考えたこと2

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Positive
最近イギリスのドラマを見ていたら、肯定の返事に、「ポジティヴ」という場面がある。
ドラマを見ていると、Yesよりも強く肯定しているような感じがある。

"Positive"と答えている時は、「強くそう思う」というふうに聞こえる。

”Positive”という言葉は、「前向き」という意味以外にも、極性のプラス(+)という意味もあるし、陽性、という意味にも使われる。

反対はNegative。
もちろん、「後ろ向き」という意味で、極性のマイナス(ー)、そして、陰性という意味。

通信用語、という事も辞書には書かれているから、無線でYes、Noの代わりにPositive、Negativeと言うのかもしれない。

アメリカのドラマではあまり聞かないが、イギリスのドラマではよく聞く。

きっと、イギリス人とアメリカ人はお互いに言葉で区別するのだろう。

子音の強さなど、アメリカ英語とイギリス英語は違うが、お互いにマネしようとしても、きっとばれるんだろうなあ。

たしかに、関西の芸人が東京に行っても、言葉がオカシイからばれる。
お互いのスラングもちょっと違うし、アホとバカは使い方が違うし、箸と橋も違うからなあ。

ニューヨークではイギリス人はバカにされるし、ロンドンではアメリカ人はバカにされるんだろう。
昔見た、English man in NewYorkという映画を思い出した。

この映画では、HelloとHiが最初に出てくる。
イギリスでは、Hello、アメリカでは、Hiというのが挨拶。
いきなり、イギリス人がアメリカ人に挨拶はHiだ、と言われているシーンから始まった(ハズだ)。

言葉はむずかしい。

| | 英語 | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
エロイムエッサイム
朝のドラマは、水木しげるのマンガがテレビ化されるところまできた。

昭和40年代の前半か。
悪魔くん、という実写のドラマだった。

詳細は覚えていないが、エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり、という文句はよく覚えている。
文語調の言葉がまだ使われていた。
主題歌の最初は「エロイムエッサイム」で始まる。
ドラマの中で、水木が作詞をしていたが、そんな経緯があるとはなあ。

悪魔くんはなんだかヘンな子ども番組だった。
地獄の魔方陣から何かを呼び出して…、悪い奴らをやっつけるのだったか…。
あまり覚えていないが、とにかくテレビは見ていた。

カラーテレビを買っても、悪魔くんは白黒放送だ、と言っていた。
なつかしい。
前にも書いたが、カラー放送は画面に小さく「カラー」というロゴが出て、ほんとはカラーなんだよ、とイヤミを言っているような気がしたものだ。
ちょうど今のアナログ放送という文字のようなものだ。

悪魔くんはそれなりに流行ったと思う。
担当の編集者が言っていたが、「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム」という文句が印象に残るのだ。
そして、その曲を明るいマーチのリズムでやろう、と水木が言っていたが、これは、本当にそうだった。
おそらく、実話なのだろう。

どちらが先かわからないが、ちょうど梅図かずおが出てきて、怪奇マンガが流行りだしたころだった。
ヘビ女とか、クモ、ネコなどを題名に入れた、怖いマンガを出していた。
今の人は「まことちゃん」の梅図かずおだと思っているかもしれないが、この人は怪奇マンガ専門だった。
まことちゃんは、梅図がイメージチェンジして、本人がバンドをやったりした頃の作品ではないか。
梅図かずおの作品を読んだら、夜、暗い廊下を歩いて、トイレに行けなくなる、という時代だった。

それに比べて、水木しげるのマンガは、怖い中にも何となくおかしさがある、という感じだった。
悪魔くんに続いて、ゲゲゲの鬼太郎(今はまだ墓場の鬼太郎)が出てくるが、この中のキャラクターは何となくおかしさがあった。
子泣きじじい、一反木綿、砂かけばばあなど、今あらためてみると、確かにオカシイ。

このドラマでは、ゲゲゲの女房の子ども時代に、「こわいものは、おもしろい」というセリフが何度も出てきた。
ぼくはSFマンガ派だったが、それでも、悪魔くんやゲゲゲの鬼太郎をよく覚えているのは、そういうことなんだろう。
あの特徴的な絵は、それまでのマンガ家が描かなかったものだ。

貸本マンガから、雑誌の連載マンガ、そしてテレビへ、というマンガを取り巻く盛衰がよくわかる。

しかし、本当に多くのマンガ家が貸本マンガで生まれ、そして志半ばであきらめ、それで残っているのが今の大御所、という図式。

昨日の朝、倒産した貸本マンガの印刷所の元社長や、水木の家に下宿していて、食いつなげずに関西に帰った元マンガ家が、食堂やどこかのテレビで、水木の原作がテレビで放映されると、わがことのように喜んでいる場面があった。

自分が昔志した道を、苦しいながらも歩き通し、ついにテレビになった、という感激。
今の若い人は、こういうのがほしいんだろうなあ。

だれも、うらやましいとか、金をせびりに行こうという人がいない。
そういう人はいただろうが、この時代、そんなことを思っていても、表に出さない。
みんな、水木の成功を涙を流して喜んでいた。

そういう時代を過ごしてきたと思う。

感謝。



| | 考えたこと | 00:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
Win-Win
最近はやりの関係は、Win-Winの関係。

どちらも勝つ、ということは、どちらも得るものがある、ということだ。

それまでは、Win-Loseだった。
片方が勝って、片方が負ける。
得るものと、取られるもの、という関係。

企業間の関係は、Win-Winでなければならない、と言われている。
あくまで、希望だが…。
今や企業は良き市民でなければならず、常にWin-Winの関係を求めていく、ということに(建前上は)なっている。

実際には今まで通りWin-Loseの関係で、リクツをつけて、Win-Winにしているのが多いと思う。

Aが儲けるために、Bの部品を値引きさせる。
この関係はWin-Loseだ。
しかし、Aが与えたコスト削減の目標をBが達成し、その半分をAが値引きでもらうという構図にすると、Win-Winになる。
この場合、Bはその部品を開発して、技術力が上がったというリクツになる。

そういう、いい加減なものもたくさんある。
しかし、実際にWin-Winを語れるような状態で仕事をすることは大切な事だと思う。

人間、そう言っていれば、そうなるのだ。
「これは、値引き要求に応えるためではない。技術力を向上させるのだ」ということを唱えていれば、本当にそういう気持ちになる。

言葉が人の行動に「意味」を与えるのだ。

すべからく、人の行動というのはそういうものだと思う。
宗教などは、その筆頭だろう。

だから、「言葉」は大事だ。

その大事さをもっと訴えていかないといけない。
バラエティ番組など、意味のない言葉が多すぎると思う。

世に言う、カリスマ経営者は、宗教家なのだ。
「仕事の意味」や「商品の意味」を創り出す。
それが、その仕事に携わるものや、顧客にモチベーションを与える。

日本は昔から「言挙げの国」と言われ、「言霊(ことだま)」があると言われてきた。
それは、言葉には力がある、という事だ。
それを口にして言葉にすれば、その言葉にこもった霊がそれを実現させようとする。

これは、本当にそうだと思う。
だから、第二次大戦の時に、「日本が負けるのではないか」と口に出すことさえ憚られた。
それは非国民になる、ということだ。

だから、「では、負けないためにどうしたらいいか」ということが議論できず、本当に最後まで行ってしまい、原爆が投下された。
「負けない」事を議論していれば、あんなに多くの犠牲者をアジア各国や日本で出さずに済んだ。
最後まで「勝つ」ということが建前として通ったのだ。
結局、それを止めたのは、昭和天皇の玉音放送だった。

今でもそういうことがある。

「そんなアホな…」という事なかれ。
今でも、「この会社あぶないんとちゃうか」という言葉はひそひそ話だ。
はっきりと意識していないが、言葉に出す、ということに抵抗がある。
それは、言霊を無意識では信じているということだ。

だから、それを常に意識していないと、自由な議論ができない。

それほど、「何者からも、自由である」というのは難しいことだと思う。

自由、自由と言っているが、本当に自由になるには、そのための努力が必要だ。

それが、真のWin-Winを実現するために必要なことだと思う。



| | 考えたこと | 00:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
質問はありませんか?
よくセミナーなどで終わったあと、「質問はありませんか?」と聞かれる。

この意味は、「何かわからなかったところがあれば、聞いて下さい」ということだろうと思っていた。
この、「わからなかった」というところがミソだ。

たいがい、質問する人は少ない。
ここで質問したら、「わからなかった」という事になるからだろう。
だから、質問は、セミナー等が終わってから、直接講師のところに行って尋ねる人が多い。

どうしても質問がなく、時間が余っていれば、主催者などがサクラで質問をする、というのも多かったりする。
できあいの質問で、まあ、普通のひとなら当然そうであるはず、という答えが返ってくる。

また、質問という名を借りた「自己主張」であったりもする。
これは、「…とおっしゃいましたが、まことにその通りであって、…、」以下、自説を延々と主張するというものであり、何も質問していない場合がほとんど。

質問というのは、そういうものか、と思っていた。
しかし、海外では(特に欧米)質問はそういうものではない。

確かに、映画の場面等で階段教室で大学教授が説明しており、一段落したところで「Any question?」とやると、何名かすぐに手が上がる。
あれは、聞きながら質問を考えているのか…。

質問が出ないのは、悪い講義なのだ。
日本では、「わからなかったところがあれば」というふうに考えて、質問をすると「自分はわからなかった」という事になる。
しかし、本当は質問は「わかった」からこそできるものである。
Aという意見は理解した。それでもなぜAになるのか、おかしいのではないか?というような質問は理解できたからこそのものだ。
だから、質問が出る講義はよい講義だし、質問できるのはよい生徒だろう。

以前、アメリカでプレゼンをしたことがある。
その時は阪神大震災の直後で、毎晩仮のオフィスでパソコンとにらめっこしながら資料を作り、必死で覚えていった。
自分の専門の部分もあるが、そうでない部分は、聞いて回った。
何せ、初めての事なので、どうなるのかわからない。
心臓が飛び出しそうな感じで、最初のプレゼンの場所、デトロイトに立った。

時々忘れながらも、概略は自分でもまあまあの出来だったのだが、その時に質問がたくさん出た。
もちろん、専門外の人に専門のことをプレゼンしているのだから、質問が出て当たり前だ。
そら、わからんわな…、と冷や汗をかきながら、何とか質問に答え、その場をしのいだ。

事務所を出るときに、聞いていた人の一人が「Very good」 と言ってくれて、サンキューと言ったものの、どぎまぎしたことを覚えている。
帰りにアメリカ事務所の外人も、「よかった」といってくれて、「わかりやすかった」と言われた。

結局その時はアメリカで同じ事を7回ほど繰り返してしゃべった。

最後の方は聴衆の目をみて話せて、余裕だったが、その時に得た教訓は「質問は出ないといけない」というものだ。

もちろん、日本人がはるばるやってきて、プレゼンしているのだから、何か質問しないと悪い、ということもあるだろう。

しかし、その時に何度も「わかりやすい」と言われたのは、本音のほめ言葉だったと思う。
日本では「わかりやすかった」と言うと、当たり前という事になるのだろうが、アメリカでは違う。
技術のプレゼンを相手にわかるように話すのは、難しいものだ。
自分でも難しい事を話しているのだから。

日本で、わからないところを聞いて回っているとき、ある人が、あまりにぼくがわからないので、「たとえ話」をしてくれた。
たぶん、これがよかったのだと思う。
これを入れて、プレゼン全体が「わかる話」になった。

だから、質問が出ないプレゼンはよくないプレゼンだと思っている。

残念ながら、そんなプレゼンができたことはめったにない。


| | 考えたこと | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
7月にしては
暑い。あつい。アツイ。

7月はこんなに暑かっただろうか。
小中学校は、ちょうど夏休みに入る。
まあ、休みに入ってよかった。
これだけ暑いと、何もする気にならないだろう。

ニュースによると…、

米国海洋大気庁(NOAA)が7月15日に発表した報告によると、今年1月から6月までの全球地表面および海表面温度は、1880年に観測が開始されて以来最も高かった。同時期の平均気温は摂氏14.2度で、20世紀の平均を約0.7度上回った。

とのこと。

今年は本当に暑いのだ。
毎日のように熱中症で亡くなる人がいる。

しかし、「全球地表面および海表面の温度」というのが1880年から観測されているとは知らなかった。
ちなみに、NOAAのホームページを見てみると、ちゃんと出ている。

For the year-to-date, the global combined land and ocean surface temperature of 57.5°F (14.2°C) was the warmest January-June period. This value is 1.22°F (0.68°C) above the 20th century average.

本当にそうなのだ。

しかし、このまま地球が暑くなったら、どうなるのだろう。
温暖化だ、温暖化だ、と言っている間はいいが、そのうち気がついたら洒落にならない事になっているのではないか。

今はまだ約68億人のうちの4億人程度が、エネルギーを過剰に出している段階。
それを、中国、インド、ブラジル、ロシアなどがどんどん追いかけている。

中国とインドを合わせると、20億人くらいになる。
この2国だけで、地球の1/3くらいの人がいるのだ。

えらいこっちゃなあ。

前にも同じような事を書いたような気がするが…。

食べ物、水、資源…、これからどうなるのだろう。

当面は、この地球という星の表面でしか、人間は生きられない。
それも、今の時代の、地球でなければならない。
大昔の真っ赤だった地球では、とてもムリだ。

そう考えると、人類というのも、小さな存在のように思えてくる。

やっぱり宇宙は大きい。


| | 考えたこと | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
Ella and Louis
2枚組で1000円のCDを買った。

エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングのデュエット。
40年代、50年代の曲。

最近CD屋に行っていなかったが、店頭のワゴンに廉価盤が置いてある。
その中で見つけた。

ゆったりしたリズムでスゥイングしている。
バックも歌もすばらしい。
こういう曲を聴くと、今の曲がいかに忙しいかよくわかる。

リラックスして歌っている。
特にルイ・アームストロングの声がいい。
あの声で、デュエットは想像できないが、これがまたいい。

スタンダードナンバーと言っても、あまり知っている曲はない。
でも、TendaryやApril in Paris、Summertime、Autumn in New Yorkなどはおなじみ。

このCDがこんなに安いのはなぜだろう?

こんな掘り出し物があるから、時々はCD屋に行ってみるのもいい。


| | 音楽 | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
麻雀
1990年代後半くらいまでが、麻雀がポピュラーだった時代ではないか。
学生も、サラリーマンも雀荘に行っていた。
会社に入った頃、5時を過ぎて課長に電話がかかってきたら、近くの雀荘に電話したりしたものだ。
まだ、バブルの前で、会社に余裕があったころ。

最近の若い人は麻雀を嫌う。
拘束時間が長い、4人必要、途中で抜けられない…、そういう関係が苦手なのだ。

雀荘も減ったのではないか。
昔はそこここに雀荘があったし、うちの父もよくやっていた。
家に麻雀牌のセットも置いてあった。

麻雀の手が出ていて、どれを捨て牌にすべきか?というようなクイズがスポーツ新聞に出ていたし、イレブンPMという番組で、大橋巨泉が麻雀の解説をしたりもしていた。
結構オトナの遊びとして認められていたと思う。

ゴルフが出てきたのが、転機だったか。

1989年に「麻雀、カラオケ、ゴルフはおやめさない」という本が出ており、この頃までは両方ともサラリーマンがやっていたことがわかる。
ちょうど麻雀とゴルフの端境期だったのだろう。

今はちょうど麻雀に熱中していた世代が退職していく。
老人向けの雀荘をやってはどうか。
老人ホームに麻雀の部屋を設けるとか、いい考えだと思う。
ボケ予防にもなる。

知らぬ間に麻雀台も機械になって良くなっている。
牌を自動で並べて、サイコロは自動でふる。
各自の点数は表示されているし、いたれりつくせりだ。

…と思っていたら、今はインターネットで対局ができるらしい。
囲碁や将棋と同じだ。

そうか、インターネットか…。

しかし、老人ホームに麻雀の設備を、というのはいい考えだと思うのだが…。




| | 考えたこと | 16:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
ひきこもり
今朝の朝刊に全国のひきこもりの人数は、推定で70万人と出ていた。
予備軍が155万人とのこと。
一番多いのは30代。
たしか、自殺が死亡原因のトップになっているのも30代だ(若いから、他の原因が少ないということも、もちろんある)。

ひきこもりになったきっかけを尋ねているが、仕事や就職活動がきっかけという人が半分近くいる。
まあ、尋ねられたから答えた、という人もいるだろうから、実際にはもっと少ないと思う。

しかし、原因が仕事や就職活動、というのが気にかかる。

学校を卒業し、社会に出る。
そこが障壁になっている。
その時までと、それから後が大きく違うから、壁に当たるのだろう。
一体何が違うのか。

今の学校教育は型にはめるのを嫌がる。
ナンバーワンよりオンリーワンとか、個性を伸ばすとか…。
しかし、教育の目的はある意味で「型にはめる」事にあると思う。
社会に出る、ということは、オトナになる、ということであり、一人前になるということでもある。
一人で生きていくためには、ルールがある。
社会のルールだ。それが「型」だろう。

一定の年になったら、働くこと、これが「型」だ。
笑顔で挨拶をする、これも「型」だ。
上の人の言うことを聞く、これも「型」だ。

ぼくらは、それが前提であり、当然だった。
何でもいい、とにかく働くことが必要であり、それがオトナになることだった。

今はその「型」がない。
「型」がないことが、素晴らしいとさえ言う時がある。

そのうえ、学校では表面上、すべて平等だと教えられる。
かけっこはタイムを計って、あまり差がつかないようにする。
相対評価はダメで絶対評価だ。

現実離れした平等の中で育つ。

受験は一部残っているが、全入化でほとんどなくなった。
進路の先生の情報を聞いて、学校を決めて、進学する。
試験を受けて入る学生は50%。
残りは推薦やAO入試だ。
大学も経営のために取らざるを得ない。

だから、就職の時が最初の壁になる。
大多数の学生には、それまでの人生に壁がなかったのだ。
おまけに、平等という概念が肥大しており、それが裏切られる。
世の中は結果的に平等ではない。
機会はできるだけ平等にしようとしているが、結果は不平等なものだ。
それを理不尽だととってしまう。
だから、引きこもるのだろう。

就職の時には、最低限の「型」にはまる人間かどうか、という観点で見る部分が絶対にある。
個性はもちろん重要だが、それは、よほどの能力を含んだ個性でなければならない。

もちろん、時代も不幸だ。

マジメにコツコツだけでは評価されない。
彼らが悪いわけではないのに…。

今日の朝刊を見て、そんなことを思う。



| | 考えたこと | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
3Cの時代
朝のドラマでは時代が進み、「3Cの時代」が来た。

第一次の電化製品は「三種の神器」と言われていた。
1950年代後半。昭和でいうと25年くらいからになる。
普及にだいぶ時間がかかった。

冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ。
今は当たり前になっているが、そのころは誰もが購入を夢見た時代だった。
友達の家にテレビが来て、見せてもらいに行ったのが昭和36年。
普及にだいぶ時間がかかった。
当時の我が家のテレビデビューは昭和37年あたりだと思う。

3Cの時代は昭和42年あたりから始まる。
Car、Cooler、Color TVの頭文字を取って3Cと言われた。

平成の人には想像できないと思うが、昭和のぼくは3Cの時代は知っている。
ちょうど小学校高学年のころ。

ウチは両親がクルマに乗らなかったので、クルマが来たのはぼくが免許を取ってからだった。

クーラーは両親の部屋につけたのが、いつ頃だろう?
ぼくが高校のころか?
昭和40年代の終わり頃だと思う。
当時の夏は今ほど暑くなかった。
アスファルト舗装も少なかったし、今みたいにどんな店でもクーラーをつけているわけではなかったし、緑も今より多かった。
だから、夏は窓を開ければマシだった。
事情があって窓が開けられなければ、窓のところに取り付ける換気扇があった。
ウチもそれをつけていた。懐かしい。

カラーテレビは中学の時だったと思う。
ジャングル大帝のエンディングで、紅色の鳥がジャングルの上をたくさん飛んでいくアニメーションがきれいだった。

あのカラー画面は、時代の明るさを表していたのだろう。

誰もがほしいものがあって、それをいつかは手に入れることができた。

翻って、現在はどうか。
当時より確実に世の中は豊かになった。
クルマもクーラーもカラーテレビも世の中にあふれている。
しかし、イギリスで、国民の幸福度を調査した結果によると、日本は90位だという。
データーの信憑性は明らかではないが、上位の国はデンマークやスイス、オーストリア、バハマなど。

結局、モノの豊かさは本当の豊かさにはつながらない。
あれもほしい、これもほしい…、無限の欲望にとりつかれたら、それは不幸だ。
また、近所に金持ちがいて、あんなふうになりたい、と望む姿はやっぱり不幸だろう。

日本の経済成長が右肩上がりではない今、本当に幸せについて考えるべき時が来ているのかもしれない。

我唯足知、我ただ足るを知る。

なかなかそういう境地には行けない。




| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
本当のグローバル化
最近の新聞を見ていると、特にアジアに進出する企業が増えた。

インド、中国、タイ、ベトナム…、大きな企業だけでなく、そんなに大きくない企業の名前も出てくる。
そうこうしているうちに、留学生の採用という記事が出てきた。
中にはアジアの留学生を10人程度採用して、日本人の採用はしなかった、という企業もある。
彼らの方がやる気もあり、優秀だという。
そして、何より賃金が安い。
日本人一人の人件費で13人とか30人とか。桁が違う。(ただし、現地採用)

一方、管首相は「強い経済」「強い社会保障」と言って選挙で負けた。
それはそうだろう。
この2つは両立する、というか、させることができるが、それには順番がある。
まず、「強い経済」を実現することだ。そしてそれによって、税収を上げ、その次の順番が「強い社会保障」だろう。
同時にはできない。

しかし、そう言っているうちに、企業は利益を求めてアジアに進出している。
今までは生産基地としてだったが、今回はGDPも上がってきて、購買力もそれにつれて向上し、「市場としてのアジア」という視点になった。
いよいよ、日本企業の本当のグローバル化が始まったのだ。
すでに自動車やエレクトロニクスはやっていたが、もっと幅広くアジアの時代になった。

だから、雇用もアジアにシフトしていく。
公用語は英語、資料は英語という企業も出てきた。
そのうち、法人税が高いのを嫌って、本社も海外に移す企業も出てくるかもしれない。
情報化社会とか、知価革命とか、いよいよ本当になってきた。
日本に残るもの作りは、高付加価値のものだけ、という事になる。

しかし、これも韓国や中国を見ていると、不安になる。
キャッチアップのスピードが速い。
IT化によって、情報の伝わるスピードが速くなり、もの作りにおける「人」の重要性が下がったからだ。

昔はドイツをはじめ、もの作りには「職人」の力が必要だった。
マイスターというやつだ。
今では、それがなくても90点まではいける。
昔は、職人の力がなければ、70点くらいだった。
だから、日本人の手先の器用さや真面目さが強みになり、日本でしか作れないというものができた。

だが、それも世代交代が起こり、逆に定年した日本人が韓国や中国で重宝されていると聞く。
国策がないのも一つの要因だろう。
真剣に教えてもらおうとするアジアの人に対して、定年した日本人のベテランは熱意を持って教えることができる。
そういう使命感がある。

かたや日本では、空洞化という言葉も使われなくなるほど空洞化していく。

どうやってこの国は生きていくのだろう。

まだまだ昭和の遺産があるが、それが尽きるときにはどうなるのか。
ぼくらは平成の人たちに何を残すのか、いや、何が残せるのか。

そんなことを考えている。

本当のグローバル化が始まった。




| | 考えたこと | 01:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
友だち甲斐
こないだ長男と話をしていて、「友だち甲斐がない」と言ったら、通じなかった。

なんのこと?という反応。

 生き甲斐とか、やり甲斐とか、言う、あの甲斐。
 友だち甲斐。
 友人に値する価値、友人としてふさわしいつき合い、という意味。

最近はあまり使わないのか。

友だち甲斐があるとは、困っている時に助けたり、特別なことをすること。
友だち甲斐がないとは、困っている時に見捨てたり、知らんぷりをすること。

どちらにしても、友だち甲斐は、友だちでないと発揮できない。

友だち、というのは、普通の知り合いではない。
ひょっとしたら、そこからの距離がどの程度か、というのが問題かもしれない。

今も昔も、学生時代の友だちは大事だ。
友だち甲斐という言葉は、友だちであることが、期待より大きかったり、小さかったりした時に使う言葉。

その言葉の意味がわからなくなっている。

これは、友だち甲斐があって当たり前なのか、それとも…。

どっちなんだろう?


| | 考えたこと | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
夢やぶれて
スーザン・ボイルの歌で、一躍有名になった曲。

今日、聴く機会があって、もう一度聴いた。

I Dreamed a Dreamという題。
ミュージカルのレ・ミゼラブルの中で歌われる曲らしい。

題の意味は、文字通り訳せば、私は夢を夢見た、という意味だ。
Dreamというのは、夢見るという意味だから、夢を夢見たというのは、何となくヘンな表現。

夢というのは、かなわないもの、という意味も含まれているのかな。
だから、夢やぶれて、という意味になるのか。

しかし、いい曲だ。

前半は「夢見た」、という過去形で歌われる。

後半になって、現在形になり、最後はThe dream I dreamedという、題とは逆の関係になる。

レ・ミゼラブルのどの場面で歌われるのかは知らないが、愛する人がいなくなった、という唄だ。

ミュージカルはあまり好きではないが、この曲はそのために作られた曲だし、その場面で歌われることに意味があるのだろう。

でも、そんなことは飛ばしてしまうほど、スーザン・ボイルの歌はすばらしい。
何度見ても、感激する。
会場のオーディエンスと一体になって、引き込まれる。

 But there are dreams that cannot be

 かなわない夢がある

当たり前のことだが、夢は普通はかなわない。
夢に向かって努力すればするほど、夢は遠のいていく。
若ければ若いほど、努力だけでは夢はつかめない。(そもそも努力をする人が少ない)
というか、若ければ若いほど、簡単にかなうものを夢とは言わない。
それをつかむためには、努力に加えて、巡り合わせが必要だ。

それを努力の結果と呼ぶか、運と呼ぶか、難しい…。

年をとって、夢はやっぱりかなわないと思う。
それが夢なのだ。

ほんの一部の人だけが、努力と巡り合わせの結果、夢をつかむ。

でも、ほとんどの人の夢は結果的にやぶれる。

「夢やぶれて」、名曲だ。



| | 音楽 | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
マーチ
日産が新型マーチを出した。

何が話題かというと、軽量化を図り、ハイブリッド車並の燃費にしたということか。
さらに、それが日本製ではない、ということがある。
タイで作っている。
燃費をさらに向上させるために、アイドリングストップを採用した。
最安値のグレードは100万円を切る。

マーチといえば、ヴィッツ、フィット、デミオと並ぶ小型車のブランド。

しかし、月4000台が販売目標らしい。
供給能力や市場の問題もあるのだろうが、ヴィッツが月8000台、フィットが10000台以上売っているのに比べると、少ない。
せっかくタイに移して、値段を安く設定したのに、控えめな数字だ。

まあ、日産にとっては、日本という市場はそれほど小型車を売りたい市場ではない、という事だろう。
乗用車で、1台当たりの人口が2.2人というデーターであり、少子化も考えるともう成熟している。
高付加価値の、値段が高いクルマを売りたいのだろう。

ただ、成熟市場になってくるということは、クルマの価値が現実の価値に近づき、値段が高いクルマは売れにくくなる。
実際、今の日本でランクルのような大きなクルマはほとんど要らない。
レクサスのような乗用車も一定数しか売れないだろう。
クルマの相対的な価値が下がっている。
中古車の価値が上がっているのだ。

ドイツのように、速度無制限の道があれば、高いクルマが売れる余地がある。
お金で時間を買うのだ。
実際、ポルシェで移動すると、普通のクルマより速い。

しかし、今の日本では出せても時速140キロまでだ。
それなら、高いクルマは要らない。
エンジンは2リッターもあれば充分。

逆に、燃費は絶対的な価値がある。
ランニングコストが安いからだ。
したがって、ホンダがフィットのハイブリッドを出そうとしているのは正解だと思う。
そして、安全も価値だ。
スバルが宣伝している、アイストップという、カメラを使った自動運転のシステムなどは日本向けの付加価値と言えるだろう。

マーチのメインターゲットは、アジア諸国だろう。
タイ以外ではインド、メキシコ、中国でも生産する予定らしい。
ゴーン社長らしい戦略だ。
日本人の社長なら、これほどグローバルな決断は下しにくい。

しかし、このマーチ、日本でどれだけ売れるのだろうか。

日本人のクルマ観がどれだけ実用的な方に振れているのか、このマーチの売れ行きが試金石だろう。

実物は見ていないが、報道の写真などではあまり売れそうにないと思う。

しかし、メカ好きが減って、機械の機能美みたいなものに価値を感じない人も増えているから、どうなるかわからない。

ぼくは売れそうにないと思うし、日産もそれほど期待していないと思うのだが…。



| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
New style
昨日近所のモールに行ったら、新しい店ができていた。
雑貨店である。

もともと4階に二つ店があったのだが、それが一つになった。
ぼくが気に入っていた方がなくなって、もう一つの方が生き残った。
まあ、仕方ないので、行った時にはその店で我慢していたのだが、今日3階をウロウロしていたら、発見した。
New Styleという店。

この二つの店はもともと同じ系列の店だが、New Styleの方がオトナっぽい店だ。

この店で、職場でインターンシップをした学生の内定祝いを買った。

カバーのついたメモ帳だ。

渡す時に、「仕事を始めたら、常にメモ帳を持ったおき、忘れたらいけないことはすぐにメモする習慣をつける」ということを言おうと思う。

この態度は大事だ(というか、当たり前だが…)。
先輩に何かを聞いて、そこで返ってきた答えは必ずメモする。
そういう行為が信頼を生む。
もちろん、それだけではダメだが、せめてそれだけでもしないといけない。

メモ帳はロディアの5x5。
このサイズが適当だ。

少なくとも、1年間はこのメモを持ち歩いてほしい。


| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
ライブハウス
今日は次男と一緒にライブハウスに行った。

次男のギターの先生のバンドが出ている。
80年代のフュージョンという感じ。
ギター、キーボード、ベース、ドラム、サックスというメンバー。

昔はよく聞いた。
フュージョンというジャンルはジャズとロックの融合という事だったと思う。
ああいう音楽がいい、と思った時期もあった。
とにかく、テクニックがすばらしい。

ロックのマインドを抜いて、ジャズのフィーリングを抜くと、テクニックが残る。
それをロックとジャズの融合というと聞こえがいいが、結局何をやっているのか、わからない。
だから、フュージョンというジャンルがなくなったんだろう。

ロックの野蛮さもなく、ジャズの自由さもない。
今になったら、そんなふうに感じる。

年とともに、感じ方が変わる。

若いころは、テクニックに惹かれるのだろう。

でも、年をとると、テクニックだけでは面白くない。

特に、ライブでは演奏するメンバーの余裕というか、仲間意識というか、そういうものに惹かれる。

若い人のフュージョンというのは、目一杯のところで演奏している。
自分の能力の90%以上を出しているという感じ。
だから、余裕がない。

自分の能力の半分くらいのところで、演奏しているくらいが気持ちがいい。
そして、自分のここという見せ場で、80%くらいの力を出す。
そんなふうにして、ライブはやってほしい。

演奏者が楽しまないと、聞いている方は楽しめない。

そういうことだ。

| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和40年
朝のドラマは今日から昭和40年代になった。

昭和40年というと、1965年。
東京オリンピックの次の年だ。
新幹線が1964年に開通、名神高速が1965年に開通。
1945年に敗戦を迎え、1956年に「もはや戦後ではない」という言葉が流行った。
1965年というと、何となく日本人が世界の一員として、自信を持ちはじめた頃だった。
昭和40年が一つの節目になるだろう。

そして、昭和45年がもう一つの節目。
この年に「モーレツからビューティフルへ」というゼロックスのCMが流れた。
ちょうど1970年。万博の年だ。
人類が始めて月に立った次の年。
アメリカ館に月の石が展示され、毎日何時間も並んでたくさんの人が見た。

戦後ではない、と言われてからも、モーレツに働いて、約15年。
完全に世界の一員として認められた。
昭和47年に沖縄が返還されて、完全に戦後は終わった。

そんな位置づけの昭和40年。
まだまだ冷戦のさなか。
右と左が、資本主義と社会主義を表し、朝日新聞がソ連、中国を礼賛していた。

この年に水木しげるが「テレビ君」で賞をもらったらしい。
その賞は覚えていないが、「テレビ君」は覚えている。
テレビの中に入り込める、不思議な少年、というストーリーだった。

ようやく、白黒テレビが家庭に普及したのが昭和40年。
90%という普及率。
誰もがテレビというものを知った頃だ。

これから、どんどん豊かになっていく。
そんなことすら、考えていなかった。

今、ふり返って、初めてわかる。




| | 考えたこと | 22:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
7月14日
昨日は7月14日だった。

7月14日というと、フランスの革命記念日。
パリ祭と日本では言われている。

何でこれを覚えているかというと、フランスに出張していたときに、この記念日があったからだ。
あれは、たしか1986年だったと思う。
24年前だから、29歳だった。
あれは29歳の時か…、若かったなあ。

何せ、ジェット戦闘機が飛んでいたのが印象に残っている。

もともと、なぜ休みかわかっていないので、ただの祝日と思っていた。
それが、ジェット戦闘機が編隊飛行をする日だったので、びっくりした。
フランスのミラージュという戦闘機だと思う。

それがきっかけで、フランスの輸出は軍事が多い事を知った。
たしか、その当時、重工業製品の輸出の第一位が武器だったと思う。

それをフランス人に話し、「武器を輸出しているではないか」というと、「俺らが作らなくても、誰かが作って輸出するのだから、どうせ同じ。同じなら、フランスがやる。」というような答えが返ってきた。
今でも軍事費はアメリカ、中国についで3位。
日本人はフランスというとファッションが思い浮かぶが、実はフランスは軍事大国なのだ。
2001年まで、徴兵制度があったのも、あまり意識されていない。

フランスというのは不思議な国だ。
何でもフランスが一番だと思っている。
そして、理屈が上手だ。
武器が地上からなくならない、というのがフランス人の考え。
ここが一番日本人と違うところだ。
どうせなくならないなら、自分のところで作る、ということになる。

一方、日本人は、武器はなくすべきだと思っている。
なくすべきだから、作らない、という考え。

どちらの意見が優勢か、というとフランスだろう。

その希少価値を日本民族の良さととらえるか、愚かさととらえるか、難しい。

今の世の中で、現実を考えるとフランスに軍配が上がるが、ちょっとくらいおかしな民族もいていいのではないか、ということなら日本の存在価値があることになる。

これは、一人一人が考えて答えを出さないといけない問題だ。


| | 考えたこと | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
座布団
座布団というと、だいたい四角いものだ。

しかし、今回は丸い形の話。
ドーナツ型の座布団を買った。

前立腺が悪くなるのは、長時間座っているのが原因の一つ。
タクシーの運転手さんなどが多いというのは、そういう理由らしい。
そこで、できるだけ座っている時の負担を小さくするために、ドーナツ型の座布団を買った。

厚いのがちょっと具合悪い。
クルマに買った分は、シートを調整しても、視点が高くなる。
メーターが少し見にくいが、背に腹は変えられない。

職場のイスの上にも置いた。
こちらは少しイスを下げて、視線が変わらないように調整した。

真ん中に穴が空いている座布団は、頼りない感じがするが、わりとすっくり座れる。

これで、しばらく様子をみることにする。

とりあえず、今日は調子がよかった。


| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
やいやい
声というのは不思議なものだ。
最近、時々声が出なくなる。

以前会社勤めしていた頃は、毎日しゃべりまくっていた。
電話もかかってきたし、同僚ともよく話した。
冗談も多かったし、笑うことも多かった。
そんな日々を送っていると、声が出なくなるような事はない。
ずっと声は調子よかった。

年のせいなのか、環境のせいなのか、それはわからない。
最近、口数が減ったのは事実。
「やいやい言う」事が必要なのか。

年をとると、「やいやい言う」ことが減る。
若い時はそういうことが多い。
今はどちらかというと、聞く方になった。

そういう役回りになることは、仕方ない。

聞くというのは、ストレスフルなことだ。
それに対して、話すというのは、ストレス解消する方向だろう。
だから、聞いてばかりいると、ストレスがたまる。

それと同時に話す機会が減る。
「やいやい」言わないからだ。

だから、声が出なくなるのか。

ちょっと、「やいやい」言わないと…。


| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
スペイン
スペインというと、フラメンコ、アランフェス宮殿、初代無敵艦隊、ピレネー山脈、フランシスコ・ザビエルあたりが思い浮かぶ。

イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどと比べると、少し縁遠い。
スペイン料理と言っても思い浮かぶものは…、パエリアくらいか。
スペイン語はあまり習われておらず、スペイン文学やスペインのテレビ番組などもあまり見ない。

それほど、日本では有名?でないスペインがワールドカップで優勝した。

初優勝だった。
オランダとスペインが対決し、どちらが勝っても初優勝。
どちらかというと、オランダの方が馴染みがあったのだが、残念。

日本では馴染みのないスペインだが、立憲君主国らしい。
国王がいる。

欧州には、意外と君主がいる国が多い。
フランス革命のイメージがあって、ヨーロッパには君主がいないという先入観がある。
イギリスやベルギー、オランダもそうだし、ノルウェー、スウェーデンも君主国。

その程度しか知識がない国、スペイン。

でも、サッカーは見事。
スペインのパスワークは素晴らしかった。

2位のオランダもすごいが、3位のドイツも立派。
次回のワールドカップでは、ドイツは強いだろう。
とにかく、若い。

南米勢も強かったが、組織力に負けたという感じ。

欧州チームの組織力というのは、やっぱり見事。
守りでは、スペースを与えない、という言葉をそのままやっている感じ。
なるほど、そういうことか、と腑に落ちた。

個人技では南米やアフリカに軍配が上がるが、組織力では欧州。

やっぱり強かった。


| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
選挙速報
今日は参議院選挙だった。

夜の8時から選挙速報番組が始まり、始まると同時に当選確実の人がたくさん出ている。
まだ開票していないのだが、出口調査で当確を出しているとのこと。

局によって違うだろうが、21時30分の時点で86議席が決まっている。

投票率は60%いかないようだ。
雨だったからなあ。

しかし、国政選挙の投票率が6割いかないというのは、どういうことだろう。
民主主義が成立していないということか。
民意、民意というけれど、その民意というのは6割いかないのだから、どうしようもない。

参政権というのは国民の権利だ。
政治に参加する権利が保証されている、というのが民主主義の原則。
その原則が守られてこそ、民主主義が成立する。

それにしても、民主党はダメだった。
予想通りというべきか。

まあ、明日の朝にはだいたい決まっているのだろう。

今日はもう寝よう。



| | 考えたこと | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
生きてる者には同情しない
朝のドラマで、水木しげるが言っていた。

若い女性のマンガ家が、いくら原稿を持ち込んでも採用されず、親との約束の3年が過ぎ、実家に帰らないといけなくなって、水木のところに挨拶に来た。
一生懸命やっても、報われない。
この3年間は何だったのか、と自問自答する。
何の役にも立たなかった…。

女房が、そんなことはない、一生懸命やったんだから、と慰める。

そこで、水木が言う。

マンガ家になりたいと思っている者は、だれでも一生懸命やっているもんです。一生懸命でないものなど、誰もおらん。
自分は戦争に行って、たくさん死んでいく者を見てきました。もっと生きたかったろうに、戦争で死んだ者は本当にかわいそうです。
だから自分は生きている者には同情せんのです。
しかし、あんたの何も残らんというのは違う。あんたにはマンガ家魂が残っておるじゃありませんか。

戦中・戦後の苦しい時を生き抜いてきた人々は、そんなふうに思っていたのかもしれない。
一般市民を入れて、300万人が亡くなった。
本当にかわいそうなのは、戦争で亡くなった人だ。
生きていること自体が幸せという感覚、実際に戦地で左腕を無くした水木だからこそ言えるのかもしれない。

つらい日々を送るのに、自分に同情などしておられない。
他人についても同じだったろう。

そんな考え方もある。

こういう言葉は、その時代を生きた人しか言えないだろう。




| | 考えたこと | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
老け役
朝のドラマで、竹下景子が水木しげるの母親役で、老け役をやっている。

なかなか堂に入っていて、立派なものだ。
それでも、老け役に徹するのなら、もう少し化粧も工夫したらいいと思うのだが、そこはやはり娘役の名残かと思う。

実際の年が56歳だから、そのままの年を演じている感じだ。

貸本屋の女主人で一緒に出ていた松坂慶子が57歳。
松坂はまだ老け役をやる気はないと思う。
かわいさと翳りを持った中年の主婦を好演した。

女優が老け役をやる、というのは決断がいるだろう。

女優として長くいるためには、いつかは老け役をやらないといけない。

老け役をやらなかった女優というと、浅丘ルリ子や十朱幸代が思い浮かぶ。
実際、二人ともきれいだったが、やっぱり限度があるなあ。

若尾文子などは、上手に老け役をやった。
自分で選び、料亭の女将とか、ナントカ夫人とか、きれいな役をやったと思う。

しかし、竹下景子の老け役は、本当に老け役だ。
風邪薬のCMなどでは、まだまだきれいなお母さん役ができそうだが、それは選ばなかった。

女優だから、誰しもきれいな役をやりたいだろう。
しかし、容貌が衰えていくのは、止められない。
どこかで、折り合いをつけないといけない。

竹下景子は、ムリをしないで、女優というキャリアの舵を切った。
この役、ちょうど良かったのかもしれない。

いつか、こういう役のオファーが来る時があるのだろう。
そこが思案のしどころだ。

人それぞれ、そこで決断する。

これが、人生の分かれ道。



| | 考えたこと | 18:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
わからないままほっておく力
むかし、会社勤めをしていたころ、新入社員が入ってきたら、まずはみんなの雑用をやらせた。

仕事だからちゃんとやらないといけない。
しかし、ちゃんとやらせるためには、一通りの説明では難しい。
いろんな場合があるからだ。

関係部署からのデーターやFAXのファイルとか、データーの転記とかいう仕事であり、そのデーター一つひとつの意味とか、どこの部署はどういう役割だとか、そもそもこのテストはなぜしているのかとか…、説明しだすときりがない。

そういう時、一人の若い女性社員が新入社員に、「なんしか、こうすんねん」と言って教えていた。
もちろん、大ざっぱな説明はした上で、「なんしか…」という締めくくり。
「そのうち、わかってくるから」という追加の説明があった。

これはエライ。
この教え方で納得する新人はOKという事になった。

というのは、それが一種の能力だからだ。
「わからないことを、わからないままほっておく力」、これが大事だ。

なぜか。
とりあえず、わからないことは置いておいて、決められたことをやるというのは、何かを始める時には必要なことだ。
疑問を疑問のまま置いておく力と言ってもいい。

実際、やっているうちにわかってくる。
本当にわからないことは聞いてもよい。(ただし、メモを取らないヤツはダメだ。)
そうなると、教える方も本当にわかるように教えてくれる。
この感覚をつかめるかどうか、これが勝負の分かれ目だろう。
とにかく、わからなければできません、とか、なぜこれはこうなんですか?という質問をしまくる新人は興ざめする。
体験しないと、理解しにくいこともあるし、実際に「わかる」という感覚を得るには、時間がかかるものだ。
その感覚を持っていないと、伸びない。
他のことはよくわからないが、エンジニアとしては苦しいと思う。

しかし、そういう「いい加減さ」はどこから来るのだろうか。

それは何となく「ムダなもの」や「どうでもいいもの」に興味を持つとか、多趣味であるとか、逆に何かに一直線だとか、そういうところと関係があるかもしれない。
許容範囲が広いのか。
とにかく、「いい加減」なのだ。

そして、ぼくは、この「いい加減さ」こそが教養であると思っている。
教養がある、ということは、とりあえず疑問を疑問のままにしておける力があるということだ。

教えてもらって、わかることはしれている。
自分でわかることが必要なのだ。
教える方が、これは実際にやっているうちにわかる、というのなら、そうしてみよう、という余裕が必要だ。
そう、教養とは余裕であるかもしれない。

疑問を疑問のまま放置しておける力は、結局、何に対してもより深い理解につながるのではないか。

だいたい、疑問を疑問のまま放置しておくことができないなら、答えがない問いに耐えることができないではないか。

何かまとまりがないが、そんなことを長いこと考えている。

また、この話はそのうちに。




| | 考えたこと | 00:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
大相撲
名古屋場所の中継が中止されることになった。
野球賭博が原因。
大相撲関係者が、野球賭博に何十万、何百万という金を賭けていたということらしい。
それが、部屋の中でかわいくやっていればよかったのだが、「反社会的」なところでやっていたのがよくない。

賭け自体は、二人で阪神巨人戦の賭けをする、という事はよくあるし、罪にはならないだろう。
賭けがよくないというのなら、パチンコはどうなるのか。
あれこそ、サラリーマンが給料の1ヶ月分を、簡単にすることができ、中毒性があるという点で「反社会的」だと思うのだが…。

しかし、組織的な賭けの儲けが、「反社会的組織」の温床になるのなら、これはダメとしか言えない。
これが公営であったり、「社会に認められた」パチンコのような形態ならOKなのだが。

お相撲さん、と言えば、中学校を出てスカウトされ、新弟子検査を受けるのが一般的だと思う。
最近は高校出や大学出が増えたのか。
そこから、相撲部屋一本でないと、大相撲には出られない。
どんな楽しみがあるのかは知らないが、関取の楽しみなど、しれているのではないか。
谷町と呼ばれる取り巻きのファンに囲まれて、酒の席に呼ばれたりする。
それ以外にもあるだろうが、あの格好ではそんなに遊べない。
変装ができないから(してもバレる)、遊ぶのは難しいだろう。
食べることは仕事になっていて、体重を増やすために半ば義務的に行う。
かなりの闘争心と、ストレス耐性がないと、つとまらないだろう。
中途半端な気持ちでは、大相撲には出られない。

昔の関取は、少々賭けをやっても許されたのではないか。
大相撲の関取なのだから、それぐらいの事はやるだろう、という許容があったのかもしれない。
常人とは異なる体型になるほど、常人とは異なる生活を送っているからだ。
まあ、一般社会からは「はぐれた」存在だったろう。

しかし、近代になって、大相撲の人も「社会人」になった。
あまねく、国民は「社会人」でなければならなくなったからだ。
例外は認められない。
国民である以上、税金を納め、ルールを守らねばならない。
どちらが先かは知らないが、そうすることで、基本的人権という権利が保障される。

大相撲という組織は、そこから取り残されていたのかもしれない。
あの理事会を見ていると、そう思う。
もともと、ミンシュシュギなど関係ない徒弟制度である。
そうでなければ、力士は育てられないのだろう。

プロ野球はぼくらが小さい頃、黒い霧事件があって、粛正された。
追放された人もたくさんあったらしい。
あれは、アメリカから来たスポーツだし、まだミンシュシュギが似合うところもある。
チームプレイだからなあ。

しかし、大相撲はそれが温存された。
まあ、社会から隔離された存在に近い。

しかし、今回の粛正でようやく大相撲も変わる。
「義理と人情」の世界から、「権利と義務」の世界に少し移るのだろう。

実際、今回みんな悪いことをした、という自覚さえなかったのではないか。
でも、それは大相撲という制度の問題で、個人のせいとは言えない部分が大きかったと思う。

だから、真っ先に追放するのなら、理事会の役員ということになるのではないか。

どうしても、追放された人が「犠牲者」に見えるのは、ぼくだけではないだろう。


| | 考えたこと | 18:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
生き物
だいたい、「生きる」の反対は「死ぬ」であり、「死ぬ」の反対は「生きる」ということになっている。
これについては、異論がある人は少ないと思う。

でも、これに「いそぐ」がついたらどうなるだろう。
「生きいそぐ」というのは、「生を全うするのに、全力を尽くした」という感じで、要するに「死ぬ」ことだと思う。
結果として、亡くなった後、「生きいそいだ」という言葉が発されるのだと思う。
「死にいそぐ」というのは文字通り、「性急に死んだ」ということだろう。
結局、生きいそいでも、死にいそいでも、「死」を意味する言葉になる。

ただ、「生きいそぐ」というのは、本人が何か命を賭してやることがあったのだろう、という余韻を残す。
でも、「死にいそぐ」でも、生きていればまだやれることがあった、というもったいなさはある。

しかし、反対語の言葉に「〜いそぐ」をつけたのに、反対の意味になっていないのが不思議だ。

存在するかどうかはわからないが、「勝ちいそぐ」と「負けいそぐ」は、勝とうとすると、負けようとするという反対の意味になる(と思う)。
「痩せいそぐ」と「太りいそぐ」とか、「上りいそぐ」と「下りいそぐ」とか、やっぱり反対の意味だ。

どうして、生きると死ぬの場合だけ、反対にならないのだろうか。

生きている時に、「死にいそぐなよ」とは言うが、「生きいそぐなよ」とはあまり言わない(が使える)。
しかし、死んでからは、「生きいそいだ」も「死にいそいだ」も、どちらも使えるような…。

どうしても、死が生より強い。

もちろん、生がなければ死がないのだから、生は強いのだが、これは、ラッキーというか、運みたいなものだ。
生まれてくるのが運みたいなもので、でも、死は必然だから、やっぱり死は強いのだろう。
死なないものはない、ということに(たぶん、現在の科学では)なっている。

しかし、生を定義するものが何か、究極のところはわからない。
わかっていれば、臓器移植の問題はそこで線が引ける。
無理やりでないと、人間には線がひけないのだ。

それほど、あやふやなものが「生きもの」というもの。

一日、病気で寝ているとそんな事がうかんでくる。


| | 考えたこと | 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
夏風邪
夏風邪をひいた。

すぐに熱が下がるだろうとたかをくくっていたが、どんどん上がって38.5度まできた。
ずっと寝ているのだが、頭がいたい。
熱があるというのが、こんな感触だったか、と思い出した。

こういう事があると、いろんなところにガタが来ているのがわかる。

53歳でこれなら、60を過ぎたらどうなるのかと思う。

先のことを考えると、暗くなる。
病気の時は弱気になるというが、そういうものかもしれない。

人間の身体は老化する。

老いた身体とつき合っていかないといけない。

健康な時はそんなことは思わないが、病気になった時にはそんな事を思う。

今日は弱気の虫が暴れている。



| | 考えたこと | 17:27 | comments(2) | trackbacks(0) |
めずらしく今日は熱がある。

風邪をひいたらしい。
昼からどうもおかしいなあ、と思って測ってみたら37.5度。
体の節々が痛くて、何となくおかしい。

久しぶりの風邪だ。
めったに熱は出ないのだが、今回は疲れているらしい。

熱がなくなったら、死んでしまうということだから、熱がないよりはあった方がいい。
化学変化が起こっている。
その証しが熱になる。

しかし、たった2度ほどを感じるのだから、人間の身体はよくできている。
4度上がれば、もう立っていられない。
汗をどっさりかいて、熱を冷まさないといけない。

この広大な宇宙で、人間の熱を36度に保てる場所がこの地球。
金星では近すぎ、木星では遠すぎる。
この絶妙な関係。

普段は忘れているが、時々思い出さないといけない。






| | 考えたこと | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
元気をありがとう?
ワールドカップの日本チームが敗退して、街の声を聞いていたら、多かったのが、「元気をありがとう」「やればできるという勇気をもらった」というやつ。
前も一度書いたが、この言葉は不思議だ。
少なくとも、ぼくらが20代くらいまではなかったと思う。
80年代くらいが境目か。

それまでは、「頑張ったと思う」「よくやった」というような言葉。
何が違うかというと、主語が異なるのだ。
昔は「彼・彼ら」が主語。「あの人たちは頑張ったと思う。」「日本選手はよくやった」という感じ。
一方、現在は主語は「私」だと思う。
「私が元気をもらってありがとう」「私はやればできるという勇気をもらった」ということではないか。

彼らが中心か、私が中心かの問題になる。
昔は頑張って練習した彼らをほめた。
厳しい練習に耐えて勝ったということを喜んだ。
主役は彼らなのだ。

ところが、今は主役は自分だ。
「自分が」元気をもらった、「自分が」勇気をもらった。

あくまで、頑張ったのは彼らだ。
自分は見ていただけだ。それで、やればできる、という勇気をもらって喜んでいる。
どこまで楽天的なのか。
彼らの努力がどれほどのものか、わかるわけがない。

いつからか、日本人は世界の中心に自分がいる、と思っていないか。

何でも、やればできる、というほど甘いものではない。
それが、簡単にできないから、ほめたたえるのだ。

昔はそれをわかっていた。

ぼくはそう思う。





| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |