2010.08.22 Sunday
最近思うこと
情報化社会とか知価革命とか言われてきたが、いよいよそれが本当になったと思う。
会社のヒエラルキーが情報技術の発達によって平べったくなり、中間管理職の役割が減少し、一般職については一部が派遣、請負化され、正社員のパイが小さくなってきている。
少子化によるマーケットの縮小や、アジアのマーケットの拡大もそれに拍車をかけ、いよいよ本当にグローバル化してきた、という感じ。
今や中小企業でも、今年の募集要項については、「TOEIC600点程度またはHSK6級程度以上の方からご応募いただけます」という文言がある。
HSK6級とは、中国語ペラペラのことだ。
どちらかというと、日本語ができる中国人を雇った方が早い、という印象だ。
これを可能にしたのが情報化社会。インターネットの発達と、情報端末のパワーで、一般の仕事をだれでもできる仕事にしてしまった。
中抜きという言葉があるが、まさにそういう状態。
現場の仕事と、判断業務が最後に残る。
今はその過渡期だ。
インターネットがそれを後押ししている。
公務員の分野はそれが遅れており、まだ昭和のかたちだ。(それも昭和40年代ではないか)
しかし、公務員の仕事も変わらざるを得ない。
そんなところに若い人が集まっては困るからだ。
ウエイターの仕事は注文を覚えることから、情報端末でタッチパネルを操作することに変わったし、給与計算や福利厚生などの一般化できる仕事は専門の会社で請負に変わった。
そろばんや電卓をおいて計算する仕事がなくなり、コンピューターで打ち出される財務状況を判断する仕事が増えた。
製造の現場をはじめ、請負、派遣、パート、バイトの仕事は増加傾向にあり、それは止まらない。
事実、現在、多くの高校生、大学生がアルバイトを継続的にやっており、仕事にはあぶれてはいない。
彼らはそれが将来の自分たちの仕事を奪っていることがわからない。
雇う側にも、そういう意識はない。
資本主義の原則は、まずお客様に喜んでもらうことであり、それは一般的には価格を下げることだからだ。
再度書くが、スーパーのレジ、ファミレスのウェイトレス、居酒屋の接客など、昔は学生バイトの仕事だと考えられなかった。
しかし、それが今バイトやパートに置き換わっているのが実態。
情報技術によって、「学生でもできる仕事」に変わってしまった。安い労働力があれば、だれでもいい、ということだ。
そうなると、コストの安い労働力を雇う。これは必然だろう。
一部の政治家のように、それがデフレの原因だとか、もっと正社員を増やせというのは、お門違いだ。
結局、最後は「考える人」「実行する人」だけがスタッフで必要になる。
これらのことがじわじわと進んできたが、ここに来て一気に顕在化した感じがする。
求人倍率は1を超えているが、実際にほしい人はアルバイトのレベルではないのだ。
だから、人がほしいが、それは必要な人がほしい、ということだ。
したがって、正社員になるためには、「まじめに、こつこつ」というタイプは不利。
うそでも、ハッタリをかまし、ちょっとは成果を上げられるようなタイプが望まれている。
「まじめに、こつこつ」という仕事はコンピューターになってしまった。
どうしても残る手仕事は、それやる専門集団を抱えたところに請負させる。
福利厚生や給与計算など、すでに正社員ではない。
そうなると、基礎学力が低い学生は苦しい。選択肢が狭まる。(基礎学力といっても、そんなにレベルの高いものではない)
基礎学力の高さは、物事に取り組む姿勢としてとらえられ、基礎学力が低いということによって、エンプロイアビリティが低いという見られ方をする。(だから大学も、使いもしない英語を中学以降の勉学習慣の指標として、数学を小学校からの勉学習慣の指標として、入試で使っている。)
さらに、グローバル化の影響もある。
先ほどの中小企業の例にもあるように、語学力というのはひとつの尺度になる。
今までは生産基地としてのアジアだったが、これからはマーケットとしてのアジアだ。
アジアで生きていくために企業は必死だ。
これまで国内産業だった、サービス業もこれからは出て行く。
出て行かない企業はそれこそアジアの企業に買収されるだろう。
すでに、新卒はすべて外国人という会社もある。
ユニクロや楽天のように、社内資料は英語、という会社も出てきた。
もちろん、コミュニケーション能力、熱意、やる気などの人間力と呼ばれるものは、相変わらず重視される。、
しかし、これは面接や文章でしかわからない。
基礎学力は数字で測れる。
ここで振り落とされる。
そこに景気の悪化とグローバル化、情報化の進歩の三つが加わり、未曾有の求職難になっている。
それに対して、政府は有効な対策を何らできていない、という状況かと思う。
正社員、新卒一括採用という働き方が、もう崩壊しかかっている。
会社の中に囲い込んで、それで高い忠誠心を持たせ、アウトプットを増やす、という年功序列、終身雇用という制度が回らなくなってきている。
そんな悠長なことは言っていられないし、その余裕もない。
成果主義や目標管理を入れたときから、そうなることは予想できた。
それをかろうじてくい止めているのが、企業内労組。
終身雇用の制度を守らないと、現状の労組は生きていけない。
しかし、長期的には欧米のようなユニオンが増えていくだろう。
会社側はそれこそグローバル化、成果主義、目標管理というものを突き詰めて考えれば、スタッフは、より専門的になり、流動的になっていかざるを得ない。
つまり、自分で考え、そして行動できる人、という視点になる。それがエンプロイアビリティ。
そして非正規雇用を増やす方向に行くのが必然。
となると、これからは非正規雇用が一般的になっていく。
今の非正規雇用ではない。新しい非正規雇用だ。
逆に、日本のようなかたちの正社員という仕組みがなくなっていくとも言える。
まだ、どういうふうに決着するかはわからないが、大きな流れは、会社の中はほとんど契約社員ばかり、という状況になるのだろう。
こういう流れの中で、どうやって学生を世の中に出していくべきかということも考える必要がある。
大学としてできる、一つの手立ては、以下のようなものである。
・大学の学びと基礎学力の修得を同時にする。
・大学の学びとは「自己を相対化する」「批判し批判される能力」の二つ。これをゼミを通じて徹底的に鍛える。これがなければ、「考える」「行動する」ということができない。
・基礎学力を何とか向上させる。国語は読書、作文、レポートなどを通じて鍛える。
・数学はせめて割合の計算、分数の四則演算、図表の見方などを重点的にやる。
・そんなに高いレベルは要らない。中学2年程度でOK。
・正社員をめざすというのは大前提だが、派遣で生きていくという道も考えさせる。
・特に、あるスキルを向上させたい、という人は派遣の方がよい。それはおそらく、今の20代の人が40代になるころには一般化している可能性がある。
ある新聞によると、「今の新入社員に小学校程度の理科と算数の問題をさせると、50%しかできない。しかし、50代では85%できる。」とのこと。
これは、ゆとり教育をはき違え、楽をした現場の先生の影響もあるが、戦後の民主主義教育の結果でもあると思う。
今の50代が習った小学校の先生は、戦前の教育を受けていた人であり、その価値観が残っていた。しかし、今の20代は戦後の教育を受けた人が先生。
若い人ほど、戦後の民主主義教育の色が濃い。
学校の昼休みは掃除の時間であり、全員で掃除をする。
何でも全員。全て平等がよく、多数決が常に正しい。
放課後はすぐに帰る。
運動会は全て男女同じ競技をやる。
タイムの差が大きいかけっこはダメ。
先生はみんなジャージで、生徒とは友だち。
先生同士での会話は敬語ではない。
相対評価で、成績はつける。同じ成績でも人が違えば違う。結果の平等だ。
組合が強く、IT化は遅れている。
これらが全て悪いとは言わないが、こういう教育ではなかった。
世の中の差を認め、世の中は絶対評価だという教育だった。
平等であることは正しいが、それは機会の平等であって、結果の平等ではない。
先生はこわくて、偉かった。友だちなどではない。
よければ、ほめて、悪ければ、しかる。
生徒の前では、先生同士でも敬語を使っていた。
横並びではなく、飛び出していることが善だという考え。
運動会では男女で種目が違っていた。
全員でかけっこなどしない。リレーの選手だけ。
こういうことを思っている。それが正しい考えかどうかはわからない。
しかし、確実に知的なレベルは下がったと思う。(これには異論があるだろうが…)
もちろん、時代の変化は大きい要因だ。
今の世の中に、自分を位置づける座標がなくなった。
だから、何のために学ぶのか、という問いに答えがなくなった。
昔は末は博士か大臣かなどといわれたが、今はどちらも権威がない。
博士になっても、仕事がなく、落ちこぼれという状況だし、大臣は次から次へと首をすげ替えられ、覚えることもできない。
しかし、当時も今も同じだ、という人もいるかもしれない。
それはそうかもしれないが、今の人はレベルが低いことは恥ずかしいことだと、30年前ほど思っていない。
それは確実にそうだと思う。
ナンバーワンよりオンリーワンだという。
なぜ、どこにでもある花が、「特別なオンリーワン」なのか。
個性を尊重するなら、したらいい。しかし、どの尺度で何を尊重するのか、それを明確にしてほしい。
そうでなければ、尊重された方も、一体何を尊重されているのかわからない。
それは何も尊重していないのと同じだ。
第一、そんなやり方で尊重されても、うれしくないだろう。
そんなことを思っている。
考えているのではない。
漠然と思っているのだ。
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