考えたこと2

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すりきれたネクタイ
30年近くサラリーマンをしていると、持っているネクタイも増えてくる。

ぼくは別にオシャレではないし、そんなに服装にこだわらない方だと思っている。
でも、こだわる部分もないではない。

一時は、無地のネクタイに凝っていた。
模様が入っていないネクタイ。
えんじ色のもの、ベージュのもの…いくつか気に入ったものがあった。
でも、結局あきらめてしまった。
無地のネクタイはなかなか売っていないのだ。

いくつか残っているものもあるが、どれも首のところがすりきれてしまっている。

亡くなったシャンソン歌手、ジルベール・ベコーが水玉模様のネクタイしかしない…というのを聞いて、やっぱり初志貫徹すべきと思った時期もあったが、やっぱりムリだった。

オシャレとは流行を追うことではなく、「こだわり」だと思っているが、やっぱりぼくはオシャレではないのだろう。

我ながら簡単にあきらめてしまったのが、その証拠。

それでも、ネクタイの売り場に行くと、無地のネクタイを探してしまう。

もう一度、頑張ってみてもいいかな…。






| | 考えたこと | 22:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
好きなもの
朝のドラマの話。
今は主人公が「饅頭こわい」という噺をやっている。

この落語は、遊び仲間が集まったところで、各自の好きなものはなにか?と聞いてまわるところから始まる。

みんなが好きなものをひととおり言った後、こわいなものは?という事になり、ふだん憎まれている男が「饅頭がこわい」と言い、それを聞いた他の連中がその男が帰ったあと、家に饅頭を投げこんで怖がらせようとして、男にまんまとだまされるというハナシ。

もちろん、その男は饅頭が食べたくてウソをついたのだ。
オチは、饅頭をほおばっているその男に、本当にこわいものは何か?と聞いたら、「熱いお茶がこわい」というもの。
このネタは学生時代にやった。懐かしいネタだ。

この噺を師匠の前で、若い落語家が練習する回想の場面を今朝やっていた。

練習が終わったあと、師匠が若い3人の弟子に「おまえら、何が好きなんや?」と聞く。

一人が「酒」、もう一人が「スーパーカー」と言った後、いちばん練習熱心な弟子は、「落語です」という。

師匠は、「落語家が、落語が好きいうてどないすんねん。なんか他のもんを言え…」と言うのだ。

これはどういうことだろうか。

好きなものを仕事にしてはいけないということだろうか。
落語をきわめるためには、落語以外に好きなものがあるという余裕が必要ということだろうか。
落語家が「落語が好き」というのは、面白みがないということだろうか。
商売でやっていることは、好きでやってはいけないということだろうか。

師匠の口ぶりは、落語が好きだという落語家など、面白くない…という感じだった。

もちろん、落語が好きだから、落語家をやっているに決まっている。
落語が嫌いな落語家などいるわけがない。

それでも、師匠は落語家が落語が好き言うてどないすんねん…という。

きっと落語家は「落語が好き」という気持ちが出てしまっては面白くない…というような事だろうと思う。
こんなアホなことやってまんねん…という余裕がなければ、お客さんは笑わせない。

落語が好きな自分を笑いとばす自分がいることが必要なのだ。

だから、落語が好きな自分は内においておくのだ。

落語が好きな自分を演じる自分は、落語が好きであってはならない。

そんなことだと思う。

好きなものを仕事にできる人はめったにいない。
でも、それができたとしても、プロであるためには、そこを離れないといけないのだ。

それが、本当のプロだと思う。




| | 考えたこと | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボールペンふたたび
何度かボールペンについて書いている。
「ふたたび」どころではないのだが、一応そういう題にした。

水性ボールペンとか、ゲルインキとか、各社いろいろと名前をつけて新しいものが出ている。
色もパステルカラーなどがたくさん出ているし、太さも1mmくらいの極太から、0.25mmという極細まで…文具店に行ったらどれを買おうか迷うくらいの数が出ている。

そのハシリがPILOTのHi-TECというシリーズ。
この特徴は、ペン先が円錐形ではなくて、シャープペンのようにとんがっているということだろう。
何でも、ペン先のボールを固定するところで特許を取っているとのこと。
そういえば、他の製品であんな形のペン先のものは見あたらない。

ぼくがしょっちゅう文具店に行って、いろいろ買ってくるので、子どもは二人とも影響されたのか、ボールペンにはこだわりがある。
赤をよく使うようだが、インクがなくなったら、新型を買ってくることが多い。
彼らはHi-TECはあまり使わない。
これはいい、というヤツを見せてくれるが、ぼくはやはりHi-TEC派だ。

当初はインクのきれいさ、書きやすさ、従来の油性のボールペンとは全く違う書き味でHi-TECシリーズは独壇場だった。
その後、たしかに他のものもだいぶよくなったとは思う。
新製品がでていたら、必ず試し書きをして「なかなかいいぞ」と思うものはある。
でも、Hi-TECには勝てない。

こどもに、Hi-TECの何が気に入らないのか?と聞くと、ペン先の形がイヤだという。
彼らは円錐形のペン先がいいらしい。

それで、わかった。
インクや書き味は他の製品も追いついているのだと思うが、ぼくはあのペン先が好きなのだ。

円錐形の先にボールがついているのではなく、まっすぐの芯の先にボールがついている、あのカタチ。

あれが、いいのだ。

どういうふうにボールを保持しているのかわからないが、あのカタチだから書くときにペンが傾いても書きやすい(ような気がする)。

なかなかあれを越えるボールペンは出てこない。





| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分の姿
出張していて、今日は久しぶりに阪急電車に乗って三宮から帰った。
毎晩のように最終電車に乗った神戸線。

日曜日の夜は7時頃でも空いている。

電車に乗って、座って何気なく向かいを見ると、窓に自分の姿が映る。

空いている夜の電車の窓は鏡のようだ。

一瞬、誰が写っているのかな…という気になる。
そういえば、自動車で通勤し始めてから、めっきり自分の姿を見ることがなくなったように思う。
窓に映る自分を見ることがなくなったからだろう。

明かりが飛ぶように流れていく窓に、コートを着て疲れたヤツがいる。

本を読みながら、時々顔を上げると、向こうもこちらを見る。
久しぶりに会う、仕事帰りの自分。

こんな夜を積み重ねて、年をとっていく。

明日からまた仕事。

来週もがんばっていきましょう。




| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
二日後
年をとると、二日後に身体にくる。

今週は水曜日に一日動き回って仕事をした。
翌日はしんどいだろうな…と思って、風呂上りに足をマッサージしたり、クスリを塗ったりして、備えた。

その効果があったのか、木曜日は快調である。

ああ、やっぱりマッサージとクスリが効いたなあ…と思って、ひそかに喜んでいたが、今日になってそれはぬか喜びだとわかった。

朝から腕と足が痛い。

二日後にくるのだ。

どうして、年齢を重ねると二日後にくるのだろうか…。
実際に使って、疲れはたまっているはずだから、翌日にきてもよさそうなものだが。

こんな現象が出だしたのは、40代の後半からか。

腕を使ったり、足を使ったりしたら、二日後に痛くなる。

そのことすら忘れて、昨日は喜んでいたのだからのんきなものだ。

もっと年をとると、三日後になり、四日後になるのだろうか?

そのうち、時間が経ちすぎて、何で痛いのかすらわからなくなるのだろうか?

筋肉が疲れるのは乳酸がたまるからだ…と生物の授業で習ったおぼえがあるが、乳酸を作るのが遅れるわけでもないと思う。

これを究明すれば、疲れないクスリを作ることができるのではないか?

ひょっとしたら、ノーベル賞も夢ではないテーマだ。

遺伝子の研究もよいが、こちらの研究もやってほしいと思うのは、ぼくだけだろうか…。

生物の研究者のみなさま、お願いします。


| | 考えたこと | 16:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
やりがい2
前に、「やりがい」という題で書いたが、もう一度書く。

ソニーがゲームに進出し、プレイステーションが絶好調で、SCE(ソニー・コンピューター・エンターテイメント)という会社を作ったころ、そこの社長が「人間が一番楽しいと思うのは、コミュニケーションすることだ」というような意味のことを言っていた。

これは、テレビに対して、ゲームやインターネットの方が優位になるという意味で言った言葉だったと思う。

人は関係の中で生きている。
だからこそ、「人間が一番楽しいと思うのはコミュニケーションすること」ということであり、何かのやりがいというのは、人間関係の中にあるのだと思う。

それが、人が生きていくための力の源泉なのだ。

その「人間関係」を媒介するものは、一緒に何かを作ることであったり、同じ目標に向かって頑張ることであったり、お互いに信頼し、されているという実感であったり…いろいろあるだろう。

そういうものから、「やりがい」は生まれてくるのだと思う。



| | 考えたこと | 01:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
道路公団のお金
最近、帰り道で眠くなり、吹田のパーキングエリアで休むことが多くなった。

道路公団がいろいろと批判され、高速のパーキングエリアも様変わりしてきたようだ。
今や吹田の下りのパーキングにはネオンサインがある。
クリスマスにはライティングもしていた。

その上、こないだから吹田のパーキングエリアのトイレの中にBoseのスピーカーがついて、音楽が流れるようになった。
トイレにBGMである。
たぶん、事故などがあったら、そこで情報を流すというのが主目的だと思うのだが、めったにそんなこともないし、やっぱりお金が余っているのかもしれない。

こないだ流れていたのは、ストリングスが主体のイージーリスニングだったが、音楽には好みがあるので、利用者から文句が出たのかもしれない。
今日は鳥のさえずりに変わっていた。

夜に鳥のさえずりを聞くのは何となく違和感があるが、何となく気持ちが落ちつくのは事実。

ただ、今の音楽と同じで、スキマがない。

ホーホケキョ、チチチ…、チュンチュン、というようなさえずりがずっと流れている。

もっと間があれば、いいのになあ…という感じである。

やっぱりお金があるから、特別に鳥のさえずりの音源を作ったのだろうか…。

たくさん入れればよい、というものではない。

ものには限度がある…。


| | 考えたこと | 22:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
帰りはよいよい
今夜は今年最初のレッスン。

夜9時からだが、最近は帰りが遅いので仕事から帰って、バタバタと着替え、ご飯を食べて、荷物を用意して出ていく。

月曜の夜はシンドイ。
ギターを背中にしょって、電車で行く。

往きは疲れていて、足どりも重く、疲れたなあと思いながら歩く。

1時間のレッスン。

今日は遅まきながら年始の挨拶をして、前回の曲"Have yourself a merry little Christmas"を復習。

今回はこの曲のコードに合わせて、フリーに弾くとしたらどんなふうになるか…という譜面を作ってもらった。

八分音符だけを並べて、スコアが埋まっていく。

先生は時々ギターの指板の上で指を動かしながら、書いていくのだ。

15分ほどすると、完成した。

ぼくが伴奏して、先生がそのスコアを弾くと…すごいものができていた。

いつものことだが、こんなふうになるのか、とビックリする。

スコアを見ながら、3回ほど一緒に弾いて、宿題になった。

帰りは10時を過ぎる。
疲れているはずだったのに、帰り道は疲れを感じない。

満月を見上げながら、満ち足りた気分で足どりも軽く、駅へと向かう。

往きはよいよいではなく、「帰りはよいよい」。




| | 考えたこと | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
頭でっかち
以前からCDをかけて、それに合わせてギターを弾くのが楽しみの一つだ。
ところが、最近どうもうまくいかない。

ギターのレッスンを始めて、この夏くらいから何かが違う。どことなく自分でもぎこちない。

先生に一つのコードでも、いろいろなポジションがあることや、代理のコードを習ったら、どうも頭でっかちになったらしい。
無意識にできていたことが、考えないとできなくなった。

キーが決まれば、どこのポジションを基本の位置にするかが決まり、そのキーの基本的なコードの位置も決まる。
ほとんどのポップス曲は、?、?m、?m、?、?、?m、というようなコードの組み合わせになる。(?がキーのドの音)
機械的にわかっていた位置が、知識が増えた分だけ、ややこしくなった。
その上、同じコードの違う押さえ方をたくさん知ってしまった。

この夏くらいから、今までワンパターンで覚えていたコードの押さえ方を、できるだけ先生に習ったカタチで押さえるようにしてきた。
そうすると…頭でっかちになった。

まだ習ったことが消化できていないからだろう。

これはいいことだ。

定着するまで、しばらくかかる。

それでも、ながらく続いたワンパターンの演奏からは脱皮できそうだ。

でも、長いこと平地の上を歩いてきて、ようやく少し上り坂にさしかかった。

五十の手習いだが…。


| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
「笑わせる」と「笑われる」
桂米朝の弟子で最も人気があったのが、桂枝雀。
自殺されたのは、残念だった。

師弟ではあるが、米朝と枝雀は落語に対する考え方が対照的だと思う。

米朝がどこかで言っていたが、枝雀が自分の落語を聞いて笑うということがわからない…ということだった。

米朝にとっては、落語というのはお客さんを「笑わせる」ものであり、計算されたセリフや間、話し方などを研究して、演じているものだったと思う。
これが普通の落語家の考え方なのかもしれない。
だから、自分の落語はそれを分析的に聞くものであり、笑ってなどいられない。

生前の枝雀が言っていた、彼の究極の舞台というのは、自分が高座に上がり、何も話さずそこにいるだけで、お客さんが楽しく笑う…というものだ。
これは、お客さんを「笑わせる」というよりも、自分が「笑われる」存在になれればいい、というように思える。
枝雀は「笑われる」ことを望んだから、自身の落語を聞いて、自分も笑っていたのだろう。

演者の姿勢の根本が違っている。

もちろん、枝雀の落語にはたくさんの技法、工夫が入っている。
だからこそ面白いのだ。
落語家である以上、その話芸をみがくという点では両者に変わりはない。
ただ、枝雀は技術を追い求めて「笑わそう」と思ったのではなく、どうやったら自身の落語を通じて、自分を「笑ってもらえるか」を考えたのだと思う。

自分が「笑われる」ためには、きっと自分を一度突き放さないといけないのだと思う。
外から自分を見ることができないと、どうやったら「笑われる」かはわからない。

真のエンターティナーというのは、「笑われる」ことをめざすタイプだとぼくは思う。
「笑わせる」という姿勢にはきっと限界がある。

それは、厳しく苦しいことでもあるのだろう。
技術の問題だけではなく、全人的な問題にもなってくるからだ。

泣かすよりも笑わす方が難しい。

でも、お客さんに、愛情をこめて笑われることはもっと難しい。





| | 考えたこと | 23:36 | comments(2) | trackbacks(0) |
ながら族
今の中高生はAMラジオの深夜放送を聞くのだろうか。
ウチではあまり聞いている様子がない。

ぼくらが中学・高校の頃はAMラジオの深夜放送を聞いたもの。
寝るときにラジオをつけて聞いたこともあるし、学校から帰ってから一度寝て、深夜に勉強しながら聞いたりした。
前にも書いたが、聞いていたのはヤングリクエストやヤングタウン。
中学の頃は、翌日学校で友だちと前日の深夜放送の話題に花が咲いたりしたものだ。

「ながら族」という言葉、これももう死語かもしれない。
よく親父に「ながら族」はヨクナイと言われた。
もちろん、何かをしながら、別のことをする…という意味。
勉強をしながら、ラジオを聞くのはヨクナイということだ。

でも、今になって思えば、役に立っている場面もある。

会議のときに、他の人の意見を聞いてあいずちをうちながら自分の意見をメモしたり、発言しながらまとめを書いたりするというのは、「ながら族」の訓練が役に立っているのではないか。
特に、あのころの深夜放送は、音楽を聞くというよりも、話を聞くのがメインだったから。

今でもテレビの音声を聞きながら、キーボードをたたき、時々画面を見る…というようなこともできる。(それができたから、どうというワケではないが)

聞きながら聞いていることと違うことを書く、考えながら、考えていることと違うことを話す…どちらもすごく大事なことだ。

これらはソーシャルスキルの一つだろう。

深夜放送がすたれて、「ながら族」が減り、日本人のソーシャルスキルが落ちたのかもしれない。

ヤングタウンに感謝しないといけない。



| | 考えたこと | 02:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
特別な場所
今日で震災からまる13年。

この13年が早かったのかと言われれば…早かったと思う。
でもそれは、年をとって、毎年思うことで、震災があってもなくても変わらないことだ。

「阪神大震災」は、記憶の中で特別な場所に入っている。
時間が過ぎても変わらない。

ちょうど、神戸の大空襲を経験した人が、50年以上経ってもそれを昨日のことのように語れるのと同じことだ。

さいわい、ぼくは倒れてきた本棚の下敷きになった程度で、マンションも何ともなかったし、運がよかった。
神戸の実家も、古い家だったが、ぼくも弟も家を出ていて、2階が軽かったおかげか、なんとか持ちこたえた。

でも、両親を迎えに16時間かけて行ったこと、毎日往復40キロの自転車通勤、通勤途中で差し入れを買って持っていったことや無事を確かめに友だちの家に寄ったこと、倒れた電柱や火が出ているのに消防車がいない光景、机一つをみんなで使った会社の事務所、出張に行って電車から見た家がみんな普通に建っていて不思議に思ったこと、三宮の大丸がオープンして何となくうれしかったこと…本当に昨日のように思い出す。

あのような記憶は、どこか別のところに入るのだ。
それは、忘れられない特別な記憶の場所なのだろう。

もちろん、大震災のような悪いことだけではなく、良かったことで特別な場所に入る出来事もある。

それでも、大震災は、たくさんの場所をとっている。

特別な場所は、良かれ悪しかれ、忘れることはできない。

それを忘れずに生きていくことが、特別な場所の値打ちなのかもしれない。


| | 考えたこと | 00:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
慣性の法則
動き出したものは、動き続けようとするというのが慣性の法則。

動いている電車の中で飛び跳ねても、同じ場所に着地する…というヤツだ。

これは、日常生活ではあまり自覚することがない。
あまりにも当たり前だからだろう。

ぼくは車で通勤しているが、昨日の帰り道に慣性の法則を目で見てわかった。

最近ガソリン代が上がったので、帰り道はゆっくり走る。昨日の帰りに追い越し車線をかなり飛ばしているトラックから、1メートルくらいの長さの鉄パイプが落ちた。(直径は5センチくらい)

トラックとぼくとの速度差は30キロくらいあっただろうか。

落ちた鉄パイプは、路面との間で火花を出して、ガランという音をたてた。
思わず、ブレーキを踏んでよけようとしたが、鉄パイプは両端で交互に火花を出しながら、左右のどちらにいくのかわかららない状態で、ぼくの前を「走った」のだ。

幸い、後ろにも横にも車はいなかったので、速度を落としながら、鉄パイプがどちらかに行くのを待つことができた。

結局は、鉄パイプはカラン、カランという音をたてて、火花を出しながら路肩の方に去っていった。

しかし、こちらが70キロくらいで走っている前を、それよりも少し速いスピードで、鉄パイプが前に進んでいくのは、何とも不思議な光景だった。

あとで、路面で鉄パイプが跳ねて、こちらに向かってきていたら…と思ったが、かなりのスピードで走っていたトラックから落ちたので、そんなことはあり得ないのだとわかった。
ぼくの車よりも、鉄パイプの方が速いからだ。
これが慣性の法則…なるほど、と納得した。

かなり速度差があったから、よかったのだ。
路面に当たって、火花を出して、速度が落ちてもまだぼくよりは速かった。

それにしても、アブナイ。
荷物は落とさないように走ってもらいたい。

一歩間違えば、大事故になる…。
大きなトラックが鉄パイプを巻き上げたりしたら、それこそ後ろの車が大変だ。
これは、慣性の法則が働かない。

吹田のパーキングで、落下物がありました、と伝えて帰ったが、ホントに危ない。

それにしても、奇妙な光景だった。

何となく、自分の無事をニュートンに感謝したい気持ちになった。


| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しい略語
前に、スゲー、ムリ、ビミョーについて書いたが、最近の言葉でヘンな略語がある。
むずい、きもいというようなもの。

「むずかしい」が「むずい」になり、「きもちわるい」が「きもい」になる。
「きしょくわるい」が「きしょい」になることもある。

だからといって、「おろかしい」が「おろい」になるわけではなく、「かんじわるい」が「かんい」になるわけではない。

よく使う言葉だけが簡略化されていくのだろう。

今のところは、10代の人たちが使っているような気がする。

まだまだ市民権を得ているワケではない。

それでも、あと50年くらい経てば、今の10代の人たちが60代になって、その時には「むずい」「きもい」は普通の言葉になっている可能性がある。

なぜかというと、それらの言葉は、人によっては「むずかしい」「きもちわるい」という言葉を略して使っているという意識がないように思えるからだ。

「むずかしい」と言おうと思って、「むずい」と言っているなら、その人たちが正式な書き言葉を書こうとした時には、「むずかしい」と書くだろうと思うのだが、むずかしいことを「むずい」と言うのだと思っている人たちにとっては、「むずい」というのは略語ではなく、ちゃんとした形容詞になっていて、それはちゃんとした?言葉になっている。
だから、いつかは「むずい」や「きもい」は広辞苑に載る言葉になりそうな気がする。

そんなふうにして、言葉は変わっていくのだろう。

「昔は、むずかしいと言っていたのだが、略されてむずいになった」と説明されるのだろうか。

ひょっとしたら、ぼくが生きている間に、両方とも載るかもしれないなあ。

すでにgoo辞書には両方とも「新語」として載っていた。

ひょっとしたら、広辞苑の新版にもう載っていたりして…。



| | 考えたこと | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
心の固有振動数
モノにはそのカタチと材料によって、振動しやすくなるポイントがある。
これを固有振動数という。

複雑な構造物になると、それがどのあたりにあるのか、見つけることがむずかしくなる。
今はコンピューターでシュミレーションできるから、便利になった。
吊り橋などの大きな構造物は、風で揺れたりした時に固有振動数の刺激を受けてしまうと、壊れてしまったりするので、充分に計算しないといけない。
そうならないように、どこかに重りをつけたりすることもあるだろう。

どんなものにも、固有振動数がある。

それは人間にもあるのだと思う。
物理的にではなく、好みというヤツだ。
そこに触れると、心が振動して、感動してしまうとか、涙が出るとか…。
これは心の固有振動数と言ってもいいかもしれない。

ぼくがいいと思うバンドや曲も、他の人にはそうでもない。
子どもの好きなバンドや歌手もあまり共有できない。
一人ずつ、固有振動数が違うからこそ、いろいろな芸術がこの世に存在するのだろう。

物理学では、モノを構成している材料とカタチが固有振動数を決める大きな要因。

心の固有振動数には、時間の概念が影響する。
自分の過ごしてきた境遇や経験、知識などが振動数を決めるのだろう。

この歌手がこの曲を歌うというだけで、感動する。
この曲のこの歌詞に、感動する。
その曲の間奏で、アルトサックスのフレーズが流れると、なぜか涙が出たりする。
あのドラマのあのセリフ、あの場面で涙が出たりする。

それらは自分の経験や知識から想像される気持ちと重なるからだろう。

モノの固有振動数は、どちらかというとその構造体にとっての弱点になるので、嫌がられるものだが、心の固有振動数はたくさんある方がいい。

それがたくさんあるということは、たくさんの経験や知識があるということ。
生きてきた時間にかかわらず、その密度が固有振動数のポイントを増やすのだ。

1年ずつ年を取っていく。

少しでも、固有振動数の数を増やせるような体験をしていければいいと思う。



| | 考えたこと | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
じゃないですか
数年前から「じゃないですか」という言葉が増えた。

「行くとしたら」、「行った時に」は「行くじゃないですか」
「ヨクナイと思う」は「ヨクナイじゃないですか」
「遠いでしょう」は「遠いじゃないですか」
「好きです」は「好きじゃないですか」

好きではない。

同意を求めて話を進めていくというのは、悪くないと思うが、あまり頻繁に同意を求められても…と思う。

「じゃないですか」が増えてくると、どんどん主張が希薄になる。
相手に否定されても、自分の思っていることを言えばいい。

念をおされるのがイヤだというわけではないが、聞いている時に判断を求められると、そこで思考が切れてしまうということもある。

「じゃないですか」を使うと損だと思うのだが、そうじゃないですか?と聞いたら笑われてしまった。

それでも、そう思う。

そうでしょう?


| | 考えたこと | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
ふりつけからダンスへ
ひと昔前は、テレビの音楽番組で「踊る」というと、歌のオマケという感じだった。

もっとも、それは「ふりつけ」と言われていたものだが…。

麻丘めぐみの「私の彼は左きき」あたりが懐かしい。
男性ではフォーリーブスがハシリかな…。

その後、キャンディーズ、ピンクレディと続く。

ジャニーズ事務所のタレントたちがそれに続いていったようだが、数年前に様相が変わった。

エグザイルを初めて見た時はビックリした。

子どもに「あのチョロチョロしている人は?」と聞くと、「ダンサー」だという。

それまでは、歌う人が踊るのが原則だった。

エグザイルは、歌う人は歌い、踊る人は踊る。
ダンスが主役で、シンガーは脇役と言ってもいい。

CDを買うと、DVDが入っていたりする。
ダンスを見せるために歌がある。

今はダンサーではなく、パフォーマーというらしい。

世の中はどんどん変わっていく。

どんどん増えていくのだろう。

たしかに、音楽が簡単にコピーできる時代になった今、ビジュアルで売る方が儲かるのも事実。
ビジネスとしても正解かもしれない。

「ふりつけ」はもう古いのか…。

パフォーマーの時代が来つつある。



| | 音楽 | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
水の中
地球上で生命が生まれたのは海である。

ぼくら哺乳類は水から出て、陸に上がった動物。
哺乳類だけではなく、全ての動物の故郷は水の中である。

最近プールに通うようになったが、泳ぎはじめてしばらくするとしんどくなり、もう少し泳ぎ続けると、少し楽になるということがわかった。

ランナーズ・ハイという言葉があるが、スイマーズ・ハイということなのかもしれない。

そんなとき水の中にいると、何となく時間の流れが違うような気がする。

自然の時間というか、太古の時間というか…。

そういう状態になると、頭がスッキリして、心地よい疲れになる。

これはやっぱり、水の中がぼくらの故郷だからなのか…。

水の中には不思議なチカラがある。

泳いでエネルギーを使うのだが、どこかからエネルギーをもらえるのかもしれない。

そんな効果があります。



| | 考えたこと | 03:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
リズム隊
4人とか5人編成のバンドで大事なのは何だろう。

うまくても、さほど目立たないが、ヘタだと演奏がぶちこわしになるもの…リズム隊だ。
ドラムスとベース。これがヘタだと、他のメンバーがどれだけ頑張っても聞けない。

人間的に正確なビートがきざめること、これだ。

「人間的に正確」というのは、リズムマシンのように機械的に正確ではないということ。
適度なツッコミやモタリがビートを生む。

コンピューターで作るドラムスにも、「ヒューマナイズ」というような機能がある。
ランダムに少しずつジャストのビートから外したり、ツッコミやモタリをプログラミングできる機能。
それによって、文字通り「人間らしい」ビートになる。

ベースも、ビートが大事だ。
ソロで見せるプレイではないところでは、音楽の底を支えるビートを作らないといけない。

ドラムスとベースがちゃんとビートをきざめれば、ノリができる。
それができれば、少々ギターがヘタでも、ボーカルがヘタでも、一応聞くことができると思う。
手拍子ができるのだ。

かっこいいギターやキーボードのソロも、リズム隊が支えているからこそ、聴衆をひきつける事ができる。

縁の下の力持ちである。

本当にかっこいいのは、そんなリズム隊。

演奏を聞いて、自然と身体がリズムをきざめる時は、そんなかっこいいリズム隊が活躍しているんだと思う。

ギターでいうと、Earth Wind and Fireの"September"や"Fantasy"の演奏はそんなかっこよさがある。

あんな演奏ができたら、本当に気持ちいいだろうなあ…。


| | 考えたこと | 00:44 | comments(4) | trackbacks(0) |
生きていくのに一番大事なもの
今日は仕事をしながら、「生きていくのに一番大事なものは何だろう?」と考えさせられた。

何だと思いますか?

もちろん、衣食住は必要だが、それとは違う部分で必要なものだ。
家族もその候補だろうし、友達もそうかもしれない。

でも、そんな関係をうまくやっていくためには何が必要だろうか…。

それは「自信」だろうと思う。
言い換えると、「自分を好きになれること」。

今日はそれに思い当たることがあって、いい一日だった。

時にはキライになることもあるだろう。

でも、自分を好きになれなければ、他人を好きになることもできない。

人間は関係の中で生きている。

関係の中からしか、幸せは出てこない。

自分を好きになれなければ、よい関係は得られないと思う。

だから、生きていくのに一番大事なものは、自分を好きになれることなのだ。



| | 考えたこと | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
びっくり天ぷらそば
前にも出てきたH君とアメリカに出張した時のこと。

ぼくらはあまり洋食が得意ではないので、日本食や中華料理のレストランを常用していた。
もちろん、言葉の問題もあるのだが…。

ホテルの近くのモールにいくつかレストランが並んでいた。

入ったところがカウンターになっている、寿司バーみたいな店や中華料理の店…どこか中国の地名みたいな名前だったか…によく行った。
でも、値段が高かったし、他の店にも行ってみようという話になった。

その店は、たしかサクラという名前だったと思うが、日本人がやっているのではなく、中国の人がやっている店だった。
アルコール販売の免許がおりていない店だったか…。
何となく「しけた」雰囲気だったので、敬遠していたのだが、一度はここで食べてみよう…と足を運んだ。

メニューを見ると、なんと「天ぷらそば」がある。
ローマ字で書いてあったが、見たとたん大喜びした。

「天ぷらそば、プリーズ」と喜び勇んで注文し、ここでこんなものにありつけるとは…と待っていたら、天ぷらとそばが別々に出てきたのだ。

大きな鉢に、どう考えても2タマは入っている、のびたかけそば。
ネギも入っていない、本当にダシとそばだけ。
その横に皿に載ったエビの天ぷらが2つ。
しなっとした、生きの悪いエビ天だった。

ぼくは麺類が好きだが、これほどまずかった天ぷらそばはない。
それでも、食べたのだが…。
あれは、どうやって食べても、まずかったと今でも思う。

ショーウィンドウに見本もなければ、写真もない。

あの時ほど、日本のレストランのシステムが素晴らしいと思ったことはない。


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昭和ひと桁ジュニア
今の人口動態で、キーとなるセグメントは世代に名前をつけて呼ばれている。

団塊の世代、団塊ジュニア、新人類…。

ぼくらは団塊の世代のあとの世代である。
三無主義(無気力・無責任・無関心/無感動)などと呼ばれたり、シラケていると言われたり…。
どこまでいっても、「団塊の世代のあと」の世代となる。

実際には何も変えることができなかった学園紛争、安保闘争…それらの騒ぎを小学校〜中学校の時に見て育ち、浅間山荘事件を高校の時に見て育った。
「戦争を知らない子どもたち」を団塊の世代を追いかけて歌っていた。

その歌が世に出た70年代がティーンエージャーの幕開けだった。

拓郎、陽水(彼ら自身は団塊の世代だった)らがその前の世代のフォークソングを「流行歌」に変えていき、シンガー・ソングライターというジャンルを作り、そして、同世代のユーミンや竹内まりや、山下達郎、桑田佳祐(サザン)らが出てきた時代。

自分ではそんなに無気力だとも思わないし、しらけていたとも思わない。

ぼくらの名前は何なのか?ずっと心にひっかかっていたが、今日わかった。

ぼくらは「昭和ひと桁ジュニア」なのだ。

父も母も昭和ひと桁だった。
一番多感な時代に戦争を体験した世代。

親は「私らの世代は、何も信じる気にならない。戦争で何もかもひっくり返ったから…」と言っていた。

ひょっとしたら、親の世代の「何も信じる気にならない」という思いを受け継いで、三無主義などと言われていたのかもしれない。

奇しくもゼロックスの有名なコピー、「モーレツからビューティフルへ」というCMが流れたのが1970年。

それを見て、父は少し苦々しく思っていたのではないかと思う。
入学式や卒業式に父親が来ることなどあり得なかった。
家族そろって夕食を食べるのは、休日だけ。土曜日も半日は出勤が当たり前の時代。

高度成長の時代を支えて、これからという時にオイルショック…。
でも、文句を言わずに働いてきた世代のジュニアがぼくらの世代。

今日は、自分に「昭和ひと桁ジュニア」という名前をつけて、少しスッキリした。

独りよがりです。



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正月の読書
この休みに本を3冊読んだ。

2冊は高島俊夫の本。「座右の名文」と「漢字と日本人」いずれも文春新書。

「座右の名文」は高島さんが名文家だと思っている人たちの思想と文章を紹介したもの。

新井白石、本居宣長、寺田寅彦、夏目漱石、森鴎外、斎藤茂吉…、いずれも歴史か国語で習った人たち。
森鴎外の項が一番面白かった。
それぞれの文章家に対して語られる作者の評が面白い。

「漢字と日本人」は素晴らしい本。

日本語が豊かな語彙を持つ前に、中国から渡ってきた文字を使って表記を始めた日本語というものの本質が誰にでもわかるように説明される。
特に明治以降、西洋の概念をどんどん漢字で作ってしまったため、今の日本人は話す「音」をいったん漢字に置き換えないと意味がわからなくなってしまっているという状態の説明は圧巻だ。
「お言葉ですが」のシリーズでも、何度も語られているが、今の活字の制限状態はオカシイという指摘は正しい。
それとともに、今の日本語で「書く」時には、できるだけかなを使って書こう、という姿勢も納得できる。
「言葉というものは、それによって世界の認識を切り取るもの」…そのとおりだと思う。
今は目が悪くなって、執筆もできない状態のようだが、中国語、英語を例に引きながら丁寧に書かれた日本語の「文字」と「言語」についての説明は、この人でなければ書けなかったものだと思う。

もう1冊は「その数学が戦略を決める」イアン・エアーズ。

どんどん情報がデジタル化されて、いかに専門家といわれる人たちの判断がいい加減で、データーに基づく判断の方が正しいかということが、これでもかと語られる。
筆者は計量経済学の専門家。
大量の数字を扱う環境が整い、なぜアマゾンで本を買ったら、その人にとってのオススメ本が瞬時に紹介されるのかなどの技術についても言及される。
スポーツ、ワインの出来、医療、結婚、犯罪の再犯率などの政策分野など、統計データーの活用範囲は広がるばかり。
映画の脚本さえ、どうしたら当たるのかという予測が成り立つ現代。
今のアメリカの状況がよくわかる。
最後の章で、簡単な統計の知識についても紹介されている。
ギガからテラ、そしてペタという大量のデーターが簡単に扱えるようになったということが、これほどまでに世の中を変えていくのかということと、それに対する人間の拒否反応が対照的で面白い。
犯罪についても、アメリカでは顔の認識ソフトを使って、免許証の写真データーベースから容疑者をマッチさせるということすらやっているらしい。
特に政策分野での統計の活用という面で、日本が圧倒的に遅れていることがよくわかった。
もともとデーターがないのだ。
クルマを安全に作るためには事故のデーターが必要だが、そのデーターは国内にはほとんどなく、日本の自動車メーカーは海外のデーターを使っているという話を聞いたことがある。
東洋人は分析が不得意なのかもしれない…と本気で思った。

明日から仕事。

今年は年初からいい本に出会えてよかった。




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面白い人
面白いという言葉の意味はだいたい2つ。
文字通り、「オカシイ」という意味と、「興味深い」という意味だ。
英語でいうと、funnyとinterestingになる。

単なるおかしさは長続きしない。
即物的なおかしさには飽きがくる。
最初は単なるおかしさであってもいいのだが、そのおかしさの底にポリシーみたいなものが必要だと思う。
それが、興味深い面白さにつながっていく。

あいつ、面白いなあ…という時には、その人の表面ではなくて、底に隠れているものを面白いと思っている。

いい意味で、何を考えてるんやろ?という面白さや、何をきいてもそれなりの答えが返ってくるという面白さ、自分にはない考えを聞けるという面白さ…。

結局は知識や経験と、それに基づく自分なりの生き方みたいなものにつながっていく。

特に経験は大事だ。
誰にでも、経験はある。
でも、自分のしてきたこと…それがよかったことであれ、悪かったことであれ…を自分なりに消化して、その上に積み重ねていこうというような姿勢が大事なのだと思う。

そして、本当に面白い人は、自分の経験を面白がれる人のような気がする。

自分を突きはなせないと、本当に面白い人にはなれないのではないか。

それがなかなか出来ないことだから、やっぱり世の中には「面白い人」は少ないのだと思う。



| | 考えたこと | 21:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
置かれた場所
その人自身にパワーがあるわけではなく、その人の地位や職位がパワーを生む。
意外と忘れがちなこと。
だから、発言には気をつけないといけない。
これをポジション・パワーという…と何かの研修で聞いた。

その人の場所は、いろいろなことに関わってくる。

置かれた場所がその人を育てるという場合もあるし、つぶしてしまう場合もある。

昨日、久しぶりに寄席を見に行った。

米朝の一門会だが、80歳を越えて、米朝は落語はしなかった。
もう舞台を見ることはできないだろう。

ぼくらが小学校の頃は、まだ落語をテレビで見ることができた。
一つの噺をちゃんと聞けた時代だ。
米朝の落語はよく聞いた覚えがある。
「どこ行きまんねん? ちょっとソコまで…。 そら、ケッコウな。…エエ加減な挨拶でんなぁ」というマクラは何度も聞いた。
ウチの父は落語を聞いて笑うような人間ではなかったが、米朝のマクラでは笑っていた。

その米朝の息子が小米朝。
この秋に米朝の師匠であった、米團治の名前を襲名する。
昨日の寄席でトリをつとめた。
それなりに、難しい噺をこなしてはいたが…ちょっと、しんどいような気がする。

米團治の名前とポジションが、彼を育てるかもしれないと言われれば、そうかもしれない。

一門とすれば、米朝師匠が元気なあいだに襲名披露を…ということだろう。
米朝事務所という会社もあるし。

小米朝が米團治になるには、もうちょっと「面白い人」にならないといけないと思う。
素人がこんな事を言ったら怒られるが、落語は稽古すれば何とかなるだろう。
結局は「どんな人間なのか」が芸にあらわれるのだ。

昨日の舞台を見て、少し心配になった。

置かれた場所が、彼を育てるといいのだが…。

がんばってほしいと思う。



| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
世界最速のインディアン
アンソニー・ホプキンスが純粋な老人を好演。

ニュージーランドの老人が、家を抵当に入れてアメリカに渡り、ずっと改造を重ねてきたインディアンというバイクを走らせて、最高速に挑戦する。
25年間の夢を叶える老人と、彼を支える人たちの物語。

隣家の少年トム、年金係の女性、若いバイカーたち、ハリウッドのモーテルの受付嬢、中古車屋の主人、ロスからボンネビルに行く途中に知り合ったインディアン、通りがかりに助けてくれた女性、ボンネビルのスピードコースで出会った人たち…。
彼とかかわった人たちは、彼を好きになる。

心臓発作やバイクの不調など、夢を遮ろうとするものがあっても、彼は止まらない。

速く走るための彼の哲学は、時代遅れだと言われても、人々を説得する力があるのだ。

タイヤの軽量化をするために、ナイフでゴムを削り取ったり、自分でエンジンのピストンを鋳造したり…。

ブレーキもなく、止まるためのパラシュートもない。サスペンションは旧式だし、タイヤはひび割れている。
「そんなバイクで、ここを走るのか?」とスピードコースの人たちは言う。
それでも、あの年で地球の裏側から、ここで速く走るためだけにやってきたのだから…。

いわゆる、ロード・ムービーである。

ぼくは、このロード・ムービーものが好きだ。
「エリザベス・タウン」もそうだった。

人生は旅。

彼のように、一つの夢を求めて走り続けられる旅を見ていると、せつなくて、うれしくなる。


| | 映画・舞台 | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
若いころは…
若いころは、好きなこと仕事にしたいと思うものだ。

自分をふり返ってもそう思う。
ヘタながら4年間落語をやって、ぼくも一丁前にプロの落語家になりたいと思ったことはある。
それでも、自分でムリだと知った。

プロの落語家と一緒に、余興をしたことがあって、その時にわかった。
自分には、そんな能力はない。

もちろん、どんなことでも本当にやる気になって一生懸命やれば、少しはできるようになるかもしれない。
でも、プロというのは別だと思った。
素人とは、技術以前の問題がある。気合いというか、気迫というか…、「姿勢」が違うのだ。
それがわかって、よかったと思う。

夢というほどのものでもなかったが、そういうあきらめもあって、今がある。

今の若い人たちにも、そんな人がたくさんいるだろう。

そんなことを考えていたら、この歌が頭に浮かんだ。
フォーク・クルセダースの「さすらい人の子守歌」。
1969年の歌。
歌詞を見たらそうでもないのだが、「さすらい人」という言葉が、一人で何かをめざして旅立っていく若者を思い起こさせる。

「さすらい人」にはなれなかったが、誰もがそんな思いを一度はあきらめて生きている。
年賀状を見ていて、そんなことを思った。

フォーク・クルセダース…懐かしい。


 さすらい人の子守歌

 旅につかれた 若い二人に
 さすらい人の 子守歌を
 星は歌うよ どこへゆくの
 ふるさとのあの丘に もう帰れない
 今はもう 帰れない

 浜木綿の花 におう浜辺に
 海をみつめて 泣く二人
 忘れたいのさ 悪いことを
 あの歌もあの夢ももう消えてゆく
 今はもう消えてゆく

 涙をながす 若い二人に
 さすらい人の 子守歌を
 おさない頃にささやいた
 あの海もあの星も もう歌わない
 今はもう 歌わない

 夜があけたら また旅にでる
 ふるさとのあの丘に もう帰れない
 今はもう 帰れない



| | 考えたこと | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
明けまして…
おめでとうございます。

2008年が始まりました。

今年も初詣に行っておみくじをひいた。

去年のおみくじは、なんとなく心うきうきするような文句だったが、今年は、ちょっと難しい。

さらに望んで神前に立つ
何ぞ期せん 晩成にあることを
もし重山を過ぎ去らば
財禄自ずから相迎う

要は、今年は晩成だということらしい。
重なる山を過ぎないといけない…というのが三行目の意味。

拍手をうって、いろいろと頼みごとをしすぎたのかもしれない。
神サンが「それだけ言うたら、ちょっとすぐには難しいなあ」と言っているようだ。

去年のおみくじを焚き火で燃やし、お礼を言って、今年の分を財布に入れておく。

今年はオリンピックの年。
あとで、China Yearなどと言われるようになるのかもしれない。
日本も東京オリンピックあたりから、どんどん経済発展し続けてきた。

「明日はきっと昨日より良い日になる」と思えた時代だった。
道はどんどん舗装され、テレビが普及し、ちゃんと仕事をすれば、豊かになれる…と誰もが思っていた。

あの時、小学校の2年生だった自分が、今は50歳。

42年間、そこそこ頑張ってきたとは思うのだが、何をしてきたのか?と言われると…うまくは言えない。

答えはあとでついてくるもの。

ここまで来たら、そんなに方向転換することはできない。

一年はあっという間だが、大事にいきましょう。

今年もよろしくお願いします。



| | 考えたこと | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |