考えたこと2

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LA
昨日はBrusselsのことを書いたが、もう一つなじみのある都市がある。

アメリカの事務所のあったところ。
これは、おおかたの日本企業がそうであるように、ロスアンゼルスにあった。

他の企業がどんな呼び方をしているのか、知らないが、昔いた会社では「エルエー」と言う。
もちろん、書く時はLA。

日本の大人は、だいたい会社に入って、社会性を身につけるのだが、その時に知らず知らずのうちに企業文化(社風)も身につけている。
言葉は企業文化なので、これも知らず知らずのうちに身についているのだ。
その企業でしか使わない固有名詞、言葉や略称、業界用語など。
固有名詞や業界用語は、外の世界では通用しないことはわかっている。
しかし、このエルエーというような言葉は、そうではない。
ロスアンゼルス、という文字を見たら、「ああ、エルエーか」という反応で、それが普通だと思ってしまう。

ロスアンゼルスの事をロスと略す会社もあるだろう。
もちろん、略称はLAになっていると思うが、それをエルエーと発音するかどうかは定かでない。
Losと書くところもあるかもしれない。

事務所がなければ、LAなど何のことかわからない。
そういうことを考えればわかるのだが、いつもは自然にエルエーと言っている。

子供が地理をならって、ロスアンゼルスのことを話していた時に、エルエーやろ、というと通じなかった。
わからなくて当たり前なのだが、それさえ忘れてしまう。
「エルエーて何や?」
「ロスアンゼルスやから、エルエーや」
「何で?」
「英語でLos Angelesやから、頭文字をとって、LA言うネン」
「……」

そういうことになる。

以前書いたが、「生産計画」が「生計」になったりするのだから、難しい。
思った以上に、一つの企業に勤めるということは、そこの文化に染まるということになる。

その文化から抜けることも難しい。

25年も勤めると、そう簡単には抜けない。

この頃それを痛感する。

| | 考えたこと | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブラッセル
ブラッセルとは、ベルギーの首都。
ブリュッセルともいう。
どちらかというと、ブリュッセルの方がメジャーな言葉だろう。
しかし、英語の発音はブラッセルが近い。

この都市に馴染みがあるのは、昔いた会社のヨーロッパ事務所があったから。
初めて海外出張に行ったのがこの街。

小便小僧がいたが、あれは50センチくらいの高さで、こんなに小さいのかと思ったことを覚えている。

何が何だか全くわからなかった。
フランス語はもちろんのこと、英語もわからなかった。
駐在の人と、当時の課長が現地人と話しているのを聞いて、感心した。
コムサ、というフランス語だけ覚えた。
Like thisという意味。
コムサ、といって、ジェスチャーをすれば通じると習った。

街の中でも、普通の道は最高80km/hというところ。
ベルジャン路、という石畳の道も珍しかった。

飛行機の切符に、クラス分けがあることも初めて知った。

ファーストクラス、ビジネスクラス、エコノミークラス。

出張途中で滞在をのばし、帰りの飛行機を安いチケットにしたら、KALになった。
課長と2人で帰ったのだが、飛行機の中は日本かと思うほど東洋人ばかり。
でも、日本人はほとんどおらず、韓国の人ばかりだった。

昭和56年だったと思う。
当時はまだ海外出張に行くのが、そんなに一般的ではなかった頃。

そんな時に、ぼくみたいな2年目の社員を海外出張に送り出してくれた。
充分にその恩返しはしたつもりだが、それでも、ありがたかった。

いい会社だったと思う。
今になって、わかることもある。


| | 考えたこと | 01:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
ダブル・エージェント
二重スパイのことをダブル・エージェントという。
最近はあまり聞かない言葉。
ドラマの中で使っていた。

当然、トリプル・エージェントは三重スパイのこと。

ダブル・エージェントはこちらのスパイと見せかけて、実は敵方のスパイということになる。
潜入した先で、情報を取るフリをして、こちらにウソも交えて報告し、実はこちらの情報を敵方に報告している。
信頼されるためには、時には本当の事も伝えないといけない。
そのあたりのさじ加減が難しい。

トリプル・エージェントになると、もっとややこしい。
潜入した先で、情報を取るフリをして、こちらにウソも交えて報告し、その実はこちらの情報を敵方に報告するとみせかけて、実際はいざというときに、こちらに都合のいいことを流す。
三重スパイになると、何が本当で何がウソか、わからなくなる。

当然、その人がダブル・エージェントやトリプル・エージェントだと知っているのは、組織のトップになる。
それ以外の人には知らされない。
誰もが知っていたら、すぐにばれるからだ。

こうなると、難しいだろうなあ。

誰が自分のことをわかってくれているのか。
孤独でつらい仕事だろう。
ほとんどの人を欺いて生きている。
ほんの数人だけが、本当の自分を知っている。

想像はできない。
そんな状態になることは、今さらないが、よほどの精神力が必要だ。

自分を越えた何かのために…、というミッションが必要だろう。

むかしは、それがイデオロギー(○○主義)だった。

今はそれに宗教がプラスされたような気がする。

世界のどこかで、そんなエージェントが活動しているんだろうなあ。


| | 考えたこと | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
フランス語で多い音
フランス語の会話を聞くと「パ」と「ジュ」の音がよく使われると思う。

パ…ジュ…パ…ジュ…という感じ。

なぜか?フランス人はだいたい自己主張が強い。(西洋人というべきか)
何か言うと、それは違う、しかし…、というような言い方。
「Yes, but…」の国ではなく、「No, but…」の国だ。

フランス語の否定文にはpasという言葉が入る。
発音は「パ」だ。

そして、「なぜなら」というのは「perce que」という。
発音はパスク。

ちなみに、どうして?というのはpourquoi?という。
この発音は「プルコワ」。

そして、私は「je」。これはジュと発音する。

つまり、否定の「pas」となぜならの「perce que」が多用される。
日本語でいうと、「いいえ」、と「なぜなら」、がたくさん出てくる。
それに加えて、「私」も当然多い。

だから、パとジュが多いのだろう、と思っている。

それに時々「なぜ?」のプルコワを加えると、パとプとジュがよく出てくる。

どれも日本語ではあまり使われない音。

英語ではノーとビコーズとホワイ。
あまり気にならない。

まあ、それでもフランス語は話すと音がきれいだ、という事になっている。

きれいなのかもしれないが…。

| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
火鉢
昨日はこたつの話だったが、そういえばもっと昔は火鉢もあった。
うちは昔祖母の家と隣り合わせで住んでいたので、ぼくはいつも祖母の家に行っていた。
小学校1年の時に引っ越しして、今の実家にかわった。

祖母の家には火鉢があって、ちょうどこたつの横に置いてあった。
直径40センチくらいあったろうか。結構大きな火鉢だった。
灰がいっぱいになっていて、その中に真っ赤に焼けた炭を入れる。
あまり覚えていないが、祖母が手入れしていたのだと思う。

上に網を置いて、餅を焼いたりできる。
調理道具にもなる。

暖房と調理のどちらにも使える、というのはスグレモノだった。
火箸で時々灰をかけたりして、燃え方を調整する。

手をかざして暖をとるだけではない。
火鉢はそれ自体も少し熱をもつ。
だから、それを抱くようにして座ると暖かい。
ただし、火鉢にふれている部分以外は寒い。
これは局所暖房の弱点だ。

しかし、この火鉢、今となっては懐かしい。

昔からの知恵。

火鉢型をした、石油ストーブとか、作っても面白いかもしれない。





| | 考えたこと | 21:39 | comments(2) | trackbacks(0) |
こたつ
今日のニュースで、みかんの消費量が減っていると言っていた。
’78年から毎年減り続け、今はピーク時の3割しかないとのこと。

原因はたくさんある。
オレンジの輸入自由化や、それによるみかん以外の柑橘類への転換など。
農中総研というところの、調査と情報 2009.1によるとそのような事が書いてある。

しかし、今日のニュースの中で卸売り市場のオジサンが言っていた言葉に、そうか、とうなずいた。

「こたつが減ったからなー」

なるほど。
たしかにこたつが減ると、みかんは減る。

昭和40年代はまだリビングは居間と呼ばれ、畳が敷いてあった。
冬になると、こたつが出てきて、真ん中に置かれる。
紅白歌合戦も、レコード大賞も、こたつの中で見た。
そんな時、カゴに入ったみかんが出てくる。
みんな、それを食べていた。

ライフスタイルが変わったのは80年代(昭和55年)以降だろう。

居間がリビングと呼ばれ、板間がフローリングと呼ばれるようになった。
そのころから、こたつは減りはじめたのだろう。

昔は下宿と言えば、万年床、万年こたつだった。
夏は電気を入れないが、こたつは出ている。
冬になると、布団をかけ、そのまま寝たりする。
時にそれが原因で風邪をひいたりもしたが、便利な暖房具だった。
局所暖房の極み、エコというならこたつだ。

しかし、今はフローリングが増えて、ホットカーペットやエアコン、ファンヒーターなど、暖房具も灯油のストーブ以外のものが増えた。

今ではほとんど見かけなくなったが、筒型の灯油ストーブ、アラジンを使っていた。
今でもある。http://www.aladdin-aic.com/products/bf/index.html
あの、ブルーの炎は忘れられない。

話はそれたが、そんな風にして、こたつの文化がなくなっていったのだろう。

うちの実家はまだこたつが現役だ。

だから、みかんもカゴに入って出てくる。

意外なところで、時代が変わっていたんだなあ。


| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
星に願いを
リンダ・ロンシュタットとネルソン・リドル・オーケストラでスタンダード曲をやっている。

「星に願いを」という曲。
この曲は心にしみるメロディー。
名曲中の名曲だ。

歌詞もいい。
When you wish upon a star…で始まる。

あなたが星に願いをかける時…というような意味。
こういうスタンダード曲は本当にイイと思う。

今日は仕事の帰りにクルマの中で聞いて、ホッとした。
こういう曲を聴くと、音楽は本当にいいなあ、と思う。

暗くなった高速を走りながら、夜空を見上げた。

残念ながら星は出ていなかったが、今度晴れた夜に見よう。

Make no difference who you are…
あなたが誰であっても、変わらない。

星は願いをきいてくれる。

願っている人はたくさんいるだろう。
こんな時代だから。

でも、この曲を聴くと、希望が持てるような気がする。


| | 音楽 | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
休日出勤
以前はよく休日出勤したものだ。

金曜日の夜、仕事がたまって、あーしんどいという気分になる。
少し頑張ってそれを仕上げてしまうか、それとも土曜日に出てやるか…。
しばらく考える。
そして、その時楽な方を取ってしまう。
今日は帰って、明日出てきてやろう…ということになる。
もちろん、納期は月曜だ。

休みの土曜日に少し遅めの出勤。
のんびりして、行く。
オフィスの鍵を借りようとすると、誰かが出ていたりする。
守衛さんのノートに誰かの名前が書いてあるのだ。
ああ、あいつもでているのか…、と思いつつエレベーターで部屋に上がる。

おはようございまーす、と言ってドアを開けて入る。
1フロアに40人くらいいたのかな…。
本当にパラパラとしか人がいない。
その人たちが、こちらを見て、おはよう…という。

懐かしい風景だ。
今目を閉じても、浮かんでくる。
もう新しいところに引っ越しているらしいが、ぼくはそれを知らない。
いつまでも、昔のままだ。

休みの日のオフィスはいい雰囲気。
電話もかかってこないし、FAXもこない。
静かなところで仕事ができる。
こういう時に、いいアイデアが出てくることが多い。

前に書いたような気もするが、そんな時にレポートを書いていて、ふと思いつく。
あ、そうか…と思って、それを書く。
その瞬間の感じは特別だ。
アイデアが降りてくるという感じ。
何かをワープロで書きながら、ぼんやりした時に来るのだ。

そんな休みの日のオフィスが好きだった。
別に好んで出ていたわけではない。
休む方がいい。でも、そういう瞬間を楽しめる。

懐かしいなあ。

| | 考えたこと | 21:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
超いそがしい
今週は土日ともに出る。
仕事がいそがしいからだ。
以前、こんなこともあったが、今回は久しぶりだ。

いくらやっても、終わらない。

仕事が忙しいのは、ヒマですることがない、というよりはいいことだが、あまりに度が過ぎるともたない。

それにしても、景気が悪い。
雇用は何とかならないのか。
民主党は労働者のための党ではないのか。

日本は、若い人が仕事ができる国だったが、その常識が崩れようとしている。
世の中は豊かになった。
そして、ものがたくさんあふれた。
365日、24時間営業体制。
それでも、仕事が増えない。
コンピューターとインターネットのおかげだ。
インターネットはどこまでいくのだろう。
今やネット上に何でも保存しておける。
自分は何も持たないでよい。必要に応じて検索して呼び出す。

従来、何人もでやっていた仕事が、人のいらない仕事になる。

そのうち、ロボットも実用化の時代がくる。

そうすると、また人が要らなくなる。

そんな時代が来る前に、新しい産業を育ててほしい。

そうでないと、もう間に合わないぞ。


| | 考えたこと | 01:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
あこぎ
次男からチケットの申し込みを頼まれ、インターネットから申し込んだ。
なんでも、人気があるグループらしく、なかなか取れないので、3人で4枚ずつ申し込んだ由。

大阪でのライブで、ワンオクロックとか、なんとかいうバンドが3組ぐらい出るらしい。
ボーカルが森進一と森昌子の子どもとか…。
次男が聞く音楽はだんだんハードになってきた。
最初はミスター・チルドレンで、これはなかなかいい曲もあり、ぼくも気に入った。(桜井にさんをつけて、桜井さんというのには、ちょっと疑問もあるが)
しかし、だんだんとマイナーなグループになってきている。
それでも、なかなか取れないというから、申し込んだ。

21日が抽選の発表なので、今日帰ってきたらメールを見てくれという。
さっそくメールを開けて見てみたら、抽選に当たって、チケットが4枚手に入る。

そうすると、3人とも当たったらしく、8枚のチケットが宙に浮いたらしい。
人気がないのだろう。
そのうち、4枚は誰か友だちが購入するとのこと。

残りの4枚はどうなるのか、と聞いたら、なんとか売るとのこと。
誰かにちょっと値段を載せて売ろうか、というから、そんな阿漕な事をするな、と言った。

「阿漕」という漢字は知らなかったが、「あこぎ」はわかるものだと思っていた。
欲深いとか、いやらしい、とかいう意味だ。

これが、全く通じない。

あこぎ?というリアクション。
え、ひょっとしたら、阿漕がわからない?というと、それは世代の問題だ、という。

おそらく、今の高校生はほとんど阿漕が通じないのだろう。

そのうち、「阿漕なこと」というと「アコギなこと」と思われ、電気を使わない(アンプラグド)事だと思われるようになるかもしれない。

また、平成の死語が増えた。

| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
昨日の続き
女性の方が現実感があるのには、もう一つ理由があると思う。

それは、女性の方が生きていくのに余分にお金がかかるということだ。
もちろん、例外はあるが、服、靴、カバン、化粧品…、生活に必要なものが多い。
自分にどれだけお金がかかるか、それがわかっている。

男性は、服は同じものでもかまわない。靴は一足をボロボロになるまで履く。カバンは何でもよい。化粧品は使わない。
自分にかかるお金は衣食住だけ。
もちろん、オシャレな男性もいるが、それでも化粧をする男性はほとんどいない。

今は男性の専用化粧品も出てきたが、値段は女性用の比ではない。

そのせいで、女性の方が現実感がある。

現実感があると、どうして優れているのか?

それは、現実感がなさすぎると、現実に適応できないからだ。

人間、現実に適応しないといけない時がある。
何かの変わり目、選択しないといけない時など、決断が必要だ。
決断には現実を把握すること、これが大事。

そういう時、現実感を持っている方がいい。

だから、最近女性の方が優れていると思う。


| | 考えたこと | 00:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
女性の強み
最近、女性の方が優れていると感じることが多い。
なぜかというと、現実感を持っているからだ。

男性の良さというのは、夢とか希望とか理想とか、現実感が薄いところにある。
しかし、最近はそれが良さではなく、単に現実離れしている、というようになってきたと思う。
どうやって生活するのか?と思うような人が多い。
よく言えばロマンチストであり、悪く言えば無計画。

なぜ女性が現実感があるのだろう?
これには理由がある。

それは、女性が毎朝化粧をするという事から来ているのだと思う。

化粧をするためには、鏡をみる。
鏡をみて、化粧品を使い、そして自分を美しく見せる。
そのためには、毎朝相当な時間、自分の顔を見る、という作業が必要だ。
そのことが、女性の現実感、リアリティを生み出しているのではないか。
毎朝自分の顔を見るという習慣は、男性にはあまりない。

電車の中でも、小さな鏡を出してきて見ている人がいる。
その行為が、イヤでも現実に引き戻す効果がある。
夢や希望、理想というものは当然あるのだが、そうであっても、現実も必要だ。
そこに立ち戻る作業を、毎朝している、という事になる。

悪口を言っているのではない。
本当に、最近女性の方が優れていると思い、なぜかと考えた結果だ。

ぼくらは、もう鏡を見る気がしない。

これは現実逃避か…。


| | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
本当に自分がやりたかったこと
自分の夢について書く。

まず最初になりたかったのは、マンガ家だ。
今アニメが海外で注目されているが、ちょうどぼくらの小学校の時代が手塚アニメが出始めたころだった。
それまでのマンガとは違って、ストーリー性のあるSFもののマンガが描きたかった。

中学時代にはギターを始めたので、ギタリストになりたかった。
ちょうど吉田拓郎が広島フォーク村から出てきたころ。
歌を歌おうとは思わなかったが、プロのギタリストに憧れた。

高校になって、小説を読み始め、小説家になりたいと思った。
何か書きたかったが、結局書けなかった。
書けなかったというより、書こうとしなかったというべきか。

大学になって、落語研究会に入り、落語家になりたいと思った。
落語ブームは中学のころに終わっていたが、上方落語の隆盛時代だった。

また、シンガーソングライターという人たちが定着し、ぼくもなりたいと思った。

会社に入って、小椋佳を聞き、これならできるのではないかと思ったりした。
もちろん、できるわけがない。
会社に入っても、まだ夢を持っていたのだから、いい加減なものだ。
往生際が悪い。

でも、大多数の人はそうなんだろうなあ。

だいたい、その時に流行っていたことや、その時偶然自分がやっていたことを延長して、夢にしているような気がする。
結構イージーなものだ。

多くの人は、これらが「本当に自分がやりたかったこと」だ、と思う。

それはそうなのだが、この年になると、「本当に自分がやりたかったこと」などなかったのではないか?と思えてくる。

「本当に自分がやりたい」と思っていただけ、の事はある。
しかし、実力がなかったり、実行できなかったりして、結局は「本当に自分がやりたいこと」など存在しない。

しかし、中には実際にやってみる人もいる。
路上ライブで頑張ったり、CDを自主制作したり、原稿を持ち込んだり…。
今はだいぶやりやすくなっている。お金はさほどかからない。
インターネットもできた。
モラトリアムの時間もある。

しかし、そういう人にしても、「本当に自分がやりたかったこと」にトライはしたが、結局はあきらめるというパターンをほとんどが歩む。

となると、本当に自分がやりたかったことを、実際にやってみていないわけだから、本当に自分がやりたかったことが「本当に自分がやりたかったこと」かどうかはわからないのだ。
確かめようがない。
やってみたら、つらいことも苦しいことも見えてくるだろう。

ぼくは、今になって、「本当に自分がやりたかったこと」など存在しないとわかった。
だから夢なのだ。

「本当に自分がやりたかったこと」は夢だから、「自分がやっていること」を「本当に自分がやりたかったこと」にできるかどうかが、勝負だと思う。

何でもよいのだ。
自分のやっていることに満足感を得られるかどうか。
楽しみが持てるかどうか。
そういう努力をできるかどうか。
そういう仕事にしていけるかどうか。

天職という言葉があるが、これは結果論だ。
仕事をしてきて、何かを成し遂げた人に聞くと、そういう言葉がでる。
でも、たいがいその仕事を天職だと思ってはじめたりしていない。
いやいややり始めたという人の方が多いと思う。
そういう人が、仕事をふり返って、天職だという。
自分でその仕事を天職にしたんだろう。

いつまでも、「本当に自分がやりたかったこと」を追い求めると、人生が不毛になる。

今の教育はそれを推奨しているような気がする。
| | 考えたこと | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
結果オーライ
「結果オーライ」という言葉、いつ頃から使っているのだろうか。
会社に入って知った。
実験結果を出して、上司に見せたら「結果オーライやな…」というような使われ方。

この結果オーライというのは一つの言葉。
結果とオーライがセットになっている。
オーライというのはall rightのことで、よい、ということ。
バックオーライのオーライと同じ意味だ。

事前調査はあまりやらなかったが、実施してみたらうまいこといったとか、時間切れでとりあえずやってみたら、偶然いい結果が出たとか、そういうふうなニュアンス。

オーライはOKと同じ意味だが、結果OKとはいわない。
何でいわないのか、わからないが…、こういうのは語呂だろうか。
ケッカオーライという響きがよい。
関東でも使うのかどうかはわからない。
少なくとも、関西の企業ではよく使われるのではないか。

goo辞書には出ていないが、はてなキーワードには載っていた。
「結果よければすべて善し。最終的に何とかなったのだから、過程における問題点については全て目を瞑ってしまおうということ。」と書いてあった。
うまいこと書いてある。
特に関西弁とは書いてなかったので、全国的に使われているのだろう。

自分で卑下して、「結果オーライですワ」といったり、他人のいったことに対して「それは結果オーライやな」と少し批判的に使うこともある。

学生時代に使った覚えがないので、ビジネス用語かもしれない。

最近使わないが、久しぶりに思い出した。
なぜ、思い出したのかは忘れたのだが…。

まあ、結果オーライということで…。

| | 考えたこと | 21:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
決めるということ
何かを決めるという仕事は、時にストレスを伴う。
決定者の立場は、決して気のいいものではないだろう。

利害が対立している場合や、責任の所在がはっきりしない場合、そして物事の見方が違う場合…。
どちらも正しいと思うし、また、正しくないとも思う。
決定者の心情的な意見で決めるわけにはいかない。
組織の目的や理念、全体的な利害を考えて、判断せざるを得ない。

まず、その話題について知らないといけない。
勉強が必要だ。
最低限の知識を持ったら、あとは判断をするのみ。
余計なことは考えてはいけない。
人と相談してもよいが、決めるのはあくまでも決定者。

だから、決めるというのは難しい。

ポリシーが必要だ。
どうして、そう決めたのか。説明できないといけない。

特に、決定権がどこにあるのか、はっきりしない組織の場合は特にそうだ。

誰が決めることができるのか、わからない。
信じられないかもしれないが、そういう組織もある。

それでも、決めないといけない事がある。

決定権がどこにあるのか、はっきりしないということは、責任の所在もはっきりしないということになる。

それでも、誰かが決めないといけない。

誰かの恨みを買ってでも、組織のために決めないといけないのだ。

それが決定者の仕事だ。


| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
笑い
生き物がたくさん地球上にいるが、笑うのは人間だけだ。
ということは、笑うということは、動物と人間を分ける一つのポイントだろう。

なぜ人間は笑うのか?
色々な説があるが、ぼくは岸田秀先生の説を信じている。

心理学者の岸田先生はフロイトの信奉者。その視点で世の中の色々な疑問を解決してくれる。
その一つが笑いに関する解釈。

先生の説は、まずは「人間は本能が壊れている」ということだ。
この「本能が壊れていること」が、全ての人間らしいことの原因。

本能が壊れているから、心は常に緊張状態にある。
その緊張状態から、開放される瞬間に笑うのだ。

漫才を見ている。
笑いのない場面では、緊張がある。
でも、面白いところでは緊張がゆるむ。
それが笑いのもと。

犬は本能のままに生きている。
だから、よけいな緊張はない。
したがって、笑いもない。

これは説得力のある説明だ(とぼくは思う)。

お互いに笑顔のを交わすのは、知り合いである証拠。
敵意はないですよ、という意味の笑い。
緊張を解くことができる関係、ということになる。

枝雀の言っていた、笑いは緊張と緩和という話もこういう説明で納得できる。

緊張と緩和の落差が大きいほど、笑いは大きい。

この説明が一番合理的だ。

岸田先生はえらい。



| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
ちゃらい
ちゃらい、という言葉がある。
これも平成の新語ではないか。
これだけ聞いたら、よくわからないが、話している時に聞くと、ニュアンスがわかる。

「私らからみても、若い人はちゃらいと思う。」

というように使う。
ちなみにこれは、21歳の人が、19歳の人を見て言っている言葉。

何となくわかるでしょ。

「チャラチャラした」という意味だ。
チャラい、と書くべきかもしれない。

「派手な」というような意味か。
あまり、良いようには使わないと思う。

きもい、という言葉もあるが、これは気持ち悪いという意味。

この手の言葉も増えてきた。

何でも略して短くいうのが今の流行。

キラキラした、というのが「キラい」。
ベトベトした、というのが「ベトい」。
ワクワクする、というのが「ワクる」。
ドキドキする、というのが「ドキる」。

そのうち、こういうのも出てくるかもしれません。

ちなみに、ギョギョっとする、というのを「ギョギョる」というのはもうあるようです。

これは略していませんが…。


| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
睡眠
ようやく長い休み(途中でちょっと出たが)が終わり、レギュラーな出勤体制になった。

12月の終わりから続いてきた不摂生、どうしよう。
今日はやけに眠たくなった。
睡眠時間はとっていたのだが、何せ不規則な状態だ。

休み中に、午前中に寝たり、午後に寝たり、ごろごろしていると、仕事が始まってから困る。

眠い時には、コーヒーを飲んだり、紅茶を飲んだり、のびをしたりしてみるのだが、どうにもならない。
本当に眠たいのだ。

いつも不思議に思うのだが、どうして眠ったらいけないという時にかぎって、眠くなるのだろう?

また、眠くなったら、立ったり歩いたりすればいいのに、どうしてできないのだろう。

まあ、それが眠くなるということか…。

睡眠については、一つ信じていることがある。
よく眠る人は長生きするということだ。
というか、起きている時間が長いと寿命が短い。

眠っている間は生理的に楽だから、省エネだ。
起きて活動しているときは、それなりにエネルギーを使う。
だから、長いこと起きている人は、より多くのエネルギーを使う。

大体、起きている時間の総時間数は、もちろん寿命の問題で個人差はあるが、誰もがそんなに変わらないのではないか。
長いこと起きて活動している人は、よく眠る人よりもすぐに総時間数がくる。

一日24時間で365日、それがだいたい70年。これで合計が613200時間。
人生70年というが、61万時間しかないのだ。
そのうち平均1日8時間眠るとして、204400時間が眠りの時間。
これが普通の状態。
でも、一日5時間しか眠らないと、127750時間しか眠っていない。
逆にいうと、485450時間は起きている。

人によって違うが、平均的には40万から50万時間起きていたら、寿命がつきるのではないか?

30代前半から40代の終わりにかけて、ぼくは睡眠時間が少なかった。
毎晩といっていいほど、10時以降に退社。
20代でも、ほとんど8時前に帰ったことがない。

以前、象の時間、ネズミの時間という本を読んだ。
それによると、生まれてから死ぬまでの、ほ乳類の心臓の心拍数はほぼ一定らしい。
起きている時と、寝ている時では当然起きている時の方が心拍数が多い。
それからしても、起きている時間が長いと、寿命が短いことになる。

だから、ぼくは寿命が短いのではないかと思っている。

科学的な裏付けもあるのだ…。

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成人式
今日は長男の成人式。

今どきの人は成人式にちゃんと出るらしい。

ぼくらの時もそうだったかもしれないが、行かなかった。
関心がなかったからだ。
若者は反体制のものと思っていた。
成人式に行くのが体制だとは限らないが…。

単にめんどくさかっただけかもしれない。

いろんなところで成人式が行われていた。
今よりも若者の数が多かったのだろう。
近所の大学の体育館でやっていた。
その日に何をしていたか、覚えていない。

小学校、中学校の同級生と会えたかもしれない。
その最後のチャンスだったろう。

いつの頃からか、荒れる成人式が多くなった。
ぼくらの頃はそんなこともなく、平穏に過ぎたと思う。
まだ世の中に夢があった。
それにかげりが出はじめた頃から、荒れだしたのではないか。

今はもうほとんど荒れる成人式はなくなった。

それは世の中に夢が戻ったからではないだろう。

これは大人のせいだと思う。

ぼくらが悪いのだ。

なんとかしないといけない。


| | 考えたこと | 01:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
理想
理想は持つべきだ。
いろんなことに対して、持てばいいと思う。

しかし、現実も知らないといけない。
しばしば、というより、ほとんど理想は理想でしかないのが事実。
それをわかった上で、少しでも理想に近づこうとすること、それが普通だと思う。

若い人は大人の世の中の現実を知らないから、理想のまま生きようとする。
そこで挫折し、だんだん現実を知っていくことが、大人になるということだろう。

大人は理想を持っているが、一方で現実も知っている。
現実というのは、人間の真実だ。
人間はフェア(公正)ではない。世の中にはたくさんのアンフェア(不公正)がある。
そのアンフェアさを知って、それに対処して生きていくことが必要だと思う。

もともと自分の見方がフェアかどうかもわからない。
いろんな立場の人がいる。
物事をいろんな側面から見ないと、何がフェアかということもわからない。
そういう意味で、対象を相対化することが大事だ。

例えば、運動会。
順番に走らせたら、大きな差がつくグループができて、かわいそうだから事前にタイムを計って、近いもの同士を走らせる。
それがフェア、というのも一つの見方。
それは、走るのが遅い生徒の救済になるから、アンフェアだ、というのも一つの見方。
一つのことに対して、二つの見方ができる。これが対象の相対化だ。

何事であれ、順位をつけるのはよくないというのも一つの見方。
だから、絶対評価で成績をつける。
そんなことをしても、内申書は相対評価でつけるのだから、そんなことは意味がないというのも一つの見方。
世の中では、相対評価なのだから、間違っているというのも一つの見方。

そうやって、相対化した上で、自分は何が正しいと思うのか。

そこで理想が必要になる。

理想を持っていない大人も、現実を知らない大人も、どちらも困った存在になる。

理想を持っていて、その上で現実も知って、そこで両方を妥協させることができる人が大人だろう。

言うは易く行うは難しとはこのことだ。


| | 考えたこと | 20:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
楽しくなければ…
人間、楽しくなければダメだ。
今日はそれを痛感した。

まず、楽しくなければ、興味がわかない。
そして、楽しくなければ、努力できない。(楽しいという状態にもいろいろあるが…)
もちろん、最初から楽しいというのは難しい。
それでも、誰かにやらされるより、楽しくやる方がいいだろう。

そこで大事なのが笑い。

笑いは人間同士の間にある壁を壊す働きがあるという。
たしかに、知らない同士でもお互いに笑うようなことがあれば、ぐっと近づくことは確か。
信頼の証しでもある。その人を信頼していないと笑えない。
何事も信頼している人と一緒にやるのは楽しい。

どうせやらないとイケナイことだから、楽しくやろう。
気分は自分が決めるもの。自分が主体的になったときは、少なくとも楽しいと思えるはず。

「何かを楽しむ」という感覚を知ることも大事だ。

そう。

厳しくなければ生きてはゆけない。楽しくなければ生きていく値打ちがない。

忘れていたこの気持ちを思い出そう。


| | 考えたこと | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
木綿のハンカチーフ
稲垣潤一の「男と女」というCDを買った。
11の曲をそれぞれ違う女性歌手とデュエットしている。

曲はHello, my friend、悲しみが止まらない、あなたに逢いたくて、PIECE OF MY WISH、セカンド・ラブ、サイレント・イブ、あの日にかえりたい、人生の扉、木綿のハンカチーフ、秋の気配、ドラマチック・レイン。
それぞれ、高橋洋子、小柳ゆき、松浦亜弥、辛島美登里、YU-KI、大貫妙子、露崎春女、白鳥英美子&白鳥マイカ、太田裕美、山本潤子、中森明菜とのデュエット。

男女のデュエットでも、最近キーを変えない(転調しない)曲が多いが、どの曲も転調して男女で歌う。

稲垣潤一の透明な声がジャマにならず、いいデュエットだと思う。

中でも、木綿のハンカチーフは太田裕美とのデュエットだが、本当に気持ちがいい曲。
太田裕美はこの曲を何度歌っただろうか。アイドル時代を思い出しながら歌っているのかもしれない。
その曲を違うアレンジで少しゆったり歌う。

この曲は作詞:松本隆、作曲:筒美京平のコンビで本当に聞きあきるほど聞いた。
1976年だったか。20歳の頃。

 恋人よ僕は旅立つ 東へと向かう列車で
 はなやいだ街で 君への贈りもの
 探す 探すつもりだ…

歌詞は男女の立場が入れ替わって歌われる、ラブソングだ。
太田裕美がオリジナルよりもゆったり、思い入れをこめて歌う。
都会に行ってしまった男性。田舎で待つ女性。

残念ながら失恋に終わる歌。
都会に行ってしまった男性はしだいに都会に慣れ、「僕は戻れない」と最後の節で歌う。

そして、最後に女性が「涙拭く木綿のハンカチーフ下さい」と歌って終わる。

悲しい失恋の歌だが、アップテンポのメジャーコードの曲がそれを感じさせない。

稲垣潤一、太田裕美がソロパート、コーラスパート、そしてユニゾンのパートを交えて歌う。

太田裕美は年齢を経て、この歌をゆったりと歌う余裕ができた。

この曲のカバーは、やっぱり太田裕美でないといけない。



| | 音楽 | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
初出
こんなに遅い初出でいいのか、と思うが長いものには巻かれろで今日が初めての出勤日。

朝ついて、すぐに各部署に年始の挨拶。
それから、部署でミーティング。
そして、会議。

またルーチンの業務が始まる。

年末から持ち越した懸案事項が山積み状態。
机の上はたくさんの書類が山積み状態。
結局年末は全く片付けなどできなかった。

いつになったらヒマになるのかと思うが、自分がやりたいと言ったのだから、仕方がない。

3月末に今年度が終わる。
来年度も今年度と同じようにやるつもり。

ぼちぼち限界かなとも思うが、まだやり残したことがある。

来年度は少しでも前に進めるようにしたい。

これは今年の抱負。

頑張ろう。


| | 考えたこと | 02:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
キムタクの英語
キムタクが得意の英語で、スーザン・ボイルに話しかけたが、英語だとは思われなかったという場面。
週刊誌で話題になっている。
今年の紅白歌合戦。

そりゃそうだろう。
あの場面、スーザン・ボイルは歌を歌う直前で、だいぶ緊張していたし、まさか日本のタレントが英語で話しかけてくるとは思っていない。
英語を話さない、と思う相手が何を言ってもダメだ。聞く気がない。
言葉とはそういうものだ。
通訳に聞いてわかったというオソマツ。

まして、彼女はスコットランド生まれだから、英語はだいぶなまっている。

言葉によるコミュニケーションは35%という統計をみごとに裏付けた。
あの場合、言葉以前の情報で、英語は話さない、というコミュニケーションが成り立ってしまったということだろう。
場面、年格好、それまでの状況から、彼が英語で話すわけがない、というイメージをうえつけた。

まして、英語の通訳が付いているのだから、そう思うのは当たり前。
だれがやっても、そうなっただろう。

どうやったら、よかったか。
事前に(ステージに上がる前に)キムタクが直接英語で話していれば、そんなことはなかっただろう。
この人は英語で話しかけることができる、という情報をわかっていれば、対応できたはず。
通訳が、今からこの人が英語で話しかけますよ、と言っておいてもよかっただろう。

それができなかった、ということは、アドリブだったのか…。

それはムチャだ。

そんなに英語でコミュニケーションできると思っているとしたら、かなりメデタイ。

ぼくらも、外人がカタコトの日本語でいきなり話しかけてきたら、きっとわからないはず。
それも、外国に行って、そういう状況になるのだ。

「ワータシハニホンゴスコシハナセマース」
「Oh, I'm sorry. I can't understand your English.」

人間、考えられないことは、起こらない…、というか、起こらないことになっている。

だから、コミュニケーションは面白い。

| | 考えたこと | 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
クルトガ
世間には申し訳ないが、今日もお休み。

昼前に外に出て歩くと、もう世間は仕事モードに入っている。
道行くおじさんもみんなネクタイをして、コートを着ている。
信用金庫のお姉さんも、制服で歩いている。

正月のにぎわいがウソのようなお店。
今日あたり、正月の残り物があるので、買い物も少ないのだろう。

久々に文房具の売り場に行ってみる。
前から気になっていたのが、クルトガというシャープペン。
ペンの先がくるくると回って、字が太くならないという仕組みだが、どうなっているのだろうか。

0.5mmと0.3mmがあるが、ぼくは0.4mmを愛用している。
太さと折れにくさのバランスが一番いいのだ。

しかし、0.4mmのタイプはないので、迷った末に0.5mmを次男に買った。
どんなメカニズムになっているのか、知りたかったのだ。

さっそく持って帰って、使ってみた。

書いている時に芯が回るということだから、チラシにずーっと線を書いて回っているかどうかを見た。
どうも、回っている様子がない。
いったい、どうなっているのか…。

と思っていたら、芯の先を押すとちょっとだけへこむのだ。
そのへこむ動作でギアが回り、芯が回転するようになっている。
なるほど、いったん持ち上げて次に書くときに回るのか…。

したがって、ずーっと押さえつけて線を書いても回らない。
そんなに長い線はめったに書かないからなあ。

だから、一画ごとに芯が回る。
よくできたシャープペンだ。
ネーミングもいい。くるっと回って、とんがるという意味だろう。

そんなに複雑なものではない。
でも、目の付けどころがイイと思う。

0.4mmは出ないだろうなあ。






| | 考えたこと | 02:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
アゲウタ
正月に次男と音楽の話をしていたら、「アゲウタ」というのが出てきた。
それは何か?と聞いたら、はっきりは決まっていないという。
主観的なもの、とのこと。
だいたい、元気が出る歌のことを言うらしい。

その「アゲウタ」というのは、どこから来たのかと聞いたが、「テレビで言っている」としかわからない。

調べてみると、Mステ(ミュージックステーション)という番組で、2007年10月6日にアゲウタ・ナキウタの特集をやっている。
そのあたりが起源かもしれない。
去年の12月、CDTV(カウントダウンTV)という番組がアゲウタ、ナキウタ、トモウタ、コイウタという4種類のCDを出している。
そのCDに入っている曲を見ると、ほとんど知っている曲はなかった。
90年代以降の曲らしい。まあ、ティーンエージャーがターゲットだから当たり前か。

ナキウタとコイウタ、トモウタはだいたいわかる。
泣ける曲がナキウタで、友情を歌った歌がトモウタ、ラブソングがコイウタということだ。
ちゃんとナキとトモ、コイが入っている。これは「泣き」「友」「恋」のことだろう。

しかし、アゲウタとはどういうことか。
上げ歌、ということだろうか。元気が出るのが「上げ」になるののか。
気分を盛り「上げる」というところから来ているのか。

まあ、アゲウタがそういう類の歌というのは、アゲウタのCDの1曲目が岡本真夜の「Tomorrow」という曲だということでわかる。

 涙の数だけ強くなれるよ…

で始まる歌だ。

やっぱり、元気が出る歌を「アゲウタ」という、と覚えるしかない。

ぼくらの世代なら、この4つは何だろうか。
70年代でこの企画をやってもらえないだろうか。

団塊の世代もいるし、結構売れるかもしれない。


| | 考えたこと | 01:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
廃刊雑誌
12月にニュースになっていたが、小学6年生、小学5年生が廃刊になるという。
永らく持ちこたえてきたが、もうダメだということらしい、

小学6年生は最近はジャニーズ系のタレントを多用した紙面作りをしていたが、それでもダメだということらしい。
まあ、少子化の影響をもろに受ける雑誌だからなあ。

それでも、小学1年生から4年生はまだ大丈夫。
小学1年生は、とりあえず親が買うというケースもあるだろう。
低学年の間はまだマシということになる。

今の時代の難しいところは、少子化だからといって、親が子にかける費用を増やすとは限らないということだ。
科学と学習という雑誌も廃刊らしい。
これこそ、ぼくらが小学生の頃は学校が斡旋して売っていた。(神戸市では)それくらい、学校が生徒のためになると思っていた(のではないか)。
ああいうことができなくなったのが痛いのだろう。

科学の付録はよくできていたとぼくは思う。さすが学習研究社だ。
あれは、年間購読するからこそ、できたような雑誌ではないか。
今月は付録に金をかけすぎたから、来月に減らそう…というようなこともあったと思う。

ちなみに、学習研究社は現在は学研ホールディングスという会社になっている。
塾やいろんな教育関係の会社を合併したらしい。
子どもに関わる会社は大変だ。例外なく事業拡大している。
事業拡大しないと生き残れないということだ。ただし、人は減っているのだろう。

小学校の高学年になると、ぼちぼち自己主張が始まって、大人の月刊誌がほしくなる。
昔でいうと「明星」や「平凡」というカテゴリー。

現在、明星は今はMyojoと改名してジャニーズなどを扱う雑誌になっているらしい。
平凡はずっと以前に休刊したまま。

もうアイドルもはやらないということだろう。
携帯のメールや掲示板の書き込みで忙しいということもあるかもしれない。

雑誌の発行部数の総数はかなり減っていると思う。

出版文化というものが衰退して、これもインターネットに吸収されていくのか。

それでも、必要なものは残るだろう。
要はクオリティだ。

| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゴールデン・グローブ賞
アメリカのショービジネスの賞である、ゴールデン・グローブ賞の歴代の受賞者を見た。
すごい賞だから、もらってうれしいのは誰も同じ。

さすが、ショービジネスの世界の人だけのことはある。
出てくる人はいずれもどこかで見たことがある。
世界的に有名な俳優、ドラマでちょっと見たことがあるかなという俳優など、いろいろいたが、どの人も感激していた。

ノミネートされた人が、バーティ会場に集まっているのだろう。
その瞬間までわからないのか、それとも事前に知らされているのか、それはわからない。
でも、ショーをテレビで見ているかぎり、その時に知らされているようだ。
何せ、一人の女優は受賞の瞬間に、トイレに行っていて、その間ロビン・ウィリアムズ(客席からの飛び入り)が間を持たせていたくらいだから。

どの人も受賞して謝辞を述べる。
だいたいの人は、ゴールデン・グローブ賞を運営している団体に謝辞を言っていた。
大御所になったり、何度も受賞している人は別だったりするけど。

しかし、感心するのはいずれも笑いをとることを忘れないということ。
あれはジョークというのかどうかわからないが、何かひと言笑いをとる。
まるでそうするのが礼儀みたいに、笑いをとる。

ショービズの世界だからサービス精神旺盛なのか、ああいうパーティ形式の授賞式だからか…。
そういう雰囲気でもある。みんな笑顔というより、笑い顔で何かを期待しているという感じ。

そういう場面で、笑いを取れるからこそ、賞をもらえるのだろう。

賞をもらって、謝辞を言いながらトロフィーをいじっていて、壊した人もいた。
また、それをネタに笑いをとる。
日本なら、主催者側が走ってきて、トロフィーを交換するとか何かあるのだろうが、そんなことはおかまいなし。
壊した方も、悪びれることなく同じ調子でしゃべる。

ああいう時に笑いをとるのは、日本人は苦手だ。
マジメだからいいというものではない。
授賞式だから、笑ってはいけないという雰囲気もある。

人前で話すときには、何かひとつは笑いをとらないといけない。
聞く方も、そういうところをわかって聞いてほしい。
もちろん、マジメな席はあっていいし、そういうところでは笑わない。
でも、話し手が笑いを求めていても、暗黙の了解事項のように、笑わないという雰囲気もある。

緊張も大事だが、緩和も大事なのだ。
それを少しわかれば、日本の式ももっと面白くなるだろうと思う。
| | 考えたこと | 00:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
グローバル化
今年も1月1日は毎年と同じように暮れた。

朝(と言っても10時前であるが)お雑煮とおせちをいただき、2時過ぎに実家に行って、初詣に行き、晩ご飯をいただいて、みんなでテレビを見て、夜帰ってきた。
弟の一家も来ており、少ないながら家族がそろった。

毎年のことだが、これが続けられるのが幸福ということだろう。

今年は長男が20歳。
ようやく一人成人を迎えた。
下宿してから、あまり帰ってこないが、楽しくやっているのだろう。
次男はまだ16歳だが、あと4年頑張れば一応子育ても終わり。

お参りに行ってひいたおみくじは小吉だった。
毎年、中吉か小吉か吉。一年間財布に入れておいて、翌年交換する。

次男は初日の出を見に行った。
今年は見られたかと思ったが、雲があってだいぶ上がってから見えたとのこと。

毎年思うのだが、日の出は毎日同じように訪れる。
初日の出というのは、人間がその太陽に「年の始まりの日」という意味をつけているだけのことだ。
つきつめれば、暦も四季折々の自然に意味をつけたものといえないこともない。
それが文化というものだろう。
昨日も書いたが、1月1日が今日である必然性は物理的にはない。

世界の人がそれを理解した上で、自分の文化ではこうだ、と思えれば争いは減るのかもしれない。
グローバル化の本当の意味はそこにあるのだろう。
まだまだ途上だ。
真のグローバル化を迎えるまで、どれだけかかるのか。

そんなことを考えながら、初風呂に入る。


| | 考えたこと | 01:35 | comments(0) | trackbacks(0) |