考えたこと2

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アベノミクス解散
今回の解散はアベノミクス解散らしくて、選挙の争点はアベノミクスを継続するかどうか、ということらしい。

しかし、アベノミクスが何かわからないのに、争点もクソもないと思う。
特に第三の矢である成長戦略というものが放たれているのか、それともまだ出していないのか、それもわからない。

要は日銀が金融緩和して、国債を買い、さらに、国民のためた年金で株を買って株価を上げ、あふれたお金で円安になった、ということがアベノミクスの結果だ。

株価は17000円になり、1ドルは117円になった。

円安になって、輸出企業は儲かったが、輸入の原材料や電気代は(原発を止めていることもあり)上がって、中小企業は苦しくなった。
今や円安になっても貿易収支は赤字で、日本の企業のグローバル化が進んでいることが判明した。
いくら円安になっても、少子化が進み、人口が減って市場が縮小する日本には工場をなかなか戻さないだろう。

円安になって、外国からのツーリストは増えたらしい。
おみやげの日本製の腕時計は足りないから、急いで作っている。

肝心の成長戦略というのが何もない。
規制緩和がまずやるべきことだと思うが、役人はまずやってみよう、という感覚は全くない。
省益を第一に考えているのだろう。

12月2日に公示予定だ。

これといった争点もないし、議員の皆さんは本当にやる気があるんだろうか。

規制緩和や新たなルール作りの案もないのなら、経済成長などムリだろう。
いくら金融を緩和しても、それだけで経済成長などできないと思う。
実際、今市場にお金はあふれているはずだ。
それでも、みんな設備投資をしようとしないし、新たな事業を起こそうともしていないように見える。

中小企業はどちらかというと困っているようにも見える。
石油の値段が下がっていることくらいが、追い風だろう。

難しいことはわからないが、そもそも経済成長はどうやってやるのか。

誰か選挙で言ってくれ。



| | 考えたこと | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヴィーガン
ヴェジタリアンのことを調べていたら、ヴィーガンに行き当たった。

ヴィーガンというのは、「食事だけでなく、衣食住の生活全てにおいて極力動物性の使用を避ける。完全ヴェジタリアンとも呼ばれる」という人らしい。

ヴェジタリアンにもいろんなレベルがあって、その中ではヴィーガン(Vegan)が一番ランクが上になる。
動物や魚の肉は食べないし、乳製品も卵もハチミツも食べない。
そのうえ、革製品やシルク、ウールなどを身につけないらしい。
これはスゴイ。

その下にはダイエタリー・ヴィーガンというのがいる。
食べ物は菜食主義だが、身に付けるものなどは動物性のものでもOKというランク。

その下が普通のヴェジタリアン。
乳製品はOKという人はラクト・ヴェジタリアンで、更に卵もOKという人はオボ・ラクト・ヴェジタリアンという。

ヴェジタリアンでも魚はOKという人もいる。
それはペスクタリアンという。

だいたい、国際ヴェジタリアン協会が決めているのはそんな感じだ。

それにしても、日本にはヴェジタリアンは少ない。
肉を常食する人が少ないし、魚とか豆腐とかをメインで食べているから、それほど意識していないのかもしれない。
ヴェジタリアン用のメニューというのが書かれているレストランは見たことがないし、ヴェジタリアンを名乗る人も見たことがない。
日本の風土では宴会などの時に、私はヴェジタリアンなので…、などとなかなか言いにくいのかもしれない。
だから、隠れヴェジタリアンという人もいるのかもしれないが…。

会社にいた時に、外国から来たヴェジタリアンの人を接客するのに、レストラン(そこそこいいとこ)に頼むと配慮してくれたから、そういうお客さん用のメニューというのは用意してあるのだろう。
でも、市民権を得ているとは言い難い。
英語版のメニューには出ているのかもしれない。

こないだアメリカのヴェジタリアンどうしの会話を聞いていたら、「食べる量を心配しないでいい」というのがいいところだ、ということを言っていた。
こういうのはダイエタリー・ヴィーガンというのかな。

アメリカとヨーロッパでは市民権を得ているようだ。

ヴェジタリアンは、はたしてアジアで市民権を持つだろうか…。



| | 考えたこと | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
ダイエー
昨日の夕刊にダイエーの名前がなくなると書いてあった。

イオンの完全子会社になるとは聞いていたが、今日の臨時株主総会で名前も消えることに決まったらしい。
ダイエーというと、ぼくが小学校の低学年の時に初めて近所にできた。
遠足の時におやつはいくらまでと決まっていて、それをダイエーで買うと安いということで、友達と買いに行ったことを覚えている。
1つ余分に買えるほどは安くなかったが…。
でも、きっとそんな小学生はたくさんいたはずだ。

全盛期には神戸の三宮にも3つくらい店舗があった。
ホテルもやっていたし、新神戸のOPAもダイエーだった。
儲けたお金の使い道に困るほど、儲かっていたのだろう。
西区の流通科学大学も、ダイエーの創始者、中内さんが作った。
プロ野球のホークスのオーナーだった時期もある。

一時はプライベートブランドの家電製品もあった。
まさに、日本の小売業界の歴史の中の1ページを作ったのが、ダイエーだったと言ってもいい。

しかし、事業を広げすぎたのだろう。
時代も変わった。
Webによると、バブルの崩壊で地価が下がり、それが原因で業績が悪化したということらしい。
たしかに、時期を同じくしてダイエーの落ち目は始まったような気がする。

落ちはじめると、早かった。
そして、2005年に中内功が亡くなった。
今はイオンの傘下になった。

神戸で生まれたダイエーがなくなるのは、残念だ。

実はダイエーの株を買って、ダイエーで買ったら5%割引のカードをもらったところだった。
ギリギリ間にあって、半年だけ使える。
なかなかいい株主優待だと思うが、もうダイエーの株はなくなってしまう。
記念にとっておこう。

名実ともに、ダイエーはなくなる(実際にはもうなくなっているのだが…)。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」

方丈記の最初の文章。
鴨長明が1212年に書いたものだが、今も日本人の「無常」を思う気持ちを表していると思う。
カタチのあるものは、全てなくなっていくのだ。

調べてみると、ダイエーは1957年生まれでぼくと同じ。
同じ神戸生まれで、57歳になる。

ダイエーの栄枯盛衰とともに、ぼくは人生を歩んできた。

あの小学校の遠足の時におやつを買いに行ったダイエーが懐かしい。


| | 考えたこと | 00:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
The Guilt Trip
バーブラ・ストライサンドというと、「追憶」で有名。
シンガーが本業かもしれない。
その彼女が2012年で主演した映画。
当時69歳だが、とてもそうとは思えないほどきれいだった。

日本では上映されていない。
WOWOWでやっていて、面白そうだから録画して見たが、なかなかいい映画。
でも、ネットで見たらあまり評価は高くない。

ぼくは好きだ。
これはロードムービー。
映画全体が旅になっている。

旅は日常から離れる機会。
そういう時には何かが起こる。
それが面白い。

息子と母親という珍しい取り合わせ。
過保護で子離れできなかった母親が、離れている発明家の息子(有機化学者)の洗剤の売り込みにつきあって、東海岸から西海岸までドライブする。

実際には、旅の終点のサンフランシスコでは、息子の仕事はない。
母の昔の恋人をネットで探し、独身の彼ともう一度会わせるという計画だ。

例によって、途中で母と息子のケンカがあり、仲直りがあり、テキサスでは1.5キロのステーキを完食するというイベントもあって、楽しめる。
クルマで走っている場面が多いが、景色が楽しい。
アメリカは広いから、雪が降っているところもあれば、真夏のようなところもある。

クルマの中では、母が持ち込んだ本の朗読のCDを聞く。
最初は嫌がっていた息子も、最後は一緒に聞いている。
アメリカにも、ああいうのはあるのか。

邦題が「人生はノー・リターン 〜僕とオカン、涙の3000マイル」という題名。
これがいただけない。
こんな題で見たいと思うだろうか…。

それが残念。

完全にハッピーエンドとは言えないが、いい映画だった。


| | 映画・舞台 | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
衝突予防
ぼちぼち技術の進歩に伴って、車両保険の対人、対物の保険料も変わってくるかもしれない。

自動車メーカーは各社とも、衝突予防のシステムの開発を進めている。
もちろん、今持っているシステムはあるが、その機能を上げていくということだ。

コストの安いシステムは赤外線レーザーを使っている。
軽自動車だ。
誤発進や衝突回避のためにブレーキをかけたり、アクセルを制御する。
主に速度が低い時しか使えない。
コストを下げるために、近距離しか使えないためだ。

高い車はミリ波レーダーやカメラを使う。
この分野は日進月歩だ。
今までミリ波レーダーでは歩行者は感知しにくいとされていたが、何とかメドが付いたらしい。
夜中でも使えるし、遠距離まで感知できるから、速度が高くなってもOKだ。

車線維持はカメラでないとできない。
白線を見ないといけないからだ。
だから、カメラとミリ波レーダーというのが、今のところ一番の組み合わせ。

前だけではない。
後ろも見ている。
だから、バックミラーを見たら、死角にクルマがいても、警告灯がついてミラーに映っていなくても危ないぞ、と教えてくれるシステムもある。

これらの装備がついているクルマが世の中にあふれてくると、いよいよ事故は減るだろう。
歩行者がいて、危ないと思ったらクルマが教えてくれて、ブレーキやハンドル操作をする時代。
夢にみた自動運転の時代が近づいた。

10年前でもここまでは思っていなかった。
2010年近くなって、実現が目に見えてきたと思う。

クルマは今よりもっと安全な乗り物になるだろう。

そしてエネルギー源も水素や電気に変わっていくだろう。

20代のころ、新しい車が出るたびに、スタイルだけでなくエンジンやサスペンジョンなどに感心していた。
主に速いことが価値だった。

それが、最近は速くかつエコであること、安全であることが価値になってきた。

いいことだと思う。

次はハンドルがない車だろうなあ。
もう試作車はできているらしい。
生きている間に商品化されるかな…。

ただ、ハンドルがないクルマを、はたしてクルマといっていいかという問題は残るが…。

| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
生物
ドラマで木のDNAの分析の場面があった。

スズカケノキという種類の植物。果実の丸いぼんぼりのようなものが吊り下がるのが特徴。
殺人現場にあったスズカケノキの果実と、容疑者の家の庭にあるスズカケノキの果実のDNAを調べるということだった。

遺伝子の仕組みなどは動物も植物も変わらない。
個体識別に使えるということだ。
DNAが一致したら、殺人現場と容疑者の家の庭はつながっている、ということになる。

高校1年の担任は生物の先生だった。
だからというわけではないが、ぼくは生物はわりと好きだった。

ただ、植物の名前などはダメだ。
なんという植物がいつ咲くか、というようなことは全くわからない。
わかるのは、サクラぐらいかな。

動物はまだまし。
オオカミがイヌ科でトラやライオンはネコ科ということくらいはわかる。

ぼくが面白かったのは、物質交代。
昔は新陳代謝と言っていたらしいが、ぼくらの高校時代には物質交代という名前になった。
身体を維持するために、細胞のレベルで化学変化が起こる。
これを物質交代という、というようなことだと思う。

アデノシン3リン酸がアデノシン2リン酸になって、エネルギーが出る。
これを化学反応を物質交代と呼んでいる。
人間の、というか生物の身体が動くためのエネルギーは、そういう仕組みから生み出される。

その先生が、人間の身体は全て化学変化で出来ている、と言った。
神経が電気信号みたいなものを伝えるのも化学変化だし、記憶のために脳の中のシナプスが切り替わるのも、最終的には化学変化になっている。

要するに、人間は有機物でできていて、化学変化によって動いているということだ。
最終的に頭で考えたり、心で思ったりすることも、煎じつめれば化学変化になる。

それがぼくが生物を習って、一番大事だと思っている結論。

生物はどうして心を持つのか、不思議だ。

| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
ベジバーガー
アメリカは肥満が多く、不健康な国だ。
多くのファストフードやジャンクフードがアメリカ生まれであり、そのせいもあって、たくさんの人が太ったのだろう。

でも、それを多くの人たちが認識していて、カロリーの高いものを食べないようにしようとしているのも事実。

知らなかったが、ベジバーガーという食べ物がある。
ベジはベジタブルのベジ。

ドラマの中で、車で通勤中の若い男性に、職場の女性から「店に寄ってベジバーガーを買ってきてちょうだい」という電話があった。
「わかった。ドライブスルーで買っていく」という返事だったから、ファストフード店にあるのだろう。
日本ではまだベジバーガーというのは一般的ではない。

Wikipediaで調べると、「ヴェジーバーガー(Veggie burger)は、原材料として肉を含まないハンバーガー状のパティである。通常は、野菜、豆果、ナッツ、きのこ、大豆、小麦、卵などから作られる。2005年4月から、アメリカ合衆国のバーガーキングや系列のHungry Jack'sでヴェジーバーガーがメニューに加わった。また、一部のサブウェイやハードロックカフェ等でも売られている。
典型的なベジタリアンの食事。ヴェジーバーガーとフライドポテトとサラダ。
インドのようにベジタリアニズムが広がっている地域では、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンでもヴェジーバーガーが供される。
肉を使っていないハンバーガーは世界中のスーパーマーケットで扱われ、簡易な調理ができるものも売られている。」となっている。

ベジタリアンが多い地域では、ファストフード店もベジタリアンが食べられる主力商品が要るのだろう。
日本にはベジタリアンというのはほとんどいない。
アメリカやヨーロッパには、実際いた。
会食時には、ベジタリアンを考慮してメニューを組んでいたりする。

同じベジタリアンでも、乳製品を食べる人とか、乳製品もダメという人や、バリエーションがある。
一番きついのは、一切の動物性のものは食べない、という人で、乳製品もダメで、ミルクチョコレートもダメという人もいた。
不思議なのはその人が結構太っていたことだが、摂取カロリーの量とベジタリアンは関係ないようだ。
動物性のものを食べないといって、摂取カロリーが少ないとは限らない。
しかし、ミルクを使ったクッキーとかまでダメということになると、一体何を食べるのだろうと思う。

宗教的なものもあったりして、インドでは31%がベジタリアンらしい。

日本ではあまりベジバーガーというのは一般的ではないが、ぼちぼち出てきてもいいと思う。
ダイエットのためになるぞ。
マクドナルドの不調を補うための手にもなる。

いいのではないか。

| | 考えたこと | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
私の口紅どう?
アメリカのドラマを見ていると、時々面白いセリフがある。

犯罪現場のアパートメントの浴室に入った女性のチーフと女性検事の会話。
しげしげと浴室の鏡に映った自分の顔を見て、チーフが言う。

「私の口紅どう?」

女性検事はちょっと返事に戸惑いながら、

「あのー、友人としてですか?部下としてですか?」

この返事を聞いただけで、口紅は似合ってないと思っているのがわかる。
女性検事はこう続けた。

「あのー、その服のことも言っていいですか?」

チーフは自分の派手なブラウスをじっと見る。

それでその場面は終わる。
ナイスカットだ。

こういうのはホントにさり気なく面白い。


| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
チャーチルの言葉
チャーチルというと、イギリスの名宰相。
第二次大戦をイギリスの勝利に導いた人だ。

この人の名言はたくさんある。

「成功は決定的ではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは続ける勇気だ」

「全力を尽くすだけでは十分ではない。時には必要なことをやらなければ」

「築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る」

などなど。
どれも含蓄がある。

その彼がこんなことを言っているらしい。

「選挙に立候補する人は、自分も含めてロクな人はいない。その中から相対的にマシな候補者を選び続ける忍耐を、選挙と呼ぶのである。従って民主主義は最低の政治形態である。ただし、過去の王政や皇帝政などを除いては」

いろんな考えの人が集まった国の形として、民主主義というのは最悪だという。
最悪だと思うが、それでも他のすべての形態よりはマシだということだ。
絶対的にはよくないが、相対的には、現状のベストだという。
さすがに民主主義が生まれた国の宰相だ。

そして、選挙は忍耐だという。
たしかに、候補者にはろくなのがいない。
特に小選挙区制になってからは、入れたい候補者が選挙区にいないことが多い。
二大政党制を目指しながら、まだまだいろんな政党が乱立している。
それらが選挙協力をする。だから、こんなことが起こる。

入れたい候補者がいないから、どうしても行かない人が増えるのではないか。
候補者の街頭演説なども減ったと思う。

いくら忍耐と言ってもなあ。

ライフネット生命のCEO、出口治明さんがさっきのチャーチルの言葉とともに、こんなことをブログに書いていた。

「仮に、3党合意というこの国の貴重な政治遺産を手放すというのであれば、この国の先行きに一抹の不安を禁じ得ないものがある。50兆円の税収で100兆円の歳出。加えて、1000兆円を超える借金が、1分間に6000万円のスピードで増殖していく。それを支えるべき子供や孫の世代は少子高齢化で縮んでいく。この国は本当に大丈夫なのだろうか、という問題である。」

ごもっとも!

| | 考えたこと | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
投票率25%
尼崎市長選挙の投票率は25%だった。

4人のうち3人が投票に行かなかったという状況。
ぼくも行く気がしなかった一人。
セミナーで大阪に行って、帰ってきて、夕方行こうと思えば行けたが、事前に公約を見て、行く気がなくなった。
申し訳ないと思う。

有権者が約37万5000人で、投票者が約9万6千人。
当選した稲村氏が70642票、落ちた広瀬氏が23585票、無効票が2154票という内訳。

約27万人は、どうせ何も変わらないと思って投票に行かなかったか、あるいは選挙にまったく興味がない…というところか。

今の日本では、投票率はいくら低くても選挙は成立する。
そういう仕組みなのだ。

Wikipediaによると、投票率の項に最低投票率という欄があり、そこにこう書いてある。

「投票率は、その選挙自体に対する関心を表すものの1つであり、投票率が著しく低い場合には選挙の正当性に疑問を投げかけられる場合がある。」

まさにそういう事なんだろう。
衆院選と同じく、選挙といっても大きな争点はない。

今回の選挙でも、対立候補が市政に関わっているのなら、争点をいくらでも作れたはずだ。
ところが、対立候補の公約は大雑把すぎてよくわからないし、現市長に対する批判もないし、自分が市長になったら、これを目指すというものもない(ように見える)。
通ったらうれしいが、通らなくてもいいと思っているようにも思える。
でも、出たのはエライと思うが…。

オーストラリアのように、棄権したら罰金という選挙の義務化をするということでもしないと、この傾向はどうにもならないように思える。

元々、参政権が連合軍から与えられて、たくさんの人が選挙に行けるようになった時、同時にアメリカ流の民主主義教育も実施され、みんな選挙に行くのが当たり前と考えていたのだろう。
豊かな国は、国民が現状に満足しているから、選挙に興味がなくなる傾向がある。
今の日本は、何やかやいっても、豊かなんだろう。

もう少ししたら、財政がどうかなるかもしれないし、世代間格差が広がって、若者が立ち上がるかもしれない。

今の日本の教育が、若い人たちの政治のリテラシーを育てているとも思えないから、苦しいが…。


| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
ダイナー
ダイナーというのは、アメリカの安い食堂のこと。

Wikipediaでダイナーを引くと「北アメリカに特有のプレハブ式レストランである。特にロングアイランド、ニューヨーク、ニュージャージー州、およびアメリカ東海岸北東部に多いが、アメリカおよびカナダ全土で見られる。プレハブ式ではない一般的な建物であっても、伝統的なダイナーの料理に類似する料理を供するレストランがダイナーと呼ばれることもある。ダイナーの主な特徴は、アメリカ料理を中心とした幅広いメニュー、気取らない雰囲気、カウンターのある店内、深夜営業である。」

プレハブ式のレストランと書いてあるが、ドラマで見ると電車の車両状のコンテナのようなところが多い。
座席が電車の席のように並んでいて、その向かいに厨房とカウンターがある、という感じ。
安くて、手軽に、おいしい料理を食べるところ。
その代わり、カロリーは高く、健康にはあまり良くない。

こないだ、コロンボの再放送を見ていたら、大きなステーキを出すダイナーが出てきた。
網のカタチの焦げがついた肉で、本当に美味しそうな焼き具合。
つけあわせの豆もほうれん草のような野菜をグリルしたものも、見るからにおいしそうだった。
でも、こんなのばかり食べていると、血管が詰まるぞ、という感じだったなあ。

前にも書いたが、ハードボイルドの小説にはダイナーがよく出てくる。
不健康なものがおいしい。
クリームやジャムたっぷりのパンケーキ、よく焼いた肉が載ったバーガー、カリカリのベーコンと両面を焼きのエッグ、特大のアイスなど、アメリカらしい料理が出てくる。
ああいうのを見ると、本当に食べたくなる。
そういう意味では、アメリカ人はダイエットはしにくいだろうなあ。
あのカリカリに焼いたベーコンのニオイには勝てない、と思う。

アメリカに行った時に、スポーツバーには行ったことがあるが、ダイナーには行ったことがない。

あのダイナーでハンバーガーやステーキを食べたい。
薄いコーヒーを何杯もおかわりして、長いことねばる。
時間をおいて、アイスも頼む。

死ぬまでに一度、そんなことをしてみたい。


| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
ポピュリズム
ポピュリズムという言葉がある。
Wikipediaを見ると、本来の意味は違うようだが、日本では「大衆迎合」という意味でも使われるらしい。
そういう意味では、今回の衆院選挙はポピュリズムの極致だと思う。
何だかワケがわからないが、本当に衆院を解散して、解散総選挙をするらしい。
「消費税増税凍結に関して国民の信を問う」ということらしい。

争点は何なのだろうか。
自民党も民主党も公明党もみんな消費税の増税を凍結するというのなら、選挙などやる必要はない。
三党がもう一度集まって新たな合意を作ればいいのだ。
消費税を上げようと思っていたが、景気がアベノミクスでも良くならないので、上げるのは延期する、ということにすればいい。
三党ともそれはやりたくないらしい。
だから、選挙をするということか。
単に、自分たちの失敗を認めたくないから、選挙をするというだけではないか。

いったい財政の健全化はいつどうやってするつもりだろう。

これから高齢化が進んで制度が破綻している年金制度をどうするのか。
増え続ける医療費をどうするのか。
なにより増え続ける国債をどうするつもりなのか。

その道筋を早めにつけないと、財政が破綻するぞ。
今日のニュースでも、識者たちは税率を上げるべき、と言っていた。

耳障りのいい、増税凍結などという公約ではなく、責任をもって国の財政を健全化するという政党はないのか。
そんな公約をかかげる政党がないとすると、国民は不幸だ。
若い世代が気の毒なことになる。

今の中年以上の世代が積み上げてきた借金は、ぼくらが生きている間に返済のメドを付けないといけないと思う。
団塊の世代やそれに続くぼくらの世代に向かって、今は国が苦しいから、ガマンしてくれ、と言わないといけないと思う。

もうこれ以上あとに伸ばすのはムリだろう。
国債の残高が、国内の個人資産の額に近づいてくる。
その個人資産は、これから団塊の世代が引退して減少しようとしている。

政治家はみんな自分が選挙で通ることしか考えていないのだろう。

ぼくは財政の健全化が優先順位1番だと思う。
それは世代間格差を縮める方向にもつながる。
でも、そんなことをいう政党はない。

民主主義というのは、国民が「この人(政党)なら任せられる」という人に投票して、その人に高度な政治判断はお任せする、という側面があると思う。
そんなに難しいことはぼくらはわからないし、情報量も少ないし、政務調査費などというお金もない。
それらがちゃんとできる人たちが、選ばれて、時には国民に負担を強いるようなことでもやるのが民主主義というものだ、と思う。
その調査費を選挙区に還元するのは、観劇などではなく、政策をもって還元するのが当たり前だろう。

財政状態の建て直しをしているイギリスは、庶民が苦しくても緊縮財政を続けている。
政府債務がGDPの110%でもそれをやらないといけないとわかっているのだ。
さすがに民主主義の本家だけのことはある。

一方、日本ではGDPの200%をはるかに超えた政府債務を抱えているのに、政治家自らが消費税増税を凍結しようとしている。
国債の金利が上がり、国が借金を返せなくなったら、札を刷って返せばいいと思っているんだろうか。

残念だ。



| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
オブラディ・オブラダ
オブラディ・オブラダというと、ビートルズの曲。
ホワイトアルバムに入っている。

このオブラディ・オブラダという言葉の意味は知らなかった。
こないだ、ドラマを見ていたら、「オブラディ・オブラダ」というセリフに「それが人生よ」という字幕が出た。
ほう、そういう意味だったのか、と思って調べてみたらどうも意味はないらしい。

Wikipediaによると、「ポールが当時よく通っていたクラブThe Bag O'Nailsに出演していたナイジェリア人のコンガ奏者ジミー・スコットがよく口にしていたフレーズが『Ob-La-Di, Ob-La-Da』だった。彼のバンド仲間は「ジミーはあのフレーズを連発していたよ。ナイジェリアのヨルバ族に聞いてみな『Ob-La-Di, Ob-La-Da』は『life goes on(人生は続く)』という意味だって教えてくれるはずだ」と、当時の事を語っている(それで歌詞の中に『life goes on』というフレーズが出てくる)。
そのスコットが口にしていたフレーズを聞いたポールが、それをヒントに作ったのがこの曲である。当時のポールは『Life goes on』という意味で曲を作ったと思われるが、ナイジェリアのヨルバ族に聞いても『Ob-La-Di, Ob-La-Da』なんて言葉はないという答が帰ってくる。スコットの造語である可能性が大きい。」と書いてあった。

おもしろい。
世の中には、何の意味もないウソをつく人がいる。
ぼくもその手のウソは好きだ。
何の意味もないというのは、ついたからといって、何の得にもならないし、それでどうした、ということもない。
だいたい、なんでそんなウソをわざわざついたのか…、とだいぶ経って思ったりする。
ついた方も、ついたことさえ忘れていたりする。
その種のウソだ。

このオブラディ・オブラダも、ポールが曲にしなければ、「あ、そう」ということだったろう。
ナイジェリアのヨルバ族に、そんな言葉があるのか、と思うだけだし、なくても、「何でそんなウソをついたのか??」となるだけだろう。

でも、ポールが真に受けて、曲を作ったから、ややこしいことになったらしい。
嘘をついたコンガ奏者が、お金を要求したらしい。
結局はケリがついたのだが、この曲にはエピソードができた。

元はといえば、コンガ奏者のついたウソからできた曲。
意味のないウソをつかなければ、この曲はできなかったと思えば、感慨深い。

ウソも何かの役に立つ、ということだ。

この曲は日本の音楽の教科書にも載っているらしい。

今では字幕に出たように、英語圏ではオブラディ・オブラダは「それが人生よ Life goes on」という意味になっている。

これぞウソからでたマコト。



| | 考えたこと | 20:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
「病院」がトヨタを超える日
「病院」がトヨタを超える日 北原茂実 講談社+α文庫

2011年に出版された。
作者は八王子で病院を経営している医者。

この人は医療を「産業」にして、日本の主要産業にして育て、輸出産業にする、ということを言っている。

序章にこう書かれている。

「医療者である私が「売る側」や「買う側」という言葉を連呼することに、違和感を覚える方もいるでしょう。医療は売るものでも買うものでもない、医療とは公共のサービスであり、経済活動・営利活動の外にあるものではないか、と。
 しかし、そうやって医療を特別視して神棚に飾っていても、自浄作用など期待できません。病院は経営努力を怠ったまま赤字を垂れ流し、サービスを悪化させ、そのツケを国と患者に押しつけるだけでしょう。」

「一般には国の予算を食いつぶすばかりの存在と考えられがちな医療ですが、約300万人もの人間が従事する「産業」として捉え直してみると、これほど有望な成長分野もありません。むしろ、うまく輸出産業化することができれば、自動車産業や家電・エレクトロニクス産業を超えて、日本の基幹産業になる可能性さえ秘めています。
 崩壊寸前の医療をどう変えていくかは、国民の暮らしや健康に関わる一大事というだけでなく、日本経済にとっても大きな分岐点なのです。」

昨今、医療産業の輸出というような事が言われているが、そんなことは可能なのだろうか、ということで買ってみた本。

この人は自分の病院(脳神経外科)を八王子に作ったのだが、第1章「八王子から始まる医療立国プロジェクト」の中で自分の病院でやっている「家族ボランティアシステム」を紹介している。
元気な時に、病院でボランティアをやることで、「はびるす」という地域通貨を貯めて、いざ病気になった時にそれを使う。参加型のシステムだ。
残念ながら、まだ保険診療の部分では規制があって使えず、保険適用外の部分でしか使えないが、国が規制を取り払えば、通常の診療も「はびるす」で受けることができるという。
病院でボランティアをすることで、病気に対する知識や経験も積めるので、いざというときに役に立つ、という効果もある。
それが健康に対する知識をつけることにもつながり、それを実践することで「病気にならない街づくり」を進めることもできる。
それをさらに進めて、「携帯電話を活用したワンコイン診療」というのも始めたらしい。
500円でできる簡易人間ドックである。

「私は、このシステムが全国に広がれば「医療」と名のつくものの半分がなくなり、開業医の8割が不要になってしまうとさえ思っています。」

なるほど。
たしかに現在の長寿県である長野県では、徹底的に県民の検診を勧めたと聞いた。
医療費を削減するためには、病気になる前に予防することに力を注がないといけない。
このシステムでは、医者の代わりにDVDを使って、気をつけないといけない点や、食事の指導などを受けることになっている。
「さて、このワンコイン診療が広がっていくと、画期的なことが起こります。
 まずは総医療費の大幅な削減です。じつは採血と検査、そしてDVDによる指導は、国が定めるところの「医療」ではありません。健康保険証が要らないことからもわかるように、保険診療ではないのです。つまり、ワンコイン診療の普及は「医療ではないもの」が広まり、その分「医療」がなくなっていくことを意味します。
 そうすると、開業医(診療所)のほとんどは消えてしまうはずです。
 入院設備を備えた病院が大型スーパーで、ワンコイン診療はコンビニエンスストア、そして開業医を個人商店だと考えれば理解しやすいでしょう。スーパーとコンビニの普及で個人商店が淘汰されていったように、総合力や利便性に劣る開業医には相当な経営努力が求められる時代になるでしょう。
 そして開業医がなくなっていけば、日本の総医療費は大幅に削減されます。なにしろワンコイン診療は「医療」ではないのですから、税金も保険料も使われません。患者負担も少なくて済むし、医療崩壊を食い止める一助になってくれるでしょう。開業医の方々にとっては迷惑千万でたくさんの批判もあるかと思いますが、これくらい大胆なことを考え、実行に移していかないと、この国の医療が崩壊してしまうのです。」

たしかに、これくらいのことをやらないと、持続可能なカタチにはならないかもしれない。

また、この病院では薬を処方して、飲ませてから検査するというシステムらしい。
それには理由がある。

「病院の中で気分が悪くなったりすればすぐに対処できますが、家族ではそれができません。ですから、たとえ診断が確定していても、帰る時に薬を出すのは本来とても危険な行為なのです。
 これも、合理的に考えれば誰にでもわかることですが、実際にはほとんどの病院が診断後に薬を出していると思います。「薬は最後に渡すもの」という常識、前例主義に縛られているのです。」

医者の立場で考えたら、当たり前のことであっても、本当は変えたほうがいいことがたくさんあるのだろう。
そういうことを実際にどんどんやっているのが、この人のスゴイところだと思う。

第2章の「国民皆保険幻想を捨てよう」という章では、「結論から先にいいましょう。医療の現場が荒廃し、医療崩壊が叫ばれている原因は、一にも二にも財源不足です。」と語られる。

本によると、現在(2011年)の日本の総医療費は35兆円。内訳は50%が保険料、15%が患者の窓口負担、残りの35%が税金らしい。この35兆円というのはGDP比でみたら先進国中最下位で、OECD加盟国の平均も下回っているらしい。
その理由が「国民皆保険制度」にあるという。
戦後のキャッチアップの時代までは、この制度は役割を果たしてきたが、時代が変わって逆に亡国の制度になっている。
年金や他の多くの制度も、キャッチアップの時代はよかった。
その例に漏れず、ということか。

国民皆保険制度はとうの昔に耐用年数を超えた欠陥だらけの制度だ、というのがこの人の見解。

「たとえば心臓手術をする場合、Aという病院に行くと生存率が80%、Bという病院なら60%、Cという病院に行けば40%といった現実が実際にはあります。医者だって人間ですし、執刀医や病院によって医療レベルに差がでてしまうのは当たり前の話です。ところが、こうした事実は闇に葬られ、どの病院に行っても同じレベルの医療が提供されるのだという建て前が貫かれています。日本の医療は基本的にアウトカム(医療行為の結果・成果)を公表しないし、公表できないのです。
 なぜそんな馬鹿な話になるのか?
 その答えは、国民皆保険にあります。」

「民間から価格決定権を奪い、国が価格を決定して全国一律サービスをめざそうとする国民皆保険は、そもそもが社会主義的な発想です。一概にそれが悪いとはいいませんが、旧社会主義国家のように、国民にまともな情報が与えられないまま建て前のみで存続しているとすれば、とても看過することはできません。
 国民皆保険の問題点を直視せず、ひたすら盲信しているうちは、本当の医療改革など望めないのです。」

「それでは、もしも国民皆保険の「全国どこでも、同じレベルの医療を同じ料金で受けられる」という原則を取り払ったらどうなるでしょうか?
 具体的には、診療報酬制度を全廃するか、ある程度ゆるめて部分的に自由競争を取り入れた場合、何が起きるでしょうか?
 まず、アウトカムの開示が可能になります。どの病院が優秀で、どの病院がそうでないのか、自分の通っているあの病院は信頼に足る医療を提供しているのか、といった点が、数字によって客観的に判断できるようになります。
 また、自由競争が取り入れられれば、同じ検査や手術であっても医療機関ごとに価格差が出てくるでしょう。」

「とはいえ、国民皆保険を支持する声は、まだまだ圧倒的だと思います。「国民皆保険があり、医療費が安く抑えられているおかげで、いつでも安心して病院にかかれる。もしも医療費が高くなったりしたらたいへんなことだ」と考える人が多いからです。」

だから、どうしたらいいのか。
そのためには、総医療費を上げることだ、という。
アメリカで使える薬がなかなか日本で使えないとか、一日に医師が見る外来患者はアメリカでは10人程度で日本は60人〜100人いるから、インフォームドコンセントが不十分になってしまうとか、医療費を上げないと解決しない、という問題もある。

「国民皆保険による「安さ」が、どれだけの代償の上に成立しているのか、私たちは一度きちんと考えるべき時期にきているのではないでしょうか。」

「国民皆保険は、日本に安価な医療を実現しました。
 しかし、安価な医療は、そのまま「安易な受診」につながり、日本人の自らの健康に対する責任感を希薄にさせてしまいました。とくに最近では、軽症で緊急性がないにもかかわらず、まるでコンビニ感覚で深夜や休日の救急外来を利用する「コンビニ受診」も、現場の医師を疲弊させる一因として問題になっています。ところが、もしも国民全体が自らの健康に責任を持ち、「安易な受診」を避ける意識が根付いていけば、総医療費の抑制にもつながるでしょうし、医療現場の負担はずいぶん軽くなるでしょう。」

では、それを決めるのは誰か。それはまずは政治の役目だという。
でも、それは難しい。その最大の理由は選挙制度にあるという。
今の小選挙区制度では、国民の見識と政治意識が高くないかぎり、いっさいの正論が通らない制度になっており、「誰の意見も反映できない制度」になっている。特に、消費税や医療費の問題は国民の感情的な反発を招きやすい制度であり、小選挙区制にはなじまないテーマだと書いてある。
まったくその通り。
その意思表示が、低い投票率になって現れているのだろう。

では、どうするのかというと、現場の医師が立ち上がらないといけない、という。
そのキーワードが「医療の産業化」になる。

「別に税金や保険料を上げる必要はありません。まずは株式会社の医療参入を認めること。医療法人という縛りをなくすこと。医療を「施し」から「産業」に変えること。これだけで状況は劇的に変化します。」

そこで、「第3章 医療がこれから日本の基幹産業になる」になる。

しかし、医療がホントに産業になるんだろうか。
ぼくにはわからない。
筆者はそれらをまとめて、こう書く。

?医療は公的サービスであって、産業という言葉はふさわしくない
?医療の産業化といっても、結局は保険料や税など国民負担が増えるだけだ

?については、国鉄がJRになった効果をひいて説明し、「まずは「医療法人」という法的な縛りをなくして医療機関の株式会社化を認めていこう、というのが私の唱える産業化の本旨」という。

また、?についてはこう書く。

「医療は約35兆円産業である。しかも、そう遠からぬ将来に40兆円、50兆円規模の超巨大産業へと成長していくー。
 こう聞いても、そんなものは詭弁だと、反発を覚える人は多いでしょう。
 いくら50兆円産業といってみたところで、結局は保険料や税金などの国民負担が増えるだけで、誰も得をしない。むしろ総医療費が増えるほど個人消費が冷え込み、経済が悪くなっていくだけだ、と。
 たしかに、現行制度のまま総医療費が50兆円規模に膨れ上がるとすれば問題でしょう。国民負担が増えるのはもちろんのこと、患者数が増加するほど病院経営は逼迫し、国の財政赤字は増えていく。まさに誰も得をしない未来がやってくるだけです。
 しかし、医療機関の株式会社化が認められるとしたら、話はまったく変わってきます。
 医療機関が株式会社化されれば、株式や社債の発行が認められるようになります。そうすれば市場からお金を集めやすくなり、多くの病院でCTやMRIなど、最新鋭の医療機器を導入することができます。
 もちろん、「ドラッグラグ」の問題も解消に向かい、さまざまな新薬が使えるようになるでしょう。医療のクオリティが格段に上がります。
 さらに、国民皆保険や診療報酬制度まで見直されれば、先に挙げたボランティアシステムやワンコイン診療などの「新しい医療」が次々と生み出され、国民負担、税負担を引き下げつつも経営体制を強化していくことができます。現場の待遇は大幅に改善され、雇用の創出にもつながるでしょう。もちろん、医療機器メーカーや介護施設などの関連産業についても活性化が期待されます。」

なるほど。
言っていることはわかるのだが、これだけではなんとなく納得できないなあ。

次に、日本の病院は7割が赤字であること、現在の医療は”装置産業”であって、資金調達が必要なこと、実際儲かっているのは設備投資をしない病院や、診療報酬点数の高い医療を優先する病院であって、患者のことを考えていない病院であることなどが挙げられる。

そして、2007年の総務省の調査によると、日本人の個人資産1500兆円のうち、全体のおよそ2割を50代が、3割を60代が、そして、3割を70代以降が保有している、という事実をみた時に、「これからの日本で内需を拡大するとすれば、20代〜30代をターゲットにしても意味がありません。内需拡大のカギを握るのは、50代以降の中高年層。しかも、海外旅行などで国外にお金を落とすのではなく、あくまでも日本国内でお金を落としてもらう必要があります。」という。

そういうことなら、話はわかる。
なかなか消費に回ってこない50代以降の資産を、貯蓄ではなく、医療サービス産業に使ってもらおう、ということである。

「そしてなにより、医療を自由化して産業として自立させれば、そこを突破口に必ずお金の流れが出てきます。
 きっと、「人の命で商売をする気か!」という批判はあるでしょう。命を人質にお金をとろうとしていると誤解する人も多いと思います。
 しかし、これは医療従事者としての私利私欲による考えではなく、同時に道徳や倫理の問題でもありません。国の財政と経済を健全化させ、医療崩壊を食い止めて国民に広く医療を提供していくための、現実的な提言です。
 当然ながら、医療の自由化は「お金持ちにはそれなりのお金を払ってもらう」ことを前提としていますが、低所得者層に対しては十分なセーフティネットを設けます。
 銀行口座で塩漬けになっている個人金融資産を市場に吐き出させ、お金の流れを正常化すること。しかも海外ではなく、国内でお金が回るようにすること。そして国内に確固とした成長産業を作っていくこと。これらの条件をすべて満たすのは、医療の自由化しかないと断言してもいいでしょう。」

「医療には、ひとついいところがあります。
 それは「若者はあまり病気にならない」ということです。
 あくまでも相対的な話ではありますが、若者は総じて体力があり、病気になりにくいものです。たとえ病気になったとしても、高齢者よりもずっと回復が早くなります。
 いま、税や社会保障で最大の問題になっているのは、世代間格差です。
 たとえば厚生年金の場合、1940年生まれのモデル世帯(会社員の夫が40年勤務、妻は専業主婦)ではこれまで納めた保険料の6.5倍の年金が受け取れるのに対して、1980年生まれ以降では2.3倍しか受け取れません。現役世代が高齢者を扶養する現状のシステムでは、少子高齢化が進むほど若い世代の負担は大きく、給付される額は少なくなります。」

「現実にお金を持っているのは中高年層なのに(くり返しますが、日本の個人資産の8割は中高年層が持っています)、彼らの年金を現役世代が負担する、この構造的な矛盾を解消しないことには、世代間格差は広がる一方でしょう。」

「お金を貯め込んでいる中高年層や富裕層の資産を市場に吐き出していけば、経済の流動性が高まり、外需に頼ることなく景気を底上げしていくことができます。
 もちろん、所得や資産に応じたセーフティネットは必要ですが、そこさえクリアしていけば、医療ほど「財源がないならお金持ちに」が通りやすい分野はないのです。」

大いに納得した。これはいい考えだと思う。
ぜひやるべきだと思う。
国家財政が破綻して、国債が紙切れになる前に間に合うだろうか…。

そのために、国民総背番号制を導入すべきだという。
そしてカードはICカードにして、過去の診療情報をすべて記録させる仕組みを作れば、総医療費は3割は減る、という。

「新しく、なおかつ筋の通った主張は、往々にして過激な主張に聞こえるものです。しかし、これくらいドラスティックな改革を施さないと医療は持たないし、国の財政赤字は解消されないのだと認識しなければなりません。」

もっともだ。その通りだと思う。

第4章では「日本人だけが知らない世界の医療産業の実態」として、メディカル・ツーリズムの話が、第5章では「日本医療を輸出産業に育てる方法」として著者がカンボジアに医療機関を作ろうとしている活動内容などが示される。

そして「終章 医療崩壊こそ大チャンス」では、まとめが書かれている。

中で印象的だったのは以下の記述。

「医療のめざすところは、長生きではありません。気持よく生きて、気持よく死ぬこと、それこそが最大の目的であり、気持よく生きるために何ができるのか、医療に携わる人間はもっと真剣に考える必要があります。」

「病院経営者が経営感覚を持たないのは、彼らが「自分は慈善事業をやっている」「医者は聖職であり、先生であり、ほかの職業とは違うのだ」と思っているからなのです。この部分の意識改革がなされないかぎり、どれだけ公金をつぎ込んでも無駄です。」

ということだ。
元ヤマト運輸の小倉社長が、福祉のことを書いた時に、同じようなことを書いていた。

この本はいい本だ。

この通りにやればいい。
だれかやってくれないか。


| | | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
クルマのデザイン
クラウンや最近のレクサスを見ていると、トヨタデザインという統一性を模索していると感じる、というか、ちょっとそれが迷走している感じがする。

トヨタは一番クルマの車種が多く、統一性が出しにくいメーカーだと思う。
あの「T」の文字を模したシンボルマークさえ、付いているクルマと付いてないクルマがある。
デザイナーの自己主張が強すぎるのかもしれない。
ホンダやマツダと比べると、そんな感じがする。

最近のトヨタの高級車は、バンパーの下のところまで進出したフロントグリルが新しいアイデンティティだろう。
前の部分が、糸巻きを立てたような感じになっている。スピンドルグリル、と言うらしい。
真ん中が細くなって、上下が広い。
目立つ形ではある。
今までにない形だ。
バリエーションとして、雷をイメージさせるような形のものもある。
いずれにしても、バンパーの部分までグリルが下りてきており、存在感を誇示している。
これなら、一目見て違いがわかる。

しかし、個人的には、どう見てもどうもかっこ悪いと思う。
フロントグリルが目立ちすぎるからだ。
世間ではどう思われているのか、わからないが…。
Webでは、もう見切りをつけて止める、という記事もあった。

その点、デザインの統一性に成功したと思うのがマツダ。
車種の少なさももちろんあるのだが…。
フォードの資本が入った時に、デザインのアイデンティティを統一しないとイケナイ、ということになったと思う。
その後から出たクルマは、みんなフロントグリルが五角形である。
あれくらいの主張なら、控えめでいいと思う。
統一感もあるし、わかりやすい。

この2社以外は、車種ごとに自由にやっているように見える。
デザインを統一する、というのは難しいんだろう。
制約を与えることになるから、デザイナーとしてはやりたくない…、と思う。

ドイツのベンツ、BMW、アウディあたりは一目見てわかるデザインになっている。
まあ、プレミアム・ブランドだから、当然そうでなくてはいけない。
もちろん、車種ごとに個性はある。
それでも、一目見てどこのメーカーのクルマかわかるというのはスゴイ。

これから日本のカーメーカーもどんどん追われる身になる。
そうなると、プレミアム感を持たさないと、高く売れないし、そうでないとやっていけない。

性能を追求したら、必然的に決まってくる部分もあるだろう。
実際、初代のプリウスとインサイトというハイブリッドカーは、空気抵抗を意識した同じような流線型のデザインだった。

フロントのヘッドライトやウインカーの部分が、LEDになって、デザインの制約がなくなってくると、また新しいデザインも生まれてくると思う。

一方で、日本の若い人たちはクルマがそんなに欲しくない。
携帯などのコミュニケーションのコストが上がってきたこともあるだろう。
電気自動車になったら、もっとデザインの制約がなくなる。
エンジンルームが必要ではなくなるからだ。
テスラなど、各車輪にモーターがついているクルマも出てきている。

まだまだクルマは進化するだろう。
自動運転もあるし、ぶつからないクルマもできる。
街乗りの2人乗りや買い物専用のクルマも増えるだろう。
今までなかったジャンルのクルマもできる。

ぼくの世代は、まだクルマに夢を求めた世代。
どこまでいくのか、楽しみだ。



| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
尼崎市長選挙
尼崎市長選挙は今週の日曜日に投票。

立っているのは、無所属の現職の市長と共産党推薦の2名のみ。
いったいどうなっているんだろうか。
中央では自民党、民主党で言い合いをしているが、市長選となると無風そのもの。
これでは議会と市長がなれ合っているとしか思えない。

前回の選挙では尼崎は30%を切った投票率だが、またかなり低いだろうと思う。
対立候補が少なく、政策論争もない。
要は現市長を批判する議論がないからだ。

現職の市長が無所属なのは、支持政党を明確にしたくないからだろう。
どこの自治体もそうだ。
そうなると、政党に関係なく投票できる。
悪く言うと、市長選挙に通れば何でもいい、ということ。
議会の側も首長が変わるとややこしい、と思えば無風の選挙になる。

まあ、国政があれだから、地方はどうしようもない、という気持ちもある。
政務調査費など、県会議員のレベルにしても、結局はいい加減。
身内に甘い体質は変わらない。

投票率がある数値以下だったら、それは民主主義が信任されていないということだろう。
対立候補が出ず、よろこんでバンザイしている現職市長がいたが、あんなのは市長失格だと思う。

対立候補や、現市政に対する批判、公約内容から、選挙に行っても仕方がない、という気持ちもわかる。
それでも共産党が対立候補を立てたのはエライ。
準備もできていないようだし、公約もいい加減だが、選挙を成立させたのは立派。

維新の会も、国政に出て行くことは必要だったかもしれないが、もうちょっと地方政治に絞ってやったらよかったのに、と思う。
賛否両論あるが、橋下市長の言っていることは納得できる。

今週の日曜日が選挙。

選挙運動の声も聞こえず、ホントに選挙かと思うが、長らく続いた不景気で仕方ないのだろう。

こういうふうにして、国は衰えていくような気がする。

参考までに、両者の公約を下記する。
これを見ると、結局、争点がない選挙なのだということだろう。

ここまできたら、都構想でも何でもやればいいと思う。



稲村和美 ホームページの理念と政策より

1.子育てに関する支援、情報提供をより総合的に進めるため、子育て支援センター機能を充実させます
2.新・県立病院と連携し、市内3ヵ所目となる病児保育サービスの実現に向けて取り組みます
3.全ての小中学校にエアコンを整備し、子どもたちの学習環境を支えます
4.中学校弁当を全校実施しつつ、中学校給食の実施に向けた検討を開始します
5.いじめ防止対策推進法に対応した体制の整備と対策の充実に取り組みます
6.「教育振興基金(仮)」を設置し、より多くの市民、事業者に次世代を育む教育への支援を呼びかけます
7.市内に6ヶ所ある地域振興センターの機能を強化し、学校や公民館との連携、地域活動の活性化を推進するため、地域別予算制度の導入などの取り組みを検討、実施します
8.県と連携し、尼崎21世紀の森プロジェクトや運河再生をはじめとする臨海部の魅力創造と来訪者増に向けた取り組みをさらに推進します
9.公共施設の屋根貸しを開始し、さらなる自然エネルギーの導入拡大に取り組みます
10.労働条件の切り下げを防ぐ公契約のあり方について検討し取り組むとともに、引き続き、地域内経済循環を促進する取り組みを重視します
11.産業振興条例に基づいて既存の産業施策を再構築し、起業支援やモノづくりの高付加価値化、メリハリのある商業支援などに取り組みます
12.市役所だけでなく、市民とともに進める市民参加型シティプロモーションを進めます
13.既存施設を活用した(仮称)歴史文化センター整備に向けて取り組みを進めると同時に、新たな文化振興ビジョンを策定し、尼崎の歴史、文化を学び発信する取り組みを推進します
14.市民参画や協働、地域活動・市民活動を活性化させる基盤づくりを推進するため、市民自治基本条例の制定に向けて取り組みます
15.まちの課題解決のための学びと実践を市民と職員がともに参加して推進するため、社会教育事業を発展させた仕組みとして「まち大学あまがさき」を推進します
16.課題「解決」先進都市を目指し、市民活動、ソーシャルビジネスの振興に取り組みます
17.地域や企業と連携した若者の長期実践型インターンシップ事業を通じて、受入側のイノベーションと若者の社会力向上を応援します
18.若手職員を中心とした政策法務の向上のための取り組みをはじめ、職員力のさらなる向上に取り組みます
19.休日夜間診療所の老朽化対策に取り組み、一次救急医療の確保に加え、新型インフルエンザの発生等、緊急事態への備えを進めます
20.若者、女性への就労支援や、生活困窮者に対する総合的な支援を進めるためのサポートセンターを設置するなど、自立支援の取り組みを強化します
21.介護予防、認知症ケア、在宅医療について、各分野の専門家や団体と連携し、地域での支えあいの仕組みづくりを推進します
22.災害時要援護者対策、避難訓練の見直し・多様化を進め、防災意識の向上とさらなる防災対策を推進します
23.路上喫煙対策や受動喫煙防止など、タバコ対策をさらに具体的に検討し、取り組みを進めます
24.生活習慣病対策のヘルスアップ尼崎戦略事業をはじめとする市民の健康支援にさらに取り組みます
25.可動式の防犯カメラ導入など、引き続き、街頭犯罪等への対策を進めます
26.行財政改革計画「あまがさき未来へつなぐプロジェクト」に基づき、引き続き着実な財政再建に取り組みます
27.既存施設の長寿命化や維持管理費の適正化と、今後35年間で30%以上の保有床面積の縮小を目指す公共施設マネジメント計画を推進し、転入定住促進に資する跡地の活用と、財源を確保しながらのコンパクトな施設整備に取り組みます
28.老朽危険空き家対策を進めるための条例を制定します
29.市バスの民営化については、現在の高齢者パスの利用を全路線に拡大するとともに、路線は3年間固定の上、その後の補助路線を市もともに検討していくための体制を整備します
30.自転車で移動しやすいことをまちの強みと位置づけ、不法駐輪対策、交通マナー、自転車道の整備など、総合的な自転車政策を推進します

広瀬幸夫 兵庫民報ページより

政治姿勢
?憲法を市政に生かし、「地方自治の本旨」を堅持
?一党一派にくみせず特定の団体・組織に片寄らない
?暮らし直結の課題ではとことん住民合意をめざす
?公約を守り市民に誠実な市政運営につとめる
?福祉犠牲ではなく、不要不急事業の徹底的見直しや行政の無駄を省き財政再建
?国の悪政に立ち向かう

政策の柱
?育児・保育支援、35人学級拡充、こども医療費無料化、中学校完全給食など「子育てするなら尼崎といわれるまち」
?国保料引き下げ、医療・介護充実、地域交通確保など「元気で長生きできるまち」
?中小企業振興条例、公契約条例などで「暮らし・経済、安全安心のまち」
?原発ゼロ、CO2削減、平和市長会議参加、市民活動支援など「環境・平和・市民文化のまち」
?「公開・参加・協働・自治のまち」
をめざすことを掲げ、これらを実現する上で、「政党・団体・個人の平等を尊重し、清潔・公正・民主・市民共同を重視」する。


| | 考えたこと | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
目玉焼き
生卵を冷凍して使う、というのが話題になっているらしい。

卵は、冷凍すると、黄身の水分が減って、タンパク質同士が結合するらしい。それで、黄身が濃くなったというような印象になる。
解凍すると、白身は元に戻るが、黄身はまん丸の状態らしい。
ぼくは嫌いだが、卵かけご飯にもいいらしい。

冷凍卵を凍ったまま二つに切って、そのままフライパンで焼くと、一つの卵で目玉が二つある本来の目玉焼きができる。
これはすばらしい。
目玉焼きというと、やっぱり卵二つというのが当然。目玉は二つあるからだ。
でも、卵二つは多い。
その点、冷凍卵なら二つの目玉で卵が一つというのも可能になる。

ぼくはコレステロールが高く、高脂血症と言われているので、普段は卵は食べないようにしている。
しかし、例外はある。
鍋焼きうどんとか、チャーハンとか、卵がなければダメというようなものは食べる。

出張でビジネスホテルなどに泊まると朝は卵料理が定番。
そういう時も食べる。
旅行でホテルや旅館に泊まっても朝は卵が出る。
バイキングの時もやっぱり卵を食べる。

生卵は食べない。
よほどのことがないと、卵かけご飯などは食べない。

でも、すき焼きだけは生卵を食べる
あれは昔から、生卵を溶いて絡めて食べないと。

しかし、凍った卵を二つに切って作る目玉焼きというのは面白い。

グッド・アイデアだと思う。

どうして今まで思いつかなかっただろう?

| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
冒険野郎マクガイバー
「冒険野郎マクガイバー」はテレビのシリーズのタイトルだ。
えらく野暮ったいタイトルだが、このシリーズは本国で1985年9月から1992年5月にかけて放送されたらしい。
ぼくは何かの拍子に深夜放送かケーブルテレビで見たのだと思う。
もう20年くらい前になるか…。
でも、印象的だったのでよく覚えている。

なんで覚えているかというと、この当時、ハイテクメカが流行っていたが、マクガイバーは銃を持たず、手近にあるもので道具を作り、犯罪組織をやっつける、というものだった。
ほうきや雑巾、そこらにある植物油などの調理用品、お菓子など、何でも使う。
手近なものの組み合わせで、思わぬものができたりする。
科学の知識と手先の器用さで、驚くようなものを作るのが見せどころ。

そんなに長いあいだ放送してなかったと思うが、それでも面白かった。

この番組、今のアメリカの番組の脚本家や俳優にも人気があるらしく、何かと出てくる。
出てくるといっても、ちょっとしたシチュエーションの中にそれとなく出てくる、とぼくは思う。
ひょっとしたら、マクガイバーのことを言っているのかな、というセリフがあったりする。

どこかに閉じ込められたりした時、そこにあるものを使って武器を作ったり、そこから逃げ出すために道具を作ったりした時、そんな会話がある。
直接マクガイバーの名前が出てくることはめったにない。
きっといろんな権利関係があったり、マクガイバーを知らない人にとっては面白くないからだろう。
さりげないセリフのほうが、洒落ているということもある。

なんでそんなことを思い出したかというと、サバイバルの番組を見たからだ。

ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルでチョコレートと枯れ葉とコーラの空き缶で火をつけるには?というのをやっていた。
アメリカ人は意外と正解が多い。
ぼくはわからなかった。

コーラの缶は底が凹面上になっているので、その面をチョコレートで研磨して光らせ、それを凹面鏡にして枯れ葉に火をつける、というのが正解。
チョコレートを溶かして、包装している銀紙で磨くというのがミソ。
本当にやっていたが、晴れの日なら見事に火がつく。

こういうのは、マクガイバーのファンならわかるのかな、と思った。
だから、通行人の正解が多かったのかもしれない。

そう思うと、よくできていた。
だから、7シーズンも続いたのだろう。

こういうのこそ、日本でも作ってほしい。


| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
働く女
働く女 群ようこ 集英社

働く女性の苦労を勉強すべく、古本を購入。
10人の働く女性が出てくる短篇集。

結論からいうと、あんまり勉強にはならなかった。
小説だから、女性特有の苦労は当たり前で、その先の仕事の部分を書いている。
出てくる人は、あまりぼやかない。
みんな頑張っている。いい意味でも悪い意味でも前向きなのだ。

百貨店の外商でまともな商売をしようと頑張っているチハル。
一般事務でコンピューターの使い方をマスターし、おじさん連中に教えるトモミ。
夫の突然の死亡で、子連れでコンビニでレジを打つミサコ。
体調不良で総合職を辞め、祖父の古本屋の店番をするクルミ。
出版社を辞め、フリーライターになって不安にかられて駆けまわるエリコ。
年を取ってきた女優で、見栄と貪欲からだんだんとみんなに嫌われていくチユキ。
エステティシャンで指名が増え、仕事は増えたが、身体を壊していくタマエ。
呉服店を開き、好調だったがだんだんと強引な商売になって客が離れていくテルコ。
結婚して銀行を辞めたが、またパートで働きだしたものの、内職仕事になってしまうミドリ。
ラブホテルの店長をやって、人を使って毎日いろんな出来事を楽しむチアキ。

そういう人たちの話。
すぐ読めて、面白い。
古本で1円なら、お買い得。

作者は今60歳。
99年だから、今から15年前に出た本。
「青春と読書」という本に連載されていたらしい。

「青春と読書」という題名は、最近どちらも聞かない単語をつなげている。
調べてみると集英社が出している、「本の数だけ人生があるー集英社の読書情報誌」という副題のある雑誌。なんと83円だ。
11月号は巻頭の対談をホームページで読める。
集英社の宣伝を兼ねた雑誌という感じだ。

バックナンバーをみると、北方謙三とか東野圭吾とかいう名前も出ている。
さすが集英社。

本屋では見た覚えがないので、どうやって売っているのかと見ると、年間定期購読ができるようになっている。
1年間で900円。
さすがにペラペラのわら半紙みたいな紙ではないだろうと思う。

連載のところを見ると、7人の名前が書いてあった。

青春と読書、これは珍しい。

そういうところに連載されていた短篇集だ。

| | | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
農業人口
農業はこれから(今までもだが)の産業だと思うのだが、その記事があった。

農業が成長産業になるためには、儲からないといけない。
儲かるためには、農業人口を今より減らさないといけないらしい。
なるほど。
農業人口が減ると、一人あたりの収入は増えるということか。

機械化が進んで、今なら人口の1%程度の人がいれば、十分な食料を作ることができるらしい。
1億2000万人の1%だから、120万人だ。
今は230万人いるから、約半分にしないといけない。
もちろん、農地の集約も必要だろうが、それだけではダメで、人を減らさないといけないということだ。
これから人口が減るのだから、国内で消費する食物は減る。
和食をブランド化して、和食用の食材としてコメなどを輸出したらいいと思うのだが、そうもいかないらしい。
海外では農産品が安いから、日本の価格では売れないということだ。(円安がもっと進めば、輸出もできるかもしれないが…。)

だから、地方創生の切り札は、農業人口を減らすことになる。
経済的には創生するが、地方の人口は減少する。
現在は補助金で零細な農家が救済されているから、人口が減らないという状況らしい。
財政的にも、いつまでも補助金を出していられないだろう。
そうなると、必然的に農家の人口は減り、集約化されていくんだろうか。
もちろん、農水省はそんなことは考えていないだろうが…。

記事によると、化学肥料や農薬や農耕機械ができるまで、食料を作ることは大変な仕事だったとのこと。
江戸時代には全人口の85%が農村に住んでいたらしい。それだけの人が働かないと、食料が足りなかったということだ。
まあ、今のように食料が安くなかっただろうから、自作農は儲かっていたのだろう。
単位面積当たりの収穫を増やし、人手をかけないで作れるようになったのはほんの最近のことだ。
たしか、小学校の頃に棚田の写真を見て、日本の農業は素晴らしい、ということを習った記憶がある。
コメが余ることによって、それらも素晴らしくなくなった、ということだろう。
でも、作るのを止めるくらいなら、ダンピングして輸出したらいいと思うのだが、難しいのかな。

つまり、本来の意味で農業を再興しようとすると、農業人口は減らさざるを得ないということになる。

地方創生というのは、2040年には地方自治体の半分は消滅するという事態を何とかするためにできた言葉だと思う。
また、地方創生のためには、農業を再興するのも必要だろう。
しかし、それらは両立しないということだ。
農業を再興しようとすると、地方の農業人口は減らざるを得ない。

農水省と農協が抵抗するんだろう。

そういうことを含んで、どうやって地方を創生するか、考えないといけない。

難しいだろうなあ。



| | 考えたこと | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
大阪の先生は言葉が荒い?
産経新聞のWebの記事。

「28日に開かれた大阪市教委の教育委員会会議で、大森不二雄教育委員長が「大阪の学校では先生方があまりきれいな言葉を使っていないと聞く。言葉が荒いと、子供の学力の面でもよろしくない」と“苦言”を呈した。」
「子供を持つ母親でもある林園美教育委員も「私も実感している。子供が小学校に上がったとたん、汚い言葉を覚えて帰ってきた」と賛同し、「指導者が率先してきれいな言葉を使う姿勢が大きな影響を与えることを自覚していただきたい」と応じた。」

こないだ、近所の女子高校で体育祭の予行演習で怒鳴っていた先生のことを書いたが、たしかに教育現場で使うべき言葉ではないと思う言葉が使われている。

それで思い出すのは、大阪の教育委員会のテレビ取材。
十年くらい前になるか…。
公務員の実態か何かの取材だったが、アポ無しの取材班が行ったところ、すごく汚い言葉で罵られて入れてもらえなかった、というところが映っていた。
その時の印象が強烈に残っている。
たしか、「お前ら何しに来たんじゃ!」というような感じだったと思う。
教育委員会に務めている公務員が、そんな言葉を使っているのか、とビックリした。
ヤクザの事務所の取材といわれても納得できるほどだ。

子どもが小学校に上がったとたん、汚い言葉を覚えて帰ってきた、というのもさもありなんと思う。

しかし、小学校でなぜ汚い言葉を使う必要があるのか、わからない。
ましてや、教育委員会の人が使うのもわからない。

もちろん、先生だけではなく、友だちが使っているという例もあるんだろう。
でも、もしそうでも、「そんな言葉は使っていはいけません」という注意をして、きれいな言葉で話そう、というのが学校ではないか。

「花子とアン」の秀和女学校の「ごきげんよう」ではないが、そういう習慣も必要だと思う。

子どもはいずれ汚い言葉を覚えるものだ。
どんどんスレていく。
それは必要悪の部分もある。
汚い言葉も知った上で大人になるのは事実。

それでも、タテマエは大事だ。
「名は体を表す」というように、使っている言葉はその人を表すものだ。

だから、ちゃんとすべきだと思う。

学校の先生は児童生徒の友だちではない。

お手本なんだから。

| | 考えたこと | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
新幹線の食堂車
今はなくなったが、新幹線には食堂車があった。
一輛全部が食堂になっていた。

もちろん、おつまみもあって、アルコールも出る。
自由席の切符で食堂車の車輌に並んで、うまくいけば座って帰れた。
4人以上なら、一番端っこのボックス状の席を取らないといけない。
みんなで飲むのが好きな上司がいて、出張帰りの電車は食堂車で飲みながら帰るというパターンがあった。
めったに一緒に出張するということはなかったのだが、何回か一緒に出張し食堂車に行った。

出張の帰りというと、微妙な時間。
オフィシャルな仕事の時間でもないし、完全にオフの宴会でもない。
まあ、最近の宴会は妙に幹事によって仕切られていて、仕事の延長みたいな感じの宴会もあるが…。
名古屋だと途中乗車になるので、なかなか食堂車が空いていない。
食堂車で宴会をするのなら、東京から乗らないといけない。

東京駅で首尾よくボックス席が取れると、もう宴会モードになる。
もちろん、出張の帰りだから、出張に行った先の話が出てくる。
主に顧客の話や工場の話だ。
そこから社内の話になり、プライベートな話も出てくる。
回りの人は迷惑だっただろうと思う。
浜松あたりになると、もう酔っている。
関西弁で大きな声で話し、笑う。

ぼくにとって、バブルの時代というと、そういう時代。
メーカーだったので、給料は増えなかったし、仕事はすごく忙しかったが、そんな中にも楽しみがあった。

調べてみると、新幹線は88年に100系が主力になった時点で、食堂車がカフェテリアに変わってしまって、なくなったとのこと。
初代の0系(一番よく覚えている形)がなくなると同時に、食堂車もなくなってしまった。

その後、コンビニができ、エキナカが充実し、サラリーマンのお金もなくなって、弁当は持ち込みという時代になった。
あの楽しい宴会はもうできない。

食堂車、といっても若い人たちにはピンと来ないだろう。
ちゃんと白いテーブルクロスが敷かれた食堂車。
メニューがあって、頼んでから料理を作る。
そんな食堂車があったのだ。

今、一部のローカル線で食堂車が復活している。
田舎をゆっくり旅行したい人が増えてきたからだろう。

でも、あの頃は若いサラリーマンが、新幹線で出張帰りに宴会をしていた。

なつかしい。




| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
どう死ぬか
ぼちぼち、自分の死に方を考えておきたいと思う。

いつ、どこで死ぬかということについては、何も考えなければ、統計に従うことになる。
ということは、今なら80%の確率で病院で死ぬということだ。
そういえば、ぼくが小学校1年の時に亡くなった祖父は自宅だったが、叔母、祖母、父はみんな病院だった。

オランダやスウェーデンは、自宅あるいは介護施設等での死が多いらしい。
病院では死ねないのだろう。
病院は病気を治療するところであって、死は病気ではないからだ。

2025年には団塊の世代が75歳以上になる。
そうなると、病院で死ぬということは難しくなるだろう。
そんなにベッドがない。

この頃になると、病院で死ぬ人の比率が半分以下になるかもしれない。
医療費のことを考えても、治療型の病院でズルズルと長居して死を迎えるというのはもったいない。
だから、平均寿命で死ぬとすると、自宅か施設で死ぬという可能性が高いだろう。
ぼくは施設で死ぬのがいいかと思う。

問題は死に方だ。
どうせなら安らかに死にたいものだ。
しかし、安らかというのも難しい。
まず、ボケてしまったら、安らかもクソもない、と思う。
ボケずに死にたいとは思うが、でもこればっかりはどうしようもない。
運命みたいなものだ。
ボケていくのを止めようとしても、本人がボケているからわからないからだ。
でも、ボケる前の自分はそう思っていても、ボケた後の自分はどう思うかわからない。

手先を使っていたらボケないとか、本を読んでいたらボケないとか、外に出て人と話をしていたらボケないとか、いろんなことが言われているが、どれも決定打ではない。
もしボケが必然であるのなら、ボケる前に死にたいとは思う。

でも、ボケる前に死にたいとなると、老衰ではダメなような気がする。
ぼくの場合は長年続いた生活習慣があまりよくないから、そのへんが原因で死ぬのが必然かな。
脳梗塞もやったし、高脂血症はずっと言われているし…。
データーからいくと、血管が詰まるんだろう。
でも、血管系の病気は、脳か、心臓かの違いはあるが、突然来るから、死ぬ前にゆっくり出来ない。
突然症状が来て、死んでしまえばそれでいいが、後遺症を残して治るというのがイヤだ。
やっぱり生きている間は元気でいたい。
脳梗塞の後、言葉が出なくなっただけでもだいぶこたえたからなあ。

医療費をあまり使わないで、回りに迷惑もかけず、いつの間にかいなくなったなあ、というような死に方があらまほしい。
そのためには適度に運動して、食べ過ぎず、飲み過ぎず、健康でいないといけないんだろう。

しかし、どう死ぬかという話、結局最後は健康に気をつけるという事になってつまらない。

なんかもっと豪快な人生を考えていたはずなんだけどなあ…。


| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
東京奇譚集
東京奇譚集 村上春樹 新潮文庫

2005年出版。比較的新しい短篇集だ。この後に出ている長編は2作のみ。

この短篇集は80年代なら、SFの棚にあっても不思議ではないと思う。
80年代の日本のSFは、必ずしも科学的なフィクションではなく、荒唐無稽なものやドタバタ、この短篇集にあるような理屈だけで解釈できないようなファンタジックなものもあった。

あまり作品をジャンル分けするのは意味がないとは思うが、筒井康隆などの80年代の日本のSF作家はバラエティに富んでいて、読んでいて楽しかった。
それを思い出させるような本。

東京奇譚集という名前にふさわしい、奇譚が5篇書かれている。

読めば、面白い。
面白いといっても、笑うような面白さではない。
「品川猿」という最後の作品はちょっと面白いが…。
主に、興味深い方の面白いだ。

各々の物語の主人公にとっては、それぞれ当然であったり不思議ではないことが起こったり、それらに遭遇したりする。

何か意味のあることを、計算ずくで書こうとしているのか、それとも不思議な物語をそのまま書こうとしているのか、わからない。
ちょっと計算臭さが勝っているかな。

でも、読んだ後に何か残る。

村上春樹という作家、昔のSF作家の匂いがする。

そんな短篇集だった。





| | | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
オレゴンで死ぬこと
今日のテレビのニュースでもやっていたが、Webでアメリカの尊厳死に関する記事があった。

アメリカのオレゴン州は、「医師による自殺幇助」が最初に合法化された州らしい。
1997年に尊厳死法が施行されて、今では全米で5つの州で自殺幇助が合法化されているとのこと。

今回の記事は、脳腫瘍で余命半年と宣告された女性、ブリッタニー・メイナードさんが、オレゴン州に移り住み、尊厳死を選び、それをビデオで告白したことを書いている。

記事はこう書く。

「彼女は家族とともに多くの専門家に相談し、調べられるだけ調べたが、決定的な治療法は存在しなかった。今や、死が避けられないという現実を受け入れなければならない。「それなら自宅で愛する人たちに囲まれ、静かに平和に逝く。それを選択する権利が私にはある。そして、誰にも与えられるべき権利だ」。そして彼女は、10月末にオレゴン州で医師による自殺幇助を受けて命を絶つ覚悟をしたと語る。」

実際にこの尊厳死法を適用されたのは、昨年までに1173人。このうち実際に薬を使って死を選んだ人は752人だったとのこと。

オレゴン州の法律では、尊厳死は以下の手順になっている。

(1)州で医師免許を持つ医師に、尊厳死を望んでいることを口頭で伝える。別の医師による診断を受け、病気が末期的であること、本人の判断力がはっきりしていることなどを証明する診断書を作成してもらう。
(2)15日間待つ。
(3)医師に2度目の要請を口頭でする。
(4)医師に依頼書を提出する。この依頼書には2人の証人がいる。そのうち1人は、財産相続人、家族、介護人であってはならない。承認されれば、医師が薬の処方箋を渡す。
(5)48時間の待機時間を経てから、薬局で薬をもらう。

尊厳死を求める人は、18歳以上のオレゴン州民で、意思疎通に問題がなく、余命6カ月以下の末期病患者であることが条件だ。

こんな法律が現在のアメリカ50州のうち、5州で合法化されている。
すごいことだ。
しかし、まだ賛否両論あるらしい。

「尊厳死を支持するか否かの議論は、とかく感情的になる傾向がある。特に米国では、キリスト教団体が大きな発言力を持っている。ブリッタニーさんも、告白ビデオを公開してから、尊厳死に反対する団体から激しい非難を浴びた。
 同時に、過去に患者から懇願されて安楽死に手を貸したことがある医者や、尊厳死を望みながら、オレゴン州など合法な地域に引っ越す時間も体力もなく、苦しみながら壮絶な死を迎えた人の家族などからは、ブリッタニーさんの決断を支持する声が寄せられている。ブリッタニーさんの告白ビデオが、安楽死の是非について社会全体が考え直すきっかけを与えていることは確かだ。
 現在、ニュージャージー州では尊厳死法を通すかどうかの話し合いが進められている。少しずつではあるが、米国社会は明らかに尊厳死を肯定する方向に進んでいる。」

日本が長寿なのは、文化、食事やストレス、生活習慣などの要因が大きいとは思う。
しかし、延命治療の影響もあるだろうし、とにかく生きていることはいいことだ、というコンセンサスもあるだろう。
国家予算10年分の借金をして、財政破綻も視野に入ってきた。
世代間格差を縮めるためにも、社会保障費を何とかしないといけない。
若い人たちが先に希望が持てない社会は崩壊する。

だから、ぼちぼち尊厳死ということも、話し合っていかないといけないと思う。

それは医療の問題ではなく、個人の人生をどう終わるかという問題だと思うのだが…。


| | 考えたこと | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ルンバ
こないだルンバが掃除をした後、勝手に充電器のところに行っているのを見た。

いつもは終わった後もしばらく放っておくのだが、終わった直後に行くといつもは緑色のランプが橙色になって点滅していた。
ルンバは日本の掃除ロボットと違って話さないが、話さないからこそこちらが想像する。
橙色のランプが点滅をしているところが、何となく「あー疲れた」と言っているように見えた。

「いやー、大変やったなあ」と、思わずねぎらう気持ちになる。

ルンバは結構な量のホコリを吸い込むので、ゴミをためるところがすぐにいっぱいになる。
毎回掃除の前には、前の掃除の時にたまったゴミを捨てておく必要があるのだ。
まあ、2回くらいなら、ためたままでもいけないことはないが…。

毎回ゴミを捨てて、掃除をしているうちに愛着がわいてくる。

掃除をする姿もなんとも言えない。
同じ所を何度も通る。
最低3回位は同じ所を通るから、きれいになるらしい。
その姿が、何となく甲斐甲斐しく見える。

前に「弱いロボット」という記事があったが、まさにそのとおりだと思う。

これがもっとゴミの容量が大きくて、手入れが要らず、吸い込む力も強くて1回通ったらきれいになって、部屋を合理的に走って掃除するようなロボットになったら、ちょっと違うだろう。
手がかからないと、愛着がわかない。
単なる掃除ロボットになってしまう。

ルンバは単なる掃除ロボットではない。

あんまりかしこくなったら、良さがなくなるのではないか。

そんな風に思わせる魅力がある。

走行パターンといい、ゴミ捨ての手入れの頻度といい、ランプの色といい、絶妙なバランスでできている。

新型を作る時には、そこを考えるべきだろう。

ホントによく出来ている。

| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
エクスペンダブルズ3
1日は映画館が安かったので、見に行った。

シルベスター・スタローンのシリーズ。
CIAから請け負って、いろんなところで危ない仕事をするチーム、エクスペンダブルズ。
使い捨て、という意味だ。
この3はスタローンと同じくらいの年の俳優が出てくる。
アーノルド・シュワルツネッガー、ハリソン・フォード。

ラストのアズメニスタン(アフガニスタンを想定しているのか)の戦闘シーンはすごかった。
10人のチームで数百人を相手にして、勝ってしまう。

この手の映画はスジは単純だ。
悪役のメル・ギブソンに若手チームを人質に取られ、彼らを取り返しに行く、というストーリー。
若い俳優と、年寄り俳優の競演。

しかし、みんな年をとった。
スタローンが68歳、シュワルツネッガーが67歳、ハリソン・フォードが72歳。
オーバー還暦の俳優たちが、戦闘シーンで頑張っている。
その他に、ウェズリー・スナイプス、メル・ギブソンあたりがもうすぐ60歳。まだまだ若い。
それに比べると、大御所はさすがに年を感じる。
シュワルツネッガーはアクションはもうシンドイ、という感じだ。

最後の酒場のシーンは、若手俳優と往年のスターのパーティという感じ。
メル・ギブソンは一人悪役でちょっと損したなあ。
アントニオ・バンデラスは、コミカルな役で楽しかった。
60歳前でまだまだ若い方だ。

この映画のエンディングロールを見ていると、ロケーションはブルガリアでやったらしい。
東欧でやると、ちょっと安くあがるんだろうか。
アズメニスタンという架空の国だが、イメージは北アフリカという感じ。
まあ、ほとんど廃墟みたいなところでのロケだったから、町並みなど関係なかったのだろう。

しかし、俳優もうまく老いるのは難しい。
どこかで老け役に変わらないといけない。
いつまでも肉体派の男優ではつとまらない。
スタローンもシュワルツネッガーも、ぼちぼち70歳だから、考えないといけないなあ。

それぞれどんな次作を作るのか。

これもまた見ものだ。

| | 考えたこと | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
トスカーナの休日
何気なく映画を録画して見た。2003年の作品。「トスカーナの休日」という映画。
ダイアン・レインが主役でいい味を出している。

アメリカ人の作家が離婚し、訴訟を起こされ、何もかも元夫に残してイタリアのトスカーナにやってくる。
そこで目にとまった古い屋敷に一目惚れし、その屋敷を買う。
改修をするのだが、その業者が連れてくる人足が、ポーランド人や文学の教授など、変わった人たちで、仲良くなる。

ローマにシャンデリアのガラスを買いに行って、恋をして破れたり、アメリカから友達が恋人にフラレてやってきて出産したり、若い二人の結婚を助けたり、いろんなことがある。
その中で主人公は悲しんだり、喜んだり、自暴自棄になったりしながら日々を過ごしていく。

イタリアのトスカーナ地方の自然が描かれている。
すごくきれいだ。
そして、人々が明るい。
イタリアというと、景気が悪く、ヨーロッパの中でもシンドイ国だと思っているが、そんなことはどこ吹く風で、とにかく明るい。

そして、主人公はトスカーナで人生を取り戻す。
最後に主人公は言う。

「アルプスのウィーンとベニスを結ぶ線路が敷かれたのは実際に列車が走るずっと前のことだ。
線路が敷かれたのはみんなが未来を信じていたからだ。
人は人生の曲がり角を経て、見知らぬ地に行き、生まれ変わるのだ。」

この映画を見ると、イタリアに行ってみたくなる。
トスカーナは美しい。

人はだれでも人生を振り返りたい時がある。
その時が早いか、遅いかは人による。
この主人公は結婚に失敗して、そういう状態になった。
いろんな理由がある。
人はそれぞれに、自分のトスカーナを見つけないといけないのだろう。

イタリア語がわかればなあ。


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