考えたこと2

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some
"some"というのは、難しい単語だ。

いくつかの、という意味がメインの意味。
"some books"というと、何冊かの本という意味になる。

この"some"の使い方で、難しいのが"someday"だ。
"some days"なら、「数日」となるのだが、これが"someday"になると、「いつか」、という意味になる。

このときの、"some"は「どれか」という意味だろう。
「どれかの日」が転じて、「いつか」になる。

だから、"someone"は「どれかの人」となって、「誰か」になる。

"something"は、「どれかのもの」で「何か」になる。

日本語では、「いくつか」というのと、「どれか」というのは、全く違う言葉だが、英語ではニュアンスが近いのではないか。
もともと、"some"を「いくつか」というのが違うんだろう。
"some days"というのは、どれかの日、というニュアンスがあって、それが「いくつか」になるのかもしれない。
一日だったら、one day。
どれかを選べるということは、二日以上だから、結局「いくつか」になる。

そんな風に勝手に考えている。

言葉の違いというのは、意味の違いであり、世界を切り分ける言葉の種類をどうやって選ぶか、ということになる。
だから、厳密にいうと、言葉が違えば、世界の見え方も違わざるを得ない。

日本では虫の声というと、色々ある。
チンチロリンとか、リーンリーンとか、ガチャガチャとか、虫ごとに違う声を割り当てている。

これが英語ではchirpという言葉でひとくくりになるらしい。

日本の秋の虫の声がひとくくりで、同じ言葉になるとすると、だいぶ世界が変わる。

そういうことを考える上でも、外国語を習うのは価値があると思う。


| | 英語 | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
時間というもの
時間とは何だろう。

ぼくは、時間というのは人間とは関係なく存在するものだと思っていた。
しかし、そうではない、という人もいたのだ。

動物には時間という概念はない、ということが岸田秀先生の本に書いてあった。
動物には本能があり、本能があるから、時間という概念はない、とのこと。
よくわからないが、そういうことらしい。

人間は本能が壊れている。
これはフロイトがそう言っている、と岸田先生は言っている。
本能が壊れたから、欲望に限りがなくなって、それで時間という概念を持った、ということだったと思う。

欲望に限りがなくなったから、時間を発明したということ。

お腹がいっぱいになったら、動物はもう食べるのをやめる。
ところが、人間はお腹がいっぱいになっても食べることができる。
なおかつ、これを「明日まで」とっておこう、ということを考える。
これが時間という概念。
「いつまで」という先延ばしが、限りない欲望を生みだす。
それが時間の起源らしい。

これを読んだときは驚いた。
たしか、「二番煎じ ものぐさ精神分析」だったと思う。

本能が壊れているから、時間が必要になった、ということ。
これはいいことか、悪いことか?
そう言われれば、悪いことのような気になる。
欲望を抑えるのが、本能の働きだとすると、それはあった方がいいだろう。

お腹いっぱいのライオンは狩をしない。
イヌやネコが、来世のことを考えるとも思えない。

人間は、自分が生まれる前のことも考えるし、死んだ後のことも考える。

時間という概念がなくなる、ということは、「今」だけになるということだろう。
人間以外の動物たちは、今を生きている。

ところが、人間は今だけでは満足ができず、昔のことや先のことを考えて、行動する。

これは果たして進歩だろうか?

これは難しい…。




| | 考えたこと | 22:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジプシー
この言葉をどこで覚えたか、わからない。

昔は、テレビの洋画などでジプシーが出てきたと思う。
ジプシーがフラメンコを弾くとか、キャンピングカーみたいなのに乗って移動するとか…。
根無し草のような生活。
そんなイメージだ。

地理か世界史でジプシーという言葉は出てきたかもしれないが、記憶にない。

しかし、ジプシーと聞くと、そのイメージがある。

何でこんなことを言っているかというと、次男がこの言葉を知らないからだ。
鬼平犯科帳のエンディングテーマをジプシーキングスがやっているのだが、そのジプシーとは何かと聞く。

スペインあたりの流浪民だ、というと、へー、という。

今は普通に生活していると、ジプシーという言葉は聞かずに育つ。
ぼくらの小学校、中学校の時代はジプシーが映画などにも出てきていたのだろう。
最近は、フランス映画やドラマが減ったのもその一因ではないかと思う。

欧州ではまだ生きている言葉かもしれないが、日本ではもう若い人の間では死語だ。

ジプシー=流れ者というイメージが通じない。

通じなくても、どうということはないのだが、何となくさびしい。


| | 考えたこと | 00:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
観葉植物
以前、近所のモールを歩いていて、何となく気に入って観葉植物を一鉢買った。

一つ目はすぐに枯れてしまって、今は3代目と4代目がある。
暖房を入れている部屋に置いてあるのだが、植物の不思議には驚かされる。

名前は知らないが、3代目はシダの仲間だろう。
4代目はもっと葉っぱが柔らかくて、小さいタイプだ。
鉢から葉がこぼれているという感じ。

3代目は春先に買ったと思う。
夏に茎がどんどん伸びて、日のあたる方向に伸びていった。
伸びすぎて、じゃまになったので、ちょっとハサミで切った。
切ったところから、また茎が伸びてきて、育っている。
太陽の方向に伸びている。
だから、水をやった後は必ず同じ方向に置いてやる。

4代目のほうはあまり水が減らない。
葉っぱは柔らかくて、分厚い。
大きくなるわけでもなく、枯れていくわけでもない。
同じ大きさを保っている。

たしか、中学のときに、なぜ葉っぱが太陽のほうに伸びていくかという理屈を習った。
成長のホルモンが、光の当たらないところほどたくさん出て、そのメカニズムで茎や葉が太陽の向きに育つのだったと思う。

シンプルな仕組みで、上手にコントロールしている。
日の当たらないほうが成長が早く、日の当たるほうが成長が遅い。
ただそれだけで、まるで意思を持っているかのように、光の方を向く。

えらいものだ。

今ロボット工学で、昆虫の仕組みを調べているという。
簡単な構造、シンプルな制御で、複雑な動きをすることができるからだ。

しかし、まだまだ植物の仕組みもわかっていない。
いろんなことが解明されてくると、植物の知恵も取り入れることができる。

前にも書いたが、CO2と光で、酸素とでんぷんを作ることができる。
これが葉緑体の働きだ。光のエネルギーの利用効率が高い。

エコロジーだ。

誰かがどこかで考えているのだろうか。


| | 考えたこと | 22:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
やるべきことがあれば…
妻が事故で流産し、その後射殺され、、がっくりしている警部に、部下の女性が言う。

「やるべきことがあれば、朝は起きられます。そうですよね。」

部下の彼女は独身で、一人で生きてきた。

警部は一人で生きたことがない。
いつも家族、妻と一緒に生きてきた。
結局、家族と離れ、妻とも分かれて生きるはめになる。

それでも…、という励ましの言葉が「やるべきことがあれば…」というもの。

気の利いた言葉だと思う。
「やるべき事があれば、朝は起きられます。そうですよね。」

警部は、どうして君は一人で生きられるのか?という事を聞いた。
彼女は、ずっと一人で生きてきたし、慣れているから、と答える。
その次の言葉が、「やるべきことがあれば…」というものだ。

警部にはやるべき事がある。
だから、そういう言葉をかけた。
いい部下だと思う。
信頼関係があり、互いに尊敬している。

そんな上下関係でありたいものだ。





| | 考えたこと | 02:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
公共広告機構
震災があってから、民放の宣伝が公共広告機構ばかりになった。
とにかく、多い。

「だいじょうぶだよ」
「子宮頸ガンの検診」
「まほうのことば」

これはスポンサーが通常のCMを自粛して、代わりに公共広告機構のCMを流すということでやっているらしい。
結局、スポンサー料は入らないらしい。
それでも、流すということは、CMが入るのが当たり前になっているから、スタッフが困るからだろう。

西日本はだいぶ普通のCMも入りだしたが、東日本はまだまだかな。

しかし、これは自粛というよりも、そんなものにお金をだしていられない、という事ではないか。
だんだんとテレビのCMは効果が薄れている。
そこにお金をかけるより、色々なメディアでCMをした方がよい、ということがわかってきたのだと思う。

新聞もだいぶ広告が減った。
だから、新聞が薄くなった。

ということは、企業の広告もメディア分散していっているのだ。

新しいメディアである、インターネットや携帯サイト、雑誌(主にジャンルを決めた商品紹介のもの)、衛星放送などに力を入れはじめたのだと思う。

震災がきっかけで、民放のCMはかなり減るのではないか。

あるいは、大幅に広告料下げるか…。

そんな気がする。


| | 考えたこと | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
中2病
中2病という言葉があるらしい。

長男が下宿から帰ってきて、聞いた。

「何やそれ」
「中2の頃に言いだすようなことを、中2を過ぎても言っているということや」

そんな言葉があるのかと思って、wikipediaでひくと、載っていた。
ラジオから出てきた言葉で、ネットの俗語となっているらしい。

症状は以下のようになっている。

洋楽を聞き始める。
うまくもないコーヒーを飲み始める。
売れたバンドを「売れる前から知っている」とムキになる。
やればできると思っている。
母親に対して激昂して「プライバシーを尊重してくれ」などと言い出す。
社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると「アメリカって汚いよな」と急に言い出す。

要は背伸びして大人であろうとする、というような感じだろう。

それに伴って、高二病というのも出てきた。
こちらは、wikipediaではないが、アンサイクロペディアによると、以下の説明。

「通常の人間であれば中二病の時期を経て最終的に無意味に飾ることのない自己基準を確立することになるのだが、中二病にあまりにも神経質になりすぎる、あるいは中二病自体が悪化する事によって発症する。エリクソンが言う青年期のアイデンティティーの危機の一つであるとも言える。」
「どちらも痛々しさの程度に変わりはないが、中二病が既にいわゆる若気の至り的な自虐ネタ等として笑って語ることの出来る範囲に留まっているのに対して、年齢的に後者のほうが幼稚に見えるため実際より重症患者として扱われる。」

そういう言葉がある。
まあ、発達段階でちょっとつまずいて、そのままになっている、という状態だろう。

しかし、こういう言葉があるということは、発達障害者が増えてきているのと無縁ではないだろう。

発達障害というのは、その年齢に見合った発達段階に到達しないということだ。
今になって、子どもの数は減ったが、それでも発達障害が増えている。
その原因は何なのか。

何となく、今の世の中を見ていると、子どもが子どもを育てているからではないかと思う。

昔、一億総白痴化という言葉ができたが、それが進んできたということだろう。

一億総白痴化とは、1957年に評論家の大宅壮一が言った言葉で、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味。(wikipedia)

1957年というと、ぼくが生まれた年。
そのころから、日本人は「白痴化」していたのだろう。
50年以上かけて、ゆっくりと進み、そして今、白痴化が「発達障害」として顕在化してきたということかもしれない。

大宅壮一はえらかった。
50年前に今の状態を予想したのだから…。




| | 考えたこと | 22:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
地軸と時間
今回の地震で、地軸の傾きが変わったらしい。

http://jp.ibtimes.com/articles/16100/20110316/524461.htm

詳細はまだ不明だが、プレートが動くというのはすごいエネルギーなのだろう。

そして、一日の長さも変わったという。

エライものだ。
そんなことが計算できるとは…。

シミュレーションの技術が発達したからだろう。
そういう計算が可能な計算機もできた。

地球をどんなモデルで表しているのかはわからないが、質量分布を決めて、それが地震でどう変わったかを推定して入れるのだろう。

しかし、地軸の傾きが17センチ動いたというのはすごい。
地軸の傾きは23.5度というふうに表しているが、これをセンチ単位で計算できる精度だということだ。

公転面に対して、何千キロメートルというずれの量だろうから、それに対して17センチというのは、すごい精度だ。

あくまで、長期にわたって測らなければ、本当の変化はわからないということだろうが(それをどうやって測定するのかも知らないが)、それにしても今回の地震の大きさがわかる。

ということは、大陸が分化して、地球の形が変わることで、地軸の傾きや一日の長さが変わったということだ。

ぼくらの知っている歴史の中では、地球というものは変わらないものだと思っていたが、それも時間の流れのなかで切り取った事実でしかないということだろう。

そう思うと、「往く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず…」という方丈記の一節は真実を語っていると思う。


| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
言葉の断片
今日は高校の友達に会った。
10年ぶり、20年ぶりの人もいた。

本当に久しぶり、という感じだった。

10年前に亡くなった仲間がいる。
ぼくが彼との一番の思い出だと思っていた話を、生前の彼にしたら、全く覚えていなかった、という話をした。

もう一人がぼくについて覚えていることを言うと、へー、そんなことがあったかなあ…ということになった。

人によって、同じ時間を過ごし、同じ事を経験しても、印象に残るところが違う。
そのとき、その瞬間に出た言葉は、もう自分のものではない。
それが誰かを感動させたり、傷つけたりする。
それを忘れる人もいるし、それを覚えている人もいる。
そして、何十年か経って、そんなことがあったかなあ、という事になる。

だから、言葉は大事だ。
人にとっても、自分にとっても。

久しぶりに池田晶子の「41歳からの哲学」から、引用させてもらう。

「自分で金を出して買う物、一般商品の場合ですら、人の心はそのように動く。値段がその物の価値なのだ。それなら、もともと値段のついていないもの、金のいらないタダのものを、ありがたいもの価値あるものと、思うことなどあるわけがない。金のいらないタダのもの、誰もが持ってる普通のものの筆頭が、すなわち、言葉である。日々話されるこの言葉、これが価値だと知っている人など、きょうびいるものだろうか。
 言葉なんて、タダだし、誰でも使えるし、世の中は言葉だらけだし、なんでそんなものが価値なのだと、人は言うだろう。しかし、違う。言葉は交換価値なのではなくて、価値そのものなのだ。相対的な価値ではなくて、絶対的な価値なのだ。誰でも使えるタダのものだからこそ、言葉は人間の価値なのだ。安い言葉が安い人間を示すのは、誰もが直感している人の世の真実である。安い言葉は安い人間を示し、正しい言葉は正しい人間を示す。それなら、言葉とは、価値そのもの、その言葉を話すその人間の価値を、明々白々示すものではないか。
 だから人は言葉を大事にするべきなのである。そのようにして生きるべきなのである。自分の語る一言一句が、自分という人間の価値、自分の価値を創出しているのだと、自覚しながら生きるべきなのだが、こんなこと、きょうびの人には通じない。・・・(中略)・・・五千円、五万円だろうが、必要な言葉は、必要なのである。
価値ある言葉に、値段はつかないのである。常にそのような自覚によって、言葉を語る人生と、そうでない人生とでは、その人生の価値は、完全に違うものになるのである。」

まさに、そのとおりだと思う。




| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
クルマの知識
中学2年の時、技術家庭科でエンジンの仕組みを習った。

当時の技術家庭科は男子は技術、女子は家庭科だった(と思う)。
エンジンの種類は2種類あって、2サイクルエンジンと4サイクルエンジンがあり、圧縮、爆発、排気、吸気の工程をピストンの1往復でやるか、2往復でやるか、という違いだ。
さらに、燃料のガソリンを空気と混ぜて混合気にして、送り込むための気化器(キャブレター)が手前にあり、爆発をさせるために混合気に火をつけるのが、スパークプラグの役割。
エンジンの内部の摩擦を防ぐために入れるのが、エンジンオイル。
これがないと、ピストンがすぐに焼きついて使いものにならなくなる。

どうして、中学の時にエンジンの仕組みを習ったのか、それは知らない。
当時モータリゼーションの最中で、そういう知識が男子に必要だ、という考えがあったのかもしれない。

だから、ぼくらの世代はクルマに詳しい。

排気管のことをマフラーということや、ピストンの入っているところをシリンダーということや、そこの給排気バルブの個数が4個あると性能がいいとか…、そういう事を知っていた。

小学校6年のときに、近所でクルマの展示会をやっていた。
今でいう、モーターショーのようなものだが、国産のメーカーだけが出ていた。
そこに自転車で友達と一緒に行き、中を見て回って、スゴイと思った覚えがある。
たくさんカタログをもらい、たしか、パブリカやカローラのものがあったと思う。
初代カローラが出たのが1966年。ぼくが小学校6年のときは、1969年だから、だいたい合っている。

今見たら、初代カローラなど四角い普通のクルマだが、当時はかっこよかった。
何となく、それまでフォルクスワーゲンやルノーなどが走っていたが、これからは日本のクルマが走る時代になった、というような時代の気分があったと思う。

その後、ぼくらはクルマの進歩とともに生きてきた。

EFIが出てきて(電子制御でガソリンと空気を混ぜる機械)馬力が上がり、ターボチャージャーやインタークーラーが普通に使われるようになり、ウレタンバンパーが出てきて、ウィンカーやヘッドライトが一体になって、丸みを帯びた形状も普通になった。

そして、今は低燃費の競争だ。

そんな歴史を知っている。

だから、どうということはないのだが…。



| | 考えたこと | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
加点法と減点法
加点法というと、100点に対して良ければ加点していく方法。
減点法というと、100点に対して悪ければ減点していく方法である。

何が言いたいかというと、仕事の見方についてである。

チャレンジした仕事、という位置づけでは加点法で評価されるし、通常業務ということになると、減点法で評価される。
だいたい、そういう分け方になるのではないか。
それを申告して、上長と話し合い、それで半年に一回評価し、その結果についても本人と話し合う。
そのようなシステムが目標管理と言われるものであり、成果主義とも言われる。

ただ、このシステムを本気でやるなら、仕事の種類が理解されなければいけない。
仕事の種類といっても、2種類だけだ。
陽の当たる仕事と、陽の当たらない仕事である。

どうしても、陽の当たる仕事は加点法になりやすい。
常に上司やその上にも報告し、それなりにきつくて、プレッシャーもかかる仕事だろう。
そのような仕事だと、少々の失敗は向こう傷のようなもので、「俺はこんな失敗もした」などと語りぐさになったりする。
だから、陽の当たる仕事はあまり減点されない(と思う)。
本当に陽の当たる仕事で失敗した時には、どこかに飛ばされる事になる。
もちろん、成功した時には加点される。
陽の当たる仕事に回される人は、ある意味で期待されている人なのだろう。

それに比べて、陽の当たらない仕事は、どちらかというとうまくいって当たり前、というような仕事である。
俗に言う、縁の下の力持ち、というようなもの。
地道にコツコツ、という今となっては評価されない能力が必要な仕事。
ただ、プレッシャーやストレスはあまり高くない。
陽の当たり方とプレッシャーとは正比例の関係にある。
陽が当たれば当たるほど、プレッシャーは高くなる。
しかし、小さな工夫や地道な改善が必要なところである。

ぼくは、サラリーマンの時代に両方ともやった。
だいたい、陽の当たる仕事はしんどいし、かけるカネも大きければ、儲けも大きい。
いろんな部署を束ねるような仕事になる。
一方、陽の当たらない仕事は、やりようによっては楽である。
しかし、これが少しでも止まると、大変な事になる。

両方やってみて、どちらがどうとは言えない。
陽の当たる仕事も必要だし、陽の当たらない仕事も必要だ。
それらの仕事を評価する時に、両方を知らないと評価できない。

そのために、ジョブ・ローテーションというものがある。

日本の人事制度は、会社の中だけで通用する常識に対して評価点が高い。
汎用的な能力よりもそちらが重視される。
少し風向きが変わってきたが…。

しかし、これにも一理あって、陽の当たる仕事も陽の当たらない仕事も知った上で、昇進するということだ。

そもそも、そういう人を作らなければ、成果主義も難しい。

この部分については、日本の人事制度も捨てたものではない。

最近そう思う。

| | 考えたこと | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分は探せない
「自分は探せない。作り上げるものだ。」
ドラマの中のセリフ。

最近、あまり「自分探し」という言葉を聞かなくなった。
これはどういう事なのか。
自分は探せない、作り上げるものだ、という考えが浸透したのだろうか。
そんなふうにも思えない。

何となく、今は自分探しよりも、もっと前の段階で止まっているような気がする。
自分というものを、外から見る機会が減っているのではないか。
自分だけが世界の中で浮かんでいるような、そんな感じ。

そうならないために、何をすればいいか?
誰かの目を通して、自分を見ることだ。
思い込みではいけない。

そのために、何ができるのか?

文字を読むことではないか。
文字を読むことで、いろんな想像ができる。
いろんな自分を体験できたり、いろんな人を見聞きできたりする。

活字離れが、自分を外からみることを、できなくしている。

そして、結局自分が、ほんの少しの友達の中でだけ、位置づけられる。
自分探しをするほどのこともない。

だから、自分は探せないということも見えない。

ましてや、自分は作り上げるものだ、ということにも気づかない。

そんな気がする。



| | 考えたこと | 01:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
リスク
リスクの期待値というものがある。
想定外のことが起こる確率に、被害の額をかけたものになるだろう。

その被害がカウントできないくらい大きいという事になると、それはやらない方がよい、ということになる。

原子力発電はその類のものではないか。

果たして人間は核分裂をコントロールする事が、できるのだろうか。

たしかに、40年ほどうまくやってきた。
やり始めた人たちは、それがアブナイものだという意識を持っていた。
ぼくらが中学のころ、東海村ができて、原子力発電というものを知った。
日本はその先端を行くべき国だ、ということを教えられた。
資源がない日本は、原子力を使う、という必然性もあった。
そして、そのシステムは最後には廃棄した燃料も上手に使って、理想的なエネルギー供給ができるという計画だった。

そして、原子力工学部という工学分野ができた。
工学、というくらいだから、実用化が前提で研究する。
学科としては、今は関東と北陸に8つしかないが、当時はたくさんあった。
はやり廃りがあるのだろう。

創世記の人たちは、使命感を持って原子力発電に取り組んだと思う。
原子力に対する畏怖があった。
それは本来人間がコントロールするべきものではないのだ。

それから40年が経ち、その畏怖がなくなった。
原子力を扱うことが、惰性になったのだ。

動燃の事故は1997年の3月11日に起こった。
奇しくも今回の地震の発生と同じ日。
その時に、杜撰な管理状況が明らかになり、いやな予感がした。
原子力に対する畏怖が感じられなかったからだ。

その時から、原子力発電はうさんくさい物になった。
電気会社が原子力はクリーンエネルギーだとか、いかに安全か、という宣伝がおかしく聞こえるようになった。

そして、14年後想定外の事故がおこった。

これからどうなるのかはわからない。
まだ収束していないからだ。
それでも、東電の記者会見を見ていると、ひとつ確かなのは、原子力に対する畏怖の心である。
それが感じられない。

どうなるにせよ、すぐに原子力エネルギーを使わずに電力需要を満たすことはできない。
でも、日本は世界に先駆けて、クリーンな発電を開発すべきだ。
どんな形でも、その努力をするべきだと思う。


| | 考えたこと | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
諦めること
諦めるというのは、ある種大事なことだ。

諦めなければ、前に進めないこともある。

くよくよしていても、仕方がない。
また、やけになっても仕方がない。

諦めることで、初めてリスタートできるのだと思う。

でも、勘ちがいしてはいけない。
自分でコントロールできることを、諦めるのではない。
がんばれば、何とかなることは、何とかできるだろう。

自分ではどうにもならないことを、諦めるのだ。

どうしてこんなになったんだろう、とか、自分は悪いことはしていないのに、とか思いがちだ。
でも、自分ではどうにもならないことは、どうにもならないのだ。
誰かを恨んでも仕方がない。

だから、諦めることは大事だ。

決して諦めてはいけない、などというのは、自分の努力で何とかできるときのハナシ。

どうしようもない時は、恨まず、諦めることだ。

それが前を向いて進むことになる。


| | 考えたこと | 20:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
天災
天災とは、天から降ってきた災害ということで、人間にはどうしようもない、というものだと思う。

特に今回のような地震、津波はまさに天災だろう。

どれくらいの被害かすらわからない。
こういうことがあると、人間は無力だと思う。

そして、運というものがある。

天災に遭うか遭わないかは、運だ。
誰が、三陸沖でマグニチュード9という地震が、3月11日に起こるとわかっていただろうか。
誰もいない。

天と運、これはどうしようもない。

しかし、起こってしまった後は違う。

そこからは、人間の努力だろう。

ぼくらは、日々自分のできることを一生懸命やるしかないと思う。


| | 考えたこと | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
原発事故
どうやら、原発の方は最悪の事態を避けることができそうな状況…、と思ったら、まだまだわからないらしい。
安全に停止する目処が立っていない。

それにしても、官邸と東京電力の情報開示は遅すぎる。
原子炉がどうなっているかというのを聞いても、どうなるものでもないのだが…。
ただ、ちゃんと報道されないと、実態がわかっているのかどうか、不安になる。
どれだけの専門家と実働部隊がいるのだろうか。

東京電力は、原子力発電所が使えなくなることを恐れて、それで処理が遅れたのではないか。
そんなことを勘ぐってしまう。

原子力を扱う人は、それなりの知識と使命感を持っていないといけないと思う。
ウラン235の核分裂反応は、人間にとってのパンドラの箱だ。
それを開けてしまった。

もう一度閉じて、生き残るための知恵を出すべきだ。

それが効率の高い太陽光発電か、風力、波力、地熱…、何かはわからないが、考えるべきだろう。

原発の原理もわかるし、それを安全に利用するための方法もわかる。

しかし、繰り返して言うが、人間は原子力を扱うほど、賢くないのだ。

| | 考えたこと | 20:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
チャイナシンドローム
今の十代、二十代は、チャイナシンドロームという映画を知らない。

ジェーン・フォンダとジャック・レモンが出ていた。1979年の映画。
映画館で見たわけではないが、当時テレビで放映された。
"You are contaminated." というランプがついて、それが被爆という意味だった。
原子炉の事故を暴くというストーリーだったと思う。

チャイナシンドロームとは、炉心溶融が起こり、高温でそれが地中に沈み、そしてそのまま裏側の中国まで行ってしまう、ということ。
これは冗談だが、実際原子炉で事故が起こり、核分裂を制御できなくなると、そういうことが起こりかねないということだ。

ぼくは、30代の頃、原子力発電をするべきだと思っていた。
実際にチェルノブイリの事故などがあっても、日本では安全だと思っていた。
石油に頼ることなく、エネルギーを満たすことができるというリクツだ。

しかし、動燃事故があってから、その考えは変わった。
あまりに杜撰な処理。いい加減としか言いようがない。

放射能は、人間が扱えるほど簡単なものではない。
核分裂は危なすぎる。
人間はそれほど賢くないのだ。

だから、原子力発電はやめて、風力や太陽光にするべきだと思う。
国が原子力関係の予算を取っているから、やめられないのだろう。
それをエコエネルギーに変えるべきだ。

いつかは起こってもおかしくない、原発の事故。
福島でいまそれが起こっている。

何がどうなっているのか、わからないが、核分裂がとまらなくなって温度があがり、それを冷やすことができない、という状況。
自衛隊が出動しているらしいが、チェルノブイリなみの被爆がすでに起こっているのかもしれない。

そうなっていないことを願うが…。


| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
人間は無力
昨日はニュースを見ていて、遅くなった。

東北の沖で陸地と海のプレートがぶつかっており、そこでプレートが4メートルほど動いたらしい。

不勉強で、プレートのつなぎ目がそんな近いところにあるのか、とびっくりした。
阪神大震災のときも、自分の故郷が断層の上だったことに驚いたが、こういうことがあると、この国はアブナイところに成立しているのだ、と思う。
政治的にアブナイのはわかっているが、地理的にもアブナイ。

もともと、2億5000万年前には今の大陸が一つだったという。
それが長い時間をかけて、五大陸に分かれた。
その過程では、地震というようなレベルでは想像できないようなことが起こっただろうと思う。

こういうことが起こると、改めて地球の表面が動いているということがわかる。
今の状況で止まる保障はどこにもないのだ。

プレートが動くと、それに誘発されて別のエネルギーのひずみがたまっているところが動く。
それがどこになるのかは、わからない。

プレートダイナミクスという学問はあるが、それとて、結果論でしかない。
結果を説明することができても、予測することはできない。
宇宙のことはおろか、地球のことも人間はわかっていないのだ。

大震災のとき、人間は無力だなあ、と思った。
いろんなインタビューを見たが、「どうしたらいいですか」という質問に対して、「そら、こんなん来たらどうしようもないワ」という、関西弁がよく聞かれた。

あまりに大きな災害に向き合ったとき、対策などない。
いくつもの「なぜ」、「どうして」はあるが、ぼくらには起こったことを認めるしかないのだ。

被害が大きすぎて、想像もつかない。
火事、津波の猛威は恐ろしい。
今後も余震があるという。

たくさんの人が亡くなっているが、何人かわからない。

昨日息子の高校で、今日地震の被害に対して、募金をするというメールが来ていた。
最近の若い人には、ボランティアという文化がある。

しかし、この諦観はどうしようもない。
人間は無力だ。




| | 考えたこと | 09:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
IS-03
auのスマートフォン、IS-03を買った。
アンドロイドというヤツだ。
これはなかなかいいと思う。

勤め先のメールがGmail、スケジュール管理がGoogleカレンダーなので、それが使えるというのがスマートフォンの条件だった。
そこは申し分ない。
Gmailというアイコンがあって、アカウントを切り替えることもできるし、メールを見ることも、書くこともできる。
Googleカレンダーもアイコンがあるし、webで確認することもできる。
これは便利だ。

メモ帳もあるし、カメラもついている。
Googleで検索もできる。

ただ、電話をかけるのが面倒だ。
やたら手数が多い。
電話のボタンを押して、ダイアル画面で電話帳のアイコンを押して、そこであかさたな…の頭文字を選びそれを押して、そして指でドラッグして目的の人を押して、そしてダイアルボタンを押すと、電話がかかる。

かかってきた人にかける、というのも、ボタンを押してダイアル画面にして、そこで着信履歴を押し、そして人を選び、そしてダイアル画面に戻って、発信ボタンを押す。

書くと簡単なように見えるが、ぼくの年になると、手が乾いているから、なかなか小さなところを押せない。
特に電話帳のあかさたな、という頭文字を選ぶ画面は小さく、誤って隣の文字を押してしまうことが多い。

やっぱり電話と思ってはいけないのかもしれない。
インターネット端末に、ついでに電話がついている、という感じ。

まあ、それでもいいのだが、電話を頻繁に利用する人はシンドイと思う。

それと、バッテリーはすぐになくなる。
これはご注意。

| | 考えたこと | 03:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生とは…
ジョンレノンの言葉をもうひとつ。

英国のドラマを見ていたら、女性が「人生とは計画を立てている間に終わるもの」という言葉に反応して、男性が「リンゴスター」というと、「ジョンレノンよ」という場面があった。
そんなセリフが英国ではドラマの中で使われている。

別の訳では、「人生はぼくらが他の計画を練っている間に過ぎてしまうんだよ」となっている。
原文は、"Life is what happens to you when you are busy making other plans." らしい。

なるほど。
ちょっとシニカルなジョンらしい言葉だ。
何かほかの事に一生懸命になっていると、時間が経つのを忘れてしまう。
そのことを考えることもない。
そうこうしている間に、人生は終わる。
これは、幸せなことだろう。

人生の計画を立てるというのは、やるべきことが見つからないからだ。
何かほかの事を計画している間に、過ぎてしまうということは、いそがしい、ということだろう。

ポールと出会い、ビートルズを結成し、アップル社を作り、いくつもアルバムを出し、世界一のヒットメーカーになり、そしてそれを解散し、子育てに専念し、復帰して、そして40年で撃たれて逝ってしまったジョンのように。



| | 考えたこと | 01:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
三世代世襲
民主主義という言葉はよく聞くが、それが達成されている社会とはどういうものだろう。

海の向こうでは、前代未聞の事実上の国家元首の3世代世襲、という事を新聞やテレビで言っている。
しかし、三世代世襲というと、日本の議員もそういう人が多いのではないか。
二世代なら、いくらでもいるだろう。
なぜ、海の向こうでは問題になって、日本では問題にならないのか。
選挙だから、いいという事なのだろうか。

たしかに選挙で選ばれなければ、日本では議員になれない。
ただ、地盤を持っているから、引き継ぐと有利ということで、どんどん世襲議員が増える。
そのせいで、地元への利益誘導が自分の仕事だと勘違いする議員が増える。

しかし、多くの選挙は50%以下の投票率だ。
この数字を上げないと、本来の民主主義ではないと思う。

補助金をたくさんもらっているところは、お金につながるから、選挙に行く。
補助金とは無縁のサラリーマンは、あまり選挙に行かない。
これでいいのだろうか。

民主主義にとって、もっとも大事なものは、教育だろう。
国民が民主主義を支えるとしたら、一人ひとりの国民が民主主義の何たるかを知って、それを継続するためには何をしなければいけないかという事を、わかっていなければならないと思う。
それが理想の民主主義というものだろう。

その意味で、今の日本は本当に民主主義なのだろうか。
カダフィだ、ムバラクだと何十年も権力の座に居座った人たちが糾弾されている。
これは、正当なことだろう。

しかし、日本のようにころころと首相の変わる国も珍しい、

これは、まっとうな民主主義の国ではないと思う。
これから、どうなるのか…。


| | 考えたこと | 02:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
This is not here.
ジョンレノンが好んで用いた言葉らしい。
こないだ、テレビで言っていた。

これはここにはない、と訳すらしい。
Be動詞のisを「存在する」という意味で訳すと、「これはここにはない」ということになるが、not hereをここではない、というふうに訳すと、「これは、ここではないところに存在する」という意味になる。

何となく、このニュアンスの方がジョンらしい。

これ、が何かはわからない。
しかし、イマジンの映像とこれがかぶると、「これ」は「平和」かもしれない。

生きていたら、70歳になる。

若くして凶弾に倒れた。
そのときのイメージが残っている。
長めの髪に、丸いめがねといえば、ジョンレノン。

リバプールでジョンとポールが会って、ビートルズが生まれた。

それが偶然か、必然かはわからないが、その出会いによって、ビートルズの音楽が生まれたのだろう。

今日はビートルズの記念日でも何でもないが、その出会いに感謝。


| | 考えたこと | 01:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
社会科
今の中高の授業でややこしいのは社会科の科目。

いつ、何をやるのかはわからないが、とにかく、数が多い。
日本史、世界史、日本地理、世界地理、倫理社会、政治経済、公民、現代社会。
何がどうなっているのか、わからないが、こんなに分けてどうするのか。

ぼくらの時も世界地理、日本地理、日本史、世界史、倫理社会、政治経済くらいはあったが、そこからまだ科目が増えている。

歴史の連続性を重視して、日本史と世界史を分けているのだろうが、もうそろそろ見直した方がイイのではないか。
グローバル化の社会である。
日本史、世界史をまとめて、人類の歴史にしたらよいと思う。
日本の縄文時代は世界ではこういう事が起こっていたとか、江戸時代にはヨーロッパはどうなっていたかとか、古代・中世と近代に分けて、それを歴史とまとめて呼ぶようにすればどうか。
そういう視点でやり直すくらいの気持ちでやってほしい。

また、地理ももっと統計を重視して、世界のエネルギー消費とか、人口分布とか、年齢分布とか、そんな視点で教えた方がよいのではないか。
スカンジナビア半島がどこにある、というのも大事だが、資源、エネルギー、食料などの偏在を教える方が重要な気がする。
細かい改訂はあるようだが、もっとズバッと変えた方がイイと思う。

政治経済は必要だ。
自民党の総裁選に自分も選挙権がある、と思っていた若い人もいる。
参議院と衆議院の2院制になっていることも知らない人もいる。
選挙に行けばいいというものでもないが、投票率の低さは、政治経済の教育の失敗を物語っているのではないか。

まあ、そのためには教員養成の課程を変えないといけない。
問題の本質は、そこにあるような気がするが…。
単に科目が並んでいるだけで、能力は担保されていない。

総合的に社会とは何か、民主主義とは何かという視点がなければ、難しいような気がする。

それは、実社会に出て経験するものであり、教員のような狭い社会で生きている人には難しい。

失礼だが、そんな気がする。


| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
54歳
今日で(正確にいうと、昨日だが)54歳になった。

1957年生まれ。第二次大戦が終わったのが1945年だから、戦争の12年あと。
戦争のあとかたもなかった。

母はぼくと25年違うので、13歳で終戦を迎えたことになる。

母はそのころ、今の神戸駅のそばに住んでいて、学校の帰り道に、空襲で穴が空いたところをよけながら帰ったことがあると聞いた。
大変な時代を経験したんだなあ、と思う。

ぼくらは一番いい時を過ごせた。

まだ貧しい時代に生まれ、どんどん日本が成長し、絶頂期に30代、バブルが崩壊して20年、そしてもうすぐ財政破綻をむかえそうだ。
一生の大部分を右肩上がりで過ごせた。
これから何が待っているか、わからないが、ここまで来たらあとはもういいと思う。
ただ、こんなふうになったのは、若い人にすまないと思う。

次は節目の55歳。

この1年がどうなるのか…。

今日本を買った。
昭和38年に初版の、本田宗一郎著「おれの考え」。
何となく、目に止まったので中味をパラパラとみて、買ってしまった。
中味の古さを感じさせない。

また、今日母と話していて、古い映画の話になった。
中途半端に古い映画は、古さを感じるが、西部劇や時代劇は古さを感じない。
時代が違うからだ。

残りの人生、どうやって生きていくか。

時代を超えたものを、見つけたい。

一年後に何か出せるように、考えよう。

| | 考えたこと | 01:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
英語の講義
久しぶりに英語の講義を聞いた。

英語といっても、日系三世の人の英語で、日本語も交えた英語だから、よくわかる。

講義の内容は「アメリカのキャリア教育について」というもの。

講師は日系三世とはいうものの、日本に住んだのは50を過ぎて3年だけ。
日本語が読めない。
若干話せるだけだ。

その彼が、アメリカでキャリアについて相談していたとき、部屋に飾っていた漢字がある。
「志」だ。

キャリアは就職の道具などではない。
生き方そのものだ。
仕事につくことが大事なことではない。
自分の価値観を持つことや自信をつけること、これが大事だとのこと。
だから、部屋には「志」という漢字を額に入れて飾っていた。

相談に来た人が、あれは何だと聞いたら、上に書いたことを説明する。

たとえ、言葉は違っても、彼には日本人の血が流れている。

だから、志という言葉を知っていたのだろう。

いい話だった。


| | 考えたこと | 01:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
あなたは神を信じますか?
今日はお通夜に行ってきた。

夕方に出て、会場につくと、いっぱいの人で、外で待っていた。
通夜が始まり、焼香をして、すぐに帰ったが、葬式に出ると自分の死を考える。

自分の死はきっと見ることができないが、一体どうなるのだろうか。
死後の世界はあるのだろうか。
死んで生き返った人を知らないので、何とも言えない。
このあたりが、科学に毒されているといえば、そうかもしれない。

しかし、神はいるのだろうか。
ぼくは基本的には神道だ。
やはり神さんを信じている。
信じることと、それが存在するかというのは、ぼくの中では別のことになっている。

きっといないだろう、とは思うのだが、それを決めつけるわけにもいかない。

どんなことでも、突きつめていけば、神の問題になる。

子どもに、無神論者か?と聞いてみた。
すると、きっといないとは思うが、それを証明できないので何とも言えない、との返事。
やはり同じような答えだ。
彼も、近代の科学に毒されているんだろう。

しかし、科学が進歩したらしたで、どう考えても、神が引き受けざるを得ないような問題が出てくる。

宇宙は誰が作ったのかとか、宇宙はなぜ存在するのかとかいう大きな問題。
量子論のような小さな世界では、いろんな事が???の連続だ。
無限の問題もそうだろう。無限とはいったい何なのか。

そうなってくると、やっぱり神がいてほしい、と思う。

人間では解決できない問題を、引き受ける何かが必要だ。

ぼくの場合は、神さんだが、やっぱり神さんに会いに行くというのが望ましい死に方だ。

今日はそんなことを考えながら、帰ってきた。



| | 考えたこと | 01:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
百聞は一見に…
百聞は一見にというと、しかず、という言葉が出てくるのは中年。

今は百聞は一見にしかり、というふうに間違えられているらしい。
今日ひょんなことから大学生のアンケートに書かれているのを見た人が、百聞は一見にしかずですよね、と聞いてきた。
そらそうや、というと、やっぱり、とのこと。
本人は気になって「百聞は一見にしかり」でグーグルで調べてみた。
そうすると、さすがに一番目には「しかず」が出てくるが、二番目以降はかなりの数誤用しているサイトが出てくる。
会社のページでも誤用している場合がある。
ということは、そういう風に覚えている人がもはや少数ではないということだろう。

しかず、というのは、如かずと書いて、〜の如くではない、という意味だ。
つまり、百回聞くのは、一回見るのと同じではない(一回見るほうがよい)という意味になる。

ところが、しかり、になると、百回聞くのは、一回見るのと同じようなもの、という意味。
これは全く逆の意味になる。
それでも、意味は大体の場合、しかず、の意味で使っている。

これをおかしいと思わないのは、しく、という文語を知らないからではないか。
しく+あるで「しかり」。
しく+ず(否定)で「しかず」。
これがわからないと、しかずの意味がわからない。

口調でいうと、百聞は一見にしかり、でもサマになる。

えらいことになってきたなあ。
ぼくらは文語をたくさん習ったわけではないが、古文には出てきたし、「椰子の実」や「仰げば尊し」などでその響きは覚えた。

情けは人のためならず,というのは、情けは人のためではなく、回りまわって自分のためになる(だから情けをかけなさい)という意味だ。
しかし今は、情けは人のためにはならないから、かけてはならない、という意味にとる人の方が多い。
これはそういう意味にとっても、まあおかしくない日本語だ。

しかし、百聞は一見にしかりは全く意味が違う。

困ったものだ…。


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日本のドラマ
この頃の日本のドラマは、どうしてすぐに終わるのだろう?
月曜日の9時とか毎日のようにやっているドラマだが、この頃は3ヶ月くらいで終わるらしい。

すぐに思い当たるのは、主題歌である。
主題歌も初めのものと、挿入歌、エンディングのものと3曲くらいある。
その契約をドラマごとに結んでいるから、数を稼ぐために、ドラマの回数を増やしている。

それと、ギャラである。
ロングヒットになって、1年、2年と続くドラマになると、出演者のギャラ値上げの交渉が出てくる。
どうしても、長くなると高くなる。
だから、最初から期限を切って、買いたたく。
最近のドラマを時々見るが、とにかく若い人ばかり。
エキストラも少ない。
制作費が抑えられているのだろう。

時代が変わったのだろう。
テレビ局がお金儲けをする仕組みが壊れてきた。
スポンサーからお金が出ないし、またスポンサーになり手がない。
最近はパチンコの台のメーカーがスポンサーになっていることもある。
もう右肩上がりではないのだ。
スポンサーの宣伝費は、ネットのほうにつぎ込まれている。
昔なら30秒のCMをやりたいところでも、20秒にして、あとはネットで検索、というふうになる。
だから、広告費が入らない。
広告費が入らないから、安上がりの番組が増える。

こないだテレビを見ていたら、ネット上で受けている動画を流していた。
7時台のゴールデンタイムである。
安いタレントが6人ほど並んで、見た後の感想をいう。
もう、バラエティ番組も制作費を下げないといけないのだろう。

今年の7月に地デジに変わる。
アナログ放送の終了だ。
ちょうどよい頃合だろう。
テレビの時代が終わりを告げようとしている。

これからは、ネットの時代になるぞ。


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