考えたこと2

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フラット13th
どうも演奏がしっくりこないので、今日もラストワルツをレッスンしてもらった。

こないだは「不思議なコード」として、ディミニッシュというコードが出てきたが、今回は♭13(フラット・サーティーンス)というコードが出てきた。

ドを1とすると、ミが3、ソが5…と数えていくと、ラが13になる。
♭13だから、13の半音下、つまりラ♭がそのコードを決める音になる。
これは、とりもなおさず、ソ♯のことだから、ドミソの上にソ♯がひっついている…というカタチになる。
もちろん、5度のソの音は省略するのだが、これもヘンなコードである。

ところが、このコードがここ一番で出てきて、メロディをせつなくさせる。

こういうのを、テンションコードというのだが、音がぶつかり合って、何ともいえない響きを作る。

それだけ弾いても、ヘンな音…である。

でも、メロディの流れの中で、グッとくるところでポロンと鳴るのだ。

たとえて言えば、香辛料のようなものである。
そればっかりは食べられないが、それがないと、もの足りない。

♭13は、せつない響きだった。

香辛料でいうと、ワサビという感じか…。

先生は魔法のようにコードをつけていく。

いろいろと工夫してみても、どうもうまくいかないというところを、「じゃあ、これでいきますか」と手品のように繰り出す。

だいぶ香辛料の引き出しが増えてきたが、まだまだどこで使ったらいいのかがわからない。

「使いすぎると、いやらしくなりますよ」と言っておられたが、そこまで行けないなあ…。



| | 考えたこと | 00:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
コーラス
「あみん」というと、「待つわ」だが、すぐに解散してしまった。
きれいなコーラスだった。「待つわ」はカラオケでコーラスをやった覚えがある。

昨日は「あみん」の再結成のコンサートをテレビで見た。
岡村孝子と加藤晴子の二人。なつかしい顔だった。

岡村孝子はずっと活動していたが、わりと平たい声で、ソロで歌うと少し寂しい。
やっぱり、二人の方がいい。
きれいなコーラスだった。

コーラスというと小学校の合唱で、上のパート、下のパートで分けて、どっちに行く?というのが最初だった。
メロディの方が得や…歌いやすい方がいい、という声は多かったように思う。
カウンターパートになると、どうしてもメロディにつられてしまう。

中学校に入って、フォークソングを聞き、ピーター・ポール&マリーやサイモンとガーファンクル、カーペンターズあたりから、コーラスはいいなあ、と思うようになった。
特にカーペンターズのコーラスはカレンの声を多重で重ねたもので、こんなにきれいなコーラスがあるのか…とため息が出た。

5thディメンションという黒人の5人組のコーラスも素晴らしかった。ソロのボーカルもすごかったが、バックの4人のコーラスは当時としては複雑な和音で(後にマンハッタン・トランスファーやシンガーズ・アンリミテッドという驚異的なコーラスグループが出てくるが)、何度もレコードを聴いたなあ。

シンプルなコーラスは、ビートルズのジョンとポール。
初期の曲での二人のハモりは本当に気持ちよい。プリーズ・プリーズ・ミーの出だしのところなど、この曲は二人のコーラスでもっている曲だなあと思った。

日本人では二人組時代のオフコース。女性ではシモンズの声がきれいだった。

高校時代の合唱コンクールは楽しかった。
3年の時は合唱組曲「富士山」というのをやったと思う。難しい曲だった。
ラララドミレシ♭…というでだしの部分は今でも覚えている。

今でもカラオケに行くと、コーラスパートを歌いたくなる。
メロディの三度上、ビートルズのポールが得意なパターンが好きだ。

以前は「想い出がいっぱい」というH2Oの曲が十八番だった。

息があったコーラスは本当に気持ちがいい。
ハーモニーは「調和」という意味だが、違う音が重なって気持ちよく響く。

一人より二人、二人より三人…。

コーラス…いつかやろう。

「いつか」は来るのかな?


| | 考えたこと | 20:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
らせんのミゾ
アイスキャンデーの棒というと、昔から平たい板と相場が決まっている。

今でもほとんどのアイスキャンデーは、昔ながらの角がとれた平たい木の棒である。

ところが、こないだ食べたアイスキャンデーは細くて丸いプラスチックの棒だった。
直径が5ミリ以下だろう。
なにげなく食べていたが、妙なことに気づいた。

棒には細かいミゾが切ってあるのだ。
らせん状のミゾである。
なんでそんなことが必要なのか、考えもせず、何となく不思議だなあ…と思っていた。

しかし、何にでも理由はあるのだ。

よく考えたら、こんなに細い丸棒にキャンデーを冷やしてつけたら、何かの拍子に抜けてしまうんだろう。

きっと最初は表面がつるつるの丸棒でやってみたと思う。
そして、工場で作っている時か、あるいは輸送する時に棒からキャンデーが抜ける、という問題があったに違いない。

どうしよう…。
困った人たちが工夫を考えたのだろう。

すごく細いミゾだが、実際にキャンデーを引っぱっても抜けない。
でも、キャンデーをらせんの方向に回すと、回転しながら抜けていく。
逆にいうと、ほとんど目で見てもわからないくらいのミゾだが、このミゾのおかげでキャンデーを回さないと、棒からキャンデーが抜けることはないのだ。

エライ人がいたものだ。
このおかげで、丸い棒でもキャンデーを作ることができる。

エコロジー面でどうなのかはわからない。

でも、工夫をすれば、解決が見つかる。

きっと特許を取っているに違いない。

たかがキャンデーの棒、されどキャンデーの棒。

必要は発明の母。
食べたあと、考えた人に拍手してしまった。


| | 考えたこと | 01:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
通信講座
一度だけ通信講座をやったことがある。
7年〜8年前になるか…。

英単語のコースだった。
4ヶ月ほどのコースで、最初の月はマジメにやった。

毎日CDを聞いて、ノートに書きまくった。
ちゃんとテストもやって、送付して添削もしてもらった。
点数はすごくよかったが、覚えた気がしない。

進歩が感じられないというのはつらい。宣伝ではどんどん覚えられることになっている。
そうなると、普通の人は覚えられるが、もう自分にはムリなのか…と思ってしまい、やる気がなくなっていく。

目的ははっきりしていたのだが…。

もちろん、テキストとCDは置いてあるし、いつでも始めることはできる。

エネルギーが必要である。
ほっておくと、エントロピーは増大して、何かに集中することはできなくなる…宇宙の法則に従ってしまう。

すぐに始めればいいのだ。残された時間はどんどん少なくなっていく。
それはわかっているけれど…本気でやる気がないというだけのことだろう。
言い訳だけは、山ほど並べることができるが、自分で自分に言い訳しても仕方ない。
これぞ、自己嫌悪。

なんで通信講座のことなど、思い出したのだろう…。



| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
ねずみ
まだ10月の下旬だが、年賀状の印刷のチラシが入っていた。
ぼちぼち来年の干支はなんやったかな…という季節。

来年の干支はねずみ。
「子」である。

関西では、母音を引っぱって、「ネェ」という。

「子」というと、思い出すのが、「高津の富」という落語。

金持ちになりすまして、宿屋に泊まった客が、宿屋の親父から、なけなしの金で富くじを買う羽目になってしまう。
そのクジが「子の千三百六十五番」。
これを関西弁で言うと、「ネェノセンサンビャクロクジュウゴバン」…そのままか。
最初の「ネェノ」というところにアクセントが来る。

六代目笑福亭松鶴が得意ネタにしていた。

松竹新喜劇(藤山寛美がいたころ)でも、この演題があった。

この「ネェノセンサンビャクロクジュウゴバン」が、一等の当たりくじになる。

金持ちを装ってはいるが、実際にはお金がない主人公が、クジの当選が終わって人がいなくなったころに高津神社にやってきて、「そういえば、ワイも一枚買わされたんや…」と言いながらこのクジを出して、当たりくじの番号を見る。

「えーと、一等が子の千三百六十五番か…、ワイのんが、子の千三百六十五番…当たらんもんやなぁ…」

ここで爆笑になる。
この落語の一番の場面。「当たらんもんやなぁ…」の前の間が難しい。

干支が「子」というと、この「子の千三百六十五番」という言葉が反射的に出てきてしまう。

来年は干支のかしらである「子」。
二番目の牛の背中に乗ってきて、ゴール手前で飛び降りて一番になった…と絵本に書いてあった。

もう、干支のことを考える季節か…。

それにしても、一年が早くなった。




| | 考えたこと | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
宵っぱり
ずっと宵っぱりで、夜更かしが得意だった。

金曜日の夜など、夜遅くなるほど元気になった。
撮りためたビデオを見たり、借りてきた映画を見たり、本を読んだり、ギターを練習したり…、眠るのがもったいない、という気分だった。

ところが、最近はダメだ。寄る年波には勝てない。
イスに座ったまま寝てしまうようになった。
眠くなったら寝ればよいのだが、今までの調子でビデオを見たりしていると、気がついたら寝ている。

本当に情けない。

中学校の深夜放送の時代から、夜型だった。
残業していても、夜10時を過ぎると乗ってきたりした。
夜、一人で残って書き物をしていたら、いい考えが出てきたりもした。

早起きは三文の得、という言葉にあるように、本来は朝型の方がよいのだろうと思っている。
それでもずっと、夜型でやってきた。
遅寝にも一文くらいの得はあるだろう。

今日はさっきまで中途半端に寝てしまった。

宵っぱりでいつづけることは難しい。

ずっとやってきたことができなくなるのは、寂しい。

これが年をとるということだろう。





| | 考えたこと | 01:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
組織
「組織」というものは人間が集まったら、当たり前のようにできるものだと思っていた。

でも、ある目的を達成するために作られた「近代的組織」というものの歴史はたかだか50年くらいだと有名な経済学者であるドラッカー博士は言う。

ずいぶん前に、渡部昇一の「ドイツ参謀本部」という本を読んだ。
これには、世界に先駆けて近代的な戦争を勝ち抜く知恵を持った、ドイツ参謀本部の歴史が書いてあった。
モルトケという名参謀がドイツで活躍したのが1800年代の後半だが、これを現代的組織のはじまりとしても、150年ちょっとの歴史である。

目的と意志を持ち、それを共有し、実行するために、権限と責任を持たせる…というような近代的組織はきわめて新しいものであり、人間が集まれば自然発生的にできるものではないということだ。

歴史によると、人間が集まって作られた組織は、まずは封建的組織、ということになる。
「エライ人」がいて、その人に従えばよい…という組織である。
そっちの方が圧倒的に歴史が長い。

カタチの上では封建的ではないが、実質的に封建的組織と言ってよいような組織は会社にもあるだろう。

それでも、役所や非営利団体に比べたらマシだと思う。

営利企業は、効率を求めないと潰れるし、大きくなるためには情報公開をしていかざるを得ないからだ。
いい加減なところもあるにせよ、健全性が求められるし、淘汰されていく。
そのためには、近代的にならざるを得ない。

「非営利」ということは何らかのタテマエがあって、そこに何らかの保護がある。
そのタテマエが曲者だ。
いつの間にか、タテマエが風化し、組織が生き残ること自体が組織の目的になってしまう。

いろいろな会社の悪事が表沙汰になるが、それは淘汰されているということであり、ある意味では健全なことだ。

本来、淘汰されるべきところでも、表に出ず残ってしまっているのが、「非営利」の恐ろしさだろう。

ドラッカー博士は、組織の目的の追求と、それに属している個人の幸福は同じ方向になると言っていると思う。
それは、近代的な組織だから…である。

何でも近代的ならいい、とは思わない。

でも、長いことそういう組織で働いてきたぼくにとっては、それは正しいことだと思える。

偏見なのかもしれないが…。




| | 考えたこと | 01:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
"a"と"the"
英語の教科書の最初に出てくるのが"a"である。

"This is a pen."で始めた人も、"I am a boy."で始めた人も最初のページに出てくる冠詞の"a"。

「ひとつの」とか、「ひとりの」とか…そういう意味だと習う。

最初のページに出てくるのに、最後までわからないのがこの"a"だろうと思う。
日本語に冠詞というものがないし、複数とか単数とかいう概念がないから、仕方がない。
わかりようがないのだ。

少したつと、今度は"the"が出てくる。
「その」というような意味だと習う。
"the book"は「その本」という意味で、話の中ですでに出てきていて、限定するときに"the"を使う、というようなことを習った。
だからといって、毎回"the"を「その」とは訳さない…。

そのうちに、たくさんあるもののうちの一つは"a"だ、などという解説に出くわす。

"a dog"というと、犬はたくさんいるが、そのウチの一匹だ。"dogs"とあったら、「犬というもの」というふうに、犬という種全体を表すのだという。
また、地球は一つしかないから、"an earth"とは言わない。"the earth"という…だんだんわからなくなる。

学校は"school"で"a"はつかない。学校という機能を表すのだという。
"a school"とか、"the school"というと、学校の建物を表す…困ったものだということになる。

ややこしいから、何でも自分のものは"my"をつけて、ぼくの鉛筆とか、ぼくの本とか…そういうことにして、"a"や"the"を避ける方が楽だと思う。わからないものは、使わぬにかぎる。

きっと、聞いている方は所有欲の強いヤツだと思うのだろう。
何でも、「ぼくの」をつけるのだから。
でも、日本語には"my"はあるので、わかりやすい。

「ぼくは、ぼくの鉛筆と本を持って、ぼくの学校に、ぼくの自転車に乗って行きます」

おそらく、一生かかっても、何気なく使われる"a"と"the"の細かいニュアンスはわからないと思う。

いま、「アメリカ人語」という本を読んでいる。
この中に、"a"と"the"の違いについて書いてあった。

読んだ時は「なるほど」と思うのだが、しばらくたつとわからなくなる。

とにかく、英語を話す人たちは"a"と"the"によって、かなりの意味を感じとっているということらしい。

冠詞など、適当につけているのだろうと思ったら、大きなマチガイのようだ。

最初のページにあるものが、一番難しい。
だから、教科書のあとのページでちゃんと説明できないのだろう。

せめて、どこかで「これは難しい」と言ってくれたらよかったのに…。

なぜ難しいかという説明すら難しいから、避けて通ったのだろうか。




| | 英語 | 00:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
失敗は失敗の元
岸田秀の文庫の中に、自らの人生訓が書いてあった。
それが、「失敗は失敗の元」。

フロイトを敬愛する心理学者らしい人生訓だと思う。
自分の死亡記事ということで書いた文章中にあった。

よく言われる、「失敗は成功の元」というのは、客観的な出来事に対して言われる言葉だと思う。
成功するはずの実験が失敗した…なんで?というところから、思わぬ成功が生まれるというようなことだ。

有名なポスト・イット(付箋紙)の成功も、最初から何度も貼ったりはがしたりするノリを作ろうとしてできたものではない…成功の元は意外と失敗の中にあるということだろう。
失敗した時こそ、成功のタネが潜んでいる…よくあることだ。
予期しない結果というのは、新しい発見のもとと言っていい。

でも、岸田先生の言っている「失敗は失敗の元」は人間の行動パターンのような、主観的なものについて言っていることだと思う。

人には無意識というものがあって、それは簡単に入れ換えられるような意識ではない。
もともと意識すらできないのだ。

その、無意識に主観というのは左右されている。

どういうワケか、同じ失敗をしてしまう…というのは無意識がそれを失敗と思っておらず、そうすることを望んですらいる…というようなことだから、「失敗は失敗の元」ということになる。

これこそ、フロイトが発見した「無意識」というものをひと言で表す人生訓、と岸田先生が思ったか、思わなかったか、それはわからない。

でも、きっとそれを意識して書いた人生訓だと思う。

逆の、成功は成功の元…これは言えないか。
成功は意志の問題でもあって、無意識は関係ない場合が多いから。

「失敗は失敗の元」、覚えておこう。


| | 考えたこと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
不思議なコード
習うたびに不思議だと思うコード(和音)がある。

今日はラスト・ワルツを習ってきたが、思わぬところで出てきた。
それがディミニッシュというコード。

ドからドまで、半音が12個ある。
ドを起点に、半音3つ離れた音を積んでいくと、ド・ミ♭・ソ♭・ラとなる。
これがディミニッシュと呼ばれるコード。
不思議な響きだが、思いのほかよく出てくる。

常に半音で3つ離れた音を重ねているので、ミ♭を起点にしても、ミ♭・ソ♭・ラ・ドとなって、ドを起点にしたコードを同じもの(もちろん、ベースの音は違うが…)になってしまう。
ということは、一つのコードで4つを表しているようなものになる。

これは、ギターでいうと、4フレット動かしても同じ構成音ということになって、すごくわかりやすい。

ラスト・ワルツでも、サビの部分のいいところで顔を出す。

ぼくは違うコードを当てはめていたのだが、先生はここはディミニッシュで…という。

鳴らしてみると、「あ、これや」という響き。

不思議なもので、前後の流れに関係なくこのコードだけを弾くとオカルト映画の効果音のような音がするのだが、曲の中でここというところで使うと、聞いている人をハッとさせる響きになる。

いまだに使うところがピンと来ないところが情けないが、不思議であると同時にステキなコードだ。

半音3つずつ離れた等間隔というイメージが、幾何学的な感じがして、頭の中では正方形のコードという気がしている。

正方形の響き…これがいいのかな。

| | 考えたこと | 01:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
ワルツ
ポップスでは、三拍子の曲は少なくなった。

クラシックやバロックの時代はもっと多かっただろう。
ダンスの音楽として、たくさんのワルツが作られたということもある。
フラメンコのように、三拍子の民族音楽もある。

でも、歌う曲としては、三拍子の曲は少ないような気がする。
統計をとったら、何らかの形で発表された音楽における三拍子の比率は、減少の一途をたどっているのではないか。
エイトビートという言葉はよく聞かれるが、シックスビートというのはあまり聞かない。

知っている範囲で古いところでは、プレスリーの「テネシー・ワルツ」、ビートルズの「ノルウェイの森」。
「ムーン・リバー」、「ケ・セラ・セラ」もそう。菅原洋一が歌っていた、「知りたくないの」もあった。
こないだ、NHKの朝のドラマで歌っていた五木ひろしの「ふるさと」も三拍子だ。

竹内まりや、aikoは時々三拍子の曲を書いているが、ユーミンは書いてないような気がする…。

ぼくが知っている中で、一番好きな三拍子の曲は、"The Last Waltz"だ。
エンゲルベルト・フンパーディンクという長い名前の歌手が歌っている、1960年代の曲。

 バンドが奏でる最後のワルツで、部屋のすみにいたシャイな女の子と踊って、恋に落ちた。
 それでも、さよならを言ってその女の子は去っていった。
 終わってしまって、何も言うことはない…でもラストワルツは流れている…。

そんな失恋の歌だが、メロディが素晴らしい。

これこそ、ワルツ…三拍子のベストだ。

そんな曲、ありますか?



| | 考えたこと | 23:38 | comments(2) | trackbacks(0) |
オチケン
昭和40年代には寄席の番組があって、テレビで上方落語が見られた。
六代目の笑福亭松鶴や桂米朝、三代目桂春団治、桂小文枝などが出ていた。

昭和40年代後半には笑福亭仁鶴が出てきて、ブームを起こした。
桂三枝も有名になった。

その頃から、落語研究会というものがいくつかの学校のクラブ活動にできて、略して「落研」というようになった。

こないだ、自己紹介をして、「落研をやってました」というと、「それ何?」という人がいる。
もう若い人の中には、「オチケン」という言葉を知らない人がいる。

大阪にオープンした繁昌亭はすごい集客らしいが、落語をしようという若い人は減って、みんな漫才やコントをめざすようになった。
着物を着て、舞台に一人座って話す、というタイプの芸が難しいのは事実だと思う。
今の笑いの主流は、短い間にいかにテンションを上げるか…というようなところがあって、それにはなじまないだろう。

落語をするよりも、レポーターみたいな仕事をしている落語家も多い。
明石家さんまが元は落語家だということすら知らない人が多いのではないか。
ラジオではやっているが、寄席にでも行かないと、触れる機会もほとんどない。

そんなこんなで、「オチケン」という言葉も通じなくなってきたということだろう。

ぼくらがやっている頃は、落語ブームの終わり頃だったが、それでも部員みんなで100円のチケットを売って、200〜300人の集客ができた。
ぼくにはなかったが、ファンクラブができている先輩や後輩もいたなあ…。
毎月やっていた寄席では、近所の常連さんもいて、60人ほどの会場に20人以上は来てくれていたと思う。

それでも、ぼくらの代に、春秋二回の寄席の会場を、それまでの大きなホールから、小さめの和室に変えた。
お客さんが減ったし(これは努力が足りなかった面もあるけど)、同じ人数でも小さめの和室ならウケるからだ。

その後、ずっとその会場で続けているようだが、部員も減ったようだし、部員ゼロの学年もあるようだ。
何度も存続の危機を乗り越えて、ようやく生きているという感じかな。
だから、「オチケン」という言葉が通じなくなるのもムリはない。

寂しい気はするが、それはそれでしかたがない。
やって、ウケたら、楽しいということを経験できたのは幸せだったと思う。

これからまた、落語研究会が隆盛を極める時期が来るのだろうか?
残念ながら、そうは思えない。
芸として、プロは生き残っていくだろうが…。

やるからには、笑いを取りたいし、そのためには落語は敷居が高くなった。
話しはじめて1分間で笑いがなければアウトという短期決戦の時代に、エンジンをかけるのにそれくらいの時間がかかる、という話芸は難しいだろう。
プロなら、最初からいけるのだが、アマチュアは難しい。
エンジンがかかってしまえば、面白くなってくるのだが、そこまで待てない。

笑いもファストフードの時代になっているからだ。

それらを突き破る、アマチュアでも勝負ができる新しいタイプの落語が出てくれば、また「オチケン」も復活できるかもしれない。

でも、それは「落語」の範疇に入るものだろうか…。

それでも、現役の部員たちにはがんばってほしいと思う。



| | 考えたこと | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
この世にないもの
ずっと前、この世にないものの存在を信じる人のことをリアリストというのだ、と書いてある本を読んだ。

それは、普通の考えとは違うことだったので印象に残っている。

普通はリアリストというと、現実的に考える人という意味で、この世にないものなど関係ないだろう…という気がする。

「この世にないもの」とは、人間の頭の中にしかないもの、という意味だ。
平和とか、愛とか、友情とか…そんな、手にとってさわることもできず、目で見ることもできないものだ。
自分が死んだ後の世界なども例としてあったように思う。

リアリストのリアルというのは、そういうものを「リアル」だと思えること、という定義だった。

それなら、ロマンチストではないか…と思ったが、もう10年以上も前にそう思ったことを覚えているのだから、よほど記憶に刻まれたんだろう。

例えば、「永遠の平和」というような言葉に実感を持てる人はリアリストだという。

リアリストは、現実主義者と訳され、現実にもとづいて物事を考え、処理するというのが通常の定義だから、そこには「この世にないもの」に関する考え方は入っていない。

さらに、現実主義の反対は理想主義だから、「この世にないもの」である「理想」にはもとづかないで、より実現できそうな手をうつのがリアリスト、というのが一般的な解釈になる。

でも、何が「リアル」なのか?と考えると、現実なんて、見方を変えればどうにでも見えるのだ。

結局、より実現できそうな「現実的な」手をうつためには、何か「この世にないもの」を信じていないといけない、ということなのかもしれない。
そうでなければ、何が「現実的」かすら、決めることができないのだろう。

やっぱり、「この世にないもの」は大事だと思う。

それが書いてあった本を思い出すことができないのは、残念だ。



| | 考えたこと | 02:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
cool
字幕の映画などを見ていると、よく"It's cool."という言葉が出てくる。

「カッコイイよね」というニュアンスで聞いていたが、場面によってはそうでもない。

「わたし、福祉施設でボランティアしているの」という言葉に対して、"It's cool."という。
カッコイイ、という感じではない。
スゴイ、ということでもないし、良いという感じでもない。

文字通り、それはクールだね、ということになる。当てはまる日本語が見あたらない。

でも、これはひょっとしたら今の若い人が使っている、「ヤバイ」に近いのではないか?

この料理はおいしい、というような場合にも、「ヤバイ」を使うとのこと。
ぼく自身はあまり聞いたことがないが、そういう用法になっているらしい。

レストランで料理を一口食べて、顔を上げて、"It's cool."というシーンがあるような気がする。

気に入ったものを見つけた時にも、「ヤバイ」を使うとのこと。

ウィンドウショッピングをしていて、気に入ったものを見つけて、"It's cool!"というのもありそうだ。

このまま10年ほどたつと、英和辞典で"cool"を引いたら、「ヤバイ」という訳語が出ているかもしれない。

それは、ぼくらにとっては、ヤバイことだが…。





| | 考えたこと | 01:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
もう一人のオフコース
オフコースというと、2人のバンドというイメージがある。

「さよなら」がヒットした頃には5人のバンドになっていた。

でも、ぼくが一番よく聴いた時期は2人の頃。

小田和正と鈴木康博の2人組だ。
1979年から5人のバンドになったが、2人で作った1973年の「僕の贈りもの」から「ジャンクション」までがオフコースという気がする。

あの頃は2人の唄はほぼ半々でアルバムに入っていた。

たしかに、小田和正の唄はあの頃からメッセージ性のあるものや、せつない恋の唄で、今のすごさを感じさせるものも多かったが、鈴木康博の唄もいい歌が多い。

「でももう花はいらない」「すきま風」「雨よ激しく」「Invitation」「潮の香り」など…。

何より、当時の2人のコーラスがすごかった。
どちらもハイトーンのきれいな声で、アカペラもやっていた。

鈴木のギターは、ウエストコーストという感じだった。時々エレキギターも弾いていたなあ…。

結局、オフコースが解散したのは、オリジナルメンバーの鈴木康博が、小田和正と合わなくなったからだ…と思っている。
当時、鈴木康博は、オフコースを解散して最初に出したLPで、技術的に可能になったコンピューター・プログラミングによる音楽作成の可能性を追求したかった、と言っていた。

オフコースの2人組はめずらしく2人とも理系だが、小田和正は音楽とコンピューターということについては、一貫して否定的だと思う。きっと、彼は音楽は人間がやるもの、と決めていて、コンピューターでプログラミングした音楽など、最初から気にもかけていなかっただろう。それが、天才の判断だ。

でも、鈴木康博は一度やってみたかったんだと思う。新しいことにトライしたい…と思ったのだ。

残念ながら、それはあまり成功しなかったし、結局は彼自身も、今は小田和正以上にアコースティックな音楽をやっている。

ソロになってからの鈴木康博は、商業的にはあまり成功していない。
時々、NHKのBSでやっている、懐かしのフォークソングみたいな番組に出てくることもある。

比べると、やっぱり小田和正はスゴイということだ。

でも、鈴木康博と組んだから、オフコースができたんだし、70年代のオフコースの良さはあの2人にあった。

今でもあの時代のオフコースを聴くと、いいなあと思う。

今年のクリスマスには、鈴木康博を呼んで、一夜だけでも復活してくれないだろうか…。

あのコーラスをもう一度聞きたい。



| | 考えたこと | 00:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
逆流
いつも行っているプールは、長距離を泳ぐレーンの左側がウォーキングのレーンになっている。

たいがい、お年寄りのウォーキング利用が一番人気で、そのレーンが一番混んでいる。

レーンは右側通行で、泳ぐ人も、歩く人も、レーンの中を反時計回りに回っているという状態。
ということは、25メートル泳いで戻ってくる時は、となりのレーンを反対向きに歩いている人とすれ違うことになる。

多い時には、10人以上の人がウォーキングしているのだが、そういう日は逆流の中で泳ぐのがしんどいことがよくわかるのだ。
プールの中を歩くということは、人間が水をかき回している、ということになる。
数人の人が連なって歩いていると、帰りの25メートルは同じように泳いでも、遅い。
逆流の中を泳いでいるからだ。

こないだ、泳ぎに行ったら、20人以上の人がウォーキングしていて、ホントに往きと帰りのスピードが違うのにビックリした。
泳ぎ始めてしばらくして、ペースが一定になってくると、よくわかる。
漕いでも漕いでも進まない…という感じ。

数えてみたら、25メートル進むのに1ストロークちょっと増えているのだ。
たった1ストロークなのだが…。体感上はすごく遅くなったように感じる。

空いていて、一定のペースで泳げる時と疲れが全く違う。
考えたら、陸上で、25メートル平地を歩いて、次の25メートルは登りを歩いているようなものだから、しんどいのは理解できるのだが…。

同じ距離を泳いで、エネルギー消費が多いのだから、運動のためにはいいかもしれない。

でも、普通に泳いだ時の、心地よい疲れにはならないなあ。


| | 考えたこと | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハニホヘトイロハ
音楽を習って最初に覚えるのが、ドレミファソラシド。
ソミミ ファレレ ドレミファソソソという「ちょうちょ」の音階は小学校以来頭から離れない。
ぼくらの頃は、ピアニカなどなくて、ハーモニカで吹いた。

ところが、小学校の高学年になると、「調」が出てくる。シャープやフラットがついて、音階が変わるのだ。
そうなると、ハ長調とか、イ短調、ト長調…というような言葉が出てくる。

ドレミファソラシドの一つ一つに、ハニホヘトイロハというカタカナをあてて、長調だの短調だのという言葉がつく。
ファの位置にシャープがあると、ト長調…どういうこと?となる。

何でハニホヘトイロハなのか…そんなことは考えずに覚えるしかなかった。
そもそも「調」を覚えることに意味があったのかどうかわからないが…。

中学の2年になって、ギターを始めた。
まずはコードを覚える。
ドミソはC、ソシレはGというふうに覚えていく。
ギターの雑誌を買って読みはじめ、コードの体系ではドレミファソラシドはCDEFGABCであることがわかった。

ここに来て、初めてハニホヘトイロハの謎が解けた。

ABCDEFGをイロハニホヘトで置き換えて、Cから始めるとハニホヘトイロハになる。

なるほど、ABCをイロハで置き換えて、英語の調(キー)を日本語にしたのか…。

もし、置き換えたときに、アイウエオの世界になっていたら、どうなっていたのだろうか。
ABC…を、アイウ…で置き換えて、Cをドにすると、ウエオカキアイウになる。
ハニホヘトイロハは耳についているから違和感がないが、ウエオカキアイウは何とも間が抜けているように思えてしまう。

ハ長調はウ長調になり、ト長調はキ長調になり、ト音記号はキ音記号になる。
キ音記号になると、気温記号と間違えるかもしれないなあ。

ちなみに、今のポップスの世界では、Cはシー…というように英語読みだが、オーケストラの世界ではCはツェーというらしい。ドイツ語読みなのか。

そうなると、Aはアーになり、Amはエーマイナーではなく、アーマイナーになるのだろうか…と思っている。
ホタルの歌の、あっちの水はアーマイナー…というくだらないシャレが頭を離れない。

そういえば、ドレミの歌の出だし、ドレミ ドミドミを日本語にすると、ハニホ ハニハニになる。

何となく、ハワイ風になって、アルプスがワイキキビーチになるような気がしませんか?



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エントロピー
以前、月に一度遠くまでクルマで出張していた。
当時は高速も整備されておらず、片道12時間かけての移動だった。
もう20年くらい前か…。

H君という新入社員と一緒だった。
若手は古い社員と同じクルマで移動して話をする、というならわしだった。

H君は熱力学をやったという。エライやつだった。
「熱力学」という言葉を聞いて、前々から知りたかったことを彼に聞いた。

「エントロピー」という言葉がある。
高校で習ったが、意味がわからないまま卒業した。
たしか、熱と関係があったような…という記憶だったが、ナゾを解くチャンスが来たのだ。

H君によると、エントロピーとは、あるがままにしておくと時間とともに増えていくというものらしい。

どういうことか?と聞くと…。

どんどん来る書類を、そのまま積んでおいたらどうなりますか?とH君は言う。
何も整理されておらず、バラバラになる…というと、宇宙は時間が経つとそういう状態になる、というのがエントロピー増大の法則だという。
要は、何もせずに時間が進んでいくと、未整理の状態になるということらしい。

たくさんの書類が整理されて、ファイルに分かれている状態は、エントロピーが低い。
エントロピーを低くするためには、分類するためのエネルギーが要るということだ。

だから、エネルギーを与えないで、時間だけが経過するとエントロピーが増えていく。
エントロピーを低くするためには努力が必要だという…。

その時に、「永遠の時間」という項目を入れた熱力学というのは、変わった物理やな…、とH君に言ったおぼえがあるが、彼は、「はあ、そうですかね」という返事だった。

時間とともにエントロピーが増大する…これは熱力学だけではない真理のような気がする。


| | 考えたこと | 12:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
出張帰りの楽しみ
略してスタバという。
関東でも同じように略すのだろうか。

3年ほど前に子どもに連れられていったのが最初。
その時に始めてカフェラテという飲み物を知った。

あまりコーヒーは飲まなかったのだが、それ以来カフェラテを飲むようになって、コーヒーもおいしいなあと思うようになった。
家の近所にはドトールができて、そこでもカフェラテが飲めるようになった。

でも、やっぱりスタバの方がおいしい。

しばらく前に見つけたのだが、新大阪の駅にもスタバができている。
おみやげの店の奥の方にあって、看板に気がつかないとわからない。
テイクアウト専用の店。

東京に出張すると、たいがい帰りは夜遅くなるが、開いていたら寄ることにしている。
新幹線から降りて、カフェラテのショートを頼んで、歩きながら飲む。
飲むと、しぜんに「ふー」という息が出る。

新幹線で寝たり、本を読んだりしながら帰ってきて、新大阪に着くとホッとするのだが、その時に飲むカフェラテは格別だ。
東海道線のホームに降りて、空いていたらベンチに座って飲む。

東京の出張に、ちょっとした楽しみができた。

| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
イベント
前々から準備してきたイベントが終わった。

たくさんの来場があって、よかったと思う。
今日はひそかに自画自賛した。

人は何かを聞いているようで、聞いていない。
世代が違えば、言葉も通じない。
聞こうとしなければ、いくら届けようとした言葉も伝わらない。
届くように伝えないと、伝わらない。

6月にそんなことを考えさせられた。

だから、どうやったら届けられるのかを考えた。

具体的にできることを伝えること。
知りたいことを聞き出すこと。
確実に答えを知らせること。
他の人が何を考えているのかを教えること…。

そんなことをやってきて、今日を迎えた。

本当はまだまだだと思う。

人に言葉を伝えるのは本当に難しい。
話して、聞くのは簡単だが、わかってもらうことは本当に難しいと思う。
それが、未知のことなら、なおさら難しい。

時間をかけて、やっていかないといけない。

少しずつでも、前向きに…。

| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
For Once in My Life
久しぶりにスタンダードナンバーについて書く。

"For Once in My Life"という曲、あまり馴染みがないかもしれない。
最近までこの曲は知らなかったが、有名なところでは、スティービー・ワンダーが歌っている。

ただ、スティービー・ワンダーが歌ったこの曲は、アップテンポのアレンジで、ちょっと違うという感じ。

スティービー・ワンダーが歌う前には、トニー・ベネットが歌ってヒットさせたとのこと。
1966年だから、もう40年以上前になる。

昨年出た、トニー・ベネットのCDにこの曲が入っていて、それはスティービー・ワンダーとのデュエット。
これが素晴らしい。

ゆっくりしたバラードで、半音ずつ上がっていくコード進行が泣かせる。

「一生に一度」という題名らしい歌詞で、60年代の純粋なポップス。

一時、こればかり聞いていて、ギターの先生にもコードをつけてもらった。
楽譜にコード進行を書いて持っていったが、だいぶ直された…。

トニー・ベネットは「霧のサンフランシスコ」で有名だが、本国のアメリカでは本当に大御所だ。

最近子どもの影響で、新しい曲を聴くことが多いが、やっぱり古いスタンダードはいい。

もう年だということか。
でも、スタンダードはエバーグリーンともいわれる。

いつまでも緑、年をとらないという意味だ。

そうありたいと思うが、年々時間が過ぎるのが早くなる…。

今夜はトニー・ベネットを聴いて寝ることにしよう。



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10月
今日から10月。
暑い夏もようやく終わりを告げそうな気配。

やっと上着を着ても汗をかかなくて済みそうな気温になった。
夜は少し寒いくらいになって、ようやく秋という感じ。

昔、トワ・エ・モアという男女2人のグループが歌っていた「誰もいない海」という唄を思い出す季節だ。

 今はもう秋 誰もいない海〜

という出だしで始まる。
たしかに誰もいない海は、秋を象徴的に表しているし、寂しい季節ではあるが、この唄はなぜか重たい。
その寂しい海に、「死にはしない」と約束する…という唄だった。

秋というと、「小さい秋見つけた」という童謡や、「秋の気配」というオフコースの唄が出てくる。
シャンソンの「枯葉」は11月か…。

9月は、ユーミンの「9月には帰らない」とか、竹内まりやの「セプテンバー」とか、寂しい中にも明るい感じの唄が多い。
夏のなごりが残っていて、残暑の気配がある。
まだ9月は明るいのだ。

それに対して、10月、11月は一番過ごしやすい季節だが、心寂しい季節でもある。

それにしても、あっという間に今年もあと3ヶ月。
どんどん時間が経つのが早くなる。

今から年末は、いろいろと忙しい季節でもある。

夏の疲れと寝冷えに気をつけて、がんばりましょう。




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