2007.03.03 Saturday
追悼 池田晶子さん
今朝の新聞を読んで驚いた。
池田晶子さんが亡くなっていた。46歳だった。
このブログの「考えたこと」というのは、池田晶子さんの書かれていることから拝借した題名です。
勝手にお借りしました。
ぼくのようなものが、大それたタイトルを使ってよいのか?という気はあったが、何気なくつけてもうすぐ2年が経つ。
もっと書いてほしかった。
池田晶子さんは、著書の中で、繰り返し、「在る」と「無い」、「生」と「死」について書かれ、「死」を怖れることはできない…なぜなら「死」は存在しないのだから、と書かれていた。
凡人のぼくは、その言葉を完全に「わかって」いない。
新聞によると、亡くなる直前まで本を出す手配をし、連載をつづけられたとのこと。
池田晶子さんは、本当に「死」を怖れてはいなかったのだろう。
文筆家としての「生」を全うすること、「善く」生きること、それだけが、死を迎えるにあたっての思いだったのか…。
いや、池田晶子さんは、「考えて」いたのだ。
文筆家として書くことは、それを使命としてやっておられたのだ。
本来のご自分は、考えつづける人、問いつづける人だった。
きっと、今も思索の彼方で、宇宙の存在として考え続けておられるのだ。
死を迎えて、「在る」から「無い」へジャンプする…その瞬間をはっきりと意識の中で待っておられたのではないかと思う。
天は彼女に二物を与えたと思うが、その代わりに早く逝かせたのだ。
池田晶子さんの新たな著作を読むことはできなくなった。
でも、一生かかっても、今まで書かれた著作の言葉を、本当に作者の流儀でわかることはできないと思う。
近づくことができるのみだろう。
それでも、そのようなテキストを遺してもらえたこと、そして、同じ時代に生きられたことは、感謝すべきことだ。
たくさんの著作を遺してくださって、ありがとうございました。
これからの時代を生きていくうえで、最も必要とされている人の一人だったと思います。
そして、亡くなった今も、これからも、必要とされつづけられる人だと思います。
ほんの一部だけ、ここに引用して紹介し、追悼させていただきます。
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14歳からの哲学 (仕事と生活)より
「・・・生きなければならないという法律はなく、誰もその人に生きることを強制してはいないのだから、生きることはあくまでもその人の自由なんだ。生きたくなければ死ぬ自由はあるんだ。なのに、死なずに現に生きているのだから、生きることを自分の自由で選んでいるのだから、その人は、本当は、「生きなければならない」ではなくて、「生きたい」と言うべきなんじゃないだろうか。
本当は自分で生きたくて生きているのに、人のせいみたいに「生きなければならない」と思っているのだから、生きている限り何もかもが人のせいみたいになるのは当然だ。生きるためには、食べなければならない、食べるためには、稼がなければならない、そのためには、仕事をしなければならない、この「しなければならない」の繰り返しが、大人の言うところの「生活」だ。しなければならなくてする生活、生きなければならなくて生きる人生なんかが、どうして楽しいものであるだろう。・・・(中略)・・・ だったら人は、自分で自分の人生を選んで生きているということを、はっきりと自覚して生きるべきなんじゃないだろうか。仕事も生活も何もかも、自分がしたくてしていることだと、自覚するべきじゃないだろうか。そうすれば、自分のことを人のせいみたいに文句を言いながら生きることもなくなるはずだ。」
41歳からの哲学より イラク戦争でネット上で反戦の声をあげた若者たちをみて
「・・・つまり彼らは、無力感を覚えるというまさにそのことによって、戦争を他人事だと思っているのである。自分のことではないと思っているのである。しかし、戦争が起こっているこの地球のこの時代を生きているのは、まさしくこの自分である。なんで他人事みたいに無力感など覚えていられるものだろうか。
戦争を子供に教えるために、といった意見も聞かれたが、これも変である。戦争を生きている人は、戦争を生きるしかない。そんなものを教えて教えられると思っているのは、戦争を他人事だと思っている人だけである。
最後には、反戦の声など無力だという自嘲ともなっていたが、これは仕方ない。声すなわち言葉というのは、こういった考えを伴って、初めて力となるものだからである。
そんなふうに考えると、人というのは案外に呑気なものである。何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。自分の人生を他人事のように生きているから、そういうことになるのである。・・」
41歳からの哲学より 乞われて田舎の中学校の純朴な学生に対して、話をしに行った時の事
「言うには、我が校の生徒はこんなふうだから、町の学校へ行くと、感化されて、たちまちに悪くなる。そうでなければ、外の風に耐えきれずに引きこもる。高校側は、免疫をつけてきてくれと言う。馬鹿を言うな。悪く教育しろと言うのか。
悩みは深い。この世の中である。あの子供たちに未来はない。それで、「哲学を」ということだったらしい。私は納得した。つまり、外的状況に動じない、強い精神に鍛えたいと。
その通りです、それこそが哲学の身上です。私は同意した。昨今の教育現場の風潮、何を勘違いしているのか、「よのなか科」?商売の仕方や金のもうけ方を、早いうちから教えることが子のためだなど、驚くべき勘違いである。世の中のことは、世の中に出てから覚えればよろしい。世に出る前には、世に出る前にしかできないことがある。それが、考えることである。徹底的に考えて、自分の精神を鍛えておくことである。その過程を経ることなく、世に出てしまった大人たちを見よ。世の状況に左右され、フラフラと動じてやまないではないか。それが見事な証左ではないか。・・」
41歳からの哲学より 食の安全について
「そも食べ物に感謝することを忘れたということ自体が、こういった騒動の大本ではなかろうか。牛だって鶏だって生き物だから、殺されて食べられるのはイヤである。しかし生き物は互いに食べ合って生きているものだから、その意味でそれは仕方ない。「仕方ない」という、こちらの側の、このイヤな気持を、ではどうするか。
だから感謝するのである。私が生きるための食べ物になってくれてありがとう。「ありがとう」、言うだけではダメである。それは証されなければならない。証しとは何か。決まっている。よい人間になることである。よい人間、真っ当な人間として、生きることである。そうでなければ、私が生きるために殺される他の生き物たちに、申し訳が立たないのではないか。・・・」
41歳からの哲学より 携帯電話の「その一言が、たった五円で」という広告について
「自分で金を出して買う物、一般商品の場合ですら、人の心はそのように動く。値段がその物の価値なのだ。それなら、もともと値段のついていないもの、金のいらないタダのものを、ありがたいもの価値あるものと、思うことなどあるわけがない。金のいらないタダのもの、誰もが持ってる普通のものの筆頭が、すなわち、言葉である。日々話されるこの言葉、これが価値だと知っている人など、きょうびいるものだろうか。
言葉なんて、タダだし、誰でも使えるし、世の中は言葉だらけだし、なんでそんなものが価値なのだと、人は言うだろう。しかし、違う。言葉は交換価値なのではなくて、価値そのものなのだ。相対的な価値ではなくて、絶対的な価値なのだ。誰でも使えるタダのものだからこそ、言葉は人間の価値なのだ。安い言葉が安い人間を示すのは、誰もが直感している人の世の真実である。安い言葉は安い人間を示し、正しい言葉は正しい人間を示す。それなら、言葉とは、価値そのもの、その言葉を話すその人間の価値を、明々白々示すものではないか。
だから人は言葉を大事にするべきなのである。そのようにして生きるべきなのである。自分の語る一言一句が、自分という人間の価値、自分の価値を創出しているのだと、自覚しながら生きるべきなのだが、こんなこと、きょうびの人には通じない。・・・(中略)・・・五千円、五万円だろうが、必要な言葉は、必要なのである。
価値ある言葉に、値段はつかないのである。常にそのような自覚によって、言葉を語る人生と、そうでない人生とでは、その人生の価値は、完全に違うものになるのである。」
事象そのものへ!より
「私たち生まれてきたものは、死ぬまでは生きてゆくしかないのだろう、先に死にゆくものたちを、こころの隅で見送りながら。ただそれだけの事実の、何がいったい、こんなにも悩ましく私たちのこころを追い詰めるのか。そして、追い詰められたこころが、追い詰められたそこに、責めるべき何をも、祈るべき何をも見出し得なかったとき、再び自身に、生滅する一切に、添い続けようとする以外の何が残されているだろう。哲学は構築されるのではない。感受したものを問うことだ。夢を見るように問い続けてゆくことだ。たとえそれが、あの至高点に消え果てることが既に知られているとしても、私たちのこの宇宙が、生(ある) と死(ない)という夢を、そこに浮かべて見続けているその限り。」
考える日々より 子供に対する「死の教育」について
「教え方がない」のではなくて、「教えるもの」が、そもそも「無い」のだ。現場の先生方には、このことをしっかりと認識してもらいたい。認識してもらうためには、とにかく自分で考えてもらうしかない。自分でもわかっていないことを、人に教えることは決してできない。しかし、わかっていないということはわかっている。このことなら、教えることができる。いや、このことを教える以外、死について教える仕方はあり得ない。
私は思うのだが、命の大切さを「教える」ことは不可能だ。むろん、「命を大切にしよう」というお題目を復唱させることならできる。しかし、そんなことが、望まれているそのことなのではないはずだ。
命の「大切さ」を教えるより、命の「不思議さ」を感じさせるほうが先だ。命の不思議さとは、言うまでもなく生と死、すなわち「存在と無」の不思議である。生きて死ぬこと、存在することしないこと、この当たり前の不思議に驚くところにしか、それを「大切にする」という感覚は出てこない。
考える日々より 臓器移植について
「 人が、死ぬのを恐れて、他人の臓器をもらってまで生きたいと思うのは、なぜなのだろうか。
生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の大錯覚がここにある。しかし、生存していることそれ自体は、生まれ落ちた限りサルにでもできることで、いかなる価値も、そこにはない。それが価値になることができるのは、人がそれを「善く」生きようと努める、そこにしかあり得ないのだ。
(中略)
遠慮なく、極端なところを言ってしまえば、愚劣な欲望を価値とする愚劣な人間が、ひたすら長生きしてどうするのだ。愚劣な人間の愚劣な欲望のために、自分の臓器を差し出すことが、なぜ愛なのだ、世のためになることなのだ。」
考える日々2より 「落ちるところまで落ちてきた」
「 私は直には知らないことだが、敗戦の焼け跡、つまりまさしく最悪の状態から立ち上がってくる人々のパワーというのは凄いものだったと、知っている人々は口を揃えて言っている。しかし、立ち上がってくるその方向を、どうやら間違えていたらしい。五十数年かけて、われわれは一国を滅ぼしつつあるらしい。五十年かけて滅んだものを立て直すには、通例二、三百年はかかるというのは、さる碩学の言である。建造物ではない。壊れた建造物なら、数年数か月で再建できるが、いったん壊れた国家や社会を再建するのは、容易なことではない。ことは人心の問題だからだ。人心の教育、再教育には、何世代にもわたる忍耐と覚悟とが必要なのだと。
このような議論の運びには、その通りと納得しつつも、だからどこからそれを始めるのだ、始められるのは誰なのだ、という現実的な疑問に、いつもハタとぶつかってしまう。やっぱりニワトリとタマゴなのである。教育こそが必要なのだが、教育する人を教育する人がいない。警察官を取り締まる人がいないのと同じことである。」
ロゴスに訊け(サルにだって言葉は書けるぞ)より
「しかし、だからこそ、言葉は闘い取らなければならないのだ。闘い取る言葉にのみ価値があることになるのだ。ふやけた言葉ばかりが、新聞にも市場にもネット上にも氾濫する。このような状況において、言葉のためにその本来の価値を闘い取るべく、私は自覚的に文筆を業としているのである。したがって、読者は、それを自覚的に読むことで、価値を闘い取らなければならない。共同戦線なのである。」
ロゴスに訊け(生きている、ただそれだけで価値なのか)より
「 「ただ生きることではなく、善く生きることだ。」ソクラテスが喝破したのは、二千五百年前のことである。民主政治の堕落した当時のアテナイにおいて、快楽や金銭を人生の価値と思いなし、それらのために生きている大衆に対し、説くには、もしもそれらが価値であるなら、君が生きていることに価値はないはずではないか。なぜなら、それらがなければ君には生きている価値はないのだから。そして、もしも君が、生きていることはそれ自体価値であると思うなら、それらのことは価値ではないのでなければおかしいではないか。なぜなら、君が生きていることそれ自体が善いことなのだから。
留意してほしい。彼は、すべての人はただ生きているだけで善いことだと言っているのでは断じてない。善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだと言っているのである。言うのもおかしなくらい、これは当たり前なことではないか。どうして、善く生きていない人にとって生きていることが善いことである道理があるだろうか!」
考える日々3 (生き残るだけが価値ではない)より
「「フリーター」という職業名が、正式なものになったと聞いた。その語感の示すような、自由気ままなアルバイト暮らしというのは、若いうちにはその大変さは、たぶん自覚されない。けれども、そのまま最後までヌクヌクゆけるものではないこと、また、フリーターを選ぶような人には、そのような人生はちっとも面白くないだろうこと、ちょっと覚えておいた方がいいかと思う。それなりの覚悟あっての、それなりの人生ということである。」
考える日々3 (そうまでして、そうするべきか)より
「先日のニュースなど、近所でおいしいキムチを作るおじさんがいるので、このことを全国の皆さんに是非とも知らせてあげたい。で、その情報をインターネットテレビなるものに作成して流している人のことを、これまたテレビで放映しているわけである。
そうまでして、そうするべきことなのだろうか。自分たちがいかに無内容なことをしているかということを、今やそこにいる誰もがわからなくなっているのだ。これは驚くべきことである。
情報伝達機器が発達するほど、伝達される情報の無内容が露呈してくるというのは、皮肉なことだ。当然といえば当然である。伝えるべき内容を発達させずに、伝える手段ばかりを発達させてきたからである。そもそも「何を」伝えたいのかという然るべき問いを、なぜ所有せずにいられるのか、それが私には不可解である。「便利になる」、大変けっこうなことである。しかし、便利になるほど人が馬鹿になるのは、どういうわけなのだろう。」
考える日々3(そうでなければ、それまでだ)より17歳の殺人に触れて
「 いったいどこが不可解なのか。あるいは「孤独な心の闇」と言う。なんでこんなものが心の闇か。
こんな薄っぺらな言動を、何か深遠な預言でも受け取ったかのように深読みしようとし、少年たちのサインを見逃さないで、などの阿呆なことを言っている。いつまで寝呆けているつもりなのだろう。
それほどまで死について興味があるのなら、他人を殺す前に、自分が死んでみるべきである。そうではなかろうか。
存在感がないことが悩みなら、それを苦にして自殺すればいいのである。そうではなかろうか。
青年期の一時期、生死について悩み、自意識過剰になるのは当たり前のことで、そういう時は、かつてなら、自殺を考えるか、実際に自殺するかしたものだ。そうではなかったろうか。しかし、自分のことで悩んでも、誰も他人を殺そうとはしなかった。これはどうしてなのか。
言うまでもない、自分のことを悩むことと、他人を殺すこととの間には、いかなる関係もないからである。自分の存在、自分の生死、まったく正当に不可解であるこれらの事柄が、他人を殺すことで理解できることになるわけがない。死が不可解で、なぜ他人を殺すのか。
あれらの少年たちが、自殺をすることなく他人を殺すのは、要するに、悩み方が足りないのである。思い詰めたことなどじつはないのである。自殺をするよりも、注目されたい、つまり自分ではなく他人を見ている。たんに甘えているのである。」
新・考えるヒントより 小林秀雄にむけて
「批評という形式、あなたの文章は、何を説明しているわけでもない。「説明」というこの文章の調子が私は大嫌いで、野暮の極致だとかねがね思っているのですが、文章が説明的になったら負けと言っていいでしょう。なぜって、語ろうとしているところのものが、そもわからないことなのだから。わからないことをわかったことのように説明することはできない。わからないというまさにそのことが、その言葉であるのでなければ、そんなものはウソッパチでしょう。何を説明するのでもなく、断定的に語られるあなたの言葉によって、読む者は、わかります。わかるということは、決して説明によってわかるのではない。言葉自体の力によってわかるのだ。だから、読む者にわからせようとして書く必要などないのだということも、あなたから学んだことでした。」
「現代日本に限らない。近代以降、制度として整備された大学は、覚悟という言葉の意味すら解さぬ愚者の楽園となり果てた。べつに学問をしなくてもいいのだが、生活は保障されるからという理由で大学にいる者たちの言葉が、一般生活者にとってどうでもいいものとなるのは当然である。学問や学者が、世間に侮られる存在となるのも当然である。ところが中にいる者たちは、これを逆手にとって居直るか、卑屈になって媚びを売るかのどちらかである。精神の仕事をしているのだ、なぜ生活が問題か。そんなふうに矜持を示せる者などいやしない。だからこそ生活者を目覚ますこともできるなど、思いもよらない。
理科系の学問は、産学協同の掛け声に活路を見出したが、文化系の特に哲学など、完全に無用の長物である。無用にも用がある。科学が用なら、哲学の用とは、科学を用とするこの世のありようそのものを問い質すことに決まっている。われわれはなぜ生きているのかという問いを問うことは、生きるためには有用なことか無用なことか、常識は知っているはずである。」
勝っても負けても (言葉の力を侮るなかれ)より
「 言葉の力を侮ってはならない。人は言葉なしには生きてゆけないのだから、言葉とは、すなわち命なのである。言葉は命なのである。死ぬときにもまた、人は必ず言葉を求める。「死ぬとはどういうことですか」。必ず人は問うのである。この時初めて、人は正しい言葉を求めるのだ。間違った言葉で救われても、救われたことにはならないからである。」
勝っても負けても (小説を書こうかな)より
「 話し言葉とは、思っていることを口にすることである。口にする前によく考えることもあるが、たいていは書くよりは考えられていない。書くという過程は、思っていることをよく考えるという過程を、必然的に強いるのである。これはなぜかというと、そこに反省という意識が働くからである。反省は、思考が思考についてひとりきりで行なうものである。これに対して話すという行為は、複数で行われるものである。ひとりで考えこんでいる暇はない。伝達という機能が優先されるからである。
携帯メールとは、話し言葉のこの伝達機能を、書き言葉にして代用するものだろう。ゆえに、話すように書くとは、考えずに書くということと、ほぼ同じである。これで人間は馬鹿にならずにすむものだろうか。おしゃべりをそのまま書いたような文章が、文学と言うことでいいのだろうか。私は思うに、そんなものは人間の言語以前、やはり何かサルの雄叫びか鳥の囀りに似たものである。人間とは考える動物である。思惟された形跡のない言葉は、動物の示威行為に等しいのではなかろうか。」
勝っても負けても (いまいましいゴミ問題)より
「 案の定である。場所によって異なるような相対的なルールを守ることが、なんで正しいことなのか。相対のものを絶対と思い込み、ルールを倫理とする時、人は誤るのである。行政はサービスである。相対のルールを強要するのは逆である。なるほど、ゴミ問題は今は過渡期なのだろう。それなら、そのように説明してルールを理解させればすむことである。たかがゴミの問題ではないか。
その、たかがゴミの問題が、今や地球規模の大問題なのだと、環境派の人々は言うだろう。それは認める。しかし、それでも私はあえて言いたい。やはりゴミは、たかがゴミである。たかがゴミのことなんぞで頭を悩ませているよりも、我々にはもっと考えるべきことがある。四六時中ゴミのことばかり思っていると、ゴミのような頭になってしまう。じっさい私は、マニュアルに従ってゴミを分別しようと気をつけ始めてから、そのことを実感した。この包装の材料は何だろうとか、ホチキスの針がついた紙のラベルをどうしようとか、そのつど注意が動いてしまうのがいまいましい。これを続けていると、人間は確実に馬鹿になるぞ。」
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