考えたこと2

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大晦日雑感
毎年、大晦日が来て、新年が来る。

またこの1年、年をとった。

毎年1歳ずつ年をとるのだが、この1年は精神的には1年以上だったと思う。
今から思えば、若い頃の1歳など年をとったうちには入らない。
目も見えなくなったし、腰も痛い。
夜はすぐ眠くなるし、パソコンの前で寝ることもある。
ちょっと前なら考えられない。

ぼちぼち考え方を変えないといけないのだろう。
わかってはいるが、もう若くない。
来年は考えないといけない。

来年の目標。

1.本を読みたい。
2.ギターを頑張りたい。
3.要らないものを捨てたい。
4.痩せたい。

1はここ数年クルマで通勤するようになって、思ったこと。
アマゾンで買ったり、ブックオフで買ったりして、読んでない本がたまってしまった。
いつか読もうと思って、まだ読めていない。
これを来年は読みたい。

2は練習不足。
家に帰って、疲れて寝るだけ。
ギターに対する思い入れが足りなくなった。
でも、本当にうまくなりたいと思う。
だから、練習しよう。

3はもうぼちぼち要らないものを捨てる時期だと思うから。
いろんなガラクタがある。
もう諦めて捨てる時期だ。
身軽になっておきたい。

4は健康上の理由。
これは一朝一夕にはできない。
継続的な努力が必要だ。

今年もあと1時間ほど。
そんなことを考えるのは人間だけだが…。

テレビでは紅白でAKB48が歌っている。
たくさんいるが、マイクは何本くらい使っているのだろう。
ワイヤレスばかりだが、赤外線も使っているのだろうか。
それとも、何本かはダミーなのだろうか。
さすがに110本も使えないと思うのだが…。

まあ、そんなことはどうでもいいか。

ということで、良いお年を。

| | 考えたこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
年末の恒例
今日は毎年恒例となった大学の同級生で集まる日。
集まると言っても、たった3人だが…。

いつものように梅田のサウナに集合し、サウナで汗を流して、炉端焼き屋に行った。
去年はカキを食べてあたったので、今年は生物は食べなかった。

しかし、みんなもう歳だ。
もうすぐ定年。
あと2年足らずというところ。

一人は10月に肺炎になり、まだ治らない。
もう一人は前立腺炎で、調子が悪いとのこと。
どちらも東京で働いている。
そのうち一人は単身赴任。
だんだんと病気自慢が得意になってくる。

しかし、彼らと話していると面白い。

もう学校を出て35年。
それでも、昨日会ったように話せる。

あと何年集まれるだろうか。

そういう年になった。


| | 考えたこと | 01:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
ルンバ
ルンバというと、掃除機ロボットの名前。
音楽のリズムではない。
アメリカのiRobot社が作っている。

ちょっと前まで家電というと日本のお家芸だった。
掃除機もたくさんの種類が出ていた。
しかし、日本ではロボットというと鉄腕アトムが想像され、ルンバのような非人型ロボットはあまり考えられなかった。
日本の家の構造もあって、掃除をロボットでやるということはあまり実用的ではなかった。

しかし、少子高齢化が進んできて、状況が変わってきた。
フローリングが増え、バリアフリー化も進み、高齢者が増え、家の中が空いて、掃除ロボットの時代を迎えた。

今でこそ日本製の掃除ロボットもだいぶ増えたが、ルンバの牙城は崩せない。
シェアは7割超。
東芝とシャープが追いかけるが、なかなか追いつかない。
日本らしく、カメラを使って部屋の大きさを見たり、喋ったりするのだが、なかなか勝てないようだ。

この分野、パナソニック、日立、三菱が未参入。
なぜ日本のメーカーが掃除ロボットを発売しない(発売しなかった)のか、理由を分析したサイトがあった。

この記事によると…

「国内家電メーカーがお掃除ロボットを発売しない原因は「過剰なリスク回避」にあると分析しています。パナソニックの担当者は「技術はある」としながらも「100%の安全性を確保できない」ことが商品化しない理由だと説明しています。具体的な事例として「仏壇にぶつかりロウソクを倒して火事になる」「階段から落下して下にいる人に当たる」「赤ちゃんの歩行を邪魔して転倒させる」などのリスクが挙げられており…」

と書かれている。

実際、まだまだ掃除機全体におけるロボット型のシェアは低い。
3〜4%というところ。
しかし、伸び率は大きい。
月によっては前年同月比200%を超えた時もある。
将来、掃除機の高付加価値化を考えると、ルンバのようなロボット型が日本製の主流になる時代が来ると思う。

本当にルンバはよく出来ている。
もちろん、家も変わらないといけないのだが…。


| | 考えたこと | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
アルバイト先にだけは就職したくない
大学生たちに「アルバイトをしているか?」と聞くと、8割ほどが「している」という。
重ねて、「アルバイト先に就職することも考えているか?」と聞くと、全員が迷いなく手を下げる。
これに関しては本当に迷いがない。
普段はあまりはっきりした意思表示をしない彼らが、この場合は明確に意思表示する。
能動的に挙げた手を下げるのだ。

これはどういうことか。
アルバイト先のことは、店長など正社員に聞いてわかっているからだと思っていた。
どこでも正社員はシンドイ。
だいたいは、外食や流通小売関係。
どこに行っても正社員はシンドイということを知らないから、バイト先に就職したくなくなる。

でも、最近どうもそうではないような気がしてきた。
彼らの「ここでは働きたくない」という気持ちがあまりにも強いからだ。
単に「実情がわかっているから、やめておこう」という感じではない。

たいがいの学生は、「なぜイヤなのか」と聞くと「とにかくバイト先だけはイヤ」と答えることが多い。
この言葉にはその業界というよりも、「バイト先」そのものを嫌っている、というニュアンスがある。
時には彼らの言葉には「バイトをさせられている」という感じすらある。
自分で選んでバイトをしているにも関わらず、だ。

バイトにも選考があって、もっと他のバイトをしたかったが、そこでしかできなかった、ということもあるかもしれない。
それでも、途中で変わることもできたはずだ。
実際、積極的にいくつものアルバイトをする学生もいる。
仕事を体験してみたい、という学生だ。
そういう数少ない学生は、アルバイトというものを肯定的にとらえている。
しかし、積極的に手を下げる彼らは、アルバイトを自分で選んでおいて、そこだけは就職したくない、という非常にネガティブな気持ちを持っている。

今の日本の外食・流通業界は、コンビニ等のIT武装した業界が出てきて、価格を下げないと生き残れない、という状況だろう。
離職率も高い。

大学生のアルバイトは業界にとって格好の労働力になる。
IT化がそれを加速した面もある。
レジスター、バーコードリーダー、無線端末など、スキルを磨かなくても仕事ができるようになってきた。
90年代にインターネットが発達し、2000年代になってそれが端末にも展開され、大学生でも出来る仕事が増えた。
時はちょうどデフレで、価格を下げる圧力が働いたはずだ。

学部だけで220万人いる大学生。
店によっては店長以外みんなバイトやパートというところもある。
普段はバイトやパートしかおらず、店長が時々来るという店すらある。
何か起こったらどうするのか、と心配になる。

結局は大学生を安価な労働力としてとみているからだろう。
だから、彼らもそういうふうに扱われるのは不本意だし、「そんなところで働きたくない」と思う。
しかし、こんなことを続けていて良いのだろうか。
こんな状態だから、冷蔵庫の中に入って写真を撮り、インターネットにアップするバイトが出たりするのではないだろうか。

ぜひともバイト先に就職したい、この会社はいい会社だ、などと思う仕事をさせないでいいのだろうか。
彼らの最初の就業体験を、ネガティブなものにしていいのだろうか。

日本の就業者数は6366万人。
大学生の7割がアルバイトをしているとして、150万人ほど。
人数はしれているが、彼らの将来は長い。
これからの日本を支えないといけない労働力だ。
彼らを使い捨ての安価な労働力としてだけ見ていて、本当にいいのだろうか。

ヨクナイと思う。

| | 考えたこと | 21:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホンダNWGN
ホンダのNWGN(Nワゴン)が発売された。
これで、ホンダの軽のモデルは出揃ったことになる。

NBOX、NBOX+、NONEときて、NWGNで締めくくり。
日本の軽自動車の販売台数は過去最高だった2006年を抜いて、過去最高になるのは確実。
NBOXを発売した時、ホンダの社長が「国内の工場の稼働率を上げて、雇用を維持する」ということを言っていた。
ホンダの選択は正しかったと思う。
国内の工場の稼働率を上げるためには、軽自動車の充実を図らないと生き残れない。
これらNシリーズのおかげで、ホンダの軽比率は4割。
国内販売と同じになった。

軽自動車は日本では「とりあえずの乗り物」だったと思う。
本当は大きな車がほしいが、とりあえず、軽自動車でガマンするということだ。
でも、それは過去のこと。
積極的に軽自動車がほしい、という人が増えている。
だから、国内の販売比率で4割を超えたのだろう。
たしかに、クルマのカリスマ性は若い人の間では過去のものになりつつあるし、嗜好品から耐久消費財の色彩が強くなっている。
結局、近くのスーパーに買い物に行ったり、近所をウロウロするのは軽自動車で十分なのだ。
少子化や高齢化もこの市場を作っている。
もちろん、環境に優しいとか、ガソリン代の高騰とか、維持費が安いとか、その他の要因もあるが…。

昔は排気量が360ccだったが、今は660ccまで増えたし、性能は飛躍的に上がった。
というか、値段を上げて、性能や装備を上げた。
軽自動車は「とりあえずの乗り物」から「小さい普通のクルマ」になった。

NWGNはダイハツタントやスズキワゴンRの対抗だろう。
ホームページを見る限り、とても軽とは思えない。
装備も大きなクルマとそんなに変わらない。
もちろん、値段もそれなりだが…。

軽自動車というジャンル、日本がプラットフォームを作った。
ひょっとしたら、アジアではこのプラットフォームが支持されるかもしれない。
時代はどんどんエコになっている。
排気量が小さくて、軽い車は燃費がいい。

ガソリン代がそのうち180円になり、200円になるかもしれない。

そんな時に、こういうクルマが必要になる。


| | 考えたこと | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
男子フィギュア
今回の男子フィギュアスケートの五輪代表は興味深かった。

事前の選考規準は「全日本優勝者以外は、GPファイナル最上位メダリストや世界ランク、シーズンベストなどを総合的に判断する」ということだったらしい。
テレビを見ていたが、羽生は順当に優勝、故障の?橋がフリーでどこまでいけるか、という感じだった。

結局高橋は故障が響いたのか、ジャンプで転倒して、フリーも得点は低かった。
?橋は5位。上には羽生、町田、小塚、織田がいた。

五輪代表は、全日本1位、2位の羽生、町田は決まった。
3人目は、アメリカ式なら小塚が行くところなのだろうが、「総合的な判断」で?橋を代表に選んだ。
まあ、実績では?橋に行ってほしいところだし、個人的にも?橋のファンなので彼が代表になるのはうれしいのだが…。

こういうことは日本ではよくある。
マラソンの選考会でもあった。
この大会での1位〜3位で決める、というふうにはならない。

逆にアメリカなどは番狂わせで代表になった、ということがある。
当然代表になるべき人が、その日調子が悪いと出られない。

「総合的な判断」がフェアではない、と思う人が多いからそういう方式になるのだろう。
たしかに、実績や実力を考慮する、というのは不透明だ。
その場の勝負に徹してもいいのだろう。
どちらにしても、五輪代表になったら、きっとそれなりに頑張るはずだと思う。

ぼくは小塚、織田の顔を見ていると、頼りないと思う。
それに比べて?橋の顔は故障とはいえ、治ったら勝ちそうな顔だった。
羽生、町田もまだいい顔をしていた。

小塚、織田の表情には、喜怒哀楽があまり出ない。
そういう風に訓練しているのか、それとも本人は表しているつもりだが、表に出ないのか、それとも、ぼくの感じ方がおかしいのか…。

こういう印象の点は絶対にあると思う。
今回小塚や織田が、闘志を表情に表してスケートしていたらどうなっていただろうか。
やっぱり、変わらなかっただろうか。

日本人には、感情を表情に表さないという美学があると思う。

しかし、時には闘志を顔に表すのも必要だろう。
?橋はフリーの演技が終わった後、本当に悔しそうな顔をしていた。

ひいき目かもしれないが、そういう表情の彼に五輪に行かせてやりたいと思う。

| | 考えたこと | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
クリスマスの約束2013
今年もクリスマスの夜に小田和正の番組を見た。

このところ、大物のゲストが出てくるのだが、今年はなんと吉田拓郎が出てきた。
吉田拓郎というと、日本のフォークの元祖という感じ。
小田和正より一つ年上とのこと。

拓郎は1946年生まれだから、もう67歳か。
2003年に肺がんの手術を受けてから、あまり見ていない。
でも元気そうだ。まだ現役だった。

「落陽」は懐かしかった。
カラオケでよく歌った。
「人生を語らず」も聞いたことはある。
「今日までそして明日から」は流行ったなあ。

拓郎が、オフコースは嫌いだが、小田は好きだと言っていた。
確かに、拓郎とは相容れない感じだ。

でも、売れていない頃から、小田は生意気だったという。
そうだろうなあ。
小田の歌も曲も好きだが、個人的には付きあいたくないタイプだ。

拓郎は最近になって、音楽を楽しめるようになった、という。
若い頃は音楽は二の次で、モテるためにやっていたと言っていた。
それは本当かもしれない。

拓郎というと、濃いイメージだったが、今日はつきものが落ちたようにあっさりした顔だった。
なんか年をとって良くなったと思う。

しかし、56歳になって、吉田拓郎と小田和正のデュエットを見られるとは思わなかった。

| | 考えたこと | 01:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
国際ビジネスマンに必要なもの
日経関連のサイトはよく見るが、我が意を得たり、という記事があった。

「日本人に欠けるのは英語力より「現代国語力」」という記事だ。

ずっと若い頃、オーストラリアに出張した。
そこではクレームがあり、現地の人と会議をしたのだが、英語で何を言っているのかがよくわかる人と、全くわからない人がいた。
よくわかる人の英語も、全くわからない人の英語も、そんなに違いはない。
というのは、普通に会話をするとわかるし、通じるからだ。
会議でややこしいことを話そうとすると、わかったりわからなかったりする。
不思議だなあ、と思っていた。
こちらが悪いと思っていたからだ。

ところが、現地の日本人管理者と話をしたら、ハタとわかった。
彼が言うには、「ちゃんと論理的に話せるやつの英語はわかるんですよ。断片的にわかっても、ちゃんとスジが通っているから、類推できる。でも、元々あっちに行ったり、こっちに行ったりする人の英語は、いくらわかりやすい英語でもなかなかわからない。彼らに聞いても、あいつの言っていることはわかりにくい、という。結局、ちゃんと話せるかどうかは、まずは話を論理的に組み立てられるかというところで決まるんです。」とのこと。

そう思ってみると、たしかに世間話ならわかるのに、ややこしい話をするとわからないヤツは何となく論理的に話していないような気がする。

それが「現代国語力」と記事で言っているもの。

英語だけではダメなのだ。
ある程度の英語ができることは必要条件になるが、それだけでは不十分。
論理的に聞き、論理的に話す力がないと、コミュニケーションができるとは言えない。

この記事では「英語力以上に現代国語力を必死で向上させないと、グローバルなビジネスでは通用しない。英語力は時間と労力をかけただけ、比例的に能力が向上するだろう、現代国語力は、粘り強く勉強し、長い踊り場を経て、徐々に能力が向上するプラトー型の学習曲線を描く。」と書かれている。

ここで言われている「現代国語力」は「論理コミュニケーション力」と言い換えてもいいと思う。

複雑な問題を、複数の事実と意見に切り分け、その構成図を作る力と言ってもいい。

それがなければ、そもそも英語ができても国際ビジネスマンにはなれないと思う。

そういう訓練を残念ながら日本では系統だってしていない。
大事だと思うのだが…。




| | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
下宿
昭和50年の夏ごろから昭和54年3月まで、下宿をした。
最初の下宿には半年いて、次の年の春に学校の近くに変わった。

3年過ごした下宿は、四畳半のトイレ共用のところだった。
もちろん風呂は銭湯だ。
玄関は共用で下駄箱は一応あったかもしれないが、下宿生の持っている靴は1足だけが普通だった。
押入れと畳4枚半、家賃9000円だったと思う。

あれから35年。
世の中は変わった。
今はほとんどがワンルーム、バス・トイレ・エアコン・インターネット付きという感じ。
フローリングのところが多い。
鍵も集中ドアロックで知らない人は入れない。

日本人の暮らしが変わったのだろう。
豊かになった。

夏は今ほど暑くなかったが、エアコンなどなく、窓を開けて寝るしかなかった。
冬はこたつが唯一の暖房機で、厚着をして入っていた。
でも、昔が貧しかったわけではない。
今ほど豊かでなかっただけだ。

下宿していた3年半は、とにかく楽しかった。

褒められた生活をしていたとは言わない。
どちらかと言うと、アウトローの生活に近かった。

しかし、ただただ友人と話すのが楽しかった。

今さら若い頃に戻りたいとは思わないが、あの3年間は別だ。
もっと勉強しておけばよかったという後悔や、もっと本を読んでおけばよかったという後悔はある。

しかし、あの楽しさはそんなものに代えられない。

そんな時代だった。



| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
動物の言葉
動物心理学でもまだ可能になっていないのは、動物が何を考えているかを理解することだと思う。

手っ取り早いのは、動物が話していることを理解することだが、これも難しい。
イヌ語については、おもちゃの会社が翻訳機を作っていたが、ある程度はわかると思う。
誤って足を踏んだりすると、高い声で「キャン」と泣く。
そんなふうに解析していけば、「痛い」とか「腹が減った」くらいはわかるようになる。

しかし、動物が心のなかで考えることはなかなかわからない、という気もする。

それはそうなのだが、「心のなかで考える」ことと、「言葉」は違うのだろうか。
人間の場合は、心で考えるときも言葉を使っている。
よく「言葉で表せない気持ち」と言うが、それは「言葉で表せない」という内容の気持ちであって、その気持に名前をつけることができない、ということだろう。
だから、「言葉で表わせない気持ち」は、当人すらわからないということだ。

つまり、発する言葉が、心のなかで考えていることほぼ同じということになる。
ほぼ同じ、というのは発しなかった言葉は「考えたけど言わなかった言葉」であり、それはやっぱり言葉になるからだ。
それ以外の気持ちは、当人すらわかっていない。
人間は、言葉を作って、気持ちの幅も広げてきたのだろう。
「うれしい」「かなしい」などのいろんな気持ちを表す言葉ができて、その「気持ち」に名前がついて、はじめてそれを表せるようになった、ということだ。

よく考えると、人類の歴史は新しい言葉を付け加えることによってなされてきた。
ガリレオが今から400年ほど前に望遠鏡を宇宙に向けてから、宇宙のことが分かり始め、それが言葉になった。
当時はごく一部のエライ人だけの言葉だったが、だんだんと広がり、今では多くの人が「太陽系」だとか、「惑星」などの言葉を知っている。

話がそれた。
つまり、動物の言葉がわからないと、動物の心はわからないということだ。
きっとそうだと思う。

ということは、イヌならイヌ語を、ネコならネコ語を理解しないとイケナイ。

結局は最初に戻って、動物が何を考えているのかを理解するためには、動物の言葉を理解しないといけない、いうことだ。

やっぱり難しい。




| | 考えたこと | 19:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
大地震
国のシミュレーションによると、首都圏直下型地震の被害額が95億円とのこと。

関西の南海トラフ地震は範囲が広く被害額の想定が220兆というものもある。

亡くなる人の数も想定によって異なるが、万単位の人が死ぬ。
もちろん、想定される津波の被害も大きく、早く避難したら死者の数は減るのだが…。

時代が進歩し、いろんなインフラが整備された。
高速道路や鉄道、水道、ガス、電気、電話など、時間をかけて生活が便利になった。
それを一気に失うのだから、被害額は大きくなるだろう。
今回は想定外がないような想定だったようだから、地震もマグニチュード9らしい。
どんな揺れか、想像もできない。

しかし、こんな予測をみると、阪神大震災の時を思い出す。
あの時の思いは「自然には勝てない」という諦めみたいなものだった。
「生きているだけでよかった」とも思った。
鴨長明の方丈記の世界だ。

いくらでも想定はできる。

そして、対策も進めればいいと思う。

でも、所詮人間は自然には勝てない。

もともと一つの大陸だったものが5つに分かれ、分かれたアジア大陸から分かれて日本ができた。
小松左京が書いた「日本沈没」も確実に起きる未来だと思う。

ただ、その時間が長すぎて、想像ができない。

どれくらいの時間が、首都直下型地震や南海トラフ地震が起こるまでに残されているのだろう。
それがわからない。
それがわからないから、そんなニュースを見ても、何となく大変だとも思わない。
真剣になれないのだ。

地震が確実に来ることはわかっている。
でも、対策をいつとればいいかがわからない。

難しい問題だ。

| | 考えたこと | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
おおかみこどもの雨と雪
金曜ロードショーを見た。

オオカミ男のこども二人を育てる母親のストーリー。
不幸にもオオカミ男は亡くなってしまった。

子供が未来を選択するのは難しい。
ましてそれが人間として生きるか、オオカミとして生きるかという選択になるとなおさらだ。
小さい頃に十分オオカミとしてふるまう姉は、学校に入り、人間として生きることを選ぶ。
弟は逆だ。
小さい頃にオオカミには違和感を感じていたが、人間の年で10歳になって、オオカミとして生きることを選んだ。

豪雨の日に10歳になった弟は家を出る。

10歳はオオカミとしてはオトナだが、人間としてはこどもだ。
母親としてはまだまだ保護して育てたい。
しかし、人間の母親には限りがある。
オオカミの作法は教えられない。

彼はオオカミになって、山に入る。

豪雨のあと、晴天になる。
そして、日の出とともに彼の遠吠えが聞こえる。

そして母は悟る。
これでよかったのだ。

おおかみこどもの姉弟は、一人は母の道を選び、一人は父の道を選んだ。

親離れ、子離れの物語だ。

母は一人、今も山で暮らす。

きっと母は亡くなったオオカミ夫に語りかけているのだろう。

「これでよかった…」

そんな映画だった。






| | 考えたこと | 01:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
クリスマス
もうすぐ来るクリスマス。

今年は街がクリスマスという感じがしない。
なぜだろうか。
自分がバタバタしており、そういう余裕がないからだろうか。
それとも街がクリスマスという感じになっていないのだろうか。

アベノミクスで景気は上向きだという。
それなら、クリスマス商戦をあてこんで、店はクリスマスという感じになっているはずだ。
ひょっとしたら、なっているのかもしれない。
そういえば、盛り場に行っていないような気がする。

仕事と家の往復だけ。
これでは毎日が早いはずだ。

今年のクリスマスは何となく忙しい。
特に何があるわけでもないのだが…。
精神的に忙しいのだ。

それでも、クリスマスは来る。

そうして、お正月になる。

こんな日々を35年送ってきた。


| | 考えたこと | 01:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
文化部の衰退
以前、ジブリの「コクリコ坂から」を見た時に、あの当時の高校の文化部がたくさんあったのが描かれていて感心した。
あれは宮?駿の青春時代を描いたものと言われている。

男子の主人公は新聞部だったし、そのまわりにたくさんの文化部員がいた。
哲学部や物理部、化学部、弁論部、数学部など、白衣を着た学生(もちろん、実験着だ)も作品の中に出てきた。
この映画の時代は1963年とされている。
ぼくは1957年生まれだから、ぼくが小学校に入った頃の時代の高校生が描かれているということだ。

たしかに、ぼくが中学に入った時には、中学に物象部というのがあった。
物理現象部の略だったんだろうか。
部活の実体はアマチュア無線を趣味としてやっているという生徒が集まっていた。
その当時、指導する先生も名前だけで、部活がちゃんと学校にコントロールされているという印象はなかった。
このあたりに文化部がその後衰退していった原因があるのだろう。

たしかに、その当時やっていた「青春とは何だ」という番組では高校生が描かれ、たしかハイネの詩集が出てきたりしていた。
当時の女子高校生は、ハイネの詩集を読む、ということになっていたのかもしれない。
今のように義務教育を済ませたらほとんどの学生が高校に行く、という時代ではなくたくさんの生徒が中卒でも働いていた時代だ。

1960年代中盤の高校生というのは、戦争が終わってから生まれた。
後日歌われる、「戦争を知らない子どもたち」である。

俗にいう団塊の世代になるのだが、彼らの高校時代というのは文化部も盛んだったと言えるだろう。
ぼくの高校時代は1973年〜だが、新聞部はなかったと記憶している。
ただ、いろんなクラブの部室が入っているクラブハウスという建物があったが、そこには文化部も多かった。

その頃に比べると、文化部の数は減ったと思う。
結果的に、文化部の生徒数は減り、指導できる先生も減り、文化部は衰退の道をたどっている。

文化部の衰退は何を招いたか。
物事を批判的に見たり、議論したり、難しいことを背伸びしてやってみたりする生徒が減ったのではないかと思う。
コクリコ坂に出てくる2人の男子生徒のような生徒は、宮?駿の理想が入っていると思うが、そこそこいたような気がする。
それが後日の学園紛争などを引き起こした原因かもしれないが…。

でも、運動部一辺倒になってはイケナイと思う。

文化部の衰退は教養の衰退をも招いたのではないか。
だれか、調べてみてほしい。

| | 考えたこと | 00:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
フルスペックゆとり
今年の3回生は小学校の高学年からゆとり教育を受けている。
今後数年間かけて、大学の入学生は俗にいう「フルスペックゆとり」になってくる。

ゆとり教育そのもののコンセプトはやってみる価値があったかもしれない。
しかし、現場が対応できなかったのだと思う。
その結果、ゆとり教育は失敗した。

そもそも、現場が対応できるかどうかを判断して、文科省に「できない」と言う先生がいなかったのが不思議だ。
そして、このままゆとり教育を続けたら、初等教育がむちゃくちゃになるぞ、という警告をする先生がいなかったのも不思議だ。
いや、いたのかもしれないが…。

そしてフルスペックゆとりの大学生が入ってくる。

今の大学生もフルスペックに近いのに、さらにゆとりになる。

文化大革命が起きて、たくさんのインテリたちが勉強できず、いろんなところに飛ばされた。
その影響は80年代の終わりになっても、まだまだあった。
文革の頃に青年時代を過ごした人たちは気の毒だ。

それと同じことが静かに日本で起こっている。

文化大革命は毛沢東が元凶だ。

しかし、ゆとりは文科省の役人が計画し、多くの先生が片棒を担いだ。
誰が悪いかもわからない。

きっとこんなことをしていたら、エライことになるぞ、といった人もいただろう。
しかし、もうやってしまった。

多くの犠牲者たちがいる。

悪いのは彼らではない。

オトナが何とかしないといけないのだが…。

| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
メモがとれない
メモがとれない人が増えているという。

どちらかというと、若い人に多いらしい。
ネットで見ると、若い人がメモがとれないと言って嘆いている人が多いような気がする。
メモをとれというのに、とらないとか、何度も聞いているのに、とらないとか、そんな感じだ。

でも、この問題の本質は「メモをとる」というスキルが身についていない、ということだと思う。
そういうスキルを身につけないまま、社会に出る人が増えているのだろう。

メモをとるためには問題意識が必要だ。

問題意識というのは、あるテーマについて話を聞いた時に、それをどう聞くかということだと思う。
なぜ、こんなことを話しているのか、話し手の言いたいことは何なのかなどを考えながら聞く。
そういうふうにしてメモはとられるのだと思う。
だから、何も考えてないと、当然メモはとれない。

普通、何かを積極的に聞く時にはそういうふうに聞いているものだ。

これはものを読む時も同じこと。
大事なところに線を引くのと、メモをとるのは同じようなものだ。

問題意識を持つ、というスキルはどうやって養ってきたのだろうか。
それは、授業のノートをとるというところからだろうと思う。
最初は興味があるかないか、わからないことを聞く。
聞いているうちに興味を持つかどうかは、先生の腕のみせどころだ。

そして板書を写す。
板書を書いた時に、先生が言っていることをついでに書く。
このあたりがメモをとることの第一歩だと思う。

最初の一歩は、あくまで問題意識、つまり話に興味を持つことだ。
学校の授業を通じて、たとえ興味があまりないことでも、考えながら聞くという訓練をしているのだろう。
そんなことを通じて、メモをとるスキルが養われるのだと思う。

メモがとれないということは、そのスキルがない若い人が増えているということだろう。

最近はプリントをくれ、という生徒が増えているという。
授業のプリントである。
何を言うかが書いてあるものだ。
すでに授業の要点をまとめたものを配布する授業が増えているのだろう。

昔に比べて、どれくらい先生が親切になったかはわからない。
でも、そういう授業が増えると、メモをとる訓練ができなくなる。

もう一つは問題意識そのものだろう。

小学校でつまづいた算数や、中学校でつまづいた英語がずっとつまづいたままの大学生がたくさんいる。
彼らはその後の授業をどう受けてきたのか。
全くわからない授業をどう聞いてきたのか。
問題意識を持ちたくても持てない授業をずっと聞いてきたのではないか。

これではメモをとれなくても、しかたない。

我々オトナが悪いのだ。


| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
気の緩み
父がなくなった時、葬式でお経を読んでもらった寺に四十九日の読経を頼んだ。
住職はもう80近かっただろう。
それでも、バイクで通っていた。
民生委員の元締めみたいな事もやっていると言っていた。

四十九日の日はわりと長いお経だった。

浄土真宗の西本願寺派という宗派。
この宗派は読経のあと、説教をすることになっているらしい。

その日は何の話をしたのか、忘れた。
しかし、説教が終わって、お茶を飲みながら世間話になった時に「うちも娘二人に婿を取って、寺を継がせるつもりなんやが、どうも頼りなくて、わしが死んだらどうなるのか、心配になる」と言った。

坊主が「自分の死後が心配だ」というようなことを言われると、俗世間の我々は困る。

「はあ…」とは言ったものの、その場にいた親族一同が困ったような反応だったので、住職はそそくさと帰っていった。

帰ったあと、親族一同「あれはないで」という話になった。
いくらなんでも、坊主が言っていいことと悪いことがある。

当時会社に、お寺の次男坊がいたので、その人をつかまえて、こんなことがあった、と話をすると、「それは言うたらあかんなあ」とのこと。

「よっぽど気が緩んだんやろなあ」

なるほど、そうかもしれない。

しかし、仮にも死後の浄土に導く導師という職業の人が、「自分の死後が心配だ」はないだろう。
気が緩むどころの話ではない。
職業意識の問題だ。

もちろん、その時以来そのお寺とは関係がない。

あの住職、まだ存命だろうか…。


| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
2年で引退
今日は次男のスゥイングの定期演奏会に行ってきた。
ジャズのビッグバンドはいい。
若い人たちが頑張っているのを見るのは楽しい。
本当にやりたいことを楽しんでやっている。
そういう姿が見られるのは、大学のクラブ活動だ。

しかし、今の大学生は4年間クラブ活動をやることができない
たいがいのクラブは2年で引退する。
次男のところも同じだ。今日が2年目の演奏会。早い引退になる。

ぼくは落語をやっていた。
昭和50年4月から54年3月の4年間。
ぼくらの頃は引退は4年の秋だった。
年に2回の寄席があり、1回生の春の寄席に出て、4回生の秋まで8回の寄席に出た。
もしも2回生で引退していたら、落語はあまりうまくならなかっただろう。
別にプロになるわけでもないし、うまくならないといけないわけではないのだが、しかし、やるからにはうまくなりたい。
なんでも、一人前になるためには最低3年はかかる。
もちろん、たった3年ではダメなのもわかっているが、アマチュアでやりました、と言えるだけの技能をつけようと思うと、やっぱり3年だ。

だから、2年で引退は気の毒だ。
せっかくやったのなら、続けたらいいのに…、と思う。

しかし、3回生になったら就活があるから、2年で引退するのだろう。

就活のために2年で引退というのは本当にもったいない。
みんな楽しそうにやっていた。
大学から始めたという学生もいた。
トロンボーンやベースを始めて、たった2年で引退しなければならない。

その意味では来年の3回生から、就活開始は春休みになるというのはいいことだ。
せめて3年はやらせてあげたい。

2年で引退は気の毒だ。

これも就活の弊害。

| | 考えたこと | 01:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
就活生はつらい
就職関係のニュース。産経ニュースから。

「1日にオープンした『リクナビ2015』の掲載状況を見ると、社数は9237社と前年プラス26%となり、特に従業員数千人未満の中堅・中小企業の掲載数の増加が目立っています。リーマン・ショック(平成20年)前には95万人にも上っていた大卒者向けの求人数はこの5年で43%も減少。特に数を減らしたのが、大卒向け求人の7割超を占める中堅・中小企業でした。そこにようやく反転の兆しが見えてきたわけで、これは学生の皆さんにとって非常に明るいニュースだと言えましょう。
 一方で、企業の採用基準は決して緩和されてはいません。採用担当者を対象にしたアンケートでは「たとえ採用人数に満たなくても採用基準は緩めない」とする企業が5割を超えました。これは大手と中堅・中小に共通した傾向です。つまり、企業は規模によらず、「レベルを下げてまで採用人数を満たすことはしない」としており、たとえ求人数が増えたとしても決して気の抜けない状況であることが分かります。」

ようやく景気が上向きで、リーマンショックの傷も癒えてきたようだ。
景気が良くなると、仕事が増える。仕事が増えると、人手がいる。だから新卒求人も増える。
これはGood news。
しかし、採用基準は緩まない。
だから、10人の求人をしていても、5人しか採用試験に通らなければ5人でガマンする。

求人倍率という数字があるが、今はだいたい1.2くらい。
これは1人の求職者に対して、1.2人の求人がある、ということ。
これは求人数と求職者数の比で表される。
この数字は、「求人数は絶対必要で取らなければならない人数」である時に正しい数字になる。
ところが、今はどちらかというと人が余っている状態であり(特に中高年)、ムリをしてまでとらないという会社がほとんどというのが、上で言っていることだ。
だから、実際には新卒の求人倍率は1を切っているのだと思う。

そして、就活生はエントリーシートというのを書かされる。
説明会のあとに書きなさいと言われる場合もあるし、Webでダウンロードして書く場合や、直接Webで書き込む場合もある。
これはその人の「人となり」を表すもので、面接試験の際に参考にするものだ。
これで書類選考する場合もある。
これについては別途また書く。

そして採用試験だが、SPIという筆記試験がある。
これで足切りをする会社も多い。
実際にSPIでなくても、それに類した筆記試験をやっている。
リクルートが開発した試験で、一番厳しいのはWebテストというやつだ。
これは問題がサーバーにストックされていて、出した問題に正解するかどうかで次の問題の難易度が変化する。
一人ずつ解答によって問題数も変わるし、よく出来たからといって成績が良いとも限らない。
おまけに、Webだから、全体を見て得意なところからやる、ということもできない。
クイズタイムショックのように、時間制限もある。
実際、これは初めてやると面食らう、厳しい試験だ。

筆記試験は受けた人の数と、その出来で決まる。
足切りで何点とらないと先に進めないという場合もある。

ただ、試験といっても、算数と国語がメイン。
算数は小学校、中学校だ。
濃度とか、鶴亀算とか、年齢算とか…。
定価と売価と原価の問題もある。
驚くべきことだが、割合など、小学校4年程度の算数ができない人もいる。
国語は四文字熟語とか熟語の意味とかを問う試験が多い。

最初に筆記で落とされる場合もあるし、面接を経て筆記試験が間に入るという場合もある。

いきなり面接がある場合もあるし、グループディスカッションという選考が入る場合もある。
面接も最初はグループ面接、という場合も多い。
これは志望者が多い場合、一人ずつと会っていると手が足りないから、団体で選考したいという企業側の思惑もある。

こんなふうに、就活生は企業の選考を受けて内定を取る学生もいるし、取れない学生もいる。
取れない学生というのは、選考を受けては落ちているうちに、心が折れるというケースもあるし、そもそも就活に向かっていけないというケースもある。

こういう状態で就活生が就職をしていっている、というのが実態。

それをみんなに知ってほしいと思う。

知ってどうするのかと聞かれたら、とにかく知ってほしいと思う。
社会にでることがどんどん難しくなっている。
社会人の壁が高くなっているのか、それとも、学生の土台が低くなっているのか…。
「ゆとり」の影響もあるだろうし、小中高大の教育の問題もあるだろう。
戦後の民主主義教育の完成形が招いたのかもしれない。

そのことを考えてみてほしいと願う。

就活生たちは小中高大の21年間の教育の結果だ。
もちろん、家庭教育もある。
彼らだけが悪いわけではないのだが…。

その上、入った会社で3年残る確率は65%しかないのだ。

就活生はつらいのだ。

| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
トマト栽培2
ペットボトルのトマトは高さ30センチ以上になって、ようやく花が咲いた。

ただ、茎の部分が細くて、ペットボトルの口のところで折れている。
水の交換をする時に一緒にキャップを回すから、折れてしまったのだ。

何とか折れた茎を寄りかからせて支え、水をやっている。
花が咲いたが、果たしてトマトがなるかどうか…。
見ていると微妙である。

気温が低いからか、ちょっとしおれている。
花も小さな白い花が咲いているだけ。

栄養は観葉植物用のものを入れている。
液体のものだ。
ひょっとしたら、これが結果的に栄養不足になっているのかもしれない。

しかしこのミニトマトは実がならなかったらどうするんだろうか。

何年も持つのだろうか…。

茎が折れてなかったらなあ。

とにかくもう少し様子を見ようと思う。


| | 考えたこと | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
業界研究
12月1日に就活が解禁された、ということだが、この意味はどういうことか。
これは、2年後の4月に卒業する新卒者向けの会社説明会がスタートした、ということだ。
今年は2013年だが、この年の大学3回生が対象学年。
彼らが卒業するのは2015年の3月なので、2013年の12月に、2015年卒業の3回生に向けての会社説明会がスタートする、というのが正しい言い方だ。

実際にはそれ以前にも業界研究セミナーなどと称して、いろんな会社がセミナーをやっている。
ただし、これは大学内で行われるもの。
あくまで、「学生のための業界の研究」という名目で実施される。
実質的には(特定の大学で)早めにやりたい企業側と、就職率を上げたい大学の利益が一致してやっている。

では、なぜ業界の研究が必要か、ということになる。
これが難しい。
現在大学生の子どもを持つ親の世代には、なかったことだからだ。

自分の世代の大学時代というのをよく覚えていないから、はっきりしたことは言えないが、昔よりも社会とのつながりが希薄になっていると思う。
この30年ほどは、良くも悪くも「個の社会」になってきている。
一人1台のテレビ、一人1台の電話。
住宅事情が改善され、子供の数も減り、一人一部屋になった。
小さい頃から独立する。
幼稚園や学校では「世界に一つだけの花」の世界で、個性はいいことだと教えられる。
そして、実社会はそんなに個性を大事にしない。まずみんなと同じように行動することが求められる。それができてからの個性だ。それを体現しているのが「マナー」だろう。

生まれた時から子機があり、携帯になった世代には電話は苦手だ。
誰からかかってきたか、わかっている電話しか取らないのがほとんどだ。

要するに、オトナと接する機会が減っている。

就活というのは、結局はオトナと付き合うことだ。
それが入り口になる。

業界研究というのは、もちろんメーカーや商社などが何をしているのかということを知るという意味もある。
しかし、それと同時に大人の世界に入る訓練をしているのだ。
話を聞いて、メモを取り、質問をする。
そういう訓練なのだと思う。


| | 考えたこと | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
人工光合成
新聞で人工光合成が紹介されている。

記事によると、「パナソニックが水と二酸化炭素を原料に、太陽光を利用してメタンを合成する人工光合成システムを開発した。これまでは植物並みの効率で有機物(ギ酸)の合成には成功していたが、直接燃料として使える成分を作ったのは初めて。燃料電池に応用を見込む。無尽蔵にある原料から有用な資源を直接生み出す究極の再生可能エネルギーである人工光合成の実現に向けた一歩となりそうだ。」と書いてある。

これはすごい。
水と二酸化炭素から、メタンを合成できるとは。
メタンならクルマを走らせることもできる。
植物のエネルギー源を人工的に作ったのだ。

これを元に燃料電池を作り、電気を作れば完全な再生可能エネルギーの完成だ。
いろいろなエネルギー源があるが、これは将来有望だと思う。
MITあたりでも人工光合成の研究をしているらしい。

この分野できっとノーベル賞も出ると思う。

ひょっとしたら、数年以内に誰か取るかもしれないなあ。

人類の進歩だから、誰が取ってもいいようなものだが、できれば日本人に取ってほしい。

ガンバレ日本。

| | 考えたこと | 20:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
あの日を忘れない
アメリカの人たちは2001.9.11という日を覚えている。

こないだドラマを見ていたら、身元不明のホームレスの死体が9.11に関係した元米軍の兵士で、それを究明するという話があった。

その中で、一人のアメリカ人が言う。

 俺達は天使じゃないが、死には値しない。
 We might not be angels, but no one deserved to die that day.

同じドラマの中で、一人のイスラム系アメリカ人が、自分の信仰について気遣って聞いた若いアメリカ人に言う。

 十字軍や宗教裁判は平和をうたう宗教が導いたか?
 いや、神より賢いと慢心した人間の仕業だ。
 テロの原因は信仰ではなく、傲慢と偽善と憎悪だ。
 奴らはぼくの宗教もハイジャックした。
 ぼくの神を侮辱した。だから(この仕事は)つらくはない。
 あの日欠けてた思いやりを被害者に示せて光栄だ。

そして若いアメリカ人はこう言う。

 ありがとう。先輩。
 謝ります。過ちを正してくれて、感謝を

それを見ていたもう一人のアメリカ人が言う。

 最高だったぜ。

いい場面だった。

こんな風にして彼らは9.11を反芻している。

いろんな見方があるだろうが、ぼくはそんなに悪くないと思う。

どうだろうか…。




| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
就職フェア
仕事の関係でインテックス大阪の就職フェアに行ってきた。
仕事の関係とはいえ、初めての大阪のフェア。
話には聞いていたが、すごい学生の数。
バスを立ててくる学校もあるらしい。

かわいそうなのは女子のトイレ。
会場内のトイレには女子の列ができていて、数十分待ちという状況。
機転を利かせて、会場の外の別の場所に行くとかすればいいのに、そういう機転はフェアの熱気で舞い上がっていて思いつかないらしい。

メガバンクが巨大なブースというか、10メートルくらいある天井に着こうかというきれいな建造物をつくって、学生を呼び込んでいる。
何人採用するつもりなんだろうか。

12月の2週目の土曜日なので、まだまだ一部上場企業ばかり。
製造業では、旭化成、京セラ、パナソニックなど、ぼくらの世代ならたいがい知っている会社。
三菱UFJや三井住友などの金融、伊藤忠、丸紅、三井物産などの商社、関西電力、大阪ガスなどのインフラ、ニトリなどの流通サービス、大阪府警、京都府警、兵庫県などの官公庁、電通、関テレなどのマスコミ、NTTなどのIT、キリンなどの食品、中国四国などのUターン就職コーナーなど、いろいろある。

インターネットができて、オープン募集になって、学校の壁が崩れた。
ソニーが学歴不問ということで、学校名を聞かないというような採用をし始めたのが何年だったか。
それまでは日本の新卒市場は学校や学部で決まっていたと思う。
90年代にリクルートが筆頭となってその体制を崩した。
インターネットがそれに拍車をかけ、完全にオープンエントリーの時代になった。

その当時は崩れることのメリットのほうが大きかったんだろう。
会社側にとっては、多様な人材が採れることで、より活躍する人の行動特性(コンピテンシー)を調べ、それに合った人材を採用できる(リクルートの言葉だと思う)というメリットがあった。
TOEICなどのオープンな検定も出てきた。
英文科を出ているというよりも、TOEIC700点の方が確かだ。

学生の側も、オープンな採用という事になり、自分たちの可能性が広がったという部分が大きかった。

しかし、今の状況を見ると、必ずしもそうでもないと思う。

考えてみてほしい。
進路指導の先生に相談し、決められたルートにしたがってレールの上を歩いてきた学生が、大学を出る時になっていきなりオープンな、逆に言うと弱肉強食で競争原理に則った、戦いの中に放り出されるのだ。
小中高で競争を経てきた人はまだいい。
みんなのタイムを測ってから、差がつかないように競争をするような学校、学校間の競争が厳しくなるから学力テストの公開はダメだというような学校、そんな学校に通ってきた生徒はどうしたらいいのか。
実際に、競争らしい競争を経てきた人がどんどん減っている。

AOや推薦で大学に入る人が今や半分以上いるのだ。
小中高大の入るところまでの行き方と、大学を出るところの行き方が逆になっている。

小さい頃から競争原理を知らず、「世界に一つだけの花」的な考えで育てられた学生が、いきなり「個性というのは一人前の仕事ができるようになってから」というような世界に入らないといけない。
そんな体制だから、大学を出て、3年以内に35%の人が離職する。

大卒はまだマシで、中卒で7割、高卒で5割ということだから、大学はまだ成熟しているだけ対応する力がついているのだろう。
小中高での教育を見直すか、それともオープンな採用を見直すか、そのどちらかだと思う。

小中高と言っているのは、大学には小中高のように教育する体制がないからだ。
大学で教えられるのは、どうやって学ぶか、自分をどう教育してくかというようなところだと思う。
ただ、そうも言っていられないのが現実だが…。

オープンな採用というのは、お金がかかる。
仲介している会社がいくつかあって、そこに払うお金がバカにならない。
何とかナビというサイトがあって、そこに登録するのにお金がかかる。
もちろん、松竹梅というランクがあって、いろんなオプションがある。
オプションをつけると情報量が増え、学生はよりよく企業の事を知ることができる、という仕組み。

それなら、昔に戻って○○大学と☓☓大学と…大学に求人票を出して、人を送ってもらおうという方が安くつくかもしれない。

問題は、これだけ少子高齢化と言っているのに、まだ大学は増え続けていることだ。
そんなふうに大学が増えているから、企業側もどこに求人していいのかわからなくなったのだろう。
企業側では、学部名を見てもなにをやっているのかわからないところも増えたし、そもそも大学で身につけるものなど期待していないから、どこの大学でもいいという気持ちもあるだろう。
人文社会系についてはそれでいいのかもしれない。
法学部を出たから法律のことがわかるとか、経済学部を出たから経済の知識があるとか、そんなことはぼくの頃からなかったと思う。
だいいち、そんな専門家がたくさんいるなら、こんなにコンプライアンスなどと言わなくてもいいはずだ。
それを考えると、どちらがいいのかわからない。

学生の立場にたっても、どこに行ったらいいかわからない、という状況になる。
特に昔の学生と違って、決められたレールの上を歩いてきた、競争を知らない学生だからなおのこと困る。

そんなこんなで、就職フェアがある。



| | 考えたこと | 21:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
沖縄
沖縄弁は今まであまり聞いたことがない。

しかし、沖縄でやっている上方漫才を聞いていると、「北」のことを「にし」というのをギャグにしていた。
これは本当なのか調べてみると、確かに「にし」というらしい。

「東西南北」のことを「あがり、いり、ふぇー、にし」という。
「東」は日が昇るから「あがり」、「西」は「イリオモテヤマネコ」の「いり」、「南」は「ふぇー」、「北」は「にし」という。

「いらっしゃい」は「めんそーれ」で、「こんにちは」は「はいさい」、「がんばれ」は「ちばりょー」。
そういえば、そういう歌もあったり、具志堅が言っていたりする。

「美しい」を「ちゅら」というのはNHKのドラマでやっていた。

以前、宮崎に通っていたことがあったが、鹿児島に近いところで、結構特徴的な言葉を話していた。
スナックで土地の人同士で話していると、全くわからない。

そして、この沖縄弁。
北のことを「にし」というのは知らなかった。

日本の南端の沖縄は、やっぱり南方系の感じがする。
濃い表情、濃い顔。
ヒゲなども濃い。

ラジオやテレビのおかげで、標準語が広まった。
教科書にも標準語が使われる。
だから、話が通じるが、昔は苦労しただろう。
幕府の役人などが江戸から来ると、通訳がついたのではないか。

元は琉球王国。
それが日本に結果的になったのは江戸時代。
「琉球の風」という大河ドラマがあった。

大河ドラマは「太閤記」と「赤穂浪士」を昔見たが、その後はほとんど見ていない。
でも、なぜか「琉球の風」は見た覚えがある。
琉球の政府は、インドのガンジーのように、抵抗せずに薩摩に首里城を明け渡したと記憶している。

沖縄は、地理的に重要な意味があるのだろう。

東西の緊張がなければ、普通の平和な島だったと思う。

| | 考えたこと | 01:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
風土の違い
身に染み付いた行動様式や思考様式は、容易には変えられない。

転職した人は、どうしても前の組織の風土を引きずっていく。
最初はそれらを控えて、新しい組織の風土に馴染もうとする。
そうしないと、排除されてしまうからだ。
しかし、長年身につけてきたものはそう簡単になくならない。
特に、初めて入った会社に長いこといた場合はなおさらだ。

ぼくのいた会社の技術部は、とにかくやってみるという風土があった。
もちろん、やってみてダメだったらやめればいい。
こんなことは当たり前だと思っていたが、そんなことはない。

驚くべきことだが、やる前にそれがうまくいくことを保証しろという人がいる。
そんなことはやってみないとわからない。
どうしてそんなことがわからないのだろうか。

うまくいくとわかっていることをやれたら、それはいいと思うが、世の中にわかっていることなどほとんどないのだ。
そんな保証を求める人は、本当に何かをしたことがないのだろう。

本当に何かをしたことがない人がたくさんいる組織。
なおかつ、その人達が権力を持っているような組織。

残念ながら、そういう組織がある。

| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペットは飼い主の鏡
最近ペットの番組をよく見るが、ペットというのは飼い主の鏡だということがよくわかる。

問題のあるペットの飼い主は、何らかの問題を抱えている。
ペットと正しく向き合える飼い主は、ペットを正しく制御していると思う。

溺愛はよくない。
番組を見ていると、甘やかされた小型犬が良く出てくるが、これはたいがい飼い主の溺愛が問題だ。
むやみに褒めるから、何をしても許されると犬が理解する。
犬が悪いわけではない。飼い主が悪いのだ。

猫のマーキングの問題もよく出てくる。
自分に自信が持てなかったり、縄張りを脅かされていると、マーキングをする。
多くは原因をつきとめ、猫に自信を持たせるために居場所を作ったり、運動させたりすることで解決する。
猫のトイレにも好き嫌いがあって、その猫が気に入るものに変えるのも効果的らしい。
大型の猫や若い猫はおもちゃで遊ばせて、運動させないといけない。
外に散歩に行かない分、運動不足になりやすい。
猫専用の庭を作るのも効果がある。
もちろん、ネットなどで外に行かないようにしておく。
猫も外でひなたぼっこしたりすることが必要らしい。
もちろん、外でおしっこをする癖もつけられる。

問題がある場合はほとんどが、人間とペットの境界をちゃんと引いていないことだ。
溺愛もそうだし、問題行動を問題だと思わないことが問題だ。
ペットは人間の友達だが、ペットを溺愛する人は人間と一緒に扱うことがペットにとっても幸せだと思っている。
でも、それはペットの幸せではない。
ペットはペットとして境界を引くことがペットにとっても幸せなのだろう。

ほとんどの問題は、ペットをペットとして扱わないことから起こる。

それは人間の問題であることが多い。

番組を見ていると、アメリカでは、生後すぐに動物を飼うよりも、シェルターなどからもらってくることが多いようだ。
NPOがやっているシェルターに、飼えなくなったり、増えてしまったペットを連れて行く人も多いし、ペットがほしい人はそういうシェルターでもらうことも多い。
まれにはシェルターに来る前のトラウマがあって、どうしてもうまくいかないケースもある。

そういうのは仕方がない。
どうしても矯正できないこともあるのだ。
そこを見極めるのも、トレーナーの腕だろう。

ペットを飼うということは、飼い主の人間性も見られるということだ。

そう思うと、ペットを飼うのには勇気がいる。



| | 考えたこと | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
もう12月
もうはや12月になった。

毎年12月が来るのが早くなる。
残すところ27日。365日のうち、338日が経った。

体感的な時間というのは、物理的な時間とは違う。
若い人も年寄りも同じ24時間。
これが物理的な時間。
いくら金があっても、いくら名誉や権力があっても、これだけは変わらない。
(原始の地球はもっと自転が早かったので、一日が16時間だったりしたが…)

しかし、毎年感じることだが、精神的には早く過ぎる。
それが体感的な時間。

毎日が繰り返し。
新しいことはほとんどない。
精神的に刺激がなく、毎日が同じようなことの繰り返し。
だから、飛ぶように日々が過ぎていく。

同じようなことを何度も書いているが、毎年そう思うから仕方がない。

もうすぐクリスマスが来て、正月が来る。
節分が来て、ひな祭り。
端午の節句が来たかと思うと、梅雨になり、夏休み。
春分の日が来て、体育の日が来て、勤労感謝の日が来る。
そうすると、またクリスマスが来て…。

こうやって人生が過ぎていく。

年をとると人生が早い。


| | 考えたこと | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
Wikipediaの危機
Wikipediaが危ないという記事があった。

それによると、一つは協力者の大部分が男性・西洋人であり、ネット人口の代表ではなく、その協力者も減少しているということ。
そして、もう一つはある企業の要請を受けて執筆している人がいる、ということ。
更に、新しい協力者を得ようとするのだが、官僚主義の行き過ぎでそれが困難、という側面があるとのこと。

「官僚主義、つまり管理と検証のレヴェルが高く、おそらく新しい協力者にやる気を失わせるものとなっているが、これはまさに、破壊行為や金銭を受け取っての貢献から百科事典の信頼性を守るためだ。」

なるほど。

WikipediaをWeb上の百科事典として、便利に使おうということになると、その信頼性が大事になるし、世界レベルで載せている項目を増やしていこうとすると、男性・西洋人以外の協力者を増やしていかないとイケナイということになる。
その一方で、特定の団体からお金をもらって執筆する不届き者も取り締まらないとイケナイ。
難しいなあ。

ぼくはWikipediaの価値は、出版されている百科事典の代わりになるもの、とは思っていない。
やっぱり正式にモノを調べるとなると、出版物に頼らざるを得ないと思う。
そうではなくて、一般の百科事典に載っていない項目を調べたい、という時に価値を発揮すると思っている。

例えば、「ニューミュージック」「J-Pop」というような音楽ジャンルや、お笑い、ほんの一時もてはやされたりするような文化とも言えないようなもの、しかし、その時代を生きたものにとっては結構な思い入れのあるようなものが項目として入っていること、これが価値になると思う。

絶対に百科事典に出ていないような「若井こずえ・みどり」という項目もWikipediaになら載っている。
「宇宙怪人ゴースト」という日本では半年しか放映されなかった(でもぼくは覚えている)アニメも項目としてある。

この種のポップカルチャーがある程度網羅されていて、残っているところにWikipediaの価値があるのではないか。

そのために何度か寄付もした。

文化とも言えないような、取るに足らないものに光を当てる、これがWikipediaの一つの重要な役割だろうと思う。

そういう面にも価値を見出してもらいたい。


| | 考えたこと | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
小説の国
日本人は大説が苦手だ。小説が得意だと思う。
日本最古の小説は源氏物語。
これは、光源氏という主人公の色恋を描いた小説。

Wikipediaによると、「おおむね100万文字・22万文節400字詰め原稿用紙で約2400枚に及ぶおよそ500名余りの人物が登場し70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。」と書いてある。

これは世界最古の小説の一つ、と言っていい。
500人も登場人物がいる長編小説を、1000年前に作ったのは日本人の誇りである。
この小説に描かれているものは、本当に色恋沙汰。
我々日本人の先祖は「もののあはれ」を主題にして作られたこの小説を読み継いできた。
もちろん、ごく一部の日本人だ。
ぼくも田辺聖子の意訳で読んだだけだ。
でも、そのスケールといい、構想といい、素晴らしい小説だと正宗白鳥も、小林秀雄も、荻生徂徠も、本居宣長も言っている。

しかし、これは大説ではない。
政治や哲学について書かれたものではなく、歴史を書いたものでもない。
孔子のように、儒教的な生き方について弟子が書き記したものでもない。
日本人は、恋愛という人生の小事を大事にしてきたのだろう。

大説などどうでもいいのだ。

そんなことよりも、人と人との関係が大事なのだ。

この源氏物語、死ぬまでに全巻を読みたいものだ。
谷崎潤一郎か与謝野晶子の訳か…。

仕事をやめたら、ゆっくりと読むとしよう。

日本の小説のルーツ。


| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |