考えたこと2

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頼もしい学生
「学生ホワイトハッカー 競技会で企業技術者圧倒」という日経産業新聞の記事があった。
秋葉原で実施された「セキュリティーコンテスト」での成績の話。
日本最大規模のコンテストで社会人チームを押しのけて、学生チームが優勝した。

システムの脆弱性を見つける課題だけでなく、そこを狙った攻撃を安価に食い止める、という課題だったらしい。
優勝したのは大阪のECCコンピューター専門学校のチーム。
初めて聞く用語を調べながら、寝不足に耐えて頑張ったらしい。

今は「バグ報奨金制度」というのがあって、企業システムのバグを見つけると、報奨金が出る。
そういうものを通じて、学生がゲーム感覚でやっている。
お金が出ると、インセンティブになるだろう。

ここ数年は企業のチーム(NTTやパナソニックなど)は上位に残れないほど、学生チームが強くなっている。
好きこそものの上手なれ、というやつかもしれない。
世界では毎日のようにシステムが攻撃され、レポートが出ている。
そのレポートを読んで、知識を更新していかないと勝てない。
上位の学生のセキュリティー技術は世界でもトップレベルらしい。

中には中学1年の時にゲーム機の通信に興味を持って、セキュリティー競技の精度を測る競技環境を作ったという強者もいる。
頼もしいホワイトハッカーだ。

2016年の経産省の調査の結果、セキュリティー人材が2020年には19万人不足すると予測された。
それでも、大学は旧態依然としたままであり、人材の育成には至っていない。
結局文科省は現状を変えたくないのだろう。
いくらでもやりようはあったはず。

サイバー空間は本当に戦争だ。
いろんな国のハッカーが動き回っている。
なんとなく日本語に守られていると思っていて、性善説の日本は知らぬ間にやられているような気がする。

役所関係者や企業でも高齢の経営者など、とても不安だ。
インターネットが家にない、という経営者など、論外ではないか。
もっと計画的に人材育成をしないといけないと思う。

そんな中でも、有望な人材が育っているのはいいことだ。
きっとそういう人材は取り合いになると思うが…。

そういえば、海外でもブラック・ハッカーを捕まえて、ホワイトにして味方にする、ということもやっていた。
育てる、というのは難しいのかもしれない。

セキュリティーのプロがもっと出てくることを望む。

| | 考えたこと | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学の勘違い
経団連が就職に関する倫理憲章を止めることになった。
企業はインターンシップをどんどん増やし、就活の時期が早まってきた。
それを憂いて、このままでは大学の4年間が就職活動になってしまう、という意見も一部の大学から出始めた。

大学の言うことは正しいが、同時に根本的に大きく間違っている。
本来は大学で身につけるべき能力が、ある程度企業内で生かされることになっているはず。
しかし、ほとんどの文系の求人は「全学部全学科」が対象。
つまり、企業は大学で習得することの専門性に頓着していないということだ。
それが根本的な問題だと思う。

今の大学(特に中位以下)に入ってくる学生は、多かれ少なかれ自分が学んだことを生かして仕事ができる、と思っている。
なぜなら、高校の進路指導で、将来のことを考えて大学選び、学部選びをしなさい、と指導されるからだ。

さらに、大学のホームページを見ると、将来なれる職業というような宣伝がある。
法学部なら弁護士とか、司法書士とか書いてある。
間違っても、「サラリーマン」とは書いてない。
実際には大半がサラリーマンになることはわかっているのに、罪深いことだ。

難易度の説明などなく、夢と希望に溢れて受験生をひきつけるのだ。
そういう指導をされて、大学に入ってくるのだから、学部の専門性は就職に役立つと思うだろう。

そんなナイーブな高校生は少ない、という人もいるかもしれないが、ぼくは実際に専門の勉強などしても仕方がない、と言っている学生を何人も見た。
まだ法学部や経済学部、経営学部、商学部など伝統的な学部なら、学んだことを就活の場で話せるだろう。
しかし、それら以外の学部は難しい。
去年から流行っている国際ナントカ学部など、「いろんな国の人の文化を知ってコミュニケーションができます」などと言っても、企業はそんな宣伝よりもTOEICのスコアと留学経験を信じるのだから。

学生に大学にコミットしてもらいたいのなら、専門課程のカリキュラムを変える必要がある。
経済学部なら難しい理論の代わりに、「企業の管理会計の方法」や「簿記」を教えるとか、法学部なら六法の代わりに「企業活動と法律」や「営業で知っておくべき法律」というような授業を作るとか…。
要するに、旧態依然とした授業をやめ、(特に中下位の大学では)企業に入って役に立つものを教える授業に変えることだ。
いくら就活に一生懸命でも、就職に役立つと思えば学校に来るのは当然。

バイト三昧の学生も減るだろう。
アルバイトにふけるのも、授業よりバイト経験の方が役に立つと思っているからだ。

これはぶっちゃけて言えば普通の大学から「専門職大学」になるということだ。
中下位の文系大学の多くは、本来専門職大学になるべきなのだ。
それに伴って、大幅な教員の入れ替えも必要になるだろうが、それは仕方がない。

現在、経団連が「日本型雇用」の限界を感じて、「ジョブ型」の採用を検討している。
そうしないと、優秀な若者が外資に行ってしまう。
年齢を重ねれば、何もしなくても給料が増える、というシステムでは世界と戦っていけない。

同時に、会社に縛られず、どんどん会社を変われる体制も必要とされている。
流動性を確保できないから、一つの会社で働き続けざるを得ない。
だから、会社の命令を拒否できない、というような働き方はもう止めないといけない。

10年後そういう社会ができていることを望む。





| | 考えたこと | 23:53 | comments(2) | trackbacks(0) |
はたらく細胞
「はたらく細胞」というアニメを友人から紹介された。
ホームページによると、ストーリーはこういうもの。

「同じ作業(細胞分裂)を繰り返すだけの毎日に飽き飽きしていた一般細胞の前に、ステキな帽子をかぶった謎の細胞が現れる。その細胞は白血球(好中球)やキラーT細胞らにいたずらを仕掛けようと一般細胞を誘う。
日頃のうっぷん晴らしをして楽しむ一般細胞。
だが、このステキな帽子をかぶった細胞はいったい何者なのか……?」

要は身体の中のいろんな仕組みを、細胞を擬人化して理解する、ということだと思う。
かなり専門的なもので、赤血球や白血球はもちろんのこと、キラーT細胞やマクロファージなどが男女のキャラクターになって登場する。
最初はマンガで、アニメ化されたという経緯らしい。

インフルエンザや風邪、熱中症などのメカニズムもわかるし、対処法も紹介される。
キャラクターは流行りの少女漫画風で、とっつきやすい。

ぜひ1話から見たいのだが、もう放映は終了していて、再放送を待たないといけない。
ネットフリックスなら見られるようだが、有料なのでやめとく。
アラートをかけておいて、再放送を待とう。

こういうマンガやアニメは本当に日本のお家芸だと思う。
原作者は清水茜で、「日本マンガ塾在学中、当時高校生の妹から「細胞について覚えたいので読み切り漫画を1本描いて」と細胞を擬人化したキャラクターのイラストを提示されたのがきっかけ」とWikipediaに書かれている。
こういうマジメなのか、ふざけているのかわからない、ぎりぎりの線上でいい作品を作れるというのは、世界に誇れることだ。
ガンのエピソードでは、専門家が協力している。
このアニメを認め、真面目に協力する、という体制が強みなのだと思う。

これは3DのCGでやるより、2次元でキャラクター化したほうがリアルでなくていい。
さすが、古くは鳥獣戯画からマンガの伝統がある国だ。

手塚治虫が、マジメに鉄腕アトムで「エネルギー」の概念を伝えようとしたのは大きいと思う。
ぼくらは小学校1年で「エネルギー」がどういうものかをアトムのおかげで知った。
手塚はマジメにそういうものを伝えようとして描いていたのだと思う。

日本のロボット技術者たちは、ロボットにアトムの夢を感じているのだと思う。

手塚は偉かった。





| | 考えたこと | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生の終わり
年末から膝が痛い。
右の膝に水がたまって2回抜いてもらった。
その後は診てもらっていないが、まだしゃがんだ時やしゃがんで立つときに痛い。

整形外科ではしゃがむという行為をしないほうがいいと聞いたが、どうしてもしゃがまないと仕方ない時もある。
お店で下の棚のものが取りたいときはどうしようもない。
生きていたら、しゃがまないといけない時もあるのだが…。
これからの人生、しゃがむという行為をしないで生きていくのか、と思う。

結局そういうことなのだ。
年を取ると、できないことが増えていく。
しゃがめないのは序の口だろう。

母を見ているとよくわかる。
握力が弱くなって、瓶のふたやペットボトルのふたが開けられない。
スーパーまで歩いていくことも、いまは何とかできているが、そのうちできなくなるだろう。
ちょっとそこまで行くこともできなくなる。
そんな風にして、人生の終わりを迎える。
したがって、必然的に最期は寝たきりが多くなる。
こんな風になるとは思わなかった。

若いころは今よりも年寄りの人数が少なかった。
車いすもめったに見なかった。
今は電車に乗っていても、よく見かける。
その頃は寿命が短かったから、元気な間に亡くなる人も多かったのだろう。

こないだ、ブライダル企業を狙っている学生に、これからは結婚式よりも葬式が増えるから、そっちはどうか?と聞いたら、その気はないという。
ビジネスとしては、国内では絶対に葬儀のほうが流行るはず。
もったいないことだ。

今の日本は医療も手厚いし、簡単には死ねないから、誰もがそういう可能性を持っている。
おまけに長生きになったおかげで、認知症のリスクも大きくなった。

家族の顔も忘れ、自分のことも忘れて、はたして生きながらえる価値があるのだろうか。
尊厳死は避けて通れないと思うのだが、なかなか議論されない。
命は大事だ、ということだが、ここまでくると本当にそうなのかとも思う。

人生の幕引きは難しい。




| | 考えたこと | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
軍事と科学
アメリカがイランの司令官を攻撃したのは、無人のドローンではないかと言われている。
レーダーに捕捉されないステルス機能を持ったもので、アメリカをはじめ、いろんな国が開発しているらしい。

これを使うと、上空からこっそり敵地に入り、目標を継続監視しながら攻撃することができる。
大きなエンジンのものから、小型のものまであるらしい。

幅1メートルの小型のものはいろんなところですでに使われている。
もちろん、動力はリチウム電池とバッテリーだ。

一方民生用のドローンは中国がシェアの7割を占める。
DJIという深センの会社は日本法人も持っていて、とても日本のドローンではかなわない技術を持っている。
もちろん、その技術は軍事用にも使われているんだろう。

時代は無人機だ。
落ちてもパイロットがいないので、人が死なない。
安全にさほど気遣わないので、安価で量産できる。
自動車で自動運転ができる時代だから、戦闘機もいつかは自律飛行できるだろう。
そうなると、戦争もやる方は人道的?にできる。

戦争が人類の科学技術を発展させてきたのは事実。
そのために、お金が出るからだろう。
インターネットも、元々はどうやって核攻撃されても通信が保持できるか、というところから開発された技術だ。

調べてみると、軍事用に開発されたもので日常生活に使われているものは多い。
自動ドアの赤外線センサーも、もとはミサイルの誘導用だったそうだ。
デジカメやスマホで使われている、電子の目であるCCDセンサーはスパイ衛星からの転用。
今は画素数も大幅に上がり、顔認証などで人物特定などにも利用されている。
香港のデモではそれを防ぐために、みんなマスクをしていた。
同様に、パソコンや電子レンジでも軍事技術が使われているとのこと。

大きな目で見れば、元は軍用だった技術を民間に転用していなければ、今の生活はできない、と言っても過言ではない。
結局大昔から人間は戦争をしてきたし、それが文明を発達させたのだ。
極論すれば、原爆ができたから世界大戦がなくなったと言っても間違いではないとも思う。

軍事の特徴は、一つは「こうすれば相手に勝てる」という目標が明確であること、もう一つはそのためには「お金を惜しまない」ということだろう。
優位に立たなければ、やられてしまうのだから。
そういうスタンスで研究すれば、優れた技術が生まれる、ということだ。

民間の研究ではそうはいかない。
別に今のままでもいいのだが、より便利になるとか、今までできなかった何かができるようになるとか、そういう目標になる。
そして、それをいくら研究者が言ったところで、金になるのか、という話になる。
もちろん、白色LEDのようにそうでない技術もあるが、実際に日常生活で恩恵を受けている技術の多くが、軍用に開発されたものをベースにしている、ということはやはり軍事にメリットがある、ということだろう。
「平和」といくら言ったところで、「核」が大戦争を抑止してきたことは事実だと思う。

それを支えてきたのは、今まではアメリカの覇権主義だ。
当時のソ連に宇宙の軍事利用で勝って、社会主義は崩壊し、たくさんの国がソ連から独立し、ソ連はロシアになった。
アメリカは経済力も強いが、軍のプレゼンスが大きくないと、国際社会で力を持てないと知っている。
中国共産党も、露骨に覇権主義を掲げ、13億人の市場を抱えて新たなプレイヤーになった。

世界はどんどんわからなくなってきている。
アメリカが内向きになり、中国が外向きになって、ロシアも絡んでどうなるかわからない。
ヨーロッパも理想どころではなく、バラバラになりそうだ。

いろんなところで対立が進んで、結局人類はあんまりいい方向に向かっていないように思う。
手塚治虫が鉄腕アトムで描いた、科学の平和利用の世界は残念ながら夢物語になりそうだ。

平和のために軍事をやる、という逆説的なことも考えないといけないのではないか…。



| | 考えたこと | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
テスラ
テスラというとアメリカの電気自動車専門のメーカー。
電気自動車のメーカーはいろいろあるが、量産しているという意味では最大だろう。
ハイブリッドのようにエンジンは使わない。
本当にモーターと電池で走る、ピュアEVを作っている。
欧州のメーカーがディーゼルで失敗して、急遽EVに舵を切ったが、まだまだ前途にはたくさんの問題がある。
もちろん日本のメーカーも似たようなものだ。

その問題をいち早く具現化するのが、テスラのEV。
モデル3という本格的な量産車を分解して調べたという記事が日経Automotiveに出ている。
ぼくは無料の部分しか見られないが、それでも十分わかる。
このモデル3は年間50万台規模で作ろうとしているようだが、このクルマの部品を調べたら、圧倒的な少なさに技術者は驚いたという。

クルマの全体を制御する統合ECU(電子制御ユニット)が、文字通り走る、曲がる、止まるという動きを制御しているらしい。
たった3kgのユニットだ。
他のメーカーも2025年あたりに導入、と言っていたらしいが、それをもう2019年の時点で完成している。

モデル3の中身を見たエンジニアは「部品点数が少なすぎる。本当にこれでクルマが動くのか」と言ったらしい。
パワートレーンというのは、従来のエンジン、クラッチ、トランスミッション、ドライブシャフト、プロペラシャフト、デファレンシャルギアなどを総称して、動力を伝える仕組みのことだが、それがインバーターとモーター、減速機を一体化した駆動モジュールになっているという。
圧倒的に部品点数が少ない。

今までの自動車の部品メーカーにとっては、大ショックだ。
普通のクルマは3万点くらいの部品でできているという。
それが半分以下になるのだから、部品メーカーにとっては死活問題。

今の自動車産業は完成車メーカーを頂上に、たくさんの部品メーカーの裾野が広がっている。
その裾野が半分以下になる。
前にも何度か書いたが、その部品メーカーの大きなところはそれを予想して他の分野に進出を検討しているのが実情。

まだしばらくはエンジンの時代が続く。
バッテリーをそんなにたくさん作れないからだ。
でも、いつ技術革新が起こるかわからない。
どこかの会社が、リチウム以外の汎用材料ですばらしいバッテリーを作ってしまえば、一気に電動化は進むだろう。

部品メーカーにとっては、綱渡りの時代が続く。
日本やドイツ、アメリカにとっては、電動化が進まない方がうれしい、というのが本音だろう。

自動車業界の未来はどうなるのだろう。


| | 考えたこと | 20:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヘディングと認知症
スコットランドで12歳以下の子どものヘディングが禁止された、というワールドニュースを見た。
ヘディングが認知症と関係があり、子どものヘディングが悪影響があるという研究結果があるらしい。

子どものチームのコーチにインタビューしていたが、概ね禁止に賛成という感じだった。
12歳以下ならヘディングは必要ない、という意見を言う人もいた。
まだ因果関係が明確になっていないのだが、予防措置ということだ。
まだスコットランドだけみたいだが、この動きはどうなるのだろう。

サッカーが盛んなスコットランドで、こういう決定がされるところがエライところだと思う。
プロスポーツで日常的にサッカーをする人たちは、若い頃しか活躍できない。
若い頃は、何をしても平気だ。
身体を使うのが商売。

もちろん、サッカーでヘディングがなくなれば、見る方は面白くなくなる。
ゴール前での空中戦がなくなるからだ。

それでも、長いパスなどをヘディングして、他のプレイヤーにパスを出したりするのを見ると、あんなボールをヘディングするのは痛くないのかなと思う。
素人がやったら、脳震盪を起こしたりしないのだろうか。

Webで見たら、イギリスの研究結果が出てくる。
14人の元プロ選手を対象に調査したらしいが、みんな60代前半で認知症を発症。
慢性外傷性脳症を起こしていたとのこと。
ボクサーがなる、パンチドランカーという症状だ。

一人の遺族がコメントしている。

「父にとってはあまりに遅すぎる発表だわ。この研究は現在のサッカー選手や未来のサッカー選手のために重要なこと。父が亡くなってから15年以上が経っているというのに、サッカー協会は何もしてくれなかった。それはあまりに不道徳なことよ」

だいたい老年期にさしかかる時に発症するということだから、長い研究のスパンが必要だったのだろう。
人間の寿命が伸び、認知症という病気が明らかになったことも一因だ。
今回の12歳以下のヘディングの禁止は第一歩。

あのボールの衝突エネルギーは結構大きいと思う。
対策の一つはボールを軽くすることだろう。
でも、長いこと続いてきた伝統を変えるのは難しい。

一度ヘディングを禁止したサッカーを見てみたい。
それなりに面白いのかもしれない。

あるいは、ヘッドギアをつけるとか、装具で対策するという方法もある。

プロのサッカー選手は命を削ってプレーしているのか。

これからどうなるのかな。


| | 考えたこと | 22:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
ベーグルゲート
今朝のワールドニュースで、ニューヨーク市長のスキャンダルをやっていた。
スキャンダルというのは、ニューヨーク市長が「ベーグルをトーストして食べる」というツィートが原因。
知らなかったが、ベーグルというのはユダヤ人が持ち込んだもので、今はニューヨーカーのこだわりの食べ物らしい。

ぼくはベーグルを食べたことなど、ほとんどないし、全く知識がなかった。
ベーグルは蒸したあと焼いて作るのだが、中のもちもちとした食感が魅力だという。
市長のつぶやきに対して、一部のニューヨーカーが「せっかくの食感がトーストしたら台無しだ」ということで大きな反応があったという。

ニューヨーク・タイムズでは、このニュースが大統領の弾劾裁判「ウクライナゲート」の隣の面に載っていた。
ワールドニュースではキャスターがニューヨーカーたちに、このニュースについて聞いて回っていた。
意外にも「ベーグルをトーストして食べる」派が多かった。
トーストしようがしまいが、ベーグルにはみんなこだわりがあるのだろう。

大阪のこだわりの食べ物といえば、お好み焼きやたこ焼き。
どちらも昔はソースだけをかけて食べていたが、今はマヨネーズもかけることが多い。
ぼくは昔はマヨネーズをかけるのは邪道、という立場だったが、今はかけてもいい派になった。
30年ほど前はそういう議論があったと思う。
最近のドラマでは、「お好み焼きにマヨネーズをかけるのは邪道」という発言があったらしい。
それくらい、大阪人にとっては問題だったということだ。

でも、今はお好み焼きにはマヨネーズを普通にかける。
最初からかけて出す店は少ないが、お好みで、という店が多い。
さすがにマヨネーズを置いていない店はなくなったのではないか。

時代とともに大衆の好みに応じて変わっていく。
ちょうどベーグルをトーストするかしないかと同じようなもの。

結局、そこに住んでいる人たちが、食べ方を決めるのだ。

それでこそ、ソウルフード。



| | 考えたこと | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギター練習用ヘッドフォン
BOSSという会社が新製品を発売した。
電子楽器のローランドの子会社。
最初に買ったエフェクターはBOSSのコンパクトエフェクターだった。
足元に置いて、踏むやつだ。

エレキギターを買ったのが大学生の頃。
その頃からBOSSにはお世話になっている。

今回出たのはワイヤレスのヘッドフォン。
ギターの練習用というのは、このヘッドフォンにアンプのシミュレーターとエフェクターが入っているもの。
ギターに小さな送信機を差し込んで、コードレスでヘッドフォンで聞ける。

おまけに、ブルートゥースも使えて、音楽をパソコンやプレーヤーから飛ばすことができる。
つまりヘッドフォンとパソコンがあれば、音楽に合わせてギターの練習ができるというもの。
音量は別々に設定できるし、おまけでギターがどこから聞こえてくるかというモードも設定できる。
70年代からは考えられない進歩。

エフェクターの設定はクラウドで保存されるし、クラウド上にいろんなミュージシャンが作った設定があって、それもダウンロードできる。

ネットとパソコンの発達、半導体の発達、通信技術の発達でこういうものができた。
昔ならステレオセットとレコードやCDの音源、ギターアンプ、エフェクターが必要だった。
それが今やパソコンとヘッドフォンがあれば、コードも気にせず使える。

4万円は高かったが、それだけの値打ちはあると思う。
夜中でもリビングでもいつでも、好きな音楽に合わせて、アンプを通した音で練習ができるのだ。

技術の進歩に感謝。

こういうものを日本の会社が開発したということが誇らしい。
ちょっと高いけど。



| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒップホップ御用達
アメリカでは、ヒップホップのファンやアーティストには、スニーカーの限定モデルが大きな話題になるらしい。
ヒップホップの音楽というと、文化的には体制批判の歌詞が多そうだから、スーツに革靴というファッションよりはスニーカーがもてはやされるのだろう。

その中で出てきたのが「ヴィーガン」のスニーカー。
ヴィーガン、というのはベジタリアンの厳格な人たちのこと。動物性の食品を一切食べない。
その名前を関したスニーカーは、環境に配慮し、植物由来の材料だけでできている、という。
アメリカでは、ヴィーガンのスニーカーでどうやって自社ブランドが優位を持つか、ということが勝利につながる、ということだ。

その背景には有名なラッパーたちが、ナイキやアディダスとコラボしてスニーカーの人気を支えてきたということがある。
さすがはアメリカだ。何でもビジネスにする。
なんでも、アメリカ国内で毎年3億足の靴が捨てられており、埋め立て場行きのスニーカーのパーツは大半がプラスチックや合成ゴム。
これらは自然に完全分解されるには80年かかる。
アンケートによると、持続可能な素材でできた靴にお金を払ってもいい、という回答者は35%もいる。

実際にナイキは植物由来の素材を使ったスニーカーを販売しており、100%オーガニック素材の限定販売のスニーカー「Nike Air Max 90」を150ドルで抽選販売したところ、それらは中古市場で1400ドル以上の人気。
すごい関心の高さだ。
世界にはスニーカーを「投資資産」として見ているマニアもいるらしく、ヴィーガンスニーカーは次のトレンドになるかもしれない、という。

アメリカの人口は3億人を超えており、その中にどれくらいのヴィーガンスニーカーの需要があるかはまだわからない。
でも、ヒップホップのファンは潜在的にそうだと思われているようだ。

これからは、何でも「持続可能」でないといけないのだろう。
安い商品は、石油由来の合成ゴムやプラスチックが使われるが、ヴィーガンになるとそうはいかない。

日本でいうと、「わらじ」「下駄」「草履」などはヴィーガンな履物だ。
植物由来のものだけで作ることができる。
ゴムやプラスチックを使わないと、機能的な性能に欠けるが…。
ヴィーガンという視点でみれば、ひょっとしたらまた流行るかもしれない。
考えたら、昔は石油などなかったし、動物の皮などを使わなければ、ヴィーガンなものばかりだった。

この際、オーガニックシューズとして、わらじや草履を売り出してはどうか。
意外と売れるかもしれない。

植物由来のもう少し強い繊維で編むのだ。

Waraji Maxとか、売れるかもしれないぞ。

| | 考えたこと | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
教養としての落語
東京の山手線には新しく高輪ゲートウェイ駅ができたが、駅の名前の募集をしたときに「芝浜駅」というのも候補にあったらしい。
立川談慶という落語家が、この「芝浜」という名前にちなんだ江戸落語があり、昔の人たちはそれを知っているのが教養だった、という記事を書いていた。
ぼくは大学時代は落研だったから、芝浜という演題も知っている。
でも、それを若い人たちに求めるのもなあ、という気がする。

彼は「ビジネスエリートがなぜか身につけている 教養としての落語」という本も出していて、「教養としての落語」は大事だというスタンスなんだろう。
江戸落語なら「粋」という江戸っ子の文化につながっていて、そういうことも言えるかもしれない。
でも、これだけ娯楽が多様化してきた今、落語という演芸は残っていけるのだろうか。

上方落語に限れば、もう古典落語は年寄りしか聞かない、という思いで「新作落語」に生きる道を見出そうとしていると思う。
こないだ行った落語会でも、ほとんどのお客さんが高齢者。
人情噺が得意な演者ということもあったのだろう。
それにしても、若い人がいない。

今の新聞と同じで、高齢者しか見ないような芸はその人たちがいなくなると廃れる。
それは必然だろう。
だから、新作に活路を見出し、新作をメインにやる人が上方落語協会の会長になっている。

ぼくの世代ですら、歌舞伎の忠臣蔵を実際に見た人などほとんどいない。
そういう人に、そのパロディの面白さなどわからない。
芝居噺はもう成り立たないのだ。

また、お茶屋というとお茶を売っている店だと当然思うし、随所に古い大阪弁が出てきて、意味が分からないことも多い。
大衆芸能は、大衆に受け入れられてこその芸能だ。
今は古典落語でも、大幅にモダンにしてやったり、現代的なギャグを入れてやったりしている演者も多い。
そうしないとウケないのだろう。

だから、最後は新作落語をやらないと生き残れないと思う。
亡くなった枝雀がは古典落語をやったが、その中に枝雀独自のキャラクターを入れてやっていた。
まだまだ古典落語が通じる時代だったが、あれは現在でも生き残る方法だと思う。

今の会長である笑福亭仁智は野球のネタや、源太というやくざの舎弟のネタなど、本当に面白いネタがある。
上方落語は、笑わしてなんぼの世界なのだ。

そういう意味では、上方落語は教養になってしまったらおしまいだろう。
吉本新喜劇が強いのは、常に変わっているからだ。
今の新喜劇はぼくらにはあまり面白くない。でも、若い人たちには人気がある。
それが大衆芸能というものだと思う。

教養としての落語は江戸落語に任せて、上方落語は変わっていくべきだと思う。



| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
「%」が分からない大学生
「「%」が分からない大学生」という本を読んだ。
内容はいろんなところで記事になっている。その通りだと思う。

2007年にキャリアの担当になってから、下位の大学生の基礎学力の無さに本当にビックリした。
それから12年、状況は全く変わっていない。

いろんな人が危機感を持って、手を変え品を変え「「%」が分からない大学生」のことを書く。
どこかでそれが大きな声になって、義務教育を変えることができるかな、と思っていたが、そういうことは望めそうもない。

従来からポツポツとそういう声が出ていたのは、主に教育関係者。
ネット上はネット上でたくさんの記事がある。
グーグルで「割合がわからない」で検索すると、25,200,000件も出てくる。
それだけの声があっても、全く変わらないのだ。

中には企業からの声もあった。
「大手自動車部品メーカーの高卒と大卒の技術者の新入社員に、9-3÷(1/3)+1という問題を出したところ、正答率が4割だった。1980年代の同じ問題の正答率は9割。」
というのも記憶に残っている。
80年代に9割が正解していた問題が、2014年に半分以下になった。
これなど、もっと話題になっても良かったと思うのだが…。

学部改組の時に一度文科省に行った。
その時は男女のペアの若い役人が出てきたが、目が死んでいたのをよく覚えている。
愛想もクソもない会話だった。
入省したときはやる気に燃えていたのかもしれないが、中にいる間に腐ってしまったのだろう。

大学入試改革を見てもよくわかる。
結局何年かの議論は最後の最後にひっくり返り、何も変わらない。
大学関係者も悪いと思うが、それにしても文科省のやろうとしたことは結局何だったのかわからない。

ぼくはこの問題は文科省の教育過程にも問題があるが、根本は教員の問題だと思っている。
世間にたくさんある教育学部の入試で、数学がないところが山ほどある。
大学入試に数学がないということは、数学が苦手な人たちが教育学部に入るということだ。
その人たちが小学校や中学校の教員になる。

文科省もその問題はわかっているはず。
教えるほうが本当に理解しているかどうか怪しいのだ。

入試は各大学に任されているから、文科省は関係ないという位置づけ。
でも、将来先生になる人を養成する教育学部は、入試で数学を試験し、能力を担保しなさい、という指導はできるはず。
なぜそれをしないかというと、志願者が減って先生のなり手が減るからだろう。

文部省のクビになった元事務次官の前川氏が「学校中退の原因は数学だから、必修をやめたらいい」というようなことも言っていた。
元次官がそういう思想の持ち主だから、どうしようもない。

記事には、こうある。

「例えば、天気予報で「明日の降水確率が80%」と言われても、「結局、雨が降りそうなのか降らなさそうなのか」自分なりの判断ができない。駅の注意看板で「ホームで起こる人身傷害事故のうち約6割がお酒に酔ったお客様」と書かれてあっても、その真意(だからお酒を飲む際は気をつけて)を読み取れない……。
 金利が何のことだかも分からないから、不利な条件でローンを組み続け、多額の借金を抱えかねない。買い物に行き「○%オフ」という表示を見ても、それがどの程度お買い得なのか理解できない。プロスポーツを観戦しても、野球の打率も防御率も、サッカーのボール保有率もフリーキック成功率も何もかもがピンと来ないから、ただボールを眺めるだけになる……。」

本当にこうなっているんだぞ。
文科省の役人はどう考えているのか…。






| | 考えたこと | 21:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
2時間サスペンス
正月にサンドウィッチマンが2時間サスペンスドラマのネタをやっていたが、BSを見ていると本当に再放送が多い。
暇なときに、くだらないワイドショーを見るくらいなら、ついついそっちを見てしまう。

俗にいう日本の2時間サスペンスの基本構成は「火曜サスペンス劇場」だろう。
サンドの富澤が「テテテ、テテテ、テレー」というCMに行く前のジングルを、何度もボケていたが、あの音楽は80年代の2時間ドラマを思い出させるのにピッタリ。
サスペンス劇場は2005年まで続いた。
テレビの黄金期から、ネットが勃興するところで終わったのだろう。
本当に山のように2時間ドラマが作られて、再放送のネタには困らない。

始まってすぐに殺人が起きて、謎解きをしていると第二の殺人、また謎解きで犯人に迫ると、逆に犯人に追い詰められるパターン。
ちょうど1時間でチャンネルを変えられないように、第二の殺人や重要な謎解きの場面をはさむ。
最後の20分ほどがクライマックスで、犯人が犯行を説明してから、殺されそうになったときにパトカーが来て逮捕。
なんで犯人が犯行を説明するのかというと、途中トイレに行ったり、わからなかった人のためだ。

漫才でも言っていたが、最後の30分を見たらわかる、というのはこの説明があるから。
いろんなところでネタになるが、犯人は別に犯行の解説などせずに、相手を殺してしまえばいいのに、長々説明する。

今でもサスペンス物はあるが、2時間ドラマは大幅に減った。
Webにも記事があったが、一番の問題は製作費。
広告費が高すぎてWebに取られており、撮影に時間がかかるドラマは作れない。
1時間のドラマでも、いつものセットで撮る場面が増えたと思う。
ロケをすると高くつくからだろう。

スタジオに芸人を呼んで、ワチャワチャ言うバラエティが増えたのも製作費の影響。
ロケは要らないし、場面も変わらないから安くつく。
2時間ドラマにもくだらないものはあるが、バラエティと称する粗雑番組はそれ以下だ。
悪貨は良貨を駆逐する、というが本当にその通り。
2時間サスペンスが「良貨」と思えるほど「悪貨」はひどい。

大宅壮一がテレビを見て「一億総白痴化」と言ったのは1957年。
それから60年ちょっと経って、今もし彼が生きていてテレビを見たら腰を抜かすだろう。

2時間サスペンスドラマは、日本がバブルで浮かれていたころのメモリアルかもしれない。



| | 考えたこと | 18:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
厚底シューズ
箱根駅伝の多くのタイム更新は厚底シューズの影響もある、ということだが、イギリスの新聞が「ナイキの厚底シューズを禁止するのではないか」という報道があった。

走るときに、カーボンファイバーの板の応力を使っている、というところがひっかかるのかもしれない。
それについて、スポーツライターの小林信也氏の記事があった。

記事を見て、ちょっと驚いた。
まず、マラソンという競技はIOCのお荷物になっている、ということ。
IOCは競技のダウンサイジングを進めているらしい。
たしかに、一般道を閉鎖して走るマラソンは、やること自体が大変だ。
でも、ギリシアのマラトンからアテネまでの距離がマラソンの基礎になっているくらいだから、オリンピックからマラソンを外す、というのはどうかとも思う。

国際陸連でマラソンの位置は低いのは、市民マラソンが盛んだからかもしれない。
いろんな都市で主催される市民マラソンは、陸連の管理下にはなく、その時の記録だけで厳密に比較できないからだろう。
だから、禁止云々は市民ランナーにとっては関係ないということだ。

また、市民ランナーはたくさんいるものの、テレビ等の観戦側としてみたときに、マラソンはあまり人気がないらしい。
日本やアフリカでは人気があるが、2時間テレビにかじりついて見る、というほどではないという国ばかり。
そういえば、アメリカでサッカー人気がないのは、時間の割に点が入らないということらしいから、マラソンなど結果だけみたらいい、ということかもしれない。

さらに、マラソンの上位はエチオピアとケニアで占められている、ということだ。
競技者が偏っているということになる。
上位100位の中に日本人は1人で、50人がケニア、40人がエチオピアらしい。
他の国がマラソン選手養成に力を入れていない、ということも言える。
だから、オリンピックでも競技から外れるかもしれない、ということだ。

最後に、アフリカの選手の走り方は日本の従来の走り方とは違う、ということ。
日本の走り方はかかとから足をつけて、指先で蹴る、というもの。
これは薄底シューズの方が適している。

しかし、アフリカの選手たちはかかとをつけずに走るらしい。
そういえば、箱根でもアフリカの学生がたくさんいたが、ピョンピョン飛んでいるような走りだった。
そういう走りをする人たちにとって、足を保護するためにも厚底シューズはいいとのこと。
箱根で厚底シューズでいいタイムを出した選手たちは、アフリカ式の走りをしたのではないか。

水着のレーザーレーサーとの比較もあるが、レーザーレーサーは値段も高く、従来の水着と違ってウレタンで出来ていて、一人では着られないということだった。
それに対して、厚底シューズは値段が3万円と高めだが誰でも買えるし、普通に履ける。
だいたい、国際陸連が禁止しても、各都市で行われる市民マラソンは関係ない。

というわけで、ナイキは別に禁止されても構わない。
もともと、オリンピックを目指して練習する選手が少なく、普通の人たちが履くシューズだからだ。
逆に、だからこそ、国際陸連は禁止しないだろうとも言える。

結果を見守ろう。

| | 考えたこと | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
公共の利益
今日のニュースでこんなのがあった。

「四国電力伊方原発3号機(愛媛県伊方町)から50キロ圏内に住む山口県東部の島の住民3人が、四国電に運転禁止を求めた仮処分の即時抗告審で、広島高裁(森一岳裁判長)は17日、運転の差し止めを認める決定をした。」

前にも書いたことがあるが、また今度も同じこと。
裁判所は公共の利益を考えないのだろうか。

折しも、中東の情勢が不穏な状況もあり、エネルギーの確保は安全保障上も必要だし、そのために原子力発電所を動かすのは必要なことだと思う。
日本は世界一中東の石油に依存しており、もし中東でドンパチやり始めたら大変だ。
石油の備蓄はあるとはいえ、200日程度。
石炭にシフトしているのも、その対策だろう。

再生エネルギーへの転換はいいことだが、それはまだまだ主力電源にはならない。
ドイツでは再エネを使ってはいるが、バックアップの石炭発電所もあるし、フランスの原発で作った電気を輸入しているのだ。

どうして一度作った原発を、GOサインが出ているのに、稼働させないのだろう。
民主党政権で全原発を止めて、今は少し動いているが、まだまだ足りない。
エネルギー自給率を上げるためにも、CO2を削減するためにも、有効なのは原子力を使うことだ。
中国は2020年代に入って、どんどん原発を推進する予定らしい。

東北大震災のあと、民主党の首相がオペレーションを無茶苦茶にして、原発の被害を大きくしかけた。
それを食い止めたのは現場の所長の判断。
無知な首相の判断をあえて聞かなかったおかげ。
その首相が原発を個人の判断で全部止めたが、それを周りの人たちは止めることもできなかった。
なんの法的根拠もないのだ。
日本は法治国家ではなかったのか。

マスコミもその味方をして、一時福島は汚染され、東京には人が住めないとか宣伝された。
そうではないことは、今はマスコミもわかっているはず。
それでも、誤報の反省はない。

今だに、福島は風評被害にあっている。

原発が止まり、今や日本の電気代は中国の倍以上。
おかげで、電気を使うアルミ産業や半導体の製造はどんどん出ていった。
原発を自国で作ることができる日本だったが、技術者も減っている。
日本こそ、原発というクリーンエネルギーで世界を引っ張るはずだったのではないか。

裁判官は仮処分の決定が、日本の産業を弱体化し、若い人たちの働く場所を減らしていることがわかっているのだろうか。

民主党政権のあまりにも大きな負の遺産だ。



| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
意識高い系
スターバックスでMacbookを広げる、というのは「意識高い系」のシンボルになっているようだ。

スタバでMacを広げて仕事(ではないかもしれないが)をしている人を見ていると、イライラする、という人がいる。
これは、しばしばWeb上で言われている。
Macbookを広げている人がドヤ顔をしているとか、ドヤラーだとかいう記事もあった。

Wikipediaによると「意識高い系」というのは、自分を過剰に演出する(言い換えれば、大言壮語を吐く)が中身が伴っていない若者、前向きすぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人などを意味する俗称」という定義。
あまりいい意味では使われない。

いずれにしても、若い人が対象だ。
「意識高い系の中高年」というのは存在しないのだろう。
中高年を判断する尺度が年齢とともに出来てしまうから、いくら自分を過剰に演出しようとしてもできない。
しょぼくれたおじさんが、いくら自分の夢を語っても、意識高いというよりは繰り言に聞こえてしまう。
若い人なら、しょぼくれた格好でも、うちに秘めたものがあるかもしれない。
だから、「意識高い系」なのだろう。

Macbookというのは、アップルのノートPC。
Windowsよりも値段が高く、ステイタスがある(と思う)。
機能的にはWindowsとほとんど変わらないが、一番の特徴は向かいから見た時に、アップルのリンゴマークが光ることだ。
似たようなパソコンはあるが、この差は大きい。

そして、スタバでパソコンを広げて作業している、というのは「自由人」ぽいということだろう。
オフィスに縛られて働くという生き方を選ばない。
かっこいい言葉で言えば、フリーランスだろう。

それを見ていると、イライラする、という気持ちもわかる。
本物のフリーランスはもっと働きやすいところで働くはずだ、と思う。
スターバックスはそんなに働きやすいところではない。
椅子も低いし、うるさいし、狭い。
そこで、これ見よがしにMacbookを広げて、パタパタやっているのが「意識ばかり高くて、中身が伴っていない空回りしている若者」に見えるのだろう。
何となくわかる。

意識高い系の人は、本気で自分でやってることは見栄やハッタリではない、と思っているのだろうか。
定義を見ると、「過剰に演出」しているのだから、少しは「見せたい」という思いはあるのだろう。
それがイライラの原因になる。

もっと地に足をつけて、地道に頑張れ、ということだ。

意識高い系が一概に悪いわけではないと思う。
若者はある種うっとうしいものなのだ。

いつそれに気がついて、抜け出すか、ということなのだろう。

抜け出せたらいいのだが…。



| | 考えたこと | 21:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
「すごい」方言
「すごい」を表す方言の特集があった。
ほんまかいな、というものも含まれているが、ぼくの知っているものもある。

まず北海道の「なまら」。
これは実習で釧路に営業所に1ヶ月行っているときによく聞いた。

愛知県の「でら」。これは「どえらい」がなまって「でら」になった、というもの。
これも聞いたことがある。
「でらうま」という土産物も見たことがある。
大阪弁では「めっちゃうまい」ということだ。

京都の「えろぉ」は普通に聞くし、兵庫や大阪なら十分通じる。
「えろぉ困ってんねん」などという。
奈良は「ごっつぅ」だが、これも同様だ。

広島県の「ぶち」とか福岡県の「ばり」、大阪の「めっちゃ」などは広範囲で通じると思う。
「めっちゃ」というのは方言といっても、だいぶ新しい。

「ぶち」「ばり」は子供らが小学校のころ使っていたように思う。
大人になって使うのを聞かないが「ばりおもろい」などと言っていた。

岩手の「らずもね」、秋田の「しったげ」、山形の「すこだま」、福島の「ばげぇに」、栃木の「まっさか」、群馬の「なっから」などは想像がつかない。
話していて、前後の文脈から意味は推定できそうだが、それだけ聞いても全くわからない。
どういう語源で「すごい」になったのだろう。

方言というのは面白いものだ。
言葉にあたたかみがあって、味がある。
ぼくは、標準語しか話せない人たちを気の毒に思う。(標準語を話すことはできないが…。)

上方落語に出てくる、「まどう(弁償する)」「いらち(あわてもの)」「てれこ(行き違い)」「だんない(問題ない)」などという言葉、地元の人でもわからない人もいるのではないか。
ぼくらの若い頃はテレビの影響で、どんどん標準語が話されるようになった時期。
テレビの黄金期だ。

今は逆に若い人たちはテレビ離れの時代。
Youtubeでは方言もそのまま話されたりする。
そういう意味では、方言がまた生き残れる時代になった。

方言は文化であって、言葉が多様性を持つのはいいことだ。

大事にしないと…



| | 考えたこと | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
セッション 2
会社の先輩とのギターのセッションだが、次回の練習日が2月の末に決まった。
課題曲は前回の「500マイル」「ディドリームビリーバー」に加えて「Teach your children」「Cotton Fields」「Country Road」「Lyin' Eyes」「Boxer」などの洋楽と、加山雄三の「旅人よ」も加わった。

まあ、いろいろやってみて、気に入ったのやできそうなのにしよう、ということだ。
ボーカルもコーラスも適当にやろうという試み。
練習不足でもいいから気にしないで集まろう、ということになった。

前回と同じく、三宮のスタジオを借りる。
今はネットで予約できるので簡単だ。
決済は当日その場でやる。
便利な世の中になったものだ。
仕事を辞めたものの強みで、平日の昼間にやるので、どこでも空いている。

今回はまだ会社に行っている後輩(有休を取って参加)が一人増えて、4人になった。
4人ともアコギを持って集まる。
誰かがベースをやればいいのだが、誰も持っていない。
エレキベースなら、音程はギターの低いほうの4本の弦と同じだから、コードがわかればとりあえず弾ける。

エレキベースも安くなって、1万円台から売っている。
置き場所とアンプの問題はあるが、アンプも簡単なものが安く売られているし、誰かがやってくれないかなと思う。
こんなことなら、昔持っていたエレキベースを譲るのではなかったと思うが、後の祭り。

1年で90%が挫折するというギターだが、ベースはどうなのだろう。
ベースは基本的に単音だから、バレーコードなどの挫折要因は少ない。
しんどいのは楽器が重いこと、弦長が長いこと、弦が太いことなどがある。
レギュラースケールのベースは手が小さい人にとってはちょっときつい。

また、ベースの譜面はト音記号ではなくヘ音記号だから、ちょうどピアノの下段の楽譜の感じで、ト音記号の譜面に慣れているギタリストはとっつきにくい。
ただ、今はTAB譜(おさえるフレットの番号が書いてある譜面)があるから、さほどのハードルではないと思う。

ベースの勉強をすると、音楽理論の勉強にもなるから、いいとも思う。
でも、いつまで続くかわからないからなあ。
この年からやるのなら、一番安いのも嫌だし、重いのも避けて、弦長は…などと考える。

とにかく、次回集まってから決めよう。



| | 考えたこと | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
特異な日本
トップギアというイギリスの番組がある。
ずっとイギリス人の3人組でやっていたが、世代交代してフレンズをやっていたイタリア系のアメリカ人、マット・ルブランクがメインのMCに変わった。
車を紹介する番組なのだが、珍しく日本でロケをやった。

日本で車を買って、目的地まで走るという企画なのだが、日本人がほとんど番組に出てこない。
ほとんど、レギュラーメンバー2人だけだ。
出てくる日本人といえば、高速の料金所の人とか、中古車のオークションの会場の一般の人とか、ごく普通の日本人。

ほとんど日本語だけで、なんだか不思議な登場人物。
せっかくロケをしているのに、コミュニケーションはほとんどない。
日本のクルマはよく知っているが、日本人はわからない存在、という扱いだ。

これはハリウッドのドラマでも同じ。
「ミステリアスな日本」でも一度書いた。
よほど日本人に対して、「わからない」という気持ちを持っているのだろう。

日本はいち早く西洋化を遂げて、アジアで力を持った。
だから植民地にならず、日清、日露の戦争を経て、第二次大戦を起こし、敗戦した。
マッカーサーが来て、日本を占領し、憲法まで作ってくれた。
そして戦後、アメリカのものがどんどん入ってきて、同盟国にもなった。
そういう経緯がありながら、日本に対して「不思議な国」と思っている。
こちらが不思議になる。

よほど、カミカゼとかハラキリとかいう戦前や江戸時代の日本の文化?が浸透しているのだろうか。
アメリカやイギリスのテレビ局が「普通の国」として扱っていないのはどういうわけなんだろう。
英語が話せない人が多いのが災いしているんだろうか。
自分たちが作った文化を、なんでそんなにすぐに持ってこれたのか、いまだに不思議に思っているのだろうか。

結局、イギリス人もアメリカ人と同じように、いまだに日本は不思議な国だと思っている。

ぼくが会社勤めをしているとき、アメリカ人やイギリス人とたくさん会ったが、彼らも日本に対して「不思議な国」だと思っていたのだろうか。
来るときは、おっかなびっくりで、ビビっていたのだろうか。

きっとそんな感じはあったんだろうと思う。

ぼくらは十分に西洋化していると思っているが、肝心なところは「日本」のままなのだろう。
それがどこなのか、日本人もわかっていない。

だから今でも「わからない国」なのだ。





| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
冷めてもうまいもの
ぼくは食べ物にはあまりこだわりがない。
猫舌ではないが、ご飯は温かいものでなくても、かまわない。

冷ご飯も別に嫌いではない。
冷たいなりの風情があって好きだ。
温かいご飯はそれなりにおいしいし、冷めたご飯もそれなりにおいしい。
しかし、一旦冷めたご飯を温める、というのは二度目の調理をしているようで、別のものに感じられて好ましくない。
最近はこだわらなくなったが、昔は電子レンジで温めるのが嫌いだった。
電子レンジが嫌いだったわけではなく、一度作ったものを温めなおすのが気持ち悪かったのだ。
急冷している冷凍食品を温めるのはまだいいが、自然に冷えたものを温めるのはもったいない、という感じ。
バカバカしいこだわりだが、そう思っていた。

冷めたほうがおいしいのはコロッケ。
作りたてのコロッケは表面がパリッとしすぎていて、好みではない。
冷めて、表面がしなっとしてソースの馴染みのよいものが一番おいしい。

あっさりした煮物も、冷めたほうがおいしい。
野菜の煮たものとか、魚の煮たものとか。
日本の料理は冷めてもおいしいものが多い。
これは先人の知恵か。

油っ気の多いものは、冷めたらいったん溶けた油が固まって、食べられない。
こういうのは苦手。
中華料理の類は、やっぱり温かいものが主流。

豚まん(最近は肉まんと言うらしい)も冷えた方がおいしい。
ちなみに、最近はマスタードが付いてくるが、やっぱりカラシだ。

おまけに、値段の差がある場合、たいがい安いほうが好きだ。
高級なハムやソーセージより、スーパーで売っているものの方がおいしいと思う。

凝ったものもたいがいアウト。
料理はシンプルに、焼いたり煮たり揚げたりするだけがいい。

こないだ友人と話していたら、バカ舌と言われた。
そうかもしれない。

でも、うまいもんはうまい。



| | 考えたこと | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
生産性向上
日経にデービッド・アトキンソンの記事があった。

以前に日本の生産性について書いた本を読んだことがある。
説得力のある記事だった。
アトキンソン氏の意見は、あの時と基本的には変わっていない。

「2019年に生まれた子供の数は90万人を下回った。予想より早く少子化が進んでいる。先進国においては人口と経済規模に極めて強い相関関係がある。日本は社会保障負担の増加に苦しんでいるというのに、これからは労働者の数が激減するから、さらに富が減少することになる。国内総生産(GDP)は人口×生産性であるから、対策としては生産性を上げるしかない。ただ、生産性向上と簡単に言うが、実行するのはかなりのいばらの道だ。」

という最初の文章に書かれている通り。
去年生まれた子供の数が90万人を下回った、というのが衝撃的だ。
2019年の18歳人口が120万人弱いるのに、0歳人口は89万人しかいない。
30万人も減っている。
これが少子高齢化社会の現実。

人が減れば、生産者人口も、消費者人口も減るので、経済規模は小さくなる。
移民をできるだけ入れないという方針の日本の未来は厳しい。
このままでは相対的に増加する高齢者の社会保障もままならない。
だから、一人あたりの生産性を上げることが必要、というリクツ。
まことにその通りだと思う。

記事では、専門家たちは「痛みを伴わない道」ばかり探している、と書かれている。
MMT(現代貨幣理論)という、国がいくらでもお金を刷って支出を増やそうとか、イノベーション(技術革新)に期待するとかいうのが「痛みを伴わない道」だ。

MMTはいろんなところで言われているが、生産年齢人口が余り、雇用が完全ではない国に限って有効な政策だという。
日本のように、ほぼ完全雇用の状態なら極めて危険らしい。
インフレになったときの対処ができないのだろう。

イノベーションの話も、OECDで唯一、この10年間で子供のパソコンの利用が下がっている現実をみれば無理だとわかる。
今や日本はITの後進国なのだ。

ICT推進の大臣がインターネットを使っていなかったり、多くの大学でITの基礎になる数学が入試科目になかったりする現実をどう考えるのか。
ネットのことを全く考えない電波行政とか、行きあたりばったりのエネルギー政策とか、日がな一日くだらないワイドショーやバラエティを垂れ流している民放とか、先生が問題を起こしても、誰も責任を取らない教育委員会とか、英語やプログラミングを教えることになっているのに、教える先生の教育が後回しとか…、生産性が低い原因と思われることは山ほどある。

この国の一番悪いところは自浄作用のないことだ。
明治維新も、戦後の高度成長も、外圧のおかげだと思う。
日産はゴーンが悪いと言っているが、彼が潰れかけた日産を救ったのは事実。
これも、従来の既得権をすべてチャラにした外国人、ゴーンのおかげだ。

いい加減に外圧なしでなんとかできないのか。




| | 考えたこと | 01:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和の俳優
田中健がBSで補聴器のCMに出ていた。
ネットの時代、ググればすぐに年齢がわかる。68歳だった。
「俺たちの旅」に出ていた田中健だ。

ぼくが若い頃、若かった俳優は、当たり前だがみんな年をとった。
職業柄、年をとらない(ように見える)人が多いが、彼もそんな感じだ。
といっても、テレビで見かけたのが昔の再放送だったりするから、当然だったりする。

彼も、補聴器の宣伝をする俳優になった。
やっぱりよる年波には勝てない。
出るには勇気がいる仕事だと思うが、田中健ももう68歳だからかまわないと思ったのだろう。
ギャラが多かったのかもしれない。

中尾ミエは73歳でサプリメントのCMに出ているし、草笛光子は86歳で健康器具のCMをやっている。
ああいうのに出るというのは、結構な判断が必要だ。
本人もそうだが、事務所の判断もある。
結局、実年齢や仕事の量、見た目なども考えた上で、オファーを受けるかどうかを決めるのだろう。

俳優は年を取るのが難しい。
こないだ「おかえり寅さん」で見た浅丘ルリ子は79歳だが、まだ美人役をやっているし、倍賞千恵子は78歳なりの役だ。
竹下景子は50代で老け役に転向した。珍しいパターンだと思う。

年をとった俳優は、ネット上に自分が若かった頃の写真などが溢れていて、見るとあまりいい気はしないような気がする。
年をとってしまった自分を思い知らされるからだ。
それとも、そんな写真を見て、嬉しいんだろうか…。

最近、年配の俳優の年ばかり調べている。
それは取りも直さず、自分が年をとったから。
ぼくも生きていれば、あの人たちの年齢になる。
それを確認しているのだろう。

お正月はまた1つ年をとったという証し。
今年もみんな一つ年をとる。

そんなことは気にしない、若さが少し羨ましくなった。




| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
低成長の現実
人手不足というけれど、中高年の転職市場は厳しいという。
一部で売り手市場という声もあるが、それは一部の業界だけ。

実際の一般職業紹介の求人倍率は1.5を超えている。
つまり、求職者1人に対して、1.5人分の求人が来ているということだ。
だから、売り手市場ということにもなる。

しかし、中高年の求人市場は難しい。
どこの会社もそれらの人たちは余っているからだ。
だから、必然的に求人の条件は厳しくなる。
「余人を持って代えがたい」能力やスキルがないと、なかなか求人市場で転職できないのだ。

つまり、現在余っている中高年を抱えている企業が出す求人は、ハードルが高いということになる。
日本はこの20年ほど、低成長の真っ只中。
GDPの伸び率はコンマ以下だ。実質的にはマイナスという声もあるくらい。
そんな中で、「使える中高年」を中途で採用したいという求人だから、そう簡単に見つからなくても構わない、というものばかり。
もしもいたら、採用しよう、というのが人事の考えていることだ。

儲かっているのは、中高年の転職支援の会社だけで、実際の求人は充足しない。
そういう状態がこのところずっと続いているのだと思う。

少子高齢化だから、若い人は絶対数で足りない。
建設業やサービス業は本当に人が足りない状態だ。
正月に行ったホテルでは、明らかに日本語がおかしいアクセントの従業員がゴロゴロいる。
インバウンドの客が多くなっているのだろう。
若い人でさえ、そういう外国人に職を取られている状態。
おそらく、外国語が話せない日本人の若い人は、レストランの裏方などに回されているのだろう。

転職を考える中高年が狙う事務的職業の有効求人倍率は0.43だという、
さらに、ハローワークの従業員1000人以上の企業の求人数は、従業員29人以下の企業の1/60しかない。
これが低成長の現実。

その大企業の求人はハードルが高いもの。
自社の中高年の余った人材ではできないことを求めるために、求人をしている。
AIの技術を導入したいとか、海外の企業との提携を進められるとか、海外の財務会計がわかって査定ができるとか、そういう求人だと思う。

でも、余った中高年はいつまでも会社に留まってはおれない。
そういう時代になってきた。
だから、自衛のために自分ができることを早く棚卸しして、何が足りないのか、どうやってそれを習得するのかなど、考えないといけない。

それが長く働くためには必要だと思う。
いつまでもお荷物の人材をおいてはおけない。

それが低成長の時代だと思う。



| | 考えたこと | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
スポーツの意味
箱根駅伝でたくさんの区間新が出た。
これはナイキの厚底シューズの影響がある、と言われているらしい。
今までアディダスだった大学も、ナイキに変わったりしている。

マラソンでもどんどん記録が更新されている。
こちらも、ナイキのシューズが使われたとのこと。

ナイキのシューズはクッション性のよい底の素材の中に、カーボンファイバーの板を入れて、それが曲がった時に戻ろうとする力を使うようだ。
走るときのエネルギー効率がだいぶよくなる。

選手だけが買えるのではなく、ちゃんと市販されている。
だから、一部の選手だけが有利になるのではない、ということで規制の対象になっていない。
しかし、規制の動きもあるようだ。

知り合いの市民ランナーに聞くと、「ナイキのシューズはトップランナーの速度に合わせて作られているので、なかなか素材を活かしきれず、走りすぎてしまってリタイヤの可能性もあるのではないか?」とのこと。
靴に走らせられる、ということか。

でも、エネルギー効率を上げるということだから、疲れにくくなるという効果もあるかもしれない。
走る人に合わせてチューニングできれば、市民ランナーのレベルでもいけるかも。
もちろん、他のメーカーも同じようなシューズを開発しているらしい。

時代は厚底シューズになった。
カーボンファイバーという素材の曲げ剛性を利用して効率よく走れるということと、そういうものを含んで厚底にしても軽量化できた、というのが成功の要因。

ひょっとしたら、札幌のオリンピックのマラソンでは記録が出るかもしれない。

道具の進化でタイムが良くなる、というのは前に水泳でもあった。
あれは水の抵抗を下げるというものだったが…。
あの水着は競泳では使用禁止になった。

古くはボートの競技で、オールを止めるところを可動式にして、漕ぐ力を増幅する、というのもあった。
こちらも競技については禁止された。

純粋に人間の身体だけで競うというのは、素っ裸でやらないとできないから、この種の問題はイタチごっこだろう。
投擲種目で、ウェアで筋肉の動きを(今よりもっと)補助するようなものができれば、禁止するのだろうか。

そんなことを言い始めると、パラリンピックなどは車椅子の性能や義足の性能などが記録に含まれるから、ややこしい。
義足の蹴りの能力をどんどん上げていくと、健常者の記録よりも良い記録が出るかもしれない。
そうなったときに、初めておかしいと思うのだろうか。
以前はパラリンピックがそんなに大きなイベントではなかったから、そういう装備の開発の一助になる、ということで許されていたのかもしれない。
今は規則がどの程度厳しくなったのか、わからない。
でも、車椅子を使ってやる競技は、車椅子の性能も大きなファクターになるだろう。
あまり聞いたことがないが、どうなっているのだろうか。

パラリンピックの公式ページでは各競技の車椅子や義足の特徴などを紹介しているが、どういう規制があるのかは書いていない。
競技を見ている人の何割かは、このメダルは本当に本人の能力なのか、それとも車椅子や義足の性能も大きいのではないか、などと思っているはず。

語弊を恐れずにいえば、みんな同じ条件でやらないと、身体能力の比較にならない、という意見もあるだろう。
メダルの意味にも関わってくる。

でも、もともと身体的にハンディキャップのある人が出ているのだから、障害の程度で区切ってはいるが、そのハンディの差はどうやってなくすのか、という話にもなる。
そういう話題は、マスコミには一切登場しない。

ぼくはパラリンピックの意義も大切だと思うし、一生懸命やっている人たちをエライと思う。
でも、メダルという目的にこだわりすぎているのではないかとも思う。

これは東京オリンピック全体に言えることだと思う。
メダルを取ることがそんなに大事なのか。
他国の選手であっても、いい選手、いいプレーには拍手を送って称えるべきだ。

へそ曲がりのぼくは、行き過ぎた「メダル至上主義」には違和感を感じるし、昨今のテレビはそれを煽っていると思う。



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15歳のPC使用率
ツイッターにOECDの調査で、15歳時点での自宅・学校でのノートPC使用率が出ていた。
それによると、日本は「学校にノートPCがあり、自分も使う」が調査国の中で最低の12%で、「自宅にノートPCがあり、自分も使う」はドミニカに次いで下から2番目の34%という結果。
ちなみに上位のオーストラリアは学校では75%、自宅は85%くらいが「使う」だ。

15歳というと、日本では中学3年生。
調査対象はアメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、スイス、デンマーク、フィンランド、アメリカ、ブラジル、メキシコ、ドミニカ、モロッコなどの国々。

2009年からの10年で使用率が下がっている唯一の国が日本らしい。
日本人はスマホは持っているが、ノートPCは持っていないということだ。
それにしても、調査対象の中でほぼ最下位というのはびっくりした。
家にWifiがあるのなら、パソコンの方が圧倒的に安い。
ChromeBookなら3万円で買える。
お金の問題ではなく「要らない」と思っているということだ。

たしかに、今の大学生を見ていても、スマホやタブレットは使えるが、PCはあまり得意ではない人が多い。
「キーボードが苦手」ということだ。
だから、事務職は嫌だということにもなっている。

スマホやタブレットはアプリやサービスを使う側の端末。
パソコンはそのアプリを作る側の端末だと思う。

本当に最近の若い人たちを見ていると、スマホで何でもやってしまう。
場面によっては仕方がないが、もったいないと思う。
パソコンの方が画面も広いし、情報量も多い。
慣れると入力は圧倒的にパソコンの方が早い。

それも高齢者ではなく、15歳の若者だ。
ティーンエージャーが、パソコンに触れる機会がない、ということだ。
日本がいかに若い人たちを育てていないか、よくわかる。

今の中学校にどれくらいパソコンがあるんだろうか。
中学の先生は学校でパソコンを使っているのだろうか。
現在の公立学校のコンピューター1台あたりの人数は5.4人だという。
結局パソコンがあっても、使えなかったり、指導する人がいなかったりするのだろう。

ちょうどニュースで「小中学校で「1人1台」パソコン配備 26兆円の新・経済対策」というのがあった。
政府が打ち上げ花火を上げた形だが、これもどうなるのだろうか。
先進国のオーストラリアやアメリカの事例はどうなんだろうか。

今までほったらかしでこんな状態になって、いきなり「1人1台」では、教員が全く追いつかないとも思うが…。
道具があればいい、というものでもない。
カリキュラムや教科書をどうするかというところからだろう。

教育現場でノートPCを使う、ということについて、本気で考えないといけないぞ。
文科省や教育学会に任せていてはいけない。
すでに教育ソフトを作っている会社や、塾などの事例も研究しないと。

本当に遅まきながら…。




| | 考えたこと | 20:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
地球温暖化
地球温暖化について、アマゾンで本を見ていたら、メールでAIが選んだオススメのリストを送ってきた。
その題名を列挙すると…、

「地球温暖化」狂騒曲 社会を壊す空騒ぎ
人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか
地球46億年 気候大変動 炭素循環で読み解く、地球気候の過去・現在・未来
二酸化炭素温暖化説の崩壊
「地球温暖化」神話 終わりの始まり

そんなに地球温暖化について懐疑的なわけではないのだが、ぼくの読書傾向を見て選ばれたのだろうか。
どちらかというと、今の議論に対する否定派の本が多い。
去年はグレタという若い女性が、国際会議で「恥知らず」と、温暖化対策に対して消極的な指導者たちに言って、話題になった。
今や環境保護団体の看板的な存在だ。

もともと温暖化に対しては科学者たちの間には疑念がある。
1枚岩ではないのだ。
2009年に「クライメイトゲート事件」で書いた。

一般的なマスコミは、環境保護派の方に偏向している。
それは仕方ない。実際温暖化をしているという実感はあるからだ。
水温が上昇して台風は巨大化しているし、この正月の暑さは異常だと思う。

それでも、一概に温暖化は悪いこととは言えない。
農作物はよく実るし、北極海は通れるようになる。
氷河期よりはマシだ。

現状から変化するということに対しては、いつも反対がある。
慣性の法則みたいなものだ。
普通に、現状維持をしようとする。

ただ、変化して、いい事もあるということだ。
それをもう少し冷静に考えたほうがいいのではないか。

利権がらみで動いている面もある。
巧妙に世論を誘導する人もいる。

純粋に科学的にどうなのか。

それをはっきりしてほしいと思う。





| | 考えたこと | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
旧交を温める
昨日は1年ぶりに会社時代の5年後輩たちとランチ。
毎年恒例になっている。

5年後輩も、あと3年で60歳。
1人は会社に在籍中で、60歳で定年だが、5年は再雇用で残ることができる。
どうするのかな。

残りの2人はすでに中途退社。
別のところで勤めている。
人生いろいろある。

うちの長男が30歳になったということで、小さい頃から知っている彼らは「もうそんな年か」と一様に驚いていた。
歳をとるはずだ。

今日は会社の先輩4人と飲み会。
昼の2時から夜の8時まで。
笑いっぱなしの6時間だった。

みんな会社を離れて、屈託がなくなった。
別れ際に、次回の宴会の相談をすると同時に、いつまで続けられるかなあ、ということも出た。
とりあえず、そんなことは考えず、次の予定を決めようということになった。

一年一年確実に歳をとる。
正月はそういう事を思い出す機会だ。

昔は正月というとお年玉をもらって、欲しいものを買う時だった。
それが、いつの間にかお年玉を出す方になって、今やもう子供も独立した。
還暦も過ぎて、もうすぐ高齢者になる。

65歳になると、誰でも高齢者という分類。
入れてもらったからと言って、嬉しいことも何ともない、と書いた年賀状があった。

これからどうなるのか、わからない年齢になった。

これが人生。





| | 考えたこと | 22:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
指板の見え方
Youtubeでギター講師の動画を見ていると、何人かの講師が「指板上の見え方が変わる」などという。
指板というのは、ギターのフレットが打ってある長い部分。
左手の指で弦を押さえて、音の高さを決める。

初心者の時代は下の方のフレットしか使えない。
C、F、G7などのコードを押さえて弾く。
そこを過ぎると、高い方のフレットを使って、コードを弾いたりする。
そこから、音を見つけて、俗に言う「アドリブ」をやり始める。

でも、そんなに簡単に上達しない。
上達するためにはいろいろクリアすべきものがある。

ギターは楽器の特性上、転調は簡単だ。
半音上げなら、1フレット右にずらせばいいし、半音下げなら、1フレット左にずらせばいい。
だから、ギターを習うには、音の相対的な関係を覚えればいい。

ギターの講師は、練習を積むとそれがフレットの上に見えるという。
その練習はコードの構成音を順に弾くものであったり、各種のスケールの練習であったりする。
なかでも、それらの練習の時に、ドレミの音名ではなく、1,2,3度という度数で覚えるのがいいとされる。
キーがハ長調の時に、ドミソの和音は度数1のメジャー、ファラドの和音は度数4のメジャー、ラドミの和音は6度マイナーというように、相対関係が常に分かるように、指板上で音を確認しよう考えよう、ということだ。
自慢ではないが、音やコードを数字の度数で考えたことがないので、なかなか慣れない。

そういえば、リアルのギターの先生はそういう呼び方をしているが…。

ということで、今年の目標は度数の克服。
スケールを指板上で度数で捉えて、それが見えるようになりたい。

これは頑張ろう!


| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
22年ぶりの会
今夜は22年ぶりに昔の課のメンバーが集った。
ぼくを含めて3人は会社を中途退社して、残りの3人はまだ会社にいる。
その中の一人はもうあと数ヶ月で役職はやめる、と言っていた。

一番遠い人は北海道から、二番目に遠い人は栃木県から来てくれた。
ぼくが一番入社年度は古い。
22年前はぼくの課のメンバーだった人たち。

みんなまだ社会の最前線で現役で活躍している。
まだまだ大変だ。
会社の中もだいぶ変わったようで、昔はよかったことが今はダメということも多い。
それはぼくらから見ると、いいことかどうか難しいところだが、そんなことは言っていられない。
やったらダメなものは、ダメなのだ。

世の中、古い人間にとっては、住みにくくなった。
そんな話が出て、無礼講で懐かしい。
22年前にタイムスリップした。

その時、一緒に仕事をした仲間。
いろんな思いで仕事に取り組んだ。
そういう人たちと久しぶりに会って、変わってないと思う。
人間はそう簡単に変わらない。

そんな思いを新たにして、再会を誓う。

あー、楽しかったなあ。


| | 考えたこと | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
どちらが幸せか
今の日本では、経済的には年収800万円までは収入が増えるほど幸福度は増すらしい。
でも、それ以上はだんだんと増す幸福度が減っていくということだ。
年収400万と800万では幸福度はざっと倍だが、800万と1600万では倍にはならない。

また、金融資産は1億円までは資産の額が増えるほど幸福度が増すという。
でも、同じように1億を超えると、幸福度の増分は減る。

十分な収入と資産があれば、もう幸福度は変わらない。
収入と資産を合わせて3億円の人と、10億円の人、100億円の人は幸福度はほぼ同じ、ということだ。
まあ、そうだろう。
ありすぎても、もうそれ以上幸福度は上がらない。
経済学では、こういうのを「限界効用逓減の法則」というらしい。

人の命は有限だし、死は平等に訪れる。
差があっても、ちょっとの差だ。
残念ながら、お金を持って死ぬことはできない。

人生の問題はいつ死ぬかわからないこと。
これがわかるようになれば、幸福はだいぶ変わる。
お金が足りないとしても、いつ死ぬかがわかれば、いくらあったら足りるかがわかる。
いつ死ぬかがわかれば、いろいろな計画が立つ。

死期がわからないようになっているところが、人生の面白いところだ。
神サンはそうやって人間の煩悩を増やしているのだ。

と論理的には思うが、人間はそんなに論理的ではない。
いつ死ぬかわかったら、逆にやけくそになって、何かをしでかす人も増えるかもしれない。
でも、死ぬまでにある程度のお金を消費しようとする人も増えるから、世間にお金が回って経済が活性化するかもしれない。

死ぬ時期がわかったほうが幸せか、それともわからない方が幸せか。
遺伝子工学が進めば、寿命がわかる日が来るとも言われている。

どっちが幸せだろうか。



| | 考えたこと | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
運び屋
クリント・イーストウッドの「運び屋」を見た。
90歳の老人が麻薬の運び屋をやるという話。アメリカで実際にあった話らしい。
2019年3月にロードショー。

イーストウッドも本当に年をとった。
実際の年齢も89歳だ。この作品も監督と主演をしている。
彼でないとできない役だ。

年をとっても、サングラス姿がよく似合って、かっこいい。
こういう老人になりたいものだ。

知らなかったが、娘も俳優をやっている。
もういい年だ。実際に娘の役で出ている。

古くはダーティー・ハリーのハリー・キャラハン役。
44マグナムを撃っていた。
年をとってからは、ミリオンダラー・ベイビーのセコンド役。
そして、グラン・トリノ
2008年のシブい映画だった。

89歳にしてまだ健在。
アメリカのアイコンだ。

もう次の作品の予定があるらしい。

この勢いで、いつまで現役を続けられるのだろうか。



| | 映画・舞台 | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |