考えたこと2

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「十年先を読む」発想法
「十年先を読む」発想法 西澤潤一 講談社文庫

ブックオフで見つけて中古で買った。
もう絶版で普通の本屋では手に入らないだろう。
180ページほどの本。

著者の西澤純一郎氏は光ファイバー関連の発明で有名な東北大の博士。
90歳でまだ存命だ。
「独創は"常識"との闘いである」「ごくわずかの差が巨大なのだ」「いまどきの若いものはだめだ」「技術開発に終わりはない」「"光"に向かって進め」という4章立て。
内容は工学部での発明の苦労や考え方、教育論などが書いてある。

面白いのは、お決まりの「いまどきの若いものはだめだ」という章。
自分は年をとったからそういうのだが、ギリシャの昔からそういう意見はあるということを前置きしている。
この本は1985年に出された。
その当時ぼくは28歳。
この人の言う、「若いもの」に入っているだろう。

まず、最近の若いものはいうことをきかないという。
それを指摘すると、「人からいわれてやるのは研究じゃない」というが、よその研究所に行ったら部下ができて、その部下に指示を出している、という。
自分が命令するのは研究であっても、人からいわれるのは研究じゃないという理屈があるか、ということだ。
ごもっとも。

また、研究面で、海外でやっている事は信じるが、日本でやっても信じない、ということも書かれている。
そういう感じはあったんだろう。
古き良き時代だと、今なら思える。

若い人たちを見て、こう書かれている。

「どうも、世の中全体が、若い人を甘やかし過ぎたのではないか。戦後の数々の失敗の中で、筆頭にあげられるべきは、教育の失敗ではないかと、この頃しみじみ思う。
 社会の一員として生きていく場合、義務も束縛もあるという感覚が、欠如している。豊かになりすぎて、責任を痛感する時期が、成長過程の中でなくなったのではないか。
 私たちの時代は、上級学校に進む場合、親に頼んで進学させてもらったものである。いまの子どもたちは、親に頼まれて学校に行ってやっている、という感覚である。会社に入るときも、一部上場の会社に就職してくれと、親に頼まれるありさま。子どものためではなく、親の見栄を押し付けているにすぎない。
 たしかに、戦前は、絶対的に貧乏だったから、大学に進みたいということになれば、家族が総力をあげて、その子どもにできるだけのことをしてやろうとした。その分、子どもも、責任を痛感したのである。
 いまその立場が逆転してしまっている。親が、子どもを甘やかしすぎるのである。私たちに対しても、”教育とは教えてもらうもの”だから、勉強しなくてもわかる講義をしろ、というヤツもいる。
 生きていくという厳しさがない。頼まれて生きてやっているんだ、ぐらいに思っているようである。ぼくたちを生かしておかないなら、おまえたちがわるいんだ、といういいかたになるのである。」

自分が若い頃も、エライ先生からはそういう風に見られていたということだ。

ギリシアの象形文字の壁画にも、「今どきの若いものは…」と書いてあったという。
若い人は年をとってしっかりするんだろう。

時代は繰り返す、ということがよくわかった。


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