今はどうなっているか、わからないが、ぼくが勤めていた大学はほぼボーダーフリーだった。
開学時は偏差値が65というような学校だったが、段々と下がり続け、ぼくが辞めた2014年にはほとんどボーダーフリーになっていたと思う。
ボーダーフリーというのは、一般入試で不合格者がほとんどいないから、偏差値がつかない大学のことだ。
今ネットで調べてみると、偏差値は35〜37.5という値。
実際には、推薦、AO入試でできるだけ集めておいて、一般入試は残りを埋めるためにやる。
一般入試といっても、A1、A2、B1、B2、B3、Cというように、だいたい5〜6回くらいのチャンスがある。
偏差値35というと、成績の下位10%という感じ。
30以下になると、意味がないと思う。
35はかろうじて…、というところ。
実際、一般入試のあとの教授会で合格者が決まるのだが、ボーダーフリーではよほどのことがない限り合格する。
下手をすると、全員入れても定員割れするような状態なら、教授会も自分たちの給料のことを考えて全員合格させる。
いざとなったら、カリキュラムの難易度や高校卒業程度の常識などおかまいなしだ。
そういう学校は推薦やAO入試でも、よほどのことがない限り合格。
背に腹は変えられない。
だから、必死でそういう学生を教育するかというと、一部のまともな教員を除いて、そんなしんどいことはしない。
食うために、入学させたのだ。
結局、自分たちの作ったカリキュラム、ひいては教育システムを放棄していることになる。
なぜ突然こんなことを書いたかというと、朝比奈なを氏という教育ジャーナリストが
記事を書いていたからだ。
記事の中にこう書かれている。
「確かに、近年は、定員を充足していない大学が全大学数の半数近くに上っている。だが、これらの大学の中には、経営状況が厳しくとも、教育の質を保つために入試の選抜機能を手放さない学校も存在する。その一方、そうでない大学は、高等教育の学修が可能になるだけの基礎学力や能力、さらには学習意欲を持っていない学生が多数入学し、教職員がどれだけ努力をしても教育活動が功を奏さない状況になる。」
悪いが、ぼくは入試が成立していない大学のうち、「そうでない大学」の方がはるかに多いと思う。
たかが初年次演習や文章の書き方入門などの授業を作ったり、学習支援室を置いたりしても、結局カリキュラム全体を見直し、「先生」を教育し直さないとムリだろう。
やはり、入試の選抜機能を持たさないとダメなのだと思う。
ここに書いてあった、「親は入学式なのに普段着」というのは、ぼくも驚いた。
2013年だったか、入学式に親子揃ってジャージ姿だった。
それは別に悪くはないが、やぱり「常識」が違うという事にならざるをえない。
その年に、ツイッターにバイトテロのような写真を学生がツイートした。
こうなると、従来の「大学」という分類には馴染まない。
だからこそ、小中高の教育をなんとかしないとダメだと思う。
それさえ、「そうでない大学」の人たちはダンマリだ。
それでいいのだろうか。