考えたこと2

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文化は言葉
文化の特徴を表すのは、そこで使われる言葉だ。
日本文化について語るときには、日本語を使うことが前提。
たとえば「おもてなし」について語るときには、たとえ英語であっても「omotenasi」と書く。

企業文化の時も、同じことだと思う。
ぼくが勤めていた会社には、特徴的な言葉があった。

「生物」という言葉はふつうは生き物のことだが、社内では「生産物流」の略語だった。
生き物を表す場合は、「せ」にアクセントが来るが、社内用語では平板に「せいぶつ」と言って、区別は付けていた。

同じように「生計」は「生産計画」のことだ。
こちらも「生計を立てる」の時の生計とはアクセントが違っていた。
同じだとややこしいからだろう。

ぼくのいた会社は、以前は外資だったので、課長はMで略していた。
当然、Managerのことだ。

「経M」というのは、経理課長のこと。
これが部長になると、Mを丸で囲んでマルエムと呼んでいた。
手書きの時代はこういうことができたのだ。
もちろん、話し言葉でも使う。
うちのマルエムが…、というような感じ。

ワープロになっても、それを踏襲して(M)という風に書かれていた。
もちろん、正式に読むときは「部長」になる。

そこから派生して、部長代理はダッシュ「’」を付けていたような気もするが、「代」と書いていたようにも思う。
古いことなので忘れた。
山本課長は山本M、山本部長は山本(M)、山本部長代理は山本(M)代または(M)'、というような感じ。

社長はP、副社長はVP、常務はED、取締役はDだった。
部長の上で、取締役の下(事業部長など)は全部(M)でやっていたようにも思う。

こういうのは、転職したときにややこしい。
ぼくの場合は25年使ってきたので、学校法人に行って課長は「課長」と書くのが面倒だった。

「品質保証」を「品保」と略していたが、会社によっては「品証」というところもあるらしい。
略し方にも好みがあるということか。

会社を変わると、それらが全部変わる。
小さなことだが、こういう風習は会社の文化から作られるのだろう。

そういえば、出張に行くとき、出張費を「前受」する、という言い方をしていた。
事前に伝票を書いて、本人が立て替えなくてもいいようにするためだ。
あの「前受」という言葉は、一般的なのだろうか。

まあ、今ではコーポレートカードなどがあるから、それで精算できてしまうのだが…。

今でも疑問に思っている。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
スマートキー
車のキーを忘れることが増えた。
なぜかというと、キーがワイヤレスのリモコンになって、大きくなった。
だから、キーホルダーに入らないので、車のキーは別に持つことになったからだ。

40年以上車のキーはキーホルダーに入っていて、忘れることなどなかった。
家を出るときは財布、定期入れ、キーホルダ=がセットだったからだ。
だいたい、車のキーを意識して持つという経験がなかった。
まあ、年を取ってボケたのもあるのだろう。

あまりに忘れるので、アマゾンでキーホルダーを調べると、車のスマートキーに対応したものを売っている。
なるほど、キーホルダーに入り切らないなら、キーホルダーを大きくすればいいのだ。

早速スマートキー対応のキーホルダーを買った。
さすがに、忘れることはなくなったが、キーホルダ=が3倍くらい大きくなった。
大きさがちょっと大きくなり、厚みが3倍くらいだ。

おかげで、ポケットに入れて持ち歩くのは難しくなった。
表面積は小さいが、持った感じは財布や定期入れより大きい。

スマートキーは持っているだけでロック解除できて、エンジンもかけられるから、便利なのだがとにかく大きい。
スマートキーに内蔵されている普通のキーを持って歩こうとも考えたが、エンジンのスターターがボタンになって、普通のキーではエンジンはかけられないから、どうしてもスマートキーは必要だ。
だから、どうしてもキーホルダーは大きくならざるを得ない。

一つ便利になると、一つ不便になる。

スマートキーがもっとスマートになるといいのだが…。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
コーラス練習
今日はカラオケボックスで、昼間にバンドのコーラスの練習をした。
楽器無しでコーラスの練習だ。

気持ちよくハモるのは難しいが、3声のコーラスがハマったときは歌っていてもわかる。
誰からともなく、今のは出来良かったなあ、という声が出る。

音程は大事だが、それだけでは気持ち良いコーラスにはならないと思う。
いわく言い難い、声を合わせようとする気持ちみたいなものがある。
それがピッタリ来ないと、いいコーラスはできない。

学校の頃、合唱というのもやったが、あれはちょっと違う。
観客席で聞かないと、わからないからだ。

一万人の第九など、その最たるもの。
やっぱり4声のコーラスは4人でやらないと、気持ちよさはわからないだろう。

昔はもっと高い音まで出たはずなのだが、出なくなったのはショック。
でも、訓練次第で声は出るはずなので、頑張ろう。

次の練習までの課題は、ベースを弾きながら歌う練習だ。

ギターなら普通にできるのだが、ベースは難しい。
でも、慣れないといけない。

頑張ろう。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
パーパス経営
最近パーパス経営という言葉をよく聞くようになった。
こういう記事もある。
パーパスはPurposeのことであり、日本語では「企業の存在意義」というような意味だとされる。
要は、企業のビジョンやミッションと並んで、パーパス(存在意義)を重視して、それを明確にして経営するということだ。

ソニーは「クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす」というパーパスを2019年に発表した。
社員の8割が肯定的だというが、まあそうだろう。
特に反対する理由もなさそうに思う。

一方で、ソニーの会社情報にはビジョンやミッションという言葉はなくなった。
パーパスで代用したということか。

採用情報のページには「ソニーのビジョン」という言葉がある。

「世界中の人と社会に、テクノロジーの追求と新たなチャレンジによって、「感動」と「安心」を提供し続ける。」

同じようなものだろう。
どこが違うのか、わからないし、言い方を変えただけという気がする。

ネット上にはパーパスとミッションやビジョンの違いについて書いてあるページもあった。

「パーパス:何のために存在するのか、何のために事業を行うのかという存在意義
ミッション(任務):パーパスを達成するために、自分たちが行う物事の内容・戦略
ビジョン(展望):ミッションの見通しや、将来こうありたいという姿
バリュー(価値):上記により生みだされる価値」

まあ、細かく分類すればそうなのかもしれないが、ソニーの例を見てもわかるように、大きな違いがあるとは思えない。
分類することに、どんな意味があるのかもはっきりしない。

冒頭で紹介した記事にもあるように、比較的若い人たち(記事の著者は33歳)がパーパス経営を支持しているのだと思う。
彼らは気候変動やパンデミック、ESGなどの言葉に敏感だ。
また、それらを煽って利益を得ようとしている人もいる。
これで一山当てようという正義の味方を語った人たちだ。

記事の中ではフリードマンの言葉が紹介されている。

「ビジネスにおける責任は、それがゲームのルールの範疇にある限り、すなわち、欺瞞や詐欺のないオープンで自由な競争に従事する限り、企業のリソースを用いて、利益を増大させる活動に従事することである。」

要は「企業の目的は社会的責任を果たすことではなく、経済的利益を拡大することだ」ということだ。

ぼくもそう思う。
企業の目的が社会的責任を果たすことなら、日本は高度成長などしなかった。
一部の企業は公害をまき散らかし、下請けをいじめ、出稼ぎ労働者を使ったりしたが、それでも70年代から80年代にかけて、豊かになったのは事実。
その時代に儲かったから、今の日本があるのだし、90年代以降環境経営とか、2000年代以降にCSRなどという言葉が流行ったのだと思う。
そこからは、低成長だが…。

前にも書いたが、CSRを習っている学生が「CSRをやっていること」を軸に志望動機を書いたら、みんな落ちたのは事実。
当時から、それは儲かったからやるものであり、もちろん企業の目的などではなかった。

その延長上に脱炭素(カーボンニュートラル)やESGなどの言葉があるのだと思う。
ただ、今度の動きは「温暖化で地球が滅ぶかもしれない」という大義名分があるから始末に負えない。

ぼくは温暖化を食い止めることに反対はしない。
ただ、日本はもうすでに十分やっているし、日本のCO2排出は世界の3%しかないのだ。
日本が必死で頑張って、国民は停電の頻発に耐え、GNPは下がり、至る所に太陽光パネルや風車だらけにしても、100年後の温度が0.1度下がるかどうか、というオーダーだと思う。
なぜ今そんなに焦ってやらないといけないのか。

パーパス経営を広めるのはいいが、それと社会的意義は別にしないといけない。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
重い荷物
時々面談していると急に泣かれることがある。
特に心当たりがなくても、涙が出る。
そういう日はなんとなく後味が悪い。

一昨日も学生が来て、とにかく家を出たい、就職してお金をためて留学に行きたいという。
留学に行くのなら、学生時代に行ったほうがいいと話す。
勤めてしまうと、なかなか休みがもらえないからなあ、という。

それまで話していたのに、急に無口になって、涙が出たので黙ってティッシュを渡した。
なぜ涙が出たのかはわからない。
いろいろと事情があるのだろう。
それには触れず、話題を変えて続けた。

普通の顔をしてキャリアサポートセンターに来る。
就職の相談だが、その中に自分の将来の話も当然入る。
人生の計画も入ってくることがある。
そういう時が危ない。

きっと何か、重い荷物を背負っているのだろう。
留学は学生の間に行った方がいい、という当たり前のことが、そのどこかに触れたのだと思う。

その後は、なんということはなく、普通に終わったのだが、帰っていく後ろ姿に重いものを感じたのは気のせいだろうか。

どんな事情があるのかもわからない。
もしも何度か来て、信頼関係が結べたら、話す気になるかもしれない。
1回限りの相談かもしれない。

できることは、荷物に耐えて頑張ることを祈ることだけ。

因果な商売だと思う。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
カーナビとギター
先日のレッスンで、ギターの先生と話していたら、やっぱり、と膝を打つようなことがあった。
ぼくは方向音痴だから、カーナビは進行方向が上という表示をしている。
しかし、先生は上が北という表示で走っているとのこと。
そうしないと、方向の感覚が狂うということだ。

先生はパターン認識が得意で、右脳派だ。
ぼくはそれが苦手で、音の高さを言葉に直さないといけない。
いわゆる、左脳派になる。

ギタリストは右脳派が強いと思う。
芸術は右脳というからなあ。
押さえる位置の形で覚えることができる。

ぼくもある程度はできるが、やはり言葉にしないとダメだ。
移動ドでドレミファソラシドで覚えるのだ。
それが一番確実。

Youtubeでギター講師の人たちを見ていても、あまりドレミで話をする人はいない。
本当はドレミで覚えていても、そういう言い方は恥ずかしいのでやっていない人もいるかもしれないが…。

やっぱり右脳が強い人が、ギターがうまくなるのかもしれない。

…などと思ったが、言い訳はやめよう。
いろんなタイプのギタリストがいて、いろんな覚え方があるのだ。

自分にとってベストなやり方でやればいいのだろう。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
コロナの報道
地上波は朝7時のニュースしか見ないが、最近はウクライナの戦争が起きて、だいぶコロナ感染者数のニュースの扱いが小さくなった。
結局、ウクライナや知床の報道の方がみんなの関心があるということで、コロナの感染者数にはもうニュースバリューがないということだ。
本当に感染が広がって、えらいことだという意識があれば、ちゃんと報道するはずだから。
所詮、隙間を埋める程度のニュース。

年代別に死者を計算すると男性は70代以上が82%、女性が93%。
ほとんどが70歳代以上。
結果としてコロナだったという死者も入れて、この状態。

世界ではエアロゾル感染を認めているのに、日本の感染研は認めていなかったが、周りからやいやい言われてやっと認めたのも最近だ。

こないだ総理が参加した欧州の会議では、入国制限を解くように言われたようだ。
そうしないと、日本人は欧州に行けなくなる。
そういう外圧もあって、だんだんとポストコロナに進んでいるのが現状。
今日見たフレンチオープンの会場では、誰もマスクしていなかった。
ホントにそういう状態なのだとわかる。

何度も書くが、欧州やアメリカがひどい状況の時はあれほどテレビで報道し、専門家も「明日はパリみたいになる」「明日はニューヨークみたいになる」と言っていたのだ。
それが、欧州やアメリカはもう生活をもとに戻そうとしている、という報道は殆どない。
ウクライナ危機が始まって下火になったが、マスゴミはいつまでもコロナ禍を続けたいのだろう。
本当に日本のマスコミはマスゴミになってしまった。

「専門家」もそうだ。
マスコミが使う「専門家」は本当に専門性があるのだろうか。
眼の前の患者のことだけわかれば、感染症の専門家といえるのだろうか。
そんなはずはない。

テレビのニュースで定量的な解析などほとんど聞かない。
本来の専門家の仕事は、そういうことだろう。
○○をしたほうがいい、という定性的な意見はそれこそエセ専門家でも言えるのだ。

最近はなにかあると「専門家」が出てくる。
聞いたことがない大学の先生だったり、〇〇に詳しい専門家などと言っている。
結局はテレビ局の思い通りのことを話す人が「マスゴミ御用達の専門家」となっている。

そういえば、コロナの初期に岡田晴恵という教授がいた。
後半になってほとんど出番はなくなったが、とにかくコロナは怖いと煽り続けて、だんだんと服装も良くなり、きれいになったという評判だった。
あの人など、当時のマスゴミ専門家と言えると思う。

今や「42万人」と入れただけで検索結果のトップに出てくる西浦教授もいるし、国会議員ではアマゾンのレビューで大喜利大会のようになっている「コロナとの死闘」の西村センセイもいる。

日本は先進国中、最も少ない被害でありながら、GDP比で最も金を使った。
そして、若者の自殺は増え、ホテルなどの観光業や外食業界は大打撃を受け、若い人たちはかけがえのない時間とチャンスを失った。

あまりにも無責任過ぎると思う。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
アテンション・エコノミー
アテンション・エコノミーという概念が最初に出てきたのは結構古い。
ネットによると、1969年にノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンが、経済が消費経済から情報経済へ移行すると同時に、私たちの「アテンション=注意」が資源へと変容し、それが「通貨」のように扱われるようになると予測し、出てきた概念だ。

その後、1997年に「アテンション・エコノミー」という言葉を提唱して、広がった。
概念が提唱されて、実際に言葉になるまで30年弱かかっている。
この言葉がインターネットの発達とともに出てきたということだろう。

たくさんあるネット上のサービス、例えばFacebookやTwitter、Instagram、Googleの一連のサービスなどが無料で使えるのは、これらの企業がそれらのサービスから、ぼくらのアテンションがどこに向いているかということを売って、広告収入を得るというビジネスモデルを作ったからだ。

文字通り、ぼくらの興味や志向が広告代という通貨になっている。
これが「アテンション・エコノミー」。
だからこそ、無料でサービスを受けられる。

SNSが表示するニュースや広告などは、それを見たぼくらの履歴や時間が収集されている。
その結果がまた反映されて、ぼくらの志向に合わせた広告やコンテンツが表示される。

こんなことを1969年に予想したとは、やっぱりノーベル賞の学者だ。

でも、そこから逆に言うと、個人情報を保護すると、アテンション・エコノミーが成り立たなくなる。
なんでも本人の承諾を得て使わないといけないということだ。

だから、最近のWebサイトではアクセスした時に「このサイトはクッキーを利用します」というような表示が出る。
これは利用者に承諾を得ているのだ。

個人情報保護法とアテンション・エコノミーは両立しにくい。

欧州や日本は個人情報保護の方向に行っている。
アメリカも民主党はそんな感じだと思う。

ネット上でタダで利用できるコンテンツは、そういうものに支えられている。
そのうち、GmailやGoogleカレンダーは月額利用料が決められて、そのランクによって個人情報が守られるようになるのかもしれない。

でも、それで最高ランクの料金を払ったら、自分が見たいものがおすすめされなくなる。
それはいいことではあるが、ちょっと寂しい気もする。

それはもうアテンション・エコノミーの餌食になっているということか…。






| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
自殺報道
自殺報道にはガイドラインがある。
後追い自殺などを防ぐことなどが目的だ。

先日、コメディアンの上島竜兵が自殺をしたようだが、そのネット報道を見るとちょっと今までと違っている。
今まで気が付かなかったのだが、記事の末尾に「いのちの電話」の電話番号が記載されている。
なるほど、こういうのをつけないといけなくなったのか、と思っていたら、どうも違うようだ。

「いのちの電話」の電話番号を書いておくことで、きわどい報道をしている、ということらしい。
もちろん、良心的な報道もあるのだろうが、結構名がしれていたらしいから、世間は興味津々なのだろう。
ぼくもネットで「自殺」の見出しを見て、驚いたクチだ。
わりとテレビの露出度は高かったようだから、順風満帆なのかと思っていた。

ネットの記事など、いい加減なものも多い。
そもそも編集者がいるのかとも思う。
まあ、掲載する側は文責は書いた側にあるということで、掲載して見てもらえれば右側の1/3くらいは広告だから儲かる仕組みだから、無責任になる。

今までは三流週刊誌などに出ていたので、買う人が限られていたのだろうが、ネット上で無料記事になると読む人が増えるのだろう。
いろんなニュースサイトが、元のニュースを掲載して、それが増殖する。
以前とは報道の形が変わってしまった。
ニュースではなく、ネタになってしまった。

亡くなった直後に自宅の前から報道していたテレビ局もあるらしい。
それもあって、厚労省から再三注意文書が出た。

そういえば、志村けんと一緒に出ている番組の再放送を、何度かBSで見たことがある。
熱湯風呂のネタもあった。

ああいう芸人は、年をとるとしんどいだろうと思う。
若いからこそ出来る芸(といっていいかどうかもわからないが)だ。
そういう意味で限界を感じていたのかもしれないなあと思う。

結局無責任なことしか言えない。

冥福を祈るしかない。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
いい子症候群
昨日書いた「面接の極意」の補足。

面接練習で時々違和感を感じることがある。
それは自分をよく見せようという意識が原因になっていることが多い。

面接の目的は、その人を知ることだ。
特に初期の面接では、人柄を見極め、一緒に働く仲間としてふさわしいか、というところが見られる。

最近は企業が「求める人材像」というのを発表していたりして、それに合わせようとする人もいる。
そこに「リーダーシップ」などと書いてあると、無理やりリーダーのエピソードを話したりするのだ。
エントリーシートの質問に「周りを巻き込んで達成した経験を書いてください」などと書いてあると、余計にリーダーを意識する。
いかにも「こんな風にして、みんなを引っ張ってきました」というようなエピソードになる。

そういうときには、そのリーダーにどうやって選ばれたのか?と聞く。
たいがい、誰もなり手がいなかったので…とか、先輩に推薦されて…とかいう答えだ。
重ねて、じゃああなたは普段はどういうタイプなのか?と聞くと、「周りで支えるタイプ」とかいう答えになる。
ここで初めてああこういう人なのか、ということがわかる。

それなら、自分はそんなにみんなを引っ張っていくタイプではないが、誰もなり手がなかったから、自分がやってもいいと思って…、と言ったほうがいいよ、と話している。
え、それでも、企業はリーダーシップを持った人を求めていると書いてありました、という返事が返ってくることも多い。

そういう時は、社員が全員がリーダーシップを持って引っ張っていこうとする人ばかりだったら、組織は成り立たない、と話す。
ダイバシティという言葉があるが、そういう多様性を一方では求めているのだから、そんなに無理に企業に合わす必要もないし、そんなことをしていたらしんどいのではないか?と伝えるのだ。
そう言うと、ちょっと安心した顔をすることが多い。
素を見せたほうがいい、ということだ。

素をわかってもらった上で、合わないとなれば、ご縁がなかったことになっても構わないだろう。
逆に、企業に合わせて自分を作って、内定してしまったらあとがしんどい。

ところが、この「素」というのがなかなか出ない。
面接練習ではなく、エントリーシートの相談などではわりと素で話をするのだが、それでも学生が就活モードに入っていると、相談自体が素にならない。

こういう時に、素を出せる人は強い。
内定も出やすいのだと思う。

自分に自信があれば「素」は出るのだろう。
自信のバロメーターだと思うと、なんとなく納得がいくのだが…。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
面接の極意
最近、素直さについて考えるようになった。
面接で、どういう人が取りたいかということだ。
多くの企業では、やっぱり素直な人が取りたいと思っているはず。
もちろん、ジョブ型などと言われているので、自身の専門性はこれから問われるようになってくるだろう。
しかし、いくら専門性があったとしても、やっぱり素直な人が取りたいのは変わらないと思う。

ネットで調べると、素直というのは、「性格や態度がひねくれておらず、まっすぐなこと」、「ありのままで飾り気がないこと」という意味。
その通りだと思う。

こないだ、ある金融機関を受けた学生が「やらかしてしまったので、もう行きたくない」という相談があった。
ぼくも、前日に練習をしたときに、金融の意味や、世の中にどういう貢献をしているか、自分がやりたい仕事はどんな仕事かなどを聞いてもさっぱりだったので、仕方ないなあと思った。
それでも、とにかく経験することが大事だから行こう、と背中を押した。

集団面接だったようで、周りの学生も、面接官も失笑するほどだったらしい。
帰ってから泣いたと言っていた。
それでも、その会社から連絡があり「次の面接に進んでほしい」ということだった。

本人は「意味わからん」と信じられない様子で、「もう行きたくない」という言葉が出たのだ。
周りの学生はよく調べてきていたようで、なぜその会社に入りたいのかとか、こういうところがやりがいだと思うとか、立派に答えていたとのこと。
自分はしどろもどろで、本当に情けなかったが明るく元気に答えたということだった。
その場面が浮かんで、思わず笑ってしまった。
その学生は、何度か電話がかかってきたのだが、恥ずかしくて行けないということでまだ行っていない。

人事担当者はどう思っていたのだろうか。
普通に考えたら、まったく何も考えず面接に来たということで「ダメ」だろうと思う。
それでも、もう1度呼んで話をしたいと思った。

結局、仕事をしたことがないのだから、金融の意味ややりがいなど、わからなくてもいいということだ。
じゃあ、なぜ聞くのかということだが、その質問に答える様子でその人の評価をするためだと思う。
1次面接だったということもあったと思う。
まだまだ志望が固まっていない状態で参加している状態だろう。

その学生は困った感じを前面に出して、しどろもどろで真摯に答え、その姿に素直さを感じたのだろうと思う。
もう1度会って、どれだけ変わるのか、見てみたいとも思わせたのだ。
したり顔で分かったような話をする学生がほしいのではなく、わからなくて困っても、とにかく精いっぱいやろうとする学生がほしいのだ。

会社に入ったら、だれでも仕事はそれなりに覚えるし、そこでやりがいを感じる人は感じるだろう。
やりがいを感じられる人は、きっと素直に仕事に取り組む人なのだろうと思う。
経験から、きっと担当者はそう思ったのだ。

だから、自分を隠さない方がいい。

それが面接の極意だと思う。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
フロッピーディスク?
山口県阿部町の4360万円の誤振込だが、電子計算機使用詐欺の疑いで容疑者が逮捕された。
要は刑事事件になったということだ。
もともと、こういう誤振込に関しては、間違えたほうが悪いということで、刑事事件にはならないとか言われていた。
でも、あまりに悪質だということで、電子計算機使用詐欺という罪にしたのかもしれない。

この事件で驚いたのは、町の正規手続きが、フロッピーディスクで銀行にデーターを渡す、という手順になっていたことだ。
フロッピーディスクがまだ現役というのがビックリ。
今どきのPCではフロッピーディスクドライブも付いていないし、読み書きはできない。

アマゾンで調べてみると、USBでつないで読み書きができる装置を売っていた。
フロッピーディスク自体も、新品らしきものも売っているが、いかにも売れ残った倉庫にあったもの、という感じ。
ソニーは10年以上前に生産中止している。
とても信頼がおけるメディアとは言いにくい。

「ちなみに、現在インターネット上などで販売されているFDのほとんどは10年以上前に製造された未使用在庫品である。メーカーもこんな長い期間、使われ続けるとは想定していなかっただろう。当然のことながら、保証期間はとっくに過ぎている。」

と書いてある記事もあった。

同じ疑問を持つ人がたくさんいたようで、ニュースで未だにフロッピーを使っていることについて、取材していた。

「ところが取材してみると、絶滅していたかのように思われたFDは、一部の中央省庁や役所、銀行、企業ではいまも日常的に使われていることがわかった。」

だそうだ。

1枚に1.44MBだから、今やテキストデーターしか扱えないだろう。
ちょっとした画像や音声はすぐに容量を超える。

銀行側はもう新規は廃止しているとのこと。
ただ、今までのユーザーがフロッピー継続を希望したら、断れないということらしい。

使っているのは役所がほとんどで、地方だけでなく、大都市圏や国も未だに使っているところがあるとのこと。
えらいことだ。

90年代から30年間、日本の低成長が続いているが、その原因はこういうところにもあるんだろう。
便利なものを排除して、効率化を阻害し、仕事のやり方を変えない組織。

ポンコツの役所をなんとかしてほしい。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
教員不足
こないだ教員不足のために教育免許更新制度を廃止して、教育実習も廃止する方向という話を書いたが、教員免許更新制度の廃止についてはオマケがあった。
なんでも、すでに免許更新制度を怠って、免許が失効した人も復活するらしい。
ご丁寧に、文科省からは「失効した人も復活するので、教員になってほしい」という旨の文書が出ている。

一度失効した免許が復活するとは、呆れた運用だと思う。
それなら、更新制度は全く機能していないと言っているに等しい。
10年間で30時間ぽっちの講習がなぜ負担なのか。
一気に30時間が負担なら、毎年少しずつでも講習を受けられるようにしたらいいのだ。

もともとこの更新制度は教師自身のトラブルが続出し、不適格な教員を排除するために実施するということも目的の一つだったはず。
それで失効した教員もいたはずだ。
そういう人たちも今回免許が復活するということだ。

国会でそれを指摘し、法案に反対票を入れた人はいないのだろうか。
審議経過を見ると、起立多数で可決とある。
こんないい加減なことをやっていていいのかと思う。

相変わらずいじめの問題を放置したり、自らいじめをする教員がいたり、それを隠蔽する教育委員会などが後をたたない。
悲惨な事件を防ぐために更新制度を始めたのではなかったのか。

コロナ対応といい、今回の免許更新制度の廃止といい、文科省は一度潰したほうがいいと思う。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 20:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
マスクのツイッター
何かと話題が多いイーロン・マスクが、ツイッターを買収し、ツイッターがトランプ氏の永久追放というのは「道徳的に悪い決定」だった、と発言した。
最近のニュースでは、ツイッターの買収は一時保留しているようだが…。

マスク氏はツイッターの現状を憂いて、3月に「Twitterが実質的に町の公共広場のような役割を果たしていることを考えると、言論の自由の原則が守られなければ民主主義が覆される。どうすべきか?」とツイートした。

彼はツイッターの匿名アカウントをなくし、個人認証をしたいようだ。
アメリカでは匿名アカウントは3割程度と言われている。
もともと、実名で発言することこそが自由だという意識もあるのだろう。
日本とはエライ違いだ。

日本は匿名アカウントが多く、言いっ放しで好き放題と言う気がする。
コロナに関しては、匿名で医師を名乗る人も多く、この人達は本当に医師なのかと思うことも多い。
やはり発言するのなら、実名ですべきだと思う。

日本で特に匿名が多い(8割が匿名!)のは、憂うべき状況だと思う。
憂さ晴らしの場所みたいになっていて、なんだか情けない。
実名で言えないことを全世界に向かってつぶやくのはどうかと思う。

マスク氏は日本の現状を知っているのだろうか。
日本だけでも個人認証をしてほしいものだ。

単なる文句や言いっぱなしの悪口がなくなれば、もっとスッキリするだろう。

言論の自由、というのは自由に言ってもいいが、それに対して責任を持つことも必要だ。
日本の現状は「言論の自由」というものではない。

マスク氏のツイッター個人認証の話を聞いて、そんなことになったら一体誰が使うんだ?という意見をツイートしている人もいたが、実際外国で少なくとも半分以上は実名でやっているのだ。

今の日本の状況は改善すべきだと思う。

イーロン・マスク氏に頑張ってもらいたい。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
バンド練習3
一昨日はバンドの練習日。
昼からスタジオに行って、2時間練習した。

曲は前回のアリスやジローズに加えて、ビートルズの”Here comes the sun”。
懐かしい曲だ。
だいぶベースも板についてきた。
歌わなければ、難しいことはできないが一応弾ける。

でも、やってみて、単音でベースラインを作って弾くというのは、ギターとはちょっと違うと思った。
ドミソの和音なら、ベースとしてはドを鳴らしておけば最低限はクリア。
ただ、それでは単調なので、ドとソを弾くとか、ドとミを弾くとか、次のコードにいく経過音を弾くとか、いろいろとやることがある。

ポール・マッカートニーみたいに、まるでメロディのようなベースラインを作って、それを弾きながら歌うといのはすごいと思う。
ベースは曲のビートをきざむことが大事。
そのビートのリズムが、コーラスやメロディを歌うとズレてしまう。

頭の中で考えた音を弾いて、それを歌うのは簡単だ。
でも、頭の中ではベースの音を考えながら、別のメロディを歌うのは至難の業。
それができるためには、もっともっと練習しないといけないのだろう。

勝手に曲のビートに合わせて弾けるようにならないと、他のことができない。
一度に二つの音を考えられないからだ。
コードを見たら、勝手に指が動くようにならないといけないのだろう。

ということで、せっかくバンドをやるのに、ベースを弾くとコーラスができないというジレンマになってしまった。

たしかに、いろいろなバンドを見ても、ベースで歌っている人は少ないように思う。

あれは難しいからだと思う。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
グローバルダイニング訴訟
今日はグローバルダイニングの対東京都の裁判の判決があった。

ネットのニュースの報道。

「東京地裁はきょうの判決で、グローバルダイニングについて「感染防止対策を実施していて、市中の感染リスクを高めていたと認める根拠は見出しがたい」「命令の必要性を説明されていない」などとして、都の時短命令について「違法だ」と指摘。」

ロクに会議も開かずに決めた、いい加減な名ばかりの専門家の意見に従い、実際に対策の内容も見ずに権利を制限したりしたことの結果だ。

コロナ禍では(今も続いているが)本当にバカな首長が多かった。
そんなやつに権力を与えたら、こんな風になる、という見本みたいなものが、このコロナ禍だ。

今日は記念すべき日だった。

めでたい。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:10 | - | - |
文系大学院
日経新聞で、関西学院大の学長が大学院教育に関する話をしていた。

目的は「大学院を終了した人材の活躍の場を広げる」ということだ。
すでに理系は大学院卒は普通に就職できるから、対象は文系ということだろう。

現在もそうだと思うのだが、文系の大学院教育への評価が低いのは、記事にもあるように「新卒採用では大学名を見て大まかに潜在能力が測れればよく、人文・社会科学系では大学での学習の中身はほとんど問われなかった」という状況があるからだと思う。
そういう状態だからこそ、今は「活躍の場が狭い」ということなのだ。
というか、ごく少数の例外を除いて、文系の大学院に進学すると、職業選択の幅が狭くなるのが実際だ。

企業からの文系の求人が「全学部・全学科」で来ているのだから、学部や学科の専門性は問わない。
そんな中で、2年余分に使って専門性を上げようとすると、現状ではアカデミックルートにいくしかない。
おまけに、日本では年功序列かつ学歴と給与が結びついているから、企業にとってコストは高くなる。

知り合いの若い法学部卒の先生が、大学院に入ることを「入院」と言っていた。
今の大学院に入ることが「病的」なのを揶揄して言っているのだろう。
もちろん、その先生は研究分野で成功して、准教授になったのだから勝ち組だが…。

いろんな学校法人が法科大学院を作ったが、優秀な学生が集まらないところは司法試験に通らないから潰れた。
また、大学に勤めている時に、アメリカのビジネススクールを真似して作った大学院の先生の話を聞いたことがあるが、なんだかピント外れの話だったという記憶がある。

大学院を作っても、ニーズがないから出口がない。
だから、アカデミックな道に進むしかない。
わざわざ高いコストで企業側が考える「役に立たないこと」を教えているということだ。

例外もあるが、文系の学問は本さえあれば学べると思う。
本だけでは時間がかかるから、手っ取り早く大学院を作って教えるということだろう。

今の日本では、社会人を対象にした大学院の方が必要性は高いと思う。
企業で勤めて、こういう知識が必要だ、ということになった時に初めて大学院で学ぶという必要性が出てくる。
そういうニーズを掘り起こすべきなのだ。

大学側がそういうニーズの掘り起こしをしない限り、文系の大学院を出たら博士課程に進んで研究者になるしかない。
そういう目で大学院進学者を選んでいるからだ。

今の人事担当者は「就職できなかった人が大学院に行く」と思っている。
一方、大学関係者は優秀な人材が大学院に行くと思っている。

この意識の差を埋めないと、日本の文系大学院は良くならないだろう。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動車産業2040
日経がまとめた、自動車産業の2040年に向けての変化の宣伝を読んだ。
目次の見出しは以下のようなもの。

今から知っておくべき 自動車産業11の変化
【01】世界生産 →自動車産業の「台数成長」は終わる
【02】EV(電気自動車)→2040年に新車の半分はEVに
【03】自動運転 →2040年には「無人タクシー」が当たり前に
【04】ライドシェアサービス →無人タクシーの市場は100兆円規模に
【05】エンジン →エンジンが最後まで残るのは大型トラック
【06】ビジネスモデル →CASE はこれまでの自動車の価値の「全否定」
【07】マス・カスタマイゼーション →クルマは大量生産から多品種少量生産へ
【08】電子アーキテクチャ →世界の大手メーカーは統合ECU に向かう
【09】開発・製造 →完成車メーカーと部品メーカーの垣根がなくなる
【10】クルマの価値 →ソフトウエア・サービスで稼ぐ時代に
【11】販売 →販売はディーラーからオンラインへ

危機感を煽って売りたいという雰囲気もあるが、方向性としては正しいんだと思う。

都市部では自家用車というのはほとんど止まっている資産だから、有効利用するためにシェアリングは進むと思う。
うちの車など、動くのは週に1回程度。
それも数キロだから、もったいないといえばその通り。

電気自動車が18年後に半分になるとは思わないが、電池の技術がブレイクスルーして、インフラを作ることができれば、あり得るかもしれない。
でも、これはEVに強気すぎる予想だと思う。

自動運転はもう技術的にはだいぶいいところまで来ていると思う。
あとは法律関係の整備だろう。
無人タクシーで事故を起こしたときの責任はどうなるのか?ということだ。
自動車保険に依存している損害保険業界はしんどいと思う。

多品種少量生産になるとは思わない。
車のデザインなどどうでもいい、動けばいいという世代がシェアリングを推進するのだから、矛盾していると思う。

水平分業が進めば、完成品を作れる部品メーカーも増えてくるだろう。
しかし、車には安全保安という要素もあるので、そのあたりをどうするかという問題はある。

車の価値はソフトウェア・サービスというのは当たっていると思う。
そこが車の魅力でもあるから、自分のスマホの情報が安全にシェアリングの車でも使える、などというのは必須だろう。

販売もコスト減でオンラインになるだろう。
車の値段は自動運転などの付加価値がついて上がるだろうから、コストを圧縮しないといけない。
そのためにはディーラー網は維持しにくい。
ただ、整備などの拠点は必要だから、難しいところだ。

自動車業界の人たちにとっては悩ましい時代。
どうしていったらいいのかわからない。

自動車が基幹産業となっている日本では、本当に苦しい選択になると思う。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 01:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
出生率低下
ツイッターの買収で話題のイーロン・マスク。
言わずとしれたアメリカのEV企業テスラや宇宙事業のスペースXの責任者だ。
彼は南アフリカ出身。
去年の10月の推定保有資産は3020億ドル(約40兆円)とあった。
想像を絶する金持ちだ。

そのマスク氏が日本の少子高齢化の状況に触れて、「当たり前のことをいうようかもしれないが、出生率が死亡率を上回るような変化がない限り、日本はいずれ存在しなくなるだろう」「世界にとって大きな損失となるだろう」と言った。

おっしゃる通り、算術的には当たり前のことだ。
どんどん高齢者が増えて、若い人たちの生活を圧迫し、そのせいで出生率が低下している。
いくら若い人たちを優遇しようと思っても、民主主義の数の原理で高齢者に負けてしまい、若者優遇の施策は実行されない。

本来なら、数の原理で選ばれた代表者が将来も考え、滅びないための選択をするべきなのだが、残念ながらそういう代表は日本にはいない。
現状の政策を批判するべき野党が、与党よりも高齢者ベッタリの考えだからどうしようもない。

人口という統計値は誰でも予測しやすいのだ。
マスク氏に言われなくても、わかっている人はわかっている。

1985年にフランスに出張した時、現地の駐在員に聞いた。
その人は3人子供がいたのだが、この国では、子供が3人以上いると列に並ばなくてもいいという。
堂々と横入りして、先にいろんな手続きを済ますことができる。
「なんで?」と聞くと「少子化対策」と言われた。
調べてみると、フランスの人口はゆるく右肩上がりになっていた。
移民を入れたりした効果もあるのかもしれない。
でも、85年当時でも子供3人いればいろんな優遇が受けられたとのことだった。

移民が少ない先進国はいずこも同じといえば、そうかもしれない。
80年代以降、世界は豊かになって、平均寿命が伸びた。
先進国はだいたい平均寿命も右肩上がりだ。

それでも、日本の場合は高齢者が生きすぎている(といえば語弊があるが)。
人口ピラミッドをみると、ものすごい尻すぼみになっているのだ。
この30年、経済発展もほぼゼロだったにも関わらず…。

マスク氏の言うように、岸田首相が本当に少子化に取り組んでくれればいいと思うが、どうも無理そうだ。
彼の頭の中には票集めしかないと思う。
見事なポピュリスト。

日本には滅びの美学みたいなものもある。
平家物語の世界。
そういう世界が何十年か後に実現するのかもしれない。

ぼくはもういないだろうが…。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
コロナとの死闘?
前コロナ担当大臣の西村が本を出した。
「コロナとの死闘」という題名。

アマゾンの紹介文は以下。

「「総理、緊急事態宣言を出すべきです」
未曽有のパンデミックを前に、この男はどう戦ったのか?
初めて明かされる前コロナ担当大臣、苦闘の全軌跡!

政治に何ができるのか。自分に何ができるのか−−。
緊急事態宣言に効果はあったのか?給付金の目的は?
人々の苦しみ。都知事との確執。専門家の分析。そして政界の動き。
あらゆる情報を集め、議論を交わし、時に激し、涙した男が語る578日間戦記。」

出版は幻冬舎。

「何をアホなこと言うてんネン」と思っていたが、アマゾンの書評を見ると109件早速書評があって、98%が星1つ。

きっと幻冬舎の編集者も、こうなることがわかっていたのだろう。
完全に炎上商法だ。
経済再生担当でありながら、過度なコロナ対策で経済をどん底に陥れた罪は重い。
彼一人が悪い訳では無いが、書評を書いた人たちもそう思っているんだろう。

トップの書評にはこう書かれている。

「パンデミックが始まってからのコロナの政策が何一つ効果もなかった。
緊急事態宣言の乱発によって、多くの国民の大切な時間や経済活動の機会を奪った。
過剰な対策によって、コロナ禍以降若者の自殺が最多となった。
今後はPCRやワクチンで無駄になった税金のツケを我々や後の世代が払わなくてはいけないだろう。」

全くそのとおりだと思う。
いかにも小役人みたいな言い方で、見ているだけで気分が悪くなるやつだった。

まだ続いているが、このコロナ禍が終わったら、ぜひ対策を総括してほしいものだ。
若者の自殺や外食やホテルなどの被害に対して、コロナ対策がどれだけ有効だったかの検証をちゃんとしてほしい。
使った費用もちゃんと検証してほしいものだ。

この16日にはグローバルダイニングが東京都を訴えた裁判の結果も出る。

もういい加減にもとに戻さないと…。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
無料塾
学生と話していると、いろんなことがわかる。
こないだは教育に関わりたい、という学生が来た。
どうしてか?と聞くと、無料塾でボランティアをしたからだという。

無料塾というのは、文字通り無料で勉強を教えてくれるというところ。
入るのには審査があって、本当に塾に行く費用が出せないというようなことを調べるらしい。
そこは主催者がやっているということだった。

その学生の無料塾は主催者が不動産関係で、部屋が余っていた?から、ということだ。
友人がそこでボランティアをしていて、その学生も誘われてやっているとのこと。
週1回5限の時間なので、その日は5限の授業は取れない。
そういう中でボランティアをやっている。

学生曰く、最初はナメていたとのこと。

そういう塾に入ってくるのだから、教えることでどんどん吸収すると思っていたのだ。
ところが、教わる方にやる気がなかったという。

自分は(学校ではなく)塾に行って、「わかった」瞬間を経験して、勉強が面白い思えた経験があった。
本来、勉強というのはそういうものだと思う。
だから、その気になったら早いと思っていたのだ。

でも、あまりに生徒にやる気が無いので、困ったという。
あの手この手で興味を持つように頑張ったらしい。

その経験から、教科書の会社で編集をしたい、という気持ちになったとのこと。

ぼくも就活生に割合を教えているので、そういう気持ちはわかる。
その貴重な経験を生かして、希望の会社に入ってほしい。

時代はデジタル教科書だ。
ぼくは紙の教科書を想定して話している学生に、デジタルになったらどこがいいと思うか?と聞いた。
リンクができるから、わからないところは飛んで調べるのが簡単になる、という。
そのとおりだが、デジタルの教科書のいいところは、学び直しが出来ることだと思う。

今の日本の教育の間違いは、履修主義が過ぎて、とにかく習ったら進級させてしまうところ。
余計なことかもしれないが、ここがわからないということは、過去に習ったことを忘れているからだ。
みんな一緒の授業なら、そこで戻って説明を聞くことはできないが、デジタルのいいところは個別の対応ができること。
だから、そういうものを作れば、履修主義の弱点を補うことが出来ると思う、と話した。

ついつい出しゃばったことを話してしまって、学生はちょっと怪訝そうな顔をしていたが、「まあそういうことも考えておいたらいいと思う」と伝えて終了した。

希望の会社に行ければいいのだが…。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 20:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
オミクロンのウソ
医師で医療ジャーナリストの森田洋之氏が書いている記事を見た。
国立感染症研究所が各県に依頼して調査した結果。
広島県の結果で、オミクロンで重症ということで入院していた患者の7割が、実は軽症・中等症だった、ということだ。レポートの本文はこちら

見るとたしかにそう書いてある。
オミクロンに感染した重症者24例の検討をした結果、9例が本当に重症で年齢中央値は70歳。
その他の15例についてはこう考察で書かれている。

「重症例として登録されていた中等症/軽症例15例:年齢中央値(範囲)は70(37-94)歳、男性10例、女性5例であった。全症例にワクチン2回の接種歴があった。重症登録されていた理由は、重症病床を利用したためであり、その理由は、基礎疾患やリスク因子によりCOVID-19の重症化の懸念があったこと、透析対応の可能な病床が重症病床しかなかったこと、重症例に付き添った軽症例等であった。」

この記事でも書かれているが、こんないい加減な報告でいいのだろうか。

例によってマスコミはこういう事実は報道しない。
ネットの上で明らかになっただけだ。

軽症や別の病気の対応のためのコロナ重症病床ではないだろう。

記事にはこうある。

「その根本の原因は、日本の病院の経営方針や意思決定が「病院の自由」で運営されており、国の管理が行き届きにくいからだろう。病院は基本的に全てのデータを国に出すわけではない。それを良いことに(現場の実態は国にはバレるわけないので)とにかく報酬の高い「重症」ということにしておこう、重症病床もとりあえず埋めておこう、という経営重視の姿勢がまかり通っているのだろう(緊急整備されたコロナ報酬では特に)。」

国民にこんな不自由を強いておいて、未だに金儲けをしているのが実態。
外食業界やホテル、運輸などの業界にこれだけ不自由を強いておいて、当の医療がこんな状態。
なぜこんなことがまかり通るのか…。

日本の医療は根本的にやり直す必要があるのではないか。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
マウンティング
マウンティングというのは、相手よりも自分の方が優位だと見せつけるような言動というようなネット語。
マウントを取る、というような使い方もある。

最近はやっているマウンティングは、いち早くいいものを発見し、それに「いいね」をすることだという。
これは自分が情報の感度が高いということを示す行為で「マウントいいね」と呼ばれる。
いかに流行る前に「いいね」をしておくかが、大事になる。
自分が先んじて注目したものが、後で大流行するほど満足度が上がるらしい。

そういえば、中学や高校の時に人より早く流行る洋楽の曲を知っていたりすると、ちょっとした自慢だった。
そのSNS版だと言える。

ぼくらの時代は、それが流行ってしまったら、いち早く知っていたことを言っても「あ、そう」と言われるくらいだったが、今はSNS上で早く「いいね」をしたという証拠が残る。
それをもって、自尊心を満足させる、ということらしい。

今の若い人たちは貧しくなったから、物質的なものではなく、情報が大事になった。
スマホさえあれば、誰でも競争に参加できる。
モノではなくコトが大事になったのだ。

もうブランド品などは手が届かないし、それを持つことに対しても「ダサい」という感覚があるのだろう。
それよりも、いくつ「マウントいいね」を持っているか、というようなことが大事になる。

たくさん仲のいい友だちがいるということを、SNS上でさり気なく拡散するのもマウンティング行為になるらしい。
インスタで誕生日パーティや飲み会、バエる写真を上げたりするのも、ある種のマウンティングになる。
昔はそういうことがあっても、他人に対して宣伝することができなかったが、今はスマホで可能だ。

ぼくは、何かで友達同士で写真を撮っても、写っている人としかシェアしない。
そういう感覚が根本的に違うのだろう。

だから、今の若い人たちにとっては、「いいね」の数よりも、何をいつ「いいね」したかが大事になる。

もちろん、フォロアーの数なども考えるのだろうが、「いいね」の質が重要になってきた。

コロナ禍でよけいにそれが加速したのかもしれない。

SNSネィティブの若い人たちにウケるためには、そういう価値観を理解しないといけないらしい。

難しい時代になってきたものだ。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
エイヤ
「おっさんビジネス用語」という言葉、初めて聞いたが何となくわかる。
そういう記事があった。
ハッシュタグをつけて、盛り上がっているらしい。

実際、この記事のなかで共感する言葉はほとんどないのだが、「エイヤ」だけはよく使った。
ビジネス用語というだけあって、なぜか学校法人では使わなかった。
まわりの雰囲気というやつだろう。

「エイヤ」というのは、思い切ってやる、という感じだ。
いろいろと議論したあと、結局は「エイヤでやってみよう」という感じで使う。
1979年に会社に入ったときには違和感があったが、結局は会社の中で使う機会が多いから必然的に使えるようになった。

当たり前だが、仕事には納期がある。
OEMの仕事だと、それはほとんどの場合、調整不能な納期になる。
いろいろ考えてみても、納期が決まっているからどれかの案を実行しないといけないのだ。
これが部品メーカーの宿命。
そういう時に「エイヤ」が登場する。

関係者で打ち合わせなどをしていても、時間が迫ってくると誰ともなく「エイヤで決めよ」という言葉が出る。
正解はわからなくても、アクションはしないといけない。
いつも正解は結果論でしかないのだ。

会社づとめをやめてから、「エイヤ」は使わなくなった。
そういうシチュエーションを共有するような仲間がいなくなったからだ。

おっさんビジネス用語というのは、要するに職場の符丁だ。
みんなの合意の上で使われる業界用語。

その職場を離れれば、使わなくなる。

そういう意味を共有することで、仲間意識を強化する。
符丁の役目とはそういうものだ。

今の若いビジネスマンにもそういうものはあるだろう。
ネットスラングなども、同じようなものだ。

昭和のおっさんにとっては、すごく懐かしい。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
環状線の騒音
大阪で勤務の時は環状線に乗るのだが、このホームのアナウンスが異常にけたたましい。
どんなイヤホンをしていても、内容がわからないほどうるさい。
いろんな注意をするのだが、自動音声のアナウンスもあれば、それにかぶせて駅員がするアナウンスもある。

音のレベルを異常に上げているように思う。
環状線は観光客も多いだろうと思うが、通勤客も多い。
あのアナウンスにクレームする人はいないのだろうか。
電車に乗って発車するとホッとする。

駅のホームの乗降のところには落下防止のドアもついたし、もう少し小さな音でもいいと思う。
自動音声のアナウンスだけでも、おそらく必要十分なんだろう。
そのための自動音声だからだ。
でも、それにかぶせて駅員のアナウンスの大きいことといったらない。
ぼくがいつも乗る場所が、スピーカーの下になっているのかもしれないが、あの音は静かなところなら数百メートル離れても聞こえるのではないか。

事故防止のためといえば聞こえはいいが、逆にアナウンス不足で間違いが起こり、クレームがあるたびに音と頻度を大きくしているように思う。

ネットで「環状線 アナウンス うるさい」で検索したら、駅ではないがJRのアナウンスがうるさいけど、なぜ?という質問があり、ベストアンサーは下記のものだった。

「鉄道(私鉄)に勤務する友人から聞いた話では、別の方ではないですが、主にクレーム対策です。

特に「まもなく○○駅に到着いたします。お降りのお客様は、お早めの降車口の近くまでお進みください」といった内容の放送や、「落とし物、お忘れ物をなさいませんよう・・・」、「車内奥の方までお詰めください」と言った内容のものは間違いないということです。

確かにラッシュ時間帯は同じ人が乗っているので、余り詳しい放送は不要ではないかと思える面もありますし、中にはそういうクレームもあるそうです。

ただ、そうしたクレームに対応して放送を簡略化して減らしたところ、クレームを何度も言ってきた方からのクレームは無くなったものの、今度は不慣れな方から「御社の放送は不親切だ。ラッシュ時間帯は同じ人が乗っているから、詳しい案内は不要と考えているのであろうが、たまたま乗り合わせた不慣れな者もいる。案内放送は、不慣れな者に合わせてするのが常識だ。そうそうにきちんとした放送を行うよう指導しろ」という内容のクレームが多数届いたと言うことです。

何にしてもこうした案内放送は、痛し痒しらしいです。」

2013年の投稿だから、そんなに前からあったのか。
JRにはほとんど乗ったことがなかったから、そんなに気にならなかった。
クレーム対応でどんどん増えているのだろう。

モンスター・パッセンジャー対策と言ってもいいと思う。

それにつけても思い出すのはパリの電車。
パリ北駅というところから乗ったのだが、日本のようなアナウンスは一切なかった。
音もなく発車して、びっくりしたくらいだ。

そういう日本のモンスター・パッセンジャーたちは、異国でも文句をいうのだろうか…。
きっと日本だから言うのだろう。

一部の人達のために、多くの人が迷惑する。
これも多様性ということなんだろうか。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
DJIのドローン
ウクライナでは多くのドローンが飛んでいるとのこと。

以前DJIという中国の大手ドローンメーカーのことを書いた
とても日本の技術では太刀打ちできない高性能のドローンを作っている。

アマゾンで検索すると、中国製のドローンがたくさん出てくる。
安いものから高いものまでよりどりみどりだ。

ウクライナ政府は、DJIのドローンが開戦時に不具合があって使えなかったという。
ロシアのドローンは同じ中国製だが、問題がなかったらしい。
今はアメリカのスタートアップ企業などが、ドローンを売り込んでいる。

アメリカの国防省は今回のウクライナの状況を見て、DJIのドローンは危ないと思っている。
危ないというのは、いざという時に使えないということだ。
もちろん、「いざ」は戦争だろう。

ウクライナの当局者は欠陥を意図的なもので、防衛能力を阻害する目的の可能性があると言っている。
もちろん、DJIは否定している。

アメリカのドローン企業にとっては大きなチャンスだ。
いくつかの会社がウクライナに行って、訓練に参加したりしている。
あわよくば、アメリカ政府の支援があるかもしれない。

これが事実だとすると、やっぱり中国製の機器は危ないということになる。
いくら民生用だと言っても、ドローンのような精密機器で、軍事にも転用できるようなものは中国製のものは使えない。

第二次大戦が終わって70年。
戦争を知っている人たちが亡くなって、また熱い戦争が始まるのだろうか。
そこから、また冷戦が始まるのだろうか。

日本はいつまで平和ボケを続けていられるのだろうか…。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
甲子園
今日は久しぶりに甲子園に行った。
ヤクルト戦のデーゲームだ。
今回はライトスタンド。
さすがに、まわりのお客さんの年齢はちょっと若い。

こどもの日だけあって、スコアボードの選手の表示もみんなひらがな。
始球式も子どもが投げる。

ライトスタンドにはガードマンがいて、大声を上げたりしたら注意する体制。
入るときはマスクが必須だ。

今日はそこそこ暑かったので、ビールもよく売れていた。
この4月から働いているという元大学生が、連休で忙しいから呼ばれて手伝っている、と言いながらビールを注いでくれた。

甲子園の売り子のアルバイトは何度かエントリーシートのネタで見たことがある。
野球観戦中に笑顔で目を合わせて買ってもらう、というのがよくわかった。
笑顔で目が合うとついつい手を上げたくなる気持ちが理解できた。
きつい仕事だが、楽しみもあるのだろう。

久しぶりの甲子園だが、やっぱりマスクでは面白くない。
応援団もだいぶおさえてやっている。
声も出せない。

でも、試合が進んで同点で迎えた9回裏。
満塁での応援で力が入る。
だんだんと普段のようになってくる。

相手の押し出しで勝ちが決まった瞬間はかなり大騒ぎだった。

最後の六甲おろしはみんなで歌ってよかった。

エラーでノーヒットで点を取られて、最後は相手の押し出し四球というしまらない試合だったが、勝ててよかったと一緒に行った4人でハイタッチ。

貴重な1勝だった。

| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
社会課題の解決?
Beyond CASEという言葉があるらしい。
CASEというのは「Connected:コネクテッド」「Autonomous:自動運転」「Shared & Service:シェアリング・サービス」「Electric:電動化」の頭文字をとったもの。
自動車業界の新しいトレンドと言われている。
それをBeyond、超えるということだから、CASEの先に向かって、というような意味になる。

Beyond CASEということを推進するべきだというのは、グリーンモビリティを推進するコンサル業者。
自分たちの儲けのためにやっている。
正直にそういえばいいのだが、そうは言わない。
本来の目的は「社会課題の解決」だという。

社会課題の解決、という言葉は、こないだ書いた「エシカル消費」と同じようなものだと思っている。
グリーンモビリティの本質という記事の冒頭には「Beyond CASEの世界においては「自社だけが勝てばよい」という視野や戦略ではなく、「企業の社会的責任」を果たす覚悟を持って“社会平和”を実現していくことがポイントになる」と書いてあった。

ぼくは自由な競争こそが社会を良くすると思う。
実際にそういうふうにして20世紀に人類は豊かさを手に入れたからだ。
企業の社会的責任などという言葉も、儲かっている会社だからこそできることであり、それが企業の本来の目的ではない。

その証拠に「企業の社会的責任」だけを志望動機で語ってみたらいい。
間違いなく落ちる。
実際にそういう学生を見てきた。

上から目線で、企業に対して「社会課題」などというコンサルは間違いなくまがいものだ。
今の日本の大きな企業は金が余っているから、ついついそんな声に騙される。

あろうことか、社会課題の解決のほうが、自社の勝ち残りよりも大事だという。
それなら、自社は潰れてもいいから、社会課題を解決しろというのか。
近視眼的だと言われようが、自社の生き残りのほうが大事なのは当たり前。
生き残るからこそ、自社が本当に社会課題を解決できるかもしれないのだ。

たしかに今の自動車業界は100年に一度の変革期と言われている。
コンサルに言われなくても、自動車業界の未来像は関係者には見えているのだろう。
その中で、どうやって生き残るかを考えているのだ。

グリーンモビリティも、カーボンニュートラルも、理想であるのはわかる。
でも、それは儲かってこそだと思う。

社員を食わせられなくては、企業は成り立たない。
社会主義者の成れの果てのようなコンサルに騙されてはいけない。

まずは、自社の生き残りだ。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
拓郎のラストCD
吉田拓郎といえば、ぼくらの中学高校時代のヒーローだ。
「イメージの詩」、「今日までそして明日から」、「間に合うかもしれない」など、今どきの人たちは知らないだろう。
広島フォーク村から出てきて、一躍メジャーに躍り出た。
フォークジャンボリーでもめたり、レコード会社を作ったり、時代の先駆者だったのかもしれない。

ぼくが中2でギターを始めた頃に出てきた。
私小説風の歌詞が新鮮だった。

「僕は僕なりに自由にふるまってきたし
僕なりに生きてきたんだと思う
だけどだけど自由もなく
めいった気分になるのはなぜだろう」

とか

「これこそはと信じられるものが
この世にあったろうか
信じるものがあったとしても
信じない素振り」

とか、中2病には響いたのだ。

「結婚しようよ」、「旅の宿」あたりから売れっ子になって、ちょっと路線が変わった。
「襟裳岬」でレコード大賞の作曲者にもなった。
あの歌詞や曲、だみ声での歌唱は独特だ。

その彼も去年コンサートをテレビで見たが、元気がなかった。
声を出そうとしても、出ないという感じ。

今回出すのは、1970年から52年の活動に終止符を打つアルバム。
タイトルが「ah-面白かった」。
拓郎らしい終わり方。

コロナがなければ、ラストツアーをやっていたのだが、断念したとのこと。
ぼくは「元気です」「人間なんて」を持っていたはず。
探せばあるだろう。
もちろんLPレコードだ。

ぼくが中学や高校、大学で聞いたアーティストがどんどん引退していく。
人間、75歳を超えるとやっぱり現役ではいられないらしい。

ぼくもあと10年くらいでおしまいだ。

達郎の新譜も予約したし、拓郎のラストアルバムも予約した。

達郎はまだラストアルバムとは言っていない。
69歳だから、まだ頑張るのだろう。

小田和正が74歳。
もうぼちぼちという感じだ。

この世代はまだストリーミングというより、CD購買層だろう。

どれくらい売れるのだろうか…。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
量子ドット
フェイスブックが社名をメタに変更して、ネット上の仮想空間(メタバース)に注力すると発表してしばらくたった。
ぼくはあまり魅力を感じないが、応用範囲が広いからやっているのだろう。
メタバースを見せるためのディスプレイが開発の肝だと思う。
アタマにつけたりかぶったりするやつだ。

新しい3Dディスプレイというのは、空中に映像を映し出す新しいタイプのもので、どんどん進んでいるらしい。
「3D世界の没入感を見せられる」ようになっているとのこと。
これらのディスプレイには、ミニLEDやマイクロLED、量子ドットなどの技術が使われると書いてあった。

ミニLEDやマイクロLEDはLEDを小型化したもの。
でも、量子ドットというのは何のことかわからない。

記事によると、ミニLEDを使うと、有機LEDと同等以上の性能になる。
マイクロLEDは液晶ではなく、それ自体が発光するディスプレイを作ることができるらしい。

量子ドットは「ナノスケールの材料を用いた半導体で、青色LEDの光を照射すると赤や緑の強い光を発生する」ものらしい。

文科省の「量子ってなあに?」というサイトには、量子について「粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手です。」と説明されている。
以前、量子の絡み合いについて読んだ時に、そんなことが書いてあった気がする。
要はニュートンの物理法則に従わないものだ。

今やそんな技術を使って、ディスプレイは開発されている。
量子力学がこれほど実用になるとは思わなかった。

何となくとらえどころがなくて、わかったようなわからないもの、というのが量子について書いたものだった。
あの天才アインシュタインも疑ったのだ。

でも、原子や電子のレベルになると、そうなるのだから仕方がない。
見つけたり、考えたりした人たちはすごいと思う。

こんなことにも時代を感じるようになった。
それだけ長いこと生きたということだろう。

なんだか話が変な方向に行ったが、これでいいのだ。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
ダイアログ
会社や学校法人で勤めている時に、ディスカッションという言葉は聞いたが、ダイアログという言葉はあまり馴染みがない。
最近フォローしている若新雄純氏だが、専門は組織論というようなことで、こないだダイアログについて語っているのを聞いた。

ハナシは割と興味深かったので、ダイアログについて調べてみた。
ネットによると、こういうことらしい。

「ダイアログ(Dialogue)
組織開発の文脈におけるダイアログ(対話)とは、話し手と聞き手とが互いに理解を深めながら、互いに共感や意識・行動の変化を引き出し合う創造的なコミュニケーションを指す。近年組織における学びや創造、問題解決、ビジョンの共有などに有効なアプローチとして、ダイアログが注目を集めている。ダイアログでは、様々な立場のメンバーの発言が等しく同じだけの価値を持つ。すなわち、発言者の地位や属性によらない、オープンかつフラットなコミュニケーションが、良質なダイアログの基盤となる。

ダイアログの真髄は、「話すこと」ではなく「聴くこと」にあると言われる。相手の意見、立場、バックグラウンドを尊重しながら意見を「聴くこと」は、受身ではなく積極的かつ意図的な行為となり、また逆に自らが「話し手」となる際には、その言葉を真剣に「聴いてもらえること」によって、言葉の意味の相互理解が深まり、今まで気づかなかった新たな意味が見出され、新たな視点へとつながる。」

長い引用になったが、若新氏の言っていたことも同じ内容だったと思う。

彼は世の中に問を投げかけるような組織(鯖江市のJK課やニートばかりの会社など)を作って、面白い取り組みをしている。
彼が大事にしているものは。組織の中の意味の発見というようなもの。

みんなで集まってする「無駄話」などの中に、本人も気づかないようネタがあったりする。
誰かの話に、別の人がのっていって、新しい話のネタができたりもする。
そういうことから、新しいものが出てくる。

イメージしているのは、休み時間の会話だ。
目的なく始まって、時にはすごく盛り上がることもある。
そういう会話の中に、新しい発見がある。

結論を出す必要もない。
なんの制約もなく、話をすることで、参加者が何らかの発見ができるものだ。

そういうダイアログをしていくことで、みんなの中から新しい意味が生まれてくる。

これは面白い。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
学校の非常勤講師
今日は定年後、高校で働いている人と一緒に飲んだ。
高等学校の現状は小学校や中学校と同じく、ひどいものだという。

正規の教員が足りない。
非常勤の講師が教員をやって、担任も持っている。
中にはずっと非常勤の教員をやっている人もいるという。

なぜ正規の教員を目指さないのか?と聞くと、目指しているが採用試験に合格しない人もいれば、もともと正規教員になる気がない人もいるという。
正規職員になる気がない理由は、正規職員になると余計な仕事が増えるからだという。
教える以外の会議や役職、管理職からの依頼などの仕事だ。
給料が安く、不安定な身分であっても、そちらを選ぶということだ。

そういう正規教員以外の人たちがたくさんいるという。
中には40代になっても、非常勤を続けている人もいるらしい。

社会人から教員になった人もいる。
おお、それはいいことだ、と言ったら、それがいいことないらしい。
民間企業で使い物にならないから、ドロップ・アウトして教員になっている。
そういう人たちは、結局「よくない」先生になる。

聞けば聞くほど、教育現場の荒廃は進んでいる。
学校など関係なく生徒たちは育っていくのだろうが、そんな学校を経験した生徒たちは気の毒だと思う。

いつからこんなことになったんだろう。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) |