考えたこと2

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結果のキャリア
今の若い人たちのキャリアは難しい。
親は昭和の世代だから、就職というより就社という感じだった。
どこかの会社に入って、定年までいるという時代。

でも、ぼちぼちそういう時代ではなくなってきた。
一生同じ会社に勤める人の割合は、どんどん減っていくと思う。
おまけに人生が長くなったから、いくつかの選択肢を持っておかないといけない。

仕事はやってみないとわからないもの。
運の要素がどうしてもつきまとう。
やらないとわからない。

何度か書いたが、やりたいことができる人はほとんどいない。
学校では、やりたいことは何?と聞かれるが、そんなことはわかるはずがない。
やったことがないことは山ほどある。
その中で何が向いているのかなどわかるはずもない。

時間や空間、持って生まれた才能など、制約が多い仕事選びで、何を選ぶかはほとんど運だ。
そんな中で、新卒で決まった会社で働くというのは最善ではないかもしれない。

おおかたの人たちは、決まった会社で一生懸命頑張っていると、その仕事が面白くなってやりがいが出てくる。
今まではそれでよかったのだ。
高度成長の時代、会社は大きくなったし、やりがいを持つこともできた。
しかし、バブルが崩壊してから、会社は儲からなくなり、日本は貧しくなり始めている。

これからは個人の能力を上げていかないといけない。
というより、個人の能力を最大限に発揮しないといけないのだと思う。
それによって、生産性を上げないといけない。

インターンなどの制度はだんだんと整ってきている。
少しでも向いているか、判断して仕事に就こうということだ。
しかし、仕事についてある程度一生懸命やって、それで向いていないと思ったら道を変えることも必要になってくる。

そういう意味では終身雇用をやめて、仕事を変わりやすくするのはいいことだ。
雇用の流動性を高めることが、個人にとっても、会社にとっても、いいことだと思う。

それでも、キャリアは結果論だ。
自分が仕事を終えてみないと、その結果はわからない。
いくら雇用を流動化しても、すべての仕事は試せないし、自分が向いているかはわからない。

人生はそういう矛盾に満ちて、終わっていくものだ。




| | 考えたこと | 21:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
コロナを煽るマスコミ
BSは地上波に比べてマシだと思っていたが、日曜日のコロナの番組はひどかった。

東京の状況が思わしくないということは確かだが、その先を考えるときには海外の状況が役に立つ、という。
どこのことを言うのかと思ったら、ヨーロッパのことだった。

どう考えても日本のほうが感染が早い。
ロンドンなど、オリンピックを代わりに開催できる、と言っていたくらいだ。
中国が発症だとすると、すでに武漢を封鎖する前に沢山の中国人が日本に来ており、地政学的に見ても日本のほうが中国との関係が深い。
当然、往来も多いことになる。

ヨーロッパの国々が感染が早かった日本のことを言うのならともかく、なぜ日本の状況を占うのに欧州の国々のことを言うのか、全くわけがわからない。
番組のプロデューサーやディレクターは科学的な考えができないのだろうか。
それとも、そんなことはわかっているが、大衆に恐怖を煽るためにわざとそういう番組作りをするのだろうか。

何もわからずやっているのなら、バカすぎてお話にならない。
そういう人間は番組作りに関わってはいけない。

わかっていてやっているのなら、もっと悪い。
ほとんど扇動といってもいいレベルだ。

センセーショナルなものほど、大衆に受ける。
そういうふうにして、マスコミは戦前大衆を煽って、戦争に向かわせた。
だから、真珠湾の奇襲攻撃のときに、提灯行列が出たのだ。
みんな、これからのこともわからず、アメリカをやっつけたと大喜びした。

立ち位置は違えど、やっていることは同じ。

本当にこれでいいのか。


| | 考えたこと | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
Youtubeの先生
最近、Youtube上のギターのレッスン動画をよく見る。
何人か、気に入った先生もできた。

技術が進んで、誰もが自分の技術を人に教えられる時代が来た。
調べてみると、管楽器のレッスン動画などもたくさんある。
いい時代になったものだ。

今日動画を見ていたら、最近の状況について話しているギターの先生がいた。
先生、といっても生徒になったわけでもないし、無料でレッスン動画を見て「いいね!」を押しているだけだから、向こうは知らない。
熊本に住んでいる先生だが、3月は予定が真っ白で、4月もほとんどなくなりつつあるとのこと。

ギターのレッスンはSkypeでやっているが、その収入が1/3で、残りの3/2は演奏のギャラということだ。
そんなに儲かるわけではない。
ご自身はレコードも出しているのだが、そんなに売れているわけでもない。
ミュージシャンというと、かっこよくて、聞こえはいいが、メジャーにならないと苦しいだろう。

その苦しい中でも、他のギター教室の講師などを思いやって、自分がSkypeでレッスンをするための機材を紹介して、遠隔レッスンのやり方を教える動画をやっていた。
とても誠実そうな先生で、見ていて頭が下がる。

本業はジャズギタリストだが、熊本でプロとしてやっていくのは大変だ。
東京や大阪でも、今はしんどいと思う。
ライブハウスがクラスターになって、ライブはなかなかできなくなっている。

レッスン動画は本当に参考になるし、いくらでも「いいね!」はクリックするのだが、それでは足しにならない。
いざというときのために、貯金はあるのだろうかと心配になる。
40代くらいだと思うが、3月から収入が1/3になるのだから大変だ。

早く収束して、自粛しなくても良くならないと…。





| | 考えたこと | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
人と人の距離
ぼくはフランスに3ヶ月いたことがある。
その時は、日本の子会社の援助に行っていた。
1986年だった。

コロナウィルスが欧州で蔓延している。
日本の感染の少なさはなぜかわからないが、イタリアは死者数で中国を抜いた。
その他の国々でも、どんどん感染が広がっている。
イギリスは早々と集団感染という戦略を発表した。
感染を抑え込むのは難しい、と考えているということだ。

今回「Social Distancing」という言葉を知った。
Webで調べると、こう書いてあった。

社会距離拡大戦略(しゃかいきょりかくだいせんりゃく、英語: social distancing) は、感染症の拡散を停止または減速させることを目的とした、医薬品を使わない感染抑制のための手段である。

人と人の距離を遠ざけるという意味だろう。
感染症は、人と人の距離が近くなると拡大する。

フランスにいたとき、毎朝会社に行くと、一人ひとりと「ボン・ジュール」と言って挨拶をして、必ず握手をした。
挨拶をしたことはみんな覚えていて、その朝初めてなら握手をする。
間違えて、2度めに挨拶をしようとすると、顔を見て「もう済んだ」という表情をされる。

人の顔を覚えるのが苦手なぼくは、行ってしばらくするまで、何度か間違えた。
朝の忙しい時に、続けざまにに握手するといちいち覚えていられない。
向こうは普段と違う人間だから、覚えているが、こっちは大変だ。

そんなことを思い出す。
人と人の距離が日本と違って圧倒的に近い。
日本では握手などしないし、人を触ることも会社ではほとんどない。

でも、フランスでは当たり前だった。
それだけ、ヨーロッパでは人と人の距離が近いということだ。
もう今は関係がなくなってしまったが、今でもあの習慣は続いているんだろう。

あの人たちは今頃どうしているんだろうか。
ボンジュール、と挨拶をして、思わず手を出しそうになって、引っ込めて苦笑いしているかもしれない。

Social distancingという言葉で思い出した。

彼らの無事を祈る。


| | 考えたこと | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
マスクより手洗い
マスクをしていると、ウィルスにかかりにくい、というのは正しくないらしい。
ある医師が書いている記事を見た。

過去の研究結果によると、結果論として、マスクをしていた人たちは風邪にかかりにくかった、という論は成り立つ。
しかし、実験的にマスクをした集団と、していない集団でかかりにくさを比べると差が出ない、というのが実験結果。

結局はマスクを自発的にしている人は、手洗いや衛生に気を使っており、そのせいでかかりにくかったのではないか、ということになる。
また、ライノウイルスという普通の風邪では、飛沫感染よりも手を介した接触感染の方が感染率が高いというのも事実。
手で顔を触らないとか、こまめな手洗いが大事ということだ。

ただ、言われているように症状がある人がマスクをするのは効果がある。
咳をしたときに、飛沫が広がらないからだ。
それは、マスクの代わりにハンカチなどで口をおさえても同じこと。

だから、特に症状のない人がマスクをするのは、ほとんど意味がない。
それよりも手洗いのほうが大事だ。
マスクをするよりも、アルコールのマイスプレーを持っておいて、こまめに手を消毒するほうがいい。
ぼくはそうしている。

さらに、このコロナウィルスの今後のシナリオには下記の4つがあるという。

1.コロナウィルスを根絶できる。到達まで2年〜十数年?
2.ウィルスは存続するが、治療薬、ワクチンで致死率は普通の風邪並みになる。1年〜十数年後?
3.理想的な結末。1年〜十数年後?
4.根絶に失敗し、ウィルスが定着。感染リスクは続く。

4は要するに「普通の風邪」になるということだ。コロナウィルスの致死率は長期的には徐々に低下する、ということになる。
これがイギリスの想定した戦略になると思う。

中高年にとっては、1,2,3が早いのなら、「感染を予防しながらじっくり待つ」という方法が有効だし、その逆であれば「若くて元気な間に感染する」という2つの選択肢があるという。

必ずしも感染予防の徹底が最適ではない、という考えもあるということだ。
手洗いを励行して、指示が出たら従い、それ以外は普通に生活して、感染したら諦める、という態度。
そういうものが日本人の古来の知恵だったはず。
それが「無常観」というものだ。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮うかぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

この医師のような意見こそ、マスコミが取り上げるべきだと思う。

現状でのPCR検査の感度は30%から70%だという。
検査しても、半分はハズレなのだ。
確定してないから公表しないだけで、そんなに信用できない。
偽陽性や偽陰性をたくさん生み出すことは、検査をしてかえって感染を広めることになる。
そういうことなのだ。

だからこそ、自分で不調を感じたら、休んで様子を見ることが集団感染を食い止めるために必要なことだ。
それが民主国家の国民の理性というものなのだろう。

国民はマスコミよりも賢いことを祈っている。

| | 考えたこと | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
同調圧力
今夜テレビを見ていたら、イタリアの学会が治療のガイドラインを出したとのこと。

その内容を要約しているサイトによると、

「ガイドラインの執筆者は複数の医師だが、高齢で回復が望めそうにない者、余命の短い者を見捨てるという厳しい結論を出している。年齢に加え、持病の有無など患者の全般的な健康状態も考慮すべきとされている。これは深刻な持病のある患者の死亡率が高いとされていることに加え、高齢や虚弱な患者のほうが治療に時間がかかり、よりリソースを消費するためだという。ガイドラインでは、新型コロナ患者以外で集中治療を必要とする患者にも、この判定基準を当てはめるとしている。」

イタリアでは院内感染も起こり、医療従事者の多くも感染し、集中治療室や人工呼吸器も足りない状態になっている。
医療崩壊の状態だ。
当局は「これは戦争だ」と言っているらしい。

そういう状態であれば、誰かがこういうガイドラインを決めないといけないだろうし、それはある種アタリマエのことでもある。
厳しいが、正しいことだ。
それを決めることで、個人の負担を減らし、効率的に治療をすすめることができる。

もちろん、こういうガイドラインを定めても、難しい判断を迫られることもあるだろうが、その判断を下してもガイドラインが責任を担保するのだ。
そのためのガイドラインだとも言える。

ところが、番組の司会者は「これはひどい」というニュアンスでコメンテーターの医師に「どう思うか」と聞いた。
聞かれた方も、それについては直接答えず、こういう状態にならないことが望ましいと婉曲表現した。

どうして日本ではこういうことがストレートに言えないのか。
イタリアの状況を考えると、このガイドラインは当たり前の措置だと思う。
「この状況で、助けられる人を最大限にするための措置だ」となぜ言わないのだろうか。

命は大切だ、ということは言われなくてもわかっている。
それでも、こういう判断をしないといけないときがある。
それは厳しいが仕方ないことだ。

それをちゃんと言えない日本は、また戦前のようになっている。
「空気」を恐れて、正しいことが言えない。

これはよくないことだぞ。


| | 考えたこと | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
リモートワーク3
リモートワークをやって、家庭不和が起こったという事例があるらしい。
一人暮らしならリモートワークはOKだが、家族持ちならそうではないこともある。
なんとなくわかる。
いつもいない人が家にいると、いろんな問題が起こるだろう。

ややこしいのは、家に配偶者がいる場合。
ぶっちゃけた話、専業主婦で小さい子供がいて、いつも仕事に行っている夫が一日家にいるとややこしいだろう。
そういう家はリモートワークに向いていない。
それこそ、カフェで仕事をするとか、対策が必要だ。

要は定年後の状態が今訪れるということだ。
個室の仕事場があるような家ならいいが、日本の住宅状況では難しい。仕事をする場がリビングなら特に難しいだろう。
リモートワークが普通になると、個室が必要になる。
幸い、2033年には3軒に1軒は空き家になるらしいし、リモートワークなら働く場所は選べるから、空き家を利用すればいいかもしれない。

でも、リモートワークをするようになると、その人の仕事は何かということを明確にしないといけない。
これが一番の問題だろう。
日本の多くの会社が、いい加減にしてきたところだ。

きっと、リモートワークをすると、すぐに仕事が終わってしまう人がいると思う。
会社にいれば、無駄話をしたり、会議があったり、誰かの席に行って話をしたりして時間が潰れるが、リモートワークだとそれがなくなるので、純粋な仕事が残る。
当たり前だが「みんなでやる」という仕事はなくなるのだ。(あくまでリモートワークでの話)

今回のコロナ騒動でたくさんの会議がなくなったと思うが、なくなってそんなに困るものはなかったのではないか。
特に前に書いたアリバイ作りの会議など、もともと開く必要がないのだ。
それらをやめて、各自が自分の仕事を一生懸命やれば、日本の生産性も上がるだろう。
上の人は本来の仕事である、「責任をとる」ことをやればいいだけだ。

会社にいたころ、「内向きの価値観」ということで、あるプロジェクトをまとめたことがある。
それは「社内向けの資料の仕事のほうが、お客さん向けよりも忙しい」とか「役員向けの資料をお客さん向けの資料よりきれいに作らないといけない」というような状態があったからだ。
みんな内向きになって、外がおろそかになっていた。
それをやめよう、という意図で作ったのだが…。

コロナで始まったリモートワークが、日本の生産性を上げる方向に進めばいいと思う。


| | 考えたこと | 10:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
コドモの国
オリンピックの聖火リレーが中止されたというニュースが流れた。
まあ、世界的なパンデミック宣言が出て、いろんな国のスポーツ関係者が言っていることを聞くと、当然だろうと思う。

ところが、日本のマスコミはそうは思っていないらしい。
ニュースでリレーの中止を伝えると、併せてリレー参加予定者が「残念だ」というコメントを流す。
みんなが「残念だ」と言ったのだろうか。
そんなことはないと思う。
なかには「それは仕方ない」というコメントもあったはず。
でも、流すのは「残念だ」というものだ。

もちろん、残念だと言っても、心では仕方ないと思っているのだろう(と思いたい)。
でも、そのニュースを何度も見せられると、「何だかなあ」という気持ちになる。
残念だという気持ちはわかるが、この状況では仕方がない、ということがなぜ言えないんだろうと思う。
それがオトナの国のコメントだと思う。

なかには子供が出てきて「残念だ」という場面もあったが、それはかまわない。
横にいるいい大人(というよりぼくより人生の先輩)が孫の横で「残念だ」というのが情けない。
そこは、大人として「この状況なら仕方ない」と言ってほしかった。

日本は何だかコドモの国になったようだ。

マスコミが流すコメントを見ていてそう思う。

ホントに情けない…。




| | 考えたこと | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
読解力
計算はできるのに、文章題ができない学生がたくさんいる。
特に割合の文章題。
割合というものの概念がわかっていない。

割合というのは部分を全体で割ったもの、という説明をする。
必ずそうとは限らないのだが、とりあえず、そう説明するのだ。
いくら説明しても、意味で理解しようとしない。
意味を取れないので、表現で判断しようとする。
そうなると、文字で判断せざるを得ない。
都合よく「全体は100で、その時の部分は50」とは文章題に書いていないから困るのだ。

仕事算でも、A君はこの仕事を終わらせるのに10日かかる、と書いてあっても、A君の1日あたりの仕事量は1/10、ということにならない。
いくら仕事全体を1とおいて考えよう、と言っても難しい。
「仕事全体を1とおく」ということ自体が理解できないのだと思う。
10日かかるというのはわかるのだが、「仕事全体を1とおく」というイメージを持つことができない。
割合の概念がわからない、というのはこういうことなのだ。

速度の問題でも、「はじき」で覚えている。
「はじき」とは「速さ、時間、距離」の頭文字。
要は速さ=距離÷時間、時間=距離÷速さ、距離=速さ✕時間の関係を、図と言葉で覚えているのだ。

問題では、時、分が混じっていたり、km、mが混じっていたりする。
そうなると、もう難しくなる。
速度は単位時間に移動する距離のこと、ということの「意味」をわかればいいのだが…。
あとは単位をそろえるだけの話。

新井紀子の書いた「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」にも読解力のことが書いてあったが、文章題が不得意な大学生たちを見ていると、本当に「読解力」というか、意味を考える力が足りないと思う。
新井さんも、意味をとるということが、AIに勝つ上で重要だと言っていたはず。
リーディング・スキル・テスト(RST)も、意味を理解する力を問うために開発された。

文章題も、意味を問うところで引っかかっているのだ。
手でさわれるもの、つまり形而下のものは頭で考えることができても、「割合」のような手でさわれないもの、形而上のものを頭で考えて、実際にあるもののように操作することができない。
だから、文章題が不得意なのだと思う。

読解力とは、想像力も含むものではないか。
形而上のものを想像する力も必要なのだと思う。

RSTを作るときには、それについてもっと研究してほしいと思う。




| | 考えたこと | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジャパン・アズ・ナンバー・スリー
ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)の社説に「ジャパン・アズ・ナンバー・スリー」というのがあった。
WSJの日本版創刊の10周年で、2010年8月17日の記事を再掲載したもの。

2010年というと、日本が長期的に停滞に入って10年経ったあたり。
中国がGDPで日本を超えて、世界2位の大国になった年でもある。
1990年代にジャパン・アズ・ナンバーワンという本が出されたが、その後の日中の位置を書いたものだ。

2020年の今、日本企業の有様は見る影もない。
かろうじて自動車産業は生き残っているが、家電は総崩れ。
ウォークマンがiPodに負けたのが象徴的。

日本は政府の歳出もGDP比で40%近くなっており、社会保障の負債は大きい。
バブル崩壊して以降、政府債務は200%まで押し上がったが、成長には貢献していない。
社会保障が債務を食っている。
生産性も低く、個人所得もどんどん下がって今や世界の40位程度。
日本人の平均個人所得は、アメリカで最も貧しいミシシッピ州よりも低い。
社会が高齢化し、リスク回避が横行して、成長を目指すことができない。

それがWSJが10年前に載せた記事の内容。

それから10年経ったが、状況は悪化している。
高度成長を謳歌した世代が長く居座り、若い人たちに権限移譲しない。
完全に守りに入っているように見える。

スマホも縮小で生き残れそうにないし、カメラや腕時計といった精密機器もスマホの機能が上がって取って代わろうとしている。
IoTと呼ばれる、すべての機器がインターネットとつながる、というパラダイムチェンジが起こっている。
それに乗り遅れてしまった。
自動車も100年に一度の変革期ということで、先が見えない。

ぼくはキャノンの株を長いこと持っているが、こないだ来た株主総会の議案書を見てびっくりした。
役員に80歳以上の人がごろごろいる。
これでいいのだろうか。
社会だけでなく、会社も高齢化しているのだ。

これが成長を阻害しているように思う。
例外はまれにあるだろうが、老兵は去らねばならない。
いくら功績があってもだ。

本当にそう思う。

| | 考えたこと | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
Web会議
Webでの面談は余計な話がなくなり、時間的には短くなる。
実際に顔を合わせての面談よりも、得られる情報量が少なくなり、その情報にまつわる話がなくなるからだろう。
Webの会議も、よけいな話がなくなって、早く終わる。
会議の目的を果たすという意味では、効率が上がる。
移動の時間がなくなって、おまけに会議の時間も減るとなると、いいことずくめだ。

社会学的に、この「よけいなコミュニケーション」というのはどういうものなんだろう。
どんな意味を持つのだろうか。

Web面談で言えば、ちょっとした仕草や表情、顔を合わせているからこそ伝わるものから、不安や心配、要求を人間は読み取ることができる。
そういうものから、アドバイスを追加したり、こちらから問いかけをしたりすることができる。
今のWebカメラ・マイクの解像度や遅延では、それらは失われる。
そこがもったいないと思う。

会議中のよけいな話からでも、仕事上のいろんなヒントを得たりしたことはある。
問題提起をする会議などでは、どんな情報が自分たちの役に立つかもわからないのだから、余計に「よぶんな情報」が必要だ。
そういうものが無くなるのも、もったいない。

でも、会議のために移動することを思えば、圧倒的にWebの方が効率がいい。
国際会議など、Web会議に代替えすることで大幅な経費削減になる。
時代はそっちの方に行くべきだと思う。

ずっと見ているNCISという海軍の犯罪捜査のワシントン支局にはMTACという部屋がある。
NCIS用語集によると、MTACの意味は、

「Multiple Threat Assessment Centerの略。
CIA、FBI、DEA及びインターポールや国務省、陸海空軍などの主要機関と映像、音声で通信する機能を有する中枢のシステム。」

と書いてある。

本当にあるのかどうかはわからないが、ドラマの中では大画面でWebミーティングをしている。
イラクやアフガニスタンに派遣された舞台との交信や、FBIとのやりとりなどで使っている。
あれは大画面にすることによって、できるだけニュアンスを伝えようとしているのだろうか。

人間のコミュニケーションの7割は非言語だという。
表情や声の調子などの情報が圧倒的に多い。
そこができるだけ欠落しないようなシステムが必要だ。

そういうことを考えている人もいるんだろうと思う。

早く実用化してほしいものだ。


| | 考えたこと | 17:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
算数は大事
こないだの日経によると、関学の学長が「数学を学ばない高校生が、日本の労働生産性が低迷している要因になっている」という記事を書いている。
遅きに失した感があるが、それはそのとおりだと思う。

ぼくらの時代は、大学入試に数学は必須だった。
文系の私学でも、数2までは必要ということだったはず。
だから、高校も数学の授業をちゃんとしていた。
当時は大学も少なかったし、受験生は多かったから、大学が志願者を選べた。

その後、大学はどんどん増え、志願者は減った。
供給が増えて、需要が減ったということだ。
そうなると、一部の文系私学が志願者を増やすために、入試科目から数学を外して受験生集めに成功した。
これが教育の質の低下を招いた。
他の文系私学も志願者獲得のために次々と数学を外し、今では入試科目は現代文(古典、漢文は要らない)と英語だけ、という大学もある。

それと並行して推薦入試がどんどん増えた。
指定校推薦、学校の推薦に加えて、今は自己推薦という大学まである。
要するに志願者が集まればいいのだ。

ただ、4年制の大学は推薦入試の入学者は定員の半数まで、ということになっている。
文科省の人数制限があるのだ。
そこで出てきたのがAO入試。これは一般入試の扱いになる。
最初にAO入試をやった慶応大の湘南キャンパスは良い学生が集った。
それを見た他の大学が、慶応の事例を見て、AO入試を悪用して青田刈りを始めた。

AO入試は秋までには合格が出る。
推薦入試も早い。
だから、早く進路を決めたい高校生はそれを選択する。
推薦やAOには先生の協力も必要なので、高校は思春期の生徒を従わせるのに好都合だった。
そういう学生は早めに受験を終え、暇になる。
本来なら一番勉強する時期に、彼らはもうバイト三昧だ。

下位の私学では、そういう学生がどんどん増えている。
推薦とAOでほとんど埋まってしまって、一般入試の席が残らないということもあるだろう。
金儲けのためには、学校法人はなりふり構わない。

そのために、英語のプレースメントテストをする学校もある。
一般入試を受けていない生徒が半分以上いれば、英語力のチェックは必要だろう。
そもそも入試が入試として成立してない証拠だ。
教育の使命感などあったものではない。

関学の学長が言ったことは本当にそうだと思う。
しかし、それを招いたのは自学を含む大多数の私学が、文系の入試から数学を外したことがきっかけだろう。
そして、大学のセンセイたちは、そのことを知っている。
だからこそ、昨年早稲田の経済学部が2021年から数学を必須にした。
この措置は立派だと思う。
でも、文科省の領分である初等中等教育の質が保証されていない、ということは恐くて言えない。

「%のわからない大学生」が本当にたくさんいる。
割合の概念がわからない。
それどころか、計算はできても文章題ができない学生も多い。
国語と数学の時間が足りないのだろう。

それを招いたのは確かに高校以下の教育課程だ。
一見、大学には責任がないように見える。
しかし、そうなったきっかけは大学入試から数学を外したことなのだと思う。

それだけ学長が「数学が大事」というのなら、なぜ入試で数学を必須にしないのか。
推薦入試で数学の成績を特別に重視しないのか。
なぜそんなに大事な数学を入試の科目にしないのか。
おかしいではないか。

学長なら、そこまで踏み込んでほしい。





| | 考えたこと | 20:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
メルケル首相のスピーチ
ドイツのメルケル首相が国民に向けてスピーチをした。

日本語に訳してくれているサイトがあるので、紹介する。
こういう演説を日本の首相もやってほしいものだと思う。

ドイツメルケル首相の演説 試訳


| | 考えたこと | 19:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
猫はためらわずにノンと言う
猫はためらわずにノンと言う ステファン・ガルニエ ダイヤモンド社

アマゾンで中古が安くなったので購入。
字を追うだけならすぐに読める。
やさしい言葉で書いているが、ネコのことを考えながら読むと時間がかかるかもしれない。
飼っている人なら、趣がだいぶ違うだろう。

イヌのしつけ方とか飼い方の本はたくさん出ているが、ネコのしつけ方の本はないと思う。
一方、ネコを哲学的に考察した本は多いが、イヌはそんな本は稀だと思う。
人間とネコの関係は、そういうものなのだ。

作者のステファン・ガルニエは、事故で足を一本失ったネコを買っている。
動物は自分のハンディキャップを意識しない(ように見える)。
彼がこの本を書いたことと、ハンディキャップを持っているネコを飼っていることは、きっと無関係ではないだろう。

イヌが飼い主をリーダーだと思うのに対して、ネコは同僚だと思っている。
だから、ネコは言うことを聞いたり、聞かなかったりする。
そこが、ネコ好きがネコを好きなところだし、イヌ好きがネコを苦手なところなんだろう。

この本はネコについてのコラムが集まったものだが、それぞれのコラムの最初にはネコに関する格言が書かれている。
いくつかを拾うと、

「はじめに神は人を作った。しかし、人があまりにも弱いのを見て猫を与えた。
 ウォレン・エクスタイン(作家、動物トレーナー、動物愛護活動家)」

「猫は何の約にも立たないことを名誉なことだと考えている。だから家の中では犬よりも上位に立とうとする。
 ミシェル・トゥルニエ(小説家)」

「猫の友情を勝ち取るのは困難だ。猫は哲学的でまじめで、静かで自分の習慣を大事にし、秩序と清潔さが大好きである。そして誰にでも軽々しく愛情を示したりしない。あなたが友人としてふさわしいと思えば、友人にはなるが、決してあなたの奴隷になりはしない。
 テオフィル・ゴーチェ(詩人、小説家)」

「犬には主人がいて、猫には下僕がいる。
 デイヴ・バリー(作家・コラムニスト)」

「人は猫を選ぶのではなく、猫に選ばれるのだ。
 フィリップ・ラグノー(ジャーナリスト、作家)」

「猫が好きな人は、力の関係を避ける。
 アニー・デュプレー(俳優)」

「人間が文明を手に入れたのは猫を理解するためだ。
 ジョージ・バーナード・ショー(文学者、脚本家、政治家、教育家)」

ちなみに、この本の巻末の猫指数のチェックテストの結果、ぼくはちょっとの差で仔猫レベルだった。
もう少しで立派な猫になれるとのこと。

この本を読むと、ネコを飼いたくなる。




| | 考えたこと | 18:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
リモートワーク2
昨日の夜、次男が東京から帰ってきた。
日曜日が友人の結婚式。
今日はどうするのかと思ったら、家で仕事をするという。
流行りのリモートワークというやつだ。
なるほど、別に東京にいなくても、仕事はできる。

今日は昼間にミーティングもしたらしい。
部屋のWifiが弱いので、リビングにパソコンを持ってきてやったとのこと。
家には他に誰もいなかったから、ちょうどよかった。

彼曰く、リモートワークで大事なのは椅子だそうだ。
普通の椅子では長いこと座っているのは疲れる。
真剣にパソコンに向かって仕事をするのなら、いい椅子でないといけない。

会社の椅子は結構いい椅子らしいが、リモートワークで家で仕事をしていると、安い椅子がしんどいらしい。
リモートワークが増えると、いい椅子が売れるかもしれない。
はたらく環境となると、普通の家では難しいのだろう。

ぼくは、仕事を持って帰ってやったことはあるが、平日のワーキングアワーに本気で仕事をしたことはない。
電話世代のぼくらにとっては、仕事の一部分は電話の会話だったから、事務所を離れて仕事をするというのは難しかった。

Faxからメールになって、リモートワークに近くなった。
そのうえ、会社の携帯電話を使ったり、IP電話を使えば、家からでも電話ができる。
さらに、ブロードバンド化で複数の相手とパソコンやスマホを通してミーティングもできる。
もともと、Slackなどを使っていれば、情報の共有はできているから、話が早い。

便利になったものだ。

インターネットのおかげで、物理的な距離や時間を超えて仕事ができる。
それでも、対面のオフィスはなくならないだろうが、利用頻度は減るだろう。

自分のスキルを持って仕事ができるギグワーカーはどんどんやりやすくなる。

そのためには、ジョブ型の雇用体制がもっと進む必要があるが…。



| | 考えたこと | 21:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
会議への懐疑
去年も書いたが、アメリカ・ギャラップ社の調査によると、日本には「熱意ある社員」が6%しかおらず、これは調査対象の139カ国中132位とのこと。
その他にも、日本だけ「やる気のない社員」が全体の70%を占めるというデーターもある。
今年もそういう記事が出るということは、状況は変わっていないのだろう。

社員の愚痴で圧倒的に多いのが、会議やミーティングの回数の多さらしい。
組織で働いた経験からいうと、会議の種類にはいくつかある。

まずは、責任逃れのための会議。これは意外と多いと思う。
担当が、こうした方がいいと思っていても、やって失敗したときのことを考えて、責任分散するために関係者を読んで会議をする、というパターン。
上が責任を取る、とぃう体制になっていたら、こういう会議は減る。

次に、情報共有のための会議。
これは定例で行われるような会議に多い。
各部署から代表が出てきて、どんなことがうまくいったとか、何で困っているとか、そういう報告があるもの。
だいたいは、上のエラい人が出ることが多い。

逆に、上からの指示を伝えるための会議もある。
今はこういう会議は減ったと思うが…。
強いリーダーのもとでは、こういう会議が多くなる。

最後に、これはどうしよう?という会議。
ある課題に対して、対応のアイデアを集めたいという会議だ。
これぞ本来の会議と言える。

でも、若い人たちに聞くと、今やいろんなツールがあり、会議の必要性が減っているとのこと。

ネットで調べると、Slackというアプリが出てきた。
チームコミュニケーションツール、という位置づけ。
ビジネスチャットアプリと呼ぶこともあるらしい。
こういうものを使えば、ネット上で意見集約したり、アイデアを集めることができる。

もちろん、Slack社だけでなく、対抗のアプリも売られている。
今の日本企業はどちらかといえば内向きだから、きっと会議が増えていると思う。
みんな責任回避をしたがるのだ。

また、会議が実質的にセレモニー化しているときは、話し合うということよりも、人数を集めること自体に意味がある。
国会の予算委員会に閣僚が出席することや、行政の会議などはこういう非効率が多い。
大学の会議などは、集まることに意義があるので、こういうツールが入っても人があつまるのだと思う。

こういう体質が日本の生産性を下げているのだろう。

これらのツールが活用促進されて、日本の生産性が上がることを期待する。

| | 考えたこと | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
Sports
英語で「port」というと港のこと。
ポートタワーの「ポート」だ。

「sports」という言葉は、「s」に「port」が引っ付いている。
スポーツと港が関係しているとは思わなかった。

元の言葉はラテン語の「deportare」で、港から離れるということらしい。
それは、日常生活から離れるという意味になって、「気晴らし」という意味になった。
つまり、「sports」は「日常生活から離れて気晴らしをすること」というのが元の意味だ。

19世紀から20世紀にかけて使われるようになったというが、百年以上経って、だいぶスポーツの扱いは変わった。
高校野球などみていると、とても気晴らしとは思えない。
プロスポーツはもちろん、オリンピックに限らず、アマチュアの世界大会などはもうビジネスだ。
食うために、重いものを背負ってやっている。

そういう見方をすれば、本来の意味でスポーツと呼べるものは、学校の休み時間に遊びでやるものや、体育の時間のものくらい。
大人の草野球、草サッカーなども含まれるだろう。
「気晴らし」というくらいだから、それに命を賭ける、というようなものではない。

ということは今テレビでやっているようなスポーツは、本来のスポーツの意味からどんどん離れていっているということだ。
サッカーなどは熱狂的なファンがいて、この試合に負けたら国に帰れないとか、自殺点をいれたらほんとに殺されたというような話も聞く。
メジャーリーグのトップ選手の年俸が何十億円、というような状況だから、やるほうも必死だ。
プロは間違いなくスポーツではないだろう。

しかし、新しいスポーツであるスノーボードなどを見ていると、オリンピックでも気晴らしでやっているように見える。
服装もカジュアルだし、ピアスをつけていたりする。
国のために頑張る、という重いものを背負っているという感じでもない。

あくまで自分が勝ちたいという気持ちだと思う。

今まで、スノーボードの選手たちは不真面目だと思っていたが、それは間違いで彼らが本来のスポーツなのだ。
自分の気晴らしのためにやっているスポーツで、どういうわけか選ばれて、オリンピックに来てしまったという感じ。

となると、彼らみたいでない選手たちはいったい何をやっているのだろうか。




| | 考えたこと | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
平成任侠伝
ツイッターを見ていたら、ヤクザの事務所のガサ入れか何かで、ヤクザと警察が怒号を飛ばしている、というようなテレビ中継の画像があった。

その画像では、塀から顔を出した組員3人が怒鳴っている様子なのだが、3人共マスクをしている。
そこには投稿した人のコメントがあって、「このご時世、ヤクザですらコロナ対策を怠らないの、公衆衛生意識が高くて素晴らしいですね」と書いてある。
笑ってしまった。

それを見て、昭和任侠伝という昔の新作落語を思い出した。
ヤクザは昭和の時代には「任侠」と言われた。
一世を風靡した東映のヤクザ映画は、高倉健などが主人公で、いわゆる「いいヤクザ」だった。
カタギの衆に迷惑をかけない、という生き方。
ヤクザ映画を見て、高倉健になりきる主人公を面白おかしく描いた昭和の傑作だと思う。
時代の流れにはついていけなかったが…。

今回の場面は、なんともちぐはぐな印象を受ける。
テロップに「怒鳴っている」と書かれているが、マスクをしているから口を開けているのかもわからないし、表情が半分隠れると怒っているような気もするが、心配しているようにも見える。
それが3人、塀から顔だけ出しているからよけいに面白い。

ヤクザとマスク、というのはなかなか結びつかない。
昔は人の道を踏み外して、命知らずになった人たちがヤクザになる、という雰囲気だった。
今でも鉄砲玉と称して、組長のために相手の組に殴り込みをかける人もいる。
そのヤクザが、コロナウィルスを怖がるというのが、なんとも言えない。
公衆衛生を考え、感染を防止するためにマスクをしているのなら、完全に「市民」だ。
「カタギの衆に迷惑をかけない」という意味では正しい行動なのだが…。

映っている組員にしても、まさかテレビカメラが撮っているとは思わなかったのかもしれない。
映るんだったら、マスクをとったのに…、ということだ。
一部を切り取った映像が出回るとは思っていなかっただろう。
ましてや、ツイッターにコメント付きで出るとは、思いもしていない。

こういう意識があるから、日本の感染者が低い、ということもあるかもしれない。
ギャングですら、マスクをして感染を防ぐことに協力しているのだ。

CNNやBBCで報道してくれないかな…。





| | 考えたこと | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
PCR検査
PCR検査という言葉がよくテレビで聞かれるようになった。
「PCR」というのは、長らくぼくにとっては乗用車用ラジアル(Passenger Car Radial)という意味だったが、今回違う意味が加わった。

ウィルスの検査に使われるのが、PCR検査。
この精度が低く、コロナウィルスの場合、さほどあてにならないということだ。

検査のためには、検査できる程度にウィルスを増やすことが必要だ。
これが細菌と違って、ウィルスは難しい。
細菌は生き物だから、栄養を与えると増えていくが、ウィルスは遺伝情報が入ったカプセルみたいのもので、そう簡単に増やせない。
Wikipediaによると、ウイルスの定義は以下のようになっている。

「ウイルスは細胞を構成単位とせず、自己増殖はできないが、遺伝子を有するという、非生物・生物両方の特性を持っている。 現在のところ自然科学では生物・生命の定義を行うことができていないため、便宜的に細胞を構成単位とし、代謝、増殖できるものを生物と呼んでいるが、ウイルスは「非細胞性生物」として位置づけられる。」

要するに、細菌のような生物ではないから、栄養を与えて増やすことはできないということだ。
培養しようと思ったら、何らかの細胞にそのウィルスを感染させて、その細胞を増やすしかないという。
その上で、増やした遺伝子を調べるしかないということだ。

それはごく微量のために、なかなか検査はできない。
既知のウィルスの場合はそうやって検査するのだが、今回のように未知の場合は都合のいい細菌もなく、遺伝子そのものを調べざるを得ない。
ここが難しいところだ。

そのために、検体の遺伝子をコピーする作業が必要となる。
その装置がPCR装置。
したがって、ウィルスの遺物(壊れた後のもの)の遺伝子が残っていても、コピーして増やすと陽性反応が出てしまうことが起こる。
だから、PCR検査は精度が低くなっているという。
要は、非常に難しい検査をしているということになる。

検査キットはPCR検査よりも精度が低く、これを適用するのは「ハイリスク集団」だから、効果があるということだ。
この場合、ハイリスク集団は実際に発熱が続き、何らかの症状がある、という集団になる。
その場合は検査キットでも精度は上がる。
インフルエンザの検査のように、そういうことを理解して使うことが必要なのだ。

マスコミに出てくる「専門家」は、もっと検査精度の限界をはっきりと示すべきだと思う。
そして、ちょっと心配だから検査をしてほしいという人たちを、そこからオミットしないといけない。
それが、医師の判断で検査をするかどうかを決める、ということなのだと思う。

マスコミの論調は検査は100%正しい、という感じだが、世の中に100%正しい検査など存在しない。
常にエラーとの戦いをしているのが、検査というものなのだ。

そこをもっと伝えるのが「専門家」の役割ではないか。





| | 考えたこと | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
神戸市教育委員会
神戸新聞は地元ということもあって、東須磨小学校の教員の暴力事件を積極的に取材している。
こないだの記事で「神戸市の教育委員、市教委事務局幹部の更迭へ議案提出も否決」というのがあった。

記事を読んでみると、神戸市の教育委員(当たり前だが、教育委員会の構成員)が会議の席上、市教育委員会事務局幹部2名の更迭を求める議案を提出していた由。

行政の設置する委員会というのものは、お飾りの委員(と名言はしていないが)を選んで、結局は事務局が下打ち合わせなどをして、そのとおりに進めていく、という形式がほとんどだと思う。
以下はあくまでもぼくの私見。

それでも、さすがに今回の事件は大変なことだと思ったのか、教育委員からの議案が提出されたということだ。
教育委員会事務局にとっては、困った事態。
長年の運営で、そういうことは想定外なのだろう。
でも、建前上は当たり前のこと。
そういうことが、行政の委員会などで常態化しているのが、日本の地方自治の根本的な問題だと思う。

記事では「教育委員による議案提出は異例。議案は賛否が割れ、最終的に否決されたという。」とあった。
議案は教育次長と総務部長を移動させる内容だったとのこと。
総務部長は公表されていないが、教育次長2人は名前と経歴が公表されている。

教育次長はいずれも神戸市に採用されて、一人は平成21年から教育委員会と中学校校長を歴任し去年の4月から教育次長、もう一人は、平成16年から教育委員会の事務で間に小学校の校長を2年間挟んでいる。
結局、この人たちが教育委員会を動かしているのだろう。
だから、今回の事案で教育委員から更迭の事案が出たのだと思う。

教育委員たちはほとんどが大学のセンセイで、小学校や中学校の教育のことなどわからない、と事務局がたかをくくって、現状維持の方向(自分たちが仕事がやりやすい方向)でまとめてきたのだと思う。
選ばれた教育委員たちも給料がもらえるのなら、別に問題意識など持っていなくて構わないと思ったのだろう。
しかし、今回の事案はあまりにも非常識で教育現場にあるまじき行為だったので、委員のセンセイ方もものを申したのだと思う。

記事には「同問題では、加害教員を分限休職処分とする際、事務局が根拠条文を間違えて記載したり、外部の調査委員会への提出資料に漏れがあったりするなど、事務的なミスが続いた。最近では、情報共有や連絡体制の在り方を巡って、教育委員が公開の場で事務局に見直しを求める場面もあり、組織の立て直しを求めて議案を提出したとみられる。」と書かれている。

この問題には、教育委員会などの組織の立て直しこそが、根本的な改善策であり、そのガバナンスを変えることこそ必要だとぼくは思う。
ついに教育委員が立ち上がった、ということだ。

ところが、その議事録を確認しようとしても、ネット上に議事録がない。
2月の定例会議の議事録には、そういう議題すらない。
ましてや否決されたという記録もない。

一体、どうなっているのだろう。

このままでは、神戸市の?育界は何も変わらないぞ。





| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
贈る言葉
今日は勤め先の卒業式。
人数を絞って、簡略化して挙行したようだ。

ぼくは公式行事などには関わらないのだが、今年は一人「消防士になりたい」という卒業生の手伝いをした。
公務員試験の勉強と面接練習など、足かけ1年間、本当に詰めてやったのは半年足らずだが、本気でなりたいという意思が固く、頑張って合格した。
廊下を歩いていたら、ちょうどその学生がいて、一緒に写真を撮ってくれという。
喜んで写真に収まった。

しばらくしたら、メールで写真を送ってくれた。
写真を見ると、老けたなあと思う。
横にいるのが、袴姿の若い子だからよけいにそう見えるのかもしれない。

そのメールに、公務員試験に通ってから、危険物取扱の資格も取ったと書いてあった。
もともと、消防士の現場というよりも、火災予防の方に進みたいということだったので、頑張ったのだろう。

お礼のメールを出して、その最後に贈る言葉を書いた。

幸福の秘訣は、自分がやりたいことをするのではなく、
自分がやるべきことを好きになることだ。

というもの。
ジェームス・バリーという作家の言葉。
ピーター・パンの作者らしい。

キャリアの仕事をしていると、本当に「目の前のことを一生懸命やること」が一番大事だと思う。

世の中、やれ個性だ、やれ自分の生き方だなどと言っている。
「世界に一つだけの花」の世界だ。
もともと特別なNo.1、などちゃんちゃらオカシイ。
そんなことを言っていたら、一生幸せになどなれないと思う。
そういう意味で、この言葉を贈った。

そしたら、また返事が来て「眼の前のことを頑張ります」とあって、

「またいつか伺いますねー!」

と書いてあった。

がんばれ!



| | 考えたこと | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
納豆不足
ぼくは大学時代に初めて納豆を知った。
あの匂いをかいで、変なもの食べてるなあと思っていた。
会社に入って、関東出身の社員とテストコースに出張に行った時に、宿舎の食堂で朝食に納豆を美味しそうに食べるのを見て、ちょっと興味を持った。

そして、今は納豆が好きになった。
植物性のタンパク質で発酵食品だから身体にもいい。
今は減量中であまりご飯は食べないが、ご飯を食べるときはたいがい納豆を食べる。
卵かけご飯よりも納豆ご飯だ。

スーパーに行くと、たいがい納豆を買う。
いつも買うのは3パック77円のもの。
ところが昨日スーパーに行ったら、納豆売り場が空っぽになっている。
どうしたのかと思ってよく見たら、高いものだけ残っている。
不思議だなあと思いながら、100円以上の有機納豆を買って帰った。

今日ネットで調べてみると、納豆は全国的に品不足になっている。
どうも、茨城県で感染者がいなかったので、納豆が感染症に効く、というデマが広がったらしい。
業者の声として、いつも買う分を買って下さい、ということだった。
作るのに2日間かかるらしい。
さすが発酵食品だ。

関東ではそれで済むが、関西では納豆を日常的に食べる人は少ないので、いつも買わない人が買い始めるとすぐに不足するのだろう。
納豆好きのぼくにとっては、困ったことだ。

マスクはもちろんのこと、トイレットペーパーについで、ティッシュペーパーも品不足。
マスコミがそのニュースを流すと、また不足になる。
本当にマスコミはみんなの役に立っているのだろうか。

そういうわけで、納豆不足が起こっている。

本当に何が起こるかわからない。

| | 考えたこと | 20:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
コロナ対策
「新型コロナウィルスでやってはいけないNG行動」という記事を読んだ。
麻酔科の医師が書いている。
その5つとは、

1.「新型コロナかも……」と救急外来を受診する

検査結果が陽性であっても、「安静・栄養・水分・睡眠」といった一般的な風邪と同じ対症療法しかない。心配なときは保健所や病院に電話を入れることが先とのこと。
真偽不明の情報を流しているのは

2.新型コロナ情報をSNSで拡散する

コロナ関係のネット上の情報を見ると福島原発の時と同じようなデマが並んでいる。

「たとえば2011年の福島第一原発事故では、「東日本は人間が住めなくなる」「放射線障害で○○人死んだ」といったデマが流された。今回の新型コロナでも、過去にそうした情報を発信していた人が、真偽不明の情報を書いていることが多い。「福島産の桃を食べて白血病になった人がいる」のような無責任なデマは、その後の復興を妨げた。同様の過ちを繰り返すべきではない。」
ということだ。

本当にそう思う。

3.「N95タイプ」のマスクを買いに走る
高性能のマスクは呼吸が息苦しくて、使いにくい。慣れていないと、1日中装着はできないとのこと。
廉価なものでいいので、清潔なものを毎日交換するほうがいいとのことだ。

4.除菌グッズ・サプリ・○○水などをネットで購入する

怪しい商品もたくさんあるらしい。「5枚1500円のマスク」「コロナウイルスに有効な乳酸菌飲料」のような商品のネット通販もあるとのこと。
こういうのに引っかからないように。

5.中国人を排除する

検査キットが開発されれば、日本国内にもたくさんの感染者がいるはず。いたずらに人間を排除するのはやめよう。

新型コロナウィルスは基本的には風邪だから、手洗い・うがいの励行、マスクの着用、不要の外出を避ける、十分な栄養と睡眠をとることなどが有効とのこと。

今朝のニュースで専門家会議が、まだまだ警戒が必要ということを言っている。
緊急の措置も継続するのだろうか。

経済の対策も今度は入れるべきだと思う。



| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
懐メロ
今日グーグルのネスト(スマートスピーカー)に「OKグーグル、松田聖子をかけて」と言ったら、松田聖子は今日誕生日です、と言った。
ほんまかいなと思って調べてみたら、彼女は今日が誕生日。
57歳になる。

そう言って、「セイシェルの夕日」をかけてくれた。
1983年のアルバム「ユートピア」に入っている。
もう37年前。だから、松田聖子が20歳の時だ。

37年前の曲なら、昔で言えば「懐メロ」になる。
でも、「セイシェルの夕日」が懐メロという感覚はない。

そういえば、もう懐メロという言葉もあまり使われなくなった。
どれが「懐メロ」という区切りがはっきりしない。
そう思っているのはぼくだけかもしれないが…。

Wikipediaで懐メロの定義を調べると、

懐メロ(なつメロ)とは、ある程度年月の経たかつての大衆歌謡で、聞くとその歌が流行した頃が懐かしく思い出されるような歌の総称。 “懐かしのメロディー”の略語で、狭義には1930年代 - 1950年代まで大衆歌謡の主流であった「流行歌」の俗称。

と書かれていた。

懐メロという言葉がなくなったのは、「大衆歌謡」がなくなったからかもしれない。
昔の懐メロというのは、「憧れのハワイ航路」とか「青い山脈」「りんごの唄」などのイメージ。
祖母がNHKの「懐かしのメロディー」を見ながらそれらを口ずさんでいた。

かろうじて、松田聖子あたりはまだ夜のヒットスタジオなどの歌番組が全盛で、「大衆」という定義に当てはまるところもあったが、あの頃はテレビに出ないニューミュージック(今でいうとJ-POPか)の歌手もいて、それらを好きな人たちは歌番組を見なかったりした。
ぼくもその一人。
洋楽もまだまだ人気があって、洋楽ファンはテレビに出る歌手など見ない人が多かった。
FMエアチェック、カセットデッキなどが現役の頃だ。

もちろん、演歌の好きな中高年もいて、演歌、歌謡曲、ニューミュージック、洋楽というような分類だったと思う。
ヒットスタジオには今で言うJ-POPの人と、演歌の人がどちらも出ていた。
もちろん、紅白歌合戦も一緒だ。

70年代後半あたりはそんな時代だった。
その時に「大衆歌謡」は滅んだのかもしれない。
それこそ、世間の人がみんな聞くような共通の歌がなくなったのだ。

懐メロにはそういう意味も込められている。

ちょっと感傷的になるが、もう懐メロは生まれないだろう。



| | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
リモートワーク
うちの息子達は2人とも東京にいるが、コロナウィルスの関係で今はリモートワークの日があるそうだ。
2人とも独身だが、リモートワークを歓迎しているのかというと、そうでもない。
理由はよくわからないが、会社に行くのもいい、ということだ。

リモートワークはたしかに便利だが、会社に行かないとできないこともある。
その最たるものが「雑談」だ。
ぼくは「雑談」の価値は会社に行くことに見合うものだと思う。

それは個人的な楽しみのためだけではなく、仕事のためにもなることだと思う。
誰かがこれだけITが進歩して、なぜシリコンバレーにIT企業が集積しているのかというと、やはり直接顔を合わせることが大事だということを言っていたが、そのとおりだ。
雑談の中から生まれるアイデアもあれば、それがプロジェクトに発展することもあるし、新製品につながることもあるのだ。

いろんな会社が雑談ができるAIを作っているが、まともに人間に対応できるものはまだまだない。
アラン・チューリングが、目隠しで話をして機械とわからないもののことを人工知能と呼ぶ、という言ったのもよくわかる。

そういう意味では雑談のないオフィスはダメだと思う。
昔は通信手段が電話だったから、始終誰かが電話をかけていて、話し声が飛び交うオフィスだった。
それがFAXになっても、ある程度は継続した。
ところが、それがメールになって、静かになった。
ちょうどその変曲点のところで、会社をやめて学校法人に変わった。

学校法人はまだまだアナログだったから、喧騒というほどではなかったが、やっぱり電話が多かった。
キャリアの部署は、ぼくが課長だったから、うるさい部署だった。
だから、ぼくは声のないオフィスでは働いたことがなかった。

なぜそういう変化が起こったのかはわからないが、今行っている学校法人のオフィスの中には全く雑談のないオフィスもある。
雑談をしていたら、うるさいと言われる。
静けさになれた人たちにとっては、話し声は不快なのだろう。
しかし、ずっと喧騒の中で仕事をしてきたぼくにとっては、これが仕事場かと思うほどだ。

息子たちの会社はまだ喧騒があるのだろう。
だから、会社に行ったほうがいい、という言葉が出てくるのだと思う。
それは、いいことだ。

雑談は脳を活性化させる。
じーっと黙って仕事をしていることがいいことだとは思わない。
でも、そう思わない人もいる。

困ったものだ。


| | 考えたこと | 20:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
腕時計の危機
シチズン時計の業績が悪いらしい。
原因は腕時計の不振。
スマートウォッチが脅威になっているとのこと。
こないだ変わり種のスマートウォッチを出したところだが…。

腕時計をつけない若い人が増えた。
スマホを持っていると、正しい時間はわかるからだ。
そして、今どきはスマホの着信情報やいろんな情報を手元に送る技術もできた。
おまけに、腕に付けていると心拍や血圧、心電図波形などもわかる。
加速度センサーで運動量も測れる。
それらを全部実現するのが、スマートウォッチというものだ。

まだまだデザイン上の問題がある。
バカでかいものが多い。
小さくすると、電池が小さくなって、電池の持ちが悪くなる。

アップルウォッチはずっと出ていたが、ようやく使いものになってきた。
問題はまだ電池の持ちが悪いこと。
アメリカ市場向けの最新のものは、心電図をモニターして危険を予測できる。
日本向けはその機能は使えない。規制があるからだ。

最初は既存の時計のメーカーはガジェット扱いだったが、ここに来て脅威になってきたということだ。
生まれたときからスマホを見てきた人たちは、スマートウォッチに行くのかもしれない。
その人口が半分だったとしても、従来の腕時計の需要は半分になる。

アマゾンで見ると、中国製の安いスマートウォッチが山ほどある。
数千円のものから、上はアップルの4,5万円まで。

時計機能は既存の物を使い、電子機能のみを文字盤で見ることができるハイブリッドのものも出てきた。

ウォークマンとiPodのような構図。
ソニーが負けたように、シチズンやセイコーは負けるのだろうか。

アナログ機械式から、デジタル液晶、クオーツと進化してきた腕時計。

日本のメーカーも頑張ってほしいと思う。


| | 考えたこと | 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
一人家族
2040年には一人家族(単身世帯)が4割になるらしい。
1980年に2割だったが、今は35%。
あと11年で5%増える。
今でもほぼ半分に近いが、4割というと、一人世帯がほとんど2軒に1軒になるということだ。

1975年ごろから未婚者が増えはじめたとのこと。
ぼくが18歳の時。
50代前半の未婚率は、90年までは5%足らずだったが、2010年には20%を超えた。
75年以降に未婚を選択し、50代の未婚者が急増した。
ぼくらの少し後の世代。
さすがにぼくらの世代の未婚率は、2割もないはず。

70年代の後半から、「晩婚化・未婚化・出生率低下・離婚率上昇・単身世帯増加」の5点セットが始まった。
今の少子化の元になるものだ。
この原因は経済成長で豊かになったから、ということらしい。
生活のためだけに、結婚しなくてもよくなった。

今の先進国は、移民流入を除くと多かれ少なかれ少子化の状態だと思う。
経済的に豊かになって、人生における選択肢が増えると、結婚しないという選択も増えてくるということだろう。

今でも一人家族が35%いるのだから、2040年に向けてそんなに激増するわけではない。
ただ、後期高齢者の一人家族が増えるということは、考えておく必要がある。
問題としては、「孤独になること」「認知症が増える」ということ。
認知症は、いい薬が開発されるかもしれないが…。

平均寿命は女性の方が長いから、高齢者に関してはどうしても女性の一人暮らしが増える。
うちの母も一人暮らしだが、今はサービス付きの集合住宅に入っている。
そのマンションの住人は、やはり圧倒的に女性が多い。
一人一部屋なので、夫婦で2部屋借りて住んでいる人もいるが、2,3組だ。

一人家族が元気にならないと、日本の活力は減退する。

本当なら、一人家族が減って、二人以上の家族が増えてほしいところだが…。


| | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
グルメサイトのフェイクレビュー
アマゾンのレビューで明らかに日本語のおかしいものがある。
たいがいそういう製品は中国製だったりして、ネットの信頼性の仕組みを作っているのは、ウソのレビューなどを排除する「性善説」に基づいていることを実感した。
そこをいかに担保する仕組みを作るかが、ネットでの発展を考える上で重要だろう。

そんなことを考えていたら、グルメサイトでもフェイクレビューのニュースだ。
日経ビジネスに、飲食業界では来店してもらうために、「食べログ」などのやらせのレビューをやっている、という記事があった。
ネットの影響が大きくなった証拠だ。

「飲食業界では、料理の腕や接客術を磨くことに専念せず、不正を働いてまで客の評判を高めようとする店舗が存在する。客に金銭を支払ってグルメサイトに「料理はどれもおいしかった」「店内の雰囲気がよく、接客が行き届いていました」など、高評価の「レビュー(口コミ)」を書き込ませる、やらせの実態が取材から浮かび上がってきた。」

記事によると、食べ歩きが趣味のブロガーに頻繁に「お願い」のメールが来る、ということだ。
いい評点の記事を書くと、1回の投稿で1万円のお礼と飲食代2名まで無料、という特典があるとのこと。
こういうのを口コミ代行者という人たちがやっている。
実際に食べログのようなグルメサイトの点数が低くなって、予約がピタリと止まったという店もあるようだから驚く。
こうなると、ライバル店が悪意を持って悪いレビューを書く、ということも起こっているんだろうと思う。

こんなサイクルになると、レビューシステムは機能しないどころか、逆に信頼性を落とす。
本来は善意でよくしようと思っていても、ネットの匿名性を利用してそれを悪用する人が出てくるのだ。

最近宴会の予約をよくするが、ぼくはグルメサイトの評点など見ない。
料理ジャンルと場所、店内の写真、メニューあたりを参考にはするが…。
あとは電話をかけて、日と人数を伝えて、予約OKかどうか聞くだけ。

ミシュランの星がどうたらこうたら、というドラマもあったが、そんなの信用しない。
値段を上げるための手段みたいなものだろう。
料理なんて、主観だし、好き嫌いもある。
だれかが3つ星だと言っても、それが本当に美味しいかどうかなど全く保証の限りではない。
レビューの評点でずらっと3.5が並んでいても、自分がオイシイと思うかどうかなどわからない。
味覚など、いい加減なものだとぼくは思う。

とはいえ、グルメサイトのレビューで店を選ぶ人がたくさんいるから、こういうフェイクが流行るのだろう。
サイト運営者の方から言えば、たかが口コミをそんなに重要視するなというのが本音だろう。

ということで、ぼくにはあまり関係はないが、こういうことが世の中で起こっている。

インターネットが生んだ新たなビジネス。

こうなってしまったら、見る人のネットリテラシーが大切なのだろう。



| | 考えたこと | 21:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
死の規制緩和
山折哲雄という宗教学者がいる。
現在88歳。
本を読んだことはない。
時々、この人のコラムを読む。

こないだ、日経ビジネスで「90歳以上の高齢者に死の規制緩和を」という山折哲雄のインタビュー記事があった。
30代後半に暴飲暴食がたたり、大量吐血、下血して入院したとのこと。
このときに、絶食療法をした。
点滴で栄養を取るだけで、最初の4日くらいは身体がどんどん枯れてきた。
しかし、5日目、6日目になると飢餓感が引いていって、身体が軽くなって、身体の奥底からエネルギーが湧いてくるという感覚になったという。

仏教の修行僧も、死に際には断食する。
断食往生死だ。
山折氏も絶食経験から、死ぬときは断食しようと思ったとのこと。
西行法師も断食往生だったらしい。

現在の高齢化社会を迎えて、こういうことを言っている。

「生命科学の進歩によって寿命は延びていますが、寝たきりになったり、認知症を患ったりする高齢者は増えています。緩和医療や延命医療などが広がったことで、どこまで生きているのかよく分からない半死半生の人間がどんどん生まれているのが現実でしょう。こういう現実を考えると、現在の高齢化時代にあった死の再定義が必要だと思います。
 加えて、90歳以上の高齢者には安楽死を認めるべきだと思います。安楽死については医学界、仏教界、法曹界が猛烈に反対していますが、年を取ってからの安楽死を支持する人は、意外に多いのではないでしょうか。死にも規制緩和が必要だと思います。」

まことにもっともな意見だと思う。

88歳を迎えて、宗教家の彼は師と仰いできた親鸞の全集を知人に譲ったという。
ずっと背中に重いものを背負ってきたという感じが、ちょっと軽くなって、開放感を感じたらしい。

彼に比べると、ぼくの背負っているものなど比べ物にならないほど軽いと思うが、まだまだ捨てられないものも多い。
持っては死ねないとわかっているのだが、まだ使うかもしれない、とか思う。
使わないだろうと思っていても、なかなか思いきれない。

ぼくの父も、いろんなものを残して死んだ。
まだ実家に残っている。
おそらく、実家を潰すときに業者が処分してくれるだろう。

そう思うと、自分が生きている間に処分するのが最善だ。

終活、大事になるぞ。




| | 考えたこと | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
コロナ報道
コロナウィルスの報道で足りないと思うのは、8割の人たちが軽症だということは聞くのだが、その人たちの症状はどんなもので、どれくらいで治るのか、ということだ。
感染したことに気づくことが難しいから、感染したらどうなるのか、ということが正確に伝えられないといけないと思う。
コロナというからには風邪みたいな症状なのだろうが、どうなったらマスクで感染予防をしないといけないのか、ということだ。
どうしてすでに治った軽症に人にインタビューしないのだろうか。

軽症だったら、普通の風邪の扱いで、寝てたら治るのかということもわからない。
一般的な風邪に特効薬がないように、この風邪にも特効薬はないのだから、体力をつけて寝るくらいしか対策はないと思う。
そして、治ったらもうウィルスはいない、ということなのかということだ。
いつまでも保菌者でいるわけはないと思う。

ダイヤモンド・プリンセスで数千人が長いこと船に閉じ込められたが、あそこでは気づいたときにはすでに感染が広がっていたのではないか。
このウィルスがそんなに恐いのなら、そこでバタバタと死人が出たはずだとぼくは思う。
あれだけの期間、一つの船の中にいて、そんなにバタバタ死人が出てないということは、このウィルスはきつくないのだとぼくは勝手に思っている。

実際、去年の9月から今年の1月でインフルエンザにかかった人は426万人もいる。
亡くなった人は数千人だから、死亡率はコンマ以下だ。
感覚的には最悪でも、インフルエンザと変わらないのではないかとぼくは思う。

専門家と称する人たちが、テレビで連日「怖い怖い」と煽るようなことを言っているが、今朝のニュースを見ていたら、暇だから高校生が盛り場で遊んでいる、というのがあった。
テレビなどほとんど見ない若い人たちだから、マスコミの影響は受けていないのだろう。
もちろん、親からはあまり出歩かないようにと言われていると思うが、街はそんなに危険だという雰囲気はない。

今朝も10時過ぎの環状線はさらにガラ空きで、余裕で座れるくらい。
インバウンドの観光客がいなくなり、さらに不要不急の外出が減り、学校が休みになって、遊ぶスポットも休みになり、そして誰もいなくなった、という感じだ。
昨日、土曜日に友だちと飲む店を予約しようとネットで調べたら、3月は全部空いてるという表示だった。

この措置は2週間で終わってもらわないとなあ。
給食の業者は困っているらしいし、営業を自粛しているところの従業員も困っているらしいし、経済的に行き詰まるのではないか。

このままでは、経済が回らずに人が死ぬということが起きそうだ。
インバウンドはなかなか難しそうだが、せめて日本国内だけでもお金を回さないといけないと思う。

どうせ、このウィルスと人間は共生していかないといけないのだから。




| | 考えたこと | 21:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
Webで面談
今週からコロナウィルスの関係で、相談がWeb経由になった。
ネットを利用して、パソコンを通してやり取りする形式。
感染拡大を防ぐためには仕方がない。

そういえば、面接もWebを利用する会社も出てきた。
こういうことが手軽にできる時代。
家にWifiがあれば、スマホで撮影しながら面談ができてしまう。
ノートPCでもたいがいカメラがついているから、それでOK。
要はネット環境さえ整えば、スマホがあれば、テレビ電話ができるのだ。

やっていて気がつくのは、対面でやるよりも時間が短くなるということ。
今日の最初の人は、10分早く終わった。
たいがい早めに終わるのだが、そこから「何か質問はありますか」などと言って、質問してもらう。
質問がなければ、話す練習をしようということで、面接を想定して質問したりする。
そういう余計な時間がなくなる、という感じ。

なぜそうなるかというと、信頼関係の構築が難しいからだと思う。
対面でやっていると、圧倒的に視覚による情報量が多い。
書いたもののチェックをしていると、画面の大部分は文書画面になって、相手の表情は小さく映るだけ。
そういうのが、情報量の差になる。
情報量が減ると、信頼関係の濃さが変わる。
そうなると、用事が済んだら終わり、ということになる。
まあ、時代の流れなのだろう。
一応、文書を読んでいても、画面を見ながらなので面談者は顔が見られる、というメリットもある。

無駄を省くのにはいいのだろう。
今回のコロナ騒ぎで、ネットの利用は進むと思う。
採用面接に関しては、こういうやり方もありだ、と思うからだ。

中高年はそれに反発もあるだろう。
実際に会って、表情を見て、そこから得られるものも多い、とか言うのだ。
それに対して、若い人たちはネットでやるほうがリラックスしてできるし、第一時間の節約になるとか言うだろう。
これも世代間の対立になる。

今話題になっている「生産性」という観点からは、ネットの利用に軍配が上がる。
結局、こういうせめぎあいがいたる所で起こっているのが現実なのだろう。
中高年の人たちが勝っている間は、なかなか生産性は上がらない。

時間が経つのを待つしかないのかと思うが…。



| | 考えたこと | 20:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
地球平面説
今朝のワールドニュースを見ていたら、フランスのニュースで「アメリカでは地球は平面だと信じている人がいる」と言っていた。
放送では、アメリカの「地球平面説コミュニティ」の人たちが紹介されている。

少なからぬ人たちが、地球は平面で、人類が宇宙に行ったというのはウソであり、スタジオで撮影しているのだ、と言っている。
宇宙に言ったというウソを言うのは、税金を取るためだという。

アポロやスペースシャトルを生んだ国で、「地球平面説」を信じている人たちがいる、というのはビックリした。
アメリカでは進化論も信じていない人が多いが、こっちは宗教的な理由や、実際疑わしい事実もあるからだが、地球が丸いというのは、「常識」だと思っていたのに、驚いた。
コミュニティでは、表にお皿のような地球の絵が描いてあり、裏に「地球は平面だ。ウソつき!」と書いてあった。

彼らの地球は中心に北極があって、一番外の淵の部分はぐるっと南極になっている。
南極が平面の端っこから落ちるのを食い止めているということだ。

その中心的人物が自作のロケットを作り、地球が平面であることを証明しようと自ら乗って飛んだのだが、途中で墜落して、パラシュートも開かず、亡くなってしまった。
2月22日のニュースhttps://gigazine.net/news/20200225-flat-earther-rocket-crash-died/にある。
こうなると、笑っていられない。

Wikipediaによると、地球平面説の中の「インターネット時代の地球平面説」の欄にこういう記述があった。

「地球平面説は2015年頃からSNSや動画共有サービスを通じて一般の人々の関心を集めており、2018年にアメリカで8215人のアメリカ人を対象に“地球の形をどう考えているか”という調査を行った結果、55歳以上では94%が「地球は丸いと信じている」と回答したが、18〜24歳のミレニアル世代は34%が地球が丸いことに疑問を抱いており、4%が「地球は平らだ」と答えていた。

YouTubeでは2019年1月に地球平面説に関するコンテンツを「ユーザーに誤った情報を与えかねないコンテンツ」として、推奨対象から除外していく方針を明らかにしている。」

地球が平面だというのは、人類がずっと信じてきたことでもあるし、ガリレオやコペルニクスのように科学の正しさを証明しようとして迫害を受けた人もいる。
科学者は、迫害を跳ね返して地球は球体であるということを証明してきたし、今では実際に映像もたくさんある。
それだけ情報が増えた時代に、先祖返りしている人たちがいるのは皮肉なことだ。
本気でそう思っているのだろうか…。

それもこれも、科学が正しい、ということをドグマと捉えているからだろう。
たしかに、最先端の量子力学など、直感的にわからないことも多くなっているが、「地球が丸い」というのは先進国では当たり前のことだと思っていた。
教育の成果だろう。

しかし、そういう教育を受けてきたアメリカ人の中に「地球平面説」が少ないとはいえ広がっているとは、どういうことなのか。

地球平面説の信者たちには、地球が丸いというのは体制側の押しつけだ、というような感じもある。

これもアメリカが分断された結果のひとつなのだろうか。




| | 考えたこと | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
大変な時代
こないだは朝イチの相談枠が空いていた。
2枠目の相談者はオンラインゲームの会社のエントリーシートの相談。
残念ながら、オンラインゲームはやったことがなく、ゲームも子どもが大きくなって全くご無沙汰。
時間もあったので、全く業界知識がないので、調べることにした。

会社のことを調べるときは、まずは会社概要を見る。
創業時期、規模、社長メッセージや理念、事業内容というところ。
規模はやっぱり人数で見る。創業時期はベンチャーかどうかの確認だ。
社長メッセージはその企業のこれからの課題を話していればOK。
きれいごとだけだと、要注意。

そのうえで、上場企業であれば有価証券報告書のチェック。
売り上げや利益の推移を確認し、複数の分野がある場合はその分野別の人数比や売り上げ比を見ておく。
そのうえで、「事業の課題」を読んでどこを伸ばしていきたいのかなどチェック。

最後に採用のサイトを見て、社員数と募集人数を見る。
500人の会社で100人も採用していれば、だれでもオカシイと思う。

そこまでやれれば、志望動機などはある程度助言できる。

そういうわけで、今朝はゲーム業界を調べた。
具体的な会社はスクエアエニックス。ファイナルファンタジーやドラゴンクエストで有名だ。
ゲームは、広い意味ではエンターテインメント業界になる。
この業界もこれから大変だ。
ここでも、新しい参入者が来て、事業の先が見えない。

ゲームだけではしんどいのだろう。
メディアミックスの戦略を取っている。
音楽や出版(コミックス)、グッズ販売などだ。

これからはクラウド上でゲームを動かす時代。
グーグルやマイクロソフトが新たなプラットフォームを作り、それに新規参入者たちが入ってくる。
クラウドストリーミングというやつだ。
おまけに、バーチャルリアリティーなどの機器も増えてくる。
5Gへの対応もしないといけない。

人材に望むことは、エンターテイメントへの熱い思いを持つこと。
そのうえで、プロフェッショナル精神と創造的、革新的であることだという。

ゲーム業界も大変だ。
既存のプレイヤーが常に追われている。
今日の勝者は明日の勝者とは限らない。

これからの時代、どこも大変だ。


| | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
プロ野球の時短
メジャーリーグの試合を見ていると、スピーディだ。
実際、日本のプロ野球と比べて試合時間は短い。
それでも、テレビ中継を考えると、試合時間が3時間を超えると苦しくなる。
野球は時間が決まらないスポーツなので、そこはメディアコンテンツとしては弱点だ。
サッカーやラグビーが原則90分で終わることを考えると、対抗が難しい。

メジャーリーグでは今季から「投手は打者3人か、回を終了するまで投げなければならない」というルールを採用したとのこと。
日本のプロ野球も来年以降検討するかもしれない、という。

メジャーの投手の完投率は1904年には87.6%だったが、2019年にはたったの0.18%。
1試合で起用された投手数は、1900年代の初頭に1試合平均2人以下だったが、2019年には4.41人。
野球の質が変わってきたのだから、こういう数字になる。

阪神戦を見に行くことがあるが、ファンは圧倒的に高齢者。
若い人たちに野球の魅力を伝えようとすると、球団努力で興行として魅力を上げていくことも大事だが、テレビ中継も必要になる。
試合時間が長くなると、中途半端な中継になる。試合終了までは中継できない。
昔はプロスポーツといえば野球だったから、そんなことは気にしないでよかったが、今は見る影もない。
そんな状態だから、試合時間を短くすることが必要だろう。

今のプロ野球の平均試合時間は3時間16分で、メジャーよりも11分長い。
今年からメジャーはルールが変わるから、おそらく2時間台になるだろう。

実際、日本のプロ野球でも、ピッチャーが投げる感覚を短くするとか、キャッチャーが早く珠を返すとか、そういうルールを作ろうとしたことがあるらしい。
それでも、現場からの反対で決まらなかったとのこと。

野球連盟の人たちの頭が古すぎるのかもしれない。
プロ、アマを問わずだ。
高校野球の投球数制限など、結局骨抜きのルールでお茶を濁している。
未だに、野球の関係者は昭和の人たちばかりなのではないか。

ぼくも、野球は間のスポーツで、投球の間にワチャワチャ言えるのが魅力だ、と思っていた。
そこがサッカーとの違いだ。
しかし、それはもう古いのかもしれない。

スピーディに試合を運ぶことも、大事だと思う。

昭和は遠くなりにけりだ。



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