考えたこと2

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Daniel その2
エルトン・ジョンのダニエルという曲、以前書いた。

1973年のリリース。
この曲は弟が兄を思う歌だが、今日ドラマを見ていたら、ベトナム戦争から帰ってきた兄のことを歌った歌だとわかった。

作詞をしたバニー・トーピンが、そう書いているサイトもあった。
そうだったのか…。

一説には削られた歌詞があったとのこと。
1973年というとベトナム戦争の終局。
アメリカ軍が撤退した年だ。

たくさんの米兵がベトナムから帰ってきたのだろう。

ベトナムから帰ってきた兵隊をテーマにした映画も、たくさん作られた。
前にも書いた「グッド・モーニング・ベトナム」、「プラトーン」「ハノイ・ヒルトン」など。
「ランボー」も1作目はベトナムから帰ってきたランボーだった。

1950年代の後半に生まれたぼくらにとって、最初の大きな戦争というと、ベトナム戦争になる。
当時、北爆とか、べ平連とか、クリスマス休戦とか、そんな言葉が新聞の紙面を飾っていた。

北ベトナムは中国・ソビエトから支援を受け、南ベトナムはアメリカから支援を受けて、戦っていた。
冷戦時代の戦争。
実質的にはアメリカ対北ベトナムということだと思う。

ぼくは、当時政治に興味がなかったが、それでも北ベトナムを爆撃するのはヨクナイというふうに思っていた。
そういう世間の空気だったのだ。

結果的に、アメリカは撤退せざるを得なくなり、負けた。
負けたというか、勝てなかったというべきか。

それが、日本国内の左派を活気づけたという効果はあったと思う。

日本にとって、それがよかったか悪かったかは、もう少し時間が経たないと評価できないだろう。
(ぼくは悪かったと思っているが…)

そんな時にリリースされた、エルトン・ジョンのバラードがダニエル。

いい曲だとは思っていたが、隠れた歌詞があるとは思わなかった。

エルトン・ジョンの名曲。


| | 考えたこと | 22:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
ふてこい
聞きなれない言葉をきいた。
次男が使っている、「ふてこい」という言葉。

文脈から、「ふてぶてしい」か「ふてくされている」のどちらかだと思い、確認したら、「ふてぶてしい」の方だった。

このあたりの若い人は、その「ふてこい」という言葉を使うのか?と聞くとそれはわからない、という。
ただ、次男の学校の友達はみんな使うという。

「ふてぶてしい」が「ふてこい」になるのか。
すごい世の中になったものだ。

用例を聞くと、たとえば、ドヤ顔をしてるときに、「ふてこい奴ちゃな」というらしい。

このごろ時々バラエティ番組で「ドヤ顔」という言葉を聞くが、それはみんな使うのか?と聞くと、そうだという。
「ドヤ顔」というのは、笑いをとったときに、「どうや」という表情をすることらしい。

「ふてこい」も「ドヤ顔」も新しい日本語だ。

どちらも出てきたところで、市民権を得ていない。

いつか辞書に載るのだろうか…。


| | 考えたこと | 20:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
Linux その2
うちの息子は理系だが、学校ではLinuxを使う事になっているという。

大きなコンピューターが置いてある、なんとかセンターでは、マイクロソフトのブラウザやメーラーは禁止ということらしい。
ブラウザとは、Webのホームページを見るソフト、メーラーとはメールをするためのソフト。
インターネット・エクスプローラーとアウトルック・エクスプレスがそれに相当する。

ま、言っている事はわかる。マイクロソフトの製品は危ないのだ。
ウィルスが狙っている。

しかし、それには理由がある。
一番ユーザーが多いのだ。
数が多いから、対応するWeb上のアプリも多いし、残念ながらウィルスも多い。
ぼくは詳しくはないが、たぶんマイクロソフトの製品は親切なのだ。
悪く言うと、お節介でもある。
色々なことを操作するのが便利なようになっている。
それが仇となって、ウィルスにつけ込まれるのだろう。
一番多くのユーザーが使う理由も、便利だからだろう。
ウィンドウズのパソコンを買うと、最初からついているし…。
たくさん使うから、ハードも安くなった。

今はGoogleのクロームというものや、ファイア・フォックスというものもある。
ただ、それをたくさんの人が使い出すと、やっぱりウィルスが増えるのではないか。
特に、ウィンドウズがLinuxやMacに比べて脆弱だとは思わない。
たしかに、頻繁にアップデートするが、それはガンバっているのだろう。

セキュリティ・ホールというものがある。
どこかのプログラムに、ウィルスなどが入りやすい穴が空いているというものだ。
もちろん、実際に穴が空いているわけではない。
要するに、プログラムにウィルスが入り込む余地があるということだ。

ウィンドウズはセキュリティ・ホールがよく発見され、問題になる。
だが、セキュリティ・ホールが見つかることの方が、見つからないよりはよいと思う。

人間の作ったものに完璧はない。
必ずエラーがある。
それは決まったものだ。
だから、LinuxでもMacでもウィルスを作ろうと思えば作れるのだと思う。

ただ、作っても、使っている人が少なく、面白くないのだろう。
儲けも少ないかもしれない。

ぼくはそう思っている。

そういう意味で、マイクロソフトを目の敵にするのは、マチガイだと思う。

でも、ワードやエクセル、パワーポイントなどは、儲けすぎだと思うし、もう少しOSも値段を下げるべきだと思う。

そういう意味では、Linuxがガンバってほしい。



| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターのアドリブ
アドリブというのは、自由に弾くことだ。
これができるようになると、一人前。

先生はそれができる。
ぼくはコードについていくのが精一杯。

しかし、少しコードとスケールの関係がわかってきた。

コードというのは和音のこと。
よくあるパターンは、?m7-V7-Iというもの。
トゥー・ファイヴ・ワンという。
何度も出てきたが、これは最後のワンに解決する。

キーがCだとDm7-G7-Cとなる。
この時は、全体をCだと考えてよい、ということだ。
だから、ドレミファソラシドというスケールで弾ける。

もちろん、シの音はシ♭になる場合もあるし、ミの音はミ♭になる場合もある。
これはセブンス、ブルーノートというヤツだ。

とりあえず、これでアドリブができる。

何度も聞いたことだが、ようやく本当の意味をわかったような気がする。

今日はよいレッスンだった。




| | 考えたこと | 01:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
宗教法人税
宗教法人への課税というのは、何度か話題になっているが、実現はできないようだ。

しかし、税収が不足しており、国が破産しかかっている状況で、このままでいいのかなと思う。

数年前祖母の法事に行ったが、この時は驚いた。
お寺のとなりの信徒会館みたいなところに案内され、ハガキを見せると受付の人がコンピューターに入力し、番号札をもらい、お金を払って待っていると僧侶が案内に来て本堂に案内され、お経が10分ほどで終了。その間、30分ほど。

まったく、工場の流れ作業と同じだ。

払うお金でランクがあり、お経の時に前の方に座るか、後ろの方に座るか決まっている。
前の方はイスに座り、後ろの方は畳に直接座る。

これで信心を持てという方がオカシイ。
あれは、宗教行事ではないと思う。
単なる金儲けだ。
まあ、法事をやるほうが悪いのだが…。

それでなくても、お寺で駐車場を経営していたり、文化教室をやっていたり、これが宗教活動か?という事もある。(駐車場などは課税されるらしいが…。)

京都の寺など、拝観料を取っているところが多いが、あれこそまさに利潤目的の経営ではないか。
これは以前京都の古都税騒動で、もめた事があった。

フランスの教会は、ものすごく大きなところだったが、無料だった。
信徒がお祈りをするのにお金を取るわけにはいかない。
だから、Donation(寄付)でやっている。
実際、あの石造りの天井の高い教会に入ると、敬虔な気持ちになる。
物見遊山で来ている人でも、静かにさせるだけの雰囲気があった。

一体いくらになるのかは知らないが、せめて決算はちゃんと出さないといけない。
それすら免除というのは、やりすぎだ。

お布施は寄付というが、一部は事実上商売だと思う。

この際、宗教法人税を検討したらいいと思う。
なかなかいい考えだと思うが…。

やっぱり熱狂的に反対する人がいるのだろう。

まあ、だれでも既得権は守ろうとするからなあ…。


| | 考えたこと | 00:02 | comments(2) | trackbacks(0) |
追悼 田中好子
キャンディーズのスーちゃんこと、田中好子が亡くなった。

ぼくはキャンディーズのファンではなかったが、学生時代が全盛期だったこともあって、よく見た。

ラン・スー・ミキという3人組。
スーちゃんは一番地味な印象がある。
若いころはぽっちゃりしていて、ラン、ミキの影に隠れていた感があるが、解散後は女優として一番活躍していたようだ。

キャンディーズとしては1973年から1978年まで。
このグループ、5年しかやっていない。
もっと長いこと流行ったような気がするが、意外と短かった。

今でも覚えているのは、「年下の男の子」「春一番」「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」「アン・ドゥ・トロワ」「微笑がえし」。

「普通の女の子に戻りたい」という発言は、プロダクションにも秘密にしていて、ライブで発表された。
その後、事務所と話し合って、解散は半年延長され、それで「微笑みがえし」が出た。

この後、ピンクレディー、松田聖子と続いていく。
キャンディーズは、「歌謡曲」の最後の輝きだったのかもしれない。

そのキャンディーズの1つのキャンディーがなくなった。
もうキャンディーが3つそろう事はない。

一世を風靡した「普通の女の子」の一人。

ご冥福をお祈りします。


| | 考えたこと | 21:17 | comments(4) | trackbacks(0) |
意義
今日若い人と話していて、小売業の社会的意義は何か、という話になった。
20歳くらいの若い女性だ。

ところが、「意義」という言葉がわからないという。

「意義ってなんですか?」
「え、意義がわからない?うーん、意義なあ。何のためにやってるか、ということかな。」

意義という言葉を知らないという事態。
いきなり言われても、こちらも困る。

辞書をみると、「値打ち」と書いてあった。

意義という言葉を知らなくても、20歳になれる。

意義という言葉を知っている意義は、何だろう。

おそらく、「意義」という言葉を知らなくても、生活にはさほど困らないだろう。
しかし、少しさびしいと思う。

一番さびしいのは、それを知らないということを、知らずにいるということだ。

別に、知らなくても、かまわないのだ。
しかし、、さびしい。


| | 考えたこと | 02:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
伊藤仁齊・荻生徂徠・本居宣長
前に書いた事があるが、高校の時に、伊藤仁斎(1627年生まれ)・荻生祖来(1666年生まれ)・本居宣長(1730年生まれ)の3人の国学者のテキストを読んだ。

倫理社会の時間、みんなが内職をしているとき。

先生もそれをわかっていて、好きにやっていた。
教科書はあったが、一度も開いた事がない。

先生がコピーを配ってくれて、それを読んでいった。
週1回の1年間の授業。
ぼくは、なぜかそれが面白く、自分で頑張って読んでいた。

江戸時代の3人の国学者。

なぜ、この3人を選んで読んだのか、これは不思議だった。
先生がランダムに選んだのかと思っていた。

今日、小林秀雄の講演のCDを聞いていて、その3人の名前が出てきて、ようやくつながった。

小林秀雄は「本居宣長」という本を書いた。
1965年から連載で書き始め、1976年まで11年かかった。

ぼくが先生に習ったのが、高校3年だったから、1975年。
この3人が適当に選ばれた人ではなかったと思う。

先生は、小林秀雄を読んでいたのかもしれない。

この3人の学者、いずれもすごい人だが、先生がペース配分を間違って、仁斎にけっこう時間をかけた。
それがすごく印象に残っている。

この先生、岡田先生というのだが、いい人に出会えたと思う。


| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
もの忘れ
もの忘れが激しい。

最近特にひどくなった。
朝話していたことを、夕方忘れる。

パソコンの画面でスケジュールに入れても、見なければそれでおしまい。
目に入っているが、見ていないのだ。

いくら携帯で一日のスケジュールを確認できるといっても、それに気を留めていなければ意味がない。
こういう状態はよろしくない。

年をとったということも原因の一つだろう。
目の前のことに気を取られているうちに、時間が過ぎる。
頭の容量が小さくなった感じ。

容量といっても、ワーキングメモリというやつだ。
さすがに、覚えているものの量は年と共に増える(と思う)。
しかし、それらを操作する領域が減っている。
この前書いた、フローとストックの話でいうと、フローの容量が小さいということだ。

なんだかバタバタしている間に、時間が経つ。
この時間が来たら、これをやらなければならない、ということを忘れる。
それを何かのきっかけで思い出すということができない。

この対策はどうしたらいいのだろう。

もう少し、ゆっくりと仕事をする、ということか。
それが効果があるのか、ないのか、わからない。

とはいえ、忘れると迷惑がかかる。

何とかしないと…。



| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
神と科学と思想
神を信じるかと聞かれると、信じると答えようと思う。
なぜ宇宙があるのか、その存在には答えがないからだ。
その答えは、人間を超えたところにあるとしか言えない。
それを神と呼ぶ。

科学を信じるかと聞かれると、信じると答えようと思う。
天文学に始まった科学は、人間の生活を変えた。
その事実から、科学を信じる。

神と科学、一見全く正反対の存在だが、どちらも人間にとって、大事なものだ。

もう一つ大事なものがある。

それは、科学で解決できないものだ。
これは思想とか、精神とか、そういうものになる。
科学とは無縁の言葉の世界。

これは難しい。

どう扱うべきか。

いろんな思想、いろんな言葉がある。

いずれも、昔からどこかの誰かが人生を賭けて考えたものだ。

これを科学と一緒に扱うべきか、それともその上に置くべきか。

この3つめの扱い方で、人間の器が決まるのだろう。

だから、難しいのだ。





| | 考えたこと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
82%
ヒトの身体の中は約65%が水分だと言われている。

もちろん、大人と子ども、男性と女性では違うが、だいたい60〜70%らしい。

ぼくらは水の中から生まれてきたのだから、それぐらいの水分はあるのかもしれない。
しかし、脳の水分が82%というのは、ビックリする数字だ。

本当にそうなんだろうか。
脳の重さは、体重の1/40らしいから、70kgの人なら1.7kg程度になる。
そのうち82%が水分だから、実際の脳の重さは350g程度ということになる。

もちろん、脳細胞の中に水分がたくさんあるのだろうが、それを抜くと500gにも満たないということだ。

それだけで、人間が考えて生きる事ができるとは、驚異的な気がする。

ヒトは生きている間に、脳の機能の半分も使えていない、という事を昔聞いた事がある。
以前脳の能力は無限ということを書いたが、未だに脳の機能は解明されていない。

脳の働きは、どうなっているのか、わからない。
言語中枢がやられたら、言葉を話せなくなるが、それは言葉を忘れたわけではない。
言葉が話せるのだが、字がわからない。

記憶はあっても、呼び出せない。
脳は呼び出す働きをしているらしいが、記憶は消えないらしい。

人は死ぬ時に一生の記憶を思い出すというが、それは脳の働きが止まるからだという。

そうなると、記憶はどこに入っているのだろう。
すごい量だと思うが、脳に入っているような気もする。

一体どうなっているのか。

人間の身体は不思議だ。


| | 考えたこと | 08:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
仏と神
仏教の国では宗教行事で手を合わす。

インドが発祥らしい。
お釈迦様が悟りを開いた国だ。
浄と不浄が合わさるところに、真実があるとされる。

うちは浄土真宗だから、法事などがあるとお寺さんが来てお経をあげ、説教をする。
どうも、この説教というのがうさんくさい。
また、葬式で金儲けをするようになって、日本の仏教は堕落したと言われている。
最近はお寺と関係なく葬儀をするところもあるという。

一方、日本の神道では、二礼して、二回手をたたき、一礼をするのが正式。
手を合わせるという習慣は、もともとない。

ぼくは、神社では神さんが寝ているから、鈴を鳴らして起こし、その上で2回手をたたいて拝むと教えてもらった。
日本の神さんはいい加減なものだ、と子供心に思った。

しかし、そのいい加減さが、なんとなく好ましい。
人間っぽいのだ。

年をとってくると、仏より神だと思うようになった。

神さんの方が身近にいる。

お寺よりも神社。
年をとると、そうなってくる。


| | 考えたこと | 01:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
被災地の桜
今朝のニュースで、被災地の様子が映っていた。

津波のせいで瓦礫の山だったが、そこに桜の木が一本あった。
津波に引きずられて、地表から抜けかかっていたが、まだ根は残っている。
しかし、斜めに傾いて、ほとんど倒れかかっていた。
おそらく、瓦礫を片付けるときに、一緒に抜かれるのだろう。

しかし、その桜に10輪ほどの花が咲いていた。

それを見て、勇気づけられると被災地の人は言う。

たった10輪ほどの桜だが、おそらく最期の花を咲かせている。

桜に精神があるとは思えないのは、ぼくが人間だからか。

植物は動かない。
だからといって、意思がないとは限らないのだが…。

驚くほど精巧なメカニズムで成長する。
胞子から裸子植物、被子植物と進化してきた。
光合成でできた糖分を蜜にして、昆虫に運ばせる、という戦略をとってきた。
そこに、自分たちのテリトリーを広げようという意思があるといえば、ある。

それは、神の意思かもしれない。

その、神の意思で桜が咲く。

春は被災地であろうが、なかろうが、平等にやってくる。

そして桜は咲くのだろう。

| | 考えたこと | 20:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
桜のころ
ようやく桜が咲いた。
ぼくの回りの桜は、ちょっと咲くのが遅いらしい。

今年はいつもより遅かった。
桜が遅いと、春が来るのも遅い。

高速を通って毎朝通っているのだが、その途中川沿いに桜が見える。
桜色の道が、ずっと続いている。

何度も書くが、毎年桜を見るとあと何回桜を見ることができるのだろう、と思う。
毎年のことだが、なぜか桜を見ると、もののあわれを感じるのだろう。

長いこと咲いている花もあるのに、桜はなぜあんなに短時間で散ってしまうのだろうか。

散り急ぐという言葉は桜のためにある。

もしも遺伝子が解析され、桜の木を改良して、花が長持ちするようになったとしたら、どうだろうか。
日本人はそれを認めるだろうか。

もちろん、桜とは呼ばないだろう。

桜はあのはかなさが命なのだ。

今年ももう散るときが来る。

桜のころは短い。





| | 考えたこと | 02:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
小林秀雄
小林秀雄というと、昭和40年代後半から50年代にかけての受験生なら、覚えている名前。

評論家だ。
とにかく難解な文章を書く。
当時、何を言っているのか、さっぱりわからなかった。

小林秀雄のことを少しわかったのは、「小林秀雄の流儀」という山本七平が書いた本を読んでからだ。
なるほど、と思うところがあった。

そこで、「考えるヒント」という、小林秀雄の著作を初めて読んだ。

高校生の時よりも、ちょっとわかった気がした。

調子に乗って、「本居宣長」という上下2冊の文庫を買って、一応読んだ。
しかし、これは内容を覚えていないくらいだから、ほとんどわからなかったのだろう。

その後、「新・考えるヒント」という池田晶子の本を買って読んだ。
池田晶子という人は、小林秀雄を尊敬しており、小林秀雄の文体をまねて書いている。
これは面白かった。

そこで、もう一度、こんどは講演のCDを買った。
「信じることと考えること」という講演の録音。
昭和50年の録音。

驚いたのは、彼の声だ。

写真ではハンサムな人なので、イメージでは何となくすっきりした声だと思っていた。

ところが、落語家のような喋りで、なかなか間もよい。
一気に小林秀雄が近い人になった。

また、この講演会では、最後に「起立」「礼」を司会の声に合わせてやっていた。
どこかの大学で話したのだろう。
質問も、何となく偉い先生だから、遠慮しているような状況だった。

講演は、昭和50年当時の知識人が、ちゃんと考えていない、ということを言っている。
考える、とは、向かい合うとか、交わるということであって、ちゃんと考えるためには、そのことと交わらなければならない、という。
科学的方法ではなく、自分が経験するというある種ベタな方法をとることが必要だ。
観察ではダメで、当事者になること。
そうでなければ、イデオロギーになってしまい、責任が取れない。
なぜ、文士がペンクラブを作るのか。
自分に自身がないからだ、と切って捨てる。

痛快な人だ。
池田晶子がファンなのもわかる。

小林秀雄も山本七平も池田晶子も、もうこの世の人ではない。

しかし、もう一度小林秀雄に挑戦してみようと思う。


| | 考えたこと | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
Ubuntuその2
Ubuntuを入れて、4日目。
だいぶ使い方がわかってきた。

慣れないと最初は大変だ。
いつもは、ウィンドウを閉じる右上のXボタンが、左上にきている。
そして、いつもは画面の下にあるタスクバーがない。

日本語入力も慣れない。
ibusという名前の日本語入力システムだ。
これも無料で作ってくれている。
その割には、マトモではある。

ログインしたら、ウィンドウズのようにオープニングの音楽が鳴る。
これがドラムというか、太鼓の音で、いかにもアフリカっぽい音がする。

もしかしたら…と調べてみたら、Ubuntuというのは、アフリカの言葉だった。
それで、あの音楽かと納得。
UbuntuのJapanese teamのページからその意味を調べてみると、「Ubuntuは、アフリカの単語で「他者への思いやり」や「皆があっての私」といった意味を持ちます。LinuxディストリビューションであるUbuntuは、Ubuntuの精神をソフトウェアの世界に届けます。」とある。
「他者への思いやり」とは、Linuxの精神によく合っている。

以前は、Linuxを使う人など、よほどの好き者だろう、と思っていたが、もはや商品レベルになっている。
これはスゴイことだ。
だいぶ前に、もう使わなくなったノートにLinuxをインストールしてみたが、ウインドウズのようには動かなかった。
ああ、やっぱり、コマンドを打って使うのが主体だなあと思ったのだが…。

あれから、10年弱たつ。
今やウインドウズの存在をも脅かす勢いだ。
すでにUbuntuをインストールされている機種も出た。
当然、値段は安い。

やっぱり、長い目で見たら、オープンソースというのは強いのかもしれない。

恐るべし、Ubuntu。
恐るべし、Linux。







| | 考えたこと | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
何が正解か
よく、学校の勉強は楽だという。
何故かというと、正解があるからだ。

実際、世の中に出てみると、正解がわからないという問題ばかり。
まだ、問題が問題として認識されているなら、マシだ。
何だか分からないが、何とかしないといけない、というような場合、問題もわからないし、したがって、正解などまったくわからない。

本当に正解があるのは、科学の世界だろうか。

1+1=2という数字の世界は、正解がある場合が多い。(これとて、なぜ1+1が2なのか、というのを考えこむと難しい)
しかし、1と2の間にどれだけの数字があるか、ということには、答えがない。(∞という答えはあるが…)
1と2の間がつながっているのか、それとも飛び飛びなのか、それもわからない。

幾何の世界でも、平行線は交わらないというユークリッドの世界に限れば、正解はあるが、世の中には平行線が交わるという幾何もあり、これもややこしい。

物理の世界では、F=mαというニュートンの運動方程式は、ずっと正解だった。
しかし、アインシュタインが相対性理論をうち立てたり、素粒子物理学というようなものが出てくると、何が正解かわからなくなった。

そうなると、科学に正解があるとは言えない。
人間がわかればわかるほど、わからなくなる、というのが心理だろう。
もちろん、実用的にはOKなのだが…。

そう考えると、地理や歴史というのは正解がある。
1600年に関ヶ原の戦い、というのは正解だ。
鳴くよウグイス平安京、いい国つくろと鎌倉幕府…、これも正解だ。
地球上にいる限り、赤道や子午線という名前も変わらない。

ただ、意味を問われると、突然難しくなる。
正解は一つとは限らない。
関ヶ原の戦いでは、東が勝つのだが、その意味は何か?と聞かれると答えはいくつもありそうだ。

そうなると、やっぱり学校の勉強は楽なのかもしれない。
これが正解だと教えてくれる。
問題集の巻末には、解答集がある。

世の中には答えがない。
答えは自分で作らないといけない。

答えがある問いばかりやっていて、答えがない問題が解けるのか。
少なくとも、答えがある問いに答えられるようになっていないと、答えがない問題につきあたった時に手も足もでない、というのが今の教育原理なのかもしれない。

しかし、実際には答えのない問いを立てることが、一番難しい。

何だかわからないのだが、何とかしなくてはいけない、という時に問題を発見し、問いを立てること…。
そのために、何をやったらいいのか。

だれか教えてくれないか。


| | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
Blue Monday
月曜日は憂鬱だ。
仕事に行く気にならない。
これをBlue Mondayという(と思う)。

「雨の日と月曜日は」というカーペンターズの曲があった。
その曲の終わりの部分で、"Rainy days and Mondays always get me down"と歌われる。
雨の日と月曜日はいつも憂鬱になる、という意味だ。

洋の東西を問わず、月曜日は憂鬱なものらしい。

まあ、行く気にならないかどうかは、職場によるのだが…。

一般的には仕事はイヤなものと相場が決まっている。
たとえ仕事が面白いとしても、やっぱり休めるものなら休みたい。
そういうものでなくてはいけない。

やりたくて、やっているのではない、という感じが必要だ。
そうでなければ、仕事ではない。

いそいそと行くのは、仕事ではないのだ。

そうは言っても、やっていると面白いこともある。
そういう仕事が、本当の仕事だと思う。


| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
Ubuntu
今日、思い立ってLinuxをインストールした。

といっても、完全にWindowsと入れ替えたわけではない。
まずWindows上で違うOSを動かすためのソフトをインストールして、それからUbuntuというLinuxのOSを入れる。
書くとややこしいが、そんなに難しくない。
普通にソフトをダウンロードして、インストールするだけだ。

Ubuntu(ウブントゥ)というOS、長男が使っているのを見ていたが、なかなか使い勝手がよさそうだ。

Webを使うのであれば、ファイアフォックスというブラウザーが最初から入っており、すぐに使うことができる。
音楽や動画のプレーヤーも最初から入っている。
ネットにつないで、ラジオを聴くこともできる。

特殊なサイトを見ないのであれば、これで十分だ。

古いパソコンなど、Windowsを使わなくてもよいものは、Linuxをインストールしてしまったらいいのではないか。

色々なソフトが探せるし、面白そうだ。

とりあえず、しばらくUbuntuで遊んでみることにする。

| | 考えたこと | 01:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
エコ発電
関東・東北の人たちは電力不足で大変だろう。
これで夏になると、電力をまかなうことができない。

電気を原子力に依存していて、その原子力発電所が一気に潰れてしまったのだから、えらいことだ。
関西や東海の発電所で作っている電気を送るという手段も、周波数の違いで無理がある。
関西、東海で節電しても、あまり効果がない。

今回の状況を見ると、新規の原子力発電所を作るというのは難しいだろう。

そこで、風力、太陽光、地熱などの発電だが、まだまだコストが高いらしい。
http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data1012.html

エコ発電は自然に左右されるから、ややこしい。

当面は原子力以外で、コストが安いもので代替しないと仕方がない。

使うほうを減らすという手はある。
色々なエコ家電に置き換えるという方法。
これもあまり期待できないなあ。

真夏の暑さはすごいから、我慢できるだろうか。
だいたい、オフィスビルは窓も開かない。
冷房が前提になっている。

工場も電気が来ないと生産できない。
途中で停電になると、困ることも多いだろう。

しかし、この電力事情を何とか乗り切らないと、日本はどんどん縮んでいってしまう。

お金もまだ国債を発行するらしいし、経済破綻は起きないのだろうか。

今回の震災を機会に、効率のいいエコ発電を開発しないといけない。


| | 考えたこと | 03:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
名刺交換
名刺という紙切れが、意味を持つのが勤め人の世界。

だから、偽の名刺でだまされたりする人がいる。
あんな紙切れを出して、それで本人確認もせず、信じるのかと驚いてしまう。

もちろん、名刺を出す場所や状況を充分考慮して判断するのだが…。
飛び込みで訪問され、資料も出し、こういうものです、と言われると信じてしまう場合もあるだろう。

ことほどさように、勤め人の世界では、名刺を交換するというのは重要ということになっている。

ぼくは、あまり名刺交換というのが好きではない。
仕事を変わってから、名刺交換会というものがあるのを知った。
これは広い会場で、名刺交換をしあうというイベント。
その前に講演会があったり、シンポジウムがあったりする。

まったく見知らぬ人と名刺交換をして、何になるのだろう。
名刺交換をしたら、知っているということになるのか。
名乗って、交換するだけの話。

実際には、名前を覚えたり、覚えてもらったりするほど何度も一緒に仕事をして、それなりに商売の話もして、初めて知り合いになる。

また、名刺交換していない人でも、仕事を頼もうということなら、いきなり連絡したらいいと思う。
それなりに誠意をつくして説明すれば、話は聞いてもらえるだろう。
その顔つなぎのために、事前に名刺交換しておこう、というのがわからない。

西洋人と名刺交換をすると、面白い。
彼らは、名刺交換というイベントがどれだけ日本では大事にされるかということを習っている。
そのため、名刺をもらう時にはちゃんと両手でもらい、相手に読めるように両手で出す。
その時に、お辞儀をすることも習っているのだろう。

だが、心のなかでは「面白い風習だ」と思っている。
中には片手で差し出すヤツもいる。
向きもバラバラだったりする。
それでいいのだ。

ドラマの中の探偵が、「もし何か思い出したら、ここに電話してくれ」と言って、名刺を渡す。
手渡すときもあれば、相手のポケットに入れる場合もあったりする。
名刺はその程度のもの、という認識がある。
It's my card.

その名残か、日本の携帯には赤外線の通信で名刺交換するという機能がある。

iphoneにはなく、日本製のスマートフォンに赤外線をつけているものがあるのは、そのせいだろう。

たとえ、みんなスマートフォンになっても、名刺交換というイベントは日本からなくならないと思う。
お互い、スマートフォンを付き合わせて、データーを交換し、画面に表示された情報を見て、交換成立となるのだ
そんな時代がもうすぐ来るだろう。

もし名刺交換がなくなるとしたら、会場の人のデーターを一斉に転送しあうような仕組みを作った時だろう。

しかし、それでは顔もわからないし、意味がない。

だから、名刺交換は続く。

| | 考えたこと | 21:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
光合成
光のエネルギーを使うのは、植物に習うべきだ、というのが真実になった。

MIT(マサチューセッツ工科大学)が、太陽光と水からエネルギーを作ることに成功したとのこと。
http://www.gizmodo.jp/2011/04/mit_4.html

これはまだ研究段階だが、将来はどうなるのだろう。
人工の葉っぱを作ることができるということだが、とてつもない大きな葉っぱを作れば、とてつもないエネルギーが取り出せるのだろうか。

植物の場合は、エネルギーをでんぷんとか、糖分という形でたくわえるのだが、この場合はどうするのだろうか。
疑問は色々とあるが、とにかくめでたいことだ。
発電に使えるとすると、まさにグリーンエネルギーという事になる。
また、電気を作れば作るほど、二酸化短度を減らし、酸素が増える。
あまり酸素が増えすぎても、問題だが…。

光をエネルギーに変換するのは、いい考えだと思う。
太陽はあと何十億年かは持つからだ。
しかし、何十億年も先に人類が存在しているかと言われると、難しい。

もしも人類が滅んだとしたら、この文明はどうなるのだろう。

当然、なくなってしまうのだが、それをもったいないと思う主体がいない。

主体がいない、ということは、どういう状態なのだろうか。

ま、考えても仕方がない。

しかし、人工の葉っぱができたということは、めでたいことではある。

とりあえず、よかった。

| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
Stay strong
アメリカのドラマの合間に、そこに出ている俳優たちが日本の震災を応援する場面が出てくる。

その中に、がんばって、という字幕が出た。
何といっているのかと思うと、Stay strong.と言っている。
これを、がんばって、と訳すのか。

チャンネルはこのままで、という言葉もむかし流行ったが、これはたしかStay tuned。と言ったはず。
ということは、Stay strongとは、そのままの強さで、という意味にもなる。
強くあり続ける、というような意味だろう。

ということは、災害にあっても、日本人は強い、ということを言っているのかもしれない。

しかし、失礼ながら、アメリカがこんなに日本のことを思ってくれているとは思わなかった。

米軍の空母が三陸沖にいるし、原子炉の冷却にはかなりお世話になっている。

以前の水害のときも、それほどアメリカの人は大変だなどと思わなかった。
しかし、今はアメリカの人たちの一部?は日本のことを思ってくれている。

ありがたいことだ。


| | - | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
整骨院と歯医者
このごろ家の近所に増えたもの。
整骨院、マッサージの店。

整骨院は、1年ほどの間に3軒できて、1軒はもう店じまいした。
マッサージはここ数年で5軒ほどできた。これはまだやっている。

マッサージや整骨は客にうまい下手がわかる。
気持ちがよい、悪いということと、後で楽になるかならないか、ということだ。
整骨院の場合、保険の関係で値段が変えられないから、潰れるのかな。
だから、客が店を選んで、腕の悪い店は淘汰される。
そういう意味で、厳しい商売だと思う。

うまい下手が分かる、という意味では歯医者もその一つ。
これは治したはずなのに、すぐに痛くなったり、詰めたものが取れたり、またすぐに虫歯になったりするから、実害がある。
歯を抜くと言われ、抜きかけたが抜けずに途中でやめられたりすると、二度と行かなくなる。

歯医者はもともと多かったが、なかなか減らない。
整骨院の方が、儲かりにくいのかもしれない。

しかし、歯医者も専用の椅子やコンプレッサーなど、設備費や維持費が高いから、難しいのではないか。
そういえば、近所の歯医者も、土曜日の夜遅くまでやっている。

こういう淘汰のメカニズムが働きやすい店は、潰れやすい。

使えるお金を持っている人も減っているし…。

世の中、どこを見ても厳しい。




| | 考えたこと | 01:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
フローとストック
フローとストックという言葉、最近よく使われるようになった。

これは、企業でキャッシュ・フロー計算書というものができて、一般的になったのではないかと思う。

Wikipediaによると、「フローは一定期間に流れた量のことで、その対語になるのが、ある一時点において貯蔵されている量であるストック」とのこと。
要は、風呂に水を入れる時に、入れている水の流量がフローで、貯まった水の量がストックということになる。

最近の30代の人で、仕事ができる人を見ていると、ぼくらの世代とはちょっと違うということに気付く。
それは、知識とか、情報とかいうものをフローとみるか、ストックとみるか、ということに通じるのではないか。
1980年代に生まれたパソコンは、1990年代に入って高性能化し、2000年に入ってインターネットの端末になった。
それらをものごころついた時から経験しているのが、今の30代だろう。

だから、情報はあふれるほどあるものであって、それをストックしようとは思わない。
必要最低限のストックで、いかにフローを大きくするか、ということがこの世代の考えだろう。
つまり、知識の量は大きくなくても、その知識でどうやってより多くの情報をさばくか、という問題だ。

ぼくらは知識のストックを増やすことが目的だった。
そんなに知識があふれていないころ。
インターネットの検索など、思いもよらなかった。
さばききれないほどの情報に埋もれるということは、考えられなかった。

そこが彼らと大きく違う点だと思う。

彼らは時代に適応して、フローを重視している。
ぼくらストック世代は、時代遅れなのだろう。

今の30代の人たちが50歳を過ぎたとき、どういう世の中になっているのだろうか。


| | 考えたこと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
後ろ前
「後ろ前」という言葉を知っているのだが、これは関西弁なのか?

そう思って、goo辞書を引くと、ちゃんと出ていた。
「洋服などの後ろと前が逆になること」ということ。
どうも、方言ではないらしい。

しかし、「前後ろ」というところもある。
意味は同じだ。

どちらも意味はわかる。

英語では back to front と出ていて、後ろ前になっている。
前後ろとは言わないようだ。

身に着けているものを基準にして前から見ているとすると、「後ろ前」という言い方になるし、着ている人を基準にして前から見ているとすると、「前後ろ」という言い方になる(ような気がする)。
どちらでもいいのだが、一体どちらが自然なんだろう?

「後ろ前」と「前後ろ」、どうでもいい事だが、考えると難しい。

前とか後ろとかいう、相対的な言葉を使っているからか。

日本語は難しい。


| | 考えたこと | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカ
アメリカのたくさんのミュージシャンが、日本にメッセージを送っている。
震災の報道を見て、ガンバッテ、というようなもの。

たいしたものだ。

ぼくは知らないが、第二次大戦が終わって、マッカーサーが来て、GHQ(General Head Quarter)ができた。
MP(Military Police)がジープに乗って、神戸でも走っていたらしい。
本当にチョコレートやチューインガムを米兵からもらった、という人もいた。
Give me chocolate.は作り話ではない。

GHQがとった政策は、ある時期まで本当に日本のためだったと思う。
財閥解体とか、農地解放とか、本当の民主化だった。
これをやっていなければ、戦後の日本の復興はなかったはずだ。
年寄りを公職追放したのも大きい。

戦後の1946年、ソニーの井深大が37歳、本田宗一郎が39歳。
彼らが若い人を集めて会社を作れたのは、財閥解体のおかげではなかったか。
ソニーやホンダなどは、戦争経験した人たちが、日本を立て直そうという気持ちにあふれて作った会社だったと思う。

震災後の東北地方のありさまを見ると、本当に津波の力は大きいと思う。

日本人は戦後の焼け野原から復興した実績があるから、大丈夫だと言う人もいる。

でも、その時はGHQが来て、権力者を追い出して政治も経済も入れ替えたからではないか。
今の日本の政治を見ていると、とてもダメだと思う。

しかし、政治家を選んだのはぼくらだから、どうしようもない。

改めて、アメリカという国に感謝をして、もう一度理想の国を作ろうと動いてほしいが、ダメだろうなあ。



| | 考えたこと | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボランティアという言い訳
最近、東北関東大震災の話題が多い。

公式の場でも、震災の話をして、そしてその支援をどうするか、というようなことを話していると時間が過ぎていく。

本当に差し迫っていて、話し合わないといけない話題がある時でも、震災の話で過ぎていくことがある。

震災を理由に、自分たちの問題と向き合わないというのは困ったことだ。
そのことを、「震災を言い訳にするな」という言葉を使ってよいのかどうかはわからないが、そういう意味なので、ご理解願いたい。

あくまで、ぼくらの立場は何かするとしてもボランティアだ。
それを話し合うのはかまわないが、だからといって、自分たちの問題を棚に上げていいのか。

物事には、プライオリティというものがある。
優先順位のことだ。
今、震災はたしかに日本人全員の問題だし、みんなで取り組まなければならない問題だ。
しかし、ぼくらはあくまでボランタリーにしかできないと思う。
そして、ボランティアというのは、自分が何らかの余裕があって初めてできるものだと思う。

時間の余裕がある人は、現地へ入って、何でも手伝います、といえばいい。
お金に余裕がある人は、義援金をたくさん出せばいい。
自分はこれができる、ということがある人は、時間があれば、その技術を被災地で使えばいい。
どうしても、ボランティアに行きたいという人は、余裕がなければ、何とかして時間を作って行くことになるだろう。
ボランティアを精一杯やりたい、という人はお金に余裕があれば、仕事をやめて現地に行くことになるだろう。
あくまで、ボランティアは余裕がある人のためのものだ。

阪神大震災の時も、ボランティアの人たちがたくさん来て、助けられた。
本当に感謝すべきだと思う。

しかし、一方で自分が向き合うべき問題を先送りして、ボランティアをしてしまう人がいる。
それによって、迷惑を被る人がいるのに、ボランティアをしているからという理由で、自分を正当化してしまう。
テレビを見ていて、自分も何かしなくては、という気持ちになって、矢も盾もたまらず気がついたら現地に行っていた、という人はすばらしいとは思う。

しかし、本当にボランティアができる人なのか、ということが問題だ。
自分が向き合うべき問題から目をそらし、ボランティアに行く、という人は一定数いると思う。

それを、あからさまに悪いとは言えない。

しかし、自分が向き合うべき問題を先送りにしてまで、ボランティアをする必要はないと思う。
結局は、それによって、迷惑を被る人たちがいるのだから。

ぼくはそう思う。



| | 考えたこと | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) |