストロングは「専門知識がもたらす決定的な優位性を示す研究は存在しない。専門性と正確性に相関は見られない」という結論に達したという。

「専門家はまた、自分の見解がどれくらい正しいか推し測るのが、驚くほど下手だ。彼らも素人と同じように自分の正しさを過大評価する傾向にあることがわかっている。
 経済学者のテレンス・オディアンが自信過剰の問題を調査したところ、医師、看護師、弁護士、エンジニア、起業家、投資銀行家などは、全員自分が実際に知っている以上のことを知っていると信じていた。同じように為替相場のトレーダーを対象にした最近の調査で、七割の確率でトレーダーは自分の為替相場の予測の確度を確信しているとわかった。要するに、彼らはただ間違っているだけではなくて、自分がどれぐらい間違っているかすらまったくわかっていないのである。
 これは分野を問わず、すべての専門家に共通している法則のようだ。予測を生業とする専門家の中で自分の判断の狂いを正確に測れるのは、優れたブリッジのプレーヤーと気象予報士だけだ。気象予報士が30%の確率で雨が降ると予測した日のうち30%は雨がふるのだから。」

ブリッジは勝ち負けで、気象予報士は数時間後の天気で結果が出るからだろう。
専門バカという言葉があるが、みんな経験的にはそれをわかっていても、いざ専門家のいうことを聞くと信じてしまったりする。
そこにこういう危険性がある。
だからこそ、組織は多様性を保たないといけない。

もちろん、多様性だけではイケナイと第4章で語られる。
多様であるがゆえにいろんな情報が出てくるが、それらを適切に伝え、判断するところが必要だ。
コンピューターのオープンソースであっても、諜報機関であっても、軍隊であっても優れた組織であるためには多様性だけではいけない。
逆説的ではあるが、何らかの集約のメカニズムが必要ということだ。

「分散性がすばらしいのは、独立性と専門性を奨励する一方で、人々が自らの活動を調整し、難しい課題を解決する余地も与えてくれる点にある。逆に分散性が抱える決定的な問題は、システムの一部が発見した貴重な情報が、必ずしもシステム全体に伝わらない点にある。貴重な情報がまったく伝わらず、有効にい活用されない危険性がある。
 いちばん望ましいのは個人が専門性を通してローカルな知識を手に入れて、システム全体として得られる情報の総量を増やしながら、個人が持つローカル知識と私的情報を集約して集団全体に組み込めるようになっている状態だ。こういう状態をつくりだすために、市場であろうと、企業であろうと、諜報機関であろうと、あらゆる集団は二つの命題の間でバランスをとらなくてはならない。個人の知識をグローバルに、そして集合的に役立つ形で提供できるようにしながらも、その知識が確実に具体的でローカルであり続けるようにしなければならないのだ」

こういう仕組みを持っている組織がベストということだ。

第6章では社会について、第7章では調整することについて、第8章では科学、第9章では委員会や陪審といったもの、そして第10章で企業について書いている。

そこに分散性と集約のバランスという問題への答えらしきものがある。

「意思決定の権限が本当にひろく配分された状態というのは、どんなものだろうか。
 まず、何か問題が起きた場合、できるだけ現場に近い人たちが意思決定を行うべきだ。フリードリッヒ・ハイエクは暗黙知ー経験からしか生まれない知識ーが市場の効率性に必要不可欠だと喝破した。暗黙知は曽々木の効率性にも同じくらい必要不可欠だ。
 企業のトップから下に権限を渡そうとする計画は、多くの企業でよく議論されてはいるけれど、本当の意味で従業員が意思決定に参加している状態はきわめて珍しい現象にとどまっている。しかし、分散化が役に立つことを示す証拠は数多く存在していて、この本で取り上げている実験結果だけでなく、世界中の企業の実践事例からも証拠が得られている。
 分散化のメリットは二つある。まず、責任が多く与えられれば、人々の関与度も高くなる。ある調査で二つのグループがそれぞれ部屋に集まってクイズを解き、大きな声で文章を読み上げながら構成をするという課題を与えられた。課題に取り組んでいる間、時折何の脈絡もなく大きな音が鳴るようになっていた。
 一方のグループには何もなかったが、もう一方はバックグラウンドの音が消せるスイッチが与えられていた。最初のグループと比べて二つめのグループのクイズ回答数は五倍で、校正ミスもはるかに少なかった。だが、二つ目のグループは一度も音を消せるスイッチを押さなかった。スイッチが押せるとわかっているだけで充分だったのだ。
 ほかの実験結果や実践事例にも同じような現象が見られる。自分の働く環境に関して意思決定できる権限を人々に与えると、業績が目に見えて改善するケースが多い。」

「分散化の第二のメリットは、調整のしやすさである。命令したり脅したりする代わりに従業員自身がもっと効率的に業務を行う新しい方法を発見してくれる可能性が高い。監督の必要性や取引のコストを減らし、管理職はほかのことに関心を振り分けられる。
それに対して分散化の批判として、従業員や現場の管理職に周辺環境をコントロールできる権限を与えても、結局重要な事柄を判断する権限は経営トップの手に残るというものがある。この観点に立って言えば、従業員は見せかけの権限委譲にだまされているだけだ。トップダウンの権力構造はあらゆる企業のDNAに組み入れられているので、それをなくそうという努力自体が不毛なのだ。
 まあ、そうかもしれない。誰を解雇するなんていう問題に関して、権限を委譲する余地はほとんどない。だが、このような場合を除いて考えた場合、企業が本質的に階層的でトップダウンのDNAを持った生き物だという見解はあまりに図式的に思える。ほかの組織や集団と同じように、企業もさまざまな問題を解決しなければならない。本書を通じて見てきたように、集団は分散化されたソリューションを使って、調整や協力の問題を驚くほど上手に解決できる。
 もしかすると、もっと重要な点として指摘すべきは、問題の解決に必要な知識は往々にしてその問題に直面している従業員の頭に中にあるのであって、彼らの上司の頭の中にはないという現実かもしれない。だから、従業員に問題を解決する権限を与えるべきなのである。」

「企業は仮に分散化に潜在的なメリットがあると認めても、ボトムアップ型のアプローチが認知の問題を解決するのに役立つかもしれないという意識まではなかなか持てない。認知の問題には企業の戦略や戦術の決定、新しく開発する商品の決定、新しい工場の建設、需要予測、価格設定、買収の検討といったこと全てが含まれる。こうした問題に対する最終的な答えを出すのは、CEOというたった一人の人物である場合が多い。しかし、本書を通じて主張してきたように、こうした問題こそみんなの意見に基づいて解決されるべきなのである。」

「成功が絶対に保証されている意思決定システムなどない。企業が下さなければいけない戦略上の判断は、うんざりするような複雑さを伴っている。同時に、複雑で不確実な現実に直面する一人の個人に大きな権限を与えれば与えるほど、まずい判断をしやすくなることもわかっている。だからこそ、企業における認知の問題を解決するためには、組織のヒエラルヒーを超えて発想すべきなのである。」

ぼくのいた会社では、「現地現物」を大事にしていたが、意思決定に関しても現場を離れてはいけない、ということだろう。
「現地現物」というようなスローガンだけでなく、どこまで実効性を持って現場に権限を任せたり、意思決定に際して現場の意見を率直に聞けるかといったことが大事だろう。
そういう気持ちを中間管理職がちゃんと持っているかどうか、日頃から風通しのよい関係を持っているかどうかなどに依存する。
ルールというよりも、日本的だが組織の中の個人の意識の問題だと思う。
つまり、現場に任せきってしまってもいけないし、現場の意見を聞かないで決めてもいけない。
やっぱりバランスの問題になる。
決定的な解決策はない。
古い人から順に新しい人たちに意識が伝承されていないといけない。
組織における権限委譲の問題は、結局「風土」の問題だと思う。

第11章では市場、第12章で民主主義というテーマだ。

民主主義こそ、「みんなの意見は案外正しい」という言葉そのものを信じるものだと思う。

「民主主義が存在するのは、政治への参画意識や自分たちの人生をコントロールできるという感覚を人々に与えることにより、社会的安定をもたらすためだろうか。それとも個人が自らを治める権利があるからだろうかーたとえ人々がろくでもないことにその権利を行使するとしても。あるいは民主主義が賢明な判断を下し、真実を発見する優れた手段だからなのだろうか。」

今のアメリカの大統領選挙を見ていても、今の日本の政治を見ていても、なかなか難しいと思う。
アメリカでは一般の人々が民主党のヒラリーも、共和党のトランプも、どちらの候補も嫌っている人が多いという。
また日本では年金や医療の問題を先送りし、右から左まで政治家が票欲しさに高齢者よりの政策しかやらない。
そういう意味では民主主義が機能不全に陥っているように見える。
しかし、それでも政治家は公選される方がいいのだろう。
この本は以下の言葉で締めくくられる。

「健全な民主主義は、社会契約の基礎である歩み寄りという美徳、それに変化という美徳をもたらす。民主主義の下に生まれたみんなの意見に集団の知恵が現れないこともある。けれど、民主的にみんなの意見を聞くということに集団の知恵が現れているのである。」

この本は2004年に書かれた。
著者のスロウィッツキーはニューヨーカーの金融ページのコラムニスト。

原題は"THE WISDOM OF CROUWS"。
「みんなの意見」は案外正しい、というタイトルはなかなか上手だ。

アメリカという国はいろんな人種がいる。
そういう国で何かを決めていくのは、どうやったらいいのかと考えることが多いんだろう。
こういう組織論は日本ではあまり見ない。

アメリカの多様性と日本人のそれとはだいぶ違うだろう。
アメリカのほうが日本の何倍も多様だと思う。
それはいいことなのだ、というのがこの本のメッセージ。
そういう肯定的なところが、アメリカの強さでもある。
それは真実だ。

いい本だった。


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男について2
男について2 文藝春秋社

アマゾンの中古で買った「男について2」というアメリカのコラム集を読んだ。
いろんな男性が、男について書いていて、少し古いが面白い。
ニューヨーク・タイムズに載ったコラムを集めたものだ。
1992年に日本で初版の本。
執筆者はだいたい50歳以上が多いと思う。
今はもう亡くなっている人もたくさんいるんだろう。

だいたい、どのコラムも1980年代の後半に書かれている。
フェミニズムが台頭し、伝統的な男性観が揺れ、男としての生き方をどうするのか、という時期だったと思う。

男女間の意識の問題について書いている男性も何人かいる。
ウォール街で3年間働き、10万ドル以上の貯金をして辞め、自分の好きなことをして生きている男性もいる。
ゲイでカミングアウトした男性もいる。
日本人に生花を習った男性もいる。
3人の娘を嫁に出し、義理の息子を観察している男性もいる。
イヌを飼っている男性もいる。
自分のガンや親の死を書いた男性もいる。

読んでいると、男というのは、理屈っぽくややこしいものだということがよくわかる。
小難しいリクツを後生大事に書く。
女性が読んだらバカバカしいのかもしれない。
そんなコラムが多い。

まだアメリカの価値観が今のようにぐらついていない頃だ。

理屈っぽさが、ある意味懐かしさにつながるようなコラム集だった。

| | | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
狐狸庵交遊録
狐狸庵交遊録 遠藤周作 河出文庫

遠藤周作のユーモア随筆集。
1968年から1988年までの20年間の随筆をいろんな所から集めている。
前半は文章も若くて面白い。
後半はちょっと年をとって真面目な感じ。
1923年生まれだから、45歳から65歳という時期だ。

ぼくが高校の頃だったか、「違いの分かる男」というコーヒーの宣伝があって、そこに顔を出していたと思う。
当時は遠藤周作というと、もっぱら狐狸庵先生というイメージで、何かわからないけれど面白いことを書いているとずっと思っていた。
カトリック信者で、その関係の小説も書いているということはずっと後になって知った。
55年に芥川賞を取っている、純文学の人だったのだ。

ぼくは遠藤周作を読むのはこれが初めて。
最初に出てくるのが吉行淳之介、続いて阿川弘之という面々。
二人とも文庫はだいぶ読んだ作家たち。
吉行淳之介がお金がないとぼやいていたり、水商売の女性にモテたりする様子が書かれている。
阿川弘之は海軍の小説をだいぶ書いていたが、軍艦オタクであることや、仲間ウチではセコいということも書いてある。
どちらも20代の頃によく読んだ作家だが、あの頃読まないでよかったと思う。
作家の実情を知ると、作品は楽しめないような気がするなあ。

柴田錬三郎も中盤で出てくる。
この人は、ニヒルでかっこいい人として描かれている。
誰が書いてもそんな感じになっている。
眠狂四郎や岡っ引どぶを書いた人だから、そうなんだろう。

一番笑ったのは、作家に仲人を頼んではいけない、という話。
自分の息子の結婚式で、むちゃくちゃな挨拶をされたという。
これは声を出して笑えた。

後半は友人や恩師などの話が出てくる。
こちらは狐狸庵というよりも遠藤周作という感じだ。

亡くなったのが96年。

どうも、この先この人の純文学は読まないような気がする。


| | | 20:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
たそがれ清兵衛
たそがれ清兵衛 藤沢周平 新潮文庫

久しぶりに本の記事。

今まで藤沢周平の作品をあまり読んだことがなかったが、先輩に勧められて読んだ。
これは短編集。
8人の侍が描かれる。
いずれも剣については一流の使い手だ。
でも、太平の江戸の世で、剣ができることはもはや出世の道具にならない。
8人が8人とも下流の藩士。
何か外観上の不具合があったり(不細工ということだ)、何か自分の家の事情を抱えていたりする。

そういう侍だから、お家騒動を画策する仲間に入ったりはしない。
でも、武道の覚えがめでたいとわかり、どちらか一方に力を貸すように頼まれる。
仕方なく巻き込まれる運命なのだろう。
そんな彼らが活躍するのだが、あくまで裏での活躍になる。
それがために取り立てられるということもない。
目先の問題が解決するという程度だ。

それでまた普通の藩勤めの侍に戻っていく。
ほとんどの人は彼の強さも知らず、元のままだ。
それでも文句も言わずに元の生活に戻っていくのだ。

そんな侍を描いた短編集。
わざの強さをひけらかすでもなく日常を淡々と生きる。
彼らにとっては、淡々と過ぎる日常が大事なのだろう。

読んでいて、そんな彼らの強さに痛快さを感じる。
そんな短編集だった。

池波正太郎ほど痛快ではないし、柴田錬三郎のように粘りがあるわけでもない。
侍の日常を描く。
時代劇が面白いと思うようになってきたのは、歳をとった証拠なんだろうか。
それも、ぼくらの世代くらいまでかもしれない。
筋立てがシンプルで、わかりやすい。
でも、いい時代劇には深みがある。

なかなか面白かった。

| | | 20:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
デイヴ・バリーの笑えるコンピュータ デイヴ・バリー 草思社
この本は今の本ではない。
日本で1998年に発行された。17年前だ。
翻訳だから、おそらく本国アメリカでは97年以前に発行されている。
マイクロソフトの年表でいえば、Windows95の時代。

コンピューター関係の古い本というのは、実用的には買う価値はないのだが、この本はちょうどインターネットが始まった時代に、コンピュータは便利(なはず)だと思って、コンピュータを使おうと格闘した男の記録だ。
それも、かなり自虐的になって、ギャグにしている。
あの時代、マイクロソフトと付き合って、MS-DOS、Windows3.1、Windows95の時代を過ごした記憶がある人にとっては、懐かしいと同時に自虐的になって笑える本だ。
そう思うと、今は考えられないほど便利になった。

表紙の裏に書いてある。

「パソコンの世界は実にワケがわからん。恐るべき厚さの難解きわまりないマニュアルを解読することにはじまり、人生においてなぜかくも卑屈な思いをせねばならんのかと歯噛みする、ショップ店員やサポート担当者とのやりとり、あるいはネットサーフィンの行く手行く手にとぐろをまく痴性あふれるチャット。何たる世界か−とお嘆きのあなたにとって、本書はまさに福音である。なにしろ、ピュリッツアー賞受賞者(ホント)であるディヴ・バリーが、その持てる力を小出しにしてパソコンの現状とか未来とかそんなものに取り組んだ、サイバー世界の超話題作なのだ!」

90年代後半は、パソコンの普及が始まった年。
ぼくの勤めていた会社も、Windows3.1のパソコンのデスクトップをフロアに1〜2台入れ、使い始めたころだった。

その当時、アメリカのMBAを取ってきた社員にMacを見せられ、一目惚れした。
そして、MacのLC430という機種を買った。
だから、家ではMacを使い、会社ではWindowsを使っていた。
もちろん、ぼくのいた技術部が1人1台のパソコンになるには、Windows98の時代を待たなければならなかったが、それでもかなり早い方だったと思う。
この本は会社のフロアにパソコンが数台という時代の話になる。

当時インターネットは黎明期で、ポータルサイト(ヤフーやグーグル)はなく、ガイドブックを買ってきて、アドレスを打ち込んでみる、というやり方だった。
World Wide Webが始まった頃だ。
わけの分からない英文のサイトを喜んで見たりしていた。(日本語のページはまだ少なかった)
当時話題になったケンブリッジ大学のコーヒーメーカーのサイトも見た。
どこやらの研究室のコーヒーメーカーの様子が映し出されるもので(ただそれだけのことだ)、それを感激して見ていたりした。
何せ家にいたまま、イギリスの大学の研究室を見ることができるのだ!
案の定、この本にも紹介されている。

作者はこの時点までに20台以上のコンピュータを所有してきたとのこと。
かなりのオタクである。

この本を書いた目的が、序章に書いてある。

「わたしは本書で、あしたのビジョンをあなたに提供する。さあ、わたしの手を取って、みずみずしい驚異に満ちたサイバーワールドを一緒に探索しよう。コンピュータのことを何も知らなくても、恐れることはない。こむずかしい専門用語の銃弾をあなたに浴びせたりはしない。わたしが差し出すのは、素朴で、実践的で、秩序正しく、わかりやすい情報ばかりであり、その多くは、書きながら捏造していくのだ。というわけで、この章の原稿をわたしのコンピュータのスペルチェックで推敲するあいだ、少しだけ待っていてほしい。水耕が終わったら、さっそく、より赤るい、より怪敵な、そして、より凄惨的な味蕾への足袋に失発しようではないか。」

最後の文章は、当時のコンピュータのスペルチェックを皮肉ったもの。
原文ではどんな英語になっているのかは知らないが、なかなかよくできている。
あの当時の日本語変換もたいがいひどかった。
なつかしい。

電脳小史という章には、Windows95のことが書かれている。

「ウィンドウズ95の大きな改良点は、それまでのウィンドウズ各バージョンと類似性がほとんどなく、しかも使い方が誰にもわからないというところにある。当然ながら、これはたいへんな人気を呼んだ。みんなが欲しがった。マイクロソフトには、まだ電気の通っていない熱帯雨林に住む人種からも、大量の注文が舞い込んだという。
 これまた当然ながら、消費者たちもそのうち、ウィンドウズ95を使って実際に何かをする方法が少しずつわかってくる。そうなるとソフトウェアの作者たちは、ここでまた、そういうユーザーの裏をかくための新しい手立てを考えなくてはならなくなる。そして、ご安心あれ、彼らはそれをちゃんと考え出すのである。今だって、彼らは、実行している最中に百パーセント互換性のない新バージョンへ自動的にアップデートする画期的なソフトの開発に取り組んでいる。それから、ハードウェアの製造者たちの存在も忘れてはいけない。彼らは常に、より速く、より性能のいいコンピューターを世に送り出し、甘言を弄してあなたに買わせたその機械が、一カ月後には時代遅れのぽんこつと化してしまうよう、たゆみない努力を重ねている。
 そう、有史以前の人類が洞窟の壁につたない数字を書きなぐっていた時代から、われわれは、はるか彼方に来てしまった。その遠い遠いご先祖たちが、最新式のコンピュータを見たら、いったいどういう反応を示すだろう?彼らはおそらく、石で力任せに殴りつけて、コンピュータに言うことを聞かせようとするに違いない。原始人は、われわれが考えているよりずっと賢かったのである。」

万事、こういう調子だ。
いかにも、コンピュータ好きらしい皮肉ではないか。

この気持ちはぼくも思い出した。
90年代後半から、2000年代にかけて、そういう時代だった。
次は、どんな新しいソフトが出るのだろうかとか、次のOSはどうなるのだろうかとか…。
自分が使うことよりも、どうなっていくのかに興味があった。
実際、不便で遅かったから、速くなって便利になってほしかった。
この頃は、ハードもソフトもどんどん進んでいったと思う。
必然的にソフトの互換などは犠牲になったのもあった。
コンピュータの進化のまっただ中の時代だったと、今になって思う。

何かのソフトを入れたら、別のソフトとぶつかって動かなくなったり(メモリを取り合いしたりしたんだと思う)、動いていたらと思ったら、画面が凍りつく(フリーズという)こともよくあった。
大事なデーターが、突然のフリーズでなくなることもよくあった。
夜中に仕事をしていて、「あ」という間にデーターがなくなると、本当にめげる。
それまでの苦労が水の泡になる。
熱中してやっていると、セーブをするのを忘れてしまうのだ。
事務所では、毎晩のように、どこかのデスクで「あ」という声を上げていた(これは言い過ぎ)。

68ページにその様子が書いてある。

「あちゃ〜っ」
「おれのレポート、いったいどうなっちゃったの?」
「あのレポート、ないと困るんだよ!!」
(コンピュータをたたきながら)「レポートを返してくれなかったら、おまえの親友のファックス機を窓からほうり出してやるからな!」
「待った!画面にメッセージが出てきたぞ。なに、なに、”BIOSのROMのオートキャッシュにフォーマットエラーがあります”だって?こりゃ助かった。テクニカル・サポート・ホットラインに電話できるぞ」
(受話器から流れるトム・ジョーンズの「何かいいことないか子猫チャン?」に百七十三分間耳を傾けたあとで)「マニュアルを読もうっと」
「これを書いたの、誰だ?国税庁か?」
「ああ、あった、あった。三百六十七ページね。”BIOSのROMのオートキャッシュにフォーマットエラーがあります”というメッセージは、BIOSのROMのオートキャッシュにエラーが存在することを示しています」と、おちょくってるのか?」

この後、息子に頼んでレポートを出してもらい、バイクを買う約束をしてしまう…という話になる。
こういうことが世界中のいろんな所で、日常的に起こっていたんだろう。
今となってはなつかしい。

そして、この時期のインターネットについても書いている。

「インターネットは、人類のコミュニケーション史上において、”キャッチホン”以来の大発明と言っていいだろう」

さすがにバリーもインターネットのその後の利用がここまで来るとは思っていなかったと思うが(たぶん、ほとんどの人は思っていなかったと思う)、それでも、インターネットの可能性は感じていたんだろう。
もちろん、キャッチホンとは比較にならないのはギャグで言っている。

でも、この頃はまだAOL(アメリカオンライン、日本ならニフティあたりに相当する)のチャットルームやフォーラムなどが、話題になっていた。
そういう時期を経て、ホームページ全盛期になり、グーグルが出てきて、今がある。
今やホームページの無い会社は存在しないのと同じだ(と思う)。

さすがに、このへんはちょっと陳腐化しているが、前半は当時を経験した人にとっては、思わず笑ってしまって、そして、なつかしくなることが多いと思う。

結論のところで書いている。

「本書を執筆するにあたって、わたしは、コンピュータ革命というものの概要を、一般の読者や門外漢にも理解できる形で説明するよう心がけた。ここで言う”門外漢”とは、”斧を使わないと、子ども用アスピリンの瓶のふたをあけられない人”というほどの意味である。
 わかっていたことだが、これはたやすい仕事ではなかった。なぜなら、(a)きわめて複雑な技術的問題が数多く含まれ、しかも、(b)わたしには、取材や調査をするつもりなどまったくなかったからだ。そういう制約にもめげず、実用的にたいへん価値の高い情報をできるだけ多く盛り込むよう努めてきた。ただし、せっかくのその情報が、書いた数分後には時代遅れのものになってしまうという事実は、いかんともしがたかった。読者に対する啓蒙という見地から言えば、本書がスワヒリ語で書かれていたとしても、たいした違いはなかっただろう。コンピュータ革命においては、人間の脳みそでは把握しきれないほどの速さで状況が変化していく。だから、事の本質をちゃんと理解できるのは、十四歳の少年たちだけなのだ。」

「しかし、ハードウェアとソフトウェアの未来がどんなに華々しくとも、本当の”活気”は、インターネットの領域に、とりわけワールド・ワイド・ウェブにある。これを書いている時点で、ウェブには縦横にリンクし合った一千四百万のホームページがあり、ページ製作者の大半を占める大学生たちが、自分はどんな顔をしているかとか、どのロックバンドが好きかとか、どんなスナック菓子を食べるかとか、ブリーフとトランクスのどちらがいいかという情報を、全世界に向けて発信している。そういう情報は、もちろん非常に重要だが、ウェブにはまだまだ、われわれの生活を向上させる大きな可能性が秘められていて、それはひと言で言うなら、ものを売ることである。」

冗談が多いバリーも、さすがにインターネットは将来商売の元になると予言している。
今のアマゾンだ。

この本は面白い本だ。
90年代から、コンピュータに慣れ親しんだ人にとっては。

そして、アメリカ人が単に新しいもの好きであるだけでなく、その機械を進んで使おうとし、そしてワケが分からなくても使っているうちに何とかなる、という楽観的な人種であることがわかる。
ぼくはアメリカの会社にも関わったが、とにかく何でも彼らはコンピュータに記録していた。
それが、当面、使われなくても、いつかは使えるようになるはずだ、と思っていたのだろう。
実際、それは役に立ったのだ。
日本人なら、いま役に立たないのなら入れない、という選択をするところだが、アメリカ人は違う。
そんな違いも思い出した。

ちょっと、世の中全体が躁状態になっていたんだろう。
この状態が突き進んで、90年代後半にITバブル状態になり、2001年にバブルが弾ける。
そんなワケのわからない明るさがあった。

今となってはノスタルジックに笑うしかない。
でも、貴重な記録だと思う。
この本に書かれているギャグを、ギャグとわからないといけないが…。
思い入れがあるので、長くなってしまった。

当然、絶版で古本しかない。
アマゾンの古本を1円で買った。

そういう本だ。



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デイヴ・バリーの40歳になったら デイヴ・バリー 集英社
デイヴ・バリーというのは、アメリカのコラムニスト。
ユーモア・コラムニストと書いてある紹介ページもある。
1947年生まれだから、ぼくより10歳年上。
だから、今は68歳ということだ。
1988年にはピューリッツアー賞も受賞している。

この本は彼が40歳になった時に書いた本。
アメリカで彼はベビーブーマー世代であり、その世代を中心に売れて、ベストセラーになった。

最初に書いてある。

「もちろん、ぼくひとりのことではない。歳を取るというのは、ひょっとすると、ケーブル・テレビなどより重要なライフスタイルの新潮流なのだ。その数ウン千万人にのぼるわれらベビーブーム世代、つまり「ミッキーマウス・クラブ」に熱中し、フラフープを回し、ビートルズをあがめ、髪を長くのばし、マリファナを吸い、ファンキーな踊りに狂い、愛あるセックスを営み、履歴書を書き、出世を追い求め、保険に加入し、フィットネスに気をつかい、ラマーズ法の講習を受け、母乳で子どもを育て、情報をコンピューターで処理し、住宅ローンを払い、夜間の父母会に出席し、名刺を交換し、CDを所有し、歯をフロスする伝説の大集団が、ついに、ひとり残らず、中年期に突入したのである。」

中年、という言葉は誰でも最初に聞くと、嫌になるものだ。

「問題は、心の準備ができていないという点にある。人生の大半の時間を、ほぼ同年配の連中と過ごしてきたぼくの正直な意見を言うと、集団としてのわれわれには、世の中を切り回していくだけの才知も円熟度も備わっておらず、それに必要な権限さえ与えられていない。自信を持って断定するが、われわれの多くは、ただ大人に見えるだけなのだ。」

こういうバリー節が全面に出ている。

日本には新聞のコラムニストという商売はないが、アメリカでは食えている。
マイク・ロイコやボブ・グリーンなど有名なコラムニストがたくさんいる。
もちろん、国が違ったり、環境が違ったりするので、書いたものにはわかりにくいものもあるが、ぼくは好きだ。

40歳になると、肉体の衰えが目立つ。
それについても書いている。

「四十になるということの最も痛ましい局面は、自分がもう、二十一歳のときと同じ肉体の持ち主ではないと認識させられることだ。少なくとも、ぼくにはその認識がある。シャワーを浴びながら、自分の肉体を見下ろして、ときどきこう叫びたくなるのだ。「おい、こいつは俺の体じゃないぞ!この体はウィラード・スコットのものだ!
 だが、これは極めて自然なことだ。つまり、浴室で叫ぶってのはね。でも、四十になることそのものは、ちっとも自然じゃない。野生動物としての人間の平均寿命は三十五歳前後だ、と、信頼のおける科学的資料が語っている(のを、新聞で読んだような記憶がかすかにある)。このことをよく考えてみてほしい。もし自然界で暮らしていたら、たとえ禁煙地域を選んだとしても、あなたは今ごろ、うじ虫のえさなのだ。」

ウィラード・スコットは太ったコメディアン。
こういうのが、なかなかわからないから、難しい。

この本には体のことや結婚生活、子供のこと、親になること、そして中年の危機、時間のやりくり、財政計画、政治のこと、スポーツ、そして年老いていく両親のこと、最後に偏屈のすすめが書かれている。
そのどれもが、ちょっとやけくそ気味のユーモアに彩られて書かれている。

中年の危機の項では、男の一生における時代区分というのがある。

年齢    区分   興味の対象
0〜2   幼年期   うんち
3〜9   無邪期   鉄砲
10〜13  覚醒期   セックス
14〜20  自立期   セックス
21〜29  充実期   セックス
30〜39  到達期   セックス
40〜65  ここで、中年男の危機が勃発する
66〜死  黙想期   うんち

文字通り、やけくそ気味だ。

「中年の危機は、たいていの場合、ある日の午後二時三十分ごろ、なぜか自分のきらいなものに全人生をささげてきたと気づくことによって引き起こされる。弁護士を例にとってみよう。彼は、たいへんな努力を重ねてきた。ビールを国産のもので我慢するなど、多大な犠牲を払って、法律学校の学資を捻出した。何万時間も勉強し、やっとの思いで試験に合格し、頭を下げて法律事務所に雇ってもらい、共同経営者になるため、何百という靴をなめて、ようやくその目的を達した。そして、ある日の午後、依頼人への退屈きわまりない書状、”願うらくは”だの、”前記の案件に対し”だのという規格化された紋切り型の語句で埋まった書状をしたためているとき、ふと、書いたばかりの部分を読み返してみると、”願うらくは、前記の案件を貴様の患部会議にてご淫蕩くださいますよう”とある。心理学の専門家ではない彼にも、潜在的な敵意がはっきり読み取れる。そこで、じっくりと考え始める。考えれば、考えるほど、自分が弁護士業にまつわる全てを憎んでいることがわかってきた。依頼人が憎い。(言うまでもないことだが)ほかの弁護士が憎い。初対面の人に職業を言うと、相手が”ナチの細菌学者”を見るような目つきになるあの瞬間が憎い。自分の事務所が憎い。法律文書のラテン語が憎い。書類かばんが憎い。とにかく、憎くて憎くてたまらず、彼はついに自分の本当の望みは全然ちがう職業につくことだと結論を下す。もっと楽しくて、のんきで、例えば、ハング・グライダーのインストラクターみたいな…。そう!それだ!一度、休暇のときにハング・グライダーをやってみたが、あれは楽しかった!」

中年の危機は突然やってくる。
そうかもしれない。
突然やってくるのではなく、突然気がつくのだろう。
誰しも一度はそういう思いに駆られたことはあるはず。

笑いの中に、真実が隠されている。
そんなコラム集。

アマゾンの古本を安く買った。

アマゾンの古本は便利だ。




| | | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀漢の賦 葉室 麟 文春文庫
NHKの時代劇でやっていたのが面白かったので、原作を買った。

江戸時代、月ヶ瀬藩というところの、どちらかというと貧しい武士、日下部源五と、家老の松浦将監という幼なじみの二人の運命を描いた物語。

テレビでは中村雅俊が日下部源五を演じて、なかなかよかったが、どうも原作ではイメージが違う。
もうちょっと堅いイメージだった。

時代小説というのは、ややこしいところがなくて、読みやすい。
しきたりとか、家とか、武士の守るべきものとか、そういうのは小さい頃から時代劇を見て覚えた。
そういう予備知識がないと、ひょっとしたらわかりにくいのかもしれない。

でも、そういう予備知識が共有されていると、物語は楽だ。

純粋に、人間の気持ちを描くのには、時代劇はぴったりだと思う。

この「銀漢」というのは、漢詩から出た言葉で「天の川」のこと。
物語の終盤で、源五が思う。

「銀漢とは天の川のことなのだろうが、頭に霜を置き、年齢を重ねた漢(おとこ)も銀漢かもしれんな」

その漢たちの物語。

残念ながら、ぼくはテレビの方が原作よりよかった。

でも、時代小説はいい。





| | | 19:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
動物と人間の世界認識 日高敏隆 ちくま学芸文庫
日高敏隆は何冊か読んだが、動物行動学の人だ。
人間を知るためには、比較できる何かを知ることが大事。
それが動物になる。

人間は自分の見えている世界を、動物も見ていると思いがちだが、それは違う。
目の構造や知覚の仕方が違うからだ。
そして、人間が客観的に世界を見ているか、という疑問も出てくる。

「もし、われわれ人間が、見て捉えている、把握しているものを現実のものとすれば、モンシロチョウやアゲハチョウが捉えている世界は、それとは違うものである。
 それは客観的なものでなく、きわめて主観的な、それぞれの動物によって違うものであるということになる。それがそのモンシロチョウが構築している世界だとすると、極めて限定された、まさに主観的な世界を構築していることになる。
 では、われわれ人間は本当に客観的な世界を見、客観的な世界を構築しているのだろうか。
 それも違う。後に述べるとおり、人間にも、知覚の枠というものがある。誰でも知っているとおり、われわれには紫外線や赤外線は見えない。そのようなものは現実の世界に存在しているのであるが、われわれにはそれを見ることも感じることもできない。ただ、その作用を受けているだけである。われわれはそれを研究することによって、そのような紫外線なり赤外線なりというものの存在を知る。」

3章で、アゲハチョウがどこを飛ぶか、という研究を紹介している。
これは思ったより単純で、日がよくあたっている木のこずえに沿って飛ぶということだ。
なぜかというと、アゲハチョウが見ている世界では、日の当たっている木のこずえは非常に重要なものとして浮かび上がっていて、チョウにとってはそれしか見えないから、という説明。
つまり、その生物が見えている世界は、行動にも影響を及ぼすということになる。

モンシロチョウはアゲハチョウとちがって、日のあたっている草原が大きな意味を持つ。
というか、それしか見えていないということだろう。

こういう研究は面白い。
動物の数だけ世界はある。
客観的な世界というものはない。
その動物にとって主観的な世界しかないのだ。
人間もその制約を逃れることはできない。

1つの世界をどう切り取って見るか、というようなことだろう。
そういう意味では言語に近いものがある。
言語が違えば、世界が変わるように、動物が変われば世界も変わるのだろう。

「このことはとても重要なことなのではなかろうか。そして、同じ昆虫でもアゲハチョウの見ている世界と、モンシロチョウの見ている世界はもはや同じではない。このように考えてみると、ひとつの環境というものは存在しないことになる。それぞれの動物の主体が構築している世界があるだけであって、この環世界は動物の種によってさまざまに異なっているのである。」

「世界を構築し、その世界の中で生きていくということは、そのような知覚的な枠のもとに構築される環世界、その中で生き、その環世界を見、それに対応しながら動くということであって、それがすなわち生きているということである。そして彼らは、何万年、何十万年もそうやって生きてきた。環境というものは、そのような非常にたくさんの世界が重なりあったものだということになる。それぞれの動物主体は、自分たちの世界を構築しないでは生きていけないのである。」

そして、人間、いやあらゆる動物が世界を構築していると思っているのは、その動物がその時々に持っているイリュージョン(まぼろし)だ、という結論になる。

「重要なのは、前章でも述べたとおり、イリュージョンなしに世界は認識できないということである。「色眼鏡でものを見てはいけない」とよく言われるが、実際には色眼鏡なしにものを見ることはできないのである。われわれは「動物」と違って色眼鏡なしに、客観的にものを見ることができると思っている。そしてできる限り、そのようにせねばならないと思っている。しかし、これは大きな過ちである。」

「学者、研究者たちはいう。われわれは真理に近づこうとしているのだと。
 もし、真理というものが存在するなら、この言は理解できる。そしてたしかに今日のわれわれは、昔よりより多くのことを知っている。けれど、それによってわれわれは真理に近づいたのであろうか?
 物理的世界についてはそうだといえるかもしれない。けれど、客観的な環境というものは存在しないということからもわかるとおり、われわれの認知する世界のどれが真実であるかということを問うのは意味がない。
 人間も人間以外の動物も、イリュージョンによってしか世界を認知し構築し得ない。そして何らかの世界を認知し得ない限り、生きていくことはできない。人間以外の動物の持つイリュージョンは、知覚の枠によって限定されているようである。けれど人間は知覚の枠を超えて理論的にイリュージョンを構築できる。
 学者、研究者を含めてわれわれは何をしているのだと問われたら、答えはひとつしかないような気がする。それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ。そうして得られたイリュージョンは一時的なものでしかないけれど、それによって新しい世界が開けたように思う。それは新鮮な喜びなのである。人間はこういうことを楽しんでしまう不可思議な動物なのだ。それに経済的価値があろうとなかろうと、人間が心身ともに元気で生きていくためには、こういう喜びが不可欠なのである。」

そういうことだ。
人間の営みというのは、結局はイリュージョンに過ぎない。
そう開き直ったところから、謙虚に科学というものを見ないといけないのだろう。

日高敏隆は2009年に79歳で亡くなった。
惜しい人をなくしたと思う。



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「聴く力」の強化書 岩松正史 自由国民社
CDAという資格を取ったのだが、その2次試験のロールプレイの参考に購入。
1回目の2次試験は落ちて、もっと傾聴をしないといけない、ということだったので、「聴く力」という題名に惹かれた。

この本は読みやすい本なので、一日あれば余裕で読める。
書いてあることも著者が講演でやっていることなので、わかりやすい。

こういう本を読むと、いかに普段人の話を聞いているようで、聞いていないかということがよくわかる。
「傾聴」というのが、難しいということがよくわかるのだ。
耳を傾けて聴けば、傾聴ができると思ったら間違い。
ちゃんとリクツがある。

傾聴は感情にアプローチするものだという。
要は、気持ちを聴くことになる。

対して、アドバイスというものは、認知や行動にアプローチするものだ。
ついついこれをやってしまう。
自分の考えを話すのだ。
これが悪い、というわけではない。
時と場合によってはアドバイスが必要なこともある。
しかし、傾聴はアドバイスとは違うのである。

胸のあたりに「心のバケツ」を想像して、そこがいっぱいになっていると想定する。
感情が、バケツから溢れ出している状態。
そんな状態なら、誰かがアドバイスをしても聞けない、聴く余裕がない、ということだ。
だから、有効なアドバイスをするためにも、傾聴をして心のバケツの水の水位を下げることが必要になる。
たいがいの場合、心のバケツの水位が下がってくると、次の一歩は本人が考える、と著者は言う。
自分で決めたことほど、高いエネルギーを持って向き合えるから、それが大事だという結論。
だから、傾聴は大事だという。

しかし、常に傾聴が必要だと言っているのではない。
傾聴のスイッチを用意しておき、そういう場面では、スイッチを入れられるようになるといい。

「あなたが、もしコミュニケーションで困っていることがあるなら、「傾聴力」のスイッチを持つと、必要な時に傾聴が使えるようになります。
「傾聴」はあなたが楽になるために、いいとこどりして使えるものなのです。」

この本には訓練のやり方や、会話の事例が書いてある。
なかなかためになる。

例えば、事柄と気持ちの違い。
何も意識せずに聞くと、事柄をついつい聞いてしまう。
事柄とは、誰が、いつ、どこで、何を、どうやって…、という類のもの。
事柄はイメージできるから聞きやすい。

しかし、気持ちはイメージできない。
感じて、わかることしかできない。

何も意識せずに聞いていると、ついつい事柄を確認しようとして、話の腰を折ってしまう。
事柄は本人にとってはわかっていることで、どうでもいいことなのだ。
それよりも、気持ちを聴くことが傾聴の第一歩である。

言うは易く、行うは難し。

そういうトレーニングの本である。

1300円は、トレーニングに行ったと思えば安い。

しかし、1つ大きな疑問なのは、仕事でたくさんの臨床心理学者と付き合ったが、あの人たちが傾聴ができているとはとても思えないことだ。
単にスイッチを入れていないだけなのか、もともとスイッチがないのか、よくわからない。
まあ、商売柄、お金をもらえる時だけ、スイッチを入れるのかもしれないが…。

お互いのコミュニケーションもよくない。
要するに仲が悪い。
認めあったらいいと思うのだが、これもなかなかうまくいかない。

だから、仲間づくりが下手だ。
まあ、普通に言うと、人付き合いに関しては下手な人たちが多かった。

そういう疑問は残ったが、まあ、よしとしよう。


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コミュニケーション力 齋藤孝 岩波新書
今の就職で重要なのはコミュニケーション力だといわれている。

この本では、それは「意味や感情をやり取りする」ことだという。
巷では、コミュニケーションというと、情報をやり取りすることのようなイメージがあるが、著者は情報には感情の次元が含まれておらず、人間関係を円滑に進めるためには感情をお互いに理解することが必要であり、そこまで含めて「コミュニケーション力」だという。

これを鍛えるためには、コミュニケーション力のある人と対話することだという。

「テニスの上手な人やキャッチボールの上手な人を相手にすると、気持ちよくできる。自分が上手くなったような気がしてくる。すると、どんどんプレーがよくなり、自分でも思いがけないパフォーマンスが生まれる。これは対話でも同じだ。対話力がある人と話すと、アイディアが生まれやすい。そうした人を会話のパートナーにして、クリエイティブな対話の感覚を積み上げていくことが、コミュニケーション力向上の王道である。」

意外だが、書くこともいい。

「文章を書くという作業は、自分自身を対話する作業である。自分でも忘れていることを思い出し、思考を掘り下げる。長い文章を書いたことがある人ならば、それが苦しくても充実した作業だということを知っている。日記をつけるという行為も、自分自身と向き合う時間をつくることになる。言葉になりにくい感情をあえて言葉にすることによって、気持ちに整理がついていく。言葉にすることによって、感情に形が与えられるのだ。」

若い人たちが「〜ていうか」という言葉を多用するが、それは安易に話題を変えることになり、それに対して警鐘を鳴らしている。
そして、コミュニケーション力は1つの話題を掘り下げる方向にあると言っている。

「自分の身の回りの情報を伝え合うだけでは、コミュニケーション力は向上しない。相手の経験世界と自分の経験世界を組み合わせ、一つの文脈を作り上げていくことで、次の展開が生まれる。それがコミュニケーション力のある対話だ。すなわち、コミュニケーション力とは、一言で言えば、「文脈力」なのである。」

「私は大学生に四百字詰め原稿用紙で十枚以上のレポートを課題として出す。その意図は、文脈力をつけるということにある。四千字以上の文章となると、文章の内容を構築していく必要が生まれる。勢いだけで走り切るには少々長い。原稿用紙一枚を一キロメートルと想定して考えてみるとわかりやすい。一キロ程度ならば、とりたてた準備をしなくても走ることはできる。しかし、十キロともなると、からだの準備を整えておかなければ、走り切ることは難しい。このからだの準備に当たるものが、文章の構成である。事前にメモを作り、どのような順序で論を進めるかを考える。メモなしにいきなり一行目から書き始め、思いに任せて書くというやり方では、長い文章を書き慣れていない者に取って、乾燥するのは難しい。」


「〜ていうか」と同じで、「全然話は変わるんだけど…」というのもヨクナイ。
そういう人の文脈力は高くはないという。
では、どうしたら文脈力をつけることができるのか?ということになる。

「それは会話の最中にメモをとることである。私は、対話中には、ほぼ必ずメモをとる。自分がインタビューされる側であっても、メモをとりながら話をする。相手の質問をまず聞く。できれば相手が用意してきている質問をはじめに全部聞き出す。そしてそれをメモする。それに関する返答も、質問を聞きながらキーワードだけどんどんメモしていく。自分がこれから話す可能性のある事柄を、とりあえずキーワードでマップしていくのである。もちろん全部を話すとは限らない。しかしキーワードをメモしておかないと、言い忘れてしまうことが多くなる。相手の質問をメモしておくことによって、的外れな返答をしにくくなる。また、質問相互の関係も考え合わせて、自分の話を展開していくことができる。」

でも、経験上、メモをする人は驚くほど少ないという。
それを嘆いてこう言う。

「文字こそは、文明を加速させた一番の要因である。文字以前の社会は、言葉は持っていたが、文明はさほどの加速を見せなかった。文字の発明以来、数千年で急速に文明は発展した。それほどに文字の力は絶大だ。にもかかわらず、その文字の大いなる力の恩恵を受けようとしない会話が多いのには驚くばかりだ。」

こんなことが、第一章コミュニケーション力とは、の前半で語られる。

第二章では、コミュニケーション力の基盤として、「目を見る、微笑む、頷く、相槌を打つ」の4つをあげる。
まあ、当たり前のことだ。

最近コミュニケーション力が問題になるのは、戦後の家庭にも問題があるという。

「太平洋戦争後、高度経済成長とともに、各家庭には一つずつ家の風呂がつくようになった。一人ひとりが別々に風呂に入るようになり、個室で眠る子どもも少なくなくなった。他者と関わり合うことを「煩わしさ」とだけ受け取る子どもたちが増えてきた。人と関わらなくても済むのならできるだけ関わりたくない、という引きこもり指向は強まった。泊まりがけの合宿などにおいても、一人部屋でなければ眠れないといった苦情もよく聞かれるようになった。寝食を共にすることは苦痛、と捉えられる傾向が強まったのである。」

社会の個人化が進んだのだろう。
誰かが、日本は西欧の個人主義を間違って真似したと言っていた。
西欧では個人の部屋が与えられるが、ルールがあって、必ずみんな一緒に居なければならない時間は、家族が一緒に過ごすということだ。

場の雰囲気をリラックスさせることも必要だ。
そういう手法も書いてある。

演劇の効用についても書いてある。
今は演劇を就活のセミナーに取り入れているところもあると聞いた。
そういうこともコミュニケーション力に含まれるのだろう。

第三章では、いろいろな技法について語る。

言い換え力やプレゼンのコツ等々について書いてある。

ブックオフで105円で買った。
2004年に初版。
結構売れた本だと思う。

第一章の、コミュニケーション力とは、という章が一番面白かった。

第二章、第三章のいくつかは、実際に使ってみたことがある。
そういう役に立つ本だと思う。

でも、コミュニケーション力とは、というところを押さえておかないと、意味がない。
単なる情報伝達ではなく、感情を言っているところがエライ。




| | | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
老いの道 河合隼雄 読売新聞社
心理学者の河合隼雄が1991年の1月から6月まで、読売新聞の夕刊に連載したコラム集。

今から25年ほど前であるが、この頃からもう「老い」が話題になっていたということだ。
今ほど切実ではなくて、まだまだ余裕があった頃だと思う。

最初のコラムが、「話が違う」という題。
現代の老人問題を町内の運動会の500m走に例える。
500m必死で走って、やっとゴールインというところで、役員が出てきて「すみません800m競争のまちがいでした。もう300m走って下さい」というような状態が老いの問題だという。

「人生50年と教えられ、そろそろお迎えでも来るかと思っていたのに、あと30年あるというのだ。そんなことは考えてもみなかったことだ。昔も長寿の人が居たが、それは特別でそれなりの生き方もあった。ところが今は全体的に一挙に人生競争のゴールが、ぐっと遠のいてしまった。」

面白い例えだ。
1991年当時の老いの問題というのは、こういうものだった
今はニュアンスが変わったと思う。
みんな800m走らないといけない、と言われている。
でも、走るために必要な水や靴などは足りないぞ、という状態だろう。

「心はどこに」という項では、死が近づいてきた患者は、部屋に入ってきた人の心がどこにあるか、わかるようになる、ということを書く。
これは講演でも言っていた。
看護婦さんが検温の結果や様子を気にかけてくれるのだが、心が部屋の外に居るままの人がいる。
それに対して、ある看護婦さんは、その人が部屋にはいってくると、「本当に傍らに居てくれている」と感じるらしい。
外見は何も変わったところはないのだが、その人の心がどこにあるか、「こうして寝てばかり居る者には、本当によくわかるのです」ということだ。
死が近くなると、真実が見えるようになるらしい。

こんな話が110話出ている。

河合隼雄は1928年生まれ。
だから、この本を書いた時は63歳だった。
これを書いた1991年の15年後、2006年に脳梗塞を起こして、ほぼ1年後に79歳で亡くなった。

最後は文化庁長官という公職について、高松塚古墳の壁画の劣化問題でストレスがたまって、脳梗塞を起こしたんだと思う。

日本の文化について、これから遠慮なく語ろうというところで亡くなってしまった。

文化庁長官というような役職につかなければ、きっと、もっと長生きしていたのに、と悔やまれる。



| | | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
「病院」がトヨタを超える日
「病院」がトヨタを超える日 北原茂実 講談社+α文庫

2011年に出版された。
作者は八王子で病院を経営している医者。

この人は医療を「産業」にして、日本の主要産業にして育て、輸出産業にする、ということを言っている。

序章にこう書かれている。

「医療者である私が「売る側」や「買う側」という言葉を連呼することに、違和感を覚える方もいるでしょう。医療は売るものでも買うものでもない、医療とは公共のサービスであり、経済活動・営利活動の外にあるものではないか、と。
 しかし、そうやって医療を特別視して神棚に飾っていても、自浄作用など期待できません。病院は経営努力を怠ったまま赤字を垂れ流し、サービスを悪化させ、そのツケを国と患者に押しつけるだけでしょう。」

「一般には国の予算を食いつぶすばかりの存在と考えられがちな医療ですが、約300万人もの人間が従事する「産業」として捉え直してみると、これほど有望な成長分野もありません。むしろ、うまく輸出産業化することができれば、自動車産業や家電・エレクトロニクス産業を超えて、日本の基幹産業になる可能性さえ秘めています。
 崩壊寸前の医療をどう変えていくかは、国民の暮らしや健康に関わる一大事というだけでなく、日本経済にとっても大きな分岐点なのです。」

昨今、医療産業の輸出というような事が言われているが、そんなことは可能なのだろうか、ということで買ってみた本。

この人は自分の病院(脳神経外科)を八王子に作ったのだが、第1章「八王子から始まる医療立国プロジェクト」の中で自分の病院でやっている「家族ボランティアシステム」を紹介している。
元気な時に、病院でボランティアをやることで、「はびるす」という地域通貨を貯めて、いざ病気になった時にそれを使う。参加型のシステムだ。
残念ながら、まだ保険診療の部分では規制があって使えず、保険適用外の部分でしか使えないが、国が規制を取り払えば、通常の診療も「はびるす」で受けることができるという。
病院でボランティアをすることで、病気に対する知識や経験も積めるので、いざというときに役に立つ、という効果もある。
それが健康に対する知識をつけることにもつながり、それを実践することで「病気にならない街づくり」を進めることもできる。
それをさらに進めて、「携帯電話を活用したワンコイン診療」というのも始めたらしい。
500円でできる簡易人間ドックである。

「私は、このシステムが全国に広がれば「医療」と名のつくものの半分がなくなり、開業医の8割が不要になってしまうとさえ思っています。」

なるほど。
たしかに現在の長寿県である長野県では、徹底的に県民の検診を勧めたと聞いた。
医療費を削減するためには、病気になる前に予防することに力を注がないといけない。
このシステムでは、医者の代わりにDVDを使って、気をつけないといけない点や、食事の指導などを受けることになっている。
「さて、このワンコイン診療が広がっていくと、画期的なことが起こります。
 まずは総医療費の大幅な削減です。じつは採血と検査、そしてDVDによる指導は、国が定めるところの「医療」ではありません。健康保険証が要らないことからもわかるように、保険診療ではないのです。つまり、ワンコイン診療の普及は「医療ではないもの」が広まり、その分「医療」がなくなっていくことを意味します。
 そうすると、開業医(診療所)のほとんどは消えてしまうはずです。
 入院設備を備えた病院が大型スーパーで、ワンコイン診療はコンビニエンスストア、そして開業医を個人商店だと考えれば理解しやすいでしょう。スーパーとコンビニの普及で個人商店が淘汰されていったように、総合力や利便性に劣る開業医には相当な経営努力が求められる時代になるでしょう。
 そして開業医がなくなっていけば、日本の総医療費は大幅に削減されます。なにしろワンコイン診療は「医療」ではないのですから、税金も保険料も使われません。患者負担も少なくて済むし、医療崩壊を食い止める一助になってくれるでしょう。開業医の方々にとっては迷惑千万でたくさんの批判もあるかと思いますが、これくらい大胆なことを考え、実行に移していかないと、この国の医療が崩壊してしまうのです。」

たしかに、これくらいのことをやらないと、持続可能なカタチにはならないかもしれない。

また、この病院では薬を処方して、飲ませてから検査するというシステムらしい。
それには理由がある。

「病院の中で気分が悪くなったりすればすぐに対処できますが、家族ではそれができません。ですから、たとえ診断が確定していても、帰る時に薬を出すのは本来とても危険な行為なのです。
 これも、合理的に考えれば誰にでもわかることですが、実際にはほとんどの病院が診断後に薬を出していると思います。「薬は最後に渡すもの」という常識、前例主義に縛られているのです。」

医者の立場で考えたら、当たり前のことであっても、本当は変えたほうがいいことがたくさんあるのだろう。
そういうことを実際にどんどんやっているのが、この人のスゴイところだと思う。

第2章の「国民皆保険幻想を捨てよう」という章では、「結論から先にいいましょう。医療の現場が荒廃し、医療崩壊が叫ばれている原因は、一にも二にも財源不足です。」と語られる。

本によると、現在(2011年)の日本の総医療費は35兆円。内訳は50%が保険料、15%が患者の窓口負担、残りの35%が税金らしい。この35兆円というのはGDP比でみたら先進国中最下位で、OECD加盟国の平均も下回っているらしい。
その理由が「国民皆保険制度」にあるという。
戦後のキャッチアップの時代までは、この制度は役割を果たしてきたが、時代が変わって逆に亡国の制度になっている。
年金や他の多くの制度も、キャッチアップの時代はよかった。
その例に漏れず、ということか。

国民皆保険制度はとうの昔に耐用年数を超えた欠陥だらけの制度だ、というのがこの人の見解。

「たとえば心臓手術をする場合、Aという病院に行くと生存率が80%、Bという病院なら60%、Cという病院に行けば40%といった現実が実際にはあります。医者だって人間ですし、執刀医や病院によって医療レベルに差がでてしまうのは当たり前の話です。ところが、こうした事実は闇に葬られ、どの病院に行っても同じレベルの医療が提供されるのだという建て前が貫かれています。日本の医療は基本的にアウトカム(医療行為の結果・成果)を公表しないし、公表できないのです。
 なぜそんな馬鹿な話になるのか?
 その答えは、国民皆保険にあります。」

「民間から価格決定権を奪い、国が価格を決定して全国一律サービスをめざそうとする国民皆保険は、そもそもが社会主義的な発想です。一概にそれが悪いとはいいませんが、旧社会主義国家のように、国民にまともな情報が与えられないまま建て前のみで存続しているとすれば、とても看過することはできません。
 国民皆保険の問題点を直視せず、ひたすら盲信しているうちは、本当の医療改革など望めないのです。」

「それでは、もしも国民皆保険の「全国どこでも、同じレベルの医療を同じ料金で受けられる」という原則を取り払ったらどうなるでしょうか?
 具体的には、診療報酬制度を全廃するか、ある程度ゆるめて部分的に自由競争を取り入れた場合、何が起きるでしょうか?
 まず、アウトカムの開示が可能になります。どの病院が優秀で、どの病院がそうでないのか、自分の通っているあの病院は信頼に足る医療を提供しているのか、といった点が、数字によって客観的に判断できるようになります。
 また、自由競争が取り入れられれば、同じ検査や手術であっても医療機関ごとに価格差が出てくるでしょう。」

「とはいえ、国民皆保険を支持する声は、まだまだ圧倒的だと思います。「国民皆保険があり、医療費が安く抑えられているおかげで、いつでも安心して病院にかかれる。もしも医療費が高くなったりしたらたいへんなことだ」と考える人が多いからです。」

だから、どうしたらいいのか。
そのためには、総医療費を上げることだ、という。
アメリカで使える薬がなかなか日本で使えないとか、一日に医師が見る外来患者はアメリカでは10人程度で日本は60人〜100人いるから、インフォームドコンセントが不十分になってしまうとか、医療費を上げないと解決しない、という問題もある。

「国民皆保険による「安さ」が、どれだけの代償の上に成立しているのか、私たちは一度きちんと考えるべき時期にきているのではないでしょうか。」

「国民皆保険は、日本に安価な医療を実現しました。
 しかし、安価な医療は、そのまま「安易な受診」につながり、日本人の自らの健康に対する責任感を希薄にさせてしまいました。とくに最近では、軽症で緊急性がないにもかかわらず、まるでコンビニ感覚で深夜や休日の救急外来を利用する「コンビニ受診」も、現場の医師を疲弊させる一因として問題になっています。ところが、もしも国民全体が自らの健康に責任を持ち、「安易な受診」を避ける意識が根付いていけば、総医療費の抑制にもつながるでしょうし、医療現場の負担はずいぶん軽くなるでしょう。」

では、それを決めるのは誰か。それはまずは政治の役目だという。
でも、それは難しい。その最大の理由は選挙制度にあるという。
今の小選挙区制度では、国民の見識と政治意識が高くないかぎり、いっさいの正論が通らない制度になっており、「誰の意見も反映できない制度」になっている。特に、消費税や医療費の問題は国民の感情的な反発を招きやすい制度であり、小選挙区制にはなじまないテーマだと書いてある。
まったくその通り。
その意思表示が、低い投票率になって現れているのだろう。

では、どうするのかというと、現場の医師が立ち上がらないといけない、という。
そのキーワードが「医療の産業化」になる。

「別に税金や保険料を上げる必要はありません。まずは株式会社の医療参入を認めること。医療法人という縛りをなくすこと。医療を「施し」から「産業」に変えること。これだけで状況は劇的に変化します。」

そこで、「第3章 医療がこれから日本の基幹産業になる」になる。

しかし、医療がホントに産業になるんだろうか。
ぼくにはわからない。
筆者はそれらをまとめて、こう書く。

?医療は公的サービスであって、産業という言葉はふさわしくない
?医療の産業化といっても、結局は保険料や税など国民負担が増えるだけだ

?については、国鉄がJRになった効果をひいて説明し、「まずは「医療法人」という法的な縛りをなくして医療機関の株式会社化を認めていこう、というのが私の唱える産業化の本旨」という。

また、?についてはこう書く。

「医療は約35兆円産業である。しかも、そう遠からぬ将来に40兆円、50兆円規模の超巨大産業へと成長していくー。
 こう聞いても、そんなものは詭弁だと、反発を覚える人は多いでしょう。
 いくら50兆円産業といってみたところで、結局は保険料や税金などの国民負担が増えるだけで、誰も得をしない。むしろ総医療費が増えるほど個人消費が冷え込み、経済が悪くなっていくだけだ、と。
 たしかに、現行制度のまま総医療費が50兆円規模に膨れ上がるとすれば問題でしょう。国民負担が増えるのはもちろんのこと、患者数が増加するほど病院経営は逼迫し、国の財政赤字は増えていく。まさに誰も得をしない未来がやってくるだけです。
 しかし、医療機関の株式会社化が認められるとしたら、話はまったく変わってきます。
 医療機関が株式会社化されれば、株式や社債の発行が認められるようになります。そうすれば市場からお金を集めやすくなり、多くの病院でCTやMRIなど、最新鋭の医療機器を導入することができます。
 もちろん、「ドラッグラグ」の問題も解消に向かい、さまざまな新薬が使えるようになるでしょう。医療のクオリティが格段に上がります。
 さらに、国民皆保険や診療報酬制度まで見直されれば、先に挙げたボランティアシステムやワンコイン診療などの「新しい医療」が次々と生み出され、国民負担、税負担を引き下げつつも経営体制を強化していくことができます。現場の待遇は大幅に改善され、雇用の創出にもつながるでしょう。もちろん、医療機器メーカーや介護施設などの関連産業についても活性化が期待されます。」

なるほど。
言っていることはわかるのだが、これだけではなんとなく納得できないなあ。

次に、日本の病院は7割が赤字であること、現在の医療は”装置産業”であって、資金調達が必要なこと、実際儲かっているのは設備投資をしない病院や、診療報酬点数の高い医療を優先する病院であって、患者のことを考えていない病院であることなどが挙げられる。

そして、2007年の総務省の調査によると、日本人の個人資産1500兆円のうち、全体のおよそ2割を50代が、3割を60代が、そして、3割を70代以降が保有している、という事実をみた時に、「これからの日本で内需を拡大するとすれば、20代〜30代をターゲットにしても意味がありません。内需拡大のカギを握るのは、50代以降の中高年層。しかも、海外旅行などで国外にお金を落とすのではなく、あくまでも日本国内でお金を落としてもらう必要があります。」という。

そういうことなら、話はわかる。
なかなか消費に回ってこない50代以降の資産を、貯蓄ではなく、医療サービス産業に使ってもらおう、ということである。

「そしてなにより、医療を自由化して産業として自立させれば、そこを突破口に必ずお金の流れが出てきます。
 きっと、「人の命で商売をする気か!」という批判はあるでしょう。命を人質にお金をとろうとしていると誤解する人も多いと思います。
 しかし、これは医療従事者としての私利私欲による考えではなく、同時に道徳や倫理の問題でもありません。国の財政と経済を健全化させ、医療崩壊を食い止めて国民に広く医療を提供していくための、現実的な提言です。
 当然ながら、医療の自由化は「お金持ちにはそれなりのお金を払ってもらう」ことを前提としていますが、低所得者層に対しては十分なセーフティネットを設けます。
 銀行口座で塩漬けになっている個人金融資産を市場に吐き出させ、お金の流れを正常化すること。しかも海外ではなく、国内でお金が回るようにすること。そして国内に確固とした成長産業を作っていくこと。これらの条件をすべて満たすのは、医療の自由化しかないと断言してもいいでしょう。」

「医療には、ひとついいところがあります。
 それは「若者はあまり病気にならない」ということです。
 あくまでも相対的な話ではありますが、若者は総じて体力があり、病気になりにくいものです。たとえ病気になったとしても、高齢者よりもずっと回復が早くなります。
 いま、税や社会保障で最大の問題になっているのは、世代間格差です。
 たとえば厚生年金の場合、1940年生まれのモデル世帯(会社員の夫が40年勤務、妻は専業主婦)ではこれまで納めた保険料の6.5倍の年金が受け取れるのに対して、1980年生まれ以降では2.3倍しか受け取れません。現役世代が高齢者を扶養する現状のシステムでは、少子高齢化が進むほど若い世代の負担は大きく、給付される額は少なくなります。」

「現実にお金を持っているのは中高年層なのに(くり返しますが、日本の個人資産の8割は中高年層が持っています)、彼らの年金を現役世代が負担する、この構造的な矛盾を解消しないことには、世代間格差は広がる一方でしょう。」

「お金を貯め込んでいる中高年層や富裕層の資産を市場に吐き出していけば、経済の流動性が高まり、外需に頼ることなく景気を底上げしていくことができます。
 もちろん、所得や資産に応じたセーフティネットは必要ですが、そこさえクリアしていけば、医療ほど「財源がないならお金持ちに」が通りやすい分野はないのです。」

大いに納得した。これはいい考えだと思う。
ぜひやるべきだと思う。
国家財政が破綻して、国債が紙切れになる前に間に合うだろうか…。

そのために、国民総背番号制を導入すべきだという。
そしてカードはICカードにして、過去の診療情報をすべて記録させる仕組みを作れば、総医療費は3割は減る、という。

「新しく、なおかつ筋の通った主張は、往々にして過激な主張に聞こえるものです。しかし、これくらいドラスティックな改革を施さないと医療は持たないし、国の財政赤字は解消されないのだと認識しなければなりません。」

もっともだ。その通りだと思う。

第4章では「日本人だけが知らない世界の医療産業の実態」として、メディカル・ツーリズムの話が、第5章では「日本医療を輸出産業に育てる方法」として著者がカンボジアに医療機関を作ろうとしている活動内容などが示される。

そして「終章 医療崩壊こそ大チャンス」では、まとめが書かれている。

中で印象的だったのは以下の記述。

「医療のめざすところは、長生きではありません。気持よく生きて、気持よく死ぬこと、それこそが最大の目的であり、気持よく生きるために何ができるのか、医療に携わる人間はもっと真剣に考える必要があります。」

「病院経営者が経営感覚を持たないのは、彼らが「自分は慈善事業をやっている」「医者は聖職であり、先生であり、ほかの職業とは違うのだ」と思っているからなのです。この部分の意識改革がなされないかぎり、どれだけ公金をつぎ込んでも無駄です。」

ということだ。
元ヤマト運輸の小倉社長が、福祉のことを書いた時に、同じようなことを書いていた。

この本はいい本だ。

この通りにやればいい。
だれかやってくれないか。


| | | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
働く女
働く女 群ようこ 集英社

働く女性の苦労を勉強すべく、古本を購入。
10人の働く女性が出てくる短篇集。

結論からいうと、あんまり勉強にはならなかった。
小説だから、女性特有の苦労は当たり前で、その先の仕事の部分を書いている。
出てくる人は、あまりぼやかない。
みんな頑張っている。いい意味でも悪い意味でも前向きなのだ。

百貨店の外商でまともな商売をしようと頑張っているチハル。
一般事務でコンピューターの使い方をマスターし、おじさん連中に教えるトモミ。
夫の突然の死亡で、子連れでコンビニでレジを打つミサコ。
体調不良で総合職を辞め、祖父の古本屋の店番をするクルミ。
出版社を辞め、フリーライターになって不安にかられて駆けまわるエリコ。
年を取ってきた女優で、見栄と貪欲からだんだんとみんなに嫌われていくチユキ。
エステティシャンで指名が増え、仕事は増えたが、身体を壊していくタマエ。
呉服店を開き、好調だったがだんだんと強引な商売になって客が離れていくテルコ。
結婚して銀行を辞めたが、またパートで働きだしたものの、内職仕事になってしまうミドリ。
ラブホテルの店長をやって、人を使って毎日いろんな出来事を楽しむチアキ。

そういう人たちの話。
すぐ読めて、面白い。
古本で1円なら、お買い得。

作者は今60歳。
99年だから、今から15年前に出た本。
「青春と読書」という本に連載されていたらしい。

「青春と読書」という題名は、最近どちらも聞かない単語をつなげている。
調べてみると集英社が出している、「本の数だけ人生があるー集英社の読書情報誌」という副題のある雑誌。なんと83円だ。
11月号は巻頭の対談をホームページで読める。
集英社の宣伝を兼ねた雑誌という感じだ。

バックナンバーをみると、北方謙三とか東野圭吾とかいう名前も出ている。
さすが集英社。

本屋では見た覚えがないので、どうやって売っているのかと見ると、年間定期購読ができるようになっている。
1年間で900円。
さすがにペラペラのわら半紙みたいな紙ではないだろうと思う。

連載のところを見ると、7人の名前が書いてあった。

青春と読書、これは珍しい。

そういうところに連載されていた短篇集だ。

| | | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
東京奇譚集
東京奇譚集 村上春樹 新潮文庫

2005年出版。比較的新しい短篇集だ。この後に出ている長編は2作のみ。

この短篇集は80年代なら、SFの棚にあっても不思議ではないと思う。
80年代の日本のSFは、必ずしも科学的なフィクションではなく、荒唐無稽なものやドタバタ、この短篇集にあるような理屈だけで解釈できないようなファンタジックなものもあった。

あまり作品をジャンル分けするのは意味がないとは思うが、筒井康隆などの80年代の日本のSF作家はバラエティに富んでいて、読んでいて楽しかった。
それを思い出させるような本。

東京奇譚集という名前にふさわしい、奇譚が5篇書かれている。

読めば、面白い。
面白いといっても、笑うような面白さではない。
「品川猿」という最後の作品はちょっと面白いが…。
主に、興味深い方の面白いだ。

各々の物語の主人公にとっては、それぞれ当然であったり不思議ではないことが起こったり、それらに遭遇したりする。

何か意味のあることを、計算ずくで書こうとしているのか、それとも不思議な物語をそのまま書こうとしているのか、わからない。
ちょっと計算臭さが勝っているかな。

でも、読んだ後に何か残る。

村上春樹という作家、昔のSF作家の匂いがする。

そんな短篇集だった。





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村上朝日堂 はいほー!
村上朝日堂 はいほー! 村上春樹 文化出版局

村上春樹のエッセイ集。
1983年から5年間に書かれたエッセイを集めたもの。
大部分のものは、ハイファッションというファッション雑誌に「ランダム・トーキング」というタイトルで連載された。
1989年に出版されている。

31本のエッセイが載っている。
どれも面白い。

最初の「白子さんと黒子さんはどこに行ったのか?」というエッセイは、化粧品のCMで白子さんと黒子さんが出てくるアニメのキャラクターが、いつの間にかいなくなった、という話。
そういえば、いつの間にかなくなった。
このCMでは白子さんが黒子さんを救済するということになっていた。

「つまりある特定の知識を有しているが故に救済されている人間Aが、その知識を有していないが故に苦しんでいる人間Bにその知識を分け与え、自分のいる位置までひっぱりあげてやるわけだ。でもそうすることでAはBに対して、決して「救ってやったんだぞ」というような恩きせがましい感情は持たない。それは無償の好意であり、救済なのだ。AはあくまでBがあるべき状態を提示しただけのことなのである。そしてAはBが自分と同じ地平に身を置けたということを素直に「良かったね」と喜べるのである。」
「そんなのリアルじゃないとあなたは言うかもしれない。そうですね。たしかにリアルじゃないかもしれない。ひとことで言っちゃうと、これは実にありし日の戦後民主主義の理想世界である。つまりそこにはあるべき状態というものが厳然として存在し、努力さえすれば人はそこにちゃんと到達できるのである。」

どこまでマジメに書いているのかわからない。
でも、かなりマジメに書いていると思う。
ちょっとハスに構えているように見えて、実は本気なのだ。

「でももちろん今ではそんな幻想は消えてしまった。社会のスピードがそれをすっぽりとのみこんでしまったのだ。そしてその幻想そのものが商品化されてしまったのだ。幻想はいまや資本投下の新しいフロンティアなのだ。幻想は無料でみんなに平等に配られるような単純なものではなくなってしまったのだ。それは多様化し、洗練され、美しいパッケージを与えられた商品となった。そしてそういう世界にあっては白子さんにはもう何が善なのかわからなくなってしまっているかもしれない。」

そういうことなんだろう。
日本の社会に、みんなが善だと思うようなものがなくなってしまった。
そのことを書いている。
なくなってよかったのか、悪かったのかは書いてない。
それはなんとも言えないのだろう。

そして、白子さんと黒子さんはどこに行ってしまったのかという問いに対して、「たぶんどこにも行けなかったんだろう。」と締めくくっている。

「チャンドラー方式」というエッセイでは、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーが小説を書くコツについて書いた文章のことが書いてある。
村上春樹の記憶では、チャンドラーはこう書いていたらしい。

「まずデスクをきちんと定めなさい、とチャンドラーは言う。自分が文章を書くのに適したデスクを一つ定めるのだ。そしてそこに原稿用紙やら(アメリカには原稿用紙はないけれど、まあそれに類するもの)、万年筆やら資料やらを揃えておく。きちんと整頓しておく必要はないけれど、いつでも仕事ができるという態勢にはキープしておかなくてはならない。
 そして毎日ある時間をーたとえば二時間なら二時間をーそのデスクの前に座って過ごすわけである。それでその二時間にすらすらと文章が書けたなら、何の問題もない。しかしそううまくはいかないから、まったく何も書けない日だってある。書きたいのにどうしてもうまく書けなくて嫌になって放り出すということもあるし、そもそも文章なんて全然書きたくないということもある。あるいは今日は何も書かないほうがいいな、と直感が教える日もある(ごく稀にではあるけれど、ある)。そういう時にはどうすればいいか?
 たとえ一行も書けないにしても、とにかくそのデスクの前に座りなさい、とチャンドラーは言う。とにかくそのデスクの前で、二時間じっとしていなさい、と。」

そして、そのチャンドラー方式で実際に書いているらしい。

「僕はもともとぼおっとしているのが好きなので、小説を書くときはだいたいこのチャンドラー方式を取っている。とにかく毎日机の前に座る。書けても書けなくても、その前で二時間ぼおっとしている。」

なるほど。
そういうやり方で書いているのか。

「狭い日本・明るい家庭」というエッセイでは日本の標語のことを書いている。

「世界人類が平和でありますように」という標語の看板を見て、まったく理解できないという。
もちろん趣旨には根本的に賛成するのだが、そんな看板を立ててまわって、いったい何の効果があるのか、ということだ。

「要するに僕が言いたいのは、人々に世界平和を望ませればそれで事足るというものではないということである。必要なのは共通した世界認識と、もっと具体的な細かい行動原則である。それがなければ、何も始まらない。
 僕はそういうタイプの行動原則のない茫漠とした(しかしとりたてて反論のしようのない)主張を「ウルトラマン的主張」と呼んでいる。ウルトラマンならそれを目にとめて「そうだ、世界人類を平和にしなくちゃ」と決意を新たにするだろうが、それ以外にはなんの効果もないという意味である。しかし、こういうタイプの標語はまあ実に多い。「犯罪のない明るい社会を」だとか、「目標・交通事故死ゼロ」なんて、いったい何のためにこんな看板わざわざ出しているのか僕にはもう全然見当がつかない。見ているだけで馬鹿馬鹿しくなってくる。ただ資源と人手を無駄に費やし、街を汚しているだけである。」

そう言われれば、そうだ。
まことに文学者らしい意見。
こういう文章を見ると、この人日本には住みにくいだろうと思ってしまう。
だから、海外での暮らしが長いのか…。

村上春樹という人と、筒井康隆が似ているような気がする。
ぼくは二十代のころ筒井康隆の本をたくさん読んだ。
筒井康隆のエッセイでは、一人称は「オレ」だったが、それを除くと何となく同じニオイがする。
どこが似ているのか、と言われると難しいのだが、何となく同じ種類の人間のような気がするのだから、仕方がない。

こういうエッセイが31本。
バブルのころに書かれているから、何となく明るい。

これはオススメ。


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村上春樹、河合隼雄に会いにいく
村上春樹、河合隼雄に会いにいく 河合隼雄/村上春樹 新潮文庫

村上春樹と心理学者の河合隼雄の対談。
2回にわたって行われたものを書き起こしたもの。
対談は1995年11月に行われたとのこと。

ちょうど村上春樹が「ねじまき島クロニクル」という作品を書き上げた後の時期。
ぼくは村上春樹の小説は読んだことがないから、どんなものかはわからない。
対談の中にその小説のことが出てくるが、それもわからない。

村上春樹はアメリカにいた時に、河合隼雄と会う機会があったらしい。
その時は小説の執筆中だったので、そのことに触れないよう、気を遣ってもらって話をしたのだが、今回は小説を書き上げたので安心して話ができる、ということだ。

「ねじまき島クロニクル」については、あまりわからないので、この本は結局よくわからない本になった。

でも中に、面白いことも書いてある。

アメリカのことについて、河合が言っている。

「ぼくは教育の世界の人によく言うんですが、このごろの学校教育というのは、個人を大切にしようとか、個性を伸ばそうとか、教室によく大書してあるんですね。ぼくが「こんなこと、アメリカではどこにも書いてない」って言いますと、みんなものすごいびっくりするんですわ。
 アメリカでは個性は大事なんじゃないですかと言われますが、いや、そういうのはあたりまえな話だからわざわざ書く必要はないんだ、と答えるんです。
 日本では「個性を大事にしましょう」と校長先生が言ったら、みんなで「ハァー」というわけで、「みんなで一緒に個性を伸ばそう」ということになってしまうんですね。それほど、日本では個人ということがわかりにくいんですね。
 このあいだおもしろい体験をしました。日本の学校はもっと国際的にならなければいけないと、教育の国際化に取り組んでいる学校の紹介があった。その紹介の文章の中に道徳教育のことがあって、そこには「『すみません』というのは非常に大事な言葉である、自分は悪いことをしていなくても『すみません』と言うことが大事だ」、と教えている。その時に、自分が悪いことをしていないかぎり「すみません」と言わない文化もあるということは全然教えない。そして人間関係をスムーズにするためには「すみません」という言葉が非常に大事だと、道徳の時間に教えているのですよ。
 日本人は、個人ということを体感としてわかることはすごいむずかしいことなんじゃないでしょうかね。」

こういうことが本当にあるんだろうか。
今の時代だから、そんなことはないと思うのだが…。

日本のボランティア活動について、河合の言葉。

「だから、学生運動のころに、ぼくがよく学生を冷やかしていたのは、きみたちは新しいことをしているように見えるけれども、体質がものすごく古い、グループのつくり方がものすごく古い、ということですね。あれはおもしろいですね、みんなが集まるというときに、ちょっとサボっていると、おまえは付き合いが悪いとか。つまり、個人の自由を許さなくなるんですよ。全体にベタベタにコミットしているやつが立派なやつで、自分の個人のアイディアでなんかしようとするやつは、それは異端になってしまうでしょう。
 ところが、その点、欧米のコミットする人は、個人としてコミットしますからね。来るときは来る、来ない時は来ないというふうにできるんですよ。」

たしかに、ボランティアであるにもかかわらず、あまり来ないヤツはダメなヤツになってしまう。
これは日本ではたしかにあるだろう。

湾岸戦争の時にアメリカで感じたことを話す村上の言葉。

「結局、日本人の世界の理屈と、日本以外の世界の理屈は、まったくかみ合っていないというのがひしひしとわかるんですね。ぼくもアメリカ人に何も説明できない。なぜ日本は軍隊を送らないのかというのは、ぼくは日本人の考えていることはわかるから、説明しようと思うんだけれど、まったくだめなんですね。
 自衛隊は軍隊ですよね。それが現実にそこに存在するのに、平和憲法でわれわれは戦争放棄をしているから兵隊は送れないんだと、これはまったくの自己矛盾で、そんなのどう転んだって説明できないですよ。そこからいろいろなことがだんだんぼくのなかでグシャグシャになっていくんですよ。
 そうすると、ぼくらの時代が六〇年代の末に闘った大義、英語でいうと「コーズ」は、いったいなんだったのか、それは結局のところは内なる偽善性を追求するだけのことではなかったのか、というふうにどんどんとさかのぼって、自分の存在意義そのものが問われてくるんですね。すると、自分そのものを、何十年もさかのぼって洗い直して行かざるをえないということになります。
 これはやはり日本にいたら気付けなかったことだと思うのです。理屈ではわかっていても、ひしひしとは肌身に迫ってこなかったんじゃないかと。
 それからすぐ、真珠湾攻撃五〇周年というのがあった。これも、ぼくが生まれる前のことですから、訊かれてもわからないのですが、やはりどうしても問題として出てくる。そうすると、また自分のなかの第二次大戦というものを洗い直さなくてはならないですから、これもけっこうきつかったです。でも、一つひとつ考えていくと、真珠湾だろうがノモンハンだろうが、いろんなそういうものは自分のなかにあるんだ、ということがだんだんわかってくるのですよね。」

湾岸戦争の時は、日本は自由な貿易で国益を上げているのに、それを守る活動には参加しないのか、ということだった。これが1990年の話。
このあたりが起点になって、集団的自衛権の話も出てきているのだと思う。
この対談が持たれた1995年は震災もあったし、オウム真理教のサリン事件もあった年だ。
それから今年で20年。
日本は95年あたりから、高度成長が終わり、低成長になってきている。
この20年ほどは右肩下がりの時代だ。
というか、その前の高度成長の時代ができすぎだったのだろう。
これからの時代をどう生きていくのか、まだ答えは出てない。
安部首相は強かった日本と取り戻す、と言っているが、そんなことはできないだろう。
もうそんな時代ではないのだと思う。

村上が小説を書き始めたきっかけについて。

「なぜ小説を書きはじめたかというと、なぜだかぼくにもよくわからないのですが、ある日突然書きたくなったのです。いま思えば、それはやはりある種の自己治療のステップだったと思うのです。
 二十代をずっと何も考えずに必死に働いて過ごして、なんとか生き延びてきて、二十九になって、そこでひとつの階段の踊り場みたいなところに出た。そこで何か書いてみたくなったというのは、箱庭づくりではないですが、自分でもうまく言えないこと、説明できないことを小説という形にして提出してみたかったということだったと思うのです。それはほんとうに、ある日突然きたんですよ。
 それまでは小説を書こうということを考えたことはまったくなかった。ただ働いてきて、ある日突然「そうだ、小説を書こう」と思って、万年筆と原稿用紙を買ってきて、仕事が終わってから、台所で毎日一時間なり二時間コツコツ書いて、それがすごくうれしいことだったのです。自分がうまく説明できないことを小説という形にすることはすごく大変で、自分の文体をつくるまでは何度も何度も書き直しましたけれど、書き終えたことで、なにかフッと肩の荷が下りるということがありました。」

えらいものだ。
ある日突然書こうと思って、書けるというのがスゴイ。
小説家は何かしら心が病んでいるというが、そういうことがあるんだろう。

人間の死についての河合の言葉。

「人間はいろいろに病んでいるわけですが、そのいちばん根本にあるのは人間は死ぬということですよ。おそらくほかの動物は知らないと思うのだけれど、人間だけは自分が死ぬということをすごく早くから知ってて、自分が死ぬということを、自分の人生観の中に取り入れて生きていかなければいけない。それはある意味では病んでいるのですね。
 そういうことを忘れている人は、あたかも病んでいないかのごとくに生きているのだけれども、ほんとうを言うと、それはずっと課題なわけでしょう。
 だから、いろいろ方法はあるのだけれど、死後に行くはずのところを調べるなんてのはすごくいい方法ですね。だから、黄泉国へ行って、それを見てくるということを何度もやっていると、やがて自分もどこへ行ったらいいかとか、どう行くのかということがわかってくるでしょう。
 現代というか、近代は、死ぬということをなるべく考えないで生きることにものすごく集中した、非常に珍しい時代ですね。それは科学・技術の発展によって、人間の「生きる」可能性が急に拡大されたからですね。その中で死について考えるというのは大変だったのですが、このごと科学・技術の発展に乗っていても、人間はそう幸福になるわけではないことが実感されてきました。そうなると、死について急に語られるようになってきましたね。
 だけど、ほんとに人間というものを考えたら、死のことをどこかで考えていなかったら、話にならないですよね。その点、それこそ平安時代の物語なんかは死ということはずっとある。」

人間だけが、「自分が死ぬということを、人生観の中に取り込んで生きていかなければいけない」というのは、そう思う。
それが「病んでいる」ということかどうかはわからない。
動物には「今」しかないというワケではないとは思う。
イヌやネコにも関係はわかると思う。
親との関係とか、仲間との関係とか、飼い主との関係とか、そういう関係の中で生きているとは思う。
そこには時間の意識もあるだろう。
でも、時間の先にある「死」はそこには入っていないだろう。

戦争についての村上の言葉。

「結局、日本のいちばんの問題点は、戦争が終わって、その戦争の圧倒的な暴力を相対化できなかったということですね。みんなが被害者みたいになっちゃって、「このあやまちは二度とくり返しません」という非常にあいまいな言辞に置き換えられて、だれもその暴力装置に対する内的な責任をとらえられなかったんじゃないか。
 われわれの世代的な問題というのも、そこに帰属するのではないかと思います。ぼくらは平和憲法でそだった世代で「平和がいちばんである」、「あやまちは二度とくり返しません」、「戦争は放棄しました」、この三つで育ってきた。子供のころはそれでよかったのです、それ自体は非常に立派なことであるわけですから。でも、成長するにつれて、その矛盾、齟齬は非常に大きくなる。それで一九六八年、六九年の騒動があって、しかし、なんにも解決しなくて、ということがえんえんとあるのですね。」

「ぼくが日本の社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、だれも痛みをひきうけていないですね。文学者の反核宣言というのがありましたね。あれはたしかにムーヴメントとしては文句のつけようもなく正しいのですが、だれも世界のしくみに対して最終的な痛みを負っていないという面に関しては、正しくないと思うのです。」

これはアメリカが経済的に苦しくて、もう世界の警察をやってられない、という事態になって本当に現実になってきた。
日本という国はどうやって世界の中で存在していくのか、どういう関係を作っていくのか、いまだにコンセンサスを持った立ち位置が決まらない。

部分的には面白い。
けど、小説の話はまったくわからない。

村上春樹の「ねじまき島クロニクル」を読んだ人には面白い本だと思う。




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ハッカーと画家
ハッカーと画家 ポール・グラハム著 川合史朗監訳 オーム社

中高年の人にとっては、ハッカーというと人のコンピューターに進入する悪人というイメージ。
でも、この言葉の意味は最近変わってきた。

この作者によると、ハッカーとはクールな(かっこいい)プログラムを書く人というような意味だ。
どちらかというと、学生時代はギーク(オタク)で変わり者で、あまり女の子にもてない。
このへんのイメージは日本と同じだ。
見た目は野暮ったく、外観などかまわないのだが、内面は他の人より先を行っている。
ハッカーが単なるオタクと違うところは、そこだ。
くだらないゲームに「ハマって」いるようなオタクではなく、一歩先を考え、実社会で問題になるようなことを考えているオタク、これがハッカーと作者が呼んでいるものだろう。
ハッカーにとっては、プログラムをコーディング(書くこと)することは、一種の芸術であり、いかに美しく、クールなコーディングができるかということが大事だという。
それは単に書くことではなく、一種のデザインであり、創造である。
だから、それは芸術家が絵を描くのと似ている。
そんなプログラムをコーディング出来る人が、真のハッカーだ。

ポール・グラハムはオタクで、プログラマで、ベンチャー起業家で、フィレンツェで絵画を学んだハッカーである。
起業した会社は今はヤフーの一部になって、自分は独立している。
オンラインショップのソフトを作って、ユーザーに提供する仕組みを構築した。
今グーグルがやっているように、Web上でサービスを構築する。
コンピューターにはインターネットにつながって、Webサーバーと通信できればそれでいい、という先進的なアイデアを、LISPというプログラム言語を使って、世界で最初に作った。

この本はそのグラハムが書いたものをまとめたもの。
前半は社会のことについて書いてあり、後半はプログラミング言語にことについて書いてある。
一番エキサイティングなのは、第7章。「格差を考える」という章だった。
作者の考えは、今の日本に欠けているところだと思う。

そこから抜粋する。

「教授と政治家は直接富を作る現場から一歩離れており、どれだけ頑張って仕事をしても給料は変わらないという、経済に生じる社会主義の渦の中で生きている。」

「実社会では、親にずっと頼って生き続けることはできない。何かが欲しければ、それを自分で作るか、同等の価値あることを他の誰かにしてあげて、その対価を支払ってもらい、それでもって欲しいものを買うしかない。実社会では、富は(泥棒とか山師などの特殊な例を除けば)自分で創り出さねばならないものであって、お父さんに分配してもらうものじゃない。そして、富を創り出す能力と、創りたいと望む欲望は人によって異なるのだから、富は等しく創り出されない。」

「米国では大きな公開企業のCEOは、平均的な人の100倍くらいの給料を受け取る。バスケットボールの選手は128倍、野球選手は72倍くらいだ。」

「誰かの仕事がどれくらいの価値があるのかは、政府の方針の問題ではない。それは既に市場が決めていることだ。

もちろん、人々は間違ったものを望むものだ。そんなことに驚くほうがおかしい。ましてや、ある種の仕事の給料が少なすぎるのは不公正だなんていうのはもっとおかしい。人々が間違ったものを望むのは不公正だと言っているのと同じだからだ。そりゃあ、人々がシェークスピアよりバラエティ番組を、野菜サラダよりアメリカンドッグを好むことは、残念ではある。だが、不公正だって?それはまるで、青色は重いとか、上は丸いとか言うようなものだ。
ここで「不公正」という言葉が出てくるということは、父親モデルが心に刻まれている間違いない証拠だ。でなければ、どうしてこんなとんちんかんな考えが出てくるんだい?未だに父親モデルを信じていて、富は人が欲することをやることで生み出されるのものではなく、共有の源から流れてきて分配されるものだと思っているからこそ、誰かが他の人よりずっとたくさん儲けているのを見て不公正だと思ってしまうんだ。
「収入の不均一な分布」に関して話す時には、その収入がどこから来たのかについても考えなくちゃならない。その収入の多寡が人が創り出した富の多寡による限り、その分布は不均一にはなるだろうが、不公正とは言い難い。」

「父親モデルが現実と最も異なるのは、頑張りの評価だ。父親モデルでは、頑張りはそれ自体が報酬の対象となる。現実では、富は結果で測られ、どれだけ頑張ったかは関係ない。もし私が誰かの家にペンキを塗るとして、歯ブラシを使って頑張っても余分にお金は貰えないだろう。
父親モデルを無意識に信じてる人にとって、とても頑張った人があまり貰えないのは不公平に感じられるだろう。問題をより明確にするために、他の人間を全部取り除いて、この労働者が無人島にいて、狩りと果物の収集をやっているとしよう。彼がそういうことを苦手だとしたら、非常に頑張っても、大した食料は手に入らないだろう。これは不公平だろうか。誰かが彼に対して公平でない行いをしている?」

こういう刺激的な言葉で書かれている。
刺激的だが、正論だと思う。
2004年に発行された本だ。
今から十年前。
書かれていることは、すでにWeb上で発表されたものとのこと。
英語がわかれば、タダで読めるということだ。

ハッカーという生き方は、ある方面ではストイックに生きるということだと思う。
別の方面では、全く気にしないということだ。
インターネットとパーソナル・コンピューターという道具は、ハッカーに向いていると思う。
一人でプログラムをコーディングして、その結果を公開できるし、見る人がみればその優劣は明らかにわかる。

それが何かをデザインすることであり、絵画のようだとポール・グラハムは言うのだろう。

ハッカーはかっこいい。


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村上朝日堂 村上春樹/安西水丸
村上朝日堂 村上春樹/安西水丸 新潮文庫

元の本は1984年に出版された。
今からちょうど30年前。日本が一番調子がいいころだ。
日刊アルバイトニュースに1年9ヶ月にわたって連載されたエッセイを本にしたもの。
文章が村上春樹で挿絵が安西水丸となっている。

おまけを除くと、文庫で2ページ、挿絵付きの87本のエッセイだから、週に1本書いていたのだろう。
書き手も、挿絵も、ある程度脱力した感じで、あの頃の時代の感じをよく表していると思う。

村上春樹の小説は読んだことがないが、エッセイは面白い。
この本にも出てくるが、村上春樹はほとんど海外の小説を読んできたらしい。
ノーベル文学賞の候補になっている今ほど大御所ではなくって、30代の作家として日常で思うことや、読んだ本のこと、ヤクルトスワローズのこと、引っ越しのこと、虫が嫌いなことなどを書いている。

「夏について」という項では、

「夏は大好きだ。太陽がガンガン照りつける夏の午後にショートパンツ一枚でロックン・ロール聴きながらビールでも飲んでいると、ほんとに幸せだなあと思う。
 三カ月そこそこで夏が終わるというのは実に惜しい。できることなら半年くらい続いてほしい。
 少し前にアーシュラ・K・ル=グィンの「辺境の惑星」というSF小説を読んだ。これはすごく遠くにある惑星の話で、ここでは一年が地球時間になおすと約六十年かかる。つまり春が十五年、夏が十五年、秋が十五年、冬が十五年かかるのである。これはすごい。
 だからこの星には「春を二度見ることができるものは幸せである」ということわざがある。要するに長生きしてよかったということだ。
(中略)
シナトラの古い唄に「セプテンバー・ソング」というのがある。
「五月から九月まではすごく長いけれど、九月を過ぎると日も短くなり、あたりも秋めいて、木々は紅葉する。もう時間は残り少ない」という意味の唄である。
 こういうのを聴いているとーすごく良い唄なんだけどー心が暗くなってる。やはり死ぬ時は夏、という感じで年を取りたい。」

と書いてある。

この人、SF小説が好きで、シナトラが好きなのか、と思って一気に親しみがわく。
ふーん、そんなSF小説があったのか、とも思う。

純文学の作家というと、何となく堅い感じで近寄りがたいという雰囲気だったが、夏の午後にショートパンツでロックン・ロールを聴きながらビールを飲むというところが、普通の人だと思わせる。

「あたり猫とスカ猫」という項もある。
この人はネコも好きだ。
あたりの猫にめぐりあう確率は、3.5〜4匹に一匹らしい。

ちょうど84年くらいに、フリオ・イグレシアスが流行った。
どういうわけか、村上春樹はフリオ・イグレシアスが嫌いらしい。

「しかし、僕の個人的な感想を言えば、あのフリオ・イグレシアスという人間は実に不快である。僕のこれまでの経験によると、あの手ののっぺりした顔立ちの男にロクなのはいない。財布を拾っても交番に届けないタイプである。ああいうのは五年くらい戸塚ヨット・スクールに放りこんでおけばいいと思うのだけど、きっと要領がいいから途中からコーチなんかになって他人をなぐる方にまわるに違いない。そういう男なのだ。
 僕はそんな風に言うとフリオ症候群の女性は「ま、村上さんはそう思うでしょうね」と悪意に満ちた言い方をする。そう言われると、なんだか僕がことさら二枚目を嫌っているみたいである。」

こういう書き方は好きだ。
面白い。

この人には共感できる。

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やがて哀しき外国語 村上春樹
やがて哀しき外国語 村上春樹 講談社文庫

「やがて哀しき外国語」という本をアマゾンで中古で買って読んだ。
村上春樹は今まで読んだことがなかったが、今回初めて読んで、なかなか面白かった。
ただし、これはエッセイ集。

尊敬する先生から、この本の中の「大学村スノビズムの興亡」というのを読めば、海外の大学の雰囲気がわかる、ということで推薦された。

この本は村上春樹がプリンストン大学に滞在していた期間、アメリカやプリンストンについて書いたエッセイ。
期間は91年の初めから2年半。
アメリカに来る前はヨーロッパにも住んでいたことがあると書いてある。

Wikipediaで調べてみると、高校の8年先輩だった。
現在65歳とのこと。もっと若いのかと思っていた。
ぼくはどうも自分より若い作家の小説を読む気がしなくて、村上春樹は敬遠していたのだが、だいぶ年上だった。
たぶん、作品の名前とか雰囲気が自分より年下だと思わせたのだろう。
大きな勘違いだった。

このエッセイを読むと、この人は大学を出てジャズバーをやっていた時期があったとわかる。
当然、ジャズにも詳しい。
映画の脚本が書きたかったということもわかった。
この時代、大学に長いこといて、好きなことをするのはよくある話だった。
特に文学好きな人はそういう人が多い。

外国に住むということは、ストレスフルなことであろうと思う。
言葉の問題もあるし、文化の問題、習慣の問題など、いろいろなことがツーカーではいかない。
いちいち意味を考えたり、役割を考えたりしないといけない。
でも、この人はプリンストンの前にイタリアやギリシアに住んでいたということなので、だいぶ耐性ができていたのだろう。
それと、英語も得意だったのだと思う。
フィッツジェラルドやレイモンド・チャンドラーの翻訳などをやっているのは、ぼくも知っていた。

海外に住むと、いろんなことでフラストレーションがあるから、エッセイとしては長いものを書けるのだろうと思う。
だいたい、一つの作品が文庫本で12ページくらいある。

このエッセイを読むと、作者は市民ランナーでもあり、ジャズフリークでもあり、車好きでもあり、映画好きでもあるという多才な人である、ということがわかる。
そうした自分の趣味を通じて、異国に住んでいてわかる体験などを書いている。

「大学村スノビズムの興亡」を読むと、アメリカの有名大学の教授たちのコミュニティがどんなふうになっているのかがわかる。
教授たちはそれなりにエライ人ばかりなのだろうが、「プリンストンではこういうふうに言う」とか、暗黙のルールがある。
飲むビールの銘柄も、これがいい、というものがあるらしい。
地元のビールではなく、海外のビールを飲むと「正しい」ということらしい。

それもこれも、大学というところはある種「特別なところ」ということを彼らは言っているのだと思う。
「そこには何かがある」と入学者に対して思わせる、よく言うと「夢」がないとイケナイんだろう。
それが、大学の内部ではそういう特殊性を持つことになるのだと思う。

村上春樹という人がちょっと身近になった。

もうちょっと読んでみようかなと思う。


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20代のための「キャリア」と「仕事」入門
20代のための「キャリア」と「仕事」入門 塩野誠 講談社現代新書

著者は、東洋経済オンラインで「キャリア相談:君の仕事に明日はあるか?」を連載している。
著者自身も、ゴールドマン・サックス、ベイン&カンパニー、ライブドア等への転職や起業も多数経験しているらしい。

はじめにー知っておきたい「働く」ということ、という章にこう書いてある。

「みなさんは「普通の働き方」というものを、高校や大学を出て新卒で一斉に就職し、そのまま定年までその会社で働き続けることと思っているかもしれません。
たしかに少し前の時代まででしたら、それが当たり前だった部分がありました。しかし、そのような終身雇用を前提とした新卒の一括採用は、昔から日本の一部の大企業の話であり、より正確には男性の正規雇用社員についての話でした。しかし今、みなさんが固定概念として漠然と思っているこうした働き方は、大きく揺らいでいます。
文部科学省によれば、2013年春の大卒者は約56万人で、このうち約37万人が就職したそうです。つまり10人中6人しか新卒で就職していないことになります。10人中、残りの2人は無職だったり、アルバイト契約社員だったり、非正規雇用の状態にあります。こうした数字から、新卒で就職してその会社に勤め続けるという「普通の働き方」がすでに「普通ではない」ことがわかるかと思います。」

大人の世代と、若い世代は同じではない。
それはずっと昔からそうだったのだが、この数十年の変化は大きい。
というか、高度成長の時代を過ごしたぼくらの世代が特殊だったのかもしれない。
明日は必ず昨日より豊かになる、ということが当たり前で、全く疑わなかった時代だった。
そしてこう書く。

「街に出ればエンターテインメントとモノが溢れて豊かに見える日本も、その社会システムの制度疲労により、生きていくのがとても困難な時代を迎えています。大企業に勤めていた大卒男性社員が40代でリストラに遭い、派遣社員として月収20万円以下で働き、正社員になろうと面接を受けてもどこにも採用されないという状況が日常となっているのです。現実には40歳を過ぎてからの正社員での転職は極めて困難です。」

そうだと思う。
今はまだ日本は豊かだ。高度成長時代に貯めたストックがある。それを担保に借金し、生きていっているのだ実情だと思う。
でも、いつまでも借金を続けることはできない。
だから、変わらないといけない、というのが現在だと思う。

この本は一問一答形式で、若い人たち(だけとは限らないが)の仕事に関する疑問や悩みについて答える、という本になっている。
章立ては以下。

はじめに:はじめにー知っておきたい「働く」ということ
第1章:ようやく就職先が決まったのに家族は大反対です
第2章:友達より年収が低いのはなぜ?
第3章:転職するなら35歳までに決断したほうがいい
おわりに:おわりにー大人たちの攻撃で討ち死にしないために

第1章から、いくつか抜き出してみる。

相談1「キャリアを考える」ってどういう意味ですか?

答えの部分から抜粋する。

「みなさんが学生の時や社会人の早い段階からキャリアについて考え始めるのは、決してムダなことではありません。ただし、世の中は偶然や変数に満ち溢れているので、ほとんどの場合はみなさんの思いどおりにはいきません。思った通りにはいきませんが、人生の中でさまざまなイベントが起きた時に初めて、「こんなことが起こるなんてまったく考えてなかった、どうしよう」と慌てるのではなく、たとえば就職や結婚、またはリストラや病気といったイベントが起きた時に備えて何をやっておくかを、なるべく若いうちに考えておいて損はありません。考えておかなければならないほど、この国の経済状況は厳しく、頼ることはできないのです。おすすめは悲観的な前提を踏まえつつ、環境の変化を楽しんで生きることです。」

「みなさんが望むと望まざるにかかわらず、社会の変化として、みなさんの仕事は誰がやっても変わらないコモディティ業務と呼ばれるマニュアル通りの単純労働と、非常に高度な知識を要求され、高付加価値を提供する専門的な労働とに分かれていきます。みなさんがすでに気づいている通り、簡単に誰かにとって代わられるようなコモディティ業務に従事する人たちの雇用は、不安定になっていきます。そのような仕事を代替するのは日本以外のどこかの国の人でも、企業側にとってみれば「問題ない」のです。
仕事をしていく中で、求められるものは時代によって変わってはいきます。ただし、みなさんがキャリアを考える上で、「自分にどんな値段がつくか」ということを意識してくことの必要性は不変です。みなさんは値段がつく仕事を選択肢として持つために準備すべきなのです。準備ができていれば職業選択の自由が手に入りますが、準備をしていなかった場合、選択の余地はありません。未来の自由のために働き方を考えましょう。」

この筆者は75年生まれだから、39歳だ。その若さだから、高度成長の時代も少しは知っているが、ほとんどは日本の低成長の時代を生きている。
その彼が、この国の経済状況は厳しく、頼ることはできない、という。
そのとおりだと思う。
ぼくらやその上の世代は、本当に悪いことをしたと思う。
高度成長にあぐらをかいて、後の世代につけを回す借金ばかり増やした。
そこにIT革命が起こり、人が考えなくても出来る仕事が増えた。それに伴って非正規社員が増えたのだと思う。
それが、筆者が言う「コモディティ業務」というやつだ。
だから、社会にでる前に自分の価値を上げなくてはならない。
大学生をやっている時に、アルバイトでコンビニや居酒屋でコモディティ業務をしている場合ではないのだ。

相談2 何のために仕事をするのでしょうか?

「率直に言えば、日本という国の「段階」として、高度経済成長期に考えられた「今は苦しく不安定な生活だけど、未来はきっと安定的で豊かになる」という図式が、完全に崩れたのです。みなさんは生きていく中で、将来の不安定さを「当たり前」のこととして考えなければなりません。こうした中で日本の企業も余裕がなくなり、その継続性もわからなくなっています。しかし、逆に考えてみれば、一生どこかの会社に勤めなければいけない決まりはありませんし、みなさんが何かの「価値」を作り出せれば、それは仕事になります。みなさんにとってはごはんを食べて暮らしていくための「手段」である仕事が、誰かに必要とされたり、誰かに必要とされることがみなさんにとってうれしかったりすると、お金を稼ぐ「手段」だった仕事そのものを楽しんで生きていけるかもしれません。日本人に職業選択の自由がなかった時代があったことを思えばとても贅沢なことです。」

「仕事の目的はお金をもらってごはんを食べることなので、みなさんが就職活動をしていく中で、「今はやりたい仕事がないから」と何の仕事にも就かないでいるよりは、どんな仕事でも関わっていたほうがいいです。どんな仕事でもムダになりませんし、仕事をしない空白期間があると、あとから頑張って働こうと思っても他の諸事情によって、たとえば体力がなくなっていたり、育児や介護に時間をとられたりして、フルパワーで仕事をやりたくてもできないことがあります。これは社会に出る前に知っておくべきです。」

繰り返しになるが、ぼくらは幸いにも、高度成長の時代に人生の大半を生きることができた。
「人生」というのは普通名詞だが、誰のものでもない一般的な人生など、どこにもない。
人生というのは、常に誰かの人生であって、個別的なものだ。
戦争が終わり、戦後が終わり、そして高度経済成長があった。
そして、経済成長が終わり、高齢化が起こり、少子化が起こり、低成長の時代に入りつつある。
今の年寄りの世代は、もっと若い人たちのことを真剣に考えないといけないと思う。

「一見華やかそうに見えても、実は地味な作業の連続で「こんなはずじゃなかった」という仕事が世の中にはたくさんあります。とにかく早く気づいて、早く撤退すれば傷も浅くて済みます。あとは、新卒の時に「絶対にこの仕事じゃなきゃダメ」などという気持ちは捨てたほうがいいです。どこかで中途で入ってもいいですし、自分で商売を始めてもいいわけなので、新卒で、「その会社に入らないといけない」「その仕事に就かないといけない」という考え方は、今の時代には全然合っていないので、しっかり捨てましょう。」

その通りだと思う。
まずは組織に属して仕事をすることが第一。
やりたいことはできたらいいが、できなくても構わない。3年経ったら考えよう。

相談11 新卒で就職するならやっぱり有名企業?

「一つの例ですが、新人教育というのは企業にとって大きなコストなので、「新人教育しているヒマはないよ、自分で何でも考えてやってね」というベンチャーよりは、古くから続いている有名企業や大企業の方がビジネスマナーをうるさく教育してくれることが多いものです。大企業に入社することは、名刺の出し方、電話のかけ方、人の迎え方などという社会人のお作法を最初に学ぶにはいいかもしれません。
そんな初歩的なことだけでなく、社会人になって早い段階で会議の議事録の書き方などをきちんと学んだかどうかは後になって効いてきます。信じ難い話ですが、歳を取っても会議の議事録で何を書いているんだかわからない人はたくさんいます。」

「また、大きな会社で働いていると、大きな仕事のごく一部分しかやったことのないことが多いので、若ければ若いほど全体像を理解していない場合があります。そうすると、大企業で数年働いていても、本当に、「ビジネスマナーしか知らない人」になっているかもしれません。」

大きな企業に入るメリットもデメリットもあるということだ。
今や大きな会社だから潰れないということもない。
あの銀行が統合を繰り返し、今やわけのわからない名前になっているのを見ればわかるだろう。

相談13 ベンチャーに就職するのは危なくないですか?

「ただ、ベンチャーのかなり初期の段階から参加して、もしもその事業が大きくなった場合は、そのリスクを負っただけの大きなリターンがあることも確かです。ベンチャーに行って、若いうちからどんなに小さくても経営に関わるという経験は、将来ムダになることはありません。そこに飛び込むことによって得られるリターンは、みなさんがベンチャーに何を求めるかによって変わります。金銭的なリターン以外にも、若い時の何物にも代えがたい濃い経験がリターンとなるかもしれないのです。」

これもその通り。
大きな会社かベンチャーか、という選択ではなくて、会社で何を伸ばしていくか、ということを考えればいいんだと思う。
今の時代、「絶対大丈夫」という会社はないので、自分がどんなスキルをつけることができるか、ということを考えればいいのだ。

相談14 人助けがしたいのでNPOで働きたいのですが

「世の中のためになる仕事に就きたい」といって、NPO(非営利活動団体)やNGO(非政府組織)に就職を希望する学生がよくいます。でも、ここでよく考えていただきたいのは、何もNPOやNGOだけが、人助けをしたり世の中のために役立っているわけではない、ということです。
世の中にあるたいていの仕事は、人様の役に立っています。街の定食屋さんは日々誰かを幸せにしているでしょうし、バスやタクシーは誰かに利便性を提供しているので商売が続いています。NPOに入ることだけが、自動的に人の役に立つわけではありません。本当にNPOで働きたい場合は、利益を追求している一般的なビジネスより高度なマネジメントがわかっている必要がありますし、ある意味、普通の会社よりもお金に対して貪欲でないと続けられないのです。」

これもよくある勘違い。
NPOが世の中の役に立っているのと同じく、会社も役に立っている。
下手をするとNPO団体の方が、役に立っていないと思う。

利潤を追求するという事の悪い側面ばかりを強調する人たちが、学校には存在する。
昔の左翼的な考え方の人が残っているのだ。
もう時代遅れだと思うのだが、そんな意見を聞いてびっくりした。
今や利潤の追求は、社会から認められないとできない。
考えたらわかると思うのだが、学校の先生には頭の固い人が多くて困る。

相談17 どうすればエリートになれますか?

「ただ、誤解している人も多いかもしれませんが、たとえば学歴について言いますと、世界の先進国の中で日本は学歴が低い国です。日本では大学名を入試偏差値順で並べて、その上の方を高学歴を言っていますが、本来はそれを高学歴とは呼びません。高学歴という場合は修士であったり博士であったり、大学院以上の専門課程において高度な専門教育を受けていることを指します。海外ではベンチャーの経営者が「博士号を2個持っています」「理系博士で弁護士です」「実は医者です」などというのはわりと普通です。そもそも、日本に比べると韓国やシンガポールの受験戦争の方がよっぽど過酷です。
では世界的にはどうかというと、子供の頃に「自分は全然勉強しないのに、すごくテストができちゃうな」とか、「別に練習しているわけでもないのに、すとく運動ができちゃうな」とか、何らかの自分の才能に気づいて、こんな才能を天から授かってしまったからには、世のため人のために、何かやらなきゃいけないと思った人が本物のエリートです。」

「みなさんがエリートを目指して、いきなり世界平和レベルのことを成そうとするのは難しいので、まずは何よりも目の前の仕事をこなし自分で稼いだお金でごはんを食べられるようにする。または自分の家族にごはんを食べさせられるようにする。少しでも他の人のために何かしようと思うのなら、満員電車で人を押しのけない、近所の人にしっかり挨拶をするなど、日常に中には他人をちょっと幸せな気分にさせる機会はたくさんあります。(きちんと挨拶もできない大人はわりと存在します)。その上で、もっと人の役に立つことが自分にとって快感であればやればいいのであって、それは人に役に立つことが好きだったり、気持ちよかったりしないとなかなか続きません。世のため人のため的な行為は、続けることが難しいものです。」

過去に、世界のために働きたい、といった学生もいた。
では、自分に、世界のために何ができるのか、といったら考えていた。
就職活動はうまくいかなかったと思う。
あまりにも大きな夢を持って、自分の実力とのギャップでどうしようもなくなったのかもしれない。
どうして、ちゃんと就職して、税金を払うことが世界のためになる、というふうに考えられないのかと思ったのだが…。

相談23 ロジカルシンキングって本当に役に立つの?

「普通はダラダラとしゃべった後に、結論がイエスかノーかもよくわからないという人が大半を占めます。ある論点に対して、イエスかノーかの結論を最初に言い、そのような理由が何点あって、それぞれの理由は○○ですという話し方ができる人は非常に少ないのです。なぜロジカルシンキングブームが続いているかというと、短時間のうちに正確に意志が伝わり、相手にも「あ、この人、頭の回転速いな」「キレる人だな」という好印象を与えるからです。
ロジカルシンキング風な話し方は、地頭のよさというより、心構えや習慣の問題でしかありません。必ず最初に結論を話し、自分がその論点に対してイエスなのかノーなのか、自分のポジションをとって明確に述べてから理由を説明するというのがポイントで、それらを自分に課すだけでまったく世界が違ってきます。人は普段からそんなことはしていませんので、論点に対し自分のスタンスを明確にするだけで志向が整理されます。」

「論理的思考は元来、何かの問題解決を効率的に行うためのツールだと考えられますが、たいていの人は解こうとする問題からして間違っています。論点が間違っていたり、あるいは問題設定自体を間違う場合も多いです。ビジネスにおいて難しいのは、学校のテストであれば問題がすでに書いてありますが、ビジネスでは問題そのものも自分で設定しないといけない点なのです。」

論理的に話すこと、論理的に考えること、これらは訓練でできることだ。
これはぜひ学生時代に鍛えてほしいと思う。

全般的にこの本は質問、解答形式でわかりやすく書いてある。
就活生に特化したものではないが、読むことで「キャリア」と「仕事」の入門ができるようになっていると思う。

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キャリアショック
キャリアショック 高橋俊介著 ソフトバンク文庫

ご注意:この記事、書いていたら引用が多くなり、長くなりました。

2000年に出された本。
この時に、「キャリアショック」の時代が、日本にも訪れようとしている、というのが著者の感覚。
はじめに、の部分に書いてある。

「キャリアショック」とは、自分が描いてきたキャリアの将来像が、予期しない環境変化や状況変化により、短期間のうちに崩壊してしまうことをいい、変化の激しい時代に生きるビジネスパーソンの誰もがそのリスクを負っている、きわめて今日的なキャリアの危機的状況をいう。まさに、キャリアのクライシスといってもいい。
私がここにキャリアショックというテーマを提起するのは、IT(情報技術)の世界におけるドッグイヤー(6,7年分の変化が一年が起きる)と同様な劇的な変化が、キャリアの世界においても起きつつあるからである。にもかかわらず、雇用やキャリアをめぐる論議は、これから述べるように、企業が雇用を守るのか守らないのかといった旧態依然とした議論に終始しており、それはあまりにも一面的なものの見方であるように、私には思えてならない。
(中略)
雇用の流動化とは、基本的に特定の企業との雇用が長期的に続いているかどうかという視点だ。しかし、たとえ、雇用が確保できたとしても、ある日突然、自分のキャリアが陳腐化し、自分のキャリアの将来像が、あっという間に崩壊してしまう。それがキャリアショックだ。そういう事態がこれからは、どんどん起きてくる。

そして、この本は日産自動車が突然外資系になったという事例を上げる。
まさに、その通りだっただろう。
また、アメリカのヒューレット・パッカード(HP)も大きく変わったという。HPはアメリカ企業では最も家族主義的な経営理念を持っていた会社らしい。終身雇用を一貫して続けてきた。
それが90年代の初頭に限界が来て、社員のキャリアショックが激しくなった。
それをアメリカらしく、全社員に正直にその事態を伝え、個人主導のキャリア自律を目指すキャリア・セルフ・リライアンスの概念を導入したとのこと。
そして、こうなった、と書く。

社内だけでは足りない人材は社外から採り、職種転換にどうしても適応できない人材は社外へ流動化させ、社外との出入りを含めた流動性を徹底的に推進する。「人材の入れ替えを行わなければ、この企業は生きていけない」とCEO自身が宣言し、年間退職率10%を目指す段階まで、HPは変革を遂げようとしている。

この本が出て14年経った。
日産やHPほどではないが、多くの仕事の形態が変わったと思う。
大企業においては、単に伝票を作るとか、計算をするだけとかいうためには人を雇わなくても済むようになった。
つまり、そろばんや電卓をひたすら操作し、正しく計算して表を作る、というような仕事はなくなり、経理の人は激減した。
これはITのおかげだ。

2014年の今は、すでに既存社員の第一陣キャリアショックは起こってしまったと思う。
ただ、この第一陣はまだ企業に余裕もあったし、終身雇用が生きていたし、転属先もあったのではないか。
今の時点で深刻なのは、キャリアショックではなくて、その影響でITによって単純作業がバイトや非正規社員になって、正社員の求人が減った、ということの方が大きいことだ。
つまり、正社員になろうとすると、単純作業のスキルを持っていてもダメで、人間関係をうまくやるとか、企画提案ができそうだとかいう複雑作業か、コンピューターのプログラムができるとか、戦略が立てられそうだとかいう専門的知識のどちらかが必要になる、ということだ。
これは大企業だけでなく、中小企業でも程度の差はあれ、同じことだと思う。

今は人手不足と言っているが、長い目で見れば労働に対する報酬も新興国との競争であり、平均値でいえばどんどん安くなる方向に行くと思う。
日本は今も経済大国であり、人件費は高いからだ。
新興国はその逆だ。どんどん人件費は上がっていく。
だから、昔は日本人一人の給料で20人雇えるとか言っていたが、この人数はどんどん減っている。
新興国は人件費が上がり、先進国は下がるのだろう。
それがどこかで一緒になる。
荒っぽい議論だが、グローバル化の行きつく果てはリクツではこうなると思う。

ともあれ、それらのキャリアショックを乗り切る知恵は大事だ。
そのテーマはいろいろ研究されていて、その一つが紹介されている。

先の見えない時代に、どのようにして自律的にキャリアを作っていけばいいのか。アメリカでも現在、とくに変化の激しいシリコンバレーを中心に、さまざまな研究が進められている。その中で、アメリカのカウンセリング学会誌等で発表された、プランド・ハップンスタンス・セオリー(Planned Happenstance Theory)の論文が注目を集めている。
プランド・ハップンスタンス・セオリーとは、直訳すれば、「計画された偶然理論」ということになるが、ひとことでいえば、変化の激しい時代には、キャリアは基本的に予期しない出来事によってその八割が形成されるとする理論だ。そのため、個人が自律的にキャリアを切り開いていこうと思ったら、偶然を必然化する、つまり、偶然の出来事を自ら仕掛けていくことが必要になっていくるというのだ。
そして、自分にとって好ましい形で偶然を必然化するには、特定の行動・思考パターンが必要であり、それは五つの特徴(注:別表あり ?好奇心、?こだわり、?柔軟性、?楽観性、?リスク)によって表されるとする。
好奇心が旺盛でありながら、同時に、自分の基本的な考えにはこだわりを持ち、柔軟かつ楽観的に物事をとらえ、進んでリスクを取っていく−あなたは、このうちいくつあてはまるだろうか。
(中略)
変化の時代には、個人が自分のキャリアの将来像を明確に描くことは不可能であり、しかも、キャリア構築は予定どおりにはいかない。であるならば、自分にとってより好ましい変化を仕掛け、キャリアショックに備える行動を取らなければならない。その能力を、「キャリアコンピタンシー」と呼ぶ。
社外で通用すると思われる目先のスキルや特定の資格を身につけたとしても、それがいつ陳腐化するかわからない。キャリアショックがいつ起きても不思議ではない状況の中で、柔軟に自分のキャリアを仕掛けていくような行動パターンや行動能力が、個人にとって最も重要になりつつあるのだ。

HPは、社内の全ての職務についてのコンピタンシーを定義し、制度を作ろうとしたらしいが、それは無理だった。その代わり、社内の人事に公募制を取り入れ、その募集要項をみれば何が必要とされているかわかるようにしたらしい。
それがアメリカで最も家族主義的な会社であった、HPの変化の方向である。
日本も遅ればせながら、そうなる可能性が大きいと思う。

今公務員が人気だというが、2040年には自治体の半分が存続不能という記事があった。
人口の少ない市町村は当然改革を強いられ、公務員数も削減されるだろう。
それを今の若い公務員志望者はわかっているのだろうか。
競争もなく、ノルマもなく、安定しているからという理由で公務員を目指す人は将来のキャリアショックに耐えられるはずがない。

そして、筆者は幸せのキャリアとはどういうものかを考える。

最近、「勝ち組」「負け組」という言葉が何かと流行っているが、人材マネジメントのコンサルティングに長くかかわってきた私が、つくづく感じるのは、キャリアの世界には、勝者も敗者もなく、あるのは「幸福のキャリア」と「不幸のキャリア」であるということだ。
幸福か不幸かの価値観は、社会がモノサシを与えてくれるものでもなければ、他人が値踏みするものでもない。それを、社会のモノサシに委ねてしまおうとすると、誰もが暗示にかかったように、給料の額がモノサシ化してしまう。そして、給料が数パーセント上がっただけでも、自分が幸せになったように錯覚してしまう。
もちろん、お金が社会的に重要な要素であることは、いうまでもない。しかし、これまで自分で築いてきたキャリアについて満足度の高い人たちにインタビューしてみると、給料の違いは二〜三割程度の増減まではたいした意味を持たないという。実際給料が二〜三割上がっても、生活のレベルにそんなに違いが出るわけでもない。
にもかかわらず、キャリアの成功の尺度として、”人の値段”を求めるということは、お金というモノサシに人間が振り回されている。それも、お金本来の使用価値よりも、お金というものを通じた社会的象徴価値に振り回されている。それは大企業の部長とお金という肩書きが過去に持っていた社会的象徴価値と同じだ。これが、幸福なキャリアといえるだろうか。大切なのは、自分で自分のキャリアを幸せに思えるかどうかではないだろうか。

筆者がインタビューしたという人たちは、世間で言う「いい会社」に勤める人が多かっただろうから、給料2,3割はそんなに大きな要因にならない、ということだ。
いやいや、それは大きい、という人たちもたくさんいる。

でも、言いたいのは「人はパンのみにて生くるにあらず」ということだろう。
ぼくは、この言葉を学生たちに見せて、意味を考えさせた。
そして、パンは大事だが、それは生活するためのものであり、「善く生きる」ためにはパンの一段上のものが大事ではないか、と問いかけた。
やっぱりお金の一つ上の次元のものが要るんだろう、ということになる。
それが幸せのキャリアになるんだろう。

それを実現するために、コンピタンシーという概念がある。
これは今の就職で大事だ、とされているものだ。引用すると、

コンピタンシーという概念は、最近、人事関係者の間では大流行しているが、もともとは行動心理学の世界から出てきたものだ。
ある職種において長期的かつ安定的に高い成果を出せる人と、あまり成果を出せない人、ないしは、たまに出せたとしても安定的には出せない人を比べ、その違いを行動心理学的に分析する。すると、成果の安定性と高い相関が見られるような特定の指向特性や行動特性が浮かび上がってくる。
たとえば、会議でどんどん積極的に発現する、顧客を訪問する際には必ず顧客の分析を行って対応の仕方を考える、仕事に制約条件があったら、それを一つ一つ排除していく…等々、このようなときには、このように考え、このような行動を取ることができるという、特徴的な違いが出てくる。それがその職種で安定的にハイパフォーマンスを上げるためのコンピタンシーということになる。たとえば、経営幹部に求められる要件としては、管理技術はスキルだが、リーダーシップはコンピタンシーということだ。
この考えを応用して、自律的キャリア構築の分野で同じような分析を行う。そうやって明らかになるものが、変化の激しい時代に、キャリアショックに対応しながら、幸福なキャリアをつくっていく思考特性や行動能力、すなわち、キャリアコンピタンシーにほかならない。

そして、コンピタンシーと並んでカギを握っているのがパーソナリティーというもの。
これはその人がどんなことにモチベーション(動機、やる気)を感じるのか、という部分である。
パーソナリティーはなかなか変えることができないから、難しい部分になる。引用すると、

パーソナリティーとは、いわゆる個性や性格のことだが、その中でもキャリア形成において最も重要になるのが、その人がどのようなことにモチベーションを感じるのかという動機の部分だ。
動機にもさまざまな種類があり、それを探るアセスメントツールも各種つくられている。アメリカに本社を置く人材評価コンサルティング会社キャリパー社では、心理学を応用した四〇以上の指標を使ってパーソナリティーを評価する。

ここで、キャリパー社の表が示されるのだが、用語の例として以下のようなものが挙げられる。
影響欲、復元力、社交性、好印象欲、感謝欲、徹底性、自己管理、外的管理、切迫性。
元が英語なので、わかりにくくなっていると思うが、各々の説明を読むとまあわかる。
西洋人は分析好きであり、世の中のものは全て分類できると思っているし、そうでなければならない、と思っている。
ここが東洋人と違うところだが、確かに分析すれば類型化できるし、よくわかるのも事実。続けて引用すると、

その指標をいくつか見てみると、たとえば「好印象欲」(Gregariousness)という動機。初対面の人にも自分がいい人だと思われたいという欲求だ。好印象欲の強い人は、パーティーなどでも、初対面の人と如才なく会話しながら、すぐ親しくなれるようなコンピタンシーを持つようになる。もともと動機があるため、場が与えられれば、そのような行動をしてしまうのだ。
逆に好印象欲が低い人は、パーティーに行くと壁にくっついたまま動かない。そして、「初めての人といきなりビジネスの核心に触れる話はできないし、かといって、たわいのない表面的な話をしても無駄だ」などと、自分で理屈づけて動かない。初対面の人と話すこと事態、おっくうな人もいる。
しかし、営業職に代表されるように、外とのネットワークを広げていかなければならない仕事についている人は、動機として好印象欲が低くても、壁にひっついてばかりはいられない。パーティ会話集の類のノウハウ本を一生懸命読んだりして、自分で勉強し、それを実行しながら少しずつ社交的に振る舞うコンピタンシーをつけていくことになる。
つまり、同じような状況を与えられても、もともと動機のある人は努力しなくてもコンピタンシーが強くなっていくが、動機が乏しい人はかなりの努力をしないとコンピタンシーがついていかない。ここに、動機とコンピタンシーの重要な関係が浮かび上がってくる。
(中略)
このように、動機とコンピタンシーは密接な関係にあるが、問題は、努力によってどこまでコンピタンシーをつけていくことができるのかという点にある。
スキルについては、個人差があるが、何歳になってもつけることができる。むしろ、変化の激しい時代には、次々と新しいスキルをつけていかなければならない。スキルは、蓄積するというより、生涯学習により、更新し続けるものだ。
では、コンピタンシーはどうかといえば、実はそう簡単には身につかない。
(中略)
そのため、年を取るほど、新しいコンピタンシーをつけたり、ましてや、従来の自分とまったく逆のコンピタンシーをつけていくことなどは、どんどん困難になってくる。それは容易に想像がつく。入社以来、二〇年間、いわれたとおり、正確に仕事をすることだけを続けてきた人が、ある日突然、役割が変わったので自分の仕事を自分でつくりなさいといわれたらどうするか。前向きな発想を二〇年間、封印してきた人が、まったく正反対のコンピタンシーを短期間につけるのは、至難のわざといってもいい。
さらに、パーソナリティーや動機そのものを変えることはできるのか。動機をアセスメントするツールには、キャリパー社のほかにも、有名なものではマイヤーズ・ブリック・タイプ・インジケーター(MBTI)、エニアグラムなどさまざまなものが開発されており、それぞれ、特定の調査対象者について、二〇歳前後から一定年次ごとに追跡調査を行っているが、どの調査でも、動機に大きな変化はほとんど見られなかったという分析結果が出ている。
動機を変えることはまったく不可能であると証明されているわけではないが、現実問題、十七、八歳以降、遅くとも二〇歳を過ぎた人間の動機のプロファイルが根本的に変わっていくことは、ほとんど考えにくいといっていいだろう。

引用が長くなったが、ここに大学でのキャリアサポートの限界がある。
最後に書いてある、「遅くとも二〇歳を過ぎた人間の動機のプロファイルが根本的に変わっていくことは、ほとんど考えにくいといっていい」というところに突き当たるのだ。
今の時代は、変化が大きな時代だと言っていい。
だからこそ、キャリアショックという本が書かれている。
しかし、カウンターに来て「とにかく安定した仕事、だから公務員」という学生にどう言うべきか。
そういう学生は「公務員」という仕事があると思っている。
「公務員」という仕事はなく、行政職や福祉職などがあって、いったいなにがしたいのか?というところから話を始めないといけない。
そもそも、安定志向の学生には、一生のスパンで見た時に、紹介するところがないのだ。
もはや公務員ですら、先がわからない時代に来ている。

幸福なキャリアを作るためには、動機とコンピタンシーがマッチングすることだ、と著者は言う。
それでも、アメリカの営業職の調査・分析によると、自分の動機と今の仕事がマッチングしている人は20%しかいないらしい。逆にマッチングしない人が55%もいる。
やっぱりキャリアの自律は難しいのだろう。

その他のアセスメントツールとして「エニアグラム」というものがある。
これには9つのタイプがあり、タイプ1〜9で分類されている。
このタイプ別にリストラを宣告された時の反応が書かれているが、これは面白いので、抜粋すると、

タイプ1:正義感が強く、何ごとも平等公正であろうとする。ものごとを正しいか正しくないか、善いか悪いかの基準で判断し、常に正しくありたいと望む。リストラを宣告されると、自分の感情を押し殺しながら義憤を感じるようなタイプ。

タイプ2:人に愛情を注ぎ、自分も注がれたいと望む愛情欲の強い人。自己犠牲的で奉仕精神を持っている。一緒にリストラに遭った人たちのことを心配し、互いにかばい合うような行動を取る。

タイプ3:上昇志向が強く、人から評価を得るために常に最高の自分を発揮しようとする現実的な野心家タイプで、上級管理職さらには経営者を目指してステップを上がろうとする。リストラを宣告されると、もっといい会社に行って見返してやろうとする。

タイプ4:自己の内面的な世界を自分なりに表現したいという欲求を持ち、美意識が発達している。ナイーブな感性を持ち、傷つきやすい。リストラの対象になった自分について、人格を否定されたように受けとめ、自分の中に引きこもっていく。

タイプ5:ロジカルな思考を持ち、ものごとについて知識や情報を集めて客観的にとらえようとする。なぜ自分がリストラされなければならないのか論理的な説明を求め、それが客観的に間違っていなければ、納得する。

タイプ6:世の中はリスクに満ち満ちているので、なによりも安全を第一に考え、何ごとにも慎重に対処しようとする。組織に忠実で、誠実一筋に働く。リストラに遭おうものなら、人生最悪の事態ととらえ、住宅ローンや家族のことが次々と頭に浮かび、パニック状態に陥ってしまう。

タイプ7:好奇心が強くて、常に新しいことに変化を求め、何ごとにもポジティブにとらえる。誰とでもこだわりなくつきあい、場の雰囲気を明るくする。リストラになっても、まさか自分が!と驚くものの、「まあ、いいか」とすぐに次の可能性、興味があることに目を振り向けて行く。

タイプ8:相手を自分の思うように服従させたいという欲求が強い人で、自己を主張し、リーダーシップを発揮しようとするので、政治家やオーナー経営者に多くみられる。スジが通らないリストラだと、怒りの感情を露わに徹底抗戦するタイプ。

タイプ9:平和を好み、回りを気にせず、のんびりマイペースに生きるタイプ。動き出すまでに時間がかかるが、ただ、いったん動くと簡単にはあきらめない。リストラ宣告されると、その場では、「ああそうですか」と受け答えするが、翌朝、「どうもあれは変だ」と考える。

自分がどのタイプか、考えると面白い。
絶対違うのは、1,2,3,4,6,8。
ぼくは5,7,9のどれかだろうと思う。
一度テストを受けてみたい。

パーソナリティー、モチベーション、コンピタンシー、スキルというカタカナ言葉はキャリア(これもカタカナだが)を考える上では大事なものだ。
いや、人生そのものを考える上でも大事なものだろう。
それは、そう簡単には変えられないのだが…。
著者は不幸なキャリアについて、こう書く。

自分の動機に合わないコンピタンシーやスキルばかりを使うことは、どこかで自分に無理を強いるため、当然、ストレスがたまってしまう。動機なき努力中心の仕事があまりにも長く続くと、過剰なストレスと疲労感が心身をむしばみ、ある日突然、燃え尽きてしまう。ハイパフォーマンスを上げてはいても、不幸なキャリアの典型だ。

そういう見方をすると、学校の先生にバーンアウトが多い、というのはなぜなんだろうと思う。
ぼくは、今の教員養成の課程に問題があると思う。
社会に出るときに、免許に守られた職業に就きたい、と思う人や、少なくとも学校は知っているから安心だ、と思う人などが先生になっているのではないか。
安定志向であったり、未知のものに対する恐怖心みたいなものが動機になっている人が多いと思う。
そういう人はきっと、今の教育には向かないのだろう。

以上が第1章、「成功のキャリアか失敗のキャリアか」の内容の抜粋。
第2章は「キャリアを切り開く人の行動パターン」、第3章は「キャリアを切り開く人の発想パターン」、第4章「人生支配の代償だった雇用保障」、第5章「知的資本経営のできない会社は生き残れない」、第6章「明日から取るべき6つのアクション」と続く。
2,3章は筆者が属する慶応義塾大学キャリア・リソース・ラボラトリーで調査した結果が示される。
どちらかというと、高いレベルの人の話。
4章は主に年功序列、終身雇用の話になる。
筆者は言う。

つまり、年功序列のどこに問題があったのかといえば、アメリカとの比較からもわかるように、年功の部分よりも、むしろ、序列によって社員のキャリア構築を徹底的に管理した点にあった。社員の方も、ピラミッド組織の中で、自らのキャリア構築についてリスク管理まで含め、会社にすべて任せてしまってきたわけだ。
会社にだまされてはいけない。雇用は保障すると言っている経営者ほど信用できないものはない。タイタニック号の船上で救命ボートの数の少なさを心配する乗客に、船長が「大丈夫です。この船は絶対沈みませんから」と言っているのと同じだ。こうした”タイタニックの船長”的な経営者が、あなたの会社にもいないだろうか。だれでも船はできるだけ沈まないように設計する。それは当たり前だ。だからといって、救命ボートの数が十分でなくてよいという話にはならない。
難しい状況がわかっていても、誰もそれを言い出せない。そんな雰囲気があなたの会社にもないだろうか。経営者の決意表明として雇用を守るというのは結構だが、社員はそれを信じて自律的キャリア形成能力を怠っていはいけない。経営者は勇気を持って、個人と企業の関係を本質から変える取り組みをいますぐ始めるべきだろう。

この本が書かれたのが今から14年前。
残念ながら状況はあまり変わっていない。
リストラをして、派遣やバイトという非正規社員を使って、日本の企業は生き延びてきた。
しかし、もはや非正規社員が4割を超える。
5割を超えたら、もう限界だろう。
今は人手不足ということになっているが、それで非正規から正規社員になれる人などあまりいないと思う。
また、そういう働き方が嫌だ、という人もいるだろう。

また、大学生は一部を除いて大手志向である。
それしか知らない、という面もあるが、親も含めて、寄らば大樹の影と思っているのだろう。
周りの影響で、だいぶ中小にも目がいくようになったが、ソニーやシャープがコケる時代、あまり会社の大きさに囚われてはいけない。
自分のパーソナリティーを理解し、自らのスキルを上げていくことを考えないと、10年、20年先は本当にしんどくなるだろう。
要は、みんなが非正規というアメリカ型の社会が到来するのだ、と思っておいたほうがいいと思う。
日本型経営の良さは残してほしいが、最悪の事態を考えておくことも必要だ。

大学というところは、18歳人口が減り続けるのに新設を繰り返し、進学率が上がり、下位校は学生の質が昔の大学ではなくなっているのに、旧態依然としたシステムで対応している。
しかし、教育はなくならない。だから、大学は生き延びると思っている。
ぼちぼち淘汰が始まるのに、手を打てない。打つ気がないのだ。
下位校は、そんなところが多いと思う。

第6章はアクションプランである。
個人が取るべきアクションとはどういうものか。
項目だけ引用しておく。

アクション1:「自分の値段」ではなく「自分の動機」を知る
アクション2:動向を読み、賭けるべき流れを選ぶ
アクション3:自分のビジョンとバリューを掲げる
アクション4:価値あるWHATを構築するコンピタンシーの強化
アクション5:キャリアリスクを減らしキャリア機会を広げる

著者は世界的に有名なマッキンゼーにも籍を置いたことがあるコンサルタント。
少しばかりハイレベルな人たちが対象になっているが、そこから得られるものは多い。
14年経って、ようやくこの本に時代が追いついてきたという感じだ。

これもアマゾンで中古で買った。




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仕事は楽しいかね?
仕事は楽しいかね? デイル・ドーテン著 きこ出版

アマゾンの書評を見て、中古で1円で購入。ただし送料は257円。
アメリカの自己啓発本はこういう書き方をする。

こないだ、息子たちと話していたら、二人とも自己啓発本は読まない、とのこと。
そういえば、若い頃はそんな本は読まなかった。
若いということはいいことだ。
ある年齢を越えて、人生に迷いが出てくるとついつい手を出してしまう。

雪のためにシカゴのオヘア空港から帰路につこうとしていた「私」が26時間の足止めをくらっている間に、ビジネスで成功した老人と話をして、その話をもとに「私」が成功をおさめる、という話。
ぼくはこの手の話が結構好きだ。
まるで映画を見ているようなストーリー。
数時間あれば読めてしまう。
一晩の出来事で、人生が変わる、というアメリカン・ドリームのサクセス・ストーリーでもある。

その老人の語りを一部抜き書きしてみる。

「僕はこれまで、仕事上のあらゆる問題は<情熱>があれば解決できると繰り返してきた。たしかにそれはそうなんだ。大好きな仕事をしているなら、人は何時間働いても苦にならないし、問題を解決することが楽しくてしょうがないってことは、創造力に満ちてるってことだしね。懸命さと創造力があれば、どんなこともうまくいく。だから、みんなと同じアドバイスを僕もしてきた。『大好きなことをしろ!』とね。

いいアドバイスには違いない。だけどこれには一つ問題がある。多くの人は、自分がどんな仕事が<大好き>か、どういう仕事をこのさきずっと、毎日、朝から晩までしたいか、わからないということだ。そりゃあ、テニスが好きかもしれないし、もしそうなら世界でも一流の選手になりたいと思うだろう。だけどテニスのスター選手なんて、自分の能力を超えた仕事だってわかっている。だとしたら、好きだとわかったところでどうなるだろう?

たいていの人は、自分には夢中になれるものがないということを、なかなか認めない−だから情熱を陳腐なもののように扱ってしまう。そして、こう言うんだ、『どんなものに夢中になれるかはわからないが、<ほかの人と一緒に働くこと>が好きなのはたしかだ』」

「でも、そんな人たちをだれが責められるだろう。ほとんどの人が、仕事への情熱を目の当たりにすることなく育ってきた。子どものころ、両親が熱狂的なほど熱くなるのを見た課外活動といえば、スポーツくらいなものだ。やがて子どもは、自分はプロのスポーツ選手にはなれそうにないと気づき、心にぽっかりと穴があく。大人になるまで決して埋まることのない大きな穴がね」

「話が横にそれちゃったね。僕が伝えたいのは、理想の仕事についてちゃんとした考えを持っていないなら、物足りなさや取り残されたような思いを抱くだろうってことなんだ。その反面、たとえこれぞと思う仕事に関して夢を持っているとしても、思い込みは禁物なんだ。アメリカの至るところで、人々は精神分析医のところへ詰めかけ、こうぼやいている、『<ずっとしたいと思っていた>仕事をしているのに、なぜか、<やっぱり幸せじゃない>んです。』そういう人は計画を立てることに依存しすぎてる。僕が<目標の弊害>と呼んでいる状態に陥ってるんだ。」

「頭のいい人がする一番愚かな質問は、『あなたは五年後、どんな地位についていたいですか』というものだ。ありがたいことに、僕はこの四十年間、採用面接を受けたことがない−どんな地位についていたいかなんて質問は、大嫌いなんだ。僕はこの先、いまとは違う人間になっていこうと思っている。だけど、いまから五年後に<どんな人間に>なっていたいかなんてわからないし、<どんな地位>についていたいかなんてことは、なおわからないよ。」

「僕たちの社会では、時間や進歩に対して直線的な見方をしている。そういう見方を、学校でじわじわと浸透させるんだ−人生とは、やるべき仕事や習得すべき技術や到達すべきレベルの連続なのですよ。目標を設定して、それに向かって努力しなさい、とね。だけど、人生はそんなに規則正しいものじゃない。規則から外れたところでいろんな教訓を与えてくれるものだ。人生は学校の先生にとっては悪夢だろうね。」

「目標を設定すると、自己管理ができているような気がするものだ−ここをごらん。きみがこの紙のリストにあげた”自分の人生をきちんと管理すること”という項目を。ハハ!人生はそんな扱いやすいものじゃない。僕は人生の中で何をすべきかなんて、問いかけなくなった−どうせ、人生なんて思いどおりにはならないからね」

「たいていの人は、マンネリ化した生活から抜け出すために目標を設定する。だけど、いいかい、今日の目標は明日のマンネリなんだよ」
「ぼくがいままでに掲げた目標が一つだけある。聞きたいかね?」

”明日は今日と違う自分になる”だよ。

「きみは、そんなの簡単なことじゃないかと思っているのかもしれないね」
「僕のたった一つの目標は、簡単なんてもんじゃない」
「<毎日>変わっていくんだよ?それは、ただひたすら、より良くなろうとすることだ。人は<違うもの>になって初めて<より良く>なれるんだから。それも、一日も欠かさず変わらないといけない。いいかい、これはものすごく大変なことだ。そう、僕が言ってるマンネリ打開策は簡単なんかじゃない。とんでもなく疲れる方法だ。だけどわくわくするし、<活気に満ちた>方法でもあるんだ」

「人生は進化だ。そして進化の素晴らしいところは、最終的にどこに行き着くか、まったくわからないところなんだ」
「きみは、最初に陸にあがった魚は長期にわたる目標を持っていたと思うかね?」
「もしかしたら、その魚はこう考えただろうか。『ぼくが陸にあがれたら、いつの日か脚を使って歩く陸生の魚が生まれるかもしれないし、やがては、その陸生の魚が車に乗ってショッピングモールに出かけ、シナボンに入ってシナモンロールを食べたりコーヒーを飲んだりするようになるかもしれない』」

「わかってもらえたかな?」

こういう具合だ。

ここに出てくるように、アメリカでも「五年後どうなってていたいか」という質問を採用面接の時にすることがわかって、面白かった。
ぼくは学生に模擬面接をするときに、まさにここに書かれている「五年後どうなっていたいか」ということを聞いていた。
思いつきで仕事をしているわけではなく、「自分が入った会社でどうなりたいか」ということをある程度は考えておかないと、面接は乗り切れないということだ。

でも、この老人の言っている「人生になんて思いどおりにはならない」というのは真実。
会社に入る前から、そんなことを想像しても実際には意味があまりない。
でも、人事の人たちはそういうことを問うのだ。
だから、見本として「5年後は部下の育成にも力を入れて、この分野では自分が任される人になっていたい」とか「エリアマネージャーとして店舗を統括するだけの知識をつけたい」などと言うことを教えていた。
とりあえず「仕事のイメージ」をちゃんと持とう、ということだ。
聞かれるからには、答えなければならないから、仕方ない。

でも、中に一人変わった学生がいた。
「会社に入って、実際に経験していないのだから、自分はどうなりたいか考えることはできません。でも、入ったからには一生懸命やって、目標を持ってやっていきたいと思っています。」
なるほど。それは正解。内定を取った。

こういう言葉は教えて言わせてもダメだ。
本当にそう思っていて、言わないといけないのだと思う。
そうでないと、掘り下げた質問には答えられない。
きっとこの学生は、掘り下げた質問にも堂々と答えたのだろう。

結局、自分の仕事を楽しく感じるかどうかは、自分にかかっている。
ある就職コンサルをやっている人が言った言葉。
「会社がくれるのは、仕事とお金だけ。やりがいは自分でみつけるものだ」
この言葉はその後ずっと使わせてもらった。

そんな言葉をメモしておく。

「事業も仕事も、世の中のほかのすべてのことと同じだ。つまり、偶然の連続だってこと。多くの人が”計画どおりの結果になるものはない”という使い古された決まり文句にうなずくのに、相変わらず大勢の人が計画を立てることを崇め奉っている。計画立案者はもっと少なくてよくて、まぐれ当たり専門家こそもっとたくさん必要なのにね」

やってみることは大事だが、その結果を予想したら間違うということだと思う。人生そういうものだ。

「きみにはね、これでいいやっていう気持ちをもっと持つことが必要なんだよ。統計データーはもっと少なくていい。事実というのは弱い者につけ込む。現実的な情報をこれでもか、これでもか、と出しもしてくる。惚れ込むことのできる車がほしいなら−まずこの車だと決めて、それから事実を調べること。きみが車を選ぶんじゃない−車にきみを選んでもらうんだ」

これはその通りだ。そういうふうに統計を使うのが賢いやり方だと思う。特に今は情報量が多いから、このやり方は正解だ。

「僕は、試してみるすべてのことがうまくいくとは言ってないし、すべての決定が素晴らしいものだとも言ってない。そんなことはあり得ないよ。
繰り返すけど、計画なんてたいていはうまくいかないものだしね。きみにわかってもらいたいのはね、アイデアというものはなかなかうまくいかないかもしれないけど、試してみることはそうじゃないってことなんだ。”<実地演習>に失敗はない”と言ってもよかったかな。それも正しいし、理解はしやすかったかもしれない。
ただ、いいかい。何かをやってみて、それがろくでもないアイデアだとわかったとき、きみはもとの場所に戻ることは絶対にない。必ず、何かを学ぶからだ。学ぶべきことが何もなかった場合は、その前にしていたことに高い価値をおくべきだってこと。そういう意味で僕は、試してみることに失敗はないというのは真実だと思っている。
それをきみにも信じてもらいたい。だけどそれは、”科学的方法”だの”対照のための非実験グループ”だのについてまじめくさって話したいということじゃない。ただ、いろんなことを楽しくやって、新しいことを試してみて、いつもしっかり目を開けておいてほしいってことなんだ。難しいと思うのは、ほかの人に変わってもらおうとすること、違う自分になってもらおうとすることだ。たいていの人は、変化なんて大嫌いだからね。だけど、この白髪まじりの頭の中には、とても重要なフレーズが入ってる。
人は、変化は大嫌いだが、試してみることは好きなんだ。」

まず、やってみることが大事。失敗しても得るものはある。
失敗をおそれて何もしないのは最低だ。
大学というところは前例主義だ。前例があるか、ということが判断基準になる。だから、前例にないことはやらない。
だから、大学は変わらないのだろう。

「多くの人々は−自分の仕事をあまり狭いものに定義しすぎだ。工学技術を駆使した能力が町で一番なら、自分より素晴らしいエンジニアはいないと思ってしまうんだ。だけど、優れたエンジニアであるためには、高い技術だけじゃなくいろんなものが必要だ。アイデアを売る能力もいる。みんなと一緒に働く能力も、話し合いをリードする能力も、無意味な話し合いを避ける能力も。−必要とされる能力は、それこそ何十もあるんだ。
だからこそ、しなければならないことを全部、リストに書き出し続けることが重要になる。そして仕事を再定義し続け、リストをどんどん広げていかなければならないんだよ」

ここで大事なのは、書き出し「続ける」ということだ。
書き出すのは簡単だが、それを続けることは難しい。
でも、それが出来る人が仕事を発展させるのだと思う。

原題は”THE MAX STRATEGY”という。
こういう題の方が、アメリカでは売れるのだろう。
でも、この内容なら、日本では「仕事は楽しいかね?」の方が売れると思う。

海外の会社の社長さんたちは、文章がうまい。
この人も、新聞のコラムニストになって、この本を出したとのこと。

やっぱりビジネスの基本は「書くこと」だと思う。
書けないと話せない。これは真実。

中古で買ってよかった。

| | | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
誰だってズルしたい!
誰だってズルしたい! 東海林さだお 文春文庫

これも中古で買った。
2004年の発行。
一連のおもしろエッセイ集。

表題は「世の中はズルの壁でできている」というエッセイから。
今回もいろんなことが書いてある。
ズルだけ見ても「世の中はズルの壁でできている」「セコズル、オバズルが幅をきかす」「あの☓☓ズルを摘発せよ!」と3つある。
それ以外にも、「地球滅亡の前夜に「最後の晩餐」」などなかなか含蓄の深いテーマもある。

この東海林さだおという人、マンガを書き始めると同時にエッセイも書き始めたらしい。

まあ、どうでもいいことを書いている(と言っている)のだが、あるとき、「週刊朝日」の「あれも食いたい これも食いたい」という連載で、味付海苔にお醤油つけてご飯を巻いて食べるとき、お醤油をつつけたほうをご飯側にするか、表側にするかという話を書いたとのこと。
そうしたら、名古屋の六十九歳のおじいさんから、「何でそんなどうでもいいことを書くんだ。もっと天下国家のことを考えろ」というハガキが来たらしい。

怒りでボールペンの字がハガキにめり込んで溝になっていたとのこと。

こんな事をまた書くと、よけいに怒られると思うのだが、連載ではなく文庫本なのでそういう人は買わないということか。

たしかに、書いてあることは天下国家に影響することではない。

でも、そういう「くだらないこと」を書く人も必要だと思う。

「くだらないこと」があるからこそ、天下国家を論じる人が生きていけるのだろう。

| | | 22:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
とんかつ奇々怪々
とんかつ奇々怪々 東海林さだお 文春文庫

中古で買った。251円。
東海林さだおというと漫画の方が有名。
でも、この人はものを書いても上手だ。

1998年〜2000年に連載されていた「男の分別学」というコラムを集めたもので、その当時の世相を表している。
話題はペット、通販、ラーメン、蒸気機関車、つまようじ、散歩、自殺など、バラエティに富んでいて面白い。
どうして当時気が付かなかったのだろうか。

なかでも、「明るい自殺」という項はマジメに考えさせられる。

スーパーで見た70代と思われる、ズボンのファスナーが全開だった老人に端を発したコラム。
そこで作者は考える。

 この老人の毎日はどんなものなのだろう。
 朝起きて、ゴハンを食べる。
 もはや朝刊も読む習慣はないにちがいない。
 そして家族に服装を整えてもらう。
 老人はフラフラと家を出て徘徊を始める。
 その日、老人は途中のどこかのトイレでおしっこをしたにちがいない。
 そのあとスーパーマーケットに入ったにちがいない。
 おしっこをしたとき、ズボンのファスナーをしめ忘れたのだ。
 でもいまのところは、ブリーフの外に出したものを、用を済ませたあとブリーフの中にしまうという意識はまだ残っている。
 だが、この意識がなくなる日は近い。
 少なくとも一年後にはなくなっているはずだ。
 そのとき彼は、ブリーフの中にしまうものをしまわずに、スーパーマーケットの人混みの中を歩いていくはずだ。

そして人間の尊厳を考え、それを失ってしまったあとの人生を考える。
もちろんそうはなりたくないが、こればっかりはどうにもならないということだ。
そして書く。

 これからの人間は、二つの人生を強いられることになる。
 呆けるまでの人生と、呆けてからの人生の二つである。
 呆けるまでのその人と、呆けたあとのその人は別人である。
 人中でモノを出さないことを信条として生きてきた人間と、出して平気という人間は別人である。別人間ではあるが当人であることもまちがいない。
 一番悲しいことは、前半の当人が、後半の当人に全く責任が持てないことだ。
 こんな無責任な人生ってあるだろうか。
 自分の人生に責任を持たない、なんてことがあっていいのだろうか。

そして自殺という考えに至る。
自殺といっても、「明るい自殺」だ。
溜め込んだ睡眠薬とウィスキーを持って冬、雪の降る日に樹海に行って、楽しく酔って夢見るように凍死する、という計画が続く。

いざ死ぬとなるとウィスキーだけでなく、ビールも飲みたいし、おつまみも好きなものを食べたい。
魚肉ソーセージ、さつま揚げ各種、ワサビ漬け、カマボコ…。
それにメザシも食べたいので、コンロも必要になる…。

そういうふうに面白おかしく話は続くが、この問題は考えさせられる。

こんな重たいお話ばかりではない。
トンカツを食べ歩く話もあるし、ラーメンの話もある。

でも、ぼくは「明るい自殺」の話が身につまされた。

こういう話題を自然に読める、この本はいい本だ。



| | | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユダヤジョーク集
ユダヤジョーク集 講談社+α文庫

ジョーク集は好きでよく見るのだが、ユダヤジョークというのは珍しい。
ブックオフで売っていたので買ってみた。

アメリカやイギリスのジョークは面白い。
中には分からないのもあるが、政治、経済、民族などのネタはけっこう笑える。
たいがい1冊読むと、いくつか声を出して笑うページがあるのだが、ユダヤジョークはなかなか笑えない。
にやりとする程度で終わる。

昔、日本人とユダヤ人はどちらも変わっている、という話を聞いたことがある。
世界のほかの民族とはちょっと違うという意味だったか。

ユダヤ人というと、頭がよくて、ケチで計算高く、金持ちというイメージがある。

国を追われ、世界中に散らばった。(今はイスラエルという国ができたが)
散らばっても、信心深くて、ユダヤ教を信仰している。
だから、世界中にユダヤ教の教会がある。

明るくからっとした感じではない。
少しひねくれた感じ。

ぼくは、ちょっとしんどかった。




| | | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
イギリス紳士のユーモア
小林章夫著 講談社現代新書

いったい、イギリス紳士とは何者か、イギリス紳士のユーモアとは何なのかを知りたくて、中古で買った。
1990年の本。著者は大学教授で、イギリスに行ったときの体験を元に書いている。

ちょうどぼくも80年代にフランスとイギリスに行き、その違いに驚いた。
フランスでは「規則を守らない」という規則がある。
列に並ぶということをせず、時間が来たらみんなが突然並んでいる人を無視して殺到する。
それが公然と行われる。
事前に並ぶことは意味が無い。
横断歩道で信号待ちをしていても、クルマが来なければどんどん横断する。
さすが、自由の国だ。

ところが、イギリスに行くととたんに変わる。
信号はちゃんと守るし、この先工事中車線規制とかいう看板が出ると、工事のずっと手前で、片方の車線が空いていてもみんなきちんと1車線になる。
まだドアの手前の遠いところにいても、ドアを押さえて待っていてくれる。
とても礼儀正しく、規則を守る。
クルマの中でパンを食べても、それは品がないと注意される。

このイギリスの礼儀正しさは一体どこから来たのか。

当時一緒に食事をしたディビスという男は、嫁さんの事を話して、それがやたら面白かった。
嫁さんの事をぼろくそに言って、自分を哀れむ。
それが何とも言えず面白く、涙を流して笑ってしまった。
ああいう面白さはどこから来るのか。

イギリス人のユーモアとは何なのか、ということを知りたかった。

そういうわけで本を読んだが、わからない。
イギリス人にはユーモアがある。
これは確かだ。
何か相談したいことがあって、上司の部屋に行っても、いきなりその相談を切り出してはいけない。
まず最初に当たり障りのない話をする。
そこで笑いの一つも出たところで、相談を切り出す。
それが普通のやり方だとイギリス人は言う。

イギリスの紳士というのは、そういうものらしい。

もう一冊、イギリス人のユーモアという本を読むつもり。

| | | 22:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
教育委員会廃止論
穂坂邦夫という人が著者。アマゾンで中古で買った。
著者は埼玉の志木市長で、教育改革をやってきた人。
この本によると…、

教育委員会は、例外なく全ての都道府県、市町村に設置されており、首長から独立した位置づけで、教育行政の重要事項や基本方針を決定し、教育長が決定に基づいて職員を指揮、監督し、事務を行う、ということになっている。

これによって、教育は地方公共団体の長から独立し、合議制の執行機関とすることで、中立性、安定性、継続性を担保している。
また、多様な委員が合議により意思決定をすることで、地域住民の多様な意見を反映させることができる、ということに、これまたなっている。

ところが、市町村教育委員会には、学校運営の基本である教職員の人事権はもとより、任命権も懲戒権もなく、教職員の給与は都道府県が負担することになっているので、学校の所属する教職員はあくまで都道府県職員となる。
したがって、市町村にとっては学校の職員は部外者となっているのだが、教育行政上は公立の各小中学校の管理運営は市町村が行い、最終責任は市町村教育委員会となっている。
つまり、人事権が実際に運営しているところにはなく、また自治体の首長は第三者になっているのだ。

この本には、教育上の責任を持つ上で、責任者が人ではなく、教育委員会、という機関になっているという問題点を挙げている。
これは全くその通りだ。
いろんなところで、イジメや体罰の問題が出ても、誰も責任をとる人がいない。
これは大学の教授会と同じく、責任の所在をぼやかすためのものだ。
だから、教員の不祥事がいくら起こっても、抜本的な改革が実行されない。
いくつもの事例で、市町村教育委員会がさまざまな制度上の矛盾について文科省や都道府県教育委員会に改善の申し入れはおろか、議論を投げかけた痕跡すらない、という。

また、総合学習の失敗には3つの理由があるという。
第一点は、長い間自分自身で考えることをやめ、化石状態を強いられてきた教育現場に、いきなり学習内容を「教員が自分で考える」ことを求めたため、考えることのなかった現場に大きな戸惑いを与えたこと。
第二点は、県費負担教職員制度ゆえに採用から研修に至るまで、教員の資質が確保できないということ。
第三点は、教育現場は「時間が不足」していて、総合学習の準備に多くの時間がとれないということ。

今は地域コミュニティが壊れかかっていて、首長が先頭に立ってコミュニティを再生し、行政と学校が連携して地域との連帯や協力関係をつくり上げる必要がある。
だからこそ、教育委員会制度を終わらせなければならない、という。

ぼくは、橋下大阪市長が、ずっと言っている「選挙によって選ばれた首長がもっと教育に責任を持つべきだ」というリクツは当たっていると思う。

NHKのニュースサイトの記事。

「日本維新の会は、今の教育委員会制度は機能しておらず、制度を抜本的に見直す必要があるとして、教育委員会制度を廃止する法案をまとめ、5日、衆議院に提出しました。
法案では、都道府県や市町村の教育委員会を廃止し、代わりに自治体の長が教育施策の実施計画である教育振興基本計画を策定するなど、教育事務を一元的に管理するとしています。
また、教育行政の現場の責任者として、今の教育長に代わって特別職の「教育部局長」を置くほか、教育振興基本計画の進捗(しんちょく)状況について、少なくとも年に1回、議会に報告することを義務づけています。」

この意見に賛成。

今の日本の義務教育は崩壊している。
これを正すためには、教育における首長の責任を明確化して、教育現場に緊張感を取り戻すしかないと思う。

| | | 00:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
小林秀雄対話集
小林秀雄対話集 講談社文芸文庫

この対話集は昭和23年から昭和39年までの、小林秀雄の対話が含まれている。
今の言葉では対談ということになる。

対談相手は、坂口安吾、正宗白鳥、大岡昇平、永井龍男、三島由紀夫、田中美知太郎などの当時の作家や知識人。
小林秀雄はいくつか講演のCDを持っているので、どういう話をするのかは想像がつく。
でも、坂口安吾や正宗白鳥などの、今はなき大作家がどんなことを話しているのか、それが書かれているのは面白い。

坂口安吾と小林秀雄が顔見知りだったことや、文学論を話しているところなど、想像もできなかった。
小林秀雄が骨董に熱中して、2年ほど原稿を書かなかったということも初めて知った。

坂口安吾が対談でこんな事を言っている。

「僕はね、人間の世界というものは自由な世界じゃないと思うんだ。ほんとうの自由ということは、自由をどう料理するかというようなものじゃない。芸術なんていうものは、いかに自由を自分で料理するということが不可能であるか、それを判らせてくれる仕掛けみたいなものだ。自由を与えられれば与えられるほど生きるのはつらいんだよ。縛られれば縛られるほど生きるのはやさしいんだよ。ほんとうに自分で芸術を自由に作ってゆく世界というものは、誰の力にもないよ。小林さんの評論にだってないし、また小林さんは、そこのところをよく知る人だと思うのだ。小林さんは無理に自分を縛ろう、縛ろうとしてるんじゃないですか。立場を不自由にしようと心掛けてるんじゃないですか。」

坂口安吾がこんな事を言うというのもビックリだし、坂口安吾と小林秀雄がこんな対談をするということもビックリだった。
彼らは文壇の友だちだったのだ。
この対談が昭和23年。

昭和23年の文学雑誌にはこんな対談がでていたということだ。

今年のセンター試験の国語は、小林秀雄の文章が出て、平均点が下がったらしい。
ぼくらの頃はよく出たのだが、最近は減っていた。
高校時代は全くわけがわからなかった。

「美しい花がある。花の美しさという様なものはない。」

そんな難しいことをいわれても…、という感じ。

文庫だが、値段は1400円もした。
それなりの内容、それなりの値段。
内容は難しい。

それにしても、こんな難しい内容をみんなわかっていたのかと思うと、日本人はかしこかったんだと思う。

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僕のトルネード戦記
僕のトルネード戦記 野茂英雄 集英社文庫

野茂が大リーグに挑戦すると言って渡米したのが、1995年5月。
あれから19年経つ。
その1995年のシーズンをふり返って、野茂が書いた本。

行ったときは、近鉄の鈴木監督とソリが合わず、だいぶ野茂がバッシングされた。
球種がストレートとフォークだけで打たれるとか、あのフォームではダメだとか、さんざん言われて大リーグに行ったと書かれている。
たしかにそうだったと思う。

野茂はイチローのように最初から望まれて行ったのではなく、薄給でマイナーリーグのスタートだった。
50日のマイナーリーグのキャンプで成績を残して、ようやくメジャーのロスアンジェルス・ドシャースに昇格した。
あの頃を覚えている人なら、野茂は近鉄ともめて飛び出した、というふうな印象を持っていると思うが、実際にはそれ以上の厳しさだったのだと思う。
本当にメジャーに憧れて、とにかく行きたい、という気持ちが、野茂に代理人を見つけさせ、日本を飛び出させたのだ。

そして行ってからの苦労がこの本に書かれている。
薄い本だが、中身は濃い。

日本の野球とベースボールの違いも書かれている。
日本の球団は監督やコーチがメインで、選手は徒弟制度のように使われる。
選手が気安く監督やコーチと話すことはほとんどない。
たとえ選手が先進的な考えも持っていて、それを主張しても、監督やコーチのダメと言えばダメだ。
選手が主体ではないのだ。
でも、アメリカは違う。
選手が主役であり、それを球団や監督、コーチが盛り立てている。

野茂の功績はもっと称えられてしかるべきだ。
彼がいたから、イチローやそれに続く選手が大リーグで活躍できる。

ブックオフで見つけてよかった。



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憧れの大リーガーたち
憧れの大リーガーたち ロジャー・エンジェル 集英社文庫

アメリカのスポーツ・ライター、ロジャー・エンジェルが1972〜1976年の大リーグシーズンについて書いた本。原題はFive seasons。
1998年に出た本。中古で買った。

この人は元メジャーリーガーではない。
雑誌の編集者だ。
お父さんは弁護士でありながら、セミプロチームの投手だったらしいが…。

ニューヨーカーという雑誌に発表されたコラムを1冊の本にした。
毎日の試合について書いているのではない。
その年のワールドシリーズや、関わった関係者などを通して書いている。
約5年ずつ、全部で6冊書いている。
これが1962年から1990年までのメジャーリーグの記録になっている。

アメリカの野球好きは、単なるトラキチというようなものではない。
野球そのものが好きなのだ。
哲学的ですらある。

野球というスポーツは特異なスポーツである。
守っているときには絶対に点は取れない。
ボールではなく、人が得点源。
おまけに、4月から10月までの7ヶ月間、ほとんどの日に試合がある。
こんなスポーツは他にはない。

今から40年前の事だが、全く古いとは思わない。
それが野球そのものの事を書いてあるからだろう。
フットボールに対抗して、ワールドシリーズが10月の寒い時期にナイトゲームで行われることなども書かれている。
テレビ中継で見られる人は増えるが、球場に通うファンはどうなるのかということだ。
彼は、やっぱり、球場に行って実際のゲームを見るファンを大切にすべきだという。
そして、自分が小さい頃に野球に連れて行ってもらったことを書いている。

そういう原体験が、彼の文章にはあふれている。

こういうエッセイが出てくると、日本の野球も本物になるんだろう。

まだまだメジャーリーグには追いつけない。

そんな本だった。
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本が好き、悪口言うのはもっと好き
老眼鏡を作り直して、本がまた読めるようになった。
これは本当によかった。
こんなことなら、もっと早く作り直すべきだったと思う。

本を読むのは楽しい。
知らなかったことを知ることができる。
経験したことがない物語を経験できる。
知らなかった人を知ることができる。
また本が読めるようになって、楽しさを思い出した。

高島俊男という人がいる。
「本が好き、悪口言うのはもっと好き」という第11回講談社エッセイ賞を受賞した本を書いた。

作者は中国文学に明るく、漢字に詳しい。
この人の「言葉」についてのシリーズを読んだが、日本語についての考えがユニークだ。
この本でも、そのことが書かれている。

日本はすぐ隣に中国という文化が進んだ国がいて、漢字という文字を持ち込んだことで、いびつな言語になった、というのが作者の主張。
日本の言葉を記述するのに、漢字を使ってしまったということだ。
ぼくは漢字を使ったということに関しては、どちらかというとプラス面を感じていた。
意味をもった文字なので、簡潔に書けるからだ。

漢字がなければ健全な発達を遂げたはずだったのに、漢字があったので、日本語はおかしくなったというのが作者の主張。

端と橋と箸というような、書いたものを見ないとわからない言葉がやたら多い。
どれも、「はし」という言葉だ。
これが日本語の欠陥だ、と作者はいう。

なるほど、たしかに不便だ。

でも、他にどういうやり方があるのだろうか。

作者は、漢字がなければ、その識別ができるような文字ができていただろう、という。

なるほど。

そうなっていたら、どんな文字が出来ていただろうか…。




| | | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
今年の秋
今年の秋 正宗白鳥 中公文庫

正宗白鳥という人は、作家というより文士という存在。

小林秀雄が、正宗さんの晩年の雑文というものは、本当に素晴らしい、と言っていた。
「あの人は、書いたものを読み直しなどしないんだ、どうして書きっぱなしであんな文章が書けるかね。」
これだけ手放しで褒めるのも珍しい。

どうしても読みたくなって、アマゾンの中古を探した。

23編の随筆集。

どの随筆がどうということではない。
時代は昭和のはじめから三十年代。
戦争末期、正宗白鳥はペンクラブ会長だったが、その時に何もしなかったことが、ペンクラブの歴史を綺麗にしたということが書いてあった。

この人は書くことが自然だ。
何も考えずに書き始めているのではないか、と思わせる。

読んでみないとわからない。

最後に「文学生活の六十年」という講演録がある。
その中に、こういうことが書いてある。

「そうかといって、ドストエフスキーにしても、トルストイとしても、名作にかかわらず、しかし私の求めているものは、そこには出ていない。作りごとではなくて、もう一歩進んだ世界をなにがいったい自分に見せてくれるか。自分はここに偶然生まれた。生まれたくなくても、仕方がない生まれてきたんだから、ほんとうの人生というのはこれだというものを探がさねばならない。それでたくさんの人間を見、小説を読んだわけなんだが、一つの自分だけの人生がそこにできたかというと、それがいつも物足りない、物足りないと思うことは馬鹿なことで、人間はみなわからないことばかりだ。明日の日もわからないで生きているんで、小説などもそのときだけの慰めに読むものにすぎない、それでいいじゃないかと思いながら、いいじゃないかと思えないところが八十年を通してあって、今日に至ったんです。」

正宗白鳥らしい言葉。

この人には、文学に求めるものがあった。
でも、最後まで見つからなかった。

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科学と文学
寺田寅彦著 青空文庫

電子書籍リーダーを買って、ダウンロードした。
昭和8年の作品。
こういうのがあるから、年寄りは得だ。
昔読みたかったが、入手できない作家の本が著作権が切れて青空文庫というサイトで公開されている。
この寺田寅彦や岡本綺堂、正宗白鳥、泉鏡花などが無料で読めるのだ。
ボランティアで電子化してくれたみなさんに感謝しながら、読む。

寺田寅彦は科学者だったが、夏目漱石の弟子でもあり、科学者兼文学者。
たくさんの随筆を残している。
今でこそ、日本でも海外でも、ノンフィクションの分野で科学者の伝記文学や業績、最新の研究動向などを科学者兼作家たちが本にしているが、昭和8年当時は少なくとも日本ではそういう動きはなかったと思う。

この科学と文学という小論で、寺田寅彦はそういう事態を予測している。

「それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるためにとるべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。」

現在、科学者であり、文学者でもある人たちがいる。
日高敏隆、杉山幸丸、正高信男…、これらはいずれもサル学の人たち。
岡潔、藤原正彦などの数学者もいる。

海外では、ぼくが知っているだけでも、E.T.ベルやサイモン・シン、アミール.D.アクゼル、コンラート・ローレンツ、チャールズ・サイフェ、リチャード・ドーキンスなど、数多くの科学者兼文学者がいる。

「要するに科学の基礎には広い意味における「物の見方と考え方」のいろいろな抽象的な典型が控えている。これは科学的対象以外のものに対しても適用されうるものであり、また実際にも使用されているものである。それを科学がわれわれに思い出させることは決して珍しくも不思議でもないのである。もとよりそういう見方や考え方が唯一のものであるというわけでは決してないのであるが、そういう見方考え方が有益である場合はまた非常に多くてしかも一般世人がそれを見のがしていることもはなはだ多いように思われる。」

そういった人たちの考え方に触れて、触発されるものは多い。
それは、決して直接何かの役に立つものではないことがほとんどだ。
でも、すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなるということも、人生の知恵としてある。
だからこそ、そういったすぐれた科学者の考え方や、世の中の見方を知ることは、大事なことだと思う。

時代は進み、寺田寅彦の予想は実現され、さらに先に進んでいる。
たくさんのポピュラー・サイエンスの本が出版され、読まれるようになった。

しかし、彼の予想になかったのは、教育がその方向に行かなかったことだ。
彼が今の「理科離れ」という状況を聞いたら、さぞかし残念がるのではないかと思う。

もったいない…。

| | | 22:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
公務員試験のカラクリ
大原瞠著 光文社新書

著者は民間の教育産業で公務員試験対策をやってきた人。
まえがきで東北の大震災の時に、家族は二の次にして住民のために頑張っている公務員の例をひいて、書いている。

 実は、著者はこれまで民間教育産業で、公務員になりたい人を手助けする仕事をしてきた。その中で感じたのは、とにかく公務員になりたい人たちの動機が不純なことであった。

公務員は楽で転勤がなく安定しているから、という理由だけでなりたい人がいる。
親が公務員だから、という理由だけでなりたい人もいる。
公務員、という仕事はないのだが、いったい公務員が何の仕事をしているのかもわからない。

公務員試験受験者の利権にはいろんな人がぶら下がっている。
大学は合格者を増やすために、援助しているし、資格スクールは金をとって受験指南している。
無理やりでも合格者を増やすために、公務員になるのがふさわしくない人にも指導をする。
講師の悩みとのこと。

公務員試験とはどういうものか、本書には書いてある。
国家公務員試験は人事院が、地方公務員は財団法人日本人事試験研究センターという内閣府の外郭団体が作っている。

色々な問題点が書かれているが、それはそれで正しいと思うのだが…。

公務員試験の本当の問題点は、問題こそ変われど、毎年どの領域から何問ずつ出る、ということが決まっていることだと思う。
ぼくは知らなかったのだが、本当に毎年どんな問題がどれだけ出るかは決まっているのだ。
どれを捨てても、何点取れるということがわかる。
だから、資格スクールで傾向と対策ができる。
毎年、たくさんの人が資格スクールから試験を受けに行って、問題を覚えてくるらしい。
それで持ち帰り不可の問題がわかるようになっている。

ぼくは、何十年も同じような問題を出していることが、問題だと思うのだが…。



| | | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学
アミール・D・アクゼル著 早川文庫

アインシュタインの相対性理論の物語。

前半は彼が相対性理論を考案して、それが証明されるまでの物語。
後半は宇宙が膨張しているということを、どうやって説明するか、宇宙の形はどうなっているのかといった宇宙論。

アインシュタインも人間であり、仲違いや文句をいうこともある。
自分の考えだした理論の証明が、どうしても天文学者しかできない、という焦りがあった。
結局は自分が知らない間に、イギリス人が証明し、それで一躍有名になった。

相対性理論の証明に、皆既日食の観測が役立ったということだ。
太陽のまわりで空間が歪む。
それによって、光がまっすぐ進まない。
だから、皆既日食の時に、太陽のまわりの星は位置がずれて見える。

アインシュタインは運が良かったのだと思う。
彼の数学に対する知識が深かったことと、リーマンというもう一人の天才が、すでに宇宙を表す幾何学を完成していたということが、相対性理論を完成させた。

アインシュタインがいなければ、相対性理論は完成していただろうか。
大概のものは、きっと他の誰かが見つけていただろう、と思えるのだが、アインシュタインは別だ。
未だに人類は宇宙が理解できていなかったのではないかと思う。

宇宙の果てはどうなっているのか。
宇宙の形はどういうものなのか。
膨張し続けている宇宙は、永遠に膨張するのか。
そういう疑問がわいてくる本。

しかし、なぜ宇宙があるのか、ということはわからない。


| | | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
筒井康隆著 新潮文庫

老人文学。
文体が変わっている。読点がない。
最初は違和感があるが、読み進むうちに慣れてくる。
筒井康隆の小説といえば、「俺」が主人公に決まっていたが、この小説は「儀助」という老人が主人公。
それぞれの章に、「朝食」とか「友人」とか題名が書かれており、8ページ程度の長さで一章が終わる。

昔の筒井康隆を期待してはいけない。
ドタバタもないし、スラップスティックもないし、ブラックユーモアもない。
むしろ、最初は一体何が始まるのか、という感じだ。
読点のない文体が妙に目につく。
そうやって、読ませていくだけの筆力がある。

もう一つ、擬態語・擬音語が漢字で書かれているということである。
雀の声は、「痴痴痴痴痴痴宙宙宙注注注」と表現されている。
なんの効果を狙ったのか。
それでも、慣れるとこれはこれで味わいがある。
カタカナで書くよりも、漢字を選んで書くほうがより意味が伴って面白い。

物語は、儀助老人の身の回りのことを描いて、それで終わる。
途中、「敵」という章があって、不思議な敵が想定される。
パソコン通信の中での話だ。

最初から最後まで、一人暮らしの老人の生活を描いて終わる。

それでいて、なぜか面白い。

不思議な味わいがある。

さすが筒井康隆。




| | | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
街場の大学論
内田樹著 角川文庫

内田先生は、ついこの3月まで神戸女学院大学の教授だった人。
現役の大学教授が、自分の大学の教授会の様子や教務委員長としてのメッセージ、入試委員長としてのメッセージなどをブログに書いていたのを本にしている。

第一章「ニッポンの教育はどこへ行く」の一番最初に「国民総六歳児」への道という表題がついている。
その中に、こういうことが書いてある。

 日本の教育はどうしてこんなになってしまったのか?私たちはこの「荒廃」にどんなふうに荷担してきたのか?このままの状態が続いてゆけば、十年後に日本社会は「漢字が読めない、四則演算もできない、アルファベットも読めない、学ぶということの意味がわからない、労働するということの意味がわからない」大量の「元・子ども」を抱え込むことになるだろう。それは社会的能力を欠いた彼ら自身にとっても不幸なことであるが、それ以上に、彼らを保護するために莫大な社会的コストを要求される国民全体にとっても不幸なことである。それが弱肉強食の市場原理の要請するところならやむを得ないという「リアリスト」たちもいるだろうが、もう少し長いスパンで考えることはできないのか。
 「学ぶ」ことができない。「学ぶ」ということの意味がわからない子どもたちがいま組織的に作り出されている。家庭でも、学校でも。しかし、それは子どもたち自身の責任ではない。
子どもたちは被害者である。「学ぶ」とはどういうことか、それを誰も彼らに教えてくれなかったのだから。どうやって、彼らを再び「学び」に向けて動機付けることができるのか…という議論をしている以上、「彼らは『自分探し』の結果、社会的階層降下の道を自己決定したのだから、その社会的劣位は彼らの自己責任において引き受けなければならない」という物言いに軽々に同意するわけにはゆかない。子どもたちは「学び」への動機付けを生得的に持っているわけではないからだ。
 彼らを「学び」へ導くのは大人たちの責任である。
 その責任を放棄して、子どもたちに「自分にとって意味があると思うことだけをしなさい」といえば、子どもたちが「学び」に向かうはずがない。
(中略)
 子どもたちに自己決定したことの自己責任を問うわけにはゆかない。子どもたちを自己責任論で切り捨てるよりも、「自分探し」とか「自己決定・自己責任」とかいう有害なイデオロギーを宣布し、いまも宣布し続けている行政やメディアや評論家たちに口をつぐんでもらうことのほうが先だろうと私は思う。
(中略)
 「オレ的に面白いか、面白くないか」と「金になるかならないか」という二つの基準がいまの日本人たちの行動を決定するドミナントなモチベーションになっている。だが、これは「六歳児にもわかるモチベーション」である。
 こういう言葉を口にする人間は(たとえ実年齢が六十歳になっていても)六歳のときから少しも知的に成長していないのである。だが、本人たちはそのことがわからない(知的に六歳だから)。
 学びを忘れた日本人はこうして「国民総六歳児」への道を粛々と歩んでいる。

これを読んで、深く考えこんでしまう。

本当にその通りだと思うからだ。
今の状態が「荒廃」していると思う大人は、いったいどれくらいいるのだろう。

この文章が書かれたのが2006年。
十年後というと2016年。ちょうど半分の五年が経った。

もちろん、危機を喚起するために内田先生は少々デフォルメしていると思うが、それでも、「漢字が読めない、四則演算もできない、アルファベットも読めない、学ぶということの意味がわからない、労働するということの意味がわからない」18歳が着実に増えているのは事実。

そんな事なら、国が潰れるではないかという人もいるだろう。

昔なら潰れたと思う。
しかし、いまは潰れない。

IT化が計算が出来なくても、漢字が読めなくてもなんとかなるようにしてしまった。

ごく少数の人が意思決定をして、残りは考えなくてもいい、という時代。

そういう時代に相まって、いまの「荒廃」が起こっている。

おまけに毎年10万人以上の新卒が進路が決まらずに学校を出ていくという時代。
日本人よりもインド人やアジア人の方が優秀だ、と企業がいう時代。

そういう時代だ。
笑ってはいられない。



| | | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
現代<死語>ノート
小林信彦著 岩波新書である。

この本自体がもう古本でないと手に入らない。
1956年から1976年までの流行語を紹介して、作者がコメントしている。

1956年というとぼくが生まれる前の年。
だいたい、ぼくが生まれてから20歳になるまでの時代が書かれている。

なぜ1956年かというと、この年に「もはや戦後ではない」という流行語が出たから。
「現代につながるもろもろが顕在化するのは、みごとに、この年なのである」とのこと。

知識としては知っているが、使ったことがない言葉は、もちろん物心つくまえの言葉。
太陽族、深夜喫茶、才女時代、ゲタバキ住宅、イカす、カミナリ族、タフガイ、ファンキー族、トサカにくる…、これが1956年~1962年あたりの言葉。
もちろん、もっとたくさん載っているのだが、その中から選んだ。
太陽族というのは、フランス映画の太陽がいっぱいではなく、石原慎太郎の太陽の季節から。
今でこそ当たり前のものだが、深夜喫茶は昭和30年代の言葉。

1962年(昭和37年)くらいから、ぼちぼちぼくが使った言葉が出てくる。あたり前田のクラッカー、これはてなもんや三度笠の藤田まことの決め台詞。藤田まことが喜劇俳優だということを知らない人も増えた。
1963年、シェー。赤塚不二夫の漫画からだ。学校でシェーの格好が流行った。
1964年、インド人もびっくり。SBカレーの宣伝から。ぼくは今でも使う。
1965年、モーレツ社員、マイホーム主義、マカロニ・ウエスタン。この年は不況と公害の年で、高度成長のひずみが出た年らしい。
1966年、ミニスカート、黒い霧。この年は死語が少ない。まだ生きている言葉が多いらしい。
1967年、ヒッピー、グループサウンズ、ゲバルト。
1968年、明治百年、昭和元禄、任侠映画、ハレンチ、ノンポリ、タレント候補。この年は大学紛争の年。
1969年、エコノミック・アニマル、アッと驚くタメゴロー、やったぜベイビー。この年に大学紛争が沈静化に向かう。
1970年、どっちらけ、ハイジャック、ヘドロ、モーレツからビューティフルへ、ウーマン・リブ。ご存知、万博の年。
1971年、ニクソン・ショック、三無主義、脱サラ、フィーリング。
1972年、列島改造、あっしにはかかわりのねえことでござんす、ナウい。田中角栄が出てきて、木枯し紋次郎が出てきた。
1973年、石油危機、便乗値上げ、日本沈没。インフレと不況の年。
1974年、狂乱物価、金脈、ニューファミリー。田中角栄辞任。
1975年、自宅待機、複合汚染。ベトナム戦争終結の年。
1976年、ピーナッツ、記憶にございません、灰色高官。ロッキード事件一色の年。

1976年はぼくが19歳の年。
まだ社会人になっていない。

1997年に発行された本。
14年前の本である。

作者は時代がどんどん悪くなると書いているが、それは97年時点での話だろう。
そこから先、本当にどんどん悪くなった。

経済は成長して当たり前と思っていたが、間違いだった。

残念。



| | | 02:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
略語天国
こちらは、略語の研究本。
藤井青銅という人が書いている。

これはかなり学術的な意味が強く、略語をいろいろなタイプに分けている。
その一つに、犬棒略語というものがある。

これは、「犬も歩けば棒に当たる」という「文章を略す」というパターンの略語。

以下のいずれもがその略語に当たるが、いくつわかるだろうか?

泥縄
やぶへび
棚ぼた
鴨ネギ
どたキャン
なつメロ
あたぼう
あけおめ
ことよろ
メリクリ

一つ目は「泥棒を捕えて縄をなう」。
二つ目は「藪をつついて蛇を出す」。
次は、「棚からぼたもち」。
その次は「鴨がネギをしょって来る」。

これらは、古いことわざだ。
「並んだ漢字からその意味が推測できない」言葉である、と藤井氏は言う。
なるほど。
泥縄は何かが起こってから、用意をするということだが、それはこのことわざの意味だとわかっていないと、理解が難しい。

五つ目は、「土壇場でキャンセル」。
続いて、「懐かしのメロディー」。
その次は、「当たり前だべらぼうめ」

これらは比較的新しい。
あたぼう、はちょっと古いが…。
これらは、ことわざではない。
普通の言葉を略したもの。

最後の3つは更に新しい。

あけましておめでとう。
今年もよろしく。
メリークリスマス。

これらの言葉を見て、顔をしかめる人もいるだろう…、作者もそう書いている。
しかし、それらを責めることはできないのではないか、ということで、泥縄などの例をあげている。

ダメもとやピンキリ、なるはや、なども同じ仲間だとのこと。

チリツモというのは、そのうち出てくるのではないかとのことだが、実際に使っていた。
もちろん、チリも積もれば山となる、というのが意味だ。
小さな要因がたくさん集まって、一つの現象が起こっている、という実験用語だった。

昨日の本はまだ読みやすかったが、こちらはちょっと時間がかかりそうだ。

しかし、日本語は面白い。




| | | 01:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
このへんでドロンします
このへんでドロンします…、昭和へっぽこフレーズ大全。

中古でこの本を買った。
このへんでドロンします、というのは、使ったことはないが、意味はわかる。
使うシチュエーションもわかる。
1次会のあと、みんなで2次会に行こうかどうしようか…、という時に、このへんでドロンします、といって消える(帰る)。
昭和のはやり言葉。

挿し絵も面白い。
1ページ一語になっている。

最初に載っているのは、「いや〜、シャッポを脱ぎました」。
シャッポというのは帽子のこと。
もう意味が分からない人も多いだろう。
いやあ、まいった、という意味だ。

昨夜はフィーバーしちゃった、というのも若い人には通じないか。
パチンコでフィーバーしたのとは違う。
ジョン・トラボルタのサタデー・ナイト・フィーバーが元ネタ。
昨夜は騒いだ、という意味。

おととい来やがれ!、というのも、平成の人には意味がわからないだろう。
おとといに来ることはできないから、もう来るなという意味。

テクシーで行きますか。
これは何となく意味がわかるかな。
タクシーに引っ掛けて、テクシー。
つまり、テクテク歩いていくということ。

余裕のよっちゃん、も平成の人にはわからないだろう。
単に余裕ということだ。
よっちゃんには、意味がない。
単に「よ」がついているだけ。

今日は半ドンです、もわからないだろう。
半ドンとは午後から休みのこと。
土曜日が半ドンだった。

こうしてみると、なかなかへっぽこである。
へっぽこフレーズ大全というだけのことはある。

何となく、のんびりした感じになる。
時々腹を抱えて笑ったりする。
いい本だ。


| | | 00:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
日々の非常口 アーサー・ビーナード 新潮文庫
アーサー・ビーナードというのは、アメリカの詩人である。
日本語で詩作をしたり、日本の詩を翻訳したりしているらしい。

その人が、達者な日本語で書いたエッセイ集。
日本人の妻をもち、家庭では日本語の会話をしているようだが、それにしてもこんなに日本語がうまくなるとは…。
1967年生まれで、1990年に来日したそうだから、現在43歳で、日本に来て20年になる。

文章といい、漢字といい、すごい。
日常で出会った事を書いている。
もちろん、アメリカ人の視点で日本のことを語る部分はあるが、 純粋に日本語で楽しめる。

こういう人が語学の達人になれるのだろう。
日本に来て、辞書と首っ引きでいろんなところを自転車で走り回る。
来日20年で、日本人としてもかなり上のレベルの使い手になった。

一つの言葉の意味を何度もチェックする。

「月極」というのが、駐車場の名前だと思い込み、「げっきょく」という会社は駐車場業界の大手だと勘違いする。
それが「月極め」という言葉を発見して、「つきぎめ」だとわかる。
そういう風にして、日本語をマスターしていく。
気の遠くなる作業だ。

しかし、日本人も小さい頃から、そういう経験をして日本語をマスターするのだろう。

母語と第二言語とは少し違うかもしれないが、単語については、同じことだ。

そういうことを抜きにしても、面白い本だった。





| | | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
量子コンピューターとは何か ハヤカワ文庫NF ジョージ・ジョンソン
量子力学というものはどうも腑に落ちない。
いくら本を読んでも、わかった気がしないのだ。

それは、普通の世界とは全く異なるからであり、どういうわけかそれが正しいらしいから、困る。

普通ならありえない性質を量子は持っている。
同時に二つの状態を持つことができるのだ。
0と1の状態を同時に取れるということだ。

この性質を使って、コンピューターを作ったらどうなるか、ということだ。
膨大な計算量が必要なものがある。

500桁くらいある数字の約数を計算する、というようなことがすぐにできるようになる(らしい)。

しかし、途中で計算を見ようとしてはいけない。
観測することで、量子はひとつの状態になる。
だから、観測してはいけない。

しかし、観測せずに量子をどうやってコントロールするのか、そこのあたりが難しい。
難しい、というのはぼくにとって難しいという意味で、そこらあたりがワケがわからない部分だ。
同時に違う状態を取ることができるが、観測するとひとつになる、という性質。

これが開発されると、今のクレジットカード番号などの転送に使っている暗号が解けるようになる。
大きな数(といっても、億や兆どころではない)の因数分解がすぐにできるようになるからだ。

気がつくと、ぼくらの暮らしはそんなものに支えられている。

それが根底から覆されるから、量子コンピューターはできないほうがよいのかもしれない。

でも、可能性がある限り、挑戦する人がいる。

それが科学の進歩というものだ。

しかし、量子力学というものが実用的なものであるとは、思わなかった。
きっと、いろんなところで、量子の考え方は使われているのだろう。

アナログではない、デジタルな粒子。
連続値をとらず、離散値をとる。
つまり、間の値がないのだ。

世の中はアナログだと思っていたら、最後の最後はデジタルになる。

面白い。
21世紀は量子に時代になるのかもしれない。






| | | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
脳天気にもホドがある 大矢博子著 東洋経済新聞社
テレビを見ていて、突然脳出血し、右半身不随、失語症になった夫を持つ妻の日記という形式の本。

最初はどうなることかと思ったが、趣味である野球(ドラゴンズの大ファン)、友達、病院などに恵まれた。
また、夫が自分自身の趣味(自転車、電車、ドラゴンズ)のおかげで、回復が早く、1年後に杖をついて歩き、普通に話せるようになった、という実話。
えらいものである。

いくら失語症になっても、好きなものは覚えているし、話せるらしい。
パソコンが得意な夫は、話すよりもパソコンをつかって、変換するほうが言葉を思い出しやすいとか、興味深かった。

作者は書評のライター。
この本は、あまりシリアスな書き方ではなく、ユーモアたっぷりで書いている。

ぼくにも経験がある。
脳梗塞をした後、1年くらいは言葉が出にくかった。
あくまで自分の感触である。
しかし、本当に自分では感じる。
今も少し残っているが、あれ、あの…、という感じで、いいたい言葉が出ない。

脳の左側は言語野がある。
失語症はこわい。

最初は平仮名がわからず、漢字はわかったらしい。
漢字には意味があるので、思い出しやすいが、平仮名は音のみ表すので、思い出しにくい。
ほー、という感じ。

一気に全部読んでしまった。

障害を持つということは、大変なことだ。
家族も本当に大変だ。

しかし、それでも生活はしないといけない。

とにかく、前向きに生きていく夫婦を見ていると、そんなことを苦もなくやっているようにみえる。

実際には、親、姉妹、友達に助けられたのだが、それを面白おかしく書いている。
それは、面白くもなく、おかしくもない、どちらかというと悲惨なことだが、 気の持ちようだ。
しかし、実際はもっと苦しかったはず。

それを面白おかしくかけるというのは、才能だろう。


| | | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
海鳴りと蝉しぐれ
今日も本の話。

入院の事を言うと、せっかくだから、この本を読めと言われた。
それが藤沢修平の本。

「海鳴り」と「蝉しぐれ」の2冊。
どちらが藤沢修平の名作か?ということでもめて、その2冊が残ったらしい。
結局2対1で「蝉しぐれ」が勝ったらしいが、一度読むことを勧められた。
藤沢修平は読んだことがなく、初めて読んだ。
なかなか味がある時代小説だった。

まず、男性の小説だというのが第一の印象。
女性も読んで楽しめると思うが、これは藤沢修平が男性であり、その視点で書いているから仕方がない。

「海鳴り」は初老の男性。
老いを感じ始めるころの男性が主人公。
この気持ち、すごくわかる。
初めて白髪が混じり始めた髪の毛を見つけたときの話で、物語りは始まる。

人生の下り坂に入って、少しいったころ。
自分で自分の限界を知ったころ。
だいたいの自分の人生が見えるころ。
そんな時代の男性の気持ちがよく出ている。

結末は書かないが、上下2冊、一気に読ませる。

ああ、そういうことを思うんだよなあ、と思う。
誰しもが、この主人公のように、波乱にとんだ人生のドラマを迎えられるわけではないが、そう望む気持ちは誰にでもあるだろう。

「蝉しぐれ」は若い男性が主人公。
こちらのほうが、夢と希望がある。
しかし、藤沢修平らしい諦観があるのも事実。
この人が描く人生は二つとも、あきらめという気持ちが流れている。
その流れに逆らって、あがいてみるが、所詮ただのあがき。
流れに逆らうことはできない。

「蝉しぐれ」は若さが心地よい。
十分に波乱にとんだストーリー。
殺陣の場面もすばらしい。

この人が書く女性は、彼の理想なのだろう。
ヒロインは同じような女性だ。

さて、どちらが名作か?
一冊を選べといわれると、難しい。

年を取ったから、「海鳴り」のよさはわかる。
しかし、小説はストーリーを楽しむものだ。

そういう意味では、「蝉しぐれ」だろう。

しかし、難しい。

やっぱり「蝉しぐれ」かな…。


| | | 01:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
山本周五郎 さぶ
病院で読んだ本の事を書く。
山本周五郎の「さぶ」という小説。

ひとことで言うと、重たい小説だった。
人間の一番醜い部分と、一番きれいな部分を書いて、無理がない。

人は一人で生きているのではない。
一人が生きるためには、多くの人が関わっている。
だから、時には風のにおいがわかるように、気持ちの余裕を持たないといけない。
作者は世の中は悪いことがたくさんあるが、よいこともあり、捨てたものではないという姿勢。

山本周五郎は実家にたくさんの本があり、名前は知っている。
うちの実家の両親、特に母が好きで、全集もある。
たくさんの本を整理したが、あの全集だけは捨てられないと母が言っていた。

20代のころ、一度文庫を買って読みかけたのだが、面白くなかった。
題名も覚えていない。
若すぎたのだろう。
当時は時代物では柴田錬三郎や司馬遼太郎、池波正太郎などを読んでいた。
柴錬や池波はやはりエンターテインメントだ。
小説の醍醐味を教えてくれた。
しかし、もう一段深い味わいがこの小説にはある。

どちらも、すばらしい。
ただ、種類が違うだけだ。

さぶという、純粋さをそのまま表したような、世に言う愚鈍な、だまされやすい人間と、もう一人栄治という少しひねくれた、ぶっきらぼうな江戸の職人でタフな人間を対置して小説は進む。

小説のほとんどは栄治の人生を書いている。、
自分がこういう境遇になったら、栄治まではいかなくても、同じようなことを考え、実行するだろうという気持ちになる。
しかし、そこで紆余曲折を経て、栄治は止揚する。
全てを飲み込んで、そしてより高い精神的な地点に上がるのだ。
ここがひとつの見せ場だろう。

二人の女性が登場するが、彼女らの役割も大きい。

そして、最初と最後はさぶ。
さぶの純粋さ、一途さが胸を打つ。

重たい小説だが、読後はさわやかだ。

山本周五郎という人は、全ての賞を固辞したらしい。
多くの著作を残しているが、ぼくが読んだのは、この本が一冊目。
名作といわれる一冊から入った。

若い人はなかなか読めないのではないか。
自分がそうだったから言うわけではないが、20代では難しい。
やっぱり、中年になってから、面白さがわかる。

この小説が、作者の晩年の作だからそうなのかもしれないが…。

しかし、名作である。

| | | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
なぜ勉強するのか 鈴木光司 ソフトバンク新書
著者は「リング」や「らせん」を書いた人。

二浪して大学に入り、作家を目指して勉強し、塾の講師などをやっていた経験で二人の娘を育て、作家デビューした。
勉強とは何か、ということについて書いてある。
読みやすい対話形式。

子どもに勉強する意味を伝えなければならない、というのが主旨。
「はじめに」にこう書かれている。

「なぜ、微分積分を勉強しなければならないの?文系に進めば、そんなもの学んだって、何の役にも立たないじゃない」と、子どもから訊かれて、あなたはどう答えますか。化学式を覚え、歴史の年表を暗記することに、どんな意味があるのか、子どもに説明することができるでしょうか。

将来、有効となる能力とは、「理解力」「想像力」「表現力」の三つです。数学や外国語、歴史、理科など、さまざまなジャンル、要するに別角度からのアプローチを経て、この三つの力を養うのが勉強の本質なのです。

これが作者の言いたいことだ。

そして、本を読むこと。

確信を持って言えるのですが、本を読むことが飯を食うことと同じようになると、勉強の成績は上がっていきます。

本当にそう思う。

今になって思うが、意味は大事だ。
なぜそれをするのか、それにはどういう意味があるのか、それを知ることが必要だ。
受験のためにやっているのではない。
社会に役立つためにやっている。
市民として、正しい判断ができるように、正しい考え方ができるように、やっているのだろう。

それを教えることが大事だ。

第1章 すべてに通じる理解力、想像力、表現力
第2章 明晰に、論理的に、分析的に
第3章 正しい学習法
第4章 世界に通用する論理
第5章 未来をよりよくするために勉強する

こういう内容。

読みやすく、ためになる。

| | | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
リンボウ先生の文章術教室  林望著 小学館文庫
林望先生というと、一連のイギリスもので有名になったが、実際は書誌学者。
古文書などを解析?する学問らしい。

もう61歳。
何冊か読んだが、「文章術教室」という言葉に惹かれて、アマゾンに勧められ、購入した。

エッセイを書く要点について書いてある。

まず、序文で「文字を惜しめ」ということが書いてある。
余分なことを書かない、というのが大事だ。
普通の人が普通に書いたら、ほとんどが無駄なことになる、と林望先生は言う。

そして、文章の第一要件は「客観性」にあり、というのが第一章。
これは本当にそうだと思う。

人に受ける話をする時に、面白いことがあった、と冒頭に言ってしまってはいけない。
何気なく話を切り出すのだ。
これが客観性というもの。
自分が面白がるほど、他人は面白くない。そこのところを言っている。

第八章は「文章の品格」ということが書いてある。
体言止めを多用してはいけない。
これはぼくもよくやるので、反省した。

そして、流行に流されて、手垢だらけになっている言葉は使わない方がいいということ。
 地球にやさしい〜。
 終わってみれば〜。
 〜と思っているきょうこのごろ。
 〜という部分で〜。
 なんともやりきれない〜。
 ○○にハマっている。
こういう表現は使わないこと。

「なんとかして自分独自の表現で、ちゃんと描写したいという志が、文章に品格をもたらすのであります。」

この本にはカルチャーセンターの生徒や、大学生の作文の添削例も出ている。
たくさんの朱が入った文章は参考になる。
そのために、二色刷でいい紙が使われた文庫だ。

これで553円は安い。

| | | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
鬼平犯科帳2
24巻を読み終えた。

最初の方は実家で借りて、足りない分はブックオフで買って、それでも足りない分は本屋で買った。
借りたのは10冊。ブックオフで10冊。本屋で4冊。

池波正太郎はすごい作家だ。

1990年に急性白血病で急逝した。
鬼平犯科帳を最後まで書き続け、絶筆となった。
書きはじめは1967年。23年にわたって、135の短編・長編を書き綴った。

池波正太郎は今でいうと中学を出て丁稚奉公に出た。
株屋、ペンキ屋、また株屋と仕事を変わり、そこで開戦。
国民勤労訓練所というところで旋盤工となる。
この旋盤工としての仕事が、池波正太郎の小説創作に大きな影響を与えた…、と24巻の巻末に書いてあった。
その後徴兵され、米子にて終戦。
それから、東京都の職員として仕事をしながら、劇作家を経て小説家になる。
本当にたくさん書いた。

母によると、何といっても「真田太平記」が一番面白いとのこと。

でも、とりあえず次は「剣客商売」というシリーズに挑戦することにした。
全部で15巻ある。

江戸時代を舞台とした小説は、何とも言えない味がある。

鬼の平蔵は、ずっと生きている。

月並みだが、ぼくらの心の中に。



| | | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
長谷川平蔵
鬼平犯科帳を読んでいる。
もう19巻まで来た。

毎晩読みながら寝る。
池波正太郎のライフワークの一つ。
それにしても、面白い。
鬼平こと長谷川平蔵と、火付盗賊改方の同心たち、鬼平の昔なじみの剣客、そして、密偵たち。
密偵というのは、もと盗賊で、平蔵がみどころがあると思ったものを逆に味方にしたもの。
言葉は悪いが、「狗(いぬ)」とも呼ばれる。

この密偵たちと、平蔵の心が通うところがこのシリーズの一つのテーマ。

平蔵は盗みはしても、盗人の3箇条を守るやつは信用する。
一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
一、つとめ(盗み)するとき、人を殺傷せぬこと。
一、女を手ごめにせぬこと。
密偵となる盗人はいずれもこの3箇条を守ったものばかりだ。
その上、平蔵を慕い、平蔵のためなら死んでもいいと思っている。

その関わりの中で、何人かの密偵が命を落とす。

そこに義理があり、浮き世の厳しさがある。
やむにやまれぬ事情があるのだ。
秘密は自分の胸に抱いたまま、密偵としての役目を果たして命を落とす。
それが泣かせる。

このシリーズ、火付盗賊改方だけでは、面白さは半減するだろう。

時にはポケットマネーを出して、密偵の働きをねぎらい、場合によっては同心以上に感謝する。
そんな平蔵と密偵の関係が魅力なのだ。

長谷川平蔵、江戸のハードボイルド。

この人の部下なら、喜んで働ける。



| | | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
鬼平
池波正太郎を読んでいる。

以前、「仕掛人・藤枝梅安」「蝶の戦記」「忍びの風」「忍びの女」「忍者丹波大介」「雲霧仁左右衛門」などを読んだが、この人の時代小説は好きだ。

柴田錬三郎とは違った面白さがある。
上品な(シバレンが下品というワケではないが)時代小説なのだ。

こないだテレビを見ていたら、さだまさしが出てきて、オススメの本について話していた。
その本が、「鬼平犯科帳」。

二十数冊出ているが、それを何度も買って読むとのこと。

鬼平の部下に対する人情やリーダーとしてのふるまいなど、鬼平の魅力を語っていた。
それを聞いて、読みたくなった。
たしか、実家にあったはず…。

貸してほしいというと、15冊ほどあった。
一巻、二巻、三巻、…途中まで揃っていて、最後の方の長編がある。
何でも、人に貸したりして、なくなっていったとのこと。

もうだいぶ古い本だ。
色が変わっているのもある。

でも、喜んで借りて帰る。
すぐに一巻を読んだ。
本当に面白い。

ひと言でいうと、江戸時代の美学。
盗人にもリクツがある。
鬼平はそのリクツを守らない盗人には容赦なくあたる。
火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)という機動力のある警察。
そのリーダーが鬼平こと長谷川平蔵。

時代小説だから、時代を感じさせないのではない。
池波正太郎の小説が、時代を超える魅力を持っているのだと思う。

当分は鬼平犯科帳。

眠るのが遅くなりそうだ…。



| | | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
忘れられない一冊
なくなった父は昭和ヒトケタで、あの世代は活字信仰が強い世代だったと思う。

本棚に新書を並べる(もちろん、読むのだが)のが好きだった。
多くは人文系の本で、今思えばビジネス関係の本も多かった。
残念ながら、ぼくはあまり読まなかったが…。

でも、その中の一冊で、中学の時に本棚から勝手に借りて読んだ本がある。
もう実家にはないだろうが…、物置にあるのかな。

「物理学的人生論」という題名の新書。

ぼくはアトムの世代だから、科学に憧れがあって、題名にひかれて何となく手にとって読んだ。
父がなぜそんな本を買ったのかはわからない。
あまりそういうジャンルには手を出してなかったような気がするのだが…、ひょっとしたら当時流行った本なのかもしれない。

人間というのは煎じ詰めると、物理的・化学的反応で成り立っている。
いろんなことを考えたりするのも、所詮は脳の中の細胞での反応に行きつく。
心も、気持ちも、結局は分子のやり取りから出てくるエネルギーによるものだ。
一方で、その世界を構成している分子はなぜ存在しているのか…

そんなことが書いてあったと思う。
すごく新鮮で、感激した。

今日思い出して調べてみたら、著者は猪木正文という人。1965年の出版。
もう新品は手に入らない。

この人は相対論や素粒子、物理学の本もあって、立派な物理学者だったようだ。

50代半ばで亡くなっている。
他界する2年前にこの本を出した。
物理学とは、この世の成り立ちを解明する学問だと思うが、最後は「では、この世はなんで存在するのだろう?」というところに行きつかざるを得ないのだと思う。
もちろん、それを「物理学」として扱うことはない。
そこから先は答えのない問いを考えるしかない。
そんなところから、きっとこの本を書かれたのだと思う。

そんなことを考えていたら、三十数年を経て、もう一度読んでみたくなった。

猪木先生にもう一度会う。

自分がわかったと思ってたことなど、きっとほんの少しなのだろう。

そんなことを確かめてみたくなった。

昔お世話になった先生に同窓会で会うような、そんな気がする。



| | | 14:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
西の魔女が死んだ
何人かの人に、「この本はいい」という感想を聞いた。

昨日本屋に行ったら、置いてあったので、何となく買ってしまった。

題名からして、ファンタジーだと思っていたら、そうではなかった。

少女の成長の物語。

自分らしく生きるためには、何が必要なんだろう。
どうしてもうまくいかないときには、どうしたらいいのだろう。
生きるための知恵とは何なんだろう。

それは、魔女の修行をすること。

「魔女は自分で決める」

西の魔女は死んでしまったけれど、その清々しさに心を打たれる。

そして、西の魔女は東の魔女の心の中で永遠に生きつづけるだろう。



| | | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
悪魔の選択 The Devil's Alternative
悪魔の選択 フレデリック・フォーサイス 角川文庫(上下)

1982年に発表された、スパイものの小説。

当時は、まだベルリンの壁があって、アメリカとソ連が冷戦状態にあった時代。

ソ連の小麦が凶作になり、その機に乗じてアメリカが軍縮の交渉を有利に持ちかけようという上巻の展開に、ウクライナの民族主義者によるKGBの長官の暗殺や、過去の恋人とモスクワで再会したイギリスのスパイが絡んでいく。

下巻は100万トンのタンカーへのテロ攻撃で、西ドイツ、イスラエル、アメリカ、イギリスの首脳陣と、ソ連の息をのむ交渉。
一気に読ませる。

東西冷戦の時代を知っている人なら、時代背景がわかるのだが、今の二十代の若い人にはわかるのだろうか…。

奇しくも、昨日ロシアがグルジアと戦闘状態に入ったというニュースがあった。

この小説に出てくる、ウクライナの闘士と同じような思いが、グルジアにもあるのだろう…とわかる。

このころは、ジェームズ・ボンドも時代の枠の中で活躍していた。
ロシアより愛をこめて…の時代。

小説の中では、一人のイギリス人スパイが、結果的に世界を動かす活躍をする。

そして、最後に彼だけがわかる、すごいどんでん返しが…。

よい小説は、歴史の教科書に勝るという見本のような本。

残念ながら、古本でないと手に入らない。

東西冷戦とは何だったのか…という時代の空気を知るには、格好の本だと思う。



| | | 18:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボス シカゴ市長R.デイリー
ボス シカゴ市長R.デイリー マイク・ロイコ 平凡社

大好きなコラムニスト、マイク・ロイコの本を探していて、古本を見つけた。

この本はマイク・ロイコが1973年に書いた、シカゴの市政の内幕を暴いた本。

マイク・ロイコは、コラムの名手だが、この本では辛口の批評を控え、どちらかというと淡々とシカゴの市政を20年以上牛耳ってきた、R.デイリー市長の行状を書いている。

いかにデイリー市長が集票マシーンを操ってきたか、いかに黒人をひどい目にあわせてきたか、どんなふうに有力な投票者に利益誘導してきたか…、こんなことがまかり通っていいものか、と思わされる。

このデイリー市長のワンマンさにも驚くが、彼が持っている集票力を期待して、民主党の大統領候補までが彼にすり寄るところまで描かれている。

この本を読んで、民主党に対するイメージが変わってしまった。

しょせん、政治家は票がほしい。それがどんなふうに集められた票であっても、票がほしいのだろう。

そして、アメリカも日本も、似たようなものだ…と思った。

何せ、この本で描かれたデイリー市長は結局5期21年市長を務め、その後は息子がいまだに市長をやっている、ということなのだから。

ネットで見ると、デイリー市長はいろいろな功績を残している…となっている。
空港やビルなどの整備…、それは事実なのだろう。

ロイコ氏のこの本をもってしても、デイリー市長の座は安泰だったということなのか。

悪いヤツほど、いいこともするということなのかもしれない。

ぼくは、てっきり本の最後にデイリー市長が失脚するものとばかり思っていた。
でも、そんなヤワなヤツではなかったということだ。

それほどまでにすごい地方政治のボスだったのだろう。

マイク・ロイコがこの本を書くのは勇気が必要だったはずだ。

アメリカでも、大統領選で票を動かすことができるボスは、何があっても生き延びられ、賞賛されるということなのか…。

そういうことがわかる本でした。






| | | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
清水義範の作文教室
清水義範の作文教室 清水義範 早川書房

文字通り、作家の清水義範が小学生に作文を教えるという本。

この人は、教育大を出て、先生の免許を持っている。
東京在住だが、弟が名古屋で塾をやっており、そこの生徒に作文の添削する。
その生徒たちの文章の成長と、作者が「作文」に対する思いを綴った本。

小学生だが、みんな上手に書く。

読んでいて一つ感心したのは、学校でやる作文のどこがいけないか、という点。

読書感想文のことが書いてあった。

読書感想文というのは、作文のジャンルの中でも、難しいものだという。
それを小学生に書かせる、というのがマチガイ。

それよりも、自由に題から作らせて、書かせるべき、というのが作者の意見。

なるほど、この本に出ている小学生たちの作文を読んでいると、自由に書くということはすばらしいことだと思う。
どんどん上手になっていく。

作者の添削もすばらしいんだろうと思うが、最初はぎこちなかった子どもたちが、本の中盤ではのびのびと文章を書いているのがわかる。
家族のこと、友だちのこと、何かを観察したこと、シリーズものの小説…、面白い。

「何を書いてもいい。ただし、読み手に伝わるように書く」という方針が子どもたちを育てていくのがわかる。

最後の章で作者は言う。

「論理的思考力がちゃんとあるか、説明力、描写力はどうか、言葉は豊かか、ユーモアがあるか、そして正しい文章と文字が書けるか。それらすべてが、作文からはうかがえるのである。」

「ということは、作文をうまく指導することができれば、一見遠回りのようではあるが、国語の大変有効な教育になるわけである。私はそう思うのだ。」

ぼくらの小学生の頃は、週に1時間は作文の時間があった。
でも、それは今はない。
夏休みの読書感想文や遠足の感想文だけだ。

たしかに、たくさんの作文を読むのは大変だし、それを評価するのも大変だろう。

でも、母が取っておいてくれた小学校の頃の作品があるが、それには赤ペンで先生の感想が書いてあったり、いいところに線を引いてほめていてくれたりする。
その作文を見ると、ふだんは思い出さない先生の顔も浮かべることができる。
ありがたいなあ、と今でも思うのだ。

ぼくも清水義範に賛成。



| | | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネコはどうしてわがままか
ネコはどうしてわがままか 日高敏隆 新潮文庫

日高敏隆は動物行動学者。
この人の本は面白い。

ドーキンスという人の書いた、「利己的な遺伝子」という本の翻訳者の一人。

以前、「春の数えかた」というエッセイ集も読んだが、この本もそれと同じようなエッセイ集。

第1部は春、夏、秋、冬の生き物風物詩、第2部は「いきもの」もしょせんは人間じゃないの!?という構成。

題名を見て買った。
本当にネコはわがままだと思う。
人間に媚びたりしない。
我関せず…というふうに生きているように見える。

それは、どういうことなのか…というようなことがたくさん書いてある。

「金網製パイプのモグラのトンネル」というエッセイには…

「かつてイギリスに、モグラについてこんな疑問をもった人がいた。「モグラは地面の下で一生懸命、土を掘って歩き、どこかでミミズに出会ったらそれを食べる。そんなことでちゃんと労力に見合っているのだろうか?」というのだ。
いかにも資本主義の生みの親であるイギリス人らしい発想だった。それで、その人はモグラの生活をくわしく調べてみた。」

こんな書き出しである。

モグラのことも面白いが、作者が面白がっているのは、「イギリス人」であるように見える。
動物行動学者は、人間の行動も面白がって見ている。

「スズメのお宿の謎」には…

「スズメはいつも人間の近くにいるような気がするが、じつは人間をたいへん警戒している。人がたえず出入りする家の入り口などには、絶対に巣をつくらない。ツバメはスズメのこの性質の裏をかいて、できるだけ人の出入りの多い家の軒下に巣をかけているのである。鳥たちの世界も、なかなか複雑なのだ。」

なるほど。そういえばそうかもしれない。

「ネコはどうしてわがままか」には…

「ライオン、トラ、そして、ネコなど、世界にネコ族のけものはたくさんいるが、共通しているのは単独性の動物だということである。ネコ族で群れをつくるのはライオンぐらいしかいない。ネコ、つまりイエネコも、本来、単独性の動物である。このことがネコのネコらしさ、ネコとイヌのちがいを生む一番の根源になっている。」

要は、ネコは一匹で単独に暮らしたがっている…らしい。

人間を親とすると、イエネコは子であり、子が泣くと親は飛んでいくが、親が泣いても、子はこない。だから、飼い主が呼んでも、ネコは来ない…ということだ。

動物から昆虫まで、作者の目はあらゆる生き物に注がれる。

楽しい本だった。


| | | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
黒笑小説
黒笑小説 東野圭吾 集英社文庫

怪笑小説、毒笑小説に続く東野圭吾のブラックユーモアの短編小説集の3冊目。
長いブランクだった。(推理小説はたくさん書いているが)

この人、自分でも筒井康隆の短編を意識しているのだろう。
筒井が書いた文壇のパロディ小説である、「大いなる助走」と同じテーマで書いている短編を「もうひとつの助走」という題名にしている。

文学賞をなかなか取れない作家と、それを取り巻く編集者たちの思いを皮肉たっぷりに書いている。

13の短編のうち、4つほどが文壇や編集者をテーマしたもの。

さもありなん…という内容で、いずれも、虚勢をはる作家と職業柄しかたなくつき合っている編集者のぼやきや、作家を商品として冷たく見ている出版社の内実が、皮肉たっぷりに書かれている。

東野圭吾が実際にそんなふうに扱われたとは思わないが、作家という商売、何が売れるのかワカラナイ…という綱渡りのような世界を歩んでいるということがよくわかる。
売っているのは、作家の力量なのか、それとも出版社の方針なのか…。
作家から見ると、たしかにそういう側面もあるのだろう。
「いい小説」と「売れる小説」は違うだろうし、文学賞の選考作家たちの思惑と、出版社の見方は違うのかもしれない。

今や、小説よりもコミックの方がドラマ化されるケースが多いのだから、時代も変わったものだ。

文壇をテーマにしたもの以外にも面白いものが揃っている。

ぼくは、やっぱり若いころに読んだ筒井康隆の短編の方が好きだが、眠れぬ夜を過ごすためにはもってこいの短編集。

笑えるところは少ないが、にんまりできる。




| | | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
発見・また発見!
発見・また発見! アイザック・アシモフ ハヤカワ文庫。

アシモフの科学エッセイの第6巻。

この本では、20世紀に入ってからのいろいろな発見をまとめて紹介している。

この本が書かれたころ(1970年代)の人口が35億人。
今の人口が66億人。
すごい増え方だ。

その人間を食わしていくためには、食物が必要だ。
それを増産する方法の一つは、人間以外の動物にそれを食べられないようにすること…。
一番の大敵は、昆虫である。昆虫は、地球上の動物のうちで、最も成功した形態をもつ生き物である。
地上にはほぼ100万種の昆虫が知られているが、おそらくそのほか200万種の、まだ見つかっていない昆虫がいると思われる。
これは、ほかの生物全部の種の合計よりはるかに多い。

ほとんどあらゆる種類の昆虫は、人畜に対して無害である。
役に立つ昆虫もいるし、生態系の中で必要なものである。
しかし、病原菌を運ぶ昆虫や食べ物を荒らす昆虫とは戦わざるを得ない。
そこで、発明されたのが、DDT。
人間には無害だが、昆虫は殺すことができる。

しかし、特定の昆虫だけを殺す薬はできないのか?
それが、できるのだ。
特定の木から取り出される物質が、それにあたる。
昆虫に食べられる植物が、数百、数千万年の進化の間に自己防衛の方法を発達させたのだ…。

そんな話からこのエッセイ集は始まる。

続いて、なぜ地球上に生命がうまれたのか?という話。
生命とは何か?という定義から始まる。

そして、物質の成り立ちの話。
原子、電子、陽子、中性子、クォーク…。

電波望遠鏡で発見された、太陽系の惑星の観測の話。
この、電波望遠鏡の発明の経緯はおもしろかった。
電波によって宇宙を調べることができることは、偶然わかっていたのだが、それが電波望遠鏡になるまでは時間がかかった…という話だ。

そして、最後にロケットの発明にいたるお話。

このシリーズ4冊目だが、読み出したらやめられない。

おかげで、休みの日はあまり外に出られない…。




| | | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
おとなしいアメリカ人
おとなしいアメリカ人 グレアム・グリーン 早川文庫。

こないだ、アメリカの保守主義に関する講演を聞いたが、その中で勧められた本。

グレアム・グリーンはイギリスの作家。
舞台はフランス統治下のベトナムであり、主人公はイギリスの現地駐在の新聞記者。

当時のイギリスをはじめとするヨーロッパ人が、大きな力を持つアメリカに対して持っていた「気分」を表した小説。

「アメリカ人」というと、「ヤンキー」のイメージでTシャツ姿で、大声で話し、ヨーロッパ人から見ると「かなわんヤツ」という雰囲気があると思う。

でも、そんなアメリカ人はまだマシで、「おとなしいアメリカ人」の方が困った存在だ…と主人公は考える。

おとなしいアメリカ人は、現実から離れた「理想」を持っており、それを「正義」として実現しようとする。
彼らの無邪気な「正義」ほど困ったものはないのだ。

ベトナムが南北に分断され、後のアメリカによるベトナム戦争に入る前の時代。

こんな風にして、アメリカはベトナム戦争に入っていったのか、ということがわかる。

そんな歴史的な背景の中で、退廃的なイギリス人新聞記者が、現地の恋人をアメリカ人と競いながら生きていく。

イギリス人が関わった、おとなしいアメリカ人の死を通して、あの時代のヨーロッパとアメリカの思いが描かれる。

ミステリ仕立てで書かれている。

この時のアメリカにはまだ理想があった。

でも、今のアメリカには理想よりもマネーが大事になったように見える。

グレアム・グリーンが生きていたら、どんなふうに描いただろうか…。

| | | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
素粒子のモンスター
ハヤカワ文庫アシモフの科学エッセイの第11巻。

このシリーズ3冊目を読んだ。

アシモフ先生の博学多識はすごい。
それ以上に、アシモフ先生自身が楽しみながら書いているのが伝わってくるのが楽しい。
自称「おせっかいな物知り屋」らしいシリーズ。

相対性理論の話、植物の葉緑体の話、初めて空を飛んだ人の話(ライト兄弟ではなく、気球で飛んだ人がいる…残念ながら最初の墜落事故を起こして亡くなった)など、次から次へと手品師にように繰り出される。

話の中でいつも感心するのは、リクツを述べるだけではなく、そのことに絡んだ人たちのことが語られることだ。

科学の歴史は、人間の歴史でもある。

正統に評価されている人、不幸にも少し遅れてしまって名を残せなかった人、惜しくも死んでしまってから評価された人…、アシモフ先生はそれらを丁寧に発掘して、暖かい目で紹介する。

標題となっている素粒子のモンスターというのは、磁気単極子のこと。
電気は、陽子と電子というプラス、マイナスのものに分かれるのだが、磁気はどんなものにもN極とS極が存在する両極子しか見つかっていない。
きっと、単極子(N極、S極のどちらかだけを持つ粒子)が存在するはずであり、それはすごく質量の大きなもの(モンスター)であるという話。

この本は1987年に出版されているが、残念ながら今でも書いてあることはそのままだった。
20年経っても、見つかっていないのだ。

逆に言うと、20年前に今でも通用しそうな話題を選んで書いているということになる。

あと何冊か読むつもり。



| | | 11:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
空想自然科学入門
アシモフ先生の科学エッセイのハヤカワ文庫第1巻。

この人は本当におもしろい。

生物学・化学・物理学・天文学の4部に分かれている。

第一部の生物学では、今の地球上に生まれた生物(水の中に生まれた、核酸とタンパク質を中心とするもの)以外の生物の可能性を追求している。
太陽系をモデルにして、各々の惑星の温度と、その上で液体であり得るもの、複雑な分子構造をとりえるものという考察を行って、生命のタイプを6つに分けている。
SF作家の面目躍如といったところか。

第二部の化学では、分子量が定められた歴史をわかりやすく語る。水素=1にするのか、酸素=16にするのか、炭素=12にするのか…。
ハッキリした数字が決まらないのは、やっかいな同位元素というものがあるからで、それは化学者ではなく物理学者の発見だった。そして、物理学者は化学者と違う数字を使いはじめ、具合が悪いことにそれは、それまで化学者が使っていた数字よりも正しい数字だったということらしい。
ぼくがこの数字を習ったのは1974年くらいだったと思うが、本によると今の形で分子量が決まったのは1961年。
化学者と物理学者がお互いに受け入れ合った結果だとのこと。
ふーん、そんなに新しい数字だったのか、と思う。

第三部の物理学では、エントロピーについて書いてあった。
熱力学から始まって、秩序・無秩序の話になる。
エントロピーはつねに増大し、あらゆる形のエネルギーの中で、熱が最も無秩序なものであり、熱でないエネルギーで何かが起こるときには、つねにそのいくらかは熱に変換されてエントロピーが増えてしまう。
なるほど…、地球上でエントロピーを減らすような行為は、太陽の中で質量がエネルギーに転換されてエントロピーが増大しているおかげなのか。

第四部の天文学では、宇宙の温度の上限はどれくらいなんだろう?という話が出てきた。
これは以前NHKの番組でみたことがあるが、超新星ができたときの内部温度がそれにあたるらしい。
それが60億度。これ以上には到達できない(爆発を起こしてしまうかららしい)
ニュートリノが熱エネルギーを持って飛び去ってしまうからとのこと。

これを実際に測ったのが、カミオカンデ。超新星の爆発で飛んできたニュートリノを測り、日本がノーベル賞をもらった。
やっとその意味がわかった。

このシリーズ、今となっては古い内容もあるだろう。
科学は日進月歩だから、それはしかたがない。
でも、アシモフ先生がときおりユーモアを交えながら、わかりやすく話してくれるエッセイは、読んでいて楽しい。
毎晩、少しずつ読んでいるが、ついつい寝るのが遅くなってしまう。

アシモフ先生のような科学者が、理科の教科書を作ってくれれば、いいのだ。

30年ほど前に出たシリーズだが、今になって読みはじめて2冊目。

こういうのは絶版にしてほしくないなあ…。





| | | 02:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
カスに向かって撃て!
前から読んでいるバウンティ・ハンター(保釈逃亡者逮捕請負人)、ステファニー・プラムのシリーズ。

もうこれで11作目になる。
前作は声を出して笑ってしまう場面があったが、今回は控えめだった。

いろいろと個性の強いキャラクターが出てくる。
主人公はハードボイルドらしく、ヘンなところで自分の考えを貫く女性。
この手の主人公は孤独なことが多いのだが、この人は家族を持っていて、それがこのシリーズの特徴かな。
寡黙なお父さん、料理が上手なお母さん、ちょっと神経質なお姉さん、馬が好きな姪、そして葬式好きなおばあちゃん…。
このおばあちゃんはシリーズの名脇役になっている。

毎回乗っているクルマが炎上するのだが、今回もやってくれる。
もう本人も慣れっこになった感じ。

ラストは意外なドタバタで一気に終わる。
これがまた面白い。

ジャネット・イヴァノヴィッチという作者は、このシリーズでベストセラー作家になったらしい。
すでに本国では15作目が出ている。

ハードボイルドのシリーズは、いずれも本のカバーのきれいなものが多い。
ステファニーのシリーズは、前作まで扶桑社ミステリー文庫だったのだが、今回から集英社文庫になった。
カバーのイラストが変わり、ポップな絵になった。これはちょっと残念。

気に入っているのは、V.I.ウォーショースキーのシリーズのイラスト。
ハヤカワ文庫だが、孤独な女探偵という感じが出ている。

…ということで、12作目を待とう。



| | | 01:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
フォークソング されどわれらが日々
「これは面白い」ということで、貸してもらった。
60年代に活躍したフォークシンガーたちへのインタビューを、文春が編集して作った本。

懐かしい名前が並ぶ。

高石ともや、西岡たかし、三上寛、山崎ハコ、シモンズ、りりィ、小室等…。

当時流行った歌の歌詞、プロフィール、あの頃をふり返っての本人の語り。

おそらく、ぼくよりも一世代上の人たちには同時代の感覚があるのだと思う。

ビックリしたのは、山崎ハコが同い年だったこと。
暗い歌を歌う人だった。
「貝殻節」はこの人が歌っていたとばかり思っていたが、記憶違いかな…。
さっきネットで見たら、民謡だったんですね。

話はそれたが、ほとんどの人が年上である中で、山崎ハコは年が同じということもあって、すごく興味深かった。

大分の出身で、ギターが好きな普通の女の子。
インタビューでも、ところどころ大分弁が出てきた。社長の方針で「作られた偶像」になってしまった。
一時は体重が29キロしかなく、自動ドアも開かなかったとのこと。
家の都合で九州を出て、横浜に行くときに、友だちが駅に来てくれて冷凍ミカンを買ってくれた…。
自分の歌を背負って生きている。

横浜についたとき、タクシーの中で酔っぱらったお父さんに
「お父さん、港はどこにあるとね。汽笛が鳴らんね。外国船があるとね。水兵さんはおらんとね。」
と言って、運転手さんに笑われたという。

そんな人やったんか…。

日本中に1957年生まれがどれだけいるのか知らないが、この人がその一人だとは思わなかった。

もう一度山崎ハコを聞いてみたいと思う。




| | | 21:22 | comments(2) | trackbacks(0) |
坂の上の雲
一時、司馬遼太郎の本をたくさん読んだ。

「坂の上の雲」はそのとっかかり。
明治時代の日露戦争を描いた小説で、単行本で7巻か8巻あったと思う。

…というのは、この本は亡くなった父がどういうわけか会社から借りてきて(図書館などないだろうから、誰か同僚に借りたのか?)読んだ本だからだ。

長い小説だが、読み出すとやめられなくて困った。

高校3年の時、これは面白い…ということで勧められ、第1巻を読んでしまったのが運のつきだった。

当時はまだ文庫にはなっていなかったし、単行本を待つしかなかった。

どれくらいかけて全巻を読み終えたのかは覚えていないが、2ヶ月くらいかかったのか…。

とにかく、最後の1巻は父が持って帰ってきた本を借りて、すぐに部屋にこもって読み通した記憶がある。

期末試験か何かの前だったが、試験勉強などしていられなかった。

この小説がドラマ化されるらしい。

こんな壮大な小説がテレビでできるのかな?

来年の秋からNHKでスペシャルドラマとしてやるらしいが…。

ぼくは見ない…と思う。

この本については、小説の記憶をおいておこうと思っている。





| | | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
マイク・ロイコ
こないだ、ボブ・グリーンのことを書いたが、もう一人好きなコラムニストがいる。

それが、マイク・ロイコ。
どういうわけか、どちらもシカゴの新聞に書いていた。

ロイコは1932年生まれで、97年に亡くなっている。

ボブ・グリーンよりも、少し辛口のコラムを書く。

世間話風の書き出しで始まって、ホロリと終わるような話もあるし、最後の一行で、キツイ風刺をたっぷり効かせたような話もある。

クリスマス コラムという本に書かれている、世界で一番素敵なクリスマス・ツリーの話は本当にいい話だった。

でも、この人の本ももう古本でしか手に入らない。

最近は、長いストーリーを読んでいると寝てしまうので、短い話の本が多くなった。

いいコラムは、寝る前の心をスッキリさせる。

山本夏彦や山口瞳、佐藤愛子、曾野綾子、田辺聖子など日本の作家も好きだが、アメリカのコラムニストは(原文で読んだわけではないが)、歯切れがよくて、読みやすい。

グリーンとロイコ、枕もとにオススメ…だが、本屋で買えないのが残念。



| | | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
希望
ボブ・グリーンの「アメリカン・タイム」というコラム集から、「新聞記者の仕事」という記事を紹介する。

これは、オハイオ州立大フットボール部の元コーチが亡くなったときの墓碑銘のおはなし。

そのコーチは、時々暴力行為におよび、相手チームの選手をなぐってクビになったという経歴の持ち主で、世間は彼のことを誤解している…という記事だった。
本当は彼は親切で思いやりがあって、考え深い人物だったというのが、グリーンの書きたかったことだった。

グリーンは元コーチが病気になる直前、一緒に夕食をして、話を聞いた。
かれは「勝つということ」について、尋ねたのだ。

元コーチは言う。

「要するに、勝つことと同じくらい重要なことが何かあるんじゃないか、と君は訊いているわけだ。で、わたしも答えはイエスだと思うよ。勝つことよりももっと大事な何事かがあるんだ。」

それは何か、とグリーンが訊くと、

「偉大な伝道者の言葉があるんだけどね」と彼はいった。「父がいつも引用していたものさ。私が朗読するより、父のほうがずっとうまかったな。”死の訪れる夜にしてなお、希望は星を眺め、ささやかれる愛の言葉は翼のはばたきを聞く”」

「わかるだろ」と彼はいった。

「大事なことは、つねに勝つことじゃない。大事なことは、つねに希望を持つということなのさ。」

その記事を見て、元コーチの家族は引用された詩を、墓碑に刻んだ…という話だった。

最後にグリーンは書く。

新聞記者をしていると、腹が立ったり、シニカルになったりするようなことがたくさん起こるものだ。が、時として、すばらしい何事か−他のことすべてが報われるような何事かも起こるのである。

いい話だった。

「つねに勝つこと」と「つねに希望を持つこと」というのは意外な組み合わせではないか…。

アメリカの大学のフットボールコーチというのは、すごいプレッシャーの中で「勝たねばならない」仕事だったはず。
本当に厳しいコーチだったと思うが、その彼が詩を引用して「希望」こそが大事だという。


週末に3冊読んだが、ほんと、文庫を復活させるべきだと思う。





| | | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
正月の読書
この休みに本を3冊読んだ。

2冊は高島俊夫の本。「座右の名文」と「漢字と日本人」いずれも文春新書。

「座右の名文」は高島さんが名文家だと思っている人たちの思想と文章を紹介したもの。

新井白石、本居宣長、寺田寅彦、夏目漱石、森鴎外、斎藤茂吉…、いずれも歴史か国語で習った人たち。
森鴎外の項が一番面白かった。
それぞれの文章家に対して語られる作者の評が面白い。

「漢字と日本人」は素晴らしい本。

日本語が豊かな語彙を持つ前に、中国から渡ってきた文字を使って表記を始めた日本語というものの本質が誰にでもわかるように説明される。
特に明治以降、西洋の概念をどんどん漢字で作ってしまったため、今の日本人は話す「音」をいったん漢字に置き換えないと意味がわからなくなってしまっているという状態の説明は圧巻だ。
「お言葉ですが」のシリーズでも、何度も語られているが、今の活字の制限状態はオカシイという指摘は正しい。
それとともに、今の日本語で「書く」時には、できるだけかなを使って書こう、という姿勢も納得できる。
「言葉というものは、それによって世界の認識を切り取るもの」…そのとおりだと思う。
今は目が悪くなって、執筆もできない状態のようだが、中国語、英語を例に引きながら丁寧に書かれた日本語の「文字」と「言語」についての説明は、この人でなければ書けなかったものだと思う。

もう1冊は「その数学が戦略を決める」イアン・エアーズ。

どんどん情報がデジタル化されて、いかに専門家といわれる人たちの判断がいい加減で、データーに基づく判断の方が正しいかということが、これでもかと語られる。
筆者は計量経済学の専門家。
大量の数字を扱う環境が整い、なぜアマゾンで本を買ったら、その人にとってのオススメ本が瞬時に紹介されるのかなどの技術についても言及される。
スポーツ、ワインの出来、医療、結婚、犯罪の再犯率などの政策分野など、統計データーの活用範囲は広がるばかり。
映画の脚本さえ、どうしたら当たるのかという予測が成り立つ現代。
今のアメリカの状況がよくわかる。
最後の章で、簡単な統計の知識についても紹介されている。
ギガからテラ、そしてペタという大量のデーターが簡単に扱えるようになったということが、これほどまでに世の中を変えていくのかということと、それに対する人間の拒否反応が対照的で面白い。
犯罪についても、アメリカでは顔の認識ソフトを使って、免許証の写真データーベースから容疑者をマッチさせるということすらやっているらしい。
特に政策分野での統計の活用という面で、日本が圧倒的に遅れていることがよくわかった。
もともとデーターがないのだ。
クルマを安全に作るためには事故のデーターが必要だが、そのデーターは国内にはほとんどなく、日本の自動車メーカーは海外のデーターを使っているという話を聞いたことがある。
東洋人は分析が不得意なのかもしれない…と本気で思った。

明日から仕事。

今年は年初からいい本に出会えてよかった。




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国語入試問題必勝法
長男に教えてもらって、清水義範の「国語入試問題必勝法」という本を買った。

これは参考書ではなくて、文庫の短編小説集。巻末に作者が、まちがってこの本を買った受験生にごめんなさい、と書いていた。

表題作は、解答選択式の国語の入試問題の無意味さを笑いとばしている作品。
長文を読んで、ある部分の意味を次の5つの中から選べ…というような問題が不得意な生徒に対して、プロの先生が教える必勝法のおはなし。

「長短除外の法則」は、選択の解答文のうち、一番長いものと一番短いものは正解ではないというもの。

もう一つの法則は、5つの選択肢は通常「展、外、大、小、誤」に分けられる…というもの。
 「展」は問題文の内容を少し発展させたもの。
 「外」は少しピントがはずれているもの。
 「大」は内容を拡大しているもの。
 「小」は内容が不足しているもの。
 「誤」は内容がオカシイもの。
このうち、「外」が正解になる、という決まりである。

ふーん、と納得した。

毎年、センター入試の問題が新聞に出るが、国語の問題を見るたびに、ワケがわからないと思う。(国語しか見ないが…)

解答の文章がいくつか間違っているのはあるにせよ、それ以外はどれでもいいような気がするからだ。
「展外大小誤」はよくできた解説だと思う。

こんな問題をやっていて、国語の力がつくなどとは思えない。
だいたい、名前と受験番号以外は全部マークを塗りつぶすだけ…というような国語の問題などオカシイ。
文字や文章を考えて「書く」という事なしに、国語の力など、はかれるはずがない。

だから、作品の中で先生が生徒に言う。「君はまず問題文を読んで、理解しようとしただろう、それがマチガイだ」
問題文を理解しようと読んでしまうと、その内容から「展」を選んでしまうらしい。
センター入試の問題を見ていると、さもありなん…と思ってしまう。

あとがきで、これはあくまでフィクションだから信じないように…と作者は言っているが、半分以上信じても良さそうな気がする。

生徒の成績はすごく良くなるものの、結末は意外なものになるが、これは読んでのお楽しみ。

1990年に出た本。ずいぶん前にこんな小説を書いた人がいたとは…。感心した。



| | | 01:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
英和翻訳表現辞典
3年前に亡くなられたSさんの遺品としていただいた本。

Sさんは英語の達人だった。

会社に見学に来たカナダ人が、あまりにも発音がネィティブなのに感激して、お土産をもらったこともあった。
外人に、駅で三宮はどちらの方向か?と聞かれ「こっち(This way)」とひとこと言っただけで、「あなたは日本人か?」と聞かれたこともあった。
BillというニックネームがWilliamの愛称だということも教えてもらった。
めずらしい魚の名前や野菜の名前がスラスラと出てくる人だった。

以前、翻訳をされたらどうですか?と聞いたら、自分は英語は英語のまま理解するので、それを日本語に変えるのは難しいし、翻訳というのは英語ができる事も必要だが、ちゃんとした日本語を書く能力の方が大事で、それだからダメなんだと言われていた。

英文のレターを書いて、写しで送ったら、何度かに一度は「君もちゃんと書くようになったなあ」と言われたりした。
細かいところでは、たくさんマチガイがあるが、意味はちゃんとわかる…ということだった。

一番難しいのは、冠詞の"a"と"the"。日本語にはない概念なので、本当に使い方が難しい。
これはさすがにSさんでも難しかったとのこと。
どうしようもない時は、複数形で逃げたり、hisなどの代名詞で逃げたりする…ということだった。

この英和翻訳表現辞典は辞書ではなく辞典である。
数々の英語の単語を、通常の日本語で示している。
英語を、やまとことばになおす、というコンセプトだ。

高い本だが、英語のレベルが高かったSさんだからこそ、こういう本を持っておられたのだろう。

"alarm"という見出しに鉛筆でチェックが入っていた。
きっと、この訳は覚えておこうと思われたのだろう。
1ページにわたって説明が書かれており、そこにこの単語の難しさがあらわれている。
例文と訳例が載っているが、これを「警戒心を起こさせる」と訳すとよい、という記載がある。
なるほど…という言葉だ。

序文に、この本では単語の定義訳ではなく、表現訳を与え、親身な日本語に訳しやすいように…ということで作られたと書いてあった。
引く辞書ではなく、読む辞典である。

本屋で手にとっても、買っていなかっただろう。

でも、この本を読めば、英語が上手になると思う。
スゴイ本だ。

手に届くところに置いておこうと思う。

今になって、さらにSさんのすごさを思う。

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フィリップ・マーロウの事件
フィリップ・マーロウの事件 レイモンド・チャンドラー他 ハヤカワ文庫

この本は、レイモンド・チャンドラーが1939年に生んだハードボイルド探偵、フィリップ・マーロウを主人公にした短編集。
チャンドラーの生誕100年記念に作られたもの。
書いているのは、チャンドラーの他に15人のミステリ作家たちだ。

チャンドラー以外に知っていたのは、サラ・パレツキーだけだった。

いずれの作家も、チャンドラーを何らかの意味で崇拝しており、フィリップ・マーロウのファンであり、短編の最後に各々のマーロウ観、チャンドラー観が語られている。

実際には、チャンドラーはマーロウの短編を1作しか書かなかったらしく、それが最後に収められている。

私立探偵、フィリップ・マーロウといえば、「タフでなければ生きてゆけない。やさしくなければ生きていく資格がない。」という名文句が思い浮かぶ。
ハードボイルドの美学、という言葉を体現しているような探偵。マーロウこそ、「美学」という言葉がぴったりくる。
「美学」を言い換えると、「やせがまん」になるのかな。
この本を読むと、そう思う。

さすがに有名な作家たちだけあって、どの短編も当時のアメリカの世界に引き込まれ、マーロウの、時にシニカルで、時にロマンチックで、時に辛辣な言葉と行動に魅了される。

この中で、多くの作家たちが語っているように、チャンドラーがいなければ、このような世界は語られなかっただろうし、その後多くの魅力的な私立探偵たちは生まれなかったかもしれない。

もう一度、チャンドラーの長編を読んでみたくなった。



| | | 01:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
世界反米ジョーク集
世界反米ジョーク集 早坂 隆 中公新書ラクレ

世界で楽しまれている、アメリカをネタにしたジョーク集。
とにかく、ブッシュの評判が悪いのには驚かされる。
イラクの失敗、単独行動主義、国連軽視など、いろいろネタがある。
良きにつけ、悪しきにつけ、超大国はネタにされるのだろうが、ブッシュジュニアになってからはひどくなったのだろう。

9.11の同時多発テロは世界を変えてしまった。
21世紀の初頭に、21世紀最大の事件が起こった…ということになってほしい。
これ以上の事件はもう起こってほしくない。

今のブッシュ政権の中核にいるネオコン(ネオ・コンサバティブ=新保守主義者)などについても解説されている。
アメリカの政治、外交、国内事情について、簡潔にまとめた解説があり、笑えるジョークがあり、楽しい本。

地球人口の5%を占めるアメリカが、世界の二酸化炭素の排出量の25%を占めているのに、京都議定書を認めなかった…というようなことも書かれている。

アメリカの軍事予算は3991億ドル(2004年度)であり、世界の軍事予算の4割以上を占め、2位のロシアの6倍以上だそうだ。
もう東西冷戦などない。

アメリカが中東やバルカン半島で使用した、劣化ウラン兵器の影響は今も深刻とのこと。
半減期は45億年らしい。

第2次大戦以降、1950年朝鮮半島、54年グアテマラ、63年ベトナム、83年レバノン、グレナダ、89年パナマ、91年湾岸、93年ソマリア、98年スーダン、99年コソボ、01年アフガニスタン、03年イラク…がアメリカが関与した戦争。
武器の輸出超大国でもある。

「ある青年が本屋に行って店員に聞いた。
「平和国家・アメリカ」という本は置いてありますか?
「ええ、あるわよ。そこのファンタジーノベルの棚に」

「ジョークの世界では、20世紀後半の主役はソ連だった。スターリンやフルシチョフは絶好の笑いの標的となり、ヨーロッパを中心として世界各国で楽しまれた。それが21世紀を迎えた今、主役はアメリカへと移行した。反米ジョークによってアメリカは世界中の人々に笑われている。」

その他にも、銃社会、訴訟の問題など、アメリカの国内問題についてもいろいろと書かれている。

このシリーズはなかなかおもしろいです。


| | | 00:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
うらやましい人
うらやましい人 日本エッセイストクラブ編 文春文庫

2003年版のエッセイストクラブのベスト・エッセイ集。
66篇のエッセイが載っている。

有名な人、名前も知らない人、長いもの、短いもの、堅いもの、柔らかいもの…いろいろある。

何でこれが選ばれたんだろう?というものもあるし、これはいいなあ、というものもある。

思ったことを書いているもの、綿密に調べたもの、ふーんと思わせるもの、そうそうと思わせるもの…エッセイは幅が広い。

実はだいぶ前に買って、置いてあったのだがなかなか読めなかった。
長いこと枕の肥やし(枕もとに、読みかけの本が積んである)になっていたのだ。

どうも、読みたいと思って買う本というのは、書き手との波長が合うというような事があるのだと思う。
文章のリズムとか、話のもって行き方とか、何かが自分と合うのだろう。

ぼくは詩が苦手で、詩人の書いたエッセイがいくつか載っているのだが、何となく読みにくい。

たくさんの人のエッセイを読むと、同じような言葉を使って書いてあっても、好き嫌いがあって、それがおもしろい。

ピンと来るものと、何となくズレているものがある。

息をするように、すっくり頭に入ってくるものは、例えば田辺聖子のものであったり、藤原正彦のものであったり、林望センセイであったり…やっぱり読んだことがある人の書いたものだった。

そんなこんなで、なかなか読めなかったが、ついに読み終えた。

たまには、自分と合わないものも読まないといけないのかもしれない。

それにしても、何が違うのかな…。
内容そのものではなくて、やっぱり、リズムみたいなものだと思う。

文章は人をあらわすというが、それはその人の持っている天性のリズムみたいなものなのかもしれない。


| | | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
恋のからたち垣の巻
恋のからたち垣の巻 田辺聖子 集英社文庫

題名には異本源氏物語という副題がついている。
田辺聖子の源氏物語を土台にした小説。

笑える、という意味での「おもしろい」本。

主人公は伴男(ともお)という、光源氏の家来。
舞台は京都で、大将(光源氏)のセリフがやたらおもしろい。
本物の源氏物語では、一部の隙もない二枚目であるが、この物語ではワガママで少し天然ボケが入ったオジサンになっている。

紫式部も出てきて、これは、人気作家の役…そのままである。

高校の古典の教科書で、源氏物語も枕草子も習ったが、どちらもそれから10年以上たって、田辺聖子で読んだ。
源氏物語は他の人も現代語訳しているが、読み比べてみたらおもしろいだろう…とは思うものの、なかなか実行にうつせない。
田辺聖子訳がすごくおもしろかったからだ。(これは興味深いという方のおもしろい)

この本は、平安時代の京都を舞台に、光源氏のお供の伴男が主人のワガママに振り回されて困る…というもので、源氏物語に出てきた女性たちは出てこない。
このシリーズ、もう2冊あるようで(あとがきを見るまで知らなかった)、そちらの方は源氏物語のパロディの部分もあるようだ。

いつもの事ながら、楽しんで読める。

浮き世の憂さを忘れて、本の世界に入りたいというような時には、田辺聖子にかぎる。

言葉がスッと頭に入ってくるのは、文章が上手だからだと思う。

短編7つ、あっという間に時間は過ぎます。


| | | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
事件の後はカプチーノ
事件の後はカプチーノ クレオ・コイル ランダムハウス講談社

ニューヨークのコーヒーハウスを舞台にしたミステリの2作目。
今回もコーヒーに関するうんちくが読める。

でも、1作目よりはミステリっぽくなっている。

今回は主人公のクレアが、娘がお見合いパーティに出るのを心配して自分もそこに参加し、恋に落ちてしまう…という筋立て。

クレアの恋は何とも言えない結末を迎えるのだが…。

相変わらずコーヒーづくしの本である。

コーヒーのリキュールや肉料理にコーヒーを使うものなど、色々と出てくる。

ビレッジブレンドという、クレアのコーヒーショップに行ってみたいと思わされる本だ。

今回もエスプレッソについて、こんな書き方をしている。
作者はよほどのエスプレッソファンなんだろう。

「抽出のプロセスが始まるとエスプレッソの粘度をチェックし、たらりたらりと出ているかどうかを確かめる(そうです、エスプレッソは温かいハチミツのようにたらりたらりとにじみ出てこなくてはだめ。勢いよく流れ出てきたら、マシンの温度と圧力に問題があるということ。これではエスプレッソとはいえない。ふつうにいれた、ただのコーヒー)。
 ビレッジブレンドのエスプレッソマシンは半手動式だ。つまり、バリスタ(いまのわたしのこと)が手動で湯の流れを止めなくてはならない。止める時間は八秒間から二十四秒間のあいだ。それ以上長く止めていれば抽出しすぎてしまう(豆に含まれる糖類がそこなわれて苦くて焦げた味になる)。それよりも短いと抽出が足りなくなる(薄くて風味のない、ぱっとしない味になる)最高のエスプレッソをいれるためには、たくさんのことに気を配り、微妙なさじ加減で調整しなくてはならない−もちろん、タイミングもそのひとつ。そう、人生と同じ。」

どうです?
ビレッジブレンドのエスプレッソを飲んでみたい…と思うでしょう??

3作目が楽しみである。



| | | 22:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
マネー・ハッキング
マネー・ハッキング 幸田真音 講談社文庫

だいぶ前に、デリバティブの事が書いてあるとのことで、買った本。
連休前に読んだ。

この幸田真音という人は、もともと外資系の銀行でディーラーをやっていただけあって、銀行内部の様子やディーリングの場面はすごく臨場感がある。

主人公は女性のベテラン銀行員。業務一筋で、プロのキャリア・ウーマン。
そこに、若い天才ハッカーと中年の債権ディーラーが絡んで、一つの賭けをやるというおはなし。

3人の生まれも育ちも全く違う人間が、一つの犯罪をやるために力を合わせ、だんだんと強い絆で結ばれていく。

そして最後には、3人とも自分の夢を追って、別れていく…。

犯罪を犯しながらも、銀行内部の不正を暴き、どんでん返しが心地よいストーリー。

1996年に書かれた作品であり、インターネットの記述については少し古さを感じるが、銀行内部のディーリングの様子や伝票処理、オプション取引の様子など、迫力がある。

お金が、お金を生む…虚業である銀行の中がよくわかる作品。

この人の金融小説は面白いですよ。


| | | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
名探偵のコーヒーのいれ方
名探偵のコーヒーのいれ方 クレオ・コイル ランダムハウス講談社

マンハッタンのコーヒーハウス、「ビレッジブレンド」が舞台。
主人公はこの店のマネージャー、クレア・コージー。以前の夫がコーヒー豆の買い付けに世界を飛び回っている。
その夫の母親がビレッジブレンドのオーナーである。

主人公がニュージャージーから、このマンハッタンに戻ってくるところから、物語は始まる。

ミステリとしてはさほどこみ入ったものではないが(充分に楽しめるけど)、とにかくコーヒーについて語られるところが魅力的な本。

出てくるコーヒーの種類も豊富。

ギリシャ・コーヒー、トルコ・コーヒー、ダブル・エスプレッソ、ダブル・トールラテ、トリプル・エスプレッソ、グランデ・イタリアンロースト、カプチーノ、モカチーノ、スキニー・ヘーゼルナッツ・キャップ、カフェ・カラメル、カフェ・キスキス、アメリカーノ、グランデ・スキニー、モカミント・キャップ、バニラ・ラテ、モカ・ボッチ…。

読んでいると、コーヒーが飲みたくなることは間違いない。

コーヒーハウスにたちこめる、あのにおいが漂ってくるようだ。

「カウンターのむこうから見ると、いともかんたんそうに見える。けれどグルメコーヒーをつくる人のうち、どのくらいの人が知っているのだろうか。エスプレッソひとつとっても、品質を左右する要素は四十以上もある。たとえばエスプレッソマシンの汚れ、コーヒーの粉の量、粒子の大きさ、粉を押し固めたときの密度、その形、吸水量、水質、水圧、水温、抽出時間。これ以外にも完璧なエスプレッソの抽出を阻もうとする要素はおよそ三十ある。」

「エスプレッソを抽出するとき、わたしはコーヒー豆をうんと細かく挽いてフィルターにできるだけ固く押しこむ。こうすれば抽出のスピードを抑えることができる。噴出口からエスプレッソがジャーッと流れ出ることはなく、たとえていうと、熱いハチミツが”たらたら”こぼれるように出てくる。この液体には粉末状のコーヒーから抽出された油分だけが溶けている。これに対し、ふつうにいれたコーヒーには、単に成分が溶け出しているだけ。
 質の高いエスプレッソというからには、エスプレッソマシンからたらりたらりと出てくる美しい赤褐色のクレマだけで構成されているべきだ。クレマとはコーヒーが泡だったもの。うまく抽出されたエスプレッソになるかどうかを左右する最大の決め手となるのが、このクレマだ。粉状のコーヒーから油分が抽出されていないものは、エスプレッソとはいえないのだ。」

今日、この本に載っているレシピにしたがって、オレンジスライスとシナモン、ホイップクリームを使ったコーヒーを作ったが…。
やはり、プロに任せないと、おいしいコーヒーは飲めないのかもしれない。

コーヒー好きの人にはオススメのミステリです。


| | | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
経営者の条件
経営者の条件 P.F.ドラッカー ダイヤモンド社

ダイヤモンド社からは以前しつこく通信教育の勧誘を受けて、こんな会社のものは二度と買わないと思ったのだが、どうしても読みたかったので仕方なく買ってしまった。
ドラッカーの入門書としては最も基本的なものとのこと。

「普通のマネジメントの本は、人をマネジメントする方法について書いている。しかし本書は、業績をあげるために、自らをマネジメントする方法について書いた。」

とまえがきに書かれている。

章立ては、

第1章 成果を上げる能力は修得できる
第2章 汝の時間を知れ
第3章 どのような貢献ができるか
第4章 強みを生かせ
第5章 最も重要なことから始めよ
第6章 意志決定とは何か
第7章 成果を上げる意志決定とは何か
第8章 成果を上げることを修得せよ

となっている。なじみのない人には、見るからに面白くなさそうな本に見えるだろう…。

でも、ドラッカーの面白いところは、誰が読んでも納得できるやさしい書き方をしているところだと思う。
主に組織のことについて書いているが、それは普遍性のあるものであり、別に組織のマネジメントいうようなことに関わっていない人でも、読むことで頭がスッキリする。
実例に裏打ちされた内容が大半であり、読んでしまうと当たり前のことだと思える。
だが、その当たり前のことをわかるように書く、というのがすごいことだ。

「知力や想像力や知識は、あくまでも基礎的な資質である。それらの資質を成果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。知力や想像力や知識は、成果の限界を設定するだけである。」

なるほど…と思う。実際、たくさんの優秀な官僚が、驚くほど愚かなことをやってきたという実例を見ても、この言葉は当たり前だと思う。
しかし、それをこんな風に明確に書けるというのはすばらしい。

まず、何が成果かということだ。

「医者は、自らの態勢を整え、仕事を組織化する能力において、特に優れているわけではない。しかし、成果をあげることに大きな困難を感じる医者は、ほとんどいない。」

患者の病気を治すことが成果であることがハッキリしている、病院やクリニックは、成果が明確だという。

「医者の場合には、仕事の流れに身を任せることが正しい。入ってきた患者に「どうしました」と聞く医者は、自分の仕事に関係のある答えを期待できる。「眠れません。三週間も寝つきが悪いんです」という訴えが、優先して取り上げるべき問題を教えてくれる。診察ののち、その不眠症が、はるかに深刻な病気の症状の一つにすぎないと判断した場合でも、何はともあれ、何日かぐっすり眠れるよう処置してやることができる。
 しかし、エグゼクティブに対しては、日常の仕事は、ほとんどの場合、本当の問題どころか、何も教えてくれない。医者にとって患者の訴えが重要となるのは、それが患者にとって重要な問題だからである。これに対し、エグゼクティブは、はるかに複雑な世界と対峙している。何が本質的に重要な意味をもち、何が派生的なものにすぎないかは、個々の事象それ自体からは、知る由もない。
 症状についての患者の話が、医者の手がかりになるのに対し、個々の事象は、エグゼクティブにとって問題の徴候ですらないかもしれない。
 したがって、日常の仕事の流れに任せて、何を行い、何に取り組み、何を取り上げるかを決定していたのでは、日常業務に自らを埋没させることになってしまう。たとえ有能であっても、いたずらに自らの知識と能力を消費し、あげることのできた成果を捨てることになってしまう。
 エグゼクティブに必要なものは、本当に重要なもの、つまり貢献と成果に向けて働くことを可能にしてくれるものの判断の基準である。しかし、そのような基準は、日常の仕事の中からは見いだせない。」

目の前の仕事をするだけは、成果をあげるために何をしたらよいのかわからない…というのは、多くの組織で起こっていることだと思う。
多くの場合は、「何をしたらよいのかわからない」と思うことすら難しいことになっているだろう。

組織というとたいそうに聞こえるが、何人かのメンバーで何かをしようとしている団体なら、どこでも当てはまるし、自分が管理者であろうとなかろうと、ここに書かれているような問題は存在する。

「しかも、組織の内部には、成果は存在しない。すべての成果は、外部の世界にある。」

「根本的な問題は、組織にとって最も重要な意味を持つ外部の出来事が、多くの場合、定性的であり、定量化できないというところにある。それらはまだ、いわゆる「事実」にはなっていない。「事実」とは、つまるところ、だれかが分類し、レッテルを貼った出来事のことである。
 定量化のためには、概念がなければならない。そして、無限の出来事の集積から特定の出来事を抽出し、名称をつけ、数えなければならない。」

そのとおりだと思う。
ここでも、読んだ後で当たり前だと思うことが書かれている。
しかし、読む前には、そのことを当たり前だと思うことすら難しい。
そこに、読んだら頭がスッキリする、という「ドラッカー効果」がある。

「コンピュータは論理の機械である。まさにそれが強みであって、同時に限界である。外部の重要な事象は、コンピュータやなんらかのシステムが処理できるような形では、把握できない。しかし、人間は、特に論理的には優れてはいないが、知覚的な存在である。そしてまさに、それが強みである。」

成果をあげるために身につけるべき習慣は…

1.何に自分の時間がとられているかを知ること。
2.外部の世界に対する貢献に焦点を当てること。
3.強みを基準に据えること。
4.優れた仕事が際だった成果をあげる領域に、力を集中すること。
5.最後に成果をあげるよう意志決定を行うこと。

これが、この本に書かれていることである。

「よくマネジメントされた組織は、退屈な組織である。そのような組織では、真に劇的なことは、昨日の尻ぬぐいのためのカラ騒ぎではない。それは、明日をつくるための意志決定である。」

本当にそのとおり!
騒ぎが起こるような仕事はヨクナイのだ。
お祭りと意識してやるなら良いが、騒ぎが起こり、うまく収拾できたら、それを成果とするような組織がたくさんあると思う。
本当は、騒ぎが起こらないことが第一なのだ。

「いかに地位や肩書きが高くとも、努力に焦点を合わせたり、下に向けての権限を重視する者は、他の人間の部下であるにすぎない。これに対し、いかに若い新入りであろうとも、貢献に焦点を合わせ、結果に責任を持つ者は、最も厳格な意味において、トップマネジメントである。組織全体の業績に責任を持とうとしているからである。」

人事についても、うならせるようなことが書かれている。

「他人に成果をあげさせるためには、決して、「彼は私とうまくやっていけるか」を考えてはならない。「彼はどのような貢献ができるか」を問わなければならない。また、「何ができないか」を考えてはならない。常に「何を非常によくできるか」を考えなければならない。特に人事では、一つの重要な分野における卓越さを求めなければならない。」

これは、できるようで、なかなか出来ないことだと思う。
特に、日本のような合意形成型の気持ちが強い組織では、難しいだろう…。

人事考課のところで、トップの重要性が書かれている。

「部下、特に頭の切れる野心的な若い部下は、力強い上司をまねる。したがって、組織において、力強くはあっても腐ったエグゼクティブほど、ほかのものを腐らせる者はいない。
 そのような人間は、自分の仕事では成果をあげることができるかもしれない。ほかの人間に対し影響力を与える力のない地位におくならば、害はないかもしれない。しかし、影響力のある地位に置くならば破壊的である。
 これは、人間の弱みがそれ自体、重要かつ大きな意味をもつ唯一の領域である。
 人間性や品性は、それ自体では何もなしえない。しかし、それらがなければ、他のあらゆるものを破壊する。したがって、人間性や品性のかかわる欠陥は、単に仕事上の能力や強みに対する制約条件であるにとどまらず、それ自体が、人を失格にしてしまうという唯一の弱みである。」

この部分は、非常に主観的な表現だが、トップの重要性のうち、大きなものだと思う。
一つの分野における卓越さというものとのバランスということが、現実的には問題になると思う。

政府のような機関がやっていることについて、こんなことが書いてある。

「あらゆる計画は、急速にその有用性を失うものであり、したがって、生産的であり必要であることが証明されないかぎり、必ず破棄されなければならないという考え方こそ必要とされている。さもなければ、政府は、規則や規制や書式によって社会を窒息させつつ、自らの脂肪によって自らを窒息させてしまう。」

もちろん、政府機関だけに言えることではないが、どこにでも多かれ少なかれ「前例主義」というものがあるだろう。
それに対する警鐘だと思う。

意志決定のところには、こんな言葉ある。

「何が受け入れやすいか、また何が反対を招くからいうべきではないかを心配することは無益であって、時間の無駄である。心配したことは決して起こらず、予想しなかった困難や苦情が突然、ほとんど対処しがたい障害となって現れる。換言するならば、「何が受け入れやすいか」という問いからスタートしても、何も得るところはない。
 それどころか、通常、この問いに答える過程において、重要なことを犠牲にし、正しい答えはもちろん、成果に結びつきうる答えを得る望みさえなくしてしまう。」

この言葉は耳が痛い。
合意を形成することだけが目的になってしまっている会議がいかに多いか…。
問題を解決するためにやっているはずなのに、合意さえ形成されればよいというヤツだ。
国会の議論なども、ほとんどがそうなってしまっているのではないか…。

コンピュータの発達と、現場主義の重要性についても、書かれている。

「コンピュータの到来とともに、このことは、ますます重要になる。意志決定を行う者は、行動の現場からさらに遠く隔てられることになるからである。彼らは、自ら出かけていって、自らの目で行動の現場を見ることを当然のこととしないかぎり、ますます現実から遊離することになる。
 コンピュータが扱うことのできるものは抽象である。抽象されたものが信頼できるのは、それが具体的な現実によって確認されたときだけである。この確認がなければ、抽象は人を間違って導く。
 自ら出かけていって、自らの目で確かめることは、意志決定の前提となっていたものが有効であるか、それとも、それらが陳腐化しており、意志決定そのものについて再検討の必要があるかどうかを知るための、唯一の方法ではなくとも、少なくとも最良の方法である。」

現地現物主義…大事な言葉だと思う。なつかしい言葉だ…。

そして、意志決定の際の「事実」と何かについて、すごい言葉で書いてある。

「意志決定は判断である。それは、選択肢からの選択である。しかし、意志決定が、正しいものと間違ったものとの選択であることは稀である。せいぜいのところ、ほとんど正しいものと、おそらく間違っているものとの選択である。
 それよりもはるかに多いのは、一方が他方よりも、おそらくかろうじて正しいということさえいえないような二つの行動からの選択である。
 意志決定に関する文献のほとんどは、「まず事実を探せ」という。しかし成果をあげる意志決定を行うエグゼクティブは、事実からスタートなどできないことを知っている。だれもが、自分の意見からスタートする。しかし意見は、未検証の仮説にすぎず、したがって当然現実に対して検証されなければならない。
 何が事実であるかを確定するためには、まず有意味性の基準、特に評価の基準についての決定が必要である。これが成果をあげる意志決定の要であり、通常、最も判断の分かれるところである。
 また成果をあげる意志決定は、意志決定に関する文献の多くが説いているような事実に関する合意からは生まれはしない。正しい意志決定は、共通の理解と、意見の衝突と対立、そして競合する複数の選択肢についての真剣な検討から生まれる。
 最初に事実を把握することはできない。有意性の基準がなければ、事実というものはありえない。事象そのものは、事実ではない。」

最初の方にも書いてあった通り、「事実」というのは、誰かが分類してレッテルを貼ったもの…ということだ。

現実は複雑であり、どこから光を当てるかで、意味は変わってくる。
正しい方向から光を当てる、ということが大事だということだろう。
事実とは、現実の解釈の一つであり、その解釈の基準をもっていなければ、そもそも事実を認めることすらできない、ということだ。
これは、東洋的な考え方だと思う。
ドラッカーが日本のことをよく知っていたことの効果なのだろうか…。

意志決定の最後の段階について、また当たり前のことが書かれている。

「ここでついに、意志決定には、判断力と同じくらい勇気が必要であるということが明らかになる。薬が苦くなければならないという必然的な理由はない。しかし一般的に、良薬は苦い。同じく、意志決定が苦くなければならないという必然的な理由はない。しかし一般的に、成果をあげる意志決定は苦い。
 ここで絶対にしてはならないことがある。「もう一度調べよう」という誘惑に負けてはならない。それは臆病者の手である。そして臆病者は、勇者が一度死ぬところを一〇〇〇回死ぬ。」

ドラッカーらしい、組織論が最後の部分にある。

「組織は、優秀な人たちがいるから成果をあげるのではない。組織は、組織の水準や習慣や気風によって、自己開発を動機づけるから、優秀な人たちをもつことになる。そして、そのような組織の水準や文化や気風は、一人一人の人間が自ら成果をあげるエグゼクティブとなるべく、目的意識をもって体系的に、かつ焦点を絞って自己訓練に努めるからこそ生まれてくる。
 現代社会は、存続するためとまではいわなくとも、機能を続けるためには、組織の成果をあげる能力、その活動と成果、その価値と水準、そしてその自己規律に大きく依存する。
 今日、組織の活動は、経済的分野、さらには社会的分野さえ超えて、教育、保健、知識の分野において、決定的に重大な意味をもつようになった。しかも、組織のうち重要なものは、ますます知識組織となってきた。すでにそれらの組織は、多くの知識労働者を雇用している。」

「少なくとも一九世紀には、肉体労働者は経済的な目的だけをもち、経済的な報酬だけで満足すると信じられていた。しかもそのような考えは、人間関係学派が明らかにしたように、事実とはほど遠いものだった。賃金が最低生活基準を超えた瞬間、そのようなことはもはや事実ではなくなった。
 知識労働者も経済的な報酬は要求する。報酬の不足は問題である。しかし、報酬の存在だけでは十分ではない。知識労働者は、機会、達成、自己実現、価値を必要とする。しかるに知識労働者は、自ら成果をあげるエグゼクティブにすることによってのみ、それらの満足を得ることができる。」

これが、1966年に書かれた本である。
ドラッカー博士はすごいと思う。

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マネーボール
ずっとサボっていたが、本のレビューを久しぶりに書きます。

マネーボール マイケル・ルイス著 ランダムハウス講談社

腰痛で一日寝ていることになったので、前から読みたかった本を読んだ。
「マネーボール」という本。

およそ人間の集団のやることで、明確な方向性が決まるものというのは少ない。
みんな、置かれた環境や信条、経験などが違って、こちらが良い、という方向が異なるのだ。
行政、福祉、教育、外交など、議論百出である。
だから、いろいろな規制、法律を作る。あるいは、みんなで議論する。でも、一人ひとり思いは違っていて、いくら話しあっても前に進まない。何が「良い」方向かわからないからだ。

しかし、例外はある。それがスポーツである。
スポーツには、「勝つ」という明確な方向性がある。勝つことが良いことである。
それはタイムであったり、順位であったり、得点であったり、技であったりする。
多くの美辞麗句が語られたとしても、特にプロスポーツにおいては「勝つ」ことが至上命題であり、そのために個人、組織があると言ってよい。

コンピューターとネットワークの発達で、色々なことができるようになった。
リクツでわかっていても、今までは面倒でできなかったことでも、ネットワーク上のデーターを取り込み、ノートパソコンですら解析できる。
必要なことは、勝つための数字をどう選ぶか、何を基準にするかを考えることだろう。これは、いくらコンピューターが進んでも、人間がやることだ。
そして、もっと大変なことは、それを実施できる組織を人を作ることだろう。
これこそ、本当に人間にしかできないことだ。熱意や意欲というような、およそコンピューターとはかけ離れた能力が必要となる。

この本は、メジャーリーグの野球という世界最高レベルのスポーツで、過去の因習にとらわれず、カネをかけずに勝てるチームを作るという仕事を実際にやってのけた、オークランド・アスレチックスのゼネラル・マネジャーとそのブレインを縦糸に、そして実際の選手たちや過去に野球というスポーツを解析しようとした人たちを横糸に織り交ぜて、実際の取材に基づいて書かれたドキュメントだ。

面白いのひと言に尽きる。
息もつかせず、最後まで読んでしまう。

「アスレチックスの年俸のトータルは、ヤンキースの3分の1でしかないのに、成績はほぼ同等」なのである。

「アスレチックスの成功の原点は、野球の諸要素をあらためて見直そうという姿勢にある。経営の方針、プレーのやりかた、選手の評価基準、それぞれの根拠…。アスレチックスのゼネラルマネジャーを任されたビリー・ビーンは、ヤンキースのように大金をばらまくことはできないと最初からわかっていたので、非効率な部分を洗い出すことに専念した。新しい野球観を模索したと言ってもいい。体系的な科学分析を通じて、足の速さの市場価値を見きわめたり、中級のメジャー選手と上級の3A選手は何か本質的に違うのかどうかを検証したりした。そういう研究成果にもとづいて、安くて優秀な人材を発掘して行った。
 アスレチックスがドラフトやトレードで獲得した選手の大半は、古い野球観のせいで過小評価されていたプレーヤーだ。アスレチックスのフロントは、不遇な選手を偏見から解き放って、真の実力を示す機会を与えたことになる。大げさだと思うかもしれないが、メジャー球団とは、人間社会における理性の可能性−と限界−を如実に表す縮図のようなものだ。科学的なアプローチをまのあたりにしたとき、非科学的な人々がどう反応するか−あるいは、どう反応しないか−が、野球というスポーツによってよくわかる。」

これは、すごいことだ。
コスト1/3で、同じことができる!それも、プロスポーツという明確な土俵の上で、それを示したということは、まぎれもなく本当にそれができた、ということなのだから。

主人公のビリー・ビーンは実際にメジャーリーグでプレイした選手だった。
しかし、失意の中で彼は選手を辞め、アスレチックスのフロントに入る。
古い野球観を持った(実際にはそういう人がほとんどを占めているのだが)スカウトたちと、ドラフトでどの選手を取るのかというスカウト会議の席から、物語は始まる。
そこに現れるのが、ビリーの右腕のポールである。
彼はノートパソコンをスカウト会議の席に持ち込む。彼はスカウトたちが実際に選手を見て評価するのに対して、データーだけで選手を判断する。
ポールの目の付けどころは、スカウト達とは違う。

「興味深いのは、ポールの言葉の裏に秘められた部分だ。大学生選手が四球をいくつ選んだかなど、注目する人間は普通いない。ところがポールは何よりもその点を重視する。理由はあえて説明しない。過去の記録を調べ上げ、アマチュアからメジャーリーガーになれた選手となれなかった選手を比較して、その原因を追及したということも、スカウト達にはとくに告げていない。
 足の速さ、守備のうまさ、身体能力の高さは、とかく過大評価されがちだ。しかし、野球選手としてだいじな要素のなかには、非常に注目すべきものとそうでないものがある。
 ストライクゾーンをコントロールする能力こそが、じつは、将来成功する可能性と最もつながりが深い。そして、ストライクゾーンをあやつる術を身につけているかどうか、一番わかりやすい指標が四球の数なのだ。」

これは序の口で、その後ポールは金融派生商品を開発していた連中が作った、ゲームの解析の手法を取り入れ、ゲームに対する選手の貢献度(もちろん、従来の指標ではなく、新しいもの)を数値化している。

実は、ビリーの前任のゼネラル・マネジャーがすでにそういう考え方を持っていた。
アルダーソンというゼネラル・マネジャーの作った小冊子によると、

「野球を分析して行くと、さまざまな意義深い数字が表れてくる。だが、野球において最も肝心な数字−飛び抜けて圧倒的に重要な数字−は3だ。すなわち、イニングを区切るアウト数である。スリーアウトになるまでは何が起こるかわからない。スリーアウトになってしまえばもう何も起こらない。したがって、アウト数を増やす可能性が高い攻撃はどれも、賢明ではない。逆に、その可能性が低い攻撃ほどよい。
 ここで、出塁率というものに注目してほしい。出塁率とは、簡単に言えば、打者がアウトにならない確率である。よって、データのなかで最も重視すべき数字は出塁率であることがわかる。出塁率は、その打者がイニング終了を引き寄せない可能性を表している」

アルダーソンは弁護士出身で、メジャーリーガーではない。
そのために、苦労をしている。

「メジャーチームは神聖な存在で、メジャー経験のない者は口を出せない状態だった。アルダーソンはそんな慣習はばかげている、上が決めた命令や規律がそっくりそのままいきわたるべきだと思っていた。「組織の運命を中間管理職にゆだねるなんて、ほかの世界では考えられない」
 けれどもメジャーリーグでは昔からそういう決まりになっていて、アスレチックスも例外ではなかった。中間管理職のトニー・ラルーサが、自分なりの野球哲学にもとづいて、選手のバットをコントロールしていた。選手たちにしてみれば、ファームにいるあいだは、球をよく見きわめろ、四球で出塁しろと教え込まれるのに、メジャーに昇格したとたん、本能に従ってどんどん打て、と命じられるわけだ。アルダーソンの新方式によって洗脳された選手でさえ、メジャーに上がると、監督の指示を優先した。心にわずかなひびが入ると、及び腰になり、信念が崩れて行ってしまう。…」

この、メジャー経験者でないと、実際のフィールドで口を出せない…というような慣習は閉鎖的な職場にはあることだろう。
組織のようで、組織ではない組織…。思い当たる人も多いのではないか。
そんなチームばかりだからこそ、アスレチックスの価値は動じていないのだが…。

もともと、ビル・ジェイムズという人が、野球のデーターについて調べ始めた。
彼の研究は画期的だったが、野球界からは認められなかったし、今もあまり認められているとは言えないようだ。

彼が1977年に自費出版した本について書かれた下りによると…

「エラーとは何か?第三者の目から見て、いまのはもっとまともにプレーできたはずだということを表わす、スポーツの世界において唯一主観的なデータにほかならない。試合後のロッカールームで話題に出るような、あそこでああすればよかったのに、という指摘だ。…バスケットボールのスコアラーもたしかにエラーを記録するが、このエラーは、敵にボールが渡ったことを表わしており、客観的な事実の記録である。…ところが野球のエラーは実際には行われなかったプレーをスコアラーが思い浮かべて比較し、判断を下す。まったく異例な”参考意見の記録”なのである。
 (中略)
 100年以上経ったいま、エラーという概念だけが生き延びている。誰もがわかっているはずだが、明らかなエラーをしない才能など、メジャーリーガーにとって重要ではない。極端な話、もしエラーを記録されたくなければ、動作を少し緩慢にしてボールに追いつかなければいい。
エラーをするのは、何か的確なことをした場合にかぎられる。正面に来たボールを落としたとしても、それは、的確な位置に守っていたから正面に来たのである。
 不適切なデーターは人をまどわす。まどわされた球団フロントが、選手の評価を誤り、経営方針を誤る。ジェイムズは論点を一文でこうまとめた。
 守備に関するデーターは、数字としては存在意義があっても、言語としては意味がない。
(中略)
この指摘には、エラー記録の是非よりもさらに重大な内容が含まれている。野球の選手や試合をきちんと評価するためには、肉眼だけでは無理がある、ということだ。
考えてもみてほしい。3割の打者と2割7分5厘の打者を、目で見るだけで区別することはぜったいにできない。なにしろ、2週間にヒット1本の差しかない。シーズンを通してそのチームの全試合を見ているスポーツ記者なら、ひょっとすると何か違いを感じ取れるかもしれないが、おそらく不可能だろう。10試合に1試合見る程度の平均的な野球ファンは、むろん、そんな微妙な差を見きわめられるはずがない。事実、もし年間15試合観戦するとすれば、目の前でたまたま2割7分5厘の打者が3割打者より多くヒットを打つ確率が40パーセントもある。要するに、すぐれた打者と平均的な打者の違いは、目に見えない。違いはデータの中だけにある。
 そのうえ、誰もが打者を中心に試合を眺めている。打者の動きを見つめ、スコアカードを開いて名前を確認する。三塁線に鮮やかな打球が飛び、それを三塁手が横っ飛びにつかんで一塁送球アウトにした場合、三塁手に拍手を送る。だが、打球が飛ぶ前、三塁手の動きに注目していた観客がいるだろうか?三塁手がもし打球の方向をうまく予測して守備位置をずらしていたら、2歩だけ動いて、当たり前にバックハンドでつかめただろう。そして誰も拍手しない。
 そこでジェイムズは、従来にない評価基準を作るべきだと訴える。
スコアブックからは誰が上手な野手なのか判断できないし、じかに観戦しても正しく評価できない。では、どうすればいいのだろうか?
ジェイムズによれば、答えはこうだ。
計算法を工夫するにかぎる。」

こんな事を考えた人が、1977年にはもういたのだ。
しかし、この考え方がメジャーリーグに伝わるためには、20年以上かかった。そして、今でも浸透はしていない。

ジェイムズのリクツをもとに、ポールの作った究極とも思われるゲームの解釈は以下のようなものだ。

「ポールの解釈によれば、試合中のプレーはみんな”得点期待値”というバロメーターで測れる。本当かどうかは、計算などしなくても常識でわかるだろう。球場で起こることはすべて、たとえほんのわずかであっても、チームが得点できるか否かにかかわっているはずだ。たとえ誰も気づかない程度だとしても、戦況に微妙な影響を与えている。
 たとえば、ノーアウト走者なしで打者に第1球が投じられる瞬間、得点期待値は0.55。この場面で唐突に点が入る可能性は低いので、そういう数字になる。もし打者が初球をとらえてツーベースを放ったとすると、試合の状況が変わる。ノーアウト、ランナー二塁。こんどは得点期待値が1.1に跳ね上がる。よって、先頭打者ツーベースの価値は、得点期待値で言うと0.55(=0.55から1.1への上昇分)だ。もしツーベースではなく三振という結果だったら、その打者はチームの得点期待値を約0.30まで下げることになる。アウトひとつで0.25(=0.55から0.30への減少分)下がってしまった。
 このぐらいの計算はまだ序の口だ。偶然の要素を取り除き、ひとつひとつのプレーの価値を深く理解するには、じつを言うと、実存主義的な問いを片づけなければいけない。たとえば−そもそも二塁打とはなんぞや?「バッターが打って、敵のエラーなしで二塁に到達すること」だけでは答えとして足りない。ご存じのとおり、ひと口に二塁打と言ってもいろいろある。外野手が捕れてもおかしくなかったのに二塁打になるケースもあるし、二塁打になるはずがスーパーファインプレーでアウトに終わるケースもある。幸運な二塁打、不運なアウト。つきの要素を除外したければ、ここでプラトンばりの観念論を持ち出す必要が出てくる。」

本の後半には、投手の被安打率に関する話も出てくる。
これは、一人の野球ファンが解析したデーターである。

「150年のあいだ、グラウンド内のフェアゾーンへ飛んだ打球(つまり、ファウルとホームラン以外の打球)が安打にならないようにするのは投手の能力だと評価されてきた。ヒットを多く許す投手は防御率が悪くて負け数が多い、ヒットをあまり打たれない投手こそすぐれている、と見られてきた。だが、ボロス・マクラッケン−遠からず法律事務所を辞めて、アリゾナ州フェニックスで両親とともに暮らすことになる若者−の結論は違った。ホームラン以外のフェアボールは、ヒットになろうとなるまいと、投手の責任ではない。もちろん、ホームランを防ぐことはできる。四球を防ぐこともできる。三振に取って、打球がグラウンドへ飛ばないようにすることもできる。しかし、逆に言うと、それしかできない。」

これがデーターから見た事実…ということなのだ。
そして、この事実を発見したボロスは言う。

「ボロスが発表した説が、すぐさまメジャー全球団に大歓迎される−などという展開になるはずがない。ボロス自身も、その点は先刻承知だった。「困ったことに、メジャーリーグは閉鎖的な組織なんです。新しい知識を呼び込む土壌がない。関係者は全員、選手か元選手です。よそ者の侵入を防ぐため、一般企業とは違う構造になっています。自分たちのやりかたを客観的に評価しようとしません。いい要素を取り入れ、悪い要素を捨てるという仕組みが存在しないんです。全部まるごと取り入れるか、まるごと捨てるか、どちらかです。ただし、”まるごと捨てる”のほうはめったにやりません。」ボロスは、新旧の野球観の板挟みになっている球団オーナーたちに同情する。…」

あの、合理的なアメリカ、論理的な西洋人…彼らが野球になると、こんなことになってしまう。
これではまるで戦前の日本陸軍のようだ。
だからこそ、野球はアメリカの国技たり得るのかもしれないが…。

野球のルールがわからなければ、この本を読んでも面白くないかもしれない。
でも、野球のことを知っているなら、この本は文句なしに面白いし、野球というゲームに対する見方も変わるだろう。

それにしても、すばらしい。
人間の知恵は、あらゆるものを解釈する力があるのだ…という気にさえなる。

知恵がカネに勝つ…うれしいストーリーではないか。


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