考えたこと2

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プレッシャー2
少し前に、今行っているギターのスクールで、アマチュアオーケストラを結成したというメールをもらった。

今月の初めにレッスンに行った時に、受付で「もう3年ですわ」と言ったら、「ぼちぼち発表会に出たらどうや?」とのこと。

ジャズのビッグバンドなので、ギターは出番がないと思っていたが、そうでもないという。

はあ、そうですか…と言って帰ったが、何となく気になる。

今週の月曜日に行った時に、もう一度受付で聞いて、とりあえず今練習している曲のスコアをもらった。
4曲ある。
スタンダード1曲、ブルース1曲、よくわからないのが2曲…。

先生に見せたら、スタンダードの1曲しか知らないとのことだったが、とりあえず4曲ともざっとやってみてくれた。

音源はないとのことなので、スコアを頼りに練習するしかない…。

「ギターのメンバーがおらんので、困ってます」と言っていたし、ちょっと難しいけどアマチュアオーケストラの練習に参加してみることにした。

受付の人(実は社長)は、「でけんかったら、へへへ、と笑とったらよろし」と言ってくれたのだが、そういうわけにはいかないだろう。

やってみよう。


その日から、夜眠れなくなったのは、プレッシャーのせいだろうか。

| | 考えたこと | 22:17 | comments(4) | trackbacks(0) |
MC
いつの頃からか、コンサートなどで曲の間に話すことを「MC」というようになった。

彼のライブはMCが面白いというように使われる。

もともと、英語では使われていたのだろう。
このエムシーという言葉、何の略なのか調べてみた。

英和辞典ではMaster of Ceremony、つまり進行役ということだった。

ただ、「教えてgoo」のページでは、MCは「Mic Controller」のこと、と書かれていた。
質問からみると、ラップの世界では、シャベリ担当はMic Controllerと呼ばれるようだ。
いずれにしても、MCとは「人」を表す言葉になる。

ということは、「MCが面白い」というのは、しゃべっている「人」が面白いということになる。

ぼくのMCに対するニュアンスは違う。

MCは「人」を表すのではなく、「しゃべり」そのものを表すと思っていた。

今まで使ったり、聞いたりした範囲では、そんなふうに思えていたのだが…。

「MCがうまくなった」というのは、「進行役が上手になった」という意味ではなくて、「曲の間のシャベリ」がうまくなったという風に聞こえる。

これは、ぼくだけの勘違いだろうか。

どっちの意味でもとれるから、勝手に間違って理解していたのかもしれない。

どうも、しっくりこない。

みんな、「シャベリ」という意味で使っていなかったのか。

こんな風に、言葉のマチガイは起こっていくのかもしれない。

みなさん、間違えていませんでしたか?


| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
アイコン
こないだピクトグラムについて書いたが、コンピューターの画面上で、そのファイルの内容を一見してわかるように描かれた図形をアイコンという。
パソコンを立ち上げた時に画面の上に並んでいるヤツだ。

このアイコン、時代とともに変わってきた。
パソコンの画面の解像度があがってきたのだ。
おかげで、昔は荒い点で描かれていたが、今は細かい絵が描けるようになったのだ。
今のパソコンでは、マイコンピューターというアイコンはパソコン本体とディスプレイが並んでいるものになった。

昔はこんな細かいものは描けず、四角の箱のような絵柄だったと思う。

ごみ箱も今はリアルになったが、昔のものはもっとかわいかった。

しょせん小さな絵なのだから、細かい表示ができるようになったからといって、精細な絵にする必要はない。
機能でいえば、ここをクリックしたら、何が開くのかということがわかればいいのだから。
かえって、細かい絵になるとわかりにくい部分もある。

昔使っていたMacのアイコンはなかなかよかったと思う。

シンプルでわかりやすかった。
ごみ箱にファイルを捨てると、ごみ箱が膨らむのも愛嬌だった。

最近のパソコンには、あんな遊び心がなくなったような気がする。

今や家庭の普及率も上がり、パソコンは一般消費財になってしまったのだから、遊び心などというものは不要といえば不要なのだが…。

逆にいうと、ユニバーサルデザインという意味では、マイコンピュータやマイネットワークなどという名前は老若男女に通じるものでもない。

アイコンも名前も、もっとわかりやすいものにすればよいのだ。

…とはいうものの、マイコンピュータの名前を何にしたらよくわかるのかといわれると難しい。

「このパソコン」とか「この機械」というわけにもいかないか…。

最近、どんどん機械に弱くなってきたし、あと10年ほどでアイコンも名前ももっとわかりやすいものにしていってほしい。

シンプルでわかりやすい、ユニバーサルデザインで…。
年寄りがどんどん増えていく予定だから。



| | 考えたこと | 23:33 | comments(4) | trackbacks(0) |
台風の予測
昨日のクローズアップ現代という番組で、台風の進路予測をやっていた。

今の気象庁のデーターでは正確に予想できず、大きな損害が出ることがあるから、もっとデーターを集めて正確にしたいとのこと。

地球の温暖化で海水の温度が上がり、台風の威力が強まっているということもある。

熱帯で生まれる台風だが、海上には観測点がなく、陸地に近づかないと気象データーが取れないから予測がしにくいのだ。
台風の方向の予測に関して、感度の高い地点があるということらしい。

アメリカやヨーロッパの観測用の飛行機を使って、データーを収集する器具を用いる。

アメリカは、日本の台風が温帯低気圧になった地点が知りたいらしい。
それが、偏西風のジェット気流に影響して、アメリカの異常気象につながるからだ。
温帯低気圧の場所で、ジェット気流の方向が変わり、それが異常気象をもたらす。

すごいプロジェクトだと思う。

まさしく、地球は一つ。
全ては関係しているということ。
国境など関係ない。

気象庁にあるスーパーコンピューターで膨大な計算をして、予測をする。
そのためのデーターの補強を行ったということだ。

実は、ぼくの卒業研究はまさしく台風の予測。
降雨量の予測だったが、気圧や緯度、経度、進行方向、速度などを入力して、近畿に降る雨の量を予測しようというものだった。

もちろん、スーパーコンピューターなどというものはなく、学校の大型計算機を使って、計算する…ハズだった。

予測式を立てるところまでは、できたのだが、それを使って予測するプログラムを作る時間がなかった。
さよなら寄席に出ないといけなかったのだ。

それで、プログラム電卓を買い、徹夜で計算した。

人には言えないような結果が出て、結局はプログラムをやり直した。

でも、昨日テレビでやっていたように、台風の予測はそう簡単なものではないのだ。
最新鋭のスーパーコンピューターを使っているとは!!

ぼくがやったのは、30年ほど前。

これを見て、当時の失敗はシカタナイ…と少しホッとした。



| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
ピクトグラム
エレベーターのドアの「開ける」と「閉まる」のマーク。

わかりにくいものとわかりやすいものがある。
統一されていない。

ああいうのをピクトグラムというらしい。

歩行者用信号に描かれているピクトグラム。
立っている姿と、歩いている姿が描かれている。
これは、赤と青という色ですぐに識別できるので、あまり意識したことがない。

トイレの男女も、通常は赤と青や赤と黒で描かれているので、色でわかる。
ピクトグラムはスカートとズボンだったり、帽子とネクタイだったりする。

エレベーターのピクトグラムで、わかりにくいのは、真ん中に棒が一本あって、三角形が二つ並んでいるもの。
「開ける」は三角形の頂点が外向きになっていて、「閉まる」は三角形の頂点が真ん中の棒をはさんで向かい合っている。
字も同じ「もんがまえ」だから、わかりにくいのだ。

このボタンは、とっさに判断して押さないとイケナイことが多い。

その時に迷う。

同じようなピクトグラムでも、棒の位置が真ん中にあるものと、両端にあるもので描かれていると、すぐにわかる。
「開ける」の方の真ん中に人の絵が描いてあると、もっとよくわかる。

ピクトグラムはいろいろあるが、このエレベーターのボタンは何とかしてほしい。

非常口とか、禁煙とか、空港とか…たいがいのピクトグラムはわかりやすいのだが…。

あのボタン、迷ったことがあるという人がたくさんいると思う。

中にはあのボタンがよくわかるという人もいるのだろうか。
当然、わかりやすいと思って選んだ図柄だろうなあ。

ぼくだけわかりにくいのだろうか…??






| | 考えたこと | 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
寛美
こないだ、テレビがついていて、何となく「裸の大将」を見てしまった。

ランニング姿で、スケッチブックとリユック、こうもり傘を持って放浪し、その先でいろいろな出来事を起こす…というパターン。
昔は芦屋雁の助の当たり役だったが、今は若い芸人がやっている。

こういうのは、時代劇と同じく、日本の定型ドラマだろう。人情喜劇というヤツだ。

主人公のトンチンカンな行動による笑いと、その彼が誰もが思っているが「言えない言葉」を言ってホロリとさせるという構成。

子どもの頃に見た、松竹新喜劇を思い出した。
藤山寛美である。

たくさんの当たり狂言があったが、寛美の「アホ」役はすごかった。

普通の人たちがもめ事を起こしている時に、寛美の「アホ」役が出てきて、私心のない「言えない言葉」をズバッと言う。
そして、次の瞬間に普通の「アホ」に戻る。

泣かせて、笑わせる…そんな舞台だった。

あれが、カタチを変えて生き残っているのが、裸の大将だと思う。

見ている方は、始まった時からわかっているのだ。

藤山寛美が懐かしくなった。




| | 考えたこと | 21:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
Dear John letter
またまた、アメリカの刑事物の話。

殺人事件の被害者が紙切れを握ったまま死んでいる。
その紙切れには別れ話が書かれていた。
それを読んだ捜査官が言う。

This is a Dear John Letter.

字幕は「これは別れの手紙…」。

"Dear John Letter"というのは、女性から男性に別れを伝える手紙という意味だった。

Dear Johnだから、当然女性からの手紙になる。
日本語でいうと、「前略 太郎様」という感じだろうか。

英語版のWikipediaによると、第二次大戦で出征した兵士宛に、本国の妻や恋人から別れの手紙が届いたということからできた言葉らしい。

できて70年くらいしか経っていない。

たくさんのJohnたちが感じた哀しい想いがつまってできた言葉。

そのわりには、普通に言っていたなあ…。

もうそんな想いは消えて、一般名詞になったようだ。

よく出てきそうだから、覚えておこう。


| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロールキャベツ
好きな食べ物というのがある。
それはロールキャベツ。

できれば、ミンチにベーコンが少し入っているのがよいのだが、なくてもかまわない。
ただし、おでんに入っているものはダメ。
コンソメスープもダメ。
いろんな料理法があるようだが、ロールキャベツはトマトソースでなければならない。

もともと、キャベツを煮たものが好きだ。
キャベツは煮込んでも崩れないし、しんなりしても、キャベツだというところがよい。

下宿していた頃は、キャベツをちぎって鍋に入れて、コンソメとコショウでスープを作ったことがある。
大きな鍋いっぱい作って、みんなで食べた。

肉を野菜で包むというのは、中華料理でもあるが、ロールキャベツには勝てない。

このロールキャベツという言葉、てっきり英語だと思っていたが、辞書では(meat-)stuffed cabbageというらしい。
和製英語だったのか。
誰が名付けたのか知らないが、よくできた和製英語だ。
ナイターに匹敵する。

調べてみると、ロシアが発祥らしく、上にとけたチーズが載っているものの写真が出ているロシア料理店があった。

そんなコッテリしたロールキャベツもダメ。

ロールキャベツが好きだというわりには、範囲が狭いのだが、これはしかたがない。

それが、好みというものだ。

人はどうやって好きな食べ物を決めるのだろうか。

子どもの時から好きなものになる場合がほとんどだと思うのだが…。

大人になってから覚えた味で、好きなものになるものもあるだろうが、やっぱり、本当に好きなものは子どもの頃から好きなものだと思う。

それは、ロールキャベツ。

誰もが自分のロールキャベツを持っている。





| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
I have a theory.
字幕のドラマを見ていたら、犯人はどうやって殺したのか…という場面があった。

いろいろと可能性を考える。

その時、人差し指を立てて、「推理したの」と女性鑑識官が言う。

英語では" I have a theory."と発音されていた。
そういうふうに訳すのか…と思うべきか、それともそういうふうに言うのか…と思うべきか。

「私には、一つのリクツがある」という意味だろうと思う。
それは、日本語に訳すと「推理したの」となるのか。

訳した人のセンスはすばらしい(プロだから、当然か)。

こういうのが、なかなか言えない言葉。

場面を想像すると、I have an idea.くらいなら言えるかもしれないとは思う。

でもセオリーという言葉はすでに日本語になっていて、「理論」という意味が当てはまっているから、"I have a theory."はどう考えても出てこないだろう。

セオリーは、「バッティング理論」というような時に使う言葉になってしまった。

こういう言葉の意味のズレ、バイリンガルだったら、どうやって対処するのだろうか。

セオリーとtheoyは別の言葉になるんだろうか…。



| | 英語 | 01:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
二枚目
世はイケメンばやりである。

イケメンの…という番組が多い。

今、イケメンと呼ばれているのは、だいたい若いタレントで、ホント?と思うような人もいるが、あれは主観的なものだから、プロダクションが「こいつはイケメンだ」と言えばイケメンになるのかもしれない。

しかし、どうもイケメンという言葉、違和感がある。
イケてる面だからイケメン…なんとも直接的な表現だ。

やっぱり、「二枚目」と言ってほしい。

昔でいうと、石坂浩二とか、田村正和とか…。

それとも、二枚目とイケメンは別の意味なのだろうか。

そういえば、イケメンと言われているタレントを集めて、その中で一番バカなのはだれか…というような企画もあった。
あれは、二枚目ではあり得ない企画だと思う。

してみると、イケメンというのは、知識はなくてもいいけど、二枚目はかしこくなければイケナイということかもしれないなあ。

たしかに、昔の二枚目役者は実際の頭の良さは知らないが、もしもよくなかったとしても、それが露わになるような番組には出なかった。

こないだも書いたが、役者というのは偶像でなければイケナイ。
夢を売る商売だからだ。

ということは、イケメンは夢を売らないが、二枚目は夢を売っているということかもしれない。

そうかもしれない。

イケメンという言葉の響きに夢を感じないのは、気のせいではなかったのか…。


| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
時代劇2
昨日久しぶりに、水戸黄門を見た。

相変わらずのワンパターン。
これこそ、ワンパターンの美学だと思う。

殺陣の場面では、お約束通り、斬られた人たちはどんどん場面から去っていく。

だいぶやっつけたところで、「助さん、格さん、もういいでしょう」というご老公の言葉。
そこで、葵の紋の印籠を出す。「このお方をどなたとこころえるか…一同のもの、頭が高い…」
一同が静まり、「へへー」と平伏するのは、クライマックスである。

そこで、水戸のご老公の裁定があり、めでたしめでたしとなる。

〜人生楽ありゃ苦もあるさ…
テーマソングは、歌い手が変わっても同じ唄。

それにしても、由美かおるはどうして年をとらないのか…と今までの話と関係のないところで感心した。

昔は(これは20年くらい前のこと)たくさん時代劇があった。

大岡越前、遠山の金さん、桃太郎侍、銭形平次、暴れん坊将軍、鬼平犯科帳などなど。

小学校の頃は、銭形平次のマネをして、投げ銭をやることもあった。

時代劇を見て、「それがし」とか「〜で候」、「〜でござる」、「何を申しておる」「そちもワルじゃのう」というような、少し文語がかった「テレビ時代劇語」というものを覚えた。
これは、少しは役に立ったと思う。

それに、あのチョンマゲの人たちが、江戸時代の日本人であり、「そこ」とぼくらはつながっているという意識はあった。
ほんの百年ちょっとさかのぼれば、あの時代劇の世界に「当たらずとも遠からず」な世界があったのだ。
これは、すごいことだ。
少なくとも、200年くらいの時代認識は、知らず知らずのうちに刷り込まれたと思う。

昔は週に3日はゴールデンタイム(夜8時から9時)に時代劇をやっていたが、今は半年に一度の水戸黄門と大河ドラマだけ。

まあ、見る人が減っているので、しかたないことだろうが…。

と思って気がついたら、去年の9月9日にも「時代劇」について同じようなことを書いていた。
なさけないが、気がついただけマシか。

秋は時代劇の季節なのかもしれない。



| | 考えたこと | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
Politically correct
いつの間にか、−manが-personに変わっていたという言葉がたくさんある。

社長のchairmanがchairpersonに、キーマンのkeymanがkeypersonに、ビジネスマンのbusinessmanがbusinesspersonになっている。

これは、-manが女性差別にあたるとしてコトバを言い換えたほうが、選挙では票がたくさん入る…ということから、「政治的に正確な…politically correct」言い方になるということから出てきた言葉。

それが転じて、「偏見のない」という意味になっているとのこと。

「man」には「人間」という意味と同時に「男性」という意味もあるから、ややこしい。

他にも、「太っている人」は「gravitationally challenged」とかいうらしい。
重力に挑戦している人ということだろうか…。

年寄りは「chronologically gifted」。
時が経つことに恵まれた人ということになる。

同様に、背の低い人は「垂直方向に挑戦している」人であり、背の高い人は「垂直方向に恵まれている人」という言い方になるらしい。

ただし、マンホールをパーソンホールに言い換えるというのは、やりすぎではないかということだ。

…こういうのは、難しい。

日本のクレヨンに「肌色」という表示がしてあるのはダメか?という議論をしているページもあった。

ポリティカリーコレクトな言葉は大事だと思う。

日本語にもたくさんある。

ぼくも、いくつか自分で使わない言葉は決めている。
もちろん、使う場によるのだが…。

その言葉に罪はないのだが、環境が変わったからスミマセン…と思う。

言葉を使わないことで、その意識までなくなればイイのだが、そんな簡単なものではないのではないか…という否定疑問文は消えない。




| | 英語 | 20:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
世界は非対称
今朝の新聞で、ノーベル物理学賞の受賞の解説を読んだ。

「対称性の破れ」ということの発見につながる理論を打ち立てた…という説明だった。

量子論の解説をしている本を何冊か読んだが、どうもピンと来ない。
「ワープする宇宙」という分厚い本も買って読みはじめたが、途中で挫折した。

世界にはいろいろな粒子があって、それがぶつかってなくなったり、できたりする。
粒子と反粒子がぶつかると消えてしまって、なくなる。
もし世界が対称なら、同じだけ粒子と反粒子があって、どんどんぶつかって消えていくはずだが、なんで世界には物質があるのだろう?
それは、粒子と反粒子が同じ数だけではないからだ。
それが「対称性の破れ」ということらしい。

ここまで来ると、「ふーん」としか言いようがない。
新聞には「標準モデル」というコトバも出ていたから、パズルのように、「こうなったら、こうなるから、こうでないとイケナイ」というような考え方なのだろうか。

140億年ほど前に、宇宙はビッグバンでできた…というところからして、想像の範囲を超える。

「できた」ところの前は何やったん?というケッタイな気持ちが残る。

何だか、とてつもない爆発が起こったおかげで宇宙がある…らしい。

量子論を日々考えていたら、こういう想像がリアルにできるようになるのだろうか。

この広大な宇宙の中のほんの小さな星の上で、こんなことが考えられるのは、すごいことだと思う。

でも、どこまでいってもケッタイな気持ちは残る。

時々、このケッタイな気持ちは、地球という星がなくなってしまって、人間がいなくなったらどうなるのだろうか…と思うのだが、みなさん、どうなるのだと思いますか?



| | 考えたこと | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
記憶
こないだ書いた、「物理学的人生論」が届いたので、早速読んだ。

もう35年くらい前に読んだ本。

当時の物理の最先端のことが書いてあって、その研究者から見た宗教や超常現象、心や脳といった人間の意識についてわかりやすく書かれていた。

ぼくがすごく印象に残っている「所詮は人間の心というようなものも、煎じ詰めると体内の化学変化だ」というような意味のことは書いてあったが、そんなにハッキリと書いてあるわけではない。
おかしいなあ…。

1965年当時、まだ新しい話題だったDNAについてはかなりのページを割いている。
分子生物学というような領域で、今まで生物学だったものが、物理学の領域に入ってきたという時代だったからだろう。

ただ、記憶では「物理学的人生論」にDNAのことが書いてあったという覚えがない。

でも、究極的には宇宙にあるのはエネルギーであり、そのエネルギーが物質にカタチを変え、心や意識というものも生み出しているということは書いてあった。

印象に残っている内容は書いてはあったが、それにもっと多くのページを割いていたような気がする。

自分の記憶の曖昧さにちょっと驚いた。

当時、自分が感心したところだけ、覚えていたのか。

35年ほどの時間を経て、もう一度同じ本を読むというのもなかなか面白い。

猪木正文という人、すごい人だ。

物理学は進歩していくが、その元にある「なぜそれがあるのか」という問いには進歩はない。
いつまでも古くて新しい問い。

それを正面から書いた本だと思う。




| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
役者
緒形拳が亡くなった。

大河ドラマで秀吉の役をやったのが出世作。
あれはずっと見た。

老齢の医者の役のドラマを撮り終えて5日後とのこと。
共演者たちも彼が肝臓ガンだとは知らなかったらしい。
それどころか、病気だということを悟られないように、手術もせず、入院もしなかったらしい。

すごいなあと思う。

5年間も隠し通して役者人生を全うした。

渥美清もそうだった。

病気であることを隠して、映画を撮り続けた。
医者からはもうムリだと言われていても、映画に出演し続け、「寅さん」を全うした。

本当の役者は、監督には自分の本来の姿を見せないために、プライベートは一緒にしないものだと聞いたことがある。

自分の「素」を見せてしまうと、オファーされる役柄が限定されてしまうのをおそれるためだという。

緒形拳も、渥美清も、役者として大成してからは対談番組や「役者」として以外の番組にはほとんど出なかったと思う。

それが「役者」としての自分を貶める行為だとわかっていたのだろう。

クイズやバラエティの番組に出ている役者を見て、彼らはどう思っていたのか…。

本当の「役者」がまた一人逝った。




| | 考えたこと | 23:03 | comments(2) | trackbacks(0) |
ノーベル賞
スゴイですね。

4人も受賞とは…。

物理学賞と化学賞。

受賞理由は、素粒子の「自発的対称性の破れの発見」、「CP対称性の破れの起源発見」、「緑色蛍光たんぱく質(GFP)の発見と発光機構の解明」
ということらしい。

意味はまったくチンプンカンプンだが、科学の発展に大きな寄与をしたということだ。

小学生の頃、ノーベル賞といえば、湯川秀樹博士。
「ユカワ」という名前は何だかわからないけれど、すごい人ということで、刻みこまれている。

その次は、小学校の3年の時の朝永振一郎博士。
「トモナガ」もすごい人という引き出しに入っている。

どちらも物理学賞。

藤原正彦がノーベル賞に数学がないのは、ノーベル氏の恋敵が数学者だったという話を書いていた。
本当かどうかはともかく、ノーベル氏の人間味が出ている話で、エライ人でも普通の人だったのか…と身近に感じた。

それにしても、よかったと思う。

これで理科離れが止まるといいのだが…。




| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
コトバと音楽
-13thという音がある。

五線譜の上の、もとの音の上に三度、五度、七度、九度、十一度、十三度と6つの音を積んで、その6つめを半音下げた音。

この音が入ったコードがわからない。

教えてもらったら、「おー、これこれ」とわかるのだが、ふだんから耳にしていないし、使っていないから聞き取れない。

昨日書いた、竹内まりやの五線紙という歌のコードを書いて、先生に見てもらったら、-13thのところが違っている。
自分のつけたコードは、何かしっくりこないのだが、これかな…と書いた。
ふだん使わないから、出てこないのだ。

でも、一度覚えて、自分のストックに入ったものはわかる。

この曲のソロが始まるところは、先生と何度もやったパターン。
20年前はわからなかったが、昨日聞いたらそこはすぐにわかった。

結局、コトバと音楽は同じなのかなと思う。

自分の引き出しに入ったフレーズや熟語、単語は話せるし、聞ける。

でも、自分の引き出しに入っていないものは、話せないし、聞けない。

音楽も同じことだ。音やコードがつながって曲になるが、自分の引き出しにフレーズやコードの響きが入っていないと弾けないし聞けない。

だから、コトバを覚えるように、音の響きとその構成音の関係を、頭の中の引き出しに入れないとイケナイのだろう。

まだまだ、ちゃんとコトバが話せない状態だ。

-13thを頭の引き出しに入れないと…。



| | 音楽 | 00:30 | comments(2) | trackbacks(0) |
昔の唄
竹内まりやのExpressions、今までのベスト盤を買った。

今回はレーベルを超えての企画だったが、特に初期の曲がよかった。

最近の曲も、好きな曲がたくさんあるのだが、自分が音楽と過ごした時間の密度とでもいうか…、まだどっぷり仕事に漬かっていない時期に聞いた曲は、その頃の「気分」を呼び戻すのだろう。

デビューしてしばらくの曲はイイ。
レコードの時代だから、最近は聞いてない曲。
だから、よけいに懐かしかった。

戻っておいで私の時間、ドリーム・オブ・ユー、September、不思議なピーチパイ、象牙海岸、マージービートで唄わせて…。

「ユニバーシティストリート」は残念ながらファン投票で入らなかったのか。
あの曲の終わりには、何人かがわいわい言って、別れていく場面の会話が出てくる。

「まりや試験どうだったー?」
「落っこちたー」
「バイビー」

「東京では、バイバイのことを、バイビー言うらしいゾ…」

仲の良い友だちと別れる時には、「バイビー」とマネしたことを思い出す…。
若かったな〜。
そんな関西人はたくさんいたハズ。

今回のExpressionsの1枚目に入っている、「五線紙」という曲も好きだった。
二十年ぶりくらいに聞いたかな。
あの頃の気分がよみがえるから、音楽は不思議だ。

竹内まりやは歌だけで、安部恭弘の作曲で作詞は松本隆。
この曲の歌詞はあの時代のものだ。

 あの頃のぼくらは
 美しく愚かに
 愛とか平和を詞にすれば
 それで世界が変わると信じてた

そうそう。

そんなふうに思った過去を持って、大人になって、そして…、という時期の歌だった。

70年代の気分を思い出しながら聞いた。



| | 音楽 | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
シビル・アクション
ジョン・トラボルタと言えば、サタデー・ナイト・フィーバー。
若いダンサーだった。

ビージーズの音楽とともに、一世を風靡したなあ。
Night fever Night fever … というサビのところが耳に残っている。

それから20年くらい経って、トラボルタが弁護士役で出たのが、シビル・アクションという映画。
エリン・ブロイコビッチという環境汚染の訴訟を扱った映画があったが、それと良く似た設定。

もともとは、冷徹に裁判に勝つことだけを考えていた主人公だったが、ラジオの相談番組で電話があったのがきっかけで、大きな工場の廃液による環境汚染の訴訟に関わって…というストーリー。

訴えた側が証拠を出さないといけないという状況で、弁護士事務所が潰れ、本当に資材まで投げ出して訴訟に立ち向かう。

あの、ディスコで踊っていた頃からみると、恰幅がよくなって、いい中年の顔になった。

アメリカでは弁護士というと、人のもめ事につけ込んで…ということでバカにしているジョークがたくさんあるが、これは実話にもとづいた話とのこと。

1999年の映画。

全くお金がなくなったトラボルタが一人部屋でタイプを打つところ…、いい場面だった。

トラボルタ、いい中年になりましたね…。





| | 映画・舞台 | 19:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
忘れられない一冊
なくなった父は昭和ヒトケタで、あの世代は活字信仰が強い世代だったと思う。

本棚に新書を並べる(もちろん、読むのだが)のが好きだった。
多くは人文系の本で、今思えばビジネス関係の本も多かった。
残念ながら、ぼくはあまり読まなかったが…。

でも、その中の一冊で、中学の時に本棚から勝手に借りて読んだ本がある。
もう実家にはないだろうが…、物置にあるのかな。

「物理学的人生論」という題名の新書。

ぼくはアトムの世代だから、科学に憧れがあって、題名にひかれて何となく手にとって読んだ。
父がなぜそんな本を買ったのかはわからない。
あまりそういうジャンルには手を出してなかったような気がするのだが…、ひょっとしたら当時流行った本なのかもしれない。

人間というのは煎じ詰めると、物理的・化学的反応で成り立っている。
いろんなことを考えたりするのも、所詮は脳の中の細胞での反応に行きつく。
心も、気持ちも、結局は分子のやり取りから出てくるエネルギーによるものだ。
一方で、その世界を構成している分子はなぜ存在しているのか…

そんなことが書いてあったと思う。
すごく新鮮で、感激した。

今日思い出して調べてみたら、著者は猪木正文という人。1965年の出版。
もう新品は手に入らない。

この人は相対論や素粒子、物理学の本もあって、立派な物理学者だったようだ。

50代半ばで亡くなっている。
他界する2年前にこの本を出した。
物理学とは、この世の成り立ちを解明する学問だと思うが、最後は「では、この世はなんで存在するのだろう?」というところに行きつかざるを得ないのだと思う。
もちろん、それを「物理学」として扱うことはない。
そこから先は答えのない問いを考えるしかない。
そんなところから、きっとこの本を書かれたのだと思う。

そんなことを考えていたら、三十数年を経て、もう一度読んでみたくなった。

猪木先生にもう一度会う。

自分がわかったと思ってたことなど、きっとほんの少しなのだろう。

そんなことを確かめてみたくなった。

昔お世話になった先生に同窓会で会うような、そんな気がする。



| | | 14:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
アラフォー
今日雑誌を見ていたら、アラフォーという言葉が出ていた。

全く想像がつかないので若い人に聞いたら、「アラウンド・フォーティー」を略してアラフォーというらしい。
どうも、その世代の女性たちを描いたAround 40というドラマがあって、そこからいわれた言葉とのこと。
40歳前後の女性を指す言葉。

日経BPの「時代を読む新語辞典」によると、アラフォーとは…

「40歳前後の女性を指してアラフォー(around 40 の略)と表現するメディアが増えている。かつての女性は「仕事と結婚」の間で、二者択一を迫られていたもの。ところがアラフォー世代は、男女雇用機会均等法のもとで社会進出を果たしたことから、仕事と結婚を比較的自由に選択できるようになった。だがそのことが人生の転機を遅くさせ、将来に対する漠然とした不安を抱かせている。」

というような説明が出ていた。

もともと、アラサーという言葉があり(もちろん、アラウンド・サーティーの略)、そこから派生してできた言葉らしい。

アラサーもアラフォーも、女性というところがミソ。

しかし、何でも略語になるなあ。

40前後というより、アラウンド・フォーティーの方がかっこいいとは思う。
従来の40前後という人ではなく、新たに40前後になった人たちは、別の人種だということか。
30前後でアラサーはどうかと思うが…。何かのかけ声みたいだ。

しかし、この流れで、悩む女性の年代が上がっていったらどうなるのだろうか。

Around 50になると、アラフィフと言うのだろうか??

そこは、やっぱり、アラウンド・フィフティーと略さず、落ち着いて言うか、50前後に戻してほしいと思う。

今日は二つも新しい単語を覚えてしまった。

アラフォー…それにしても、ヘンな言葉だ。
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人は何かの節目で空を見る
人は何かの節目で空を見る。

二つの空を覚えている。

一つは、学校を出て社会に出るとき。
下宿を引き払い、いよいよ長いこと過ごした落研の部室にお別れを言うために、部室に行った。
春休みで誰もいない部室に入り、薄汚れた畳と、座布団が載った高座、なんで貼ってあるのかわからない清酒のポスター、誰かが拾ってきておいてあるギター…、そんなものを見て、部屋を出た。
階段を下りて、しばらく歩いて、ふり返った時。
部室がある建物と、青い空が見えた。
いつも見ている景色だが、そのときは建物のバックに、やけに青い空が広がっていた。

もう一つは、転職して会社を辞める日、夜遅くまで片付けをして、おおきな紙袋を持ってロッカーを出たとき。
25年間過ごした職場を去るときの気分は、その日にならないと、いや、そのときが来ないとわからないだろうと思っていたが、そのときが来たのだ。
あと10メートルほど歩けば、もうここに来ることはないと思ったとき、何気なく、夜空を見上げた。
少し雲があったが、きれいな夜空だった。

その二つの空は、忘れられない空になった。

普段は意識もせず、見上げたところでいつも同じ空だ。

でも、あの空は忘れない。

なぜかはわからない。

人は何かの節目で空を見るんだと思う。

それは人が宇宙の塵から生まれたからなのかもしれない。

そんな空が人生であといくつあるだろう…。




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10月 その2
もう10月が来た。
今年もあと3ヶ月。

今の仕事では一番忙しい時期だ。

去年の10月にも、「10月」という題で書いていた。

秋というと、トワ・エ・モアの「誰もいない海」を思い出すのは、あの歌い出しの歌詞が印象に残るから。

秋の歌は他にもある。
オフコースの「秋の気配」。
昔のフォークで「秋でもないのに」という歌もあった。

その前の年には祖母が亡くなったことを書いていた。

このブログを始めたのが、2005年の5月。

もう3年以上書いてるのか…。

四度目の秋は、どんな秋になるのだろう。




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チョンボ
若い人が麻雀をしなくなって久しい。

以前どこかで読んだが、麻雀は4人そろわないとできないこと、いったん始まったら拘束時間が長いことという2つの特性から、今の若い人同士のつきあい方には不向きらしい。

4人という人数が多すぎるのか、やめたくなったらすぐにやめるという行動を担保したいのか…。

さらに、賭け事だから、どうしても我と我のぶつかり合いになる。
自分の捨てた牌で上がられたら腹が立つし、負けが込むとイライラする。
そんな人間関係のストレスも、避けられる原因としてあるのかもしれない。

ぼくは20代の頃、ほんの少しだけ麻雀をやった。
やり始めた頃は面白くて、友達の下宿で遅くまでやった。
とにかく、負けた。
下手だから負けたということだろうが、いつも勝ちに行く。
自分の勝ちしか見えていない。
完成まですごく遠い手であっても、追いかけてしまう。
他のメンバーのことも一応は考えるのだが、それが甘い。
勝つためには、上がることが大事だが、麻雀というゲームは1対1のゲームではなく、4人の戦いだ。
だから、いかに自分が負けないかという戦略が大事になる。
一つゲームに勝とうとする戦術だけでなく、そのゲーム全体を見て、いかに点を減らさないか、そしてここという場面で勝ちにいくかという戦略が必要だ。

そして、麻雀はやめた。

麻雀の哲学は、賭け事全般にいえることだと思う。

だから、ぼくは賭け事全般に向いていない。

戦術と戦略が立てられないのだろう。
いつも勝つことより、いつも負けないことを考えるのが苦手だと思う。

なんで、麻雀の話になったかというと…、今日チョンボという言葉を使ったが、若い人に通じなかった。
全く意味不明である。

リーチなら、もうすぐ上がるという意味で、ビンゴゲームでも使ったりするから知っているようだが、あれも麻雀用語。
それも知らずに使っている人が多いと思う。

そして、チョンボは死語になった。

「失敗」という意味。

テンパイとか、テッパっているとか、それでもまだまだ中年では通じる言葉は多い。

でも、こんな言葉もどんどん死語になっていくのだろう。

団塊の世代が本当にいなくなる頃には、麻雀言葉は専門用語になっているのかもしれないなあ。



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