考えたこと2

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プロ野球開幕
プロ野球が開幕した。

昨日の開幕戦は、阪神は横浜に引き分け。
試合は見ていないが、ネットの速報ページで7回の関本の逆転3ランをやっていた。
今日は勝った。
これで一勝一敗。

一応、阪神ファンだが、野球はあまり見ない。
最近はネットで確認して、一喜一憂している。

でも、阪神ファンは熱狂的で有名だ。

毎年、オフシーズンが終わる春先、勝ち数の胸算用をする人がいた。

ピッチャーが何勝するかで足し算していく。
そうすると、軽く70勝はいってしまう。
下手をすると、80勝から90勝してしまう。
未だかつて、そんなに勝ったチームはないというくらいの勝ち数。
これをひいきの引き倒しというのだろう。
しかし、これが楽しいのだ。

昨日の開幕に先立って、一昨日だったか、アスレチックスとマリナーズの試合があった。
イチローが3番で活躍していた。
メジャーリーグも日本をいいお客さんだとわかったのだろう。
テレビゲームでメジャーの選手が出てくる野球の試合もできるようになったらしい。

メジャーの試合を見ると、日本のプロ野球は見劣りする。
特に内外野の守備はすごい。
打つ方もすごいと思うが、やっぱり守備でみせると思う。

だが、日本の野球を楽しむファンは、ホームランやファインプレーだけを見に来ているのではない。
もちろん、それも大事なのだが、もっと大事なのは野球談義だ。
やる方も心得ていて、間をとってゆっくりやる。
「ここはヒット&ランや」「いや、盗塁や」などと話す。
「ここでピッチャー変えなあかんで」
「ここは代打や」
「監督ボケとんちゃうか」
などと言い合う。
これが楽しみなのだ。

野球というスポーツは他の球技と大いに違う点がある、と昔の部下に聞いたことがある。
それは、守っているときは絶対に点が取れないということ。
なるほど、それはそうだ。
確かに、守りと攻めが分かれていても、どちらも点が取れるという球技しか思いつかない。

だから、安心して談義ができるのかもしれない。


| | 考えたこと | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
身体が大きいと損
身長が185センチを越えるような人は、何かと高くつく。

若い人では、だいぶ多くなったとはいえ、まだまだ185センチは背が高い。
アメリカ人なら背が高い方で済むだろうが、日本ではまだまだ標準の外である。

次男のスーツを買いに行ったが、選ぶことができない。
身体のサイズからして、これしかありません、という具合。
靴はサイズがあったが、次男の友達は30センチとか、29センチという人もいるらしい。
こうなると、専門店に行かないといけない。

そういえば、大きなサイズ専門店というのがある。
さすがに、足のサイズが30センチというような人は、そういう店に行かないとなかなか買えないらしい。

しかし、これからの世代、背の高い人が増えてくるから、大きなサイズは需要が増えてくるだろう。
アメリカから製品が入ってくる可能性もある。
アメリカサイズのMサイズは日本のLサイズになる。
また、手が長いので、袖がやたら長い。
それでも、アメリカのLLサイズを持ってくればいいのだから、楽だ。

また、普通の日本の住宅や電車など、頭がつっかえるところも多い。
見ていると気の毒だ。

飛行機のエコノミー席など、しんどいだろう。
アメリカの飛行機に乗ったことがあるが、日本と同じサイズだったと思う。
アメリカ人で大きな人はどうしているのだろうか。
あれはエコノミー症候群になるぞ。

やはり身長が大きいと損だ。

身体の表面積も大きいから、雨にも濡れやすい。
お金をみつけても、かがむのに時間がかかる。

でも、満員電車では頭ひとつ出るので、楽か。

とにかく、大きなサイズをもう少し増やしてほしい。


| | 考えたこと | 00:56 | comments(2) | trackbacks(0) |
ダベリの価値
仲の良い友だちがよって、くだらない話をすることを「ダベる」という。

漢字では「駄弁る」と書くから、文字通り、無駄な話をする、というような意味だろう。
しかし、これほど楽しいものはない。
この楽しみは、たいがいのものを吹き飛ばすくらい面白い。

それを可能にするのが、スマートフォンとネットワークのソフトウェア。
子供がスマートフォンに機種変更して、友だちとチャットを共有するというようなアプリを入れていた。
時間軸にそって、発言が吹き出しになかに入って出てくる。
ちょうどマンガの中で発言しているようなものだ。
5人くらいまでいけるらしい。

こういうのを若い人は使っているのか…とわかった。

今はやりのSNSとかいうのも、結構閉じた世界で使っているのかもしれない。
仲間うちのやりとりだ。

深夜遅く、友だちがそろって文字でダベる。

こんなことをやり出すと、テレビなど駆逐されるだろう。

放送局は危機感を抱いたほうがいい。

今はまだ若者だけだが、そのうち年寄りもやり始める。
どんどんテクノロジーが進むと、年齢層が広がるのは世の常だ。

そうなると、受け身の楽しみはなかなか勝てない。
参加型の楽しみに勝るものはない。

そうなってくると、年をとってもハッピーだ。
仲間さえいれば、そして頭さえはっきりしていれば、楽しむことができる。

そういう老後が過ごせるとすると、今よりはだいぶマシかもしれない。


| | 考えたこと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギブソン ファイアーバードX
知らなかったが、去年ギブソンのファイアーバードXというギターが出ていた。

ファイアーバードというギターは昔からあるものだが、Xは全く新しいギターになった。
ピックアップが3つ(コイルは6つ)と、ピエゾピックアップがひとつあって、それらを組み合わせて音を出す。
エフェクターを内蔵していて、なんとチューニングは自動でできる、Roboチューニングというシステムがついている。
これが早い。
ジャラーンと弾くと、それでチューニングが終わる。

当然、本体に電池が必要で、2時間程度持つらしい。

付属のペダルはケーブルをつながなくても、ブルートゥースという無線でつながる。
ギターに内蔵されているエフェクターや、いろんなスイッチに当てられている設定もパソコンで変えることができる。
ネックはメイプルで、フェンダーみたいな外観。

すごいギターだ。

が、全く新しい音が出たり、今まで不可能だったことができるわけではない。

ギターの根本はそんなに変わらない。
それにひっついているエフェクター、ペダル、コンピューターインターフェース、アンプシュミレーターなどの部分は良くできているが、ギターはギターだ。

チューニングの機構は素晴らしいと思う。
一瞬でチューニングできる。
でも、これはたぶんどのギターでも取り付けができるようになるだろう。

シンセサイザーが出てきた時、いろんな音を作って出していたが、結局残ったのはストリングスとか、ブラスとか、実際にある音がほとんどだった。
今のシンセは、音を合成するというより、実際の音を取り込んで再生するというようなものが多くなった。

なかなか全く新しい音、というのは難しい。
20世紀になってからできた楽器というのは、スチールパンくらいだ。

ギターと呼ばれるものを作るのだから、しょせんはギター。

ギブソンファイアーバードXというギター、すごいと思うが、欲しいとは思わない。

もう2つくらいひねってほしいなあ。


| | 考えたこと | 20:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
情けない
民主党はどうなっているのか。

消費税を上げるのか、上げないのか。
景気が悪かったら上げないのか。
それを数値で書いたら、実質上上げられないというが、その数値はどうなっているのか。
北朝鮮のミサイルの発射を阻止するために、韓国、中国、ロシア、アメリカの首脳が話し合っているのに、それには蚊帳の外だ。
また、それをマスコミが何の批判もしない。
日本の新聞は政府の広報かと思う。
記者クラブで資料をもらうために、政府に都合の悪いことは書かないのか。

これでは、世界でバカにされるのも当たり前だ。
存在感が全くない。

だいたい、話し合いを7日間もやって、それで結論が出るのか。
みんなが言いたいことを言って、それでまとまるのか。
何の制約もなく話しあっても、答えが出るわけがない。
ある条件をつけて、その枠が妥当かどうか、ということで話し合い、それで結論を出さないと時間のムダだ。
景気の動向について、条件をつけるかどうかというのは、要は不景気でも増税するのかとどうかということだろう。
それについて、意見を出せばいい。
意見といっても、賛成・反対だけではなく、なぜ必要かということを言わないといけない。
お互いに説得しようという気がないのだろう。
それこそが政治家の仕事だと思うのだが。

本当に情けない。

これなら、大阪維新の会が票を集めても仕方ないと思う。

橋下ガンバレ。



| | 考えたこと | 19:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
思いつき
仕事をしていて、いい考えを思いつくというのには条件があると思う。

それは、ゆるい仕事仲間で、仕事に関したゆるい話をしている、ゆるい時間を持つということだ。
何度か書いたが、昔は土曜日の午後や、喫煙所での話や、残業をしている時がそういう時間だった。

ぼくは禁煙したが、喫煙者には喫煙所に行って、仕事に関したくだらない話をする、というメリットがあると思っている。
いくつかの仕事上のアイデアは、喫煙所の会話から生まれた。

企業は喫煙所に代わる、仕事中にリラックスできるスペースを作っているが、今ひとつ喫煙所のゆるさにはかなわないのではないか。
喫煙所の良さは、同じような顔ぶれが集まり、タバコを吸うという目的を持って、ゆるい時間を過ごすという暗黙の決め事にあった。

リフレッシュのためのスペースは、リフレッシュという目的が曖昧だ。
自販機が置いてあったりするが、コーヒーやソフトドリンクを飲むということなら、席でも出来るようになっていたりする。
だから、リフレッシュの目的が曖昧になる。

喫煙スペースにはタバコを吸うという目的があった。
それがよかったのだ。
だから、ゆるい時間が持てた。

どうやってゆるい仕事の話をするか。
これは簡単なようで難しい問題だ。
それを目的としているのではなく、ついででしている話が時に思いつきにつながる。

だからといって、ゆるい会話をすることを目的にしてもダメだろう。
主目的は他にないといけない。

タバコは受動喫煙などの問題があり、事務所を禁煙をするのは時代の流れだろう。

みんながタバコを毛嫌いし、敵のように言っているが、タバコにはそういうメリットがあったのだ。

それに代わるものを見つけないと、困ったことになるぞ。




| | 考えたこと | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
定年後の人生
ぼちぼち学生時代の同級生が定年を数年で迎える時期。

当然、大学の同級生になるが…。
早いやつは、あと3年という。

昨今、企業も調子が悪いから、何年か再雇用ということがないところもある。

会社に入ったときは、定年のことなど念頭になかった。
漠然と、定年したら後は何もしなくていいから、楽だろうくらいなことだったと思う。
何人も定年する人を見送ってきたが、だんだんと時分の番が近づくにつれて、迫ってきたなあとは思ったのだが…。
まだまだ自分の番という感じはなかった。

幸い(というか、不幸にもというか…)、ぼくは48歳で勤め先を変わったので、定年が65歳になっている(今のところは)。

しかし、あと3年で、再雇用が見込めないとなると、どうしようかな、ということになる。
年金の支給はまだだし、一体会社を離れて何ができるのか、ということだ。
まだ、定年後の就職の斡旋でもしてくれたら、ちょっとはマシだが、それもないとなると難しい。
実際、55歳を過ぎたら、定年後の年収がどれくらいで、どういう状況になるかという研修を受けるという会社も多い。
ライフプラン研修会とかいうものだ。

サラリーマンは組織の中で生きる。
そうだからこそ、集団でいい仕事ができる。
余人をもって変えがたいとまではいかないが、それなりに自分の存在価値を示してきたと思える人も多いだろう。
辞めるときの役職にかかわらず、組織のみんなはそれまでの労をねぎらってくれる。
それが組織というものだ。
長いこと勤めた人が定年を迎えるというのは、感動的である。
たいがい、送別会では長めの挨拶がある。
そこで、その人が入社してからの人生がわかる。
若いころは、初めて聞くようなことも多かった。
年齢を重ねると、一緒に仕事したこともあったり、関係する部署で知っていたりして、それなりに自らの歴史と重なってくる。

皮肉なことだが、会社で活躍した人ほど、定年後の仕事は見つけにくいと思う。
なぜかというと、その会社ならではの特殊な知識や業務を知っているということは、そういうものが必要な仕事をしたということで、おそらく活躍したのだろう。
しかし、そんな知識や業務は、一般的ではない。
一般的に、どこの会社でも必要な仕事というと、経理とか、人事とか総務(法律関係)とか、そういうものだ。

もちろん、特殊な知識や能力を持っていると、再雇用されやすいが、今はそういう知識すら要らなくなってきている。
時代の変化は急なのだ。

となると、60歳定年後の生活は難しい。
特にこの年代の男性は、地域での縁が薄く、家にいてやることがない。
身体を使って何かするというのも、なかなかできない(というか、そういう口もない)。

この状態で何をするか。
ぼくは公的なセクションの仕事がいいと思う。
公務員や教育の世界は、会社員の世界から何周か遅れている。
そこに入っていって、ちょっとでも力になれればいいと思う。

そんな制度改革はできないか。
できないだろうなあ。
既得権にすがっている人ばかりだからなあ。



| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
電気製品
今の学校はいろいろ変わった。

電気の授業では回路図とかオームの法則は教えるが、交流をACと呼ぶというのは習っていないと言う。
だから、ACアダプタは交流を直流に変えるものだとわからない。
言えばわかるのだが…。

使っている電気製品、特にデジタルのものがほとんど直流(DC)で動いている、ということも当然わからない。

別にわからなくても生活はできる。

しかし、ACとDCが何を意味しているかわからないというのは、困ったものだ。
デジタルの時代にはそんなものは知らなくてもいい、ということだろうか。

どれくらいの人が、直流と交流を意識しているのだろうか。
ぼくはそれを意識している人の数は、確実に減っていると思う。
電気製品がブラックボックスになったからだ。
今のデジタル機器など、修理はメーカーに送らないとできない。

昔のテレビは「接触が悪い」とよく映らなくなった。
そのときは、チャンネルをガチャガチャ回して、映るところを探す。
ちゃんと映る場所を探して、絶妙のところで止める。
小学生でも、それをやっていた。
ひどいときは番組見たさに、じっとチャンネルを押さえているということもやった。

文字通り、接触型のチャンネルだったから、そういうこともできた。(だから、壊れたともいえるが)
そういうことを通じて、金属と金属が接触して、チャンネルが何かの働きをするということを覚えたと思う。

昔のテレビは、メーカーの仕様書を見ながら、電気屋さんがテスターとハンダごてで修理をしたものだ。
そういうことができるような製品だった。
家にテレビ屋さんが修理に来て、テレビの裏を見ているときに、一緒に覗いたことがある人は多いだろう。
怪しげに光る真空管が並んでいるのを見た人も、けっこういるのではないか。

その真空管もトランジスタに変わり、集積回路に変わった。
ブラウン管も液晶パネルに変わった。
それに伴って、地デジ化が進み、わけがわからなくなった。

一体何が言いたかったのだろう。

そうそう、ACとDCの話だった。

そういうことを知らないまま生きていくことができる現代。
世の中にブラックボックスが氾濫している。

便利になったのだが、古い人間にとっては何かひっかかる。


| | 考えたこと | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロボット
西洋人と日本人ではロボットに対する考え方が違うらしい。

ぼくらは、ロボットというと人間型を思い浮かべる。
元型はアトムだ。
西洋人は、人間型が気持ち悪いという心理があるという。
キリスト教の影響だ。

お掃除ロボットのルンバという製品があるが、あれがアメリカのロボットの見本。
アメリカの製品だ。くまなく部屋を掃除するという機能に特化している。
円盤型のロボットで、自走して部屋を掃除して回る。

テレビに出てくる爆弾処理のロボットもアメリカのものだ。
ビデオカメラの目を持って、遠隔操作のマジックハンドで爆弾処理をする。
もともと二足歩行の必要もないし、キャタピラで動く。
人間の目と手の代わりができればいいのだ。

ネット上の情報収集のためのロボットなど、ロボットではないと思ってしまう。
あれはコードされたプログラムだ。

日本では、二足歩行のロボットこそ、ロボットだ。。
もちろん、工場のラインで溶接したり、部品をつかんだりするのもロボットだが、ぼくらはロボットというのは自力で動きまわるものを想像してしまう。
ロボットはホンダのASIMOのように、自分で歩くものだ。

若い人たちは、アトムの影響を受けていないので、ロボット=二足歩行という先入観はないだろう。
だから、彼らが大きくなったら、人間型のロボットの研究も下火になるかもしれない。

アトム世代のぼくらは、ロボットは人間の友だちで、人工知能を持っていて、人間ができることは何でもできるものだと思っている。
そういう理想があるから、どうも掃除だけとか、爆弾処理だけとかいうのはピンとこない。
それほど、アトムの存在は大きかったと思う。

しかし、人間の仕事は生活を手助けする、という意味では人間型のロボットには必然性がある。
階段の登り下りとか、何かを持って運ぶとか、人間がやる色々な動作を考えるといい。

遠大な科学技術の計画だ。

これは、アトムを生み出した国がやるしかないと思う。



| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
面白いこと
最近、面白いことがない。

これではいけない。
人間、面白いことがなくなったら、もう終わりだ。

面白いことを持ち続けなければいけない。
「いけない」、という時点で、もう危ない。
こんなことを書くこと自体、おかしいのだ。

ぼくはもともと、そう面白い人間ではない。
面白みに欠ける人間だと思う。
しかし、それだからこそ、面白いことが好きだし、そういうものに価値を置いている。
しょうもないことでも、面白ければいいのだ。(もちろん限度はあるが、かなり寛容だと思っている。)

面白いことはそれ自体で意味がある。
何か真剣にやっていて、面白いことを思いついたら、それは言うべきだ。
もちろん、人によっては怒ったり、不機嫌になったりする。
そうならない範囲が同じようなメンバーで、仕事をするのがあらまほしい。
これが大きく違うと、うっとうしいことになる。

面白いことというのは、人間の特権だ。
人間だけが、面白いことを感じることができて、笑うことができる。
動物にはその能力はない。
その代わり、人間は本能が壊れているのだが…。

そして、人と人とのつながりの中で、面白いことはおきる。
自然のなかに面白いことはない。

だから、面白いことがないということは、人と人とのつながりが薄れているということかもしれない。

とにかく、面白いことがないのはよくない。

これは大事な事だ。

| | 考えたこと | 21:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
彼岸
昨日は彼岸の中日で、母と墓参りに行った。

Wikipediaによると、「彼岸とは、煩悩を脱した悟りの境地のことで、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」という。」とある。

要は、「この世」に対する「あの世」の事を言うのだろう。

春分、秋分の日の前後3日間を彼岸といい、この期間に仏事を行う、ということになっている。

ただ、これは本来の仏教にはなく、日本独自のものであるという。

源氏物語に「彼岸」という言葉が出てきて、先祖の霊を供養するという風習が平安時代からあったらしい。

昨日は彼岸の中日で天気もよく、お墓はたくさんの人が家族連れで墓参りに来ていた。

日本人は信心深いと改めて感心した。

しかし、墓参りはするが、家にお坊さんに来てもらって法要をするというような家は、どんどん減っているだろう。

特に都市部ではそうだ。

これからは、葬儀の形もどうなっていくのか、興味深い。

春と秋に墓参りをするという習慣はいつまで続くのだろうか。

盆も合わせると、年に3回。

昨日見たら、どのお墓もわりときれいになっていたから、今はちゃんとやっているのだろう。

これから団塊の世代の人たちがメインになってくるが、ちゃんとやるのだろうか。

それにしても、彼岸に先祖を供養する、という発想はどこから来たのか。

「家」の概念があるから、先祖の供養になるのだろう。

阿弥陀仏や観音様には、「家」の概念はないと思う。一神教のような感じだ。

柳田国男によると、神道には死者が生者の近くにいて、盆や正月に戻ってくるもの、という死生観があるらしい。

やはり、日本人が古来の死生観を捨てきれないのを、仏教が拾って仏事にしたのか。

そういえば、散骨をするというのも、海や山に骨をまいて自然に帰る、というような感覚があるなあ。

仏教が伝来して、死後は極楽か地獄に行くということになったが、それよりも子孫のそばで見守るという感じがいいような気もする。

ぼちぼちこの年になると、死について関心が深くなってくる。


| | 考えたこと | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
偶数を2nで表す
こないだ日本数学会が行った、数学のリテラシー調査で偶数と奇数の問題が出た。

それは「偶数を2n、奇数を2n+1(nは任意の整数)」と表せばすぐに解けるという問題。

これがあまり出来ていないことに対して、それは偶数を2nとおく、という事を覚えていたらすぐにできる、という反論がある。
つまり、暗記物だということだ。
知っているか、知らないかという知識の問題で、数学的なリテラシーは関係ないということになる。

しかし、ぼくは違うと思う。

偶数を2nと置く、ということを知っているということは、任意の整数という概念があって、それをnで表すという抽象化ができるということだ。
これは本質的な問題だ。
それこそが、数学的なリテラシーだと思う。

2,4,6,8,…,10000,…,100000000000,…というように無限に続く数という概念を頭の中で使えるということだ。
単に偶数は2の倍数ということを知っていることではない。
そのリテラシーを調査するために、この問題を選んだのだと思う。

一見簡単なことだが、それを証明するためには一般化しないといけない。
その一般化には、ものごとを本質的に見る目が必要だ。

別に偶数を2nとおく、ということを知らなくてもいい。
でも、ものごとの本質を見極めるときに、一般化や抽象化をするということが大事なのだ。
その訓練をすることが、数学をやる意義だと思う。

数、というのはどこにもない。
1つのリンゴと言っても、リンゴはあるが1はない。
頭の中にしかないのだ。
数学の全てが頭の中にしかないことで作られている。

分数がわかりにくいのは、1で全体を表すということがわからないからだろうと思う。
1/4という時に、この1は全体を表している。
普通の1,2,3,4…の1とは違うのだ。
「5/4」は、「1と1/4」という時の1の意味は違う。
最初の1は「1,2,3,4の1」であり、「1/4の1」は全体の1だ。
1で全体を表すという抽象化をやっている。
これがわからないと、分数はわからない。

やっているうちに、後でわかるのだ。
何度も同じドリルをやって、身体で覚える。
凡人はそういう過程を経て、ようやくわかるのだと思う。

そのステップを今は飛ばしている。

残念だ。
| | 考えたこと | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
レーザー
最近テレビを見ていると、レーザー利用の機器がよく出てくる。

中でも、不思議に思うのは、最近出た増毛器。
なぜ不思議かというと、ちょっと前からレーザー利用の脱毛器が売られているからだ。

しつこいくらいに、脱毛の効果を利用者が言う。
もちろん、頭の毛ではないのだが、レーザーの光を使って、毛根をどうにかするらしい。
エステに行けば1回何万円もかかるから、このレーザー脱毛器の値段は安い、というもの。
値段は7万円くらいする。
まあ、実際に利用した人のアンケートなども取っており、効果はあるらしい。

一方レーザー増毛器も定価6万円くらいする。
特定の波長のレーザーを使って刺激して、頭髪を元気にするというような効果。
こちらの方はまだ効果はそれほど訴えられない。
しかし、えらいものだ。同じレーザー光線で、かたや脱毛、かたや増毛ができるという。

もちろん、波長や強さなどが違い、効果も違っているのだろう。

しかし、いくら波長が違うとはいえ、全く反対の効果がある、というのもオカシイ。

何となく脱毛器の方は本当らしいのだが…。

小学校の頃のイメージでは、レーザーといえば兵器だ。
SFのマンガでは、もっぱらレーザー光線銃で使われていた。

こんなにいろいろな用途があるとは思わなかった。

そういえばレーザーメスなどの手術用のものもあるし、歯医者にもある。
加工用の強力なものもあるし、赤や緑のレーザーポインタはおなじみだ。
CDやDVDの読み取りにもレーザーが使われている。
コンサートなどでも、多くのレーザービームが演出で使われる。

すごい光だ。

詳しいことはわからないが、レーザー増毛器が効果があるなら、すばらしい。

昔の光線銃が、増毛器になるとは、思いもよらなかったが…。



| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
国境は人間が決めたもの
国境というのは、人間が決めたものであり、空気や水は自然の中で自由に動くものだ。

だから、大気汚染は恐ろしい。
自国だけにとどまらない。

これから、中国、インドが発展していく。
それ自体は悪いことではない。
むしろアジアにとっていいことだろう。
しかし、日本にとって、中国のモータリゼーションは関係が深い。

中国だけで、十数億の人口。
この人達の自動車1台あたりの人口が、今の日本並の2人/台くらいになると、すごいことになる。
今から、何億台という自動車が増えて、走ることになる。
大気汚染は進み、石油は当然不足するだろう。

偏西風に乗って、中国の大気汚染が日本に流れてくる。
今年の1月、北京の米国大使館のデーターでは、測定範囲外の高い汚染が検出され、市民はマスクなどを買い求め、自動車は昼からライトをつけて走っているらしい。
日本の基準の30倍以上という。
日本の放射能どころではない、という人もいる。
まさに、中国の汚染は対岸の火事ではない。

北京オリンピックの時は、規制をしていたらしい。
写真を見たが、すごいスモッグだ。

もちろん、それだけモータリゼーションが発達するにはまだまだ時間がかかるだろう。
しかし、それでも、今の状態なら確実に来る。

石油がどんどん高騰する。

どこかで、脱石油をしないと、人類は生きていけないだろう。

これから、エネルギー不足、食料不足が起こってくる。

そういう意味では、人口が減るのはいいことかもしれない。


| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
意味はあとでいい
脳科学のいうところでは、脳は寝ている間に情報の整理をしているらしい。

茂木健一郎によると、寝ていても起きていても、脳が消費する酸素量は同じだということだ。
起きているときインプットされたことを記憶したり、思い出したりしたことを元に戻しているのだという。
読み散らかした本や雑誌を片付ける、図書館司書のような仕事をしているらしい。

なるほど、そうかもしれない。

それを「海馬」という脳の部分がつかさどっているらしい。
意識的に覚えようとしたことや、意識があるときに見聞きしたことは、いったん短期記憶として、海馬に入る。そして、数十日は覚えているらしい。
その間に、もう一度海馬から引き出された知識は、長期記憶として大脳新皮質と呼ばれるところに記憶されやすくなる。
だから、暗記物には反復が必要、ということになる。

ただ、ぼんやり生活していて、覚えることは少ない。
覚えるには注意や興味、意欲が必要だ。
そういうものがあって、はじめて記憶のメカニズムが働くらしい。

英語を全く知らなければ、英語の歌は覚えにくいが、知っていれば覚えやすい。
ただの音に加えて、意味という情報が加わるから、覚えやすいのだろう。

何か新しいことに対して、「あれっ」と思う気持ちが、覚えようという意欲を促進する。
だから、できるだけいろんな事について興味を持つことが、記憶を促進することになる。
雑学博士などという人は、何を聞いても興味を示す人だろう。
だから雑学博士になれる。

知識を広げようと思うと、何に対しても興味をもつことがのぞましい。

でも、これは逆で、知識の幅が広いから、興味の対象が広がるのだと思う。
天使のサイクルに入るのだ。
広い知識 → 広い興味 → ものしり → 広い知識 というサイクルだ。
これに対して、悪魔のサイクルは、狭い知識 → 狭い興味 → ものを知らない → 狭い知識というサイクルになる。

しかし、この天使のサイクルの最初の部分が問題だ。

最初から知識を持っている人はいない。
どうやってそれを実現するか。
それは、とにかく最初に知識を詰め込むことだ。
ぶっちゃけた話、意味もわからず記憶するという「詰め込み?育」にはメリットがあったのだと思う。

今の初等?育は、意味を重視する。
それは大変結構なことなのだが、その意味がわからないことが多い。
割り算の意味は何か、と聞かれたら、すぐに答えるのは難しい
算数など、小学校で習うことの意味はとても難しいものだろう。
四則演算の意味など、覚えてからしばらくして理解する方が楽だ。

だから、分数がわからなくなる。
四分の一、とは全体を4つに均等に分けて、その内の一つという量。まだそこはわかる。
四分の一と三分の一を足すと、どうなるか。
12に分けた3つと4つだから、7/12というのを説明し、それでちょっとドリルをやって終わり、では無理だ。その時わかっても、大脳皮質に入らない。
4と3の最小公倍数を見つけて、それを分母にして、分子を足す、というのは「作業」として「身体で」覚えるほうがよほど早い。

分数の割り算の意味など、大人でもとまどう。
とにかく、分子と分母を反対にして、掛けたらいい、と覚える方が早い。

意味はあとでいいのだ。

そうやっておいて、中等教育の入試対策では意味を教えず、とにかく覚えようとする。
これは順序が逆だ。
ある年齢になったら、意味が大事だと思う。

記憶には2種類ある。
意味記憶とエピソード記憶。
意味記憶は単語を辞書に登録するようなもので、エピソード記憶は自分の経験が元になって、こうしたらこうなった、というような記憶。
子供は意味記憶に強い。
小学生とトランプの神経衰弱をやった人ならわかるだろう。

だから、小学生の時には意味もなく覚えることがいいことなのだと思う。

そうすることでしか、広い知識や興味をもつことはできないと思う。

型にはめようとして、どうしてもはみ出すのが個性なのだ。
個性を大事にしようと思えば、まず型にはめないと仕方がない。

やっているうちに、意味はわかってくるのだ。


| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
社長の交代
家電業界の社長交代が進んでいる。

今年だけで、ソニー、パナソニック、シャープと3社の社長が交代した。
若返りを図ろうとか、既存のしがらみがない人をとか、事業の失敗の責任をとるとか、いろんな理由がある。

ぼくが就職した頃は、社長なんて遠い存在で、別に誰でもよかったし、どういう人が社長になっているのかすら知らなかった。
ある程度規模が大きければ、社長なんてそんな存在だったろう。
それは、まだ高度成長時代だったから、そうだったのかもしれない。
誰が社長をやっても、成長できたし、ある程度の時間がかかっても同業他社のマネをしていたら何とかなった時代だった。

ひるがえって、今は厳しい。
3社はみんな薄型テレビで失敗した。
特にパナソニックはプラズマに固執して、尼崎の工場を建ててすぐ閉めるという事になってしまった。
シャープも亀山工場の投資が重荷になっているらしい。
敵はサムソンやLGなどの韓国勢だろう。
資金調達のタイミングやその資金を投資する目的など、もっと早い時期に決めないといけなかったのかもしれない。
円高も逆風だっただろう。

こういう時代になってくると、社長の決定が社運を決めるようになる。
今までの日本の会社が直面したことのないような場面だ。
拙速と巧遅というが、どちらもダメな時代だ。
巧速が求められている。

しかし、情報量は多いし、考慮する要因の数も多い。
決めるのは難しい。まして、それが社員数万人の命運を決めるとなると、すごいプレッシャーだろう。

時代がデジタルになったのも大きい。
アナログなら、設計や製造の強みが生きた。
今までのノウハウや部品のバラつきなどの知識、基盤の配置や小型化、部品の精度など、工夫の余地があった。
しかし、デジタルなら、そういうことはあまり関係ない。
パソコンなど、基盤さえあれば素人でも作れてしまう。

おまけに、ネットの時代だ。
iPod の成功は、モノ自体ではなく、音楽データーをネットで配信するという仕組みだった。
そういう仕組づくりは日本のメーカーは不得意だ。
なぜ不得意かというと、それらがソフトウェアであるからだろう。
そしてまた、そのソフトウェアが無料だ。
金儲けは、そのソフトを使い、曲のデーターをダウンロードした時に発生する。
要は他人のふんどしで相撲を取って、その上前をはねる。
そういう商売に価値を置いていないのだと思う。

銀行と同じだ。
お金を集めて、それを貸し、その利率の違いが儲けになる。
今は決済の方法が増えて、そこからお金を取ることができるようになってきたが、要は上前をはねる商売だ。
だから、日本では銀行の地位が低い。
お金を右から左へ動かして、他人の上前をはねる商売だと思っているからだ。
ウォール街というようなものもない。
役所と銀行がまとまって今までやってきた。
だから、カネを貸すのも担保主義だし、ベンチャーに対する支援も薄い。

そして、日本人には、ハードウェアに対する信仰があると思う。
カタチのないものには、あまり価値をおかないのだろう。
だから、ソフトウェアの産業が伸びないのだと思う。

マンガやアニメなどのカタチのあるものは強いのだが…。

しかし、モノはなくならないし、日本の強みはやっぱりモノを作ることだと思う…、というか、そうであってほしい。
でもなあ、日本はモノがありきでソフトウェアを考えてきたからなあ。
その発想がダメなのかもしれないなあ。

家電メーカーの社長交代が、どうなっていくのかわからないが、とにかく頑張ってほしい。

| | 考えたこと | 21:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
中田ダイマル・ラケット
ぼくが小学校の頃、近所の散髪屋に行っていた。
だいたい、土曜日の昼下りだったと思う。

散髪屋ではラジオをかけていて、そこで中田ダイマル・ラケット(ダイラケ)が番組をやっていた。
ダジャレで製品の宣伝をするという番組で、内容は覚えていないが、土曜の昼下がりののんびりした雰囲気にマッチした、ゆるい番組だった。

ぼくが10歳になる前だから、昭和30年代後半。
当時、売れっ子だったから、ラジオ番組をしていたのだろう。

いとし・こいし(いとこい)が、おまわりさんとか、家庭のことをネタにしたのとは違って、ダイラケは荒唐無稽なネタが多かった。

ラケットが結婚する相手が、ダイマルの元彼女だとわかり、だまされた二人が一緒に復讐をする、という物騒なネタもあるし、ダイマルの結婚相手の連れ子とダイマルの父親が結婚して、できた子は母親か、孫かどちらか、というネタもある。
幸い、代表的なネタは音源が残っていて、今も聞くことができる。

時々、ラケットがダイマルのアドリブに笑ってしまって、突っ込まれるということもあった。
それほど、ダイマルの笑いのセンスはすごかったと思う。
今聞いても、すごく面白い。

いとこいもダイラケも関西を、そして昭和を代表する漫才師。

この2組をリアルタイムで聞けて、幸せだったと思う。


| | 考えたこと | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
ディーゼルエンジン
ディーゼルというと、音や振動が大きく、トラックやバスのようなクルマが日本では主流だ。

また、ススが多く、排気が汚いため、規制も厳しくなっている。

しかし、ヨーロッパでは新車販売の半分以上がディーゼルになっている。
これはディーゼルのほうが燃費がよく、二酸化炭素の発生を抑えられるためだ。
もちろん、従来のディーゼルエンジンとは違い、いろいろな技術が開発され(中には日本発の技術もある)、クリーンディーゼルというふれこみだ。

ディーゼルエンジンは、燃料自体も安いというメリットがある。
だから、ヨーロッパではすごいスピードで普及した。

この背景には、日本は大気汚染防止を燃費向上の第一の目的においているが、ヨーロッパは二酸化炭素の排出を抑えるということに主眼をおいている、というポリシーの違いがある。
あくまで、二酸化炭素の排出権にこだわったのがヨーロッパだ。
エコにもいろいろあるのだ。

そのおかげで、フォルクスワーゲンをはじめとするドイツのメーカーや、プジョー、シトロエン、ルノーなどのフランスのメーカーは小型車までディーゼルになろうとしている。

日本メーカーも、マツダが日本向にディーゼル搭載のクルマを出すようだし、ホンダやトヨタも遅ればせながら、欧州ではディーゼル化をすすめている。
逆に言うと、欧州メーカーがハイブリッド化に遅れているのは、クリーンディーゼルを開発していたからとも言える。

ブラジルではバイオ燃料がたくさん使われており、どんな燃料でもいける、というフレックス燃料車が増えているという。
サトウキビなどから、燃料が取れるらしい。
たしかに、糖分はエネルギーだ。

世界中でいろいろな特徴あるクルマづくりがされている。
どんどん、グローバル対応というのは難しくなるだろう。

日本の技術で、クリーンディーゼルエンジンを使った、ハイブリッド車はできないのだろうか。
ディーゼル自体は、ガソリンエンジンよりも複雑で難しいのだが、それをうまく小型化し、モーターを組み合わせて発売できないのか。

そうするくらいなら、電気自動車の開発に集中するか…。

ここは思案のしどころだ。

電気自動車といっても、今のガソリンスタンドに充電設備を置いて、急速充電するというようなインフラは当分ムリだと思う。

最終的には電気自動車がメインになるのだろうが…。
それはいつのことだろう。

そうなると、今のガソリンや軽油で動いている自動車の分の移動エネルギーを、電気で賄わなければならない。
これも大変なことだ。
天然ガスを上手に使って、発電するのだろうか。

そんなふうに考えると、世界の動きや日本の動き、技術の開発動向などを考えて、ベストなチョイスをしないと生き残れないという自動車メーカーの悩みが見えてくる。

得意不得意はあるにせよ、今のトヨタ、ホンダ、マツダ、三菱、スズキあたりは、うまく立ちまわって、生き残ってほしい。
だんだんと中国やインドに主戦場は移っていくとはいえ、自動車はまだ基幹産業だし、日本を支えている産業だからなあ。

日、米、欧の6億人が富んでいた時代から、世界中が富んでいる時代になる。
果たして、富むことはいいことなのか…。

宇宙船地球号はどうなっていくのか…。

そんなところまで、想像はつながっていく…


| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
英語はブロークンで
文科省は英語の教育に熱心だが、一つ間違えていると思う。

それは、ネィティブのように話せることが重要だと思っていることだ。
だから、英語ネィティブの人を配置し、英語の授業をネィティブイングリッシュでしようとするのだろう。
そういうふうにすれば、日本人の英語力は向上すると思っている。
しかし、それは正しいのだろうか。

言葉は手段であって、目的ではない。
特に母語でない外国語は、なろうとしてもネィティブのようになれないのだから、これは何かを伝え、聞くという手段としかいいようがない。
ネィティブ並に言葉が使えることを目的とするのなら、今の考え方でいいと思うが、所詮英語はコミュニケーションの手段であるという考え方なら、今のネィティブ至上主義はおかしい。

これはぼくが経験的に思うことだ。

ぼくが入社した会社は、英国が作った会社で、入った時には日本の会社になっていたが、古い社員はみんな英語を話さざるを得なかった人たちだった。
上の人が英国人だから、仕方がない。
出張旅費の前受けのことはアドバンスと言っていたらしい。
ほかにも色々そういう言葉があったと聞く。

その一人であるぼくの上司Dさんは、英語が上手だった。
流暢ということではない。
自分の意思を伝えるということでは、必要十分だった、ということだ。

Dさんが英語を話すときの常套句は、「In Japanではねえ」というものだった。
「In Japanでは、we don’t do soや」
これは、日本では我々はそうはしない、という意味。
英国人やアメリカ人、ドイツ人もだいたいこれで通じる。
なぜか。
それはDさんがきっと有益なことをいうとわかっているからだ。
だから、日本語と英語を交えても、理解しようと聞いてくれる。

所詮、英語は手段であって、通じればいい。
そうなると、何を伝えたいかということが問題だ。
その伝えたい事が明確で、わかりやすく、そして相手にとって価値がある、あるいは人柄として聞いてみようと思わせるような人物であることが必要だ。
結局は中身なのだ。

英語をネィティブ並に話せ、聞けることはすばらしい。
しかし、完璧を目指すのは無理だろう。
ブロークンでいいのだ。
中身がないことを流暢に話せても仕方がない。
せいぜい挨拶をして、自己紹介をしてそれで終わり。
そんなものが上手でも、中身がなければ面白くも何ともない。
相手と意思を通じ合うのは言葉ではない。
言葉を介して、中身が通じ合うのだろう。
だから、ネィティブ並に話す努力は7割でやめてもいいのだ。
残りの3割を詰める努力をするくらいなら、他の事をやるほうがマシだろう。
英文学をやろうという人はそうではなくてもいい。
しかし、英語を手段として使う人は7割で充分だと思う。

所詮学校でできることはしれている。
そこから先は、個人の努力でやるしかないと思う。
そのために必要なのは、英文法だろう。

小学校で英語を教えるというようなことは、やらないほうがいいと思う。

そんな暇があれば、日本語を教え、ちゃんと考えることを教えたほうがいい。

二兎を追うもの一兔をも得ずというではないか。




| | 考えたこと | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
名古屋女子マラソン
昨日の名古屋女子マラソン、途中から見た。

先頭集団が8人くらいの時だった。
みんなオリンピックの選考がかかっていたから、様子見をしているような走り。
日本人で1位が出るなあと思っていたら、35キロくらいからロシアのママさんランナー、マヨロワが後ろからトップグループに入ってきた。

しっかりした走りで、ペースを上げ、あっという間に先頭集団を抜け出し、そのままゴールイン。
大したものだった。

大会本部は全く予想してなかったようで、ロシア語の通訳はいたようだが、ほとんどインタビューもなく、いったいどうなってるの?という感じだった。

だいたい、先頭集団にいた日本人は誰もマヨロワを追いかけようとしない。

オリンピックの選考というが、こんな情けないことでいいのか。
海外の選手がスパートをかけて、ついていくことができない選手ばかりだ。
最初から日本人の選手しかマークしていないし、日本人で1位になることしか考えていない。

2位でゴールした選手はまるで優勝したような扱い。
オリンピックのマラソンのコーチが、うれしそうに2位の選手の横に立っていた。
あんなコーチで、優勝できるのか。

高橋尚子が優勝した時の小出監督は厳しそうだった。

だいたい、オリンピックの選考レースは、ほとんどのレースが日本人1位という成績。
ちゃんと、1位になることを選考の条件にして、1位が外国人だったら該当者なしとする、くらいの厳しさがないと、あれではダメだろう。

マヨロワという選手、伏兵と書かれていたから、そう前評判が高いわけでもなかったようだ。
その選手にごぼう抜きにされた日本選手は情けない。

また、今日の新聞を見たら、2位の選手がゴールインする所しか新聞に写真が載っていない。
いったいどうなっているのか。
1位の選手に敬意は表さないのか。

こんな報道をする日本のメディアも情けないし、この分ではきっとオリンピックもダメだろう。

こんな事なら、海外からの選手は呼ばず、日本人だけでやればいいのだ。

| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
ナショナル・ジオグラフィック
3月11日、ナショナル・ジオグラフィックで原発の事故の特集をやっていた。

アメリカの学者が、福島原発の事故の検証をしている。
1つ目の原因は、地震を重視して建てられたため、津波の対策が不十分だったことだ。
特に、非常用の電源が津波で浸水して止まってしまったのが致命的。
地震だけなら、ちゃんと通常のシャットダウンをしていたらしい。

2つ目は、原子炉内の情報が、計器が止まってしまったために把握できなかったこと。
津波の直後に、防護服を着た職員がライトを持って何がどうなっているのかを調べている姿を再現フィルムで出していた。
なんと、当時原子炉は2800度まで温度が上昇したという。
それによって、燃料棒が溶け、水素が発生し、建屋内にそれがたまって、水素爆発を起こした。

この時点では、1987年のチェルノブイリ並の事故になることも想定された。
そのため、建屋内に入れるのはロボットだけになり、とにかく冷却を続けたということらしい。
2週間経って、電源が復旧し、ようやく原子炉の温度が下がり始め、収拾に向かい始めたということだ。

その間、官邸には情報が上がらず、東電ですらちゃんと状況が把握できないという事態だったようだ。

原子力関係のエンジニアがどのように関与したのかはわからない。

国のエネルギー政策によって、原子力発電所を作ってきたエンジニアは、どう寄与したのか。
そういう調査はしないのか。もうやっているのか。

一番、発電所を知りつくしているのは、現場の作業員だが、事故が起こった時に内部を知っているのは設計したエンジニアだろう。
そういうところまで管理しないと、原子力の安全性は保てないと思う。

管理するというのは、規則を作って文書や図面を保存することではない。
そんなことはもうやっているだろう。

原子炉の設計チームや製造チームのメンバーを集めることだ。
もう40年前だから、定年しているだろう。
それでも、最後は人なのだ。
危機的状況になればなるほど、「人」が大事なのは経験則。

そんなことはできないのだろうか。
原子炉という特殊なものだから、そういうルールがあってもいいと思う。
その分、お金を出してもいい。
それだけ大事なものを作っている、というプライドや意識を持ってやってほしい。

東電の社長のありさまを見て、本当にそう思う。


| | 考えたこと | 20:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
震災1年
震災が起こってから、1年経つ。

その時、ぼくらは会議中だった。
横揺れが長いこと続いた。

縦揺れをあまり感じなかった。
きっと震源は遠いんだろう、と思った。
その後、インターネットで震源が東北であること、津波が来たことを知った。

尋常な被害ではないということがわかった。

そして、原発の事故。
とにかく、冷却しないといけないはずだったが、対応が遅い。
米軍の協力要請もなぜか断った。
これは御巣鷹山の時と同じである。

今、震災後の原発の対応を検証しているが、東電の社長の対応は拙かったと思う。
社長なら、すぐに現地へ行き、信頼できるエンジニアを呼び、正確な情報を出す、ということを陣頭指揮するべきだったと思う。
東電という企業の体質が、役所のような会社だったのだろう。
だから、あのような対応になった。

反省するなら、この体質を変えないといけない。
なぜ、役所のようになったのか。
それは競争がないからだと思う。
巷で言っているように、電気を作る事業と送電線事業を分けて、電気を作る方は競争する方がいい。

それと、行政の対応だ。
これから明らかになるだろうが、最初は事の重大性を分かっていなかったのではないか。
原子炉を廃炉にしたくないから、海水の注入を遅らせたように思う。
素人考えでも、まず冷やすことが大事だったはずだ。

現場はいくら頑張っても、本部にポリシーがなければ、現場が気の毒だ。

この点は、本当に反省すべきだと思う。

これは半分は人災ではないか。


| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
ワンダースリー
ワンダースリーは手塚治虫のマンガ、アニメ。

宇宙から地球に調査に来た3人組が、地球に降りて、どういうわけかウサギとカモと馬に変身して、地球の調査をする、というストーリー。
1965年にオンエアされた。
このアニメはよく出来ていたと思うし、ぼくが一番好きなアニメだ。

3人の使命は、はたして地球人は生き残るに値するか、という調査。

この調査の結果がバツだったら、地球は破壊される。
その爆弾を持って3人は宇宙から来た。

ウサギがボッコ隊長で、カモがブッコ、馬がノッコという名前。
ボッコ隊長は女性。

大きなタイヤ状の乗り物に乗っていた。
タイヤそのものが乗り物、これは覚えている人も多いかもしれない。

地球の少年、星真一と仲良くなり、星の兄が秘密諜報部員であることから、いろんな事件に関わることになり、そして、地球人は殺し合いをしてはいるが、信頼できるという思いを持つ。
最終的に、本部から地球を破壊するという指令を受ける3人だが、彼らの判断で地球を残し、ウソをつく…。

ちょうどベトナム戦争のさなかであり、こんな争いばかりしている地球人は生き残る価値はないのではないか、という問題提起だったと思う。
手塚治虫の反戦メッセージ。
地球を即座に爆破できるという、反陽子爆弾というものを仮定して、強いメッセージを送っていた。

これが手塚流のヒューマニズムだと思う。

ただただ、人間は素晴らしいというようなものではない。
邪悪なところもある。どうしようもないヤツもいる。
しかし、総体として人間は愛すべき存在だ、ということを示していた。

最近のアニメを時々見るが、世界に市場を求めるためか、無国籍のものが多い。
無国籍とは、国がなく、どういう権力構造になっていて、どういう秩序で運営されているかがわからないということだ。
戦略としては正しいと思う。
アニメならではの自由な世界を描けるからだ。
しかし、必然的に現代とのつながりは薄くなる。
ワンダースリーで描いたような、手塚のメッセージは出てこないと思う。

時代が変わったのはわかる。、
複雑になって、冷戦時代のように善悪二元論では語れない。
何が善で何が悪か、立場によって変わってしまう。
そんな世界になった。

しかし、だからこそ手塚流ヒューマニズムが必要なのだと思う。


| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
民族性
スーパーボウルとは、アメリカのお祭り。
アメリカンフットボールのリーグのワールドシリーズのようなもの。

テレビ視聴率は50%近くになり、事実上の祝日になる(日曜日だが…)。
開催日は1月末~2月初め。
たいがいの人は家でテレビ観戦をする。
日本でいえば、昔の紅白歌合戦のようなものだ。

アメリカに出張した時に、メジャーリーグの試合の日にスタジアムの隣の建物に行ったのだが、その時でさえすごいお祭りさわぎだった。
駐車場に試合開始の4時間くらい前に来て、バーベキューは始まるわ、キャッチボールはするわ、すごい騒ぎだった。
阪神ファンなど、足許にも及ばない。
それだけ、メジャーリーグの試合に行くというのはすごいイベントなのか、それとも昼からの試合に朝から行って、お祭りさわぎをするという国民性なのか…。

しかし、国民性といっても、アメリカ民族という民族がいるわけではない。

意外なことに、このページによるとhttp://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8600.html、ドイツ人が第一位で5000万人近くいる。
ついで、アイルランド、アフリカ、イギリスと続く。

ドイツ人が一番多いというのにはびっくりした。
イギリスが先祖の人が一番多いと思っていたが…。
ドイツは本国に8000万人、アメリカに5000万人いることになる。
もちろん、建国250年くらいだから、だいぶ混血は進んだだろうが…。
そういえば、マーチンというアコースティックギターの会社はドイツ系アメリカ人がおこしたものだった。

たくさんの民族が集まって、アメリカという国を作った。
200年以上経つと、ある程度混じり合って、一つの民族性ができるのだろう。
その一つが、お祭りさわぎ。
お祭りの時はみんな平等だ。
普段のことは忘れて、ばか騒ぎする。
メジャーリーグの試合の後の駐車場や回りの道には、ビールの瓶や缶がたくさん落ちていた。
これには俗語があって、この空き瓶のことをDead Soldier(兵士の死体)というらしい。

ぼくらはアメリカのドラマを見て育った。
ララミー牧場、ルーシー・ショー、奥様は魔女、名犬ラッシー、ベン・ケーシー、サンセット77、ハワイアンアイ、コンバット、アイアンサイド、コジャック、じゃじゃ馬億万長者、逃亡者、アンタッチャブル…。
音楽もアメリカのものが多かった。

ぼくらの年代にとっては、一番身近な国はアメリカだ。
しかし、身近だが、よく知っているとは言えない。
住んでみないとわからないことが色々ある。

子供らの世代は、一番身近な国はアメリカではないだろう。
若い女性などを見ていると、韓国だ。

日米の路線を堅持するのか、それともアジアにシフトするのか、それは問題だ。

外務省はどう考えているのだろうか。
どうも、出たとこ勝負のような気がして仕方がない…。

話がそれたが、日本人の民族性はなんだろうか。

これはよく考えなければいけないなあ。



| | 考えたこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
銃社会
アメリカのドラマには、銃がつきものである。

銃の特徴を表すのは口径、そして線条痕。
口径でよく聞くのは22口径とか38口径、45口径とかいう言葉。
この22とか38、45とかいう数字は、アメリカらしく、単位は1/100インチである。
1インチ=25.4mmだから、22口径は5.588mm、38口径は9.652mm、45口径は11.43mm。
45口径は1センチ以上の直径の弾をぶっぱなすのだから、破壊力はすごいだろう。

でも、時々9mmという数字が出てくる。
これは、ドイツ発祥のもの。
この9mmを使った銃は弾の装填数が多く、主流になりつつあるらしい。

これらの弾をまっすぐ飛ばすために、銃身にはラセン状の溝が彫ってある。
弾に回転を与えて、まっすぐ飛ぶようにしているのだ。
狙った方向に対して、直角の方向に回転を与える。
その溝で弾にできる傷が線条痕。
これは指紋のように、銃ごとに特徴が違う。
つまり、現場に残された弾と線条痕が一致すれば、その銃が凶器ということになる。

アメリカには線条痕のデーターベースがある。
押収されたり、犯罪に使われたりしたことがある銃は、線条痕がデーターベースに登録されていて、すぐにわかる。
さすが銃社会だ。

だいぶ前に日本の留学生がハロウィンの日に、家に入って、「フリーズ」と言われたのがわからなくて、撃ち殺されていたが、日本人はアメリカ人が銃を持っているということを時々忘れる。
ハリウッドの映画を見ていると、銃が出てくるのだが、それは映画だから…と思ってしまうからか。

人には自分を守る権利がある、というのが根拠らしい。
でも、銃があるとどうしても過剰防衛になってしまいがちだ。
また、ちょっとしたいさかいでも、銃をつかってしまって、後悔することになることが多いという。

それでも、銃が日用品になってしまったら、全面的に禁止するのは難しいだろう。
相手が持っているという仮定のもとに、自分を守るという行為に銃が必要になる。

モデルガンでは我慢出来ない。

不幸な社会ではあると思う。
しかし、それだけの銃があって、社会が成り立っているというのは、もっとスゴイことだと思う。


| | 考えたこと | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の神
日本人の神はたくさんいる。

だいたい、どこにでも何にでも神はいる、というのが一般的な土着の宗教らしい。

山には山の神が、川には川の神が、道には道の神がいる、ということだ。

ぼくが神社に参って、鈴をならし、賽銭を入れ、柏手を打ってお願いをするときのイメージでは、神は社の中で寝ている。
だから、鈴を鳴らして起こさないといけない。
その上で、柏手を打って、注意を引き、そしてお願いをしないと、聞いてくれない。
とても人間くさい神だ。

だいたいの人は、そういうふうに思っているのではないか。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)が岩の中にこもってしまった時も、外でたくさんの神が集まって酒盛りをしたという。
それを見ようと、天照大御神は岩戸を開けたということだ。
まるで人間ではないか。
どういうわけか、そんな神をあがめているのが、日本人だと思う。

仏教の阿弥陀仏とか、観音様は、後世の話だ。
つらい世の中で、誰かにすがろうとした民衆を救おうとして、出てきたものだと思う。
出てきたときは立派だったと思うが、今のお寺のありさまを見ていると、救われない。
葬式で儲けるようになってはいけない。

でも、日本人はおおらかだから、仏も一緒でかまわない。
日本では、神も仏も同じようなものだ。
「神も仏もないものか」というではないか。

日本の神はとても人間くさい。
気ままで、ねがいを聞くのを忘れたりする。
貧乏神というのがいて、それが取り憑いたりする。
貧乏神も悪気があってやっているわけではないのだ…、という落語がある。

仏壇はあるが、神棚はないではないか、というなかれ。

日本の神は、神棚がなくても、そこにいるのだ。

どこにでも、何にでも、神はいる。

そんなありがたい神に囲まれているのが、日本人だと思う。

だから、宗教に関して無自覚になってしまったのだろう。


| | 考えたこと | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
成績
成績をつける、というのは難しい。

相対評価か、絶対評価かというのが今の議論。
橋下市長の公務員改革だ。

大阪市では、公務員の評価に、民間では当たり前の相対評価を導入するという事になった、と新聞に書いてある。

相対評価を嫌う人たちは、いったい何を嫌っているのか、ぼくにはわからない。
北風と太陽の話で、北風ばかりでは…、という反論があったらしい。
なぜ相対評価が北風なのか。
相対評価、絶対評価と言っても、完全にどちらかの評価などあり得ないから、その中間のどこにポイントをおくか、ということだろう。
全員が順番に評価されていくことを公平だというなら、それはおかしい。それは不公平だ。
相対評価を「北風」だということ自体、能力や人柄、働き方に関係なく評価されたいという証拠ではないか。

相対評価には、上の人も下の人も説明責任が生じる。
上はどうしてそんな成績をつけたのかという説明責任があるし、下はそれに反論する場合、どういう実績があったかという説明責任がある。
要は、なあなあでは済まなくなる。

日本人の気質に合わない、という人もいるが、今まで日本の国を富ませていたのは、そういう制度を採用している民間のセクターだ。
なんやかや言っても、金儲けしないといけない。
そのためには、やる気のある人を取り立てる制度がいる。
やり過ぎはいけないと思うが、頭から相対評価を否定するのは大きなマチガイだ。

学校の先生も然り。
生徒を相対評価するのに、自分たちは評価されるのを嫌がる。
そもそも、何を評価するのか、どうやって評価するのか、という。
教育は評価が難しい、ともいう。

教育が評価が難しいというなら、自分たちのしていることは何なんだろう。
授業をして、試験をして、評価しているではないか。

人間が人間を評価するというのは不遜な行為だ。
できれば、そんなことはやりたくない。
でも、社会を成り立たせるためには、何かに基づいて順番を決めないといけない。
それが社会というものだ。

学校の先生はその役目を担っている。
それが仕事なのだ。
それはつらい仕事だろうが、先生になったからには避けることはできない。

だからこそ、優秀な先生を評価しないといけない。
何に基づいて評価するのか、それが難しいと先生は言う。
だからといって、評価しなければ、いつまでも評価できないままだ。
なぜ、間違っていてもいいから始めないのだろうか。

いつも、そういう論法だ。
人が人を評価するのに、正解などあるはずがない。

白か黒かの問題ではない。
グレーの部分を議論しないといけない。

世の中はそんなに簡単ではないのだ。


| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
おバカのタレント
島田紳助が残したおバカのタレントたちがいる。

そのタレントたちが、いつの間にか普通のタレントとしてテレビに出演している。
あのバカぶりは演技だったのだろうか。
バカを反省して、知識をつけたのだろうか。

おバカのタレントたちは、知識が足りないことと、ものごとを論理的に考えられないことを除けば、バカではない。
それでは番組が成り立たなかっただろう。
一応、自分の役割というものがあり、期待される行動をして、はじめて笑いが取れる。
まあ、一部役割ができなくて、突っ込まれていたタレントもいたようだが、それはそれで面白い、ということで番組が成り立っていた。

自分の役割もわからない、本当のバカはあんな番組がなくなれば、お払い箱になったはずだ。

しかし、そうでないタレントは、芸能界に残って活動している。

いい時代になったものだ。

昭和の時代までは、一度バカだと思われたタレントは、それが致命傷になったと思う。
視聴者が、テレビに出る人は特別な人、というふうに思っていたからだ。
クイズ番組にしても、たいがいは視聴者参加で、クイズに詳しい人がでていた。
だから、アップダウンクイズやタイムショックなど、セットに凝った。
当時、あんなセットを作るのは大変だっただろう。
だから、一度始めたら、長いことやった。
MBSのアップダウンクイズなどは22年も続いたのだ。
今の番組再編時の、タレントばかり出てくる、つなぎのクイズ特番のようなことはない。
実際、今のクイズ番組に出てくる序列化されたタレントなど、視聴者から選ばれた人には勝てないと思う。

見ている人は、あの人あんなにバカだったのに、今はNHKでコメントしているから、バカでもいいんだ、と思っているかもしれない。
今は俳優だけど、ちょっと前までバカだったのに…、俳優はバカでもできるんだ、とも思っているかもしれない。
ひょっとしたら、あのバカは演技だったのかもしれないとも思っているかもしれない。

いずれにせよ、おバカが公式に認められたのは、平成の出来事だと思う。

昭和の時代、関西ではバカ(アホ)といえば平和ラッパ、坂田利夫が代表格か。
坂田利夫はかなりのアホだったと思うが、その当時の関西のテレビ局はアホはアホなりの出番でしか使わなかった。
今のようにおバカのタレントを、バカでない役割で使うようなことはしなかった。
それが昭和の常識だったと思う。

平成の時代、知識は重視されなくなった。
その場の空気に反応して、即妙な受け答えができることが重視される。
ゆとり?育の影響かもしれない。

しかし、脳は頭の中にないものを生み出すことはできない。
だから、知識をインプットすることは必要なのだと思う。
それが、何かがあった時に引き出されて使われるかもしれない。
結局、知識がなければ、それに派生するものは生まれない。

こないだ、AKB48のメンバーがテレビで「ピラミッドは、ついこないだ建ったはずだ」と言っていた。

本気で言っている。
普通なら、呆れるところだが、出演者はみんな笑っていた。
そんなことは、知らなくても笑って済ませる時代。
それが平成の時代なのか。

ついついぼくも笑ったが、これがテレビというメディアのやっていること。

テレビ番組を商品だとすると、昭和の時代はあこがれの商品だった。そういうカリスマ性を出演者たちも保っていたし、製作者にも気概があった。
今は完全に消費財だ。使い捨ての日用品。

商品のライフサイクルでいうと、最初は手に入りにくいプレミア商品だったものが、だんだんと一般化し、最後は耐久消費財になる。
テレビ番組の一部は完全に消費財になった。

ぼちぼち主役をインターネットに譲る時が来ていると思う。

こんなことをしていると、日本も世界の主役から落ちていくと思う。
それでいいなら、仕方がない。

前にも書いたが、テレビが出はじめの頃、大宅壮一が「一億総白痴化」と言った。

彼が今も生きていたら、どう言っただろうか。


| | 考えたこと | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
別れの季節
3月は別れの季節。

卒業式(高校はもう終わっているところが多いが…)がある。
クラスの編成替えもある。
クラスメイトとの別れ、学校への別れ、今までの生活への別れなど、いろんなドラマがある月だ。

でも、学生時代は別れるということに、今ほど感慨はなかった。
学校に対する帰属意識が、あまりなかったからかもしれない。
クラスメイトでも仲のよかった連中とは、いざとなれば連絡していつでも会えるという気持ちがあったのかもしれない。
今なら携帯電話やMixiなどのツールもあるし、余計にそうかもしれない。

小学校の頃はそれほど別れは意識しなかったと思う。
まして、ぼくの行っていた小学校は、みんな同じ中学に上がるので(私学に行く人は別だが…)、そんなに別れる、という気持ちそのものがなかった。

中学校は1学年11組もあったので、学年のまとまりはそんなに感じなかった。
クラス替えでは、ほとんど総替えに近かったので、すごく仲のいい友達ができたわけでもない。
それに、中学というのは難しい時代だと思う。
自分でもあの頃を思い出そうとしても、あまり思い出せない。
だから、中学だけ一緒という友達は少ないように思う。小学校からの友達か、高校も一緒だったという友達がほとんどだ。
そして、相変わらず、別れるという感慨はなかった。

ぼくらの高校は、学年10組でそのうち3組が1年から理系ということで分かれていた。
ぼくはその理系クラスだったので、3年間比較的同じ顔ぶれだった。
高校になると、だいぶ仲のいい友達もできる。
行動範囲も広がるし、趣味もできてくる。
でも、高校の卒業式は入試でバタバタしていて、あまり印象に残っていない。
3年の3学期は試験を受ける準備期間のようになっていたからか。
「仰げば尊し」をいい曲だ、と思って歌ったことはよく覚えているのだが…。

ただ、あの頃の3年間は、今の3年間に比べて、本当に長かったと思う。
1年で入学、3年で卒業。当たり前のことだが、この間が長かった。
50を過ぎた今になって思えば、あの3年間はいろんな事があったのだろう。
ぼくは、落研を作ろうと思ったが、それがダメだったので、クラブ活動はあまりやらないかった。
俗に言う帰宅部というヤツだ。
だから、時間はあったと思う。
本格的に日記を書き始めたのも高校だったし、気に入った小説の一節をノートに写したりしたのも高校時代。
左翼シンパになったのも高校なら、太宰治や坂口安吾を読み始めたのも高校だった。
高校時代、何に打ち込んだというわけでもない。
それでも、暇なことはなかった。
生きていること自体が、忙しかったという感じだ。

大学は卒業式に出なかったので、それに関する感慨はない。
でも、下宿をひきはらって、誰もいない春休みに、落研の部室をのぞいたことは覚えている。
あの部屋がぼくの青春だった。
そういえば、「青春」という言葉も最近はあまり聞かないなあ。
そのうち、死語になるかもしれない。

そういえば、小学校や中学校の卒業前に、何人かのクラスの女の子がサイン帳を持ってきて、書いてくれと言われた覚えがあるが、あれには何と書いたんだろうか…。

今となってはどうでもいいことだが。

シマリのない文章になったが、今年も3月が来た…。

| | 考えたこと | 02:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
希望と誇り
今回の朝のドラマは、洋裁店が舞台。

昭和40年まで時代は進んだ。

今日は三女がデザイナー修行のためにイギリスに旅立って、3人の娘がすべて出て行った。
主人公は三女に店を譲って、隠居の予定だったのだが、そうもいかなくなった。
これからどうするのか、というところ。

長女が大阪から東京に進出するので、一緒に行こうという話もある。
近所のパーマ店も、もう閉めるということで、友達が話に来る。
ずっと洋裁店を手伝ってくれた従業員もいる。

そこで、主人公が述懐を始める。

今はモードの力が大きくなって、去年はやった服も今年は全く売れなくなる。
いい生地で一生懸命作っても、その波に飲まれたらどうしても売れない。
そんな時代になってしまった。
私は、洋裁を教えてくれた先生に、「洋服はその人に品格と誇りを与えるものだ」と習った。
しかし、もうそんな時代は終わった。
もう年やなあ…。

そこで、パーマ店の友達が、「そんなことない!」と怒って席を立つ。
十分ほどして戻ってきた友達は、風呂敷包みを持っていた。
「これは私の宝物や」と言って、袋を差し出す。
その包の中にはパーマ店の制服と、それができたときに撮った写真が入っていた。
「これは私の誇りや。これがあるから頑張ってこれたんや。」

その制服は主人公がデザインして作ったものだった。

戦後の苦しい時期に、ようやくパーマ店が再開できて、従業員を雇った頃。
その制服には友達の歴史が刻まれている。
それはモードによって吹き飛ばされるような服ではない。
着る人が袖を通すたびに、誇りを感じるような服だ。

忘れていたその感覚を思い出す主人公。

そういうモノづくりがある。
ひょっとしたら、日本が生き残る道かもしれないなあ。


| | 考えたこと | 01:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
アジアの一員
久しぶりに東京に行ったら、以前と違って、中国や韓国のツーリストが大変多いことにびっくりした。

従来どおり、西洋人もいるが、中国語、韓国語がとびかっている。
それだけ、中国や韓国の所得レベルが上がったのだろう。
中国は今やGDPで日本を追い抜いたし、韓国の家電は飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
今まではるか後ろにいる、と思っていた国が、気がついたら背中を見せて前を走っている。

オーバーに言えば、もはやそんな時代になっている。
さすがは首都である。そんなことが東京にいるとわかる。

オーストラリアも今や資源大国で、為替の影響で所得が上がり、スキー場にたくさん来ているという。
円高でちょっと減ったかもしれないが…。

これからは、中国語を覚えないと、受付や小売はシンドイのではないか。
ビジネスマンなら、英語でいいが、これからはツーリストの時代になる。
観光をして、土産を買って、お金を落としてくれる。
いろんな自治体が観光に力を入れようとしているが、そのためにはまず中国語だろう。

早くから家電量販店では、テーマソングを中国語や韓国語で流していたが、今や家電量販店だけではない、という感じだ。
東京なら、コンビニの前に「中国語で買い物ができます」と書いてあれば、売上が上がるかもしれない。(もちろん、中国語で書くのだ)
デパートも、ツアーガイドを中国語でやる人を雇って、それを宣伝すればいいかもしれない。
これは、旅行社とセットだろう。

ヨーロッパの小さな国、オランダとか、ルクセンブルグとか、ベルギーとか、スイスとかは、回りを大きな国に囲まれているので、2ヶ国語、3ヶ国語を話す人が多いという。
自国語+英語+もう一つという感じだ。

いずれ、日本もアジアの一員として、日本語+英語+中国語の時代になるかもしれない。
今までは、島国だし、自分たちのはるか後ろを走っている、という思いもあって、そんなことは考えなかったが、これからは必要に迫られて、そうならないと生き残れないということもある。

いずれ、日本の小学校で、「ニーハオ」とみんなで言う時代が来るかもしれない。

えらいこっちゃなあ、とぼくらは思う。



| | 考えたこと | 22:19 | comments(0) | trackbacks(0) |