考えたこと2

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ハーレー対トランプ
バイクのメーカーというと、日本の4大メーカーが販売台数で世界1位から4位を占めているはず。
日本の独壇場だ。
日本のバイクが世界を制覇しているのが実情だ。(今はアジア勢も出てきているが…)

アメリカ勢では、ハーレー・ダビッドソンが大きなバイクのメーカー。
唯一生き残っているアメリカのメーカー。
ハーレーに乗っているのは南部のオジサンのイメージ。
大きな排気量で、ドッドッドツというエンジン音。
黒の革ジャンを着て、入れ墨を入れまくりという感じのオールド暴走族というのが、よくドラマに出てくる。
どちらかといえば、トランプ支持層の人たちを象徴するような乗り物が、ハーレー・ダビッドソンのバイクなんだろう。

今回トランプ大統領は、EUとの貿易交渉の中で、アメリカは自国製品を守るために関税の措置を発表。
それに対する報復の一部として、EUはハーレーのバイクの税金を増やすという。
それを聞いたハーレーは、EUの小競り合いを回避するため、ヨーロッパ向けオートバイの生産をアメリカ国外に移すと発表した。

アメリカ企業を守るために戦ってるつもりの大統領にとっては、許せない行為だろう。
得意のツイートがそれを物語っている。

「全ての企業の中で、ハーレー・ダビッドソンが最初に白旗を振るとは驚きだ。彼らのために努力してきたが、最終的にEU向けの販売で関税を払わないということだ。これは我々の貿易にとって、1510億ドルという大きなマイナスだ。税金はハーレーの言い訳に過ぎない。忍耐強くあるべきだ! 」


トランプ大統領が扱ってきた不動産などは、文字通り動かない財であり、関税など関係ない。
でも、製造業は違う。
どんどんグローバルになって、いろんな国のいろんな部品や原料から作られる。
昔のように、国の中で閉じているような製品は少ないと思う。
だからこそ、関税という税金は、かける国の国民にとっても損害を与える。
結局高いものを買うことになったりするのだ。

21世紀の今日、国際貿易の4割前後が多国籍企業の系列企業間の取引だと推定されているらしい。

トランプ大統領は、中国やメキシコやEUで安く作られたものが入ってくることで、アメリカ経済が弱体化させられると思っている。
しかし、現代は想像以上に、十分に複雑な世の中になっている。
企業は安く作れるところを探して、どんどん出ていっているのだ。
そのために、自国民が安く製品を手に入れることができる。

共和党の人たちもそのことをわかっているはずだが、トランプ大統領の支持率がいまだに高く、何も言えないのだろう。

トランプ大統領の思いは結構根が深いように思う。
そう簡単に、変わらない。

世界はどうなっていくのだろう。


| | 考えたこと | 20:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
阪神ファン高齢化
こないだ評議員をやっている幼稚園に行ったら、前日にトラッキーやトラ子が来たとのこと。
園児たちが喜んでいる写真を見せてもらった。

トラッキーとは、阪神タイガースのマスコット。
着ぐるみだ。
園長先生に聞くと、阪神球団では年間いくつも幼稚園を回っているらしい。

折しも今日の新聞に阪神のファンが高齢化しており、球団は危機感を持っている、と書いてあった。
阪神に限らず、どの球団も苦労しているのだろう。

確かに毎年阪神の試合に何回か行くが、どんどん高齢化しているのがわかる。
入っているお客さんの中に子供連れを見ることが少ない。
いても、小学校に入る前あたり。
昔は多かった、小学校の高学年から中学校あたりの子供を見ることは珍しい。

阪神球団は、汚いヤジの自粛を要請したり(これは国会でしてほしい)、チアガールの活躍、子供向けのイベント実施などの対策をしている、という。

記事にはこう書かれている。

「球団の調査では17年の観客の平均年齢は40歳代後半。10年前と比べて7〜8歳上昇した。「直近5年間では2〜3歳の上昇に抑えられ、若年層の開拓の成果が少しずつ出ている」(営業部)というが、若返りへと転じるほどの劇的効果はない。」

ただでさえ人口が減り、高齢者が増えるのに、今のままではヤバイだろう。
もうすぐ観客の平均値は50歳を超えるという状態。

広島ではカープ女子と言われて、女性のファン取り込みに成功したという。
とにかく観客を増やすには、若い女性の取り込みは大きいだろう。
いままで来ていなかった層を取り込むということだ。
若い女性が増えると、若い男性も増えるのではないか。

そういう意味では、阪神は遅れていると思う。

以前、奈良から阪神電車で神戸に通っている人が、甲子園でナイターをやっている日は早く帰らないといけない、と言っていた。
酔っぱらいや、うるさい客がたくさん甲子園から乗ってくるからだ。
勝っても、負けても、それなりにうるさいという。

昔はプロスポーツというと、野球しかなかったが、今はサッカーもメジャーになった。
若い人たちの間ではサッカーのほうが人気。

野球は昭和の価値観を押し付ける指導をしているから、チームに子供が入っても、なかなかボールやバットを使った練習ができないとのこと。
一方、サッカーは若いコーチが着ぐるみを着て、いきなりボールを蹴らせてくれるらしい。
このままいくと、野球人口はプレーする側もジリ貧だ。

何でもアメリカがいいというわけではないが、野球を楽しむ、ということをもっとやるべきだろう。
中高年のコーチや監督ではダメなのだ。
ボールは必ず正面で、両手で取るなどを押し付けている時代ではない。
根性で、少年野球でも勝つことが至上の命題。
そこに学校の宣伝などの要因も加わるから、余計にそうなる。

野球は日本では手垢にまみれたスポーツになってしまった。
もう一度、純粋な野球好きの子どもたちを増やすことが大事だろう。

球団の努力も大事だが…。


| | 考えたこと | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の大学
日経のコラムに、ドイツの大学の事が書いてあった。
それによると、ドイツの大学は3年制。
現在高校卒業者の半数以上が大学進学を希望するという。
ドイツがエライのは、これだけ希望者が多いと、全員が専門知識を生かせる仕事につくわけにはいかない、と判断していることだ。
多くの卒業生は、普通の会社で、普通の会社員になるしかない、と記事には書いてあった。

そのため、大学は2種類に分かれている。
普通大学(従来の大学)と職業大学という分け方。
これまで職業大学は、技能系に偏っていたのだが、ホワイトカラー系も拡充された。
いわゆる、就職予備校ということだ(そう公言しているかどうかはわからないが)。

大学は3年制で、職業大学の1,2年では座学でいろいろな職務を学ぶ。
人事、経理、総務、マーケティング、宣伝、営業などの5〜10種の仕事について、企業経験のある実務者を講師として迎えて指導するとのこと。
そのうえで、3年目は座学で選んだ職務の中から3つを選んで、2か月ずつ3回、合計半年の企業実習を行う。
記事の中にも、実習は、日本のインターンのようなお気楽なものではなくまともに実務をやらされる、とある。
最後の半年は3つの職務の中から1つを選び、振り返って論文にする、という課程。
大学生を増やすなら、社会が求めるものに形を変えなければいけないということだ。

日本でも、大学進学率は50%を超えている。
大学論でいうところの、大衆化が起こって久しい。
本当なら、ドイツのような対策を文科省が考えないといけなかったのだ。
遅まきながら、最近やっと大学の種類が増えて、専門職業大学というのを作った。
しかし、見ていると従来の大学からの転換というよりは、今までの専門学校が大学化するという状況だ。
これでは何にもならない。
90年代から、新設大学数が増加し、進学率の上昇を支えた。
それ自体は悪くないと思うが、今や問題が出てきている。

スイスのビジネススクールIMD(経営開発国際研究所)が公表する国際競争力ランキングを決める一項目「大学教育」で、日本は2017年調査対象の63カ国中の51位だった。
これは、各国のビジネスマンに自国の大学教育についてのアンケートをして、結果を順位化したものだという。
要は、国際競争力の観点からは、大学教育に対して、経営層からの評価が低いということになる。
今の経営者は、大学教育を受けてきた人たちが「使えない」と感じている。

低成長が続いて、どんどん会社は余裕がなくなり、即戦力が必要になっている。
さらに、グローバルに展開している企業は、海外の大学生も採っているから、比較もできるようになったのだろう。
ぼくらが就職した時代とは違う時代になった。

ぼくが学校法人で仕事をしていて感じることは、今の文系メインの中位以下の大学が、社会とミスマッチを起こしているということだ。
学部の名前は変わっても、教えているのは旧態依然とした昔の大学教育をベースにしている。
教授陣は「学問」や「真理」といった高邁な思想を持っている(これも怪しいけど)が、来ているのは実学が必要な学生たち。

とにかく、資格が取れる、という学部の宣伝。専門学校と同じだ。
実習はほとんどなく、ゼミも下位の大学ではほぼ機能していない。
4年制の大学でありながら、単位は3年間で取れてしまう。
最後の1年は就活をする。

さらに、大学入試を簡単にして、志願者を取りに行く。
科目は減り、それが高校教育にも影を落としている。
実質的に推薦やAOで早く合格者を集める。
下位の大学では、一般入試を受けて入るのは半数もいない。

たしかに大学をビジネスと見たら、そういうやり方はアリだろう。
でも、税金が投入されているのだから、もっと真面目にやらないといけないと思う。

さらに、文科省とべったりだ。
小学校、中学校の知識すら危うい学生が来ているのに、義務教育の批判をしない。
たしかに大学が真面目にやっていないというところはあるし、それらの学校の先生を養成しているのは自分たちだから言いにくい面もあるだろう。

それでも、大学がもっと義務教育をちゃんとやれ、と言わないといけない。

それが税金を投入されて、教育に携わる人たちの義務だ。

実際いろんな識者がそういうことを言っている。

精神科医の和田秀樹氏の言葉。
「現場経験のない理論派が幅を利かせる日本の事情」として、
「私は長らく精神分析を学んでいるが、3年弱アメリカに留学し 、その後も3カ月に一度、アメリカの尊敬する先生のもとに学びに行っている。
 そのときに痛感したのは、アメリカでは精神分析は患者から高い治療費をいただく客商売なので、患者さんのニーズや社会の背景、悩みの変化などに応じて、理論や臨床テクニックがフレキシブルに変わっていくということだ。一応、創始者なのでフロイトの原著には当たるが、その理論に囚われるより、どのように応用・発展させるかのほうが重視される。
 しかし、日本では、精神分析の学会のある学会ボスが留学経験もなければ、英文の論文もゼロ(私でさえ、査読を受けた英文の論文は3本あるのだが、実は日本人の現役の学者では、英文の論文がアクセプトされているのは、私の知る限り、2〜3人しかいない)という特殊事情もあって、私見では、およそアメリカでは通用しないような古典理論が幅を利かせ、学会に行くと、それに反するようなことを言うと「長老」の学者から非難される。」

G型大学、L型大学と言った冨山和彦氏の言葉。
「要するに、日本の高等教育がエリート教育機関になれないのは、教員のレベルが低いからとしか言いようがない。」
「アカデミズムから私への反論で、『すぐに役立つ技能はすぐ役に立たなくなる』というのがあります。しかし具体例は聞いたことがありません。簿記会計は、企業の活動を計量的に記述するビジネス世界の基礎言語であり、これなしに企業活動や経営について考えることはできません。その基本構造は数百年にわたって変わっておらず、すぐに役立ち、これからも長く役立つことは間違いありません。実学的な基礎技能こそが、教養中の教養なのです。大学でこのシフトが進まないのは、実務訓練を見下しているからです。おかしなプライドが、役に立たない学生の大量放出をもたらしている。現実を知ろうとしないアカデミズムの人たちこそ、『常識に欠ける』と言いたい。いま法曹、公務員、会計士などを目指す学生の多くが大学と並行して、専門予備校に通っている現実こそ恥じるべきです」

どうして、大学の中から、そういう批判が出てこないのか。
いまだに不思議に思う。


| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
若者不足
5月の完全失業率で島根県が全国で一番低くなった。
島根県といえば、人口減少が問題になっている県だ。
そこが、失業率が低いというのは、やはり若者不足。

特に介護需要が高く、それが不足しているらしい。
子育て世代の女性の労働力率は85.3%で全国最低。
要は、働ける人は働いているということだ。

生産性の低さも、失業率の低下に寄与しているとのこと。
もっと都市に集中して住まないと、手間がかかって効率が悪くなる。
それが余計に人手不足に拍車をかける。
地方の悩みだろう。

でも、この悩みはいずれ全国に広がっていく。
今の地方の悩みはいずれ都市部にも来るだろう。

政府は、働ける間は働こうというふうにしようとしている。
年金の問題や働き手の問題があって、そうするのはいいことだと思う。
今の雇用が流動化していない状況は変えないといけないが…。

抜本的な対策は、若い人を裕福にして、家庭が持てるようにすることだ。
今のように、社会保障の負担で貧困化して、未来に希望が持てないようなら、ジリ貧。
それどころか、今の状態が続けばドカ貧になる。

ドカ貧になって、一番気の毒なのは若い人たちだ。

そう思って年寄りが頑張らないと…。

| | 考えたこと | 21:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
体育会の価値
外資系の企業では、日本の「体育会系」というのには全く興味を示さないとのこと。
そのことが、日本の生産性が海外に比べて低いということに関係があるのかもしれないと思う。

日本では「体育会系」というのは、ストレス耐性が強いとか、上の言うことは絶対聞く、というような価値を見出されている。
体育会系を標榜している会社もあって、そういう会社は上から下まで体育会系だったりする。

よく言われるのが、体育会系の人が30代で頭打ちになるという話。
上のいうことを聞いていられる間はよかったが、ある程度の裁量を与えられて、自分で決めるとなった時に、壁にぶち当たるということだ。

ありがちなのは、前例踏襲というやり方。
自分で考えない癖がついていると、そうなってしまう。
世の中は低成長に変わっているし、ITも進み、仕事のやり方も変わってきている。
というか、いつまでも高度成長時代を夢見て、きっとまたそういう時代が来るなどと思っていると、時代遅れになる。
そういう人がどうしても多くなるのが、体育会系を多用する会社。

体育会系の会社は上から下まで体育会系だから、30代で壁にぶち当たって、前例踏襲でやっていても、下から文句は出ない。
下の人も、上から言われたら絶対だからだ。
必然的に、生産性は低くなる。
もっといいやり方に変えたほうが良くても、変えないからだ。
世の中は進み、もっといいやり方がたくさんあるはず。

日大のアメフト部の問題がいい機会だ。
これを契機に、体育会系の「考えない」体質を変えていく必要がある、と一部のメディアで言っている。
それはとても大事なことだ。
ここでも、アメリカのやり方がお手本になっている。

だいたい、大学で体育会系の部活動をする学生は、中高でもやっている。
13歳から22歳までのほぼ10年間、体育会系の考えを叩き込まれる。
だからこそ、そこに価値を見出して採用をする会社が出てくるのだ。
したがって、変えるのなら、中高からになる。
ブラック部活を許している考え方そのものが、もう古いのだと思う。

体育会系の学生、みんながみんなそんな考え方ではないだろう。
それでも、会社の多くは「だまって上のいうことを聞く」というところに「体育会系」の価値を見出しているのは事実。

高度成長が終わった今、もうそれは通用しないと思う。



| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
aikoのCD
aikoのCDは、2000年当時140万枚売れていた。
セカンドアルバムだ。

それが今年の最新アルバムは5万枚しか売れない。
人気がそんなに落ちたわけではないだろう。
どちらかというと、ファンの数は増えていると思う。
CDを売る、という商売が傾いているのだ。

今は音楽はパソコンで聞いたり、携帯プレーヤー、スマートフォンなどで聞く時代。
ずっと書いてきたように、音楽はデーターになった。
データーになったということは、音楽は所有するものではなく、消費するものになったということだ。

AKB48はいろんな特典がつくから、今でも100万枚売れる。
握手ができたりするからだろう。
ユーミンでも最近のアルバムは、ベストを除けば10万枚程度。
もちろん、昔は100万枚以上売れていた。

しかし、今年デビュー20週年のaikoでさえ、CDを出しても5万枚とは思わなかった。
aikoはGoogle Play Musicなどのストリーミングでは聞くことができるようだ。
でも、AmazonのMP3ショップではほとんど扱っていない。

ミュージシャンも大変な時代になった。
CDが売れなさすぎだ。
これだけCDが売れなくなったから、逆にストリーミングのビジネスがおいしくなったということらしい。
音楽が大衆化し、今まではCDをたくさん買う人が相手だったが、これからは特定のミュージシャンというより、音楽ファンを増やすという戦略に変わったということだ。
まさに、薄利多売の時代。

コンピューターやブロードバンドというインフラが整備され、誰もがパソコンやスマホで音楽を楽しめるようになった。
どちらが先かは難しいところだが、結果的にはそれがストリーミングという新しい音楽の楽しみ方を可能にしたのだ。

作る方を考えても、昔のレコーディングレベルの機材は安く手に入るようになったし、曲作りもコンピューターで簡単にできるようになった。
音楽を作るコストも、聴くコストも安くなったのだ。

ミュージシャンというのも、水商売だから、大変だろうと思う。
いつ飽きられて、売れなくなるかはわからない。
作詞作曲もやっていれば、その道で生き残る手もある。
プロデューサーになるというのも一つだ。
自分のキャリアを考えて、ライフプランを考えておかないといけない。

昔の演歌歌手のように、ミリオンセラー1曲で一生食える、という時代ではなくなった。

何となく夢がない話だ。



| | 考えたこと | 08:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
最近の結婚式
長男が土曜日に結婚式に出るために、金曜から帰ってきていた。
司会をするというのだが、そんなにややこしくないという。
聞くと披露宴ではなく、1.5次会だという。
それは、どういうことかと聞くと、結婚式は別に親族でやって、友人たちとパーティを開くということだ。
そのパーティの司会だから、そんなに気を使わないで済む。

最近の結婚式では仲人は立てないことが多い。
長男は「仲人」という言葉の意味を知らなかったくらいだ。
親と親戚だけで結婚式をやって、披露宴は会費制で友だちを集めてやる。
お祝いも持っていかなかった。
形式的なことが多い結婚披露宴にお金をかけるのは、もったいないということだ。

5年ほど前に、学校法人で結婚式に呼ばれたときは、料理屋で披露宴だった。
でも、仲人はいなかった。
その前、2003年に会社で呼ばれたときも、ホテルで披露宴はやったが、仲人はいなかったなあ。
ネットによると、今は仲人を立てるほうが珍しいということだ。
仲人とはそもそも何をする人か?ということを説明しているサイトもあった。

まあ、もともと仲人などというものは、あまり意味がない。
慣習的にやっていたものが、なくなった。
ぼくらも、みんながやるから、仲人を頼んだという感じだった。
あれから35年ほど経つ。
こういうふうにして、変わっていくんだろう。

会費制ではあるが、お土産をもらって帰ってきた。

そういうパーティも楽しいだろうと思う。
ややこしい年寄りはいない。
ちょっとフォーマルな格好で、若い人たちが集まる。

そういう文化になってきた。

ちょっと寂しいが、いいことだと思う。


| | 考えたこと | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
さよならアビー・シュート
NCISというドラマをずっと見ている。
海兵隊の犯罪捜査のチームのドラマだ。

もうシーズン15だが、最初からのメンバーは、ボスのギブスと科学捜査担当のアビー、検死医のダッキーの3人だけになった。
トニー・ディノッゾという名物メンバーが去った時はがっかりしたが、今回は大ファンのアビーが去った。

ドラマのメンバーで一番個性的。
ゴシックファッションで、蜘蛛の巣のタトゥーも入れている。
コンピューターでの顔認証、指紋認証、犯罪現場のシュミレーション、質量分析、DNA解析、何でもできる。
小さな証拠も見逃さない。コンピューターおたくだ。
一度ここにも書いたことがある。
Jiffyという言葉を教えてくれた。
カフ・パウというカフェイン?の入った飲み物を愛飲している。

ドラマが進むにつれて、弟が出てきたり、生い立ちがわかったりする。
役者が、ドラマの中で独立して演じ始めるのだ。
きっと最初に脚本家が書いたのとは違うキャラクターになっている。
そういう感覚は、何シーズンか続けないと出てこない。

さすが10年ほどやっているドラマだと思う。

次の科学捜査官はどうするんだろう。
あんなに優秀な捜査官はいるんだろうか…、などと心配しても仕方ない。

今シーズンはどういう終わり方をするんだろうか。


| | 考えたこと | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
馬齢
2010年に一度このことで記事を書いていた。
その時は、「馬齢を重ねる」の意味のことだったが、今回はどうして馬かということが気になった。
動物にはいろいろいるのに、なぜ馬の年をとったというと、無駄に年をとったということになるのだろう。

犬や馬は家畜として人間の役に立ってきた。
特に馬は昔は本当に役に立つ、身近な家畜だったと思う。
身近なだけに、自分を謙遜するときに「犬馬」というふうに言われたらしい。

だから、自らの年齢を貶めて言うときに「犬馬の年」といった。
「犬馬の年」は今まで聞いたことはないが、そこから「馬齢」という言葉になったと思われる。

「馬齢を重ねる」とは、年の割には成長してない、ということだ。
還暦を迎えると、とみにそう思う。
現役でやっていた頃と比べて、どう考えても今は大したことはやってないような気がするのだ。
日本の男性の場合、晩年になればなるほど仕事もなくなり、馬齢を重ねるという感覚が大きくなるのだろう。
だから、街にも不機嫌なオジサンが多いのだと思う。
別に馬に悪気はないのだが…。

そういえば、馬の耳に念仏とか馬耳東風というのもある。
これもあまりいい意味ではない。
馬が身近な家畜だったからこそ、馬が出てくるのだろう。

今は馬はあまり身近ではない。
どちらかというと、犬や猫だ。

「犬も歩けば棒に当たる」とか、「猫の手も借りたい」とか、犬や猫もことわざに出てくるが、あまりいい意味で使われているのは思い当たらない。

最近のように、愛玩動物としての位置づけがなかったからだろう。

いや、そういえば「犬は3日飼えば3年恩を忘れない」というのもネットに出ていた。
あまりメジャーではないが、これくらいしかいい意味のものは、見つからない。

昔は今の「ペット」などというものはいなかったということだろう。
近所の犬猫病院は毎日たくさんの患者が来ている。
もちろん、犬が「ちょっと調子悪い」などというわけはないから、人間が体調を推し量って連れてきている。
予防注射なども昔と違って、至れり尽くせりだ。

まさに、「コンパニオン・アニマル」という感じ。
そうなると、ことわざもそのうち変わっていくのだろう。

いつか、「負うた子に教えられる」が「飼うた猫に教えられる」になっているかも…。

| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
A man at the height
フランスの映画というと、昔はよくやっていた。
ジャン・ギャバンが出ていたギャングものや、アラン・ドロン、ジャン=ポール・ベルモンドなどが当時のスターだった。
何となく暗い雰囲気のある、いかにもフランス映画、という感じだった。

でも最近はアメリカ映画に近づいたと思う。
スジの運びや絵がハリウッドだ。

こないだ、A man at the heightというフランス映画をWOWOWでやっていた。
去年公開された作品。
原題はフランス語(Un homme à la hauteur)だったが、それを英語に訳したらこうなる。
「その背丈の男」という感じか。

金髪の女性弁護士が離婚し、もう一度恋愛するというストーリー。
スマホを置き忘れて、固定電話に拾った男から電話がかかってきて、付き合い始めるのだが、その男が身長140センチ足らずだったという話。

設定、スジの運び、絵の作りなど、どれを取ってもハリウッドだ。
あれを見ていると、マルセイユがカリフォルニアにあるのかと思ってしまう。
出てくる車はフランス車が多いが…。

もちろん、面白い映画なのだが、なんだか寂しい気もする。
ハッピーエンドで予定調和。

女優(ヴィルジニー・エフィラ)はきれいだ。
コメディアンだった男優(ジャン・デュジャルダン)もうまい。

せっかくフランスで作るのだから、もうちょっとひねってほしいと思うのは自分勝手か。
こういう映画なら興行的に儲かるのだろう。

いい映画だったが、ちょっと残念だった。


| | 映画・舞台 | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
過疎化
中学の頃、過疎過密という言葉を社会科でならった。
その後、過密という言葉は消えて、過疎という言葉が残っていると思う。

最近、朝のドラマの後BSでは「こころ旅」という番組をやっている。
火野正平が日本中を自転車で回るという番組。
この中で、視聴者が手紙で希望した、こころの風景を訪ねて行くというもの。
シンプルな番組だが、もう長いこと続いている。

今週は兵庫県を回っているのだが、回るのは北の方。
島根、鳥取と来て、兵庫の北の方を自転車で走っている。

どこの地方に行っても、だいたい田舎の方を回るのだが、出演者しか通らない道がいかに多いかにびっくりする。
一桁の国道でも、歩いている人や走っている車がほとんどいなかったりする。
そういう場面を選んでいるのかもしれないが、一昔前なら、全く何も通行していない道などあまり想像できない。
文字通り、人っ子一人いないのだ。

この番組を見て、想像以上に地方の過疎化が進んでいるということがわかった。
沖縄から北海道まで、地方では本当にその情景が当たり前なのだろう。

自転車だから、細い道も通る。
生活道路だと思われるところでも、人がいない。
手紙をくれる視聴者も、昔住んでいて、いまは都会にいる人が多い。
数十年前に田舎を出て、もう60歳を超えている。
もう帰らないだろう。

日本縦断して続いているこの番組。
これを見れば、本当に地方創生が必要だと思う。

というか、自治体の数を減らして、地方はどこかに人を集めるしかないという気がする。
いわゆるコンパクトシティーというやつだ。
そうしないと、インフラの維持も出来ないし、住めなくなってジリ貧になる。

日本のパターンは、ジリ貧を続けて、ドカ貧になる、というもの。
みんな、変えたくないと思っているのだが、それを続けていると、エライことになる。
それもわかっているのだが、自分たちがやり過ごせられればいい、と思うのだろう。
いや、それさえ考えてないのかもしれない。

このまま行ったら、2040年に自治体の数が半減するという話は、もっと早い時期に実現しそうだ。
だれもいない地方に、公務員だけが住み、都会からの税金で生きているという世界。

公務員は、そういう世界を思い描いているのかもしれない。

| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
70回目の桜桃忌
6月19日は太宰治の命日。桜桃忌だった。
覚えている年もあるし、忘れている年もある。
高校時代に太宰を読み始め、大学まで続いて、全集を買ってぷっつり読まなくなった。
何回かここにも書いた覚えがある。

太宰の小説はそれなりに面白いが、それらを読んだあとで読まれるのが書簡集だ。
賞が欲しいとか、金を貸してほしいとか、その手の手紙はたくさん残っている。
今年は没後70年だそうだが、周りの人たちは迷惑をかけられた人も多かったのだと思う。

桜桃忌にはファンが未だに訪れるらしい。
新聞には20代の人の話も出ていた。

津軽の金持ちの息子で、東京に出てきて、小説家になった。
でも、自殺未遂をしたり、薬物中毒になったりして、困った人だったろう。
周りをふりまわして、結局入水自殺をした。

昨日の夜中のラジオ文芸館は、桜桃忌もあってか、太宰の「姥捨」をやっていた。
これなどは、自身の女性との心中事件をもとに書いた小説。
今なら、批判が噴出するのではないか。
自分がこの年になってしまうと、こんな小説は読む気にならない。
まあ、まだ小説仕立てにしているだけ、マシな気はするのだが…。

当時、新潮社から出ていた太宰の本はほとんど読んだはず。
「走れメロス」や「斜陽」のような小説は、まだ覚えているが、数多い短編はほぼ忘れた。
よく考えたら、当時読んだ小説など、ほとんど覚えていないのだ。
かろうじて、日に焼けて茶色くなった文庫本が残っている程度。
SF小説のほうが、覚えているくらい。

それでも、太宰には、どこか人を惹きつける魅力があるんだろう。

没後60年の時にも書いていた。
それを読むと、今の自分とはだいぶ距離がある。

当たり前だが、10年前は若かったのだと思う。

そういうふうに思い出される作家なんだろう。

没後80年になったら、また感想が書けるのだろうか…。
| | 考えたこと | 14:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
地震
今朝の地震は大きかった。
上下動、左右の揺れがだいぶ続いたと思ったが、30秒程度だったらしい。
改めて、揺れたら何もできないということがよくわかった。

阪神大震災の時は早朝で寝ていた。
もちろんビックリして目が覚めたが、動く間もなく本棚が倒れてきて動けなかった。
でも、寝ぼけていたから、今日ほど怖いという感覚はなかったなあ。

もちろん、あの時より揺れは小さかったが、今朝はいつもの地震ではなかった。
すごい音と振動だった。
うちは棚からものが落ちた程度で済んだ。
すぐに外に出てみたが、近所はどこもそんなに大きな被害はなさそうだった。

テレビを見ていると、壁が崩れたり、火事が起こったりしていた。
小学校の登校の見守りに行く途中、地震による事故にあって亡くなった人もいる。
茨木、高槻あたりがひどかったようだ。

災難は忘れた頃にやってくるというのは、来てしまってから思うもの。
こんな時は、本当に無常を思う。
大震災のときもそうだったが、ほんとに形あるものはいずれ壊れるということだ。

方丈記の書き出しを思い出した。

行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を経てつきせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。
住む人もこれにおなじ。
所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
あしたに死し、ゆふべに生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける…

ぼくらの人生も、天変地異の前では、水の泡みたいなものなのかもしれない。



| | 考えたこと | 00:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
テレビ取材記者
最近の記者会見はちょっと記者のレベルが低いと思う。
日大の記者を見ていてそう思った。
聞きたいことはわかるのだが、あまりにも直接的で、またみんな同じことを聞く。

どうしてそうなるのかというと、ワイドショーのクルーが来ていて、自分の番組用に絵を録りたいからだという。
だから、自分の番組のために、同じ質問でも何度もする。
もう答えはわかっていても、同じ質問をするのだ。

何だか低レベルの話だと思う。
別に自分たちが質問していなくても、誰かが聞いた答えを録っておけば済む話。
自分たちの番組のレポーターが聞いた絵でないといけないと思っているのか…。

ぼくはその手の場面を殆ど見ないが、たまに見ると聞いていられない。
まるで記者たちは自分たちが偉いと思っているようだ。
実際、記者会見をショーみたいに考えているのではないか。

いつからか、謝罪会見のインタビューの記者は、出来の悪い刑事や検事のようになった。
たしかに、記者会見をする本人は謝罪するようなことをしたかもしれないが、それを正義の味方のような顔をして責める権利はないはず。

時代とともに、ワイドショーが扱うものが広がってきた。
昔は芸能人の話題ばかりだったが、どんどん扱うものが社会や政治に関わるものに広がった。
ネットによると、個人情報保護法の影響もあるらしい。
個人への取材がやりにくくなったからだろう。
文字通り、ワイドになって、時間も拡大された。

予算がなくなったのが大きいと思う。
最近のワイドショーは新聞や週刊誌の話題を拾って、レギュラーの芸人たちがワチャワチャ言うというパターンだから、金はかからなくなっている。
あれなら、過去の番組の再放送をやったほうがマシだと思うが…。

というわけで、記者は視聴者の気を引くためにセンセーショナルになる。
だからといって、自分がエラくなるわけではない。
勘違いをした記者ばかりになる。

謝罪をするくらいだから、いいことはしていない。
日本は法治国家なのだから、ちゃんとその手順を踏んで裁かないといけない。

何とかならないのか…。

| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
オニロボ
オニロボというのはおにぎりを作るロボットのこと。
オニのロボットではない。

パナソニックがアメリカの展示会で出展したとのこと。
「米食文化を世界に広げ、コメの消費を増やす」という野望の下に作られた。
すでにニューヨークやサンフランシスコではおにぎりの店があるらしい。

寿司はだいぶ認知度が上がったが、意外とカロリーが高い。
ヘルシーさでは、おにぎりに軍配が上がる。
さらに、ファストフードとしてのおにぎりを広めようということだ。

ハンバーガーやサンドウィッチは西洋版のおにぎりだろう。
それの日本版ということだ。
日本食ブームにのって、ぜひ頑張ってほしいと思う。

そうなれば、日本のコメの輸出も増やせる。
コメは聖域などと言っている場合ではない。
それよって、日本のコメの需要を増やし、不要な補助金をなくして、農業を再生したらいいと思う。

日本の農家の平均年齢が66歳を超えるという。
若い人がやりたがらないのは、農業政策の影響だろう。
米の需要を国内消費のみに頼り、減反政策や補助金に長いこと頼ってきた反動だ。
作らなかったらお金をもらえるなどという制度に、未来は感じられない。

今年から生産調整には関与しない、という農水省の方針だが、ちょっと遅すぎた。
それでも、海外で日本のコメへの需要が高まれば、まだまだ日本の米作りのノウハウは生きる。
農業の法人化も進め、大規模にやるべきだと思う。
それこそが、食料安全保障につながる。
なんで農水省は余剰にたくさん作って、輸出するということを考えなかったのだろうか。

いつ頃だったろうか、余ったコメを置いておいて、古米とか古古米とか言っていた。
あんなの、もったいない話だ。
輸出したらよかったのだ。
それで、もし国内のコメが足りなくなったら、輸入したらよかったのだ。

製造業はそういうふうにして、やってきた。
工業製品に陰りが出てきた今、農業で稼がなくてはならない。

そのためにも、オニロボに頑張ってもらおう。

| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジェームズ・ボンド
ジェームズ・ボンドといえば、やっぱりショーン・コネリー。
彼が初代のボンド。
あのバタ臭さと、ちょいワルな感じがベストだ。

2番めはピアーズ・ブロスナンがやっぱりいい。
こないだ、BSで彼が主演のTomorrow Never Diesをやっていた。
ショーン・コネリーよりもちょっと知的な感じだが、ワルい感じはある。
こないだ亡くなったロジャー・ムーアは、イギリス人なのだが、ちょっとアメリカっぽい感じがするので、3番目かと思う。

ボンドはやっぱり遊び心がないとサマにならない。
さらに、イギリス紳士らしさも必要だ。
酒に詳しく、遊び人で、ユーモアがある。
今のダニエル・クレイグは路線を変えてストイックになったから、どうも好みに合わない。

しかし、ジェームズ・ボンドと言っても、007(ダブルオーセブン)と言っても、こないだ今の大学生にはほとんど通じなかった。
初代ボンドが映画になったのが1962年。
ぼくが小学校1年のとき。
初めてボンドを知ったのが、1965年のサンダーボール作戦だった。
小学校の3年。この頃は週間少年マガジンとかに特集で出ていた。

初めて映画館で見たのが、「ダイヤモンドは永遠に」だったと思う。
ショーン・コネリーが久しぶりに復帰した映画。

スパイ映画にとって、ベルリンの壁が崩れたことは大きな痛手だったと思う。
それもあって、最近はあまり作られなくなったのだろう。
昨日のピアーズ・ブロズナンの映画も97年の制作。
中国のエージェントがボンドと一緒に活躍する。
こんな設定はベルリンの壁崩壊以前はあり得なかった。

そんな状態で、最近は3年に1作くらいの感覚で作られている。
世界が平和になり、国と国との戦争がなくなった(地域紛争は続いているが)から、こういう状態になったのだろう。

スパイという仕事は今でもあるのだろうが、どちらかというとハッカーが担っているようだ。
サイバーの世界で活動したほうが、効率がいい。
そんな時代になった。

今の若い人たちは「スパイ」という言葉に、憧れとか、かっこいいとか、そんな気持ちはひっついていない。

会社の先輩は、007は男のロマンと言っていた。

時代の流れだろう。



| | 考えたこと | 00:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本人の宗教
アメリカのドラマで、牧師が亡くなり彼の教会で葬儀が行われるところを見た。
彼と仲が良かった若い信者が、彼のことを話し、バックでオルガンが演奏され、ゴスペルを聖歌隊の女性が歌い始めた。
明るい曲調の歌。
歌詞は天国に行くというようなものだ。
途中から葬儀の参列者も手拍子を打ち、みんなで歌い始めた。

有名な「聖者の行進」も、葬儀のときの歌だと聞いた。
つらい現世と別れ、楽しい天国に行くのだから、明るい歌なんだと聞いた覚えがある。
説教の途中で合いの手が聴衆から入ったり、なかにはオルガンではなくバンドがいる場合もある。

キリスト教はいろんな形になって、伝わっている。
主にアメリカ南部の黒人教会は、リズミカルで聴衆が一つになって歌うというようなもの。
ああいうのを見ると、宗教っていいなあと思う。
市民のコミュニティにもなっているし、毎週日曜日にやっているのだと思う。

日本人は、みんなで集まって説教を聞き、歌を歌ったりすると、うさんくさいという気持ちになる。
宗教を信じていないというか、警戒しているのだろう。
ぼくもそういう思いはある。

でも、アメリカの黒人教会を見ると、そうは思わない。
この年になると、ああいうのはいいなあと思える。

仏教の葬式はお金がかかるし、あまりありがたくない。
ぼくらは、普段ほとんど宗教活動をしていないし、お寺に縁がないのだから、仕方がない。
葬式の時だけ、お寺にお経をあげてもらうというのが大方の考え方だ。

こないだ会社の人と話をしたが、その人の妹さんがキリスト教に入信し、母親もキリスト教になったらしい。
本人は、父親の仏教を継ぐつもりらしいが、父親は一族の先祖代々の墓に入っており、ほとんどつきあいもない。
母親は妹の行っている教会の墓地とのこと。
息子たちは仕事の関係で二人とも東京に行っており、帰ってくるとも思えない。
だから、自分の墓はいっそのこと東京でマンション型の墓にしようか、と言っていた。

その時に、妹さんから聞いた話として、キリスト教にしたら戒名もないし、葬儀も安くつくと言っていた。
ぶっちゃけた話だが、さもありなんと思う。

でも、日本のキリスト教は残念ながらゴスペルは歌わない。

ぼくらは親の流れで仏教で墓に入るような気がするが、若い世代はどんどん離れていくだろう。
寺はどんどん庶民から離れていく。
まだ神社の方がマシだ。

日本の宗教はどうなっていくのだろう。


| | 考えたこと | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
メメント・モリ
「メメント・モリ」とはラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味。
これは日本でいう「無常」と似たような意味だが、ちょっと違うところが面白い。

「無常」はあらゆるものは変転し、常なるものはない、ということ。
その中の一つとして人間もいる。
死すべき存在としての人間だ。

それに対して、「メメント・モリ」は人間の死だけについての意味だ。
西洋では自然と人間は区別されている。
でも、こと人間に関しては同じような意味になる。
昔は「いずれ死ぬのだから、今を楽しめ」というような意味だったらしいが、キリスト教の時代に変化したらしい。
死を思えば、生きている間の考え方も変わるということだ。

一方、「無常」には「あきらめ」を感じる。
すべての人は死ぬのだから、それを受け入れるしかない、ということだ。
平家物語の「驕れる者は久しからず」、というような教訓的な意味もあるが、ぼくは「どう生きたって、いずれは死ぬのだから」というようなあきらめの感情が強いように思える。
だからどうやねん、という気持ちは残る。

「死」に関しては、メメント・モリの方が好ましい。
あきらめるより、積極的に「死を忘れるな」ということだ。
こういう厳しさは、無常観にはない。
キリスト教的な厳しさだろう。

キリスト教は、個人と神の関係のみだ。
プロテスタントは特にそういう関係だと思う。
先祖代々とかいうのは、全く出てこない。

メメント・モリ。

そうありたいと思う。

| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
サンドウィッチマン
日経エンタテイメントで毎年行われている「好きな芸人」調査で、14年連続で1位だった明石家さんまが首位から陥落して、サンドウィッチマンが1位になったとのこと。

サンドウィッチマンは次男から教えてもらって、Youtubeでたくさんの漫才やコントを聞いたが、本当に面白い。
東北が本拠地で、震災復興にも力を入れているという。
東北魂というTV番組もやっており、それもYoutubeで見られる。

明石家さんまはひょうきん族をやって、面白くなくなった。
笑いは取るのだが、完全に楽屋落ちばかり。
知っている人は面白いが、知らない人が初めて見ても笑えないという芸になった。

それ以降、あまり見なくなった。

彼の強みは、テレビ視聴者のほとんどを身内にしたことだろう。
何度か書いたが、楽屋落ちというのは、身内だけにうけて、観客にはわからない笑いのこと。
彼の番組を見るが、芸能人がたくさん出てきていじる番組ばかり。
出演している芸能人たちは自分の役割を知って、それでいじられる。
面白いのだが、どうしても作為が見える。
それが下品なのだ。
それでも、TVを見ている人は、みんなが身内みたいなものだから、受ける。

それもついに飽きられた。
サンドウィッチマンの笑いは、ほんまものだからだ。
あれはホンモノだ。

ようやくテレビを見る人が減って、サンドウィッチマンが1位になったのだと思う。

めでたいことだ。


| | 考えたこと | 20:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
フィンランド症候群
人質事件の時にストックホルム症候群というのをよく聞く。
長い時間一緒にいると、犯人に同情してしまうというようなことだった。
よく似た言葉が、フィンランド症候群。
こないだ初めて聞いた。

フィンランドでは、こんな実験をしたらしい。
ほぼ同じ生活をしている40代の男性を2グループに分け、片方には飲酒も禁煙も好きなようにさせて、もう片方には禁煙と運動を義務付け、少しでも異常値があれば薬を処方する。
それぞれの15年後を比較すると、病死も自殺も発病も後者の方が多かったという結果。
どうもマユツバだという意見もある。

結局は好きなようにしたほうが、病気にならないし、気持ち的にもいいということが言いたかったのだろう。
運動嫌いでタバコ好きには心強い結果だ。
さすがに、飲酒は禁じなかったというのが、ヨーロッパらしい。

最近は、夕食の時に飲むことが多い。
缶ビール半分くらいで止めておけばいいのだが、ついでにワインを飲んだりすると眠くなる。
眠くなったら無理せず寝る。

このところ、全51巻の時代小説を読んでいる。
3ヶ月くらいかけて、40巻まで来た。
30巻目くらいで中だるみだったのだが、そこからまた面白くなった。
連休明けから10巻ほど進んだ。
一度寝てから起きて、その本を読んでいるときが、一番楽しい。

フィンランド症候群の結果によると、そういう状態が多いのがいいのだろう。
ストレスがなく、心が解放されている状態。

仕事のストレスはある程度は仕方がないとしても、日常生活はのんびりやりたい。
若い人たちの事を考えると、そうも言っていられないが…。

もう今年も6月。
半分過ぎた。
こないだ正月だと思っていたら、もう6月だ。

真実だろうが、マユツバだろうが、信じれば勝ちだ。


| | 考えたこと | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
70年代のポップス
70年代のクラシックというタイトルがYoutubeにあった。
クリックしてみると、70年代のポップス。
YouTubeには何でもある。

カーペンターズのトップ・オブ・ザ・ワールド。
懐かしいカレンの歌はやっぱり最高だ。
ビージーズのHow deep is your love。
あのコーラスは素晴らしい。
Eaglesのホテル・カリフォルニア。
2台のリードギターの掛け合いが泣かせる。
EW&Fのセプテンバー。
リズムギターがかっこいい。
ニルソンのWithout you。
サビのCan't liveのせり上がりがいい。
ロバータ・フラックのKilling me softly。
歌の終わりでメジャーコードになるところが印象的。
バリー・ホワイトのYou’re The First, The Last, My Everything。
アリーマイラブの出演者が総出でステージの上で踊っていた。
バリー・マニロウのI write the songs。
歌詞がよかったなあ。

70年代は、ぼくのティーンエイジャーの頃。
あの頃は洋楽がまだまだ一般的だった。
英語の歌詞を覚えて口ずさんだメロディーは忘れない。
中学の頃は、レコードを買わないと、歌詞がわからなかった。
高校になると、簡単な歌詞ならわかるようになった。
いい加減な邦題の歌も多かった。

70年代、アメリカはベトナム戦争をしていたが、やっぱり憧れだった。
マーチンのギターが70万円ということにビックリした時代。
フェンダーやギブソンも高嶺の花だった。

英語の歌が普通にラジオから流れていた。

やっぱりこの頃の音楽が一番好きだ。

| | 考えたこと | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
辞めるという選択肢
働き方改革ということで、政府がいろいろと手を打っているが、一つ手を付けていないところがある。
それが、正社員の労働市場の流動化だ。

どうして東大卒の女性が、電通でクリスマスに夜中まで働いて、自殺をするのか、海外では理解されないという。
なぜかというと、そんな職場なら辞めたらいいということだからだ。
そこが日本と決定的に違う。
日本では電通は辞められない。
辞めたら次に働くところがないからだ。

厳密にいえば、働くところはある。
しかし、そう簡単に辞められない。
電通にいて、ここを我慢すれば、きっといい仕事ができるとか、給料が上がるとか思えるからだ。
そういう労働市場の構造になっている。

終身雇用、年功序列という制度がまだまだ生きている。
解雇規制も強く、いったん雇ったらなかなかクビにはできない。
その代り、途中でやめたら次の仕事はなかなか見つからない。

高度成長時代にはそれでもよかった。
どんどん会社は大きくなり、業績も上がったからだ。

でも、今ではもう成長はそう簡単にできない。
だから、非正規社員が増えている。
労働市場のバッファとして非正規という働き方が増えた。
今や4割を超えているという。

高度プロフェッショナル制度を導入するのと同時に、解雇規制の緩和もしないといけないと思う。
人生が伸びて働かなくてはならない時間も増えてきた。
長く働くためには、労働市場を流動化しないといけない。
どんどん職場を変わるというような働き方を、模索していかないといけないのだ。

過労死をなくす方法は、そんな会社なら辞める、と言えることだ。
そして、もっといい条件の会社に変わること。

つまり、「辞めるという選択肢」を労働者が持つことだと思う。

いくら残業時間を規制しても、辞めることが簡単にできるようにならないと、過労死はなくならないと思う。

そんなことは、組合もわかっているはずだ。



| | 考えたこと | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
不機嫌なオジサン
最近、人混みで不機嫌な人が多い。
昨日も踏切を渡るときに、自転車に乗った若い女性と接触しそうになったオジサンが露骨に不機嫌な顔をしていた。
口が動いていたから、文句を言っていたのだろう。
オジサンはどう見ても定年後、女性は子育て中という感じだった。

大阪の雑踏でも、不機嫌なオジサンが多い。
大阪駅の夕方はすごい人混みなのだが、そこを歩いている人を見ても、見るからにサラリーマンという人たちはそうでもない。
その時間、そこに居合わせたというような感じのオジサンはやっぱり不機嫌そうな顔をしている人が多い。
仲間と一緒なら、そうでもないのだが、一人でいるとそんな感じだ。

ぼくはたいがいその時間は帰り道なので、一人で歩いている。
歩くのが遅い人がいると、抜かしたい気持ちになるが、あまりにも混んでいると抜くに抜けず、ゆっくり歩く。
早くいかないと、電車に間に合わないと思うのだが、仕方がない。
たいがいイヤホンで何か聴いているから、気は紛れる。
そういう心の余裕があれば、不機嫌にならずに済む。

男性は会社を離れると、孤独になりやすい。
孤独が好きなら、まだいい。
話好きの人は、困るだろう。
会社で同僚と話をしていたのが、辞めると話し相手がなくなる。
話題も会社の関係の話題だったりすると、誰でも話せるというわけでもない。
そういうのが鬱積して、不機嫌になるのだろう。
その気持ちはわかる。

ずっと会社で頑張ってきて、地域とのつながりもないと余計にそうなる。
それでも、今なら65歳くらい。
まだまだ元気だ。

会社で培ったスキルを活かせる場所があれば、継続して働くことができるのだが、会社人間であるばあるほど、自分の会社以外に働き場所を見つける気にならない。
そんなこんなで、街に不機嫌なオジサンが増えてくる。

オジサンたちは高度成長期の雇用体制の犠牲者なのだろう。
70年代にエコノミックアニマルと言われ、転勤は絶対だったし、バブルで浮かれ、バブルが崩壊してからはITの波に追われ、気がついたら定年。
もちろん、給料も上がったし、ポストもそれなりに処遇された。
それでも、私生活はあんまり考えてこなかったのだろう。
そのツケが今来ている。

これからどんどん不機嫌なオジサンは増えていく。
オバサンも増えるかもしれない。
そういうぼくも予備軍だ。

これを解決するビジネスを考えたら、儲かると思う。



| | 考えたこと | 20:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
タレ目のサングラス
引き出しの中にあった、タレ目のサングラスはもう要らないのではないかと言われた。
たしかに、もうあのデザインのサングラスをしている人はいない。

覚えているのは「太陽にほえろ!」や「西部警察」が流行っていた頃、石原裕次郎や渡哲也、新しいところでは舘ひろしなどが、タレ目のサングラスをかけていた。
1970年代から80年代だ。
今のものの1.5倍ほどの面積がある。

色は、黒や緑のものが多くて、あの頃はレイバンがブランドだった。
前にも書いたことがあると思ったら、2006年、2010年、2013年と3回書いていた。
まあ、それだけ思い入れがあるということだ。

あの頃、ハリウッドの映画でもタレ目のサングラスだったと思う。
トップ・ガンのトム・クルーズはかっこよかった。
70年代から80年代はタレ目の時代だった。

今となってはサングラスが大きすぎて、バランスが悪いようにも思える。

レイバンは、きっとまだどこかにあるはず。
引き出しの中にあったのは、ポルシェデザインのサングラス。
オーストラリアに出張に行った時、バンコクの空港の免税店で買ったもの。
あれは1985年だった。

帰ってきて、車に乗るときに使っていた。
それも、十数年前からお役御免になった。

33年も経てば、デザインも流行も変わる。
最近は夏になっても、大学生でサングラスをかけている人を見ない。
もう流行らなくなったのだろう。

1960年代には、サングラスというと悪者というイメージがあった。
でも、70年代から80年代にかけて、普通の人のファッションになったと思う。

そういえば、吉田拓郎も一時はタレ目のサングラスだった。

もう流行らないが、そういうものはなかなか捨てられない。




| | 考えたこと | 21:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
神戸市教育委員会の隠蔽
神戸市で中学3年生のいじめによる自殺があった。
例によって、教育委員会が対応したのだが、自殺の直後に教員が作成したメモを、校長に隠蔽するように指示をしていたという。

産経新聞に「市教委や学校がいじめ情報を軽視し、責任を回避するような対応が実態解明を阻む事例は少なくない」と書いてある。
何度か、的外れの会見をするところや、どう考えてもおかしいやろ、という記者会見は見てきた。
今回は自殺から5ヶ月経って、遺族の求めに応じてメモを渡すことをためらったらしい。

なんで学校というところはこんな馬鹿なことをするんだろう。
思考停止して、世の中からはぐれていっているとしか思えない。
気がついたら、同じことを書くのは3回目。
日大と同じことだ。
これはもっと問題にしないといけない。

前にも書いたが、ハインリッヒの法則というのがある。
「重大事故の陰に29倍の軽度事故と、300倍のニアミスが存在する」というもの。
つまりこんな不祥事が何度もある、ということはその数百倍、数千倍の根っこは同じようなことが起こっているということだ。

どうしてこんな学校や教育委員会をほっておくのだろうか。
学校や教育委員会が、センセイだけで運営されているのが間違っているのだ。

別のところで、センセイほどつぶしの効かない職業はない、と書いてあった。
なるほど、そうかもしれない。
だからこそ、流動性をあげて普通の社会人を入れていくべきだという記事だったと思う。

本当にそういうことが必要なのだ。
犠牲になっているのは、子どもたちだ。
だから、なかなか声が上がらない。
先生は生徒より絶対的に強い。
だからこそ、自殺が増えているのだと思う。

いくら教育界で話をしていても解決しない。
所詮はセンセイの集まりなのだ。

首長や許育会以外の人たちが取り組まないと、無理だろう。

一部にはまともな人もいるのだろうが、これだけ同じようなことが起こるということは、まともな人が非常に少ないということだとしか思えない。

本当になんとかしないと。



| | 考えたこと | 20:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユーミンが死語
今日、大学生と話をしていたら、ユーミンが通じない。
ぼくが、好きなものを紙に書いていたら、質問があった。
「そのユーミンというのは、何のことですか?」

ユーミンは略称だから、松任谷由実のことや、と答えたらそれもわからない。
有名な歌手、というと、どんな歌を歌っているのかと聞く。
朝ドラの主題歌だった「春よ来い」の一節を口ずさんだが、全くわからない。
ついにユーミンが死語になった。

今20歳だから、物心ついてから十数年経つ。
ここ十数年のユーミンの歌で、流行ったものはなかったか。
そもそも、流行歌というものもなくなったのか。

まあ、もう還暦を過ぎた歌手など、20歳が知らないで当たり前か。

ぼくが20歳の頃の還暦過ぎの人というと、明治か大正生まれだ。
たしかに、知らない。
有名人データーベースというページで1910年代生まれの人達をみても、全くピンとこなかった。

自分に置き換えてみて、なるほどと思った。
そんな古い人は知らないのだ。
そういえば、ぼくらは昭和生まれで、学生は平成生まれだ。
もう平成になって30年。

ユーミンが死語というのに驚いていてはイケナイ。
それが当たり前なのだ。

ぼくらはもうオジンなのだ。

| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
困った先生たち
ぼくの知っている限りの、困った大学のセンセイに関することを書いておく。
私立文系のセンセイだ。

25年間民間の技術系で働いて、学校法人に転職して大学教授を見てビックリしたことは、いろいろある。
もちろん、センセイもピンキリだろうし、ぼくのいた大学は下位の文系単科大学であることを断っておく。

まず驚いたのは、形式的な教授会。
資料がたくさんあり、討議していくのだが、形式を踏まないといけない。
それは大事だとは思うが、何十人かのメンバーで話す人は限られている。
また、手ぶらで来る人が多い。
だれも教授会を大事だと思っていないからだろう。
ノートくらい持ってこいよと、誰でも思う。

出張しても、まともな報告書を書かない。
国内であろうが、海外であろうが、書かない。
A4で1枚。
自分の出張旅費はいったいどこから出ていると思っているのだろう。
組織で共有しようとは思わないのだろうか。
中には何を書いてあるのかわからないものもあった。
完全に給料泥棒だと思った。

学生の面倒を見ない。
中には見る人もいたが、たいがいのセンセイは学生の面倒を見なかった。
ひどいやつは、在室時に研究室のドアに鍵をかけていた。
学校ではオフィスアワーというのを設定していて、その時間は自由に学生が来てもいいことになっていたが、その説明書類に「メールや電話で予約すること」などと平気で書く。
私立大学は収入のほとんどを学生の納付金に頼っている。
ということは自分たちの給料は学生が出してくれているということだ。
そう考えたら、面倒を見ると思うのだが…。

定形の書類が書けない。
ほとんどのセンセイは提出資料を書くのが苦手。
事務能力はほとんどの人がひどいレベル。
実際にはできるはずなのだが、やる気がないのだろう。
たいがい、ギリギリに出すか、遅れる。
そういうのは自分の仕事ではないと思っている。

人と比べられることを極度に嫌がる。
自分は学生を常に評価しているのに、自分の授業は他人に見られたくないらしい。
授業公開という制度をやっても、誰も見に行かないし、批判もしない。
その代り、自分も批判されない。
そういう暗黙の了解があるのだろう。
だから、進歩がないのだと思う。

結局は誰に雇われているのか、わかっていないのだろう。
民間企業から変わったぼくは、ビックリした。

誰でもびっくりするわなあ。



| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
再生エネルギー
小泉元総理は前から脱原発と言っている。
ぼくはまだまだ難しいと思う。
再生エネルギーは、自然由来の発電だから、自然に左右される。
いくら発電の能力があっても、自然がエネルギーをくれないと、どうしようもない。

太陽光なら、曇ったり雨が降ったりすると発電がほとんどできない。
もちろん、夜間もできない。
風力なら、風が吹かないと発電できない。
そのあたりを平準化しようと思うと、蓄電技術が必要になる。
これはコストがかかる。

それらの課題が解決できるまでは、原発を動かさないといけないのだろう。
火力にあまり頼るわけにもいかない。
CO2の問題があるからだ。

関電のサイトに発電能力と実際の発電量の違いについて書いてある。
再エネの場合、いくら発電の能力があっても、実際の発電量が少ない。
そこをちゃんと理解して考えないと、間違える。

小泉元総理も知ってか知らずか、そういう間違いを犯している。
それにしても、まわりのスタッフやマスコミはレベルが低すぎる。
間違いがわからないのだろうか。
それとも、わかってやっているのだろうか。

原子力は危ないというのはわかる。
しかし、エネルギーは生活や産業を支えるインフラだ。
産業の競争力にも関係する。

低成長の日本、競争力を維持するためにもエネルギーコストは下げないといけない。
そんなふうに考えない人が多すぎる。
結局は日本を貧しくすることに加担しているのだ。

これ以上、嘘のニュースを流してはいけない。

マスコミも、もっとちゃんとやれ。


| | 考えたこと | 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
日大の危機管理学部
日大の危機管理学部の学部長が涙目で話をした、という記事を見た。
ざっと見たところ、あの学部は危機管理学部というのは名ばかりだと思う。
専門家は教員にはいないのだろう。

宣伝文句には「災害マネジメント」、「パブリックセキュリティ」、「グローバルセキュリティ」、「情報セキュリティ」の4領域がある、と書かれているが、それなら危機管理学部という名前はオカシイだろう。
おそらく、そういう名前なら受験生が来るということだ。

カタカナが多いのは、伝統的ではないということで、まだまだ学問領域ではないということだと思う。
まあ、学問を教えないといけないというのは古い考えかもしれないが、文科省的にはそうなっている。
文科省もよくこんなもの認可したなあと思う。

学部長が教えているのが「損害保険法など」と紹介されている。
どちらかと言えば、法律の専門家という感じ。
経歴を見ても、大学の世界から出たことはなく、実社会を知っているとは思えない。
なぜこの人が学部長になったのかと思う。
おそらく、大学内の順位だろう。

学部次長も大学の世界を出ていない。
一応、教えているのは危機管理学概論?、リスクコミュニケーション論、メディアコミュニケーション論などとなっている。
でも、実際の切った張ったの世界は知らないだろう。

その次の教授は公安調査庁出身。どちらかというと、調べて告発する方。
でもまあ、実際の社会を知っているだけマシかもしれない。

その次の教授は国際法が専門。危機管理に関係することは研究内容には書いてない。
検事をやっていたという教授もいるにはいる。これも告発する方だ。
新聞記者出身の教授もいる。記者出身の広報が役に立たないのは今回の件でよくわかった。

その他、警察出身の実務家教員3名、防衛関係の実務家教員3名、建設省出身(これは災害の方の危機管理だろう)、サイバーセキュリティ、法務省出身などが集まっている。
面倒くさくなって、途中で見るのをやめた。
要は各種専門家を集めていますということだが、肝心の危機管理ができそうな人はいない。
これは今回の件でわかった、最大の皮肉だろうなあ。

どうしても、アカデミックな世界で声をかけて集めるとこうなるのだろう。
日大の今回のような危機こそ、管理しないといけない危機だと思うが、そういう役に立つ人はいなさそうだ。

教授たちは自分が「危機管理学部」になったからといって、研究内容を変えようとはしないと思う。
よしんば、学部長がそういうことを言っても、自分はこの研究をやってきたのだから…と言うだろう。
よほどカリスマがあればいいが、みんなで先生、先生と呼び合っているような状況では、無理だろうなあ。
だから、今回の件で危機管理学部が声を上げるなどということは土台無理だったということだ。

週刊誌の見出し等を見ると、理事長が暴力団とつながっていたり、学内の業務で利権があったり、いろいろとややこしい。
内部の人たちは教授も含めて、そんなことはわかっているはず。

何かあれば、センセイたちは偉そうなことをコメントするが、自分の周りのことは見て見ぬふりだ。
それもあって、みんな博士になろつと思わなくなったのだろう。

困ったことだ。

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