考えたこと2

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BREXIT開始
イギリスがEU離脱の手紙を出した。
6ページにわたる手紙らしい。
今の時代に「手紙」というのは何ともヨーロッパらしい。

日経にはイギリスのファイナンシャル・タイムズの記事が出ていたが、「この離脱通知は悲劇の山場だ」と書いてあった。
イギリスにとって、一番大きな輸出国であるEUへの有利なアクセスを失うことや、EU協議の場から退場することになり、「その結果、英国は今より貧しくなり、国内の分断はさらに進み、影響力を失っていく」とも書かれている。
それがファイナンシャル・タイムズの立ち位置なんだろう。
名前の通り、ファイナンスの中心であるロンドンの金融街シティの見方でもある。

貿易の観点からも、政治的、安全保障の観点からも、イギリスはEUとは切っても切れない関係だ。
そこで孤立するのはぼくも常識的には不思議だと思う。
それでも国民投票で過半数を占めた。
だから、メイ首相は自分が残留派であったが、勇気ある離脱をしようとしている。
ファイナンシャル・タイムズの言葉を借りれば「他国に対して威嚇的なロシアと海外に無関心な米国、混迷を極める中東、台頭する中国、気候変動がもたらす世界的な脅威を前に、英国は自国が属する大陸の制度を整えるシステムから自国の発言権を失おうとしている。今は19世紀ではない。21世紀だ。孤立が素晴らしいわけはなく、孤立は本当に孤立することを意味する」としてもだ。

イギリスというのは交渉上手な国だ。
20世紀以降、だいたい勝ち馬にのっていると思う。
そのイギリスがなぜこんなことをしたんだろうか。
よほどロンドンの人々とそうではない人々の格差が大きかったんだろうか。

21世紀は格差の世紀になるかもしれない。
今まで格差がなかったというわけではない。
産業革命以降、人類が豊かになり、21世紀になって途上国も豊かになってきた。
豊かになるために、人の移動やモノの移動も自由になった。
それがグローバリズムということだ。

その副作用は想像以上に大きかった。
それが伝統的な産業や労働集約的な産業を直撃したのだろう。
その証拠に、もっとも自由貿易を推進していた2つの国が相次いで大きな変化を起こした。
イギリスのBREXITとアメリカのトランプ政権の誕生だ。
21世紀の初頭はきっと後世から「行き過ぎたグローバリズムの揺り返しの時代」とか言われるような気がする。

でも、ヨーロッパの人たちが何度も戦争を経験し、国という単位を統合する機関を作らないとダメだ、という結論に至ったのは正しいとも思う。

2年で交渉が終わるとは思えないが、終わらないといけない。
妥当なところで、合意をすることを期待したい。
どちらも痛みを伴うだろうが、20世紀の世界を導いたイギリスや欧州だから、叡智を持って交渉に望んでほしいと思う。

それにしても、メイ首相に比べると、日本の指導者は見劣りするなあ…。


| | 考えたこと | 22:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
時短がベア?
どちらも会社用語なので、見てもわからない人はいるかもしれない。

時短とは時間短縮のこと。
今流行の働き方改革、残業を減らす、という目的で、勤務時間を減らすということだ。
ワークライフ・バランスというようなことも言われている。

ベアはおなじみのベースアップのこと。
春闘や秋闘で労働組合と経営者が話し合う。
最近はベアゼロというような言葉も使われて、なかなかベースアップはできない時代が続いた。

でも、今季の春闘では「時短がベア」というような言葉が出てきた。
日経新聞にもそんな言葉が出ている。
3月8日には味の素が一日20分の時短で1万4千円相当のベアになる、という記事もあった。

まあ、理屈はわかる。
ベースアップの代わりに労働時間を減らして、給料は据え置きということだ。
だから、計算では上がるでしょ、と言われたらそうかもしれない。
経団連加盟企業がその状態。

労働組合はどう考えているんだろうか。
計算上は1万4千円も上がって、万々歳だ、と思っているんだろうか。
ワークライフ・バランスの改善にもつながる、ということを会社側は言っている。

いかにもみみっちい。
労働組合は、これをベアと認めてはいけないのではないか。
収入は増えないんだから。
社員のやる気がなくなる、としか思えない。

なんか、タコツボ的な会社の体制が見えるような言い方だ。
「それはベアではないが、ワークライフ・バランスの改善ということで歓迎する」くらいのコメントを出すべきだ。
せめて、その代わりに副業を認めるようにしよう、とか要求はなかったのだろうか。

おまけに、非正規の人たちは時給換算だから給料は減ることになる。
要するにコストカットなのだ。
労働組合は正社員は据え置きで、非正規は給料減になるのだから、まあええやろ、くらいのことを考えているとしか思えない。

今や労働者の4割以上が非正規の時代。
労働組合は正規社員だけを守ろうとしているとしか思えない。
結局は労働貴族なのだ。

困ったことだと思う。

| | 考えたこと | 22:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロボット化
日本人はアトムの影響でロボットというと人間型を想像するが、そうではない分野でロボットが進出している。

場所はホテルだ。
ホテルで部屋まで荷物を持っていってくれるロボットができたらしい。
アメリカの会社が作って、日本国内で展開する。

フロントでチェックインしたら、そのロボットの収納スペースに荷物を入れる。
すると、部屋まで持っていってくれるらしい。
エレベーターを使って階を移動し、自動的に部屋まで行く。
人間はついていけばいい。

自動搬送のロボットは日本でもたくさんある。
ただし、工業用だ。
工場の中を走り回っている。
重くて人間が持つにはシンドイものも、自動搬送のクルマの上に置けば持っていける。

技術的にはホテルでもできるんだろう。
ただ、エレベーターとの連動とかがネックになるだろうが…。
それでも、ホテルで使うことを想定して開発をするなら、きっとできると思う。

日本のホテルでは、おもてなしというところもあって、それをロボットでやるという発想がないんだろう。
だから、フロントも含めてロボット化しているホテルは「変なホテル」という名前。
ただ、あのホテルは最初からそういうことを考えて作っている。
既存のホテルでも使えるようにした、というところが大きいんだと思う。

アメリカではヒルトンやマリオットというところを中心に導入が始まっているとのこと。
ホテルの部屋に注文を届けることもやるらしい。

いよいよ、ロボティクスの時代が来た。
充電電池の発達、充電方式の多様化、インターネットやクラウドというインフラ、CCDという機械の眼、モーターの控率UPなどの環境が整ったからこそ、出来ることだ。

それらの要素技術は日本にも揃っている。

人手不足で困っている日本だから、こういうのはどんどん取り入れるべきだ。

そうすれば、人が減ってもおもてなしはできるぞ。

| | 考えたこと | 22:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
世の中は不平等
学校にいると、全ては公平に、平等にという考え方に染まる。
調べたら、2011年に一度記事を書いていた。

人は生まれながらにして平等だ、というのが今の考え。
基本的人権の一つになって、憲法でも「すべての国民は、個人として尊重される」と定められ、国民は平等にあつかわれることを保障されている。」とある。
法律上も、男女の上でも、政治上も平等を保証されている。

もちろん、結果の平等が保証されているわけではない。
「扱い」が平等になっているという意味だ。
何か特定の恣意的な理由で、扱いが変わることはない、ということだろう。

だから、世の中は不平等だ。
会社の中まで平等にはならない。だから、うまいことやれば、出世もできる。
情実もあるし、コネもある。ゴマすりもいるし、派閥もある。
それは当たり前だ。

だからといって、法律に違反したら捕まるし、お金を払えば罪が軽くなるということもない。
それが平等ということだ。

近代社会は、世の中が不平等であるからこそ、政治の上で平等に扱うことを保証した。
それが法治国家というものだと思う。

しかし、できるだけ機会は平等にというのが今の考えではある。
だからこそ、貧しい人も豊かな人も同等に教育が受けられるようにしている。
だから義務教育は大事なのだ。

世の中が不平等になる原因の一つは、教育制度が崩れることだろう。
お金の有無で教育に差がつくこと、これが一番の不平等になる。

明治維新以降の日本が成長を遂げてきたのも、公教育が充実していたからだ。

文科省という役所も、ぼちぼちこのことを真剣に考えたほうがいい。
以前知り合いの孫娘が中学の先生にわからないことを聞きに行って、そんなことは塾で聞けと言われた事を書いた。
先生の質の低下について、もっと考えるべきだ。

一時が万事という言葉もある。
学校で平等を教えるのはいいが、そのためにはもっと教育を頑張らないといけないのだ。

天下りなどしている場合ではないぞ。


| | 考えたこと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
happy-go-luckey
「ハッピーゴーラッキー」という熟語は楽天的とかのんきという意味。

ヴィクトリアという犬のトレーナーが時々使う。
彼女が使う時は、どちらかというと「いいかげん」という感じだ。
イヌを飼っていて、シツケをしないで、いい加減に育てているというような飼い主をそういう表現で言っている。

シツケをちゃんとされないイヌは、可哀想だと彼女は言う。
やればできるのに、その訓練をしないから、できなくなる。
そうなると、飼い主が放置したり、嫌になったりする。
番組ではそこでヴィクトリアの出番となるのだが、そんなトレーナーがいない飼い主たちは、イヌを処分したりする。
彼女はそれが許せないのだろう。

前にも一度書いたが、ヴィクトリアはイギリス人のトレーナー。
どちらかというと、イギリス人が好んで使う言葉かもしれない。
その番組でしか、この言葉を聞いたことがないからだ。

でも、番組はアメリカで放送されているのだから、アメリカ人もわかるということだろう。

ネットで見ていると、「能天気」という訳もあった。

なるほど、その訳はなかなかいいニュアンスだと思う。

あいつは、脳天気なヤツだ、というのを英語で言うと、”He is a happy-go-luckey guy.”ということになる。

どうも、あまりいい意味ではなさそうな気もする。

使う時はご注意を。




| | 英語 | 00:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
リスキリング
リスキリングという言葉がある。

これはリスを殺すという意味ではない。
もう一度スキルをつける、ということで、リ・スキリングということだ。
今の世の中、仕事をしていてもそれが陳腐化してしまうということがある。

予備校の講師という仕事があるが、今流行りの学校ではインターネットで教えるのがうまい講師の映像を流し、生徒に見せて授業をしている。
今でしょ、で有名になった人も講師だ。

いろんなところに校舎があるが、講師の人数は増やす必要がない。
映像を送信するインフラが安くなったから、インターネットで画像が送れるのだ。
今まで教室ごとに何十人、何百人いた講師が、十数人で済む。
その代わり、上手な講師は破格の給料で雇う。
それでも、今までよりトータルでは安くなる。

教育という一番人工知能で置き換えにくいと思っている分野でも、こういうことが起こる。
実際、上手な講師は周辺知識も豊富であり、いろんなサイドストーリーを入れながら授業をすすめることができる。
そういう人に習うほうが、圧倒的にショボい講師よりも得だ。
要点を明確に伝え、誤らない。
そういうやり方の予備校は増えていくだろう。

そこで、たくさんの講師の仕事がなくなる。
そういう人たちに必要なのが、リスキリング。
要は技術の進歩や環境の変化によって、仕事がなくなる人が出てくる。
その人たちが仕事を継続するために、もう一度何かのスキルを身につけるということだ。

これからはAIやロボットも増えるし、いろんな仕事がそれらに置き換えられる。
それによって、新たな仕事も出てくるだろうが、それにはきっと新しいスキルが必要とされる。
そのためにも、生涯学習の施設を増やさないといけない。
そして、そこでもう一度スキルをつけられるような仕組みを作らないといけない。

文科省が以前から出している、専門職大学というのは、まさにそれに当たるものだと思う。
今の下位の私学の半分はそちらに変える方がいいと思う。

それが将来のリスキリングの機関になるべきだ。

動きは遅いが、早くやらないと間に合わなくなるぞ。

| | 考えたこと | 20:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
なぜ大学は変われないか
下位の大学では、定員割れところもたくさんあり、大学が多すぎるという声もあり、何とかしないといけないと関係者も思っているはずだ。
だいたい、18歳人口という18年前にわかっている状況と戦っているのだから、先行きは透明だと言っていい。
一般企業で先行き不透明というのとは全く違う。
2018年に受験生が減るというのはだいぶ前からわかっていることだし、定員割れを起こしている大学は、どの学部、学科が人気がないということはわかっている。
それなら経営陣がバカかということになるが、ある意味バカではあるのだが、制約があるから仕方がないとも言える。
その仕方がない、という要因は教員だ。

大学で新しいことをやろうと思うと、ネックは教員になる。
作る方はわりとハードルは低い。
だいたい、定員割れと言われてだいぶ経つが、そんなに多くの大学が潰れていないところを見ると、お金はあるのだ。
そのお金で人気が出ると思われる学部、学科を作ればいい。
今なら人工知能とか、ロボティクスとか、農業とかいろいろある。
地方なら、農業経営に特化した学部など流行るかもしれない。
その道のいい研究者を連れてきて学部長にして、教員を集めさせるのだ。
そうすれば、息を吹き返すこともできるかもしれない。
お金に余裕があれば、既存の学部を募集停止にして4年間持ちこたえることもできる。

しかし、なぜそれができないかというと、既存の学部の教員をクビにできないからだ。
下位の大学のネックはそこにある。
民間企業ならある程度融通がきく人も多いし、配置転換と希望退職で何とかやるところだが、これが極めて難しい。
アカデミックルートを歩いてきた教員(ばかりでもないが)は、自分の研究領域を変えたがらない。
たとえ、講義をやって学生が毎学期どんどん減っていっても、変えない。
まともな大学なら、学部長が「君のやっている領域はもう人気がないから、この領域に鞍替えしたまえ」というようなことを言う。
アメリカの大学の話を聞いたときには、学部長のおおきな役割だということだった。

でも、だいたい日本の下位の大学はまともではないことが多いから、学部長はそんなことも言わないし、言ったとしても言われたほうが言うことを聞かない。
だいたい、そういう教員は学問的実績もない。
まともな論文は書かないし、出しても学会誌などには載らない。
それでいて、自分の研究領域には固執することが多い。

だから、既存の学部がやめられない。
さすがに、新しい学部と既存の学部を両方持つことはできないから、どうすることもできない。
こうなると座して死を待つしかない。
それが分かっていても、そうなるんだろうと思う。

同志社大学の名物教授が「突然の退職」を通告されるまでという記事を見た。
この内容がどうということではないが、世間とはだいぶ違うと思う。
同志社大学の大学院の教授が、65歳になって、定年延長を認められなかったということで訴訟を起こしている。
争って3年目だという。もう69歳。
記事ではこう書いている。

「同志社大学の教員の定年は65歳。だが、大学院の教授だけは1年度ごとに定年延長が認められている。健康上の理由や他大学に移るといった自己都合以外では、定年延長は基本的に認められ、1976年以降、93.1パーセントの教授が1年以上延長し、70歳まで務めた教授は74.9パーセントにのぼる。」

教授は元記者で、ジャーナリズムを専攻しているとのことで、いかにもそういう感じだ。
定年延長が認められなかった理由は、「研究者としての能力、論文・著書の内容の学問的質に問題がある。「運動」としての活動はあっても、大学院の教授の水準を満たす研究はない」ということだったらしい。
もちろん、それに対して反論もしておられるし、言い分はあるのだろう。

しかし、世間の目から見ると、65歳定年で延長を認めるか認めないかは雇っている側の決めることであり、文句をいう筋合いではない。
それが今の労働者としては当たり前の状況だと思うのだが…。

それはさておき、教員をクビにするとこういうことが起こる、ということが大学側が教員の入れ替えができない、という事態を起こしているということだ。

新しい学部を作りたい、という思いを持った経営者はわりといると思う。
しかし、既存の学部に大ナタを奮って、募集停止にして教員をクビにして…、という経営者はほとんどいない。
一部の、お金が潤沢にある、上位の大学になるだろう。
結局大多数の教員が定年で辞める時期まで待とう、ということだ。

そうこうしている間にも、学生は定員割れといえども入ってくる。
そして、時代に合わない講義を聞かされる。
そういう先生は当然ながら「教育」に関して感心がないことが多い。
それが多かれ少なかれ、下位の大学で起こっていることだろうと思う。

この記事の裏側には、そういう事情もある。
同志社大学はきっとそんなことはないが、下位の大学の経営者はこれを見て、「こんなややこしいことに巻き込まれるのは嫌だ」と思っているに違いない。

だから、大学は変われないし、ひいては、若い研究者が就職できないのだろう。

それがぼくが10年間大学で見てきたことだ。


| | 考えたこと | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
帝京大学グループ
高校野球で見慣れない学校が出ていると思ったら、愛媛県代表だった。
名前が帝京第五高校。
いろんなところに帝京はある。

調べてみると、帝京大学グループというと、一大教育コンツェルンだ。
Wikipediaによると、「傘下に8つの学校法人、39校の大学、短期大学、専門学校、高等学校、中学校、小学校、幼稚園を設置している日本の学校法人群である」と書いてある。

関西に住んていると、帝京というのはあまり聞かないが、調べると大学だけで3つもある。
帝京大学、帝京平成大学、帝京科学大学で、いずれも東京にある。

帝京大学は5571名の入学定員で5037名の入学。500名ほど定員割れ。
帝京平成大学は2355名の定員で、2529名の入学。200名ほどの超過。
帝京科学大学は1210名の定員で1140名入学。70名の定員割れ。
傘下の短大はいずれも定員を割っている。
どちらかというと、苦しい状況だろう。
帝京という名前は有名だが、それでも苦しいのか、とびっくりした。

その状況だからか、系列高校は多い。
9つの高校(うち5校は中学も)を持っている。
その1つが、愛媛県にある帝京第五高校だ。
高校情報サイトの入試情報が2012年で止まっているところを見ると、あまり芳しくないらしい。
野球部は18名中11名が愛媛県の出身。
ピッチャーは大阪出身だった。

作新学院に負けたが、今回初出場。
帝京高校で春夏6回甲子園に行っている、元プロ野球選手が監督だ。
やっぱりスポーツが有名なのだろう。
野球だけでなく、サッカー、ラグビーなど名前が通っている。

それでも、大学は定員割れ傾向。
先のことを考えると、苦しい。

帝京は関東の序列でいうと、だいぶ下だ。
大東亜帝国、という括りで言われている。
早慶、上智、GMARCH、成成獨國武明学、日東駒専の次らしい。
大東文化大、亜細亜大、帝京大、国士舘大というグループ。

大学だけで4万人近い学生数。
さて、この大きなコンツェルンはどうなっていくんだろうか。

こういうところが底上げしていかないと、苦しいと思う。

| | 考えたこと | 00:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
YOLO
海外のドラマを見ていたら、YOLOといういう言葉が出てきた。
YOLOとは”You Only Live Once”のことで、「人生は一度きり」という意味だ。

Webによると、アメリカの若者の流行り言葉らしい。
2011年にラッパーが作ったとのこと。

「思いっきり生きよう」とか、「人生一度だからこういう経験も必要だ」とかいう意味。
今のアメリカの若者の気分を表している言葉だと思う。
人生を肯定的にとらえ、挑戦することを良しとする。

今のアメリカの若者は、シェアリング・エコノミーに代表される「世の中みんなで解決する」という価値観を持っていると思う。
新しい「アメリカン・ドリーム」なのかもしれない。

経済的にもアメリカは上向いている。
ただ、格差は大きくなっているようだが…。
だからこそ、ITに強い若い人たちが自分の持ちものを使って、空いている時間に働けるシェアリング・エコノミーというようなコンセプトは好まれる。
お金はないから、ボラティアをやる時間はないが、自分の持ち物を使って空き時間に働こうとしているんだと思う。

そういう動きがYOLOという言葉になったのではないか。

良くも悪くも、アメリカは世界の最先端を行っていると思う。
人種のるつぼと言われているし、問題はあるが、移民のパワーはスゴイ。
人口も1980年からの36年間で2億人から3億人に増えている。
日本とはエライ違いだ。

IT分野でも、グーグル、Amazon、マイクロソフト、フェイスブック、アップルというような会社が世界を引っ張っている。

そういう世相を表すように、YOLOの用例としては「ずっと夢だったオーディションに挑戦するよ!後悔したくないからね!#YOLO」ということだ。

日本の若者も、人生は1回きりだから、冒険してみよう。

もちろん、還暦を過ぎた人も。

| | 英語 | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和の価値観
就活生の面接をしている金融業の人事の人の発言として、AERAにこんなのがあった。

「受験と同じ感覚なんですね。
小さいころから「将来どんな人生を送りたいか」「どんな仕事に就きたいか」と考える教育をされずに、目の前の受験で偏差値の高い学校に行く、というのを繰り返してきている。
だから、就職も一番人気の会社を受けきらなきゃ、という発想になるんです。」

ぼくは将来どんな人生を送りたいかとか、どんな仕事に就きたいかという教育などされた覚えはない。
金融の人事担当者は43歳だというが、彼は本当にされたんだろうか。

もっとも学校以外では、そういう価値観を刷り込まれた覚えはある。
ぼくらが中学、高校の時は1970年代前半で、まだ「末は博士が大臣か」という言葉が現実味を持って話されていたころ。
ロッキード事件が起こる前で、まだ世の中にみんなが権威と言えるものがあった。

学園ドラマは「みんなのために」とか、「頑張れば報われる」というような価値観を表したものだったと思う。
また、時代劇では「いいものは必ず勝つ」とか、「いいことをしたら、必ず報われる」とか、いわゆる「武士の美学」といったものが尊ばれた。
「恥を忍んで生きるよりは切腹する」とか、「お家のために犠牲になる」とか、「命に代えても守るべき義がある」とか…。
そういうメディアを見て育った年代。

大学受験では、受験戦争と言われ、四当五落と言われていた。
睡眠時間が4時間なら合格で、5時間寝たら不合格、という意味だ。
大学進学率は低かったが、浪人生の比率は高く、受験生ブルースなどが流行り、まだまだ予備校などは今のように認められていなかった。
どちらかというと、予備校などという教育機関は日陰者だった時代。
その後だいぶ経って、当時の教育はつめこみだったとか、暗記中心の教育だったとかの反省に基づいて、落ちこぼれをなくそうという動きになり、習得主義から履修主義に舵が切られ、ゆとり教育でそれが結実した。
それとともに、学校を補完する目的であった塾や予備校にどんどん日が当たるようになり、今や予備校に至っては一部の大学よりも強くなった。

しかし、その間も一貫して「将来どんな人生を送りたいか」とか「どんな仕事に就きたいか」などを考える教育などされていない。
逆に言うと、今はキャリア教育という言葉もあり、それなりの活動も学校によってはしているはず。
一部の小中学校では、就業体験もやっており、力を入れていると聞く。
今のほうがよほどそういう教育をされていると思う。

彼がそんなことを言うのは、教育以外の部分なのではないか。
昭和40年代の学園ドラマなどは、今の道徳教育の教材と言ってもいいくらいのものだったと思う。
時代劇は核家族化とともに陳腐化が進み、今や地上波ではレギュラーではなくなってしまった。
最後まで「勧善懲悪」を掲げて頑張っていた水戸黄門も、2011年に終了した。
あれは、時代劇が予算がかかるとか、若い人に人気がないとか理由はあったが、「勧善懲悪」という理念が陳腐化したのが大きかったと思う。
世の中、何が「善」で何が「悪」かわからなくなったのだ。

こないだまでえらい人だった前東京都知事が悪人のようになるし、海の向こうではマスコミが悪人呼ばわりしていたトランプ氏が大統領になる。
ポストモダンと言われていた、すべての価値は相対的だという思想が今や現実化しているような気がする。
もう頼るべきよすががない。
自分で何かを決めて持たないと、確かなものなどないのだ。

今の若い人たちは、そういう時代背景の中で育った。
だから、目の前の利益を考えて行動するしかない。
自分で哲学を持たなければ、それしかないということだ。

ぼくらはある意味楽だった。
まだ昭和的な価値観があった。
今の若い人たちには、何があるのだろう。

それは「将来どんな人生を送りたいか」「どんな仕事に就きたいか」というよりも、もっと深い問題だと思う。



| | 考えたこと | 20:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
クラシックEV
ずっと見ているクラシックカーのレストアの番組がある。
クラシックカー・ディラーズという番組。
もともとはイギリスの番組だが、今はアメリカに整備工場を作ってやっている。

アメリカにもクラシックカーは多く、それを手に入れてレストアして売るという番組だ。
今日見ていたら、マセラッティのヴィトルボという80年代のクルマが出てきた。
お金持ちの夫が改造していたようで、彼が亡くなったので番組に寄付するという殊勝な未亡人があげる、という。
タダで貰うのは悪いので、クルーズ旅行をプレゼントして、代わりにマセラッティを譲り受けた。

なんと、そのクルマはEV(電気自動車)だった。
電動フォークリフトのモーターと鉛バッテリーを使って、昔に改造されたもの。

見ていると、アメリカのEVの市場はぼくらの想像以上に広がっているようだ。
専門の業者がいて、クラシックカーを電気自動車に改造する方法を伝授してくれる。
3次元で座標を入れる機械を使って、モーターを入れるためのスペースを割り出し、中に入れる。
カリフォルニアのEV規制のおかげで、電気自動車が増え、中古のモーターやリチウムイオンバッテリーが出回っている。
約200万円ほどで、マセラッティは2つのモーターを使うリチウムイオン電池で動く電気自動車に生まれ変わった。
80年代に売られたときよりも速い。

モーターはエンジンと違って、いきなり最大トルクが出るから、ギアは必要ないらしい。
番組の中では3速のままで発進も停止もしていた。
アイドリングもないので、クラッチは痛まない。

家庭で充電して走る。
アメリカでは電気代はかなり安そうだった。
190kmの航続距離の充電にかかる電気代は4ドル、と言っていた。

エンジンと比べてモーターは小さいし、制御機器を含めても十分にボンネットに入る。
ただ、電池の置き場がないので、トランクは電池で一杯になる。
それでも、通勤に使うのなら十分使える。
渋滞していてもEVレーンを走っていけるのでラクチンだ。

カリフォルニアはそういう政策誘導がうまい。
世界で一番EVがたくさん走っている地域だろう。
それらを見て、自動車メーカーは電気自動車への対応を進めている。

自宅での充電ということなら、アメリカの住宅はガレージが家の中にあるところが多いので、やりやすい。
これからこの番組でも電気自動車が増えるんだろうか。

複雑な心境だ…。

| | 考えたこと | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
ファカルティ・ディベロップメント
何度か書いたような気がしているのだが、ファカルティ・ディベロップメントで検索しても記事がない。
それを略したFDで検索しても、こないだの教職協働の記事だけだった。
というわけで、ファカルティ・ディベロップメントについて書こうと思う。

2004年に学校法人に転職して、しばらくしてみんながFDという言葉を使っているのに気がついた。
それは何ですか?と聞くと、「ファカルティ・ディベロップメントのことだ」という。
では、ファカルティ・ディベロップメントとは何ですか?と聞くと「教育改善のことだ」という答えが返ってきた。

何度か書いてきたように、初年次演習や基礎ゼミというような授業をやらなくてはいけなくなっている大学が主に対象となる言葉だ。
今や偏差値50以上の私学でも、半分近くは内部進学や推薦、AOで入ってきているから対象になる。
有り体に言えば、昔の大学生ではないレベルの学生がどんどん入ってくる大学で、入った学生をどう育てるか、ということだ。
それをちゃんとしようとすると、FDが必要になる。

今の先生方はアカデミックなキャリアをつけるために、研究者の道を歩んできた。
通ってきた道には、「教育」という側面はあまりない。
研究スキルはあっても(それすら危うい人もたくさんいるが)、教育の方法など全く勉強したこともない、という人たちだ。
もちろんレベル差はあって、出た大学がちゃんと教育や指導のスキルを身に着けないとダメ、という方針でやっているところを出た人は、まだマシだ。
研究一筋でやってきた人でも、研究メインの大学に入れば大丈夫。
そういう大学では、先生が研究している背中を見て、学生は学ぶ力を持っている。
たとえ反面教師であったとしても、学生の力が高ければ、学ぶことが出来るのだろう。

ところが、偏差値50以下とか、内部進学や推薦、AOでたくさん入ってくるような大学に来ると、ややこしい。
学生の多くは、従来考えられている大学生ではないのだ。
「最高学府」というような言葉とは無縁の世界。
まず高校までの基礎知識の量が違う。
私語が多く、先生の話を聞かない。
授業中はスマホをいじっている。
でも、単位が欲しいから授業には出席する。
経済的理由からバイトをしており、学校にいるのは授業の時間だけ。
だから、そういう学生に教える事は、教員が受けてきたようなやり方では無理だ。
そういう訓練を受けていないし、やり方もわからない。

だから、ファカルティ・ディベロップメントという言葉が出てきた。
そうしないと、教育ができないということだ。

授業評価アンケートというのも、FDの一つ。
学生の声を聞いて、授業のやり方を変えよう、ということだ。
こういうのは、ぼくらの時代にはあり得なかったもの。

授業公開というのもある。
他の人の授業を見て参考にしたり、指摘をしたりする。
こういうのは、参加を義務化しないと、ほとんど来ない。
FDの報告のためにやっている、ということになりがちだ。

事例の紹介というのもある。
どこの大学でも、FDに熱心な先生がいる。
そういう先生を呼んできて、講演を聞く。
これも義務化しないと、ほとんど聞きに来なかったりする。
来ても、それを参考にして、授業を変えるというような殊勝な教員はほとんどいないのが通例。

多くの下位の大学にはFD委員会というのがある。
いやいや学長や学部長がメンバーになっており、お茶を濁して1年か2年やって終わり。
持ち回りでやっているという感じだろう。

実際、2008年には文科省が大学設置基準でFDを義務化した。
その当時は、これでようやく大学もよくなる、とぼくは思っていた。
しかし、その程度のことで改善できるようなギャップではなかったのだ。

結局、下位の大学で、FDを本気でやるのなら、大学教員養成課程でも作って、大学生のレベルに応じた教授法を教えるとか、そんなことをしないとイケナイんだろう。
教員を入れ替えて、ちゃんと私語に対して対処し、厳格に成績をつけ、学生のケツを叩き、やる気にさせる、そんな熱血大学教師をたくさん育てないといけない。

それがぼくが10年間大学で過ごして得た結論。




| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼チャック・ベリー
ぼくらの年代で洋楽に興味があれば、必ず知っていると言っていい「ジョニー・B・グッド」という曲がある。
サビの、「Go Go, Go Jonny Jonny. B. Goode, Go Jonny Jonny. B. Goode Jonny. B. Goode」という下りは調子がよくて、口ずさむ。

これを作ったのが、チャック・ベリー。
多くのミュージシャンにカバーされているし、その奏法は影響を与えた。
宇宙船ボイジャーにもロックの代表曲として積まれたとのこと。
宇宙人があの曲を聞いたらどう思うだろうか。

長い手と足を使って、ギターを低い位置で持ち、ギターのネックをつかむようにして握るスタイルでリズムに乗って歌いながら弾く。
膝を折って、片足を上げ、ステージの上を左右に動く姿は独特だった。
カッコイイとみんなが思った。
「ベートーベンをぶっ飛ばせ!(Roll over Beethoven)」という曲も有名。
この曲でベートーベンの英語の綴りを覚えた。

いろんなミュージシャンがフェイスブックのタイムラインに追悼の投稿を載せている。
ポール・サイモンも”I would say no songwriter influenced my generation to a greater degree than Chuck Berry.(ぼくらの世代のソングライターに、チャック・ベリーほど影響を与えた人はいないだろう)”と言っている。

ロックンロールの新しい時代を作ったのが彼だ。
だからこそ、バック・トゥ・ザ・フューチャーの中で、マイケル・J・フォックスがパロディにしてこの曲を弾いてみせた。
ヒューストンにある、ロックの殿堂にも入っていた。

あの、イントロを聞くと、自然とリズムに乗って身体が動き出す。
まだディストーションというようなエフェクツがなく、アンプのセッティングだけでやっていたと思う。
ぼくがギターを弾き始めた頃、すでに偉大なギタリストだった。

後世のギタリストたちにも影響を与えたレジェンド。

ロックンロールの創始者が一人この世を去った。

合掌。

| | 考えたこと | 19:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
堀北真希の引退
堀北真希というと、「オールウェイズ三丁目の夕日」で集団就職で自動車整備工場に青森から出てきた役が印象に残っている。
あの役は素朴で、いかにもという感じがよかった。

朝ドラの主演もやった。
医者の役だったが、あれも上手だったと思う。
若手というよりは、中堅という感じだと思うが、演技力も評価されていて、人気もあったはず。

しかし、今回出産して芸能界を引退するという。
若い俳優はあまり知らないが、彼女はもったいないと思う。
それでも、決めたことだから、仕方がないが…。

女優として生きるよりも、家庭に入って生きることを選ぶというのも1つの価値観。
そういうしっかりした価値観を持っている人が、魅力のある役ができるという言い方もできる。
山口百恵も存在感のある歌手だった。

「惜しまれて去る」というのが彼女の理想だったのかもしれない。
色々な女優が年をとっても活躍している。
しかし、若い頃の作品を超えるのは難しい。
どうしても、若い頃の自分がついて回る。
そこは男優と違うところかもしれない。

あんまりそれを言うと、女性を差別していると言われそうだが、ある意味真実だと思う。

それもあって、早くに引退の道を選んだのかもしれない。
いずれにしたって、彼女の代表作は「三丁目の夕日」シリーズの「六ちゃん」だ。

あの役は、本当によかった。

渥美清がまだまだ若かったら、きっとマドンナもやっていただろう。
見たかったなあ…。

とりあえず、ご苦労さま。


| | 考えたこと | 00:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハイブリッドの次
日産のノートePowerが好調。
これはモーターで走るEVだが、そのために必要な電気をエンジンで作るというもの。
シリーズハイブリッドともいう。
エンジンとモーターが直列でつながれており、エンジンは発電のみに使う。
エンジンで作った電気を使って、モーターで走る。

ノートのePowerに対抗して、プリウスのPHVが出た。
PHVというのは、プラグイン・ハイブリッド・ビークルの略。
家庭用の電源で充電ができるハイブリッド車という意味。
従来のハイブリッド車よりも電池とモーターの容量がアップして、電気自動車(EV)として走れる距離が増えた。
発電用と走行用のモーターが2つあって、モーターで時速135キロまで出せるらしい。
ほとんどEVだ。

ハイブリッドとの違いは、家で充電してほとんど電池で走り、電池がなくなったらエンジンを併用して普通のハイブリッドとして走るということになる。
サンデードライバーで遠出をしないなら、給油はほとんど要らないだろう。
充電で事足りる。

価格はノートePowerが177〜244万円に対して、326〜444万円ということでだいぶプリウスPHVの方が高い。
PHVの方が仕組みが複雑だからだ。
バッテリーとモーターとエンジンをつないで制御しないといけない。

両者を見ていると、どうも日産の方に分があるように思う。
ノートePowerは自宅で充電はできないが、値段が安い。
トヨタのPHVの短い距離を走るなら、EVとして使えるというのは確かにメリットだが、それを手に入れるのに100万円ほど余分に払うのは高いように思う。

いずれにせよ、モーターでクルマが走る、という時代が来ている。
いよいよ、クルマ産業の形も変わっていく。
いずれ、エンジンはなくなるのだろう。

生きている間に、そんな時代が来るとは思わなかった。
まだまだエンジンの時代だと思っていたが…。

ホンダと日立が提携したのも、モーターの技術が必要だからだろう。

新しい時代にも、日本企業に頑張ってほしい。

| | 考えたこと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
バート・バカラック
小林亜星だったか、日本の作曲家がバート・バカラックというアメリカの作曲家の話を聞いて、羨ましいと言っていたのを覚えている。
何せ、何年か充電して、そして満を持して曲を発表するというような状態で仕事をしている、ということだった。

日本で作曲家をやろうとすると、締切に追われて作りまくらないといけない、ということだったが、あれは何年くらい前だったろう。
バート・バカラックは日本では60年代から70年代に有名になったと思う。
ぼくが彼を知ったのは、「雨にぬれても」だった。
映画「明日に向かって撃て」の中でB.J.トーマスが歌っていた曲が彼の作品。

何でこんなことを書くかというと、今日近所のドトールに行っていたら、久しぶりにBGMが変わっていて、そこで「ディス・ガイ」という好きな曲がかかったからだ。
ゆったりしたテンポで、しっとり歌えるこの曲はバート・バカラックの名曲だ。
こういうのは、ギターで弾いても映えない。
やっぱりピアノだ。

バート・バカラックは88歳で存命。
まだ生きていたんやな、と安心した。
彼の曲は高校時代によく聞いた。

バラードにいい曲が多いと思う。
カーペンターズの「遙かなる影(Close to you)」や、いろんな人がカバーしている「世界は愛を求めている(What the world needs now is Love)」は今でもよく耳にする。

Wikipedia を見ていたら、こんな記載があった。
「惜しむらくは'80年代に入る頃からかつてのブラス、ストリングスを含むフルオーケストレーションの編曲が求められない時代となり、彼のみならず才能あるアレンジャーの活躍の場が激減した。」

ホントにそうだなあと思う。
70年代にビートルズ以降のバンドの音楽がはやり、80年代になってシンセサイザーが出てきたのも大きいだろう。
シンセのボタンを押せば、ストリングスやブラスの音が出るようになったので、バンドでできるようになった。

今となっては、フルオーケストラの曲はお金がかかるから、なかなか演奏できない。
まあ、いいとこ、ストリングス4人、ブラス3人をバンドに加えてライブをするくらいだ。

フルオーケストラになると、各楽器の音域とかもあるし、アレンジは難しいだろうなあ。
楽器の数、パートの数だけ楽譜も書かないといけないし、勉強していないとできないだろう。

シンセサイザーができて、それだけ音楽がお手軽になった、ということか。

彼の音楽はアメリカ音楽史に残るだろうなあ。




| | 考えたこと | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
キョロ充
「リア充」という言葉がある。
これは比較的よく聞くようになった。
これは、リアルが充実している、という意味であり、「現実の生活が充実している」ということだ。
ネットでは活発に動いているように見えるが、現実の世界では充実していないという場合、「非リア充」という。
えてして、リア充な人はネットは不活発なことが多いらしい。

この「リア充」によく似た言葉で、「キョロ充」というのがあるという。
こないだ次男に聞いた。
これは「常に人の目を気にしながらも自分にはリア充グループの一員であるというアイデンティティに支えられ、大学生活が充実していると感じている人間」らしい。

キョロ充の特徴は、「学校の教室や食堂などで、自分の知り合いや顔見知りがいないかどうか、キョロキョロと常にあたりを見回すような行動が見られる。1人で学食を食べることはこの上ない恥だと感じており、そんな自分を誰か知り合いに見られはしないかと、強い恐怖心や強迫観念を抱いている」とある。

どうも、自分ではリア充だと思っているが、本当のリア充の人はボッチでも別に気にせずご飯を食べるのに対して、キョロ充の人は、そういう自信がないということらしい。
似非リア充、という感じだろう。

リア充にはリア友(ネット上ではなく現実にいる友だち)が必須という。
それはそうだろう。
ネットなどない時代は、リアルしかなかったから、そんな言葉もなかった。
友だちが多いか、少ないかだったと思う。
全く友だちがいない、という人はあまりいなかったと思う。

ネットができたから、こういうことが起こるんだろう。
「充」という漢字がつく言葉には他に「ネト充」とか、「オタ充」とかがある。
ネト充はネットの生活を充分に楽しんでいる人で、オタ充はオタクの生活を充分楽しんでいる人、ということだ。

インターネット関連のスラングは多い。
それだけ、生活への影響が大きいということだ。
すでに若い人たちはテレビよりもネットという人も多い。

ぼくの若い頃はテレビの時代だった。
でも、それはあくまで片側通行のメディアだった。
だから、いくらテレビっ子と言われても、自分が入り込むことはなかったし、それをリアルな友だちと共有することができた。

しかし、インターネットの時代は、双方向でネット上に友だちを作ることもできるし、それだけのめり込むこともできる。
中毒性もテレビよりも強いだろう。
おまけに、あらゆる話題があるから、同じネットといっても人によって違う。

そういう背景から、リア充やキョロ充という言葉が出てきたんだろう。

もう後戻りはできないなあ。

| | 考えたこと | 20:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
柘榴坂の仇討
2014年の松竹映画。
浅田次郎の短編を映画化したもの。
ケーブルテレビでやっていた。
井伊直弼を水戸藩士が暗殺したという、桜田門外の変にちなんだフィクションらしい。

中井貴一と阿部寛が江戸から明治になる時代の変わり目を生きる武士を演じる。
中井は井伊直弼に仕える武士。
阿部は井伊の討ち手だ。

井伊直弼という主君に忠義を尽くし、明治維新になってもまだ仇を討つために仇敵を探す。
13年間の歳月が過ぎていた。
車夫をやっている仇をついに見つけ、車に乗って2人が話す。
車の行先は桜田門外の変の近くの柘榴坂(ざくろざか)だ。

ぼくらは江戸時代と明治時代は、はっきりと分かれていると思っている。
1868年という年号で、それ以降は明治、それより前は江戸時代。
でも、実際はそうではない。
明治になっても髷を結って、武士を捨てきれず、両刀を差した人もいたはず。
散切り頭の明治政府の役人が「武士はもう古い」と言われ、武士だった人たちが名乗り出て、主人公をかばう場面がある。
そのあたりの世相が、よくわかる映画だ。

この映画、時代は変わっても、守らないといけないものがある、ということが言いたかったのだろうか。
それとも、滅んでいくものの美学を伝えたかったのか。

日本文化の奥底には武士の文化も入っていると思う。
それが良かれ悪しかれ伝統というものだ。

そういうものを思い出す映画だった。

| | 映画・舞台 | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
関西人はケチ?
関西大学の調査で、「山形県西川町の住民は、関西の人たちより利他的」という結果が出たらしい。
日曜日の日経に出ていた。

西川町と関西人、関西大の学生の3つの集団に対して、行動経済学の「独裁者ゲーム」という実験をした。
要するに、自由にできるお金を設定して、どれだけを相手に渡すかというゲーム。
西川町の住民は半額を渡す人が最多だったが、関西人の場合は30%、関西大の学生は17%だったとのこと。
関西大の学生は、一銭も渡さない、が最多だったとのこと。
この結果からいくと、やっぱり関西人はケチだ。
関西大の学生を関西の若い人と考えると(下宿生も混じっているはすだが)、関西の若い人は最もケチだということになる。

昭和の時代に、花登筺原作の「細うで繁盛記」というドラマで関西人のケチを描いていたと思う。
それは根も葉もないことではなかった、ということになるのかもしれない。

しかし、この調査結果は詳細を見ないとわからない。
集団の年齢のバラツキが違うかもしれない。
山形県の西川町というところはどんなところか知らないが、高齢化は都会より進んでいると考えられる。
そして、関西だが、どの地域で取ったのかわからないし、都会が含まれているから年齢的には低い、と推定される。
関西大はもちろん大学生だから、最も若い部類だ。

また、都会では消費文化が進んでいて、消費の誘惑も多い。
もっと誘惑の多い、首都圏で調査しても、ケチかもしれない。
年金生活者の割合の違いもあるだろう。

ひょっとしたら、この結果は若い人ほど貧困が進んでいるという結果かもしれないし、都会のほうが相対的に貧しいという結果を表すかもしれない。
それなら追加で調査が必要だ。

少なくともそれくらいの考察をしてから、メディアに発表すべきだろう。

関西人はケチだと言われても、ある程度の耐性ができているが、結果の本質を見誤ってはもったいない。
本当にケチなのか、それとも若いほうが貧乏だという日本の問題を表しているのか…。

だからこそ、統計のリテラシーをつけておかないとイケナイ。

数字にダマされないように…。



| | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
子犬のプレゼント
ネコは事情があって飼えないので、最近はイヌの動画を時々見る。
今日発見したが、海外では親が子犬を子どもの誕生日にプレゼントすることがあるらしい。
その動画がたくさんYou Tubeに上がっていた。

ほとんどの動画は娘へのプレゼントだ。
たまにお母さんとか恋人とかがある。
少しは男の子がもらう動画もある。

男女のリアクションの違いははっきりしている。
男の子は喜んでいるが、涙はあまりない。
例外なく、女の子は号泣だ。
見ていても、最初の反応は口を開けるが言葉が出ない。
出ても”Oh, my God"しか話せない。
たとえ、イヌをすでに飼っていても大泣きする。
もちろん、感激して涙が出るのだ。

まれに男の子が泣く場合もあるが、泣き方が違うように思う。

こういうのを見ると、女性には母性本能というのがあるのかな、と思う。
子犬を見たとたん、涙が出る。
しばらく、感激で話せない。

ぼくは上野千鶴子に代表される、日本のフェミニストというのが性に合わない。
男女が平等でないとか、差別をしているという意識はないし、ずっと男女共学で育ってきたし、職場でも女性も男性も変わらず接してきたつもりだ。

女性の権利を拡張するために、政治的なこともやらないといけないし、そういうことで頑張ってきたのはわかる。
それでも、ちょっと行き過ぎではないかと思うこともある。
なんか気持ちが悪くて、違和感がある。

その違和感の元は、こういう男女の違いにあるんだと思って勝手に納得した。
子犬をもらった時のリアクションだ。

単に喜ぶのが男性、涙を流して感激し「神様」というのが女性。
その違いはやっぱりあるし、それは尊重すべきだと思う。

男だって、女だって、肩肘を張って生きないといけないときもある。
しかし、身体の違いがあるように、考え方にも違いはあるはずだ。
それは差別ではなくて、区別だとぼくは思う。

考え方が古いと言われればそれまでだが…。

| | 考えたこと | 22:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
Post-truth
このPost-truthという言葉が、オックスフォード大学出版局の辞典部門が毎年発表している流行語大賞に選ばれた。
直訳すると、「真実の後」ということになる。
Postはポストモダンなどのポストと同じ。〜の後という意味だ。

で、実際の意味はと言うと、オックスフォードの辞書によると、「客観的な事実が重視されず、感情的な訴えが政治的に影響を与える状況のこと」となっているらしい。

これは、トランプ大統領がやっている、ツイッターなどのSNSによって生まれたものだと思う。
何やかや言っても、テレビや新聞といったマスコミには編集する人たちがいる。
本も同じことだ。
個人が感情に任せて言うことなどマスコミには載らなかった。
やっぱり明らかな事実は認めた上で、議論を進めていく。

しかし、ネットの発達で、みんなの感情的な発言が重みを持つようになった。
いくら従来のマスコミが事実に基づく報道をしても、SNSの拡散力に勝てない。
影響力のある人が何を間違ったことを言えば、それが一瞬で何十万にも広がり、そこからまたどんどん拡散する。
ツイッターもフェイスブックも同じような仕組みで、情報が広がっていく。
それがたとえ間違っていたとしても、チェックは入らない。

現に、モスクワでは何気なくフェイクニュースを拡散する部隊があるという。
そんなことをやっている国は、他にもたくさんあるだろう。
そういうふうにして、政治が決まっていく時代になった。

名コラムニストの山本夏彦が、ワープロは単に便利になるだけだが、インターネットは世界を変える、というような事を書いていたと思う。
あれから十数年。
ホントにインターネットは世界を変え始めた。

産業や生活を変えるだけではない。
政治を変えるような道具になった。

このへんで、リアルな世界のことをもう一度よく見直したほうがいいと思う。

まあ、このぼくの書いていることだって、大したものではないが、昔ならそんな簡単に公表できるものではない。
インターネットというインフラがあって、初めてできるものだ。

恐ろしいといえば、恐ろしいことだ。

それがPost-truthということだろう。




| | 考えたこと | 22:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
労働組合と民主主義
昔、聞いた話を思い出した。
ぼくが組合員だった頃の話だ。

日本の特徴は企業内組合であり、組合員はみんな同じ会社の人だ。
ぼくのいた組合は、会社の中をいくつかの区に分けていて、KMさんはぼくと違う区だった。
当時、KMさんは組合の区の意見を取りまとめする役で、方針を組合員に伝え、それで了承を取って総会に持っていく、という役割だった。

職場で方針を伝えた時、一人意見がある人がいて、自分はこのことには反対だ、その理由は〜、ということを聞いた。
もちろん、多数決では賛成なので、その反対意見を必ずトップの総会で伝えるという事を約束して、その場は終わったらしい。

後日、総会が開かれ、その方針を順に採決していく。
その時に、その反対意見を聞いた案件になって、議長がでは、拍手を持って採決に変えたい、と言ったときに手を挙げ、「一人反対の意見があった」とみんなの前で言った。
ザワザワと反応が広がり、雰囲気が変わったらしい。

執行部はずっと満場一致で認められてきているので、一人の反対意見ということをどう扱えばいいのかわからなかったらしい。
それで、KMさんを別室に呼んで、その意見はなかったことにしてほしい、という話をされたとのこと。

しかし、KMさんは労働組合は民主的な組織であり、多数決は民主的な手続きであるから、それに対して一人が反対意見を出して、それを伝えてほしいと言われたことは、何らその手続きを破るものでもなく、それ自体は何の問題もないのではないか、と言ったとのこと。
逆に、自分はその意見を出した人に約束したのだから、それは引っ込められないと主張した。

それでも、執行部は今までの前例に「満場一致」以外の記録がないから、何とかそれは引っ込めてほしい、という押し問答になったらしい。
長ーい討議の末に、KMさんが持ち帰って、執行部がそう言っているから、伝えたことは間違いないので、満場一致で決めさせてほしいと伝えることになったはず。
「なんで引っ込めないかんのか、わからん」と言っていたことを思い出す。
結局は職場に帰り、その人に謝ったと言っていた。

ぼくは当時まだ20代だったが、この話はよく覚えている。
その後、組合の行状を見ていて、ああ、そういうもんなんやな、と良くも悪くも思った。
一言でいうと、形骸化しているということだろう。
思考停止と言ってもいい。
一人の反対意見があったことが、扱えないのだ。

そういう組織は日本には多いと思う。
ある意味、日本には民主主義が根付いていないということを表している。

今も同じかどうかはわからないが…。

| | 考えたこと | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
放射能とマスコミ
福島の南相馬の中学校の授業が、朝のニュースで流れた。
先生が、生徒たちがこれから偏見に基づいたイジメに合うかもしれない、ということで行った授業。
それを放送した後、NHKのアナウンサーが「相手の立場に立って、考えて…」というような事を言っていた。

しかし、福島の放射能のイジメに関してはそういう報道でいいんだろうか。
今までの相馬での健康被害はどれだけあったのかを事実として報道して、それらが全く根拠のないイジメであることをもっと強く訴えないといけないと思う。

この問題について、マスコミは歯切れが悪くなるのはわかる。
マスコミもそれに加担したからだ。
「福島には人が住めない」という類の報道をして、今の放射能イジメの元を作った。

でも、これだけ時間が経って、明らかに健康被害などないし、ましてや福島の生徒が放射能で汚染されているというような事実などない、という事を報道すればいいのだ。

原発事故の直後は、わけも分からず放射能の事を心配したのは事実。
ぼくもそれは心配した。
その後、いろんな意見が出て「福島に人は住めない」という人たちも出てきて意見を言った。
センセーショナルな分だけ、声は大きくなるし、マスコミもこぞって報道した。

しかし、その後の事実をよく見てほしい。
実際に福島に人は住んでいるし、農産物や水産物は時間が経てば経つほど問題がなくなっている。
原発の周辺の人たちは帰還が認められ、周辺の除染の作業者は普通に歩いている。
ぼくはこの目で見てきた。
その現実をそのまま報道すればいいと思う。
何も誇張する必要はない。

この辺でマスコミは原発報道の総括をした方がいい。
こういう報道をしてきたが、事実はどうなのか、ということだ。
それがイジメをなくす最もいい方法だと思う。

何度も言うが、マスコミはこの問題に対して歯切れが悪いと思う。
罪の意識があるなら、ちゃんと総括しないと…。

| | 考えたこと | 19:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
ミステリアスな日本
クリミナル・マインドというFBIのプロファイラーが活躍するドラマがある。
それのスピンオフのドラマで、海外でアメリカ人が殺された連続殺人事件を扱う、クリミナル・マインド国際捜査班というのが始まった。

WOWOWで始まって、まだ数回だがインドやタイ、南米などに続いて、日本が出てきた。
FBIのチームが日本に行って警察に協力依頼をして、調査を始める。

音楽や映像の感じで言うと、ミステリアスな感じが出ている。
日本の警視庁の人と名刺交換をする。
その場面は、アメリカ人にとってけっこう緊張する場面のようだ。
アメリカの若いスタッフは、何で名刺がそんなに大事なの?と言っていた。

ぼくはアメリカに行った時、そういう場面に遭遇した。
日本から4人がアメリカの会社に視察に行き、そこでエライ人たちと顔を合わせて名刺交換したのだ。
その時はみんな日本風の作法にのっとって、ちゃんと交換していた。
あとで聞いたら、日本の会社と提携するということで、だいぶ講習をやったらしい。
名刺交換も重要な科目だったようだ。
だから自然にやれたのだろう。

インドやタイは、そんなにミステリアスな感じでは描かれていなかった。
未だに日本はアメリカ人にとって、東の果て(ファー・イースト)の極東であり、よくわからないところなのかもしれない。

ドラマの中では、切腹も出てきた。
日本人は自殺を是とするという考え方もある、という感じ。
キリスト教の人たちにとっては、なかなか理解できないことなんだろう。

引きこもりも出てきた。
30年部屋から出ず、ネットやゲームをしている、と言っていた。
アメリカでは考えられないことだ。
働かなければ食えないし、30年も部屋でじっとしていることなどあり得ない。

ドラマの影響は大きい。
ぼくらは戦後70年で、だいぶアメリカナイズされていると思っている。
昭和30年代から40年代にはゴールデンタイムにアメリカのドラマをやっていた。
コンバット、ペリー・メイスン、ハワイアン・アイ、ラッシー、フリッパー、ベン・ケーシー、奥様は魔女など、いくらでも挙げられる。

でも、日本のドラマはアメリカではやっていない。
だから、彼らから見たら未だに文化的にミステリアスなところがあるんだろう。

戦争末期のカミカゼやハラキリがまだ尾を引いているんだろうか…。


| | 考えたこと | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
北国の春
今日の7時半からNHKで歌番組をやっていた。
最初に出たのが、千昌夫。
「北国の春」を歌った。

昭和52年の歌。
1977年だから、今から40年前だ。
あの、「白樺 青空 南風」という歌詞と出だしのメロディーは、ぼくらの世代ならほとんど知っている。
この千昌夫という人は、一時千億単位の借金があってマスコミに出ていた。

ウソか本当かわからないが、サイトによると、一時は3000億円の借金があったが、借りていた先が倒産したりして、1億5000万円になって、それを月に何回かのライブをやってコツコツと返済し、完済したらしい。
そういえば、シェパードというアメリカ人の奥さんもいた。
まあ、バブルの時に失敗してかなりの借金を背負い、それでも借金は返したというのが実情らしい。

千昌夫というと、「北国の春」と並んで、「星影のワルツ」が有名だ。
というか、この2曲で生きているという感じだ。
今の世の中、もう演歌が流行るということはないだろう。
あの年頃の演歌歌手(70歳)は、過去の遺産で食っているという感じ。

「星影のワルツ」が昭和41年、「北国の春」が昭和52年。
バブルがはじけてから、いろんな所で歌ってきたんだろう。

ぼくらの世代が、千昌夫を知っている最後の世代に近い。

年をとってくると、「あの故郷へ帰ろかな 帰ろうかな」というところで歌いたくなる。

還暦を過ぎたから言うわけではないが…。

| | 考えたこと | 21:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
物語が必要?
前にバービーの事を書いたが、日本にはリカちゃんがいる。
人形のことだ。
リカちゃんは今年で生誕50年らしい。
ぼくが10歳の時に発売された。

リカちゃんは白樺学園に通う11歳の小学5年生。デザイナーの母とフランス人の指揮者を父に持つハーフの女の子となっている。
ハーフの女の子というのは、やはり半分は日本人でないと売りにくい、という事情があったんだろう。
当時は外人といえば西洋人。
中でもフランスは憧れの地だった。
だからハーフにしたんだろう。
しかし、見たところ8等身くらいあって、だいぶフランス寄りのハーフだが…。

リカちゃんは2000年の沖縄サミットでは30歳の外交官になって、各国代表に配られたらしい。
今やSNSで発信して、企業のキャンペーンで活躍する。
2015年にはオトナのリカちゃんも登場した。
少子高齢化に対応しているんだろう。
リカちゃんのおばあちゃんも発売されている。
今やクールジャパンの一つになった。

これだけ長い間売り続けるためには、物語が必要だ。
「人形」というシンプルな製品だからこそ、いろんな形がとれるんだろう。
ロングセラーにはそれなりの理由がある。

リカちゃんハウスというのもあった。
今でもお城やドレスルームという定番から、ミスタードーナツやくら寿司という子どもが好きそうなショップもある。
時代時代を表しているんだろう。

現在のホームページでは、友だちの人形もたくさんある。
エミリー、ビッキー、マリア、アリスという外国人やハーフと、みゆ、ひな、つばさ、さくらという日本人、さらに、人形を見たら女の子みたいな「はると」というスポーツ万能の向かいのお兄さんもいる。
ミキ、マキという双子の妹の人形もあった。

ほとんど売れないキャラクターもあるだろう。
それでも、物語を広げていくのに必要なのだと思う。

まだまだリカちゃんは生き続ける。
今や親、子、孫の代で遊んだ人たちがいる。

男の子の場合、何なんだろうなあ。

| | 考えたこと | 21:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校生のアルバイト
アメリカのミシガン大学で、高校時代にアルバイトをしすぎると、大学が卒業できなくなる、という研究結果があるとのこと。
研究結果によると、高校生のアルバイトは週15時間以内にとどめておくべき、ということだ。

高校3年の時に15時間以内のアルバイトの学生は、半分は29〜30歳で学士号を取った。
しかし、31時間以上のアルバイトをした学生は20%しか大学を卒業していない。

アメリカの大学は入るのが優しく、出るのが難しいというから、こうなるのかもしれない。
日本では高校生のアルバイトは最近は1年生からでもやる人がいる。

「高校生のアルバイト」でググれば、求人情報やタウンワークなどのサイトが出てくる。
グーグルの検索窓に出てくる言葉を見ていると、アルバイトの後に続く言葉が「履歴書」とか、「時間」とか「許可証」というものが続く。

高校生のアルバイトには保護者と学校の許可証が必要らしい。
校則で許されていること、親が承諾することがバイトの条件になっている。
もちろん、深夜等は禁じられている。
法的にはアルバイトの雇用契約をする上で、学校の許可は必要ではないので、それを求めない就労先もあるとのこと。
しかし、コンプライアンスを謳っているような企業は、学校の許可証を求めていると思う。
一方、保護者の許可は未成年の契約はできないので絶対必要になる。
要は、高校生でアルバイトをしている生徒は、少なくとも親の許可をもらってやっている、ということだ。

大体の高校生は3年で受験を終えてから、というパターンが多いが、1年からというのも増えてきた。
近所のラーメン屋には「高校生アルバイト募集」というポスターが出ていた。
ちょうど卒業間近で、人手不足だから、欲しがっているんだろう。
うまくいけば、大学に入ってからも継続して働いてもらえるから、ラッキーだ。

でも、高校時代は自分とは何かとか、生きるとは何かとか、そういうことを考える時期でもあると思う。
それが思春期というものだ。
だから、時間はたっぷりある方がいい。
暇な時間は本を読んだり、友だちと話したりして、考えるのだ。

それをアルバイトで時間を使ってしまうのはもったいない。
お金よりも、時間が必要なのだ。

まして、アメリカでの研究結果をみると、15時間以上のアルバイトはよくないという結果である。

貧しくなった日本を表しているのかもしれない。


| | 考えたこと | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
Music Cloud
世の中クラウド流行りだが、音楽の世界にもクラウドビジネスが入ってきた。
サンプリングという、音の波形のデーターをコンピューターに取り込むという手法がある。
それによって、音楽を作ることができるようになっている。

ソフトは必要だが、そのソフトウェアの上にサンプリングされたデーターを並べて、音楽を作るというやり方だ。
その音源データーをクラウド上から欲しいだけダウンロードして使えるというサービス。
月々30ドルで使い放題。

サービス元のサイトを見ると、ハリウッドのオーケストラの音源から、ベースやドラム、ギターなど何でもありそうだ。
一流のミュージシャンを集めて、レコーディングすると、時間とお金と場所を交渉して大変な努力が必要だが、これならインターネットからパソコンにダウンロードして、一人で作ることができる。
すごい進歩だ。

昔はスタジオにみんなを集めて、一発録り。
その次は時間をずらして、一人ずつ録れるようになった。
マルチトラックというやつだ。
そして今回はミュージシャンが録音することと、それを使う時間と場所を分離していつでもどこでも使えるようにした、ということになる。
これがMusic Cloud。

こうなると、相対的にライブを聞きに行くという事の価値は上がる。
レコーディングが簡単になったからだ。
インターネットに繋がったパソコンさえあれば、一流のミュージシャンが使えるようになる。

生きている間にこういう時代が来るとは思わなかった。

何でもインターネットから手に入れる時代が来るんだろうか。
そういう時代になってくると、本当にサイバー戦争は現実味を帯びてくるなあ…。

| | 考えたこと | 00:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 かまやつひろし
かまやつひろしが3月1日に亡くなった。78歳だった。
グループサウンズで活躍した人たちも、みんな60代の後半を超える時代。
スパイダーズの井上順も堺正章も70歳。
かまやつひろしはちょっと年上だった。

親子2代のミュージシャンらしい。
父親の方は知らないが、日本のジャズシンガーの草分けということだ。
ムッシュの愛称で活躍していた。

ぼくの記憶では、森光子が出ていた「時間ですよ」というドラマで、彼が「どうにかなるさ」を歌う場面があったような気がするのだが、調べたら載っていなかった。
中学校の頃に、ギターの歌本に載っていた歌で、カントリー調の歌。
ぼくはその頃この「どうにかなるさ」という歌が好きで、たしか中学校の卒業の時の寄せ書きか何かに「どうにかなるさ」と書いた覚えがある。

今夜の夜汽車で 旅立つ俺だよ
あてなどないけど どうにかなるさ

という厭世的な歌詞が好きだった。
中学の時代というのは、後からあまり思い出せない。
ややこしい時代だ。
その中にあって、この「どうにかなるさ」は存在感を持って覚えている。

ギターを覚えたてということもあった。
キーがCで、コードの数も少なく、弾きやすかったのもあるだろう。
でも、何かこの世の存在を突き放して、一人で生きていくという積極さがあるわけでなく、何ともやるせない感じがなんとも言えないのだ。

そんなに気に入っていたのに、レコードを買うという積極的な行動もおこさず、今に至っている。
ぼくにとっては、「我が良き友よ」よりも、「どうにかなるさ」だった。

ご冥福を祈ります。



| | 考えたこと | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
還暦祝い
3月の5日で還暦。
その3日前ではあるが、今日前の会社の人たちが集まって、ぼくの還暦祝いをしてくれた。
本当なら、定年祝いになるところだが、もう会社を辞めて13年も経つので還暦祝いという事になったのだ。

10人以上の人たちが集まってくれた。
上は79歳、下は58歳。
13年前のところでぼくの会社の記憶は止まっている。
その中から、ぼくが入社した時の上司、一番お世話になった上司、出張で同じ釜の飯を食った先輩、後輩が、ぼくの思い出を語ってくれた。

恒例にしたがって、いいことを話してくれる。
多かったのは、落語の話し。
やった方は忘れているが、聞いた方は覚えている。
入社してすぐに落語をやったことはあったと思う。

慰安旅行で交通事故を起こしたこともあった。
これも忘れていたが、回りの人たちは覚えていた。
よく60歳まで生きたなあ、という感想だった。

あまり仕事のことは話さない。
本当に長いこと仕事を一緒にした人だけが、仕事の事を話す。
そういうものだ。
ぼくも今までそうしてきた。

ぼくは色紙とベストをもらって、最後に話した。
入社から、5年間の初めての部署のこと、それから15年間の設計業務、そして最後に5年の企画業務。
やったことを話して、ぼくなりの退社理由を説明し、そこから10年間の学校法人の話を簡単にした。

そして、会社に入ってよかったと言った。
自分を育ててくれたし、自分もそれなりに恩返ししたと思う。
その25年のことは忘れない。
そこからの10年はある意味で外様だった。
大変だったが、やりきったと話した。

最後に記念写真を撮ってもらった。

本当にみなさん、今日はありがとうございました。
これで第三の人生を歩めます。

| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハインリッヒの法則
どっかオカシイのではないかと思う事が最近多い。
中でも、横浜の原発のいじめの件はそう思う。

結局、教育長が謝罪したが、こういう事例はたくさんある。
教育界の内部にはいろんな事情があって、いじめの釈明は今回の横浜のようになることが多い。
それを内向きの価値観ということで以前書いた。

これは学校という労働現場で起きた「災害」と見ることができる。
ハインリッヒの法則、というものがある。
ウィキペディアによると、「ハインリッヒの法則は、労働災害における経験則の一つである。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというもの。」とある。

結局構造的なバックグラウンドがあって、それが時々表に出る、ということだ。
ヒドイ事例は今回のように謝罪というような表沙汰になる。
一つが表沙汰になったら、その後ろには29の同じような事例がある。
またその後ろには、300の異常が存在する、という法則。

これは工場で起こる事故等の時に言われる経験則だ。
一つの重大事故の後ろには、29の赤チン災害(軽微な災害)があり、その後ろには300のヒヤリハット(事故には至らなかったが、危なかったという事例)がある。
それを、一つのヒヤリハットの事例が出た時に潰しておけば、事故は起こらない、と教わった。
安全衛生課というのが、その担当だったなあ。

教育に携わる人達に、こういう考え方はないのだろうか。
何度でも繰り返される、いじめによる自殺などの事例。
その後ろ側には何百のいじめがある。
それは明らかだろう。

しかし、組織的にそれを何とかしようという、「安全衛生課」であるはずの教育委員会も一緒になって、いじめは起こっている。

この法則を発見したハインリッヒは、予防可能なものは、労働災害全体の98%だと言っている。

適切な処置を行えば、ほとんどは防げる、ということで工場は日々運営されている。

これだけたくさんの不祥事を起こしている教育委員会は、やっぱり解体して別組織にすべきだと思う。



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