考えたこと2

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終身雇用の終わり
終身雇用制度は、高度成長を支えてきた企業システム。

色々といいところはあった。
若い頃は安い給料でも、定年までいられるという安心感で働ける。
経済は成長していたから、どんどんポストができて、係長や課長になることができた。
短期で儲けなくても社員はガマンするから、長期的な投資ができた。
単身赴任も厭わず、会社のために働くことができた。

でも、もう終身雇用は終わりを迎えようとしている。
安価な労働力の地域でものが作られる。
日本から産業が流出している。

今や非正規社員が4割弱。
パートや派遣、契約社員などだ。
これが逆転するときが、終身雇用の終わりの時だろうと思う。

非正規社員が普通になる時代がくる。
経済が成長しないから、仕方がない。

振り返ってみれば、ぼくらは高度成長の恩恵を被ったと思う。
オイルショックやニクソンショックはあったが、順調に進んできた。
会社はどんどん大きくなったし、給料は増えた。

でも、これからは経済成長は見込めない。
高度成長の貯金を使いながら、みんなで生きていくというシナリオだろう。
一部の人だけが頑張って儲けないといけない。
成長分野の一つや二つはやらないと…。

そういう時代が来る。

今の50代から上の世代はそういう時代を作っていく義務があると思う。

どうやってそれを実現するかは難しいが…。


| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分の寿命
自分の寿命はいかほどか?

たいがいの人は、知りたくない方に手を上げるだろう。
人間は、寿命がわかってしまうと、そこから逆算していろんな事をし始めるから、社会自体が成り立たなくなるかもしれない。
明日死ぬとわかっている人は、何でもやれる。
やれる元気があるかどうかは別問題だが…。

日本人は貯蓄が好きだ、と言われているが、これも減るのではないか。
あと何年で死ぬ、とわかっていれば、お金を貯めても仕方がないと思うかもしれない。
逆に長生きの人は積極的にお金を貯めるかもしれないが…。
しかし、どうしたって寿命まで生きるのだから、貯めても貯めなくても一緒、ということにはならないだろうか。

比較的若くして亡くなる人が、寿命を知ると悲惨なことが起こるだろう。
やけになって、犯罪に走ったりするかもしれない。
人間が性善説か性悪説か、結論が出るかもしれない。

一方で、寿命は100歳です、などと言われる人はどうだろうか。
喜ぶ人もいるかもしれない。
おお、100まで生きられるのか、ということだ。
しかし、その人が80になって、寝たきりになったりしたら、どうなんだろうか。
あと20年もこのまま生きなければならない、などと思うのではないだろうか。

こんな下らない事を考えていたが、遺伝子の研究が進むと、寿命もわかるようになるかもしれないと思い当たり、これは大変なことだと思った。

やっぱり自分の寿命はわからない方がいいだろう。

事故死はともかく、寿命がわかってしまうと、きっと社会が成り立たなくなる。

人間はそれに耐えられるほど強くできていないだろう。


| | 考えたこと | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
いい思いつき
英語でいいアイデアを思いついた時、こういうらしい。

I have my moment.

アイデアは瞬間に現れる。
でも、それを仕込むことは必要だ。
そのために、いろんな知識や情報を詰め込む。

でも、アイデアを得るために詰め込んでいるのではない。
何か他の目的があるときもあるし、別の興味があるときもあるし、無目的に取り込んでいることもある。

何かを思いついた後、これはいい考えだと思う。
そのとき降ってわいたように出てきたような気がするが、そうではない。
脳は思いの外賢く、無意識はどれくらい考えているかわからない。

それらが結びついて、ある時ふと思いつく。

その瞬間がI have my moment.になる。

なかなかよくできた表現だと思う。


| | 考えたこと | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
演劇の可能性
平田オリザという人がいる。

講談社現代新書の著者紹介欄によると、「平田オリザ 1962年東京都生まれ。国際基督教大学在学中に劇団「青年団」結成。戯曲と演出を担当。現在大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授。2002年度から採用された、国語教科書に掲載されている平田のワークショップの方法論により、多くの子どもたちが、教室で演劇をつくるようになっている。」とある。

この人の「演劇入門」を読んだが、演劇というものがどんなものであるか、俳優がどういう風にセリフを話すのか、いい俳優とは…、というような事が書いてあった。
いい本だった。

「わかりあえないことから」という平田オリザがコミュニケーション能力について書いた本が出た、ということで、さっそく新書を買った。

この人はすごく鋭い人だと思う。

今の子どもたちの問題点を指摘して、それを解決するにはどうしたからいいか、を考えている。

「昨今、小学校の高学年、あるいは中学校になっても、単語でしか喋らない子どもが増えている。喋れないのではない。喋らないのだ。
たとえば、兄弟が多ければ「ケーキ」とだけ言ったところで、無視されるのが関の山だろう。しかし、いまは少子化で、優しいお母さんなら、子どもが「ケーキ」と言えば、すぐにケーキを出してしまう。あるいは、もっと優しいお母さんなら子どもの気持ちを察して、「ケーキ」という前にケーキを出してしまうかもしれない。
子どもに限らず、言語は、「言わなくてすむことは、言わないように変化する」という法則を持っている。「ケーキ」をどうしたいのかを聞かずにケーキを出してしまっては、子どもが単語しか喋らなくなってもしかたない。
繰り返すが、単語でしか喋れないのではない。必要がないから喋らないのだ。「喋れない」のなら能力の低下だが、「喋らない」のは意欲の低下の問題だ。」

「学校でも、優しい先生が、子どもたちの気持ちを察して指導を行う。クラスの中でも、イジメを受けるのはもちろん、する方だっていやなので、衝突を回避して、気のあった小さな仲間同士でしか喋らない、行動しない。こうして、わかりあう、察しあう、温室のようなコミュニケーションが続いていく。」

「表現とは、他者を必要とする。しかし、教室には他者はいない。」

「そういったライフスタイルの多様化の中で、たとえば、大学に入るまで、親と教員以外の大人と話したことがなかったという学生が一定数、存在するのだ。」

このスルドイ指摘の元に、この人は学校で、演劇の持つ「演じる」ことの可能性を活かして、ワークショップを開いている。

大学院ですら、こういう教育を必要とする。

この現実は、本当だ。
こういう教育が必要とされているのだろう。

そういう刺激的な事が書いてある。

平田オリザ「わかりあえないことから」。
いい本だ。

| | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生の目標
コマーシャルで女優が「輝いていたい、それが人生の目標」と言っていた。

この、人生の目標、という言葉が心に引っかかった。
人生の目標、耳慣れない言葉だ。
「人生」も「目標」もよく目にするが、「人生の目標」、と言われると、あまり目にしたことがない。

人生の目標を定めている人は、なかなかいないと思う。
人生は目標を定めるほど短くないし、単純でもない。

人生は何のためにあるのか、ということは考えたことがある。

でも、コマーシャルを見て、人生の目標とは…、考えてみた。

輝いていたい、というのはなかなかいい目標だ。
でも、男性で、輝いていたい、というのはもう一つだろう。

そう思うと、難しい。
人生を通して、どうありたいか。

まだ終わっていないから、決まらない。
でも、終わったときには言えない。

人生の目標。

面白くありたい、それが人生の目標。
楽しくありたい、それが人生の目標。

こういうのがいいか。

他に思いつかない。

人生の目標、それは難しい。

| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
サイン
小学校の何年の時だったか。
運動会でいとしこいしと会った。

こいしさんの子どもが同じ小学校に行っていたはずだ。
そのおかげで、いとこいの実物を見ることができたのだ。

当時、いとこいはレギュラーでテレビのクイズ番組の司会をやっていて、関西の人間なら知らない人はいなかった。
いとこいは兄弟で、名字はしのはらだったと思う。
同級生にしのはらという名字の人はいなかったので、学年は違ったんだろう。

でも、テレビに出ている人が目の前にいる、というのはスゴイことだった。

誰が言ったか、サインをもらおうということになった。
ちょうど昼休みの時間で、家族で弁当を食べたあと、誰が持っていたのかメモ帳のページをちぎったものを持って走って行った。

いとこいは兄弟で立って、グラウンドを見ていた。

紙を出して、サインください、と言ったかどうか…。

快くサインしてくれた。
子どもの小学校の生徒だから、あんなメモ帳の切れ端にでもサインしてくれたのかもしれない。

長いこと、その紙切れを持っていたが、いつかなくなってしまった。

あれが生まれて初めてもらったサイン。

30代のいとしこいしだった。

もちろん、ぼくは10歳以下。

| | 考えたこと | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
由紀さおり
今日は由紀さおりのライブを見に行ってきた。

サンケイブリーゼホールであったのだが、いっぱいの人だった。
「手紙」を歌ったのだが、この曲はぼくが2枚目のシングル盤を買った曲。
懐かしい。

中学2年の時。
あのきれいな声で広い音域。
低い声から高い声に変わるときの、裏返る感じが好きだった。

「手紙」のあと、「生きがい」という歌もよかった。
これもシングル盤を買った。
器用な人だと思う。

大ヒットが出るわけでもなく、消えてなくなるわけでもない。
コントなどでは便利に使われていた。
どちらかというと3枚目の役。
アイドルのお母さん役などをやっていた。
芝居もうまくて、映画にも出たことがある。
笑いのセンスがあった。

そうこうするうちに、姉と一緒に童謡を歌い始めた。
だいぶ長いこと歌っていたと思う。

今日言っていたが、姉に「もう一度歌謡曲が歌いたい」と言ったらしい。
でも、鳴かず飛ばず。
その次の年に、ブレイクした。
ジャズを歌って、イギリスで認められた。
ワールドワイドな歌手になったのだ。

今日も、オール・オブ・ミー、A列車で行こう、ス・ワンダフルなどを歌った。
「A列車で行こう」のスキャットは圧巻だった。

ぼくは由紀さおりのファンだから、よかったと思う。

ステージ上のおしゃべりも上手で、まだまだ器用だ。

「執念深く歌い続けてきたから、今日の私がある」と言っていた。

継続は力なり。

この人が売れてよかった。

| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
いん石
ロシアにいん石が落ちた。

まるで映画を見ているような画像。
Youtubeに出ている。

大きさが直径17メートルくらいらしい。
空中でいくつかに別れたので、一つ一つはもっと小さくなったのだろう。
すごいスピードで飛んでくる。

さすがに、直径17メートルのいん石は事前に見つけられないらしい。
NASAは100年に一度、と言っていた。
たしかに、1903年にもシベリアにもうちょっと大きないん石が落ちたらしい。
だいたい100年だ。
それにしても、すごい衝撃波だ。
だいぶ離れているのに、建物の扉が飛んだり、ガラスが割れたりした。
みんなが窓際に見に行った事も、被害を大きくしたらしい。
これが人が密集した所だったら、もっとすごい被害だっただろう。

恐竜が滅んだのは、これのもっと大きなものが地球に衝突したのが原因と言われている。
恐竜たちも、空をすごいスピードで飛んでくる光る物体を見上げたんだろう。
落ちたところはユカタン半島のあたりだと言われているが、それこそものすごい衝撃波だったろう。
考えるだけで、恐ろしい。

一つの文明を滅ぼすほどの衝撃だ。

もう少し大きな天体が、地球と月の間を通り抜けた。
それくらいの大きさなら、見つけることができるらしい。

おそらく、火星と木星の間にたくさんある小惑星群から飛んでくるのだろう。

恐竜が滅んだように、人類もいつか滅ぶかもしれないなあ。

| | 考えたこと | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
認知的成熟度
「思考の老化」をどう防ぐか、という和田秀樹の本を読んでいる。

この人は一時入試関係の本や勉強法の本を書いていたが、本業は精神科医で、認知心理学をやっているらしい。
認知症もやっている。
そこで、「思考の老化」という本を書いたという事になる。

その中に認知的成熟度、という言葉が出てきた。

「幼い子どもは、テレビなどで敵味方がハッキリしている勧善懲悪の「戦隊もの」が好きだが、成長するにしたがって、物足りなくなり、アニメでもドラマでも人物の心理的な葛藤まで描かれた物語に惹かれるようになる。」
これを認知的成熟度、という。

「ものごとを白か黒かのオール・オア・ナッシングでしか判断できなかったのが、成長するとともに、「白と黒との間には限りなくたくさんのグレーがある」と認められるようになる。ものごとを複雑化、複線化して考えられるようになるわけだ。」

「曖昧さに耐えたり、たくさんあるグレーを見分けたりする能力が高いことを「認知的複雑性が高い」
というが、これがすなわち認知的成熟度の高い人である。」

こういうことである。
当然、オトナになるということは、認知的成熟度を上げていくということになる。
ただ、これが年をとると衰える。

「子どもから大人になるにつれて、だんだん認知的な成熟度が上がってきたのに、また年をとるとともに認知的に退行してきて、グレーが認められないとか、決めつけないと気が済まないといった思考に戻っていく人が、実は多いのである。」

ということらしい。

たしかに、今の若い人も年寄りも、思考に余裕がない。
原発の騒ぎなど見ていると、いかに認知的成熟度が低い人が多いかよくわかる。

決めつけないと気が済まない、というのもよくわかる。
要は、曖昧さに耐えられないのだろう。

曖昧なことを曖昧なままにしておく能力、これが認知的複雑性。

ぼくも含めて、今の日本人に欠けている能力だと思う。


| | 考えたこと | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
後藤久美子
男はつらいよで、寅次郎の甥の満夫の恋人を演じたのが後藤久美子。

全部で5作出ている。
きれいな子だった。
演じたのは、親が離婚して、水商売をやっている母親の娘役。
葛飾の高校から名古屋に転校し、母親と住んでいた。
就職して、東京に出てきて、レコード店で勤める。
しかし、母親が心臓の病気で、自分がついていないとダメだとわかり、仕事を辞めて名古屋に帰る。

満夫との東京駅の別れのシーンは泣かせる。
45作目の寅次郎の青春、という作品。
これを境に、最後の作品となった48作まで後藤久美子は出ない。

1974年生まれだから、もう39歳。
F1レーサーのアレジと事実上の夫婦で、ヨーロッパに住んでいる。

外人好きでクルマ好きだったらしい。

映画ではそんな感じは全くしない。

清楚な美少女という感じ。

今は大人の女性になった。
今彼女は若い頃の映画を見て、どう思うのだろうか。

たしかに、彼女はまだ若いが、昭和の女優という感じがする。


| | 考えたこと | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
イチの意味
1という数字は難しい。

数え始める時の1は自然数の1になる。
1,2,3…と数えるときの1だ。

そして全体を表すときの1がある。
1/3とか1/4とかいうときの1は全体を1とおいて、それを3つに割ったものとか、4つに割ったものとか、そういう意味になる。

ここが算数の一つの壁だと思う。

全体を表す1がわかるか、わからないか、この使い分けが難しい。

全体を表す1がわかれば、100%が1であることがわかる。
百分率もここにつながっている。

この全体を1と表す、というのがわかりにくい。
全体が3個であっても、1で表す。
全体が5kgであっても、1で表す。
全体が2kmであっても、1で表す。

とにかく、1とする、ということだ。
このとにかく、というところが難しい。
何でもいいから、1にする。

この1と自然数の1は違う1だ、ということをちゃんと教えないといけないと思う。

そこでつまずく人が多いのではないか。

全体を1で表すという考え方は、小学校で出てくる一つの大きな発想の転換。

これが腑に落ちると、1/2や50%もわかる。

この1の二つの意味をもっとちゃんと教えないといけないと思う。

| | 考えたこと | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
そもそも
そもそもという言葉は日常ではあまり使わない。
だいたい書き言葉だ。

そもそもの「そも」は「それにしても」という意味らしい。
「そもそも」とは、「それにしても、それにしても」という意味になる。
それにしても、の強調ということか。

時々はこの「そもそも」を使わないといけない。

それにしても、それにしても、これは一体何のためにやっているのか。

そういう事を時々考えた方がいいと思う。

ともすれば、毎日やっていることを疑わず、まわりが変わっても同じようにやってしまったり、十年一日のごとく同じ事をやってしまったりする。
同じ事を続けることには意味があるが、それにも限度がある。

この時代、とても変化が早い。
いろんな人がいろんな事を言う。
どんどん状況は変わっているのだ。

そういうとき、立ち止まって、「そもそも」と考えてみる。

その習慣をつけた方がいい。





| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
銭形平次
電子書籍で銭形平次の1巻を買って読んだ。

最初は投げ銭はしていない。
いつから投げ銭を始めたのかわからないが、昔のテレビではそれが見せ場だったと思う。

平次は岡っ引きであり、奉行や与力の下にいる。
銭形平次捕物控は、通常の推理小説の短編集のような格好。
事件が起こって、平次が出て行き、解決する、という筋立て。

子分はガラッ八である。
「親分、大変だ、大変だ(てーへんだ)」という決まり文句だったと思う。

電子書籍では半七捕物帳、むっつり右門捕物帖という2つのシリーズが青空文庫で出ている。
要は、著作権が切れて、無料になった本ということだ。

これらの3つのシリーズ、暇つぶしにはちょうどいい。

小説では、半七捕物帳は回想形式で語られる。
むっつり右門捕物帖は、無口な主人公とおしゃべりな子分の組み合わせ。

時代劇というのは、現代劇と違って模写がシンプルだ。
身体でいえば、骨の部分が主体になっている。
余計な身がない分だけ、中身が濃い感じがする。

それが時代劇の良さではないか。

エンターテインメントとしての時代劇、文学作品としての時代劇など色々あるが、生活のディテールが想像できないというメリットを活かして、作品が成り立っていると思う。

時代劇ファンだ。



| | 考えたこと | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
丸坊主
丸坊主が世間を騒がしている。

AKBのメンバーが何かやらかして、丸坊主になってお詫びしたのがYoutubeで流れたらしい。
ぼくは見ていないが、若い女性が丸坊主になっている姿は話題になる。
世界40ヵ国でマスコミに取り上げられたらしい。

ほとんどの国は、若い女性が丸坊主になる、ということに対して否定的なコメントだった。
まあ、そりゃそうだろう。
ハリウッド映画でも、デミー・ムーアがGIジェーンを演じた時に丸坊主になったのを見たくらいだ。
もちろん、病気の役ではあるが…。

だから、海外では軍隊を思い浮かべる国が多いそうだ。
それを二十歳くらいのアイドルグループのメンバーが丸坊主だから、仕方ない。

今日テレビでいろいろコメントしていたが、そういう反応だろうなあと思った。

とにかく、丸坊主になったのだから、許してくれというメッセージだろう。
若い女性の丸坊主姿を見て、これ以上何も言えない、という効果を狙ったのだという人もいた。
おそらく、それが近いだろう。

女性ばかりのグループは恐い。
内部でいろいろあるのだろう。
誹謗、中傷、陰口、悪口…何でもありだろう。
お局様もいるだろうし、派閥争いもあるだろう。
それは仕方のないことだ。
そういうことに耐えられる女性しか残れない。

AKB予備軍がどれくらいいるのか、わからないが、耐えられない人はトップにはいけないだろう。

そういう仕組みを使ったアイドルグループなのだ。

それを計算したか、計算していないかはわからない。

でも、結果的にそうなんだろう。

これが日本の文化だ、と言われても仕方のない面もある。

困ったものだ。

| | 考えたこと | 14:12 | comments(2) | trackbacks(0) |
三大工業地帯
ぼくが小学校の時、ちょうど高度成長の頃だった。

工業地帯というと、京浜、中京、阪神、北九州の4つ。
四大工業地帯、というふうに習った。

平成に入って、どうも様子が変わってきた。
北九州工業地帯と言われていたところの工業生産が下がり、四大工業地帯と言えなくなってしまったらしい。
今は北九州工業地域という名前に格落ちして、三大工業地帯という呼び名になった。

ぼくが習った頃の北九州工業地帯というと、八幡製鉄所があり、筑豊炭田の石炭があって、製鉄業が盛んだった。
炭鉱は閉鎖され、だいぶ様変わりしたんだろう。
今は自動車がたくさん作られている。

昭和40年代とは日本列島もだいぶ変わったということか。

そういえば、長男の小学校の時、宿題を見ていて各地域の工業生産の表からどの工業地帯かと推定する問題があった。
ああ、こんなのあったなあ、と思ったが…。

とにかく、中京はトヨタがあるから機械が多くて、阪神は泉州があるから、繊維が多い、ということだけはわかった。

その時はそんなに思わなかったが、あれから十数年経った。
日本の工業地帯も変わる。

若者の雇用を促進するためには、産業構造の転換が必要だという。

それが起こっているのか、まだ不十分なのか…。



| | 考えたこと | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
ガソリン代
だいぶガソリン代が高くなった。

寒い地域では灯油の値上がりが厳しいのではないか。

インドや中国でクルマがたくさん売れるようになった、ということは、その地域で石油がたくさんいることになった、ということだから全体で需要は増えている。
だから、値段が上がるのは当たり前か。

今の世界の豊かさは石油で支えられている。
街のそこここでガソリンが売られている。
ガソリンスタンドの密度が、文明開化度を表すのではないか。

自動車の三大市場である、日米欧は低燃費化を進めている。
ハイブリッドとか、クリーンディーゼルとか、電気自動車とか…。
しかし、まだまだ足りない。
70億の世界の人口の6億ちょっとしか日米欧にはいない。

そのうち、ガソリン代が160円台になり、200円台になるのも時間の問題だろうなあ。

北京では深刻な大気汚染が起こっている。
前が見えないくらいのスモッグだ。
今の中国のクルマ1台あたりの人口は、35人程度。
日本が1.7人だから、日本の1/20くらいの普及率になっている。

これがいつか日本並になるのだろうか。

それまで石油はあるのだろうか。

石油がなくなれば、LPGやメタンハイドレートなどの新しいエネルギーが使われるのだろうか。

原子力で電気を作らないと、電気自動車にも乗れないという時代が来る。

資源が有限である限り、これは正しいだろう。
| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
玄関に靴が並んでいる。

こないだの日曜日は久しぶりに下宿から長男が帰ってきた。
帰ってきたといっても、テニスの全豪オープンを見るためで、ほとんどテレビを見ていた。
そして大量の録画予約をして帰った。

そういえば、今回の全豪オープンでは、ジョコビッチとバブリンカの対戦はすごかった。
結果的に5時間のゲーム。
1セットの途中で、ジョコビッチは絶対負けると思って、これはバブリンカが勝ったなあというと、まだ始まったところだから、そんなことは分からない、と言われた。
その通りになって、ジョコビッチが盛り返したが、毎度いい加減なことを言う、と言われた。
反面教師をやっているつもりなのだが…。

次男は試験があるということで、わけのわからない数式を勉強していた。
もう子どもの習っているものを見ても、全く分からなくなった。
そういう年代。

子どもも教えてくれとは言わない。
言っても仕方がないことは分かっている。

時代劇や昭和の映画を見ていると、時代背景がわからない、と言われる。
それほど昭和と平成の時代は差が大きくなった。
特にインターネット以前と以後で大きな違いがある。

世代の差は拡大している。

でも、玄関に靴が4つ並ぶのは久しぶりだった。





| | 考えたこと | 01:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
40億年後
NASAの発表によると、私たちが住む天の川銀河(ミルキーウェイ)は40億年後、隣接するアンドロメダ銀河(M31)と衝突する、ということらしい。

今の形の人類(クロマニヨン人)が生まれたのは3万年くらい前。

3万年と40億年では5桁も違う。
想像を絶する長さだ。
どれくらい長いかすらわからない。
西暦で2000年ちょっとしか経っていない。
3万年でも、西暦の15倍だ。

一度ぶつかって、離れて、また引き合ってぶつかる。
その様子がアニメーションで出ているが、衝突して一つになるまでに20億年かかるという。
アンドロメダ銀河は、時速40万キロでこちらに近づいているらしい。
ハッブル宇宙望遠鏡で観察した結果、わかったとのこと。

こういう仕事をしている人がいる。
何十億年という単位を扱う人だ。
浮き世離れをしているといえば、いえるだろう。

この種の仕事は、国が豊かでないとできない。
まあいえば、どうでもいい仕事だからだ。
40億年先にどうなろうと、知ったことではない。
明日の食べ物が心配なところでは、そんなことはできない。

だから、豊かであることはいいことだと思う。

いつまでこの豊かさが続くのか、それはわからないが…。

| | 考えたこと | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
ソーハラ
こないだある企業の営業さんと話をしたが、ここの企業ではフェイスブックを使って商品の宣伝をしているらしい。

ぼくはフェイスブックはやっていないが、それにまつわる話。
最近よく見るが「いいね」というボタンがある。
それを押すと、その記事を書いた人のところに何か行くらしい。

また、フェイスブックの友達を増やすために、記事を書いたりする。

そういうことに会社の組織が関わるとややこしいことが起こる。
フェイスブックは基本的に個人のものだ。
本名でアカウントを作る。
そこに組織の意向がある種の権力を伴って入ってくる。
そこでソーハラというものが起こるらしい。

ソーハラとは、ソーシャルネットワークハラスメントのこと。

たとえば上司から友達申請が来たら、断れないとか、上司の記事には「いいね」を押さないといけないとか、組織の記事には「いいね」を押して、友達に拡散させないといけないとか…。

そういう事が世の中では起こっているらしい。

ちょうど、フェイスブックは日本ではユーザーが減少に転じたらしい。

アメリカ生まれのフェイスブックだが、文化の違いがあるのではないか。

上司から友達申請されて、本当はイヤだけど断れない、というような国では難しいと思う。

いったん組織の上司と友達になったら、私生活のことは書きにくい。

いろいろとややこしい。

そんなことを考えるのも、年をとったからか…。


| | 考えたこと | 00:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
Coffee or Tea?
50代までコーヒーは飲めなかった。

コーヒーか紅茶かと言われると、紅茶がよかった。
今でも紅茶は好きだ。
砂糖は入れないで、ミルクはだけ。
レモンの時は砂糖を入れる。

コーヒーを飲むときには、砂糖とミルクを入れて甘くしていた。
ブラックで飲む人など、信じられなかった。

しかし、50歳くらいになって、砂糖なしで飲めるようになった。
ミルクを入れて飲む。
このミルクはやはり牛乳が望ましい。
コーヒーフレッシュというのは、今ひとつだ。

紅茶もコービーも産地によって色々とあるが、あまりわからない。

ティーバックやインスタント・コーヒーでも充分おいしい。

まあ、香りがあった方がいいとは思うが、なくても別にかまわない。

朝食は紅茶、事務所に行ったらコーヒー。

どちらも一日に一杯は飲む。

あまり中毒は増やしたくない。
せっかくタバコをやめたのに…。

| | 考えたこと | 22:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネコ
ウチの実家は父が動物嫌いだったので、ペットを飼ったことがあるといえば、手乗り文鳥だけだった。

小学校1年まで、祖母の家のすぐ隣に住んでいたが、祖母の家にはネコがいた。
トラ猫で、グレーと黒の模様。
名前は忘れた。

祖母はネコに寛容で、自由に外に行かせていた。
当時の家猫はそんな飼われ方だったのだろう。
時々帰ってこない時もあったと思う。

ご飯を食べていると、自分もほしい、とちゃぶ台に近づいてくる。
そういう時、祖母は容赦なく頭を叩いていた。

当時はキャットフードなどないから、ご飯のあまりに汁をかけて、鰹節をふりかけたものを食べていた。
がつがつとすごくおいしそうに食べていたから、これはすごい好物なのだと思っていた。

時々野生の顔で狩りをしていた。
一度スズメを捕まえるのを見たことがある。
低い姿勢で音もなく寄っていって、間合いを計って一気に飛びかかる。
あれはネコ科の動物の狩りの姿だった。
まるで虎のミニチュアだ。

ネコは飼い主に死ぬところを見せない、というが、たしかその通りだったと思う。
どこかに行ったまま帰らなかった。
ひょっとしたら、三味線の皮になったのかもしれない。

祖母は一時イヌも飼っていたが、あまりよく覚えていない。
雑種のイヌだったと思う。
そういえば、祖母はイヌにもネコと同じようなご飯を与えていたと思う。

昭和30年代のペットといえば、そんな感じだった。
スーパーにペット用品売り場などなかった。
動物病院など、どこにもなかった。
ブリーダーなどもいなかっただろうし、ペットのコンテストなど考えられなかった。

一度書いたと思うが、ネコはこたつの中が好きだった。
冬になるといつもこたつの中にいた。
ぼくがかまおうとすると、面倒くさそうな顔をした。

そういうネコの姿が好きだった。

イヌは人間の友だと思っているが、ネコは違う。
自分が上だと思っているのだろう。

そこがいい。
| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生で大切なこと
ケセラセラという歌があった。
ペギー葉山が歌っていたが、「ペギー葉山」という歌手名も平成生まれには死語だろう。

ケセラセラとはフランス語で「なるようになるだろう」という意味。
英語では"Whatever will be, will be."となる。

「コメディ=悲劇+時間」という公式がある。
そこに、このケセラセラが使える。
悲惨な状況になって、時間が経って、「ケセラセラ」と思えると、それはコメディになる。
「ケセラセラ」と思えないと、それは悲劇のままだ。
どんな悲劇的な状況になっても、「なるようになるだろう」と思えると、救われる。
だから、笑える。

つまり、自分を「ケセラセラ」と笑い飛ばせる人が救われるということだ。

悲劇的な状況といっても、他人から見ればたいしたことがないことが多い。
本人が悲劇的だと思っているだけだ。
どちらかというと、滑稽なこともある。
「そんなことで悩んでいるのか」というようなこと。
悩みは自分で考えているだけ、という事になる。
たしかに滑稽だ。

そう思うと、ケセラセラと思えるのは一つの能力かもしれない。

大事なことは、「なるようになる」と思うことだ。

それは人生を左右するくらい大切なことかもしれない。



| | 考えたこと | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターのびびり
時々ギターを弾いていると、音がびびる。
音がプワンという感じの音になるのだ。

びびる時はずっとびびるし、びびらないときは全く何ともない。
どういう時にびびるのかはよくわからない。
ずっと収まっていたが、近頃またびびりだした。

色々とやってみた。
どうやったらびびりが止まるか…。
ギターの持ち方で変わる。寝かせて持つのと、立てて持つのとではびびりの程度が違う。
ついに、ヘッド(糸巻きのついているところ)を押さえると、マシになることがわかった。

それで、今日楽器屋さんに持って行った。

ご主人がネックの裏側からコンコンとたたいていく。
コンコンという音が、真ん中へんでカンカンというような音に変わる。
なるほど、という顔でご主人がうなづいた。

ぼくのギターには、トラスロッドという長いねじがネックの中に入っている。
ネックが反ったときにねじを締めたり緩めたりして、反りをを直すためのものだ。
それが微妙に緩んでいて、カンカンという金属的な音になる。
湿度や温度の具合で、緩んだり緩まなかったりするそうだ。

今年は季節の具合で、そういうトラブルが多く持ち込まれているらしい。

結局トラスロッドを締めて直してもらった。

これで様子をみる。

おそらく直ったと思う。

やっぱり餅は餅屋。

いい楽器屋さんを知っていると得だ。

| | 考えたこと | 14:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
朱子学
シュシガク、という言葉、よく聞いたことがあると思う。

中学、高校では、「江戸幕府は朱子学を公式の学問とした」ということを習ったことがある。

一方で、江戸時代は儒学がもてはやされたとか、封建主義の元は儒学だとか、孔子が説いたのは儒教だ、というような事も聞いたことがある。
今でも韓国は儒教の国だ、という。
要は、年長者を敬い、公私では公を重んじ、挨拶や形式を重んじるというようなことだろう。

調べると、儒学と儒教の違いはあまりない。
学問的側面が儒学、宗教的側面が儒教、ということになっているらしい。

では、儒学と朱子学はどういう違いがあるのだろうか?
これは、儒学をちゃんとした学問にしたのが朱子で、その名称が朱子学、というのが一般的な理解であるようだ。
したがって、朱子学は儒学を学問にしたもの、ということになる。

一説によると、この朱子学を江戸幕府が公式な学問としていた、ということが日本が明治維新の時に自然科学を理解するのが容易だった原因、といわれている。

朱子学では理気二元論というのがある。
「宇宙は原理と運動の二つから成り、原理のことを「理」、運動のことを「気」と言う」ということらしい。
こういう理屈で宇宙、つまり自然を理解していた、ということだ。

西洋の自然科学、というのはとにかく分析する学問だ。
全てのものを極限まで分けていき、分けられなくなったところが根本だ、というような原理に基づいている。
その考えが、すっと頭に入ったのは、「理」や「気」という「分け方」を変えるだけでよかったからだろう。

アジアで、日本だけが近代化を早期に遂げたのはなぜか、という事に対して、いろいろな原因があったと思うが、これも一つの要因だったのかもしれない。

そんなことを55歳になって知った。
知った、というのは語弊があって、ネットで調べたらそう書いていた、ということだ。

世の中にはエライ人がたくさんいる。



| | 考えたこと | 01:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
キット
おそらく、この「キット」という言葉は、平成では死語だろう。
その辺の大学生に聞いても、わからないと思う。

英語の"kit"の、道具一式や用具一式という意味からきたのだと思う。
今はネット上でも、「組み立てキット」というような表現になっているようだ。

でも、ぼくらの世代には「キット」でわかる。

要は必要な部品はすべて入っていて、これを組み立てたらそれができる、というような製品。
Do it yourself、とでもいうべきか。

昔のプラモデルはそうだった。
接着剤で組み立て、場合によってはモーターや電池を入れて、シールを貼って、動かす。
昔の戦闘機やロボットなど、よく作ったものだ。

当時、キットと言っていたのは、アンプやチューナー、スピーカーもあったし、こないだ書いたが無線機などの電気製品が多かったと思う。

組み立てをせずに売れるのだから、かなり安くなった。
部品を集めて売る、ということになる。
当時、お金がない人と、簡単に商売をしたい人の利害が一致して、成り立った商売だろう。
キットを買う方も、いくら安くても、作る自信がなければ買わなかった。
当然、ハンダ付けやねじ止めなどの作業は必要になる。
ある程度のスキルがなければ、買ってもまず動かない。

今かろうじてキットらしいものが残っているのは、パソコンの組み立てキットだ。
これは基板を組み合わせて、箱に組み付けるだけなので、わりと簡単だ。

でも、キットの文化はもうなくなった。

豊かになったからだろう。

もし動かなかったら、どうしてくれる、という問題もある。

ひょっとしたら、豊かさと引きかえに失ったものの一つかもしれない。

| | 考えたこと | 01:23 | comments(0) | trackbacks(0) |