考えたこと2

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マネーボール
ずっとサボっていたが、本のレビューを久しぶりに書きます。

マネーボール マイケル・ルイス著 ランダムハウス講談社

腰痛で一日寝ていることになったので、前から読みたかった本を読んだ。
「マネーボール」という本。

およそ人間の集団のやることで、明確な方向性が決まるものというのは少ない。
みんな、置かれた環境や信条、経験などが違って、こちらが良い、という方向が異なるのだ。
行政、福祉、教育、外交など、議論百出である。
だから、いろいろな規制、法律を作る。あるいは、みんなで議論する。でも、一人ひとり思いは違っていて、いくら話しあっても前に進まない。何が「良い」方向かわからないからだ。

しかし、例外はある。それがスポーツである。
スポーツには、「勝つ」という明確な方向性がある。勝つことが良いことである。
それはタイムであったり、順位であったり、得点であったり、技であったりする。
多くの美辞麗句が語られたとしても、特にプロスポーツにおいては「勝つ」ことが至上命題であり、そのために個人、組織があると言ってよい。

コンピューターとネットワークの発達で、色々なことができるようになった。
リクツでわかっていても、今までは面倒でできなかったことでも、ネットワーク上のデーターを取り込み、ノートパソコンですら解析できる。
必要なことは、勝つための数字をどう選ぶか、何を基準にするかを考えることだろう。これは、いくらコンピューターが進んでも、人間がやることだ。
そして、もっと大変なことは、それを実施できる組織を人を作ることだろう。
これこそ、本当に人間にしかできないことだ。熱意や意欲というような、およそコンピューターとはかけ離れた能力が必要となる。

この本は、メジャーリーグの野球という世界最高レベルのスポーツで、過去の因習にとらわれず、カネをかけずに勝てるチームを作るという仕事を実際にやってのけた、オークランド・アスレチックスのゼネラル・マネジャーとそのブレインを縦糸に、そして実際の選手たちや過去に野球というスポーツを解析しようとした人たちを横糸に織り交ぜて、実際の取材に基づいて書かれたドキュメントだ。

面白いのひと言に尽きる。
息もつかせず、最後まで読んでしまう。

「アスレチックスの年俸のトータルは、ヤンキースの3分の1でしかないのに、成績はほぼ同等」なのである。

「アスレチックスの成功の原点は、野球の諸要素をあらためて見直そうという姿勢にある。経営の方針、プレーのやりかた、選手の評価基準、それぞれの根拠…。アスレチックスのゼネラルマネジャーを任されたビリー・ビーンは、ヤンキースのように大金をばらまくことはできないと最初からわかっていたので、非効率な部分を洗い出すことに専念した。新しい野球観を模索したと言ってもいい。体系的な科学分析を通じて、足の速さの市場価値を見きわめたり、中級のメジャー選手と上級の3A選手は何か本質的に違うのかどうかを検証したりした。そういう研究成果にもとづいて、安くて優秀な人材を発掘して行った。
 アスレチックスがドラフトやトレードで獲得した選手の大半は、古い野球観のせいで過小評価されていたプレーヤーだ。アスレチックスのフロントは、不遇な選手を偏見から解き放って、真の実力を示す機会を与えたことになる。大げさだと思うかもしれないが、メジャー球団とは、人間社会における理性の可能性−と限界−を如実に表す縮図のようなものだ。科学的なアプローチをまのあたりにしたとき、非科学的な人々がどう反応するか−あるいは、どう反応しないか−が、野球というスポーツによってよくわかる。」

これは、すごいことだ。
コスト1/3で、同じことができる!それも、プロスポーツという明確な土俵の上で、それを示したということは、まぎれもなく本当にそれができた、ということなのだから。

主人公のビリー・ビーンは実際にメジャーリーグでプレイした選手だった。
しかし、失意の中で彼は選手を辞め、アスレチックスのフロントに入る。
古い野球観を持った(実際にはそういう人がほとんどを占めているのだが)スカウトたちと、ドラフトでどの選手を取るのかというスカウト会議の席から、物語は始まる。
そこに現れるのが、ビリーの右腕のポールである。
彼はノートパソコンをスカウト会議の席に持ち込む。彼はスカウトたちが実際に選手を見て評価するのに対して、データーだけで選手を判断する。
ポールの目の付けどころは、スカウト達とは違う。

「興味深いのは、ポールの言葉の裏に秘められた部分だ。大学生選手が四球をいくつ選んだかなど、注目する人間は普通いない。ところがポールは何よりもその点を重視する。理由はあえて説明しない。過去の記録を調べ上げ、アマチュアからメジャーリーガーになれた選手となれなかった選手を比較して、その原因を追及したということも、スカウト達にはとくに告げていない。
 足の速さ、守備のうまさ、身体能力の高さは、とかく過大評価されがちだ。しかし、野球選手としてだいじな要素のなかには、非常に注目すべきものとそうでないものがある。
 ストライクゾーンをコントロールする能力こそが、じつは、将来成功する可能性と最もつながりが深い。そして、ストライクゾーンをあやつる術を身につけているかどうか、一番わかりやすい指標が四球の数なのだ。」

これは序の口で、その後ポールは金融派生商品を開発していた連中が作った、ゲームの解析の手法を取り入れ、ゲームに対する選手の貢献度(もちろん、従来の指標ではなく、新しいもの)を数値化している。

実は、ビリーの前任のゼネラル・マネジャーがすでにそういう考え方を持っていた。
アルダーソンというゼネラル・マネジャーの作った小冊子によると、

「野球を分析して行くと、さまざまな意義深い数字が表れてくる。だが、野球において最も肝心な数字−飛び抜けて圧倒的に重要な数字−は3だ。すなわち、イニングを区切るアウト数である。スリーアウトになるまでは何が起こるかわからない。スリーアウトになってしまえばもう何も起こらない。したがって、アウト数を増やす可能性が高い攻撃はどれも、賢明ではない。逆に、その可能性が低い攻撃ほどよい。
 ここで、出塁率というものに注目してほしい。出塁率とは、簡単に言えば、打者がアウトにならない確率である。よって、データのなかで最も重視すべき数字は出塁率であることがわかる。出塁率は、その打者がイニング終了を引き寄せない可能性を表している」

アルダーソンは弁護士出身で、メジャーリーガーではない。
そのために、苦労をしている。

「メジャーチームは神聖な存在で、メジャー経験のない者は口を出せない状態だった。アルダーソンはそんな慣習はばかげている、上が決めた命令や規律がそっくりそのままいきわたるべきだと思っていた。「組織の運命を中間管理職にゆだねるなんて、ほかの世界では考えられない」
 けれどもメジャーリーグでは昔からそういう決まりになっていて、アスレチックスも例外ではなかった。中間管理職のトニー・ラルーサが、自分なりの野球哲学にもとづいて、選手のバットをコントロールしていた。選手たちにしてみれば、ファームにいるあいだは、球をよく見きわめろ、四球で出塁しろと教え込まれるのに、メジャーに昇格したとたん、本能に従ってどんどん打て、と命じられるわけだ。アルダーソンの新方式によって洗脳された選手でさえ、メジャーに上がると、監督の指示を優先した。心にわずかなひびが入ると、及び腰になり、信念が崩れて行ってしまう。…」

この、メジャー経験者でないと、実際のフィールドで口を出せない…というような慣習は閉鎖的な職場にはあることだろう。
組織のようで、組織ではない組織…。思い当たる人も多いのではないか。
そんなチームばかりだからこそ、アスレチックスの価値は動じていないのだが…。

もともと、ビル・ジェイムズという人が、野球のデーターについて調べ始めた。
彼の研究は画期的だったが、野球界からは認められなかったし、今もあまり認められているとは言えないようだ。

彼が1977年に自費出版した本について書かれた下りによると…

「エラーとは何か?第三者の目から見て、いまのはもっとまともにプレーできたはずだということを表わす、スポーツの世界において唯一主観的なデータにほかならない。試合後のロッカールームで話題に出るような、あそこでああすればよかったのに、という指摘だ。…バスケットボールのスコアラーもたしかにエラーを記録するが、このエラーは、敵にボールが渡ったことを表わしており、客観的な事実の記録である。…ところが野球のエラーは実際には行われなかったプレーをスコアラーが思い浮かべて比較し、判断を下す。まったく異例な”参考意見の記録”なのである。
 (中略)
 100年以上経ったいま、エラーという概念だけが生き延びている。誰もがわかっているはずだが、明らかなエラーをしない才能など、メジャーリーガーにとって重要ではない。極端な話、もしエラーを記録されたくなければ、動作を少し緩慢にしてボールに追いつかなければいい。
エラーをするのは、何か的確なことをした場合にかぎられる。正面に来たボールを落としたとしても、それは、的確な位置に守っていたから正面に来たのである。
 不適切なデーターは人をまどわす。まどわされた球団フロントが、選手の評価を誤り、経営方針を誤る。ジェイムズは論点を一文でこうまとめた。
 守備に関するデーターは、数字としては存在意義があっても、言語としては意味がない。
(中略)
この指摘には、エラー記録の是非よりもさらに重大な内容が含まれている。野球の選手や試合をきちんと評価するためには、肉眼だけでは無理がある、ということだ。
考えてもみてほしい。3割の打者と2割7分5厘の打者を、目で見るだけで区別することはぜったいにできない。なにしろ、2週間にヒット1本の差しかない。シーズンを通してそのチームの全試合を見ているスポーツ記者なら、ひょっとすると何か違いを感じ取れるかもしれないが、おそらく不可能だろう。10試合に1試合見る程度の平均的な野球ファンは、むろん、そんな微妙な差を見きわめられるはずがない。事実、もし年間15試合観戦するとすれば、目の前でたまたま2割7分5厘の打者が3割打者より多くヒットを打つ確率が40パーセントもある。要するに、すぐれた打者と平均的な打者の違いは、目に見えない。違いはデータの中だけにある。
 そのうえ、誰もが打者を中心に試合を眺めている。打者の動きを見つめ、スコアカードを開いて名前を確認する。三塁線に鮮やかな打球が飛び、それを三塁手が横っ飛びにつかんで一塁送球アウトにした場合、三塁手に拍手を送る。だが、打球が飛ぶ前、三塁手の動きに注目していた観客がいるだろうか?三塁手がもし打球の方向をうまく予測して守備位置をずらしていたら、2歩だけ動いて、当たり前にバックハンドでつかめただろう。そして誰も拍手しない。
 そこでジェイムズは、従来にない評価基準を作るべきだと訴える。
スコアブックからは誰が上手な野手なのか判断できないし、じかに観戦しても正しく評価できない。では、どうすればいいのだろうか?
ジェイムズによれば、答えはこうだ。
計算法を工夫するにかぎる。」

こんな事を考えた人が、1977年にはもういたのだ。
しかし、この考え方がメジャーリーグに伝わるためには、20年以上かかった。そして、今でも浸透はしていない。

ジェイムズのリクツをもとに、ポールの作った究極とも思われるゲームの解釈は以下のようなものだ。

「ポールの解釈によれば、試合中のプレーはみんな”得点期待値”というバロメーターで測れる。本当かどうかは、計算などしなくても常識でわかるだろう。球場で起こることはすべて、たとえほんのわずかであっても、チームが得点できるか否かにかかわっているはずだ。たとえ誰も気づかない程度だとしても、戦況に微妙な影響を与えている。
 たとえば、ノーアウト走者なしで打者に第1球が投じられる瞬間、得点期待値は0.55。この場面で唐突に点が入る可能性は低いので、そういう数字になる。もし打者が初球をとらえてツーベースを放ったとすると、試合の状況が変わる。ノーアウト、ランナー二塁。こんどは得点期待値が1.1に跳ね上がる。よって、先頭打者ツーベースの価値は、得点期待値で言うと0.55(=0.55から1.1への上昇分)だ。もしツーベースではなく三振という結果だったら、その打者はチームの得点期待値を約0.30まで下げることになる。アウトひとつで0.25(=0.55から0.30への減少分)下がってしまった。
 このぐらいの計算はまだ序の口だ。偶然の要素を取り除き、ひとつひとつのプレーの価値を深く理解するには、じつを言うと、実存主義的な問いを片づけなければいけない。たとえば−そもそも二塁打とはなんぞや?「バッターが打って、敵のエラーなしで二塁に到達すること」だけでは答えとして足りない。ご存じのとおり、ひと口に二塁打と言ってもいろいろある。外野手が捕れてもおかしくなかったのに二塁打になるケースもあるし、二塁打になるはずがスーパーファインプレーでアウトに終わるケースもある。幸運な二塁打、不運なアウト。つきの要素を除外したければ、ここでプラトンばりの観念論を持ち出す必要が出てくる。」

本の後半には、投手の被安打率に関する話も出てくる。
これは、一人の野球ファンが解析したデーターである。

「150年のあいだ、グラウンド内のフェアゾーンへ飛んだ打球(つまり、ファウルとホームラン以外の打球)が安打にならないようにするのは投手の能力だと評価されてきた。ヒットを多く許す投手は防御率が悪くて負け数が多い、ヒットをあまり打たれない投手こそすぐれている、と見られてきた。だが、ボロス・マクラッケン−遠からず法律事務所を辞めて、アリゾナ州フェニックスで両親とともに暮らすことになる若者−の結論は違った。ホームラン以外のフェアボールは、ヒットになろうとなるまいと、投手の責任ではない。もちろん、ホームランを防ぐことはできる。四球を防ぐこともできる。三振に取って、打球がグラウンドへ飛ばないようにすることもできる。しかし、逆に言うと、それしかできない。」

これがデーターから見た事実…ということなのだ。
そして、この事実を発見したボロスは言う。

「ボロスが発表した説が、すぐさまメジャー全球団に大歓迎される−などという展開になるはずがない。ボロス自身も、その点は先刻承知だった。「困ったことに、メジャーリーグは閉鎖的な組織なんです。新しい知識を呼び込む土壌がない。関係者は全員、選手か元選手です。よそ者の侵入を防ぐため、一般企業とは違う構造になっています。自分たちのやりかたを客観的に評価しようとしません。いい要素を取り入れ、悪い要素を捨てるという仕組みが存在しないんです。全部まるごと取り入れるか、まるごと捨てるか、どちらかです。ただし、”まるごと捨てる”のほうはめったにやりません。」ボロスは、新旧の野球観の板挟みになっている球団オーナーたちに同情する。…」

あの、合理的なアメリカ、論理的な西洋人…彼らが野球になると、こんなことになってしまう。
これではまるで戦前の日本陸軍のようだ。
だからこそ、野球はアメリカの国技たり得るのかもしれないが…。

野球のルールがわからなければ、この本を読んでも面白くないかもしれない。
でも、野球のことを知っているなら、この本は文句なしに面白いし、野球というゲームに対する見方も変わるだろう。

それにしても、すばらしい。
人間の知恵は、あらゆるものを解釈する力があるのだ…という気にさえなる。

知恵がカネに勝つ…うれしいストーリーではないか。


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