考えたこと2

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明日から8月
明日から8月である。
今年も、もう丸7ヶ月が経った。
半分を超えている。
体感上は、まだ3月くらいの感じだ。
倍以上のスピードで時間が流れている。

何度も書いているが、年をとると時間が経つのが早い。
この調子でいくと、すぐに夏が終わり、秋が来る。
9月の残暑のあと、10月11月はすぐだ。
あっという間に12月が来る。

12月といえば、クリスマス。
気が早い店は11月下旬から飾り付けをしている。
ツリーと雪景色、デコレーション。
もうあれが始まると、仕事気分ではない。

別にキリスト教を信じているワケではないのだが、クリスマスは待ち遠しい。
それが過ぎると、もう正月。

要はもうすぐ2014年が来る。
この調子でいくと、2014年もすぐ年末、そして2015年、次は2016年…。

あっという間に2020年代になる。
このあたりまでは、まだ生きていると思う。
そして、2030年。
ぼちぼち危ない。

その頃は日本はどうなっているだろう。
3人に1人が高齢者。空き家は2倍、要介護者は50%増、という予測が出ている。

エライ事だ。

子どもを見ていると、申し訳ないと思う。
ぼくらはいい時代を生きることができた。
今日より明日が豊かなのは当たり前という時代。

今から最後に頑張って、どこまで若い人たちに力を持ってもらえるか、ということを考える。

大変だ…。




| | 考えたこと | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
資格で生きていけるのか
日体大が児童スポーツ教育学部というのを今年作ったらしい。

アスリートがピアノを練習して、幼稚園の先生になりたいという。
学部長が言うには、「中高の保健体育科の教員として、現役で就職できるという人(学生)の数が、非常に目減りしてきている。やっぱり、就職率を上げたいし」とのこと。
別に悪いことではないと思うが、何だかなあとも思う。

だいたい、先生と呼ばれる人たちは資格志向だ。
自分が教員免許という資格を取って生計を立てているから、そうなるのだろう。(もちろん、採用試験に通らないといけないが)
おまけに教育される側から、する側に移るだけなので、実社会を知らない。
橋下市長が言っている、民間の校長の導入は正しいと思う。
しかし、民間から来た人は排除されてダメになる場合もある。これは教育業界のガバナンスの問題だと思う。
下の人たちは、上の人の言うことを聞かなくてもいいと思っているのだろう。
民間企業の常識であっても、教育業界では非常識というものがたくさんある。

大学教員になるには資格は要らないが、本来それなりの研究成果が必要だ。
しかし、780校も大学ができて、大学教員の質も下がった。
ろくな研究成果のない教員もたくさんいる。

しかし、少なくとも大学教員になるためには、大学に残らないといけない。
大学に残る人は、なぜか実社会に出るためには、資格があった方が有利と思っている。

そういうリクツで、日体大の児童スポーツ教育学部というようなものができるのだと思う。
中学、高校の教員免許では就職が難しくなってきたから、小学校、幼稚園の免許も取れるようにしよう、ということだろう。

そんなわけで、たくさんの大学が資格志向になっている。
この資格が取れるから、ここに行こう、という高校生を狙っているのだ。
しかし、世の中そんなに簡単なものではない。
資格を取っても、何の役にも立たない場合もある。
何かのスポーツのプロ(それでメシを食っていく)を目指して入るのが、日体大だろう。
それと、児童や幼児のスポーツ教育とは一緒にならないし、そんな人に教育をしてほしくない。
スポーツの能力よりも、教育の能力が優先だと思う。
スポーツは課外でやればいいのだ。

もともと、資格というのは、手段であって目的ではない。
この仕事をしたいから、この資格を取ろう、ということだ。
高校生で、この仕事をしたいと思うのは勝手だが、ぼくの経験からはそんなものはあてにならないし、それは可能性を狭めることになる。
よしんば、思ったとしても、大学に行ったら変わるのだ。
いろんな人と知り合い、考える時間も増えるし、自分の実力や適性、可能性も、そして限界も分かってくるからだ。

だから、極力、未来を縛らない方がいいと思う。

別に日体大だけが問題ではない。
他の大学も同じだ。

資格で高校生に夢を与えるのは邪道だと思う。

それは彼らの可能性を狭め、そして資格に頼ろうとする、実際には資格を取っても使い物にならない人を増やす効果の方が大きいと思う。


| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
インドのモータリゼーション
イギリス人のカーディーラーがいろんな国に行って、クルマを買い付けるという新番組を見た。

英語が通じるということで、元植民地だったインドが最初に選ばれたのだろう。
インドといえば、日本メーカーではスズキだ。
唯一日本メーカーで成功している。
日本での軽自動車での設計・生産のノウハウが活かされるているのではないかと思う。

BRICs辞典によると、インドの自動車生産台数は「年間自動車販売台数は248万台(09年4月〜10年3月期)と、中国の1350万台(09年1〜12月)と比べて5分の1以下に過ぎません。しかし21世紀半ば頃には、インドの人口は中国を抜き17億人まで膨らむと予想されており、経済発展と相まって自動車市場が拡大するのは自明の理です。」と書かれていた。

インドの人口が17億人になるのが本当かどうか確かめられる時には、ぼくはいなくなりそうだが、たいがいの本では将来性は中国より高いと書かれている。

自動車メーカーのシェアはスズキ・マルチ(スズキ)が40%となっていて、圧倒的に高い。
トヨタもホンダも3%程度で、まさにスズキの天下である。
それに続くのがタタという現地の会社。20%程度だ。
余談になるが、タタは儲かっていて、イギリスのジャガー、ランドローバーを買った会社だ。
昔の植民地が本国の会社を買うという、皮肉な現実。
でも、インド人とイギリス人の相性がよいのか、皮肉にもアングロサクソンのフォード傘下にいたときよりも、ジャガーらしいクルマが出てきている。
インドという国は、植民地の宗主国を恨むのでもなく、仲良くやっているように見える。
そして、第二次大戦の後の東京裁判の時も、一方的な連合国の断罪に反対し、「戦争の勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」と言ったパール判事もインド人だった。
ヒンズー教という宗教が関係があるのかもしれない。

つまり、インドでクルマを扱うとしたら、まずはスズキとタタ、ということだ。
番組の中ではスズキアルト(日本より大きい仕様)とタタのワゴンを買って、上手に売っていた。

20年前ならこの企画は成り立たなかっただろう。
クルマはインドではまだまだ普及していなかった。
それが今はこの状況。

今や石油の埋蔵量が減り始めたのに、インドではモータリゼーションが起ころうとしている。
どうやって、ガソリンを調達するのか、と思うが、その頃にはまた日本車がハイブリッドで強くなっているかもしれない。
今日本ではリッター150円〜160円だが、その頃には300円以上になるかもしれない。
そうなると、またトヨタとホンダが伸びるか。

でも、タタが出しているナノというクルマ、20万円とのこと。
これは安い。
インドのモータリゼーションはどうなるかわからないなあ。

タタ自動車のナノのCM。珍しいから載せておく。
http://www.tatamotors.com/vehicles-and-services/nano/nano.php



| | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
Uボート
8月が近づくと、第二次大戦の頃の戦記番組が増える。
今日はドイツのUボートの番組をやっていた。

当時のイギリス首相、チャーチルは、Uボートに頭を悩ましていたという。
イギリスは島国だから、物資を海運に頼っていた。
その輸送船団をUボートに沈められていたのだ。
もしもヒトラーがドイツ海軍の言うことを聞いていたら、Uボートを早い時期に増産してイギリスを窮地に陥れられたかもしれない。

ドイツ軍はエニグマという機械を使って、暗号を作成していた。
Uボートもそれを積んで通信していたのだが、沈みかけたUボートから連合軍がエニグマを見つけ、入手した。
それにドイツ軍は気がついていなかった。
Uボートと一緒に沈んだと思っていたのだ。
これが一つ目の失敗。
当然、連合軍はすぐに解読に成功し、どこで何が狙われるかを先んじてわかるようになった。

そして、もう一つはレーダーだ。
連合軍はレーダーを開発し、それを使ってUボートの位置を特定して攻撃できるようになった。
ドイツも開発していたが、遅かった。

そんなことがあって、ドイツの敗戦は決まっていった。

Uボートは同盟国だった日本に2隻寄贈されたという。

ぼくは戦争中に神戸に来たというドイツ人を知っている。
Uボートに乗ってきたのだ。

ドイツ人が何となく親日なのは、第二次大戦の同盟国だったということがあると思う。
もちろん、どちらも敗戦国でありながら、戦後めざましい復興を遂げたという仲間意識もあっただろう。
でも、それができたのは、どちらも戦争に負けたという思いがあったからだ。
だから、戦争で負けても、戦後経済で勝った。

神戸の港にUボートが来ていた、ということはドイツ人に聞くまで知らなかった。
日本のどこかに記録は残っているのかもしれない。

でも、それを知っている人はどんどん亡くなっている。
そんなことは知らない方がいいのか、それとも伝えていくべきか…。

| | 考えたこと | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
風立ちぬ
新しいジブリの映画はゼロ戦の設計者の話らしい。

ゼロ戦はすごい戦闘機だった。
吉村昭の「零式戦闘機」という本を読んで、感心した覚えがある。
30代でこの本を読んで、しばらくして軽量化がはやり、その見本としてゼロ戦が使われたりした。
中には、フィリピン沖かどこかで引き揚げられたゼロ戦を見学に行った、という話もあった。

戦争の力はスゴイ。
不可能を可能にする。その代わり犠牲はある。
戦闘機というようなものを作る時には、たくさんのエンジニアが関わる。
それらのエンジニアたちは一人一人部品の担当をしている。
その各々が部品の性能のマージンを持っている。
そのマージンには、必要なものと、安心のために取っているものがある。
この後者をいかにエンジニアにはき出させるか、というのが軽量設計の肝である、という話を聞いた。

ゼロ戦はまさにそんな戦闘機だったという。
普通はパイロットの背もたれの部分に、後ろから撃たれた時の弾を止めるための鋼板がある。
しかし、軽量化のためにそれを採用しなかった。
そして、フレームのいたるところに軽量化のための穴が空いている。
強度と軽量化を両立させるためにはそんな込み入った事をしないといけない。

そして、ゼロ戦は開戦当時から、終戦間際まで実際の空中戦ではほとんど撃墜されていない、という実績がある。
まともなパイロットが乗っているゼロ戦は本当に強かったらしい。
空中での操縦性が高いということだ。
小回りがきき、相手の後ろにつくのが容易だったということだろう。
連合軍は一時、ゼロ戦とは戦うな、という指令を出したという。
戦ったら負けるから、戦わない。
そういう戦略をうちだせるのは、別の意味でスゴイことだ。

連合軍は落ちたゼロ戦を引き揚げて研究した。
そして、軽量化がその要因だと分かった。
穴だらけのフレームを見て、ビックリしただろう。
しかし、その設計思想は真似しなかった。
人命軽視だったからだ。

その成り立ちから、素晴らしいパイロットとゼロ戦の組み合わせは無敵だった。
しかし、日本軍は人命を軽視し、ムチャな作戦をやり続け、パイロットを失った。
飛行機は設備があればすぐにできるが、経験豊富なパイロットを養成するのは大変だ。
そこを精神論でやってしまった。

そんな不幸な運命の戦闘機がゼロ戦だと思う。

その設計者の映画ということで、風立ちぬを見たいと思う。

| | 考えたこと | 21:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
昔のこと
18歳で会って、4年間、近くの下宿で行ったり来たりした。

そんな友人と久しぶりに会った。
7年ぶりか。
前会ったときは40代だったが、お互いに年をとって彼はあと3年ほどで定年。
今は給料がだいぶ減るが、65歳まで再雇用してくれるとのこと。

ぼくらは工学部の情報系の学科だった。
1学年40人だったか。今はもうその学科はない。
1回生の時に会った、大学に入ってできた最初の友人だったと思う。
彼は学園祭の事務局だったので、彼を通していろんな友人ができた。

当時ぼくはまだ夢見る青年だったと思う。
落語とギターしかやっていなかった。
4畳半の下宿で、トイレは共同、風呂は銭湯。
大家は一緒だったのだが、ぼくは木造の古い下宿で、彼は鉄筋の新しい下宿だった。

3回生の秋、落語の発表会の前に激やせしたことがある。
夜中に背中が痛いので、家庭の医学という本を見ると、膵臓がんが疑わしいと書いてあり、これは治らないとも書いてあった。
一度書いたことがあると思うが、いま思えば寄席に出るプレッシャーでノイローゼになっていたのだと思う。
本当に1日1食しか食べられない。
食堂のうどんでお腹がいっぱいになり、体重は計っていないが、角帯を締めるとウエストが10センチくらい短くなっていた。
結局そんな状態でやったネタは大失敗。

寄席が終わり、病院に行って診てもらうと、医者が「若いのに、そんな病気になるわけがない。心配やったらバリウムでも飲んで検査するか?」と言われ、その瞬間に治った。
いくらでも食べることができる。
後日検査はしたが、何ともなかった。
その時得た反省は、あまり背伸びをしてネタをやってはいけない、ということ。
ぼくのやったネタで、3回生の秋が一番大きなネタになった。
それ以降は無理をせず、そんなに難しいネタをやらなかったのだ。

さらに後から思うと、何より自分に余裕がなかったと思う。
人を笑わすには、自分に余裕がなければイケナイ。
自分が楽しんでこそ、人を楽しませることができる。
その教訓は後の人生にも役立った。

そんなことを思い出した。
今日はいい日だった。

| | 考えたこと | 02:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハンバーグ
ハンバーグは今や日本の料理になった。

たいがいのファミレスでは、メインの料理の一つだ。
子どもが好きなのも、ハンバーグが多い。
冷凍食品のハンバーグも増えて、弁当にも入れやすくなっている。

元々はハンブルグで流行した料理だったから、ハンバーグというらしい。
でも、流行ったのはタルタルステーキだった。
タルタルステーキというのは、ハンバーグとはだいぶ違う料理だ。
何せ、生肉に極めて近い。
大きめのミンチ(5mmくらい)の生のかたまり、という感じだ。

一度フランスでタルタルステーキがハンバーグのことだ、ということを聞いて、タルタルステーキを頼んでみた。
そしたら、赤いミンチのかたまりが出てきて、ビックリした。
何かソースがあったが、それをつけて仕方なく食べた。

ドイツ生まれのハンバーグは、日本ではかなり変わったものになっている。
これが世界共通だと思っていたら、エライ目にあう。

カレーライスも今や日本料理だろう。
インドの本当のカレーライスはかなり違う料理だ。

そういう意味では日本化した料理は多い。

ラーメンもそうだろう。
本場中国のラーメン(拉麺)とはちがうものだ。

ハンバーグ、カレー、ラーメン。
これらは日本料理だと覚えておこう。


| | 考えたこと | 01:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
文部科学白書
文部科学白書が出た。
それによると、教育の再生をしないといけないらしい。
そのために、教育再生実行会議を作った。

その第一の課題は「いじめ問題」のようだ。
答申を受けて文科省がとった対策が書いてあった。

・道徳教育の充実に関する懇談会を開催し、「心のノート」全面改訂、道徳の教科化の在り方等について検討を開始
・体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底についての通知の発出
・運動部活動での指導のガイドラインの作成 等
※第183回国会において成立した「いじめ防止対策推進法」に基づき、いじめの問題に関する対策の実施を一層推進していく。

知らぬ間に、いじめ防止対策推進法というのができていて、道徳のあり方や体罰の禁止などを検討すると書いてある。

何だかなあ、というのがこの白書をみて思ったこと。
そんなことはずっと言われてきていて、やってきたことではなかったか。
前の安倍首相の時にも、道徳とか言っていたとはずだ。

イジメは結果だと思う。
元を絶たないとなくならない。

今のイジメの原因は何か?
これは想像力だと思う。
その想像力を鍛えるのが、勉強だ。
普通に勉強すれば、イジメはマシになると思う。
国語の勉強で文章を読む、算数をやって世の中に存在しない数字というものを使って頭を使う…。
これらの勉強をちゃんとしないから、こんな事になった。
まず、学校は勉強を教えるところだ、ということをちゃんと認識してやってほしい。

それを道徳だなどと言って、勉強を疎かにしていると、もっとひどくなるぞ。

| | 考えたこと | 01:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
サプリメントとダイエット
ケーブルテレビを引いてから、コマーシャルが変わった。
番組中はCMはほとんどないが、終わった後まとまってある。
その長い時間のCMで多いのがサプリメント、ダイエット関係。

サプリメントでは、富士フイルムとか、サントリー、ライオンなどの会社が新しく事業として立ち上げたものが多い。
医学的な説明があって、利用者のインタビューや医師の意見があり、最後に商品を注文する。

膝が痛くて、階段が上れなかった人がすいすい上がる。
ずっと便秘だったのに、毎朝お通じがある。
コレステロールの値が落ちる。
中性脂肪が減る。

まことしやかに効果が語られる。
もちろん効果はあるのだろうが…。

ダイエットがまたスゴイ。
大きな効果が最初に示される。
ウエストが、マイナス25センチとか、体重がマイナス16キロとか。
中にはダイエットのコンテストをやって、そのチャンピオンが挨拶するというものもある。
とにかく、使用前と使用後の差が大きい。
こんなに痩せられるのか、というのと痩せてこんなにきれいになるのか、という事をこれでもか、と訴える。

あれだけ見せられると、そうかな、と思ってしまう。
もちろん、ダイエット食品以外にも体重管理をしての結果、と書いてある。
それだけではあれほど痩せられないのだろう。

ゼリーとか、トマトとか、お茶とか、いろいろある。
4人子どもを産んで、90キロ以上あった、という女性がどうみても40キロ程度は痩せた身体を見せたりしている。

これだけみんながサプリメントとダイエットに関心がある、ということだ。

それだけ、みんな不健康ということだろうなあ。
でも、それで高齢者人口が増えていくというのも、不思議なことだ。
なぜだろう…。

| | 考えたこと | 22:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゴロとフライ
野球の用語はいろいろと面白い。

ストライク、ボール、バット、ベース、ピッチャー、バッターなど、ほとんど英語だ。
アメリカで使っている言葉そのままが多いのだが、そうでない言葉もある。

例えば「ゴロ」という言葉。
ファーストゴロとか、セカンドゴロとかいう風に使われる。
転がっているボールのことだ。
これは英語でいうと「grounder」というらしい。
groundするもの、ということで「転がっているもの」というような意味だろう。

「groundout」というと、「一塁ゴロでアウトになる」という意味になる。
きっとゴロというのは、ゴロゴロと転がるボールのことを表している日本語だと思う。
名詞というより擬態語の感じだ。
英語を少しでもかじった人なら、ゴロというのは英語ではない、ということはわかるはずだ。

一方で「フライ」はフライだ。
fly ballというと、空を飛んでくるボールという意味。
まあ、これは英語だとわかるだろう。
一塁フライは、日本語ではファーストフライ、英語ではファースト・ベース・フライという。
基本的には同じ使い方だ。

いつもほとんど意識しないで使うが、野球の用語は歴史があるせいか、和製英語と真性英語が複雑に入り交じっている。

しかし、メジャーリーグ化が進んでおり、ボールとストライクの順番が変わったのは前に書いたとおり。
時代は共通言語になろうとしている。

そのうち、ゴロの事をグラウンダーとか言うようになるだろうか…。

| | 考えたこと | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
選挙制度改正
今度の選挙だが、きっと投票率が低いと思う。
いくら民主主義といっても、国政選挙で投票率が6割以上いかないと、問題ではないか。

一般に、投票率の低さは、政治に対する信頼度を表すと言われている。
低い投票率は、国民が政治に期待していない証拠だ、ということになる。

今回の参院選は、始まる前から自民党の勝利と言われている。
それはそうだろう。
民主党があれだけ失政をしたのだから、揺り返しが来て当然だ。
管や鳩山など、二度と政治に携わってほしくない。
そこに勢いのあった維新の会が代表の発言で評判を落とし、野党は総崩れの状態。
そうなると、与党が消去法で勝ってしまう。
これで、政治に期待しろと言っても無理だ。

選挙法を変えて、投票率が50%以下だったら、選挙をやり直す、というのはどうだろうか。
それまでは、議員が減る。
その分の議員の給料は停止だ。これで少しは財政の足しになる。
各党は選挙の結果を受けて、政策を見直す。
その期間は3ヶ月。
候補者を変えてもいい。
もう一度選挙をして、それでも50%以下だったら、その分の議員は定数を減らす。
下手をすると、選挙のたびに議員の定数が減っていく。
信任選挙と思えば、当然のことだ。

1回の選挙で2回の投票まで。
投票率連動型選挙である。
こうすれば、いずれ参議院はなくなるだろう。
なくなったら、一院制に変える。

衆議院でも投票率が低ければ、容赦なくやめさせる、と言いたいところだが、そうなると国会がなくなる。
この場合はどうしたらいいのだろう。
投票率が50%を超えるまで、何度でも選挙をする、という方法しかない。
政治が止まらないように、選挙の前に選挙中に政治をするメンバーを決める。とりあえず仮だから何らかのルールを作ってやればいい。

そうした上で、何度でも選挙をする。
カネがかからないように、インターネットをフルに使う。
もちろん、投票率が50%を超えたらOKだ。

地方選挙も投票率が低ければ、不成立にする。
市議会、県議会、町議会の選挙も、市長、県知事などの選挙も投票率50%以上が基準。
そうすれば、もうちょっとマジメにやるだろう。

今が不真面目だと言っているわけではない。
今もマジメだろうが、マジメさが足りないのだ。
選挙民にも問題はあるのだが…。

選挙は、民主主義の必要条件でしかない。
選挙をやっても、投票率が0%だったら、それは民主主義とは言えないだろう。
民主主義には健全なメディアと教育が必要なのだ。
ちゃんと民主主義の良さと限界を教え、メディアがちゃんと政治を批判しないとイケナイ。
今の日本では、どちらも寒い状況だ。

教育は崩壊し、新聞やテレビといったメディアはまともな批判ができない。

投票率が低い国は、民主主義がちゃんと機能していない、ということを子どもたちに教えるべきだろう。

この参議院選挙で争うべきなのは、増え続ける国の借金をどうするのか、どんどん大きくなる若い世代と年をとった世代の格差をどうしていくのかということだと思う。
政治家が、国民に痛みを強いる政策が出せない。
みんな票がほしい。

あれらは、政治家ではなく、政治屋だ。

でも、その人たちは選んだのは主権者である国民だから、仕方がない。


| | 考えたこと | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
ナントカの自由
ぼくらの回りには、いろんな自由がある。
信教の自由、職業選択の自由、表現の自由…。

Wikipediaによると、「日本国憲法においては、内容は経済的自由権、精神的自由権、人身の自由に大別することができる。精神的自由権には、思想・良心の自由や信教の自由、表現の自由、学問の自由などが含まれる。経済的自由権には、職業選択の自由や営業の自由、財産権の保障が含まれる。人身の自由は、奴隷的拘束の禁止や不当逮捕などの禁止による被疑者・被告人の人権保障(罪刑法定主義・適正手続)などからなる。」

ナントカの自由を憲法で保障しないといけない理由は、「近代憲法は、『各個人はそれぞれかけがえのない価値を持ち、その人格は最大限に尊重されなければならない。同時に、各個人は互いにまったく独立しており、自らの考えのみによって行動することができる』という考えの基に立っています。逆に言えば、人間は本来そのような自立した個人であるからこそ、個人が最大限に尊重され、自由が確保されるべきなのです。」ということらしい。

しかし、この前提が崩れたら、憲法で自由を保障する根拠はなくなる。
各個人が、ただ生きているというだけで、かけがえのない価値を持つだろうか。
各個人が、本当に、互いにまったく独立しており、自らの考えのみによって行動することができるだろうか。

そんなことはあり得ないと思う。
亡くなった池田晶子が臓器移植について書いた文章がある。

 「人が、死ぬのを恐れて、他人の臓器をもらってまで生きたいと思うのは、なぜなのだろうか。
 生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の大錯覚がここにある。しかし、生存していることそれ自体は、生まれ落ちた限りサルにでもできることで、いかなる価値も、そこにはない。それが価値になることができるのは、人がそれを「善く」生きようと努める、そこにしかあり得ないのだ。」

この、「人類始まって以来の大錯覚」を持っている人が多すぎる。
だから、世界に一つだけの花とかいう歌がもてはやされるのだ。

ぼくらは、資本主義の社会を選択している。
この体制は、基本的には競争社会だ。
正しい競争こそ、社会をより豊かにできる、というような考えだと思う。
でも、それだけでは個人にとって厳しすぎるので社会保障という考えができた。
それらを併用した理念を日本は持っている。

したがって、憲法上、国民は教育されなければならない。
ただ生きているだけではなく、善く生きるためにだ。
それを謳っているのが、国民の義務。
勤労、納税、子供に教育を受けさせること、が国民の三大義務になっている。
ちなみに、権利の方は生存権、教育を受ける権利、参政権の3つ。

義務であり、権利であるのは教育だけだ。
親は子に教育を受けさせることが義務であり、子どもは教育を受ける権利がある、ということだ。
よく、義務教育というのは子どもには教育を受ける義務がある、と言われるがこれは間違い。
子どもは教育を受ける権利がある。
それが、小学校6年、中学校3年の義務教育。
これがちゃんと機能しているのか。

ちゃんと機能しているなら、今の若者たちは暴動を起こしていると思う。
それほどの世代間格差がある。

「試算によれば、厚生年金の場合、1940年生まれ世代と2010年生まれ世代との間で受益・負担の差額に約6000万円の格差が生じるといわれている。」

おまけに働き口がなく、就労の義務を果たそうとしても、果たせない。
その原因の一つは、義務教育がちゃんと機能していないからだと思う。

高齢者に保証をすることも大事だが、若者の過度の負担をどうするのか。
そんなことを議論し、正しい道筋を引くのが政治の仕事だ。

残念ながら、今回の選挙でもそんなことは争点になっていない。
官僚、政治家みんなで若者を食い物にしている。

だから、きっと投票率は低いだろう。
それは教育の貧困を表しているのだと思う。


| | 考えたこと | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
Cool like a cucumber
言葉によって、色々とたとえるものが違う。

こないだ、ドラマを見ていたら、”Cool like a cucumber”というセリフがあった。
これを訳すと、「キュウリのように冷静だ」となる。
日本語では冷静とキュウリはまったくひっつかないが、英語では対になるらしい。
辞書を引くと、「とても冷静だ」「ストレスがかかる場面でも落ち着いている」というような意味が書いてある。

なぜ、キュウリが冷静と対になるのかというと、キュウリは夏に身体を冷やす食べ物だと言われているから、とあった。
なるほど、そういうわけでキュウリと冷静が結びつくのか。

そういえば、ビートルズの A hard day’s night の歌詞に、Sleep like a log というのもあった。
直訳すると、丸太のように眠る、という意味だ。
本当の意味は、疲れて死んだように眠るという意味。
これはたたいても、揺すっても起きない、ということで丸太にたとえているのだろうが、死体も丸太に近いから、何となく理解できる。

狐のようにずるがしこい、というのも英語のたとえ。
昔話で、日本では狐はずるがしこく、狸は間抜けで愛嬌がある、というような印象がある。
英語でも狐はずるがしこいのだろう。
狸はどうなのか、と思ったら、狸は東アジアにしかいないらしく、英語には出てこない。

イヌは人間の忠実な仲間である、というような考えがアメリカにはあるような気がするので、イヌは忠実というたとえの表現になると思ったら、間違いだ。
どちらかというと、「嫌なヤツ」とか「裏切り者」というような使い方になるらしい。
そういえば、日本語でも「警察のイヌ」とか「幕府のイヌ」という用法で「手先」とかネガティブな意味に使っている。
長年、イヌと人間がつきあってきているのに、不思議な現象だ。

では、ネコはどうかというと、A cat has nine lives という言葉があり、ネコは9つの命を持っている、ということになる。
つまり、英語ではネコは生命力が強いということらしい。
敏捷で、狩りをすることから、きっと何かあっても生き残ると思われたのだろう。
しかし、日本語では、借りてきたネコとか、ネコをかぶるとかいう言葉があって、ネコはおとなしいという例えになる。

言葉は面白い。

| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
人はどれほど自由か
ぼくらは、生まれたときから基本的人権があり、自由であるということになっている。
まだまだ歴史は浅いが、そういういい時代に生まれた。
だから、自分は自由だと思っている。
でも、人間にはいろんな制約がある。
運命と言ってもいい。
だから、自由である、といってもそんなに自由であるわけではないと思う。

生まれたということが、すでに制約のかたまりだ。
昔なら、生まれた時点でほとんどが決まった。
現代ではそこまでは固定されないが、それでもかなりの部分は決まる。
生まれた国、話す言葉は大きな制約だ。
国で体制が決まるし、教育も決まる。豊かさも決まる。
今の日本は経済成長はほとんどないが、モノはあふれている。
小学生が携帯を持っている国などほとんどないだろう。

そしてどの親に生まれるか、どの家に生まれるか、ということも大きな制約になる。
階層の固定化というようなことが問題になっているが、社会の教育制度がうまく機能しないと、固定化してしまう。
今の日本など、義務教育が崩壊しているから、まさに固定化の道をたどっている。
余分な話になるが、そういう意味でも教育は大事なのだ。

そのほかにも、親の考え方や商売なども子供の自由を制約する要因だ。
もちろん、姿かたちなど、遺伝的な要因もある。

つまり、ぼくらは自由、自由と言っているが、そんなに自由ではない。
むしろ、自由でないことがほとんどだ。
それでも、自ら望めば(望むかどうかも自由ではないが)、少しは生まれた時から背負っている枠組みを変えることができる、という程度の自由が普通ではないか。

自由であることが大事なのではなく、自由であると思えることが大事なのだろう。

もともと、生物としての人間は自由だが、社会で生きる人間は不自由だ。
それが社会というものであり、そうしないと人間という種は滅びるのだろう。
だからこそ、人間は自由を求める。

もっとも、真に自由であったら、どう生きていったらいいのかわからず、困るのも事実なのだ。

ナントカの自由、カントカの自由など、いろんな自由がある。
でも、それが本当に自由か、よく考えたら、いや、自由でない方がいい、という人もたくさんいるだろう。

それはまた今度。


| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
昔のごちそう
ぼくが小さい頃、ご馳走といったら、一つはバナナだった。
昭和38年に自由化されるまでは、バナナは高級な果物。
なかなかお腹いっぱいバナナを食べることは出来なかった。
しかし、自由化されて南方からどんどん入ってくると、値段が下がり、普通の果物になった。

すき焼きも、今とはだいぶ違う。
年に何度かしか食べられない、ごちそうだった。
亡くなった父がすき焼きが好きで、何かあったら「すき焼き」と言っていた。
これも今とはだいぶ違う。

ステーキなどというものも、ごちそうの部類だった。
一般的にはビフテキと呼んでいた。これはビーフステーキの略だと思う。
でも、普通のビフテキでもたぶん今のステーキよりだいぶ薄かったはずだ。
それに、固くて、スジがあった。
初めて今のステーキと呼ばれるものを食べたのは、会社に入ってからではなかったか…。

エビフライも結構ごちそうだったと思う。
今みたいにエビが安くなかったはずだ。
それと、鶏のもも肉もごちそうだった。
ちょうど骨のところにアルミホイルを巻いて、そこを持って食べる。
ぼくはこれが大好きで、誕生日というと母に頼んでいた。

逆に、クジラはよく給食で出てきた。
醤油とショウガで味がつけてあった。
パンと一緒に食べると結構おいしくて、ぼくは好きだった。
しかし、これは今はもう食べられない。
どちらかというと、贅沢品になった。

時代が変わると、ごちそうも変わる。

あと100年くらいしたら、みんな昆虫を食べていて、昔は牛を食っていたらしいなあとか言うと、「気持ち悪い」というリアクションが一般的になっているかもしれない。

それほど温暖化や食料不足は深刻だ。

今の時代に感謝。

| | 考えたこと | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
Black dog syndrome
アメリカにはイヌのシェルターがあって、そこでは放棄されたイヌが保護されている。
日本でも最近はそういうNPOがあったりする。

黒いイヌはなかなか引き取り手がない、というのがBlack dog syndrome。
黒いイヌ症候群という。
なかなか難しい問題だ。

地域によってはそういう「差別」が激しく、処分せざるを得ないイヌが出てくるという。
身体が黒で、足が白という組み合わせが悪いという地域もあるらしい。

イヌも人間も同じだが、どういう外見で生まれてくるか、どういう国で生まれてくるかといったことは選べない。
親が子を選べないのと同じく、子も親を選べないのだ。

だから、生まれてきたイヌには罪はない。
黒であろうと、白であろうと、それはそのイヌが選んだものではない。
差別はやめて、黒いイヌを引き取ろう、というのがこの黒いイヌ症候群の単純な解決法。

それでも、多くの人は黒いイヌ症候群自体を知らないという。
そんなことがあるとは思わないらしい。

まず、知ることが大事なのか、それとも知らずに自然に振る舞う方がいいのか…。

何となく、人種問題みたいになってきた。

| | 考えたこと | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
お昼の地上波
久しぶりに昼間の地上波テレビ番組を見た。

ビデオで番組を進め、画面の左上の小さな小窓の部分にタレントがそれを見ているところを映している。
果たしてこの小窓は必要なのだろうか。
ビデオの内容を見て、常連のタレントたちがうなずいているだけだ。
全部合わせてもギャラはしれているだろう。

番組の内容はビデオで撮ってある素材。
これはおそらくテレビ局本体ではなく、下請けや孫請けの会社が依頼を受けて作っている。
たくさんの番組制作会社がある。
労働条件は過酷なものだ。
休みはなく、長時間労働は当たり前、年収は200万そこそこ。
若い人が入ってきては辞めていく。

それはそうだろう。
テレビ局自体の収入が減っている。
広告を出す会社が減ったし、スポンサーも減った。
深夜番組なら、若手芸人はギャラがなくても出演するらしい。
費用をケチらないと番組が作れない。
そうまでしてくだらない番組を作る必要もないと思うのだが…。
ネットの宣伝も増えた。今まで1分のCMを流していたところが30秒にして、後はウェブで検索、という所も増えた。

結局、画面の左上の小窓は、テレビ局本体がこの番組を作っている、という意思表示かもしれない。
あってもなくてもよい内容。
ビデオの時間つなぎにしかならないのだが、それでも意地でやっているのだろう。

地上波のテレビはいずれWebに負ける。

そして番組制作会社は独立してWebのコンテンツ制作会社になるかもしれない。

その頃には、テレビ局は番組制作会社にお願いして番組をもらっているかもしれない。



| | 考えたこと | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
初代カローラ
初代カローラが発売されたのは1966年。

日本のモータリゼーションが本格的に始まった。
たしか、ぼくが小学校の6年の時に近所で展示会があった。
地域モーターショーのようなものだ。
その当時の最新の量販車を並べていたのだと思う。

ぼくはその当時からメカ好きだったので、友だちと自転車に乗って見に行った。
当時のカローラは今と違って鉄の塊のようなクルマだった。
今はウレタンバンパーのような素材もあるし、アルミニウムも炭素繊維も使われているが、その当時は鉄だった。

当時のカローラは小さいクルマだったが、大きく見えた。
これから、日本もアメリカのように豊かな社会になっていく、というような気分があったのかもしれない。
何となくうかれた時代だった。

小学生だったが、クルマを見て回ってたくさんのカタログを家に持って帰った。
当時の展示会は子供同士で行っても、見せてくれたし、カタログもくれた。
きっと、今から見たらしょぼくれたカタログだったと思うが、何度も繰り返して見たことを覚えている。

そんな1960年代だった。

日本の高度成長の始まりの時期。

1964年に名神高速道路ができて、新幹線も走り、東京オリンピックが行われた。

その2年後がカローラの誕生。

あの頃は、今の時代を想像することすらできなかったと思う。

ちょっと進みすぎたかもしれないなあ。

| | 考えたこと | 02:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカのクルマ好き
アメリカはモータリゼーションが最初に起こった国。
都市が点在し、フリーウェイでつながっている。
クルマが主な移動手段だ。
よほどの都市部を除いて、歩いている人は少ない。

ネィティブアメリカン(昔はインディアンと言った)以外の人は、まだまだ新参者だ。
世界の各地には古いものがある。
古いものといっても、人間が作ったものだ。
西暦数百年のものがあったり、紀元前の建造物があったりする。

しかし、アメリカにはそういうものがない。
その代わり、歴史の新しいものについては強い。
例えばクルマ。
1920年代にはクルマ社会になっていた。
だから、1920年代のクルマがまだ残っていたりする。
今から90年ほど前。

テレビを見ていると、アメリカにはオールドカー好きがたくさんいる。
古いクルマを置いてある。
程度のいいものは倉庫の中にあり、ちょっと悪いものは外に並べている。
別に走れる状態にしてあるわけではない。(中には走れるものもあるが)
中古車屋で出物を見つけて、買ってくるのだろう。

さすがに広い国だ。
土地が余っている。

シボレーやフォードの古いモデル。
やたら大きなボディで、スカスカのエンジンルーム。
まだボディがモノコックではなく、車台と分かれていた時代。

リッターあたり3kmというような燃費で、エンジンをぶん回して走る。
機能と関係があるとは思えない、羽や出っ張りがあるものが多い。

あれを見て、古き良きアメリカを思い出すのだろうか。

| | 考えたこと | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
イタリア人
イタリアの刑事ドラマを見た。
何とも言えずかっこいい。
細身のスーツを着こなしているが、ちょっとタイは緩めている。
少しルーズな印象。
それが板についている。

アルファロメオに乗って、ローマの街を走る。
あの赤いクルマが似合う街だ。
石でできた街。

朝起きてエスプレッソを飲む。
小さなカップで飲んで、飲み終わったら指でカップの底に残ったコーヒーをすくってなめる。
その仕草も自然だ。
いつもやっているのかもしれない。

イケメンという安っぽい言葉は似合わない。
向こうの俳優は中年に近い。
日本のように若い俳優は出てこない。
みんな大人だ。

イタリアという国は、ローマの時代に栄えた。
それからずっと右肩下がりだ。
若者の失業率も高いし、政治家のスキャンダルもある。
それでも、みんな明るく楽しい。

日本もいずれイタリアのようになるのだろうか。

| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
何でもみんなでやる
非営利の法人の悪いところは何でもみんなでやろうとすることだ。
これが委員会制度。
何やら委員会、かんやら委員会とたくさんの委員会ができる。
そして、誰が決めたかわからない無責任体制になる。
国会の仕組みも同じようなものだ。
「誰が」決めるのか、ということが組織の一番大事なところなのに、それが決まっていない。
「委員会」というわけのわからない組織で決める。
誰も責任を取らない。

権威を嫌い、平等を尊ぶ傾向がある。
それ自体は悪いことでないが、時と場合による。

どう考えても、何かを決めないといけないのに、決まらないというような場合はどうするのか、
という選択肢もない。
委員会はまちがいなく決める、という幻想の元に作られているからだ。
とにかく決まるまでやるか、決まらないまま終わる。つまり、決まらない、ということを決めるのだ。
言い方はいろいろあるだろうが、決定の先延ばしに他ならない。
くだらない事は決まるが、大事なことは決まらない、決められない。
そうなると、組織はずっと変わらない、変われない。

そんな組織が世の中にはたくさんあることを知った。
そう思って見てみると、国会の委員会などもそれに該当する。

今、一番大切な問題は、税と社会保障の一体改革だと思う。
でも、だれもそれに触れない。
今の制度が100年も続くと思っている人がいるのだろうか。
そんなものは官僚が作った作文だとみんな思っているだろう。
思っていないとしたら、本当におめでたい話だ。

ダメな委員会を解散して、方針を決める人が必要だ。

それがワンマンであってもかまわないと思う。

今やミンシュシュギなど当てにならない。
良く出来た独裁の方がマシなのではないか。

| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
勘違い
何度も書くが、今の教育者たちは勘違いをしている。

彼らは決められたことを教えないとイケナイ、と事あるごとに言っている。
決められたこと、というのはその学年の課程で教えなさい、と文科省が決めているものだ。
だから、必死に教えようとしている。

暗記中心の科目ならまだいい。
前に覚えていなかったことも、もう一度覚えるだけだ。
しかし、多くの重要な科目は積み上げ式になっている。
前の学年、前の学校で習ったことを理解していないと、その先のことは教えられない。
正確には教えられないのではなくて、教えても理解できない、ということになる。

そういう事を何年も繰り返された生徒はどうなるのだろうか。
まずは学ぶことの面白さといったものを理解できない。
教室で授業時間を過ごすことが苦痛でしかない。
それでも、今の学校なら一定の時間数さえこなせば、卒業はできる。
それを履修主義という。
要は出来なかったら補習を受ければOKというようなものだ。(小学校にはそれすらないが…)
それが理解されたかどうかは問われない。

昔は修得主義だった。
いくら時間数を履修しても、テストである到達点に来ていなければダメというものだ。
しかし、いつからか、履修主義になった。
履修主義が先か、学年を進ませるのが先か、それはわからない。

少なくともこれだけは理解して、卒業してほしい、というような思いは今の教育者にはないのだろうか。
クラスでみんなとうまくやるとか、元気に運動するとか、ナントカ委員をやるとか、そんなことも大事ではある。
しかし、ウチの学校を出るからには、これだけの知識はつけてやらないと…、という事はなくてもいいのだろうか。

なければならないと思う。

そうは思っていても出来ないのか、それとも、もともとやる気が無いのか、あるいはその重要性がわからないのか…。

そんな先生に、そんな授業をずっと聞かされてきた生徒は、先生の話を聞かない訓練をしているようなものだ。
寝ずに、こっちを見て、そして無反応。
不思議な光景だと思う。
そういうのを見ると、本当に気の毒だと思う。

そんなことをしている先生は教育者ではなく、教育屋だと思う。

今、日本で中国の文化大革命みたいなことが起こっている。
静かに、しかし確実に、知識を殺している。


| | 考えたこと | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボヘミアン
そんな題名の歌があった。
改めて、ボヘミアンとは何かと思って気になって調べてみた。

ボヘミアは「現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。」と書いてあった。
そこの出身と考えられていたのがジプシー(今はロマという)と言われる人々らしい。

それが転じて「社会の規範にとらわれず、自由で放浪的な生活をする人」という意味になったと書いてある。
こういうことを調べるときには、インターネットは本当に便利だ。

「社会の規範にとらわれず、自由で放浪的な生活をする」というのは、誰の心にもある欲望だろう。
実際にはなかなかできない。

思い出すのは、車寅次郎。男なら誰もが寅さんのように生きてみたいと一度は思う(と思う)。
風の向くまま気の向くまま、旅から旅への暮らし。
でも、実際には食うや食わずのヤクザな生活。
義理人情を大事にする。
そういうところに憧れたりする。

アメリカのハードボイルドの探偵も、ボヘミアン的な人が多い。
マイク・ハマーやフィリップ・マーロウなど、警察やギャングを敵に回して孤軍奮闘する。
誰も頼るものがない。
そして、お金を払ってくれる人もいないのに、誰かのために働いたりする。
ぼろぼろになって、酒を飲んで眠る生活。
これもちょっと憧れる。

ボヘミアンは自由だが、その代償に孤独で不安定なものだ。
代償を払ってでも、自由を愛する人がボヘミアンになる。
もちろん、安定した生活を望みながら手に入らず、仕方なくボヘミアンになる人もいるだろう。
いや、どちらかというと、そちらの方が多い。

だから、実際には多くの人は、ボヘミアンという生き方を選ぶのではなくて、仕方なくなっているのかもしれない。
それでも、憧れの対象だ。

| | 考えたこと | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生の岐路
人生には決めなければならない時があると思う。
あるいは、決めさせられる時かもしれない。

長年勤めたところを辞める時が来る。
そういう場面があった。
実際のドラマも10年以上続き、第一シーズンから出演していたキャスト。
CSIのキャサリン・ウィロウズという鑑識の役だった。

印象的だった別れのシーン。
ラボのみんなの携帯に全員招集をかけて、集まったところで話をする。

 FBIから仕事のオファーがあって、行くことにした。
 人生には決めなければならない時がある…

「みんなを誇りに思う」というセリフは役を離れた言葉だったと思う。
涙を流しているメンバーもいた。
移り変わりが多いテレビ界で、10年以上同じドラマに出て、仕事を共にしてきたのだから仲も良かっただろう。
そうでないと、10年も続かない。

それを見て、会社を辞めた時を思い出した。

うまく仕事が回って当たり前…、そんな仕事が最後の仕事。
褒められることはないが、うまくいかなければ、怒られる。
縁の下の力持ちだった。
そういう仕事に誇りを持ってやってほしい…そんなことを言った覚えがある。

ぼくにもあんな仲間がいたなあ。


| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
無関心選挙
兵庫県知事選挙は参議院と同日選挙だそうだ。

出馬は現職と新人。現職は67歳、新人は64歳。
64歳の新人というのは、この世界しか通用しない。
もうちょっと若返りできないものか。

現職は自民、民主、公明、社民推薦、新人は共産推薦。
自民党、民主党、公明党、社民党が推薦とはどういうことか。
県会議員たちは何の文句もないのか。
社民党と一緒で…。
情けない。

せっかく橋下大阪市長がいろんな問題を提起しているのに、それに関する議論もない。
道州制や民営化、教育委員会など、問題は山積みのはずだ。
大阪市、大阪府の問題は多かれ少なかれ兵庫県の問題でもある。

維新の会がこけなければ、興味深い知事選になったと思うのだが、これでは出来レースと言われても仕方ない。
どの地方自治体も首長と議会はなれ合いになっている。
なんの緊張関係もない。

これこそ無関心選挙にならざるを得ない。


| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
あきれたニュース
この手のニュースが時々ある。

時々起こる事の裏には、何百、何千という同じようなことが起こっている、というのが通例だと思う。

7月4日の読売新聞のニュース。
「栃木県鹿沼市立小学校の30歳代の男性教諭が6月下旬、担当する2年生のクラスの女児に対し、給食当番なのにマスクを忘れたとして、口に粘着テープを貼っていたことが、同市教委への取材で分かった。」という。

何でも市教委に匿名の電話があって発覚したらしい。
もちろん、新聞社にも匿名の電話があったのだろう。
話を聞いた親が匿名で電話をしたのかもしれない。
匿名でしないといけなかった理由は、さらに子供に被害が及ぶのを恐れたのだという推定も成り立つ。

何度も書くが、日本の義務教育は崩壊していると思う。
十数年前に「分数ができない」大学生がいる、ということが言われているのに、それを教えている小学校の問題が指摘されたということもなく、その状態はどんどんひどくなっている。

文科省は何をしているのだろうか。

小学校をナントカしないと、そこから上にいくら力を入れても効果がない。
それは教育に携わっている人なら誰でもわかるはずだ。

こんな先生がいるということは、その予備軍が何百、何千といるはずだ。
教員養成課程が問題だということや、学校のガバナンスに問題があるということがわからないのだろうか。

もっと優秀な教員を養成する必要がある。

いつになったら、気がつくのか。


| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
リーダー不在
参議院選挙が今日公示された。

この選挙の争点は憲法改正の手続き論であるらしい。
それが大事ではないとは言わないが、厚生労働省の年金の問題や増え続ける社会保障の問題はどうなったのだろうか。
こんな大事な問題を選挙の時に争点にしなくて、どうするのか。

少子高齢化で若い人が減り、高齢者が増える。
全体の人口も減るが、それをはるかに上回る勢いで高齢化が進む。
要は、いろんなものを税金で賄っているが、それが成り立たなくなる。
社会保障費はその最たるものだ。
税金を納める人が減り、年金や医療費をもらう人が増える。

今の若い人たちは数人で高齢者を一人支えなくてはならない。
そして、その人たちが年金の恩恵にあずかるのは、どう考えても80歳を超えてからだ。
そういうことに蓋をしたまま選挙をするというのか。

政治家はみんな票がほしい。
しかし、票をもらうことより、しんどくてもやらないといけないことがある。
それが政治家の使命だ。
もうすでに壊れている制度をやり続けるというのは、国民をだますことになる。

いつから、こんなバカな国になったのだろうか。

世代間格差がどんどん大きくなっていくのに、だれもそれを指摘しない。
若い人が何も言わないのをいいことに、年寄りが搾取する。
このままいくと、暴動がいつか起こる。

そのまえに財政破綻して、リセットしなければならなくなる可能性の方が大きいと思うが…。

政治の貧困だ。

誰かが言った、ある国がよいリーダーに恵まれるのは運だ、というのは本当だと思う。

日本にもサッチャーのようなリーダーが生まれないものか…。

| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
フェルミ推定
フェルミ推定という問題がある。
物理学者のエンリコ・フェルミが得意としたことから、この言葉ができた。

Wikipediaで意味を調べてみると、「フェルミ推定(フェルミすいてい、Fermi estimate)とは、実際に調査するのが難しいようなとらえどころのない量を、いくつかの手掛かりを元に論理的に推論し、短時間で概算することを指す。オーダーエスティメーションともいわれる。」と書いてある。
オーダーエスティメーションとは、桁数(オーダー)を推定するという意味だ。

例を挙げると、「日本にイヌは何匹くらいいるか」とか、「日本に電信柱は何本あるか」とかいうのがフェルミ推定の問題。

この手の問題がマイクロソフトやグーグルの入社試験で出されて有名になった。
もちろん、答えが合うことが大事だが、論理的に考えて答えを導く過程の方が重視されるという。

日本の人口が1.2億人で、一世帯が2.5人とすると、日本の世帯数は4800万世帯。
4世帯に1匹のイヌがいるとすると、4800万÷4で1200万匹になる。
正解は1200万匹だから、推定通り。
人口→世帯数→イヌの数という風に考えると、この答えが出る。

『 実際にフェルミが学生に出したといわれているのは「シカゴにはピアノの調律師が何人いるか」という問題。これを解くために、フェルミは「シカゴの人口は300万人」「ピアノを保有している世帯は1割」「調律師が1日に調律するピアノの台数は3つ」などと仮定して、130人程度という数字を出している。』とのこと。

頭の体操としては役に立つと思う。

しかし、この能力があると、いい仕事ができるとは限らないということで、グーグルは方針を変えたらしい。
まあ、そうかもしれない。
でも、頭の柔らかさを見ることはできるような気がするが…。

入社希望者が同じような問題ばかりやって、対策をするようになったのかもしれない。
こういうのは面白がってやるところに、面白みがある。

日本でも取り入れてやってみればいいと思う。


| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
遺伝子の仕組み
親子が似るのは遺伝子のためだ。
現在はそういうことがわかっている。

人間の細胞には全て遺伝子が入っている。
一つ一つの細胞の中に、身体全体を作る図面が入っている、と言っていい。

子どもは親の遺伝子を半分ずつ引き継ぐ。
だから、そのどちらの特性が出るかはわからない。

この遺伝子の仕組みはすごくよくできている。
あまりによくできているので、誰かがこの規則を作ったのではないかとさえ思われる。
人の遺伝子とハエの遺伝子はそんなに変わらないらしい。
8割は一緒だという。
ということは、残りの2割が人間を人間たらしめているという事になる。
一体、どこの誰が生物を考えたのか。

こうなると、神が出てこざるを得ない。

いろいろな宗教が、現世の救いを言っている。
救いというのは、結局その人が頼んだことだろう。
要は助けてほしい、ということだ。

しかし、この遺伝子の事実を知ると、本当に誰かが考えて作ったのだとしか思えない。
そういうのを、神というとすると、神はいるかもしれない。

親と子で気質や見た目や性格が似る。
でも、同じではない。

こういうことを考え出すと、人間は神を作らざるを得ない。

これが新しい宗教の元になるものだと思う。

今や人間は人間を作ることができる。
これはどこまで進むのか。

あるところから先は、それこそ神の領域だろう。
そこを犯したら、神の怒りを買うのだろう。

21世紀の終わり頃に、どうなっているか…。



| | 考えたこと | 00:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
ディスる
次男が「ディスる」という言葉を使う。

文脈から、どうも「けなす」というような意味だとわかる。
ネットで調べると、「ディスるとは、軽蔑し、罵り・けなすこと。」と書いてあった。

日本では、2007年くらいから若者に使われているとのこと。
中には、アメリカでは15年前に流行ったので、今日本で使うのを聞くとかっこわるいという意見もあった。
語源はdisrespectらしい。
頭のdisをとって、ディスるという。
アメリカではdissと、一つsを余計につける。

まあ、何となく意味はわかるが、英語の接頭辞のdisは後につくものを否定する、という事だと思う。
したがって、普通はディスるといっても、どういう意味かはわからない。
しかし、HIPHOPのシンガーたちがdisrespectのことを意味して、ディスるという風に言ったから、それが一般的になった。

英語からきた俗語だ。

昔はおニューというのもあった。
今はリバースするというのもあるらしい。
酒を飲んで吐くことだ。

日本語も国際的になった。


| | 考えたこと | 00:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
Yahoo知恵袋
今日職場でYahoo知恵袋の話を聞き、一度見てみた。

知らない人のために書いておくと、Yahoo知恵袋というのは、何かの質問をした人に答えを書くという、ある種の人生相談みたいなサイトである。

カテゴリーが17個あり、「エンターテインメントと趣味、健康・美容とファッション、子育てと学校、ニュース・政治・国際情勢、地域・旅行・お出かけ、おしゃべり・雑談、暮らしと生活ガイド、ビジネス・経済とお金、職業とキャリア、教養と学問・サイエンス、コンピュータテクノロジー、インターネット・PCと家電、生き方と恋愛・人間関係の悩み、マナー・冠婚葬祭、スポーツ・アウトドア・車、Yahoo! JAPAN、その他」となっている。

例えば、この「エンターテインメントと趣味」というカテゴリーにはさらに13の中カテゴリーに分かれていて、全部合わせて71個の小カテゴリーになっている。

数えていないが、400以上の項目で質問ができる。

一つ抜き出してみると、「すみません。ローラの顔のかわいさがわからないんですが…みんな顔も中身もかわいいと言いますが、どこがかわいいんですか?」という質問に対して、「可愛いと思うけど好みの顔ってありますよ。ローラは金髪にして目はカラコンにしてるんだって。何もしなければ全然イメージ違うかも?だから質問者様は素のバングラデシュ人らしいローラに戻ったら逆に可愛いと思うかも?」という答えが書かれている。

これは一体何だ。
ローラのかわいさがわからなくても、いっこうにかまわない。
それに対して、人には好みの顔があるから…という。
こんな質問や答えにインターネットが使われている。

ものによってはたくさんの答えが書かれており、ベストアンサーが選ばれる。

また、答えを書く人はそれを趣味にしている人も多いようで、どんどん答えを書いている。
答えを書いて、どんないいことがあるかはわからないが、定年を過ぎて暇な人が多いのかもしれない。

これも一つのネットの弊害だろう。

聞けば誰かが答えてくれるというシステム。
それに質問をする人、答えを書く人。
それは人に聞くべき質問なのか、どうなのか、ということは全く考えない。

こんなサイトが流行るくらい、日本は平和なんだろう。

こんな事を続けていると、みんなバカになってしまうぞ。



| | 考えたこと | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0) |