考えたこと2

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寅次郎真実一路
この映画の大原麗子はホントにいい。
米倉斉加年が演じるエリートサラリーマンの妻の役。

彼女は晩年、病気になって幸せではなかった。
そんなこともあって、どうしても「薄幸」というイメージがついて回る。
あくまで結果論だが…。

でも、現役当時から大原麗子は「はかない」イメージだ。
明るい役を演っても、どこか影がある。

あとから考えると、そういう運命だったから、はかなく見えたのか、それとも元々はかない星の下に生まれたのか…と思う。
そんなことを考えさせるのが、役者という商売なんだろう。

でも、この「寅次郎真実一路」を見ると、日本にもこういうモーレツサラリーマンがいて、茨城県から東京都まで朝6時に起きて通い、毎日残業で夜中に帰っていた、ということを思い出す。
今なら、コンプライアンスがあるし、リモートワークもあるから、そんなことは考えれない…、かもしれない。

この映画が封切られたのが1984年。
まだまだバブルは続いた。
80年代、ぼくも毎晩終電の時期があった。
日本中の企業がそんな状態だったのだ。

激務に耐えかねて失踪するサラリーマン。
残された家族。
寅さんはその騒ぎを外から見ていた。

まだ手で合図をしている東京証券取引所が映る。
今とは全く違う。
すごい熱気が伝わってくる。
そんな時代だった。

今から振り返ると、日本中が浮かれていたようだ。
そんな時代を過ごせたことは、幸せなのか、不幸せなのか…。

あの頃の元気な大原麗子のマドンナ姿を見て、そんなことを思った。




| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
田舎あるある2
ちょっと前にも「田舎あるある」の記事を書いたが、その記者の続編の記事があった。
この人の記事の「ジャスコ」は本当にさもありなんと思わされる。
「ジャスコ」は、田舎で育った人たちが分かりあえるキーワードにもなるくらいだ。

都会で生まれたぼくには想像もつかないが、今でも田舎をクルマで走っていると、イオン(旧ジャスコ)の大きなモールが突如現れ、周りの雰囲気から浮いた感丸出しの風景に出会うことがある。
ああいうイメージなのだろうと思う。
「ジャスコ」の響きがエモい、というのも何となくわかる。

「いまではイオンに名称の変わってしまったジャスコですが、当時の私には神殿のようにみえたものです。ジャスコにはスーパーだけじゃなく、マクドナルドもあるしゲームセンターもある。なんていったってプリクラが撮れるんですから。

経験談になりますが田舎のデートでは、まず自転車で公園に合流して5kmくらいある長い道のりをジャスコ目指して鬼コギ(めっちゃ漕ぐという意味)します。到着したらマクドナルドで当時100円だったチーズバーガーを食べながらおしゃべり。

ゲームセンターに移動したら1人200円ずつ割り勘してプリクラを撮るのですが、そのときに彼が全額(400円)出してくれたら大喜びなわけですよ。

プリクラを撮ったあとはフードコートでメロンソーダかソフトクリームを食べながらだべって、ダウンロードしたプリクラを赤外線で送りあっていました。」

この経験談には納得させられる。
その記者が、「田舎あるある」を紹介している。

第10位 みんな早寝早起き

1位の岩手県は朝の6時17分起き。
一番遅い京都府は6時52分。35分の差がある。
田舎は高齢者が多いということもあるかもしれない。

第9位 コンビニが24時間営業じゃない
第8位 コンビニの駐車場がやたら広い

田舎ではもともと24時間営業ではなかったところもあるらしい。
また、クルマでの移動がメインなので、駐車場も広い。一番端に止めたら、5分歩かないといけないらしい。

第7位 テレビ番組の放送日がズレている

これは就職していろんな田舎に出張して初めて知った。
2時間の火曜サスペンスが1時間番組になっているところもあった。
おまけに、夕刊がないのもビックリした。
全国紙の夕刊がある地域は都会だ。

第6位 最寄り駅がもはや最寄りじゃない

田舎の移動手段はクルマだから、家探しをするときに最寄り駅は関係ないらしい。
もちろん、最寄り駅は歩いて30分程度。
都会っ子が、最寄り駅の一駅手前で降りて歩く、というのを聞いて、「田舎の一駅、ナメんな」と思っていたとのこと。

第5位 カエルの鳴き声がうるさい

これは昔はそうだった。
セミの声もうるさかったし、トンボもたくさん飛んでいた。
秋になると、コオロギやスズムシの声も今よりもっと大きかった。
なつかしい昭和の時代だ。

第4位 家の鍵をかけない

記者の田舎では家に鍵をかける文化がなかったとのこと。
未だに実家の鍵を見たことがないらしい。
いつも誰かがいて、「うちに盗まれるもんなんてないわ!」精神らしい。

第3位 テレビのチャンネルが少ない

これも会社に入って出張で知った。
民放が2局くらいしかなかったりした。
今はインターネットがあって、田舎のハンディはなくなったが…。

第2位 星がきれい
これはそうだろう。
ネオンがなく、空気がきれいだと星がたくさん見える。
20年ほど前にカブスカウトの手伝いをしていたが、キャンプに行くようなところは星がきれいだった。

第1位 電車が1時間に1本
クルマ社会で、過疎化も手伝って、どんどん電車(汽車)は減っている。
廃線になるところも、これからも増えてくるだろうと思う。
路線バスも1日5本程度だったりして、本当に大変だ。

過疎化、高齢化、人口減少で田舎はどんどん減っている。
もう集落として存在できなくなる。
経済的にもインフラを維持できない。
地方はそれをどうしていくのか。
そんな問題も垣間見える。

明るい田舎出身者の声にほっこりするが、少子高齢化、過疎化の日本の田舎はどうやって存在し続けるのか。

そんなことも考えてしまった。



| | 考えたこと | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
メルマガ
前にもローランドのメルマガを読んでいることを書いた。
珍しく抽選に当たったからだ。

以前からローランドにはギターのエフェクターなどでお世話になっている。
学生時代には行きたい会社の一つでもあった。
今「ローランドの楽屋から」というメルマガを読んでいて、当時の機材の開発者のインタビューなどを読むと、到底無理だったことはよくわかる。
本当に惚れ込んでいる人たちが作っていたのだ。
80年代当時は、大阪に本社があって、東のヤマハ、西のローランドという感じだった。
そういえば、長男のキーボードもローランドのものを買った。

時々企画があって、2ヶ月ほど前は「楽器店の思い出」というのを募集していた。
それを書いて送ったら、今週のメルマガで何人かの「思い出」を紹介してくれたのだが、その中の一人に選ばれた。
200字ほどの文章。
高校時代の神戸ヤマハのことだ。

当時はギターやシンセサイザーがLM楽器と呼ばれていたころ。
「LM」というのはライトミュージックの略。ヤマハの造語だったかもしれない。
今はもう聞かなくなった。

フォークギターやエレキギター、ベース、そしてシンセサイザー、リズムマシンなどが全盛の頃だ。
それらは軽音楽(クラシックではない)の楽器で、LM楽器だった。

こないだ近所の楽器屋に行ったら、管楽器やピアノ、バイオリンのスペースが大きくなって、従来よりもギターやベースの売り場は小さくなっていた。
ギターを見にきているのは、女子が多かった。
フェンダーの方針は正しい。

メルマガに載ったりすると、素直に嬉しい。
これからも使おうという気になる。

今の時代、こういうマーケティングが望まれているのかもしれないなあ。



| | 考えたこと | 18:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
パソコン普及率で思うこと
日本の若者はパソコンをあまり使わないらしい。

OECDの国際成人力調査によると、16歳から24歳までの若者が職場や家庭などでパソコンを使う頻度は、加盟国中最低水準。
学習到達度調査でも、学校や家庭でコンピュータを使えると回答した生徒の割合は、ほとんどの質問項目で47カ国で40位以下。

インターネットの普及率は高いが、パソコンの利用率は低いということだ。
大学生でも、パソコンよりはスマホという学生が増えた。
家に使えるパソコンがない、という学生もたまにいる。
そういう家庭でもWifiはつながっていて、スマホは使えたりするのだと思う。
親がパソコンを使っていないと、必然的に子供も使わなくなる。

おそらく、スマホが普及する前、ガラケーの時代はパソコンはもう少し家庭にあったと思う。
うちの長男はパソコンが最初で、その後に携帯だった。
次男はもう携帯メールだったが、後でパソコンになった。
今はスマホの時代だ。

ちょっと前まではパソコンが主で、スマホが従だったが、今は逆転している。
パソコンで開いても、幅の狭いスマホ用の画面が出たりするし、明らかにスマホでの利用をメインで考えているとしか思えないサービスもある。
ラインはぼくはChromeの拡張機能で入れているが、スマホがメインで使うように作られている。
ここのところ、そういうサービスも増えた。
そんなわけで、パソコンを使わない若者が増えている。

大学でノートPCを推奨しているところも減ったと思う。
それは、高校で情報の授業をやる、ということになったからだ。
それまでは大学で情報の授業をやっていて、そのためにノートPCを買わせていたりした。
2006年に高校の情報の授業が必修になって3年経ち、大学は情報の授業を必修でなくしたり、そのものをやめたりした。
当時まだノートPCが高かったのもあったと思う。
家庭の負担を減らそうということだ。

しかし、高校側は全く違った。
多くの高校で情報の授業などやっていなかった。
他の教科に読み替えたり、パソコンが得意な先生が適当?にやっていたりしたのだ。
当時、情報の授業の未履修が問題になったが、結局高校の先生たちは大学入試に出ないという理由で、情報の先生も採用しないし、教えることもしなかった。
学校の情報化が遅れている(当時から民間企業よりも遅れていた)こともある。
教育委員会など、未だに紙と鉛筆の世界ではないか。
その証拠に、世界史は覚えることが多くて不利ということで、履修漏れが問題となったのは知っていると思う。
情報は問題にならなかったが、こちらのほうが世界史よりもひどい。
その状況を文科省は放置している。

文科省はあわてて大学でAIを教えるという計画を立てているようだが、そんな状態ではない学校もたくさんあるはず。
何を教えるのか知らないが、本気でやるのなら、行列やベクトルが必要であり、それは至難の技だ。

要するに、初等・中等教育の失敗のツケを大学に持ってこようとしているのだ。
大学も入試の多様化などといって、推薦・AOの試験を増やしたり、入試の科目を激減させたりして、志願者を増やそうとしたツケが回っている。

この国は若い人たちの将来をちゃんと考えて教育などしていない。

今の教育を無事に続けようとしているだけだと思う。

亡くなった哲学者の池田晶子はこう書いている。

「 私は直には知らないことだが、敗戦の焼け跡、つまりまさしく最悪の状態から立ち上がってくる人々のパワーというのは凄いものだったと、知っている人々は口を揃えて言っている。しかし、立ち上がってくるその方向を、どうやら間違えていたらしい。五十数年かけて、われわれは一国を滅ぼしつつあるらしい。五十年かけて滅んだものを立て直すには、通例二、三百年はかかるというのは、さる碩学の言である。建造物ではない。壊れた建造物なら、数年数か月で再建できるが、いったん壊れた国家や社会を再建するのは、容易なことではない。ことは人心の問題だからだ。人心の教育、再教育には、何世代にもわたる忍耐と覚悟とが必要なのだと。
 このような議論の運びには、その通りと納得しつつも、だからどこからそれを始めるのだ、始められるのは誰なのだ、という現実的な疑問に、いつもハタとぶつかってしまう。やっぱりニワトリとタマゴなのである。教育こそが必要なのだが、教育する人を教育する人がいない。警察官を取り締まる人がいないのと同じことである。」

ぼくも、教育する人を教育する人がいないのが、問題だと思う。




| | 考えたこと | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
回転寿司 in USA
日本の回転寿司はすごい。
ぼくが大学生のときに、下宿の近所に元禄寿司ができた。
当時はカウンターの中で人が寿司をにぎっており、それをカウンターの周りを回っているコンベアに載せて回していくという店だった。
一皿100円は今と同じだ。
昭和50年当時から変わらず、今も100円なのだから、経営努力も大きい。

あれから店舗は大型化して、すし飯を握るロボットもでき、店をぐるりと廻るコンベアと併設して特急ラインができたり、注文を入力するタブレットがついたりして、モダンになった。
それまではお寿司屋さんというと、いくらかかるかわからないという敷居が高いものだったが、回転寿司ができて、身近なものになった。

今やわさび抜きが当たり前で、ゼリーやプリンが皿に乗っているし、どちらかというと子供連れのファミリー層を狙っている。
高級化も図られ、一皿200円、300円のものも増えた。

大手は「スシロー」「くら寿司」「はま寿司」「かっぱ寿司」の4社。
1位のスシローは2000億に迫る売上高。
昭和50年代に出てきた回転寿司が40数年かけて、こんなに大きくなった。

その中でくら寿司がいよいよアメリカに進出したらしい。
今年の8月にアメリカのナスダックに新規株式公開にまでこぎつけたとのこと。
1位のスシローはアジアに展開しているが、くら寿司はアメリカ進出。

知らなかったが、くら寿司USAは今や5つの州で22店舗を展開している。
なんといっても、テキサス州で成功しているのがスゴイと思う。
アメリカでも保守的な南部の州だ。
カリフォルニアでは握り寿司が人気だそうだが、テキサスではまだ寿司を食べ慣れていないため、巻きずしを中心にするらしい。
すでにカリフォルニアなど西海岸には進出しているが、今年中に東海岸のニュージャージー州にも店を出す予定。
設備が大きいため、フランチャイズ制を取らず、直営で展開する。

大したものだ。
ぼくは丸亀製麺のうどんが、日本のファストフードとして世界に出ていくべきだと思っていたが(カリフォルニアに出店)、回転寿司も有望だ。

今まで自動車、家電が海外進出を果たし、世界のブランドになったが、もうそういう時代は来ないと思っていた。
しかし、外食産業の未来は明るい。
うどん、そば、ラーメン、寿司、どんぶりなど、出ていっている。

働く人の待遇も良くなり、給料も上がっていけばいいのだが…。



| | 考えたこと | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
練習と才能
Newsweekの記事に、練習と才能に関する記事があった。
要は「努力は才能に勝る」は本当か?ということだ。
アメリカの大学の心理学者が調査を実施した結果。

1993年の調査で、一流のバイオリニストは20歳までに平均1万時間の練習をしていることがわかっており、そのときはバイオリニストになるには、才能ではなく「1万時間の意図的な練習」だ、ということになっていた。
しかし、今回バイオリン奏者を3種類に分けて、一番下のレベルの人はだいたい20歳までに6000時間の練習ということで、1万時間に足りないことはわかったが、その上の人たちは平均1万1000時間の練習。
やはり「いい」バイオリニストは1万時間の練習をしていたのは事実。

しかし、上のグループだけで見ると、練習時間と「上手さ」の関係は強くなく、練習時間が実力の違いに占めた割合は25%程度だったとのこと。

残念ながら、努力だけでは才能に勝てない、ということだ。
バイオリニストの実力と練習時間の関係から導いたらしい。
まあ、そうだろうなあと思う。

同じ練習をするにしても、質の問題もあるだろう。
何を目標に練習するかということだ。
さらに、バイオリン以外の音楽をどれだけ聴いているかとか、演奏に対する考え方とか、もっと言えば「才能」としかいいようがないものもあると思う。

さらに、何をもって「上手」というかという基準も曖昧だ。
主観の問題であり、そこは曖昧さが残る部分。

20歳までに1万時間ということは、3歳からやったとして、年間600時間弱の時間を使っている。
年間600時間というと、3歳から20歳まで一日も休まず1時間40分の練習ということだ。
それを17年も続ける。
いくら好きでも、普通の人は嫌になる。
それくらい続けたら、バイオリンを弾くスキルは間違いなく上がるだろう。

ぼくのギターだって、毎日弾くわけではない。
一日2時間弱の練習をするのは大変だ。
それくらい弾いていたとしたら、受験勉強から逃避した時くらいだと思う。
20歳までに1万時間というのは、それくらい大変なのだ。

それでも、練習時間に比例してうまくなるわけではない、というのが実際だろう。
皮肉なことだが、一流になるためには、練習をすればするほど練習以外の要因が大きくなるのだと思う。
練習に取り組む姿勢や考え方は言うまでもない。
いいコーチについて、いい練習をするということもある。
しかし、決め手になるのは、「音楽性」というわけのわからない言葉。

評価するのが人間の主観だから、なんとも言えない。
好き嫌いもあるだろうし、運もあるだろう。

結局は、演っている演奏者が、他人の評価にどれだけ価値を置くかだと思う。
ダメだと評価されても、別に気にしなければいい。

食うためにはいい評価が必要だ、というのはわかるが、食うためなら、他にやりようもあるだろう。
天は二物を与えないし、それが「才能」というものだ。
第一、本当の天才は逆に言うとそれしかできないのだ。
どこかに、天才は神がそれをさせている、というようなことが書いてあったが、本当にそう思う。
だから、それはある意味不幸なことなのだろう。
他のことをやろうとしても、できないのだ。

だから、悔しまぎれかもしれないが、やっぱり努力は才能に勝るのだ。



| | 考えたこと | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
教職大学院
教職大学院は2008年に制度化された。
設立のミッションは、2つあって、1つは実践的な指導力をもった新人教員の養成(学部新卒者対象)、もう1つは地域や学校における指導的役割を果たすスクールリーダーの養成(現職教員対象)。
現在の入学定員は2045名だが、今年は定員充足率が8割台に落ち込んだとのこと。

もともとのミッションからして無理がある。
学部卒の学生と現職の教員が対象になっていて、生徒が2種類あって、カリキュラムの設計も難しい。
これが教育学者などの制度設計なのだろうか。
案の定、2012年あたりからネットの記事等で評判が悪い。

学部卒は、教員採用試験に落ちた人が半分以上という実態。
現職教員の方は、現場のストレスに耐えられずに大学院に行く、という声もあるし、彼らが朝からゴルフに興じているという批判もある。
これでまともな教員が養成できるのだろうか。

もともと、文系の大学院というのは、目的が不明確な面がある。
〜の専門家を養成する、という題目はあるが、世の中はそんなに専門家を求めていないのがほとんど。
法科大学院もそれで失敗した。
偏差値は低いが資金力がある大学が悪乗りしてたくさん作ったが、来年度募集をする法科大学院は36校、一方募集停止した大学院は35校もある。
学校法人が馬鹿だったといえばそれまでだが、それを誘導した役所の罪は大きい。

ぼくがいつも見ている、元小学校教員の中沢良平氏がブログで面白いことを書いている。
今の教員が大変なのは、主にキャリア形成に失敗しているからだ、という。
引用すると、

「教員個人のいちばんの対策としては、「この業界に新卒で足を踏み入れない」です。新卒で教員にならなければいいのです。

教員になってしまうと、もう他業界に転職することはかなり難しくなります。逆はぜんぜんあります。ようするに、新卒で教員という職業にロックオンされてしまうと、どうにもこうにもつぶしの利かないキャリアになってしまうのです。

そこで提案ですが、教員の採用試験の受験を30歳以降にずらしたらどうでしょうか。受験資格に年齢制限もないですし。

20代はキャリア形成においてとても貴重な時期です。この時期に、正直50歳からでも新規参入できる教員という仕事にロックオンされてしまうのは、人材の浪費です。(50代で新規採用され立派に務めている先生はたくさんいます。他の業界ではこうはいかないでしょう)

一般企業かどこかで、しっかり転職できるくらいのキャリアを積んでから採用試験を受けてもいいと思います。

それで、「教職は業務量がハンパないな・・・自分に向かないな・・・」と思ったら、もとの業界に戻ればいいのです。

そうすれば、教員に向かない人が生活の糧を得るために60代まで教職にしがみつき続けるという悲劇を防ぐことができると思います。なにより子供たちのためです。」

これはいい考えだと思う。
そもそも、学校の問題の大半は、教育に携わる人たちが社会から離れて学校で閉じている、ということから生まれるのだと思う。
社会人経験を積んで、先生になれば、その問題は解決する。
子どもたちにとっても、世の中のいろんなところで過ごした人たちがロールモデルになるし、保護者に対してももっとまともな対応ができるはず。
閉鎖的な教育界を変えるいい方法だ。

今の社会人が教職大学院に行って、教員になればいい。

そういう人が半分くらいになったら、学校は変わると思う。


| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラグビー
ラグビーは高校の体育でやった。
体育の先生がラグビー部の顧問で、とにかくラグビーだった。

かといって、それほどルールの説明を聞いた覚えもない。
ボールを前に投げてはいけない、スローフォワードという反則と、ボールを落としてはいけない、ノックオンという反則の2つ。
敵陣に入ってボールを置いたらトライで点が入る。
キックはペナルティキックとドロップゴールくらい。
まあ、それくらい覚えたら、ゲームはできる。

しかし、最初は全くわけが分からなかった。
キックで始まり、いつスクラムを組むのか、先生の指示でやったのだが…。

先生の口癖が「臨機応変」。
いったんゲームが始まったら、とにかく「臨機応変」だ。
いまだにラグビーといえば「臨機応変」しか思い出さない。

スクラムを頭に、バックスがラインを作ってパスを回す。
スクラムハーフとか、ナンバーエイトとか、ポジションは何となくわかる。
タックルを受けて倒れてボールを離さなければ「ノットリリースザボール」。
これは英語がわかればわかる。

時間が来たら「ノーサイド」。
これはユーミンの曲でも有名だ。

高校の時の知識のまま、今に至っている。

日本で初めてのラグビーワールドカップ。
発祥の地イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランドの3カ国。
アイルランドもいるし、英連邦ではニュージーランドもオーストラリアもいる。
やっぱりイギリス系が強い。

屈強の男たちがぶつかり合うのは迫力がある。
さすがワールドカップだ。

学園モノの最初の作品「青春とはなんだ」は夏木陽介が先生でラグビー部だった。
あの当時、学園モノといえばラグビーかサッカー。
布施明の主題歌が懐かしい。

球技の人気からいえば、野球が一番だったが…。
商業主義の手垢にまみれていなかった、ということだろうか。

その後、野球は人気があるがゆえに「巨人の星」などのスポーツ根性モノになった。
日本ではラグビーはいい意味でアマチュアリズムがある。

ワールドカップ、日本も頑張ってほしい。


| | 考えたこと | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジフかギフか
GIFは画像の形式の一つ。
ぼくは「ジフ」と読んでいたが、海外のドラマを見ていたら「ギフ」と言っていた。
GIFはグラフィックス・インターチェンジ・フォーマットの略。
色数が少ない分軽いファイルで、アニメーションなどもできるのがいいところ。
ジー・アイ・エフだから、ジフというのが自然という感じ。
しかし、グラフィックスの略だから、ギフというのもありだ。

海外ではギフかジフかでもめていたらしい。
2013年には、このファイル形式を開発した人が「ジフ」ということを宣言したが、それでもオックスフォード辞典には両方とも併記されている。

英語の読み方は、難しい。
Gの発音もいろいろある。
”general”はジェネラルだが、”gift”はギフト、”guest”はゲスト、”ground”はグラウンド。
同じGでも発音が変わるから、難しい。

英語の発音と表記がバラエティに富んでいるのは、歴史の遺物。
イギリスが海外の影響を受けたり、他の国に征服されたりしたのが原因だ。
そのために、GIFがジフになったり、ギフになったりする。

日本語では表音文字である「ひらがな」「カタカナ」は文字と発音が一意的に決まるから、迷わない。
ネイティブにとっては、子音の発音はある程度決まっているのだろうが、日本人が理解するのは難しい。
まあ、カタカナで表記するのが無理なのだが…。
しかし、海外でもジフかギフかでもめるくらいだから、この問題はややこしい。

ギフというと岐阜や義父を思い出すから、何となく違和感がある。
ジフも自負はあるが、まだマシだ。

漢字を取り入れながら、音や意味は変えてきた日本語もかなりややこしい。
話すことと書くことを一致させるのは、活字ができてしまったら難しいのだろう。
もう現状から変化させるのは無理だ。

話がそれたが、ぼくは開発者の意図を尊重してジフでいこうと思う。

| | 考えたこと | 19:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
知識が必要
ウォーレン・バフェットというと、世界で知られた大金持ち。
投資の神様と言われている。
その彼が、面白いことを言っている。

彼は、人が知らない情報を得て、それでお金を貯めたわけではないという。
そうではなくて、誰もが知っている情報をよく考えて、年に数回取引をすることを繰り返してきた、ということだ。

昔は、情報はお金で買うものだった。
バブルの時代は、ロイターやブルームバーグの情報端末は必須だった。
年間1200万円のお金がかかっても、株や為替のディーラーをやって儲けようとすると、人より早く情報を得ることは大事だったのだろう。
しかし、今は人より早く情報を得ることなどできない。
インターネットがそれらを破壊したからだ。
今は誰でもすぐに手に入る為替のデーターなど、昔は職業ディーラーが独占して儲けることができた。
もうそんな時代は終わった。

バフェットの言葉に「正確に間違えるより、大雑把に正しい方がマシ」という言葉があるらしい。
世の中に情報が溢れすぎ、それらの情報を整理し、大雑把に正しい方向を導く、というのが意外と難しいということだ。
会社では上司がいろんな条件を設定していたりするが、それが間違っていることも多いという。
その、間違った条件に基づいて、情報を整理し「正確に間違える」よりは、その条件を外して全体を見て考え、大雑把に正しい方向を見定めることが大事という。

その「情報を見極める」ためには、「知識」が必要だという。
これが本当に大事だとぼくも思う。

世間の教育者は、インターネットで検索すればすぐに答えが出てくるので、これからは「知識」は大事ではなく、「考える」ことが大事だという。
だから、アクティブ・ラーニングなどという言葉が重宝される。
やっていることは、みんなで話し合って、答えを出そうというものだ。
本気で言っているのだろうか。
それなら、今の学校など要らない。

「考える」ためにこそ「知識」が必要なのだ。
そのことについて、何も知らなければ、何が大事なのかわかるはずがない。
極論すれば、検索して出てきたものを並べ、それらを同じ重みで考え、そして答えを出さざるを得ない。
それこそ、「正確に間違える」ことも十分にあり得る。

アクティブ・ラーニングで、ある問題を話し合うときには、予備知識が必要なのだ。
それをすっ飛ばして、みんなで話し合っても意味がない。

逆に、何でも検索して出てくるようになったからこそ、知識が必要とされるのだ。

それも、大雑把に方向を見いだせるような「知識」。
これは、そう簡単にはつけることができない。

それこそが、21世紀に必要とされるものだと思う。

| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
塗り絵
政府は少子高齢化が進む日本で、年金制度を維持するために長く働くことを考えている。
今は65歳定年だが、これを70歳にすると年金はだいぶマシになるらしい。
今の状態では2030年代には年金基金が底をつくということらしい。
貰う人がふえて、もらう期間が増えて、払う人が減っているのだから、誰が考えても当たり前だ。
今の若い人たちは社会保障のお金を法外にふんだくられているのだから、世代間格差を小さくするためにも、老人は働き続けないといけない。

しかし、長く働いても、まだまだ老後は残っている。
70歳や75歳まで働いても、まだ老後は長いのだ。
70歳までなら、平均で、男性の場合10年以上、女性の場合は15年以上は残る。
おまけに、その歳になるとそんなに健康ではないから、アクティブには過ごせない。
その頃には医療費も予算を圧迫するから削減せざるを得ない。だから、そんなに医療にもかかれない。
となると、自分で健康を意識せざるを得ない。

今はそんなことを考えられるが、ボケてしまうとそんなことも考えられない。
でも、それはもう自分ではないのだから、とりあえず考えるのはやめる。

身体の健康はさておき、心の健康が気にかかる。
精神的に健康を保つのは大変だ。
社会から離れるから、あまり人と接することができない。
人間の楽しみの大きな部分は、人とのコミュニケーションが担っているから、それは深刻だ。

ということで、「塗り絵」。
イギリスの調査チームが、塗り絵に精神安定作用があるということを証明したとのこと。
対象は50人の大学生。
塗り絵が、読書よりも効果があったという結果だ。
セラピーの現場でも役に立つ可能性があるとのこと。
そのうち、相談室に行ったら待合室に塗り絵と色鉛筆が置いてあるかもしれない。

模様は何でもいいらしいが、曼荼羅模様がいいのではないかとのこと。
動物などは今ひとつ(有意差はない)。
幾何学的な模様のほうがいいのだろう。

ネットで探せば、いろんな画像が出てくる。
色鉛筆とプリンタがあれば、素材はいくらでも入手できそうだ。

70歳(できれば75歳)まで働いて、それを過ぎれば「塗り絵」の毎日。

難しいと思うか、これはいいと思うか…。



| | 考えたこと | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
70歳まで働く
今朝の就職関連会社の調査で、今の大学生の3割は70歳まで働きたいと思っているとのこと。
サンプルは1500人程度だから、そんなに当てにはならないが、今の年金の問題等を見ていて、自分たちの人生を考えるとそうなるということか。

ぼくはもう60歳を過ぎたが、歳をとるにしたがって、先のことも見えるし、やっぱり長く働きたいと思う。
しかし、これから働き始める人達でも、3割位は70歳まで働こうと思っている。
どちらかというと、積極的に働きたいというよりは「働かないといけない」という意識が強いんだろう。

年金をもらう人がどんどん増えて、払う人がどんどん減る日本。
年をとったら病気にもなるし、医療保険はもっと問題が大きい。
年金どころではなく、使う一方だから大変だ。
こちらも現役世代の負担になっている。

人口構成からして、こうなることはわかっていたはず。
高齢者は若い世代からお金をもらって生きていく仕組みが今の年金。
長生きになったから、余計にどうしようもない。
一応貯めた金はあるが、それ以上をもらうということは、現役世代のお世話になるということだ。
だから、できるだけ現役世代に迷惑をかけないようにしようというのが、普通の考えだろう。

今朝もニュースで年金が少ないという高齢者のことをやっていた。
テレビに出ていた人は、年をとったら好きなことをして暮らそうと思っていたが、とてもそんなことはできない、と言っていた。

年をとっただけで好きなことができるというのは、これまでの話。
今はもうそんなことはできないのだ、と考えたほうがいい。

人口構成や長寿化からこうなることはわかっていたのに、それを放置したのだから、仕方がない。
70年代から90年代の30年間、日本は奇跡的な成長を遂げて、ラッキーだったのだ。
そのころの年寄りはよかっただろう。

でも、もう今は違う。
90年代末から成長が止まって、長生きになって、少子高齢化だ。
ダブルパンチではなく、トリプルパンチだ。

きっと今のシステムを変えないといけないのだが、変えたくない人が多すぎてどうしようもない。
年金、医療の問題をどうするのか。
どうやって、止まった成長をもう一度動かすのか。

マスコミもそういう観点から報道をしないといけない。
年金が少ないから困った、という報道だけでは片手落ち。
そうなるのは当たり前、という側面も報道していかないと、意識は変わらない。

そういうことを本気で考えないといけないと思う。

| | 考えたこと | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
微小惑星ニアミス
7月末に、直径130メートルの小惑星が地球から約7万キロの距離を通過した。
7万キロというと、月までの1/5くらいのところ。
この広い宇宙でいうと、本当にニアミスだ。
なんとこの小惑星の速度は、時速8万7000キロメートル。
これが一気にゼロになるのだから、衝突のエネルギーは巨大なものになる。

恐竜を滅ぼした隕石は直径10km程度だったらしいから、それに比べるとだいぶ小さい。
それでも、大量の核兵器に匹敵して、たくさんの死者が出たはずとのこと。

衝突しなくてラッキーだった。
NASAをはじめ、いろんな機関が宇宙を監視しているが、この小惑星には数日前から気づいてなかったということだ。
本当に運が良かったとしか言いようがない。

ややこしいのは、いつ、どこから飛んでくるのかわからないということだ。
それが小さければ、なお難しい。
そういう小惑星を見つけたら、その人は英雄的な仕事をしたことになるだろうが、そうでなければ単に空に向かって望遠鏡を眺めているだけだ。
こういう仕事が一番難しい。

それこそ、AIの画像解析に任せて自動でチェックするような体制を作るほうが早い。
画像解析のAIは進んでいるから、そういうこともできるようになると思う。
少なくとも1週間以上前に見つければ、何かできるかもしれない、ということだ。

宇宙の出来事は人間の時間のスケールでは測れない。
相手は何百年、何千年、何万年という大きなスケール。
だから、なかなかうまくいかない。

人間の知力は宇宙の運に勝てるだろうか。

| | 考えたこと | 21:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギャップイヤー
ギャップイヤーについての記事があった。
これは、アメリカの学生向けの記事。
アメリカではギャップイヤーという言葉が存在し、それが大事だ、という記事が出ている。

ここでいうギャップイヤーは大学に入る前。
日本でいうと浪人の時期になる。

アメリカでは、専門性が重視されるので、大学で学んだことと就職は密接に結びついている。
だから、高いお金を払って大学の専攻分野を選ぶことは、将来の仕事につながるのだ。
記事によると、

「技術によって、新たに作られるより多くの仕事が今後数十年でなくなるかもしれない。同時に米国の18歳の若者たちは、学士の学位にさえ10万ドル(約1080万円)以上の出費を求められることがますます増えている。

さらに若者たちは、自分が何者かも、どこに向かっているのかも分からない段階で人生全体に影響を与えかねない大学の専攻分野選びを求められている。世界について、そして自分自身についてより多くのことを学ぶため、1年間休息期間を持つことがより合理的かもしれない。この時間は「ギャップイヤー」と呼ばれることが多い。」

この状態は日本でも同じ。
高校3年生で大学の専攻分野を選ぶのは、難しい。
だから、学校は生徒にオープンキャンパスに行かせて、自分で選べという。
しかし、半日程度行っても、わからないと思う。

今は情報量は昔の比ではなく、自分で調べることで、わかることは多い。
しかし、そのようなスキルを高校で得るのは難しい。
ごく一部の優秀層になるだろう。

だからこそ、ギャップイヤーが大事だという。
高校卒業の時点で、自分が何者かを考え、世界についてより多くを学ぶのだ。

ギャップ・イヤー・アソシエーション(Gap Year Association、GYA)によると、高校卒業後に休息期間を設ける若者の90%は、ギャップイヤー終了後1年以内に4年制教育機関に入学しており、「ギャップイヤーを取ることが大学での成績平均点の向上につながるだけでなく、仕事への満足度と大きく関わっていることが複数の研究から示されている」とのこと。

1年遅らせることで、海外生活などでお金はかかるが、得るものは大きいということだ。
そのためには、怠けるのではなく、有意義な時間を過ごさないといけない。
そして、適切に過ごすギャップイヤーには以下の4つのメリットがあるという。

1. 世界を異なる視点で見られるようになる
2. 本当の目標とその最善の達成方法を決めることができる
3. 高等教育に多額の資金を費やさず自分探しができる
4. 価値のあるキャリア体験をする

現在、多くの大学で「留学」が教育の中に組み入れられているが、その効果も同じようなものだ。
異文化の中で1人立ち向かうことで、成長が得られる。
まして、自分で1年を使って専攻分野を決めるのだから、身につかないはずはない。

アメリカには高校を卒業後、そういうことが出来るようなプログラムもある。
そういう体験をすると、強くなれる。

金はかかるが…。


| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブラックホール
ブラックホールという言葉も、だいぶ一般的になった。
なんだかわからないけど、宇宙にそれは存在するらしいし、いろんなものを飲み込むとか、中にはいったら光も出てこられないとか、質量がとてつもなく大きいとか、何となくそんなものという理解だ。
ぼくが小さい頃はそんな言葉はなかった。
いつの頃からか、本やテレビで見たり聞いたりするようになった。

最近、天の川銀河の中心の、そのブラックホールの活動が活発になっているらしい。
もっとも、今見えているのは2万5600年前の姿だが…。

このブラックホールは「Sgr A*(サジテリウス エースター)」という。
大型望遠鏡と補償光学の進歩で観測できるようになった。
それは、天の川銀河の中心にいて、太陽のような恒星がその周りを周回している。
なんと重さは太陽の400万倍ある。
質量が大きいと重力も大きいので、恒星たちが周りを回るようになる、ということらしい。

ブラックホール自体は見えないのだが、そこに引きつけられる物質が発光するから、存在が見える。
最近、その発する光が大きくなっている。
近接する恒星から、ガスが剥ぎ取られたのかもしれない。

このブラックホールは地球から一番近いもの。
これを観察することで、わからないことがわかったりして、教科書が書き変わるかもしれないという。

今や宇宙は静的なものという考えはどっかに行ってしまった。
宇宙は膨張している。どんどん広がっているのだ。
それはいろんな観測から、どうも確からしい。

逆に考えると宇宙の最初は何だったのか?というのがビッグバン理論につながったのだと思う。
とりあえず、今膨張しているということは、昔は戻ると縮小していたことになるからだ。

このブラックホールの観測で、その一端が明らかになるかもしれない。

しかし、銀河系に属する地球も、その影響をいつかは受ける。
何万年という単位だが、地球の生命にとっては辛いことかもしれない。

でも、人類は何万年という時間を理論的に考えることはできるが、それを自分のことにできるほどナイーブではない。
だから、ブラックホールの観測は面白いのだ。

今の人類にとっては、何万年も先のことなど、知ったこっちゃない。

さて、地球の生命はいつまで続くんだろうか。





| | 考えたこと | 19:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
キャリアカウンセリング
キャリアカウンセリングといっても、ぼくがやっているのは大学生の就職相談。
エントリーシートをどう書けばいいかとか、自分の強みがわからないとか、何をしたらいいのかわからないとか…。
社会人の転職などはやったことがない。
もっぱら新卒だ。

いろんな悩みを相談されるが、そのたびにこちらも考える。
クライアントはみんな「よい」クライアントになる可能性がある。
よいクライアントというのは、カウンセラーに何らかの気づきを与えるクライアントだ。
それはクライアントによるのではなく、カウンセラーのその時の姿勢による。
あくまでもカウンセラーサイドの問題だ。
クライアント自体に良し悪しはない。

ぼくが気をつけているのは、相談の中で1度は笑ってもらうこと。
ぼくらの仕事は1回1回が勝負。一期一会だ。
だから、信頼関係を早く築くために、笑ってもらうのだ。
人間、緊張を解いて相手をある程度信用しないと、笑わない。
その逆もあって、笑うと緊張が解けて心のドアが開く。
心の武装を解く、という感じ。

何せ相手は就職のことだから、真剣だ。
第一志望のエントリーシートなど、気合が入っているからこちらも力が入る。
今の学生はこちらの言っていることに納得しないと、信用しない。
中途半端ではだめだ。
そして、いいものはいいと伝えないといけない。
全部にケチをつけてはいけない。

だいたい一人1時間弱。
長ければいいというものでもない。

ぼくは新卒相手のキャリアカウンセラーというのは必要悪だと思っている。
いなくて済めば、それが一番。
実際に使わずに就職する人はたくさんいる。
今はやりのインターンシップなどに行って、そこで働く側も会社側もお互いに見極めるような仕組みができれば、それでいいと思う。
これからの時代、働き方も変わっていくだろう。
いつまでついていけるかわからない。

あと何年できるだろうか…。


| | 考えたこと | 21:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
働き方を変える
政府は「働き方改革」と言っているが、実際に出てくるのは残業を減らすとかいう話ばかり。
今の正社員の形を守ろうとすると、どうしてもそういうものしか出てこない。
時代はそれを超えて改革を求めているはず。
そうしないと、日本の産業は苦しいと思う。

そんな中「副業解禁」とか、「正社員から個人事業主へ」というような動きも出てきた。
ようやく、本来の「働き方改革」に舵を切ったということだろう。

日経のWebに「アソブロック」という会社が紹介されていた。
ここは、広告などの企画・編集・プロデュースをやっている。
この会社は、「社員全員の兼業必須」ということを掲げている。
働き方としては、兼業が必須であり、コアタイムなしのフルフレックスで、会社に来る必要もない。
10年かけて試行錯誤を繰り返して、今の形になった。

記事によると、メリットとしては、

1.個人にとってメリットが大きいから辞める理由がない組織になった
2.個人がキャリア形成において有益だと感じるから採用に苦労することがなくなった
3.個人が主体性をもって自律的に動くようになるからマネジメントが劇的に楽になった
4.会社を潰さないために、個人が経営意識を持って運営に携わるから収益が安定した

ということだ。
一方で、デメリットは、

1.メンバーのエンゲージメントは上がらない
2.兼業の実践者が多数派にならないとシナジーは生まれない

ということらしい。

副業必須というのは、社員に収入の手段を会社以外に確保しなさい、ということだ。
メリットの4つは、正社員という特権の裏側になる。
正社員という「会社依存度」が高い働き方ではなく、個人中心の働き方になることで、会社はよくなる、ということだろう。
もちろん、会社の業態も関係するが…。

10年かかった、というのは、本当の意味で副業をする社員が多数になるのには時間がかかるということだ。
「本当の意味」というのは、副業の収入が小遣い程度ではダメだということ。
本業の3割くらいは必要なんだと思う。

アソブロックの役員は、雇用思想が大事だという。
その会社の雇用に対する考え方だ。
そこをオープンにして話し合うことで、初めて本来の働き方改革ができる。

話の最後にこういう言葉で締めくくっていた。

「アソブロックのおかげで『会社人』とお別れすることができた。今日からが本当の『社会人』です。兼業を必須にしているのは、こう言える人を増やしたいからです。『働く人=会社人』になるから、世の中で色々な不正が起きるのではないでしょうか。兼業すると、個人は損得ではなく、善悪で判断できるようになります。会社という足かせが無くなり、社会という大地に立てている気持ちになります。兼業を導入することで、働く人が善悪で判断して行動できる『社会人』になる。そういう人が一人でも増えれば、働くことがもっと楽しくなり、ひいては国全体がイノベーティブで朗らかになるのではないでしょうか」

まったくその通りだと思う。


| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
法律の陳腐化
マイクロソフトが作った女子高生「りんな」が歌手になったという記事があったが、その技術が声優の仕事までやるかもしれない。
今までの音声合成は、駅のプラットフォームのアナウンスのように不自然だったが、りんなの歌を聞くと本当に人間が声を出しているようになったと思う。

その技術はもうすでにいろんな場所で使われているらしい。
そういえば、駅のアナウンスもだいぶ人間らしくなったような気がする。

最新技術を使えば、偽造写真など人の肖像をフェイクすることも可能になってきたし、次は声もフェイクができるということだ。
その技術が民生化すると、オレオレ詐欺などやり放題になるかもしれない。

さらに、人間の声を機械学習したりして、そっくりの声を出せるようになると、声も著作権を持つかもしれない。
こうなると、「声」は財産になる。
特徴的な声は、いろんなところで使われるようになったりして、「肖像権」ならぬ「音声権」みたいなものもできてくると思う。

もっと普及すると、作られたAIの声に、逆に人間の声が似ているとかいう事態も起こる。
こうなると、どっちの声が「権利」を持つかという争いも起こるかもしれない。

AIの時代には、昔作られた法律はどんどん役に立たなくなるのではないか。

日本は法律を作っても、微妙な部分は省令で決めるという文化があると聞いたことがある。
本来はそこを決めるのが法律のハズなのだが、それは省庁が省令で裁量的に決めていたりする。
あくまで原則として、法律はあるが、細かいところは骨抜きになったりもする。

法律を決めるのは制度上は国会だ。
しかし、国会議員が作るのではなく、ほとんどの法律は役所が作っている。
役所は自分のところの持っている権限は手放さないのが習性らしい。
ということで、法律を改正しても、肝心なところは省令で決めるというふうになりがちだ。

しかし、それをちゃんと決めるのが国会議員の仕事。
そのために、政務調査費などが出ている。

高度成長下の日本は、役人が作った法律でとりあえずうまくやってきた。
人口は増えるし、目標は明確だったし、日本人の得意分野だったのだろう。
うまくいくときは、何をやっても大丈夫だ。

でも、バブルが崩壊して、低成長の時代になった。
このあたりから、具合がわるくなった。
追い抜くべき目標はないし、「デジタル」という新たなものも出てきた。

そういう時代を20年以上過ごしてきた。

絶好調だった頃の制度が「年功序列」「終身雇用」というようなもの。
それらは時代遅れになった。
もう捨て去らないといけない、と思う。

これからの時代、もっと国会議員は賢くなって、法律もどんどん制定していかないといけない。
そうしないといろんなことが後手後手になる。

もっと優秀な議員を選ばないと…。


| | 考えたこと | 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
タイヤはキーパーツ
自動運転のステージを迎え、タイヤは重要な部品になるかもしれない。
なぜかというと、タイヤは路面に接する唯一の部品であり、路面の状況がわかるからだ。

今までは人間が路面を直接見たり、ハンドルやブレーキのフィードバックを得たりして、路面の状況を理解していたが、完全自動運転になるとその役割を代替しないといけない。
代替手段は、カメラで直接路面を見る方法もあるが、実際に路面をグリップして走るタイヤを使えば、もっと正確になる。

実際、ブリヂストンはタイヤの内側に貼り付けた加速度センサーを使って、路面の状況を把握し、それをクルマにフィードバックすることで、より安全なシステムを構築しようとしている。
また、それぞれのクルマからのデーターをクラウドにためて、それらを解析することで、どの場所がどういう状況かを地図上に集積する予定だ。
そのために、欧州の会社を買って、着々と準備を進めている。
タイヤメーカーも、データーを売る時代になる。

ミシュランは実際にトラックタイヤで、温度や空気圧の異常をみつけるサービスを始めた。
組んでいるのはソフトバンク。
こちらは路面データーではないが、実際にユーザーにメンテナンスの手間を減らす、というソリューション。
まずは現実的なビジネスだと思う。

たしかに、自動運転の時代には、路面の状況というパラメーターをクルマに伝えるというシステムは大事なものになる。
それをドライバーは目や手や加速、減速、ハンドルの手応え等の感覚で判断している。
そのドライバーを頼らないという前提で自動運転を考えるとき、路面情報は大事ということだ。

タイヤが路面状況を伝えるキーパーツだからこそ、各社が知恵を絞っている。
コンチネンタルの様に、タイヤのデーターをクラウドに吸い上げるというのも一つの手だろう。
要は路面の摩擦係数がどうなっているのか、滑りやすいのかどうか、排水状態はどうか、というようなところだろう。
これはリアルタイムでやらないと意味がない。
それを自動車メーカーがやるのか、部品メーカーがやるのか、難しいところ。
ブリジストンは自前でやろうと考えているのだろう。

デジタルの世界は、大きいものが勝つ。
GAFAを見ているとよくわかる。
最初にインフラを作ってしまえば、もう勝てない。

タイヤだけでなくデーター覇権も絡んで、これから大変だ。
やはり資本力のあるところが勝つのだろう。

どう生き抜くか、戦略が難しい。




| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターの運指
ギターの運指というのは、指板の上の6弦をどの指で押さえるか、ということ。
6つの弦はフレットで区切られていて、それはエレキギターでは22くらいある。
見たことがある人はわかるだろうが、低音側はフレットの幅が広く、高音側は狭くなる。
つまり、6つの弦✕22フレットの132の押さえるべきところがあって、それを原則的には左手の4本の指で押さえることになる。

4本の指というのは、ネックを握っているので、親指は指板の後ろ側にあるからだ。
たまに、手の大きな人は低い方の6弦や5弦まで、裏側から出した親指で押さえることもあるが、それはイレギュラー。
基本は4本の指だ。

普通は、基本となるポジションを人差し指で決める。
5フレットのポジション、というと5フレットに人差し指が来るパターン。
ギターはピアノと違って、音の高さでは押さえる場所が決まらない。
音によって、何か所か同じ音の高さがある。

だから、譜面を見ただけではどこで弾くのかは決まらない。
それを表すためにTAB譜というものがある。
TABは五線譜より1本多い6線譜。これがどの弦で弾くかを表す。
音符でいうとオタマジャクシの頭の黒く塗っている部分に何フレットで弾くかを書く。
数字に音符の棒から下がひっついている。

でも、もう一つ問題があって、どの指でその位置を押さえるかという問題がある。
たまに、TABの数字の上などに1234という数字が入って、これが1:人差し指、2:中指、3:薬指、4:小指を表して書き込んであることもある。
しかし、通常は書かないのだ。
手の大きさや指グセというものがあって、そこまで指定はしないことが多い。

話が長くなったが、ぼくは5フレットポジションなら、人差し指から小指までに5,6,7,8フレットを割り当てて弾くことがほとんどだった。
別にそう弾けと習ったわけではないが、小さめの手で弾こうとすると必然的にそうなる。
弾くポジションが決まれば、そこから4フレット離れたところまではそのまま対応する。
それが一番いいと思っていた。

しかし、こないだレッスンに行って、先生の指使いをよく見ていたら、あまり小指を使わない。
聞くと小指を使うのは、どうしても使わないといけないときだけで、できれば中指と薬指で対応する、というのが先生のやり方。
手が小さく、指が短いとどうしても指をストレッチしないといけないが、その方が速く弾くのには向いている。
さらに、弦違いの同フレット(1弦の8フレットと2弦の8フレットというような場合)のときは違う指で押さえるという。
たしかに、同じ指で押さえようとすると、手がバタつくし、それが小指だとどうしても遅れる。
ロックのギタリストは、たいがい小指は使わないらしい。

それから、ライブの映像などを見ていると、たしかに小指は使っていない。
女性でどう考えてもぼくより手が小さいと思われるギタリストでも、小指はめったに使わない。
画面を注視してビックリした。

これは青天のヘキレキだった。
もっと早くそのことに気づいていれば…、と思うがもう遅い。

これから練習するぞ。


| | 考えたこと | 22:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
AMラジオ
長らく続いてきたAM放送は、ついに終わりそうだ。
総務省の有識者会議で、FM放送に転換することが容認されるとのこと。

たしか、ぼくが中学生のころ、FM放送が一般的になったと思う。
FM大阪が開局して、NHKとともにFM局が2つ聞けるようになった。
それまではNHKはクラシックばかり流していたが、FM大阪ができて、ポップスも流れるようになった。
土曜日のポップスベストテンと歌謡ベストテンはよく聞いた。

当時は、これでレコードを買わなくても、ラジオをエアチェックして録音すれば、いろんな曲が聞けるようになる、と喜んだものだ。
まだまだ音楽の単価は高かった。
録音も最初はオープンリールだったが、カセットが出てきて、メタルテープの時代になり、音も良くなった。

それでも、民放はFM大阪だけの時代が続いた。
FM大阪が1970年開局で、KissFM神戸が1990年だから、FMの多局化に20年もかかったことになる。
今はFMCocolo(95年開局)も入るし、カーラジオなら場所によってはFM京都も入る。

アナログ時代のテレビが使っていた周波数も使って、ワイドFMと呼ばれる76MHz〜108MHzの間に、今のAM放送が入り込んでくるということだ。
関西なら、ラジオ関西、NHK第一、NHK第二、朝日、毎日、ラジオ大阪あたりだろう。
一気に電波が混む。

なぜFMになるのかというと、AM放送はお金がかかるからだ。
FMはMHz(メガヘルツ)に対してAMはKHz(キロヘルツ)で、周波数が低い。
だから、AMの方が波長が長く、アンテナなどの送信設備が大変なのだという。
AM局の営業収入は、ピークの1991年に2040億円だったが、2017年には797億円。
儲けは1/3になろうとしている。

ぼくらが中学の頃は深夜放送を聞くのがトレンドだった。
何度か書いたが、深夜族というような言葉もあったくらいだ。
でも、今はいろんな音源も増えて、AMラジオはスポンサーがつかなくなったのだろう。
カーラジオも、今はMP3プレイヤーをつないで聞く時代。
送信のために電気も食うし、やってられない、ということなのだろう。

そんなわけで、AMはだんだんとFMになっていく。
AM放送というと、トークの番組が多いが、今のFMもそういう番組が増えてきているので、同じようなものだ。

ちなみに、ぼくは中学、高校時代、ヤングタウンをずっと聞いていたが、今は金土日だけの放送になった。
10時から11時半までで終わる。とても深夜とは言えない。
パーソナリティは木曜日がアリスの3人(谷村新司、堀内孝雄、矢沢透)、土曜日が明石家さんまと村上ショージと若い女性、日曜日が鶴瓶など。
まあ、関西の昔の深夜放送の人達(明石家さんまはちょっとズレるが)。
年齢を考えても、11時半にはもう終わろうということなんだろう。

ナイターファンには、今でもAMラジオはおなじみだと思う。
テレビ中継は減ったが、ラジオは昔のままだ。
でもそれらを聞く人たちはもう高齢者。

結局、若い人たちが深夜放送を聞かなくなって、AMの時代も終わろうとしているということだ。

今やラジオはインターネットで聞く時代。
雑音もないし、何よりNHKなどは聞き逃し対応もしてくれていて、いつでも聞ける。
ようやくAMは過去の遺物になる。

ぼくが生きている間になくなるかな…。





| | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
朝の電車情報
大阪駅を朝10時くらいに通るのだが、乗客が明らかに減っている。
大きなスーツケースを持った人がほとんどいなくなって、やはり夏休みの行楽シーズンが終わったのかなと思う。
しかし、それだけでもないのかもしれない。
今の政治状況や国際情勢を考えると、韓国や中国から来る人が減ってもおかしくない。
夏休みが終わったからだけではないだろう。

インバウンドの需要が減っているのだ。
特に関西はそれで潤っている部分もあるから、大変だ。

また、以前からドラマが変わるたびに、梅田から大阪駅に行く途中の壁に大きなポスターが出て、出演者などの大写真が出ている。
若い女性が、よくそこをバックに写真を撮っているのだが、それはあくまで夜の番組。
局が力を入れているドラマなのだろう。
こんな写真もインスタ映えするのかと感心していた。

しかし今日、駅で降りたら、大きな常設のポスターがあって、そこに朝日放送の朝昼の番組表が載っていた。
これは驚いた。
宣伝の要素はあまりなく、単なる番組表なのだ。

この駅の畳一畳分くらいの番組表は、朝日放送の苦しさを表しているように思える。
単に新聞の番組欄を見れば済む話。
でもすでに新聞を取らない人も増え、若い人たちのテレビ離れも深刻だ。
だから、単なる番組表を宣伝しないといけなくなる。
昭和の時代には、こんな日が来るなどと思ってもいなかった。

だいたい、民放の朝昼の番組は、かなりひどい。
それでもまだ朝日放送は吉本の芸人に頼らず、内容はともかく、わりとマシな番組作りをしていると思う。
なんと言っても、2時台、3時台は過去のドラマを再放送しているだけいい。
毎日放送はその時間も、ワイドショーと称する下らない番組を流しているのだから、まだ良心的と言える。
昼は休んで経費を削減したらいいと思うのだが、広告費を儲けないといけないから、仕方ないのだろう。

関西ローカル制作の番組は特にひどい。
よしもとの芸人などが出てきて、わちゃわちゃと井戸端会議をする。
だいたいはそのパターン。
こんなもの、やって意味があるのだろうか、と思う。

朝の通勤電車だけでも、いろんな世相がわかる。
面白いものだ。

| | 考えたこと | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
音楽の効用
ギターを弾くと、ボケ予防になる、という話は聞いたことがあるが、楽器の演奏が成績がよい、という話は聞いたことがなかった。
カナダの研究チームが実施した大規模調査で明らかになった。

「このほどカナダのブリティッシュコロンビア大学が実施した大規模調査で、楽器の演奏をたしなむ高校生は、音楽をやらない学生と比べて数学・科学・英語の成績が有意に高いという結果が出た。これは音楽が発達中の脳に与えるよい影響をうかがわせると同時に、学校教育の一環として音楽を取り入れる重要性を再認識させるものだ。」

ということだ。

英語と書いてあるのは、つまりカナダの国語のことになるから、理数系と国語の成績がいい、という意味になる。
音楽という科目は楽器などにお金がかかるので、予算削減の対象になりやすく、小中学校では音楽教育そのものが存在しない学校もあるらしい。

このへんは日本は頑張っている(と思う)。
小学校では鍵盤ハーモニカ(昔はハーモニカと縦笛だった)をやる。
音楽会ともなれば、木琴、鉄琴、アコーディオン、リズムは大太鼓、小太鼓、シンバル、トライアングルなど、たくさんの楽器が出てくる。
中学・高校に入れば授業もあるし、部活ではブラスバンド(女子がほとんどだが)がある。

カナダでは、音楽に夢中になると、英語、数学、科学の成績が落ちる、という俗説があるらしい。
日本でも、昔はエレキを持つと不良だ、というようなことを言われたが、同じようなものか。
しかし今回の研究結果はその逆の結果になった。

ただ、研究対象の州の公立高校で音楽コースを選択するには、それ以前からのレッスンが必要らしい。
かなり高度な授業のようだ。
だから、初心者向けのギターなどは今回は研究対象外とのこと。
だから、日本の音楽の授業とはだいぶ違う。

結局、かなり高度なレベルまで楽器をやると、国語や数学の成績はよくなる、ということだ。
楽器の演奏をすることが、脳の認知機能などを高めるという研究結果もあり、そうかもしれないと思う。
でも、そういうレッスンにはお金がかかるから、家が金持ちでそれなりに家庭の社会資本が影響しているのではないかとも思う。

いつから始めても、音楽は楽しいものだ。
第九のコーラスも楽しいし、一人でギターを弾くのも楽しい。
カラオケで歌うことだって楽しい。

最近は一人で演奏しながらそれを録音して、その上に自分で音を重ねていく、ということもペダル一つでできるようになった。
すごい技術の進歩だ。
もちろん、声だって簡単に重ねられるから、一人アカペラもできる。

研究結果はさておき、音楽を楽しめばいいのだと思う。

それがどんな能力をつけてくれるかは、おまけにしておこう。


| | 考えたこと | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
蛍草 菜々の剣
BSの時代劇でやっていた。
武家の娘が、町人として武家に奉公し、偶然にも親の仇に出会い敵討ちをするという話。
書いてしまえば1行の話だが、一人で生きる菜々と周りの人たちの交流がいい。
仇討ちを描いた人情噺だ。

葉室麟の時代小説。
以前、葉室麟は同じようにドラマで見て「銀漢の賦」を読んだ。
この人の小説は、義理人情の世界だ。

時代劇は細かい約束事がなく、物語のエッセンスを描くことができる。
これがいいのだろう。

電話やパソコン、スマホもないし、何かを伝えるには会うしかない。
メールやSNSもないので、誰かの情報は本人か知り合いに聞くしかない。
写真も撮れないので、人の顔は覚えておくしかない。

時代が進んで便利になった。
便利になったことは、いいことだ。
世界中で貧しさが減り、だからこそ、世界の人口が増えている。
しかし、温暖化や覇権争いなど、問題も増えた。

そんな面倒くさいものは一切ない。
そういう世界でこそ、人の心の機微が描けるのかもしれない。
いい話だったから、本も読もう。

それと、このドラマの主役の清原果耶がぴったり。
作者が彼女を思い浮かべて、物語を書いたのかと思う。

いい話だった。


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キーボード復活
学校法人に勤めていたときに使っていたキーボードが復活した。
キーボードと言っても、音楽のキーボードではなく、パソコンの入力用。
ぼくはキーボードについてはこだわりがある。

メカニカル・スイッチ式のキーボードで、キーを打つとカタカタという音がする。
押し下げる距離が長く、底までいかなくてもキーを打てるもの。
ブルートゥースという通信で、ワイヤレスでつながる。

一度、今の勤め先へ持っていってトライしたのだが、その時は通信がうまくいかず、チャタリング(勝手に同じキーで入力されてしまう)という現象が出た。
今回はパソコンの入れ替えがあって、新しいパソコンになったので、もう一度トライしたのだ。
その結果、チャタリングはブルートゥースの通信が離れていたから、ダメだったということがわかった。
パソコン本体を足元から机の上に上げると問題なかった。
おかげで、やっと使えるようになった。

パソコンに付属のキーボードは、打っているとほとんど押せず(底についてしまう)、押し下げるのに慣れていると頼りなく、底についたときの応力が大きいので、指に負担がかかる。
ひょっとしたら、右手のバネ指の原因はこれかもしれないと思い、今日から本格的に使っている。
なんとなくいい感じだ。

ブラインドタッチは覚えるべきだと思う。
これはひとえに弟のおかげ。
その経緯は書いたことがある。

仕事でのアウトプットというと、やっぱり書くことがメイン。
書いて、提出して初めてアウトプットができる。
もちろん、営業成績を上げるとか、新商品の開発でリーダーをやって成功するとか、そういう文字にしなくてもいいアウトプットもある。
しかし、文書で残すのと残さないのとでは雲泥の違いがある。

書くことは仕事の基本だ。
もっと書くことを重視しないといけない。
そのために、今や書くための道具となっているキーボードに慣れることは大事。

スマホのフリック入力で卒論を書くツワモノもいるというが、やはりキーボードの方が入力は早くなる。
キーの数が多いから、それは必然だ。
日本語変換も良くなって、予測変換を使えばそう変わらない、という人もいるかもしれないが、やはり大きな画面で両手を使って打つというのは強い。

昔の小説家は、愛用の万年筆というのをよく紹介していた。
今はもうキーボードになっていると思う。
紙とペンの世界の良さは認めるが、字を書くことに関してはもうそこには戻れない。

前にも書いたが、字が汚くなったのは早く書こうとするからだ。
それは、ワープロで打つ速さが基準になっている。
昔とは基準が違う。

ということで、昔愛用していたキーボードを取っておいてよかった。


| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
第九練習3回目
今週は先生が不調でピンチヒッターが来た。
先週、マスクをして頑張っていたが、その後声が出なくなったとのこと。
声楽家は大変だ。

ピンチヒッターの先生は、西宮のコダマ先生。
ぼくにとってはラッキーだった。
発声練習で、おなじみの言葉が出てくる。

骨盤底筋、軟口蓋、横隔膜、鼻の位置で息をためる、あくびの口…。
2年間西宮だったので、これはよくわかる。
実際、鼻の高い位置で息をためて、声が響いた感じもした。

コダマ先生は、このクラスは声がきれい、と言っていた。
もちろんお世辞もあるのだろうが、西宮と比べると明らかに平均年齢が若い。
パート練習を聞いていても、西宮とは違う。
特に女性は現役世代が多く、人数も多い。

男性、特にバスは少ない。
ソプラノ、アルトと比べると、この人数で練習するのはつらいという感じ。
テナーはまだ人数が多い。
このへんも西宮と逆だ。
教室が変わると、カラーが変わることを痛感した次第。
会場のPAもだいぶよくなって、ピアノも聞こえるようになった。

今週はテナーやソプラノの難しいパート。
バスは楽だ。
ハーモニーがきれいなところだが、女性の比率がかなり高いので、合唱するとよくわからない。
ソプラノの人数が多く、圧倒される。
こんな感じは西宮にはなかった。

3年目になって、だいぶ手を抜いているが、ちょっと本気で頑張らないと。
ちょっと油断すると、テナーのメロディが出てきてしまう。

バスの低い音は下の下のラの音。
これが苦しい。
キーがDなのだが、バスはレレレレレラララとレからラに下がる。
それこそ、身体を使って声を出さないと、下のラは出ない。

コダマ先生の発声法で頑張って声を出そう。

次は9月の24日。2週間空く。
初めての人は今回はだいぶ戸惑っただろうと思う。

ぼくにとっては、よかったが…。


| | 考えたこと | 20:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
孤独
人間、歳をとると孤独になる。
だんだんと社会とのつながりが減るし、体力的に外に出るのが億劫になるから、これは仕方がない。
そういう意味でも、仕事を長く続けるのはいいことだと思う。

しかし、否応なく歳はとるし、いつかは孤独になる。
現役時代にたくさんの人と知り合っていても、そんなものは役に立たない。
たくさんいた人も、結局は本当に知っている数人になる。
その頃、子どもの世代は一番忙しい時期だし、親にかまってなどいられない。

80歳を超えて、それまでは定期的に集まっていたりした仲間も、骨折したり、体力がなくなったりして欠けていき、思ってもみなかった孤独になる。
その時に、電話でもいいから話せるような友だちが数人いれば、だいぶマシだと思うが…。

幸い、ぼくはまだ62歳で、仕事もしているから、まだまだ問題ない。
でも、数年先はわからない。

仕事もいつまでできるか。こっちがやる気でも、断られるということもある。
病気をして、寝込むかもしれないし、そのせいで体力が落ちるかもしれない。

そういえば、右手の人差指はばね指になっているし、左手の親指も長いことギターを弾いていると痛い。
趣味のギターもそういう状態で、いつまで続けられるかわからない。

若いときには想定外のこともいろいろと起こってくる。

そのうえ、自分のことだけでなく、社会情勢も考えないといけない。
どうも昨今の世界の状況を見ていると、不安になる。
どこかの記事に、今の世界の状況は1930年代に似ていると書いてあった。
ちょうど第二次大戦の前だ。

「民主主義国家同士は戦争をしない」というが、それも疑わしくなってきた。
80年代に日本はナンバーワンと言われたが、それも坂を転がるように落ちて、今は貧しくなった。
貧すれば鈍するので、アジアでの日本の位置は難しいと思う。

そんな中で孤独になっていくというのは、シンドいことだ。

今の高齢者はその覚悟ができているんだろうか…。




| | 考えたこと | 21:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネコたちをめぐる世界
ネコたちをめぐる世界 日高敏隆 小学館

実家から持って帰ってきて読んだ。
日高敏隆は有名な動物行動学者。
残念ながら2009年に亡くなっていた。
2005年に「春の数え方」というエッセイ集を読んだ。
それ以外にも何冊かは読んだと思う。

この本は日高家で飼われたネコたちを観察した記録。
と言っても、雑誌に連載されていたもので、観察記録というよりは読み物になっている。
作者はネコ派で、奥さんもネコ好き。
だから、京都の家に1匹のネコをもらってきて、自由にさせていると、どんどん増えた。
ネコのオスメスの違い、家で飼われているネコの特徴、ネコの家族の振る舞いや家出などが書かれている。

家に何匹もネコがいて、ネコ用の扉を作って出入り自由にしていると、外からオスネコが入ってきて、家のオスと縄張り争いをする。
動物は尿でマーキングをするので、大事に尿を貯めるらしい。
そして、縄張りを示すときには、特別な腺から特に臭い液が出る。
何度も家の中で騒動が起こり、家中にネコの匂いが漂って「大変だった」という。
普通の人なら、我慢できずに家の出入りをやめるだろうが、さすが動物学者だけあって、それでもネコの自由を奪わない。
これには感心した。

と同時に、こういう人が近所にいると、周りの家も大変だろうと思う。
あとがきでお詫びはしているが…。

イヌとネコはどちらも人間と仲良しだが、ネット上では圧倒的にネコが多いと思う。
なぜだかわからない。
人数的には拮抗しているはず。
でもまあ、ネコの方が人間を考えさせるのはわかる。
イヌは人間を主人だと思っているが、ネコは同類だと思っているとどこかに書いてあった。

作者は動物学者だけあって、ネコを見る目は鋭い。
どのネコがどういう性格というのも、よく見抜いている。
人間にもいろんな性格があるように、ネコにも臆病なのやあけっぴろげなのがいる。
そういうネコたちと生活するのは、大変だが面白いとも思う。

この人は有名な「ソロモンの指輪」という動物行動学者のローレンツ(ノーベル賞をとった)の本を訳している。
その経緯も書かれていて、興味深い。

ネコがどう世界を見ているのかという実験の話などもあり、ネコ観が養われる。
1989年初版だが、こういう本は古くならない。
また、この本を読んでいると、人間同士が争っているのが バカバカしく思える。

アマゾンで見たが、この本はもう絶版。
それでも中古で流通しているのがありがたい。

ネコが好きなら、読んで損はないと思う。





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80デニール
次男に勧められて、kiki vivi lilyという人の歌を聞いている。
kiki vivi lilyと言っても3人グループではなく、一人の女性シンガー。
これがなかなかいい。
コーラスもうまいし、声もいい。
ベースとバスドラが効いていて、グルーブ感がある。

彼女の曲に「80denier」という曲がある。
denierというのは、カタカナで「デニール」という日本語。
糸の太さを表す単位。
知らなかったが、タイツを買うときに使われているらしい。

歌詞には「80デニールのタイツを履いてきたわ 60デニールじゃちょっと違うの」という下りがある。
要するに、ちょっと厚手のタイツという意味だろう。

このデニールという単位、ナイロンやポリエステルの繊維を扱う仕事で使われる。
ぼくも使っていた。
繊維の長さを決めて、その重さで太さを表す。
たしかそういう単位だったと思う。

80デニールと聞いて、よくそんな専門的な単語が出てくるなあと思っていたら、タイツを買う時の指標になっているとはびっくり。
世の中で「デニール」という単位は、タイツに関して一般的な単位だったのだ。

ということは、女性のスタッフはそれを知ってこの言葉を使っていたということだ。
なるほど。
誰もそういうことは言わなかった。

男性は「デニール」という言葉に、専門性を感じていたはず。
まさか日常的に使われる言葉とは思っていない。
「デニールというのはやなあ」などと新人スタッフに説明もしていたはず。
今頃になって、それが日常語になっていたことを知るとは…。

女性スタッフは、男性スタッフの説明に、「そんなん知ってる」と思っていたのだろうか。
専門用語という思い込みで説明している男性スタッフは、きっと滑稽に見えたことだろうと思う。

言葉は面白い。



| | 考えたこと | 22:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
エンジン技術者
コンチネンタルはドイツの自動車部品メーカー。
こないだ「エンジンの寿命」で書いたように、2025年をめどにエンジンの開発を終了するという意向を表明した。

5万人いる社員の半分がエンジンに関わっているが、その2万5千人を配置転換するという。
その転換先は「ソフトウェア」らしい。
シェアリングやコネクティッド、自動運転などのキーワードが言われている領域。

同社によると、現在の自動車市場は約348億円であり、このうち309兆円がハードウェア。
2030年には市場規模が688兆円になるが、ハードウェアは350兆円にとどまるという予測。
成長のキモはソフトウェアだという。

しかし、エンジンの技術者はだいたいが機械系の人たち。
モノがあっての商売だ。
機械工学や熱力学、流体力学、材料力学あたりが大事になると思う。
最近は電子制御やシミュレーションの人もいるだろうが、ごく一部。

2030年にはソフトウェア関連は約338兆円まで増えるらしい。
車載ソフトが150兆円、それ以外が188兆円。
車両に関して、現在はインターネットのクラウド上のソフトを利用するサービスは4兆円程度だが、今後10年で40倍の予想だ。

リアルタイムで道路状況をクラウドに収集するシステムと、車載ソフトウェアを無線で更新する、というのが今の課題らしい。
道路が滑りやすくなっているとか、そういう状況をクラウドに入れるのは、車載カメラや車両の速度状況とかをモニターしていればわかるのだろうが、数が数だけに大変だ。
どうやってやるのか、想像もつかない。

しかし、今40歳前後の人たちは複雑だろう。
配置転換といっても、扱うものがエンジンという形があるものから、ソフトウェアという形のないものへの転換だ。
専門の知識も学び直さないといけない。
もちろん、自動車の知識は役に立つだろうが、エンジンだけの知識となるとさほど役立たないだろう。

ちょうどCDがレコードを駆逐したようなパラダイムチェンジだ。
遅ればせながら、アナログからデジタルへの移行。
物理的な部品の点数はエンジンからモーターで大きく減少する。

この分野に関わっているメーカーは多いが、ここはほとんど無くなる分野。
機械の分野で違うものに進出するか、それとも「ソフトウェア」に転身するか…。
具体的に2025年というと、あと5年ちょっと。

これは衝撃的なニュースだろう。
多少ハッタリも入っているとは思うが…。

本当に100年に一度の大変革ということになってきたぞ。



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