考えたこと2

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パラダイム
パラダイムという言葉、最近よく聞く。

もともと自然科学の用語らしい。
ずっと連続していた概念がどこかで不連続になる。そういうときに使う。

例えば、地動説から天動説に変わったときがそうだろう。
今までは地球を中心にして、太陽が地球のまわりを回っているという枠組みの中で考えていたが、その時を境にものの見方が全て変わる。
もはや地球は中心ではない。
そういうのを「パラダイムが変わった」というのだとぼくは理解している。

相対性理論もそうだ。
時間は常に一定の速さで流れていると思っていたら、どうもそうではないらしい。
日常生活では意識しないが、GPSの信号は相対性理論がなければちゃんと動かない。
これも、アインシュタイン以降、宇宙の見方が変わった。
パラダイムが変わったのだろう。

でも、今よく使われているのは、経済や社会分野だろう。
パラダイムシフトというような言葉で、「枠組みが変わる」という意味で使われていると思う。

音楽を聴くのに、レコードからCDに変わったことではパラダイムは変わらないが、そこから音楽が形を変えて、インターネットからダウンロードするデータになると、パラダイム・シフトが起こった。
ソニーはそれに乗り遅れて、アップルに負けた。

今はインターネットが世の中のすべてを変えていく過渡期だと思う。
だから、世の中のいろんなところでパラダイム・シフトが起こる。
懸命に阻止しようとしているが、電子書籍は着実に増えてきているだろう。
新聞も紙からネットになろうとしている。
ニュースも記事からブログやツイッターに移行している。
タブレットが普及すると、いよいよ新聞も電子化するだろう。
一連のGoogleのサービスは、いろんなものを変えている。
地図のサービスはまだまだ世の中を変えるだろう。
通信さえできれば、ナビはもうスマホに取って代わる。
クラウドサービスは、パソコンの中のハードディスクをなくすことができる。

ぼくらが見えないところでも、きっと起こっているのだろう。

枠組みを変えるような事態を阻害する人もいる。
既得権を守ろうとする人たちだろう。

今日本はパラダイム・シフトを積極的に起こさないといけない。
世の中の枠組みを変えるような変化が必要だ。
それが効率を生み、新しい産業を生む。

早くやらないと、若い人が疲弊してしまうぞ。


| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
道徳教育より時代劇
イジメの問題などで文科省は道徳教育に熱心だ。
弱いものイジメはしてはいけないとか、集団で一人をイジメてはいけないとか、そういうことを言いたいのだろう。
しかし、ぼくらはそんなことは道徳教育で習ったのではない。
もちろん、道徳の時間はあったが、それよりも時代劇だった。

ぼくらの子ども時代、時代劇は毎週何本かずつあった。
それに加えて、夕方再放送もあり、時代劇全盛期といってもよかったと思う。
ぼくがよく見ていたのは、「遠山の金さん」「素浪人月影兵庫」「暴れん坊将軍」「大江戸捜査網」「木枯し紋次郎」「必殺仕置人」など。

こういう時代劇を見て、江戸時代の侍の道徳観をすり込まれたと思う。

侍の道徳観とは、

・困ったときでも余裕のあるふりをする
・主君の命令には服従するが、どうしてもおかしいときは直訴する
・飛び道具(ピストル系)は卑怯である
・人助けをしても、素知らぬふりをする
・弱いものイジメをすると、罰が下る
・誰も見ていなくても悪いことはしない(お天道様が見ている)
・悪いことをしたヤツは、いずれやられる

などである。

時代劇を見ていると、自然にそういう見方がすり込まれる。
すり込まれる、というのは、教育されて身につけるのではなく、自然と身につくということだ。
だから、今のような陰湿なイジメなどほとんどなかった。
そういう時代の雰囲気があった。
だれかがイジメられていると、学級会などが開かれて、そういうことをしたらイカン、ということになった。

時代劇の効果は大きいと思う。
その頃の日本人の誰もが週に何回か時代劇を見て、そういう道徳観をすり込まれていたのだ。
これこそが民族の伝統だと思う。

だから、文科省は道徳教育などやめ、時代劇を週に何本かやる、という法律を作ればいいのだ。
これは本当に効果があると思う。

文字通り、すり込まれるのだから。



| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
意味あること
若い人が仕事をするときに、「意味あることをしたい」という。
しかし、仕事の意味とはなんだろうか。
仕事そのものに意味はあるのだろうか。

きっと、そこに仕事があるということは、それに何らかの意味があるということだ。
意味のない仕事は存在できないだろう。
少なくとも、その仕事が以前から続いているのなら、意味はあるはず。
きっと誰かのためになっているのだろう。
その誰かが、客の場合もあるし、会社の場合もあるし、個人の場合もある。

でも、若い人がいう「意味あること」というのは、もっと違うことを求めているのだと思う。

もっと大きなものだろう。
もっと抽象的なものと言ってもいい。
直接的ではない意味だ。
言っている本人も、なんだか分からないようなもの。

例えば、営業の仕事があったとする。
営業だから、会社のサービスか製品を売り込むということだ。
そこに、意味がほしいという。
単純に言えば、それを必要とは思っていない人に、それが必要だと思わせ、そしてそれを売るという仕事…それに意味をつけたいということになる。
その客からの感謝、というような個別的なものではなく、もっと大きな意義というようなものを求めるのだ。

そんなものがあるはずがない。
そんなものがあると思っているとしたら、大マチガイだ。

もしも意味があるとしたら、その仕事をした本人が自分で考えるしかない。
その仕事をする前から、どんな意味があるかなどわかるはずがない。

仕事の意味は自分で見つけるものだ。
もともとの意味など、どこにもないのだ。

| | 考えたこと | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
誰だってズルしたい!
誰だってズルしたい! 東海林さだお 文春文庫

これも中古で買った。
2004年の発行。
一連のおもしろエッセイ集。

表題は「世の中はズルの壁でできている」というエッセイから。
今回もいろんなことが書いてある。
ズルだけ見ても「世の中はズルの壁でできている」「セコズル、オバズルが幅をきかす」「あの☓☓ズルを摘発せよ!」と3つある。
それ以外にも、「地球滅亡の前夜に「最後の晩餐」」などなかなか含蓄の深いテーマもある。

この東海林さだおという人、マンガを書き始めると同時にエッセイも書き始めたらしい。

まあ、どうでもいいことを書いている(と言っている)のだが、あるとき、「週刊朝日」の「あれも食いたい これも食いたい」という連載で、味付海苔にお醤油つけてご飯を巻いて食べるとき、お醤油をつつけたほうをご飯側にするか、表側にするかという話を書いたとのこと。
そうしたら、名古屋の六十九歳のおじいさんから、「何でそんなどうでもいいことを書くんだ。もっと天下国家のことを考えろ」というハガキが来たらしい。

怒りでボールペンの字がハガキにめり込んで溝になっていたとのこと。

こんな事をまた書くと、よけいに怒られると思うのだが、連載ではなく文庫本なのでそういう人は買わないということか。

たしかに、書いてあることは天下国家に影響することではない。

でも、そういう「くだらないこと」を書く人も必要だと思う。

「くだらないこと」があるからこそ、天下国家を論じる人が生きていけるのだろう。

| | | 22:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
後遺症
CSI NYというドラマで、失語症が出てくる。

主人公の刑事が撃たれて入院し、回復したのだが、一見普通に生活している。
それでも、簡単な単語が時々出てこない。
本人は出てこないことがわかっているから、医者に相談する。
しかし、脳のことだから、時間をかければ治るかもしれないし、治らないかもしれないという返事。
だんだんと職場の仲間も異変に気づく。
それでも、誇り高い性格の刑事は自分の状況をいえないで悩むというところ。
これがファイナルシーズンだから、最後はその主人公の病気がどうなるか、というところも解決するのだろう。
解決というのは、失語症で刑事をやめるか、それとも治るか、それとも失語症と戦いながら続けるか…ということだ。

ぼくは2008年に脳梗塞をしたが、直後は何ともなかった。
退院してちょっとしたときにどうも言葉がでないということに気づいた。
いろんなケースがあるし、脳のメカニズムはわからないが、しばらくして気がつくのだろう。

ドラマの主人公はマックという。
マックの悩みは深刻だ。
赤とか、青とか、三角形とかそんな簡単な言葉が出てこない。
時々部下の前で説明していて言葉に詰まる。
部下はちょっと怪訝な顔で言葉を補うが、マックの推理や指示は的確なのでまだ疑っていない。
一人、ジョーという女性捜査官だけが気づいている。

こういう脳の異変は難しい。
ぼくも言葉がでないという悩みがあったときには、明らかにいつもより静かだったはずだ。
それでも、回りのみんなは気を使っているのか、それともうるさくなくてちょうどいいと思っているのか、あまり気にしない。
もちろん、それで気分的に助けられたのは事実だし、実際、業務上それほど大きな障害になるわけではない。
ぼくの場合は書く方は何ともなかった(と思う)。

脳梗塞をおこして、身体的に何ともなく、大きな脳の障害もなく済んだのだからラッキーだ。
それは事実。
しかし、MRIを見せてもらったら、脳の中が白くなっているところがある。
少なくともその脳細胞は死んだのだから、何かの機能が失われたはず。
左脳だから、言語野があることは間違いない。
だから、言葉が出なくなる、と考える。
それが正解かどうかはわからないが、それで説明がつく。
だから、悩む。
これは治るのだろうか。
いつかは元通り話せるようになるのだろうか。

ぼくは話せるようになった。
脳の中にバイパスができて、元の機能が回復したんだろう。
1年以上かかったような気がする。
しかし、完全には戻らない。
今でも、時々単なる物忘れではなく、言葉が出てこない感覚がある。

友人にも一人同じような経験をした人がいる。
脳梗塞のあと、言葉が出ないという。
やはりそういうケースはあるのだろう。
その友人もだんだんと出るようになったとのこと。

こういうのは、難しい。
マックのようにどうしても1人悩むことになる。
一見何ともないからだ。

みなさん、ご注意を。




| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
メダルは増やせるか
今日は日曜日。
オリンピックの課題についてテレビで討論会をやっている。
オリンピックはスポーツ大会だから、やっぱり勝つことが目標になるのは当然だ。
たとえクーベルタン男爵が「参加することに意義がある」と言ったとしても、国の代表として税金を使って出場するわけだから、勝ってほしいと思う人がいるのはしかたない。

元オリンピック選手や文科省の大臣、スポーツ経営の学者などが集まって議論している。
みなさんの意見を集約すると、結局はお金が足りない、ということらしい。
しかし、海外では国の予算に頼らず、企業からのお金を集めてやっているという事例も紹介されていた。
補助金に頼っているスポーツ連盟のあり方も問題だろう。

しかし、今の学校をみていると、スポーツ全盛ではないかとも思える。
クラブ活動=運動部という雰囲気だ。前にも書いたが、文化部は落ち目である。
実際、スポーツの裾野は広がっているのだと思う。
だから、野球では大リーガーを輩出するようになったし、サッカーでも世界で通用する選手が出てきた。これらの種目は確実に強くなったと思う。
要は「食える」かどうかというところもあると思う。

野球やサッカーは食えるスポーツだ。
ということは、そういうスポーツを増やすことが一つの方法だと思う。
日本では「食えない」スポーツが多いのではないか。
オリンピックの選手たちが選手生命を終えた後、どうなっているか、調査してみればいい。
メダルを取った選手たちは、「日本ナントカ連盟」に入ったり、コーチになったりするが、そうでない選手たちはどうしているのだろうか。
彼らのセカンドキャリアの道を、誰かが世話してやるのではなく、世間が求められる形で作っていくことが必要だと思う。
そういう正のサイクルを回していかないと、強くならないと思う。

しごきなどの古い文化が残っている運動部文化を捨て、市民スポーツとして開かれた形でスポーツを広げていくというのもアリだろう。

何より補助金に頼った組織というのは、なにも考えなくなる。

経営感覚を持った人たちが、もっとナントカ連盟に入っていかないといけないと思う。

もちろん、いくばくかの補助金は必要だが、多くの選手が一生働けるようなキャリア設計ができるような組織を作っていかないと、強くはならないと思う。

いつまでも、「ナントカ連盟」と国からの補助金に頼って選手育成をしていては苦しい。

しんどくても、自助努力が必要だ。

| | 考えたこと | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
森喜朗
森喜朗という元総理大臣は、東京五輪委員長を辞めたほうがいいと思う。

この人はもともと頭が良くないと思わざるを得ない。
立場をわきまえて発言しないといけない、という常識がない。
一切の公職からは退くべきだと思う。

迷言はたくさんある。
IT革命のことを「イット革命」と言ったりした。
ITはインフォメーション・テクノロジーで「アイ・ティー」と読むという常識がなかった。

浅田真央に関する発言は、単なる年寄りの発言だろう。
普通のおじいさんとして発言するのなら、誰も取り上げないし、身の回りの人に話せばいい。
しかし、公人として口にするべき言葉ではなかっただろう。
それも東京オリンピックの委員長としてだ。
それは多くの人が言っている通り。

こういう老人たちやその息子たちが政治をやっているから、日本はいつまでも井戸端政治から抜け出せないだろう。
中国との関係、韓国との関係、米国との関係いずれをとってもどうなるのか、心配になる。

財政赤字の問題も、世代間格差の問題も、原子力発電所の問題も、何も解決に向かっているような気がしない。

それを象徴するような失言だったと思う。

まあ、本人は失言だと思っていないだろうが…。


| | 考えたこと | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
ごくろうさま
いま「ごくろうさま」と言いたいのは浅田真央。

ショートプログラムでは失敗の連続で、まさかの16位。

今回のソチオリンピックには背水の陣でのぞんでいたはず。
お母さんが亡くなったり、コーチが変わったり、いろんなことがあった。
ソチを最後に現役引退すると宣言もしていた。

団体戦に出て、慣れないチーム戦のプレッシャーで満足できる演技ができなかった。
ロシアの選手が素晴らしい演技をしたこともあったろう。
自分も若いころ、そういうプレッシャーを他の選手達に与えていたはず。
それがプレッシャーを与えられる年齢になった。
月日はめぐる糸車である。

昨日は悔しかっただろう。
みんなの期待もあったし、また、そう期待させるだけの実績もあった。
前回のオリンピックから一旦封印したトリプルアクセルもとりいれた。
それを最初で失敗したのがシンドかった。
一つのミスも許されない場面だった。

それが、今朝のフリーの演技ではすべて成功。
本来の滑りができた。
日本人最高の6位に入賞。

おそらく、メダルは諦めていただろう。
でも、自分の最後の演技として滑ったのだと思う。
自分のスケート人生の集大成の滑り。

浅田、よくやった。

「最後まで諦めずにベストを尽くす」という、言うのは簡単だが、実際にやるのは難しいことを実行してくれた。
君はメダルが取れなかったのは悔しいと思う。

でも、最後まで頑張ったのはすごいことだ。

自己ベストを出したことに、誇りをもって帰ってきてほしい。

| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターの練習
ギターのレッスンに通い始めて9年になる。
2005年の8月に始めた。
ジャズギターというのは奥が深い。
何度か書いたが、スケールの考え方や弾き方、スタイルなど、自分のやりたいことを決めていかないとどうしたらいいのかもわからなくなる。

当初はやる気満々で始めたが、やっているうちに練習する暇がなくなってきた。
それは言い訳であるのはわかっているのだが、実際仕事が忙しいと、どうしても後回しになって、レッスン当日になってあわてて練習するということが多かった。
それはそれで、アリだとは思う。
先生と話をするのは楽しいし、いろんな知識を得ることができる。

こないだ話をしていて、先生と同じ学年であることがわかった。
年は近いと思っていたが…。
同じ時代を過ごしてきた、ということで今ごろやる気が出てきた。

実際、課題がある程度弾けるようになってくると、取り組み方が違う。
今週は練習時間をだいぶ取ったので、自信を持ってレッスンにのぞんだ。
前向きな気持ちで練習することができると、次のレッスンまでモチベーションが上がる。

9年目にして、改めて頑張ろうと思う。

ジャズ・ギターは奥が深い。


| | 考えたこと | 00:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
トマト栽培3
ペットボトルで育てていたトマトが収穫できた。

8月に種をまいて、12月に白い花が咲いて、2月に収穫。
赤いトマトの実が4つできた。

緑の実ができてから、3週間くらいかけて赤くなる。

種まきから収穫まで7ヶ月かかった。

トマトは普通に売っているものと同じ大きさだが、味は薄い。
観葉植物用の液体肥料を使っていたので、まあこんなものか。

時間はかかるが、あの小さな種から、実が4つも取れた。
水と光があれば、植物は成長する。

実がなった頃、葉は枯れ始める。

太古の地球は熱くて水は水蒸気の形でしか存在できなかったらしい。
それが何百万年もかけて冷え、雨が降り、海ができた。

どうやって植物ができたのか。
どうやって生物ができたのか。

奇跡に近いと思う。

| | 考えたこと | 01:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
あの頃のまま
ブレッド・アンド・バターの曲に、「あの頃のまま」というのがある。
ユーミンが作った曲だ。
学生みたいな生活を続けている、モラトリアムの「ぼく」と就職して社会に出た「君」を描いた曲。
歌詞を散文にすると、こんな感じ。

夕方の駅で見かけた君は、スーツ姿が板についていた。
ぼくはまだ気ままな暮らし。
学生時代のままだ。
「羨ましいやつだ」と君は笑った。
ネクタイを緩めて、寂しげな君は、馴染みに店で腰をすえて飲む。
そのころ、ぼくは日焼けした両足を投げ出して、サイモンとガーファンクルを久しぶりに聞く。
人生の節目を越えられず、卒業したくないぼく。
他愛ない夢なんか切り捨てた君。
人は幸せのカタチにこだわらずに生きていくものだ。
瞳をそらさないで、自分の道を生きていくのだ。

この曲は30代のころ、好きだった。
ユーミン世代の、ノンポリだが少し反体制で、社会に取り込まれるのはいやだ、という若者の思いを表している。
「いちご白書をもう一度」では男女だったが、こちらは男同士だ。

でも、年をとって、こないだ見方が変わったことに気づいた。
もうすぐ57歳。
若い頃は圧倒的に「ぼく」に感情移入していたが、この年になると「君」の気持ちがわかる。
このうたは「ぼく」の立場で書かれているが、「君」の立場で書くと、きっとこんなふうになる。

夕方の駅で見かけたあいつは、気ままな学生時代のようだ。
ぼくは会社勤め。
「羨ましいやつだ」と笑ってみたが、彼はどうやって生きていくつもりだろうか。
「羨ましい」とは思うが、何かそうでない部分もある。
ネクタイを緩め、馴染みの店で飲む。
学生時代のこと、会社のこと、社会のことを考える。
矛盾はいろいろあるが、それを飲み込んで生きていかないと仕方ない。それが人生だ。
あいつは今頃学生時代に流行ったサイモンとガーファンクルでも聞いているのだろうか。
夢は夢で置いておこう。そうするしかない。
それが人生なんだ。
あいつはあいつ。ぼくは自分の道を歩いていくしかない…。

そんな風な思いで「あの頃のまま」を聞くようになった。

年をとったら年をとったなりの見方や考え方が出てくる。
それは悪いことではない。
人はモラトリアムにケリをつけて、社会の中で生きていくしかないと思う。
それが人生だと今ならわかる。

だから、C’est la vie (これが人生さ)という言葉がある。

やっぱりフランス人はオトナかもしれない。



| | 考えたこと | 00:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホンダのリコール
ホンダが自動変速機の制御プログラムの不具合でリコールをするとのこと。

車種は新型のハイブリッド車。
フィットとヴェゼルだ。
変速装置そのものではないのでまだマシだが、今回全く新しいシステムを使っているので、発売にどうしても間に合わなかったのだろう。

制御プログラムというのは、難しい。
ここからは想像の世界だが、実社会で起きる現象を、実験室や限られた走行モードで網羅するのはやっぱり無理なんだろう。
リアル・ワールドではいろんな使い方がある。
制御プログラムを詰めるためには、時間が足りなかったのだと思う。

一昨年から昨年にかけて、ホンダは国内生産を維持するために軽の開発をした。
その間、軽以外の車種の大きなモデルチェンジはなかった。
ディーラーからは軽ばかりではなく、他の車種も…と言われていただろう。

Nシリーズが出て、ようやく軽以外の車種を出せる余裕ができた。
それが2013年。
もちろん、Nシリーズを出していた時もハイブリッドの開発チームは頑張っていただろうが、まったく新しいシステムを出すには、シンドかったのだろう。

プリウスに勝たないといけない、というミッションもあった。
きっと、辛いが、やりがいのある仕事だったと思う。
残業、休出の連続だったろう。
よく頑張ったが、リコールを出してしまった。

これも産みの苦しみだ。
仕方がない。

次のハイブリッドは、ノーリコールでやってほしい。


| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
回転寿司
初めて回転寿司に行ったのは大学の時。
下宿の近所に元禄寿司という店ができて、回転寿司というものを生まれて初めて見た。
1977年くらいだったと思う。
あの当時から、一皿100円だったような気がする。

しかし、最近の回転寿司はだいぶ様変わりした。
店も大きくなったし、当時のようにコンベアの中に人がいて、寿司を握ったりしていない。
寿司を作るところは奥の壁で見えない。
ロボットが握っているのだろう。

軍艦と称する巻物もある。これは当時はなかったと思う。
昨日行った店では、サラダ、コーン、まぐろたたき、シーフードサラダ、いくら、うに、まぐたく、やまかけ、いかおくら、納豆軍艦、納豆おろし軍艦、海老サラダ、牛しぐれ煮などがあった。
これもロボットで作る事ができる。

カウンターに座ると目の前がコンベア。
その上に厨房とつながった直線のレールがある。
座ってタッチパネルの画面で注文すれば、厨房から直行で寿司が来る。

昨日のような平日なら、あまり多くの寿司は回転していない。
回転ルートが長く、客が少なく、乾いてしまうからだ。
平日の夜は直線のレールが多用される。
こうすれば、忙しいときも、暇なときも対応できる。

店によってはうどんや丼物もあって、注文できる。
もちろん、ビールや日本酒も置いている。
お茶も粉末を湯飲みに入れて、席でお湯を入れて飲むことができる。

中には皿を回収するところまで付いている店もある。
店員が数えなくてもいいのだ。

これは究極の外食のオートメーションだ。
厨房に何人いるのかわからないが、平日はフロアはレジ1名とアルバイト数名で回しているのだと思う。
回転寿司チェーン一店当たりの平均的な正社員数は、1人〜2人だろう。
後はパート、バイトで回していると思う。

考えてみると、結構安い値段でたくさん食べられる。

今は海外にも回転寿司の店舗ができているらしい。

「和食」が世界遺産になったらしいが、それにも回転寿司が寄与しているかもしれない。

エライものだ。

| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
英語教育の失敗
文部科学省は昨日、新設の大学や学部などの運営状況を調べた2013年度の調査結果を発表した。これは業界ではアフターケアと呼ばれているもの。

定員が集まっていなかったり、設置時の報告書と内容が違っていたりしたら、改善の指示がある。
今回の中身で一つビックリするのがあった。

東京で平成22年に設置した、「私立ヤマザキ学園大学 動物看護学部 動物看護学科」に対しての留意事項だ。

○入学者の状況について、受験者のほとんどが合格していることや、必修科目として配置している「イングリッシュスキルズ(基礎)」については、Be動詞や文の種類(単文から複文)から仮定法までの内容とせざるを得ない状況と推察すると、入学者選抜機能が働いているとは考えられないため、アドミッションポリシーに沿って適切な入試を行うこと。
○「イングリッシュスキルズ(基礎)」については、大学教育にふさわしい水準となるよう内容を修正し、必要に応じ正課教育外での補習教育を整備すること。

これはスゴイ内容だ。
以前話題になった、日本橋学館大学の講義計画(abcの読み方などを教えるというもの ただし選択科目)を意識した文科省の留意事項だろう。

ほぼ受験者全員が合格している状況は、下位の大学では珍しいことではないと思う。
そして、それら入学生に対して「Be動詞や文の種類から仮定法までの内容」を教える必修科目を置いているのは、ある意味良心的でもある。
結局、入学者選抜機能が働いていない、ということだが、そんな入試はたくさんある。
受験生が来たら入試を随時やる、というようなところはみんなそうだろう。

文科省は、この状態を「改善すべき」として、「アドミッションポリシーに沿って適切な入試を行うこと」と留意事項に書いている。
アドミッション・ポリシーというのは、どんな入学者を選抜しようとしているのか、という方針のことだ。
結果的にほとんどの学生が通る、ということなら、アドミッション・ポリシーは必要ない。
だから、「ちゃんと選抜する入試」をやりなさい、ということになる。
しかし、そんな大学が「ちゃんと選抜」しようとすると、「本学を志望した学生には入っていただく」というようなポリシーを持つしかないだろう。
実際、経営上の理由でそういうポリシーを持たざるを得ない私学は多い。

そして、この授業を「大学教育にふさわしい水準となるよう内容を修正し、必要に応じ正課教育外での補習教育を整備すること」となっている。
この授業のような、本来中高でやっているはずの内容は、「正課教育外での補習教育」でやりなさい、ということだ。

しかし、よく考えてほしい。
英語は積み上げの科目だ。
きっとヤマザキ学園大学の英語の教員も、この授業をやりたくてやっているのではないだろう。
入ってくる学生が、それらの知識を持っていないからこそ、必修にして、仕方なくやっている。
Be動詞や仮定法の知識なしに、大学レベル?の英語は読めないに違いない。
だから、基礎を必修で最初にやっているのだろう。それは補習でやれ、ということなら、それと並行して大学レベルの授業をやることが可能だと思っているのだろうか。
中学で一度やっているはずだから、すぐにできるはず、ということなのだろうか。
無責任に大学レベルの授業をやって、出席だけで単位をやっている大学に比べたら、ヤマザキ学園大学は良心的とさえ言えると思う。

たしかに、大学で中学や高校の学び直しみたいな授業をして、単位を与えるのはオカシイというのは正論だ。
それなら、こんな調査結果の留意事項で言うのではなく、正々堂々と行政の力を行使して、大学に指導をすればいいのだ。
補助金を交付しているのだから、大学は監督省庁の言うことを聞かざるを得ない。
それこそが文部科学省の役目というものだ。

しかし、そんなことを堂々と言えない。
それを言ったら、中学や高校の教育のことが問題になる。
だから、こんなところで「留意事項」としてさりげなく言っているのだろう。

日本橋学館大学の学長が、中学の学び直しの英語の講義計画のことで、「バカ田大学」という批判を受けたときに、言っている。

「批判は甘んじて受けますが、なぜ本学がこのような選択科目を用意したのか。それは、中学高校で(基礎教育が)先送りされてきたツケのためです。本学は、学生を社会に送り出す“最後の砦”として責任を果たします。表面だけをとらえてバカにするのは簡単ですが、これが日本の教育の縮図と考えれば、決して笑ってばかりもいられないはずです」

この言葉は重い。



| | 考えたこと | 21:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
ライフワーク
アニメ、サザエさんの磯野波平役の声優、永井一郎さんが亡くなった。
享年82歳。
最後の作品をこないだの日曜日にやっていたが、ちょうど波平のお話だった。
これも何かの縁だろう。

このアニメ、1969年に始まったということだから、ぼくが中学1年の時だ。
今年で45年目の長寿番組。

オリジナルの声優で初期からやっているのは3人だけらしい。
サザエさん、タラオ、フネの3人。
74歳、72歳、87歳の高齢だ。
45年も続いているのだから、当たり前といえば当たり前だが…。

始まった時は30代〜40代の働き盛り。
まさかこんなに長く続くとは思っていなかっただろう。
声を維持することは結構たいへんだと思う。
年とともに声が出なくなったり、はりがなくなったりする。
さすがプロだ。

今まだ現役の3人にとっても、「サザエさん」はライフワークだろう。
45年もやっているのだ。

始まった時にはそんなことは思っていなかったに違いない。
それが続いて、結果としてライフワークになった。

ライフワークは、自分で選べない。
人から与えられるものだ。
何かの拍子で始めてしまったものが、ライフワークになる。
それが、人生をかけた仕事になったりする。

そういうものを与えられた人はラッキーだ。

でも、運だけではない。
それを呼び込めるのは、自分の努力だろう。

頑張った人にだけ、神さまはご褒美をくれるのだ。



| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
とんかつ奇々怪々
とんかつ奇々怪々 東海林さだお 文春文庫

中古で買った。251円。
東海林さだおというと漫画の方が有名。
でも、この人はものを書いても上手だ。

1998年〜2000年に連載されていた「男の分別学」というコラムを集めたもので、その当時の世相を表している。
話題はペット、通販、ラーメン、蒸気機関車、つまようじ、散歩、自殺など、バラエティに富んでいて面白い。
どうして当時気が付かなかったのだろうか。

なかでも、「明るい自殺」という項はマジメに考えさせられる。

スーパーで見た70代と思われる、ズボンのファスナーが全開だった老人に端を発したコラム。
そこで作者は考える。

 この老人の毎日はどんなものなのだろう。
 朝起きて、ゴハンを食べる。
 もはや朝刊も読む習慣はないにちがいない。
 そして家族に服装を整えてもらう。
 老人はフラフラと家を出て徘徊を始める。
 その日、老人は途中のどこかのトイレでおしっこをしたにちがいない。
 そのあとスーパーマーケットに入ったにちがいない。
 おしっこをしたとき、ズボンのファスナーをしめ忘れたのだ。
 でもいまのところは、ブリーフの外に出したものを、用を済ませたあとブリーフの中にしまうという意識はまだ残っている。
 だが、この意識がなくなる日は近い。
 少なくとも一年後にはなくなっているはずだ。
 そのとき彼は、ブリーフの中にしまうものをしまわずに、スーパーマーケットの人混みの中を歩いていくはずだ。

そして人間の尊厳を考え、それを失ってしまったあとの人生を考える。
もちろんそうはなりたくないが、こればっかりはどうにもならないということだ。
そして書く。

 これからの人間は、二つの人生を強いられることになる。
 呆けるまでの人生と、呆けてからの人生の二つである。
 呆けるまでのその人と、呆けたあとのその人は別人である。
 人中でモノを出さないことを信条として生きてきた人間と、出して平気という人間は別人である。別人間ではあるが当人であることもまちがいない。
 一番悲しいことは、前半の当人が、後半の当人に全く責任が持てないことだ。
 こんな無責任な人生ってあるだろうか。
 自分の人生に責任を持たない、なんてことがあっていいのだろうか。

そして自殺という考えに至る。
自殺といっても、「明るい自殺」だ。
溜め込んだ睡眠薬とウィスキーを持って冬、雪の降る日に樹海に行って、楽しく酔って夢見るように凍死する、という計画が続く。

いざ死ぬとなるとウィスキーだけでなく、ビールも飲みたいし、おつまみも好きなものを食べたい。
魚肉ソーセージ、さつま揚げ各種、ワサビ漬け、カマボコ…。
それにメザシも食べたいので、コンロも必要になる…。

そういうふうに面白おかしく話は続くが、この問題は考えさせられる。

こんな重たいお話ばかりではない。
トンカツを食べ歩く話もあるし、ラーメンの話もある。

でも、ぼくは「明るい自殺」の話が身につまされた。

こういう話題を自然に読める、この本はいい本だ。



| | | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
VAIOの売却
ソニーがVAIO事業を売却するとのこと。

そういう時代になったということだろう。
当初はパソコンの中でも、VAIOは差別化されて、動画やオーディオなどに重点を置いたもの、というイメージで売っていた。

今これを打っているのもVAIOだ。

当初はVAIOは値段が高い設定で、アップルのMACのようなイメージがあった。
しょせんWindowsのパソコンであり、他との差別化はソニー製のソフトと、デジカメやハンディカム、ウォークマンとの連携というところだった。
当初はノートパソコンが紫色だったりして、見た目も差別化していたが、そのうちどこのメーカーもカラーバリエーションを持たせるようになったし、逆に量を売ろうとすると差別化でコスト高になるのがシンドくなったのだろう。

結局日本の家電メーカーで量産パソコンをやっているのは、東芝と富士通だけになった。
NECはレノボ(中国)と提携して、実質的にはレノボがやっているし、パナソニックは利益率の高いノートパソコンだけを狙ってやっている。

実際、今後はタブレットやスマホが増えていくのだろう。
しかし、それらの製品もいずれはパソコンの運命をたどっていく。

だいたいの製品は最初は嗜好品であって、値段が高くても、欲しい人が買う。
だんだん普及してくると、それがコモディティ化する。つまり、一般的な消費財になる、ということだ。
そうなると、性能よりも値段が決め手になってくる。
そして、値段があるポイントを切って下がると、品質やアフターサービスはあまり云々されなくなる。
特にパソコンはインターネットの普及とともに、90年代から爆発的に普及した。
コモディティ化が加速したのだ。
今やいろんなサービスや商品がインターネットの存在を前提に作られている。

そして今、パソコンは一般消費財になってきたところだろう。
テレビのように、1人1台の時代が来ている。

それでも、まだまだ性能は大事だ。
インターネットの情報量はどんどん大きくなっている。
でも、性能と価格を高いところでバランスするためには、量を作ることが求められる。
そうなると、世界レベルでやっているところが強い。
台湾、中国やアメリカのメーカーが勝つ。
スマホと同じく、日本のメーカーはそういうオペレーションができなかった。

きっと、どうしても「いいもの」を作ろうとしてしまうのだろう。

日本はこれからどうなるのか。

先は難しい。


| | 考えたこと | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
"就職をあきらめさせない"ための取り組み
今年も厚労省が、文科省・経産省と連携して「未内定就活生への集中支援2014」を実施するらしい。
これ自体はいいことだと思う。
支援しないより、支援した方がいいに決まっている。

しかし、「支援」というのは、もともとやる気のある人を応援するという意味だと思う。
その意味で、行政がやっていることはちょっと的外れな部分がある。
今就職を支援しないといけない人の多くは、「やる気のある人」ではないのではないか。
それが現場感覚だと思う。

多くの大学の就職関係者は、今の時点で就職できていない学生をほったらかしにしようとはしていないだろう。
どうにかして、就職してほしいと願っているのだ。
直接電話をしたり、先生経由で連絡を取ろうとしたり、友達経由でつかまえようとしたり、涙ぐましい努力をしている。
それでも、アルバイトをしていて就職する気がなかったり、電話に出なかったりする。
そういう現実がある。

そもそもなんで就職できないのか。
その理由が分かっていないのではないか。
もちろん、なかにはやる気はあったが、何度も選考に落ちて、就職をあきらめてしまった人もいるだろう。
その、落ちる理由が問題だ。

一つは、真剣に自分の将来について考え、就職するということと向き合っておらず、そもそも就職をしないといけない、と思っていない人がいるということだ。
アルバイトでかまわないと思っている人もいる。というか、そうとしか思えない学生もいるのだ。

もう一つ、落ちている理由として、基礎学力がない人もいる。
基準を満たさないから、通らないのだ。
そういう人がなぜ大学に入学し、そして卒業できるのかは別として、そういう要因もある。

だから、大学を出るときになって支援するのでは遅い。

本当に支援しないといけないのは、小学校、中学校、高校だ。

いつまでもモグラたたきみたいな支援をするのではなく、元をちゃんとしないと良くならない。

国は元を良くすることを考えてほしい。

| | 考えたこと | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
can-do person
テレビを見ていたら、can-do personという言葉が出てきて、前向きな生き方、という字幕が出た。

何かの方法が示された時、「それはできる」と思うか、それとも「難しい」と思うか、「それはできない」と思うか…。
「それはできる」と思える人が、can-do personだ。
意訳すると、「前向きな生き方」ということになるのだろう。

前向きに生きていくのは難しい。
それほど世の中は甘くない。
やりたくても、できないことがたくさんある。

それでも、やれると思って生きていかないといけないのだろう。

Be a can-do person!



| | 英語 | 01:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
入試の季節
1月〜3月は入試の季節だった。

過去形で「だった」というのは、大学入試は今や夏休みから始まるからだ。
だから、1月〜3月だけが入試の季節というのは過去の話。

夏休みには、オープンキャンパスというのがある。
それに行かないと、AO入試に出願できない場合がある。
だから、入試の始まりは夏休みということになる。

試験自体はAO入試がだいたい10月〜11月、推薦入試が11月〜12月という感じだ。
したがって、実際の入試は10月に始まり、3月に終わる。
昔は1月、2月、3月あたりが忙しかったのだが、今や年間の半分が入試の時期。
大学側としては、オープンキャンパスの運営も入れると、年のうち半分以上が入試で忙しくなる。

ベネッセのマナビジョンというページによると、推薦・AOには4つの種類があるという。

公募一般推薦:評定平均値が出願条件になる場合が多いため、評定平均値を少しでも高めておくことを心がけます。また面接や小論文などにも十分な対策が必要です。国公立大の場合はセンター試験が課される場合もあります。志望大の出願条件や試験内容を早めにリサーチし、準備を進めておきましょう。

公募特別推薦:スポーツや文化活動、個性が評価される公募制特別推薦では、部活動や学校行事、ボランティア活動など、学業以外で子どもが取り組んできた内容が評価の対象になります。公募制特別推薦をめざす場合、課外活動を保護者もサポートし、推薦入試の際にアピールできる実績と自信を持たせることが大切です。

指定校推薦:1高校につき推薦枠が数名しかない指定校制推薦。希望者多数の場合は評定平均値のほか、部活動、生活態度などの総合的観点から校内選抜が行われます。そこで、「遅刻をしない」「課題を期限内に出す」など基本的なことは徹底させましょう。また、毎回の定期テスト対策には力を入れるよう助言を。

AO入試:様々な視点から大学にふさわしい人物をじっくり選出するAO入試では、大学ごとに選抜方法や時期が大きく異なります(出願受付は8月1日以降)。早いところでは高3・春からエントリー受付の場合もあるため、志望大のAO入試の時期について高2のうちから調べておきましょう。また、志望動機について深く問われる傾向があるので、その大学・学部について深く知る努力が必要です。

これらが年内に行われる、親の世代にはなかった入試である。
だから、1月からの一般入試も様変わりした。(一般入試という言葉も推薦、AOと区別するためにできた言葉だと思う。昔は入試と言えば、一般入試のことだった。)
昭和50年代当時よりも大学は増え、入試を受ける人は増えたが、一校あたりの一般入試受験人数はさほど増えていないだろう。

文科省の資料によると、AO入試は2000年には75校で実施され、合格者は約8700人だったのが、2012年になると532校が採用し、なんと約52000人が合格している。
ここ10年ほどでいかに一般的になったかがわかるだろう。

一方、推薦入試であるが、これは従来からあった。
ただ、昭和の時代は本当に優秀な学生だけを推薦する、というもので、今のようにたくさん受験者はいなかった。
現在は推薦入試で入学する学生が21万人もいる。
だいたい毎年の入学者数は60万人だから、AOと推薦を合わせると26万人、4割強になる。

結局、一般入試で入る学生の割合はだいたい6割弱。もちろん、国立は6割より多く、私立は少ない。
一般入試入学者の割合が3割を切っているのは、当然下位の私学が多い。試験をやっても志願者が集まらないからだ。そんな大学が全部で114校あり、私立全体の35%に当たる。定員割れを起こしている私学が4割だから、だいたい一致する。

大学には推薦入学比率が半分以下という文科省の通達がある。
しかし、苦しい大学は一般入試を待たずに定員をできるだけ確保したい。
そこで考えられたのがAO入試の多用。
推薦入試は11月以降でないとできないが、AO入試は一般入試にカウントされるのでいつやってもいい。
もしもAO入試を11月以降にすべし、という通達が出れば、AOをやる学校は激減するだろう。

断っておくが、AO入試はマジメにやれば最も手がかかって、最もいい学生が選抜できる入試だ。
慶応が最初にやったAO入試は、そうだった。
AOとはAdmission Officeのこと。要は入試担当が手間ひまかけて選抜する、アメリカ方式。
一発の試験ではなく、高校の成績や活動の履歴などを評価し、論文を書かせ、面接をして人選する。
場合によってはセンター試験で何点以上というようなことを課す大学もある。
でも、その入試方式を一部の大学が悪用して、学生を早めに確保している、ということだ。

世の中の高校生で、受験勉強が好きという生徒はほとんどいない。
自分の希望やプライド、回りのプレッシャーなど、いろんなものを気にしないといけないし、この年になっても、もう一度経験したいとは思わない。
だから、早く終わらせたいと思う気持ちは自然なものだ。
そこに、大学がAO入試や推薦入試というエサをぶら下げる。
一部の高校の進路指導の先生も、勉強がシンドイ生徒は早く決めさせようと考える。

今の親の世代はこういう複雑な入試事情を経験していない。
だから、子どもが高校で指導を受けてきたら、それでいいと思ってしまうのだろう。
選り好みさえしなければ、そうやって大学に入ることはできる。

しかし、本当にそれでいいのか。

そういうシステムが、「9-3÷(1/3)+1=?」という問題で、たった4割しか正答しないという社会人を生み出している。


| | 考えたこと | 02:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
9-3÷(1/3)+1=?
朝日新聞の記事。

大手自動車部品メーカーの高卒と大卒の技術者の新入社員に、9-3÷(1/3)+1という問題を出したところ、正答率が4割だった、とのこと。

1980年代の同じ問題の正答率は9割。
ぼくが大学を出たのが、1979年。
ぼくの感触でも、あの当時この問題なら9割は正答するレベルだと思う。

記事によると「中部経済連合会が3日に発表した、ものづくりの競争力についての提言に、能力低下の事例として盛り込まれた」とのこと。

Web上の中経連の報告書によると、「自動車でA地点からB地点まで往復します。行きは時速30km、帰りは時速50km で走りました。この自動車はAB間の距離の往復を平均速度いくらで走行したことになりますか。」という文章題の正答率も80年入社に比べて極端に低いとのこと。
この問題ができないということは、平均の意味がわからない、ということ以外考えられない。

国立大の学生が分数ができない、といわれたのは1999年。
あの頃から、あまり変わっていないのか、それともレベルダウンしたのか…。

きっとこういう事例は枚挙にいとまがないのだろう。

絶対値で成績を見ないから、こんなことになる。
新入生に対して、下位の大学は基礎学力を調べるテストをする。
なんとその結果が業者から偏差値で返ってくるのだ。

これはあきれた。
素点をくれ、というと金がいるという。
一体何ができて、何ができないかを知りたいからテストをする。
偏差値などなんの役にも立たない。
どの問題がどれだけの正答率を持っているか、という視点で見ないといけない。
それができないような仕組みになっている。
やっている会社も、やらせている大学も、何も考えていないのだろう。

こんなことをしているから、正答率が4割になった。
まあ、直接的には小学校・中学校の教育が悪いのだが…。

高校以下はすべからく偏差値だ。
みんながレベル低下すると、偏差値は変わらない。
偏差値は相対的なものだからだ。

もう一度いう。
こんなことをやっているから…。


| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
「大学中退」問題
1/31の毎日ニュースによると、文部科学省が「大学中退」問題の実態を把握することになったとのこと。

この問題は、いろんな意味で根が深い。

記事で紹介されている静岡産業大学の取り組み事例は「10年近く前から学生約10人につき1人の教員が「アドバイザー」として付き、授業への出席率が悪ければ面談して対応策を考える。保護者の協力も不可欠とし、年2回、保護者対象の相談会も開く。」とのこと。

これが大学か?と思う人も多いだろう。
実際、10人に1人のアドバイザーという担任が、学生の面倒を見るということだ。
年に2回、保護者にも協力をあおぐ。
しかし、そうまでして大学に学生を残らせないといけないのだろうか。
そこに現在の大学教育のジレンマがある。

記事はこう続ける。「中退には「授業についていけない」という学力不足が要因のケースも多いため、入学前教育や1年生の時にリメディアル教育(中学・高校レベルの学び直し)を実施する大学も増加。日本リメディアル教育学会の11年調査では全大学の7割超が実施している。背景には、大学を選ばなければ入れる「全入時代」になったことがあるとも指摘されている。目的が不明確だったり不本意入学したりするなど学生の意識の問題も大きい。」

大学で、中学・高校レベルの学び直しをやっている。
そういえば、日本橋大学では「アルファベットの読み方」や「整数の計算」などを教える授業があり、「バカ田大学」などと悪口を言われていた。
この件についてはネット上ではいろいろな記事が出ており、一概に日本橋大学のことを「バカだ」
とは言っていないのが現実。むしろ評価する声も大きかったと思う。

それにしても、全大学の7割が何らかの中学・高校の学び直しの内容をやっている、ということだ。
これは驚くべき事実。
それらの学び直しが必要な学生が、大学の授業についていけないということは容易に想像できる。

さらに記事は続く。「独自に中退者の実態調査や大学の中退対策支援をしているNPO法人「NEWVERY」(東京都)の山本繁理事長は「経済的な理由よりもミスマッチが主因。対策は急務だ」と指摘する。中退の理由は▽教育内容・方法が合わない▽学力不足で授業についていけない、などが目立ち、中退者の7割近くは大学1年の段階で何らかのつまずきがあるという。山本理事長は「高校の進路指導で、自分に合った大学が見つけられる機会を生徒に提供するとともに大学側も教育内容・方法を在籍する学生に合わせる必要がある」と指摘している。」

忘れないでほしいのは、それらの学生も入試を経て入ってきたということだ。
本来、入試の役割というのは何なのか?
入試は本来「その大学の学びについてこれる学生を選抜する」という意図を持っている。
相対的にはより優秀な学生を選抜する、ということだが、絶対的にはある線を切ったら、その大学の教育システムでは教育できないということであり、それを選抜する機能も持っているのだ。

ところが、その「絶対的な線」は多くの大学で機能していない。
そういう考えすら持っていないというのが実情だと思う。
例えば、たいがいの大学の英語の授業では、高校までの英語はある程度わかっていると仮定してカリキュラムを立てている。
少なくとも、中学のレベルはクリアしているという前提だろう。
ところが、その前提がクリアされていないから、リメディアルが必要になる。
そうなると、一部の学生は英語の単位が取れない。
おおかたの学校では、語学は必修になっているから、その学生は卒業できない。
となると、卒業できないとわかっている学生は、入学させてはいけない、ということになるだろう。
簡単なリクツだ。
しかし、多くの大学では、そうなっていない。

それはなぜか?
そういう学生を入れなければ、定員割れを起こすからだ。
現実、私大の4割が定員割れを起こしている。
既に定員割れを起こしている学校は、志願者がいても、学生のレベルを見て不合格にしているのだろうか。
そんなことはないと思う。
志願者が足りないのだ。

だから、今の入試は落とすためにやっているのではなく、何とかして入ってもらおうとしてやっている、ということになる。
志願者が足りているのに、定員割れを起こしている大学があるとしたら、それは志の高い大学だと思う。
ほとんどの大学では、入学者の決定は教授会が権限を持っている。
だから、教授会の志が高ければ、中退する学生は減るのだろう。
実際には教授会の志は低い。
学生の数が減って、自分たちが食えなくなることを恐れている。
それが現実だ。

実際には、大学中退の問題は、それまでの教育に帰する部分が大きい。
小・中・高の問題だ。
それさえちゃんとやっていれば、中退は増えないはずだ。

しかし、文科省もこの問題にクビを突っ込んだら、自らのクビを締めることになる。
小・中の義務教育をもっとちゃんとやれ、ということだ。

残念ながら、文科省も志が高くない。

この国はどうなっていくのだろうか…。



| | 考えたこと | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ワープロの弊害
仕事でワープロを使うようになってだいぶ経つ。

ワープロの時代になって、文章を思いついたところから書いていって、後で並べ替えるという書き方に慣れた。
ワープロなら、「とりあえず書き始める」というやり方ができる。
読んでみて足りないところは書き足す。
手書きなら、その都度一から書かないといけないので、大変だ。
これがワープロの便利なところ。

その代わり、漢字が書けなくなった。
読むのは読めるのだが、簡単な漢字でもこの頃は思い出せない。
文字を書くという行為は、漢字の記憶とつながっているらしい。
そういえば、クルマ通勤で本が読めないのも影響があるのかもしれない。

ぼくは30歳過ぎまで紙とシャープペンを使ってきた。
もっぱら字を書いてきたのだ。
もちろん、学校時代はノートだったし、会社に入ってからは7mm方眼のレポート用紙だった。

仕事柄レポートを書くのは日常茶飯だった。
書くことが仕事の大きな部分を占めていたと思う。
あの頃は読みやすい字を書いていたし、漢字もたいがい書けた。
膨大な数の字を書いたと思う。

それを20年ほどかけて忘れようとしている。
代わりに得たものは大きい。
ワープロが発達しなければ、40代以降はあれほどの量は書けなかったと思う。

気がかりなのは子どもの世代だ。
ぼくは30年以上紙の世界に住んでいた。
それからワープロの世界に移ったが、子どもの世代は大学生になった頃から移っている。
まだ彼らはワープロの世界に入ったところ。
漢字は覚えている。
でも、彼らが30代、40代になったとき、どうなるのだろうか。
学生時代に勉強して覚えた字の読みは覚えているのだろうか。

アルファベットの国は、ワープロ以前にタイプライターというものがあって、一足先に紙の世界を離れている。
たしかに向こうの大人は字を書くのが下手だ。
かなりの地位の人でも、ビックリするような字を書くことが多い。
彼らは綴りを忘れたりしないのだろうか。

漢字とアルファベットは全く違う。
アルファベットは音を表し、漢字は意味を表す。
だから、話していれば音は意識されるのだろう。
したがって、彼らはタイプライターを使っても、字が下手になるだけで綴りは忘れないのかもしれない。

ところが日本語の場合、漢字は音を表さない。
日本語には意味が違うが、同じ音の漢字がたくさんある。
だから、漢字を間違えるのだ。
よくは知らないが、中国語はちゃんと漢字の読みと意味が合っているらしい。
これはひらがな、カタカナ、漢字を混ぜて使っている日本語の問題になる。

仮名交じりの漢字を使うというのは、日本語の特徴。
それがワープロの時代には、困ったことになった。

小学校、中学校、高等学校で紙の世界によほど馴染んでおかないと、漢字を忘れてしまう。

同音異義語をどうするのか。

これは国語教育の大きな課題だと思うのだが…。

| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
STAP細胞
STAP細胞という新しい細胞が発見された。
神戸の理化学研究所の、小保方さんという若い女性の研究者が発表していた。

その時にiPS細胞の山中教授もテレビでコメントしていた。
何となく当惑したような顔で喋っていたのが、印象的。
それほど、信じられない発表だったのだろう。

このSTAP細胞は今までの常識を覆したらしい。

人間に限らず、いろんな生き物の細胞は元は同じものが、役割ごとに違う形になるようになっている。
人間であれば、皮膚になるものと、爪になるもの、はたまた胃になるもの、腸になるものなど、働きが違うし、形も違うのだが、元は同じ細胞である。
受精卵はひとつの細胞だからだ。

つまり、最初は万能の細胞があり、それがいろいろに分かれて身体ができることになる。
そこで、いろいろに分かれてしまった細胞は、もう万能の細胞には戻らない、というのが今までの生物学の常識だったらしい。

それが今回のSTAP細胞では、分かれてしまった細胞を酸性の溶液につけたら、万能の細胞に戻ってしまった、ということらしい。
難しい言葉で言うと、「「細胞外刺激による細胞ストレス」によって、動物の体細胞の分化の記憶を消去し、万能細胞へと初期化させる」ということだ。

ひょっとしたら、ノーベル賞ものかもしれない。

どうやって思いついたのか、何がきっかけだったのか、そのうちわかるだろう。

受賞者の田中さんも、ノーベル賞の発見のきっかけは通常の作業を間違えたところからだったと思う。

大発見というのは、えてしてそういうところから生まれる。
でも、それを単なるマチガイと思わず、調べるところから発見は生まれるのだろう。

それは研究者の問題意識や熱意から生まれるのだと思う。

| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
新型ストリーム
オデッセィの新型を見て、ストリームの新型はもう出ないと思っていた。
似たような位置付けにフリードがあるからだ。

ああいう重心の低い7人乗りは、スペースのあるファミリーカーに取って代わられる。
オデッセィもそうなった。
背が高いし、スライドドア仕様だ。

しかし、どうもストリームはそのまま新型になるらしい。
上海のモーターショーでジェイドというクルマが出展された。
ジェイドというとバイクの名前だが、中国ではクルマに使われるらしい。

これは今のストリームのコンセプトのまま新型にしたものだった。
ぼくは今のストリームが好きだ。
適度に高い着座位置。
いざとなったら7人乗れるという安心感。
3列目の椅子をたためばそこそこのスペースが生まれる。
今の(と言っても7年前だが)モデルになって、精悍な顔になった。
トヨタがミリ単位で寸法をマネしたクルマだ。

5ナンバーで安全装備も工場オプションで装備されている。
レーダーで追尾するクルーズコントロール、衝突しそうになるとシートベルトをギュッと締め、自動でブレーキをかける。
これは特許が切れたとたん、ドイツのメーカーにマネされたらしい。
画期的だと思う。

去年ホンダは軽に力を注ぎ、国内の工場を稼働させるためにNシリーズを出した。
年末、フィットとベゼルが出た。
新しいハイブリッドだ。

これから、ガソリン代がどうなるかわからない。
もしも距離を走るのなら、ハイブリッドがペイするラインはかなり下がるだろう。
リッター200円という日もあり得る。

今日ディーラーに行ったら、もしあれがストリームになるなら、春くらいにはアナウンスがあるはずだろうと言っていた。

これは楽しみだ。


| | 考えたこと | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
葬祭費用補償特約
ケーブルテレビで保険の宣伝をやっていた。
アメリカンホームダイレクトという会社だ。
そこの保険は葬式にかかった費用も支払いの対象になるという。

ホームページによると…

葬祭費用補償特約について
(ア)通夜にかかる費用(会場使用料、祭壇費、親族の献花代、会葬時の会食代など)、葬儀にかかる費用(会場使用料、会食代など)、火葬・埋葬料、回向料※1、通知状・礼状代(会葬礼としてのハンカチ代なども含む)、戒名料(法名料)※2、切手代、喪服借代、火葬場サービス料など
(イ)初七日の法要までにかかる費用(会場使用料、会食代など)
(ウ)病院から自宅までの遺体運搬費用
※1死者の成仏を祈って供養を行うために寺院に支払う費用。
※2生前に支払われた戒名料(法名料)などは対象外とします。

と書いてある。

葬儀の時の会食料なども対象になるという。
さらに、戒名料もOKらしい。
しかし、さすがに戒名料を支払った確証がなければ、保険は支払われないはず。
お寺は、戒名料に領収書を出してくれるのか…と思った。

調べてみると、お寺は領収書が必要だ、といえば発行してくれるらしい。

発行しないのは、お寺が宗教で得た収入は非課税であり、出す必要がないからだとのこと。
支払う側に必要性があれば、出してもらえるらしい。
法人には出す義務がある。

そうだったのか。

理由もなく、戒名料の領収書は出してもらえないと思い込んでいた。
こういう保険が出てきたら、領収書を出すことも多くなるだろう。

そうなると、わけの分からない「戒名料」というものも料金体系ができるかもしれない。

他の宗教から見たら、死後の名前をつけるのに、数万〜数十万円というのは、どう見えるのだろうか。
よほど日本人が信心深いと思われるのだろうか。
それとも…。

| | 考えたこと | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) |