考えたこと2

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うらやましい人
うらやましい人 日本エッセイストクラブ編 文春文庫

2003年版のエッセイストクラブのベスト・エッセイ集。
66篇のエッセイが載っている。

有名な人、名前も知らない人、長いもの、短いもの、堅いもの、柔らかいもの…いろいろある。

何でこれが選ばれたんだろう?というものもあるし、これはいいなあ、というものもある。

思ったことを書いているもの、綿密に調べたもの、ふーんと思わせるもの、そうそうと思わせるもの…エッセイは幅が広い。

実はだいぶ前に買って、置いてあったのだがなかなか読めなかった。
長いこと枕の肥やし(枕もとに、読みかけの本が積んである)になっていたのだ。

どうも、読みたいと思って買う本というのは、書き手との波長が合うというような事があるのだと思う。
文章のリズムとか、話のもって行き方とか、何かが自分と合うのだろう。

ぼくは詩が苦手で、詩人の書いたエッセイがいくつか載っているのだが、何となく読みにくい。

たくさんの人のエッセイを読むと、同じような言葉を使って書いてあっても、好き嫌いがあって、それがおもしろい。

ピンと来るものと、何となくズレているものがある。

息をするように、すっくり頭に入ってくるものは、例えば田辺聖子のものであったり、藤原正彦のものであったり、林望センセイであったり…やっぱり読んだことがある人の書いたものだった。

そんなこんなで、なかなか読めなかったが、ついに読み終えた。

たまには、自分と合わないものも読まないといけないのかもしれない。

それにしても、何が違うのかな…。
内容そのものではなくて、やっぱり、リズムみたいなものだと思う。

文章は人をあらわすというが、それはその人の持っている天性のリズムみたいなものなのかもしれない。


| | | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生の扉
23日に発売した竹内まりやの新しいアルバム。
買おうと思っていて、忘れていた。

今日、子供に頼んで買ってきてもらった。初回限定版がまだあったらしく、ボーナスCD付きだった。
時にはいいこともないと…。

いつも通り、肩の力が抜けたいいアルバムだと思う。
竹内まりやは、ぼくよりも少し歳が上のはずだ。

作る曲のパターンがいくつかあって、マイナーのバラードや軽いポップな曲もいいが、カントリー風というか、ゴスペル風というか、そういう曲もこの人によく合っている。

アルバムの最後の曲。感動してしまった。
歌詞の一部だけ紹介させてください。
年を重ねないと書けない曲。

人生の扉。

 春がまた来るたび ひとつ年を重ね
 目に映る景色も すこしずつ変わるよ
 陽気にはしゃいでた 幼い日は遠く
 気がつけば五十路を 越えたわたしがいる

そう。
そのとおり。

 満開の桜や 色づく山の紅葉を
 この先いったい何度 見ることになるだろう
 ひとつひとつ 人生の扉を開けては感じるその重さ
 ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ

ぼくも同じことを思う。

 君のデニムの青が 褪せてゆくほど 味わい増すように
 長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさ

デニム、というアルバムタイトルは、これ…。

最後の部分の英語の歌詞は、

 悲しいことだけど、身体は弱っていく
 年をとるのはつらいと言ったよね
 人生なんて意味がないという人もいる
 でも、わたしは生きていくことは価値あることだと信じてる
 そう、今でも信じてる

というような意味だと思う。

三拍子のゆっくしりたビートに乗って、歌う竹内まりやは、二十数年前にユニバーシティストリートを歌っていたあの人か。

同世代の心にしみる、いい歌だ。
涙が出てくる。

すごく素敵なクリスマス・ソングもあって、いいアルバムです。



| | 音楽 | 00:45 | comments(4) | trackbacks(0) |
経済学者の想定外
セカンドライフ…わかりますか?

定年後の第二の人生、という感じですよね?

ところが、最新の話題としては、リンデン・ラボというアメリカの会社がやっている、ネット上の架空世界が、セカンドライフという名前らしい。
(セカンドライフという世界、と言った方がよいか…)

若い人に、セカンドライフの事について教えてほしいと言われ、てっきり定年後の暮らしをどうするか…という事だと思い、殊勝な質問やな〜と思ったら、全くハズレだった。

そういえば、テレビでフランス大統領の選挙の時に、ネット上に各陣営が島を買って、そこで選挙運動している…というのを見た。
あれがセカンドライフだったらしい。

調べてみると、トヨタや日産、ホンダ、BMW、メルセデスなどの自動車メーカーが島を買って(土地はリンデン・ラボから買う)、そこで新型車のマーケティングをやっていたり、IBMが遠隔会議のテストをやったりしているようだ。

セカンドライフの中では、リンデン・ドルという通貨が流通しており、今では実際のドルに換えることもできるようになっているとのこと。

もうすぐ日本語版が出て、すでに東京タワーが開業しているらしい。

セカンドライフの中で、自分の分身(アバターという)に着せる服をデジタルで作って、売ってカネを儲ける…実体の無いところにお金が動く、究極のサービス業か…。

こんな経済活動を、今までの経済学者は誰も予想だにしなかったはずだ。
マルクスも、ケインズも、アダム・スミスも、天国でビックリしているはず。

調べてみて、本当に驚いた。
ここまで来たか…という感じ。

日本国内でも、モバゲー何とかという携帯専用のサービスがあって、その中ではモバゴールドという通貨が流通しているらしい。

このサイトでは、中に出てくる広告をクリックすると、モバゴールドがもらえる、というシステムになっているようで、新しいビジネスモデルとのこと。
mixiの携帯版+ゲームという事らしい。
中高生の間で、流行っていると書いてあった。

中に書かれている「日記」はほとんど短文というか、単語のものが多いようで、携帯コトバになっているようだ。

ここ数日、そんなことを調べていて、何となく気が重くなった…。

Googleやアマゾンのやっている事はまだわかる。
でも、架空世界に架空通貨…もうわからない。
どこまで実体経済から離れていくのか?

昔読んだ、「インターネットは空っぽの洞窟」という本を思い出した。

数年前から、インターネットは世界を変える、と言われていたが、あの時にこんな形で世界を変えるようになるとは、誰も思っていなかっただろう。

エライ世の中になってきた…。



| | 考えたこと | 22:35 | comments(2) | trackbacks(0) |
ツバメ
暑くなったり、涼しくなったり、どうも気候が不順だが、今日外を歩いていたらツバメが飛んでいる。
5月のこの時期になるとやってくる。
ツバメが来たら、もう暑くなる…という季節。

毎年、近所の踏切を渡ったところに巣を作るのがいる。
踏切で立ち止まるから、記憶に残るのか、あ、また帰ってきたなと思う。

会社のロッカー室の入り口のところにも来たし、実験室の入り口のひさしの下にも来ていた。
ある日、気がつくと、そこにいる。

あんなに小さな鳥なのに、フィリピンやベトナム、マレーシア、インドネシアあたりから2000kmも飛んで渡ってくるらしい。
長寿記録では7年というツバメがいたそうだ。
毎年同じツバメが帰ってくるらしい。(http://www.tsubame-map.jp/1_katudo/summit/summit_report/report_point2.html

どうして同じところに帰ってこられるのか?
地図を見ているわけでもなく、景色だって変わっているだろうに…。
これこそ、偉大な自然ということだろう。
人間にはわからないことがたくさんあるのだ。

ほんの手のひらくらいの小鳥が、はるか東南アジアから飛んでくるなど、想像もできない。
日本は島国だから、どうしても海の上を飛ばないと着けない。
わざわざ、日本を選んで来るツバメは、苦労人ならぬ苦労ツバメだ。
贔屓にしてもらって、ありがたい…という気になる。

日本で雛を育て、4ヶ月ほどしたら、また2000kmを飛んでいかなければならない。
因果な商売…とは思っていないだろうが、それが彼らが選んだ人生(鳥生)だ。
近い仲間のスズメたちは、ずっと同じところで生活するのに、わざわざシンドイ生き方を選んだ彼らは何となく孤高な感じがする。(勝手に人間のぼくが思っているだけの話だが…)

残暑が厳しい頃まで、雛を育てて、無事に帰ってほしいと思う。



| | 考えたこと | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
戸籍
父の実家が広島だったので、結婚までは戸籍は広島県だった。
世羅郡世羅西町というところで、当時広島市から汽車で数時間がかりで三次市に入り、そこからまだ奥に行ったところだったと思う。
祖母は戸籍の場所ではなく、三次市に住んでいたので、三次市の祖母の家には何度か行ったことがある。
戸籍の住所には一度だけ行った。
以前、父の祖父が住んでいて、その本家筋の人が住んでいたのを訪ねた。
両親と弟夫婦と5人でレンタカーを借りて行った。峠を越えて、途中道ががわからなくなってウロウロしたが、さすがに小さい頃の土地勘が戻って、父の指示で着くことができた。父も何十年ぶりかで行ったはずだが、大したものだと思った。
田畑と家しかなく、昼には有線放送で体操の音楽が流れ、役場のお知らせみたいな内容の話が聞こえて、びっくりした。
畑の野菜をもらって帰ったが、大根がすごくおいしかったことを覚えている。
取れたての野菜はおいしかった。
あれはまだ父が元気だったころだから、十数年前になるだろうか…。

そんなわけで、広島はぼくにとって近い場所だ。

以前、仕事で三次(みよし)に行くことが何度かあったが、不思議な縁を感じたものだ。

祖父は戦死し、祖母は終戦前に三次に帰ってきていて、原爆が落ちた後の広島に入ったと言っていた。
原爆の話は何度か祖母から聞いた。
広島市には仕事で何度も行ったことがあるが、原爆記念館には行っていない。
祖母の話を聞いて、何となく足が遠のいたまま、今まできた。

接待で広島の料亭で食べた牡蠣にあたったこともある。
あの時は、一週間大変だった。牡蠣は、食べてから24時間経ってから症状が出るということもその時知った。
あとで、広島の人は、あたったと思ったら、すぐに牛乳をたくさん飲んで吐くという対処療法をすると聞いた。
胃の洗浄になるのだ…ということだったが、実際に早く治るとのこと。

もう仕事の関係で広島に行くこともなくなったのは残念だ。

最近はあまり見ないが、高校野球も、兵庫県代表と並んで広島県代表を応援してしまう。
タイガースもいいが、広島カープもいい。

母は根っからの神戸っ子で、父と結婚して戸籍が広島になり、戸籍の書類が必要になるたびに町役場に電話して封書で切手を送り、届くのを待つ、という不便をしたので、ぼくには戸籍を神戸にすることを勧めたのだと思う。
もちろん、ぼくも神戸で生まれて育ったので、戸籍を神戸にすることにはなんの異存もなかった。

でも、それまで、何かの書類に戸籍の欄があるたびに、広島県世羅郡世羅西町…と書いていたことが、ぼくと広島を近づけた一つの原因だったような気がする。
もちろん、広島に祖母がいて、毎年冬になると神戸に来て正月を過ごしていたという事もあったのだが…。

盆や正月になると、帰省の話題が職場などで出る。
「いなかに帰るんですわ…」というような、はずんだ声の会話があったりする。
その時に、ぼくは神戸が実家やから…という話をするのだが、その時に、父の実家は広島やけど…とつけ加えて話したものだった。
どこか、こころの隅っこで、広島に自分のいなかがある、という思いがあったのかもしれない。
祖母と父が亡くなって、そんな思いが薄れてきたのかもしれない。

それでも、「広島県世羅郡世羅西町」という住所は一生頭の中にあるだろう。

そう思うと、たかが戸籍だが、されど戸籍だと思う。
母が亡くなり、ぼくが亡くなり、弟が亡くなれば、ぼくの家系と広島は縁が切れてしまう。
若いころは戸籍などどうでもいいと思っていたが、この歳になるとそんなことを考える。

いつか、もう一度、そこに行きたいと思う。



| | 考えたこと | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
恋のからたち垣の巻
恋のからたち垣の巻 田辺聖子 集英社文庫

題名には異本源氏物語という副題がついている。
田辺聖子の源氏物語を土台にした小説。

笑える、という意味での「おもしろい」本。

主人公は伴男(ともお)という、光源氏の家来。
舞台は京都で、大将(光源氏)のセリフがやたらおもしろい。
本物の源氏物語では、一部の隙もない二枚目であるが、この物語ではワガママで少し天然ボケが入ったオジサンになっている。

紫式部も出てきて、これは、人気作家の役…そのままである。

高校の古典の教科書で、源氏物語も枕草子も習ったが、どちらもそれから10年以上たって、田辺聖子で読んだ。
源氏物語は他の人も現代語訳しているが、読み比べてみたらおもしろいだろう…とは思うものの、なかなか実行にうつせない。
田辺聖子訳がすごくおもしろかったからだ。(これは興味深いという方のおもしろい)

この本は、平安時代の京都を舞台に、光源氏のお供の伴男が主人のワガママに振り回されて困る…というもので、源氏物語に出てきた女性たちは出てこない。
このシリーズ、もう2冊あるようで(あとがきを見るまで知らなかった)、そちらの方は源氏物語のパロディの部分もあるようだ。

いつもの事ながら、楽しんで読める。

浮き世の憂さを忘れて、本の世界に入りたいというような時には、田辺聖子にかぎる。

言葉がスッと頭に入ってくるのは、文章が上手だからだと思う。

短編7つ、あっという間に時間は過ぎます。


| | | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
事件の後はカプチーノ
事件の後はカプチーノ クレオ・コイル ランダムハウス講談社

ニューヨークのコーヒーハウスを舞台にしたミステリの2作目。
今回もコーヒーに関するうんちくが読める。

でも、1作目よりはミステリっぽくなっている。

今回は主人公のクレアが、娘がお見合いパーティに出るのを心配して自分もそこに参加し、恋に落ちてしまう…という筋立て。

クレアの恋は何とも言えない結末を迎えるのだが…。

相変わらずコーヒーづくしの本である。

コーヒーのリキュールや肉料理にコーヒーを使うものなど、色々と出てくる。

ビレッジブレンドという、クレアのコーヒーショップに行ってみたいと思わされる本だ。

今回もエスプレッソについて、こんな書き方をしている。
作者はよほどのエスプレッソファンなんだろう。

「抽出のプロセスが始まるとエスプレッソの粘度をチェックし、たらりたらりと出ているかどうかを確かめる(そうです、エスプレッソは温かいハチミツのようにたらりたらりとにじみ出てこなくてはだめ。勢いよく流れ出てきたら、マシンの温度と圧力に問題があるということ。これではエスプレッソとはいえない。ふつうにいれた、ただのコーヒー)。
 ビレッジブレンドのエスプレッソマシンは半手動式だ。つまり、バリスタ(いまのわたしのこと)が手動で湯の流れを止めなくてはならない。止める時間は八秒間から二十四秒間のあいだ。それ以上長く止めていれば抽出しすぎてしまう(豆に含まれる糖類がそこなわれて苦くて焦げた味になる)。それよりも短いと抽出が足りなくなる(薄くて風味のない、ぱっとしない味になる)最高のエスプレッソをいれるためには、たくさんのことに気を配り、微妙なさじ加減で調整しなくてはならない−もちろん、タイミングもそのひとつ。そう、人生と同じ。」

どうです?
ビレッジブレンドのエスプレッソを飲んでみたい…と思うでしょう??

3作目が楽しみである。



| | | 22:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
マネー・ハッキング
マネー・ハッキング 幸田真音 講談社文庫

だいぶ前に、デリバティブの事が書いてあるとのことで、買った本。
連休前に読んだ。

この幸田真音という人は、もともと外資系の銀行でディーラーをやっていただけあって、銀行内部の様子やディーリングの場面はすごく臨場感がある。

主人公は女性のベテラン銀行員。業務一筋で、プロのキャリア・ウーマン。
そこに、若い天才ハッカーと中年の債権ディーラーが絡んで、一つの賭けをやるというおはなし。

3人の生まれも育ちも全く違う人間が、一つの犯罪をやるために力を合わせ、だんだんと強い絆で結ばれていく。

そして最後には、3人とも自分の夢を追って、別れていく…。

犯罪を犯しながらも、銀行内部の不正を暴き、どんでん返しが心地よいストーリー。

1996年に書かれた作品であり、インターネットの記述については少し古さを感じるが、銀行内部のディーリングの様子や伝票処理、オプション取引の様子など、迫力がある。

お金が、お金を生む…虚業である銀行の中がよくわかる作品。

この人の金融小説は面白いですよ。


| | | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホントだろうか?
こないだ、内田樹(うちだたつる)という人の「寝ながら学べる構造主義」という新書を買ってきた。

まだ、読みはじめたところなのだが、ビックリするようなことが書いてある。

まえがきで驚いたのだ…。


「なぜ私たちはあることを「知らない」のでしょう?なぜ今日までそれを「知らずに」きたのでしょう。単に面倒くさかっただけなのでしょうか?
 それは違います。私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。
 「知りたくない」からです。
 より厳密に言えば「自分があることを「知りたくない」と思っていることを知りたくない」からです。
 無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の結果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。」

ホントだろうか?

これはすごいことだ…と思う。

知らずにいたいという「努力」の結果?が知らないということ…リクツの上では合っているが、生まれて初めて聞いた言葉だ。

ここで言われている無知というのは、未開の地の住民が、自然科学を知らないというようなことではないだろう。

まさに、今の日本のように情報があふれている状況で、何かを「知らない」ということを言っているのだと思う。

それにしても、いきなり裏側から世界を見ているような気にさせる言葉である。

こういう事を言える人は、本当にすごいと思う。

しかし、中味を読まないと…。


| | 考えたこと | 23:49 | comments(2) | trackbacks(0) |
がんばれベアーズ
懐かしい映画を見た。
野球をテーマにしたアメリカの映画はイイものが多い。

ダメな野球選手くずれが、ダメチームの監督になるという、よくあるパターン…。

最初は弱いチームが、いい選手を迎え入れ、だんだんとまとまり、強くなっていく。

決勝戦まで行き、オトナの監督には勝利への執着が出てきて、選手たちとの行き違いが起こるが、選手たちの気持ちに気づいた監督が、最後に控えの選手たちをグラウンドに送る。

同点の最終回の守りである。

ずっとベンチを温めてきた選手が言う。
「このゲームに勝ちたいから、ぼくを出さないで。」

「おまえはベンチをあたためるために生まれてきたのか?行って全力でプレーしてこい。」

その選手がホームラン性の当たりをキャッチするのだ。

ベアーズは結局は決勝戦に負けてしまう。

でも、優勝チームのメンバーにずっといじめられていた選手が、相手に向かって準優勝のトロフィーを投げつけて言う。
「来年は見てろよ」

映画である。

折りしも日本の現実では、野球留学、奨学金の記事が出ている。

アメリカでも、実際には野球はビジネスであり、大金が動いているのだろう。

でも、映画は夢だ。

一度見てから、もう30年になるか…。

でも、こういう映画を見ると、あたたかい気持ちになれる。

結果よりも大事なものを教えてくれるおはなしだ。



| | 映画・舞台 | 19:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
平成の死語
今日子供と話をしていたら、「学生運動」という言葉が通じない。

60年代から70年代にかけて、大学生を中心に反体制的な運動をしたことと言っても、ピンと来ないようだ。
当然と言えば、当然だが…。

ついでに、当時の流行語(と言っては語弊があるが…)についても聞いてみた。

「ブルジョアジー」は、世界史で習ったとのこと。資本家のことだ。
でも、「プチブル」は知らない。

もちろん、「プロレタリアート」は知らない。
もう死語なのだ。
いつか労働組合でもやったら、知ることになるかもしれないが、よく考えたら会社の労働組合でも、ずっと前からそんな言葉は使っていなかったなあ。

「マルクス」は経済に関係した人だろうと言っていた。
たしかに、経済の人だが、この言葉に経済以外の特別な意味はもはや無いのだ。

ベルリンの壁が崩れてしまった影響はとんでもなく大きいのかもしれない。

あの壁が残っていたら、ひょっとしたらこれらの言葉は死語になっていなかったのかもしれないと思う。

あのころ、世の中には資本家対労働者という階級闘争があった(ということになっていた)。

アメリカといえば、米帝(アメリカ帝国主義のこと)という言葉が思い出される。
走狗(権力者の手先となる者たち…権力者のイヌ?)という言葉もよく聞いた。

そんな言葉も平成生まれの人たち(昭和生まれの一部もかな)には死語になってしまった。

あと10年くらいしたら、「学生運動」という言葉は、授業と授業のあいだに行う体操のことか?というような世代も出てくるのかもしれない。

それはそれで構わないが、もっと忘れてはならないことまで忘れてしまいはしないだろうか…。

歴史が大事だということは歴史の時間には習わなかった。
歴史がなぜ大事なのかということを教えることこそ、歴史の授業の一番大事なことだと思うのだが、なぜ教科書に書いてなかったのだろうか?
そんなことは、習った後でないとわからないということなのだろうか…。

人がやることには、そんなに変わりはない。
人類は何度も同じようなことを繰り返してきたのだ。
だからこそ、過去に習わないといけない。

それでも、同じようなマチガイを繰り返すのだから、教科書を作った人たちは、それを教えても仕方がないと思っているのだろうか…。

話がそれてしまった。


| | 考えたこと | 22:53 | comments(2) | trackbacks(0) |
店じまい
行きつけの文房具屋さんが店じまいすることになった。

本屋のとなりにあって、すごく重宝していたのに、残念だ。

30年近くやっておられたと思う。

ここ数年、店の品揃えを変えて色々と工夫しておられたが、ついに力尽きたということなのか。

数年前に携帯電話を扱いはじめたが、中途半端だったんだろう。
その後、店舗のスペースを削って、額縁などの装具を置いたりしていたが、難しかったんだろうと思う。

ひとつのビルの中に4軒の文房具屋さんがあったのに、ひとつ潰れ、ふたつ潰れして、残り3軒になっていたのが、ついに2軒になってしまう。
定期入れの中に入れて便利に使えるカードケースもそこで見つけたし、A4サイズのルーズリーフノートも、0.4mmのシャープペンシルも、30穴のパンチも、水性ボールペンも、ペンシル型消しゴムも、シャチハタのスペアインクも、色を選べる2色ボールペンも、そこで見つけて使いはじめた。

少し前から、お店の人も減って、どうなるのかな…という感じだったのだが、今日「完全店じまい」という貼り紙を見て、なんとも言えない気分になった。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかとまたかくのごとし。」
方丈記の昔から、同じことの繰り返しなのだろう。

さすがに、全品3割引なので、売れ筋のものはなくなっていた。
本当に店を閉めるということだ。

レジの横に、昔お店で顔を見たことがあるオジサンがいた。
店じまいするから、もう一度見に来たのかな…などと思う。

結局、ラインマーカーとボールペン、はやりの安い万年筆を最後の買い物にした。

「ありがとうございました」という声を聞いて、店を出て、もう一度ふり返ると、また「完全店じまい」という貼り紙が見えた。

ありがとうございました…はこっちの言うことかなと思いながら、店を後にした。

本当に残念だ。

| | 考えたこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |