考えたこと2

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フリクション・ボール
土曜日に久しぶりに文房具屋をウロウロした。

ずっと馴染みにしていた文房具屋がつぶれてしまって、行き先は変わったのだが…。
前の店が5階で、今度の店は3階にある。
だいぶ店の面積は小さいが、最近品揃えがよくなった。

こないだから気になっていた、熱でインクが透明になって消えるボールペンを見つけてしまった。
フリクション・ボールというのが商品名。
店で試し消し?をしてみたが、みごとに消える。
ペンの反対側についている、ゴム(かなり硬質なもの)でインクの上からこすると、消えていくのだ。

紙とゴムの間で発生する摩擦熱によって、色づいていたインクが透明になってしまう、というリクツ。
今までは0.7ミリのペン先のものしかなかったが、今回0.5ミリのものが出たので、買ってしまった。

書き味は水性のインクのペン。
店でメモに試し書きした程度ではわからなかったが、ちょっと色が薄い。
特に青インクは、通常のボールペンのインクを少し水で薄めたような色になる。

保存が必要な書類には使わないで下さい、と書いてあるが、書いてしまえばわからない。

これで、色をもう少し普通のものにできたら、もっと売れるかな…。

売り場には数独(数字のパズル)のマス目のサンプルが置いてあって、こういうのに書いても、また消せますよ、というような売り方だった。

こないだボールペンで詫び状を書いて、何度も失敗したので、今度詫び状を書かないといけなくなったら、これを使おう…というのが動機。

しかし、熱で色が変化するインクを開発するのは大変だったろう…と思う。
もちろん、まだ課題はたくさんあるのだろうが…。

これからまだまだ良くなっていく…とは思うが、売れないと開発費も出ないだろうなあ。

でも、今のところは、作った人に拍手!

このシリーズのラインマーカーはもう一つだと思うが、ボールペンはヒット。

頑張ってもうちょっと色を濃くしてほしい。

久しぶりにうれしい買い物をした。




| | 考えたこと | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
カセットテープ
今はもうほとんど聞くことがないが、忘れられないカセットがある。

笑福亭仁鶴の落語が4題入った60分テープ。
これは前に書いた。

他にもある。

中学の友達にもらった、フォークソングの曲集。
昔のWヤングやダイマル・ラケット、人生幸朗などの漫才の録音。

母が買ってきてくれたカセットケースに入れて置いてある。

中学の友達は、Y君。
中学1年の時にフォークソングがいろいろ入ったテープをくれた。
Y君は次の年に引っ越していった。手乗り文鳥をくれた友達。
お兄さんがいて、その影響で当時にしたらませた音楽を聴いていたんだと思う。

吉田拓郎、岡林信康、高石ともや、高田渡などの当時のフォークの曲が入っていた。

拓郎の「イメージの詩」を聞いたのはこのテープのおかげ。

昔のWヤングのテープは面白い。
一人が自殺してしまって、もう聞くことはできないが、もし彼らがずっとやっていたら、大阪を代表する漫才師になっただろうと思う。

人生幸朗はボヤキ漫才で有名だった人。
「責任者出てこい」という決めぜりふだった。

もう子供らの世代にはカセットなどというモノは存在しない。

カセットが再生できるあいだに、別のメディアに移すべきか…、それともそのままにしておくべきか…。

きっと、めんどうだから、そのままにしておくだろう。

捨てることはできないからなあ…。



| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
変幻自在
今日はレッスンだった。

先生にかかると「上を向いて歩こう」は変幻自在に変わる。
表のコードと裏のコードを使い、メロディを載せるコードを変えて、曲がつながっていく。

9時からのレッスンなので、夜の電車に乗る。

大阪から神戸に向かう電車には、まだまだたくさんのサラリーマンが乗っている。
その中に、ジーンズを履いて、ギターを肩からかけて乗り込む。
少し場違いな感じがする。

扉の窓に映った自分の姿を見て、歳をとったと思いはするが、ギターを背負った自分が若くも感じる。

ギター、エフェクター、シールド、ピック、楽譜ノート…。

この歳でそんなものを抱えて、夜の電車に乗っていることが不思議だ。

ぼくも変幻自在になるために、毎月2回電車に乗る。

今年はあと2回。

もうすぐ12月。あっという間に年は過ぎる…。



| | 考えたこと | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
口径
刑事や探偵が出てくるドラマを見ていると、よく銃の話が出てくる。
まず口にするのが、XX口径だ…とかいうもの。

ダーティ・ハリーはマグナムを身につけていたが、これは44口径だったと思う。
すごい破壊力のある銃だ。

小さな銃なら、22口径とかいう数字も出てくる。

この22とか44とかいう数字は何なのか、知ってます?

口径というくらいだから、銃口の内径だろうと想像はつく。
でも、22ミリや44ミリというと、どう考えても大きすぎる。
口径が44ミリもあるなら、銃身の直径は50ミリ近くになる…。ダーティ・ハリーが胸のホルスターに入れるにはどう考えても大きすぎるだろう。小型のバズーカ砲みたいな銃になってしまう。
片手で持つことがもはや難しいと思うが、持てたとしても撃ったとたん肩が抜けてしまうだろう。

実はこの口径の数字の単位は、1/100インチ(0.254mm)なのだ。44口径なら、約11ミリになる。

フランスの刑事物のドラマを見ていても、口径は44とか22という数字を使う。
フランスといえば、メトリック単位の国。1メートルを表す元になるメートル原器はパリの度量衡万国中央局に保存されているくらいだ。
長さだけでなく、重さ、圧力などもメートル法の単位を使っている。メートル法を作った国だ。
その国でさえ、銃の口径についてはインチの単位を使っている。

銃というものがいかにインチの国、アメリカで量産されているか、よくわかる。

ネジについてもメートル法に基づくネジと、インチ基準のネジがある。
ねじ山の間隔(ピッチ)がインチ単位で決まっているものとミリ単位で決まっているものがある。
世界では、まだまだインチの力は強い。

だが、たいがいのものは、メートル法基準もある。どちらかというと、世界はメートル法に統一されていく方向なのだ。

それでも、銃の口径はインチ基準のみである。

アメリカはまだまだインチの国なのだ。
これについては、グローバリゼーションから取り残されている。


| | 考えたこと | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
風をあつめて
アサヒビールの「あじわい」という新製品のCMで使われている曲。
知っている人もあるかもしれません。
「はっぴいえんど」というバンドの1971年のアルバムに入っている「風をあつめて」という曲。

時期を同じくして活躍していた小坂忠という人の声と似ているので、てっきり小坂忠の歌だと思っていた。

はっぴいえんどというバンドは、日本のロックの草分けというような位置づけで、伝説的な扱いになっている。
細野春臣、松本隆、大滝詠一、鈴木茂というメンバー。
ぼくはリアルタイムではほとんど知らない。

鈴木茂は後日ユーミンのバックなどで活躍し、大好きなギタリストである。
大滝詠一は何枚かレコードを持っている。
松本隆は作詞家になった。木綿のハンカチーフを作った人。
細野春臣は、イエロー・マジック・オーケストラでテクノをやっていた。

この曲は、ぼくがまだ中学生の頃の曲だった。

30年以上経っても、そんなに古いとは感じない(のはぼくだけか…?)。

70年代にはこんな感じの曲がたくさんあった。

アコースティックギター(当時はフォークギターと言っていたが)の指弾きでリズムを刻むという感じの曲。

当時のジェイムス・テイラーの曲にも、そういう感じの曲が多い。

この頃の音楽は、音を埋めていないということがよくわかる。
声にも、楽器にも「間」がある。

今聞くとすごくのんびりした感じがするが、リリースした当時はそれほどでもなかったのではないか。
今の音楽のテンションがすごく高いので、こんな曲を聴くと癒されるような気がする。

あじわい、というひらかなの商品名にあわせて選ばれたのかもしれない。

歌詞のなかに「路面電車」が出てくるが…もう若い人にはわからない単語になってしまった。

 風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
 蒼空を翔けたいんです
 蒼空を

若いころを思い出させる曲だ。


| | 音楽 | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
不思議な物理
世の中のモノには全て重さがあると思っていたが、それは間違いらしい。

ワープする宇宙という本を読んでいる。
リサ・ランドールという物理学者が書いた本。

「余剰次元」が専門らしく、それについて説明するために、相対性理論や量子力学についての説明から始まる。
まだ半分ほどしか読めていないが、ちょっと苦しくなってきた。
でも、面白い。

光子というエネルギーを伝える素粒子があるが、これは質量がないらしい。
質量がないからこそ、光速で移動することができる。

どうなっているのか…。

ぼくらは3次元(タテxヨコx高さ)の世界に住んでいるが、余剰次元というのは、それよりも次元が多い世界のこと。
もちろん、人間には知覚不能である。
平面の国の住人は、立体を知覚できないということと同じだ。

この余剰次元の説明のために素粒子というものが出てきているようだが、今のところなぜこの説明が余剰次元につながっていくのかすらわからない。

重さがない粒子と、人間には知覚できない次元…。

物理学は不思議だ。

あと300ページほど、楽しめそうだ。

もう一つ不思議なのは、リサ・ランドール教授の写真。
本の帯の写真と、ハーバード大学のホームページの写真がだいぶ違う…。




| | 考えたこと | 02:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
上を向いて歩こう
こないだテレビを見ていたら、「上を向いて歩こう」を誰かが英語で歌っていた。

"Sukiyaki"という題名ではなく、ちゃんと英語の題がついていた。

永六輔作詞、中村八大作曲。六、八と来たから、歌うのは九、ということで坂本九になったという話を以前聞いたことがある。
wikipediaによると、この曲は世界約70ヵ国で発売され、総売り上げは1300万枚を超えているらしい。
さらに、1988年までにアメリカのラジオでのオンエア回数は100万回を超えたとのこと。
スゴイ曲だ。

来週がレッスンなので、この曲をやってみようと思って、弾いてみたらほんとに素直なメロディだ。
よくできた曲である。

サビの部分の

 幸せは雲の上に
 幸せは空の上に

この、繰り返しの2回目のところがグッとくるところ。

ここは、先生がよく言う「サブドミマイナー」が使われている。
正確には、サブドミナントコードをマイナーにしたもの…説明になってないか…。
ハ長調の時に、通常はファラドのコードになるところを、ファラ♭ドにして、短調のコードにしたものになる。

aikoの曲にはしょっちゅう出てくるパターンだが、2回目の「しあわせは…」のところでせつない響きをさせている。

自分なりにコードをつけて、弾いてみたが、来週先生がどんなひねり方を教えてくれるのか…。

明るい曲だが、歌詞は寂しい。

泣きながら歩く ひとりぼっちの夜…で終わるのだ。

でも、メロディのおかげで、何となく寂しい曲だとは思わない。

それが、この曲を名曲にしたのかもしれないなあ。




| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
高座
このところ、落語の話が続く。

土曜日の「ちりとてちん」を見て、思わずもらい泣きしてしまった。

落語といえば、高座。今朝のテレビを見て思いだした。
座布団一枚。噺によっては見台(けんだい)を置く。

めくりがめくられると、演者の名前が出てきて、出囃子が鳴る。
舞台袖下手から出ていって、座布団に座る。そこが高座である。

今朝のドラマは、事情があって3年前に落語をやめた師匠が、居酒屋を借りて開いた弟子たちの落語会を見て、トリで高座に戻るという場面だった。
落語会に行くまいとしていた師匠を、ふだんは優しい和久井映見が演じる主人公のお母さんが、机をたたいて怒って無理やり連れて行く。

数十人のお客さんと一緒に、師匠が弟子たちの落語を見る。
三年間離れていた弟子たち。そのうち二人は落語をやめて別の仕事に就いていた。
彼らの成長を見る師匠。

途中で泣いてしまって、落語にならなかった息子の高座を継いで、師匠がじっと高座を見る。
赤い毛氈の上にちょこんとのった座布団。
あの座布団に座ったら、やるしかない。
渡瀬恒彦演じる師匠が高座の座布団をじっと見つめる…。
心を決めて、高座に上がるところが泣かせるのだ。

深々とお辞儀をする。間をおいて拍手。
弟子たちが見守るなか、師匠がはなしはじめる。

「三年前に道に迷って、やっとここにたどり着きました。お客さんを気持ちようおかえしするのがトリのつとめでございます…」

小さな居酒屋にしつらえた高座だが、お客さんが数十人だろうと、数百人だろうと、そんなことは関係ない。
あの、座布団に座ったら、やるしかない。

赤い毛氈の上にのった座布団を見て、落語をやっていた頃を思い出してしまった。




| | 考えたこと | 23:32 | comments(2) | trackbacks(0) |
分不相応
NHKの朝のドラマで、落語会の演題と出演の順番についての場面をやっていた。

寄席はチームプレイである。
出演者がそれぞれ自分のやりたいネタを勝手にやっていいというものではない。
最初に出る人(前座)はどちらかというと短くて、わかりやすくて、ギャグの多い、にぎやかな噺でなければならない。
時間を遅れて入ってくるお客さんもあるだろうし、最初は「笑わせましょう VS 笑いましょう」という場の雰囲気もできていないからだ。

逆に、最後に出る人(トリ)は、じっくり聞かせて、ギャグというよりも噺の内容で笑わせるような、「大きな」噺をして、お客さんに「ああ、落語を聞いたなあ」という満足感を与えなければならない。

「寿限無」などは前座にぴったりのネタ。
長い名前を早口でしゃべる、その面白さだから、途中から聞いてもわかりやすいし、場の雰囲気を「笑い」にもっていきやすい。

トリのネタは、だいたい20分〜40分くらいの長い噺になる。
今日のドラマに出ていた「愛宕山」などはお囃子は入るし、場面設定も複雑だし、登場人物の描写も難しい噺だ。じっくり聞いたらおもしろい。

寄席では、前座からだんだんと場の雰囲気を盛り上げていって、「もたれ」「トリ前」とつないでいき、「トリ」でぐっと盛り上げて、お客さんに満足してもらうという流れになる。野球でいうと、先発、中継ぎ、抑えという役割分担。

はずかしながら、年に2回の寄席では、よく外した。「外す」というのは「すべる」ともいうが、ウケなかったということ。
一番外したのは、3回生の春だったと思う。
40分ほどの大きな噺に挑戦した。どうしてもやりたかったのだ。

よく練習した。誰もいない部室の高座で何度も通して練習したし、暇さえあればボソボソ「ネタ繰り」をしていた。
毎晩テープを聴きながら寝て、事前の「老人いこいの家」(昼間お年寄りが集まる施設)でも高座に出た。

今から思うと、余裕がなかったのだろう。

ネタを覚えて、しゃべることが精一杯だった。

「口入屋」という噺。

中トリという場所で出たのだが、後ろの方の席で、師匠が「もっとゆっくり…」と両手を離す動作で指示してくれていたのが見えた。

自分がやった高座のテープは全部持っているが、この噺は聞けない。

これこそ「分不相応」ということだったのだろう。
何事も、背伸びはいけない。

やっている本人が楽しんでできないとダメだ。

結局、この噺がぼくがやったネタでは一番大きな噺になった。
それ以降は、自分の身の丈に合った噺をやった。

あと数年、落語を続けていたら、もう一度やったかもしれないが…。

あの時のお客さんには、悪いことをしたと今でも思っている。



| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
悪友
書き言葉では当てはまらないかもしれないが、ぼくの場合「悪友」というのは話し言葉では、たいがい反語になっている。

「アイツは悪友で…」という時は、一緒によく遊んだとか、一緒に悪いことをしたとか、すごく近い友達だという意味で使う。
ことによったら、「親友」という表現よりも近い友達という気がする。

辞書をみても、ちゃんと本来の意味(悪い友達)だけでなく、「親しみをこめて…」という意味も載っていた。
相手に気を遣わないでいいからこそ、「悪友」と言えるのだと思う。

この言葉も、反語の意味ではだんだんと死語になってきているような気がする。

若い人に、アイツは悪友で…というと、そうですか、と返事されるのだが、本来の(反語の)意味で了解されたのかどうか、不安になる。
高校生の息子に聞くと、反語の意味があることは知っている。「くされ縁みたいなヤツやろ」という。うまいこと言うなあ、と感心した。
ただ、その意味では話し言葉としては使わないとのこと。

初対面の人に会って、共通の友達がいたことがわかったとき、「ああ、彼は悪友なんですよ」と言ったら、それは「彼とはすごく近い友達だ」というふうに理解されるのが、今の中年では一般常識だろう。

でも、この用法は廃れていくのではないかなあ。

どうも、「親友」という言葉に至上の価値をおくような風潮になってきているような気がする。
そうなると、「悪友」は本来の意味だけになってしまうのではないか。

あんまり当たってほしくないが、将来そんなことが起こりそうな気がする。

回りの若い人に聞いてみて下さい。


| | 考えたこと | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
一般常識
なぜ、一般常識というものが必要か?
別にそれがなくてもできることはたくさんある…というか、ほとんどの仕事はその内容を覚えればできる。

それでも、一般常識が必要な理由は何か?

こういうことらしい。
教えてgooのサイトに書いてあった。(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3461817.html)

「一般常識とは読んで字のごとく『一般的に知っていて当然の知識』です。
たとえば、『水を凍らせると氷になる』という事を知らなくても、仕事の内容にはほとんど影響しません。しかし、そんな事も知らない相手は他に何を知らないのか判らないので、企業では怖くて使えません。」

他に何を知らないのか判らない…というのが面白い。
言い得て妙な説明。

それでも、何をもって「一般常識」とするかは難しい問題だ。

人によって、「知っていて当然」と思っていることは違う。

「一般常識の定義は定かではないという一般常識」と書いてあるページもあった。

この、「一般常識」というものこそ、まぼろしのようなものであって、「あるようでない」ものなのだろう。

昨今はこれがどんどん拡散していて、そのうち、「特殊常識」というようなヘンな言葉もできてくるかもしれない。

本当に、いつか広辞苑に載るのではないか…。

最近のクイズ番組を見ていると、そう思ってしまう。




| | 考えたこと | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
縦書き
こないだ、久しぶりに便箋に縦書きで字を書いた。
A4一枚だが、何回も書き損じをして、ムダな紙を作ってしまった。

詫び状というのは、やっぱり手書きでないといけない。

「謹啓」で始まり、「謹白」で終わる。
伝統的な手紙の形式に則って書く。

日本語というのは、本来縦書きするものだ。
漢字もひらかなも、縦に流れるように書けるハズなのだが、長らくワープロに慣れてしまって、うまく書けない。
何回か書いて、自分で納得するしかない。
こんなにヘタだったか…と思う。
横書きなら、もう少しマシだ。

学生時代のノート、仕事のレポート、たくさん書いたが、ほとんど横書きだった。
横書きで書き続けているうちに、縦の方が書きやすいハズなのに、知らぬ間に横に続けることに慣れてしまった。
特に、ひらかながダメだ。
ひらかなは、本当に縦に流れるように書けるようにできている。
字の書き終わりは下に行きやすいようになっているのだ。
それが、横書きに慣れてしまって、字が横に行こうとしている。

本来縦長の長方形に入るカタチに書きたいのだが、正方形になっている。

長年の習慣はおそろしい。

いつか、原稿用紙も横書きに使う時代がくるかもしれない。

今日で500回目のブログ。
原稿用紙で1100枚分くらいになる。

これを全部手書きで書いていれば…。


| | 考えたこと | 00:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
失敗したマクラ
またまた続いて落語の話。

いまだに思い出すと恥ずかしい失敗がある。

毎年秋は学園祭の季節で、我が落研にも女子大から出演依頼が来たりする。
当時の女子大における落研の扱いは、だいたいメインイベントの会場で、空いた時間を埋めるものという感じだった。
別にお礼が出るわけでもないが、部員間で振り分けて行っていた。

ぼくは、どちらかというと老人ホームではウケたのだが、若い人は苦手だった。その課題を克服するために、その年は女子大の学園祭に行ったのだ。

演じるのは古典落語だが、やはり最初のマクラで笑いを取らないといけない。2席ほどしかやらないので、最初が肝心だ。

時事ネタでいかないといけないだろう…と考えた。幸い、キャンディーズが解散したところだった。よし、キャンディーズでいこう!これ自体はアイデアとしては良かったと思っている。

後輩二人を呼んで、考えたマクラを聞いてもらった。

キャンディーズの解散は、ちまたではランちゃんの独立などと言われているが、実際はミキちゃんが引退したかったというのが真相。
渡辺プロは困っていて、今、代わりのメンバーをひそかに探している。
解散、再結成となると、日本人ではインパクトが弱いので、なんとフランス人をメンバーにスカウトしようとしているのだ。
どうも、そのメンバーが決まったらしく、芸名はアデというらしい。
みなさん、知ってますか?
そうなると、三人そろうと、アデ・ラン・スー。
カツラやがな…。

これを聞いた後輩二人は、「バカうけ間違いなし」という。
ただ、二人とも聞いたときに全く笑わなかったという事に気づけばよかったのだが…。

当日、高座に上がり、満を持して「みなさん、知ってますネェ、キャンディーズの解散。エライことでしたなあ。実は…」と話し始めた。
「アデ・ラン・スー」までいったところ、客席は水を打ったように静まりかえっていた。キョトンとしてこちらを見ていた客席の顔、顔、顔。
ああいうのを、時間が止まったようだ…というのだろう。

おもむろに、本題の噺に入る…結果は書くまでもない。
素人の落語は最初が命なのだ。

あとで、後輩二人に結果を話したら「そうですか…。難しかったんやな…」とのこと。二人とも、分析型の部員だったのだ。彼らに聞いた自分が悪い。

この失敗は今でも目に浮かぶ。
教室にしつらえた高座、そこそこのお客さんの入り、静かな時間…。

ただ、この話には後日談があって、関東に就職した弟子に20年ぶりくらいで会ったときに、「アデ・ラン・スー」の話になったところ、彼曰く、「あれ、東京のスナックでウケましたデ。」とのこと。

何でやねん…。

弟子に、「やり方次第ですな〜」と言われる始末。

情けない想い出だが、弟子のためになったということで、少し救われた。

いろいろあります…。

| | 考えたこと | 10:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
えー
昨日に続いて落語のはなし。

尊敬する先輩が、素人の落語は最初の一声、「えー」で決まると言っていた。
落語の出だしはだいたい決まっていて、ぼくは「えー、しばらくのあいだ、お付き合いを願っておきますが…」という言葉に決めていた。

この、「えー…」の一声が伝えるものは大きい。

亡くなった枝雀は、落語というのは舞台の上から「こちらが笑わせましょう」、客席では「そちらが笑いましょう」という約束事の上で成り立っているものだと言っていた。
そのためには双方に信頼がなければならない。

その、信頼関係を築くのが、最初の一声「えー…」である。

落研時代、何度か素人の寄席を見に行ったことがあるが、たしかに、面白い演者は最初から面白いとわかる。
正確には、「面白そうだ」と思えるのだが、これにはあまりハズレがない。
やっぱり、最初の「えー」の一声で何かが伝わっているのだ。
これが、「笑わせましょう vs 笑いましょう」の約束事が成り立ったということなんだろう。

プロの場合は、出てきた時からある程度の演者の知識があり、「あ、あの人や」という了解があるので、最初の一声以前の信頼関係がある。(逆に、マイナスの信頼を得ている演者もいるが…)

でも、素人はそれがない。
だから、「えー」が大事なのだ。

「えー」という声の高さ、張り、声質、顔の表情やしぐさ、目線、表情…何が影響を及ぼしているのかはわからないが、その瞬間に何かが演者と聞き手の間で了解される。

自分に落語対する自信、余裕といったものは、すごく大事だ。
それは、たしかに「えー」に表れる。

練習不足などで、演者に不安があると、すぐにわかる。
聞き手がそれを心配してしまうと、もうダメだ。笑えない。

きっと最初から100%の力でやってはダメなんだと思う。
最初は80%以下の力で始めないと、余裕が感じられず、笑えなくなるような気がする。
もちろん噺に入ったら、100%の力を出せばよい。
でも、話しはじめは力んではダメだと思う。

適度に力を抜いて、余裕を持って、客席を見渡し、笑顔で「えー、しばらくのあいだ…」と始められれば、よいのだろう。

今だからわかる…。

あの頃は、そんなことはわからなかった。

だから、失敗も多かったなあ…。




| | 考えたこと | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
マクラ
朝のドラマを見ていると、懐かしい落語の演題が次から次へと出てくる。

愛宕山、算段の平兵衛、崇徳院、胴乱の幸助…。
難しい噺ばかりだが、どれもなじみのある噺。

落研時代、春と秋に大きな寄席をやるのだが、そこでやる噺は、かなり練習する。
前日、前々日には出演者一同集まって、順番にみんなの前で話すのだ。
最後の点検、という感じ。時にはOBも来て「ここはこうした方が…」というような注意ももらえる。

実際に落語を始めるまでの導入部をマクラというのだが、これは3年目くらいになると、自分のオリジナルを考えるのだ。
それは練習ではやらなかったりする。
本番で、部員にも笑ってほしい…ということになる。

素人の落語は最初が勝負。
マクラで笑わせたら、演者も落ちつくし、お客さんも安心する。
お客さんが安心するのは、すごく大事で、安心しないと余裕を持って聞けないし、余裕を持って聞けないと笑えないのだ。
だから、マクラには気をつかう。

なるべく、今からやる噺を関係のあるもので、今話題になっているような時事ネタや、その季節のネタ、直前の演者に絡めたものなどが好ましい。
最近のテレビ番組をサカナにするとか、自分ならではのものがよい…とはわかっていても、難しい。

あんまり成功した事はないなあ…。

一度だけ、満足のいくマクラができた。
あんまり練られたネタではなかったが、あとでテープを聞いて、ヘタな自分らしい、勢いで話したものだった。

そう、「勢い」も大事だ。
空回りしたらダメだが、ぼくの場合は、勢いがなければアウトという感じだった。

朝のドラマを見ていると、落語はいいなあ、と思う。

難しいですけどね。



| | 考えたこと | 01:41 | comments(2) | trackbacks(0) |
I'm so tired 2
なんか、疲れた。

ずっとビートルズの"I'm so tired"が頭の中で鳴っている。

歌詞を見ると、不眠症で疲れているという事だが、ぼくは眠れないわけではない。
どちらかというと、起きていられないのだから、まだマシということか。

めったにないのだが、今日は帰りのクルマで眠くてどうしようもなくなって、パーキングエリアで休んだ。

最近、清水義範の本を寝床で読んでいるのが災いしているのかもしれない。
昨日も読みながら寝てしまった。
ここ1週間で3冊読んだが、どれも面白い。

面白いと思える本があるのは、すごくいいことだ。

だが、体力と相談しながら読まないといけなくなってきた。

昔から計画的に本を読んだことなどない。

でも、ぼちぼち計画が必要になってきたぞ…。


| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
尼子と毛利
戦国時代の大名、毛利元就が「三ツ矢の教え」というのを残した。

一本の矢を折るのは簡単だが、三本まとまるとなかなか折ることはできないというもので、元就が子どもたち3人に協力してやっていけ、ということを教えたものと言われている。

うちの父は広島出身で、祖母が生きている時にはよくこの話を聞いた。

聞いたといっても、肯定的に聞いたのではない。
昭和初期の広島の小学校では、毎年の文化祭(みたいな催し)で、毛利を称える劇をやっていたらしい。
それをゼッタイに見に行かなかった…という話を聞いたのだ。

祖母は昔の毛利藩にあたるところではなく、尼子藩(現在の島根県)の出身だった。
尼子藩は最終的に毛利家に滅ぼされてしまった。
だから、毛利は尼子にとって仇になる。
「毛利の劇など見に行けるか」ということだ。

明治生まれの祖母だったとはいえ、戦国時代からは300年くらいの年月が経っている。
それでも、「毛利は仇だ」という意識があった。
きっと、祖母はその親やそのまた親から、その話を聞いていたのだろう。

祖母の祖母あたりは、まちがいなく江戸時代の人であり、廃藩置県の前の生まれだろう。
それでも、尼子藩が滅びてから200年は経っているはずだ。

昔は時の流れがゆっくりだったのだろう。
情報の量が今とは全く違う。
インターネットがこれだけ大きくなる前にはテレビがあり、その前にはラジオがあり、全国紙の新聞があり…さかのぼっていくと、江戸時代の情報量は今の何百万分の一というような単位になりそうな気がする。

そんな時代だからこそ、尼子が毛利に滅ぼされたことも伝えられたのだろう。

そのなごりがぼくまで来て、ぼくで終わる。
うちの子どもたちに、毛利や尼子の話をしても、もう伝わってはいかないだろう…。
情報が多すぎるのだ。

あるところまでは、情報量が増えることは人間が何かを考える上でプラスに働くが、そこを越えるとマイナスになる。

これからは、どうやって情報を減らすかを考えていかないといけない。

情報を減らした時に、祖母が毛利の劇を見に行かなかったというようなことが伝えられていくかどうかは別として…。





| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
無限軌道
日曜日の朝刊に計画中の月面車の記事が出ていた。

そのうち、「偉大な一歩」ではなくて、「偉大な走行痕」が月面に刻まれるのかな。

記事の中に「無限軌道」という言葉がある。日本が考えている月面車だ。
この言葉を知っている人はもう少ないのではないか。

亡くなった父がよく言っていた言葉だ。
久しぶりに「無限軌道」という言葉を見て、懐かしかった。

昭和30年代後半くらいから、テレビが普及しだしたが、当初は番組を作る能力が不足していてアメリカの輸入番組が多かった。戦車が出てくる番組もあった。
戦車はキャタピラで進む。

ぼくはすでにマンガで「キャタピラ」という言葉を知っていたが、父は「無限軌道」といった。
昭和ヒトケタだ。
ベルトを回して進むような仕組みのことを、日本語では「無限軌道」という。

つながった輪だから、無限に回すことができる。だから、無限軌道。
よくできた訳語だと思う。
荒れていても、泥沼でも、進むことができる。
ただの車輪とは接触面積が全く違う。

戦車のプラモデルを作っていると、「無限軌道やな」と言っていた。

この訳語はすばらしい。

この歳になって、そう思う。


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国語入試問題必勝法
長男に教えてもらって、清水義範の「国語入試問題必勝法」という本を買った。

これは参考書ではなくて、文庫の短編小説集。巻末に作者が、まちがってこの本を買った受験生にごめんなさい、と書いていた。

表題作は、解答選択式の国語の入試問題の無意味さを笑いとばしている作品。
長文を読んで、ある部分の意味を次の5つの中から選べ…というような問題が不得意な生徒に対して、プロの先生が教える必勝法のおはなし。

「長短除外の法則」は、選択の解答文のうち、一番長いものと一番短いものは正解ではないというもの。

もう一つの法則は、5つの選択肢は通常「展、外、大、小、誤」に分けられる…というもの。
 「展」は問題文の内容を少し発展させたもの。
 「外」は少しピントがはずれているもの。
 「大」は内容を拡大しているもの。
 「小」は内容が不足しているもの。
 「誤」は内容がオカシイもの。
このうち、「外」が正解になる、という決まりである。

ふーん、と納得した。

毎年、センター入試の問題が新聞に出るが、国語の問題を見るたびに、ワケがわからないと思う。(国語しか見ないが…)

解答の文章がいくつか間違っているのはあるにせよ、それ以外はどれでもいいような気がするからだ。
「展外大小誤」はよくできた解説だと思う。

こんな問題をやっていて、国語の力がつくなどとは思えない。
だいたい、名前と受験番号以外は全部マークを塗りつぶすだけ…というような国語の問題などオカシイ。
文字や文章を考えて「書く」という事なしに、国語の力など、はかれるはずがない。

だから、作品の中で先生が生徒に言う。「君はまず問題文を読んで、理解しようとしただろう、それがマチガイだ」
問題文を理解しようと読んでしまうと、その内容から「展」を選んでしまうらしい。
センター入試の問題を見ていると、さもありなん…と思ってしまう。

あとがきで、これはあくまでフィクションだから信じないように…と作者は言っているが、半分以上信じても良さそうな気がする。

生徒の成績はすごく良くなるものの、結末は意外なものになるが、これは読んでのお楽しみ。

1990年に出た本。ずいぶん前にこんな小説を書いた人がいたとは…。感心した。



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ミゼット
今日、三丁目の夕日という映画をテレビでやっていた。
途中から見ていたら、なんとミゼットが出てきたのに、ビックリした。

設定は昭和30年代だろう。

ダイハツのミゼット。オート三輪とか、バタコとか、いろんなのがあったようだが、やっぱりミゼット。
ちゃんと丸いハンドルが付いているタイプだった。

もともと、バイクに屋根と荷台をつけて、後輪を二つにしたようなものだったらしい。
よくピザの配達に使っている三輪車の大きなヤツ、という感じだ。

今日出てきたのは、今の軽より二回りくらい小さなもの。

急にハンドルを切ったらこけそうなクルマだ。
映画のために、持っている人から借りてきたらしいが、「パンパンパン…」というバイクのようなエンジン音で白い煙を出して走っていた。
屋根の上のところに、人がつかまるための棒が付いていて、荷台に人が乗っていた。今なら違反だろう。(あの頃でも違反だったのかもしれない)

昭和30年代の後半によく走っていたと思う。
時速80キロくらい出るかどうか…。

まだ舗装路が少ない頃、「パンパンパン…」という音をたてて、走っていた。

乗用車はスバル360の時代。
小型トラックといえば、ミゼットだった。

可愛い顔をしたクルマだった。

昭和の顔の一つ。


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成長
子どもの成長を感じる時がある。

今日はすごい肩こりだったので、長男に肩をもんでもらった。

今までは、肩こりがひどい時は、子どもに体重をかけて、ひじで押してもらっていたが、今日もんでもらったら、固まった肩をつかんで力が入っていた。
握力がついたのだ。

昔は腰がだるい時に、うつぶせになって背中に乗ってもらった。
もう10年以上前。

今はそんなことをされたら、逆に腰痛になるくらい大きくなった。

ぼちぼち、ぼくよりも握力が強くなるだろう。

だんだんと追い抜かれていくことが増えていく。

そうでないと、困るのだが…。

これからは、肩こりがひどくなったら、もんでもらおう。

子どもは親を越えていく。
うれしいような、さびしいような…。

言い古されている言葉だが、今日は何となくわかったような気がする。



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