考えたこと2

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iFRとCSI
iFRというのは、ドイツ科学捜査チームのこと。
今日ドラマをやっていたので見た。

CSIというアメリカの犯罪捜査のドイツ版。
まあ、パクリといえば、パクリになる。

でも、だいぶ科学捜査のやり方がちがう。
CSIはコンピューターや自動の計測器、指紋や顔を同定するデーターベースを使う。
スピードが早い。

ドイツのiFRはちょっと違う。
もっと重苦しい雰囲気。少し暗い。
コンピューターやデーターベースというより、計測器を使う。
もちろん、CSIでも計測器は使うのだが、それよりデーターベースの方が印象的。
アメリカはコンピューターの国だ。

一方、ドイツは計測器の国だ。
精密な計測が得意。化学計測器もいかにもそんな感じ。
自動で、サンプルを入れた小さな試験管に針を刺し、結果を出す。
勝手なイメージだが、いかにもドイツらしい。

車では、ポルシェやBMW、ダイムラー。
薬のバイエル、カメラのライカ、スポーツのプーマやアディダス、万年筆のモンブランやペリカン。
どれも重々しい感じがする。

ドイツの製品と同じで、iFRというドラマも重々しい。

CSIに慣れてしまったら、ちょっとシンドイかもしれない。

でも、国柄がよく出たドラマだ。

| | 考えたこと | 22:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
イエズス会
今日は出張で東京に日帰りした。
行き先は上智大学。
イエズス会が母体になっている。

四谷の上智大学の建物のとなりは、教会だ。
今日は間違えて入りそうになったが、女子高生らしき一団が中に集まっていて、よく看板をみたら教会だった。
どうしてミッション系の学校は清楚な感じがするのだろう。
日本人だから、もともとキリスト教徒などいないはずだが、あの制服がそう思わせるのだろうか。

仏教系の学校もあるが、何となくやぼったい。
ぼくは幼稚園が仏教だった。
すぐそばに、ミッション系の幼稚園もあったが、そっちの方が何となくかっこよかった。
ひかりの園、という名前。

キリスト教のイベントはなんとなくハイカラだ。
西洋から来たから、当たり前といえば当たり前だが…。
実際、クリスマスは花祭りよりも派手だ。

しかし、上智大学に勤務している人が全てキリスト教だとは思えない。
家は代々仏教だろう。
学校でだけキリスト教ということか。

西洋ではどうなのだろうか。
宗教が建てた学校はあるはずで、その中の人はみんなその宗教ではないのか。
中に修道院みたいなところがあって、その人たちだけホンモノという場合もあるか。

ということは、従業員は仕事が一番で、宗旨はそれ以下ということになる。

まあ、背に腹は替えられない、ということだろう。

それにしても、教会はよかった。

あれを見られたのは収穫だった。



| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
ベレー帽といえば
ベレー帽といえば、マンガ家。
今日の朝のドラマでも、若手の少女マンガ志望の女性がベレー帽をかぶっていた。

昔、手塚治虫が自分の絵を描く時に、ベレー帽をかぶった絵を描いていた。
実際にベレー帽をかぶって写っている写真も見たことがある。
今のマンガ家はかぶっていないような気がする。

海外では画家がベレー帽をかぶっている。
キャンバスにはつきものだ。
モンマルトルの丘には、ベレー帽をかぶった絵描きがいる。

日本ではなぜマンガ家なのだろう。
手塚治虫の影響だろうか。
それだけ、手塚治虫の存在が大きいということだ。

たしかに、鉄腕アトムに始まり、リボンの騎士やジャングル大帝、ビッグX、マグマ大使、ワンダー3、悟空の大冒険などのアニメの初期の作品は全て手塚治虫。
これらは、ぼくが小学校の時だ。

それから、少しマンガから遠ざかっていたが、ブラックジャック、火の鳥、ブッダは大学の時に読んだ。

オトナの絵になっていた。
でも、手塚マンガだ。

結局、手塚治虫がベレー帽をかぶっていたから、日本では「マンガ家はベレー帽」というステレオタイプができた。

さすが、手塚治虫。



| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
向いてない仕事
どうしても、向いてない仕事というのがある。

誰しも、一つはあると思う。
ぼくの場合は、細かい文章校正。
これは苦手だ。

自分の書きたいことを書いた文章ならまだいいが、みんなで分筆したものを校正するのは苦手だ。

特に何かの申請書みたいなものは、本当に苦しい。
途中で、どうでもいいのではないか、と思ってしまうのだ。

明らかに間違っている場所ならいいのだが、合っているようで、間違っているようなところがシンドイ。
それも、申請の場合は、相手の意図を考えてやらないといけない。
その意図がよくわからないと、もうお手上げだ。

自分で好きなように書くのはいいのだが…。

こういうのは本当に向いてない。

他にも向いてない仕事はあるが、これはその一つだ。

| | 考えたこと | 01:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
レナウン
あの、レナウンが中国の企業の傘下に入った。
山東如意科技集団という中国8位のアパレルメーカー。

お互いのブランドを、お互いの国で販売するらしい。

資金力からいうと、仕方がないことだろう。
今や中国はGDPで日本を抜こうとしている。
もちろん、人口が10倍以上だから、一人当たりのGDPは大したことはないが、国として世界2位だからお金はある。

現実に日本でうまくいかず、買い手がつかない企業が中国の企業傘下に入る。

レナウン娘のCMや、アラン・ドロンのダーバンのCMなど、懐かしい。

70年代、80年代は調子よかったのではないか。
ダーバン、アーノルド・パーマー、シンプルライフ、インターメッツオなど、よく聞いたおぼえがある。

あのレナウンがなあ…。

日曜洋画劇場のスポンサーだった。
あのレナウン娘の人形が出てくるCMや、アニメのバージョンもあったような気がする。
あの頃は好調だったレナウンも、経営を誤ったのだろう。

成功が慢心を生む。

あの頃のアラン・ドロンはギャラがいくらくらいだったのだろうか。





| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
ちょっこし
朝ドラで使われる、島根県の方言。
「ちょっぴり」「ちょっと」という意味の「ちょっこし」という言葉をよく使う。

これが何とも言えず、暖かいというか、ゆっくりした感じが出ている。

「ちょっと行ってきます」というのを、「ちょっこし行ってきます」というだけで、だいぶニュアンスが変わる。
言っている本人にとっては、ちょっと、という意味なのだが、響きが違うのだ。
こういうのを聞くと、方言は残してほしいなあ、と思う。

「だんだん」もよくドラマの中で聞くが、これは本来「重ねがさね」という意味。
「だんだん ありがとう」という言葉の後半が省略されて、「だんだん」が「ありがとう」という意味になったと聞く。
こういう言葉がたくさんあるんだろう。

関西にもそんな方言があるが、話している本人は気づいていない。

東京にも、きっとそんな方言があるのだろう。

そういえば、同期入社の東京出身者が何かの時に、「おっかない」と言っていた。
「恐い」、ということを「おっかない」という。
これは東京弁なのか…。

標準語が浸透し、日本中どこでも言葉が通じるようになった。
これで得られた効率化の利益は、はかりしれないと思う。
明治政府の英断だろう。

しかし、その一方で方言がなくなっていく。
2世代離れると、もう言葉が通じないという事もあるだろう。

仕事で宮崎の都城市に通ったことがあるが、そこでは本気で方言を話されると、まったくわからなかった。
宮崎から見て地方から来た人には、方言が通じないというのは、本当だ。
それが、どれくらい若い世代に伝わっているのか。

「ちょっこし」はいい響きだ。

こういう言葉は残してほしいなあ。



| | 考えたこと | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
フリーの意味
坂本龍一がジャズの解説番組をやっていた。

それによると、モード奏法からフリージャズに行ったとのこと。(モード奏法がなにかはわからないが…)
マイルス・デイビスから、オーネット・コールマンそしてジョン・コルトレーンという流れだそうだ。

サックスやトランペットがメイン。
音色や奏法が鍵盤では出せない音。
ひずんだ音やヘンな倍音を使った音楽。
リズムやビートも一人ずつ違う。
それがフリージャズ。

フリーという言葉の意味は何か?とブラスバンドの高校生に問う。
「何をやってもいい」「自由」という返事だった。

そこで山下洋輔が「自由」だけれども、そこには責任がある、という。
フリージャズも、自由であるがゆえに、責任を持たないとイケナイ。
一人でやるのではなく、メンバーがいる。
音楽の会話が成り立つように演奏するのだろう。

「演奏が終わると、音楽はどこかへ消え去ってしまう。そして二度と戻ってこない。」

フリージャズはわからない、と思っていたが、今日の番組を見て何となくわかった。

もちろん、自分ではできない。

フリージャズは何をやってもいいということは、やろうとなると、何でもできるという意味であり、最高のプレイヤーでなければできないのだ。



| | 考えたこと | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
3Dテレビ
3Dテレビが話題を呼んでいるが、これは普及するのだろうか。
ぼくは3Dテレビも映画も見たことがないので、何とも言えないが、あのメガネはいただけない。

テレビを見るために、いちいちメガネをかけるということが、ユーザーにちゃんとできるのだろうか。
それを補って余りある、迫力や魅力が3Dにはあるのだろうか。

最近、地上波はめったに見ないが、あのコンテンツで3Dにする意味があるのだろうか。

くだらないバラエティやドラマは、いくら3次元になってもくだらない。

スポーツは確かに迫力があるだろうが、あのメガネをかけて、テレビを家族で見ているという姿は想像するとおぞましい。

映画は確かに3Dで見たらいいかもしれないが…、どうなんだろう。

3次元自体はそんなに新しい技術でもないし、メガネをかけて映像を見るという方式は今までもあった。
それがわかっていても、なかなか一般的にならなかったのが、今回は一般的になるのだろうか。

どうなるかわからないが、3Dテレビがやっと実用化…と言っている。

21世紀になって、テレビも3次元の時代か。

わからんなあ…。

| | 考えたこと | 01:28 | comments(2) | trackbacks(0) |
水曜の夕刊
日経の水曜の夕刊には、エンジョイ読書というページがある。

いつも「目利きが選ぶ今週の3冊」という記事が出ていて、3人が3冊、合計9冊の本が紹介されている。
最近日曜日の書評の欄があまり面白くなくて、こちらの方がいい感じである。

今日は「高校生からのゲーム理論」という新書が紹介されていて、これは面白そうだった。
手頃な新書なのがうれしい。
今度、本屋で見てみよう。

それと「ベストセラーの裏側」というところがあって、今日は「いかにして問題をとくか」という本について書いてある。

この本は1954年に初版発行され、今までに49刷12万部出たらしい。

レトロなデザインの表紙が載っている。

「第1に問題を理解しなければならない。第2にデータと未知のものとの関連を見つけなければならない。(中略)そうして解答の計画をたてなければならない。第3に計画を実行せよ。第4にえられた答えを検討せよ。」

なかなかいい引用箇所だ。

これも、本屋で見つけて読んでみたいと思う。

時々当たりがある。

また来週楽しみだ。

| | 考えたこと | 01:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
観葉植物
観葉植物の小さな鉢を買って、1回目は枯らしてしまった。

2回目は二重になった鉢に水を入れておいて、その上に観葉植物をの鉢をおくというタイプのものを買った。
大きさは観葉植物自体が、直径5センチくらいの鉢に入っているものだ。

それがスクスクと育ったので、3つめを買った。
同じように、二重で水の入った鉢に入れるタイプ。

冬の間は3日に一度くらい水を入れた。
これからは暑くなるので、もっと頻繁に入れないとダメだろう。
あわせて、霧吹きで葉とその裏に水をかける。

生き残っているのは、シダみたいな大きな葉っぱのものと、小さな丸い葉っぱのものだ。
どちらもスゴイ生命力。
窓のそばに置いてあるのだが、光が来る方向に向かって、葉っぱが伸びている。
葉の角度も日がよくあたるようになっている。

こないだ、新聞に光合成は光のエネルギーを90%使っていると書いていたが、その光を得るためにも最大限の努力をしている。

だから、鉢を置く場所はいつも同じ向きにしてある。
変えると、せっかく光がたくさん当たるようになっているのに、気の毒だ。

しかし、どういうメカニズムなのか。
たしか、茎にある化学物質が光に反応して、光の当たっていない方が成長する、というような事を習った覚えがある。
そうすると、葉が光の方に向かう。

書くと簡単だし、仕組みもわからなくはないが、どうして植物が自分で光合成の効率を上げるように成長するのか。

そこに何らかの意志があるような気がする。
それが何の意志か、それはわからない。

西洋では神の意志だというのかもしれない。

東洋では自然の神秘という感じかな。

それにしても、人間はまだ植物のメカニズムを解明したわけではない。
一部分のリクツがわかっているだけだ。

植物の知恵はスゴイ。

小さな鉢を見るたびに、感心する。

| | 考えたこと | 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユーロ危機
ギリシアが財政赤字を隠して、ウソをついていたらしい。
過去にもそういうことがあったらしいが、また起こったという。

おかげで、ユーロは安くなり、円も安くなった。
景気が冷え込んでいる時に、また調子が悪いことになった。

日本の銀行がヨーロッパにお金を投資しているらしい。
世界はつながっているのだ。

ドイツが12兆円ほど、フランスが10兆円ほど出すらしい。
ドイツ、フランスで約半分になる。

ドイツでは、不満が出ている。
地中海でヨットに乗って遊んでいるヤツに、金を出すのか…とのこと。
私たちの税金を注ぎこむのか、という納税者の声。

ユーロをやめて、マルクに戻そうという人もいる。

おかげで、メルケル首相の党が選挙で惨敗してしまった。

一体どうなるのだろう。

一番大人に国だと思っていたのが、ユーロ圏。
ムチャはしない、常識的に解決する、そういう事ができるのがユーロ圏ではなかったか。

統一してきた流れが、またバラバラになるのか。

ここでオトナらしさを出して、この危機を乗り切ってほしい。

| | 考えたこと | 01:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
要らないもの
今日、犬がシッポをふるのを見ていて、シッポは感情を表すためにあるのか、と思った。
犬のシッポは仲間うちでは、コミュニケーションの道具になっているのだろう。

ネコのシッポはもうちょっと実用的?だろうと思う。
あの身の軽さと関係がありそうだ。
シッポでバランスをとって、空中での姿勢を決める。

彼らにとっては、必要なものだ。
人間にもなごりが残っている。
尾てい骨という骨だ。
これは明らかに単なるなごりであって、必要がないものだ。
だから、小さくなってしまった。

そんな風に変化してきたのだろう。

人間の場合、骨の総数は約204個。
約がつくのは、人によってバラツキがあるからだそうだ。
尾てい骨の上の仙骨というのは、個数が人によって違うらしい。
その他にも調べたら違うところがあるかもしれない。

たしかに、一人ずつ骨の数を調べるのは不可能だ。
しかし、要らないものの個数は、全体の2%くらいか。

その程度の誤差はあるのだろう。

他の器官にも、そういうものがあるかもしれない。
さすがに、消化器、呼吸器、循環器などの根本的な構造は違わないにしても、ちょっとした神経とか、骨の形とか、そんなのはバラツキがあるだろう。

要は、2%くらいのいい加減さがあって、人体が成り立っている。

それくらいの冗長性がないと、「これでなければ、ダメ」というような考え方ではアブナイのだろう。

冗長性というのは、大事だ。

若い時は、冗長性は悪いものだ、というふうに考えがちだが、年をとってくると何となくわかってくる。

冗長であることは、いくらかのいい加減さがあってもよい、ということであり、それだけフトコロが深いのだ。

その、フトコロの深さが大事。
これがわかれば、ベテランと言える。

| | 考えたこと | 17:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
いい話
今朝のゲゲゲの女房。

水木しげるはマンガを描く以前、紙芝居を描いていた。
その紙芝居屋の親方を演じているのは、上条恒彦。
昭和30年代の中ごろ。ぼくがまだ幼稚園から小学校の低学年。
当時はまだ貸本屋があったが、もう廃れかかっていた。
ぼくは見たことがないが、紙芝居屋はまだいたかもしれない。

ちょうど紙芝居屋が廃れ、まだ貸本屋が流行っていた頃が今日のゲゲゲの女房の設定。

上条恒彦というと、木枯し紋次郎のテーマを歌っていた。
バリトンのすごい声量だった。
しばらくしてテレビドラマに出はじめ、その後ミュージカルをやっていたりした。
久しぶりにテレビで見たが、もう髭が真っ白になっている。

その上条が紙芝居ではもう食えなくなって、金を借りに水木のところにやってくる。
数日滞在して、昔話に花が咲き、主人公の女房は昔紙芝居をやっていたことを知る。
お世話になった恩人なのだ。

今日は親方は質屋に紙芝居の道具を入れに行って、金をもらおうとするが、結局は質に入れられず、帰るに帰れない。

水木は出版社が倒産し、原稿料が入らず、お金がない。
それでも、女房にいくらか包んで渡してほしいという。
木の葉がお札に変わればいいのに、という女房。

もう紙芝居では食えないのだ。
お寺の境内で悄然としている親方を見つけ、一緒に家に帰り、水木が言う。

「少ないですが、持っていってください。汽車賃くらいしかはいっとらんのです…。」

親方はお金が3千円入った封筒をおしいただいて、頭を下げる。
水木も頭を下げる。
階段の下で様子をうかがう女房。

その夜、親方は九州に旅立っていった。

流行るものがあれば、滅ぶものがある。

滅ぶものへの郷愁。
古き良き時代。

そんな話だった。



| | 考えたこと | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
パネリスト
今日は大阪でシンポジウムがあり、そのパネリストとして参加した。
生まれて初めてパネリストというのをやった。

依頼の電話がかかってきた時に、何で?と聞いたら、普段いろんなことを言っているからです、とのこと。
ぼくは、仕事を変わってまだ6年目だし、もっとベテランの人がいいのでは?と言ったが、まあまあ、と押しきられそうになった。
何人くらいの部屋なんですか?と聞いたら40人という答えだったので、それなら恥をかいてもまあいいか、ということでOKした。

シンポジウムの形式というのは、面白いものだ。
まず基調講演があって、そのあとパネルディスカッションというパターン。
このパネルディスカッションというのが、実際はパネリストの紹介を兼ねて短いプレゼンテーションを行い、その後会場から質問を受ける。
たいがい、パネリストのプレゼンが長くて、話し合いができないということが多い。

今日も4人パネリストがいたが、一人10分という予定で、だいたいみんな時間オーバーだった。
ぼくは1分ほどの超過で収めたが、やってみると意外と時間は短いものだ。

今日は終わった後パーティがあって、パネリストをやったからか、何人かの人がやってきて話をした。

みんな同じような事を考えている、という事がわかる。

しかし、それをデーターで示すという事をやっていない。
どういうデーターをとって、どう組み合わせるか、というところがミソだ。

なるほど、それがぼくを選んだ理由か…、と納得した。

会社で訓練されたスキルが生きている。



| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
会社
今日は25年勤めた前職の会社の宴会に誘われ、行ってきた。
遅れてしまい、まことに申し訳なかった。

しかし、25年の月日は重いことを痛感した。
25年といえば、実際に人生の半分に近い。
今の仕事を勤めて、定年までいったとしても、17年。
宴会場に着いて入ったら、懐かしい顔がそろっていた。
お世話になった人、頼りになる先輩、元同僚、そして後輩…。
25年間もいると、さすがに知識はほとんど忘れない。
死ぬまで覚えているだろう。
建屋が新しくなって、そこに移ったので場所の感覚はわからないが、部署はだいたいわかる。
もちろん、バックグラウンドもわかるから、すぐ話についていける。
今の仕事よりも、やっぱり知識は圧倒的に多い。
だから、25年の月日は重いのだろう。

しかし、みんな年をとった。
あのまま会社にいたら、そんなに違和感なくやっているのだろうが、久しぶりに会うとやっぱり年を感じる。
懐かしい。
会えてよかったと思う。

同期のヤツと、帰りに少し飲んで帰った。

あいつはエラくなったとか、あいつは海外だとか、あいつは…、と話に花が咲いた。

出てみてはじめてわかる、会社の良さが身にしみる。

何度か書いたかもしれないが、人生の半分近くを過ごした仲間はありがたい。
このありがたい、は文字通り、得がたいという意味だ。

ぼくのホームグラウンドはここだ、と思える場所。
ここで鍛えてもらったという場所。
いろんな苦労があって、報われたり、報われなかったりした。
それら全部をひっくるめて、よかったと思う。

そう思えることは幸せなことだと思う。

もちろん、自分も努力したが、みんなで頑張ったからこそ、そう思えるのだ。

やめる時に、気づいたことを思い出した。
会社で何を得たかと考えたら、それは人との出会いだ、ということ。
キャリアとか、知識とか、スキルとか、技術とか、そんなものはついでのものだ。
結局は人が一番大事。
そして、一番面白い。

そんなことを考えながら、久しぶりに電車に乗って帰った。

| | 考えたこと | 01:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
葉緑体の効率
人間にはまだまだわかっていないことがある。

こないだの読売新聞の記事。
植物の葉にある葉緑体は太陽の光でデンプンなどを作るのだが、その光の利用効率が非常に高いとのこと。
人間は太陽電池を作っているが、その効率とは比べものにならないらしい。

利用効率は約90%。
こんなに高い効率はまだまだ人間にはムリ。
太陽電池の効率はがんばっても20%。
4倍以上の開きがある。

この効率の良さには、量子の重ね合わせという現象が利用されているらしい。
よくわからないが、量子の重ね合わせとは、どちらでもなく、どちらでもあるというような状態らしい。
とにかく、それによって、最適な効率を実現しているのではないかとのこと。

何でもカナダの研究者たちが一千兆分の1秒(とても短い!)の時間、光を当てて光合成を観察したらしい。
それにしても、すごい。

自然の力は人間にはまだまだマネできない、ということか。

ぼくは量子力学は一体何の役に立つのか、と思っていたが、少し見直した。

人間にはまだわからない不思議なことがたくさんある。
それを説明するのに、役に立つリクツがあるのだ。
それが量子力学。

まだ確信は持てない(というほど知らない)が、ひょっとしたらスゴイ理論なのかもしれない。

量子力学、おそるべし…。



| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
集中工事再び
今日からまた名神の集中工事が始まった。
さみだれ式にやるよりは、まとめてやってくれた方がマシだとは思うが、それにしても渋滞はかなわない。
行きも帰りも渋滞だ。

去年は吹田のあたりや、天王山が工事場所なので大渋滞だった。
しかし、今年はメインの工事は春日井のあたりなので、そんなに渋滞しないだろうと思っていたが、やっぱり渋滞だ。

今日から2週間。

渋滞の時には、何かいい時間つぶしを持っておかないといけない。

動きながらできることと言ったら、知れている。
何かを聞くことくらいだ。
話すこともできるが、一人では難しい。
歌う、というのはアリか。

漫才か落語のCDでも持っていくか。

長い2週間が始まる。


| | 考えたこと | 00:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
青春
最近見ない言葉に「青春」というのがある。

昔は青春という言葉が題名に付くドラマが多かった。
1965から15年続いた日本テレビの青春学園もの、このタイトルは、「青春とは何だ」 に始まって、「これが青春だ」 「でっかい青春」 「進め!青春」 「炎の青春」。
そのあと、 「おれは男だ!」 「飛び出せ!青春」 「おこれ!男だ」 「われら!青春」 「俺達の旅」 「俺たちの朝」 「俺たちの祭」 「青春ド真中!」 「ゆうひが丘の総理大臣」 「あさひが丘の大統領」となっている。
この中で、「青春」という文字が入ったものは8本。

1965年から1970年までは連続。
最後の「青春」ドラマは1978年の 「青春ド真中!」 。
だいたい、主人公は先生が多かった。

ラグビーやサッカーのスポーツものが主体。

ちょうどぼくらが小学校から高校の時代が、その「青春」ドラマの時代だった。
この青春ドラマのシリーズが終わったのが1980年。
日本の高度成長の時代とも重なる。

いつからか、「青春」という文字が消えていった。
ちょうど、1980年代あたりが変換点。
1970年代の終盤から1985年ぐらいに「校内暴力」という言葉が出てきた。
それと入れ替わりで「青春」という言葉が消えていったのではないか。

「青春」という文字が消えて、実際の青春もなくなったのだろうか。

2000年代に入ってから、本当に見なくなった。
自分が年をとったから、馴染みがなくなっただけかもしれない。
でも、なんとなく気になる。

青春とは、夢があることであり、それがなくなったことと一致していなければいいのだが…。


| | 考えたこと | 17:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
交渉事
昨日は交渉事について書いたが、交渉事というと忘れられない事がある。

交渉決裂、という事は起きない方がいいのだが、事もあろうに仕事の客先で決裂させたヤツがいた。
彼は当時ぼくの部下で、頭もいい、イイやつだった。
その時は魔がさしたのか、客先で意見が合わず、言い合いになったとのこと。
お互いに引かず、結局は同行していた営業が何とか繕ったのだが…。

だいたい、客先で感情的になった時点で負けだ。
もちろん、ぼくも相手の言っていることがムチャだということはわかるのだが、こういう時は感情的になってはイケナイ。
逆に冷静にならないとダメだ。

その頃、ぼくが読んでいたのが「ハーバード式交渉術」という本。
それを彼に貸した。

この本にはいいことが書いてある。
交渉事は、人生そのものだということ。
その中で、どうやってうまく交渉事を進めるか…。

曰く、感情的になりそうな時は、高いところから見下ろす姿勢が必要だ。

見下ろすと言っても、相手を見下ろすのではない。
交渉事を両者の視線でみるということだ。
自分の立場と相手の立場の両方を見下ろす視線。
可能なら、実際にブレイクタイムを設けて、実際に高いところに上れ…、と書いてあったような気がする。

そして、基本的には自分だけが一人勝ちはできない。
曰く、交渉事というのは、双方が利益を得るべきだという哲学をもつこと。
どんな時でも、相手の利益も考えないとイケナイ。
この人はなぜこんな事を言うのか、という「なぜ」をよく考えること。

さらに、その上で交渉が成立しないとわかれば、きっぱりと断ること。

もっと書いてあったと思うが、この3つは心に残っている。

この本を貸した彼は、「いや〜、勉強になりました。さすがハーバード。」と言っていたと思う。

もちろん、客先にはぼくと二人で行って、事後処理をしたが…。

交渉事が苦手な人にはオススメします。



| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分の土俵
相撲取りではないが、自分の土俵というものは大事だ。
自分のテリトリー、自分の得意分野、自分の領域などと置き換えてもよい。

いつも、困ったことがある。
何で、いつも困ることになるのか…。
自問自答して考えても、わからない。
ところが、ある日、気がつく。
相手の土俵で相撲を取っていたのだ。

何か、暗黙の了解事項があって、相手の土俵になることが多い。
そういうときは、隠れている条件を探さないといけない。
そして、それにかまわず、自分の土俵に持っていくのだ。

そうすると、相手が面食らう。

そして、交渉を有利に進めることができる。

今、戦っている土俵はどこなのか、と考えることが大事だ。

暗黙の了解事項、これがくせ者だ。
こういうのがあると、負けるに決まっている。
それが、見えやすいものならまだいいのだが、隠れている。
自分もそれが当たり前だと思っているから、始末が悪い。

たとえば、こちらが何かを計画して、それを作ってもらうというような場合。
その量が少なければいいのだが、決まった量より多いと相手は減らしてくれという。
当然、減らすのだが、その間、いろいろと文句を言われることがある。
これは、相手の土俵に入っているからだ。
この場合、相手の土俵とは、「こちらが依頼する側で、あちらが依頼される側である」ということ。
自分の土俵とは、「こちらが依頼するのも仕事なら、あちらが依頼されるのも仕事」ということ。
「当たり前ではないか」というかもしれないが、この差は大きい。
その証拠に、こちらが依頼するのをやめると、あちらは困る。
それが仕事だから、なくなるのは困るのだ。

こういう暗黙の了解事項を見つけ、それをひっくり返すことを考えないと、交渉ごとはうまくならない。

自分ができないから、言っているのだが…。

| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
Surf & Snow
最近、夜はニュースを聞きながら帰るのだが、今日は懐かしい曲を聴いた。

「Surf & Snow」というユーミンのアルバム。
1980年のリリース。
そんなに新しいとは思っていなかった。
11枚目のアルバム。

この4曲目の、「まぶしい草野球」という曲。
たしか、不二家のCMか何かに使われていたと思うのだが、サビの部分は覚えている。

このアルバムは持っていない。
もちろん、レコードの時代だ。
この前の「時のないホテル」と、この2枚後の「昨晩お会いしましょう」は持っているのだが…。

今日初めて、「まぶしい草野球」の歌詞を全曲聞いた。
ユーミンにしては、めずらしく効果音が大きく入っている。
野球の応援の声だ。

 ちょっと高いフライ 雲に溶けてボールが消えた
 今日はじめて見た あなたがまぶしい草野球

この部分がCMに使われていたはず。

そんなに気にとめていなかった曲が、ある日、ああ、そんな歌だったのか…とわかる。

そんな体験ができた。

この曲はいい曲だ。




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鯉のぼり
屋根より高い鯉のぼり…という歌があった。
あれはもう小学唱歌ではないのだろうか。

子どもが減ったからか、マンションが増えたからか、最近鯉のぼりを見ない。
小さい子どもの密度が減っているのか。
だいたい、鯉のぼりを上げるところといったら、小学校の低学年までだろう。

しかし、鯉のぼりの生産量を調べてみたら、そんなに減少したという記事はない。
例年並み、という記事が一つあっただけだ。
確実に減っていると思うのだが、気のせいか。

昭和に比べたら、減っているのかもしれない。

昔は、4月の終わりから5月にかけて、そこここの家に上がっていたものだ。
季節の風物詩だった。

平成4年には小学校の教科書に載らなくなったらしい。
平成4年というと、1992年。バブルが崩壊しつつあったが、まだ景気がよかった時期か。

鯉のぼりが教科書から消えたのは、これからバブル崩壊という時期で、ちょうどよかったのかもしれない。

失われた10年とともに、鯉のぼりは消えていった。

少なくとも、ぼくが知っている限りでは…。



| | 考えたこと | 14:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学校の英語教育
来年から小学校での英語が必修化されるらしい。
かなり賛否両論があったと思うのだが、なぜそれが決まったのだろうか。
まあ、経緯はどうでもいいが、わざわざ必修化するのはなぜだろう。
たった、週1時間で英語ができるわけがない。
まず、日本語をやらないで英語をするというのがいただけない。

英語の能力は、日本語の能力と関係がある。
特に英作文など、日本語の表現を英語風に考え直し、それを英語化する。
それでなくても、少ない時間数で英語をやってどうするのか。
藤原正彦がまず国語教育、と言っていたではないか。

この英語教育の話が出るたびに思うのだが、いったい何のために英語を教育するのだろう。

新聞によると、「最終レッスンでは「I want to be a teacher.」などと自分の表現で将来の夢を語れるようにする」とのこと。

6年生でI want to be a teacherと言えることに何の意味があるのだろう。
それよりも国語をやった方がイイと思う。
今の小学校の先生に、英語を教えるのはムリだろう。

何でもそうだが、入門をやるのはもっともエライ先生だ。
今から習うことの面白さ、楽しさを伝えることができるからだ。
しかし、それは今の教育制度では難しい。

英語は他の教科とは違う。
なぜそれをやるかが、わからない。
国語や社会や算数や理科はまだ生活とつながっているが、英語はつながっていないからだ。

それと、大人になって思うのだが、英語で話せることよりも、英語で伝えたいことを持つ方が大事だと思う。
そもそも、意味のある伝えたいことを持たず、話す目的があるのか。
挨拶や世間話のために英語をやっているのではないだろう。

海外の人に自国の文化を伝えるとか、習慣を説明するとか、興味のあることを聞くとか、仕事の事を話すとか…。

それを持つためにも、まず日本語だ。

今、一番欠けているのは、英語で話すこと以前に、話したいことを持つ力だと思う。


| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
読みたくない本
今日は1冊本を読んだ。

読み始めてすぐ、これはちょっとイケナイなあ、と思った。
しかし、読むと決めたからには、読み通すことにしている。

題名を見た時に、イヤな予感はしたのだが、案の定そうだった。
それでも、我慢して読み通した。

若いころなら、共感している部分もあったと思う。
どちらかというと、ぼくは作者みたいな人間だった。

自己嫌悪もあるかもしれない。
過去に認められない自分もいる。

どうつき合ったらいいのか。

誰もが通る道だが、そこで止まっていてはいけない。

その本の題名は「働くことがイヤな人のための本」という。




| | 考えたこと | 01:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
誰かの役に立つ
仕事にやりがいを持つためには、その仕事がやりたい、と思うべきだろう。

その仕事がやりたい、と思うためにはその仕事をやって、何らかの満足感があることが必要だ。

満足感は何から得られるのだろう。

給料はもちろんその一つ。
しかし、それだけではない。

その仕事が好きであることもその一つ。
好きであるから、やりたい、という事だろう。
しかし、好きな仕事に就ける人はほんの少ししかいない。

仕事の好き嫌いは結果論だと思う。
最初の3年くらいは、ワケもわからずやる。
次の5年くらいで、わかってくる。
そして、その仕事を好きになる、というようなものだ。

最初は仕事をしたことがないわけだから、それを好きかどうか、わかるわけがない。
自分はこれがしたい、というのは思っているだけだ。
「これ」の部分が仕事のどれだけを占めているのかもわからない。

例えば、芸能人になりたい、という場合、「これ」とはテレビに映っているところだろう。
でも、テレビに映っていないところで、いろんな苦労がある。
CD屋の挨拶回りや、先輩後輩との関係、こんなハズではなかったという苦労…。
昔、スター誕生という番組があったが、あれで出てきたスターはほとんど残っていないのではないか。

結局、何でもいいから、やってみるしかない。

やっているうちに、その仕事が誰かの役に立っていることがわかるはず。

その、「誰かの役に立つ」というのが、一番の満足感を生むのだろう。

Man for othersである。

| | 考えたこと | 02:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
たんぷれ
たんぷれというのは、何のことか。
誕生日プレゼントということらしい。

何でも略すのは、関西風だ。
今の高校生が、みんな使うのかどうかは知らないが、これも新語の一つか。

天六、日本一、上六、谷九など、地名も略すし、よんさん、いないちなど、道の名前も略す。
マクド、ミスドなど、店の名前も略す。

しかし、誕生日プレゼントをたんぷれと略すのは、どうもなあ。
どれくらい普及しているのかわからないが、たんぷれと言われても、値打ちがない。

まあ、しかし振替休日のことを振り休と略すし、やすしきよしのことをやすきよと略すから、名詞を二つひっつけたものは、略しやすいのかもしれない。
そういう意味では、法則性にのっとった略し方だ。

そのうち、液晶テレビはえきてれ、というようになるのかもしれない。
そうなると、駅のテレビと間違える人も出てくるかもしれない。

心配しても、仕方ない…。



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ギャル男
今日は初めてギャル男という言葉を聞いた。

これはどういう意味か?というと、「うめしゃん」みたいなやつ、という。

それはどういうことか?と聞くと、マンエグに出てるという。
まったく意味不明だった。

後でよく聞いてみると、ギャル男というのは、ギャルの男版ということらしい。
要するに、男であって、女性のギャルに相当する格好をしている、ということ。
これといった格好ではなく、いろいろバラエティがある。
要するに、ギャルみたいな男。

梅しゃんとは、梅田直樹の愛称。
男性のファッションモデルであって、ファッションデザイナーでもあるらしい。
そんなにかっこいいとは思わない。普通のけったいな兄ちゃんだと思うが…。

そんな梅しゃんが出ている雑誌がMen's eggという。
これが、マンエグというやつか。
ホームページを見たが、これが最近のイケメンというやつらしい。
どこがイケメンなのか、よくわからないが、これは感性の違いだろう。

それにしても、わからない。
わかるのは助詞だけ。
主な単語は聞いたことがない。

日本語は難しい。


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