考えたこと2

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本当はわかってない
昨日の続き。

圓楽が「気骨のある落語家」という、気骨、の意味がわからないと次男が言う。

気骨とは…、うーん、そうやなあ…、結局答えられなかったのだが、次男が辞書をひくと「自分の信念を曲げない強い気性」と書いてあった。

「そうそう、そういうことや」と言ったら、「人に説明できないということは、わかってないということや」と言われた。
「お父さんがそう言った」らしい。
まあ、そういうことやな…と思う。

人に説明できて、その意味を知っていると言える。
ただ、漠然と意味がわかっているのは、わかっているつもりということだ。

気骨という言葉、難しい。
意味は何かといわれると、気骨があるということは、気骨があるということや…という繰り返し(トートロジー)になってしまう。

人間、だんだんとアホになっていくのではないか。

文化とは何か?文化とは…、文化ということや。
人間とは何か?人間とは…、人間ということや。
勉強とは何か?勉強とは…、勉強ということや。
人生とは何か?人生とは…、人生ということや…

それらに定義を与えていくということが、哲学者の仕事だろう。
ぼくら凡人は、知れば知るほどそれらはその言葉でしか語れなくなる。
そう簡単にひと言でまとめられない、という経験を積んでしまうからだ。

だから、本当はわかっていない、ということになる。

しかし、本当はわかっていない、ということをわかっていることは大事なことだ。

しかし、次男にそれがわかるのは、まだまだ先だろう。


| | 考えたこと | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
圓楽
今日圓楽が亡くなった。

次の圓楽は楽太郎が継ぐことになっているらしい。
若いころは「星の王子様」などと言っていた。

芝浜は十八番だった。
江戸落語はあまり聞いたことがないが、これは聞いたことがある。
さすがに名人芸。

この人は舞台では笑顔だが、本当はこわい人だったろうと思う。
素顔がこわい。
落語には厳しい人だろう。

今日特集でやっていたが、「落語とは何か?」と聞かれて、「命です」と言っていた。
こういうやり取りを聞いていると、やっぱり江戸落語は違うと思う。
上方の落語家はこんな答えはしないだろう。
そこが江戸と上方の違いだ。

圓楽を称して、「気骨のある落語家」と言っていた。

気骨のある落語家というのは、「命です」とつながっているのだろう。

きっと、上方の落語家なら、「落語とは何か?」と聞かれたら、「しょうもないもんですわ。まああってものうてもエエもんちゃいまっか…」などと答えるのが普通だと思う。
その、「しょうもないもん」に実は命をかけてやっている、ということなのだが、それは答えない。
それが(いいようにいうと)上方の奥ゆかしさだと思う。
そういうふうに、上方落語はできているのだ。

改めて江戸と上方の違いを考えさせられた。

合掌。


| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
一筆箋
これも、平成の死語になっているかもしれない。

一筆箋。

先週の土曜日に梅田に行く用事があって、ちょっとウロウロした。

ドングリ共和国という店があって、ここはスタジオジブリのグッズを売っている。
何気なく入ったら、面白そうな店だったのですみからすみまで見て回ったのが3年ほど前か…。
ぼくは「魔女の宅急便」に出てくるクロネコ(ジジ)が好きなので、その時はそれを買った。
今でもデスクの上に、ジジのゼムピン入れが置いてあるし、ぼくの後ろのホワイトボードにはジジの顔のデザインのマグネットがついている。

阪急梅田の駅の1階のところにある。

最近見つけたのは、スヌーピーの専門店。
これは阪急3番街のキディランドのところにある。
ここには、スヌーピーのグッズが並んでいる。
ノート、ペン、筆箱などの文房具、ぬいぐるみ、毛布、カバン、ライターや灰皿、小物類…。
ここで、スヌーピーの一筆箋を買った。
葉書サイズのものと、封筒に入れられるもの、そして小さなメモ帳の大きさのもの。

ちょっとした伝言やメモをこれに書いて渡すと喜ばれる。

一筆箋という言葉は、ぼくらはまだ使うけれど、メール世代の人たちにはわからないだろう。

何かにつけて、ひと言添えるためのもの。

いざ書くとなると、字がきたなかったり、忘れたりするが、それでも書いてつける。

昔は、一筆箋という言葉は知っていても使わなかったが、年をとると共に使ってみるようになった。

こういう心遣いはなくしてほしくない。


| | 考えたこと | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しい店
家の近所の寿司&小料理屋が夏に閉店した。

長いこと改装していたが、また新しい借り手がついて、「うみそら」という店になった。

この店がなんと言ったらいいのか…、昔のスナックのようでもあり、全く違うようでもあり、新しいコンセプトの店だ。

ビックリするのは、大きな窓とガラスの扉で、外から丸見えなこと。
これだけで、新しい感じの飲み屋だとわかる。

いつも前を通りがかるたびに覗くのだが(自然に見える)、店の中にはカウンターがあって、いつも若い女性が数人いる。
カウンター席と、テーブル席で併せて15席というところか。
店の前には目立つ水色の看板があり、「うみそら」と書いてある。
「うみそら」と水色ということで、イメージがわく。
見たところ中は黒と白で無機的な感じ。「うみそら」と合っている。

だいたい、外から丸見えの飲み屋というのが、めずらしい。
誰か知り合いがいれば、すぐわかる。
そういう、開放的な感じを追求したのかもしれない。

時代は変わったなあ。

今のところ、オープンして10日くらいだが、まあまあお客さんはいる。

これがどれくらい流行るのか、楽しみだ。

しかし、道を歩いていて、中が丸見えの大きな窓というのは本当に奇抜なアイデアだ。
オーナーはどんな人なんだろうか。
カウンターの中にいる若い女性がオーナーなんだろうか。
なるほど、新しい感覚だから、ひょっとしたらそうかもしれない。

想像はふくらむ…。



| | 考えたこと | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
運命
運命ということばが昨日出てきたので、それについて考えてみた。

運命というのは、自分で変えられないもの、という定義だと思う。
国語辞典にもそう書いてあった。

自分の運命とは何だろうか。

誰もが持っている運命は、生まれたということだろう。
両親は選べない。これこそ運命だ。
もちろん、両親も子供を選べない。これは親子双方にとって運命だ。
天皇などは、天皇家に生まれたということがその後の人生を決めてしまうのだから、これぞ運命だろう。
天が決めて、逆らえないものだ。
してがって、誰から生まれたかということは、運命といっていい。
大金持ちから生まれるか、芸能人から生まれるか、大天才から生まれるか…。

しかし、ここで一つ問題がある。
よほどの場合は別だが、それを比べることができない、ということだ。

人は一人分の人生しか生きられない。
当たり前だが、これをよく忘れる。
自分以外の人の人生は、想像はできても、実際にそれを生きることはできない。
これが、むずかしい。

幸福というものに一般的な尺度があれば、それでみんなの人生を一斉にはかって、誰々は100点だからいい人生だ、などと言えるのだろうが、残念ながらそんなものはない。
幸福が悪いものだ、という人はよほどのへそ曲がりを除いて、いないだろう。
したがって、人生の価値の一部は幸福を手に入れること、と言っても言い過ぎではない。
しかし、その幸福をはかるものがないのだ。

だから、人の人生を評価できない。

もともと、幸福など主観的なものだから、それを無視して物質的なものさえ満ち足りればよしとする…、といって大金持ちに生まれるという選択も無理だ。
それらは全て仮定の話。

実際に大金持ちで幸福ではない人もいるだろう。
食うや食わずの生活よりよほどましだ、という意見はあるだろうが、どっちが幸福か?という問いに答えられない。

みんなそれなりに幸福で、それなりに不幸だ。
でも、不幸でないと、幸福はわからない。
それが、幸せの青い鳥の寓話なんだろう。

だから、目の前のことに一生懸命に生きることが大事、ということになる。

ちょっと結論が飛んだような気もするが、これでいいのだ。



| | 考えたこと | 21:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハンコック
ウィル・スミスが酔いどれのスーパーヒーローを演じる。

最初はおもしろオカシイだけかと思ったら、後半はシリアスなストーリーになる。

鉄よりも強い身体、空を飛ぶし、トラックも片手で持ち上げることができる。
その上、不死の身体。年をとらない。
紀元前4世紀には、もう生きていた。

どうやって生まれたのか、いつからそんな力を持ったのか…、疑問はあるがそこは映画として楽しむことにする。

そのスーパーヒーローがヨッパライでいい加減となると、悪いヤツをやっつけるのはいいが、いい人にも迷惑がかかる。
それを何とかしようと思ったのが、ハンコックに助けられた広告マン。
彼の言う通りにして、ハンコックは刑務所に入る。
そして、思惑通りに警察署長が出所を要請する…。

しかし、ここからが一転して重いストーリー。

ふーん、そんなこともあるのか…、とおどろき、しんみりする。

人と人が近づき、そして離れていく。

ちょっと、運命を感じさせるドラマ。

前半は面白く、後半は考えさせられる。

そんな、スーパーヒーローものです。

| | 映画・舞台 | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
1周年
去年の今朝、右手が動かなくなった。
早いものでもう一年。
脳梗塞と診断された。

CTの写真を見ると、左の脳の一部に白いところがあった。
ふーん、という感想。
想像もしていなかったので、ビックリした。
だれでも、突然やってくるのだが、自分がなるとは思わなかった。
まあ、今までムチャをしてきたので、それも仕方がない。

こないだ、検診に行ったら、2年以内に再発する確率が5人に1人。
5年以内なら、2人に1人の確率だと先生は言う。
ということは、5年以内に再発しない確率は5人に2人。

すぐに入院して、毎日点滴を打った。
3種類の点滴を一日3回。
1回に数時間かかる。

退院してからも1週間ほど休んだ。

しばらくは調子が悪く、元に戻らなかった。
名前が思い出せなかったり、簡単な計算がすぐにできなかったり…。
何かを書こうとしても、なかなか書けなかった。
先生はそんなハズはないというが、実際にそんな気がした。

まだちょっと調子が悪いような気もする。

でも、仕方がない。
もう一年たつのだし、これが自分の能力だ。

あきらめよう。


| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
LED電球
ようやく、LEDの電球が出てきた。
明るくて、消費電力が小さい。
蛍光灯タイプの電球もある。
従来の電球とLEDの中間的な値段。

しかし、40Wクラスで4000円はちょっと高い。
紫外線、赤外線放射をほとんど含まないクリーンな光…、と書いてある。

もうちょっと安くなれば、買うのだが…。

今なら、蛍光灯タイプの電球の方がお得な気がする。
普通の電球の大きさで、らせん状に蛍光管が巻いてあるタイプ。

でも、たしかに光の感じが違う。

普通の電球は、暖かい感じ。
赤外線も出ているのだから、実際暖かいのだが…。
なんとなくぼんやりしていて、たしかにいろんな波長の光が混じっているような気がする。

蛍光灯タイプの光はそれよりも白い光だ。
いろんなタイプがあるが、電球よりは冷たい感じがする。

LEDの明かりはまだあまり見たことはないが、たぶん冷たい光だろう。
自転車の点滅灯を見ていると、たしかに明るいのだが、光に暖かさがない。
電気エネルギーを直接光に変える。だから省エネなのだが…。
白熱球の光に慣れた目で見ると、冷たい光に見える。

夜汽車に乗っていて、外の景色を見ていると、ぽつんと光が見える。
田んぼの中の一軒家だ。
その光が、暖かい家庭を想像させる…。
男はつらいよで、渥美清が一人語りする場面を思い出した。

LEDの電球が普及しても、そう思うだろうか…。

LEDの電球には省エネの良さがあるが、省エネというのは光の余分な波長をそぎ落として実現しているように思う。

省エネと暖かさというのは相反するのか。

暖かみのあるLED電球、そういうのがほしい。

| | 考えたこと | 22:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
誰にでも初めてということがある
またまた、NHKの朝のドラマ。

今月から、また新しくなった。
今回は関西制作の「ウェルかめ」。
徳島を舞台に、ウミガメがテーマになっている。

雑誌の編集者志望の女性が主人公。

今日は初めての取材に行かせてもらう交渉を主人公がする場面。
給料の前借りをしてウミガメの島に行かせてほしいという設定。
没になったら、給料はなくなる。
それでも、行かせてほしいという主人公。

結局行ってもいいと編集長が許可するのだが、その前のシーンで編集長と番頭役の副編集長の会話がある。

「編集長、初めての取材、いくつでした?」
「23。…あの子と一緒や」

このあと、初めての取材がどんなだったか、という話になる。

「誰にでも初めてというものがある」ということだ。

仕事をして、プロとして、初めての仕事。
ぼくらはサラリーマンだから、初めての部署での仕事だが、プロとしての仕事ということになると、「初めて…したとき」と自分で決めないといけない。
初めての評価とか、初めての成功とか…。
サラリーマンなら誰でもふり返って初めての…、というものがあるだろう。

ぼくは、今ふり返るなら、初めて自分の設計した製品が世の中に出た時、ということになるか…。
会社に入って、何年かたった頃だ。
それは、結果的に設計が自分のキャリアで一番長かったからであり、もしもそうでなければ違うものになる。
ずっと評価部署でテストを続けていればいたで、あとでふり返って、「あの時や」という瞬間がある。

個人でやっているような仕事ではなおさらだ。
編集者はもちろんそうだが、心臓外科の医者にも、初めての手術という瞬間があり、脚本家には初めての本という瞬間がある。
俳優には、初めての舞台という瞬間があり、野球選手には初めてのヒットというような瞬間がある。

それは、人それぞれ違うものだろう。
でも、初めての…があって、それで人は育つ。

そういう瞬間を忘れずに、生きていきたい。



| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
秋の園遊会
秋の園遊会というのが開催されたらしい。
あまり皇室には関心がなく、ニュースにも無頓着だったが、1700人もの人が赤坂御苑に招かれたとのこと。
9時のニュースでやっていた。
毎年春と秋にやっているらしい。

森光子やおくりびとの監督の滝田さん、日本初の宇宙長期滞在者である若田さんなどが天皇陛下や皇后陛下と話していた。
天皇陛下は忙しいと思うが、いったい何人の人と直接話したのだろうか。
ニュースでは森光子には、やさしい口調で話していた。
1700人の人と会って、何を聞くべきか、前日までに考えたはずだ。
仕事とはいえ、大変なことだし、またそこに参列した人もうれしかっただろう。
2100人に招待状を出して、1700人だから、400人ほどは辞退したということになる。
だから、来た人はやっぱり名誉なことだ、と思って来たのだろう。

昔は、親父が天皇のことを「天ちゃん」と呼んでおり、ぼくもそれに習って「天ちゃん」と言っていた。
「天ちゃん」と呼んでいたのは、戦争を始めた責任があるという気持ちや、だまされたという気持ちや、天皇制という体制への不信感や、その当時の左寄りの世間に便乗して言っていたのだと思う。
そうやって、天皇をさげすむことで、自分の気持ちをだましていたのだろう、と今ならわかる。
当時は何もわからず、ぼくは親父のまねをして「天ちゃん」と言っていた。

でも、ぼくが会社に入った頃には、もう「天ちゃん」とは言っていなかった。
時間が天皇に対する気持ちを変えたのだろう。
たしか、朝日新聞の昭和天皇の崩御に関する報道を批判していたと思う。
自分も変わったが、朝日も変わった。
でも、朝日新聞には節度がない。

昭和が終わった21年前。
その頃から日本の知識人に広がっていた、左寄りの思想が廃れてきたと思う。

「天ちゃん」は「天皇」になった。
昭和ヒトケタである親父は天皇に対して複雑な気持ちを持っていた。
あの世代はそうだと思う。
天皇制は馬鹿げており、やめるべき、とも言えず、さりとて天皇陛下は日本国の象徴だとも言えず…。
昭和天皇が亡くなって、やっと天皇制を認められたのではないか。

ぼくは天皇陛下に対する気持ちは定まらないが、もしも園遊会に招かれたら辞退はしないだろう。(招かれる心配はないが…)
52年の人生を生きてきて、天皇は大変だとは思う。
その仕事を考えると、気の毒でさえあるだろう。
それでも、天皇家に生まれたら、皇族であり、そのトップは天皇だ。

イギリスの王室ほど自由ではない。
宮内庁に見張られている。
園遊会で1700人もの人と会って、一人ずつ声をかけないといけない。
それもニコニコして。

だれでもできる仕事ではない。
それでも、生まれついてしまったら、それをやるのだ。

日本には天皇がいる。

そのことに意味があるかないかは別として、民族として選んだことだ。

それは、日本人一人ひとりが考えるべきことだと思う。


| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドン・マクリーン
ドン・マクリーンは1曲のヒット曲で有名になった。

アメリカン・パイ。
8分以上に及ぶ曲はシングルレコードのA/B面を使ってリリースされたはずだ。
ぼくは、どうしても1曲通して聴きたかったので、LPを買った。

この曲は高校の1年か2年の時にはやった。
いまだにこの曲の歌詞はわからない。
キングやクイーン、マルクス、レノン、有名人が出てくる。
悪魔が笑っている。
何だかわからないが象徴的な歌詞。

The day the music died.
音楽が死んだあの日

これが歌われている。

ネット上ではいろいろな解釈が書かれているが、正解は「わからない」ということらしい。

部分的には、これはビートルズのことだとか、エルビスのことだとか言われているが、要はドン・マクリーンの音楽に対する思いを歌った歌らしい。

わからない歌詞だが、もともと英語で歌詞の意味などわからないので、メロディと部分的な歌詞の響きが魅力的だった。

今になって、もう一度読み直してみると、やっぱりわからない。

それでも、いまだにいい曲だと思う。




| | 音楽 | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
女子サッカー
最近、よく女子サッカーを見にいく。
もちろん、応援だ。

何度か見ていると、だいたいわかってくる。
選手の顔を覚える。

ふだんの彼女らとは全く違う姿がある。
いつもはサッカーをする女の子には見えない。

でも、ユニフォームを着て、ピッチに立つと、やっぱり違う。
サッカー選手なのだ。

去年は二部リーグの入れ替え戦に行ったが、おしくも敗退した。

今年は今のところ全勝で、最終戦を待たずに優勝した。
最後の試合も必ず勝ってくれるだろう。
去年とは違う。

今年こそ、一部リーグに上がりたい。

勝負は11月。

がんばってほしい。


| | 考えたこと | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
ビリー・ジョエル
ビリー・ジョエルというと、ストレンジャーというLPの写真が印象的。

髪の長い、痩せたアイリッシュ系の顔をしている。
ほりの深い、鼻と目に特徴のある顔。
ポール・マッカートニーに似た顔立ち。

それがぼくらが20歳のころだから、あれから30年以上経った。
NYのシェア・スタジアムというところが、老朽化を理由に解体されるということで、最後のコンサートを行ったのが、そのビリー・ジョエル。
2008年の7月に行われた。
そのビデオを見てビックリ。
あのビリー・ジョエルが、こうなっているとは…。

だいぶ太って貫禄のある姿。
髪の毛はほとんどなくなって、白いものがちらほらしている。
ひげを生やして、堂々としたミュージシャン。

でも、声は変わらない。
ビリー・ジョエルだ。

1949年生まれだから、今年還暦を迎える。
いい顔をしている。

ここに写真があります

当たり前といえば、当たり前だが、みんないい年齢になっていく。
年相応の顔ということか…。

"Just the way you are"が流行ったのが1977年。
この曲が、ビリー最高のヒット曲になった。

エレキピアノ、ギター、サックスのソロ…、いつ聞いてもすばらしい。

とても、32年前の曲とは思えない。

これぞ、スタンダード。エバーグリーンだ。


| | 音楽 | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
「ハンパない」と「めっちゃ」
最近、「半端じゃない」という意味で、「ハンパない」という言葉を使う。
主に、関東の若者言葉。これも平成の新語。

もともと、関西ではあまり「半端じゃない」という言葉を使わない。

「中途半端やなー」というのは、ちゃらんぽらん(今はなき漫才コンビ)が流行らせたが、関西では半端という言葉を独立で使うのはめずらしい。

したがって、半端ないというのを普段聞くことは少ないが、テレビを見ているとタレントが使っている。

「ハンパなくデカイ」とか「この映画はハンパなく面白い」とかいう。

ちょうど、関西でいう「めっちゃ」という言葉に対応するのか。

「めっちゃ」はめっちゃよく使われる。
「めっちゃデカイ」「めっちゃオモロイ」など、関西ではめっちゃ根付いた。
「むっちゃ」も「めっちゃ」と同じ意味だが、語呂が悪いのか、あまり聞かない。

この「めっちゃ」が関東に行くと「めちゃ」になる。
おまけにアクセントが変わり、「メちゃ」になるので、言いにくい。
そのため、他の言葉で対抗したのが、「ハンパない」かもしれない。

しかし、「ハンパない」よりも、「めっちゃ」の方がめっちゃよく使われるような気がする。
50代のぼくらでも、かなり頻繁に使う。

もちろん、書くことはないが、話し言葉では「すごく」とか「ごっつい」とか「めちゃくちゃ」とかいう言葉を駆逐して、みんな「めっちゃ」になっている。

おおかた20年くらい前から使われ始めたと思うが、この言葉ほど一般的になったものはないのではないか。

おそらく、めっちゃベストワンだと思う。


| | 考えたこと | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 加藤和彦
加藤和彦というと、中学のときに国際会館に見に行ったことが一度ある。
高校だったかもしれない。

「家を作るなら」という歌をやっていた頃。
大きなギブソンのギターを持って出てきた。
CM7とDm7のコードの繰り返しでやった曲、題名は忘れたが、家に帰ってからマネしてやってみて、今も覚えている。
あの曲はなんだったのか…。

フォーククルセダースを解散し、ソロでやっていた頃。

その後、サディステック・ミカバンドを組んで、エレキギターに持ちかえ、ロックバンドをやった。
高中正義やつのだひろもいた。

その後、またソロに戻ったが、ずっと音楽の世界にいた。

たくさんの曲を作曲した。
自分の曲、バンドの曲、他の人の曲…。

いつも紳士だったと思う。
そして、ダンディ。かっこいい大人。
理知的でやさしい顔をしていた。

「あの素晴らしい愛をもう一度」という曲は、北山修の歌詞に加藤和彦が、「今さら花とか赤とんぼとか、恥ずかしいと思った」と言っていた。

売れても、あまりマスコミには出なかったなあ。

62歳。団塊の世代。

「悲しくてやりきれない」という歌もあった。
常に新しいものを追いかけて、そして逝ってしまった。

合掌。

| | 考えたこと | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分の居場所
最近の若い人はボランティアをよくする。
自治会よりも、ボランティアだ。

学生時代にサークルやボランティアをしておこう、というようなコピーが雑誌に載る。

ボランティアといってもいろいろある。子ども相手のもの、大人相手のもの、老人相手のもの、地区でやっているもの(掃除など)、外人相手のもの、障害者相手のものなど。
なぜ、そんなにボランティアをするのだろうか?

ぼくはやったことがないので、わからないが、ボランティアには自分の居場所が用意されているのではないかと思う。
必要とされる自分の場所がある、ということだ。

ところが、普通は自分が動いて、価値を作らなければ、自分の居場所はできない。
必要とされるためには、動かないといけないということだ。

人に働きかけて、関係の中で自分の価値を作ることができない人が増えたのではないだろうか。

自分の居場所が作れないから、ボランティアに走る…。
もちろん、そうではない人もいる。
しかし、そういうふうに見える人もいる。

これがマチガイならいいのだが…。

仕事では自分の居場所が用意などされていないことが多い。
もちろん最初は教えるし、手取り足取りもやる。
それでも、3年も経てば自分で自分の居場所を作らないといけない。
人に働きかけて、関係の中で自分の価値を作るのだ。
それこそがコミュニケーション。

それができれば、3年で離職するということはないと思う。

しかし、35%もの新卒が3年で離職する時代。

たしかに仕事はむかしよりきつくなったと思う。

それでも、35%は多すぎないか…。

| | 考えたこと | 02:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
タイムパトロール
小学校4年の時にスーパージェッターが始まった。

スーパージェッターはアニメである。
タイムパトロール員で、犯人を追って20世紀にやってきて、そこでタイムマシン(流星号という)がこわれた、という設定。
今思うと、いつもけったいな服(ウェットスーツみたいにぴっちりしたもの)を着て、頭も覆っていた。
頭からはアンテナ状のものが一本出ていたが、特にあのアンテナが活躍した場面は覚えていない。

わりとちゃんとしたシナリオで、タイムパトロールという言葉が斬新だった。

後年、筒井康隆や豊田有恒が関係していたと知って、なるほど、と納得したことを覚えている。(筒井康隆、豊田有恒はSF作家。筒井は有名だが、豊田は「倭王の末裔」や「持統4年の諜者」などを読んだ。なかなか面白い。)

30世紀から来たという設定だった。当時なら1000年以上先。(今でも991年だが)
テーマソングの出だしが、「ぼくはジェッター。一千年の未来から時の流れを越えてやってきた…」というセリフで始まる。

小学校4年生がタイムパトロールという言葉を知る、というのはすごいことだ。
タイムパトロールというのは、タイムマシンを使った犯罪を止める警察。
未来から過去にやってきた犯罪者が、過去の事実を変えて、結果的に未来を変えてしまうのをくいとめるという仕事だ。

ここで、疑問がおきる。
万が一、犯罪が成功して、未来が変わったらどうなるのだろう。
バック・トゥ・ザ・フューチャーみたいに未来は一つで、親が結婚しなかったら、子供は消えてしまうのだろうか?
その未来はすでに現在の延長上にある未来だ。実在する未来なのに、それが消えてしまうということがあり得るのか?
未来は一つなのだろうか?

ここで、パラレルワールドという概念が登場する。
未来はいくつもある、という考え方。
犯罪が成功した未来、失敗した未来、その時点で枝分かれして、無限に存在する。
時間軸は一つではない。
3次元のxyzの軸のどれとも垂直に交わる時間軸(もちろん、ぼくらはそれを書くことができない)が何本もある、ということになる。

タイムパトロールという言葉は、そういうロマンを持っている。

反重力ベルトやタイムストッパーなどの小道具もすてきだったが、このアニメは鉄腕アトムと共に、日本の子供たちに時間とは何かを考えさせるうえで貢献したと思う。

そういうアニメが少なくなったなあ…。


| | 考えたこと | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
IDカード
最近、どこでもIDカードばやりだ。
大きなオフィスに行くと、必ずカードか名札をぶら下げている。
実際に名前を示すだけでなく、そのIDで何をしたかというのも記録されるところもある。

こないだのコメントに出ていたが、コピーをとったり、プリントしたりするのにもIDカードがいるところがある。
もちろん、社員食堂などもそうだろう。銀行口座から落ちるようになっていたりする。

さらに、コンピューターのサーバー室などの出入りとか、新製品の開発などでここ以降はカードなしでは入れないとか、入退室のコントロールにも使う。
パソコンのログインもIDカードでやるところもあるだろう。

IDカードのケースもいろいろ出ている。
縦型や横型、ビニール製、革製、名刺を入れるポケットが裏側についているもの…、ただのケースからオシャレなものまで。
また、簡単にカードが外せるようになっているタイプや、リール式でカードが伸ばせるものなど、見ていると面白い。
部署ごとにひもの色を変えたりもできる。

どこでも、セキュリティを大事にしているのだろう。

いつ、どこで、誰が、何をした、というのが記録される。
非接触タイプなら、受信機さえいろんなところに置いておけば、いつどこをうろうろしたかもわかる。
それをするかどうかは別問題だが…。
プライバシーの問題が絡むからだ。

会社が扱う個人情報を管理するために、社員の個人情報が丸見えになってしまう、という笑えない話も起こりえる。

RFIDという無線の技術を使えば、店舗専用のクレジットカードにチップを入れておいて、その店舗のどこを、いつ見て回ったかとか、何を買ったかという情報も理論的には取れる。

コンビニが自社カードを勧めているが、これもどんな人が何をいつ買いたいか?という情報を得るためだろう。
少々ポイントをつけて値引きしてでも、その情報を得る方が得なのだ。
(ポイントをその店で使えば、店は損をしないし…)

ということで、国民みんなにIDを…、というのが国民総背番号制だろう。

アメリカでいう、ソーシャル・セキュリティ番号というようなものだ。

これを導入する、と言っているのが、民主党。
個人的にはメリットがあると思う。
しかし、ちゃんとシステムが作れるのか、今の役所を見ていると不安になる。

難しいところだ。


| | 考えたこと | 20:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
カドリール
10月も13日。
ぼちぼち涼しくなってきた。
夜空もきれいで、空気も透き通っているような感じ。

秋がきた。
Autumn has come.である。
9月は残暑もあり、やっぱり10月、11月が秋だ。

食欲の秋、読書の秋、芸術の秋、スポーツの秋…。

去年の秋はあまりいいことがなかった。
今年の秋はどうだろう。

10月というと、運動会や体育祭の季節。
今は6月にやったり、9月にやったり、バラバラだが、昔は10月と決まっていた。

高校時代、体育祭というとカドリールというフォークダンスを踊らされた。
なぜ、カドリールなのか、よくわからない。
3年だけだったかな…。いや、1年、2年も踊ったはずだ。

ぼくらの高校は保守的な学校で、昔からの伝統を大事にしていた。
その伝統の一つがカドリールだった。
今はもう踊りも忘れたが、カドリールという言葉だけは覚えている。

伝統がカドリールだけというわけではない。

…が、それ以外に思い出せない。

カドリールは今も踊っているのだろうか。
踊っているとしたら、大したものだが…、ネットで調べたら、もう踊っていなかった。

ぼくらが卒業してからしばらくして、先生の異動が多くなったらしい。
結局、伝統を維持するのは人だ。
人が変われば、伝統などなくなる。

そうか…。
もうカドリールは踊っていないのか。

何ともいえないなあ…。

| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
エレガント
エレガントという英単語は日本語に相当することばがない。
もともと、一対一の対応などするはずがないのだが、それでもエレガントという単語は難しい。

辞書をみると、

 優雅な、優美な、上品な、洗練された、気品のある
 すばらしい、すっきりした
 みごとな、立派な

いろいろある。

「エレガントな宇宙」という本は、"The Elegant Universe"。
きっと訳者はelegantをどう訳すか迷って、結局エレガントとしたのだろう。

エレガントという言葉には、「秩序だっていて、簡潔なすばらしさ」というような感じがある。

もちろん、日本語の「エレガント」にそういう感じがある、ということだが…。

例えば、何ページも使って、やっと証明できたような問題が、数行で証明できたとき、それをエレガントな証明だという。

あることに対して、いろいろなアプローチの仕方がある。
誰もが考えるアプローチではなく、まったく関係がないと思われるようなものからすっとそれに近寄って、パラリと解く。
できてしまうと、なーんだ、というものだが、それに気づける人は少ない。

エレガントな頭脳。
そういう頭脳の持ち主を尊敬する。

ぼくには、絶対ムリだ。

| | 考えたこと | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
アラン・ドロン その2
昭和32年生まれのぼくらは、アラン・ドロンの実物を知っている。

当時、フランス映画がはやり、アラン・ドロンやジャン・ポール・ベルモンドのギャングものがよく日本でも上映された。
なかでも、アラン・ドロンは人気があって、レナウンの宣伝(ダーバン)に出ていた。

 ドライブウェイに春がくりゃ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ
 プールサイドに夏がくりゃ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ いいわー
 レーナウン レナウン レナウン レナウン娘が
 オシャレでシックなレナウン娘が
 ワンサカ ワンサカ ワンサカ ワンサカ イェイイェイ ウォウ ウォー

…というCMソングをやっていた頃だ。(ダーバンではないが、懐かしい)

日曜洋画劇場でも、よくフランス映画をやっており、ジャン・ギャバンがビスケットにバターを塗って食べるシーンをよく覚えている。
亡くなった淀川長治がほめていた。

ケーブルテレビでまた、アラン・ドロンの刑事物をやる。
フランスでやったテレビシリーズだ。

68歳を過ぎて、まだ元気。
あの、眉間にしわを寄せて、あごに手をやる仕草が何とも言えずカッコイイ。
白髪でシブイ老練な刑事役。

やっぱり、スターだ。

洋画と言えばハリウッド…という時代ではなく、フランス映画も一定のファンがいた時代。

アラン・ドロンはいくつになっても、アラン・ドロン。

ああいう老年になりたいが…、もとが違いすぎるなあ。


| | 考えたこと | 01:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
ウォークマン
会社に入って最初の部署は出張が多かった。
その頃に出たのがソニーのウォークマン。
カセットテープよりちょっと大きなサイズで、ヘッドフォンはインナーイヤーのタイプではなく、アーチ型で頭にかけるものだった。

ぼくが買ったのは初代ウォークマンが出てから2年後くらいのモデル。
もうインナーイヤーのヘッドフォンだった。

当時、出張先で好きな音楽が聴けるというのは画期的だった。
好きなレコードをカセットに入れて、持って歩く。
ぼくの場合は、音楽だけでなく、漫才や落語もだった。
AMラジオやテレビの寄席番組をカセットに録音する。

そのうち、レコードがなくなりCDになった。
そして、ウォークマンにもCDのタイプが出た。
これはあまり流行らなかったような気がする。
レンタルがもう既に世の中に普及していたから、カセットにダビングする人が多かったのではないか。

そして、MDウォークマンが出た。
これは画期的だった。
1992年だから、初代から10年ちょっとか。
これ以上の進歩はないと思っていた。

ところが、ipodが出てきた。
ここが勝負の分かれ目だったと思う。
既存のメディアと関係のない会社が、音楽をデーターにしてインターネットにのせた。
ipodの時代が到来した。
ソニーもネットワークウォークマンで追いかけたが、ダメだった。
著作権へのこだわりもあったと思う。
ipodは音楽をオープンにしたのだ。著作権など関係ない。(一応、あると言っているが…)

そして、ようやく国内でソニーがアップルに売り勝ったという。
いくつもモデルを出して、ようやくだ。
今日、長男が帰ってきて、ipodからソニーに乗り換えたいという。
なんでや、と聞いたら、アップルはすぐに壊れるから…とのこと。
そういえば、長男のipodはトラブル続きだ。

ふーん、やっぱり最後は信頼性か、と思う。
使い勝手やデザインがよくても、壊れたらイケナイ。
追加の保険に入って、5年間保証とかしていても、つぶれたらダメだ。

なるほど。

ソニーにがんばってほしい。

がんばれ、ウォークマン。

| | 考えたこと | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
何のために会議をするのか
会議というのは、何をするためのものか?
話し合いをするためのものだろう。

では、何のために話し合いをするのか?
ある目的を達成するため、というのがほとんどの場合だろう。

そのためには何が必要か?
目的に関する共通の認識、これが建設的な話し合いのためには必須だ。
そして、問題意識。これは各人が各々の問題意識を持っているということだ。
さらに、何らかの意味でその会議体のメンバーが共同体であることが必要だろう。
運命共同体。同じ船に乗っているという意識。沈む時は一緒という意識。これが必要だ。

だから、営利企業の会議は最終的に何らかの結論が出る。
出さないと前に進めない。利益が出ないのだ。
前に進めないと、最悪の場合会社が潰れてしまう。

しかし、非営利の場合は違う。
会議をやる上で最も大事な共同体という意識がない。
誰もがいろんな方向を向いていてよい。
正反対でもよい。
目的のための共通の認識などなくてもよい。
そもそも、会議が開かれるのは、会議の日程が決まっているから、という場合もある。
問題意識もない場合が多い。
だから、何をやっているのかわからない。
そもそも、会議とは何かということがわかっていない。
単なる時間つぶしみたいなものだ。
自分が言いたいことをいう。
あるいは何にもいわない。

ナントカ委員会とかいうものなど、その最たるものだろう。
誰もその結果について責任がない。
そこに高いモラルがある場合だけ、よい会議ができる。

「高いモラル」それが必要だ。

それがないなら、責任者を決めて、会議などやめればよいと思う。
一人で決めてやったなら、責任が明確だ。
失敗したなら、その人が悪い。

しかし、もしもこれをナントカ委員会で会議をして決めたら、責任の所在がわからない。
責任の所在を曖昧にするために、やっている会議もあるだろう。
みんなで渡れば恐くないの精神だ。

だから、公務員や学校を含む非営利団体は、高いモラルが必要だ。

残念ながら、それがないところの方が多いのだが…。


| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
下宿
明日久しぶりに長男が帰ってくるという。
ウチの近くでバイトをしていて、そこに用事があるからだ。

下宿というのは、居心地がいい。
回りに友だちができて、その輪が広がると、家に帰ることなど忘れる。
ぼくも、学生時代に下宿をして、ほとんど帰らなかった。
四畳半一間で、トイレと洗濯機は共同使用、風呂なし、築かなりの年数でも、そこにいると自分だけの空間だ。

敷きっぱなしの布団。
小さな冷蔵庫、もらった机、炊飯器、電熱器、スチールの本棚…。
ぼくは自炊はほとんどしなかったが、それでもお金がなくなるとご飯を炊いた。
オカズは味付け海苔と海苔の佃煮とふりかけ。
少し裕福なら、焼き鳥の缶詰やシャケ缶がついた。

そんな生活でも、とにかく楽しかった。

毎日部室へ行って、先輩や後輩と飲みに行ったり、友だちの下宿でだべったりした。
寄席の前になると、誰もいない時間に部室に行って、一人で練習をした。
覚えるまで、ノートを目の前においてしゃべる。

N360に乗って、友だちと夜中に琵琶湖に行ったり、ラーメンを食べに行ったりした。
ぼろい車だったが、懐かしい。
3人でお金を出し合って5万円で友だちから買った。

3年ちょっとの間テレビはなかった。
それでも、全く退屈しなかった。
みんなテレビなど持ってなかった。

もう少し難しい本を読めばよかったとは思う。
柴田連三郎や筒井康隆の小説をよく読んだ。

3年の冬に最初のエレキギターを買った。
十字屋のバーゲンで1万いくらだったと思う。

服はほとんど買わず、靴もたいがい1足だけ。
同じ格好をしていたと思う。(洗濯はした)

書き始めるときりがない。

でも、学生時代の下宿というのは特別なものだ。

そこで得たものは大きいと思う。

それが何とは言えないが…。



| | 考えたこと | 01:14 | comments(2) | trackbacks(0) |
台風 その2
今夜は台風が来ている。
明日の朝ちょうど関西に来そうな勢いだ。

台風といえば、雨台風と風台風というのがある。
ぼくが卒論で台風の降雨予測をやったのは前に書いた。

学校の先生は親切だ。
卒論の発表という晴れ舞台で、誰からも質問がなかったら気の毒だと思った先生が質問をしてくれる。

あれは割り当てがあるのだろうか。
彼が発表したときは君…というふうに決まっているか、順番にやっているのか…。
一人ずつ順番に教室で発表し、終われば出ていくのだから、よくわからない。
誰かが、発表時間の終わりに「チン」という音を鳴らしていた。

ぼくのときは、質問をするのに困ったのか、ある先生が「雨台風と風台風というのがあるが、それはどう違うのか」という質問をしてくれた。
それは、ぼくの発表とは何の関係もなかったのだが、きっと気の利いた質問を思いつかなかったか、それとも、内容について聞いたらぼろが出るから避けてくれたのか、それはわからない。
とにかく、雨台風と風台風という質問だった。

ぼくは、「雨が強いのが雨台風で、風が強いのが風台風でしょう」と適当なことを言ったら、「なるほど」といって、それで終わった。
T先生という、数少ないぼくが名前を覚えている先生だ。

調べてみると、あながちハズレでもない。
台風のサイトを調べてみると、「風、雨台風の違いは被害からみた結果論です。雨で大きな被害がでれば「雨台風」です」と書いてあった。

答えを聞きたくて聞いたのではないだろう。
4年間の終わりに、何もなかったらかわいそうだ、という親心だった。

ありがたいことだ。

そういうありがたい人たちが、自分を育ててくれたのだと思う。

T先生はまだ生きているだろうか。

ぼくが22歳の頃に50くらいだったから、今生きていたら80歳。

先生は当然覚えていないだろうが、ぼくは教室の真ん中あたりで手をあげた先生の姿は忘れられない。

そんな先生もいる。


| | 考えたこと | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
時代劇
最近、時代劇チャンネルというのがあって、それをよく見る。

池波正太郎のシリーズをやっているのだ。

剣客商売と鬼平犯科帳。

剣客商売の方は、主人公の剣客、秋山小兵衛の役の藤田まことがちょっと残念。
背が高すぎる。原作では背が低いことになっている。

鬼平犯科帳の方は鬼平役の中村吉右衛門がいい。
こちらは、見ていて、おお、これぞ鬼平、と思わせる。
歌舞伎の人は違う、という演技。

梶芽衣子が演じる女の密偵、おまさ。これも、なるほど、と思わせる配役。
この人がこういう役をやるのか、と驚いた。

なんと、エンディングテーマをジプシーキングスがやっていて、これがモダンな雰囲気をかもし出す。

こういう時代劇はアリだと思う。

今では、アメリカの西部劇のように、日本でも時代劇はあまり作られない。
もう古くなってしまったのか。

黒澤明の七人の侍が西部劇の荒野の七人になったように、西部劇と時代劇はオーバーラップする。
どちらも、サムライとカウボーイという、各々の文化のコアになる部分が描かれている。
刀を拳銃に置き換え、チョンマゲをカウボーイハットに変えれば、同じようになるものもある。
水戸黄門や暴れん坊将軍は西部劇にはならないが、遠山の金さんや桃太郎侍はなるだろう。

時代劇も滅びていくのか。

ぼくらの子どもの代には、そんなモノを見る習慣がない。

それは日本の文化が一つ滅びていく、ということではないか。



| | 考えたこと | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
J-Popと言われても…
J-Popという言葉はいつから使われているのだろうか。

ネットでは90年代の半ばということになっている。
どうも、なじめない。
ぼくは書くときは使うが、話すときは使わない。

70年代から80年代にかけて、ニューミュージックといわれていた音楽がJ-Popになった。

たしかに、何がニューかといわれると、いい加減な言葉ではある。
60年代から70年代にかけて、自分で曲を作って歌う、シンガーソングライターという人たちが出てきて、それまでのフォークソングとはちょっと違った音楽を生み出した。
ニューフォークなどといわれていたような気がする。
吉田拓郎やかぐや姫、井上陽水などがそのジャンルかな…。
フォーライフというレコード会社が、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの手で作られ、レコードビジネスの新しいカタチができた。

そして、どんどん新しい音楽が世の中に出てきた。
それがニューミュージック。
今までのジャンルのなかに入らない音楽だ。

吉田拓郎、井上陽水、ハイファイセット、オフコース、荒井由美、山下達郎…、たくさん出てきた。

みんなニューミュージックだった。
新しい音楽。
ニューという言葉が実感を持っていた頃、ぼくは十代から二十代だった。

それがいつしかJ-Popと呼ばれて、歌謡曲と変わらない扱いになった。

ニューミュージックという言葉は、いつかは古くなる。
そういうジャンルだった。

しかし、あの頃のニューミュージックは本当に新しい音楽だったと思う。

だから、J−Popと言われても…、なあ。





| | 考えたこと | 20:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
電子辞書の手書き
息子の高校のオススメで電子辞書を購入した。
たしかに、いろんな辞書が入っていて便利。
手書きのエリアがあって、液晶上に書くこともできる。

学校のオススメだから、特に英語の辞書が追加されていて、値段がお得になっている。

その代わり、キーボードのエリアが小さい。手書きのエリアがあるのだ。
辞書自体は大きくなっているのだが、ボタンで選ぶのがむずかしいし、英単語を打つときに不便だ。
英語を主体で使うときは、かえって使いにくくなる。

結局、兄のお古の電子辞書を使っている。

「何でや?」
「キーボードが打ちにくい」

なるほど。
新しい機能がついたからといって、便利になるとは限らない。
手書きができると便利になる人はいるが、不便になる人もいる。

このあたりのさじ加減がむずかしい。

英語を主体に使うなら、画面だけ手書き可能で、キーボードはそのままというのがベストかな。

携帯電話も同じだが、可能なことを全部盛り込めばよい、というものではない。

機能を制限した方が、使いやすいこともある。


| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゼロカロリー
ダイエットの話題が続いて申し訳ないが、今日もまたその話題。

最近、ゼロカロリーという表示の商品が増えた。
この定義がどうなっているのかというと…、

100ml(100g)あたり5kcal未満であれば、「カロリーゼロ」「ノンカロリー」という表示が認められる。

ということになっている。

ゼロカロリーコーラはペプシのを時々飲むが、ゼロカロリーゼリーというのも最近買う。
マンゴー味、みかん味、マスカット味、ピーチ味…、いろいろある。
「味」というのは、果肉は入っていないからだ。
寒天とナタデココみたいな個体が入っている。
まあ、もともと寒天はカロリーが低く、健康食品だということだから、ゼリーというのはいい考えだ。
結構大きくて、お腹がふくれるのがいいところ。

その他気をつけてみると、こんにゃくゼリーや寒天ダイエットゼリーなど、いろいろと出ている。
パンでも低カロリーを売りにしているものがあった。
時代は低カロリーか。

しかし、ゼロカロリーのゼリーは¥170。
エネルギーもないのに、そんなに高いの?という疑問の声が…。

エネルギーがないから、高いんやろ、という返答。

なるほど。
エネルギーを摂らずに、どうやってお腹をふくらせるか…というのが今の課題。

昔はエネルギーの量が多いほど高かったのかもしれないが、今は逆になろうとしている。

どうもオカシイといえば、オカシイなあ…。

しかし、この業界、やっぱり儲かるだろう。


| | 考えたこと | 20:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
家路
遠き山に日は落ちて
星は空をちりばめぬ…

ドボルザークの「家路」だ。
この曲は、学生時代のキャンプファイアーの定番曲。
明るい曲だが、微妙なメロディでもの悲しい感じがするのが特徴。
キーがCだったら、Gdimという不思議な響きのコードがその感じを出している。

これも文語調の歌詞。
今の人は歌うのだろうか。
ボーイスカウトでは歌っていると思うのだが…。

「心軽く」という歌詞は「心かろく」と読んでいた。
「いざや楽しまどいせん」というところがクライマックスなのだが、この意味がわからないだろう。(ネットで歌詞を調べると、「楽し」が「楽しき」となっているが、ぼくは「たのし」と覚えている。)
「いざや」の「や」と「まどいせん」の「せん」が係り結びだと思う。

「まどい」も今は死語になった。
まどいは団居と書いて、輪になって座るという意味だ。
さあ、楽しく輪になって座りましょう、というのが、「いざや楽しまどいせん」になる。

ぼくらの頃は、ワケがわからなくても、何となく歌っていて、長じるにつれて意味がわかった。
古文を習うと解読できる。
同じ日本語でも、こんなに違うのか、と思った。

毎度書いているが、この文語体、響きがいさぎよくて好きだ。

遠くの山に日は落ちて
星は空をちりばめた
今日の仕事をやり終えて
心軽く休憩すれば
風は涼しい今夜
さあ、楽しく輪になって座ろう

こんな歌詞になったら、風情がない。
やっぱり文語だ。

遠き山に日は落ちて
星は空をちりばめぬ
今日のわざをなし終えて
心軽く 安らえば
風は涼しこの夕べ
いざや楽し まどいせん

この歌は、キャンプファイアーの終わりに歌う。
暗い闇の中で消えゆく炎。

そこでこの歌を歌うと、どういうわけか泣けてくる。

そんな名曲。


| | 音楽 | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
ダイエット業界
ダイエットに関する番組は多い。
なぜこんなに多いのか、というほどある。
もちろん、宣伝だが…。

まずは、食べ物類。
一日3回のうち、1回をゼリーにする。
そうすると、数ヶ月ですごい効果がある。

続いて、ダンス系。
これはDVDだ。
ビリーズブートキャンプに始まって、今はラテン系のものが流行のようだ。
これは効果があるだろう。
あれだけの運動をすれば、痩せると見ていて思う。

そして、器具系。
まずは身に着けるもの。
お腹に巻くベルトは有名だ。
あれだけ動かすと、内臓に悪いような気がするが…。

同じベルトでも、電極がついていて、腹筋を刺激する。
これは、たしかに運動するだろう。

ペダル系もある。
自転車をこぐもの、これはスポーツクラブにあるものの廉価版。
だが、モーターでこいでくれるモノもある。
足を乗せて回ると、足が運動できてよい、というリクツだ。

そして、最近多いのが足を水平に動かすもの。
レールの上で足を乗せたペダルが左右に動く。
1日60秒でよい、とのこと。

その他、四つんばいになって、押したり引いたりするものや、寝ていて足を乗せてゆらゆらするものなど、とにかくいろいろある。

本もかなり多い。
ゆで卵ダイエットやバナナダイエット、トマトダイエットなど、バラエティに富んでいる。

これは、一大市場だ。
ダイエット市場、いったいいくらくらいあるのだろうか。
ダイエット業界というのがあるのだろうか。
食べ物、DVD、器具、ペダル、レール、本…。
総計どれくらいになるのか、予測もつかない。

だれか、計算している人はいるだろうか…。

この業界、儲かるぞ。



| | 考えたこと | 02:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
70年代の音楽
深夜のテレビで古い日本の音楽(ぼくは古いとは思っていないが…)の番組をやっている。
宣伝なのか、番組なのか、よくわからない番組。
やっていると、ついつい聞いてしまう。

新しくても、1980年代までか。
青春ライブラリーというくらいだから、今の50代が対象なのかな…。

松原みき、石川セリ、町田義人…なつかしい。
1曲で消えてしまった人、しぶとく残っている人、今はどうしているのだろうか。
アメリカでは、1曲で消えてしまった人を"One hit wanderers"という。
もちろん、何人かは舞台裏で活動はしているのだろうが…。

中村雅俊は、もう60代になっただろう。

イルカなど、今の人には海の哺乳類だと思われてしまうかもしれない。

尾崎亜美など、いい曲が多かったなあ。

何度も同じことを言っているが、70年代の音楽はよかった。
洋楽も邦楽も、何か生き生きしていた。
そう思うのは、ぼくが若かったからかもしれない。
今の人は今の音楽が生き生きしていると思っているんだろう。

ユーミンがデビューしたのが1972年。
竹内まりやがデビューしたのが1978年。
山下達郎はソロで1976年にデビュー。
ビートルズが1970年に解散したが、シカゴやドゥービーブラザーズ、イーグルスも70年代。

1970年にぼくが14歳、したがって、1979年に23歳。
うーん、やっぱりその頃に聞いた音楽が、一生モノになるのか…。

だから、今の40代の人たちは、80年代こそ、すばらしいと言っているのだろうか…。

そうすると、30代は90年代、20代は2000年ということになる。

何となく、合っているような気がするなあ。




| | 考えたこと | 00:31 | comments(2) | trackbacks(0) |