考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
みおつくし料理帖
みおつくし料理帖 高田郁 ハルキ文庫

NHKで時代劇をやっているのを見て、読んでみようと思ってここに書いたら、大学時代の友人が10巻を貸してくれた。
友情に感謝。

シリーズ10巻あって、1巻あたり4つくらいの料理が出てくる。
もちろん、それに因んだストーリーが絡む。

主人公は澪(みお)という料理人。
天性の味覚を持って生まれたが、今は天涯孤独の身の上。
料理の腕を見込まれて、大阪で修業をするが、店は潰れて今は母親代わりの女主人と一緒に江戸に出てきている。
事故で別れた幼馴染が、何の因果か吉原で太夫になっていることを知り、救い出したいと思う。
これが10巻全体を貫く縦糸。
横糸は勤めている料理屋の面々が織り成す人間関係。
主人公の恋もあれば、商売敵の料理屋との競争もある。

高田郁という人は、以前「銀二貫」という時代小説を読んだ。
その時も、絵になる小説を書く人だと書いたが、このシリーズもそう思う。
マンガの原作をやっていただけのことはある。

随所にホロリと泣かせる場面が散りばめられている。
料理を食べた何気ない客の一言が、主人公を喜ばせる。
もちろん、笑わす場面もある。

料理や食材、味、においなどの模写もいい。
澪のいる「つる屋」に行ってみたくなる。
このへんも絵になる小説だろう。

この人は市井の職人が好きだ。
主人公の澪が作る料理は、高い食材もでないし、庶民が食べられるもの。
歴史には名を残さないが、そういう職人たちが今の料理を作ってきたという澪の思いもある。
その人たちを愛でたいという気持ち。
読んでいて励まされるのは、澪がいつも安い値段で材料をムダにせず、それでいて美味しいものを作ろうとすること。
そして、それを食べる人たちが、料理人に感謝の気持ちを持つことだ。

自分はどういう料理人を目指すのか、というのも10巻を貫くテーマになっている。
一流の料亭で腕を振るうのか、それとも…。
その道をみつけ、生きていくのだ。

こういう時代小説を読んで楽しめるのは、本当に幸せなことだと思う。

みおつくし料理帖、全10巻。
読みだしたらやめられない。

このシリーズも睡眠不足注意だ。


| | | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
政治不信
政治家に対していろんな国でどう思っているか、という比較の記事があった。
いろいろ書いてあるが、要は日本人の政治家への信頼度はGDPが3.5万ドルの国々18か国中最低だということだ。
GDPが高い国々というのは、早く民主化して民主主義の歴史が長めである、ということで選んでいるとのこと。
その中で18か国中唯一「政治家が正しいことをしている」という比率が10%を切って最下位。
別の40か国のデーターでも、10%を切っているのはポーランドやクロアチアといった旧社会主義国5か国だけだ。

ちなみに、政治家への信頼度の高い国はスイス、スゥエーデン、デンマークなどの北欧の国が特徴的。
わりと人口が少なく、政治家との距離も近いのではないか、と分析されている。
一般的に人口が多いほど、政治家への信頼度は下がっている、という傾向だが、アメリカはそれほど低くない。
その原因は州で独立した制度になっている、ということかもしれない、とのこと。
要は北欧の国々と同じく、近いところに政治家がいる、ということだ。

ぼくらが小さいころは、政治家は今よりも信頼されていたと思う。
それが崩れだしたのは、ロッキード事件あたりからではないか。
政治と金の問題について、政治家自身が積極的には取り組まないことが見え見えになってきた。
それ以降は、いろんな事件があって、今や政治家は金に汚いものという認識になっている。

北欧の国々やアメリカの事例を見ていると、やっぱり地方自治をもっとちゃんとやらないといけないと思う。
今の地方自治はムチャクチャだと思う。
もともと国の交付金に頼った自治になっているし、選挙はやるものの、投票率は低い。
誰も地方議員に期待などしていない。
だから、組織票がある党が強くなる。
尼崎では公明党が与党になっているのだ。

それに、三権分立していない。
行政と立法はべったりだ。
市長と議会が仲良くやり過ぎだろう。
市長選挙などを見ていると、国政で仲が悪い政党でも相乗りして推薦したりしている。
政策もくそもあったものではない。
よくも悪くも橋下さんの時代は、議会と緊張関係があり、よかったと思う。
そういう意味では維新の会が訴えている、地方分権というのは正しい姿だろう。
そこからしか、政治家の信頼は取り戻せないように思う。

もっと身近でまともな人たちが、地方政治をやるべきだと思うのだが…。

唯々諾々と首長選挙で相乗りしているようではダメだろうなあ。




| | 考えたこと | 00:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
定年後
「定年後」という本の著者が書いている記事を見た。
今62歳で、60歳で定年退職後、どこにも属さずに過ごしているとのこと。
ご自分の体験から、定年退職者が普段どのように過ごしているのか、ということを調べて本を書いたようだ。

定年退職した男性が行くところということで、図書館に行ってみたら、午前10時の開館前にすでに何人か並んでいるとのこと。
いずれも60代〜70代の定年退職者と思しき人たち。
まず、新聞のコーナーに行き、一人に一紙で読み始めるとのこと。
光景が目に浮かぶのが情けない。

しかし、これは場所によるらしい。
都心の図書館では、現役の人たちが並んでいたとのこと。
ちょっと意外だったが、東京は若い人たちも多いんだろう。

その他、ショッピングセンターも高齢の男性が目立つ。
女性と違って、一人でぽつんといるのが特徴だ。

スポーツクラブも午前中は高齢者。
これはぼくも知っている。
女性はグループを作って、仲よく3時ごろまで過ごす人を知っているが、男性でも、朝から夕方まで過ごす人もいるとのこと。

定年退職者のスタイルの特徴は、リュックまたはショルダーバッグを肩にかけて、靴はウォーキングシューズか運動靴。
靴が見分けるときのポイントだと書いてある。
帽子も多いとのこと。

ファストフード店も意外と多いらしい。
100円でコーヒーが飲めるからだろう。
外資系のカフェ(スタバ?)などにも多い。
新聞をや本を読んでいたり、株価などをチェックしていたり、パソコンで囲碁をやっていたりする。

とにかく、誰もが一人ぼっちだということだ。
カルチャースクールの講座などでも、男性は一人が多いらしい。
著者も含めて、一人が好きだということもあるにはあるが、現役時代の関係が切れてしまって、仲間がいないということだろう。

何人かに取材しているが、その人たちは「毎日やることがなくて困っている」、「一番自由な今が一番しんどい」、「家で居場所がない」、「暇になったのに焦る」、「嫌な上司もいないよりはマシ」などと語り、なかには「このままの毎日が続くと思うと、自分の人生は何だったのかと思うときがある」という言葉もあったらしい。

最後に著者は「定年退職者には、まず何よりも、“他のメンバーのために”何かをやらなければならない義務や役割、すなわち、人との「関係をつくる」作業が求められるのではないか。」と書いていた。

まことにその通りだと思う。

ここに大きなビジネスチャンスがある。
何かをやりたいとか、人間関係を持ちたいとか思っている人たちがいるのだ。
ただ、使いにくいから、なかなか誰も手を出さないのだろう。
でも、この定年退職者を使う仕事をちゃんと考えないといけない。

それこそ、ネットで仕事をその都度マッチングする、というような仕組みもアリだと思うのだが…。


| | 考えたこと | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
伝えても何も変わらない
コーチングのページを見ていたら、若い人がなかなか上に正直に意見を言わない本当の理由、というようなページがあった。
その1位は「伝えても何も変わらないから」だったという。
ぼくの経験でも、年が離れるほど、若い人は本当のことを言わないような気がする。
若いころはぼくもそうだったのかもしれないが…。
そういう職場は、俗にいう「風通しの悪い職場」ということになる。

もちろん程度問題であり、実際はある程度本音を交えて話せるという状況から、まったく本音は隠すという程度までばらついている。
「風通しの悪い職場」でよくあるのは、「とにかく、こうやりなさい」というやつ。
やらせる方は、「やってみないとわからないから、とにかくやらせる」という事を考えているが、若い人たちは「なぜそうしないといけないのか」と不満を募らせるケース。

コーチング上は、体育会風に上司が高圧的に上意下達をする人はよくないとされている(と思う)。
でも、世の中にはそういう職場もある。
だから、体育会を優先的に採用するという会社もあるのだろう。

ぼくはトータルで35年勤めたが、ぼくは体育会系でもないし、職場も体育会系の職場ではなかった。
だから、具体的にどんな職場かはわからない。

でも体育会系を雇う側は、「ストレス耐性が高いこと」や「理不尽だと思うことでも従える」というようなことがあるから雇うと聞く。
だから、上の命令は絶対であり、上意下達の上司がいる、ということだ。

ぼくはそういう職場でなくて、よかったと思う。
25年働いた職場は、外資の影響もあり、比較的自由な職場だったし、その後の10年は学校法人だが、ここはもうちょっと上意下達したほうがいい、というくらいの職場だった。

会社の社風で片付けてしまったらよくないのだろうが、職場の雰囲気は簡単には変わらないのも事実。
でも、そういう会社はこれからの時代、生き残れるのだろうかと思う。

上意下達自体が悪いとは思わない。
経営者の方針を共有することは大事だからだ。
問題はそれが正しくなかったときや、正しかったが状況が変わって正しくなくなった時に、どう修正するかということだ。
そこが組織にとって、一番難しい。
東芝だって、悪いところは分かっていたが、なかなか変えられなかった。

最近、組織のメンバーの多様性(ダイバシティ)ということが言われるが、いろんな人がいて、いろんな意見があると必然的に風通しが良くなるだろう、ということだ。
画一的な価値観の組織は、硬直化してしまい、変化の大きな時代は生き残っていけない。

日本の企業は高度経済成長時に成長体験をしているから、その時代を知っている人はなかなかその時のやり方を変えられないのだろう。
でも、上が変わらないと、なかなか下からは変えられない。

だから若い人の意見は「伝えても何も変わらない」ということになるのではないか。



| | 考えたこと | 00:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
出不精
ぼくは出不精だ。
あまり、どこかに行きたいという気がない。
見てみたい景色や、行ってみたい場所はあるにはあるのだが、いざ行くとなると面倒くさい。

学生時代も落研の老人ホームの慰問旅行以外はほとんどどこにも行かなかった。
一度だけ中学時代の友達とカニを食いに行ったことくらい。
下宿の仲間たちはよくスキーに行っていたが、結局一度も行かず。

もともと父が出不精だった。
家族で泊まってどこかに行ったことと言えば、六甲にあった会社の保養所に、叔母さんと従兄妹と一緒に行ったことくらい。
父は会社に行って、会社帰りに来たと思う。
食材持ち込みで、料理をしないといけなかったので、母たちはそんなにうれしくなかったと思う。

孫ができてから、一緒に泊まりがけで旅行に連れて行ってくれたことがある。
親は孫が好きだ。
父も母も、本当に溺愛してくれたと思う。
でも、そんなことに気がつくのは、いなくなってからだろうが…。

会社に入って、出張ばかりの部署になったのは皮肉だった。
毎月1回、車で東京を超えて茨城県まで往復し、残りの週のほとんどはフェリーで宮崎県に行っていた。
でも、出張で行かないといけなくなると、別に苦痛ではなかった。
その生活を数年続けて、部署が変わっても日帰りの出張は多かった。
週のうち、3日は日帰り出張というようなこともあった。
ヨーロッパからアメリカ回りで世界一周という出張もあったなあ。
外国も含めて、景色というより、人の記憶が残っている。
ウェットなフランス人、ユーモアのイギリス人、マジメなオーストラリア人、ドイツ人、フランクなアメリカ人などなど…。

学校法人に転職して、出張はなくなった。
考えてみると、自動車関連の会社から学校法人だから、グローバルの一番手から、ローカルの最たるものに変わったということだ。
でも、出張がないならないで、別にどうという事はなかった。

年を取って、やはり自分は出不精だと思う。
行きたいところもあったが、いざとなるとやっぱり面倒くさい。

行けば行ったで、きっと楽しいとは思うのだが…。


| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
オーストラリアのクルマ
ぼくがオーストラリアに出張したのは、1986年だったと思う。
その当時はいろんな会社が、オーストラリアでクルマを作っていた。
トヨタはもちろん、三菱や日産なども作っていたはず。

そのオーストラリアで、国内生産のクルマがなくなったとのこと。
最後の1台がGMホールデンのセダン車だった。
オーストラリアは広い割に人口が少ない。
あの広い大陸に2400万人しかいない。

一方、アセアン諸国は人口が多い。6億人を超えている。
そのアセアン諸国でクルマの生産が盛んになってくるのと同時に、オーストラリアの生産が斜陽になったということだろう。
クルマの生産をするためには、多くの部品産業があることや、交通インフラが整っていることなどが必要だが、80年代にはそれがまだアセアンにはなかった。

自動車の普及が進むことをモータリゼーションというが、日本ではぼくが小学校の頃(1960年代後半)からそれは起こった。
高度成長で豊かになり、GDPがどんどん増え、工業水準も上がり、爆発的にクルマが売れた。

Wikipediaによると、モータリゼーションは「国家・地域の枠において経済力・工業力が一定の水準に到達すると、急速な進展を見せることが多い。モータリゼーションの進展とGDPとの間には正の相関があり、国民の年収のおよそ1/3で自動車を購入できる水準になるとモータリゼーションが進む」と書いてあった。

現在のオーストラリアの輸出産業は農業、鉱業。
農業では小麦、大麦、羊毛、牛肉など、鉱業では石炭、鉄鉱石、天然ガス、ウラン鉱などが主な輸出品。
豊富な資源で食っているという感じ。
一方、国内の主要産業はサービス業。観光、教育、金融業などが伸びているとのこと。
これから日本もサービス業を伸ばしていかないといけない、ということだから、勉強しないといけない。

オーストラリアの原住民はアポリジニという人たち。
でも、多いのは西洋人だ。イギリス連邦の一員でもある。
1828年に全土がイギリスの植民地となった。
今でも8割がヨーロッパ系の白人とのこと。

ぼくが出張したときに仲良くなった人は、イギリスの出身だった。
たしか、ウェールズだ、と言っていたような気がする。
彼は今どうしているんだろうか。

クルマがEVになって、もう一度作る日も来るかもしれないが、エンジン車はもう作られないだろう。

80年代を知っているぼくにとっては、何となく寂しいニュースだった。

| | 考えたこと | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動運転で事故減
アメリカの電気自動車のメーカー、Teslaのクルマはオートパイロットという機能を付加している。
これは自動運転の第一歩みたいなものだ。
日産のセレナに装備されているのも、これに近い。
レーダーやカメラで車間距離を保って走行できて、走行レーンからはみ出さないで走り、前に物があると自動で止まったり、誤発進しないというようなもの。

そのオートパイロットが導入されたクルマは、事故率が4割減るという結果がアメリカで出たらしい。
調査したのはNHTSAという組織。
全米高速道路交通安全委員会という長い名前だが、まともな組織だ。

調査結果によると、2014年〜2016年のモデルSというクルマで、エアバック動作率(衝突などをすると、エアバックが動作するということで、事故率と考えてもいい)がオートパイロット導入後に4割減ったという。

自動運転がアメリカで認められようとしているのは、事故の9割が人間のエラーで起きている、ということがあるからだ。
クルマの信頼性が上がり、クルマがおかしくなって起きる事故は激減した。
クルマより、人間の方がアブナイということ。

たしかに、そうだろう。
人間はボーっとすることがあるが、機械は常に教えられた動作をする。
人間は居眠りをするが、機械は常に起きている。
人間はペダルを踏み間違えることがあるが、機械は間違えない。
それでも何らかの不具合で、事故を起こすことがあるかもしれないが、それは人間が事故をするよりも少ないという事だ。

早く自賠責や任意保険の値段を計算して、保険料を下げてもらわないといけない。
それによって、そのような安全装備の普及を進め、事故を減らすことができる。

事故が4割減れば、保険料も4割減らせるのではないか。

日本でも早く検証をしてほしいと願う。

| | 考えたこと | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
年金アンケート
ニフティが年金に関するアンケートをやっていた。

興味深いのは、「現在の公的年金に対して不満や不安はありますか?」という質問。
これに関するまとめは、「不満や不安が大いにある」と「不満や不安が少しある」を合わせた【不満あり】の割合は87.3%、「不満や不安はほとんどない」と「不満や不安はまったくない」を合わせた【不満なし】の割合は7.8%と、圧倒的に【不満あり】が多い結果ということだ。

50代以下と60代を比べているが、それでみると50代のほうが不満が大きいという結果。
若いほうが不満が大きいというのは、今の年金のシステムからすれば当然だ。
男性よりも女性の方が長生きだからか、不安も大きいのだろう。
男女別では女性の方が不満度が高いという結果。

そこには対象者のコメントも記載されており、それを見るといろいろ考えさせられる。

既婚の女性のコメント。
年金だけでは食べてはいけない現実はわかっているし、高齢者が増えるから仕方ないとも思う。それでも、納めた金額以上を長く生きれば貰うわけだし、子供たちのことを考えたら、不満ばかりを言っていられないとも思う。貰える分にどうプラスしていくか、生活を見直すことも必要だと思うというもの。
これが大方のまともな意見だと思う。

年金の運用で株を大量に買っているということにも文句があった。
たしかに、年金の運用先は気にかかる。
年金基金が株を高くするのに利用されているという気もするし…。

諦めて、死ぬまで働きたいという人もいる。
今の仕組みでは無理だということだ。
でも、無理だとわかっていてやってきた旧社会保険庁に対する文句もある。
グリーンピアなどの無駄遣いは、結局誰も責任を取っていないという声もあった。

一定額の資産がある高齢者は支給対象外にする、という声もある。
実際、そうなるだろうと思う。
そのためにはマイナンバーでちゃんとフローだけでなくストックも把握しないといけない。

今現実に毎月貯金が減っていくという年金受給者もいた。
70歳の男性だ。
このままだと、わざと犯罪を犯して、寝る場所と食事が保証される刑務所に行く老人が増える、という57歳の男性もいた。
なるほど。

生活保護等の抜け道を言う人もいた。
国民年季が毎月6万円なのに、生活保護を受けている人は12万円支給とのこと。
61歳の既婚女性。

国は国民が100歳くらいまで元気に働けると思っているのではないか、という女性もいた。
100歳は無理としても、70歳以上まで働けば、年金もだいぶ楽になるだろう。
働き手も減ることだし。

年金からの税金が多いと言う人もいた。
235000円の年金に介護保険19700円、市県民税15000円が取られるとのこと。
66歳の男性だ。

元々がねずみ講みたいなシステムだから、期待しても無駄という意見もある。
55歳の男性だ。

子供たちに申し訳ないから、子孫のためにも賦課方式から積立方式に変更してほしいという人もいる。
将来の年金負担を若者に押しつけているという意見も。
長生きすることが苦痛になりそう、という79歳の男性もいた。
老人が医療を受けすぎだ、という意見もある。

こんな状態なら、政治家を信用する気にはならない、という人もいた。
その通りだ。
今回の選挙でも、どの政党も破綻している社会保障の事を口にしない。

これが今の日本の一番の問題だというのになあ。

| | 考えたこと | 22:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
脳のメカニズム
20歳で自動車事故を起こし、15年間植物状態だったという人がいる。
その人の胸部に装置を埋め込んで、迷走神経というやつを電気で刺激したら、驚くべき回復を見せたということが今年の9月の科学誌に載った。

通常1年以上植物状態から回復しなければ、見込みがないと言われているが、それを覆す治療。
人間の脳は、まだまだわからない。

迷走神経というのは、脳から首を通って、腹部まで伸びる神経。
覚醒や注意に関係しているらしい。

まだまだ、首を動かすという簡単な指示に従うとか、顔を近づけると目を見開くとかいう段階。
それでも、全く反応が何もなかったことから考えると、画期的な状態だ。
脳や神経にとって、15年間という時間は致命的ではないのかもしれない。

もしもこれが完全に復活したとしたら、その間の15年間の記憶はどうなっているんだろうか。
20歳以前の記憶はどうなっているんだろうか。

この手法が確立すると、事故などで植物状態になっても早く治療して回復も早まるかもしれない。

めでたいことだ。

脳という器官は謎が多い。
物理的にどこを刺激したら、どうなるということはある程度わかっているが、「こころ」の問題はよくわからない。
「こころ」は脳にあると思われているが、それしかないから、そうなんだろう、ということだ。

まだAIは「こころ」を持っていないが、研究が進んで、人間の脳と同じようなメカニズムで回路を設計すれば、「こころ」を持たないという保証はない。

そのうち、アトムのように「こころ」を持ったロボットも生まれるのかもしれない。

これをワクワクするといっていいのか、ゾッとするといっていいのか…。

| | 考えたこと | 01:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
科学研究費の無駄遣い
大学ジャーナルオンラインの記事で、科学研究費助成事業の採択率が低下している、という記事があった。
大学関係者なら知っていると思うが、科学研究費というのは教員が申請を出して、文科省から補助を受けるためのもの。
当然、申請書には採択してほしい研究内容とか、その意義などが書かれていて、採択されたら毎年の報告と、最終の報告書を出さないといけない。

下位の私学は少子化のあおりを受けて経営が苦しく、研究費を外部から取ってくることを推奨している。
おまけに、18歳人口は減るが、大学は増え続けている。
1975年に420校だったものが、2014年には781校。教員の数も1975年当時9万人弱だったものが、2014年には18万人を超えている。
採択率の低下には、教員が増えて申請が増えたからというのが自然な理由だろう。

この記事にはこう書いてある。

「大学などの研究者の自由な発想に基づく研究に対し、国が助成する科学研究費助成事業の新規採択率が年々、低下していることが、科学技術・学術審議会学術分科会の研究費部会に提出された文部科学省の資料で分かった。科学研究費の予算額も2017年度はわずかな増額となったものの、減少傾向にあることは変わらず、見直しを求める声も上がっている。」

これだけ見ると、大学は良い研究をしようとしているのに、国が科学研究費を減らしている、という風に見える。
しかし、科学研究費に少しでも関わった事務を経験したものから見ると、ちょっと違う。
大学の立場でいうと、外部資金をもらって研究してもらうのはいいことだし、それは奨励している。
一方で、税金を使われる者の立場で見ると、私学の文系の研究については、こんないい加減なものでいいのか、という疑問が残るのだ。

研究者たちはそんなことは全く言わないが、ぼくは科研費の一番の問題は、成果のチェックだろうと思う。
国のいろんな仕組みと同じく、提出の段階ではけっこうなチェックが入る。
しかし、いったんスタートしたら、ほとんどノーチェックだ。

だいたいの研究は複数年度で計画され、行われるのだが、その途中の段階などひどいものだ。
民間企業の研究なら、毎年査定があって、成果を問われるのだがA4用紙一枚程度の報告がされるだけ。
マジメな研究者はちゃんと計画通り履行しているが、そうでない人もたくさんいる。
それらの研究にかける費用は、その研究者の趣味のようなものであって、ドブに捨てているに等しい。

最終報告書も、文科省は論文を出してくれ、ということでノーチェック。
だいたい、終わってしまったら、もう関係ないというスタンスだ。
役人にとっては、お金を使うことが目的だから、そうなってしまう。

千万以上のお金をかけて海外から研究者を読んでシンポジウムを開き、それがどうなったかわからない。
これは実際に電話をかけて問い合わせた話。
「ホームページに報告が出ています」というがA4の一枚程度の実施メモみたいなものだ。
こんないい加減なことでいいのだろうかと思う。
税金が投入されているのだ。

教員が増えたということは質が落ちたということでもある。
大学の数が増えて、教員の数も増え、申請数も増えているのだから、採択率は落ちて当たり前。
そのことに文句を言うのなら、その研究の結果、どういう成果があったのかをもっと問うべきだ。

それよりも大事なのは質の担保。

マジメな研究者のお金が減って、その分がドブに捨てられている。

マジメに研究をやっている人たちが気の毒だし、税金を納めている国民も気の毒だ。

| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
失業率と自殺率
日本の2016年の失業率は世界で98位。
もちろん、高い方から1位での順位だ。
3%ほどで、日本の失業率は世界的でも低いと言える。

西欧で失業率が高い方の国というと、ギリシアやスペイン、イタリアがある。
いずれも10%〜20%になる。
ギリシアが3位、スペインが7位、イタリアが20位だ。

日本では失業率と自殺率は相関が高い
失業率が増えると、自殺率が上がる。
ちなみに、日本の自殺率は2015年で18位。OECD加盟国では高い方だ。
19.7%という数字になっている。

でも、西欧では失業率が高くても、自殺率は高くない。
失業率の高かった国々を自殺率の順位で見ると、ギリシアが153位、スペインが91位、イタリアが101位。
だいたい、5〜8%だ。

日本の見方で考えると、失業率が高いのに、どうして自殺率は高くないのか、ということになる。
理由としては、宗教上のものや、社会のシステム上のものなどが考えられる。

宗教は大きいだろう。
キリスト教は自殺を罪としているから、少ないのかもしれない。

日本人は宗教を意識していない。
仏教は近代に入って、葬式を商売にしてしまい、堕落してしまった。
だから、ぶっちゃけていえば、本来の宗教上必要な、自分は何者かという問いを発する機会がない。
和を大事にするという社会の同調圧力もある。
そういうのが、原因の一つになっていると思う。

もう一つの原因は、現在の雇用慣行だ。
今や労働者全体の半分に減っているが、「正社員」という働き方。
会社に正社員として入ると、終身雇用制度に守られた身分になれる。
会社側は簡単には首を切れない。
今や組織率は17%程度しかないが、労働組合も守ってくれる。

ただ、そこからはみ出ると、なかなか雇ってもらえない。
新卒のチャンスを生かすことができなかったり、3年以内にドロップアウトしたり、中高年になって追い出し部屋のようなところに入れられて、やめてしまったりすると、なかなか復活できない。

終身雇用とセットの年功序列賃金の影響もあるだろう。
若い頃は安く抑えられ、年をとると高くなるという制度。
結果的に中高年が給料が高くなる。
今のように、技術革新が早く、それを知っている若い人たちが生産性が高くなったりする場合、年功賃金の制度では生産性との乖離が大きくなってしまう。
高い生産性を得られる若い人たちは報われない。
でも、我慢して働かざるを得ない。
辞めてしまうと、正社員のレールに戻れなくなる。
そのへんにもストレスがあるのだろうと思う。

つまり、仕事をいったん失うと簡単には元のレールにはなかなか戻れないという社会だ。
だから、失業率と自殺率は相関があるのだろう。

きっとイタリアなどは、仕事を辞めてもまた働くことのハードルが日本ほど高くないんだと思う。

これからの日本は成長分野を見つけ、仕事を変わっていく時代だ。

そうすることが、若い人たちが幸せになれる道だと思う。


| | 考えたこと | 21:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 9回目練習
昨日は第9回目練習。
いつものコダマ先生が指導。
段々と本番も近づき、指導に熱が入ってきた。
ぼくら、へっぽこテナーにとっては厳しい。

最初の方にやったメロディーと歌詞が難しい部分が、やっぱりダメ。
いい加減に歌っている人が多い、という先生の指摘。
本当にそうだと思う。
歌い出しの声がそろわない。
タイミングがバラバラなだけでなく、音の高さまでバラバラ。
他の3パートの足を引っ張っているのは明らかだ。
先生も見るに見かねて、パート練習を長めにやった。

もちろん、みんな頑張っているのだろうが、人数も少ないし、中にはコーラスの経験もなく、歌を歌うことに慣れていない人もいるのだろう。
たしかに、裾野を広げるという意味で誰でもOKというのはわかるが…。
明らかに音程が取れていない人もいる。
そういうぼくも、音域は厳しい。
でも、高めの声が出るからテナーを選んだ。
ぼくはギターで音を取って、一応音程は確認しているし、月に2回のギターのレッスンで譜面を読んでいるから、人より譜面も慣れている。
それでも苦しい音は苦しい。
だからといって、今からベースに移るのは難しい。

フーガも何度か練習したら歌えるのだが、最初はみんなこわごわ声を出すから、締まらない。
高い音が出ないから、無茶苦茶歌っている人もいる。
でも、それは仕方ないのだろうと思う。
そういう基準でメンバーを選んでいるのだから。
おそらく、家に楽器もないだろうし、音の高さの確認もできないだろう。
よしんばそれができたとしても、声が出るかどうかわからない。
それが1万人の第九なのだと思う。
取り組む方は、きっと大真面目に取り組んでいるのだ。

先生の理想はわかるが、メンバーの限界もある。
来ている人はマジメにやっているんだと思う。
所詮、12回の練習ではムリなのだ。
2年、3年やって、初めて歌えるようになるんだと思う。

とはいえ、あと3回。
いよいよ暗譜をしないといけない。
ドイツ語の歌詞とメロディーとリズム。

頑張ろう。

| | 考えたこと | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIコピーライター
今やコピーライターの仕事もAIに脅かされている。
電通が作った広告コピーの中には、AIが作ったものがあるとのこと。
今秋に実用化が予定されている。

人間がシステムにキーワードを入れると、AIが複数のコピーを出してくるらしい。
単に正しい日本語にするだけではなく、印象的になるように文節を倒置したり、句読点や感嘆詞を入れたりできる。
一度に生成できる広告コピーの数は数百から数万個。
粗製乱造かもしれないが、人間にはできない数だ。

コピーライティングというと、人間の創造的な仕事と思われていたが、そこが人工知能化される。
言葉を扱うものは、Web上にたくさんの文章があふれているので、学習しやすい。
そこに、過去に電通が作ったコピーのデーターを入れれば、わりと簡単にできるような気がする。
要は、AIの効果を出すためには、学習する素材がどれだけあるか、という事だと思う。
それが学習可能な形(デジタル化されていること)であれば、あとは機械学習をどう設計するかだろう。
詳しいことはわからないが、そこは試行錯誤でできる部分だと思う。
肝は、学習素材だろう。

そういう事からいうと、法律の判例や膨大なマニュアルを覚えないといけないことなどは、AIの得意分野になる。
言葉を扱うコピーライティングなども、やりやすい。

これからAI化されていくのは、そういう分野になる。
単なる計算や転記などの事務仕事がなくなったように、今度は人間が考える仕事もAIになっていく。
法律関係のアシスタントなどの仕事は早晩なくなるだろう。
銀行のヘルプセンターも実際なくなっているらしい。

これが進むと、本当に人間の仕事がなくなる。
そうなった時に、ロボットが働いたら給料を出そう、という人がいる。
その給料を国が集めて、みんなに給付するというわけだ。
人間は、人間でないとできない仕事をやることになる。
でも、そういう仕事はあまりお金が儲からない。
だから、国がそういう人にお金を配る。

本当にそういう時代が来そうな気がする。

できれば、そういう時代を見ないことを望むが…。

| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
NHKラジオ
最近、タブレットでラジオを聞くことが増えた。
NHKの第一とFMだ。
インターネットのラジオはノイズもなく、音がいい。
さらに、NHKラジオのアプリには、「聴き逃し」という機能がある。
そこをタッチすると、いろいろな番組を聞くことができる。

ぼくは毎週FMシアターというラジオドラマと、新日曜名作座、文化講演会などを聞いている。
今まではパソコンで録音して、ファイルをプレーヤーに移して、通勤時間に聞いていた。
でも、最近タブレットにこのアプリを入れて、聴き逃し機能で直接寝る時に聞いたほうが楽だとわかった。

要は、ラジオ番組を録音しているのと同じことだ。
放送終了後1週間の間に聞けばいい。
ついでに、今まで聞いていなかった番組も見つけた。

英語の学習などにも使える。
基礎英語やビジネス英会話などもある。
「こころをよむ」という番組もなかなか面白い。
霊長類研究の人が、チンパンジーが世界をどう見ているか、ということから人間のこころを考えるという番組をやっていて、2回ほど終わっているが、それを聞いた。
なかなか興味深い。

「科学と人間」という番組も面白そうだ。
地球温暖化の話や電池のエネルギー革命というような番組名が並んでいた。

朗読では夏目漱石の坊っちゃんをやっているし、古典の朗読もある。
漢詩もあった。

地上波のワイドショーや予算削減のバラエティー番組を見るくらいなら、このラジオの方がマシだ。

タブレットには、NHKラジオのアプリを入れてみよう。

いい勉強になるぞ。

| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
レジロボ
最近、セルフレジができたりしているが、コンビニでも人手不足からか、レジの無人化を検討している。
実験しているのは、守口のローソンパナソニック店。
品物にICタグという、無線で識別できるものを付けておいて、何を買ったか自動でわかるようにする。
ICタグの大きさが2センチ×7センチ。

以前会社にいたときに、ICタグについて検討したことがあるが、その時は数ミリの製品に組み込むタイプのものだった。
もう10年以上前だ。
もともとは米軍の機材の発送に使われたみたいだが、それがいろんな所で使われるようになった。

読取機から出される電波に反応して、個体の識別番号というようなものを発信する。
それを読み取ることで、在庫管理とか、受け入れ管理、メンテナンス等に使えるというものだ。
既に図書館などいろんな所で使われている。

検討中の店では、レジロボットが商品を読み取り、計算し、袋詰まで行ってくれる。
これで店員の仕事を1割減らして、お客さんが会計時間を減らせるとのこと。

ICタグのコストが1枚10円程度らしく、まだまだ採算は合わない。
でも、経産省は2025年までにコンビニでICタグを利用できるようにする、と発表したらしい。

10年以上前から同じことを言っているような気がするが、ようやく今頃になって活用できてきた。
この10年ほどでレジはだいぶ変わるだろう。
コンビニだけではなく、スーパーのレジも変わっていく。

スーパーができた頃はレジ係というとベテランの人がやっていた。
ブラインドタッチでテンキーを打てる人だ。
商品を見て、値段をテンキーで打ち込む。

それがバーコードができて、アルバイトの仕事になった。
語弊はあるが、誰でもできる仕事に近づいたということだ。

そして、ついに無人になる。
機械が商品の値段を見て、合計し袋に入れるところまでやる。
そういう形で人がやる仕事が減っていく。

ちょうど80年代以降、工場で起こったことがサービス業で起こる。

これからの時代はそういう時代になっていくのか。

| | 考えたこと | 00:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
勉強は価値がない
「末は博士か大臣か」という言葉がマジメに語られていた時代は、まだ勉強することに価値があった。
勉強しないと、博士や大臣になれない、という価値観だ。
しかし、政治家の汚職事件があいつぎ、田中角栄のロッキード事件あたりから、大臣は消えた。
今では大臣になっても、この人は尊敬できる人だ、という意識をあまり持たない。
90年代以降は、どちらかというと悪いことをやっている、という意識のほうが高まった。
今の若い人で、真剣に大臣になりたいと思う人はいないと思う。
だからこそ、政治家は商売になり、後援会は組織化されて二世議員、三世議員ばかりになった。

それに比べて、博士はまだマシだ。
少なくとも、悪いことはしない。
しかし、文科省の方針で大学院の重点化をして、博士が大幅に増え、博士になっても職がないという状況になった。
おまけに、年を取った人たちがなかなか退かない。
だから、若い優秀な人達が博士を目指さなくなった。
3万人の博士号取得者が、定職につけず漂流しているという。
もちろん、偉い博士はいるのだが…。

それでは何が代わりになったのか。
お金に価値が移ったと思う。
儲ける人がエライ、ということだ。

昔は儲けることは、あまりエライことではなかった。
お金は二の次、それよりも…、という価値観だった。
よくテレビで、「金儲けより大事なものがある」という言葉も聞いていた。
でも、いつの頃からか、そういう言葉は聞かなくなった。

それが、こないだ記事で見た「勉強は大事ではないからしなくてもいい、アルバイトや野球やサッカー、ダンスやアイドル活動をしていれば、勉強はしなくてもいい、と実際に発言する生徒や保護者が大勢いる」という状況を作っているのだろう。
そして、その風潮が民主主義の劣化を招いているような気がする。

だから、タレント候補が既存の政党推薦者を抑えて勝ったりする。
だから、既存の政党もタレントに目をつける。

タレントが悪いとは言わないが、どうしても一般大衆の意見に流されるだろう。
そんなこんなで、本当の問題を先送りして、センセーショナルな話題に飛びつく。
マスコミも同じだ。
そうして、民主主義が劣化していく…。

そんな気がする今日この頃。

| | 考えたこと | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
BSのドキュメンタリー
102歳の女性ブロガーが出てくる、BSのドキュメンタリーを見た。
スゥエーデンの番組。
100歳でパソコンを覚えたらしい。
そこからブログを書き始め、毎日書いている。
50万人の読者がいるらしい。

100歳を超えて、杖もつかずにスタスタ歩く。
歯も丈夫だし、何より頭がしっかりしている。
テレビに出るということで、スタジオに行って話をしていた。

自ら年寄り向けのパソコン教室をやっている。
90歳の妹にメールの使い方を教えていた。

2度の結婚で、夫を亡くしてもう12年。
ダンスが好きだったのだが、相手がいない。
インターネットで相手を探している。

彼女が生まれたのは第一次大戦の前だ。
1世紀以上生きて、まだまだ元気。
年をとるなら、ああいう風に年老いたい。

しかし、こないだ見たアメリカのドキュメンタリーといい、今回のスゥエーデンのドキュメンタリーといい、ほとんど解説の言葉はない。
本人や関係者の言葉だけだ。
それを見てどう思うかは、見ている人に任されている。

淡々とその人の日常を追いかけて、そのまま撮る。
そういう番組の作り方。

日本のドキュメンタリー番組は親切すぎるのかもしれない。
解説を入れたり、インタビュアーが写ったりする。

番組の最後近くで、ダンスの相手を見つけた。
SP盤をかけながら、二人で踊る。

とても100歳とは思えなかった。


| | 考えたこと | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
統計リテラシー
毎年6月と10月は大学生の就職支援をしている人にとって、マスコミに腹を立てたくなる時期。
6月は来年度の就活がスタートするということで、次年度の学生向けのサイトがオープンする。
そのために、4回生の就活はほぼ終了というような報道がある。
マスコミと就職ナビの会社は何らかの関係で結びついているからだ。

10月は内定式で、次年度の学生の就活が本格化する時期。
そこで、まだ決まっていない学生がだいぶいるのに、高めの内定率が報じられる。
それでやる気をなくす学生のことなど考えない。
いつもマスコミは弱者の味方、というわけではないのだ。
自らの儲けのためには、ウソとわかっている報道でも平気でやる。

今年もリクルートキャリアの数字が報道された。
2918年卒の学生の内定率は88.4%だという。
この調査の母集団は就職ナビサイトに登録しているモニター学生4882人。
インターネットで聞いて、1381人から返答があったとのこと。
就職活動に関して積極的な学生だと考えていいだろう。
この調査結果は統計的に正しいと思われる重み付けをしたとのこと。

いくら重み付けをしても、もともとの集団が偏っていたら、正しい結果にならないのは当然のこと。
マスコミはそこもちゃんと報道してほしい。

このニュースを見て、もうダメだと思って活動をやめる学生もいるのだ。
そういう影響も考えて、正確な報道をしてほしい。

実際、マスコミの担当者がそれらの事実をわかってやっているのか、それともわからずにやっているのか…。

毎年、腹が立つ。

編集者には統計リテラシーが本当に必要だ。


| | 考えたこと | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 練習8回目
昨日はまた森之宮からの講師が来られた。
女性の加藤先生でいつもの小玉先生と同じ先生に師事しているらしい。
不思議な関西弁を話す。ひょっとしたら関東出身かもしれない。

冒頭に、今日はフーガで女性パートを重点的にやるから、男性はまったりしといてください、という言葉に「やった」と安心。

4つのパートが揃っていても、なかなかうまく歌えないのに、ずれて歌う形式(これをフーガという)ならなおさら苦しい。
一番人数が少なく、へっぽこなテナーではしんどいから、行く前は憂鬱だったのだ。
冒頭の発言でほっとして、座ってアルトとソプラノの練習を聞く。

アルトはメロディーも難しいし、第九でのキーパートになると思う。
さすがに、小玉先生が「アルトがきれいと、しまって聞こえる」というだけのことはある。
ソプラノからだいぶアルトに人が移って、人数も増えた。
上手な人が多いんだろう。

ソプラノはフーガの音の高さは苦しい。
上のラの音を最後の部分、6小節ほどにわたってキープしないといけない。
聞いていても、だいぶ苦しそうだ。
でもまあ、何とか頑張っている。

ベースは人数も多く、ベテランも多そうだ。
自信を持って歌っている人が多い。

へっぽこテナーには、この自信を持って歌っている人がほとんどいないように思える。
今回もパート練習で、加藤先生から「オクターブ下で歌っている人がいる」と言われる始末。
オクターブ下なら、ベースより低い音だ。

フーガではテナーはいきなり上のラから始まる。
これは隣の若い人によると「栄光の架け橋」のサビの一番高い音とのこと。
たしかに、いきなりあの音がから始めるのはシンドイ。

全曲を通じても、ラの音が一番高い。
いきなりそれを出すのは苦しいだろうから、小玉先生には内緒で出だしのところのソプラノを小さな声で歌っておけばいい、というアドバイス。
なるほど。実践的だ。

「ザイトウムシュルンゲン」という歌詞から始まるのだが、最初の言葉の「ザ」をオクターブ下からだんだん上げていって、歌う練習もさせられたし、足踏みをしてシンコペーションのリズムで歌う練習もさせられた。
でもまあ、みんなそれなりに危機感を持って練習したのだろう。
前回よりはちょっとマシだった。

これで山場は超えた感じ。
もう少し頑張ろう。




| | 考えたこと | 17:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しいカメラ
ウォール・ストリート・ジャーナルに新しいカメラの記事があった。
デジカメはスマホに押され、売上が伸び悩んでいるそうだが、それにまた輪をかけるような新製品。

分厚いスマホのような板状のカメラ。
片側には広角や望遠のレンズが16個も付いている。
このカメラは、いろんなレンズの画像を撮って、それをソフトで合成して一枚の大きな画像を作るというもの。

大きな一眼レフとは違って、非常にコンパクト。
Gパンのお尻のポケットに入る。
ライトという会社のL-16という製品。
画期的だと思う。

記者がキャノンの一眼レフと撮り比べているが、ソフトウェアさえ改善すれば十分L-16でいけるとのこと。
これは大きな技術革新だ。

一眼レフのように大きなレンズを何本も持つ必要はなくなる。
コンピューターが小型化し、画像処理技術が上がり、小さなレンズの技術がスマホなどで上がり、画像センサーが小型化して、こういう製品が出てきた。
まさにスマホのカメラの進化系だ。

きっとこれから、こういう業界の大手の入れ替わりが増えてくるんだと思う。
大きな一眼レフよりも、小さなスマホに毛が生えたようなカメラが勝つ。
そんな時代が来ている。

カメラメーカーは、大きなレンズを精度を上げて作り、それでいい写真が撮れるように技術を磨いてきた。
デジカメが出てきた時には、今までのフィルム写真を超えるのは無理だろうと思われていた。
でも、センサーの画素数が上がり、性能も上がって、今ではデジカメで商用写真を撮れるようになった。
フィルムはもう過去のものになった。
そして、今はスマホがカメラ代わりになりつつある。

唯一残っていた、プロ用のカメラさえ、スマホサイズになってしまうのは、時間の問題だろう。
日本のカメラメーカーはどう対応するんだろうか。
キャノン、ニコン、オリンパス、アサヒ、フジ、ソニー(ミノルタ)など、たくさんのカメラメーカーがあるが…。

きっとすぐ買って、調査するんだろうなあ。


| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホワイトハッカー
アメリカの空軍が情報システムにハッキングさせるコンテストを開催したとのこと。
軍がこういうことをオープンにやるというのは珍しいのではないか。
ことは国防に関わることだから、結果によっては心配する人がいるだろう。

このコンテストで見事に勝ったのは17歳の少年とのこと。
システムの弱点を40も発見して、ウェブサイトの支配権と全ユーザーデーターを入手したらしい。
17歳で、こういうことができる、というのは才能だ。

彼は15歳で金融機関の弱点をついて、勝手に送金できることを見つけたという経歴。
そこが実施したハッキング大会に出て、ホワイトハッカーとして活動を始めた。
その後、国防総省や陸軍などの賞金付きのハッキング大会に出て、活躍している。

こういう風に、アメリカではハッキング大会が催され、新たな人材が見つかっているとのこと。
これこそ、人材確保の手段だ。
彼一人で、何人分の兵士の攻撃に相当するか、ということだ。

第2次大戦では人も物量の一部だった。
兵士の人数で決まる部分が大きかったのだ。
しかし、今は一人の優秀なハッカーがいれば、市民生活に壊滅的な打撃すら与えられる可能性がある。
その人を選ぶのが、ハッキングコンテスト。
それも賞金付きのものだ。

ハッキングは才能だろう。
だから、17歳でもスゴイことができる。
海外のドラマでもホワイトハッカーは、たいがい若くしてその道に入っている人たち。
実際、そういう人が多いのだろう。

社会がコンピューターに依存すればするほど、ハッキングの被害は大きくなる。
軍とて、その例外ではない。
宣戦布告の前に、ハッキング攻撃をすれば、混乱して何もできない間に本当に攻撃される。
サイバー戦は既に現実のものだ。

記事の最後にこうある。

「もし、米朝開戦時に、関東を中心に大規模停電が発生し、送金システムが破壊されて預金も降ろせず、省庁のHPにはデマが記載され、Jアラートが乗っ取られれれば、我が国は米軍を支援する以前に国内が大混乱になりかねないことを思えば、簡単に分かる話ではなかろうか。」

確かに、そういうこともあるかもしれない。

えらいこっちゃ。


| | 考えたこと | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
トヨペット
先日、女子学生が話をするのを聞いていたら、「トヨペット」という会社はペットショップかと思っていたというハナシが出てきてビックリした。

ちょうどその学生はペットショップでアルバイトをしていて、ペットショップには就職したくないと思っていたらしい。
だから「ペット」に反応したということだ。

若い人のクルマ離れもここまできた。
クルマには興味もないとはいえ、大きな道沿いにはトヨペットのディーラーくらいはあるだろうが、それも興味がなければ目に入らない。

何度か書いたが、ぼくらの20代のころはクルマを持つというのが、憧れだった。
まだまだ日本は貧しかったから、外車などは憧れるだけ。
当時のドイツ車、ベンツ、BMW、ポルシェなどは金持ちしか乗れない。

そういう若者を狙って、日本のメーカーが出していたのがセリカやスカイライン、プレリュードなど。
もう今は古き良き時代。

そういえば、クルマのCMもだいぶ変わった。
以前は、男性向けのスポーツイメージのものや、中年向けのラグジュアリーなものなどばかり。
スポーティさや機能面での訴求が主だった。
今は家庭の主婦向けのものやファミリー向けのものになり、居住性、経済性、安全性などが要求される。
クルマは嗜好品から一般消費財になったということだ。
動けばいいという考えで、軽自動車が増え、都市部ではクルマを持たない若者も増えた。

カーシェアリングもだんだんと一般的になってきた。
タイムズの駐車場にはだいたい止まっている。
インターネットやネット決済の普及もこれには一役買っている。

自家用車は21世紀中になくなるかもしれないという。
自家用車が実際に稼働しているのは、わずか3%だけだ。
ウーバーというような自家用車を活用する仕組みも出てきた。
新しい移動手段として、地方では活用を検討している。

そのうち、トヨペットが本当にペットロボットを売る日も来るかもしれない。



| | 考えたこと | 00:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIの危険性
イーロン・マスクというと、アメリカのEV専業メーカー、テスラのCEOだ。
彼が、AIの脅威として、「第3次世界大戦」が起こる恐れがあると言ったとのこと。

マスクは、政府レベルで意思決定にAIを使うようになるという未来を想定している。
国家間の紛争で、理論的に先制攻撃した方がいいという結論が出たら、AIなら躊躇なく攻撃するという選択肢を選ぶだろう、ということだ。
背景にはロシアや中国などの大国がAIに力を入れているということがある。

国際情勢をAIが判断する時代が本当に来るんだろうか。
投資の銘柄を決めるのとは訳が違う。

しかし、情報量が多くなって、人間では処理できにくくなったときには、そうなるかもしれない。
インターネットができて、その上に情報が山ほどあるから、そういうのも見て参考にするとしたら、もうやっているかもしれない。
だからこそ、ロシアがフェイクニュースを作って、大統領選の前に流したとも言われている。
報復で、今度のロシアの大統領選の時には、アメリカがフェイクニュースをロシア語で流すのもアリだろう。

そんな状態になった直後は、人間が危ないと思っているから、第3次世界大戦などは起こらないと思う。
問題は何世代か経った後だ。
その頃には、だいぶ人間も変わっている。
AIが使い物になるようになって、何十年かが過ぎる。

その頃の人間はどちらかというとAIに頼っているかもしれない。
過去の出来事もほとんど知っているし、その時の結果なども知っているだろう。
そうなると、なかなかAIの決定に反論できなくなる。

AIは人類が滅亡することを恐れるだろうか…。

ターミネーターで描かれた世界が来るかもしれないなあ。



| | 考えたこと | 20:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
アカシアの雨がやむとき
全共闘世代にとって、「アカシアの雨がやむとき」は思い入れのある曲らしい。
こないだ初めて知った。

出だしから「死んでしまいたい」と歌うこの歌詞はインパクトがある。
あまり無いタイプの歌謡曲。
第一次安保改訂の1960年にリリースされた。

Wikipediaによると、全共闘世代とは「1965年から1972年までの、全共闘運動・安保闘争とベトナム戦争の時期に大学時代を送った世代」とのこと。
団塊の世代もこの時代。
その時代の雰囲気がぼくらの若い頃も残っていた。

全共闘世代は、安保反対を叫んで学生運動をしたが、ほとんどの活動学生は普通に就職していった。
結局は大騒ぎしただけで、何も変えることはできなかったというのが、現在の見方だと思う。
ほとんどの学生はわけもわからず参加しただけだったし、指導した学生も主義主張が借り物で、お互いに攻撃したり(内ゲバ)して、まとまりなく消えていったというのが実際のところだろう。

ぼくが大学に入ったのは75年だったが、その頃はもう下火だった。
まだ特徴的な右下がりの文字の立て看板はあったし、ヘルメットをかぶった人たちがうろうろしたりもしていたが、ほとんど影響はなかった。
立て看板には、日帝(日本帝国主義)とかいう文字が踊っていたが、どう見てもそんな政治的状況はなく、浮いていた。
最後には「学費値上げ反対」ということで、ストをしたりしたが、もう終わっていたと思う。
学費は安いほうがいいが、それと安保反対と何の関係があるのか、という感じだ。

当時ぼくは左翼かぶれだったが、全く見ているだけだった。
下宿の友人たちも同じようなものだったと思う。
みんな普通に就職していった。

そんな全共闘世代だったが、彼らが60年代に安保闘争に失敗して、失意の中で聞いていたのがこの「アカシアの雨がやむとき」。
皮肉にも、結果的には日本はその後高度成長し、豊かになって不満はなくなり、全て解決してしまった。
思えばこの時代にもっと先のことを考えておくべきだったのだが…。

「アカシアの雨がやむとき」は全共闘世代の失意に、その虚無的な歌詞がぴったりきたのだろう。
西田佐知子の歌い方も、何となく投げやりで、世捨て人風だ。

そういう謂れがなかったら、この曲は生き残らなかっただろう。

西田佐知子にとっては、そういう「思い入れ」がよかったのか、それともよくなかったのか…。

曲がロングヒットになったのはよかったのだが…。


| | 考えたこと | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
サイバー戦争
日経でジェームズ・ボンドが所属していたという、イギリスの秘密情報部MI6の前長官のインタビュー記事を読んだ。

実際にはジェームズ・ボンドのように殺しのライセンスを持っているわけでもないし、そんなに派手なドンパチをするわけでもないらしい。
あれはあくまで物語ということだ。

しかし、彼が言うには、「5年から10年以内に、2001年の米同時テロのような破壊的なサイバー攻撃が発生する、と想定しておくべきだ。そうなれば多くの人々が命を落とし、突然、脅威を思い知らされることになる。すべての国家はそんな事態に備えなければならない」ということだ。

世の中、人工知能がどんどん仕事に入ってきて、IoTというように、すべてのものがインターネットにつながり、スマホ決済というようにお金もデーター化されてきた。
これが進むと、本当にサイバー攻撃を受けたら生活が成り立たなくなる日も来るかもしれない。
企業活動もクラウドの利用が進み、サイバー攻撃を受けたら営業ができなくなったり、場合によっては顧客データーや営業データーを失う可能性もある。
まさに、大混乱が起こる。

ひょっとしたら、政府と自衛隊の通信も途絶えるかもしれない。
それほど世の中はインターネットに依存している。
これから、もっと依存度は大きくなる。

もともとインターネットは、アメリカの軍が核攻撃を受けても通信網が維持できるように開発したものだが、完全にそれに依存してしまっても大丈夫なんだろうか。
核爆弾という物理的な攻撃に対しては強くても、ネットワーク自体を狙うような攻撃をされたら、脆弱にならざるを得ない。

加えて、日本の指導者層はほとんど文系で、あまりそういうことに明るいとは思えない。

あと5年で、サイバー戦争に備えるような体制を作れるんだろうか。

何となく不安だなあ。




| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 練習7回目
昨日は7回目の練習日。
へっぽこテナーは、やっぱり大変だ。
練習不足と人数不足がたたって、先生も見かねてテナーだけパート練習が長かった。
声も出てないし、パートのメロディーもなかなか覚えられない。
自分でも情けない状況だ。

ここ何回かの練習のうちに、ベースに行った人がだいぶいる。
そういえば、女性もソプラノもだいぶ減って、アルトが増えている。
やっぱり、高い音がしんどい人も多いんだろう。
テナーも音域としては上のラまで出さないといけないから、そんなに多いハズはない。
ぼくも上の方は裏声になってしまうから、本当はダメなのかもしれない。
しかし、テナーで登録したからには、頑張らないといけない。

ちゃんと練習して来て、歌える熱心な人が一定数いるとすると、人数が多くなるとそういう人も増える。
そうすると、その人の歌を聞いて、歌える人が増える。
だから、人数が多いと有利になる。

一緒にテナーをやっている40代の人が、「みんな回りの様子を見て、声を置きに行ってますよね」という。
なかなか秀逸な表現。
だれも、自信を持って歌えていない。
恐る恐る歌っているという感じ。

先生も、テナーは男声の年配者が多いので、やりにくかろうと思う。
これが学校の合唱コンクールなら、居残りで練習というところだ。
情けない。

先週、ちょっと頑張って何とかなりそうと思っていたが、今週の練習で全くダメだとわかった。

回りに助けてもらおうなどと思っていたらダメ。
自主的に歌えるようにならないと…。

来週は一度森ノ宮から来た女性の先生が指導するとのこと。
今から、行くのが憂鬱だ。

言い訳ばかり書いていても仕方がない。
ホントに練習しようと思う。

| | 考えたこと | 17:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
士業とは
大学に勤めているときに、士業(しぎょう)という言葉を知った。
士業をもっと変えていきたいという人が、資格関係の試験の売り込みに来て、自分が書いた本を置いて帰ったからだ。

士業とは、「士」のつく商売。
法律関係なら弁護士、司法書士、役所への届け出代行では弁理士、行政書士、社会保険労務士など。
税金、会計関係なら公認会計士、税理士、不動産関係なら宅地建物取引士、不動産鑑定士あたり。
医療、福祉系も多い。社会福祉士や介護福祉士、理学療法士など。
厚労省の管轄は特に多い。仕事の質を担保するという意味合いだろう。

実際、資格を取れば食える、というのは一握り。
ただ、法令でその仕事をやるのなら一定数資格保持者を置かないといけなかったり、その資格をもっていないと扱えなかったりするから、成り立っている士業もある。
そういう意味では厚労省の既得権は大きい。

したがって、法令などで決まっているから、仕方なく取るという資格もあれば、本当にその能力を持っているか、というコンプライアンスのために取るものもある。
会社にいるとき、工務関係の同期がその類の試験講座を受けに行かされて、難儀していたのは事実。
まあ、ほっておけばいい加減なやつが仕事をしたりするから、それを防止する意味もある。
そういうぼくも、キャリアコンサルタントという資格を持っている。

各々の資格がどれだけ必要かというのは、議論すべきだろう。
資格というのは陳腐化していくものだからだ。
古くなると、あまり意味がないと思う。

役所への届け出代行という仕事は、食える資格になる。
一番大きいのは税理士だろう。
なかなか忙しくて、税金の申告をやってられない人は、税理士事務所に依頼する。
でも、届け出をする側が手間を厭わなければ、不必要なものではある。
法律で、税金を納めるには税理士を通さないといけない、とは書いてないからだ。

行政書士も同じこと。
何らかの役所への届け出の時に、面倒だから手配をお願いする。
自分でやろうと思えばできるし、これも法律には書いてない。

この手の「役所の届け出は面倒」というのが、コンピューターやAIによって変わるところだろう。
法務関係などは一番危ない。
知ってるか、知らないか、という世界だからだ。
サイトに何かを入力すれば、判断してくれるようなものが出てくるだろう。
そうすれば、面倒ではなくなる。

税金なども、クラウドで明細を入力すれば申告を行ってくれるようなサイトができる。
節税の指導もAIならできそうだ。

ぼちぼち、日本の士業も見直さないといけない時期かもしれないなあ。



| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
エクセル方眼紙
10年ほど前に、初めてエクセル方眼紙を見た。
どこかから送ってきた書類で、エクセルのセルが方眼紙のように敷き詰められていて、どこにでも文字が書けるというものだった。
日本人のワープロに対する意識は、以前の一太郎のように、紙の上にペンで字を書くというもの。
それに対して、WORDのようなアメリカ発のソフトは、タイプライターのように、紙を送って一行ずつ端から書くというものだ。

今はアメリカ流のワープロが主流になったが、90年代後半は一太郎が強くて、紙のどこからでも文字を書けるというのが主流だった。
でも、いきなり、紙の真ん中に字が書けるというのは、コンピューターには向かない。
紙の上端から、リターンを入力して、縦方向の真ん中にカーソルを持ってきて、そこからスペースを入れて書きたいところまで動かし、そこで初めて字を書く方が向いている。
紙は便宜上見えているだけで、データーを端から入れていくということだ。

紙を意識すると、一枚のデーターを持たないといけない。
それは想像以上に難しい。
一太郎は頑張っていたのだが、最後にはWORDに事実上負けた。

その頃から、エクセル方眼紙が出てきたのではないかと思う。
エクセル方眼紙なら、どこからでも書くことができる。
セルの無駄遣いとも言えるのだが、どうしてもいきなり真ん中に書きたいという人には喜ばれたんだろう。
きっと西洋人にはない発想だ。

でも、縦書きから横書きに変えた時点で、日本語の伝統的な書き方を変えたのだから、ぼくらもタイプライター方式に慣れるしかないと思う。
それをエクセル方眼紙でやってしまうのは、ぼくは無駄だと思う。

特に役所からの書類にエクセル方眼紙が多かった。
役所では、従来の紙の様式に合わすことが重視されたんだろう。
方眼を細かくすれば、いくらでも従来の様式に近づけることができる。
ご丁寧に、セルの罫線を非表示にしているものもあった。
たぶん、会社にいたら、知らないまま過ぎていただろう。
初めてみた時はビックリして感心した。

しかし、エクセルというツールはもともとデーターを入れるためのものだ。
セルの場所とデーターを関連付けて演算する機能もある。
エクセル方眼を最初に考えた人はエライと思うが、間違っているとも思う。
データーを入力するためには、どこに何が入っているかわからないといけない。
入力したものをデーターと考えれば、それは適当に入力してはいけないのだ。
エクセル方眼には、書かれたものをデーターにしようという考えがないと思う。
あったとしても、隙間だらけの冗長なデーターになる。
これを使う人は、コンピューターを清書の機械だと思っているのだ。

先日、エクセル方眼について公開討論会を行われたらしいが、ぼくは反対派だ。
あくまで、エクセルはデーターを整理するためのもの。
コンピューターが賢くなって、今では高度な印刷もできるようになったが、それはワープロに任すべきだろう。
紙の上のどこかに字を書くために作られたものではない。

こういうことが、生産性が上がらない原因かもしれない。
いつまでも紙の文化の形式にとらわれず、変えていかないといけないと思う。

と思ったら、2016年11月に文科省に対して、ようやく「エクセル方眼全廃」の指令が出たらしい。
さすがに大学の情報関係の先生から文句が出たからだ。
それまで、国立大学法人などではだいぶ使っていたんだろう。
役所のリテラシーの低さがよくわかる。

でもまあ、これで指導すべき役所が使わなくなったから、マシになるということか。

しかし、ビル・ゲイツがエクセル方眼を見たらどう思うだろうか…。


| | 考えたこと | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
民族の時代
イラクの北部でクルド人が独立運動をしている。
たぶん、住民投票では賛成多数になるだろうが、イラク政府は反対している。
民族紛争になるかもしれないという。

クルド人はイラクの人口の2割を占めるらしい。
言語や文化が違う。
報道によると「国家なき最大の民族」とのこと。

日本のように、長らく宗教や民族の違いで殺し合いをしてきていない国にいると、世界ではそんなことが起こっているという事に改めてビックリする。
イスラムの人々というと、みんな同じイスラム教だと思っていたら間違いだ。

インドネシアに出張で行ったときに、現地の人が自分たちは緩いイスラム教徒だ、と言っていた。
その言葉は、もっと厳しいイスラム教があるということを表している。
そういえば昨日サウジアラビアで、女性の運転が許可されたというニュースがあったのを思い出した。
サウジも原油安で、石油の儲けが少なくなって、女性の働き手を増やそうとしている。
世界はどんどん動いている。

ヨーロッパでもイギリスでのスコットランドの独立運動以来、世界のいろんなところで独立したいという動きが盛んになってきた。
今朝のBSワールドニュースでの各国のニュースは、カタルーニャ地方の独立の住民投票のことだった。
ここもカタルーニャ民族が住んでいるらしく、民族独立運動の類だ。
住民投票を強行した地元政府と、阻止したかったスペイン政府の戦い。
EUという大きな器ができてしまったから、国の単位は民族の単位になろうとしているのだろうか。

そういえば、カナダのケベック州も一時独立の動きがあったはず。
今はどうなったかは知らないが…。

新しいところでは、カリフォルニア州にも独立の動きがあるという。
でも、これはトランプ大統領に反対してのことだ。
アメリカ西部は移民が多く、Calexit(キャルエグジット)という言葉もできている。
トランプ政権が8年続くと、カリフォルニアは本当に独立するかもしれないなあ。

21世紀は民族紛争の時代になるということを以前聞いた。
2001年にアメリカで「9.11」のテロが起こったのは象徴的だ。

地上波のワイドショーという「情報番組」の情報とBSワールドニュースの情報には、すごい溝ができている。
日本のニュースがガラパゴス化しているのだ。

日本は世界有数の大国になって(今はだいぶランクを落としているが)、自分のことしか考えなくなったように見える。
70年続いた平和が、それを生んだのかもしれない。
憲法第9条と、アメリカの核の傘と、どちらが日本の平和に貢献したのだろうか。
ぼくらは学校で憲法第9条のおかげだというようなことを習ったが、本当にそうなんだろうか。

世界に目を向けて、世界の情勢を分析することで、日本の輸出企業は生きてきた。
今でもグローバルに活動している企業はそうだろう。

G(グローバル)とL(ローカル)の溝がどんどん大きくなっている。
Gの人たちは、Lの人たちを見て、どう思っているんだろうか。

Lのマスコミが多すぎるのではないか…。




| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
ひよっこ
朝のドラマ「ひよっこ」が終わった。
ひよっこは、茨城県の奥茨城村という架空の田舎から出てきた、集団就職の高卒生が東京で頑張るハナシ。
ちょうど団塊の世代に焦点を当てて、その歴史を辿ったようなストーリーだ。
主人公が高校生の時代に東京オリンピックだから、ぼくより10歳ほど上。
今の70歳前後の人たちの時代と重なる。

主人公の父親が記憶喪失で行方不明になるという、昭和らしいアクシデントで、長女が東京で働くことになる。
最初に勤めたトランジスタラジオの工場の寮で仲間を作る。
女子寮でコーラスをやるのだが、それがロシア民謡のトロイカだったりする。
そんな時代だった。

でも、工場は不景気で潰れ、父親のゆかりのあったレストランで働くことになる。
父親を見つけ、初恋、失恋、そして婚約というストーリー。
途中でビートルズの来日や、ツィッギーのミニスカートブームなどのエピソードが入る。
まさに、昭和の価値観で見ることができる。

今回のドラマのテーマは「仲間」というものだったと思う。

工場の乙女寮の一部屋に6人の雑魚寝。
今なら劣悪な環境のブラック企業と言われるだろう。
昭和なら、当たり前だった。
でも、その6人のつながりが、工場が潰れてバラバラになっても続く。

そして、レストランの裏のアパートの仲間。
こちらのアパートも4畳半で炊事場が共同。トイレも共同だろう。

漫画家志望の若者2人。これは藤子不二雄がモデルだ。
ドラえもんのパロディで、主人公をモデルにした、たぬき型ロボットのマンガを描く。
ベテランのOL、寮長だった女性、オーナーの元芸者、主人公の女優志望の同級生、レストランの料理人、シェフ、女主人、いきつけのバーのマダム、近所の和菓子屋などなど…。
その仲間がいて、助けてくれたり、助けたりする。そういうドラマ。

四畳半のトイレも風呂もない貧しい暮らしだが、それが貧しいと思えないのは昭和の人間。
あんな時代だったよな、と思う。
一昔前の青春物を見ているような感じだった。

ああいう暮らしが普通だった。
「貧しいけど、希望を持って、みんなで頑張ろう」という感じ。
これから成長していく社会。
街には若い人が溢れていた。

ほんの40年ほど前にはそういう時代があった。
そこから日本は豊かになって、一時は世界2位のGDPまでに成長した。
そして、今も豊かだ。
でも、自殺率が高く、昭和の時代に作られた仕組みが重荷になって、社会に希望がないように思う。

それでも頑張れば、もう一度あんな時代が迎えられるだろうか。
やってみないとあかんなあ。
| | 考えたこと | 16:09 | comments(0) | trackbacks(0) |