考えたこと2

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BYOD
この頃よく聞く言葉に、BYODというのがある。

これは"Bring Your Own Device"の頭文字をとったもの。
要は、「自分の機械を持ってくる」ということだ。
NTTなどでは、自分のスマホやタブレットを持ってきて、業務に使うということをやっているらしい。

一時は個人の持ち物を持ってきたら、ウィルスが感染するとかいう意見もあり、禁止しているところも多かったと思う。
でも、最近は様変わりしたようだ。

まあ、スマホが多いのかもしれない。
メリットとしては、自分の持ち物を持ってくることで、いつでもどこでも仕事ができる、ということだ。

ただ、一番多いのはスマホの利用で、職場での仕事の電話の着信。
当たり前の使い方だ。
メールの送受信も多い。
まあ、その程度のことかもしれないが…。

タブレットの方は、Webの検索やプレゼンにも使っている。
やっぱりパソコンはBYODしないようだ。
アブナイからだろう。
大学などはかなりいい加減だが…。

自分の持ち物を会社で使うというのは、微妙なところだろう。
たしかに、便利になるのだが、潰れたりトラブったりした時には自己責任になったりする。
ボランティアで持ってくるしかない、という職場も多いと思う。

でも、一方で使いやすいとか、仕事がやりやすいという側面もある。

コンプライアンスの問題も絡んで、ちゃんと規定を決めないといけないんだろうなあ。

これまた、難しい問題だ。

どんどんこんな個人と組織の境目の問題が増えてくるんだろう…。




| | 考えたこと | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
That'll be the day
"That'll be the day"というドラマの中のセリフに、「おととい来い」という字幕が出た。

「おととい来い」というのは、どういう意味か、わからない人も多いのではないか。
これは、もう過ぎてしまった一昨日に来い、ということだから、「もう来るな」、そこから派生して、「ありえない、不可能」という意味になるらしい。

あまり、関西では使わない。
関東で、ケンカの時に使うらしい。

しかし、"That'll be the day"がなぜ「おととい来い」となるのか。

"That'll be the day"を直訳すると、「そのことは、その日になるだろう」という感じになる。
「おととい来い」とは、どちらかというと、意味が逆になるのだが、この英語はいろいろ調べると、反語になっているらしい。

つまり、"That'll be the day"というと、「そんな日は来ない」という意味になる。
関西弁でいうと「そんな日が来るかいな!」という感じだ。

「あいつが禁煙するって言ってる」「That'll be the day(まさか、あり得ない)」

というふうに使う。

しかし、珍しい言い回しだ。
英語を話す人がみんな反語に取るんだろうか。
口調や状況によるんだろうなあ。

でも、米国人や英国人なら、間違いなく反語になるらしい。

That'll be the day.

まさか!



| | 考えたこと | 22:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
セルジオ越後の批判
現役時代を知っている人は、もう50代になるか。
セルジオ越後というサッカー選手がいた。
日経ブラジル人のプロサッカー選手。もちろん、ブラジルでプレーしていた。

現在は日本にいて、サッカー評論家になっている。

そのセルジオが日本のサッカー界を辛口で批判している記事があった。
ぼくも以前からそう思っていたので、得心した。
このところ、日本のサッカーはあまりパッとしないのは事実。

特にやり玉に上がっているのが本田選手。
セルジオはこう言う。

「そうそう、本田に関して思うのは、ブラジル・ワールドカップのあと、日本に帰国しなかったにもかかわらず、なぜ、メディアは批判しなかったのか、ということです。
壮行イベントまでやって盛大に送り出され、日本中から応援され、彼自身「優勝を狙う」と宣言し、しかも大会中に「批判はあとで受けるから、今は応援してほしい」といったコメントまで発していたのに、惨敗したら、チームと別行動をとって帰国しなかった。
これはサッカー選手以前の問題で、人として最低な行為だと僕は思います。こんなことをブラジルでやったら、「口先野郎」とか「逃げ足の早いやつ」といったニックネームをつけられ、マスコミだけでなく、国民からも徹底的に叩かれますよ。」

まるで提灯持ちのように、本田を担ぎあげるマスコミ。
どうもオカシイなあと思っていた。

しかし、そのマスコミのレベルは国民が決めると彼は言う。

「ただ、マスコミの責任について話してきましたけど、そういうマスコミに誰がしたのかと言うと、国民なんです。マスコミというのは、国民を映す鏡であって、結局、マスコミは国民が求める記事を書き、国民はそのマスコミを見たり、読んだりして、メディアは大きくなったわけです。」

マスコミは国民を映す鏡、というのは耳が痛い。
でも、真実だ。
大衆に対してアピールするから、記事になる。
世の中の大多数が、そんなことは報道する価値がない、と言って読まなければ成り立たないのだから。

ことはスポーツジャーナリズムだけの問題ではない。
テレビ、新聞、雑誌…、それらの大部分が大衆に迎合して変な記事を書いている。

これでいいのか…。



| | 考えたこと | 00:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
違和感
新しいクルマはジェイドというハイブリッド車。

買ってから2週間、500キロほど走ったが、どうもピンと来ない。
やっぱりハイブリッドは難しいと思う。

動作が機敏ではないのだ。
エコモードにすると、燃費重視になって、余計に加速が遅い。
ブレーキもエネルギーを回生するので、なんとなくストレートに止まらない感じがある。
通常モードなら、ちょっとマシだが、やっぱりなんとなく違和感がある。

だいたい、運転席に座って、パワースイッチを押してもエンジンがかからない。
今はエアコンも回らないので、そういうモードになるのだろう。
Ready to Startという表示が出て、いつでもモーターで出発できるということだ。

どうも、今までのエンジン車になれた身からすると、違う乗り物に乗っているような感じ。
クルマを運転している、という気がしない。

レーダーやカメラが装備されて、安全にはなった。
車両だけでなく、人も識別するし、白線もわかる。
もちろん、車両追従型のクルーズコントロールもできる。
高速でウィンカーを出さずに車線をまたごうとすると、ハンドルを戻そうとする反力が感じられる。
しかし、それは意図しない時(ぼやっとしている時)にブレーキをかけたり、アクセルに反応しなかったりする、ということでもある。
クルマが人間の判断を判定するということだ。

今までは、機械的に曲がれと操作したら曲がるし、アクセルを踏み込めば何がなんでも加速した。
クルマは判断しない。
運転者の意図通りに動くものだった。
たとえ、間違っていたとしても、だ。

37年間、そういうクルマに乗ってきたから、違和感に慣れるのにだいぶかかりそうだ。
でも、時代だから、仕方ないのかもしれない。

もうちょっと、何とかしてほしいなあ。
まあ、もうちょっと乗ったら慣れるかもしれないが…。

もう1回はクルマを買い換えたいけどなあ。



| | 考えたこと | 21:19 | comments(2) | trackbacks(0) |
超小型衛星
小型の衛星というと、だいたいどれくらいの重さかわかるだろうか。
300キロちょっとあるらしい。
ちょっと太った人の3人分だ。
結構重い。

キャノンが、さらに手軽な超小型衛星の開発をやるらしい。
これが重さ65キロくらい。
大きさは50cm✕50cm✕85cmだから、だいたい家庭用の扇風機の段ボール箱くらいの大きさ。

その超小型衛星でも、1メートルの精度で地上を見ることができる。
キャノンの一眼レフEOSの技術などが使われている。
カメラのメーカーだから、精密機器は得意だろう。

農作物の生育状況のチェックや鉱物資源の探査などの用途があるらしい。
今はグーグルアースという無料のサービスもあるが、あれはリアルタイムではないからなあ。

こういうビジネスが広がると、宇宙も身近になる。
でも、まだまだ超小型衛星のコストは高く、1基10億円程度。
普通の小型衛星の1/10らしい。

こないだテレビで宇宙考古学というのをやっていた。
衛星からの地上写真を加工し、どこに遺跡があるかをそこから探す。
エジプトのピラミッドの近所の遺跡調査をやって。
あれも、新しい衛星利用の形だ。

小さいものを作るのは、日本の得意技。

このビジネス、うまくいってほしい。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
卒業式
今日は長男の卒業式。
生まれて初めて学校行事に出席した。

卒業式というのは、別れの儀式だ。
特に、大学の卒業式というのは、学生という身分から社会に出て行くという意味も加わって、別れとともに、旅立ちの儀式になる。

式は淡々と進む。
学部生から始まって、修士、博士と学位記授与。
各学部、研究科の総代1名が学長から授与される。
総代に渡すだけで40分ほどかかる。

その後、学長の挨拶、記念講話と続く。
そして、グリークラブの歌、オーケストラの演奏。
「威風堂々」だ。

クラシックはほとんど聞かないが、この「威風堂々」はいい。
卒業式で聞くと、堂々と一歩を踏み出して未来に向かっていくという感じだ。

小学校から数えると、16年の学生生活。
大学院までいくと、18年になる。
その長かった学生生活に別れを告げる。
今日を最後にもう一生会わない人もいるだろう。
その友たちもそれぞれの道に別れて歩んでいく。

ぼくは大学の卒業式に出なかった。
儀式めいたものがなんとなくイヤだったからだ。
そういう時代の雰囲気だったと思う。

そのくせ、最後に引き払った下宿の何もない部屋で寝袋で寝た。
それに何の意味があったのか、今ではわからない。
たんに学生という自由な身分への未練だったのかなと思う。
3月の終わり。今ごろだったなあ。

結局は、卒業式に出るのがめんどくさかったのかもしれない。
下宿で寝ていたのだ。

今日、卒業式に出て、自分の時はどんなだったろうと思った。
36年前のことだ。
後悔は先に立たず。

威風堂々で、いい卒業式だった。



| | 考えたこと | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
STAP細胞 最終
不祥事を起こした理研のトップがようやく辞任する。
今まで残っていたのは、後始末をするため、ということだと思っていた。
しかし、そうではないという。

もちろん、第一義的にはSTAP細胞に関わった研究者に責任はある。
しかし、国内の雑誌に発表したわけではない。
海外の権威ある雑誌に発表したのだ。
エイプリルフールのイベントではない。
大マジメに発表した。
それに伴う「世間をお騒がせした罪」は大きい。

何度も言うが、理研の組織を変えないと、何度でも同じようなことが起こる。
研究者の良心に依存しているからだ。
すべての研究者に良心があるのなら、不正など起こるはずがない。
それでも、剽窃や無断転載などは当たり前のように起こっている。

どうしたって、悪意でやられたら起こるものは起こる。
でも、それを防ぐのは組織の長の仕事だ。
今回の大騒ぎを二度と起こさないためには、理事長が働かないといけなかった。
結局はトカゲのシッポきりのような結末。
お粗末この上ない。

おまけに、自分はその責任をとってやめるのではないという。

このことが、研究者がやっている理事長は名誉職であって、組織の長としての仕事はしていないということを証明した。

いずれにせよ、この問題はもう終わり。
必ず再発するだろう。


| | 考えたこと | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
ワトソン内定
三井住友銀行にIBMの人工知能ワトソンが内定したらしい。

アメリカの言葉しかわからなかったが、日本語を習得して、銀行で働けるようになった。
仕事はコールセンターの業務。
いろんな客からあらゆる銀行業務に関する質問が来る。

日経の記事によると、「ワトソンは利用者が入力した文章を自然言語処理の技術で解釈し、ビッグデータ分析などの技術によって質問の答えを導き出す。三井住友銀のオペレーターが顧客から受けた質問をキーボードで入力すると、ワトソンは5つの回答候補を瞬時に出す。回答は確からしい順に、その確率を付けて表示する。オペレーターは候補と確率を参考に、顧客に応答する。」とのこと。

顧客のあいまいな質問にも瞬時に答えを出すらしい。
もともと答えがある質問だから、やりやすいのだろう。
入社に際してのテストの結果、ベテランの銀行員には負けることもあったが、未経験の人よりは早いという。

実際に稼働を始めることで、学習もする。
銀行では導入後の学習効果を考えると、9割の正答率もいけるという感触を得たらしい。
これによって、銀行のコールセンターのオペレーター業務のハードルが下がる。
銀行の経験もさることながら、タイピングの速さや適切さ、人当たりの良さなどが重視されるようになるんだろう。
今年の9月から、部分導入を始め、来年には全部ワトソンが対応するらしい。

こうやってコールセンターで鍛えられた人工知能は、そのうちコールセンターを出て融資の判断や窓口対応にも使われるようになるだろう。
ワトソンの導入には数億円かかるらしいが、それでも銀行業務について何でも知っているベテラン銀行員がいつでも何でも答えてくれるとなると、高くない。
キーボードで尋ねたら、誰にでも答えてくれるのだから。

前にオックスフォードの調査で、かなりの仕事がコンピューターに置き換えられる、ということが発表されたが、この分なら本当にそうなるような気がする。

公務員の仕事など、窓口業務は全部置き換えられるのではないか。
自動で発行というものが増えるだろう。
そうしないと、人が足りなくなるからなあ。

しかし、これからの人たちは大変だ。
ライバルはコンピューターになる。

人間は何をするんだろう…。



| | 考えたこと | 00:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
戦争を知らない子どもたち
三原じゅん子は現在50歳。
1964年生まれというから、ぼくより7つ下。
東京オリンピックの年に生まれた人だ。

1970年にジローズが「戦争を知らない子供たち」という曲を歌った。
当時、ギターを弾く人たちはあの曲をよく弾いていたと思う。
北山修が歌詞を書いた。
この曲でジローズはレコード大賞の新人賞を取った。

三原じゅん子は今は自民党の参議院議員だが、おそらくこの曲が流行った頃はまだ小学校の低学年であり、この時代の背景は知らないだろう。

この曲が流行った頃はベトナム戦争のまっただ中で、それに対する反戦の意味もあったと思う。
小田実が活躍していた頃。
この頃の知識人や反戦を掲げた若い人たちは、第二次大戦をやった日本の体制を否定し、戦前の日本を否定していた。
ぼくも、どちらかというと、そのシンパだった。

今回問題になった「八紘一宇」という言葉は、戦前の日本の軍国主義の中で使われた言葉。
ぼくはその「八紘一宇」という言葉を使ったこともないし、聞いただけだが、なんとなく意味は知っている。
でも、当時の意識で言えば、この言葉は使っていはいけない言葉だった。
こういう言葉が使われたために、戦争が正当化されたという思いがある。

でも、1964年生まれの三原じゅん子にとっては、そういう「八紘一宇」の言葉の持っている背景などなかったんだろう。
だから、国会でそれを使った。

もともとの意味は「みんなで仲良くし、ともに発展していく」和の精神である、と彼女のホームページにあった。
たとえそうであっても、ぼくらの世代では、その言葉で戦争を煽った過去があるのだから、使ってはいけないという言葉だろう。

1964年生まれになると、もうそういう意識がないということだ。
わかっていて、あえて言ったという風にも取れないわけではないが、ぼくはそうではないと思う。
周辺国のことも考えると、これではいけない。

それもこれも、学校で近代史をちゃんと教えていないことが原因だと思う。
日本史の授業というと、古代から始まって、江戸が終わって、明治くらいで終わりだった。
特に戦前、戦後の歴史が、諸説いろいろあるという問題もあって、ちゃんと教えられていない。

知らないということは、こわい事だ。

ぼくらは時代の空気でそれを知ったが、今は難しいだろう。

戦前、戦後を総括して、ちゃんと教えるべきだと思う。
ややこしいから、ずっと放っておいたのが現実。

でも、もうやらないといけないぞ。


| | 考えたこと | 01:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
後悔
死ぬときに後悔をするのは、なんとなく避けたいと思う。
もうやり直すことができないからだ。
そんなことを、朝起きて、二度寝しようとした時に考えた。

どういう場合に後悔が発生するのだろうか。

前提としてボケずにまともに考えられることが必要だ。
ボケてしまったら、後悔など思い当たらないだろう。
ボケたらボケたなりの基準で後悔はあるかもしれないが、本人はボケたと思っていないだろうから、難しい。

となると、今の基準で考えることがそもそも間違いかもしれない。
でも、人間は今しか生きていないので、それは仕方ないことだとも思う。

そんなことを考えていると、面倒くさくなって寝てしまった。

その後、よく考えたら後悔というのは、今から考える事はできないとわかった。
だから、後悔をするのを避けたいと思うことが、そもそも間違いなのだと思う。

それでも、死ぬときになって「こうしておけばよかった」とか「なんでこうなったのか」などと思うのは不本意な気がする。

けど、よく考えたら死ぬときになって初めて後悔するような状態というのは、あまりないだろう。
そう思うなら、事故死や突然死でない限り、死ぬ前から思っているはずだ。

ということは、今どう思っているか、ということになる。

でも、今はまだ死は遠いと思っているから、死ぬときのことなど考えていない。

話は堂々巡りだ。

結局、そんなことは考えても仕方がないということか…。

考えていたら、また眠くなった。







| | 考えたこと | 01:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
桂米朝
桂米朝が亡くなった。
忘れられていたネタを復興し、今の上方落語界の重鎮の一人。

ぼくは仁鶴で落語を好きになったが、最初はやっぱり米朝だった。
小学校の時に聞いた、何気ない大阪人の会話、「どちらまで?」「ちょっとそこまで」「そらよろしいな」というマクラ(ネタに入る前の小咄)がすごく面白くて印象に残った。
当時祖母は演芸が好きで、寄席中継などはよく見ていたから、そのへんから落語を知ったと思う。

米朝は、若い頃は落語をよく勉強したらしい。
いかにもそういう感じの落語家。
ある意味、計算ずくの落語をやる人だったと思う。

前にも書いたが、米朝は弟子の枝雀とは落語観が違う。

亡くなった枝雀は自分の落語を聞いて、笑っていたらしい。
それを見て、米朝は信じられないという。
自分の落語を自分で聞いて笑うというのは、米朝にとっては想定外だったらしい。

ぼくは大学時代に4年間落語をやっていたが、自分の話を聞いて笑う派だった。
だから、米朝の言っていることがわからなかった。
どうして、枝雀のように自分の落語を聞いて笑うのが不思議なんだろう、ということだ。

笑わない派の米朝から見ると、自分の落語は自分で話して全部わかっているのだから、何がオカシイのか、というところだろう。
枝雀が不真面目というわけではないが、米朝はマジメに落語に取り組んでいるという感じだ。

米朝の喋りの特徴は、「きばり」だ。
ここを聞かせたい、というところで「きばる」。

「何を言うてまんねん」というセリフを「なアーにをーゆウてまんねん」というふうにきばって、笑いをとる。
よくマネをしたが、そううまくはいかなかったなあ。

あの「きばり」をもう聞くことはできない。
まあ、年をとって、すでに落語はやっていなかったが…。

上方落語を支えてきた人が、また一人逝った。

ご冥福を祈ります。


| | 考えたこと | 20:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
オフィスで飲む
アメリカのドラマを見ていると、個室のオフィスで、夜仕事が終わったあと飲む場面がたまに出てくる。
こないだ見たドラマではガラス張りの個室で、警部が一人で酒を飲んでいた。
当然、もう夜だし、自分の就業時間は終わっていると思われる。

たいがい、引き出しの中からちょっと高そうなバーボンとかスコッチの瓶らしきものが出てきて、そのあとグラスが出てくる。
ドラマの中の警部は、部屋に来た同僚に「君も飲むか」と言いながらグラスを出して、液体を注いでいた。

まさか、警察の就業規則に、職場で飲んでもいい、とは書いてないだろうが、職場の飲酒はダメとも書いてないのかもしれない。
ダメと書いてあったら、さすがにドラマとはいえ、飲めないだろう。

でも、一応は職場で仕事中に飲むのはどこの国でもダメだろう。
就業時間をだいぶ過ぎてからのことなら、職場であっても容認するという意見もあるのかもしれない。
そうでないと、あの飲むシーンは成立しないだろうなあ。

ぼくのいた会社でも、新しい社屋を建てた時に社内の飲み屋ができて、仕事が終わった後利用できた。
そういう会社は当時多かったと思う。
今はどうなっているのかわからないが…。

でも、あれは就業が終わってから、外で飲む代わりに会社で飲むという体のものだった。
日本ではああいう形が必然なんだろう。
最初は抵抗があったが、ぼくも何度か利用したことがある。

アメリカではどうなんだろうか。
ドラマでは、社内のバーなどは見たことがない。
たいがい、エラい人の個室で飲む。

そういう風習があるんだろう。
たいがいは、大きな事件が解決できたり、仕事が終わってホッとしているという時だ。

しかし、たいがいの人はクルマで通勤していると思う。
あんな酒を飲んで、運転するんだろうか…。
疑問はつきない。

結局、ドラマだから許されるのかもしれない。

現実は厳しいのかも。


| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
忘れること
忘れることは、あまりいいことではないと思われている。
せっかく覚えたのに、忘れるというのはもったいないことだし、損したような気分になる。
脳の能力は充分に余裕があるので、忘れなくても新しいものは覚えられるはずだと思っていた。

でも、新しいものを創造するには、忘れることが必要らしい。
アメリカの「ジャーナル・オブ・エクスペリメンタル・サイコロジー」のにそういう論文が出たらしい。
忘れることで、新しいアイデアを思いつく。
創造性が高い人は、忘れることが上手だということだ。
発想の制約が小さい、ということになる。

忘れることが上手、というのはいいように言いすぎかもしれない。
忘れっぽいのだ。

そういえば、常識的な人はなんとなく物覚えがいいという印象がある。
物覚えがいいから、突拍子もない考えが出てこない。
そう考えると、なんとなく納得がいく。

しかし、年をとると忘れっぽくなる。
忘れっぽくなると、いいアイデアを思いつくか、というとそうでもないような気がする。
やっぱり若い人の方が、得意な感じがするなあ。

年をとって忘れっぽくなるのと、若い時に忘れっぽいのとはちょっと種類が違うんだろう。
年をとると、脳が固くなって柔軟な思考ができない、というのが一般的な考え。
本当にそうなってきたと思う。
一方若いときに忘れっぽいのは、なんとなく脳の余裕が大きくなっているという感じがある。
考えるスペースが広いというか、空いている棚がたくさんあるというか、そんな気がする。
だから、忘れっぽいと新しいものを思いつけるのだろう。

ぼくのように年をとると、せいぜいそういう考えもあるのだ、と思いつつ、できるだけ脳の中を広く空けることを考えたほうがいいのだ。

それはそれで、難しいのだが…。




| | 考えたこと | 22:39 | comments(2) | trackbacks(0) |
ガン
後輩が若くして、致死率の高いガンになったら、どういうアドバイスをするだろうか。

やっぱり治療だろう。
治療をして、治すことを促すのが普通だ。
つらいと言われている化学療法をやるしかない。

でも、よく調べると致死率が90%で、友人が「それなら世界を見て回って、やりたいことをやることにする」と言ったらどうだろうか。
あくまで、治療をすべきだ、と言えるだろうか。

ドラマでそういうシチュエーションがあった。
医者のところで、化学療法と放射線の治療計画を聞いてきた彼は言う。

「やる価値が?このままでもいい。これが寿命かも…。父もガンだったが、化学療法で苦しんで死んだ。」

それに対して、友人の先輩はこう言う。

「寿命が来るには早すぎる。治療を受けろ。吐こうがへこもうが、かまわない。100歳まで生きるんだから。」

そして、こう言う。

「まじめに聞け。闘わなきゃダメだ。」

「なぜ?」

「長い人生が待ってるからさ。未来の妻が待ってる。生まれてくる子供たちが素晴らしい父親を待ってる。それに友達もみんな君を必要としてる。」

電話がかかってきて、彼は帰ってしまう。

夜になって、彼は先輩の家に来る。

「旅立つ前にご挨拶をと思ったんですが…、闘います。負けません。大切な人たちにちゃんと覚えててほしいのかも…、ぼくは闘う男だったと…。」

結局、旅行はやめて、治療をすることにしたのだ。

いい話だった。

致死率の高いガンの治療は、迷うだろう。
日本なら、本人の選択に任せるという人も多いと思う。
この先輩のように、強くは言えないかもしれない。

でも、真摯に向かい合って、自分の意見を言う先輩は迫力があった。
こういう時には、キリスト教の力が出るんだろう。

宗教は大事だ。



| | 考えたこと | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
芸術選奨文部大臣賞
山下達郎が芸術選奨文部大臣賞を受賞したとのこと。
彼ももう62歳。
1つの時代を作ってきたということが評価されたんだろう。
でも、同年代なら小田和正もいるし、吉田拓郎もいるけどなあ。

結婚後の竹内まりやの楽曲はすべて彼がアレンジした。
ぼくはそちらの功績の方が大きいと思う。
彼自身の作品は70年代〜80年代初めの若い頃の方がいい。

特に結婚前の作品が好きだ。
吉田美奈子と組んでやっていた頃のコーラスが抜群。

若い頃はそうでもなかったが、今の達郎を見ていると、本当に「職人」という感じがする。
細かいところにこだわった音作りをするから、気に入ったメンバーしか使わないし、時には自分一人で全部やったりする。
ルーツはアメリカのポップスだ。

道具にもこだわっている気がする。
以前、達郎は使い慣れた打ち込みプログラムを使っており、かなり古いコンピューターを使い続けているというようなことも読んだ覚えがある。
いかにも職人、山下達郎らしい話だ。

自宅のステレオセットなども、結構凝っているんだろう。
さすがに、自分の家専用に「マイ電柱」を立てるところまではやっていないそうだが…。(家庭用の電源でオーディオを聞くと、他の機器を使うと電圧が変動するので、マイ電柱を立てている人は本当にいるらしい。山下達郎情報)

この人、結婚相手に恵まれたと思う。
竹内まりやという逸材を得て、自分の才能を発揮できた。
松任谷由実、正隆夫妻と似ている。

クリエイターというよりは「職人」という感じ。
器用さが才能に勝っている。

受賞おめでとうございます。




| | 考えたこと | 21:52 | comments(2) | trackbacks(0) |
クルマの進化
インターネットやコンピューター、視覚の代わりになるデバイスの発達が、クルマを変えようとしている。
アップルやグーグルがクルマを作る時代。
既存のカーメーカーは危機感を持っているらしい。

Nvidiaというと、画像処理専門の半導体を作っている会社。
普通のパソコンのグラフィックを制御するチップの会社だ。
この会社がクルマの目を制御することになるという。
AudiがNvidiaと10年前から共同開発をしているとのこと。

この会社は、クルマについているカメラの画像を処理するチップを開発した。
グラフィックチップは今でも非常に高速だ。
新しいチップは、テラフロップス(1秒間に1兆回)を超える演算をして、最大12台のカメラで捉えたイメージを同時に処理できるという。
Deep Neural Networkという技術を使った人工知能で、「Deep Neural Networkを自動車に応用すると、単にオブジェクトを認識するだけでなく、置かれた状況を理解することができる。」とのこと。

スゴイ技術だ。
横断中の歩行者や、一部が見えていない自転車に乗った人なども正しく認識するらしい。
こういう技術がなければ、自動運転車はできないだろう。

単に道を走るだけなら簡単だ。
何が飛び出してくるかわからないのが、リアルワールド。

さらにスゴイのは、夜でも識別ができて、渋滞もわかるという。
前のクルマがブレーキランプを踏んだということも認識して、対応できる。
レーダー無しにカメラの画像だけでやってしまうのは素晴らしい技術だ。

時代はどんどん進んでいる。
スマホやカメラが進歩し、機械学習が進歩し、クルマの各部分が電気的に独立して、要素技術は揃ってきた。
コストを考えなければ、もう自動運転車は可能な領域にきているのかもしれない。

そうなると、古くて新しい論争が出てきそうだ。

はたして、クルマは移動の道具なのか、それとも人間の動くという欲求を拡大したものなのか。

どっちも真実だから、難しい。


| | 考えたこと | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
Uber
テクノロジーの進歩は新たなビジネスを作る。

Uberというのがその新たなビジネス。
アメリカやヨーロッパで力を伸ばしている。
日本でも東京と福岡で営業を開始したようだ。

スマートフォンが自家用車のドライバーと乗りたい客を結びつける。

Uberのドライバーに登録するのは簡単。
インターネットで申し込み、書類などを提出すればOK。
もちろん、身元は調べられ、クルマのチェックもされる。
それでも、タクシー会社に就職するよりは簡単だろう。
そして、ドライバー用のUberアプリを入れたスマートフォンはUberが用意してくれる。
それで準備OKだ。

そして、会員登録したユーザーがスマートフォンでクルマに乗りたいと要求を出せば、近くにいるUberのドライバーに連絡がいく。
タクシーよりも安い料金で運営されている。
新しいビジネスモデルである。

もちろん、タクシー業界は反発している。
でも、それを超えて広がっているのが実情。

ナビのおかげで、その土地に精通している必要がなくなった。
極論すれば道がわからなくても、かまわない。
そのナビもスマートフォンで代用できる時代。
こんなシロモノをみんなが持てる時代。
エライ時代だ。

Uberはドライバーも雇わないし、クルマも持たない。
アプリとドライバー用のスマートフォンを貸し出すだけ。
要は、ドライバーと客を結びつける仕組みを提供するだけだ。
現金のやり取りもしない。
客の代金はカードで落ちて、ドライバーの口座に振り込まれる。

タクシー業界は戦々恐々だろうなあ。

いろんな要素技術を組み合わせて、新しい商売ができてくる。

これぞAI(アフターインターネット)の時代の商売。

考えた人はエライ。



| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
オフィス英語
オフィスで特徴的に使われるスラングがある。
仕事用の英語だ。

それを紹介しているサイトがあった。
その中から2つ選んで紹介する。

“water-cooler chat”というのがある。
これは日本の90年代でいうと、男性の場合の喫煙所や女性の場合の炊事場に相当するところでの会話ということになる。
井戸端会議というのが、一般的かな。
英語圏では冷水機が置かれていることが多いんだろう。
日本では、飲料の自動販売機がおいてあるところが近いだろう。
2000年以降、そういう感じの場所も増えたと思う。
こういうところでは、部署を超えての話ができるし、リラックスして話せるので、いいアイデアが出る場合が多い。

ぼくも会社勤めの時には、喫煙所(リフレッシュコーナーと言っていた)が情報交換の場所だった。
アイデアに詰まってタバコを吸いに行って、そこでの話がヒントになり、いい考えが浮かんだりすることも何回かあった。
今は禁煙になって、そういう場所があるのかどうか知らないが…。
ああいう場所は必要だと思うのだが…。
そういうのを促進するために、フリーアドレスのオフィスというのもアリだと思う。
毎日、どこに座ってもいいというやつだ。

“hard copy”というのもなかなか面白かった。
これは電子的なコピーではなくて、本当に紙のコピーが要るときに”hard copy”をくれ、というらしい。
現代はそれほどまでに、電子化が広がっているのだろう。
コピーをくれというと、電子ファイルを送るのが普通になっているから、それと区別するための”hard copy”だろう。
日本人なら、紙でちょうだい、と言いそうだ。

これはまだ日本の方が遅れている感じ。
昭和の古い人たちは、コピーというと紙のコピーのことだと思っているような気がする。

こういうスラングは世相を表す。

スラングは世に連れ…。




| | 英語 | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
相棒
相棒というと、水谷豊の警察ドラマを思い出すようになった。
もう何代目になるんだろうか。
水谷豊は変わらないが、相棒はどんどん変わっていく。

今日はおおかた8年越しで付き合ってきた相棒が交代した。
といっても、ぼくの場合は人ではない。クルマだ。
長年乗ってきたストリームを買い換えた。

このクルマには本当にお世話になった。
18万8千キロを通勤で走った。
ウィークディは毎日ほぼ100キロだから、この走行距離になる。
往復で約2時間弱。一日の1/12をこのクルマで過ごしたことになる。

最後の1年はボディをぶつけて凹んだままになって、みっともないことになったが、ホンダが新車を出さない1年になったので、修理代をケチってしまった。
でも、ストリームはいい車だった。
いざとなったら7人乗れるし、5ナンバーで小回りもよかった。
オプションでつけたミリ波レーダーで衝突回避もできるし、自動追尾もできる。
実際、衝突回避には何度か助けられた。
事故をしていたかどうかはわからないが、確実に事故の確率は減る。
これは自動車保険にカウントすべきだと思う。

買った時にボディにコーティングしたのもよかった。
これで洗車しなくてよくなった。
雨が降れば、クルマがキレイになる。
黄砂がひどい時は、雨を待てばいい。

しかし、この8年で技術は進歩した。
特に安全装備だ。
レーダーだけでなくカメラも使えるようになった。
そして機械的なリンケージが減り、電気的に独立したモジュールになった。
そうなると、人間の動作と実際の動きの間にコンピューターの判断を入れることができる。

そして、エンジンだけでなく、モーターも使って燃費を稼ぐ。
LEDライトで消費電力も少なくなった。

8年、18万キロ。
今までのクルマよりも時間的にも、距離的にも長いつきあいだった。
無事役目を終えてディーラーに下取りされる。
ごくろうさま。

次の相棒はジェイドというハイブリッド車。
今度はどうなんだろうか…。
楽しみだ。

| | 考えたこと | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
Freshers
そういえば、こないだ新しい英語を聞いた。

スーツの店だ。就活、入学、卒業、就職の季節だから、いろいろと宣伝をしている。
その中で言われていたのが、フレッシャーズ、という言葉。
書けば、"freshers"ということだろう。

明らかに和製英語だと思っていたが、Webの辞書で調べると「大学1年生」と出ていた。
そういう意味の英語があったのかとビックリした。

形容詞である"fresh"の比較級である"fresher"に複数?の"s"をつけて"freshers"という単語。
そう思うと、間違いなく和製英語だと思ってしまう。
そうではなくて、〜な人という意味の、"er"を"fresh"につけたということか。

動詞に"er"をつけて、〜な人ということになるのはわかるが、"fresh"は動詞ではないからややこしい。
動詞の"play"に"er"をつけてプレイヤー(プレイする人)とか、"love"に"er"をつけてラヴァー(愛する人)とか、そういう使い方を形容詞にしたという発展形。

ところが、Webで調べると「全ての -er が <動詞 er> であるわけではなく、foreigner、Britisher、などのように<形容詞 er> である場合もあれば、banker、villager、Londoner などのように、<場所 er> の場合もあります。」と書いてあった。

そういえば、そうだ。
"foreigner"はあるなあ。

だから、"fresher"はアリなのだ。



| | 英語 | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
宇宙エレベーター 2
去年の10月に一度書いたが、宇宙エレベーターのプロジェクトができたらしい。
日経によると、日本の大手ゼネコンが動いている。

2/26の記事によると、こんな感じらしい。

「2050年8月。会社員の佐々木希海さん(仮名)は念願の宇宙旅行に出発するため、南国の人工島に向かった。そこには宇宙につながるエレベーターの発着所がある。訪れるとエレベーターが6両、電車が縦になったような状態で待ち構えている。車両に乗り込むと列車のように座席がずらりと並んでいた。予約していた窓際の「2A」席に座り、シートベルトを締めた。
 「静止軌道ステーション行き、まもなく発車します」。アナウンスの後、扉は静かに閉まり、エレベーターは上空に向けて動き出した。徐々にスピードが上がり、気がつくと速度計は時速200キロメートルを指していた。大気圏を抜けてもゆっくり進むため、体に違和感はない。まるで新幹線のような乗り心地だ。8日後、高度3万6000キロメートルの宇宙ステーションに到着。宇宙服をまとい、外に出ると地球からは拝めない満天の星空が広がっていた。「ここが宇宙なんだ」。無重力空間でフットサルをしたり、食事をしたりと宇宙空間ならではの体験を満喫した。」

宇宙空間というと、はるか彼方のように思うが、そんなに遠くない。
静止衛星の位置が、地上からたった3万6000キロメートルだ。
ちょうど地球の赤道を一周した距離。
人間が数えてイメージできる距離ではある。
その長さを上に上げたのが、宇宙エレベーターになる。

まあ、途方も無いといえば、途方もない距離ではあるが…。

2050年が目標だそうだから、あと35年か。
まあ、生きていないだろうなあ。
でも、子供の世代はまだまだ生きている。

カーボン・ナノチューブ(CNT)が鍵になる。
今は頑張っても長さ数センチが限度だが、技術開発できれば宇宙が近くなる。
夢があるなあ。

なぜ建築ゼネコンがやっているのかというと、景気がよくないからだろう。
ゼネラル・コンストラクターというのは、総合建築業者のことらしいが、そんなに大きな構造物があまり建てられなくなってきたんだろう。
橋とか、トンネルとか、タワーとか、景気が良ければいろんなところでそういうプロジェクトができるが、低成長が20年ほど続いて、最近はあまり聞かない。

だから、宇宙エレベーターではないか。
夢がある。

人間が作ったもので一番長いものになるだろう。
当然ギネスに載る。

ぜひやってほしいと思う。


| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
投票率対策
投票率がどんどん下がっている。

地方選挙も国政もだ。
投票に行かないという人が多くなった。
それと同時に、一票の格差もなかなか是正されない。

やっぱり一人一票にしないといけないのではないか。
衆議院で一票の重みが最大2倍強。
参議院では5倍もある。
だから、気分的に行く気にならないという人もいるだろう。
もう参議院は要らないのではないか。
5倍も格差があれば、それこそ政治家の好きな「民意」が反映されない。
ちゃっちゃと廃止したらいいと思う。

それにしても、衆院選で6割以下の投票率は低い。
8割以上いかないと、民主主義自体が苦しいと思う。

まずは、徹底的に学校で教育することだ。
小学校で徹底的に刷り込むのがいいと思う。
大人になったら、選挙に行くという教育。
子供に言われて、親が選挙に行くという効果もある。

あとは、どうにかして成人の有権者を行かすことだ。
不在者投票の宣伝をおもいっきりやる。
場所もノボリを立てて、駅などでアナウンスする。
当日は朝から街宣車で行くように促す。

どうも最近の政治家は、あまり投票率を上げることに熱心ではないと思う。
予想外のことが起こるからだろうか。
もっと必死になってやるべきだ。
選挙管理委員会の仕事なんだろうか。

いずれにしても、投票率が8割を切ったら困る、くらいの気合でやってほしい。
地方選挙でも同じだ。

せっかく選挙権を18歳からに変えるのなら、投票率を上げることも考えるべきだと思う。

政治家の意識が若い方に向くのはいいことだが…。


| | 考えたこと | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
わだかまり
「永遠の0」を読んで、どこかにわだかまりがあった。
戦争は悲惨だ。それはその通り。
でも、いろいろと第二次大戦の本を読んできたが、どうもこの「永遠の0」は違うと思う。
だから、本のレビューを書かなかったのだが、なぜかを書いてくれている人の記事を見つけた。

ニューズウィークの日本版に書かれているだいぶ前の冷泉彰彦氏のコラムだ。
賛否はあるかもしれないが、ぼくはこの冷泉氏のコラムに同意する。

職場のみんなが読んで、これはいい、感動したという。
だから、ぼくも買って読んだが、どこか今までの本とは違うと思った。
実際には、戦争はもっと悲惨なはずなのだ。

その悲惨さが、メロドラマになってしまっていて、美しく書かれているからだ。
そんなにきれいなものではないはずだと思う。

特攻隊に(志願して)選ばれた人たちの心情は、ぼくらには察することはできない。
それを軽はずみに、メロドラマにしてしまってはいけないのだと思う。
本当にあの人たちが遺したものを読んで、おもんばかるしかない。

それがずっとあったわだかまりなのだとわかった。

コラムを引用すると、

「特攻というのは搭乗員への死の宣告であり、同時に敗戦を前提とした自暴自棄的な作戦であり、敵側からは命がけで突っ込んで来る恐怖の存在であり、全体的には人道に反する行為です。ですから特攻作戦であるとか、レイテ戦以降の「全機特攻方針」などという軍の方針に関しては、最大限の非難と批判がされるべきです。もっと言えば、大戦末期における特攻というのは、「戦争を終わらせることができない」軍並びに政府の指導者の責任感不足、指導力不足のために継続されたとしか言えないわけです。
 ですが、個々の特攻隊員が受けた苦痛への同情の念というのは勿論、否定することはできません。例えば実際に身内の中に特攻による犠牲者を出した家族の場合であるとか、特攻隊員の遺書や手記に触れたりした場合には、その個々の特攻隊員への強い畏敬の念を持つということはあるわけです。
 ここに重たいジレンマがあります。つまり歴史的な評価としては全否定をしつつ、私的な心情としては個々の犠牲には畏敬の念を抱くという「重たいジレンマ」を背負わなくては、この問題に向かい合うことはできないのです。」

とある。

ぼくが感じた違和感もこれだと思う。

この本は、その「重たいジレンマ」を背負っていない。

特攻隊を、美しいメロドラマにしてはいけないのだと思う。

とってもスッキリした。




| | 考えたこと | 00:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
クラシックカー
ぼくも長いこと生きてきたと思う。
気がついたら、自分が若いころに現役だったクルマがクラシックカーと呼ばれるようになっている。

今年の1月26日、「JCCAクラシックカー フェスティバル ニュー イヤー ミーティング」が、東京お台場で開催されたとのこと。
もちろん、外車もあるが、国産車も多い。
70年代に作られたクルマなら、作られてから40年程度経っており、充分クラシックカーの資格がある。

その写真を見ると、パブリカやトヨタスポーツ800、セドリックやグロリアの古いモデル、サニー1000やダイハツのオート三輪、ホンダのS600やS800、初代ロータリーエンジンのコスモなど、懐かしい車のオンパレードだった。

小学校の低学年の時に、始めて運転席に座らせてもらった。
親戚のおじさんが自営業をやっていたのだが、三菱コルトのリフトバック(今でいうハッチバック)を買って、祖母の家に乗ってきた。
それが珍しくて、路上に止めたクルマに乗せてもらったのを覚えている。
あれが、小学校の2年か3年くらいだったか…。

考えてみると、ぼくが小学校の時に、スバル360やキャロル、ミゼットなどの小さなクルマが走り始めた。
日本のモータリゼーションの始まりだ。
非舗装だった道がアスファルトで舗装され始め、小学校6年の時に家の近所であったクルマの見本市に行って、小学生にカタログをくれて、持って帰ったのが2代目のカローラだったと思う。
1969年だ。

カローラが出て、サニーが出て、ブルーバードが出て、セリカが出た。
ブルーバードは四輪独立懸架機構で、サファリラリーを制覇したという宣伝だった。あれが70年だった。
N360で四輪に参入したホンダが、ホンダZを出したのも70年。
あの水中メガネみたいなリアウィンドウがカッコ良かった。

あの頃のクルマが、クラシックカーになっている。
作られて40年ほど経っているのだから、立派なクラシックカーだろう。

ディスカバリー・チャンネルでやっている、クラシックカー・ディーラーズという番組は、欧州のクラシックカー(50年代〜)を買い付け、リストアし、転売するというぼくのお気に入りの番組だが、日本車で出てきたのはMR2、RX7、スカイラインあたりだ。
比較的新しいクルマ。
それはそうだろう。
欧州に輸出されていないと、イギリス人は知らないからなあ。
だから、日本車は80年代のクルマがクラシックカーになるのだろう。

でも、クラシックカー・フェスティバルの写真を見て、実際はもっと古い車も日本にはあるということを思い出した。



| | 考えたこと | 20:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
生きていきたい
今日テレビを見ていたら、テロップが出た。
「生きて行きたい」という言葉。

生きていくというのは、どこかに行くのではない。
生き続けるという意味だろう。
それを「行く」という漢字を使うのは、明らかに間違いだ。

これは間違いだというと、次男は間違いではないだろうという。
「いきたい」に漢字を当てると、「行きたい」になるのではないかという。
意味もなく当てただけだから、「いきたい」も「行きたい」も同じだろうという。

ネットで調べてみると、はっきりとはわからない。
でも、英和辞書のサイトで「生きて行く」と書いてあったから、どうも普通に使うようだ。

ネット上には「生きてきた」を「生きて来た」を書いているサイトもあった。
これも同じ理屈でいくと間違いではないのだろう。

ワープロの弊害だと思う。
手書きなら、「生きて行く」とか、「生きて来た」とか書かないのだが、変換すると出てきてしまって、ついついそのまま使ってしまう。

何でも漢字で書けばいいのではない。
もっとひらがなを使うべきだ。

ワープロの変換に負けてはいけない。


| | 考えたこと | 21:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
デジタルギター
会社に入った頃、ちょうどシンセサイザーの隆盛期だった。1980年代だ。
ヤマハのDX-7という機種が出てきて、すごくいい音を出していた。

ヤマハ、ローランド、コルグといった日本の楽器メーカーが勢いがあり、毎年新製品を出していた。
当時、ぼくは弾けもしないのに電子楽器に興味があって、毎月のギター・マガジンとあわせて、キーボード・マガジンを買って情報収集していた。
シンセサイザーという新しい楽器の可能性がどんどん広がって、音楽を変えていくのではないか、という気持ちさえ抱いた。

月に一度関東に出張していたので、その出張の帰りに開催されていた楽器フェアにも2回ほど行った。
新製品のブースを見て歩いて、たくさんのカタログを集めて、読むのが楽しかった。
中学の頃始めたオーディオのカタログ集めの延長みたいなものだったなあ。
前にも何度か書いたような気がするが…。

その後、シンセサイザー独自の音、というのはごくごく一部残ったと思う。
でも、結局飽きられて、ほとんどが使われなくなっていった。
残ったのは、実際の楽器の音を出す、という代替的な使われ方だ。
そういう使われ方なら、半導体も安くなったし、容量も増えてきたので、素の楽器の音を録音(サンプリングという)してしまえ、というふうになった。
今のシンセサイザーというのは、ほとんどそういう考え方でできていると思う。

当時の趣味の延長でカシオのデジタルギターなどというケッタイなものを今でも持っている。
捨てるに捨てられないのだ。
当時のカシオという会社は、思いついたものを出すという面白いところがあった。
電子楽器に遅れて参入して、鍵盤楽器だけでなく、ギターもやろう、というのがデジタルギターという商品だった。

プラスチックのボディで、電池で音源を鳴らす。3万円程度だったと思う。
弦はナイロン弦。同じ太さの弦を6本張って使う。
ネックにはスイッチがあり、そのスイッチを押さえると音の高さが変わる。
要はギターの押さえるところをスイッチにして、発音は弦を弾くことでやろう、というものだ。
音は普通に合成音を出すというシンセサイザーだった。
リズムマシンが付いていて、なかなか面白かった。
しかし、アイデアはいいんだけど、飽きるのだ。

その後、ヤマハも同じような商品を出した。
光るギターとかいうコピー。これはもっと本物のギターに近かった。
当時、カシオが鍵盤が光るキーボードを出して、光るのが流行りだったから、ヤマハはネックのスイッチがコードに合わせて光るというのを出したのかもしれない。
これも買いかけたが、踏みとどまった。
もちろん、今は製造中止になっている。

そして、海の向こうでまた新しい物が出た。
Artiphon Instrument1という商品名。
記事によると、音源はアップルのタブレットやコンピューターを使う。
それにつないで音を出させる仕組みだけ売るというもの。
ギターのボディの部分がなく、弦の部分はスイッチが6つ並んでいる。
置いて、ネックの部分をキーボードのように使うこともできる。
ヤマハの作っていたものの、ボディ部分をなくしたようなものになる。
これはKickstarterという、インターネットの出資者を募るサイトで、まだ出資者を募集中だ。
80年代のぼくだったら、迷わず出資していただろう。

でも、今は考えが変わった。
ギターはギターでいいのだ。
ギターの弾き方で、他の楽器の音をだそうとは思わない。
そんなことは、きっとわかっている人には昔からわかっていたんだろうなあ。

自分の未熟さを思いつつ、横目で見て頑張ってほしいとは思う。

新しいもの好きがどれくらいいるんだろうか。

出資の締め切りは4月13日です。



| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
勝手な脳
認知科学が発達すると、いままでぼんやりとわかっていたことに理屈がつく。

テレビなどでよくやっているが、動画の一部分が見ている間に変化しており、それがわかるか、というもの。
気づいてみれば何でこんな変化がわからなかったのだろうと思うが、気づくまでは全く見えない。
これはどうも、「非注意性盲目」ということに基づくものらしい。

脳科学上も、人間が目で見た情報をすべて処理できているとは言えないらしい。
脳がオーバーフローしてしまうからだろう。

コンピューターのファイルでも、音に比べて動画はケタ違いの情報量になっている。
脳がオーバーフローするのもわかる。

だから、脳は見ようとする情報を元に、視覚で得た情報を選択する。
それに気を取られてしまうから、見ようとするもの以外の部分が見えない。
網膜には写っていても、脳は認識しないということだ。

それを言っているのがフランスの哲学者、アンリ・ベルクソンの言葉。

「心が受け入れるものしか目には見えない」

見ているつもりでも、全部は見えていなかったりする。
本当にそうなのだ。

有名なのは、バスケットボールの試合で、特定のチームのパスの回数を数えるように言われてビデオを見せるもの。
パスの回数に注意がいくと、ゴリラのぬいぐるみを着ている人が画面に入ってきても、半分の人が気がつかない。
非注意性盲目の状態になる。
これは本当によくできている。
おそらく、途中からビデオを見た人はすぐに気がつくのだろうが、パスに気を取られていると全く気がつかない。

目に見えているものを、脳がオーバーフローするので、カットするのだ。

いくら脳科学が発達しても、脳の能力を上げるのは難しいのだろう。

それが人間らしさにつながっているからなあ。


| | 考えたこと | 12:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
「仰天」大学
産経新聞に大学関連の記事が出ていた。

こないだ書いた、文科省の大学の学部等の設置後アフターケアのことだ。

英語のbe動詞、物理・科学・生物の授業で元素記号、というような「極めて初歩的な学習内容」ということと、入試が成立していないこと、教員の適性の問題などが指摘されている。

「極めて初歩的な学習内容」と入試が成立していないことはセットになっている。
入試が成立していないから、学力が不足している学生を入れざるを得ないということだ。
まあ、それで定員割れ等を起こしていると、教員が集まらず、定年後の教員がたくさんいるということになるから、苦しい学校はみんなセットということか。

もちろん、「補助金など多額の税金が使われていることを考えても、文科省と大学には、高等教育の場にふさわしい教育を行う責務がある。」という指摘は正しい。
大学は責めを負うべきだし、これで補助金をもらっているのはオカシイ。
文科省の指摘も正しい。

しかし、何度も言うが、高校の3年を修了した時点で、そういう学生がいるということが問題だと思わないのだろうか。
大学もバカではないので、be動詞をわかっている学生ばかりなら、そんな授業はやらない。
元素記号の意味を知っている学生ばかりなら、そんなことは教えない。
現実にそういう学生が一定数いるから、それを教えざるを得ないのだ。

文科省が大学に指摘をするのはかまわない。
というか、どんどんやったらいいと思う。
補助金も差し止めすればいい。

でも、それと高校3年生のレベル低下は別の問題だ。
それこそ、be動詞の授業をやっている学校に聞けばいいのだ。
中学でやっているはずのbe動詞を、なぜ大学でやりなおさないといけないのか。

本当の問題は、小学校から始まる。
そこで積み残した問題がずっと大学まで続く。
いくらでもやり直すチャンスはあったのに。

この記事の見出しで、「仰天」大学 役割問い直し質向上図れ、と書かれている。
しかし、本当の問題を解決するためには、初等、中等教育の質の向上を図らないといけない。

それを文科省はわかっていないといけない。

わかっていて、知らんぷりをしているのかもしれないが…。



| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
あなたに恋をしてみました
ドラマの主題歌が気に入って聞いている。
「あなたに恋をしてみました」という曲。chayという女性シンガーが歌っている。
多保孝一という人が作曲・編曲担当。

ちょうど150円のアマゾンのMP3クーポンがあったので、曲を購入した。

今風の高い細い声のボーカルなんだが、とても60年代風のアレンジ。

ヘッドフォンで聞いたらよく分かるが、ドラムがほとんど左チャンネルだけで、ストリングスが右チャンネルだけになっている。
いまどき、こんな録音もあるのか、とびっくりした次第。
今はチャンネル数が多いので、全部の楽器をステレオで録って、右や左に定位するのだが、こんな風に右だけとか左だけというような録り方は珍しい。

曲自体が60年代のモータウン風になっていて、ブラスとストリングスの伴奏がとっても古臭くていい。
ドラムもリズムキープするというより、昔風のフィルインが多くてにぎやかな感じ。

唯一今風なのはコーラス。
サビのパートから始まるのだが、さり気なくボーカルの下の音程でやっている。
60年代を狙うのなら、モータウン時代にたくさんいた、女性コーラスグループ風にすると思うのだが、これが逆に洒落ている。

最近の曲には珍しく、歌詞の字余りも字足らずもなく、アップテンポで一気に最後まで聴かせる。
リフレインのフェードアウトなどしない。ストレートにエンディングで終わり。
明るく屈託ないラブソング。

こういう曲、ほんとに好きだ。

| | 考えたこと | 21:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジョギングの効果
マラソンのことを書いたが、ジョギング人口が1000万人。
日本人の12人に一人が走っている。

さぞかし健康で長生き出来るんだろうと思ったらそうでもない。
やり過ぎたら、健康にはよくないらしい。
正解は週に1〜2.4時間程度のジョギングとのこと。
座りがちな生活をしている人に対して、71%死亡のリスクが低いということだ。
その次は週1時間未満のジョギングで、週2.5〜4時間以上ジョギングする人は座りがちな人と死亡のリスクは同じらしい。

ということは、ウィークデーに毎日30分走ると、あまり長生きできないということだろう。
もちろん、週末は休んでの話。
週末も走ると、完全に走り過ぎになる。
逆に週末だけ走るなら、1時間くらい走ってもいいということだ。

でも、ランニング・ハイという言葉があるように、走りだすとクセになるらしい。
走っていると、気持ちが良くなる。

ランニング・ハイというのは、自分のペースでリラックスして走っている時に、走り始めてから20分〜40分くらいした頃に、頭がボーっとして無意識のうちに走っている、というような時に起きることが多いらしい。

日本にもランニング中毒者がかなりいるんだろう。

ジムでマシンの上で走っている人たちは、みんなスゴイ。
わざわざ走っているくらいだから、市民ランナーなんだろう。
他の人はたいがいウォーキングだ。
例外なく、痩せていて、スマートだ。
格好もサマになっている。

ああいうのを見ると、走れたらいいなあと思う。

しかし、ジョギングの神様と言われている、ジム・フィックスという人は52歳で死んだのだが、これがジョギング中の心筋梗塞という皮肉な結末。

もともと体重が100キロ近くあったのを、毎日15km走って30キロ減らしたという人だから、走り過ぎたのかもしれないが…。

何事もやり過ぎはよくない。

走るのと、泳ぐのと、どっちが健康に悪いんだろうか…。


| | 考えたこと | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) |