考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< August 2010 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
Placebo question
プラシーボ効果というのは、偽薬の効果のこと。

新薬の開発時に、被験者を2つのグループに分けて、半分には新薬を、半分にはただのビタミン剤を与える。
両グループにどの程度差があるかで、薬の効果をみる。
新薬だ、という心理的効果を消すためだ。
効く薬というだけで、うそでも治る人もいるので、それを差し引くためだ。

世の中には、別にウソをつくつもりでも、不真面目ではなく、薬を効くと信じて治る人が一定数いる。

そのplaceboという単語を使って、placebo questionという言葉を聞いた。
ドラマの中で、刑事が言っており、「サクラの質問」という訳だったと思う。

いくつか質問するうちで、どうでもいいというか、にぎやかしで出した質問という意味だ。

この使い方は英辞郎には出ていない。
ほとんどの用法は、薬の治験に関するもの。
placebo questionというような類のものはなかった。

placeboというのは、どうでもいいというようなニュアンス。
当て馬のという感じもあるだろう。

おざなりに何か聞いて、答えをもらう場合、placebo questionと言えばよいように思う。

新しい用法だ。


| | 英語 | 19:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
西武警察
いつ頃放送していたのだろうかと思って調べたら、昭和54年が最初。
西暦にすると1979年。
ぼくが会社に入った年。

再放送しているのを見たが、これはすごい。
荒唐無稽という感じだ。

みんなお揃いのレイバンの緑のサングラス。
真っ赤なネクタイ。
黒のカッターシャツ。
渡哲也は完全にヤクザと言ってもよい姿。
どちらかというと、捕まえる側というよりは、捕まえられる側だ。

どういうわけか、ショットガンをいつも持っている。
カッターの襟をスーツから出して着ている。
この頃は、それがオシャレだったのだろう。

ストーリーもかなりなものだ。
渡哲也は腕を撃たれて、すぐに包帯を巻いて戦っている。
その後、みんなで歩いて帰るところも映っている。

そんなアホな、という場面がたくさんあるが、それでも当時はかっこよかった。
時々しか見ていなかったが…。

時代というのは、おそろしいものだ。
当時かっこよかったものが、荒唐無稽になる。

時代を超えて愛されるものは、その時代に、奇をてらってとんがって作ったものではないだろう。
そういうものは、すぐに陳腐化する。
その時代に普通のものこそ、いつまでも生きのびる。

一時に比べ、だいぶドラマは減ったが、今生き残れるドラマがどれくらいあるだろうか。



| | 考えたこと | 11:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
退職記念
一度退職しているのは、今まで書いたとおり。

その時に退職金をもらった。
ちょうど25年勤めて、もらったお金。
あと10年ほど勤めたら、はね上がるというような事だった。
だから、そんなに大きなお金ではない。

記念に何か買おうと思って、ずっと考えていた。
そして、これだ、というのを見つけた。

腕時計である。

電池式のクオーツで、1年ちょっとで電池が切れるのだが、それでもいいと思って買った。

シチズンのカンパネラというシリーズ。
その一番安いのを買った。

文字盤の中にたくさんの針がある。
もちろん、時針、分針、秒針はあるのだが、それ以外に曜日針と日針、月針、年針、24時間針がある。
また、月の満ち欠けもわかるようになっている。

その上、ボタンを押すと、鐘の音が鳴る。
ただ鳴るだけではない。
それで時刻を表すのだ。
1時20分なら、チン、チンコン、コンコンコンコンコンと鳴る。
つまり、時間の鐘、15分単位の鐘、残りの分の鐘、という具合。

こういうギミックは大好きだ。
音が鳴ったら困る場面では、大変困るのだが、どうやってそれをこんな小さな中に詰め込んでいるのか、というメカのすばらしさがある。
職人の魂がこもっているのだ。

毎日つけて行っている時期もあったが、今はわけあって時々しかしない。

音を鳴らさないと、けっこう電池は持つ。
もう1年以上たつが、まだ動いている。

これは形見になるぞ、と思いつつ、時々出して眺めている。

なぜ毎日しないか…、これは簡単だ。
老眼で細かい文字が見えないから。

自分の年を考えていなかった。

でも、気に入っている。



| | 考えたこと | 20:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
最近思うこと
情報化社会とか知価革命とか言われてきたが、いよいよそれが本当になったと思う。
会社のヒエラルキーが情報技術の発達によって平べったくなり、中間管理職の役割が減少し、一般職については一部が派遣、請負化され、正社員のパイが小さくなってきている。

少子化によるマーケットの縮小や、アジアのマーケットの拡大もそれに拍車をかけ、いよいよ本当にグローバル化してきた、という感じ。
今や中小企業でも、今年の募集要項については、「TOEIC600点程度またはHSK6級程度以上の方からご応募いただけます」という文言がある。
HSK6級とは、中国語ペラペラのことだ。
どちらかというと、日本語ができる中国人を雇った方が早い、という印象だ。

これを可能にしたのが情報化社会。インターネットの発達と、情報端末のパワーで、一般の仕事をだれでもできる仕事にしてしまった。
中抜きという言葉があるが、まさにそういう状態。
現場の仕事と、判断業務が最後に残る。
今はその過渡期だ。
インターネットがそれを後押ししている。
公務員の分野はそれが遅れており、まだ昭和のかたちだ。(それも昭和40年代ではないか)
しかし、公務員の仕事も変わらざるを得ない。
そんなところに若い人が集まっては困るからだ。

ウエイターの仕事は注文を覚えることから、情報端末でタッチパネルを操作することに変わったし、給与計算や福利厚生などの一般化できる仕事は専門の会社で請負に変わった。
そろばんや電卓をおいて計算する仕事がなくなり、コンピューターで打ち出される財務状況を判断する仕事が増えた。
製造の現場をはじめ、請負、派遣、パート、バイトの仕事は増加傾向にあり、それは止まらない。

事実、現在、多くの高校生、大学生がアルバイトを継続的にやっており、仕事にはあぶれてはいない。
彼らはそれが将来の自分たちの仕事を奪っていることがわからない。
雇う側にも、そういう意識はない。
資本主義の原則は、まずお客様に喜んでもらうことであり、それは一般的には価格を下げることだからだ。

再度書くが、スーパーのレジ、ファミレスのウェイトレス、居酒屋の接客など、昔は学生バイトの仕事だと考えられなかった。
しかし、それが今バイトやパートに置き換わっているのが実態。
情報技術によって、「学生でもできる仕事」に変わってしまった。安い労働力があれば、だれでもいい、ということだ。
そうなると、コストの安い労働力を雇う。これは必然だろう。
一部の政治家のように、それがデフレの原因だとか、もっと正社員を増やせというのは、お門違いだ。

結局、最後は「考える人」「実行する人」だけがスタッフで必要になる。
これらのことがじわじわと進んできたが、ここに来て一気に顕在化した感じがする。
求人倍率は1を超えているが、実際にほしい人はアルバイトのレベルではないのだ。
だから、人がほしいが、それは必要な人がほしい、ということだ。

したがって、正社員になるためには、「まじめに、こつこつ」というタイプは不利。
うそでも、ハッタリをかまし、ちょっとは成果を上げられるようなタイプが望まれている。
「まじめに、こつこつ」という仕事はコンピューターになってしまった。
どうしても残る手仕事は、それやる専門集団を抱えたところに請負させる。
福利厚生や給与計算など、すでに正社員ではない。

そうなると、基礎学力が低い学生は苦しい。選択肢が狭まる。(基礎学力といっても、そんなにレベルの高いものではない)
基礎学力の高さは、物事に取り組む姿勢としてとらえられ、基礎学力が低いということによって、エンプロイアビリティが低いという見られ方をする。(だから大学も、使いもしない英語を中学以降の勉学習慣の指標として、数学を小学校からの勉学習慣の指標として、入試で使っている。)

さらに、グローバル化の影響もある。
先ほどの中小企業の例にもあるように、語学力というのはひとつの尺度になる。
今までは生産基地としてのアジアだったが、これからはマーケットとしてのアジアだ。
アジアで生きていくために企業は必死だ。
これまで国内産業だった、サービス業もこれからは出て行く。
出て行かない企業はそれこそアジアの企業に買収されるだろう。
すでに、新卒はすべて外国人という会社もある。
ユニクロや楽天のように、社内資料は英語、という会社も出てきた。

もちろん、コミュニケーション能力、熱意、やる気などの人間力と呼ばれるものは、相変わらず重視される。、
しかし、これは面接や文章でしかわからない。
基礎学力は数字で測れる。
ここで振り落とされる。

そこに景気の悪化とグローバル化、情報化の進歩の三つが加わり、未曾有の求職難になっている。

それに対して、政府は有効な対策を何らできていない、という状況かと思う。

正社員、新卒一括採用という働き方が、もう崩壊しかかっている。
会社の中に囲い込んで、それで高い忠誠心を持たせ、アウトプットを増やす、という年功序列、終身雇用という制度が回らなくなってきている。
そんな悠長なことは言っていられないし、その余裕もない。
成果主義や目標管理を入れたときから、そうなることは予想できた。

それをかろうじてくい止めているのが、企業内労組。
終身雇用の制度を守らないと、現状の労組は生きていけない。
しかし、長期的には欧米のようなユニオンが増えていくだろう。

会社側はそれこそグローバル化、成果主義、目標管理というものを突き詰めて考えれば、スタッフは、より専門的になり、流動的になっていかざるを得ない。
つまり、自分で考え、そして行動できる人、という視点になる。それがエンプロイアビリティ。
そして非正規雇用を増やす方向に行くのが必然。

となると、これからは非正規雇用が一般的になっていく。
今の非正規雇用ではない。新しい非正規雇用だ。

逆に、日本のようなかたちの正社員という仕組みがなくなっていくとも言える。
まだ、どういうふうに決着するかはわからないが、大きな流れは、会社の中はほとんど契約社員ばかり、という状況になるのだろう。

こういう流れの中で、どうやって学生を世の中に出していくべきかということも考える必要がある。
大学としてできる、一つの手立ては、以下のようなものである。

・大学の学びと基礎学力の修得を同時にする。
・大学の学びとは「自己を相対化する」「批判し批判される能力」の二つ。これをゼミを通じて徹底的に鍛える。これがなければ、「考える」「行動する」ということができない。
・基礎学力を何とか向上させる。国語は読書、作文、レポートなどを通じて鍛える。
・数学はせめて割合の計算、分数の四則演算、図表の見方などを重点的にやる。
・そんなに高いレベルは要らない。中学2年程度でOK。
・正社員をめざすというのは大前提だが、派遣で生きていくという道も考えさせる。
・特に、あるスキルを向上させたい、という人は派遣の方がよい。それはおそらく、今の20代の人が40代になるころには一般化している可能性がある。

ある新聞によると、「今の新入社員に小学校程度の理科と算数の問題をさせると、50%しかできない。しかし、50代では85%できる。」とのこと。
これは、ゆとり教育をはき違え、楽をした現場の先生の影響もあるが、戦後の民主主義教育の結果でもあると思う。

今の50代が習った小学校の先生は、戦前の教育を受けていた人であり、その価値観が残っていた。しかし、今の20代は戦後の教育を受けた人が先生。
若い人ほど、戦後の民主主義教育の色が濃い。

学校の昼休みは掃除の時間であり、全員で掃除をする。
何でも全員。全て平等がよく、多数決が常に正しい。
放課後はすぐに帰る。
運動会は全て男女同じ競技をやる。
タイムの差が大きいかけっこはダメ。
先生はみんなジャージで、生徒とは友だち。
先生同士での会話は敬語ではない。
相対評価で、成績はつける。同じ成績でも人が違えば違う。結果の平等だ。
組合が強く、IT化は遅れている。

これらが全て悪いとは言わないが、こういう教育ではなかった。

世の中の差を認め、世の中は絶対評価だという教育だった。
平等であることは正しいが、それは機会の平等であって、結果の平等ではない。
先生はこわくて、偉かった。友だちなどではない。
よければ、ほめて、悪ければ、しかる。
生徒の前では、先生同士でも敬語を使っていた。
横並びではなく、飛び出していることが善だという考え。
運動会では男女で種目が違っていた。
全員でかけっこなどしない。リレーの選手だけ。

こういうことを思っている。それが正しい考えかどうかはわからない。
しかし、確実に知的なレベルは下がったと思う。(これには異論があるだろうが…)
もちろん、時代の変化は大きい要因だ。
今の世の中に、自分を位置づける座標がなくなった。
だから、何のために学ぶのか、という問いに答えがなくなった。
昔は末は博士か大臣かなどといわれたが、今はどちらも権威がない。
博士になっても、仕事がなく、落ちこぼれという状況だし、大臣は次から次へと首をすげ替えられ、覚えることもできない。

しかし、当時も今も同じだ、という人もいるかもしれない。
それはそうかもしれないが、今の人はレベルが低いことは恥ずかしいことだと、30年前ほど思っていない。
それは確実にそうだと思う。

ナンバーワンよりオンリーワンだという。
なぜ、どこにでもある花が、「特別なオンリーワン」なのか。

個性を尊重するなら、したらいい。しかし、どの尺度で何を尊重するのか、それを明確にしてほしい。
そうでなければ、尊重された方も、一体何を尊重されているのかわからない。
それは何も尊重していないのと同じだ。

第一、そんなやり方で尊重されても、うれしくないだろう。

そんなことを思っている。
考えているのではない。
漠然と思っているのだ。




| | 考えたこと | 13:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
トンネルの中のライト
会社に入って、最初に実験部署に配属された。

この部署は出張が多く、それも車で移動するというものだ。

名神高速の吹田PAで待ち合わせして、そこから何台かの車で東京を経て茨城まで行く。
当時は、東京から地道で行かないといけなくて、12時間くらいかかった。

朝の7時に出発して、夜の7時に着く。
後に高速道ができ(つくば万博の時)、少し短縮されたが、それでも混むと10時間以上かかった。

初めての出張の時は、道もわからないので、ベテランの人とペアになる。
ぼくはMさんと一緒に行くことになった。
昭和54年の5月。

緊張しつつ、ハンドルを握って、吹田PAを出発した。

車が天王山トンネルに入って、ライトをつけた。
充分に前の車が見えていたので、スモールライトだけをONにしたら、Mさんが言った。

「何でスモールだけつけるんや?」
「え、前は充分見えてますから」

そう答えたら、Mさんが言った。

「君が見えることも大事や。でも、他の車がこの車を見えるかどうかやで。」

そう言われて、ヘッドライトをONした。

ヘッドライトは自分が見るためのものであるが、同時に他人に見えるためのものでもある。

今でも毎朝、毎晩通勤で走っているが、トンネルに入ると時々その時の事を思い出す。

今乗っている車は自動的にヘッドライトがつくような設定にしてある。

時々、ライトをつけずに走っている車もある。
自分が見えているからだろう。
昔に比べてトンネルの中は明るくなった。

そういう車を見ると、なるほど、自分が見えるためにつける、ということがよくわかる。

場合によっては、コンマ数秒で、10メートル以上走る速度だ。
判断は早い方がよい。
もし、ぶつかられる時でも、それにそなえることができる。

ライトは人のためならず。

Mさんに感謝。


| | 考えたこと | 20:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
時間
時間は無情だ。
容赦なく過ぎ去っていき、年をとる。
年をとれば、いつかは死ぬ。

しかし、時間は平等でもある。
だれでも同じように過ぎ去っていく。
どれだけの金を積んでも、時間は待ってくれないし、戻ってもくれないし、早く過ぎてもくれない。

アインシュタインは時間も相対的なものだ、と言ったが、今のところその相対性を感じることはほとんどない。
なぜ、時間がそんなに気になるのか。
それは人間が死すべき運命だからだ。

でも、ふだんはそれを意識することもない。
しかし、何かあれば、否応なくそれを意識させられる。

そんな出来事が先日あった。

飼っていた犬が死んだのだ。

もう少し早く気がついて、点滴に連れて行けばよかったのだが、それが送れて水を吸収できなくなった。
腎不全ということだ。

最期は水を無理やり飲まそうとしても、飲まない。

点滴をしても、おなかが膨れるだけで、吸収しない。

万策つきて、亡くなった。

こんなことが時間を意識させる。

ぼくは、残り時間がどれくらいあるのだろうか。

どんなふうに、死ぬのだろうか。

死を意識するからこそ、生を意識できる。

合掌。



| | 考えたこと | 01:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
草野球
小学校の4年くらいまでは、近くに原っぱがあった。

原っぱというのは、空き地のことだ。
誰かの土地なのだろうが、その頃はほったらかしにしていて、柵もしていなかった。
万事おおらかだったのだ。

そこで、野球をするのが日課だった。
野球ができたのだ!
これはすごい。

何がすごいかというと、野球は最低でも8人くらい集まらないとゲームはできない。
まあ、8人ではピッチャー、キャッチャー、野手2人となるが、できなくはない。
チーム対抗ではなく、誰かが打って、他が守るということなら、7人くらいいればできる。

それが毎日できたのが、ぼくらが小学校の頃。
昭和40年代の前半。
バットとミットを持って、原っぱに行く。
近所の原っぱで野球をする。もちろん、軟球。
あの当時は、ボールを追いかける事ができた。
もちろん、今ではできない。

そんな友だちがいたのだ。

ウチの子どもたちを見ていると、せいぜい数人で遊ぶ。
もちろん、中学、高校になるとクラブ活動などでは大勢だが、それでも家に来る友達は5〜6人だ。
小学校のころは、本当に少なかった。
とても野球などできない。

野球をやる場所もない。
もう原っぱがないのだ。
野球をしようとすると、学校のグラウンドの休日開放くらいしかない。
日曜日は、少年野球チームとサッカーチームの取り合いらしい。
そういうチームに入らないと、野球やサッカーができない。

何かおかしいのではないか。

仕方ない事とはいえ、ぼくはそう思う。


| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
整理下手
仕事場のデスクの上に、名刺が200枚ほどたまっている。

ウチの部署では、名刺はスキャンしてみんなで共有することになっていて、それをサボっているのだ。
いつかやらないと…、と思って置いてある。
何かの時に、あれはどこへいったのか、と名刺管理ソフトを起動して検索して、該当無しになる。
あ、そうか、と自分のデスクの上を探す始末。

自分でも情けないが、整理下手だ。

読もうと思って、コピーした書類が5センチほどの高さでたまっている。
コピーしてすぐに読めばいいのだが、その時は忙しくて、とりあえずコピーを取っておいて、あとで見ようという気持ち。
これが失敗だ。
読まないといけない、と思って半年くらいたてば、読まなくてもよいのだが…。

これも、整理下手だ。

机の引き出しに書類がいっぱい入っている。
別に分類しているわけでもなく、ごちゃごちゃに入っている。
何となく、置いておいた方がよいと思う書類だ。
時々、いっぱいになったので入らないから、見てちょっとだけ捨てる。

これも、整理下手だ。

どうせ置いておいても見る書類などほとんどない。
100枚あれば、1枚くらい。
それも、なけりゃないで、何とかなるもの。

結局、捨てられないのが敗因だろう。

一手間かけることができないのだ。
捨てる前にファイルするとか、分類するとか…。

こういうことは、一生なおらない。

わかっちゃいるけど…、というやつ。

整理上手な人がうらやましい。


| | 考えたこと | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
偏微分方程式
大学の時に、物理や工業数学という授業で出てきた。
微分方程式は高校3年でやったが、偏微分というのは初めて。

ちょうど、その頃はやっていたパックマンというゲームのキャラクターのような文字を使って表す。
当時、ぼくは学校にあまり縁がなく、ほとんど(というか、全く)出席していなかった。
したがって、ぼくの中では偏微分というのは、わけのわからないもので終わっている。

その後会社に入っても、偏微分は使わずじまい。
結局、一生理解することはないだろう。

その偏微分を長男が勉強している。
ノートや教科書を見ると、あのパックマンがたくさん出てくる。
どうも、理解しているらしい。

「それ、偏微分やろ」というと「そうや」という。
それ以上はいわないが、ちょっと情けない。

 「多変数の関数に対して、その変数を一旦固定して定数と見なし、一つの成分のみを変数として動かして、その成分方向への瞬間の増分を与える微分法である。」

この定義の意味はわかるのだが、実際に使うとよくわからない。
身体でわかっていない、ということなのだろう。

子どもはいつか親を越えていくというが、その通り。
もうとっくに越えているのだが、親の側が認めたくない部分もある。
ただ、年の功で勝っている部分がまだまだあるから、それで安心している。

いつか抜かれるのは当たり前だし、またそうでなければ困るのだが…。

こういうのを、「やせ我慢」というのかもしれない。


| | 考えたこと | 21:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
Keep open-minded
ドラマを見ていたら、検察官と弁護士が話す場面があった。
弁護士が検察官に頼み事をする。

そんな狭い了見では困る、もっと広い心を持って…、という時に使ったのが「Keep open-minded」。

オープンなマインドで、という言葉、そのままの意味だろう。
英語でも、開かれた心、というふうに言うらしい。
いや、英語の方がこういう表現は先なのか。
翻訳されて日本語になったのかもしれない。

このmindedという単語は頭にいろんな言葉をつけて、〜の心で、という意味になる。
英辞郎というWeb上の辞書で引いてみると、351もでてきた。

budgetというのは、予算という意味だが、budget-mindedというと、せこい、という意味になる。
double-mindedというと、二つ心がある、ということで、決心がつかない、という意味。

なかなか面白い。

career-mindedというのは、キャリア指向という意味。
したがって、日本語のキャリアウーマンというのは、career-minded womanか…、と思ったらマチガイ。
あくまで、career-minded womanはキャリア指向の女性という意味になる。

キャリアウーマンという英語は、「ビジネスの第一線で活躍する女性」という意味になる。
日本語もそういうイメージだ。

和製英語も入り交じって、ややこしい。




| | 英語 | 22:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
高齢者の行方不明
神戸市では100人以上、中には125歳の世界最高齢の人もいる?らしい。

100歳を超えると、お祝いが渡され、その時に実際に確認されることになっているはず。
しかし、それも会いたくないとか今はどっかに行っているとか、言われてしまえば、それまでだろう。

それで、年金をもらっている人もあるらしい。
日本の65歳以上の人口は現在約2割。
1.2億の2割だから、2400万人。
すごい数だ。

75歳以上でも、10%だから、1200万人もいる。
85歳以上になると、200万人くらい。

85歳以上で、年金をもらっている人は、どれだけいるのだろうか。

日本は少子高齢化でどんどん若い人の比率が少なくなる。

年金のシステムはこの事態を予想していない。
もちろん、予測可能だったが、誰も何とかしようとしなかった。
よくある話だ。
おまけに、年金を扱う役所はいい加減ときている。

若い人からたくさんのお金を取って、年寄りを養うシステムが年金だ。
したがって、相対的に若い人が減れば、年金は減る。

それを補って、あまりある収入があれば、何とかなる。
しかし、その収入(税金)も減っている。
国の所得が小さくなっているのだから、税金も減る道理。

アジアの諸国の所得が上がって、購買力が増えてきているが、残念ながら輸出は増えない。
日本企業が現地で作ったり、韓国にとられたりしている。
輸出が増えないと、収入は増えない。

どうやって、このシステムを延命させるのか。

それを考える人が、いないのが一番の問題か…。



| | 考えたこと | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
Someday
Somedayは山下達郎の曲、そして佐野元春の曲でもある。

先にリリースしたのは、1980年の山下達郎。
Ride on Timeに入っていた。
吉田美奈子の詞とコーラスが素晴らしい。
何度も書くが、山下達郎は吉田美奈子とのコンビで曲を出していた頃が一番だ。

 時々人の心の中が
 信じられない出来事がある…

この曲はベースが素晴らしい。チョッパーと当時言われていた奏法。
明るい曲だが、歌詞は結構重たい。

 Someday 一人じゃなくなり
 Someday 何かが見つかる…

というリフレインが印象に残る。
この曲をはじめとして、結婚前の山下達郎には名曲が多い。

一方、佐野元春のSomedayは1982年。
この曲でブレイクしたと言われている。

 街の唄が聞こえてきて
 真夜中に恋を抱きしめたあの頃…

間奏のサックスが泣かせる。

佐野元春は孤独なロッカーだと思う。
この人、いつ自殺してもおかしくないなあ、と思っていたが、外れた。
外れてよかったのだが、一時渡米したりして、何となく日本から遠ざかっていたという印象がある。

この人には、Young Bloodsというラップの入った曲がある。1985年の発表。
これがぼくが聞いた、日本語で初めてのラップ。
一時、リズムマシンを持って、一人でラップのライブをやっていたりした。

どちらのSomedayも素晴らしく、甲乙つけがたい。

落ち込んだ時は、佐野元春、元気な時は山下達郎というところか。

70年代の洋楽は素晴らしいと思う。
日本のポップスは80年代が好きだ。

そんな代表曲ではないか。



| | 音楽 | 19:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
13日の金曜日
今日は13日の金曜日である。
15日が終戦記念日なので、今日あたりから終戦の特別番組が始まるのではないか。

ウチの実家では、終戦ではなくて敗戦にすべきだという事になっていたのは、前に書いた。
芋がゆを食べたのも、書いた。

ぼくの代になって、そんなこともやめた。(というか、やるといってもできないだろう)
もう、敗戦というリアリティもない。
戦争をしたのが、どことどこか?という質問が10代、20代から出る時代。

今の80代、90代の人が、南方戦線での状況を証言している。
もうすぐ、語りつぐ人もいなくなるだろう。
そういう意味では、この証言は貴重なものだ。

帰ってきた人たちは、亡くなった人の話をする。
「哀れだ」というひと言。

2011年が開戦70年になる。
それを記念して、NHKが証言を募集している。

こういうことをやるなら、お金を払ってもイイと思う。

南方戦線に限らないが、それでも、南方戦線は悲惨だったろう。

ぼくらには、想像すらできない。
戦争が終わってから、生まれたのを、感謝するだけだ。

だから、歴史を伝えなければならない。

覚えることが多いから、受験で不利だなどと言っている場合ではない。
学校の先生は何を考えているのだろうか。


| | 考えたこと | 13:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
玉砕の意味
NHKの番組で、アッツ島の玉砕をやっていた。

アッツ島とは、アリューシャン列島の隣にある島で、アンカレッジから日本に向かって来るところにある。
もっと南方にあるのかと思っていたら、あんなに北にあるとは思わなかった。
昭和18年、この島で2千人ほどが玉砕した。

玉砕というのは、捕虜になるのをよしとせず、最後まで戦う(=負ける)こと。
ほとんど、バンザイ突撃と同じだ。

当時、大本営発表では、アッツ島の部隊からは何の援護要求もなく、進んで玉砕したと報じたらしい。
これが「玉砕」の始めだった。

実際には隊長から、援護物資や助けてくれという連絡があったらしい。
それを大本営は無視し、放置した。
その後、この無視、放置はいたるところで起きる。
南方戦線など、本当にむちゃくちゃだ。

そのおかげで、たくさんの日本兵が死んだ。

そのような大本営は責められただろうか。

大戦後の東京裁判では、戦犯が裁かれたが、それは当然相手国に対するものだ。

自国兵に対する大本営の態度は、結局裁かれていない。

ちょっと前までは、あれは大本営発表だ、という冗談が通った。
つまり、あれはウソだ、ということだ。

それだけのウソを、大本営がついた。

いまだに日本人は大本営を野放しにしている。


| | 考えたこと | 02:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
のんびりする
のんびりするためには、どんな条件が必要だろうか。

だいたい、のんびりしたい時というのは、精神的に忙しい時だろう。
あれこれ、考えてしまい、気ぜわしい…、そういう時にのんびりしたいと思う。

一般的には、人里はなれたところに行くとか、何もせずにボーっとできるような環境になる場所がよい、という。
しかし、そういうところに行っても、今は携帯メールやインターネットがあるから、あまり効果がない。
その気になれば、何でもできてしまう。
その気になっても、そういうことができない、ということで、人里はなれた場所に行くのだ。
世の中が進んで、便利になったのだが、それが災いする。

だから、物理的な距離はあまり関係ない。

その気にならないことが重要だ。

いろんなことを、思い悩まなければいいのだ。

そうなると、忘れる技術が大事になる。

忘れるためには、心にスキマを作らないといけない。
いっぱいになっていると、忘れられないのだ。

しかし、スキマを作るのは難しい。

手っ取り早いのは、なにかに熱中することだ。
ちょっと矛盾しているが…。

この盆休みは、のんびりするために、努力をしてみよう。

| | 考えたこと | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
猛暑の気温
昨日の大阪は暑かった。
猛暑と言えるだろう。
おそらく、35度をはるかに超えていただろうと思う。

グリーンハウスエフェクト(温室効果)というやつだ。
冷房の排気による熱が多く、緑が少ない。
それで気温が上がる。
道はすべて舗装されているし、ビルがたくさんあって、高いところまで空気が流れにくい。

あんな状態で、外にいるのは至難のわざだ。

気温というのは、風通しのよい場所で、地上から何センチで、日陰で測ると決まっている。
学校のころ、校庭の隅にあった、百葉箱という白い箱の中で測ることになっている。
あの、涼しそうな箱の中の温度が、実際の気温とは…。

実際に太陽にさらされ、地表が50度を超えたところの温度はもっと高いと思う。
実際に測ったことはないが…。

グリーンハウスエフェクトというのなら、都会の実温を測る手段を講じるべきだ。
家の中にいても、熱中症で死ぬ人がたくさんいるくらいだから、そんなことも必要ではないか。

どうしても、30度台であれば、油断してしまう。
でも、40度とか、50度という数字であれば、これはえらいことや、ということになるだろう。

参考値として、日射時の地上1メートルの温度です、というようなコメントをつけて、気温とは別に発表すればよい。

気象庁もそういう気を利かせるべきだ。

猛暑対策の一環になる。


| | 考えたこと | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
大蔵省
今はもうないが、大蔵省という言葉は昔よく使われていた。

大蔵省は、省庁の名称変更で、財務省という名前になった。

しかし、政府関係の名前で一番良く使われたのが大蔵省。
なぜかというと、「ウチの大蔵省」というような使われ方をしたからだ。

ウチの大蔵省、というのはウチの奥さんという意味。
財布を握っている、というところから、大蔵省というようになった。

若い人は、「ウチの財務省」とは言わない。

なぜか?

それは、大蔵省の時代は、お金がたくさんあったからだろう。

今のように借金漬けの国家予算ではない。
日本はお金持ちだった。
開発途上国では大盤振る舞い。
右肩上がりの時代。

だから、大蔵省のことを、財布を持っている人の代名詞になった。
どちらかというと、夫が稼いだお金を、ぶんどっている、というイメージがあったのかもしれない。
だから、男が使う言葉だった。

財務省になった時はもうダメだった。

だから、ウチの財務省とは言わないのだろう。

よくできた話だ。



| | 考えたこと | 01:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
日の丸・君が代
アナログ放送がなくなって、時報がなくなる、という話をしていたら…。
昔は夜の12時の時報がなったら、NHKは日の丸と君が代が流れ、今日は放送終了、ということになった、ということを35歳の男性は知らない。
11PMをやっていた頃だから、かなり古い。
たしかに、今の30代でも知らない人もいるだろう。

調べてみると、日の丸・君が代を、NHK総合テレビで夜の12時に流し始めたのが1953年らしい。
それからずっと、NHKは夜の12時までの放送だった。
それが、やめになったのが1987年らしい。
今から23年前。

そんなに昔だったのか…。
今はテレビ放送は24時間ずっとやっているのが当たり前だが、これも常識になったのは20年ちょっと前から。
NHK教育は今でも日の丸・君が代を流しているとのこと。

ただ、デジタル放送になって、あの時計が出てきて、秒針がちょうど12時になる、という画面はないらしい。
時刻は左下に出るが、ちょっとずれている可能性がある。
デジタル放送はアナログと違って、ずれる。
今の時刻表示はそのずれを考慮してやっているらしい。
それでも、アナログ時計の秒針を3秒前、2秒前、1秒前…、と動かすのはやめた。
これが、デジタルの弱みだろう。

しかし、テレビを毎日24時間連続で放送している、というのはすごいことだ。

以前のオイルショックの時に、夜は放送を打ち切って、たしかネオンサインなども消していたと思う。
エコ、エコというなら、どうして今しないのか、不思議だ。
みんな夜の12時に番組を終わったら、だいぶ夜中が静かになる。
また、12時から5時くらいまでの番組がなくなれば制作費も浮く。
そうすれば、普段の番組のクオリティが上がる…。
そんなふうにはいかないか。

本当に一考の価値はあるのではないか。
日本のように時差のない国で、24時間放送している国はどれくらいあるのか。
一度調べてみようと思う。

たしか、1980年代に出張した時、フランスでは国営テレビのアンテン・ドゥーが昼間2時間ほど放送休止していた。

ろくでもない番組ばかり流すのなら、いっそ止めた方がいい。

「エネルギー浪費の対策として、テレビ放送の時間制限する」、これはすごい。
今はDVDやHDレコーダーもあるし、夜中に起きている人は、昼間録っておけばよいのだ。

そうすれば、静かな夜になる。

LED液晶で、エコだとか、前に人がいないときは自動的に音声だけになるとか、そんなことをしなくても、放送をやめればいい。

これはいい考えだと思う。

そして、各放送局は一日の終わりに、画面には日の丸がはためき、君が代を流す。

そういう時代が来るか…。



| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
駅の暴力
今朝のニュースで、神戸のJR三宮駅が映った。

何のニュースかというと、駅員への暴力。
この頃よく駅員が暴力をふるわれるらしい。

駅のホームの端にいるお客さんに注意をしたら、いきなり背中に乗られ、びっくりしたとか、改札のところで切符の事を言ったら、いきなり頭を殴られたとか…。
この頃は普通の人がキレるから、危ない。

そのため、駅員は護身術を習う、ということだった。
男性も女性も警察の人から習っているところが写った。

へー、大変やなあ、と思ってみていたが、そこで大学の教授が出てきて、解説を始めた。

曰く、最近の人は気持ちが爆発するのが早い、ということ。

そのあと何を言うのかと思っていたら、それで終わりだった。

どうして、そんなことはわかっている、ということを解説するのか。
普通の人がキレる、というのは誰しもわかっていることだろう。
よしんば、それを知らない人もいるかもしれないから話したとしても、そのあとが問題だ。

その原因はどういうことか、その対策はどうすればいいか、それを予防するためにキレやすい人を見分ける方法はないのか…、そんなことを期待している。
しかし、それは難しい。
それでも、難しいことを、やさしくわかるように話すのが学者のつとめではないのか。

世の中ではいろんな事が起こっている。
その中で、問題点にいち早く気づき、その原因を考え、その対策を考える、せっかく出てくるのだから、そういうのを期待している。

最近の人は爆発するのが早いというのは、わかっている。
だから、駅員が暴力をふるわれているのだ。

これでいいのか?



| | 考えたこと | 23:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
ビリー・ジョエル
ビリー・ジョエルのライブをテレビで見た。

頭は禿げて、白髪になっているが、ピアノに向かって座っている、あれはビリー・ジョエルだ。

ストレンジャーやアレンタウン、ジャスト・ザ・ウェイ・ユーアーなど、懐かしい曲をやっていた。
80年代を代表するミュージシャン。

年をとってもかっこいい。
紺のブレザーに黒のTシャツ、そこそこすりきれたジーンズに革靴という姿。

ピアノのイスを蹴って飛ばし、お尻や足でピアノを弾く。
ギターを持つ姿も絵になる。

1949年生まれだから、もう61歳になる。
エネルギッシュなステージ。
このライブをやったときは59歳だったらしい。

あんな59歳になれればいいなあ、と思う。

だいぶメタボリックになったし、姿はオッサンだが、それでも、かっこいい。

全く彼の若い頃を知らない人は、どう思うんだろうか。
単なるオッサンだろうか。

ジャニーズが好きな人たちには、単なるオッサンなんだろうなあ。

時間というのは残酷である。

ぼくらが若いころ、東海林太郎や藤山一郎を見て「何やこのオッサン」と思ったのと同じこと。
その人と同じ時間を過ごしていないと、その人のイメージは伝わらない。

結局、ぼくの事をわかってもらえるのは、子どもの代までだろう。

ビリー・ジョエルの世代は、ぼくらのちょっと下までか…。



| | 音楽 | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
パンピー
今日初めて知った言葉が「一般ピープル」。
まあ、一般人ということらしい。

それを略して「パンピー」という。
これは今の30歳台くらいの人が使うとのこと。
この言葉で済めば、それでよかったのだが…。

それよりも下の若い人は、「イッピー」という言葉を使うらしい。
このイッピーはジャニーズ系の言葉とのこと。
「ジャニーズ系の言葉」というものを初めて知った。

現在、ジャニーズの追っかけや出待ち(楽屋などの外で出てくるのを待つこと)をやっている人たちの中で、まだ日が浅いファンのことをイッピーというらしい。(詳細不詳)
まあ、一般の人に毛の生えたようなもの、ということだろう。

また、ジャニーズの強烈なファンで、回りを取りしきっているようなファンの事を「おりき」というらしい。
このリキは「ちから」のことかと思う。

しかし、非常にマナーの悪いファンもいて、そういうのは、「やらかし」という。
これは、出待ちをしている間に、お菓子の食べかすや袋をそこらあたりに捨て、みんなの迷惑になる人たちのこと。
そういうことを「やらかし」ている、ということだろう。

また、イッピーが持っている袋のことを「イッピ袋」というらしい。
これは、好きなアイドルの写真や切り抜きを貼った紙袋、という意味。
まあ、イッピーがみんなイッピ袋を持って歩いているかどうかはわからないと思うのだが…。

しかし、一般ピープルという言葉、何となく響きが面白い。
一般人というと、かたい感じがするが、一般ピープルというと、普通の人たち、という柔らかい感じがする。
これをパンピーというのは、なかなかよいセンスだ。
「一般」の「パン」と「ピープル」の「ピー」を取って、「パンピー」。
ほう、これは面白い、と言ったら、あとのが出てきた。

イッピー、おりき、やらかし、イッピ袋…。
ファンというのは、昔で言うタニマチのことで、そういう人たちは自分たちだけの間で通じる言葉を作る。
それによって、結束を高めるのだろう。

しかし、珍妙な言葉である。
使っている本人たちは、全くそういう意識はないのだろう。
誰しもそういう時代を過ごす。

ぼくらが竹内まりやを聞いて、「バイビー」を 使っていたのと同じことだ。

それにしても、オカシイ。

恐るべし、ジャニーズ事務所。




| | 考えたこと | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
インサイト
インサイトが苦戦しているらしい。
国内ではプリウスが圧勝とのこと。

もちろん、ハイブリッド車の売り上げである。

エコカー減税やトヨタの対応がうまくて、プリウスが強いらしい。
プリウスの方が値段は高いと思うのだが…。

IMAというホンダの方式には特徴がある。
常にエンジンが動いている、ということだ。 (アイドリング時はストップするらしい)
つまり、普通のクルマに近い。
その分、電気自動車の感じがなく、プリウスが売れているのだろう。
ホンダのシステムは単純なのだ。(単純だから簡単というわけではない)
モーターはエンジンのアシスト用、と割り切っている。
それで、プリウスにちょっと燃費は負けているが、車重は軽く、高速側の燃費は有利になる。

ということは、高速をよく走る人はインサイトがいい、ということになる。

そのような特徴を知って、ユーザーは選んでいるのかどうかはわからないが…。

インサイトで思い出した事がある。
バブルの頃、四輪操舵というのが流行った。
ハンドルを切ったら、前の車輪だけでなく、後ろの車輪も動くというシステム。
多くの会社がコンピューターで制御して、走行速度や前輪の操舵角に応じて、後輪の操舵を前輪と同じ向きに切るか、反対向きに切るかという事をした。
ところが、ホンダははやりのコンピューターではなく、メカニカルな四輪操舵を出してきた。
プレリュードだったと思う。
メカニカルというのは、機械で動かすということだ。
ホンダは直接的な動きを重視していると思う。
間にコンピューターが入って、速度の判断や前輪の操舵角の判断をしていると、何となく「紙がはさまった」ような感じになる。
そうではなく、ホンダはダイレクトな感覚を追求しているのだ。

そういうものが、インサイトのスピリットだと思う。

ダイレクト感というやつだ。

プリウスの、アクセルやブレーキを踏んだときに、「紙がはさまった」ようなコンピューターの判断が気持ち悪いのだ。

がんばれ、インサイト!

(プリウスもインサイトも実際に乗ったことがなく、違っていたらごめんなさい。)


| | 考えたこと | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
カッコのジェスチャー
海外のドラマを見ていると、時々ジャンケンのチョキの指の形をして、顔の両側でピョコピョコ動かす仕草をやっている。
指を折ったり、立てたりするのだ。

あれは、カッコに入れる、ということを表しているらしい。
正確に言うと、 " " これをクオーテーションマークというが、これが日本語のカッコを表す。
だから、ピョコピョコと2回、顔の左右でやるという仕草になる。

ずっと何の意味かわからなかったが、今回読んだ本に出ていた。
なるほど、そうか、という感じ。

しかし、カッコを表すジェスチャーがあるとは、びっくり。

使われている場面をみると、何となくジェスチャーをした時にしゃべっていることを皮肉っているような感じ。
だから、皮肉をいう時に使うのかと思っていた。

 彼はできそこないの料理を食べて、「これは最高だ」と言った。

という場合、この「これは最高だ」のところで、両手でチョキを作ってピョコピョコする。
ここは、カッコに入っているぞ、というしるし。

実際は、最高ではない、という事を言いたいのだろう。
「そんなアホな」という感じだ。
それは表情で表す。

そういう使い方が多いと思う。

ネイティブでないと、使えないジェスチャーだと思う。

直接話法で話していて、そこに来たら、カッコだよ、という。

このジェスチャーは難しい。



| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
最近の病院
昨日病院に行って、CT写真を見てもらった。

腎臓の検査をしていて、副腎に異常がみつかったのだ。
これこそ、ついで、というやつ。

副腎というのはあまり馴染みがないが、副腎皮質ホルモンというと聞いたことがある。
二つあって、肝臓の裏にある。
副腎皮質と副腎髄質があって、副腎皮質ではコルチゾールとアデロステロンというホルモンが、副腎髄質からはアドレナリンとノルアドレナリンというホルモンが作られるらしい。

2年ほど前に脳梗塞をやったが、その原因が副腎の異常のせいかもしれない、とのこと。

結局1週間ほど検査入院しないといけなくなった。
今はまだ病室がいっぱいで、まだ先だが…。

しかし、最近の病院はすごい。
診察券で血液検査、尿検査など、一発だ。
機械にカードを通したら、血液検査の番号と尿検査のカップが出る。
検査の内容はコンピューターで医師の指示を確認できて、それによって取る本数が決まる。

最後の支払いも、会計が終わったらカードを機械に通して払う。

診察の時に、コンピューターの画面を見ていたが、薬の効能説明や検査の内容、どれをやってどれをやらないか、そういう選択ができる。
何を何錠、何ミリグラムというのも画面で選択して決まる。
することができる検査は、全部画面に出てきて、そこから選ぶ仕組みだ。

入院の手配もすぐだ。
帰りに入院の手配をするところに寄って、説明を聞いて、署名をするだけ。
昔のことを考えると、すごい違いだ。

何だかわからないうちに、診察が済み、血液検査と尿検査が済み、入院の手配が済んだ。
診察までは1時間半ほど待たされたが、そこからはすぐだった。

受付の人はみんな外部の医療専門学校の卒業生。
その学校に外注している。
名札をみればわかるようになっている。

システムの投資は莫大だろうが、待ち時間が減って、診察人数が増え、仕事が単純化し、外部に委託させられるところが増えて、コスト削減にもなる。
結局は投資に耐えることができれば、ペイするような計算になるのだろう。
もちろん、患者が来ることが前提だが…。

そういえば、予診というのがあって、まず予診室で研修中の医師に話しもできるようになっている。
そこで、いろいろな質問に答え、行こうとしてる科が合っているかという判断をするようだ。
いかにも大学を出てすぐという女性が予診をしていた。

IT化で一人当たりの診察時間は増えているのだろう。
以前は3時間待って、3分といっていた。
今回は1時間半ほど待って、10分くらいだったから、だいぶ改善されている。

病院も変わったものだ。



| | 考えたこと | 15:57 | comments(2) | trackbacks(0) |