考えたこと2

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効率を上げる
日本のサービス産業は生産性が低いという。
生き残るためには生産性を上げないといけない。
単位時間あたりの仕事のアウトプットを増やさないといけないのだ。

アメリカでバイオリニストの練習時間を調査したらしい。
その結果、ダラダラと7時間練習する人よりも、集中して4時間練習する人のほうがうまくなる、ということだ。
他にもいろいろ調査結果がある。
自分に集中することが出来る時間を増やすことが、効率を上げることにつながる。
朝1時間早く出社すると、2時間早く帰れるらしい。
余計な仕事はしないことも大事。
2割の仕事が8割の結果を生むということだから、目の前の仕事に集中することだ。

こういう分析をするのは、前にも書いたが、アメリカ人は得意だ。
とにかく、効率を上げるということに価値をおく。
効率の悪いやり方は悪だという思いがあるのだろう。

どうしたら効率が上がるか、ということがいろいろと言われている。
昼寝をすればいいとか、クルミを食べたらいいとか、アメリカにはいろんな調査結果があるらしい。
経済学がアメリカで進んだのも、効率を上げるための学問だという意識があるからだと思う。

しかし、何で日本人はこんな分析が出来ないのかと思う。
日本の工場で品質を上げたり、製造過程を効率化したQC活動の元になったのは、アメリカの研究だったし、その手法を使ってやるのは得意だが、新しい方法を編み出す等はどうも不得意な気がする。

なかには、いい加減な結果もあるだろう。
でも、効率を上げることは、新しい商品やサービスを生み出す力にもなっていると思う。
音楽をデーターにして、ネット上でやりとりすることで、買いにいく手間を省き、CDを作る手間を省く。
ネット保険やアマゾンの通販なども店舗をなくして効率を上げるためだ。
グーグルが検索技術を作ったのも、あふれかえる情報からいいものを見つけるという効率化を追求した結果だと思う。
結局、世の中の効率を上げることは、いいことだ、という哲学があるのだろう。
インターネットはまさにそういう道具になる。
これからも、どんどんそういうサービスが出てくると思う。

日本人は、効率が悪いのは「悪」ではないと思っているのかもしれない。
そうでなければ、役所の仕事などもっと早くなっているはずだ。
ようやくコンピューター化されて便利になったと思ったのは、ここ数年ではないか。

だから、ぼくがアメリカに行った時に見た、年配の人でもパソコンを積極的に使う。
「苦手だから使いたくない」ではなく、「使わないと損」だと思っているのだ。

でも、そのために多くの人が犠牲になって、仕事が減る。
イノベーションは、いいものではあるのだが、厳しいものでもある。
世の中の最大多数の効率化が進めば、失業する人が出ても仕方がないという、世間のコンセンサスがあるんだろう。

どちらがいいのかは、難しい。

でも、結局勝つのは効率化が上がった方だと思う。
どこかが守らない限り、効率が悪いところは淘汰される。

若い世代に期待しよう。
彼らは効率が悪いことは、悪だと思っているフシがあるから…。




| | 考えたこと | 20:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロボット化で増える仕事
またまたアメリカの調査結果。
ロボットによる自動化が、向こう十年間に労働者に与える影響について、報告されている。
調査対象は大手企業、多くの新興企業など。

調査結果によると、2025年までにアメリカの雇用全体の16%(2270万職)が奪われるという。
しかし、ロボットを導入して増える職もあるらしい。
だから、純減は7%(910万職)にとどまるとのこと。

なるほど。
新たに必要となる労働もあるわけだ。
ロボットのメンテナンスは必要だろう。
プログラミングもある。
ロボットが仕事をしやすいように、具体的にものの形を変えたり、ロボットの仕事をサポートしたりするのも新たな職になるだろう。
そして、ロボットと協調して働くためのトレーニングもアリだ。

報告書では、自動化によって10の仕事がなくなるごとに、ソフトウェア、エンジニアリング、デザイン、メンテナンス、サポート、トレーニングの分野で新たに1つ仕事が生まれるということだ。

日本の場合、労働人口が減っていくので、ロボットの活用が必須になる。
力のなくなった年寄りでも、力を出せる装着型のロボットはもう実用化の域に入った。
自動運転の技術は、工場内を自律的に動き回れるロボットの開発を加速するだろう。
ものを見て、それが何かを理解し、その上でつかめるようなロボットも出てくるだろう。
それこそ、工場内では、単純労働はロボットに任せるという時代になる。

2025年まであと10年。
これから、ロボットの活用が増えてくる。
その時に、生き残れる仕事をしておかないといけない。

そして、人口が減ってよかった、という時代を迎えないといけない。

そしたら、それ以上は人口が減らないようになるかも…。




| | 考えたこと | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
不登校
朝のNHKで不登校のことをやっていた。
どれくらいいるのか、調べてみると、平成26年度で小学校の不登校率が0.39%、255人に1人の割合で、中学校が2.76%で36人に1人という結果。

中学校の36人に1人というのは、スゴイ数字だ。
全部で8万人ほどが不登校。クラスに1人は確実にいるということになる。

番組ではスクール・ソーシャル・ワーカーの導入のことや、学校以外の居場所のことなどをやっていた。
しかし、スクール・カウンセラーはどこへいったのか。
役に立たないから、スクール・ソーシャル・ワーカーが出てきただろうか。
さすがに文科省も自分のところが作った資格に見切りをつけて、厚労省の方にすがったんだろう。
今日はカウンセラーは全く出てこなかった。

また、フリースクールや学校以外の居場所を紹介したり、認可したりということも必要だという感じで話していた。

社会がこの数十年間で変わり、子どもといえども早くから個人として扱われるようになり、ここ20年は景気が悪化し、インターネットの発達、携帯情報端末の発達で情報化が進み、「世界に一つだけの花」的な教育の影響で社会化が妨げられ、子供が住みにくい世の中になっているのかもしれない。

でも、今日の議論でも今の学校の先生の話はほとんど出なかった。
パネラーたちはみんな「先生はソーシャルワークなど出来ない」のが当たり前、そして日本の先生は忙しい、ということを当然のように言っていた。

先生が忙しいのなら、負担を減らすべく事務の職員を入れるべきだし、クラブ活動などを外注すればいいと思う。

また、ソーシャルワークというのは社会での活動ということだと思うが、それが出来ないのが当たり前の先生ばかりでいいのだろうか。
学校というのは、社会に出る前の子供が社会に出る準備をする場でもある。
そこで子どもたちをソーシャライズするのは、教育の役目のひとつだと思う。
確かに中学生というのは難しい年代だと思うが…。

そういえば、教員養成課程に、ソーシャルワークを学ぶのを入れるべきだ、ということも言っていた。

そんなことをしなくても、社会に出てから先生になったらいいのだと思う。
学校という特殊な職場しか知らなければ、ソーシャルワークなど出来ないのかもしれない。
だから、いったん社会に出て働いた経験を持って、先生になればいい。
そういうことも考えるべきだ。

もちろん、社会に出た経験のある人を、学校事務として雇うのもいいと思う。

そういう視点がなければ、いつまで経っても良くならないのではないか。

| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
ソーシャル・ロボットの時代
何度かこのブログでもMITの開発したロボット、JIBOのことを書いたが、いくつかの会社で本格的にそういうロボットが開発されているらしい。

ニューズウィークに記事が出ている。

ソーシャルロボットとは、産業用の働くロボットとではなく、人間と会話するためのロボットという定義。
記事の中では、シリコンバレーでホットな話題になりつつあるとのこと。
それはそうだろう。
なかなかスマートフォンに話しかけることは出来ないが、ソーシャルロボットなら話ができる。
そればかりではなく、「スケジュールをリマインドしたり、家の中を監視したり、電話のメッセージを読み上げたり、写真を撮ったり、レシピをサジェストしたり......。これまで複数のデバイスに任せていたタスクを、1台のソーシャルロボットがすべてこなすことが、消費者にとっての大きな魅力になるとしている。」とのこと。

一人ひとりが秘書を持つようなものだ。
家中のいろんなものが、このソーシャルロボットとつながることによって、自動化される。
エアコンの温度を調整してくれたり、お風呂を入れてくれたり、テレビの録画をしてくれたり、電気を消してくれたり、留守番をしてくれたりする。
ソーシャルロボットを中心に、ホームオートメーションが可能になる。
そういうハブとして、ソーシャルロボットが使われる。
だから、シリコンバレーでホットな話題になっているんだろう。

この12月にはJIBOが販売されるはず。
JIBOは顔がカメラになっていて、写真を撮ってくれたりする。
日本語版を出してくれないかなあ。

日本人はアトムの文化があって、ぼくらの世代は人型ロボットに全く違和感がない。
キリスト教の西洋人だと、ちょっと恐いらしい。
だから、向こうのロボットはあまり人間らしくないのか。
でも、JIBOみたいな顔でも十分だ。
動けなくてもいいと思う。

インターネットに常時接続しておけば、「月までの距離は何キロ?」といきなり聞いても、答えられるだろう。
知識はいきなり世界でも有数のものになる。
そういうロボットと知的な会話ができたら、ボケ予防にもなるだろう。

高齢者向けの話し相手や、英会話の練習用としても役立つ。

これは大きな市場になると思う。

ソニーあたりが本気でやったらいいのだが…。

この分野はこれから伸びるぞ。


| | 考えたこと | 19:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
マイクロ水力発電
ぼくらが小学校のころ、水力発電というと結構メインの電力だったと思う。
雨が多く、山が多い日本は、水力発電に適しているというような説明だった。
でも、ダムが自然破壊するというようなことで、火力発電に取って代わられた。

しかし、新しい形の水力発電が出てきた。
浄水場の水路を利用した、超小型の水力発電である。
日経の記事によると、作ったのはダイキン工業。
エアコンの技術を利用したとのこと。
インバーター制御の技術や、室外機のファンの設計技術を転用している。
これがマイクロ水力発電。

こういう細々したのは、日本は得意だ。
今まで小水力発電のネックだったのは、水に入っている落ち葉。
それが浄水場なら、水の中のゴミはなくなっているからちょうどいい。
今回福島の浄水場に設置して、実証実験をするということだ。
120軒の世帯に電気の供給が可能という。

ダイキンでは外販を考えているとのこと。

こういうのは、いいアイデアだと思う。
小規模の発電をいろんな所でやる。
電力の地域での自給自足だ。

工場用の電気は別として、オフィスや一般家庭の電力をできるだけ自給自足すれば、発電量は少なくてすむ。
大きな発電所を作らないで、自給自足するというのは、却って非効率になるんだろうか?
太陽光のメガソーラーなどはムダだと思うが、自分が使う電気を自分のところで…ということなら、ありだと思うのだが…。
当然、蓄電の技術が出来ないと、太陽光などはシンドイだろう。
夜は発電しないからなあ。

この、マイクロ水力発電も、どんどん増やせばいい。
エコにもなる。

こういう技術やアイデアがどんどん出てくれば、電気が足りなくなることはない。

将来、クルマが全部電気自動車になっても、なんとかなるかもしれない。

知恵の力が必要だ。

| | 考えたこと | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
モーレツ企業戦士
「モーレツ企業戦士」この言葉も死語になりつつある。

昭和45年に、TVCMで「モーレツからビューティフルへ」というコピーが流行った。
流行ったのは、まだみんなモーレツに働いていたからだろう。
モーレツに働くことが、ビューティフルではない、ということの呼びかけだったのかもしれない。

その後、40年経って、コンプライアンスがうるさくなり、実際モーレツ企業戦士というのは成り立たなくなりつつある。
会社にいたら、本当に帰れと言われる時代。

ぼくがまだ会社にいた2000年当時は、組合の見回りがあったが、それでもその後まで残っていても何も言われなかった。
もちろん、残業はつかなかったが…。

世の中様変わりしたと思う。
本当にそれでいいのか、という記事を読んだ。
その記事にも1980年代は企業戦士が美徳だったと書いてある。

ぼくが会社時代に働いたのは、口ではシンドイと言っても、仕事をやっていて楽しかったからかもしれない。
実際、追い詰められてやる仕事もあったが、そうでない仕事もあった。
まあ、やらないと仕方がない場面がほとんどだったが、真剣にやろうとすると遅くまでかかるということも多かった。
誰かがやって、出来上がりをチェックするために残るということもあったなあ。

バブルの終わりの頃は、連日終電以降だった。
残業代も出ないのに、タクシーで帰ることもザラだった。
毎日睡眠5時間くらいで、会社に15時間くらいはいたなあ。
懐かしい。
惰性になっていたし、本当に効率的だったかと言われると、たしかに疑問だ。
でも、結局は仕事をやりたかったのだろう。
今となってはそうとしか思えない。
自己満足と言われても仕方なかったと思う。

それでも、それだけ仕事ができたということは、今から思えば幸せなことだと思う。
過去は美化されるからなあ。

今はそういうこともできなくなった。
できるのは、経営者だけらしい。

自分がそれだけ働けた過去を持つのを、よかったと思っておこう。

自己満足だったかもしれないが…。


| | 考えたこと | 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
ウソを見破る方法
アメリカ人は何でも研究対象にして、本当に研究する。
パメラ・メイヤーという人が、ウソについて研究した結果をTEDでプレゼンしている。
それによると…

「研究によると私たちは毎日10回から200回嘘をつかれています。嘘の多くは罪のないものです。別の研究では、初めて会う人同士は最初の10分で3回嘘をつくという結果も出ています」

どうやって研究したのかわからないが、そう言われると、そうかなと思う。
毎日10回から200回とは幅が広いが、それは付き合う人によって違うんだろう。
しかし、初めて会う人同士は最初の10分で3回ウソをつく、というのはホントかな…。

まあ、真偽はともあれ、ウソをつく人は、こういうテクニックを使う。

・否定を強調するために、形式ばった表現を使う。
・嘘の対象と距離を置く言葉を使う。
・「率直に言って」など信憑性を高めるための修飾が多く見られる。
・必要以上に細かいことを説明したがる。

わかっていても、してしまうところがミソ。
「独創的な嘘つきなどいない」らしい。
ビル・クリントンの浮気の事件から、例を挙げている。
あれは細かく調べられたから、事例の宝庫だろう。

そして、こういうところに注意すれば、ウソがわかるらしい。

・言っていることと行動が一致しない。
・笑っていても、目じりのシワが出にくい。
・まばたきの様子が普段と違う。
・相手との間にバッグなどで垣根をつくりたがる。
・声のトーンが低くなる。

ウソをついているときは、相手の目をそらすということが言われているので、却って目を合わせる時間が長くなる、ということも言われている。
また、ウソをついているときは緊張しているから、笑っていても本気ではなかったり、まばたきがぎこちなかったりするだろう。

しかし、ぼくが面白いと思うのは、アメリカにはこういう事を研究する人がいる、ということだ。
日本の人文社会科学の人たちは、研究というと文献をあたり、自説を事例をあげて検証するというパターンが多い。
しかし、アメリカの人文社会科学者はケースを集めて観察し、統計的に扱おうとする人がいる、ということだ。

実験方法も考え(たいがい被験者は大学生だが)、グループ分けをして条件を変えて、同じことをやらせてみるというように、だいたいよくできている。
この研究もきっとそういう方法でやったんだろう。

ぼくは、どちらかというと、どういう実験をやったのかというところに興味を持ってしまう。

「嘘の傾向をまとめてみると、私たちは職場の同僚より見知らぬ人により嘘をつき、 外向型の人は内向型の人よりもより嘘をつく傾向が高いという。男性は他人のことより自分のことについて8倍嘘をつき、女性は他の人を守るためにより嘘をつく傾向にある。平均的な夫婦なら10回の会話で1回は嘘をつき、 独身なら3回に1回と増える」

これなども、傾向はもっともだし、よくわかるのだが、「平均的な夫婦なら10回の会話で1回はウソをつき、独身なら3回に1回と増える」という、この「数字」がどこから出てきたのかが知りたくなる。

とにかく、アメリカの人文社会科学者は、数字を大事にするということだ。
そういう態度が、人文社会科学にも必要だと思う。
TEDのプレゼンはこちら

http://www.ted.com/talks/pamela_meyer_how_to_spot_a_liar

残念ながら字幕は英語だが…。

見ていると、そのうちコンピューターで表情や仕草を分析して、新しいうそ発見器が出来そうな気がする。

日本の学者も見習わないとイケナイと思う。


| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
野球文化
子どもの「野球離れ」に関する記事を読んだ。

ぼくらが子どもの頃は、サッカーより野球だった。
プロスポーツが野球しかなかったからだ。
シーズンになると、毎晩野球中継があって、特に巨人戦や阪神戦は人気だった。
学校でも、古くは村山、バッキー、新しくは江夏や田淵といった名前がよく出ていた。

今ほど盛んではなかったが、少年野球をやっている友だちがいたし、小学校の放課後は手打ち野球もやった。
人数が少ないと、三角ベースでやったものだ。
当時はまだ「空き地」と呼ばれる土地がまだ所々にあって、そこに集まって軟球で野球をしたりした。
グローブとバットは必需品だった。

野球のプレーヤーを支えている、野球人口のピラミッドの底辺の少年野球チームは、なかなか人が集まらなくなったらしい。
チームが存続不能になり、合併したという話は聞いたことがある。
子どもの数自体が減っていて、野球以外の選択肢も増えたから仕方がない。

記事には、親の世代が子どもとキャッチボールをしなくなったということが意外と大きな要因になっているのではないか、と書かれている。
それはそうかもしれない。
キャッチボールが出来る場所が減ったし、周りの人に怪我をさせたら困るという気持ちも働くからだ。
当然、小さい頃にキャッチボールをしなかった子どもが大きくなったら、子どもとはキャッチボールをしないだろう。

ぼくらの世代の父親は、たいがいキャッチボールはしていると思う。
でも、若くなるとだんだんしなくなっているのかもしれない。
それが少子化と相まって、野球人口が減り、リトルリーグのチームが成り立たなくなっているのだろう。

野球文化は、アメリカ文化でもあった。
ぼくらが小さい頃は、もっとアメリカは近い国だった。
テレビをつけたら、そこにアメリカはあった。
日本のテレビ業界はそんなに番組を作る能力がなかったので、アメリカから番組を輸入していた。
サンセット77、ハワイアン・アイ、ベン・ケーシー、名犬ラッシー、ルーシーショー、ポパイなど、子どもから大人までアメリカ文化に染まっていた。
ラジオをつけても、ベストテンの半分は洋楽だった。
だから、スポーツも野球だったのだろう。

戦後の日本は豊かになって、ついにアメリカから経済的にも独立して、そして文化的にも独立したのだ。
強かったアメリカの影響が小さくなるとともに、特に若い世代はアメリカの影響が小さくなった。

それでも、野球の伝統はまだまだ残っている。
もう日本のスポーツの伝統と言ってもいいだろう。

できれば、その火を絶やさないで、キャッチボールを続けてほしいのだが…。






| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
島根県
遅い夏休みをとって、家族で島根県に行ってきた。
出雲大社に一度行ってみたかったからだ。

クルマで中国道を走って、鳥取県から島根県に入る。
宍道湖を見ながら出雲に入る。

大きな鳥居が3つあって、まっすぐの参道が続いている。
途中に因幡の白兎と大国主のミコトの石像などがあって、本殿に続いている。

神殿にお参りをして、出雲大社を出る。

神社の方が寺よりもすっきりしていて好きだ。
七面倒臭い説明や解説などなく、お参りをするだけ。
本当にあっさりしていて、気持ちがいい。

島根県に行ったのには、もう一つ目的があった。
人口が少ない県で、松江市などはどんな感じなのか見たかったからだ。

松江市は宍道湖と中海にまたがっている県庁所在地。
市役所と県庁のそばに松江城がある。
雨の中、小さな天守閣を見て、こじんまりしたいい城だと思う。

しかし、島根県の人口が69万人。
松江市の人口が20万人ほどだ。
工場も少しあったが、本当に農業と公務員、食堂や小売などのサービス業がメインという気がした。
湖に囲まれたすごくいい都市なんだが、何でこんなに人口が少ないのだろう。
冬は雪が降るんだろうが…。

県のホームページを見ると「今後とも、企業誘致の推進、観光振興、島根の特色を活かした売れる農林水産品づくり、県外からのU・Iターン対策などをさらに推進してまいります」と書いてある。

これは人口減少の厳しい地域ならどこでも同じこと。
その上で、どんな施策をやるかだが…。

インターネットの発達で、情報の距離はほとんどなくなった。
そういうものを生かして、何かできないのだろうか。
そんなことは、もうとっくに考えているのだろうか。

間違いなく、住むところは安い。
でも、情報集約の小売であるコンビニは少ない。
都市銀行も少なかった。
高いビルも少なく、都市にずっと暮らしている人にとっては、だいぶ違う景色だろう。

どうやって地方創生していくのか。
地方の知恵を本当に集めないといけないぞ。


| | 考えたこと | 00:35 | comments(2) | trackbacks(0) |
TI
TIというと、テキサス・インスツルメントという会社のことだ。

ぼくが学生のころ、TIはプログラミング電卓を作っていた。
大学生協でセールがあって、安く買った。
あれは4回生の時だったと思う。

それが押し入れの中から数十年ぶりに出てきた。
何せ電池で動かない電卓だ。
大きさは普通の関数電卓くらいなのだが、厚みがあって、ACアダプタをつながないと動かない。
表示は液晶ではなく、赤く光る蛍光管?だ。

電源を入れてみると、最初はワケの分からない数字が出たが、クリアするとゼロになった。
一応、足し算、引き算、掛け算、割り算は出来そうだった。
この電卓はプログラムが可能なのがウリだった。
プログラムといっても、後日シャープなどが出したBASICというような比較的わかりやすいものではなくて、アセンブラという機械語に近いものだったと思う。

もう使わないので、捨てようと思ったが捨てられなかった。
この電卓には卒論の時にお世話になったからだ。
夜を徹して計算をしたおぼえがある。
もちろん、プログラムして、計算した。

あのあとすぐに、シャープがベーシックのプログラム電卓を出した。
電池で動くヤツだ。
文字が打てて、TIよりもずっと使いやすい。
すぐに、こちらに乗り換えた。

会社ではもっぱらシャープの電卓を使った。

こうやって、経緯を書くことで、捨てる心の準備をする。
書いてしまえば、捨ててもいいという気になるから、不思議だ。
こんまり流に言えば、書いて、捨てるものへの感謝の気持ちを表しているということになるんだろう。

昔お世話になったTIの電卓も、ついにお別れの時が来た。

Thanks a lot.


| | 考えたこと | 01:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
マルチタスク
マルチタスクというと、一度にいくつもの仕事を並行してやる、という意味。
これはコンピューターの世界ではいいことだ。
演算装置が空いている時間を細切れに使うことで、効率を上げるのだ。

しかし、人間にとっては効率が悪くなるらしい。
マルチタスクをやめれば生産性が40%アップする、という記事を読んだ。
しかし、同時にマルチタスクは脳に快感を与えるらしい。
マルチタスクをしていると、ドーパミンという快感物質が脳内に出るとのこと。

これは何となくわかる。
サラリーマン時代、残業して、一人で仕事をしている時、のってくるといろんな考えを思いつく。
それをその都度一つずつまとめていた。
Aという仕事をしていて、Bという仕事の考えを思いついたら、そちらを優先してやる。
その途中にCという仕事の考えを思いついたら、さらにそちらを優先する、という具合。
結果的に遅くまで仕事をすることになる。
それでも、何となく爽快感があった。

たしかにあまり効率的ではないと思う。
しかし、思いついたらやりたくなる。
思いついた考えはなるべく早く形にしてしまいたい。
ドーパミンの影響もあったかもしれない。

しかし、これが効率を下げる。
記事によると、下げないためには、何かを思いついたらメモをしてすぐに元の仕事に戻る、ということだそうだ。
まあ、それもアリだとは思う。
実際、納期が迫っている仕事をしている時には、そういうことをしていた。

電話一本で状況が変わり、今までの仕事を中断し、依頼があった仕事をしないといけない、という事態もあった。
これも、記事によるとNoと断るのが得策ということだ。
「今はできない」と言うことで効率を下げないという。

しかし、顧客の依頼であれば、断れない。
実際、ぼくらの仕事はそんな仕事ばかりだった。
自律的に仕事ができるのは、夜の7時を過ぎてからだったと思う。
言い訳になるが、だから残業をしたのだと思う。
管理職だったから、残業をしても残業代が出るわけではない。
それでも、自分が自律的に仕事をしようと思えば、夜になってしまうのだ。

そういう時に、昼間のストレスが発散して、いい考えを思いつくのかもしれない。
結果的には昼間のストレスを発散するために、仕事をしていたとも言える。

となると、コンプライアンスを強化し残業を減らすと、そういうチャンスも減って、帰りにいっぱい飲んでストレスを解消したりすることも増えてくると思う。
自分の仕事は自分で決められる、というのもモチベーションの元になる。

そのへんのさじ加減が難しい。




| | 考えたこと | 21:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
絵を描く人工知能
ついに、人工知能が絵を描く時代になった。

ここでその作品が見られる。

何の制約もなく絵を描かしたのか、それとも結果的に描いたものを人間が選んだのか、それとも誰かの絵を見本にして描かせたのか、それはわからない。

こちらのサイトで、慶応の先生が言っているが、2045年には人工知能が人間の知能に勝って支配されるのではないか、という2045年問題が指摘されている。

先生は、人間の想像力と創造力を伸ばすような教育体系を作らないといけない、と言っているが、言うのは簡単だがそんな教育体系ができるんだろうか。
ソウゾウ性(これは想像性と創造性を合わせたものらしい)を上げる教育、というが難しいと思う。
すでに分野を限ったら、知識を詰め込む能力は、普通の人間には及ばないところまで来ていると思う。
銀行のヘルプデスクなどは、もう置き換えられはじめているくらいだ。
そのうち法律の領域なども置き換わるだろう。
要は、過去の知識を集積して、似たものを探す能力では人工知能に及ばないから、新しい物をソウゾウする力を上げようということだろうと思う。

しかし、昨日も書いたが、ソウゾウ性というのも、知識や経験の量に制約されると思う。
ダヴィンチのような天才がどうやって生まれたのかはわからないが、自分の経験で言えば、ソウゾウ性というのは自分が経験してきたことや、知識の量に依存し、それらをどう結びつけるか、というところにあるのだと思う。
もちろん、本を読んだり、映画を見たりして擬似経験を増やすのも必要だ。

問題はどうやったら、ソウゾウ性を上げられるかということだろう。

よくわからない、持って生まれた素質はあると思う。
生まれつき、絵がうまいとか、文才があるとか、ピアノが上手とか、そういう才能はたしかにあるだろう。
遺伝子が関係していると思う。

しかし、先生のいう「知識の詰め込みや暗記はもう完全にコンピューターに負けているので、勝てる分野は、この2つのソウゾウ性(想像性と創造性)しかないのです。この能力を引き上げられるような教育体系を今、いかに作るか。これがうまくいくかどうかが、2045年問題が現実のものとなるのか、それとも「やっぱり人間がつくるもののほうがイマジネーションとしてもリッチだな」と思える世界になるのか、分かれ目になると思います。」というのはわかるのだが、それは結局人間が従来の「知識の詰め込みや暗記」を頑張るしかないと思ってしまう。

今まで以上に、一人ひとりの人間が、頑張って知識の詰め込みを増やし、いろんな分野に興味を持って、多様な問題意識を持つような教育を地道にやっていくしかないのではないか。

先生は、「過去の延長上に未来はないと思います。」というが、過去の延長上にしか未来はないと思う。

人間の脳の構造はそう簡単には変わらないのだから。



| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
機械に奪われないためには
以前、オックスフォード大学の教授が「今後10〜20年で47%の仕事が機械に取って代わられる高いリスクがある」という記事を発表したことを書いたが、その記事がまた週刊ダイヤモンドで取り上げられている。

東大が法律相談のITベンチャーを立ち上げたとのこと。
人工知能を使って、煩雑な手続きを簡素化するらしい。
法律は人工知能の得意なところかもしれない。教授の発表では法律関係は代替される職業の上位には入っていないが…。

だから、人間はどうしたらいいのか、ということになる。
この手の話が出てきたら、たいてい詰め込みの知識は役に立たないという議論になる。
この記事でも「インターネットで常につながっている今、工業化社会で求められた知識詰め込み型の教育が時代にそぐわなくなっているのである。」と書いてある。

その事例が、記事の中に「今の子供たちは生まれたときからインターネットに触れている世代だ。ある社会科教諭は「生徒に、『ネットで検索すればすぐ出てくるのに、なぜいちいち首都名を覚えなければならないのか』と聞かれ、答えに窮した」と言う。」とある。

しかし、ぼくは本当にそうかと思う。
そんなに短絡的に決めつけてよいのだろうか。
詰め込まなければ、空っぽのままでよいのだろうか。
知識を詰め込まないで、考えることなどできるのだろうか。

いちいち首都名をおぼえるのは、そういう知識がなければ首都名が出てきた時に、いちいち調べないとわからなくなるからだ、と言えないのだろうか。
首都名は考えるための基礎だ。
テヘランで何かあったと言われたら、中東で、イランで、イスラム教で、石油が絡んでいるかも…、くらいの事が出てこないと、考えることなどできるわけがない。
そのために、首都名くらいは覚えておくのだろう。
テヘランを知らなければ、検索すればわかるが、その周辺に絡んだ情報はどうするのだろう。
そのために、地理や歴史を習うのではないのか。

空っぽの頭でそんなことができるわけがない。
方法論だけを学んでも、基礎的な知識がなければダメだと思う。

人工知能が発達したら、よけいに基礎知識が大事になるのではないか。
人間のいいところは、異なることを結びつけることだろう。
それが発想などの元になるのだ。
そのためには、幅広い基礎知識がなければダメだと思う。

だいいち、そんなことを教えないで、何を教えるのか。

ぼくが古いのかもしれないが…。


| | 考えたこと | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユーミンのベスト20
ぼくはユーミンというと荒井由実が先に来る。
70年代後半に「きっと言える」という曲でビックリした。
それまでのフォークソングから発展した曲とは、全く違った感じだった。

声も特徴的だし、メロディラインも斬新だった。
なんか、「新しい」というイメージがあったなあ。
ちまちまギターを弾いて歌うというようなものではなく、今までの常識をふっ飛ばしたような、そんな曲だった。

そんなわけで、ユーミンのベスト20を選ぶと、どうしても荒井由実の時代の曲が多くなる。
実際、よく聞いたアルバムというと、「ひこうき雲」「ミスリム」「コバルトアワー」「14番目の月」の最初の4枚が一番。

松任谷由実になって、4枚ほど休んで、「時のないホテル」、2枚休んで「昨晩お会いしましょう」「パールピアス」「リインカネーション」「ボイジャー」「ノーサイド」、1枚休んで「アラームアラモード」「ダイアモンドダストが消えぬ間に」、だいぶお休みして「ア・ガールインサマー」、1枚休んで「ロードショウ」「ポップクラシコ」と15枚のLP・CDを持っているはずだ。

TSUTAYAで借りたものも入れると、20枚くらいは聞いたはず。

その中から、ベスト20を選ぶと…、

20位 カンナ8号線
サビの「思い出にひかれて ああここまで来たけれどもう〜」というところがすごくいい。
ディストーションギターのリフ(伴奏)が好きだ。
1981年、就職して2年目だった。まだまだLPとカセットの時代。

19位 A HAPPY NEW YEAR
「昨晩お会いしましょう」というアルバムのラストの曲。
11月に発売のアルバムだった。出てすぐ買ったはず。1982年の正月はこの曲を聞いていた。
まだまだ若かったなあ。

18位 よそゆき顔で
この曲もギターのリフがいい。どうしてもそういうセレクションになるなあ。
こういう歌詞を書かせたら、ユーミンの右に出るものはいないと思う。

17位 霧雨で見えない
バラードほどゆっくりでもなく、アップテンポでもない。
不思議な魅力がある曲。昔のユーミンはこういう曲をかならずアルバムに1曲は入れていた。

16位 土曜日は大キライ
オレたちひょうきん族のエンディングテーマだった。ぼくはあの番組はキライだったが、「土曜日は大キライ」は好きだった。
80年代のシンセサイザーの音で派手に始まる。時代を感じさせる1曲。

15位 9月には帰らない
9月には帰らない…、という曲そのもの。結局なんで9月には帰らないのかは定かではない。でも、海辺の道をバスがのんびりと走る光景が目に浮かぶ。なぜか心に残る曲。
これは78年の曲。まだ学生だったのか…。

14位 さざ波
ひざに開いた短編集も 風がめくって いつの間にかエピローグ、というような歌詞の世界が、今までの日本ではないような気がした。「14番目の月」の1曲目。
こういう世界がそれまではなかった。1976年。いい時代だったなあ。

13位 天気雨
「14番目の月」から2曲目。出だしの、波打ち際をうまく 濡れぬように歩くあなた、という歌詞とメロディがぴったりあって、こういうのをキャッチーなメロディというのだと思う。
このアルバム、エレキギターは鈴木茂だが、当時このバッキングに憧れた。

12位 まぶしい草野球
この、まぶしい草野球は、太陽がまぶしいのではなく、あなたがまぶしい草野球だ。
1980年のSURF&SNOWに入っている。
ミディアムテンポのほんのりする曲。このアルバムにもいい曲はたくさんあるのだが…。

11位 春よ来い
朝ドラの主題歌だった。この曲は94年。文語体の歌詞が新鮮だった。この頃から何となくユーミンから、というより流行歌から遠ざかったような気がする。仕事が忙しくなったことや、40歳が近くなってなんとなく…だったと思う。

10位 DESTINY
これはどちらかというと、Hi-Fi Setの方が印象に残っている。
何で、安いサンダルを履いている時に別れた男に会ってしまうのか、というやるせないけど、何か笑える状況が、何とも切ない。

9位 冷たい雨
Hi-Fi Setつながりで、冷たい雨も入る。ユーミンの方が軽く歌っている。Hi-Fi Setのはちょっと重い。
「もうゆるしてくれたって いい頃だと思った」でもドアを開けたら誰かの赤い靴があった、という切ない失恋。こういうのを書かせたら、日本一だ。

8位 ジャコビニ彗星の日
これは何といっても、ジャコビニ彗星というのが歌詞になるというのがスゴイ。小さなオペラグラスでのぞいても見えなかったとか、72年10月9日とか、シベリアからも見えなかったとかいう事実が、歌になるということが、スゴイと思った。

7位 14番目の月
これも歌詞がいい。「次の月から欠ける満月より 14番目の月が一番好き」という発想が素晴らしい。もちろん、メロディもいい。イントロから一気に聞かせる。個人的にはこのアルバムがベストだと思う。松任谷正隆のキーボードも冴えている。

6位 埠頭を渡る風
よくコンサートの最後にこの曲をやっていた。今はライブというのか。
みんなでノリやすい曲なんだろう。間奏の最後に盛り上げておいて、Hooとメロディにつなげる女性コーラスが何ともいえず気持ちいい。

5位 NIGHT WALKER
83年の曲。曲の雰囲気と歌詞が合っていて、忘れられない。「ペーブメントは夜更けの通り雨…」で始まるサビの部分がとてもいい。ギターの音もよく合っている。自分の声で2声のコーラスをしているのだが、これが気持ちいいのだ。

4位 12月の雨
イントロが決まる。一度聞いたら忘れられない。結構凝ったコード進行なのだが、それを感じさせないメロディ。「時はいつの日にも 親切な友だち 過ぎていくきのうを 物語に変える」この歌詞は真実。74年のミスリムに入っている。いい曲だ。

3位 海を見ていた午後
ソーダ水の中を貨物船が通る…。山手のドルフィンは今でもあるのだろうか。
ユーミンはやっぱり失恋の歌がいい。
これもミスリムに入っている。荒井由実の歌。

2位 ひこうき雲
やっぱり、これは外せない。空に憧れて 空をかけてゆく…。
空をかけてゆく、というところのコード進行がきれいだ。

1位 最後の春休み
2位と1位は迷ったのだが、こちらを1位にした。
最後の春休み。この曲を聞くと、何とも言えない気持ちになる。
79年のユーミンの声が、最後の春休みを思い出させてくれる。
春休みのロッカー室に忘れたものをとりに行った…、でだしのメロディと歌詞がすべてを予感させる。
春というのんびりした季節だからこそ、切なくなるのだろう。

これだけ長いキャリアがあるユーミンだから、10人いたら10人とも違うベスト20になるだろう。
幸いにも、ぼくらはユーミンのデビューからリアルタイムで知っている。
だから、荒井由実の印象が強烈だったのか、その頃の曲が多くなった。
でも、ぼくが知らない隠れた名曲もあるだろう。

そういえば、「LAUNDRY-GATEの思い出」という曲もあったなあ…。
忘れているだけで、いくらでもいい曲はある。

年代が違えば、ベスト20も違うだろう。
ちなみに、40周年で出た「日本の恋とユーミンと」というベストアルバム(CD3枚組)の中にはこの20曲のうち、6曲しか入ってなかった。

最後に、なんでベスト20かというと、10曲では済まないからだ…。



| | 考えたこと | 23:45 | comments(3) | trackbacks(0) |
テクノ失業
今年の2月に「変なホテル」のことを書いた。
安いロボットをたくさん使って、人を減らすという合理化を図っている。

それがようやくハウステンボスにオープンした。
ホントにレセプションにロボットがいる。
部屋にもロボットがいて、時刻や天気を教えてくれる。
荷物もロボットが運ぶ。

本当に人がいないようだ。
何人の雇用がロボットで置き換えられたんだろうか。

アメリカではこの流れが顕著らしい。
今後、人間は加速度的にロボットに仕事を奪われていく、という本も出るらしい。

第一次テクノ失業がコンピューターによるものだとすると、第二次はロボットによるものになるらしい。
たしかに、コンピューターによって、人は減った。
経理の計算をする人たちや、庶務の人たちはコンピューターに仕事を取られたのは事実。
コンピューターとセンサーを組み合わせて、簡単な工場の検査工程なども置き換えられている。
工場の広い所でものを運ぶのはロボットの仕事だ。

アメリカではそれは銀行にも及んでいるという。
テラ−と呼ばれる、銀行の窓口の業務は、ネットバンキングに移行しつつあり、2001年から2009年で雇用は70万人も減った。

そういえば、kickstarterというWebサイトで、直接個人から出資を募る仕組みも出来ており、融資についても個人から直接ネットで集めることも可能になってきた。
銀行員の数も減るだろうなあ。
地方銀行などは、これからは淘汰の時代になる。
よほど特徴がないと、難しいだろう。

これから就職する人たちは、先のことをよく考えないと大変だ。
時代の進み方が早い。
ぼくが小学校のころ、夢物語だと思っていたようなことが今は現実になろうとしている。
これから加速度的に早くなっていくんだろう。

しかし、考えても何が起こるかわからないから、自分のスキルのことを考えて仕事を選ばないといけないのだが…。

アメリカでの壮年男子の失業率は11.5%もあり、それはロボットなどに仕事を取られたテクノ失業だということだ。

そうならないように、職選びをしないといけないぞ。




| | 考えたこと | 19:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
限界集落2
こないだ書いた、限界集落のことだ。

歴史を考えてみると、団塊の世代あたりが生まれて育った所が、今の限界集落になるのだと思う。
その人たちがたくさん都会に出て、働き手になりそして高度成長の時代を迎えた。
その頃は、まだその人たちの親は元気で、帰るべき田舎はあった。

田舎に残った若い人たちも、同じ田舎でも都市部に出ていったんだろう。
そのため、どんどん過疎化が進み、どんどん人口が減っていった。
そして今、親の世代がほとんどいなくなって、だれも住まない家が増えた。
子どもの世代は、まわりに何もない実家には帰ろうとしない。
さすがに、田舎の家も朽ち始める。
こういうふうにして、限界集落が増えていく。

平成の大合併で多くの村や町は市になった。
人口を稼ぐために、多くの町村が一緒になったので、広大な市になり当然サービスは悪化する。
記事によると、この大合併で市町村は3200から1700になったらしい。
この結果、市町村行政が簡素化されたかというと、余計に苦しくなった。
合併を推進するための地方交付税の優遇措置や、借り入れの優遇をする特例債の期限が切れ、おまけに見積もっていた人口増が実際は人口減になったからだ。
国の政策も悪かったが、地方の見積もりも甘い。
人口の予想はその時点でも、立っていたはずだ。

地方が苦しくなるのは、必然だったのだろう。
何もない田舎に人は住めない。
雇用を生み出す産業が必要だ。
たぶん、団塊の世代の中には帰りたいと思っている人もいるんだろう。
それでも、何もないから帰れない。

おそらく、田舎の墓に入る人は、この世代が最後になるところが多いだろう。
残された方が、墓を都市部に移すようなところも多いはずだ。

そして、名実ともに田舎は住む人がいなくなり、限界集落になる。
あと10年ほどでどんどん増えていくだろう。

そして2040年には、自治体の半分がなくなるということらしい。

それを食い止めるには、自治体が知恵を出すしかない。
土地はどんどん余ってくる。
家もついてくるのだが、そこから固定資産税を取ろうというようなケチな考えを持っていはいけないだろう。

何かをそこでするしかないと思う。
まわりは誰もいないし、人里離れている。
何ができるか…。

これからの地方公務員は大変だ。

まあ、そうしないと地方公務員自体が要らなくなるのだが…。


| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
ターミネーター ジェネシス
ターミネーターの最新作を見た。
シュワルツネッガーのカムバックだ。
彼も68歳。さすがに年は感じさせるが、あの懐かしい姿で楽しませてくれる。

今回のターミネーターは今までの総決算。
そして、すべてをゼロリセットするような作品。

思えば1984年に撮られたターミネーターが、シュワルツネッガーをスターダムに押し上げ、その後の成功ももたらした。
彼は、悪役の予定だったんだろう。
ターミネーター2からはそれも主役に転じて、不死身のロボットになった。

アメリカの深夜放送にシュワルツネッガーが出ていたが、アイルビーバック、という決まり文句もあって、まだまだ撮る気という感じだった。

あんまりセリフ回しも上手そうにはないし、筋肉ムキムキのオーストリア生まれのボディビルダーがこんなに人気が出るとは思わなかっただろう。
果てはカリフォルニア州知事までやってしまう。
愛嬌のある顔で救われたんだろう。

ターミネーターのシリーズはみんな見た。
どれもそれぞれに良かった。

シュワルツネッガーが出ている作品では、キンダガートン・コップがちょっと毛色が変わった作品で良かったおぼえがある。
トゥルー・ライズもなかなか良かった。
どちらもコミカルな映画だった。

やっぱり、愛嬌のある役どころが、ぼくは好きだ。

まだまだ頑張ってほしい。

| | 映画・舞台 | 20:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校野球
夏の甲子園が始まって、100回目の大会ということでテレビ中継の前に特別番組があったりして、開催側は盛り上げようとしている。

盛り上げないとシンドイ事情も垣間見える。

温暖化でこれだけ暑くなって、やる方も見る方も大変だ。
特にピッチャーの投げすぎが問題になる。
大リーグに行って活躍しているダルビッシュや田中を見ても、若い頃からの投げすぎがたたって故障をしてしまう。
小学校、中学校から投げてきた肩は、いくら気を遣ってもシンドイのだろう。

「真夏のマウンド」というアメリカのリトルリーグを描いた小説を読んだが、アメリカではリーグのルールで、1人のピッチャーは3回しか投げられない。
ピッチャーの肩を守るためだ。

日本の場合、高校になっても、地方予選を連日連投、甲子園に出ても連投を余儀なくされる。
ピッチャーは大変だ。

それに、勝つことを重視して、高校の指導者が職業化してきたのも、あるだろう。
指導者は雇ってもらうためには勝たないといけない。
甲子園の常連校が減って、新しい名前が増えている。
ナントカ大学付属高校というような名前も多い。
学校の宣伝のために、スポーツを使うのは学校法人の手段のひとつ。
野球、サッカー、大学駅伝など、テレビ中継されるスポーツは対象になる。

野球留学が事実上解禁されて、リトルリーグが盛んな関西から多くの選手が出ていっている。
学校法人が野球を強化しようとすると、入試でスポーツ推薦のコースを作り、雨天でも練習できるような練習場を作り、寮を完備し、有力なリトルリーグのブローカーとつながり、監督を雇えば一丁上がり、ということだろう。
それで、3〜4年すれば強くなる。
要はカネさえあれば、強く出来るのだ。(それは何でもそうだが…)

選手にしても、そういう形で甲子園に出られれば、将来のプロや野球での大学進学も可能になってくる。
寮費はいるが、親もそれを夢見て投資をするのだろう。

それらと、いくら投げてもルール違反ではないという状況が、ピッチャーを酷使させる。

この状態を何とかするには、球数制限や投球回数制限しかないだろう。
それを高校でするのか、リトルリーグもするのか、それは決めてもらえばいい。

大会の日程を一日伸ばして、休息日を入れるというような付け焼き刃では直らないと思う。

せっかく才能がありながら、それを若くして潰してしまうのは、とても「教育」の名に値しない。

「高校」野球なんだから。





| | 考えたこと | 22:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
引きこもり
イギリスのBBCが「なぜ日本人は引きこもるのか?」という取材記事を書いていた。

西洋の人にとっては、「引きこもり」はあり得ないというのは聞いたことがある。
ある年齢になったら、子供は家を出て独立するという文化があるからだ、とも聞いた。
BBCもそういう記事を書くということは、日本の引きこもり文化?を不思議に思っているということだろう。

今やオックスフォード英語辞典にも「引きこもり」は出ていて、「日本において、社会的接触を逃れることに異常な執着心を持つこと」と掲載されているらしい。

平成26年度の内閣府の調査によると、「ふだんは家にいるが,自分の趣味に関する用事の時だけ外出する」者を含む広義のひきこもりは、69.6万人と推計されている。
ちなみに、全く外出しない、狭義の引きこもりが23.6万人とのこと。
調査対象は15〜34歳の若年無業者(家事も通学もしていない者)5000人で、回答したのが3200人ほどだ。
狭義の引きこもり人口は、厚労省の調査の数とも合っているとのこと。
当たらずとも遠からずという数だろう。
ということは、だいたい15歳から34歳の百万人弱が引きこもっているわけだ。
ちょうど仙台市の人口が100万だから、日本中で仙台市一つ分の人たちが引きこもっていることになる。

記事ではイタリアやイギリスでも同様の例が報告されていると書いてあったが、全く同じものかどうかはわからない。
そういう若者が世界的に増えているのかもしれない。

外国のことはわからないが、日本の引きこもりは、1990年代から問題になったという説がある。
70年代から徐々に増えてきたという説もあるが、ぼくはその頃にティーンエイジャーだったがあまり記憶がない。
やっぱり90年代くらいだと思う。

若い人たちのストレス耐性が落ちている、というのも言われている。
要は何かがうまくいかないと、引きこもってしまうということだろう。
80年代に「いじめ」が問題になったのも一因かもしれない。
クラスの和を第一に考えるあまり、いじめに教師が加担するということも、この頃から出てきた。

内閣府の調査結果によると、引きこもりには、職場になじめなかったとか、病気、就活がうまくいかなかった、不登校、人間関係がうまくいかなかった、というような原因が並んでいる。

ぼくは引きこもりが増えた原因の一つは、学校にあると思う。

学校というのは、社会にでるための準備をするところだ。
社会に出たら、他人と比べられ、優劣がつき、それで収入も変わる。
でも、学校は基本的に「世界に一つだけの花」の世界だ。
小学校では、その人なりに頑張っていれば、いい成績になる。

こないだ和田秀樹が書いていたが、今の学校は生徒が傷つくことを恐れて、競争をしない、というのが実情。

言い古されているかもしれないが、やっぱりそれが原因の一つだと思う。


| | 考えたこと | 01:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
オレ様化する社会
こないだ、ビックリする話を聞いた。

知人が孫にクルマを貸したという。
そのクルマを駐車場に止め、みんなは海水浴に行ったのだが、1人残って支度をしていたら、隣にクルマが入り、ドアを開けるときにクルマが揺れるほどぶつけ、当てられたほうのドアが傷ついた。
そのまま行こうとするドライバーに「ちょっと待って」と声をかけて、今当てたことを追求すると、「当てていない」という。
押し問答になり、警察を呼んで、現場検証してもらったら、傷の位置も合っているし、塗料も残っているので、当たっている、という検分。
それでも、30代くらいの女性ドライバーは当てていないと言い張る。
警察も呆れて笑っていたのとのこと。
結局、相手の保険でドアを修理することになったのだが、それでも、「もし当たってなかったら、訴えてやる」と言っていたとのこと。

実際、ドアは当たっているし、それは明らかなのだが、それをあくまで認めないことに、それだけのエネルギーをかけられる、ということに驚いた。

この話を聞いて、昔読んだ「オレ様化する子どもたち」という本を思い出した。
その本によると、70年代の高校生の不良は、トイレで喫煙しているところを見つかったら、タバコを吸ったということは認めたものだった。
しかし、80年代の中盤あたりから、見つかっても「オレは吸っていない」というようになったということだ。

70年代の不良は、悪いことと知っていて、喫煙していた。
少なくとも教師の倫理観の延長上で行動していたことになる。
「ワルはワルなりに話が通じた」ということだ。
しかし、80年代半ばになって、何かが変わった。

カンニングペーパーを試験中に見た女子学生を、現場でそのカンペを取り上げて、カンニングの行為を確認したが、あくまでカンニングを認めない例や、授業中に私語をしていて、実際に話している生徒に注意すると、「話してない」という生徒の例も出てきた。

「つまり、おとなも子どもも教師も生徒も自分の判断、自分の価値判断は「客観的で正しい」と思っている。超越的な視点からは個々人の判断はまず私個人のものであり、主観的なもの、「主観値」と考えるのが妥当だが、当の本人はほかのみんなにも通用する「客観値」だと確信するようになった。これが「消費社会的」な人のありようである。」

80年代半ば以降、完全に消費社会が成立し、人は生まれた時から消費者になったと「オレ様化する子どもたち」の著者は言う。
それを象徴するのが、「お客様は神様です」という言葉かもしれない。
コンビニで、些細なことで店長に土下座させ、執拗に謝らせるのも、同じことが原因だろう。
ご丁寧に、それを動画配信までしているのだが…。

しかし、明らかにウソだとわかっていて(たぶん、わかっているんだと思う)、それをつき通す努力は大したものだと思う。
ぼくなどは、正直に言ったほうが楽だと思うのだが、そこにどんなに労力を払っても、ウソをつく。
ウソが悪い、というのは教育されてないのだろうか…。

80年代の半ばに中学生だったとすると、それから20年たったから、その生徒は30代の半ばになっている。
三つ子の魂は百までとはよく言ったものだ。

つまり、知人の話のドライバーの年がその年代になる。

もう、学校だけの話ではない。
市民生活にもそういう価値観が持ち込まれている。
あきらかにぶつけているのに、ぶつけていない、と最後まで抗弁するドライバーはまさにそういう価値観を持っている。

ぼくらはもう古い人間になった。
そういう価値観にはついていけない。
呆れるだけである。

この「オレ様化する子どもたち」の最後にこういうことが書いてある。

「その普通教育においてまず重視されるべきであるのは、「個性化」よりも「社会化」である。まず市民(的な「個」)形成にポイントをしぼるべきである。これは何も日本独特の集団主義的発想からそう言っているのではない。事実、アメリカの指導的な社会学者(プラグマチスト)であるローティも「社会化が個性化の前に来る」ことを原則として、普通教育では基礎的な知識は社会規範を身につけ、そのあとの高等教育で「個性化」をめざすべきとの二重の構造を提唱している。「個」が自立する前に「個」を超える「普遍的なるもの」に出会う必要があるし、そういう「普遍的なるもの」によって「個」が一度断念させられなければ「個」は自立しようがない。俗に「個性」を大事にしないと「個性」が潰されてしまうと危惧する人が日本には多いが、市民形成(「社会化」)のプロセスで潰されてしまうような「個性」は潰されるべきである。そういうレベルの「個性」を潰すために、「社会化」はなされるのである。「社会化」されているあいだになくなってしまうようなものは、「個性」ではない。まさに、「個性」が「個性」でありうるために「社会化」が必要なのである。「個性」は育てられたり教育されるものではない。」

そういうことだ。

横並びでみんなと同じようにしなさい、といくら注意しても出てくるのが個性だろう。
それを「世界に一つだけの花」的な思想で簡単に「個性があって、すばらしい」と言ってしまうから、こんなことになったのだと思う。

あきらかに当てていながら、「私は当ててない」というのが、その「個性」とやらの「なれのはて」だ。

もう時計は戻らないぞ。
今からでも遅くはないから、何とかしないと…。



| | 考えたこと | 22:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
フィルムカメラ
部屋の片付けをしていて、フィルムカメラが出てきた。
義理の父が使っていたものがキャノンのイオスとAE-1。
ぼくが使っていたものがミノルタのSR-T101。
どれも、数十年前に売れた機種だ。
広角の交換レンズとストロボも出てきた。

近所のカメラ屋に持っていったら、店のおっちゃんが出てきた。
その店はインターネットで中古のカメラを通販している。

おっちゃん曰く、フィルムがもう作られなくなるので、ぼちぼちもう終わりかなということだ。
ちょっと前までは中国や韓国から注文があり、当時の名機を5台、6台と買っていったが、もう彼らもデジタルになったということらしい。
時代の流れは早い。
重くて、大きいフィルムカメラの一眼レフは、もう誰も見向きもしなくなった。
展示の棚をみると、ニコン、キャノン、ペンタックス、オリンパスなどの懐かしい機種が並んでいる。
一時はだいぶ売れたらしいが、もう苦しい。

今はコンパクト一眼か、ポケットに入るデジカメ、そしてスマホ。
メディア1枚あれば、数百枚から数千枚の写真を入れておくことができるし、印刷したいものだけ見て印刷することも出来るようになった。
便利なこと、この上ない。

近所にイエローカメラなどのDPEの店がたくさんあった。
でも、どんどん店じまいして、今はこの近辺に2件だけになったとのこと。

DPEというのは、Development・Printing・Enlargementの頭文字をとったもの。
現像、焼き付け、引き伸ばしという意味だ。
もうこの言葉も死語になった。
若い人たちは知らないだろう。

今日で我が家にもフィルムカメラはなくなった。
あの、ミノルタのSR-T101を持って、SL(蒸気機関車)を撮りに行ったのが、もう44年前になる。
歳をとるはずだ。

そういえば、あのSLの写真、どこにいったんだろうか。

今度はそっちを探さないといけない…。


| | 考えたこと | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
死なな生きていかれへん
ぼくの同期の連中もどんどん定年していく。
大学院卒や遅生まれの一浪などはもう60歳を迎えている。

今日電話があって、今度飲み会をしよう、という話になった。
彼はもう定年を迎えて、この8月から延長雇用に入った。
もう退職金をもらって、会社に安い給料で雇ってもらう。
一応、嘱託社員という扱いだそうだ。

会社の内線電話からかかってきたので、ビックリした。
7年ほど離れていた、以前いた部署に戻っているとのこと。

「今会社からかけてんの?」
「そうや。みんなこわがって、近くに寄りつかん」

まあ、そうやろなあ。
ぼくが知っている頃の彼は、毒舌家だったから、みんな近づかないんだろう。
自分の2年下の若いやつ(といっても、年寄りだが)が、その部門の長をやっているとのこと。

「年金はいつからもらえるんや?」
「63歳やな」

さすがに、会社でオリエンテーションを受けているだけあって、よく知っている。

「そしたら、63までは働くんや」
「そやなあ。でも、65くらいで死ななあかん」
「なんでや」
「貯金もないし、退職金はちょうと家のローンでバランスしてるし、もう苦しいわなあ。65くらいで死なな生きていかれへん」

何とも微妙な表現だ。

「死なな生きていかれへん」

その後話していて、2回この言葉が出てきた。

毒舌家の彼らしいひと言。

高齢化、低成長、社会保障などの問題がこのひと言に凝縮されている。

死なな生きていかれへん…



| | 考えたこと | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
目こぼし
道交法が改正されて、自転車に乗る時に傘をさしてはいけないことになった。
いけない、と言っても罰金等があるわけではない。
カッパを着て乗るのが推奨されている。

そしたら、自転車のハンドルのところに傘を取り付けるようにする器具が売れるんだろうなあ、と思っていたら、あれは違反らしい。
歩道を通行できる自転車の幅の規定にひっかかる。
60センチ以下の幅の傘ならOKかもしれないが、まあダメだろう。
だから、道交法の改正以前の問題なのだが、今まで黙認してきたという歴史があるからややこしい。

関東では、あの傘取り付け器はあまり流行らないらしい。
ちゃんと雨が降ったらカッパを着て自転車に乗る人が多いということだ。
あの取り付け器がかっこ悪いということかもしれない。
しかし、関西というより大阪近辺は、あの傘取り付け器を付けて傘を使っている人がそこそこいる。

今回、取り締まりが強化されたのだが、大阪のおばちゃんの猛反撃にあって、大阪の警察は「傘の取り付け器」を黙認しようとしているという噂を聞いた。

リクツはわかる。
「今まで何にも言わなかったやないか」、ということだ。
もともと違反していたものだったのに、黙認していて、道交法が改正されたら(それと関係ないのに)急に違反やというのは納得できない、と居直られたらつらい。
それも、関西のおばちゃんに言われると、若い警官ならタジタジだろう。

傘の取り付け器を作っている会社自体にも違法性はない。
取り付ける傘の幅が問題になるからだ。

警察に理がない。

しかし、日本の行政機関はそういうパターンでやってきた面がある。
「目こぼし」というやつだ。

未だに片側2車線で歩道があっても、道路の制限速度が40キロのところがある。
今のクルマの性能を考えると、時代遅れも甚だしいと思う。
それでも、普段は「目こぼし」して、なにか起こったら速度超過で捕まえるというようなやり方だ。

実情に合わない法律は改正し、実情にあった形で規制をしないと、今回のようなことになる。

憲法論争も同じことかもしれないなあ。

何事もほっておくとよくない、ということだ。




| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
戦争が殺した?
この季節になると、戦争のニュースや特集が増える。
見ていると気が滅入るものも多い。

特攻隊で出ていった若者は、「戦争で殺された」という。
だから、戦争はしてはいけない、戦争はダメだ、となる。

「戦争」というのは便利な言葉だ。
そう言われると思考停止して、そこで「戦争は悪い」となる。
本当は戦争が殺したのではない。
誰が殺したのか、というところまで考えないといけない。

多くの日本人の戦死者は日本軍に殺された。
約半分の戦死者が、餓死や病死であり、日本軍のムチャな作戦で亡くなったのだ。
特攻隊は「戦争」で殺されたのではない。
特攻を命令した日本軍に殺されたのだろう。

今から考えると、負けるとわかっている戦争になぜ突入したのか。
降伏や調停のチャンスはあったのに、なぜそうしなかったのか。
大衆はなぜ開戦した時に狂喜したのか。

そんな疑問を「戦争は悪い」という言葉は吹き飛ばしてしまう。
だから、いい加減に「戦争は悪い」という言い方はやめるべきだ。

今、紛争が起こっている地域にいけば、そこに住んでいる多くの人たちは「戦争はやめてほしい」というだろう。

でも、中には「相手を滅ぼすためにやっているんだ」という人もいるかもしれない。
人間の歴史を見ると、暴力の歴史だと言っている人もいる。
実際、人類の歴史は戦争の歴史とも言える。

そういうことを考えないで、「戦争は悪い」と言っているだけでは何の進歩もない。
「戦争は悪いと思いますか?」と街を歩いている人100人に聞けば、99人まで「悪い」と答えるだろう。
要は何も考えていないのと同じなのだ。

本当に「戦争が悪い」と思うなら、そして戦争を抑止したいのなら、戦争のことを知らないとダメだ。
悪いからといって、毛嫌いしていてはいけない。

現実に、日本人は70年前の開戦時に狂喜して提灯行列をしているんだから。



| | 考えたこと | 19:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 花紀京
花紀京という吉本新喜劇の大御所、そういえば長いこと見てなかったが、2003年から病気で活動休止していたらしい。
8月5日に亡くなった。

1989年に吉本新喜劇を退団したとのこと。
父親が有名な横山エンタツだった。

父親もはどちらかというと知性派の漫才師だったと思う。
独特の標準語風の話し方で、アチャコと組んで笑いを取った。
ぼくはリアルタイムでは知らないが、録音で聞いた。
早慶戦が有名だが、もっと面白いネタがたくさんある。

花紀京は「エンタツの子」ということは全くネタにはしなかったと思う。

ぼくらの世代は、吉本新喜劇でリアルタイムで花紀京を見られた世代。
1963年から、約20年の期間だ。

新喜劇での原哲夫との絡みが一番印象に残っている。

花紀京の絶妙のボケの間で、原哲夫が我慢ができずに笑う。
笑って突っ込めない原哲夫に、さらにボケをかます。
役者が舞台で笑ってしまったら、普通はダメなのだが、きっと花紀京はテレビ収録の日は意識してアドリブを入れていたのだろう。
客も原哲夫が笑うのを期待していた。
それを、期待を外さず笑わせる花紀京のボケは見事だった。
客も、花紀京が台本通りやってないんだろうなあ、と思っていた。
わかっていても、原哲夫が笑うのを見て、笑ってしまう。

何となくシニカルなイメージを持っていた。
自分のやっている芸を笑い飛ばすような、そんなんどうでもいい、という感じがあったなあ。
面白いことは、面白くなさそうに話すと面白い、という法則を地で行くような芸風だった。

原哲夫も2013年に亡くなった。
この人もいい喜劇役者だったが…。

あの絶妙の掛け合い、もう見ることはできない。

少しずつ、少しずつ、着実に、昭和は遠くなっていく。



| | 考えたこと | 16:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 阿川弘之
阿川弘之が94歳で亡くなった。

海軍で出征し、海軍関係の小説をたくさん書いていた。
「軍艦長門の生涯」とか、「米内光政」、「井上成美」、「山本五十六」など30代に読んだおぼえがある。
ちょっと海軍びいきが過ぎた本だったかもしれないが、陸軍に比べると海軍は良識のある人が多かったんだと思う。
国を思うて何が悪い、という本も読んだなあ。この本は2008年に復刊している。
あひる飛びなさい、という本も持っている。

軍艦長門の歴史を描いたり、終戦時の宰相だった、米内光政を描いたり、開戦時のヒーローだった山本五十六を描いたり、あまり表には出なかったが海軍の知性派で、対米開戦反対だった井上成美を描いて、第二次大戦の歴史を小説で残してくれた。

海軍はイギリスに範をおき、自由な雰囲気だった、と書いていたと思う。

この人にも、第二次大戦のことをだいぶ教わった。

ユーモアは大事だ、という人だった。
書くことにもユーモアがあったと思う。
イギリス議会のやり取りや、吉田茂とマッカーサーのやり取りなど、ユーモアの重要性を講演で言っていた。

今は流行らないかもしれないが、こういう人の本を読めば、戦争のことがわかると思う。
戦争のことを伝えようとするのなら、文字で残されたものがたくさんあるのに。

どんどん戦争の語り部が減っていく、という人がいるが、文字の世界にはいくらでもある。
とっつきは難しいが、こういう小説は残していくべきだ。
こないだ、語り部が減ったから、語り部に聞いた人が語ろう、というようなことをやっていたが、そんなことをやるよりも、こういう本を読めば十分だ。

また1人、昭和の人が逝った。


| | 考えたこと | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
違和感
今年も広島の原爆記念日が来た。
もうすぐ長崎にも来る。

市長が「平和宣言」を読んでいたが、何となく違和感を感じた。
前にも書いたが、日本人はみんな「被害者」になってしまって、戦争の加害者がいなくなってしまったと思う。
もう戦後70年だから、実際に戦った兵隊さんはほとんど亡くなった。
今、戦争を知っている人は、ほとんどが内地で戦争被害にあった人になった。
だから、実質的にはみんな「被害者」なんだろう。

こないだスポーツジムのロッカーで、「今戦争の話をしてるやつは、戦争に行った人ではなくて、本土で爆撃やらにあった人や。あんなんは本当の戦争の話と違う」と言っている年寄りがいた。
そうやろなあ、と思う。

「戦争は悪い」というだけで、平和になるんだろうか。
「被害」にあった話ばかりして、平和になるんだろうか。
「被害」にあうということは、「加害」した張本人がいるはずだし、そこに至った経緯がある。
日本人として、過去に何度か戦争をしたという「加害」の事実はどこにいったんだろうか。
その事実を直視して、「なぜその戦争をしたのか」ということを日本人が考えて、初めて平和が実現するんだと思う。
それこそが積極的平和主義だと思うんだが…。

日本人が、そういう意識を持たないと、少なくとも、いつまで経っても中国とは相容れないだろう。
「加害」の記憶を忘れるなら、「被害」の記憶も忘れるべきだ。
「被害」の記憶を語り伝えようとするなら、「加害」の記憶も語り伝えるべきだ。
自虐史観ではなく、「なぜ、負けるとわかっている戦争をしたのか」ということだ。
それを日本人が意識することこそ、「もう戦争はしない」ということなるし、戦争をしないためには何をするべきかがはっきりするだろう。
「平和」や「被害」ばかりを訴えていても、戦争は抑止できないと思う。

それに続いて、小学6年生の子ども代表が頑張って覚えたであろう、「平和への誓い」を話す。
こんな文章が小学6年生に考えられるわけがない。
こども代表を出すのなら、もっと子どもの言葉で、子どもが考えた内容で話させるべきだ。
オトナの言いたいことを子どもに代弁させるのは、なんだかなあ、と思う。
言いたいことがあるなら、大人が出てきて話せと思う。
ぼくがひねくれているのかもしれないが…。

形骸化してしまっているのだろう。
もう一度初心に戻って考えるべきだ。

「過ちは繰返しませぬから」という誓いを本当にするために。

ぼくはそう思う。



| | 考えたこと | 22:03 | comments(2) | trackbacks(0) |
イヌの糞害
家の門のところに糞をするイヌがいる。
別に糞をしてもらってもいいのだが、それを放置して行ってしまうのだ。
いったい、飼い主は何を考えているのだろうか。

今日は糞が2匹分になった。
2メートルほど離れて、2つの糞だ。
2人の飼い主か、それとも2匹飼っているか、どちらかだと思う。

結局こちらが糞を取って、水で洗い流して、イヌの嫌いな匂いの粉末をまく。
あんな粉末など、何の効果もない。
粉末の上に糞をしている。
買ったから、使わないといけないので、仕方なくまいている。

イヌに罪はない。
飼い主の罪だ。

また、時刻が早い。
朝早くだから、放置しても誰にも見られないんだろう。

ネットで調べてみると困っている人は多いらしく、いろんなサイトが出てくる。
見ていると、逆恨みされて、その家のイヌに毒入りのエサをまかれたという笑えない話もあった。

1986年だったか、パリに行った時に、イヌの糞だらけという話を聞いた。
たしかにたくさんの糞があった。
ネットで見ても、イヌの糞だらけという記事がある。
そういうもんなのかもしれない。

イヌの飼い主は、本来マナーが悪いのだ。
誰も見ていなければ糞は取らないし、取っても途中の道で捨てたりする飼い主が多いと書いてあった。
特にパリジャンはひどいらしい。

マジメにやっている人が気の毒ではあるが、イヌを飼うのなら、糞の始末はちゃんとしないと、飼ってはいけないと思う。
ロンドンではイヌの糞に蛍光色のスプレーを塗って、注意を喚起し、飼い主へのプレッシャーを与えているとのこと。
場所によっては効果があったらしい。

日本の警察は証拠を見せても、飼い主に注意するだけだ。

証拠を出すか、現行犯なら、罰金10万円にしたらどうか。

いい考えだと思う。







| | 考えたこと | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の組織文化
テラスカイという会社が日本にあるのだが、これはクラウドの活用に関するIT企業。
ここで働くジェイソン・ダニエルソンという人がいる。
ITとお笑い芸人の二足のわらじを履いているらしい。

ジェイソンは日本の企業文化に関しても、アメリカとの比較で辛口の批判をしている。
記事によると…

「最新技術(クラウド)のメリットをほとんど受けていない、というのは非常に残念です。」

「特に規模の大きい企業が、全然そういう気になっていないですね。とにかく、物事を決める効率が相当、悪いですから。
 何か話し合っている間に、他の国に追い抜かされるだけなんですよね。グローバルではやっていけないと思っている、日本は。もうダメです。」

というような意見。耳が痛い。
アメリカの企業との違いに関しては、

「とにかく速度が違います。トップがこうやるんだと決定してから、もう翌日には「これをやるんだな」と社員全員が理解し、効率の良いことがあればすぐに決め、すぐに始めて、すぐメリットを得る、みたいな感じで。
日本だと現場の方から何回も説得して、ようやく上が動くというケースが珍しくありません。
 それでようやく「試しに10人で1年間やってみよう」となる。それでやってみて、5年たっても何も変わらない。こんなことが多いように思います。」

日本企業の意識を変えていくことに関しては、

「変えたいんですけど、個人で何ができるのかを考えると、ほとんど日本については諦めています。一人が説得できるようなものではありません。
 国自体で、「こんなに意思決定に時間をかけすぎている状態が続くとダメになっていく」と自分自身が気づくまでは、何もできないと思っています。」

本当にそうだと思う。
そう思っている日本人のビジネスマンも多いのではないか。
それでも、長いものには巻かれろで、結局ダラダラと過ごしてしまう。

会社時代に、ある大手企業の営業の人と話している時に、稟議書の話になった。
ぼくらは起案書と呼んでいたが、要は上の決済を求めてぐるぐる回す書類だ。
起案作成者がいて、課長、部長、本部長…と回っていく。
金額に応じて、決済者が増えていく。
何万円までは課長決済でOKとかいうヤツだ。
当然、数千万円の投資になると、役員決済になる。
次部署の役員だけでなく、経理とか購買とかの役員のハンコも必要だ。
ぼくが話していた相手の会社は、超大手企業だったが、ハンコが20個くらい並ぶという。
さすがに、ぼくらの会社は半分以下だったので、驚いた。
大きくなればなるほど、ハンコをもらわないといけない人が増えるのだろう。

大きな投資については、月に一回会議があって、そこでまとめて説明するというシステムもあった。
ぼくの場合はそれだったが、資料を準備して、プレゼンをして、投資効果を説明し、質問に答え、ようやく決済が下る。
その場でハンコを押してもらうわけではないが、後日起案書が回った時に押してくれる、ということだ。

IT関係の投資は、すぐには効果が出ない。
当該部署だけで使っていても効果は小さく、関連部署もそれを使って初めて効果が出てくる。
だから、その役員の会議に先立って、関連部署に説明して回らないといけない。
関連部署は、そのシステムを使うのに抵抗がある場合が多い。
今までと仕事のやり方が変わるからだ。
慣性力にさからって、仕事のやり方を変えてもらって、それでメリットが出ることを説明しないといけない。

何回か、イヤになった。
身内の会議の時に、「もうヤメや」と言ったこともある。
自部署の合理化というよりも、会社の合理化のためにやっているのに、なんでこんな説明をしないとダメなのか、という思いになる。

そのシステムの導入に先立って調査に行った、京都の会社の状況を聞いた。
その会社はIT担当の役員がいたので、助かったということだった。
システムの記憶容量の問題だったが、その役員が「それはきっと数年内に解決するはずだから、これで行こう」というようなことを言ってくれたのだ。
こういう人がいたら、楽だ。
結局、上がITに理解があれば、話が早い。
でも、そんなに恵まれた会社ばかりではない。

インターネットが進歩して、いろんなことがネット経由で出来るようになり、今やクラウドといって、インターネット上でデーターを共有できる時代。
これを使って、合理化が出来るはずなのだ。
稟議書など、やってられない。
クラウド上に稟議書を上げて、みんなで一斉に見てもらえば、早くなるだろう。
でも、まだそんな風にはならないんだろう。

ぼくが会社にいた時、稟議書を持って回っていたら、「オレは持ってきた奴の目を見るんや」という強者の上司がいた。
結局、やるかやらないかを決めるのは、その業務フローがわかっていて、技術に明るい数人なのだと思う。
それでも、責任回避のためにたくさんのハンコをもらう。

もうそんなやり方はやめないと、これからの低成長の時代を乗り切れないぞ。

そのためには、上が勉強しないとイケナイのだろう…。


| | 考えたこと | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
こんまり現象
こんまり、というと近藤麻理恵のこと。
あの、片付けのプロだ。

こんまりは、なんとアメリカの雑誌TIMEで The 100 Most Influential People (もっとも影響力のある100人)にArtistの1人として選ばれている。
近藤麻理恵ではなく、KonMariと呼ばれているらしい。
また、Kondoという苗字が動詞になって、Kondoedというと「不要なものを捨てる」という意味になっているという。
これはスゴイ。

「人生がときめく片づけの魔法」の英訳、"The Life-Changing Magic of Tidying Up"で有名になった。

アメリカにはこの種のどうやってかたづけるかという本があふれているのだが、ちょっと感じが違ったのがよかったのかもしれない。
一度テレビに出ているのを見たが、ものが溢れている部屋で、「これはときめくか?」という基準でどんどんものを捨てていく。
この基準が明確で、すっきりしている。
そこがアメリカの読者を捉えたらしい。

アメリカの片付け本は、何をどうやって片付けるか?ということを書いているのだが、こんまりは違う。
もっと哲学的だ。
どこにどう収納する、というようなことではなく、捨てる基準を「ときめくか?」という一点で決める。
"Does this spark joy?"という言葉に惹かれるのだろう。
だから、単なるハウツー本ではなく、哲学、人生の本になっているということだ。

そして、捨てるためには過去への執着をなくさないとイケナイという。
とっておきたい理由はたいがい過去にある。
その執着を捨て去り、「過去への執着をなくしてくれてありがとう」という感謝の気持ちを持って捨てる、これがその人を変えるという。

テレビでみた時に何となく印象に残っていただけだが、アメリカでもここまでブレイクしているとは思わなかった。

ぼくも片付けないといけないものがたくさんある。

58歳まで、もしかしたらまた聞くかもしれないとか、また見るかもしれないとか、また読むかもしれないとか…、執着して置いておいたものがある。
もういいのではないかと思うようになってきた。

ひとつ、やってみようと思う。


| | 考えたこと | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
ファストフード万歳
今は健康食品のブームで、日本マクドナルドまでいろんな低カロリーのバーガーを出している。
スローフードと言って、ファストフードの反対語もできた。
健康的な食品のことだ。

世の中、健康健康といって、カロリーはオフ、糖質はゼロ、植物性はよくて動物性はよくないという時代。
もともと手軽な食品ということで、ファストフードという言葉ができたが、今やファストフードというと高カロリーで健康によくない食品の代名詞になった。

今日テレビを見ていたら、アメリカの肉文化の番組をやっていた。
全面的に、肉肉肉である。
ホットドッグ、ハンバーガー、コンビーフ、ソーセージ、ベーコン、パストラミにはじまり、亀の肉やワニ、カエルの肉などゲテモノもあった。

とくに美味しそうだったのは、ニューヨークのクルマの屋台。
マスタードソースたっぷりのホットドッグや、燃え立つ炎で焼いた肉が載っているハンバーガー。
アメリカ人は肉をよく焼く。ヨーロッパ人とは違う。ぼくはアメリカ派だ。
生焼けの肉をありがたがって食べ、肉汁がどうのこうの言っているヤツの気が知れない。

ちょっと焦げるくらいによく焼いた肉が載ったハンバーガーは、本当に美味しそうだ。
ニューヨーカーは肉が好きだ。
ピクルスやキャベツの酢漬け、キャベツ、トマトなどの付け合せも色鮮やかで食欲をそそる。

そういう屋台がたくさん通りに出ていて、ニューヨーカーの胃袋を満たしている。

スローフードもいいが、ファストフードもいい。
どう見ても、美味しそうなのだ。
カロリーなんか気にせず、思い切り食べたらストレスも解消するような気がする。

少々寿命が縮んでも、美味しいものを毎日食べられたらそれでもいい。
血管が詰まって、コロッと死ねたら、それはそれでいいのだ。

自分が長生きすることによって、国のコストが上がる。
年金や保険など、いろんなお金がかかる。
長く生きればいいというものではない。
健康で長く生きることが大事だ。

そして、年を取ったら、ああいうファストフードは食べられない。
かぶりつけないからだ。

あんなファストフードを思いっきり食べて、早く死ぬ。

最近、それもいいと思う。

ということで、今日の昼は近所のマクドナルドでビッグマックを買って何十年かぶりに食べた。
やっぱりハンバーガーはうまい。

| | 考えたこと | 15:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
Ubuntu I am; because of you
"ubuntu" は「他人がいるから自分がある」という意味。
"I am; because of you"という英訳である。
「思いやりの精神」を表す南アフリカの言葉。

ネルソン・マンデラがこの言葉を大事にした。
アパルトヘイトを撲滅した、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラだ。

知っている人は知っているのだが、このubuntu(ウブントゥ)というのはLinuxオープンソースのオペレーションズ・システムの名前でもある。
何度かubuntuについてもブログに書いた。
アフリカ生まれのこの言葉が、オープンに助け合っていいものを作る、というプロジェクトによく合っていると思う。

南アフリカにはubuntuの精神があるという。
誰かのために、自分はある、という精神。
それをネルソン・マンデラは実現し、黒人と白人が融和できるような社会を作った。

しかし、一方で部族間の争いが絶えないのもアフリカだ。
スーダンやルワンダの虐殺もあった。

原因は宗教や経済格差などが言われている。
アフリカには資源があり、古くは欧米、新しくは日本、そして中国などが進出している。
それらの国々は日本も含めて「援助」という名前で、ある意味利権をもらっている。
それが部族間の対立を作るような格差を生み出したりしているらしい。
何が本当か、わからないのもアフリカの特徴だろう。

一方で、21世紀はアフリカの世紀だともいう人がいる。
21世紀後半まで増え続ける人口が、アフリカを成長させるという。

やっぱり、何が本当かわからない。

ubuntuの精神が本当なのか、そうでないのか、両面あるのだろう。

世界は難しい…。



| | 考えたこと | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) |