考えたこと2

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夏休みの終わり
今は8月の31日が夏休みの終わりとは限らないらしいが、ぼくらの頃は通常はそうだった。

8月の15日頃からツクツクホウシが鳴き始め、地蔵盆も終わり、あとは始業式を待つだけ、ということになる。

たまった宿題をやらないといけない。
天気の記録などは、最悪だ。
当時はインターネットなどないから、天気がわからない。
毎日つけておけば問題はないのだが…。
読書感想文はわりと得意だった。
毎日のドリルがあるのだが、これも突貫工事になる。
百字ノートなどもあったような気がする。

中学、高校になると、力ずくの宿題が減るのだが、それに代わってもう少し高度な宿題が出る。
チャート式をどこからどこまでとか、古文問題集や英語の読解問題集などがあった。

この年になって、夏休みの終わり方がよくわからなくなった。

どんな気持ちで終わったのか。
これは難しい。
ああ、また学校に行くのか…、というような気持ちだったろうか。
それとも、学校に行くのは楽しみだが、あの先生の顔を見るのがいやだ、という気持ちだったろうか。
もともと部活をやっていて、毎日みたいに行っていた人はまだいい。
そうではないぼくは、一夏が終わり、そしてまた学校が始まるという、そういうサイクルに対して感慨を持っていたはずだ。
それが、学生の夏というものだと思う。

夏が来て、夏が去る。

夏休みがあるから、夏が去るのが特別なのか…。



| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
調整役
調整役とは、異なる意見のグループの間に入って、妥協点を見出すという、非常に難しい役目である。

通常は調整役など置かず、双方が妥協点を見出すのが普通だ。
それが話し合いの本来の目的だと思う。

しかし、運悪く、調整役の位置に入ってしまうことがある。
これは、進行役として会議に入っているような場合に頻繁に起こる。
実際にはそれに関する決定権はないが、期限が決まっているような時に、期限内になんとかしようとしてハマってしまうようなケースが多い。

こういう時は難しい。
というのは、双方の意見を持っている陣営が、期限など守ろうという気がない場合が多いからだ。

多くは、べき論で攻めてくる。
○○はこうあるべき、というヤツだ。
双方ともそういう意見を持っている。
こういう時は調整役は難しい。

双方とも、確信犯である。
話しあう気があれば、自分たちでやっている。
そこで、調整役が出てくること自体、もうダメということになる。

こういう場合、いくつかの手段が考えられる。

一つは、調整役の判断で案を出すことだ。
この場合、調整役の判断といえども、どちらかの肩を持ってはいけない。
両方を足して2で割ったような案を出すことになる。

もう一つは、文字通り調整をすることだ。
これは簡単ではない。
ややこしいのは、双方同席しようとしないことだ。
お互いに、自分の主張をして、相手が折れるべきだという。
この場合の調整は難航する。
結局は足して2で割ったような案を出すことになることが多い。

もう一つは、調整役が解を出すことだ。
案ではなく、解というのがミソ。
そもそも、何のためにやっているのか。
目的は何なのか。
成果はどう測るのか。
同じ目的のために、違う案を主張することのおかしさを突く。
そもそもの目的、そのための手段として適当な道はどれか、ということを言う。

だいたい、こういう場合双方とも真剣に考えていない。
日本の政党間の話し合いみたいなものだ。

だから、問題を変える事が必要だ。
問題を一つ前の段階に戻し、それでもう一度話し合うという手もある。

世の中、そんなことが多すぎる。


| | 考えたこと | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
世代交代
年をとると、だんだんと世代というものを意識するようになる。

ぼくらの世代、という言葉をよく使う。
そう意識はしていなかったが、ここ数年でだんだんと使うことが多くなった。
話していても、話題によって意識することが多い。
特に若い人と話していると、それを意識させられる。

何かを説明するときに、単に個人の話ではなく、時代背景が必要になってくることが増えた。
一昨日書いたが、時代の変化はどんどん早くなってきている。
縄文時代が何十万年続いたのかはわからないが、その間の文明の進み方は本当にゆっくりだったと思う。
それがだんだんと早くなった。

今や地球の反対側で起こったことでも、翌日にはわかる。
インターネットではリアルタイムでわかったりする。
情報の流通量は、縄文時代と比べると無限大と言ってもいいだろう。
江戸時代と比べても、印刷技術、電信、電話、その国際化、通信技術などが発達し、何千万倍という状況だろう。
何せ、東京で起こったことが大阪に伝わるのに、飛脚という手段しかなかったのだから。

今の変化のスピードは人類が経験したことがないものだろう。
アナログがデジタルになったのが大きい。

話がそれたが、だから、ぼくらの時代に常識だったものが、もう若い世代には常識ではないということが起こる。
長らく、そんなことは起こらなかった。
変化がゆっくりだったからだ。

ぼくらが死ぬ頃には、10代の人は本当にびっくりするような人になっているだろう。

和式トイレはほとんど通じない。
おじいちゃんが若いころはなあ…、と言わないといけない。
電話は個人のものになるだろう。
レコードプレーヤーは骨董品になる。
VHS、8mmビデオ再生機など、影も形もない。

そんな時代になって、何かを伝えることができるだろうか。
昔を懐かしんでいても仕方ないが、時代の変化(あえて進歩とはいわない)にしたがって、良いものが消えていくこともあるだろう。
それをどう伝えていくか…。

よけいなおせっかいかもしれない。

そんなものは、伝えることはできないし、伝える価値もないのかもしれないなあ。

それが時代に適応する、ということか。



| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
田楽
田楽というと、食べ物だと思う。

こんにゃくや団子状のものに、味噌をつけて串にさし、焼いているものを田楽という。

なぜ、田楽というのか、よくわからないが、田楽と聞くとそれを思い出す。

こないだ、同僚を話をしていて、おかしな事があった。
田楽の話だ。
ぼくはてっきり食べ物の事だと思い、やっぱり味噌か?と聞いた。
相手は怪訝そうな顔をして、味噌?という。
これがきっかけ。

味噌の田楽ではなく、宇治の田楽だという。
なるほど、抹茶の田楽かというと、そうではないらしい。

神楽(かぐら)が神社でやる踊り。
だから、田楽は田でやる踊り、ということになる。
なるほど。
神楽に対して、田楽か。
ハタと膝を打った。

しかし、田楽が踊りとは…。

てっきり、食べ物のことだと思っていた。

ナスの田楽というのもあるし…。

日本語は難しい。


| | 考えたこと | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
電気自動車
日産からリーフという電気自動車が発売される。

家庭で充電できて、1回の充電が200Vで8時間。
フル充電で200kmくらい走れる。
充電装置があるステーションなら、30分で8割まで充電ができるので、150km程度は走れるようになる。

ガソリンスタンドに行かなくてもよい。

値段が400万程度。
補助金やエコカー減税で、約100万ほど安くなる。
したがって、300万で実用的な電気自動車が買えるという寸法。
家庭での充電には、若干の工事が必要になる。

追浜工場で年間5万台の生産が可能らしい。
したがって、売れまくると年間10億円の税金が投入される。
これは、電気自動車のコストを下げ、購買意欲を上げてゼロ・エミッションを達成するために必要ということになる。
インフラの整備にも補助金が投入されるのだろう。

電池のリサイクルも、住友商事と一緒に4Rエナジーという会社を設立して実施するらしい。

ハイブリッドで出遅れた日産も、ようやく追撃体制が整ったみたいだ。
毎日ちょっと街中を走るだけなら、このクルマでも十分。
しかし、休日に遠出したいということなら、ちょっとシンドイ。

今のガソリン車は、だいたい500km程度の航続距離で作られている。

それに比べると、200kmは少ない。
やっぱりシティカーという感じだろう。
子供の送り迎え、買い物、ちょっとしたお出かけ程度。
現在この用途に使われているのは、軽自動車がメイン。
電気自動車にすると、価格が3倍になるというのはちょっと難しいが…。

実際、電気自動車になると、どんなことが起こるのか。

今なら夜間の電気なので、電力危機は大丈夫だろう。
しかし、相当な電気が必要なので、、エネルギーの確保は重要になってくるだろう。
原子力が使えないとすると、化石燃料に当面は頼らざるを得ない。
そうなると、化石燃料はかなり高騰する。
仕方がない。

こんなところで、電気エネルギーが必要になってくるとは…。



| | 考えたこと | 21:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
過渡期
生きていれば、人はいろんな場面に立ち会うことになる。
それが歴史だろう。

ぼくらの世代は、いろんな変化に立ち会えた世代だと思う。

それをラッキーと捉えるかどうかは難しいところだが、少なくともぼくはラッキーだったと思う。

世界が変わっていっているのだが、だんだんそれが早くなっているという事を実感する。
そして、そこにアナログからデジタルという流れが否応なく入ってきている。

例えば…、コンピューターは大型のものだったが、ミニコンになり、それが今のパソコンになった。
ネットワークも何もないところから、インターネットが現れ、そのうち全てのパソコンがネットにつながり、今や携帯やスマートフォンまでつながってしまった。
会社では机の上には紙とペンの時代から、ゼロックスでコピーし、ワープロで文書を書き、表計算で計算し、グラフを描く時代。
手書きしていた伝票は、当然コンピューターの電子伝票。
そのデーターは最初はフロッピーだったが、CD-ROMになり、今やDVDやUSBメモリに入れて持ち運ぶ。
元データーは会社のコンピューターのハードディスクだったが、それがサーバーになり、今はクラウドでインターネット上に置く時代。
たくさんの社員がそろばんや電卓で計算していた経理などは、今は無人でパソコンソフトがやる。
通信手段は昔は手紙、ハガキだったが、電話ができ、ファックスができ、それがメールに変わった。
小包といえば、郵便局だったが、今はクロネコヤマトだ。すごくサービスがよくなった。
通信販売は怪しいオタクのものだったが、今はアマゾン、楽天で普通に注文する。
冗談かと思っていたが、実際に携帯電話でものが買える時代。自動販売機でも使える…。

これなに変われば、SF作家も苦しくなるはず。

そんな変化の中で今まで生きてきた。
そして、その変化の前と後を知っている。

今の十代の人は、封筒の宛名書きを知らない。
切手を左下に貼ったりする。
それは仕方ないことだ。
そもそも、手紙を出したことがないし、うちに来る封筒は宅急便なので切手はない。
それは、仕方ない時代の変化なのだろう。
その代わり、携帯で複雑な事ができるようになっているなら、それはそれでいい。

そして、音楽はデーターだ。
CDを借りて、データー化する。
そして、プレーヤーで聞く。
音楽は使い回すものになった。
昔のレコード世代からすると、音楽は買うもの、所有するものだった。
レコードを買ってきて、ジャケットから出し、そっと針を盤の上に置く時の気持ちは今の若い人にはわからない。

ぼくらは末期になるが、手紙を書いたことがある。
手紙は一期一会だ。
メールと違う。
メールなら、ここ間違ってた、というメールをすぐに再送する。
そんな手紙は書けない。
これが手書きと電子データーの違いだろう。
だから、手紙は返事が来た時の楽しみも大きい。

そんな国の経済の根幹を揺るがすような変化を見てきた。
おかげで、生まれてしばらくして高度成長になり、30すぎでバブルの絶頂期、その後の崩壊、低成長、失業率アップ…、という流れだ。
まだ、現役で低成長の中にいる。

今さら元に戻ることは不可能だが、捨ててしまったものの良さを知っているのはぼくらが最後かもしれない。

それを下の世代に伝えていくことが出来るかどうか。

また、それをすることに意味があるのかどうか。

それは問題だ。



| | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
上岡龍太郎
紳助の引退に騒ぎで思い起こすのが、上岡龍太郎。

彼も、お笑い芸人にはめずらしく、まだまだ人気のある間に引退した。
あれは、2000年4月のことになる。もう10年以上経つのか。

当時は鶴瓶と一緒に、パペポTVという深夜の番組や、探偵ナイトスクープの司会をしていた。
たしか、当時のパペポによると、カナダに住むとか言っていた。

Wikiで調べると、カナダに住んでいるという記述はなく、どうも日本にいるらしい。
今でも上方の芸人とは親交があるらしく、彼らのブログに名前が出ることがあるとのこと。

上岡龍太郎は元マンガトリオのメンバー。
横山パンチと名乗っていた。
パンパカパーン、パパパ、パンパカパーン、今週のハイライト、というセリフでおなじみ。
知らない人は全く知らないだろう。
1968年に横山ノックが参議院議員になると、解散した。
それから、上岡龍太郎と名乗るようになる。
ひょっとしたら、ぼくらがマンガトリオを知っている最後の年代かもしれない。

紳助と同じく(というか、上岡の方が先だが)、毒舌で有名だった。
でも、この人の毒舌には主張があった。
番組の構成上いじめるということはしない。
頭もよかった。
勉強ができたという意味ではなく(これは、わからない)、頭の回転がはやくて、切れがよかった。

また、毒舌の相手はマスコミや政党、有名な芸人などの権威者が多かった。
紳助のように、問題ができないからバカ、というような低俗なものではなかったと思う。

オカルト現象を見たというような事も嫌っていた。

上岡龍太郎が紳助の引退をどう思っているのかは、知るよしもない。
ひょっとしたら、週刊誌に載るかもしれないが…。

彼は紳助を買っていたらしいが、本当はわからない。

聞いてみたいと思う。


| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
紳助の引退
島田紳助が引退した。

突然の会見で、所属事務所の吉本が詰め腹を切らせた格好。
テレビ局に違約金を支払っても、引退をさせた吉本には、よほどのっぴきならない事情があったのだろう。
どうしても、関西の芸人には、やくざとの関係というダーティな部分がついて回る。
関西ローカルでおさまっていればよかったのだが、全国区になるとそういうわけにはいかない。
吉本もこの件に関しては、どうしようもなかったのだと思う。

芸人というと、興行の世界だから、どうしても地域の実力者がついて回る。
今はプロダクションなどと言って、きれいな仕事みたいになっているが、ちょっと前までは劇場や飲み屋を回っていたのだ。

紳助は数年前にトラブルを解決してもらったのが、ヤクザということらしい。
政治的発言に関するトラブルだとか…。
やはり、その世界に顔がきくのは右翼やヤクザということか。

本人もぶざまとか、最低とか言っていたが、たしかにルール違反という事でいうと、認識が甘かったのだろう。

ちょうど、サンデープロジェクトに出ていた頃ではないか。
素人としての発言が面白いということで起用されたと思うが、番組での発言が右翼の大物の逆鱗に触れたのかもしれない。

これから、いろんなニュースが出てくると思うが、それはそれとして、彼の引退はよかったと思う。

テレビに対する功罪ということでいえば、ぼくは罪の方が大きいと思う。

バカを売り物にするタレントが増えた。
ものを知らないことが、売りになる。
こんな事も知らないのか、という安心感が視聴者に受けたのだろう。
これは大きな罪だと思う。

それをバカにして笑うという手法。
こんな原始的な笑いをエンターテイメントとは言わない。
夜中にやるのならかまわないが、それをゴールデンタイムにやるというテレビ局の見識のなさも手伝った。

司会のトークで売るという手法も確立した。
これ自体は悪いこととは言わないが、話のほとんどは楽屋落ちだ。
話題になっている人を知らなければ、面白くない。
初めて聞いた人は、全くわからない。
こないだ亡くなった前田武彦は、そういう笑いは認めないだろう。

そういう笑いから、もう卒業しよう。
楽屋落ちは内向きなのだ。
楽屋の中の人だけが笑える。
外向きにならないとダメだ。

昔、大宅壮一はテレビを見ているとバカになると言い、一億総白痴化という言葉を生み出した。
でも、当時はまだマシだったと思う。
もちろん、大宅の世代はひどいと思ったに違いないが…。
下には下があった。
大宅壮一が生きていて、バカが闊歩するテレビ界を見たら、どう言うだろうか。

あまりにひどすぎて、無言かもしれないなあ。



| | 考えたこと | 00:30 | comments(2) | trackbacks(0) |
3.11
3.11は、サンテンイチイチと読む。

円周率を間違えているのかと思ったら、これは日付らしい。
東北の大震災の発生した日だ。
アメリカの9.11同時多発テロになぞらえて、3.11という。

「3.11以降、日本は変わった」、という人がいる。

サンテンイチイチで何が変わったのか。
それ以降とそれ以前で何が違うのか。
ひねくれ者の上に、へそ曲がりのぼくは思ってしまう。

曰く、原発がほとんど止まっても何とかなる。
曰く、みんなの力を結集すれば、何とかなる。
曰く、もう今までの常識は通用しない。

そんな馬鹿なことがあってたまるか…。

どうして何とかなるなどと言えるのだろう。

物理的に足りない物は足りないし、だからいろんなところで節電している。
たしかにムダな電気もあっただろう。
しかし、必要なものも止めて、初めて何とかなっているのだ。
日本が先進国の仲間入りをして、GNPで世界2位までいったのも、インフラを心配せずにやれたからだ。
何とかなるなどと言っていないで、歴史を見て、これから先のことを真面目に考えてほしい。

サンテンイチイチという言葉は、ある種のイデオロギーだと思う。
どこにも実体がない。
なんのことを言っているのか、何を指すのかわからない。

それでも、みんながサンテンイチイチと言い出すと、それに反対を唱えるのが難しくなる。

言うのであれば、具体的な事象を言ってくれ。
どこに、どんな困ったことがあるとか、どれだけ何が足りないとか、そういう言葉で言ってほしい。

それをサンテンイチイチというような言葉で、総称しないでほしい。
そんなことを言っている人に、わかっているとは思えない。

そして、勝手に日本が変わったなどと言わないでほしい。



| | 考えたこと | 01:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
スパイ大作戦のテーマ
今日スパイ大作戦の再放送を見ていたら、チャンチャンチャチャ、チャンチャンチャチャという有名なテーマソングは5拍子だと気づいた。

スパイ大作戦というと、原題がミッション・インポシブル。
トム・クルーズでリメイクした映画の元である。

あれが5拍子だとは、今はじめて気づいて納得。
符点四分音符2つと、四分音符2つで1小節のリズムだ。
何となく変な感じが残るので、忘れられない。
この曲の秘密はこんなところにあったのか。
みんな知っていたのかな。

5拍子の名曲というと、何といってもテイクファイブ。
きっと聞いたことがあるはず。
タラタタラララランタラランという感じの曲。
こちらは5/8拍子という感じ。

今の50代でどちらも聞いたことがない、という人は珍しいと思う。

他に5拍子の曲というと、クラシックではあるようだが、ポピュラーミュージックではあまり思いつかない。

5拍子で違和感のない曲を書こうとすると、きっと難しいのではないか。
聞いてすぐに、これは5拍子だ、とわかるような曲はきっと流行らない。

この2つの曲は、違和感を抑えながら、それでも適度な緊張感を絶妙なバランスでミックスした曲だと思う。



| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
何かヘンだ
こどもが24時間テレビを見ていた。
これは愛は地球を救う、ということで、代々チャリティをテーマにしている。
今年は東北の震災があったから、余計に盛り上がる。

フジは27時間テレビを地デジ化の日にやっていたが、こちらはお笑いがテーマだった。

寛平が最初だったのか、どちらもマラソンをやるのが恒例。
番組開始と同時にスタートし、終了の時にうまくスタジオでゴールインできれば、ラッキーというやつ。
沿道に応援に出ている人も多い。
夜中も走り続けるので、体力がないと難しい。

今日は徳光が70歳で走っていた、というか歩いていた。
さすがに番組中に心臓発作でも起こされたら困るので、スタッフが回りにたくさんついている。
そこまでして、そうするか、と思う。
休憩所も用意して、医師やマッサージ師も待機して、それで完走。

24時間テレビは、これでもか、これでもかと感動を要求する作りになっている。
語弊を恐れずにいえば、作り手と司会者が必死で感動を押し売りする、という言い方になる。
やっている方は、自然にやっているのだろうが…。

もちろん悪気はないのだろうが、生来のひねくれ者のぼくは何かヘンだと思う。

こんなにつらいことがある。
こんなに悲しいことがある。
こんなに頑張っている人がいる…。

それらの人々の身に起こったことは、本当に悲惨なことだ。
でも、それを簡単にわかることはできない。
というか、そもそもわかることはできないのだと思う。
だから、そんなに簡単にわかった気になってはいけない。
西洋なら、きっと神を間に立てるのだと思う。

だから、何となく番組制作者が不遜な気がする。

それをはっきりと言うことはできない。

こんなことを書くと非難轟々かもしれないが、それでも違和感がある。


| | 考えたこと | 22:17 | comments(2) | trackbacks(0) |
高校野球2
昨日の続き。
光星学園は、監督が大阪の高校出身だった。

監督、選手の声を聞いていると、関西のチームかと思う。
きっと関西からの選手の調達ルートができていて、それも込みで監督に就任したのだろう。

昨日の中日スポーツの記事で、地元の人は好意的に受け入れているということと、青森で練習を積んできたのだから、ということが書いてあった。
それはすばらしいことだ。

豊かになったということだろう。
昔は野球留学など考えられなかったし、そんなお金もなかった。
また、それをよしとする風潮もなかっただろう。
ぼくが幼い頃は、優勝旗は箱根を超えないと言われていたのを覚えている。

豊かになって、都市部でレギュラーになれないと思われる球児が地方に行くようになった。
それどころか、地方に行ったほうが予選が楽なので甲子園に出やすいから、レギュラークラスでも地方の高校に行くようになったのかもしれない。

地方は少子化の影響が都市部よりも大きいから、高校は経営が苦しくなる。
そこで、学校の宣伝のために、高校野球を強くするということが手っ取り早いテコ入れ策になった。
本来は受験成績を上げることが一番効くのだが、それは難しいから、野球に逃げる。
それと同時に、都市部のいい球児を地方に引っ張る方法も確立された。
寮を作り、練習場を作り、コーチを引っ張り、監督を引っ張るくらいの金はある。
甲子園に出れば、卒業生の寄付も募れるし、宣伝効果も大きい。

地道に成績を上げるには、学校の熱意、全員の先生の努力が不可欠だが、それを達成するよりも甲子園に出られるチームを作るほうが早い、という結論だろう。
また、そのためには人数が少ない地方の方が楽だ。
まだ都市部は競争が厳しく、有名校にいい選手は取られる。
それに、成績を上げる方法がわからない、ということもある。それは先生を変えるしかないというケースがほとんどだろう。
野球を強くする方法はそれに比べると簡単だ。それはやさしくはないが、お金があればやりやすくなる。
かくして、甲子園は高校にとって、目的から手段になった。

高野連側は、実力が伯仲するから、野球が面白くなる。
そうすれば、サッカーに勝てる。
コウコウヤキュウノセイシンなど、どうでもいいのだ。
勝負だから、強さがすべて。
金を持っていれば、強い。

残念ながら、光星学園は負けてしまった。
初めて東北に優勝旗が行くというのは、持ち越しになった。
東北に優勝旗を持って帰ってもらいたかったが…。

ぼくが小学校のころは、東北と東京が対戦すると、よほど東北のピッチャーがよくないとワンサイドゲームになった。
有名な三沢高校と松山商業の試合はそのケース。
近鉄に行ったエース、太田幸司が立役者。
その一度だけだった。

今回、それを覆すか、と思ったが、難しかった。
相手が東京代表だから、仕方がない。

しかし、その裏にはこういう事実がある(これは推定だが…)、ということを報道するのもマスコミの仕事ではないか。

表向きはコウコウヤキュウノセイシンなどと言っているが、裏ではビジネスになりつつある。
それで、いいのだ。

ウソはいけない。




| | 考えたこと | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校野球
もうすぐ高校野球が終わる。

今日聞いていたら、青森の選手の勝利インタビューは関西弁だった。

出場する学校名を見ていると、けっこう新しい学校が多いのに驚いた。
同じ学校でも、名前が変わったところもある。

数年前にいろいろと問題になった、選手集めの方法はどうなったんだろうか。
どこかの県の代表は、ほとんど他県出身だったというような事だったと思う。
また、そういう選手は学費免除で、寮にもタダで入れてくれるということもあった。

野球留学ということが行われている。
高校側は甲子園に出て、校名を宣伝したいというインセンティブが、球児側には甲子園に出られるかもしれない、というインセンティブが働く。
双方の利益が一致するという構図。

都市部では、高校野球で有名な高校に入っても、そんなところでは補欠になってしまうという選手は、地方に行く。
地方に行けば、レギュラーになれるということだ。
学費免除もついてくれば、ありがたい。

だから、沖縄の高校の選手が、ほとんど関西ということもあり得る。
そのせいで強くなったとも言えるのだ。

これは、高校野球の趣旨に反するというような意見もあったと思う。
学費免除はやりすぎだという意見もあったはず。
結局これらの意見はどうなったのだろう。

この事情は野球だけではない。
サッカーでも同じだろう。
プロにつながっているスポーツでは、こういうことが起こりやすい、というか、それが宿命だ。

一校あたり、何人までとか、免除は不公平だとか、そんな意見が出ていたはずだ。
でも、今年の高校野球を見ていると、それはどこにいったのか?という感じだ。

たしか、問題になったときは、自粛ムードがあったが、しばらくして主として受益者の(選手を誘致している)学校法人から、それでは成り立たないから緩くしてくれ、という話が出ていた。
その頃からマスコミの報道がなくなって、結局どうなったのかわからない。
ちゃんと決めたのなら、それは大々的には報道されなければならない。
どうなっているのだろう。

新聞社が絡んでいるから、報道を自粛したということはあるかもしれない。

高校野球を面白くするなら、選手の実力が均等になって、各地方の実力を一緒にする方がよいだろう。
少子化で子供が減っており、サッカーなどの他のスポーツにおされて野球人口は減っているのだ。
だから、外人部隊を入れないと地方は苦しいということなのだろう。

それならそれでかまわないではないか。

高校野球の精神とやらを変えればいい。
野球留学でも何でもありだ。
金を持っていると強い、という原理。
金にあかして、スカウトでも学費免除でも何でもやればいいのだ。

高校野球だから、球児は純真で、出身地の代表として頑張っている、というのはもう要らない。
それならそれでかまわない。

隠してやるのはやめてほしい。

選手の出身中学とその府県を出せば済むことだ。
そうすれば、そんなに恥ずかしいこともできないだろう。
今のように建前と本音のダブルスタンダードを持つことが一番いけない。

資本主義の社会なのだ。
強いものが勝つ。

それをどこまで社会が認めるか、オープンにしてやったらいい。

隠すのは一番やってはいけないことだ。
朝日、毎日は何をやっているのか…。


| | 考えたこと | 19:27 | comments(1) | trackbacks(0) |
経済学
亡くなった親父は経済学部を出て、経理畑を歩んだ。

さすがに晩年は人事だの、教育研修だのという部署に行ったようだが、それまでは経理部だった。
だから、定年後は乞われてどこかの繊維会社に、相談役みたいな格好で週に3日くらい行っていた。
ぼくはもう勤めていたが、その時に、経理はつぶしが効く、ということを知った。
経理のない会社は存在しない。

また、うちにはたくさんの経理関係の本があった。
だから、経済学というものに興味はあった。
ケインズという名前は、本の背表紙で知った。
マルクスという名前は、学生運動で知った。
高校の授業で、信用の創造という事を習った。
これは、当時の政治経済の授業で、銀行の役割を説明する、という事だったと思う。
当時は社会といえば、ほとんどの生徒が入試科目では日本史・世界史・地理を選択したので、政治経済の授業は内職の時間だった。
ぼくも社会は日本史を選択したのだが、昔から経済という名前にひかれていて、内職はしていなかった。
結構まじめに勉強したと思う。

会社に入って、経理の研修を受けた。
実務は意外に難しいということを知ったが、面白かった。
ぼくは理系だったので、直接仕事に関係はなかったが…。
それから、経済学の本をいくつか買って読んだ。
経済学というのは、どんなものか、なんのためのものか、そんな本だ。
それがぼくと経済学を結びつけている。

今や経済学は人間学になりつつある。
人間は合理的な行動をする、というのが経済学の前提だったが、それは今は違う。
通販で買ったものを1ヶ月間は返品可能、というような宣伝で、実際にはほとんど返品がないということは、アンカリングという言葉で表される。

経済学はあらゆる人間の行動に関係している。
お金が絡まない行動さえもだ。

それは、人間の行動を促すインセンティブというものを研究しているからだろう。

これはなかなか面白い。



| | 考えたこと | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
イギリスの暴動
イギリスの暴動は、財政赤字を減らすために、政府が緊縮財政を実施して、そのしわ寄せが若い人に行っているのが原因、という。

若者の失業率が20%とのこと。
若い人が働けないというのは、本当に気の毒だ。

今の日本も「新卒の失業率」(言葉がオカシイが)は20%になっていると思う。
「新卒の失業率」というのは、新卒で働こうと思っていたが、正社員になれず、アルバイトや非正規の仕事で仕方なく働いている人、またはフリーターやニートになった人の比率。
新聞には景気のいい数字がでていた。

就職率が91%というのが、公式発表の数字。
ただし、これは分母が就職希望者になっている。
これは「働きたい」という意思表示をした人の数。
就職をあきらめたり、バイトでがまんしたり、職がないから専門学校に行くというような人は除外されている。
つまり、就職を希望し続け、卒業式の後も就活を続けるという宣言をした人が分母の数になる。

今は大学も情報公開されているから、数字を見ればいい。
卒業生、就職者、進学者の数が出ているはずだ。
就職者と進学者の数を足して、卒業生の数で割ってみればよい。
これが進路決定率という数字になる。

進路決定率は、理系はまだ比較的高いが、有名私学でも文系は80%程度。
中には7割台のところもある。
進学のうちのかなりの数が、就職がないから進学したということも考えられる。
有名でない私学も山ほどあるから、それをカウントすると、失業率はゆうに2割はあるだろう。

ゆうに2割の大学を出たての若い人の職がない。

これは由々しき事態だ。
ほっておけば、イギリスのように暴動になる可能性があるのだが…。

河合隼雄は日本は母性社会だと言った。
母性社会というのは、子供に優しい。
だから、若い失業者に対して、家庭が許容する度合いが西洋に対して強いのだろう。

今はやりのツイッターやフェイスブックなどのツールを使って、何かに対して盛り上がるということも聞かない。
だから暴動が起きないのか。

もちろん、暴動が起こればいいと言っているのではない。

しかし、菅総理は「雇用、雇用、雇用」と言ったではないか。
雇用を促進するためにいろんな役所がいろんな経費を請求し、いろんな補助金を出した。
有効な手はほとんど打てていないと思う。

結局、経済成長するしか雇用の回復はありえない。
税金を使う人をいくら増やしても、なんの役にも立たない。
税金を納める企業が儲からなければ、景気は回復するはずがない。

景気はもう昔のように回復しないとしても、なんとか手を打たないと、国がもたない。

若い人の働く機会を作り、ただでさえ少ない若い人を育てていかないと、この国の未来はないと思う。

早くしないと、イギリスのように暴動が起きるぞ。



| | 考えたこと | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
科学者
長男が入った研究室では、ぼくらの年代の先生がSFファンらしく、学生も読まないといけないらしい。

前にも書いたが、ぼくらが小中学校の頃はSFの絶頂期だった。
日本の国が科学立国を掲げていたし、ノーベル物理学賞は取ったし、今のような理科離れなど考えられない頃だ。
科学者=よい人だったし、今では無邪気と言われるかもしれないが、科学の進歩が生活を向上させると信じていたし、そういうことができるという時代でもあった。
だから、SFが流行ったのは時代の必然でもある。

小松左京、平井和正、筒井康隆、星新一、眉村卓、光瀬龍、豊田有恒、広瀬正、…。
もっともっといるのだろうが、ぼくでもこれくらいの作家は出てくる。
日本沈没、幻魔大戦、東海道戦争、ボッコちゃん、謎の転校生、東キャナル文書、退魔戦記、ツィスなどが作品。

SF作品は、範囲が広い。
科学的な解説を交えた小説もあれば、荒唐無稽なドタバタもあるし、歴史上の人物が出てくる小説もある。
だんだんSFの定義が広くなり、しまいにSF作家が書いていれば、SF作品と呼ばれたような気がする。
サイエンスという面は薄れて、フィクションの面が強い作品が増えて、しばらくした頃あたりからSFの人気に陰りが出はじめた。

ちょうど科学技術の進歩に対する確信が、以前よりなくなったことに呼応したような気がする。
アトム、サイボーグ009が終了し、子供のアニメも徐々に現実の世界になってきた。

そして、科学者と呼ばれる人たちのモラルも下がったのかもしれない。

今の原発をめぐっての「専門家」の賛成、反対の意見はどうだろうか。
誰が正しいことを言っているかわからない。
そもそも科学というものは客観的なもののはずだ。
それがエキセントリックなものになっている。

原発に対して、賛成でも反対でもかわまない。
しかし、放射能や汚染に対する見解は科学者同士で話しあって、決着をつけてほしい。
日本の科学者がダメなら、国際機関に頼めばいい。

とにかく、科学者ともあろうものが、恥ずかしくないのか。
わからないなら、わからないと言ってくれ。
今からでも、検証すればいい。

そういうものを科学というはずだ。



| | 考えたこと | 20:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
ながら族
ぼくが小学校、中学校のころ、テレビを見ながら宿題をしていると、「ながら族」だと言われた。
普通に使われていた言葉だと思う。

ながら族という言葉がはやったのはいつ頃だろうか。

http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/k980806.htmによると、「小林信彦『現代〈死語〉ノート』によれば、「ながら族」は1958年の流行語で、テレビやラジオの音楽をききながら勉強をするのが習慣になった若者たちをさすことば。日本医大の木田文夫教授が〈ながら神経症〉と命名したのが広まったといいます。」とのこと。

「現代〈死語〉ノート」なる本が売られているとは知らなかった。早速注文しよう。

それはさておき、1958年というと、ぼくが1歳の時。
まだテレビはないから、ラジオの時代。
その頃にラジオを聞きながら、勉強した若者がたくさんいたのだろう。

ぼくが10代になっても、その言葉は生き残っていた。
テレビを見ながら宿題するのは、ながら族と言われたし、自分でもこれはできない、と後日思った。

でも、ラジオの深夜放送を聞きながら勉強するのは、よくやっていた。
試験前は3時からの走れ歌謡曲を聞いて寝た。

最初はラジオが現れ、それを聞きながら勉強した若者がながら族と言われた。
その次は、テレビだ。
それがぼくらの時代。

その次は、ウォークマンだろう。
ラジオの変形だが、その頃はもう何かをしながら、他のことをするのは当たり前になっていたのではないか。

今はむしろ、何かをしながら、他のことをすることは良いことという風潮もある。

一度にたくさんの情報をハンドリングする、というが評価される。

ストックよりもフローだ。

そういう時代になって、ながら族という言葉は死語になった。

木田文夫教授が生きていたら、驚いていることだろう。


| | 考えたこと | 01:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
時代劇の衰退
このシーズンで水戸黄門が終わると、民放のレギュラーの時代劇はなくなる。

一時は何本もゴールデンタイムにやっていたのに、何がこの状況を生み出したのか。

この春、TBSでやっていた「JIN」は人気があった。
ストーリーはタイムトラベルが絡んで、現代物とも言えるが、舞台は江戸だったし、あれは時代劇だった。

したがって、時代劇がダサい、ということではないと思う。
面白い時代劇は作れるのだ。

舞台を江戸時代にする、というのはどういう効果があるのだろうか。
世の中が民主主義ではないということだろう。

だれもが頑張り次第で何にでもなれる、という設定ではなくなるのだ。
人々は自由でもないし、夜は暗いし、クレジットカードなどという便利なものもない。
世の中は理不尽なものだった。

そういう舞台のほうが、ドラマチックなものが描ける。
人間のピュアな部分が描きやすい。

最近の邦画も時代劇が増えた。
しかし、テレビでは時代劇は流行らない。

それは、時代劇はお金がかかるからだ。
エキストラ、セットやロケにも金がかかる。
衣装も高いし、殺陣も覚えなければならない。
そんなお金をかけるくらいなら、タレントを呼んでバラエティをやったほうが安い。
それが、時代劇の衰退の本当の理由だと思う。
テレビ局が、良質なドラマを作るより、簡単に安くあげて番組を作るようになった。

こないだ亡くなった前田武彦が言っていた。
「ゲバゲバ90分は、本当に面白いものができるまで何度でもやり直した。」
そういうテレビ人がいなくなったように思う。

お笑い番組など、楽屋落ちばかり。
どのチャンネルを回しても、同じような顔ぶれ。
ひどいのは、ネットの動画をみんなで見て、単にコメントするだけだ。
あんな番組を作っているのでは、テレビ離れも起こるだろう。
景気も悪く、広告費も入らない。
だから、制作費がなくなる。
そうすると、また安い番組を作る…。

悪循環である。

それが時代劇の衰退を生んだ。

時代劇に魅力がなくなったわけではない。



| | 考えたこと | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
A4の入るランドセル
A4サイズのクリアファイルが入るランドセルというのが宣伝されている。

なんで夏にランドセルの宣伝をやっているのか、というのは不思議な事実だが、子ども手当を狙ったものだとか、Webで予約するとオーダーメイドが安くなるとか、盆の里帰りの時期に合わせたものだとか、いろんな要因があるらしい。

そちらの方も、面白いと思うのだが、A4サイズの方が驚かされる。

世間の紙はA版とB版があって、主に官公庁で使われているのがB版である。
日本のオリジナルのサイズだ。
今までの学校関係のプリントや印刷物はB5またはB4だったはず。
B5サイズは、現在最も一般的なA4サイズより一回り小さく、それが入ればランドセルはOKという時代が長らく続いてきた。
しかし、世界標準はA版であり、民間企業ではA版に統一されようとしている。
どうしても官公庁に出さないといけない書類だけ、B版で出していた。
それも、最近はA4サイズに統一されてきたようで、いいことだと思う。
ワープロがサイズ統一に一役買ったのではないか。

電子化が進む昨今、別にどうでもいいことだが、サイズが統一されるのは世間にとってもいいことだと思う。

おそらく業者の作成したプリントなどはA4サイズで配布されるのだろう。
B5は小さいし、B4は大きすぎる。

いずれにせよ、紙のサイズが統一されるのは、世間のムダがなくなることであり、よいことだ。

小学校も統一化の流れに逆らうことはできない。

それが、A4サイズのクリアファイルに現れている。



| | 考えたこと | 17:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
うっとうしいドラマ
ここ何週間か、木曜日の夜のドラマを見ている。

別に見たくはないのだが、家族が見るので仕方がない。
見たくないから、別の部屋に行くというのが面倒くさい。
ネットをしながら、ついついスジを追ってしまうのが情けない。

「それでも生きていく」というドラマだ。

どうも、小さい時に友達の妹を殺した20代の男を、その殺された妹の兄が探すという話。
男と兄は同級生らしい。
そこに当然、その両方の家族が巻き込まれる。

こんな話は大嫌いだ。
ひとことで言うと、うっとうしい。

そんなテーマを何回もに分けて、ドラマで流すという気が知れない。

こんなテーマがやりたいのなら、映画館で3時間でも4時間でもいいから、作品にすればいいのだ。
それなら、本当に見たい人だけ見に行ける。
こんなものを付き合いで見てしまう人間の気持ちは、わからないのか。
そんな映画を作っても、売れないだろうとわかっているのだ。
そんなものを連ドラにする…、アホではないか。

そんなテーマを設定しても仕方がない。
被害者の感情、加害者の理由、そんなものを描いてどうするのか。
そんなものは、すぐれて個人的なものだ。
その人が生きて、感じるものだ。
実際に自分が経験しないと、わからないという類のものだと思う。

いくら、一生懸命に演じたとしても、そんなものは嘘だ。
想像で演じられるものではない。
それも、若い俳優に、できるわけがない。

早く終わってほしい。
つきあわされる身にもなってくれ。


| | 考えたこと | 08:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
いろいろあって
アメリカのドラマで、メールの場面があった。

どうして連絡をしなかったのか?という返事に、「いろいろあって」という字幕。
書かれた文字が"Work it out."だけだった。

もちろん、意訳だろうが、Work it out の意味を調べてみた。
どうも、「何とか頑張ってやってみる」、という意味が一般的。

ビートルズの"We can work it out"という曲は、「恋を抱きしめよう」という全く違う邦題がついているが、これはこの当時の流行。
いまなら、「うまくいくさ」というような題名になるだろう。
「私たちには、きっとできるはず」というような意味になると思う。

しかし、どうして連絡をしなかったのか?という返事に、Work it outと書く、このニュアンスはわからない。

結局できなかったのに、「うまくやる」と答えているような気がする。

これがどうして「いろいろあって」になるのか。
事実関係の文脈から、そういう意味になるのか…。

仮定法のイメージで、うまくやろうと思っていたのだが…、というニュアンスだろうか。
それが転じて、「いろいろあって…」という意訳になるのか…。

これは難しい。


| | 考えたこと | 00:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
もしもの時
ぼちぼち、子供も大きくなってきたし、家を離れるときも近づいてきた。
そういう年代にさしかかっている。

同時に定年も近づいており、何をどうするのか、ということも考えなければならない。

ついこないだ、「もしもの時に役立つノート」というのを買った。
死ぬときに考えておくべきことのノートで、わりと人気があるらしい。
生命保険の会社が、粗品で配ったりしているとのこと。
なるほど。

住所、名前、保険証や免許証、パスポート番号などの情報に始まって、どの銀行に何を預けてあるかとか、口座自動引き落としで何を落としているかとか、ローンやクレジットカードのこと、入っている保険、年金、パソコンのIDやパスワード、ペットのこと、生活のこと、家族・親族のこと、友人・知人のこと(特に葬儀に呼びたい人、呼びたくない人)、もしもの時に連絡するべき人、告知・延命処置について、自分の介護について(これは意識がなくなったときのこと)、葬儀のこと、お墓のこと、遺言書、相続について、というような内容。

もうぼちぼちそういうことも決めておかないといけなくなってきた。

こういうのは、自分で買わないといけない。
あまり家族からもらって、うれしいものではないだろう。
なんとなく急かされているような気になったりする。

しかし、いざというときにわからないと困る。
まあ、お金の支払いの方は、落ちなければ勝手に切られるからほっておけばいい。
貯金の講座や、運用しているものなどは書いておいたほうがよいだろう。

葬儀のことは、希望を書いておきたい気もするが、まあどうせ死んだあとのことだし、そのとおりされなくてもかまわない。

ややこしいのは、臓器提供とか、延命処置とかだろう。

これは提供するかしないか、延命するかしないか、はっきりさせておいた方がよい。
これには、宗教や哲学が絡むから、難しい。
いずれ法制化せざるを得なくなるだろうが、それまでは仕方がない。

死ぬのも簡単ではない時代になってきた。




| | 考えたこと | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
仰げば尊し
朝のドラマで、卒業式の場面があった。

もちろん、昭和の初期だからみんな「仰げば尊し」を歌う。
ぼくは、昭和44年、47年、50年と3回、小中高の卒業式を経験したが、3回とも「仰げば尊し」と「蛍の光」を歌った。
今は歌われていないらしい。

その理由はWikipediaによると、教師を崇めることが民主主義にそぐわない、ということと、歌詞が文語でわかりにくい、ということ、立身出世が民主主義的ではないということらしい。

しかし、ぼくは昭和50年でも歌ったのだから、民主主義にそぐわない、という理由ならもっと早く歌われなくなったはずだ。
日の丸、君が代に反対した日教組の影響があるのだろう。

久しぶりにドラマで、この歌を小学生が歌うのを聞くと、卒業式のことを思い出す。
小学校、中学校、高校と3回歌うと、だんだんと歌詞の意味がわかってくる。
わざわざ、歌詞の意味を教えるということはなかった。
それは、先生がその歌詞を教えない、という気持ちがあったんだと思う。

小学校など意味もわからず歌っている。
中学校になると、「我が師の恩」というものが歌われており、それは「尊し」とされるということがわかってくる。
高校になると、大体の意味がわかり、なるほどそういう歌か、ということがわかる。
大人になって、ついこないだ「今こそわかれめ」といのは係り結びで、「今、別れよう」という意味だとわかった。

歌詞の意味を教えずに、この歌を歌うというのは、ひとつの見識だと思う。
これは、きっと先生が、教師の自戒の歌だと思っていたのではないか。
中には、こんな歌を歌われたら困るという先生もいただろう。
かけだしの教師など、自分はそんなに立派ではない、という思いがあっただろう。

この歌の意味を教えずに歌うことの意味は、いくつかある。
一つは、生徒がこの歌の意味をいつか知り、そういうことだったのか、と思うこと。
二つ目に、当時を思い出して、我が師の恩を思うこと。
三つ目に、教師が毎年この歌を聞いて、自分の仕事をふりかえること。
この3つめの意味が忘れられている。

この歌を歌わなくなった頃から、学校が荒れだしたと思う。

学校で一番大事なのは、設備やランクや進学先ではなく、先生である。
それは誰がなんと言おうと変わらない。
何をおいても、先生なのだ。
いい先生との出会いは、一生の宝ものだろう。

それを心にとめて、「仰げば尊し」の歌詞と、昨今歌われるという「旅立ちの日に」の歌詞を比べてみると、卒業式に歌うべき歌は明らかだ。
この歌詞の意味を教えず、小中高で3回歌う。
これが大事なのだと思う。

年寄りは自分の経験が正しいと思っている。
人生にやり直しはないからなあ。


| | 考えたこと | 15:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
受験
学校の夏休みも中盤に入った。

今年は次男が受験生で、夏休みが経つのが早いといっている。
高3の夏休み。
計画をたてて、進捗を見ろ、と言っているのだが、決めたことをやれているから大丈夫という返事。
計画をたてないと、もれができて、困るぞと言っているのだが…。

ぼくらが高校の頃は、4当5落などと言われ、4時間睡眠なら合格、5時間寝ると落ちるというような事が言われていた。
一応、受験戦争という時代だったが、当事者からするとそんなにきついという意識はなかった。
今のように情報量も多くなく、自分の選択肢はなんとなく自分で決めた。
受験科目は多かったが、今のセンター試験よりはマシだ。

だいいち、2科目で入れるようなところはなかったし、今よりも大学側は強気だった。
選んで、入れるという状況。
昭和50年当時、18歳人口は今より多かったし、学校数が420校、在籍者が170万人という時代。
今は780校もあり、在籍者は290万人。

おおかた倍になっている。
入りやすくなっているというが、それでも今の受験生を見ていると、気の毒である。
ぼくらが受験した2年後に、センター試験の元になる共通一次という試験ができた。
マークシートの始まりだ。
最初は国立だけだったが、徐々に私立も利用するようになった。
今ではたくさんの人がその運営に関わり、予算も巨額になっている。、

その試験ができたおかげで、全ての大学が試験の得点で分析されるようになった。
予備校が競ってデーターをとり、偏差値ができ、序列ができた。
それと同時に大学が増え、受験生が増えた。
つまり、大学のユニバーサル化が始まったということだ。

そうなると、受験生の取り合いが起こり始め、経営を重視した学校が試験の科目を減らした。
試験の科目を減らすと、受験生が増えたのだ。
おそらく、試験の科目を減らしたら受験生が増える、という思考回路はできていなかったと思う。
ただ、そうしてみた大学があった、ということだ。
そうしてみたら、受験生がたくさん来た。
それは、価値の転換点だったと思う。
そして、今の2科目入試につながっていく。
それ自体が悪いことではない。
ちゃんと高校までで2科目以外を教えていれば、かまわない。
今はそうではないが…。

同時に、進路指導部というのが高校にできた。
それまでも、進路担当の先生はいたのだが、大学がセンター試験の得点で層別され、新規設置大学が増え、ワケのわからない学部名が増え、なしくずしに情報量が増えて、入試が多様化すると、普通の生徒には大学を選んで適切な入試を受けて入学する、ということが難しくなった。
同時に、何でもいいから大学に行きたいという生徒が増えたのもあるのだろう。

進路指導の先生、という役職の力が強くなった。
選べない生徒に大学を薦めることができる、キーマンになったのだ。

入試科目の減少、進路指導部の台頭、生徒の多様化、高校の層別化などが重なって、履修漏れが横行するようになる。
結局理系でなければ、高校1年で数学は終わり。
覚えることが多く、入試で不利だから、世界史はやめ。
高校のカリキュラムが無茶苦茶になった。

義務教育はとにかく出席日数が足りたらOK、という状況になった。
だから補習をやる。
教育熱心だから補習をやるわけではない。
補習で出席日数を稼いだら、それで卒業できるのだ。

だから、小学校の計算ができない大学生ができた。
もう何年も前になる。分数ができない大学生、という事が言われた。
それを言ったおかげで、よくなったかというと、全くよくなっていないと思う。
前にも書いたが、算数、数学は積み上げだ。
小学校でつまづいたら、その先はわからない。
それは中学でチェックされないし、高校でも素通りになる。
大学生にどうやって数?の試験を取ったのか?と聞くと「先生がこの問題を出す、といって提示された問題を覚えたら取れた」という返事。

大学入試さえ通れば、数学は不要だ、というのが根底にある。
数学を教えている教師が、数学は不要というのは自己否定だ。
そんな仕事をやっていても、面白くないだろう。
面白くない職場のモラルは下がる。
結局先生は教えることをやめ、進路のことやクラブ活動に熱心になった。

暴論だが、今の教育はそんな面があると思う。


| | 考えたこと | 22:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
若い人
こないだ、若い人と話をした。

若い人といっても、25歳。社会人で3年目の女性だ。
彼女は人事をやっていて、年金や保険などの実務もこなしている。

話をしていて、話題が年金、保険というところになった。
今の年金制度はもう破綻している。
今の若い人はよく文句も言わずに払っているなあ、というと、「今の若い人は真面目ですから」という答え。

保険もどうなるかわからないのに、このままやる気か?と聞くと、まあ、しかたないという返事。

「これ、フランスやったら、若者の暴動起きてるで」
「はー、そうでしょうねぇ」
「まあ、のうのうと年金もらおうとしてる年寄りも問題やけどな」
「日本の若者は素直ですからね…」

本当に素直だと思う。
国のやっていることに文句を言おうなどと思ったことはない。
せいぜい、何人か集まったときにぼやく程度だ。

今は言いたいことを言えるところがたくさんあるのに、有効活用していない。

でも本当は、そんなことを変えられない大人が悪いのだ。

今の厚労省の役人、政府、そしてお金をもらっている人…、その人たちが若い人のために何とかしようと思わないのがオカシイ。
どう考えても、すでに破綻している。
右肩上がりの時代ではない。
今の20歳の人はいい時を知らない。
生まれてからずっと景気が悪いのだ。
その上、少子高齢化だから、負担はどんどん重くなる。

本当は、年寄りのぼくらが何とかしないといけない。

それはわかっているのだが…。


| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
かしこくなったイヌ
イヌやネコは身近な動物だが、人間と同じように、一匹一匹違う。
個性がある、といってもよいだろう。

しかし、イヌは種類によって、共通のものがあると思う。
だから、盲導犬や警察犬に向くイヌというのがある。
ゴールデンレトリーバーは基本的に人なつっこいし、シェパードは頭がいい。

一方、ネコはあまりわからない。
ネコは積極的に人と交わろうとしないから、わからないのかもしれない。

しかし、ぼくらが小さな頃はまだ野犬がたくさんいて、そんなにイヌがペット化していなかった。
朝夕、リードをつけてイヌを散歩させる、という光景は平成のものだろう。
衣食が足りないと、ペットを飼う余裕もない。

今のペットの扱いは、スーパーのペット用品売り場を見ればわかる。
あらゆるものが置いてある。
ペットフードはもちろん、成犬用だけでなく、老犬用のカロリー制限したものもある。
いたれり、つくせりである。

その昔、祖母のところに雑種のイヌがいた。
当時ぼくは祖母の家の隣に住んでいたので、そのイヌと遊んでいた。

今考えると、だいぶイヌの頭は悪かったと思う。
もともと、日本人にはイヌをしつけるという気持ちがあまりなかったのではないか。
その代わり、イヌが家族の一員という概念もない。
家の中でイヌを飼っている、というと変わり者という目で見られた時代。
広っぱで遊んでいたら、誰かの飼い犬が追いかけてきて、かまれそうになったこともある。
今なら訴訟問題だが、その当時はそんなことを訴える人はいなかった

平成になって、野犬はいなくなったし、イヌは家族の一員となった。

そのおかげで、イヌはかしこくなった。

でも、飼い犬でなくなれば、生きていけるかどうか、はなはだ怪しい。

そういう意味では、イヌがかしこくなったワケではなく、人間化したというべきか。

イヌが考えていることを理解できる時代が来るとしたら、それは人間にとってうれしいことではないかもしれない。




| | 考えたこと | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
手紙
手紙を書かなくなって久しい。
年賀状もデジタル化して、手書きはほとんどしない。
他人と、手書きの文字を通じてつながる、ということがなくなってしまった。

メールはたくさん書くが、どうも手紙の感じとは違う。
ぼくらの世代は、そんなにたくさんの手紙を書いたワケではない。
でも、ちょっぴりは手紙を書いたし、手紙をもらった。

朝のドラマ「おひさま」で、よく手紙を書くシーンが出てくる。
戦前から戦後にかけての時代で、今は昭和22年くらい。
教師である主人公の元に、教え子から手紙が届く。
それを読んで、すぐにお返事を書かないと、という主人公。

手紙というものは、書く時に、やっぱり日常とはちょっと違う時間になる。

書いてから、数日後に届くというタイムラグもあるし、向こうに書いたものが残るという緊張もある。

やっていることはメールと全く同じなのだが、どういえばいいのか…。

メールを会話ベースで書いている人には、手紙は別のものだろう。
若い人には多いかもしれない。

ぼくらは書き言葉でメールを書くが、それでもちょっと違う。
書いたものが向こうに残る、という感覚が薄い。
同時に何人もに送れるという事も関連しているのかもしれない。
間違えたら、訂正のメールを送っておけばよい、という感覚がある。

手紙にはそれがない。
一期一会の感覚。

机の上に便せんを置き、ペンを持って、覚悟して机に向かうという手順が必要だ。

手紙とメール、似て非なるもの。

その手紙文化がなくなるのは、ちょっと惜しいような気がする。



| | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
Picasa
Picasaという写真を集めたサイトがある。

Googleのやっているサービスで、これも無料である。
アカウントを取れば、だれでも参加できる。
そこに、自分の撮った写真をアップロードして、みんなで共有することができるサービスだ。

みんなで共有しなくても、別にかまわない。
ただ、みんなで共有できるような写真をアップしてほしい、ということだろう。
旅行の写真とか、宴会の写真とか、結婚式とか、そういうイベントの写真を、参加者の間で共有して見ることができる、という意図である。
便利になったものだ。
写真の概念が変わる。
撮るのはタダだから、何枚でも撮ればいい。
その中から傑作を選んで、それをアップする。
なるほどなあ。

ぼくは使ったことがないし、おそらくぼくの世代ではほとんど使っていないのだと思う。
もしも使っていれば、招待状が来たりして、見ることができるはず。

しかし、若い世代の人は違うだろう。

今の若い人は生まれてから景気のいい時を知らない、ということだが、ものごころついた時からこういうサービスがある、という人でもある。
インターネットが進化して、いろんなサービスがネットに依存して形を変えている。

昔なら、写真を撮って、現像して、写っている人の分だけ焼き増しして、送っていた。
しかし、もうそんなことは要らない。
写真のデーターをPicasaにアップし、メールでURLを送ればよい。
何なら、全世界に公開することもできる。(見るかどうかは別として)

あらゆるものが、全世界公開可能、という状況になってきた。

ホームページに始まって、ブログなどの文字ベースのものや、Picasaのような写真ベースのもの、Youtubeのような動画ベースのものなど、どんどん簡単になってきている。

本当に誰でもが、全世界に向けて発信することは可能になった。
それも、数万円のコストでそれができる。

ぼくらは、この時代をどう迎えるべきか。
サービスが先行して、人間の頭がついていっていない。
と思っているのは、ぼくだけなのか…。

ぼくらは、こういう大きな変革期に生きられて、幸せなのかもしれない。

実際に顔と顔を合わせないとダメだった時代から、物理的な距離は関係なくなった時代まで、生きてきた。
レガシーな方法から、モダンな方法へ。

どちらをも知っているぼくらが、レガシーな時代の良さを伝えて、モダンな方法の中に取り込むという仕事ができるかどうか。

それは単なるおせっかいなのか…。



| | 考えたこと | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
体力
このところ、衰えの話ばかりになったが、本当に衰えたと思う。

右手で買い物袋を持って帰ったら、ひじの関節を痛めた。
ちょっと重いなあと思ったが、大丈夫だろうとたかをくくっていた。
もう1週間以上になる。

また、最近朝起きたら、手の指がかたまっている。
実際にかたまっているワケではないのだが、とにかく曲がりにくいし、曲げると痛い。
この症状は昼間はマシになるのだが、夜になっても痛みはある。

一体、何が起こっているのだろうか。
とにかく、年をとったことには間違いない。

昔は年をとると、身体が動かなくなるとか、物忘れがひどくなるとか、そんなことを聞いても自分の事として考えられなかった。
その時は若いのだから、想像はできなくて当たり前だ。

しかし、時間は残酷である。
どんなにあがいても、老化は進む。
人によって、早い遅いの違いは若干あるが、それでも1年経ったら、確実に1歳年をとる。
まあ、還暦の声を聞くと、何かは出てくるだろう。

還暦まであと5年とちょっと。
防ぐ手立てはない。

せいぜい、体重を落とす程度か。

でも、この不健康を抜け出さなければ…。


| | 考えたこと | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
夏休みの宿題
こないだの土曜日にダイエーをうろついた。

買い物のついでに売り場を見て回ると、いろんな材料が置いてある。
便利になったものだ。
工作の材料やキットなど。

あれは苦労した。
夏休みの工作の宿題。
なかなか子供が取りかかろうとしない。

取りかからないと、手伝えない。
手伝わないとなかなかできない。

今は懐かしい思い出となったが、あれは罪作りな宿題だ。

紙粘土や絵の具を使ったり、プラスチックに穴を開けたりした。

あれは、いったい誰の宿題だったのか。

そんなことを思い出して、ダイエーを出た。

そんな手伝いをした息子ももう21歳。
彼が54歳になる時までは、ぼくは生きていないだろう。

息子たちはどんな親になるのだろうか。

そんなことを考えるようになってきた。

自分でも、少しびっくりしている。
人生にはそういうステージもあるのだ。



| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
8月
今日から8月。

もう今年も半分以上過ぎた、と言っていたら、下宿から帰ってきている長男が、高校の時に比べて一日が早いと言った。

長男は大学の4年生だが、それでも高校時代に比べて早くなっているのか。

もともと、年をとるにしたがって、時間は早くなると説明すると、それはなぜか?と聞く。
それは、だんだんと吸収するものが減ってくるからだ、と言う。
吸収するものとは、知識であったり、新しい経験であったりする。
そういうものが減ってくると、時間は早くたつ。
そういうことだ。

ついこないだ正月だったかと思うと、もう夏真っ盛り。
この調子なら、すぐに冬が来て、正月が来る。

あっという間に一年。

これからもどんどん早くなると思う。

無駄なことばかりしている間に、年をとる。

どうしようもない…。

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