考えたこと2

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管理する人
理化学研究所と小保方さんの騒動は収まる気配がなく、調査委員長も辞任した。
この騒ぎを見ていて、ああこんなことあるなあ、と思った大学関係者も多いだろうと思う。

週刊誌によると、もともと理研の笹井という人が再生医療分野で先端を走っていたらしいが、山中教授のiPS細胞がノーベル賞をもらって、完全に追い越され、それが悔しいという気持ちがこの騒動を生んだと言われている。
嘘か本当かわからないが、そういうことはあるだろうと思う。

もともと、研究者というのは子どもみたいなものなのだ。
それを世間はわかっていない。

ぼくが実際に見たのは文系だが、その文系ですら子どもじみた人が多かった。
理系になっても一緒だろう。おそらく、もっとひどいかもしれない。
あのアインシュタインが、自分の理論を証明してくれそうな人に出した手紙などを見ると、いい意味で一途だが、普通に見るとちょっと子供じみていると思う。

おそらく笹井という人も、山中教授への嫉妬心からこんな騒ぎになったんだろう。
普通なら、いくら悔しくても、潔く負けを認め、山中スゴイと素直に認めるのがオトナだ。
いつかは見返してやろうという気持ちはあってもいい。
でも、それはオトナとして抑えておくべき気持ちなのだ。
笹井氏はそれが抑えられなかったのだろう。

派手なかっぽう着の演出など、やりすぎてしまった。
嫉妬心がなければ、もっと冷静に判断できたんだろうが、大発見だという事の大きさに舞い上がってしまったのだろう。

しかし、今回の出来事で、独立行政法人の管理体制にもっと光があたってしかるべきだと思う。
税金を投入して研究しているのだから。

研究者に管理などできない。これは真実。
しかし、理化学研究所の所長は研究者だ。
これは研究所だから仕方ない。
でも、それを理解して、ちゃんと管理が出来る人を連れてこないといけない。
そして、その人にしかるべき権限を与えることが必要だ。

ところが、研究者は管理されることが嫌いで、管理の専門家など入れようとしない。
その気持はわかる。
しかし、言っている連中は子どもといっていい。
子どもにそういう機関の運営などできるわけがない。

さらに、昨今は早稲田に見られるように博士の質も落ちている。
文科省の方針で、博士の数を大幅に増やしているのだが、教える方も教えられる方も、人数は増えれば当然質は落ちる。
コピペなど当たり前の研究者が量産されいてる時代だ。
だからこそ、いままでのような性善説ではやっていけない。
研究者がみんな「いい人」ではないのだ。
意図的に捏造もするし、無意識にコピペもする時代だ。
だからこそ、権限を持ったまともな管理者が必要だ。
そういう対策を取らないと、いくらでもこんなことが起こる。

よく理解してほしい。
研究者は子どもみたいなものだ。
貶めているわけではない。
そういうところもないと、いい研究ができないのだろう。

研究と管理という正反対の仕事を分けないといけない。
管理をもっと重視すべきなのだ。特に昨今は。

たくさんの独立法人があるだろうが、それらは研究者が権力を持ちすぎではないか。
何度もいうが、研究者に管理はできない。
適切な管理者を置くことを法制化しないといけないと思う。

実は、これと同じことは、大学にも言える。
これはまた別途。

| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
優柔不断
ぼくはこの世の中には、正しいものなどないと思っている。
いつの頃からそんな風に思いだしたのかはよくわからないが、30代の頃からか。
何かと比べると、正しいかもしれないし、他のものと比べると正しくないかもしれない、という事だ。

アメリカに出張したときに、宗教について話しているときに、そういうことを言うと、聞いたほうがRelative truth!(相対的真実)といっていた。
きっとアメリカにもそういう考えはあるのだろう。

自然科学の法則などは別にして(最近はそうでもないが)、人間が考えることは、いいかげんなものだと思っている。
ある時は正しく、ある時は間違っている。
結局、何かと比べて、初めて判断できるようになるのだ。
比べるものが変わると、判断も変わる。
だから、自分の考えにも、いつも絶対の自信は持てない。絶対などないと思っている。
とりあえず、これでいいか、という程度のものしかない。
だから、人が、すごい自信を持って、これしかない!等と言っていると感心するし、うらやましくなることがある。
どちらかというと、いつも、まあ、こうとちゃうのん、という程度でしか言えない。

ただ、倫理とか、モラルという面で、自分と違う人は、認めはするがつきあうのはしんどい。

どんなことでも、突き詰めて考えると、いろんな選択肢があって、そのどれかが絶対正しくて、どれかが絶対間違っている、とは言えないなあ、と思ってしまう。

それなら、どうやって物事をきめているのか?と聞かれると、何となく、決めなければ仕方なくなったときに、思いつきで決めている面がある。
優柔不断である。

でも、決めるまで、あれやこれやと、もやもや考えているのだ。
そして、いざ時が来たら、無意識が決めてくれる、というやり方。

理屈は好きだが、理屈では決められない。(後で理屈をつけはするが)
でも、すぐ決めろ、と言われたときには、このやり方では難しい。

だから、優柔不断なのだ。

| | 考えたこと | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
奨学金
今朝、学生支援機構の奨学金が返せない若者が増えている、という話をニュースでやっていた。

そんなことはまともな大学関係者ならみんな知っている。
知らない奴はよほど教育に興味のない人間だろう。

今の第二種奨学金というのは、昔の奨学金と違って利子がつくことも知っているし、新入生のオリエンテーションでなるべく借りないように、という指導をしていることも知っている。

奨学金は自分の銀行口座を開かないと借りることができない。
自分が負うべき借金だからだ。
でも、親がついてきて、コンピューターの画面を見ながら指図をしている風景もあった。
今はコンピューターの画面上でクリックするだけで4年間のローンが借りられる時代。

しかし、いくら言葉を尽くして説明しても、目の前にお金をぶら下げられたら借りてしまうのが人情。
彼らは借りることをイメージできても、20年間毎月数万円を返すことをイメージできない。
高校卒業時に奨学金の予約をしてくる学生もいる。
高校の進路指導の先生は、就職を探すのが面倒だから、本来なら就職したほうがいい学生を進学させてしまう(人もいる)。
大学が全入になって、選ばなければどこかに入れる状況になっているからだ。

親が高卒で就職させたいと思っていても、高校の先生が「奨学金があるから」と大学に行くことを勧める例もあるという。
奨学金は一部の大学の支援金になっているのだ。
高校で就職できないレベルの学生が大学を出て就職できるようになるだろうか。
もちろん、そういう教育システムを持っていて、育てることができる大学ならできるだろう。
残念ながら、そんな大学はほとんどない。
今の大学の先生はそんな学生を育てる術を持っていない。
だから、学生の支援ではなく大学の経営のための支援になる。
学生にとっては、4年間を(全くとは言わないが)無駄に過ごし、出る時に就職できなくなり、その上20年間の借金を背負い、そしてブラックリストに載ることになる。
当然、大卒の求人だから、高卒より高度なことを求められる。
気の毒な話だ。

高卒で4年間働いたら、いくらなんでも年収200万程度は稼げる。
4年で800万だ。
大学に進学したら、授業料を100万として、逆に400万の出費になる。
それを奨学金にすると、金利がついて500万以上。月に2万以上を20年返すことになる。
今は滞納が続くとすぐに取り立て屋に丸投げするので、会社に電話がかかってきたりすることになる。
そして、ブラックリストに載り、カードも作れないし、ローンも組めない。
これは一部は緩和されようとしているが…。

学生支援機構というのが、学生支援をしているのか、それとも機構の存続のために仕事をしているのか、疑問に思う。
きっとたくさん文科省から天下っているのだろう。

そして、大学を出ても正規の職にありつけるかどうか、わからない。
労働者全体で、非正規労働者が半分近くいるのが現状だ。
そんな状態だから、借金を返せるわけがない若者が増えるのは当然だ。

彼らは悪くない。
この環境を作ったのはオトナだからだ。
国の無駄遣いをやめて、もう少し彼らのことを真剣に考えてあげないと、どんどん若者の貧困化は進むだろう。
この国は、若い人たちを犠牲にして、年寄りが食っていこうとしている。

「借りたカネを返さない若者は怠け者か時代の犠牲者か」という記事があるので、興味がある人は見てほしい。

| | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
コレポン
コレポンという言葉、一般的な言葉なのか。
前の会社の宴会に呼ばれて行った時にひさしぶりに聞いた。

1980年代、ぼくのいた会社では、海外とやりとりをすることを、「コレポン」といった。
ネットで調べてみると、「コレポン」というのがあって、「コレスポンデンス」の略と書いてある。
一般的な言葉だったのだ。

コレスポンデンスとは、「通信。文通。特に商業通信文をいう」。
ぼくらは海外とfaxのやりとりをすることを、「コレポン」と言った。
メールはまだ一般的ではなかった。
それ以前はテレックスだっただろうが、ぼくらはそれは知らない。

コレポン、というのはサ変動詞。
コレポンする、という形で使っていた。

メーカーが直接海外とやりとりをする、というのは80年代になって一般的になってきたのではないか。
それまでは、総合商社などが間に入っていたのだと思う。
ちょうど80年代に入ったころから、メーカーが直に海外とやりとりをして海外で生産をやるような形、特にアメリカで生産するケースが増えたと思う。
この頃から日本の自動車メーカーは貿易摩擦の関係で本気でアメリカ生産を始めた。
自動車産業は裾野が広いから、それにつれてたくさんの関連メーカーが海外生産を始めた。

当時はイギリスとアメリカがコレポンの相手だったが、彼らも日本とのやりとりには慣れていなかったと思う。
ぼくのいた会社は、もともと海外が本社だったが、わけあって日本が本社になり、海外の会社を子会社化していた。
だから、アメリカの会社のスタッフはぼくらを親会社の人として扱ってくれていた。
少々通信文の文法が間違っていても、許してくれていたと思う。

ぼくがコレポンしていたのはアラバマ州の田舎の工場だったから、日本の場所も知らないし、日本人などあまり見たことがないようなスタッフばかりだった。
いい意味で田舎の人だった。

1995年に初めてアラバマに行って、コレポンしていた相手と会ったが、朴訥そうないいやつだった。
そんなにアメリカ人をたくさん知っているわけではないが、いい意味で日本に先入観がないアメリカ人だったと思う。

本当に一時は朝から晩まで英語で文書を書いていた。
アメリカのために働いていると言ってもおかしくなかったと思う。

コレポンの文書は膨大だった。

今となっては懐かしい過去だ。


| | 考えたこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
グローバル化
何でも専門家が言い出してから、10年位したら一般的に実感ができるようになるのだと思う。

ぼくは以前の会社で海外関係の仕事もしていたので、グローバル化については早めに実感した。
1980年代、日本の自動車産業が相次いでアメリカ生産を始めた。
それに連れて、部品も海外生産しないといけなくなり、ぼくは現地の設計支援の仕事を日本でしていた。

あの頃は本当によく働いた。
というのも、日本の夜中がアメリカの朝だからだ。
夜中まで残って、電話会議をよくやった。
設計の意図を電話で説明する。向こうは早朝だが、アメリカ人はなぜか朝に強い。夜にも強いのだが…。とにかく彼らは無理がきく。やっぱり狩猟民族なんだろうと思う。
毎回、終わった後自腹でタクシーで帰ったりしていていた。
その頃、日本人は戦後立ち直り、世界一のものづくりをして、そのやり方をアメリカに広める宣教師みたいなものだと思っていた。

バブル景気の80年代。
世の中は浮かれていたようだったが、ぼくらはただただ忙しかった。
日本で開発するのでも大変なのに、アメリカで日本と同様のモノを作って入れなければならない。
あの頃、銀行や証券会社は儲かっていたらしい。
銀行は競ってゴルフ場や土地に投資していた。
土地転がしと言って、何も生み出さない土地に馬鹿みたいにお金を入れ、あっという間に土地の値段は上がった。
バブルに踊っていたのだ。
今でも、年配の社員が、自分の娘が金融関係に勤めたのだが、ボーナスが俺より多い、と苦虫を噛み潰したような顔をしていたのを思い出す。

バブルが崩壊して、モラル・ハザードだと言われたが、あの時銀行の連中は誰も責任を取らなかったし、今でも金融関係は給料は高い。
有望な先を探して投資することもあまりせず、国債ばかり買っている。
何か間違っているのではないかと思う。

今頃になって、グローバル化が本格化してきて、みんながグローバルを意識せざるを得なくなった。
家電量販店や土産物屋では中国語や韓国語が飛び交ってる。
地方に行くほど、アジアを意識せざるを得ない。
しかし、ここに来てグローバル化の真の意味がわかってきた。

ダイヤモンド・オンラインで「領域を超える経営学」 という本を紹介している。

そこでは、こんなふうに語られている。

「もちろん、それぞれが生まれ育ってきた背景があり、年収のみを基準にして一概に言うことはできません。しかし一方で、日本という国に生まれただけで、ほとんど努力をせずに怠惰な生き方をしている個人が、あがき苦しむ途上国の数十億の人々よりも豊かな暮らしを享受できるのは、果たして当然であるべきことなのでしょうか。
 世界的な価値連鎖が進む世界は、先進国で豊かさを享受しているものの、日々の努力を怠り、競争力のない個人にとってはこのうえない脅威なのです。」

「先進国に生きる個人は、世界的な価値連鎖の時代の到来に備えて、いますでに持っている特権を最大限に活用して、自分の未来を防衛する必要があります。逆に言えば、そうした時代は、努力をし、能力もあり、しかし不当に搾取され、貧困にあえぐ途上国の人々にとっては、成長と繁栄の未来なのかもしれないのです。
 世界的な価値連鎖の時代は、いわば平等で、よりフラットな世界とも言えます。しかしだからこそ、現代で不平等の利益を享受してきた私たちのような先進国の人間にとっては、可能性である以上に、大きな脅威でもあります。
 先進国に生きる個人は、こうした時代が訪れることを現実的な未来として捉え、与えられた猶予を最大限に活用し、「より平等な世界」でも生き抜ける力を蓄え、実力を身につける必要があると、私は考えています。」

製造業が安い労働単価を求めて、アジアに出て行っているのはもはや中小企業でも当たり前になった。
それは取りも直さず、労働単価というものが世界中で同じになるまで続くのだろう。
世界は均一になろうとしている。

グローバル化は厳しいものだ。特に先進国にとっては。
しかし、理想の社会は平等なものであったはずだ。
日本の若者は、残された時間を使って力をつけていかないといけない。

チンタラした平和主義や平等主義で生きていけるほど世界は甘くない。
お題目だけ唱えていたら、平和と平等は手に入るかもしれないが、食っていけない。

それに日本の教育はついていっていないと思う。

そこを何とかしないと、これからの世代は大変だ。

| | 考えたこと | 22:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
ワイドショー
ワイドショーというのは、一体どういう番組なんだろうか。
いろんな話題に対して、局アナやコメンテーターと言われる人が解説して、時々大学教授などの専門家が出てきて、出演者一同がわちゃわちゃ言う、という構成だ。
井戸端会議の拡大版と言っていいと思う。
昔はテレビはエライ人が出るものだったが、最近は平均どころか平均以下の人も出る。
紳助の負の遺産だ。
コメンテーターなのか、何なのかわからない。
とりあえず、視聴者代表という位置付けなのか。

ニュースの話題を解説する局アナ風の人がいるのだが、パネルに新聞を貼って、書いてある通りに話している番組もある。
そんなもの、新聞を読めばそれでいいのだと思う。
今はネット上にいろんな解説があふれている。
そして、ネット上には新聞よりもまともだと思われる意見がある。
新聞やテレビの質が落ちたのもあるだろう。

それにしても、韓国のフェリーの沈没のニュースはやりすぎだろう。
大衆の嫌韓の気持ちを裏返して、いかに韓国政府やフェリー会社がいい加減か、というような報道。
海自ならその日のうちに入れたとか、日本はそんなことは起こらないとか、言いたい放題という感じだ。

日本人の乗客がいたわけでもないし、事は外国のことなんだから、ほっておけばいい。
視聴者に無用な優越感を持たそうという誘導がありありとわかる。
いくら近いからといっても、毎日記者が救出作業に立ち会って、乗客の家族の声やダイバーの話を聞き、それをこれみよがしに報道するのは下品だろう。

あれは韓国の事故なのだから。
武士の情けというではないか。

ああいうワイドショーが世論を誘導し、嫌韓、嫌中の意識を誘導している。
戦前も新聞を筆頭としたマスコミが戦争を誘導した。
やっていることはそれと同じだ。

平和憲法を維持せよ、というのなら、ああいう報道はやめるべきだと思う。

| | 考えたこと | 21:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
役不足
役不足という言葉、ややこしい。
どっちの意味かわからなくなる。

はてなダイアリーによると、「正しい意味は、「素晴らしい役者に対して、役柄が不足している」という意味、つまり能力のある人につまらない仕事・簡単な仕事をさせるという意味なのですが、最近は逆の意味で使われることが多く…」とある。

つまり、役の方が不足していて、自分の実力が勝っているという意味だ。

しかし、彼は役不足だ、というような言い方をされると間違った意味の方が正しく思えてしまう。
そう言っている人も間違っているのだろう。
彼には役不足だ、と言われると、正しい意味だと思う。

文化庁のホームページに間違いやすい言葉として、公開されている。
「ことば食堂へようこそ」http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/kokugo_sisaku/kotoba_shokudo/というページ。
この役不足は第一回目の配信で、半分以上の人が間違った意味で理解していたらしい。
正しい意味を動画などで解説している。

第二回目の予定は「煮え湯を飲まされる」だ。
これは「信頼していた人に裏切られる」という意味だが、単に「敵からひどい目にあわされる」という意味だと思っている若い人が多いという。

言葉には由来があって、それがわかっていれば意味を間違えないが、その由来がわからなくなっていくと誤用が起こる。
言葉について回る重りみたいなものだ。
言葉は使われていると重りが軽くなってくるらしい。

ある種仕方のないことなのだろう。

ある程度は食い止めることができても、そのうち軽い意味になってしまう。

もともと、どちらにも取れる意味の言葉だ。

それを誤用する人が増えれば、そのうち正しくなる。
辞書に、昔は反対の意味だったが…、と書かれるようになるのだろう。

やばい、などはその代表ではないか。

ぼくの中ではやばいというと悪い意味。
でも、若い人たちは違う。

これも時代だろう。

| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
国とはなにか
昨日、クローズアップ現代でアメリカの富裕層のことをやっていた。
富裕層とは上位1%の人で、残り99%は中間層と貧困層。
どんどん格差が拡大しているという。

格差という意味では日本も同じ。
正規社員と非正規社員、老人と若者など、どんどん拡大している。

アメリカの富裕層は、自分たちの税金が貧しい人ばかりにつぎ込まれ、自分たちはちゃんと行政サービスを受けていない、という意見が強め、住民投票などで自治体を作ってしまった、という番組だった。

富裕層は税金をたくさん収めている一方、貧困層はそのお金でサービスを受けていることになる。
警察が治安の悪い地区ばかりに回され、富裕層が住んでいる地区は後回しにされているという。
だから、富裕層だけの新しい市を作って、警察官を自分たちで雇い、犯罪があれば3分以内に警察が来るようにしてしまう。
一方、その市に入らなかったところは富裕層が減って税収が激減し、破綻してしまう。
刑務所も警察も失業状態。
犯罪者は街に放たれ、警察はお金がないから雇えない。

独立した市に住んでいる富裕層はハッピーだ。
自分たちのお金で、サービスを買う。
余分ところに税金は使われない。
NYから越してきた人が、何でもある、と言っていた。

しかし、これでいいのだろうか。
古き良きアメリカの互助精神はどこに行ったのだろうか。
貧困層は有色人種が多いという。
アメリカは移民の国だから、外からやってきた人たちに自分たちのお金が使われるのは、何となく合点がいかないとは思う。
それでも、アメリカンドリームを目指してやってきた人たちではないか。

アメリカの独立宣言には、頼りにならない政府なら変えてしまえと書いてある。
それを地で行く富裕層の反乱ではないか。
税による所得の再配分というのは政府の役割だろう。
それを拒否できるのだろうか。
民主主義だから、ちゃんとした手順を踏んで市を作ったんだから、いいのだが…。

細かい事情はわからないが、何となく危なさを感じる。
個人がここまで強くなると、国とか州の意味はどうなるのか。

難しい。

| | 考えたこと | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
八方美人
八方美人というのは徳であると思ってきた。
それは若い頃からそうだった。
40代になる前のメモだが、これも今もその通り。
最後の方はワケがわからない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−
ぼくの座右の銘は、八方美人。
仕事がからんで、よっぽど訳のわからない状況になれば、その鉄則をくずすこともある。(いくら言っても同じ間違いをするとか、しらんふりをするとか、そういうことをされた時)
でも、心の中は、八方美人ではない。

高校時代に、太宰治が好きで、今でも憶えている一節がある。
”愛は言葉だ。俺たち弱くて無能なのだから、せめて言葉だけでも飾って見せよう。”というもの。
これに感激して、言葉などなくてもわかりあえる、という事よりも、何でも言葉にしてしまった方がいいんだ、と思ってきた。
今では、そこまで過激には思っていないが。

しかし、世の中には、口に出さない方がいいこともある、ということもようやくわかってきた。
そのくせ、いない人の悪口を言うのは大好きだ。
八方美人なら、人の悪口は言わない方がいいのだが、ついつい言ってしまう。
そんなにえげつないことは言っていないつもりで、どちらかというとシャレになるように心がけているのだが、時々は度を超してしまう。

心の中はまた別で、結構好き嫌いが激しく、嫌いな人には、絶対近付かない。
初対面から、変わる人も中にはいるが、結構第一印象が大事。
要は、気を使わなければならない人は、やっぱりしんどい。
でも、中にはこちらから気を使ってあげたいと思って、近付く人もいるから不思議。

人の話を聞くのが好きだ。皆にはしゃべりだと思われているかもしれないが、自分では聞き上手だと思っている。
人間に興味があるのかもしれない。

結構理屈言いなので、理屈でぶつかったら、しつこいところがあると思う。
したがって、理屈で負けるといつまでもそのことを考えて、相手が忘れた頃に、もう一度話を持ちかけたりする。そういうところは、闘争的かもしれない。(理屈と言ってもへりくつの類で、あまり大したことは考えていないが。)

八方美人のぼくとしては、いつも相手に期待しないようでいて、実はとっても期待している。
すぐに、人を頼ってしまう。
きっと、こうしてくれるんとちゃうかなあ、といつも思っているところがある。

でも、期待できる相手は限られている。
期待できる相手とは、今まで恩を売ってあるとか、貸しがあるとかそういうのじゃなくて、信頼している、という事になる。
別の言葉で言うと、自分もきっと相手がして欲しいことをわかっているという自信がある、と言うような関係。
だから、期待はいつもしているけど、人数はとても少ない。

大多数の人については、期待はしない。

信頼できるという関係が多いほど、生きてて良かった、と思える瞬間が多くなると思う。
やっぱり、物も大事だが、人生は人間関係だと思う。

誰かを信頼できて、それが、確認できたときは、やっぱり、すごくうれしいものだ。
でも、ほとんどは、ほんとは自分のためにやっている事だと思う。

だから、やっぱり本当に信頼できる友達を持つことが、大事なのだ。


| | 考えたこと | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカ
今週は1996年あたりのメモで終わりそうだ。
今日はアメリカについて。
ぼくの考えは40前にだいたい決まっていたのかもしれない。
40歳から進歩がない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アメリカには病める部分も多いのは確か。特殊な国家だからだ。

それらの問題は、色々な人種が集まって、民族を越えて、自由と平等と言う理念の元に集まり、アメリカの国旗に宣誓をして国民になれる国だから起こることかと思う。

もともと理念なんて信じるものこそ救われる世界のものだから、民族という血のつながりには勝てない。
それでも一生懸命国家として頑張ろうとするところに、無理が出てくるのだろう。

貧富の差が激しい事、人種差別、麻薬、治安、銃の問題などいくらでも悪いところはあげられる。
それでも、理想を掲げて、無理を承知で頑張っているところが、何となく憎めないところになる。
実際にはいろんな民族が居ても、WASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)の人々が治めているのが現状だが…。

アメリカの独立宣言に、ぶっちゃけて言うと、”みんなの役に立たない政府なら捨ててしまって、新しい政府を作るのが、みんなの未来の安全のための、義務だ”という一節があり、この言葉に感心する。
アメリカを作った奴等は偉かったんだなあ、と思う。

でも、今のアメリカは、悪いヤツがたくさん居て、自分の利益しか考えてないし、言いたいことだけ言うヤツがたくさんいる。

それでも、アメリカが偉いなあと思うのは、たいていの場合、反対の意見が出てくることだ。
貿易の問題にしても、ワシントンの言うことに対して、それはおかしい、という、ジャーナリストが必ず出てくる。
そういうところは、健全な国だと思う。

日本はすぐ一色に染まってしまって、違うことを言う奴を排斥したがるから。

日本の米がいかに高いか、と言うことを教えてくれたのもアメリカだったし。

何やかや言っても、アメリカは馴染みがあって、住みたいとは思わないが、やはりどちらかと言えば、親米だ。

白人に対して、劣等感はある。
なんとなく、勝てないと言うか、ついていけないというか。

でも、それは、一つには彼らがぼくらと違う価値観を持っているということもあるからだと思う。

やっぱり、キリスト教ではないか。

まあ、よくわからないが、好きでもあり、嫌いでもあり、というところにしておこう。

| | 考えたこと | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボランティア
またまた、コンピューターの中の整理をしていて出てきたメモ。
30代のころに考えていたこと。
この年の1月に阪神大震災が起こった。
この時から、ボランティアが盛んになったんだろうと思う。
これまた、今も同じ考えで情けない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ボランティアについて、まず考えたことは、やらなければいけないからやるのか、やりたいからやるのか、という事。
やらなければいけないから、やるというのは、危険だと思う。
偽善になってしまい、施しになってしまうから。

また、ボランティアができる、というのは、その社会が豊かであることが必要。
食うや食わずの状態では、人のことをかまってなどいられない。
したがって、その社会を豊かにしている人たちに感謝する部分がないといけないと思う。

ぼくは、自分のことで精一杯なので、ボランティア活動をしたことがない。
唯一、落研の時に毎年春・夏に各地の老人ホームを慰問して回ったくらい。
但し、これは自分が好きでこちらから行かしてもらったという意識で、あんまり、ボランティアとは言えないと思う。
しかし、老人ホームで、バカ受けして、高座の後に年寄りの人たちに礼を言われたりすると、何かいい事したのかなあと思う。
こういう状況が最も意識せず、自然にやっていけることだと思う。

ボランティアは、ちょっとした気持ちで出来るようなものではなく、自分がやりたくて、必死になる様なものだと思う。
ぼくは自分を守ろう守ろうとしているので、何かに必死になるという事を避けてきたようなところがあり、だからボランティア活動というものとは、なかなか縁がないのだと思う。

このごろ、何となく空虚な日々が続いている。
あーあ、なにかいいことないだろうか。

1995.6.29.

| | 考えたこと | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
21世紀の価値観
コンピューターの中を整理していると、1996.7.6のメモが出てきた。
18年前だから、39歳。
今と考えていることはあまり変わらない。
自分では若いころとは違うと思っていたが、これを見るとあまりの変化のなさに驚く。
年をとったのは身体だけかもしれない。

21世紀が来る5年前だ。
渥美清が亡くなった。
オリックスが巨人を4勝1敗で破った。
就職17年目の年。

ほとんど受け売りだ。
それも今と変わらない。

---------------------

21世紀の価値観はどうなるのか、それはよくわからない。

希望的観測で言えば、日本人もアホではないので、何らかの意味のある価値を持った、価値観(金をもうけて楽な暮らしをするというだけでは無い物)を見つけていくかもしれない。

でも、今の状況を見ていると、どんどん既成の価値観は古い物として、捨てられていっていると思う。
例えば、自分を犠牲にして、友達のために尽くすとか、みんなの幸せのために政治家になろうとするとか。
そこには、新しい物はいい物で、古い物は良くない物だという無意識の先入観があるような気がする。
誰かがそれは進化論の悪影響だ、と言っていた。

エントロピーは増大する、という法則があって、結局価値観も同じようにどんどん無秩序の状態に向かっているのかもしれない。
やっぱり、何かまたは誰かのために、頑張る者をバカにしないで尊敬する、という今では古風な考えが復活しなければ、21世紀に向かって結局今の風潮が続いていくのではないだろうか。

みんなの価値観がばらけていってしまったので、常識という言葉が人それぞれに違ってきているのだと思う。
常識というのは、その社会でみんなが当たり前だと思う、共同の幻想。
共通の価値観がなくなっていくと、共同幻想ももてなくなってしまうのだろう。
これが無くなっていくということは、社会が不安定になっていくということであり、自分の常識が通じないという状況は、嘆かわしいことだ。(自分のエゴかもしれないが。)

でも、自分の常識を信じて、通じないときは、議論すべきだと思う。

そうすることによって、一つの新しい共同幻想が生まれ、社会が安定してゆくのだと思う。

| | 考えたこと | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネコの能力
こないだテレビを見ていたら、ビルの6階から落ちるネコのビデオがあった。

誤って落ちたのだろうが、空中で両手両足を広げて体制を整え、空気の抵抗を受けて落下速度を落とし、無事着地して何もなかったように歩いて行った。
これはすごい!

ネットで見てみると、ネコにも個体差があって、3〜4階ならたいがい大丈夫らしい。6階から落ちても大丈夫というのは、珍しいのかもしれない。
しかし、3〜4階でもたいしたものだ。

身長の10倍以上の高さから落ちても、大丈夫ということになる。

ネコの身体は特徴があって、骨と骨が靭帯でつながっていない。
筋肉でゆるやかにつながっている。
だから関節が柔らかいのだろう。

また、脊椎の骨の数が多い。
椎骨というだが、これが60もある。
人間は34、イヌは30だから、倍だ。
人間やイヌよりも背骨を大きく曲げることができる。

昔ユースホステルをやっている寺に泊まった時、子ネコがいた。
グレーのトラネコで、すごく可愛らしいネコだった。
20畳くらいの広間で、客はぼくらだけだった。
そこで座布団の上で、ネコと遊ばしてもらった。
まだ子ネコなのに、逆さま向けに落としても、空中でくるっと回ってちゃんと着地する。
人間よりも三半規管が優れているのだろう。
ちゃんと上下を判断して、足を下にすることができる。
あの時は感心した。

イヌは人間の役に立つペットになった。
もちろん、訓練が必要だが…。
ネコもネズミを取ったりするが、イヌほど役に立たない。
もともと群れで行動しないからだろう。
リーダーの言うことを聞かない。

それでも、人に懐くからペットになった。
でも、ネコには人に飼われているというつもりはないと思う。

そこがいいのだ。

| | 考えたこと | 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
生産年齢人口
16日付の新聞に記事があった。
それによると、

「総務省が15日発表した2013年10月時点の推計人口によると、数値を公表し始めた1950年以降、15〜64歳の生産年齢人口が32年ぶりに8千万人を割り込んだ。一方で65歳以上の高齢者(老年人口)は過去最高の25.1%に達した。
 推計人口は国勢調査をもとに、毎月の人口移動などを加味して算出するもので、毎年4月に前年10月時点の数値を公表している。総人口には定住外国人を含めている。
 15〜64歳の生産年齢人口は前年より116万5千人減って7901万人。総人口に占める割合は62.1%。
 65歳以上の高齢者は前年より110万5千人増えて3189万8千人。総人口に占める割合は25.1%と過去最高を更新した。
 定住外国人を含む総人口は1億2729万8千人で3年続けての減少。前年比で21万7千人減り、減少幅は3年連続で20万人を超えた。」

と書いてある。

生産年齢人口が64歳まで、というのもちょっとシンドイが、そこまで入れないともっと減ってしまうのだろう。
しかし、15歳〜64歳の人口が62.1%で、65歳以上の人口が25.1%となると、0歳〜14歳の人口は12.8%しかない。
人口が1億2700万人だから、その12.8%は1625万人になる。
総務省のデーターを見ると、一方で高齢者予備軍の55歳〜64歳の人口は1740万人もいる。
これが少子化というものなんだろう。

のんびりしているが、これは確実に来る未来だ。
高齢者の割合は、今が4人に1人だが、20年後には3人に1人になる。
50年後には人口が8674万人に減少し、だいたい高齢者の割合は4割になる、という推計らしい。
8674万人いて、3500万人が高齢者ということになる。

どう考えても、少子化前の高度経済成長期に作ったシステムがまともにうごくワケがない。
年金や医療の制度は破綻する予定、ということだ。
こんなことは誰でもわかることだろう。

なのに、何もしないというのはどうなっているのか。

新聞にも書いてない。

だれか、まともな意見を載せてくれ。


| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
初級システムアドミニストレーター
昨日書いたが、1999年に初級システムアドミニストレーターという資格を取った。
今はもうない。
ITパスポートというのに変わっている。

この資格はコンピューターの管理者ではなくて、ユーザーの知識と言われたもの。
一般的にはヘビーユーザーと言われたりする人たち向けの資格と聞いた。
ぼくはコンピューターオタクではないが、コンピューターを使って仕事を便利にするとか、どう使えば合理的かというようなことを考えるのは好きだった。

この当時、ぼくが買っていたコンピューター関係の雑誌や本はけっこう多かった。
Macの月刊誌、解説本、ウィンドウズの本…など。
この時期が一番パソコンに興味があった時期だ。
94年に最初のMacを買った時から計算すると、年間でパソコン関係の書籍や本体、付属品などに、平均8万円を使っていた。
つまり、5年間で40万円を使っていた、という計算だ。

40万円を投資したからには、何かリターンがないと損だと思った。
そこで出てきたのが、この資格。
これなら、今まで雑学で覚えたことが役に立つと思い、受けてみることにした。
一応、過去問題集を買って、ひと通りやった。
それだけの対策。

でも、さすがに40万かけただけあって、試験は一発合格だった。

試験は関学であった。
ぼくの前の席の男性が、しきりに電卓を叩くのが気になったという記憶がある。
電卓は持ち込み可だった…ということか。

最後の問題がエクセルのセルの計算式の問題で、時間ギリギリまで苦戦した。
この問題は銀行の融資に関する問題だったと思う。
言葉の意味がわからなければできない問題で、学生には不利だと思った。
当時、久しぶりに頭を思い切り使った、という印象だった。

資格って、こういうふうに取れるのか、と思った。
好きで何かに一生懸命になる。
時間を忘れて本を読んだり、機械に触ったりする。
そこで得た知識を元に試験を受ける。
そうすれば、事前の勉強など過去問だけでよい。

よく出来た話だ。

ただし、初級システムアドミニストレータを取ったからといって、何の得もなかった。

それでもよかった。

これには後日談がある。

2002年くらいに上級システムアドミニストレーターという試験も受けた。
この時も事前の勉強をせず、落ちてもいいと思って受けた。
さすがに、前半のコンピューターの知識の試験は自己採点でギリギリOKだったが、後半の小論文のテストが苦しかった。

一緒に受けに行った人に、過去問もやってないのか、と呆れられた。

案の定落ちた。

やっぱり、過去問くらいはやればよかったと後悔しても後の祭り。

楽をして結果は出ないということだなあ。

| | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
マイクロソフトとアップル
Windowsを作っているのがマイクロソフトで、iPhoneやiPad、マッキントッシュを作っているのがアップルだ。
マッキントッシュというのは、パソコンの名前で、Macとも言う。

ぼくの最初のパソコンはMacだった。
1994年だった。Windows95が出る前だ。まだ会社でパソコンが1人1台になっていない頃だ。
会社の金でアメリカに留学した社員が、向こうではMacですよ、といって、会社に持ってきているMacを見せてくれた。
それを見て、これだと思った。
パソコンの基礎はMacで学んだ。

当時のアップルやMacには熱狂的なファンがいて、完全に宗教だったと思う。
Macは常に素晴らしく正しい、と思っている人たちが一定数いた。
そのいう人たちが当時たくさんの解説本を書いていた。
それで画像の大きさと画面の関係、ファイル名やディレクトリ、正規表現やアプリケーションとファイルの関係など、たくさんのことを覚えた。
当時のMacのOSは結構先進的で、素人にもよくわかる構造を持っていた。
ぼくが1999年に初級システムアドミニストレーターの試験を通ったのも、Macで覚えた知識が少しは役だったのだと思う。

しかし、Windows95が出て、会社の状況が変わった。
1人1台の時代が来た。
それでも頑張ってMacを使っていたのだが、会社のメールを家で使おうとするとMacではダメだということになって、あきらめてWindowsのノートを買った。
会社のネットワークに入れないPCを持っていても仕方ない。
しばらく趣味用として置いてあったが、親戚にあげた。
これで、ぼくのアップル教徒は終わった。

そこからはマイクロソフトに転向した。
マイクロソフトのPCを使っている人たちはそんなに熱狂的でない。
便利だから、安いから、使わないと仕方ないから…、そんな人たちが多い。
それほどマイクロソフトに忠誠心はない。

なぜアップルを使わないか…。
単に値段が高いからだ。
ほとんど同じことがマイクロソフトでもできる。

パソコンについては、マイクロソフトが勝った。
まだMacは残っているが、シェアは低い。
マイクロソフトの1/18らしい。

しかし、iPadを加えると、アップルは健闘している。
タブレットでは強い。

パソコンはなくならないと思うが、その一部はタブレットに取って代わられるだろう。
そのタブレット部門にはグーグルが参加して、三つ巴の争いが始まっている。

日本の会社が入っていないのが残念だ。


| | 考えたこと | 08:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
音楽ビジネス
音楽とゲームがライバル関係にあるらしい。

日経ビジネスに「音楽はゲームで奪われた時間を取り戻せるか」という記事があった。

それによると、欧米では微増の音楽ビジネスだが、世界二位の日本市場では「前年比16.7%減で30億1000万ドルと、大幅に売上高を減らしている」と書かれている。
日本の音楽ビジネスは苦しいのだ。

記事にもあるが、電車の中などで音楽を聞いていると思われる人が減って、ゲームをやっている人が増えた、という印象はある。
電車に乗って、ヘッドフォンをつけてスマホをいじっている人を見ると、たいがい画面を覗きこんで、手を動かしている。
あれはゲームだろう。
音楽には中毒性がないが、ゲームには中毒性がある。
だからゲームは強い。

一方、音楽はデーターになり、インターネットで入手できるようになったことに伴って、音楽を所有することに対する敷居が下がった。
インターネットに接続されたPCとプレーヤーがあれば、音楽は聞けるようになった。
TSUTAYAのようなレンタルCD店も一般的になっている。
古いCDなら300円程度で借りることができる。

メモリー価格も下がって、プレーヤーは安くなった。1万円台でプレーヤーは買える。
今や小学生でもプレーヤーを持っている時代だ。
ぼくらが若い頃は、音楽を聞こうと思うとアンプ、レコードプレーヤー、スピーカーが必要だった。
その後カセットが出てきて、ラジカセができた。
それでも、今よりはだいぶお金がかかった。
その意味では音楽の裾野は広がったと思う。

それでも売上げが減ったのは、音楽の単価が安くなったからか…。

高齢化が効いているとは思う。
ぼくらの年代になると、それほど音楽にお金を使わない。
音楽のストックが増えて、フローが減るのだろう。
若い人の方がお金を使うような気がする。

その若い人もCDを買うのは本当に好きなアーティストだけになった。
著作権の意識も高くないから、ちょっと気に入っている程度の音楽はデーターでのやりとりも多いのだろう。
CDで儲けるのは、難しくなったと思う。

増えたのはライブだ。
コンサートで儲けないといけない。
1回あたりの儲けを大きくするために何万人も入るところでやる。
このやり方はまだ増えていくだろう。

記事によると、音楽の定額配信などの工夫をして、音楽ビジネスを盛り上げようと考えているらしい。

でも、この20年ほどの音楽を取り巻く環境を考えると、音楽を作る方の敷居が低くなったという変化が一番大きいような気がする。
演るほうが増えたのだ。

だから、昔よりチョイスが多くなった。

それはいいことだと思う。
でも、それが音楽ビジネスの売上げを減らしているような気もする。
難しい。

| | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本のコンシューマー・レポート
ウチは昭和30〜40年代に「暮らしの手帖」という雑誌を買っていた。

あれは季刊だったかと思ったら、Wikipediaを見ると2ヶ月に一回発行されていた。
あの本は母が買っていたのだが、家においてあったので時々見た。
暮らしの手帖を有名にしたのは、当時発展途上だった家電製品のテスト記事だと思う。

昨日池上彰がテレビ大阪で特番をやっていたが、昭和の時代の功罪を扱ったものだった。
その中にも暮らしの手帖が出てきた。
松下電器が発売した食洗機をこっぴどくこき下ろした記事。
手で洗えば10分で洗えるものを、1時間かけて洗えない機械、というような事が、松下の開発陣を逆に奮い立たせたというような内容。
当時の編集長が出てきていたが、自宅のキッチンには食洗機があった。
よくなった、ということだ。

炊飯器も、洗濯機も、掃除機も、冷蔵庫もみんな暮らしの手帖で取り上げられ、テストされた。
あの本を見て、きっと家電メーカーの開発陣は一喜一憂していたに違いない。

暮らしの手帖は、広告をのせず、不偏不党の精神でいろんな家電機器をテストしていた。
辛口の記事が載ることも多く、メーカーの言うことを鵜呑みにせず、ちゃんとテストの結果を示し、評価していた。
ぼくは小学校高学年〜中学くらいだったが、時々テーブルの上に置いてあったこの本の商品テストのページを興味深く読んだ覚えがある。

今から思えば、アメリカのコンシューマー・レポートと同じ事をやっていたのだと思う。
コンシューマー・レポートはWikipediaによると、

「独自の試験施設で行う消費財(幅広い製品やサービス)の比較検討調査の結果をレポートしている。そのほか、企業に対して製品やサービスの品質の向上、政府に対しては規制法令の整備についても積極的に同誌を通じて訴えている。年間の調査費用は約2,100万ドルで、毎月の発行部数は約400万部であり、定期購読者は雑誌とウェブ版の合計で約700万部とされる。レポートの独立性・公平性を維持するために、各号誌面には、コンシューマーズ・ユニオンが発行する雑誌、書籍、サービスを除いて、一般企業による広告を掲載することはまったくなく、さらに記事を広告目的に使用することを一切認めていない。」

という雑誌。
この本の記事は前の会社でも気にしていた。

この暮らしの手帖という雑誌、とても志の高い雑誌だと思う。
広告を載せず、商品を評価する、という姿勢は今の新聞など見習ってほしいほどだ。
もちろん、今でも発行されているのだが、最近は見たことがない。

昭和の時代、主婦の負担を減らすためにいろんな家電が出てきた。
どうやっていいものを作るか、ということで日本の家電メーカーはいろいろ工夫をした。
そのおかげで、今でも日本の炊飯器はアジアの国々で人気だ。
洗濯機も、冷蔵庫もみんなあの時代に出てきた。

いい雑誌だったと思う。

| | 考えたこと | 09:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
先のこと
最近、先のことを考える。

それも、自分がいつ死ぬかということは関係なく、もっと先のことだ。
つまり、自分が考えても仕方ないことまで考えている。
今の子どもの世代、孫の世代の事を考えるのだ。

その結果、自分の身の回りのことがお留守になっていたりする。
気楽なものだ。

今になって振り返ると、ぼくらは一番良い時を過ごしてきたように思う。
戦争が終わって、ちょうど復興した頃に生まれた。
高度成長の時代を過ごした。
20代の時にオイルショックだの何だの言われたが、それをバネにして日本の産業は強くなった。
今日より明日が豊かなことは自明のことだった。
そして、誰も会社が縮小するとは思っていなかった。
ポストは増え、同期はみんな管理職になれた。
銀行などとは比べものにならないが、給料も増えた。
90年代にバブルがはじけたが、そんなのはこれからの時代を思えばしれていると思う。

これはひとえに時代が良かったのだろう。
もちろん、前の世代の努力もあるし、ぼくらの努力もある。
しかし、今の時代を見ていると、大きな流れとしては「運」だったとも思える。

石油という安いエネルギー源があった。
アメリカや中東で土を掘ったら、いくらでも出てきた。
それをエネルギー源にしたり、加工したりして、ぼくらの世代は発展することができた。

今、石油の採掘量がピークを迎え、減りつつある。
新興国の需要は増えているので、値段はどんどん上がっている。
「先のこと」を考えると、どうなるのかなと思う。
日本は少子高齢化、少産多死化で生産年齢人口が減り、国としては成長は見込みづらい。
社会保障の問題もある。誰がどう考えても、このシステムが続くとは思えない。
しかし、政治家は高齢者の票がほしいので誰も動かない。
それなら、経済成長すればいいのだが、アベノミクスで第三の矢と言われている成長戦略は見つからない。
規制緩和さえ進まない。
この国はどうなるのかな、とも思う。

ぼくらの世代には責任がある。
若い人たちを育てなければならない。

でも、どうしたらいいのか…。
| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ダン・バウ
昨日、ベトナムの民族楽器を聞きに行った。

ベトナムは民族楽器の宝庫と言われているらしい。
たしかに、いろんな楽器があって、すごく楽しかった。

リズム楽器は太鼓やギロ、鈴など、どこの国でもそんなに変わらない。
基本的には叩いたり、こすったりして音を出す。

でも、弦楽器は特徴がある。
昨日見ていて、アジアの弦楽器には指板がないものが多い、という事に気がついた。
音の高さを決めるのに、弦を指板に押し付ける、という仕組みではない。
西洋楽器も最初はフレットや指板というものがなかったのかもしれないが、バイオリンをはじめとする弦楽器には弦を押し付ける板がついている。
その後、音程が決まって、「フレット」という指板を音程ごとに区切るものが導入されたのだろう。
フレットを打つと、音程がデジタルになる。
ある音から次の音へは連続的には変わらない。
ドの次はド#、という具合に半音ずつになる。
もちろん、アナログに変化させるための奏法はあるのだが…。

しかし、総じてアジアの楽器はアナログ型だ。
特にメロディー楽器(和音を出さないもの)は、基本的に弦を指で押さえることだけで音程を決めている。
音の高さを決めるために、盤に押し付けるのではなく、空中で弦を押さえるという楽器が多い。
インドのシタールなどは移動式のフレットはあるが、指板には押し付けないタイプだと思う。
だが、押さえる時に弦の張力が変わる。強く押さえると音が高くなるのだ。
だから、ちょっと音程が不安定になる。

昨日見たダン・バウという一弦琴はすごい繊細な楽器だった。
空中に張った一本のスチール弦を右手で抑えながら弾く。
左手はその弦の張力を変えるための、弾力のある棒を操作する。
ギターのトレモロアームみたいなものだ。
両方の手で音程を決めるのはすごく高度な技だと思う。
だから、一本しか弦を操作できないのかもしれない。

こんな楽器は初めて見た。
昨日見たものは電気で音を増幅して出していた。
エレキにすることで、音の大きさや微妙な表現力が高まって、アンサンブルの中で使える楽器になったんだろう。

しかし、この楽器を弾くのはとっても難しいと思う。
当たり前だが、音感が優れていないと弾けない。
昨日の奏者はすごかった。
右手と左手の両方を上手に使って音の強さと高さを変えていた。

スゴイ楽器を見た。

参考までにYouTubeのアドレスを載せておきます。
一度御覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=ULaMQmpv1MM



| | 考えたこと | 21:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
人物重視
文科省が「人物を重視した評価を入学試験に取り入れる大学などを公募し、1校につき2000万円の補助を行う事業を始める」と発表した。
1校について2000万円の補助を行うとのこと。
これは教育再生実行会議が、今までの入試は知識偏重であり、意欲や適性も含めた人物評価で選抜することを低減したことを受けたもの。

これはごく一部のトップの大学に対するものと考えるべきだろう。

多くの偏差値50以下の私学はすでにAO入試や推薦入試をやっており、ここでは面接が重視される。もちろん、高校の評定平均も見られるが、この数値もいい加減だ。高校の先生もシンドイ学生に下駄をはかせる傾向がある。
まあ、人集めに厳しい大学は、たとえ高校の評定平均が低くても取っているが…。
結局は入学者を増やすためにやっている、という位置づけだろう。
志願者が集まりにくい学校ほど、AO、推薦で早めに確保したいから、どうしても人物重視になるのだ。
すでに、今や入学者の半数以上が「人物重視」で選ばれているのが現実。
今回の文科省の発表に、今さら何を言っているのか、と思っている大学関係者も多いと思う。

一方で、高校サイドではAO、推薦で決まる学生は、秋に入学を決めてしまい、もう勉強しなくなる生徒が増える。
それが一般入試の受験勉強をしている学生のジャマになるとか、高校3年生の2学期から3学期は、一生の間でも一番勉強するときなのに、それをAOや推薦で入学を決めてしまうから、勉強するチャンスを逃してしまうとか、いろんなAO、推薦に対する批判がある。

それでも、その批判が表に出ないのは、高校側も学力の低い学生をAOや推薦でシンドイ生徒を進学させられるからだ。
本来なら就職したほうがいい学生すら、進学させる。全入だから、大学を選ばなければどこかに入ることができるのだ。
経済的にシンドイから就職させてくれ、という親には、みなさん奨学金をもらっていますから、とローンを借りることを勧める。
そんなことを一部の進路指導の先生はやっている。
そんな不真面目な高校と、教育より経営優先で、入学者を確保したい大学の思惑が見事に一致し、入試制度が成り立っていると言える。

以前にも書いたが、その大学で教えることができない学生を落とす、ということが入試の役割の一つだ。
大学にはクラスもないし、担任もない。
大学の先生は、できない学生に寄り添って、できるまでみておいてやることもできない。
できるのは、リメディアルという学び直しのクラスを作って、そこで集団で教えることくらいだ。
そんなことをしても、大学の学びについていけるようになる学生はほんの一部だろう。
だから、自分の大学の教育レベルをよく考えて、そのレベルで教えることができない学生は入試で落とす、という事をやらないといけない。
それが入試をやる大学の責任だろう。
逆に言うと、入れたのならその学生に責任を持ってちゃんと教えることだ。

でも、実際にはそんなことにはなっていない。
多くの私学では経営優先で、学生を入れている。

ぼくは一度「割合の計算ができない学生に学士号を与えていいのですか」と大学の首脳陣に問うたことがあるが、「学士号は専門の領域に対して出すものであり、問題はない」という答えだった。
しかし、世間の考えは違うと思う。
大学を出たら、割合の計算はできる、と世間は思っている。2割引きとか、15%増しとか、そんな計算はできると思っているのだ。
そこの考えが大学の人達と世間では乖離があるのだろう。

企業も文系については、専門性には全く期待はしていない。
だから、学部不問、学科不問で求人を出すのだ。
どちらかというと、基礎学力に期待している。
企業の就職試験も、小学校・中学校程度の計算問題。
それで落ちる学生がたくさんいる。

そのうえ、企業の面接も変わりつつある。
4月6日のプレジデント。オンラインの「人事部が、のどから手が出るほど欲しい学生」という記事にこう書かれている。

『「企業が再び学歴や学力を重視し始めたのは、『人物重視』として採用した学生のあまりの使えなさに、人が人を見る目の不確かさを思い知ったためです。昨今、熱心な学生は就活セミナー等に通い、『エントリーシート上手』『面接上手』になっています。悪い言い方をすれば『ごまかし上手』で、巧妙に企業が欲しい人物像を演じられるのです。こうして入社した学生の中に、使えない人材が散見されました。能力ではなく、入社への熱意に着眼していたので、希望部署に配属されないなどの理由で、やる気が下がればパフォーマンスも下がってしまう」

確かに就職活動を始めるまでよく知らなかった会社に対して、“一生この会社で頑張る”と言っても、入社後にその熱意は冷めてしまうかもしれないが、学力や思考力はそう簡単には落ちない。』

実際はそうなのだ。
「人物重視」というなら、時間と手間のかかる選考をするしかない。
何度かの面接をするだけでは、とてもムリだろう。
高校とも協力して、在学中から動かないといけない。
だから経費がかかる。
そういう選抜のための補助金だと思いたい。

安易な「人物重視」は企業の人事みたいに、「学生のあまりの使えなさに、人が人を見る目の不確かさを思い知る」ことになる。
「人が人を見る目」ほどいい加減なものはないからだ。

だからこそ、学力や思考力を入試で問うのだろう。
そこは譲れないと思う。

入試制度改革をやろうとしているが、偏差値50以下のAOや推薦で入る学生たちの現実をもっとわかってやってほしい。
それが日本の教育レベルの底上げにつながるのだ。

| | 考えたこと | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
小保方さん会見
今日の昼、STAP細胞の小保方さんの記者会見があった。

弁護士が説明していたが、何となくぼくらが知りたい論点とはズレていて、理化学研究所対小保方の内輪の喧嘩をみんなに訴える、という感じだった。
改ざんの定義とか、捏造の定義とか、どこを拡大したとか、どこをトリミングしたとか、細かいことを言って、調査委員会に不服を申し立てた、という内容。
それはそれで、小保方さんにとっては大事なことなのだろう。
彼女からしたら、理化学研究所は全ての責任を自分一人に押し付けたという不服があると思う。

そういう主旨で、弁護士主導で会見したのだから、それは当然だ。

でも、ぼくらが知りたいのは、STAP細胞が本当にあるのか、ないのか、どうやって作るのか、あるいは作ったのかということだ。

今日の会見で小保方さんは200回以上STAP細胞を作った、と言っていた。
素人考えだが、そんなに何度も作ったのなら、どうしてNatureの論文に何枚も載せなかったのだろうか。
どうして理化学研究所での調査時点でそれを主張しなかったのだろうか。

本当に小保方さんがSTAP細胞を作る技術があり、STAP細胞が存在するのなら、もっと真摯に科学的な話をするべきだろう。

研究者として、捏造だのなんだのというのが大事なことなのはわかる。
それなら、博士論文で20ページもコピペをしていたのはどうなるんだろうか。

いろんな研究室を渡り歩いて、研究を我流でやってきた、というのは言い訳に過ぎないと思う。

それが本当なら、博士号を授与した早稲田大学の罪は重い。

これは小保方さん一人の問題ではない。
日本の博士号の信頼が問われているのだ。

それでなくても、博士を作りすぎて、約1万8千人がまともな仕事に就けないままだ。

こんな役立たずの博士ばかりなら、それも頷けるのだが…。

それで、いいのだろうか。

| | 考えたこと | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ストレッチ
ジムで身体のチェックをしてもらうサービスがある。
入会時はタダなので、45分のコースをやってもらった。

膝を軽く曲げて立つ。
その時の足の位置などで、特徴がすでにわかる。
ぼくの場合は右足が前に出ていて、右肩が下がっている。
それを見て、インストラクターの先生が「左から身体を押されたら、持ちこたえることができますが、右から押されたらダメですね。」という。
実際にやってみると、左は踏ん張れるが、右は簡単に身体が動いた。

立ち姿を見ただけで、そんなことがわかる。
「ひぇー、これはすごい」
ついつい、お金を払って、8回のコースを申し込んでしまった。

昨日が1回め。
無料の時は軽くやるので、あまり痛くない。しかし、申し込んでやると気合が入る。
だから、伸びないところを伸ばすので、当然身体が痛い。
若い男性のインストラクターが、伸びないところを持って身体を動かす。
「はい、息を吐いて、もう少し動かしましょう」
痛いのだが、息を吐いて動かすと少しずつ柔らかくなる。

約30年のオフィスワークで身体が固まっている。
座って、主にキーボードに打ったり、コンピューターを操作する生活をやってきた。
土日に身体を動かした時期もあったが、数年だけだ。
だから、身体が前に縮こまっている。
座る姿勢も悪いので、左右対称にはなっていない。

肩が後ろに回らない。肩甲骨が動かない。腕の付け根のところも固い。
腕の筋肉も固い。
腹筋、背筋も使えない。
一番固いのが足首。
足首を曲げる、という感覚がわからない。足首を曲げようとすると足の指が動いたりする。

要は身体中が固いということだ。
普段から気をつけて、身体を伸ばすということをやっていないし、運動もしていないから、こんなことになる。
後悔先に立たず。

説明によると、いくらジムでトレーニングをしても、身体の可動域が広がっていないと効果が薄いとのこと。
同じマシンを使っても、動かせる範囲が小さくなるし、ウォーキングなどの運動をしても、効果は薄まる。

だから、まず身体を柔らかくしないといけないとのこと。

しかし、ものごころついた時から、身体は固かった。
ほんとに柔らかくなるのか…。

まあ、頑張ってみよう。

| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
採用責任者座談会に思う
プレジデントオンラインというWebの記事に、採用責任者座談会「こんな大学、こんな学生はいらない!」というものがあった。

それによると、

「大学生の就職活動について、後ろ倒しになる傾向が続いています。2016年卒の大学生からは、就職活動の解禁時期が現行の3年生の12月から3年生の3月へ繰り下げられることになりました。
ところが、このことによって「他社に出し抜かれるのではないか」という危機意識を持つ企業が増え、採用活動が水面下でかえって「前倒し化」され、解禁時期以前から非公式な形での採用活動が始まるなど「アングラ化」し、その入り口も多様になり「マルチルート化」していくのではないか、と筆者(東京大学大学総合教育研究センター准教授 中原 淳)は予想しています。
そこで、最新の企業の採用活動の実情を探るべく、人気企業の現役の採用担当者の方々に集まっていただき、「覆面座談会」を敢行。集まっていただいたのは採用人数100〜200名という就職人気企業3社の採用担当者、IT企業Aさん、人材サービス業Bさん、製造業Cさんです。PRESIDENT誌2014.4.14号「採用責任者座談会『引き抜き合戦の舞台裏』」で掲載できなかった部分も含め、劇的な変化の渦中にある採用現場からの声をお届けします。」

と書いてある。

安部首相の指示で、来年度から就活時期が繰り下げられるというのは事実。
3回生いっぱいは勉学に専念してほしい、ということだ。
大学の方々は本来なら歓迎すべきことであるが、就活期間が短くなって大変だ、ということを言っている人もいる。
ただ、その指示には強制力はなく、経団連加盟企業(かなり大手)がメインの対象だ。
外資系企業などは対象外だし、楽天などは従わないという意志を表明している。
記事では経団連加盟企業の4割は、繰り下げに賛同していない、とも言っている。
中小企業などはどうするか、まだわからない。様子見の状態だ。
今年度と同じく3回生の12月から広報を始める、と言っている企業もある。

企業にとっての問題は、学生にコンタクトできるのが3ヶ月ほど遅れるので、できればそれ以前に学生にコンタクトしておきたい、ということだろう。
となると、インターンシップの機会は逃せない。
比較的余裕のある会社は、インターンシップを去年よりも強化すると思う。
そこで学生につばをつけて、青田刈りしたいのだ。

それにしても、この覆面座談会、何となく感じが悪い。
人を評価したり選んだりしていると、人間が増長してしまう、ということがあるんだろう。

就職指導をしていても同じことだ。
恐いのは「指導」ばかりしていると、自分が偉くなったような気になることだ。
自分の中で、自分の若いころのこと、彼我の環境の変化などを思い知っておかないといけない。
何より、今の学生を育ててきたのはぼくらの世代なのだから。

それはさておき、企業の側は人材確保のために必死だということがよくわかる。
面接で学生を選別するのは至難の技だから、より確実な方法としてインターンシップ(無償の就業体験)の機会を増やす、という。
特にエンジニアはそうらしい。

やはり採用側にとっては、学生とのコンタクトが減る分、インターンシップに力を入れるというのは理にかなっている。
しかし、インターンシップができるのは、ある程度余裕のある会社だけなので、中小がどうするかは難しいところ。

さすがに人事担当者の座談会だけあって、事業部門に採用を任す、ということには否定的だ。
みなさん、人事部門がある程度主導権を持っていきたいと思っている。
しかし、これについては段階的に事業部門に移さざるを得ないと思う。
就社から就職、という流れがあるからだ。

ぼくらの時代は、入った会社で定年まで働く、というのが当たり前だった。
しかし、これからの時代は、会社を変わってでも自分のスキルを伸ばしていくという、より「職」にフォーカスした人が増えてくる時代だろう。
新卒一括採用はそう簡単になくならないと思うが、だんだんと採用が複線化していくのは時代の流れだし、座談会でもそういう話になっている。

当たり前の話だが、何回かの選考で「優秀」と思われた新入社員が必ずしも3年後、5年後に成果を上げてないらしい。
「その人が活躍するかどうかは職場や上司など、むしろ育成に依存しているのではないか」ということだ。
人の問題は難しい。
正解はないと思う。

驚いたのは「実は今年から最終面接まで残ったものの、内定を辞退して別の会社に行くことになった学生には「1,2年後に電話してもいいか」という許可を取るようにしているんです。」という発言。
そういう時代になっているのか…。
1,2年後には入社した会社と相性がわかるし、その時に不満があれば転職も可能、ということだ。
やはり就社から就職へ、という時代。

やはり流れとしては新卒一括採用は減少傾向で、多様な人材の通年採用の市場が増えてくる、ということになる。

これからの時代、「入った会社で定年まで」という時代ではない。もちろん、その会社が気に入れば定年までいてもかまわないが、一方で会社自体がなくなるというリスクもある。
とりあえず3年、という見方でかまわないと思う。
3年経てば一人前に近づく。
中途入社の市場では、一人前の人を求めている。
だから、とりあえず3年だ。
そう考えて、どこに行くかを決めたらいいと思う。

これからの時代、成長はあまり見込めないし、年金の制度は破綻している。

若い人は大変だ。

| | 考えたこと | 21:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
イメージトレーニング
長いこと書いているので、もう書いたと思うのだが、ひょっとしたらまだかもしれないと思って検索してみると、どうもまだ書いていないらしい。

そんなに大したものではないが、これはぼくが落研で舞台に出た経験や、たくさんの人の前でプレゼンをしたりした経験から得た「イメージトレーニング」の方法だ。
きっとHowto本などにも載っていることだと思う。

プレゼンや面接をする予定の人に、どんなイメージトレーニングをしているか?と聞くと、たいがい「ぶっつけ本番」で、驚くほどイメージトレーニングをする人が少ない。
たしかに学生時代、そういう事を教えてもらったことはない。

イメージトレーニングをするという人でも、聞いてみると、自分が面接を受けている視点、プレゼンを行っている視点でイメージ作りをするという。
つまり、面接官が目の前にいるところ、観客が目の前にいるところをイメージする。
ぼくは、この方法は勧めない。

面接でもプレゼンでも、何のためにイメージトレーニングをするのか。
あがらずに、自分の言いたいことをちゃんと伝えるため、というのが目的だろう。
そのためには自分を客観的に見ることが必要だと思う。
経験上、自分の視点で見ていては緊張はましにならない。
自分の視点を離れて、外から自分を見ることでましになるのだと思う。

だから、面接の場合なら面接官と自分を見ている視点になるし、プレゼンなら客席と話し手の自分を見ている第三者の視点になる。
より具体的にイメージを浮かべることができるから、できるなら場所の下見をしておいたほうがいい。
できないとしても、何人入る部屋か、広さはどんなものか、イメージできるような情報は聞いておく方がよい。

自分を外から見るというところを想像する、ということが難しいのかもしれない。
それが上手に想像出来た場合は、うまくいくことが多い。

これがコツだ。

| | 考えたこと | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
In Japanではねぇ
グローバル化が進み、世界で勝負しないと会社が存続しないという時代を迎えた。

楽天の英語公用化が大きく取り扱われ、入社の条件をTOEIC何点以上にする、という企業も増えてきた。
要は英語でコミュニケーションできることが大事、ということだ。
アジアでも、欧州でも、ビジネスは英語だ。

文部科学省は小学校から英語をやろうとしている。
小学校教員は英語を教えるのが苦手なので、専門の外国人を入れたりしている。
小学校から、正しい発音を教え、流暢な英語を話せないといけない、と思っているようだ。
文部科学省の役人たちは、よほど英語コンプレックスを持っているのだろう。

ぼくが入った会社は、元は英国の会社だった。
英国本社の極東工場だったのだ。
それを日本の会社が買い取り、それで日本企業になったという沿革。
だから、ぼくが入った時の上司は、英語が話せる。
エライ人が英国人だったからだ。
聞くと、当時は出張の前受のことをアドバンスと言っていたらしい。

ぼくが入った当時のD課長はそういう上司だった。
まだ海外に行くのが珍しい頃、何度か欧州各国に行って、クルマで走り回ったりしたらしい。
外国人の知り合いも多かった。

ぼくは20代の前半、生まれて初めての海外出張をD課長と一緒に行った。
カバン持ちだった。
ベルギー、ドイツがメインだったが、現地の人たちと話をした。
得意先の現地法人の人たちとテストをして、打ち合わせもした。
ぼくは何を言っているのか聞き取れず、聞けなければ話せない、ということを思い知った。

その時のD課長の英語が印象に残った。
D課長は、無理に流暢に話そうとしない。
場合によっては日本語もチャンポンで話す。
「日本では」という時には「In Japanではねぇ」という。
全部が全部そんな調子ではなかったが、随所に日本語が入る。
発音もそんなに本格的ではなかった。
でも、その時に思った。
言葉は通じればいいのだ。
向こうが聞きたいと思えることを話していれば、少々ブロークンであっても聞こうとしてくれる。

ぼくらは、所詮英語ネイティブにはなれない。
英語を話すことに一生懸命になるより、話す内容を持つことに一生懸命になる方がいい。
世界には英語を流暢に話せない人がたくさんいる。
最低限、通じればいいのだ。
相手が聞きたい、と思う話ができる方が大事だ。

そんなふうに文科省も考えられないのだろうか。
外国語を話すことは手段であって、目的ではない。
少々ブロークンでもいいから、通じればいいのだと思う。
それよりも、人と人との信頼関係を築けるような自身のコンテンツを持つことだ。
そうではないか。

In Japanではねぇ、it’s OKや。


| | 英語 | 20:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
新入社員のタイプ
毎年、日本生産性本部がその年の新入社員のタイプを発表している。

今年のタイプは「何事も安全運転の自動ブレーキ型」。
「頭の回転は速いけれど、困難な壁はぶつかる前に未然に回避する傾向がある」とのこと。
なるほど。

ちなみに、2013年は「ロボット掃除機型」。
「部屋の隅々まで効率的に動き回り家事など時間の短縮に役立つが、段差(プレッシャー)に弱く、たまに行方不明になったり、裏返しになってもがき続けたりすることもある。能力を発揮させるには環境整備(職場のフォローや丁寧な育成)が必要」だった。

2012年は「奇跡の一本松」。
この年は東日本大震災の翌年で、厳しい就職状況の中でも耐えて頑張ったということだ。

毎年いろいろなネーミングで面白い。
ここ数年ではやはり「ロボット掃除機型」が秀逸。
うまいこと言うなあ、と自分が若いころを棚に上げて思う。

しかし、ロボット掃除機型で言っていることは、いつの新入社員にもある程度は当てはまると思う。

ぼくらの頃と違うところは、3点。

 ・効率的に動きまわらない
 ・時間の短縮に役立たない
 ・行方不明にならない

全体的に、昔の新入社員の方が能力が低かったと思う。
今の方が技術の進歩が早く、新しいことには新入社員のほうが有利だろう。
だから、効率的とか時間の短縮というようなことなら、今の方が上だと思う。
一方で、行方不明になるような新入社員はいなかった。

中小企業の社長に聞いたが、ある日突然来なくなったりするらしい。
驚いたのは彼女にふられたショックで、電話で辞職を告げ、会社に来ないという男性社員の事例。
社長が家まで行って辞職をとどまるよう説得したとのこと。
そういう事例には事欠かないらしい。

ぼくは、会社で働くイメージなど全く持っていなかったが、当時の新人はみんな働かないといけないと思っていた。

「いちご白書をもう一度」の世界だった。

「就職が決まって、髪を切ってきた時、もう若くないさと君に言い訳したね」という世界だ。
就職とは、学生時代に別れを告げて、社会人になることだった。
学生と社会人の距離は「気分的に」今より離れていたと思う。
学生生活は、自由でどちらかというと反体制的なものだった。
その学生から、社会人という「体制」に組み入れられる、というのが精神的な「溝」になっていたと思う。
就職したら、もうバカな遊びはできないし、体制側の人間として社会の秩序を守らないといけない…、そんな感じだった。
だから、就職を決めたら、もう戻れない道に踏み出したのと同じだった。
「学生」と「オトナ」は違うものであり、就職は「オトナ」へのジャンプのようなものだ。
それだけ、「社会」というものを意識していたんだと思う。

だから、そう簡単に辞めるようなことは考えない、というか、そんなことも意識しなかった。

多分、今の若い人にはそのような「社会」や「オトナ」に対する意識が薄いのだと思う。

今の若者にとって、「社会」というものが、はっきりしなくなったのだろう。
ぼくらの若い頃は、「保守と革新」とか、「自民と社会」、「資本主義か社会主義」というような軸があった。
その中で、自分の位置がどこにあるか、決めやすかったと思う。
そういう軸が今はなくなったから、自分で自分の場所を決めないといけなくなった。
社会とは…、なんだかわかりにくくなっている。

「オトナ」がオトナらしくなくなった、とも言える。
世の中から権威がなくなった。
先生も博士も政治家もみんな偉くない。
それどころか、悪いことをする人になった。
今、どこにもエライ人はいなくなった。
今の若い人にとって、「オトナ」は選ぶものになったのではないか。
「コドモ」みたいなオトナが増えたということもあるだろう。

そんなワケで、今の若い人は昔に比べて社会にでるときに「もう戻れない」という覚悟が薄い。
だから、行方不明になる人が出てくる。

きっと今の若い人たちは、自分を社会の中でうまく位置づけることができないのではないか。
社会人になる「覚悟」を持ちにくい社会なのだ。

そんな「ロボット掃除機型」なのだろう。


| | 考えたこと | 20:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
商社とメーカー
亡くなった親父は繊維商社に勤めていた。
日本の商社は外務省よりも情報が速い、ということを自慢していた。
父はずっと経理だったので、海外にはあまり行ったことがなかったが、パキスタン(現バングラディシュ)に1年ほど行ったのが商社員らしい出張だった。
そんな会社に60歳までいて、定年した。
定年後は繊維メーカーに週3日ほど行っていた。

ぼくが今日10年前に辞めた会社の人と飲みに行くと行ったら、実家の母が「へー、10年経ってもそういう付き合いがあるんや」と驚いた。

10年経っても、宴会に呼ばれるとは商社では考えられないと母は言う。
父はそういう経験はなかったのか。

商社とメーカーの違いではないか、と母は言う。

ぼくは小さい頃から商社は素晴らしいと聞かされて育ったから、商社に対するあこがれはあった。
同級生の1人は理系だったが、自ら商社を志望して行った。
ぼくはそんな大胆なことはできず、メーカーに就職した。

一度商社の人にアテンドしてもらって海外出張に行ったことがあったが、やっぱり商社の人はすごいなあと思った。
常に商売のタネを探している、という姿勢がそう思わせたと思う。

ぼくはメーカーでよかった。
ぼくのいた技術部はいい人が多かったし、上司にも恵まれたと思う。
「仕事は楽しくやらないかん」と言ったのが最初の課長。

結局は運なのだと思う。
その時、何かの縁があって勤める。
勤めた先で出会う人達がどんな人か、どんな部署に配属されるのか、どれくらい忙しいか、景気の状況はどうか、その業界は上り坂か下り坂か…、そんなことは運だ。
もちろん、自分の努力でどうにかなる部分もあるが、ほとんどが運だと思う。

ぼくは結果的に恵まれた時代を過ごした。
今振り返ってそう思えるのは、幸せなことだと思う。

辞めて10年経っても、宴会に呼ばれ、飲みに行く。

そんな会社に勤められたことは、ラッキーだった。

本当にそう思う。

| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
仕事の意味
4月1日は新入社員のことが話題になる。
今日の日経の社説に、新入社員のことが書いてあった。
それによると、「自分のキャリアプランに反する仕事を我慢して続けるのは無意味だ」と考える新人が2013年秋に過去最高の42.4%に達したとのこと。

記事はこう続く。

 「今の学生は長い就職活動で自己分析を重ねる。「こんな長所がある、こういう仕事で生かしたい」とスムーズに答えるべく練習も積む。その結果、会社も自分の夢や長所を理解して採用してくれたと思う学生が意外に多いという。
 しかし、本当の向き不向きは時間をかけ、様々な仕事を通じて見つけるものだ。そうしたことを丁寧に説いてはどうか。目の前の仕事にまず取り組むことの意味を、きちんと説明するのも効果的だ。」

ぼくはこの3月末まで7年間、学生の就職指導の仕事をしてきたが、ここに書かれているのは本当にまっとうな意見だと思う。

実際、学生たちに「自分のやりたいことは何か」というような事を問うことから、就職活動は始まる。その問いが学生と社会を自発的につなぐ接点だからだ。
面談の時も「何かやりたいことはあるのか?」と聞くことからスタートすることが多い。
これは90年代から始まった、インターネットによる新卒求人のシステムが招いたものだ。
学生の就職活動は、会社を検索したり、説明会に行くことから始まる。企業が企業内容を宣伝して、学生を公募する。学校名を聞かない会社も多い。(実際には学校名等でフィルターをかけている会社もあるが)
これが就職初期の通過儀礼のようになっている。
何もしたいことがない学生は、合同説明会に行って、行きたいところを見つけなさい、と言われて出て行く。

つまり、世の中のことを何もわかっていない学生が、無理矢理にでもどこかの会社に興味を持たないといけないのだ。

翻って、ぼくらの時代はどうだったか。
ぼくは理系だったが、学校に来ている求人票の中から選んで就職した。
迷うほどの選択肢はなかった。
ぼくは単にその会社が神戸にあるという理由だけで決めた。
その当時、職業選択に今ほどの自由度はなかったと思う。

ところが、インターネットが出てきて、本当に学生全体に対して公募することが可能になった。
これがナントカナビと言われているものだ。
これが90年代。この時から、就職はオープンなものになった。
オープンという意味は、すべての学生が、ナビを経由さえすれば、どこの会社にでも行ける可能性がある、ということだ。
だから、企業側の選考も厳しい。
何とかしていい人材を選んで入れないといけない。
会社は人で決まる。(もちろん、いい人材とはどんな人材かという問題はあるが…)

というわけで、この頃から大学の就職指導が盛んになった。
学生が会社を選ばないといけなくなったからだ。
文系に限っては、学部、学科の専門性など関係ない。全学部全学科、というような求人がほとんどだ。
昔のように、英文学科だから、英語の仕事を、というようなことはなくなった。英文学科を出ているより、TOEICの点数の方が信用がおけるからだ。

そういう流れで多くの大学で、就職課というような名称がキャリアセンターとかいう名前に変わった。
そして、学生に「何がやりたいのか」を聞くようになった。

時代は流れて、ここ数年は自己分析、業界企業研究といった言葉が就活生に伝えられる。
何がしたいのかをわかるためには、自分のことをわからないといけない。だから自己分析をする。
そして、相手である業界や企業のことを知らないといけない。
これらを知れば、就職できるぞ、ということだ。

そして、冒頭の問題が出てくる。
「自分のキャリアプランに反する仕事を我慢して続けるのは無意味だ」と思う新入社員が4割を超えたということだ。
昔のように、就職した会社に定年までいる、という時代ではないから、自らのキャリアプランは以前よりも大事だというのは事実。
しかし、入って1年目の新入社員の4割以上が「自分のキャリアプランに反する仕事を我慢して続けるのは無意味だ」と思っている、というのは問題だ。

だいたい、「自分のキャリアプラン」など、決めることができるのは何年か働いてからだろう。
自分のキャリアプランが、はたして自分に向いているかどうかもわからない。
働いたことがないからだ。

もうぼちぼち「自分のやりたいことは何か」と聞くのはやめよう。

要は、どこでもいいから、まずは働くことだ。
だから、ご縁のあるところに行ってみるということを推薦しよう。
どこがご縁のあるところか、というと、説明会に行って興味を持てたところだ。
いや、興味を持てなくてもいい…

でも、企業側が「君は何がやりたいのか」と面接の時に聞くからなあ。

みんなして、若い人のやる気を間違った方に導いているのだ。
もうぼちぼち考えなおしたほうがいい。

| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
フランスの考え
もう今から30年以上前にフランスに長期出張した。

その当時フランスは農業国で、重機械工業の輸出は武器がトップだった。
今でもアメリカ、ロシア、中国、ドイツに次いで5位の武器輸出国だ。

当時、フランス人と話をした。

「お前の国は武器をたくさん輸出しているのではないか」
「そうだ」
「武器は戦争にも使われ、人が殺される」
「そうだ」
「輸出をやめたらどうか」
「フランスが輸出しなくても、誰かが輸出する。武器はなくならない。だからフランスが輸出するのだ」

ということだった。

悪いことだが、世の中には「なくならない悪いこと」もある。
また、武器は戦争の抑止力にもなる。
武器は必要悪といえるかもしれない。

だから、どうせ誰かが作るに決まっている。
どうせ誰かが作るのだから、フランスが作る。

見事な論理だ。

武器さえ輸出しておけば、世界の武器の需要もわかる。
農業国だから、食べ物には困らない。
人口は6000万人程度。

いずれ、日本も見習わないといけなくなるかもしれないぞ。

| | 考えたこと | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |