考えたこと2

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大学の非常勤講師
こないだ、大学で教養を教えることについて池上彰が日経に書いていた。

アメリカはリベラルアーツ(教養)教育に力を入れている、と言われているが、そうでもない、ということだ。

「教養よりは、最新の資本主義の目標と需要を満たせるような人材の育成に力を入れるようになった」ということらしい。

その記事の中にこんな一節がある。

「これは、ひとごとではありません。日本の大学でも問題になっています。学部レベルの授業は非常勤講師の献身的な努力に任せっきり。非常勤講師の給料は時給計算。信じられないくらいに低く、これで経費を節減。浮かせた費用で高い報酬を払って著名な研究者に来てもらい、大学の名前をアピールする。こんなことがまかり通っていては、学部レベルの教育の充実につながりません。」

これは古くて、今も続く大学の問題だろう。

大学の教員は一般的に教養教育を嫌がる。
自分は専門を教えたいのだ。
専門を教えることで、自らの専門性も高くなるから、どんなへっぽこの大学教員でも専門を教えたいと思っている。

だから、日本の大学が大学院重点化をした時に、みんなこぞって大学院の教授になった。
名刺が「○○大学教授」から「○○大学 大学院教授」になるのには意味がある。
自分は専門を教えているということを表すからだ。
教養ではなく、専門を教えている、というプライドを満足させる。

一方で、「教養」を教えるのは難しい。
学部に入ったところの学生から、3年生あたりまでの学部生が対象。
その学問に関連した分野の知識や、なぜその学問ができてきたのかという歴史や、その学問の発展の過程、何の役に立つのかといった導入と発展の部分だからだ。
専門に対して造詣が深く、横のつながりもわかっていて、素人にもわかるように教えられることが必要になる。
だからこそ、教授や准教授でないと「教養」を教えることはできないのだとぼくは思う。

ところが池上彰が書いているように、この部分は専任教員はほとんどやらない。
給料の安い非常勤講師に任せているのが、大多数の大学がやっていることだ。
若い非常勤講師は一般的には献身的だ。
自分がどこかの専任教員になりたいから、必死にやる。
もちろん、教科書を読むだけ、試験は何でも持ち込み可というような教員もいる。
でも、それは年寄りの非常勤に多い。
そういう教員は、たくさんの学生が単位を落とすと、教務から怒られて次年度の仕事がなくなるから、という悪循環になっている。

マジメに頑張っている若い非常勤は、学生に力をつけさせたいから熱心だ。
そういう先生には学生も好意を持つ。
アンケートをとると、ベストティーチャーに選ばれたりする。
実際に授業を聞きに行くと、いつもはざわついている教室が静かで、たくさんの学生が授業を聞いている。
専任教員のクラスではうるさい学生も、授業がわかるし、面白いから静かに聴くのだ。
配布資料も多かったり、質問を投げかけたり、工夫もしている。
だからこそ、アンケートでベストティーチャーになるのだろう。

そういう非常勤の教員の授業をぜひ見学してほしい、などと言ってもほとんどの専任教員は見向きもしない。
忙しい、という一言で終わる。
大学教員は忙しくないとは言わないが、90分の授業を見学するヒマがないとは言えないのも事実。
理系の教員は知らないが、文系の教員は民間企業に比べるとヒマを持て余しているようにしか見えない。
だからこそ、あのしょうもない教授会を何時間も続けることができるのだ。

ぼくが知っていたベストティーチャーは、どこかの大学の専任教員になった。
分かる人には、わかるんだろう。

あの先生を採ったらいいのに、というと、あれは教養教育だから…という返事が返ってくる。
教養教育がちゃんとしていないと、専門教育は成り立たない。
そんなことが教授会にはわからない。

いい先生だったし、いい授業だったのに…。




| | 考えたこと | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
大きな素数
数というのは不思議なものだ。
世の中に実体として存在しない。
1つのリンゴはあっても、1つというのはどこにもない。
人間の頭の中にしかないものだ。

そして、いくらでも大きな数はある。
いちばん大きな数に1を足せば、もっと大きな数になる。
そういうふうにして、いくらでも大きな数は作ることができる。
これが無限というものだ。

大きな数というと、素数が話題になる。
なぜかというと、素数というのが世の中の暗号を支えているからだ。

素数というのはパターンがあって、2の何乗かしたものから1を引いた数が素数になることが多い。
3も7も31もそうだ。
もちろんそうでない数もあるが、素数を探すときにはヒントになる。
具体的には、右肩の何乗の数字も素数である数になる。

今見つかっている最大の素数は、2の5788万5161乗から1を引いた数らしい。
TED(プレゼンの番組)で言っていたが、ハリーポッターの英語の全巻のページ数を使っても表せない。
1桁1mmの幅で書いても17kmになるとのこと。
想像を絶する大きな数だ。
兆とか京とかいう大きさの呼称はあるが、そんなものでは呼べない。
そんな数だから、誰もが簡単には扱えない。
だから、クレジットカードなどの情報を送るときに暗号に使われるんだろう。

これだけ大きな数になると、数という気がしない。
ハリーポッターの全巻の文字を数字に置き換えて、それでも足りないほどの数だ。
どれくらい大きいのかも直感的にはわからない。
具体的に例えるものがないからだ。

そう簡単に書き出すこともできないし、扱えない。

コンピューターができたからこそ、扱える数だ。

ユークリッドは紀元前3世紀にもう素数は無数にあることを証明したらしい。
でも、その法則性はまだわかっていない。

人類が存在する間に、素数の法則性は解明されるのだろうか。

そもそも、数というのはどういうものなんだろうか。

考えだすと、悩ましい。



| | 考えたこと | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
奨学金問題の問題
奨学金に関する記事があった。
なかなかいい記事だ。分析もスルドイ。
実際、当たっている。

ぼくも奨学金の説明会に手伝いで出たことがあるが、「予約」というのがあるのだ。
これは、高校で大学の奨学金を予約する、ということ。
高校の先生が、親が働きたいと言っている生徒にも、大学に行ったほうがいい、奨学金があるから、みんなもらっている…、などと言って奨学金があるから大学に行けと言っている例がある。
高校教師にとっては、就職させるより進学させたほうが楽なのだ。
それが大学全入ということの意味。
高校にとっても、進学校と言われるから評判が良いのだろう。
だから、親は働いたほうがいいと思っていても、大学に行くことになる。
当然、そういう学生は奨学金を「予約」するのだ。

そんなふうにして、どう考えても働いたほうがいいと思う生徒が大学を受験する。
もちろん、どちらかというと下位の大学。
記事は分析する。

「これを見ると明らかに、滞納する場合は学校の先生や職員に勧められてるケースが多い。無延滞は12.8%なのに延滞者は35%なのである。高校の教師が職員が無責任に奨学金という名の学資ローンを勧め、そのとき「返済義務があることを説明していない」のではないだろうか。
ここで、高校側が、進学率が高いほうがいいから、その子の学習意欲や本当にお金が返せそうかとか全く見ずに「とにかく進学しろ、金がないなら奨学金で」と無責任に勧めているんじゃないか疑惑が持ち上がったわけです。おそらく進学校ではないです、そういうとこは。18歳やそこらの子に大きな借金をさせるわけで、高校はきちんと説明する義務があるんじゃないかと思いますが、間違ってますか?
高校教師におきましては「こいつに自分の金貸したら返すかな」くらいで判断して欲しい。」

奨学金の返済を延滞する人の比率が、高校で奨学金を勧められた人ではそうでない人より20%も多い、という結果をみて言っている。
全く正しい。

ぼくがいた大学では、「奨学金は自分の借金であること」「必ず返すこと」「返さないとエライことになること」「最悪、勤め先に取り立てに来ること」「だから、できるだけ少額を借りること」を徹底していた。
オリエンテーションで口を酸っぱくして学生に言う。
それでも、親が同伴で来ていてたくさん借りる学生もいる。
その光景を見ていると、奨学金が学生のためなのか、学校経営の補助金なのか、よくわからなくなる。

なぜぼくが奨学金のオリエンテーションの手伝いをしたかというと、それをパソコン教室でやるからだ。
奨学金とパソコンが、なぜつながるのかわからなかったが、出てみてわかった。
その場でインターネットで申し込みができる仕組みになっている。
こういうところだけ、ペーパーレスになっているところが驚かされる。
数百万円の借金が、クリックだけでできる。
これで学生によく考えなさい、というのはどうかと思う。

若い職員が、とにかく借りたら月々の払いが厳しいという話をする。
4年後就職できても、初任給はそんなにもらえないこともあるぞ、という話だ。
でも、その話を聞いた後すぐに手を上げて、月々の奨学金の額を上げていいですか?という学生が毎年何人かはいる。

そんなふうにして、彼らは4年後借金を背負って出て行く。

事務のぼくらはそういう学生を何とかしてまともな社会人にするべく、頑張らないといけないと思う。

でも、残念ながら今の多くの下位大学の仕組みは、そういう底辺の学生を勉強させるようにはできていない。
教育システムが、そういう学生を育てるようになっていないのだ。
大学教員はそんな学生を教えられないし、カリキュラムもそういう学生を救えない。
一部の大学は小数や分数の計算や、アルファベットの筆記体の書き方などを教えていると言って、「これが大学か」と叩かれた。
でも、それらの大学は本気で入れた学生を育てようとしているからこそ、そういうカリキュラムを入れたのだろう。
今の中等教育の状況では、それもやむを得ないのだ。
それだけ、中等教育が傷んでいるという事実を文科省の役人はどう考えているのか。
ぼくは敢えてそういうことをしている大学はエライと思う。

ところが、文部科学省はそういう大学に、カリキュラムが大学教育にそぐわない、という注意をした。

それは、たしかに事実だ。
大学が批判されるのは仕方がない。
儲け主義で、自らの教育システムで育てられない学生を入学させるのはヨクナイことだ。
そんな学生は入試でなぜ落とさないか、と言われたら身も蓋もない。
教員や職員、学校法人の儲けのために入れている、ということになる。

でも一方で、もっと高校をちゃんとするべきだと思う。
どう考えても、社会に出て働きながら社会人教育を受けたほうがいいと思う学生が、大学に来ている。
そんな進路指導は明らかにオカシイ。
教師が、自分たちが楽をするために進学させているのだ。

さらに、初等教育からのツケを何とかしないといけない。
大学に来ても、小学校で習う計算や中学校で習う英語ができない学生がいる。
それは本当にやらないといけないと思う。

以前、ハローワークで高校で生徒の就職を世話している先生と会った。
年配でもう定年間近のようだったが、昔ながらの先生、という感じだった。
生徒の就職を決めるのに、一人ずつ職場に連れて行って、納得させ、人事担当者とも話をして、そしてフォローまでしている、という。
本当に面倒見のいい先生のようだった。
その話を聞いていると、頭が下がる。
そういう苦労を、若い進路指導の先生はしたくないんだろう。
だから、生徒に奨学金を「予約」させ、進学させる。

結局、そういう学生が、4年間奨学金をもらい、卒業して返せなくなることが多い。

いろんなところに問題がある。


| | 考えたこと | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
アトムの未来になかったもの
手塚治虫が鉄腕アトムで描いた世界は、人間とロボットが共存する社会。
人間と一緒の学校に通うアトムが描かれていたと思う。
原子力を使った動力で動く。
今の日本なら、これは危ないぞ、と言われるだろう。

アトムはあくまで自力で考えていた。
自力、というのは自己完結と言ってもいい。
外部からの知恵というようなものはなく、アトムで描かれたロボットは、自分で考えることができるロボットだった。
アトムは自分だけの経験で学習し、育っていった。
それが、当時考えられていた人工知能だったと思う。
つまり、人間と同じように学習して、育っていく、というロボットだ。
最終回では自らを犠牲にして地球を救うという行動をとる。
そういう「心」さえ、人工知能は学習で得ることができる、という理想があった。

今、人工知能で銀行のコールセンター業務をやるとか、キャッチコピーを作るとか言われているが、それらはちょっと違う。
その人工知能のシステムは、なぜそんなことができるか、ということだ。
それは、知識を外部から取り込んで分析できるからだ。
そこにインターネットが活躍する。
例えば、銀行のコールセンターでの質問と答えの事例の情報をインプットする。
日々の事例をインプットしていくと、質問に対する対応が予測できるようになる。
そんな、多くの人の経験を取り込んでいるから、業務ができるようになるのだろう。
それらを実現するのが、インターネットの仕組みだ。

インターネット上にはあらゆる情報があふれている。
それも、コンピューターが使いやすいように電子化されている。
それらを利用することで、人工知能は学習できる。
人間は何を学習したのかはわからない。
機械が勝手に学習する。
そんな仕組みで今の人工知能はできているらしい。

手塚治虫がアトムを描いた時には、インターネットというものは想像もできなかったと思う。
インターネットができた時も、多くの人が今の時代の使われ方を想像していなかった。

アトムで描かれた未来になかったもの、それがインターネットだ。

そして、そのインターネットが世の中を変えていこうとしている…。



| | 考えたこと | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
5月の真夏日
今日は5月というのに、真夏日。

インドには熱波が来ているらしい。
首都のデリーでは気温43.5度だという。
北部のアラーハーバードというところでは、気温が47.7度に達した。
高齢者や建設作業員、路上生活者で死者が539人。

気温が47度というのは、想像を絶する世界。
過去の地球には暑い時期も寒い時期もあったらしいが、生きている間に気温が上がるとは思わなかった。

そういえば、5月に台風が来たのも珍しい。
海水の温度が上がっているから、台風が発生しやすくなる。
確実に気温は上がっているのだろう。

この分だとこの辺でも桜が3月に咲くのは当たり前になりそうだ。
桜といえば4月の入学式に咲くものだったが、もう卒業式の桜になるのか。

セミはもう分布が変わった。
暑いところにしかいなかったセミが、いつの間にかたくさんいる。
ツバメが現れるのも、昔に比べて早くなったような気がする。

温暖化が起こっているのか、起こっていないのかについては、まだ決着がついていない。
いや、温暖化は起こっているのだが、それが人間のせいかどうかがわからない、ということか。
今のところ、二酸化炭素の温室効果が有力で、そのせいだという人が多い。
人間という生物の営みが、地球に影響を及ぼしたということだ。

まあ、生物が地球の環境を変えるというのは、太古の昔からあることだ。
この地球上に酸素があるのは、植物の光合成のおかげだということだから。
昔は酸素の濃度がもっと高い時期があって、そのせいで恐竜のような大型の生物が生まれたという説もあったと思う。

要は地球という星はその上で暮らす生き物とセットなのだ。
人間が今や70億人に増殖している。
さすがにその営みが、地球環境を変えるほどの大きさになったのかもしれない。

京都議定書などといって、日本も二酸化炭素削減の公約を掲げたが、原発をストップしたし、お金もないし、達成は無理だろう。
この問題が難しいのは、すぐに止めることができないし、よしんば止めたとしても、すぐには環境が変わらないということだ。

北極海の氷は溶けているし、水位が上がっているところもあるらしい。
さすがに南極の氷が溶けたら、陸地はだいぶ減るだろうなあ。

ソ連が解体した時に、国がたくさんできて、地球儀が使い物にならなくなって捨てた。

でも、いつか陸地が減って使い物にならなくなる時が来るかもしれないぞ。





| | 考えたこと | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
民主主義の理想
昭和30年代生まれのぼくらは、戦後の民主主義教育を受けた。
先生は例外なく民主主義はいいものだと教えてくれた。
ぼくも戦前に比べて、戦後の民主主義の世の中は素晴らしいと思った。

実際、高度成長の時代はよかった。
昨日より今日、今日より明日はきっと豊かになる、という確信があった。
人口は増えて、公害も発生し、石油ショックやニクソン・ショックなどあったが、何とか乗り切り順調に進んできた。
バブルが崩壊するまでは…。

そんな時代だったが、それは民主主義の体制から生まれたものだと思う。
だから、民主主義は素晴らしいと思ったのだが…。

ぼくらが習った先生は、主権者である国民はかしこいものだという前提があったと思う。
はっきりとは言わなかったが、個人と社会の利益を比べた時、自分は損をしても社会の利益を優先する、というような理想を持っていたと思う。
その先生方は生きていれば80〜90代を超えているだろう。

高度成長の時代に作られた医療や年金などのシステム。
それらを支える人が、もらう人よりも多かった時代の遺物だ。

今は明らかに、もらう人のほうが支える人よりも多くなってきた。
少子高齢化というのは、そういうことだ。
年金100年安心プランなどと言っているが、そんなはずはない。
医療も福祉ももらう人が増えて、支える人が減っている。

ぼくらが教わった先生方の理想では、こんなシステムはもう成り立たないから、選挙の時はそう言っている党に投票するはずだ。
個人の利益を考えれば、システムを継続したいが、集団の利益を考えると、何らかの変更が必要だ、ということになるからだ。
でも、実際にはそういう政治家もいないし、そういう声も出ない。

どちらかというと、個人の利益を最大化する方向でみんな行動しているのではないか。

これが戦後の民主主義教育の結果なんだろうか。
理想はどこに行ったんだろうか。

もともと、理想などなかったんだろうか…。



| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
教員免許
新聞によると、教員免許の制度をようやく変えるらしい。
教員の資質向上を狙っているとのこと。

国家試験の導入だ。
今は大学で所定の単位を収めれば、教員免許が与えられる。
検討中の制度では課程を収めたら受験資格が与えられ、国家試験と一定の研修期間を経て免許が取れるという仕組みらしい。

今はほとんどの大学で、教員免許を出していると思う。
何をしたいかわからない受験生は資格志向が強くなり、大学に行ったらどんな資格が取れるのかを気にする。
親も同様に資格を気にすることがある。
だから、大学としては取れる資格が多ければ多いほどいい、ということになる。
小さな大学になるほど、その傾向は強いはずだ。

教員免許を取るためには専門科目以外に日本国憲法や教育学など、共通教育(昔の教養科目)の単位が必要だ。これが基礎科目になる。
そして専門科目の単位が、与える教員免許(中学とか高校とか、社会とか理科とか)に応じて必要になる。
免許をだすためには、大学がカリキュラムを文科省に提示してOKなら認可が下りる。

総合大学は多くの科目を持っており、教員免許のために大きく科目構成を変えなくてもいい。
しかし、学部数の少ない大学は、教員免許を与えるためにカリキュラムを膨らませないといけない。
膨らます、というのは本来教えたい科目以外に、教員免許のために教えないといけない科目を付け足さないといけない、ということだ。

本来は、カリキュラムの中から教員免許を取るために、たくさんの科目の中からどの科目を選択するか、ということだが、学部数が少ない大学は、少ない科目の中から教員免許のために科目を立てないといけない、ということになる。
当然、教員も教員免許(を教える科目)のために雇わないといけない。
文科省が非常勤ではダメだ、というからだ。

結果的にはカリキュラムを歪めることになるし、教員も本当はほしい分野を取れず、教員免許のための人が要ることになる。
大学の規模が小さいほど、その影響は大きくなる。
だから、規模の小さい大学では教員免許を出すことによるムダが大きくなるのだ。
それは教員免許を取らない多くの学生に悪影響を与えてしまう。

日本中の小さな大学がムリをして教員免許を出している。
それをしていない、エライ大学はほんの一部だと思う。

もっと、教員免許を出すことのハードルを上げないといけないと思う。
そうしないと、日本の教育はだめになるぞ。


| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
野球離れ
昨日は野球の話だったが、アメリカでも野球をやる人は減っているらしい。

ウォール・ストリートジャーナルの記事によると、リトルリーグの関係者が、保護者に電話をかけてもなかなか入ってくれないらしい。
子どもたちの興味はバスケットやサッカー、ラクロスなどという結果。
2009年に206人いた参加人数が、今や74人になったとのこと。

独立できないリーグは周辺地域と試合をしたり、近くのリーグと合併、もしくは解散ということになる。

野球はアメリカの国技と言われているし、メジャーリーグの試合を見に行く時の大騒ぎも実際に見て、本当にアメリカ人は野球が好きなんだなあと思っていた。
でも、そんな状況になっている。
そういえば、メジャーリーグの選手も南米やアジアからの選手が多くなったから、自国の選手は減ってもプロ自体は成り立つのかもしれない。

2000年と2013年の比較で、7歳から17歳の人たちが参加した人数を見ると、野球が880万人から530万人に減少、バスケットボールも1380万人から1003万人に減少、サッカーが920万人から690万人に減少、アメリカン・フットボールだけが420万人から490万人に増加という結果。

この結果で、メジャーリーグは将来の人気が危ぶまれると考えているらしい。
ファンを対象に、野球に対する関心を持たせる要因を聞いたところ、観戦や試合会場に行くよりも、実際にそのスポーツをやったことが大きなきっかけになる、ということらしい。

そういえば、ぼくらが小学校のころは、プロスポーツは野球が一番だった。
というか、実際に遊べるスポーツという意味では、野球しかなかった。
ぼくの年代の男の子は、たいがいバットとミットを持っていた。
おそらく、昭和30年代前半の男性に聞くと、広っぱ(この言葉も死語になった)で数人で野球(のまねごと)をしたことがあるか、と聞けば7割位の人がやったことがある、というだろう。
団塊の世代なら、もっと高いと思う。
だから、今でもぼくらは観戦するとしたら、野球である。

サッカーも中学・高校で体育の授業でやったが、やっぱりスター選手がいる野球だ。
マンガも「巨人の星」は有名だが、野球のマンガが圧倒的に多かった。
今はサッカーやバスケットのマンガもあるようだが、当時は全くなかったなあ。

子どもの世代になると、たしかに野球をしたことがないという人が増えているだろう。

しかし、少子化だけでなく、スポーツをする人口も減っていると思う。
生活環境の問題もあるし、公教育の質の低下での塾通いもあるし、ゲームなどのスポーツ以外の楽しみが増えたこともある。

日本はアメリカと違って少子化だから、条件は厳しいだろう。

プロ野球機構は何か考えているのだろうか。



| | 考えたこと | 23:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
イチローの監督
今のイチローが所属してるチームは、マイアミ・マーリンズ。
そのチームの監督が5月18日、ダン・ジェニングスに代わった。
これが普通の監督ではなく、指導経験では高校野球のコーチをやってきただけの人らしい。

記事によると、「サザン・ミシシッピ大学でカレッジベースボールのプレイヤーとして過ごし、1984年にヤンキースのトライアウトに落ちプロ入りを断念。間もなくしてアラバマのダヴィットソン高校の監督、86年にシンシナティ・レッズのスカウト、88年にマリナーズのスカウト、95年デビルレイズのスカウティング・ディレクター、2002年マーリンズの副社長、2007年のアシスタントGM、2013年にGMに就任」という経歴。

要は、自分が責任者になっているチームの監督になった、ということだ。
マネーボールという本を読んだが、いくらアメリカでもメジャーリーグの経験者以外が監督になるというようなことは、常識ではない。
記事に「極めて稀」と書いてあるから、ないことはないんだろうが…。

ネット上でもブーイングが起こっているらしい。

今のところの成績は、2勝2敗で、現在ぶっちぎりの最下位。
まあ、最下位だったから、監督の交代ができたんだろうが…。

しかし、イチローという稀有のプレイヤーにして、違った意味での稀有な監督だ。

でも、ぼくはプロ野球の監督という商売は、ひょっとしたらアマチュアでも出来るのではないかと思っていた。
コーチはプロでないといけない。
直接選手に教えるからだ。

監督の役割は、コーチと選手をまとめ、選手の体調を維持できるように環境を整え、球団の上層部と交渉し、士気をあげるような行動をとるということが大きい。
だから、極端な話、組織の運営のプロならできると思う。
もちろん、野球を知らなければできないが、スカウトもやって、球団のGMまでいった人ならできるはずだ。

このダン・ジェニングス監督が好成績を上げれば、メジャーリーガー出身でなくても監督ができる、という実績ができる。
これは面白い。

今年はイチローの成績だけでなく、チームの勝ち星も興味深くなった。

頑張れ、マーリンズ!


| | 考えたこと | 01:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
世故長ける
「世故長ける」という言葉がある。
調べてみると、この言葉にはいいニュアンスと悪いニュアンスがある。
いいニュアンスは「世間の事情に通じていること」で、悪いニュアンスは「抜け目がないさま」ということだ。

いい、悪いというのはぼくの判断だが、抜け目がない、という言い方はあまりいい意味では使わないと思う。
ぼくは「世故長けた」という言葉に、いいニュアンスしか感じていなかったので、ちょっと驚いた。

だいたい、年をとると世故長けるもので(長けるというのが年をとるというニュアンスがある)、年配の人は世故長けているものだと思っていた。
冠婚葬祭のことや、人間関係のこと、世情のこと…、総じて言えば人生の機微というようなものに精通してくるということだ。
年をとったら、そうありたい、という願望もある。

しかし、4人に1人が高齢者のこの時代になって、いったい世故長けるにはいくつにならないといけないのか、という疑問が出てきた。
65以上が高齢者という定義だから、65を超えたら世故長けるのか、というとちょっと難しい。
最近の高齢者を見ていると、悪いニュアンスの方が目立つということもある。

都構想の結果の記事がたくさん出たが、反対派が勝ったのはバスや地下鉄の「敬老パスが廃止されるおそれがある」、というような理由が挙げられている。
あくまで「おそれがある」だけだし、そんなことをいえば大阪市のままでも、採算が厳しくなったら廃止するか、年齢を上げるだろう。
「世故長けた」年配者は、そんなことを考えて「それは都構想とは関係ない」という判断が出来る人だと思う。
でも選挙の結果を見ると、「世故長けた」という言葉に、損をしないように「抜け目ない」という意味がつくのが何となくわかる。

悪い意味で、世の中に世故長けた人が増えたのだろう。

結局、いい意味で世故長けるためには、年をとるだけではダメなんだろう。
もし単に年をとって世故長けるのなら、日本は着実に道徳国家になっているはずだ。
でも、現実にはそんなことはない。

そんなことを考えると、やっぱり年をとるのは難しい…。




| | 考えたこと | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
年をとるのは難しい
前にも書いたが、健康寿命というものがある。
病院や人の世話にならず、健康で過ごせる寿命だ。
男性が71歳、女性が74歳だという。
一方、平均寿命は男性が80歳、女性が86歳程度だから、10年ほどは不健康で過ごしているというのが今の日本ということになる。

これが医療費や年金を圧迫している。
今や4人に1人が高齢者、65歳以上である。
2022年には4人に1人が70歳以上という予想。
その頃には3人に1人が65歳以上の高齢者になる。
その時にはぼくも高齢者の1人になるのだ。生きていたらの話だが…。

今でも街を歩いていて、年寄りの数が多いのに、2022年になったらどういう景色になるんだろうか。
まあ、ぼくも年寄りになるから、相対的には同じかもしれないが…。

これが高齢化社会の現実。
わかっていても、きっとその時が来ないとわからない。

あと7年で65歳。
少なくとも今の状態は変わらないのだから、これから先どうなるかだ。
移民の受け入れはそう簡単にはできないだろう。
だいいち移民したい人も少なくなっている。
出生率が劇的に増えるとも思えない。

ぼくらがあまり元気でいても、高齢化が進むだけだし、病気になって生きていたら、社会保障費が増加する。
こまったものだ。

若い人が少なくても、装着型のロボットや人工知能がカバーして生産性が高まる、というようなことはあるかもしれない。

希望を持って年を取らないとイケナイなあ。

でも、年をとるのは難しい…。




| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
人工知能のコピーライター
コピーライターという職業が一般的になったのは、1980年代だと思う。
ぼくが初めてコピーライターという言葉を聞いたのがその頃だったからだ。

それまでコピーというと、コピー機でコピーすることだった。
でも、その頃からコピーという言葉の意味が増えた。
「このコピーはスルドイ」というような言い方は、今は通じるが70年代は通じなかったと思う。
コピーという言葉に、キャッチフレーズというような意味がついたのは、80年代になってからのことだろう。

その頃、コピーライターという仕事は花形だったと思う。
カタカナ言葉の職業でも、イラストレーターとかと並んで上位だったろう。
これこそ、人間的な感覚が試される仕事だと思っていた。
コピーには、客観的な優劣がつけにくいが、感覚的にいいものはある。

でも、そのコピーライターの仕事が人工知能に置き換えられているというが記事あった。
Persedoというプログラム。

「50万もの文章を8年かけてデータベース化し、2年かけてプログラム開発したという。感情の変化なども分析されている」
「しかもその実力は、コピーライターが書いたフレーズと比較テストをしたところ、驚くべきことに、95%の確率で自動生成されたフレーズのほうが効果が高い」

エライことになったものだ。
人間の感覚まで、人工知能に置き換えられようとしている。
単純な事務仕事は完全にコンピューターがやって、人間はデーターを入力するだけだ。
それが、宣伝のキャッチコピーを作る、というような仕事まで出来るようになってきたということだ。

これも、Webという媒体があるからだ。
Webには毎日人々の意見や感想が入力される。
それらを分析してやれば、こういう言い方が感情に訴えられるというようなフレーズもわかるようになるんだろう。

山本夏彦が、インターネットは深く社会を変えていくもの、と言った。
早くも90年代にそう言っていた。
本当にそうなりつつある。

ぼくらの想像以上に、世の中を変えていく存在。
それがインターネットの良さであり、怖さでもある。

人間に使いこなせるのだろうか…。



| | 考えたこと | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
同窓会
こないだ、同窓会があった。
同窓会といっても、学校の同窓会ではない。会社の部署の同窓会だ。

ぼくがいた最初に配属された部署は実験。
実験部署は出張も多く、毎月何日かは同じ釜の飯を食うという生活だった。
そして、一度こういう事をやろうという、ありがたい先輩がいてくれて、実現の運びとなった。
さらに、途中で辞めたぼくも誘ってくれたのは、本当にありがたいことだ。

ぼくが一番若手だったから、昭和54年以前に入った人ばかり。
一番上の人は75歳を超えている。
でも、みんな若かった。
NPOで活躍している人もいた。
一人ひとり、思い出がよみがえる。

それでも、最初に物故者に黙祷をした。
何人かは亡くなっている。
ガンになった人もいる。
幸い治療できて、半年に一回検査しているとのこと。

人の運命というのはわからない。
昭和54年に会社に入った時、平成25年にこんな同窓会があるとは思いもよらなかった。
何の因果か、実験部署に配属されたから、今がある。

これこそ、何かの縁だ。

昭和54年当時、今はもうない建物で、毎日振動や騒音を測っていた。
まだ土曜日が月に何度か出勤だったし、自分のデスクに灰皿があって、自由にタバコが吸えたし、手書きでレポートを書き、定規でグラフを描いていたし、もったいないから、青焼き(湿式コピー)がメインで今の白黒コピーがぜいたくだったし、パソコンなどなく、ミニコンをフォートランでプログラムしていたし、クルマのエアコンは贅沢品だったし、クルマはマニュアルでオートマ車などなかったし、携帯電話などなく、FacebookもTwitterもなく…。

いい時代だった。
もう36年前になる。

また来年もあれば行きたい。




| | 考えたこと | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
簡易宿泊所の火事
川崎市にある簡易宿泊所が火事になって燃えてしまうという事故があった。

今日ニュースでやっていたが、住んでいたのは生活保護の高齢者が多かったとのこと。
70歳をだいぶ越えたような男性がニュースに出ていた。
別の簡易宿泊所に移って、生活を始めている。
生活保護の事務所に行って、再発行関係の手続きをして、役所で2000円を借りていた。

川崎のような都市部でも高齢化が進んでいる。
人口が多いところは、高齢者も多いということか。
その高齢者が仕事を辞めて、収入がなくなり、生活保護を受けている。
それは仕方のないことだろう。

その後のクローズアップ現代で、神奈川県と横浜市のことをやっていた。
横浜みたいな大都市でも、福祉にかかるお金が足りないということだった。
高齢者が増えているということだ。

これが高齢化の現実。
もう都市部でも始まっている。

簡易宿泊所の話を聞くと、地方はまだマシかもしれない。
住むところはあるだろう。

年齢構成はそう簡単に変えられない。
未来は予測できる。

社会保障をどうするのか。
増えていく高齢者をどうするのか。

見ていて切なくなった。


| | 考えたこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
都構想
今日は大阪都構想の住民投票だった。
結果は反対が多数になったが、投票率は66%だったらしい。

今の地方自治でもっともオカシイと思うのは、政党があっても、みんなで手をつないでいる点だ。
知事や市長の選挙などでは、たいがい与野党相乗りになる。
こんなおかしなことはない。
中央であれだけ対立しているのに、地方では相乗りだ。
これでオカシイと思わないのが最もオカシイ。
各々の政党には主張はないのか。

これでは既成政党は、手に手を携えて、みんなで政治を食い物にしているとしか思えない。
今回は維新以外の共産党も含めた全政党が反対だという。
その事自体が今のおかしな状態を示している。

二重行政が悪いとか、いろいろ争点はある。
反対の人たちは、二重行政は今の制度で解決できるという。
でも、肝心なのはそれをやってもいないし、やろうともしていなことだ。
制度の問題ではなく、やる気の問題だろう。
手に手を携えて、みんな仲良くやっていれば、税金の無駄遣いがなくならないのは当たり前だ。
議会の質問も低調だし、なり手もいない。
無投票で決まる例も多い。

今回、若い人たちは都構想に賛成が多く、70代以上がいちばん反対が多いという結果らしい。
年寄りが保守に回るという常識的な結果。

反対派が勝ったのは、まさにシルバーデモクラシーの勝利だ。

大阪自民党本部で勝利会見をやっていたが、シルバー議員が並んでいた。

残念だが、大阪はこれで今のまま、何も変わらないだろう。

橋下さんは引退するのか…。
お疲れさまでした。



| | 考えたこと | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
クセになる味
近所に新しいラーメン屋ができた。

台湾まぜそばというのが美味しいというので、食べに行ったが、もう一つだった。
まずくはないのだが、ラーメンという感じがしない。

こないだ醤油ラーメンにしてみたら、これがなんとも言えない。
醤油ラーメンだが、すっぱいのだ。
券売機のところに、「クセがあります」というようなことが書いてあったが、これは普通の醤油ラーメンを想像していたらビックリする。
しかし、一杯食べ終わる頃にはおいしいと感じるようになる。
万人好みではないが、ぼくは気に入った。

しばらく食べないと、食べたくなる味だった。
今日もう1回行って、大盛りを頼んで食べた。
やっぱり美味しかった。

酢が醤油と混じって、なんとも言えない味になる。
すっぱい醤油のラーメン。

麺もラーメンというより中華そばという感じの麺だ。
色はよくわからないが、黄色い麺ではないと思う。

ぼくは新しいラーメン屋はあまり好きではなかったが、ここはよかった。

クセになる味だ。



| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
10周年
5月11日でこのブログを始めて10年になった。

10年間で3100件ほどの記事を書いてきた。
始めた頃はこんなに続くとは思っていなかったが、途中からやめられなくなって、今はほぼ毎日何かを書いている。
最初の方は個人的な話題が多く、日々起こったことの感想とかがメインだったが、だんだんと変わってきて今は何かほかの記事の感想などが増えた。

10年前の4月に仕事を変わったところだったので、いろいろ刺激があって最初の方は個人的な思いがあったんだろう。
途中、体調不良の時期もあったり、血圧が上がった時期もあったり、言葉が出なくなった時期もあったり、けっこう波乱の時期だったりした。
仕事を変わると、ストレスが増えることも多くなる。
そんな10年間だった。

内容的には、自分のこと、映画や本、英語や日本語のこと、ギターや音楽のこと、大学や教育のことなど、いろいろ書いた。

ほとんどの記事はどうでもいいことだと思う。
他の人が書いたり言ったりしていることばかりだ。

思いついて、検索して読み返すこともあるが、覚えているものもあるし、全く覚えていないものもある。
覚えていないものがほとんどと言ってもいいか。

このブログの読者はおそらく20人に満たないと思う。

読んでいただいた人、ありがとうございます。



| | 考えたこと | 23:21 | comments(3) | trackbacks(0) |
ヴィクトリアとシーザー
ケーブルテレビのアニマルプラネットというチャンネルで、ヴィクトリアという女性トレーナーが問題のあるイヌの解決をするという番組がある。
もう一つ、別のチャンネルでシーザー・ミランというイヌの伝道師みたいな人がやっている番組もある。

どちらもアメリカの番組だが、棲み分けができていると思う。

ヴィクトリアの方は、どちらかというと飼い主の問題が大きいケースを扱う。
イヌを飼ってはみたものの、散歩をさせるのが面倒くさいとか、ずっと抱いていて甘やかしすぎとか、自分が群れのリーダーだと思い込んでいるイヌとか、いろいろある。
見ていると、アメリカ人というのはイヌのことがわかっているのか…、と思う飼い主も多い。

ヴィクトリアはまず家族とイヌを観察して、問題点を指摘する。
ほとんどの場合、家族の間で言い合いが起こる。
イヌを飼ったのにほったらかしではないかとか、ちょっとはお前も手伝えとか、自分は仕事があるとか、甘やかすから悪いのだとか、とにかく最初は険悪だ。
泣く人も出てくる。

そして、みんなに言いたいことを言わせておいて、計画を立て、コミットすることを約束させ、訓練に入る。
実はこの段階がいちばん大事なのだろう。
ヴィクトリアはおやつを上手に使って、訓練をすすめる。
イヌが飼い主の言うことを聞きはじめると、家族の顔がほころんでくる。
最後はイヌを通じて、同居しているみんなが一つになる、という感じだ。
イヌを嫌っていた人も、好きになるのだ。

一方、シーザーは純粋にイヌの問題を扱う。
飼い主はイヌの知識もあって、精一杯やっているが、どうしてもうまくいかない時にシーザーを呼ぶ。
シーザーの訓練は、よりスピリチュアルだ。
イヌの精神的なエネルギーを感じながら、イヌと対峙する。
そしてイヌに分からせる。
イヌが降伏するまで長い時間がかかっても、我慢強く待つ。
時には噛まれて血を流すこともあるが、シーザーは平気だ。

イヌの社会性を育てるために、シーザーはたくさんのイヌを飼っている。
ドッグ・サイコロジーセンターとかいう名前だったと思う。
時にはそこに連れて行って、訓練をする。
イヌの友だちがいないイヌは、社会性が育ちにくい。
イヌの問題はイヌが解決するというスタンスだ。

毛色が違う2つのイヌの番組。
どちらも面白い。
人間が教えられることがたくさんある。

日本にはペットの問題を扱う番組はないが、これは日本人のペット観がアメリカとは違うからだと思う。

日本では、番組に出てくるようなひどい状況はないと思う。
それは、日本人がペットと人間の境界線をアメリカ人よりもちゃんと引いているからだと思う。

その違いが何に起因するのかわからないが…。


| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
自ら変わろうとしない人は放っておくべきだ
この言葉は、スモール・イズ・ビューティフルという本に出ているらしい。
アフリカのNGO活動をしているイタリア人が言っていた。
NHK教育テレビ(今はEテレ)のTEDというプレゼンの番組。

書き方が唐突だったが、経済支援をするときには、どうしても支援する方の視点で見てしまう。
それを戒めた言葉だ。

彼の話によると、最初アフリカのザンビアで農業をやることを教えようとしたらしい。
ザンビアの人にトマトの作り方を教え、農地を開拓し、大きなトマトがたくさんなった。
イタリア人は喜んでいたが、ある晩カバが何頭か来て全部食べてしまった。
ザンビア人は「だから我々は農業をしないのだ」と言ったとのこと。

だから、教えてはいけない。
現地の人が何をしたいのか、1人ずつ聞いてまわるのだ。
集会など開いても、何かしたい人は来ない。
パブなどを回って話をひたすら聞く。
そして、現地の人がやりたいことを支援すると、新しい仕事が生まれる。
そういう話だった。

似たような言葉で、大学で仕事をしている時によく聞いた言葉が「馬を水飲み場に連れて行くことはできるが、馬に水を飲ませることはできない」というもの。
いくらお膳立てをしても、本人にやる気がなければどうしようもない、ということだ。

大学の事務は、学生のやる気を出すためにいろんな仕掛けを作る。
セミナーを開いたり、課外活動を支援したり、先輩を使ったり…。
でも、いつも問題になるのは、支援している間はサマになるのだが、学生に任せたとたん、活動がしぼんでしまうというもの。
それと同じなんだろう。

学校が準備した枠の中で活動するのは簡単だ。
極端に言えば誰がやっても形になる。
でも、それは実際には学生の役にはあまり立たない。

このイタリア人のプレゼンターのように、我慢をして、一人ひとりに聞いて回ることが大事なんだろう。
間違っても集会を開いてはいけない、集会に来る人は何かをやりたい人ではない…か。
そうかもしれない。
ひたすら黙って話を聞く。
これは本当に難しい。

でも、単にNGO活動というより、教育という意味で真実を表しているのかもしれない。



| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
奨学金問題
学生支援機構というと、奨学金を管理・運営している団体だ。
名前通り、学生の支援をしている側面があるが、一方で学生の未来を潰す金貸しという側面もある。
それはひとり学生支援機構が悪いのではなく、高校や大学の指導が悪いという側面もある。

親の世代にとって、「奨学金」というのは響きがいい。
そのころ、奨学金というのはある程度勉強が出来る人、かつ家庭の収入が少ない人に支給されたものであって、ほとんど利子もつかず、場合によっては返さなくてもいいものだった。
それは第一種奨学金として残っている。
今問題になっているのは第二種奨学金と言われるもの。

第二種奨学金は金利がついて返さなければならない。
多くの学生が希望すれば借りることができる。
当然、本人の借金になるので、4年間借りたら返し始めないといけない。
就職できなかったら、返せない。
猶予はしてもらうことができるが、それでも限度がある。
会社に電話がかかってきたり、ひどい時は会社に取り立て屋が来るという。
学生支援機構が、外部に取り立てを丸投げするのだ。

実際に返すお金は3万円を4年間借りて、1万1千円ずつ13年で返す。
トータル144万円借りて、返済総額は176万円になる。
初任給から毎月1万1千円程度を返すのはまあ何とかなるかもしれない。
しかし、5万円借りると1万6千円を15年返すことになる。
240万円借りて、返済総額は301万円。
月々1万6千円の15年はキツいだろう。

そもそも、この奨学金のシステムは、借りた人が返して、次の借り手が借りるというふうに順繰りに回していくというもの。
当然、借りた人が返さないと、次の人が借りられない。
でも、就職できなければ、奨学金は返せない。
就職出来る人は大学を卒業して社会にでる人のうち、約8割が正規雇用と言われている。
しかし、3年以内にその職を離れる人が3割以上。
また、最初から非正規の職場につくひとが2割程度。
つまり、卒業した人が100人いると、正規雇用につけた人が80人だが、それも3年たつと56人になるということだ。
新卒一括採用といっても、3年経ったら約半分の人しか残らないのが現実。

もちろん、辞めて別の会社の正規採用になる人もいるだろうし、卒業した時は非正規でも正規雇用のところに就職する人もいるだろう。
それでも、この統計から見ると、現在の若者の雇用はかなり不安定なのだと思う。

そういう状況の中で、大学生の2.6人に1人が奨学金を借りている。
それならやめてしまえばいい、というのは簡単ではない。
奨学金は学生の支援だけでなく、それを通じて大学の支援にもなっているから、やめたら大学が潰れるという問題もある。

でも、大学は多すぎるのだから、潰したらいいということもあるだろう。
それには賛否両論ある。
問題は複雑だ。

でも、ぼくの意見は、本当に学生のためになっている先生がどれだけいるか、ということだと思う。
そういうと、すべての先生が「ためになっている」というだろうが、本当に学生のために汗をかいているか、それを評価する仕組みを作らないといけないと思う。

そういう先生がたくさんいる学校なら、残ってもかまわない。

それ以外の学校は潰してもかまわないと思う。

若い人は足りないのだから、ちゃんと力をつけたら必要とされるはずだ。
それができていないのは、1つは高校までの教育が機能していないと思われる生徒が多いこと、大部分の大学が経営のためにどんな学生でも入れること、そして入れた学生をちゃんと教育できる大学が少ないこと…、この3つだと思う。

それを何とかすれば、奨学金制度は今のままでもかまわない。

でも、現状では借金を背負って卒業していくのが気の毒な学生が多いのが真実だと思う。


| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
お見送りの作法
イギリス映画。
ヨーロッパの映画らしく、派手さがなく淡々と流れる。

地方公務員が主人公。
孤独死した人の身寄りを探し、連絡し、葬儀を行うのが仕事。
亡くなった人の部屋で遺品をまとめ、弔辞を書いたりする。

その仕事も解雇される時が来た…。

主演はエディ・マーサンという俳優。
イギリスでは大御所なのだろう。
いかにも地方公務員という役を上手にこなしていた。

ハリウッドの映画に比べると、お金もかかってないし、出てくる場面も普通のものばかり。
同じ入場料を払って損をしたような気分になっても良さそうなものだが、この映画はそうでもない。

イギリスといっても、ブラックユーモアではなく、まともにセンチメンタルな映画だ。

ネタバレするのでこれ以上は書けないが、最後は感動する結末。

情けは人のためならず。

悲しいが、爽やかな映画だった。




| | 映画・舞台 | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
エレキベース
一時エレキベースをやろうと思ったことがある。
20代の後半だったか…。

当時チョッパー(今はスラップというらしい)が流行っていた。
エレキベースは人差し指と中指の2本指で弾くか、ギターのようにピックで弾くのが当たり前だったが、チョッパーは親指の腹の部分と人差し指を交互に使って弾く、特殊な奏法だった。
ラリー・グラハムという黒人のベーシストが、ぼくが聴いた最初のチョッパーで、めちゃくちゃカッコ良かった。
低い音の弦を親指で叩き、人差し指で高い音の弦を引っ掛けて引き上げて離す。
どちらもすごくパーカッシブな音で、それを交互にやる。
ラリー・グラハムがやるとマシンガンのように音が出る。
要は、それに憧れたということだ。

幸い弦のチューニングはギターの低い方の音4弦と同じだ。
押さえるところはわかりやすい。

ぼくは手が小さいので、ヤマハのショートスケールベースを2万円くらいで買った。
普通のベースはだいぶネックが長い。
だから、フレットの幅が広くて、指が届かない。
ショートスケールなら、ギターと同じくらいだから大丈夫だと思った。

しかし、そう簡単にチョッパーは弾けない。
親指の腹の部分の皮膚が硬くならないといけないし、人差し指は強くひっぱって離すというような動きで弾かないといけない。
なによりベースの弦が太くて、押さえるのが大変だった。

そして、ラリー・グラハムのビデオを見ると、親指が曲がっている。
第一関節から先が反っているのだ。
手首を回して、親指の反ったところを当てて音を出す。
ぼくは親指が反らない。
どうやってもまっすぐにしかならない。

親指が反る反らないは、チョッパーにそんなに関係がないらしい。
要は練習で、指の形にあった弾き方をすればいい、ということだ。

でも、指の形で何となくやる気がなくなって、やっぱりギターにしようと思った。
そして、ベースはお蔵入りになって、数年後に弾きたいという人にあげた。

これがぼくのベースの物語。

というほどのものでもないが…。





| | 考えたこと | 00:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
一般的か個別的か
若い時は一般的なことに興味があった。
普遍的といってもいい。
個別のことにはいろんな事情が伴うが、一般的なことはあくまで一般的だから、用途が広くて役に立つと思っていた。
自分の可能性が広いと、一般論が知りたくなるのだ。
若くて時間が無限にあるから、余分な制約は要らないのだ。
だから、若い時は一般論を求めた。

でも、年をとってくると、一般的という言葉はあまり意味がなくなる。
この先、自分にできることとできないことがわかってくる。
というか、できないことがどんどん多くなってくる。
自分の過ごしてきた時間が制約になる。
その制約があること自体が個別的ということだ。

高校の時だったか、亀井勝一郎の人生論を読んだ。
いくつかの言葉をノートに書き写した覚えがある。
ああいう本こそ、若い人向けの一般論だと思う。
人生とは何か、一般的に説明してくれている。

でも、今はその手の本は敬遠する。
今さら、人生とは、など知っても仕方がないと思う。
もう過ごしてきたからだ。
たとえ感心する事が書いてあっても、もう手遅れだ。

そう思うと、若い時はよかったと思う。

何を読んでも感心できた。
もちろん、オカシイと思うこともあったが、ほとんど感心してきたと思う。

若い時は若いときなりの、年をとったらとったなりの喜びや苦労がある。

どんどん個別的になるのは、仕方がないことなんだろうが、あんまりいい事とも思えないなあ…。




| | 考えたこと | 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
サンデルのプレゼン
あの元祖白熱教室のマイケル・サンデルが、TEDという教育テレビの番組でプレゼンテーションをしていた。
市場主義と市民社会というような題名。
市場主義というのは、極論するとお金さえあれば何でも手に入れることができる、というものだ。
それが市民生活を支配しようとしている、というのがサンデルの問題意識。

サンデルは一例を挙げる。

裁判の傍聴をするために傍聴券を求める列ができるが、お金を持っているジャーナリストはお金を払ってその権利を買う。
そういう権利を売る会社があるらしい。
その会社はホームレスの人たちを使って、列に並んでもらって券を手に入れる。
ディズニーランドのアトラクションもエクストラのお金を払えば、並ばなくても乗れたりする。
刑務所では、お金を払えばいい部屋に泊めてもらえる。

そして、教育分野だ。
子供たちが試験でいい点を取ったり、本を読んだりしたらお金をあげる、という実験だ。
例によって聴衆に問いかける。賛成の人、反対の人手を上げて…。

反対の人はそういうことをすると、子供の内発的動機をそぐという。
賛成の人は実験なら試してみたらいいという。

サンデルは言う。
本を読んだらお金をもらえるということになると、本を読むようになるが、子どもたちは薄い本を選ぶようになる。

しかし、本当の問題は、何でも売り物にすることで格差の問題が大きくなることだ。
経済問題というより市民生活の問題である。
経済学者はことの善悪を考えないという。

サンデルの結論は、何をどこまで買えるか、ということについて議論をしないといけない。
そうでないと、市民社会の中でお金持ちとそうでない人の接点が離れていく。
これは民主主義にとってよくないことだ。

民主主義に完全な平等は要らないが、社会的な一体感は必要だという。
大事なのは社会的地位の異なる人々が触れ合うことだ。
普段の暮らしの中で交流することだ。

昔は野球場では金持ちも貧乏人も同じ席に座って野球を見ていた。
しかし、今は金持ちはラウンジ席を買う。
広々とした席でピザやステーキを食べながら見ることができる。
金持ちと貧乏人は全く触れ合わない。

そういうことは、市民社会にとってよくないことではないか、とサンデルは呼びかけてプレゼンを終えた。

格差が世界一のアメリカにこういう哲学者がいる。


| | 考えたこと | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
老年学
老年学という学問があるらしい。英語ではジェロントロジーという。
アメリカでは普通に知られている「個人と社会の高齢化」に関する学問領域とのこと。

高齢化社会を迎えようとしている日本には、そんな学問領域はない。
日本人の平均寿命は、今や男性80歳、女性87歳。
そのクオリティ・オブ・ライフを高めるには、医学や心理学、経済学、工学などのいろんな学問が関わってきて、とても内容的に広いものになるらしい。
東大の高齢化社会総合研究機構の先生が言っている。

アメリカでジェロントロジーが先行したのは、自立した個人の社会であり、その分高齢化しても面倒を見る人がいないから、顕在化したという事情もあるらしい。
なるほど。
日本もだいぶそうなってきたが、まだまだアメリカに比べると個人というより家族の面がある。
国民皆保険や年金制度もそれを助けてきたのだろう。

しかし、今の年寄りは若くなった。
実際にそういうデーターがあるらしい。
1992年と2002年の高齢者の通常歩行速度を比べると、男女ともに11歳若返っているとのこと。
たしかに、ぼくが会社に入った1979年、研修中に60歳で定年する人がいたが、たしかに今に比べると年をとっていたと思う。
今の俳優など、60歳で中年の役をやる人も多い。
そういえば、シュワルツネッガーが67歳でターミネーターでカムバックするらしい。
たいしたものだ。

ぼくらが子供のころは、60歳というと、もっと歳を取っていたと思う。
1975年ごろ、男性の平均寿命はだいたい70歳。
定年が平均寿命の10年前くらいになる。
その関係でいうと、今の男性の平均寿命は80歳だから、70歳が定年でもいいということになる。

社会に出て働き出してからの人生を第一の人生とすると、第二の人生は定年後。
その第二の人生が1975年ごろよりも、平均で10年伸びたということだ。
だから、ジェロントロジー、老年学が必要になってきた。

老年になると、身体が不自由になったり、動きが遅くなったり、理解が遅くなったりする。
それをどうやって乗り越えるか。
乗り越えずにどう付き合っていくか。
どうやって死を迎えたらいいのか。
それらのために、個人や社会をどう変えていったらいいのか。

それはこれから必要になる学問だと思う。

すでに人口の2割が75歳以上なのだから、ちょっと出遅れかもしれないが…。


| | 考えたこと | 21:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
グッド・ライ -いちばん優しい嘘-
4月に封切らた映画。
リース・ウィザースプーンが職業斡旋人の役で出ている。
この人も年をとっていい味を出せるようになった。

前半はスーダンの内戦。
いきなり村を襲われ、親は亡くなり、子供だけで逃げる。
途中数々の悲劇があるが、延々とサバンナを歩いて、ケニアの難民キャンプにようやくたどり着く。
そして、十数年が経ち、あの時の4人が「ロストボーイズ」としてアメリカ行きに選ばれる。

スーダンは何度かの内戦を経て、今もややこしい状態みたいだ。
石油の利権があって、アメリカも関係した時期もあったのだと思う。
そんなことがあるから、こういう映画が作られたんだろう。
宗教と民族が絡むと、虐殺が起きる。

スーダンから来た黒人にも、最初からアメリカ人のように接するのは、さすが移民の国アメリカだと思う。
アメリカに来た彼らが言うこと、することにいろんな細かいギャグがあった。
ここは見ていて面白い。
移民局、福祉局、職業斡旋局など、いろんな人が彼らの熱意に打たれて支援の手を差し伸べる。
そうでないことも多いのだろうが、アメリカは懐が深い。

9.11が絡んで、スーダンの援助もややこしくなったところをみると、ここにもテロリストが潜んでいるという疑いがあったんだろう。
世界は善意が通じるところばかりではない。

グッド・ライ〜いちばん優しい嘘〜 という題名の意味は、最後のお楽しみ。

なんとも言えないエンディングだった。

いい映画だ。




| | 映画・舞台 | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
3000億円
日経ビジネスに記事が出ていたが、アメリカの大統領選挙に新たな候補者が出るらしい。

候補者の名前はカーリー・フィオリーナ、ヒラリー対抗の女性候補。
この名前は何度か過去に出てきた。
ヒューレット・パッカードのCEOとして、99年から2005年まで業績を回復させた実績がある。
共和党は現在ブッシュの弟が名乗りをあげているが、ブッシュ・ジュニアは評判が悪かった。
さんざんジョークのネタになっている。
その弟だから、またジョークのネタになるだろう。

オバマはアメリカ初の黒人大統領として当選した。
今度は初の女性候補ということで、民主党がヒラリーを出そうとしている。
女性対女性ということなら、選挙戦はなかなか面白い。

しかし、決定的に違うのは集金力だという。
3000億円というのは、ヒラリー・クリントンが今年から来年にかけて集めようとしているお金の額だ。

「第2次世界大戦後の大統領選を眺めると、より多くの選挙資金を集めた候補が勝ってきた現実がある。例外はない。党内の予備選でも同じで、選挙資金の多寡が選挙結果に如実に反映する。」

そういうことらしい。

アメリカの大統領選挙は、行脚もCMも戦略も、そしてそれを考えるスタッフもお金がかかる。
集金力が高いほど、いい選挙参謀を雇えるし、たくさんCMを打てる。

しかし、3000億円というのはスゴイ額だ。
それだけのお金が集まるということは、大統領になったら見返りを要求するということではないのだろうか。
実際、オバマの時もそういうことがあったという記事が出ている。

それはそれでいいのだ、とアメリカの人たちは考えているのか…。

日本では政治家が選挙運動にお金を使うというと、ダーティなイメージがつきまとう。
政治献金をしているというと、うさんくさいヤツだと思われる。
企業献金なら、何か見返りがあるのだということになる。

アメリカでは企業や労働組合が政治家に直接献金することは禁止されている。
そのため、企業や労働組合はPAC(Political Action Commitee)という政治行動委員会を作り、そこが支持する候補者を決め、そこに個人や企業が献金するという仕組みになっている。
個人が直接資金を出す場合は上限が決められているようだ。

今のアメリカ大統領選挙は、その集められたお金で相手の中傷CMが作られたりして、あまりいい話は聞かない。
それでなくても、上位1%の金持ちが20%の富を持っている社会なのに、PACに出すのであればいくらでも献金できる。

その代わり、献金した企業や組合、個人はガラス張りになる。

どうも、政治にはカネがかかるものだ、ということを開き直っているような感じだ。
これも1つの方法なんだろう。

結局、カネを使う自由も保証されているということになる。

アメリカらしいと思うが…。




| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
ツバメ3
ツバメが飛んでいる。
近所のダイエーのビルの前の通りにいる。

そこに弁当屋があって、巣があった。
ところが去年改装していたので、もう巣がなくなっていた。
どうなったのかな、と思っていたら、また新しく巣を作っている。
経営者も変わったようだが、また優しい人で良かったと思う。

ウチの前の通りにも飛んでいる。
どこに巣があるのか、わからないが…。

ツバメを見ると、思い出すことがある。
彼らは、はるか東南アジアの方から、何千キロも旅をしてくる。
生理的寿命は15年ほどあるらしいが、実際には天敵に襲われたり、厳しい自然淘汰の中で生き残るのは難しくて、平均寿命は1.5年と言われている。
運が良ければ、10年以上生きるということだ。
人間を怖れず、軒先に巣を作る。
そうすることで、カラスやトンビなどから身を守るのだろう。
同じ人に近い鳥でも用心深いスズメとはだいぶ違う。

ツバメが飛ぶと、もう夏が近い。
気温も25度を超える日が増えてくる。

あの軽い小さな身体で、時速200キロを超える速さで飛ぶこともあるという。
水平飛行では一番速い鳥と言われている。
それほど翼をバタバタさせず、上手に風に乗って飛ぶ。
あの飛び方だから、数千キロ離れたところを渡ることができるのかもしれない。

今年もツバメの季節になった。

来年帰ってくるツバメは、同じかどうかはわからない。

そんなツバメが愛おしい。

| | 考えたこと | 20:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
シルバー・デモクラシー
シルバー・デモクラシーという言葉がある。

これはWikipediaでは「高齢化社会」の項目になっている。
1986年に内田満という人がこの言葉を作ったらしい。
それによると、

「高齢化社会の進展に伴い、政治家が高齢者を重視した政策を打ち出さなければならなくなり、現役労働者である若年・中年層よりも、引退し年金を受け取っている高齢者を優遇せざるを得ないという政治状況になりつつある。これは、一般にシルバー民主主義と呼ばれている」

と書かれている。このシルバー民主主義というのがシルバー・デモクラシーということだ。

今の政治はことごとくシルバー寄りになっている。
医療制度にしても、年金制度にしても、票を取ろうとすると高齢者の方が多いから、今の小選挙区制の元で当選したければ、そうなるのは仕方ない。
だから、各党ともそれには触れない。
誰が見ても、わかっているのに触れないのだろう。
候補者自身が高齢者である場合も多い。
地方では、特に高齢者の比率が高いから、ややこしい。

しかし、今の高齢者を支えるシステムが未来永劫持つわけがない。
それは高度成長の時代に、人口が増えている時にできたシステムだからだ。
もうすでに年金制度などは破綻しつつある。
高齢者医療も同じようなものだ。

もちろん、年金支払開始年齢を遅らせたり、定年制度を変えたりしてはいるが、まだまだ苦しい。
これから激変する雇用の変化を予測し、何が必要なのか、若い人たちがやる気をなくさず、希望を持って働くためには何が必要なのか、そういうことを見えるところで議論すべきだと思う。

そのためにも、一票の格差はなくすべきだ。
格差は主に都市部と地方で大きくなっている。
特に参議院の5倍という数字は論外だ。
若者が多い都市部は一人1票しかないが、高齢者の多い地方は一人5票も持っている。
そうでなくても若い人たちの意見は反映されにくいのに、だ。
一票の格差は、単に地方と都会ということではなく、世代間の不平等も大きくする可能性があるということだ。

年をとった人たちも、きっと本心ではヤバいと思っているはずだ。
それを声に出して言えない事情もあるんだろう。

でも、若者が希望を持っていける国にしないと、少子化は止まらないと思う。

時はすでに遅い。
政治家がそれを変えないと、誰がやれるのか。

そんな人が出てきてほしい。



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年をとって角がたつ
ストレッチのコーチと話をしていて、面白いことを聞いた。

コーチは何店か曜日で掛け持ちしているのだが、かなり元気な(というか、ガラが悪い)ところにある店もあるらしい。
その店ではしょっちゅうトラブルが起こる。

筋トレのマシンのインターバルは、原則マシンから離れて休まないといけないのだが、面倒くさいとマシンのところで休んでしまう。
そんなにインターバルを取らないから、もう1回すぐにやろうとするわけだ。
でも、そんなことをしていると、マシン待ちの他のメンバーが文句を言ってくるらしい。
人気のあるマシンは数台揃えているのだが、そこの店は1台しかないマシンもあって、それがトラブルの原因になるらしい。
「休むときはマシンから離れることになってるやろ」という文句が出る。
「うるさいなあ、今やるとこやったんや」という買い言葉に発展する。
おばちゃんがキレることもあるという。

時間帯は?と聞くと、午前中や日中らしい。
たいがいヒマな人が来ている時間帯だ。

コーチによると、若い人はそんなことは言わないらしい。
黙って我慢して待つか、早々にあきらめる。
まあ、おじちゃん、おばちゃんのパワーにひるむ部分もあるのだろう。

結局トラブルを起こすのは、年配者だそうだ。
時間はたっぷりあるのだが、ガンコで気が短い。
だから、待たされるのはイヤだ、ということになる。
自分は許せるけれど、人は許せない。

興味深く聞いて、反省した。

ぼくはどちらかというと、あきらめる派だが、年配者がトラブルを起こすのはよくわかる。
プールでもあるからだ。
自分がいつも泳いでいるレーンで遅い人が泳いでいたら、文句を言う。
「あの人は遅いから、初心者レーンに行ってもらえ」

ぼくの行っているジムでは、直接言うことはめったにない。
たいがい、ジムの職員に言う。
一度などは、若い女性の職員が泣いていたのを見た。
散々文句を言われて、聞いていたのだろう。
そこまで言いたかったのなら、直接言えばいいのだ。

孔子は、五十にして天命を知り、六十にして何を聞いても腹が立たなくなり、七十にして心の欲するままにしても道徳を守れるようになった、という。

エライ違いではないか。
年をとれば角が出てくる人が多いみたいだ。

高齢化社会が来ている。

こんな年配者ばかりだと、エライことになるぞ。

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