考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< August 2014 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
新卒一括採用
日本では大学を卒業する時に同時に就職するというシステムができている。
それが新卒一括採用。
経済はグローバル化しているが、日本企業はそれに遅れをとっている。
その原因の一つが、新卒一括採用である、という記事が日経電子版に出ていた。
「革新阻む新卒一括採用  石田潤一郎 大阪大学教授 」という記事。

今の労働市場での新卒一括採用の位置づけは、まだまだ高い。
その証拠に「就活」という言葉は学生にとって大きな意味を持っている。

キャリア採用(中途採用)もだんだんと増えてきているし、外国人採用も枠を増やしつつあるが、それでも新卒一括採用は多く、それは日本の特徴となっている。

フォーチュン誌のグローバル500という企業群がある。
アメリカのフォーチュン誌が、グローバルで活躍する企業として選んでいるものだ。
日本企業は、2000年に100社以上あったが、2014年には57社に減った。
つまり国際的な企業が減っている(他国の会社が増えている)ということだ。

このフォーチュンの結果を招いたのには、いくつかの要因があるのだが、一つは新卒一括採用があるおかげで、転職意欲が低くなること、と記事はいう。
転職の労働市場はまだまだ小さいからだ。
今まではそのメリットもあった。
新卒で就職した会社に骨を埋めよう、という気持ちで入る人も多かったから、転勤は厭わないし、会社の組織に忠実な人が多かった。
これは年功序列賃金などと相まって、日本の長期雇用のシステムを支えてきたのだろう。
要は、日本人の企業に対する忠誠心が高いわけではなく、そういう労働市場のシステムをとっていた、ということだ。

でも、それもぼちぼちほころんできた。
企業はグローバルでの競争にさらされ、新興国や他の先進国から追いつかれている。
海外にも出て行かないといけないし、日本で余剰の人員を雇っている余裕もなくなってきた。
だから、非正規雇用が増えて今や4割に達そうとしている。
IT化や機械化がそれに拍車をかけている。
実際、人がいらなくなったのだ。

今の企業の大きな問題は、中高年を中心とした高給取りの正社員(の一部)である。
パイは一定だから、中高年の正社員がたくさん取っていると、若い人に回らない。
だから、非正規を増やして対応しているが、それでは社会保障などのシステムが回っていかない。

おまけにもう高度成長の時代ではない。
国内市場は縮小していくのだ。
伸びていくのは高齢化が進むから、すぐに思いつくのは、介護の分野とか、多死の時代が来るので、葬祭や終活の分野などだろう。

新たな産業領域を作る、という意味では「イノベーション」というものが大事だという。
そして、それにはベンチャー企業の方が向いている、ということらしい。

「組織の論理が支配する大企業と異なり、ベンチャー企業の多くは市場の圧力により強く面している。真に革新的なイノベーションはより市場に近いところで生まれやすいといってもよいであろう。」

ちょっと長くなるが、最後の結論の部分を引用する。

「新卒採用は、この人材供給の面で大きな足かせとなっている可能性が高い。自分を売り込むタイミングが新卒時にほぼ限られるなら、そこでの選択が安定志向となるのもやむを得ないであろう。
 一度の失敗を取り戻すことが難しい環境では、起業をすることはもちろん、経営が軌道に乗っていないベンチャーを就職先として選ぶことさえ大きなリスクを伴う。人材はベンチャー企業の生命線だが、新卒採用が生み出す規範と硬直的な労働市場は、新しい企業が実績のある大企業に対抗して優秀な人材を獲得することを極めて困難にする。
 大ざっぱにいうと日本社会は「成功する」ことより「失敗しない」ことに価値を置く減点主義社会である。決められたレールを外れないように注意深く生きることに対するリターンが高い一方、レールを外れて新しいことに挑戦するコストが相対的に高い。
 こうした構造は、経済が発展途上にあり、均質で勤勉な労働者が多数必要な経済では極めて有効だった。しかし現在では、皆がただ失敗しないようにリスクを避けるだけでは、新たな価値や市場を創造することはできない。
 豊かさは人間にとっての普遍的な価値であり、ある段階までは経済発展が全てに優先する目標である。しかし、ある程度の豊かさを達成した社会は、多様性を許容する方向へシフトしなければならない。年齢を基準にして皆で一斉に何かをしないといけないような前近代的な規範からはそろそろ卒業すべきだろう。」

ぼくも今の日本はとても豊かだと思う。
よくテレビでアフリカの栄養失調の子供が出てくる。
あれを見ると、自分でもどうしようかと思う。
結果的に何かをするわけでもない。
でも、やり切れない気持ちになる。

だからといって、これからは、成長しなくてもいいなどとは思わない。
みんなで我慢しましょう、というような意見は絵空事だと思う。
子供が病気にかかれば治したいと思うし、教育を受けることが出来なければ、受けさせたいと思う。
それらを実現するのが、豊かさだろう。

戦後の焼け跡から立ち上がった人たちは、日本を焼け跡の状態から豊かにしたいと思っていた。
それで必死に働いた。
東京オリンピックもやって、新幹線も動き、名神も開通して、やっと日本は世界の国々(これは先進国だが)と肩を並べられるようになった、と喜んだ。

その人たちと、それに続く人たちがいたから、今がある。

もう残りは少ないが、ぼくは日本にイノベーションがたくさん起こるようになってほしいと思う。

そして、少なくとも、リーズナブルな豊かさが維持できるだけの成長は続けてほしいと思っている。


| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
就職大学
就職に特化した大学がある。
偏差値は低いが、就職率は高く、行く先も上場企業が多い、というような学校だ。

プレジデントに特集記事があった。
記事で出てくる学校はいずれも偏差値50以下。金沢星稜大学、玉川大学工学部、大阪経済法科大学の3校。

金沢星稜大学のCDPプログラム(キャリア・ディベロップメント・プログラム)は聞いたことがある。
学長主導で、学校を変えたという記事が以前あった。
地方公務員(警察含む)の受験プログラムを1年からやって、それでまず就職率を上げた。
今は一般就職にも力を入れている。

大学に来たら、いきなり散髪された…、で始まる特集記事。
「スパルタ式就職指導」で実績を伸ばしているとのこと。
就職ガイダンス(課外)も厳しく、遅刻は認めない。始まると同時にドアをロックしてしまう。
会場の外で身だしなみチェックがあり、その場で散髪もする。
就職は団体戦だという。

「2003年の就職率は66%で、そのうち上場企業の内定率は0.9%だった。だが09年の就職率は81%で、上場企業の内定率は39%。就職の質は劇的に向上している。」

「大学生の「就職人気ランキング」では商社や銀行、旅行代理店が上位を占める。だがすべての学生がそうした業種に就けるわけではない。自分に合った業種や企業は説明会や面接を重ねるなかで段々と見えてくる。100社行くのは当たり前――。そんな雰囲気がみなぎっている。
活動の拠点となるのが「就職支援センター」だ。職員だけでなく、進路の決まった学生が常駐。面接に落ちて悔しい思いをしても、センターに来れば誰かが励ましてくれる。思いを共有してくれる。」

効果はスゴイ。

「同大は03年度には定員割れに追い込まれていたが、11年度は定員430人に対し、志願者1610人と「奇跡の復活」を遂げている。入学時から就業意識を高め、団体戦で就活をやり抜く――。堀口センター長による梃入れが、着実に実を結びつつある。」

他の2校もゼミでの指導など、きめ細かい指導をやって、就職実績を上げている。
なかなかできることではない。
それをやるかどうかは別にして…だ。

要するに、どこの大学でも、こういうことをやれば就職実績は上がると思う。
入った時から、厳しく、講座を取らせ、しつけの面も厳しく、「公務員になる」とか「内定を取る」とかいう目標を大学に入った時から意識させ、実際に厳しく指導する、という方法である。
もちろん人がいるし、金がかかる。
でも大学にはいろんな無駄遣いがあるから、それを切り詰めれば金の問題は何とかなる。

問題はだれが旗をふるかだ。
金沢星稜大学の場合は学長が主導した。
学長が理事会を味方につけ、これでいく、という明確な意志を持って、ぶれずに金と場所と人と時間をとる、と宣言することが必要だ。
たいがいの場合は、教授会から何やかやと反対がある。
曰く、人をどうするのか、予算をどうするのか、教室はあるのか、授業と重なったらどうするのか、学生がそっちばっかりやりだしたらどうするのか、そもそもそんなことをするのが大学か…。

学長がやる気にならない場合も、もちろん多い。
教授会を押し切ろうと思うと、やる気がなくなるのだろう。
実際はほとんど出来ないところばかりだ。
だから、就職率が下がり、定員割れが起こっている。

金沢星稜は、一度定員割れをして、実質的に潰れかけたというのが良かったのだと思う。
改革をするのに「このままいったら潰れるぞ」という圧力がかけられる。
うまくいくところは、一度潰れかけたところも多いのではないか。
もちろん、そのまま定員割れしている大学も多いが…。

結局、成功例は公開されており、やる気になったらマネすればいいのだ。
それでも、なかなか出来ない。
そのために、ガバナンスを改革するということになったのは、先日書いたとおり。
あれは国立だったが…。

ただ、ぼくは、ここまではやりたくない。
これでは、夢も希望もないではないか。

大学には夢がないといけないと思う。
何だかわからないが、このキャンパスに来たら何かがありそうな気がする、というような夢だ。
大学が就職に特化すればするほど、大学には夢がなくなっていく。
それはいいことなんだろうか。
あくまで、学生が自分で気づいて、やる気になるような仕組みを作るべきだと思う。
そのためには、先生が頑張らないといけないのだが…。

体育会系のように、就職するぞ!というような「団体戦」は、ぼくはやりたくない。
学ぶ楽しみ、本を読む楽しみはどうなるのか。
本当は、高校まででその基礎をやっているはずなのだが…。
それらがやれていないので、こういうアプローチもアリになる。
でも、ぼくはやりたくない。

やっている学校はそれなりに立派だとは思う。
今の教育システムの中で、大学が偏差値に見合った、担うべき役割を果たしているとも思う。

それでも、だ。

教員がしっかりしないと、大学は大学でなくなってしまうぞ。


| | 考えたこと | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
転職探し
リンクトインというところの調査によると、「日本では自分の仕事に満足していない人の割合が高いが、積極的に転職先を探している人は世界の平均を下回っている」とのこと。

なんと自分の仕事が非常に不満、という回答が7%で、世界平均の4%よりも倍ほど高く、調査国中で最も高かったらしい。

反対に満足している、と答えた人は65%であり、こちらも世界の最低レベルとのこと。

それでいて、転職先を積極的に探しているか?という質問には10%がイエスと答えたとのことだが、世界の平均は12%だったらしい。

要は日本の労働者は不満を持っているが、転職先を探すでもなく、ボヤきながら働いている人が多いということになる。

これは今の日本の雇用のシステムがほころんでいる証拠だろう。
IT化やグローバル化の進展で、中高年の正社員に賃金に見合わない労働者が増えてきた。
そのおかげで、若い人を中心に派遣やパートの非正規労働者が増えて、今や4割になろうとしている。
中高年の正社員も成果主義だとか、役職定年だとかいうシステムが導入され、高度成長時代のようにのほほんと過ごせなくなった。
いくら手厚く保護されているからといっても、経営側は中高年にも厳しくしないと生き残れない。
だから、若い人も、中高年もどちらもシンドイのだ。

これを解決しようと思うと、日本の雇用システムにおける正社員の枠を減らすしかないと思う。
みんな、非正規社員になるのだ。
非正規といっても、ある程度は社会保障もある、というような今の正規と非正規の中間的なものでないと、いきなりは変わらないだろう。
どちらかというと、中高年に厳しいが、若い人が夢を持って働けるようにならないと、今の少子高齢化の中、日本はやっていけないと思う。

高度成長期に機能していた終身雇用、年功序列というシステムがもう維持できないということだ。

中高年には夢がない話になるが、それでも、この雇用システムの変更は否応なく進んでいくだろう。
年金や医療、社会保険の問題もそうしないと何ともならない。
若い人がたくさんお金をもらうようにしないと、どうしようもないと思う。

早くしないと、傷が大きくなるだけだと思うのだが…。


| | 考えたこと | 07:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
危機的状況
世の中でエライことが起こっているのに、何でもっと取り上げられないんだろうと思うことがある。
今回のこともその一つ。

『「日本で教師になりたくない」過酷な学校の現実』という記事があった。

これは大変なことだ、と思ったのはぼくだけか。
あまり大きなニュースにならない。
何でも6月にOECD(先進国が34カ国加盟する経済協力開発機構)が発表した教員指導環境調査の結果、日本の教員たちの結果がひどかった、ということだ。

対象は中学校だが、記事によると、以下の2点が明らかになった。

1.指導力への自信などを問う質問について「できる」と答えた割合は、各国の平均が約90%のところ、日本は50%前後と軒並み低かった。特に「生徒に勉強ができると自信を持たせる」ことが「よくできる」と答えた割合に至っては、各国平均が85.8%だったのに対し、日本はわずか17.6%だった

2.仕事時間は週に53.9時間と34ヵ国中で最長。50時間を超えたのは日本だけだったが、授業に使った時間は各国平均を下回り、授業時間以外の課外活動指導や一般的な事務業務に忙殺されている。

1を見ると、先生もかわいそうだが、生徒はもっとかわいそうだ。
指導力の自信がない先生が半分もいる、ということだ。
その結果、生徒に自信を持たせることができる、という割合は2割以下という惨状。
サンプルは192校、3521人の教員と校長ということだが、他国に対してこれはひどい。

ぼくは大学での教員養成課程を見てきた。
その結果、今の体制を変えないと、マトモな教育はできないと思う。
教員養成課程(これを通称「教職」という)を取ったら、やる気さえあれば単位は取れてしまう。
そして教員になる気がない人も含めて、実習を受けたら教員免許は取ることができる。

採用試験のペーパーテストは、傾向と対策が決まっており、自治体によって出題範囲も変わらず、そこを覚えたらOK。
考えさせるような問題などほとんどない。
ご丁寧に教員養成の月刊誌が出ているから、それを見ていればいい。
それでも1次試験を受からない志望者は、臨時教員などを経由して教壇に立つことが出来たりする。
面接はやはりコネがあれば有利だし、非常勤講師をやりながら受けていればいずれは通る。
そんな経緯でなった先生が、自信や誇りを持てるはずがない。
まして、生徒に自信をもたせることができることなど、ほとんど出来ないと思う。

教育委員会によっては、教職を持っている就職浪人を、臨時の教員にどうか、待遇面はいいし、ぜひきてほしいなどと言ってくるところもある始末。
もともと一次試験など通るはずがない人材でもいいからきてほしいと言う。
それがまた、すぐに教壇に立ったりしているとも聞く。
ただでさえ形骸化している試験すら、機能していない自治体もある。

そんなこともあって、この、OECDの調査結果になったのだと思うのだが、この事実を文科省が大きな問題だと認識しているような対応をしていないし、マスコミもほとんど問題視していない。

義務教育は今危機的状況にあると思う。

それは保護者も地域も、問題はあるだろう。
しかし、第一義的には、問題は学校にあるし、教員にあるし、教育体制にあると思う。

こんな大変なことをなぜほっておくのか。(ほっているのではないかもしれないが)

他にもたくさん問題はあるのかもしれないが、この問題は一刻も早く取り組むべきだ。
そうしないと、国がおかしくなってしまう。

まあ、もうおかしいのだが…。


| | 考えたこと | 06:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
シンギュラリティ
ロボットの技術がどんどん進んでいるが、それには人工知能の技術が大きく関わっている。
pepperにしても、MITのロボットにしても、カメラで人間を認識して、視線を合わせることできる。
そして、意味のある会話をすることができる。

それは、人間の顔を画像として認識できるからだろう。
まだ人間の顔は認識しやすいと思う。
動物よりは変わっているからだ。

しかし、ネコの顔になると難しいだろうと思う。
イヌとは似ているが違うし、ほかの動物にも似ているのがいる。
目の大きさと顔の大きさの比率とか、顔の形とか、そういうものに着目して判断させてもなかなかこれはネコだ、という判断はつきにくい。

しかし、日経によると「2年前にグーグルがスタンフォード大学と人間の脳を模したコンピューターに無作為に選んだ1千万枚の画像を3日間読み込ませたところ、自力で「猫」を識別するようになったと発表し、世界を驚かせた。自ら学んで問題を解決するAIが実現すれば、利用者の意図をくみ、より適切な答えを提供できる。」とのこと。

これはすごいことだ。
コンピューターが1千万枚の画像を与えただけで(1千万枚は多いとは思うが)、自らネコの顔を識別できるようになった、ということは、人間の困った顔や怒った顔や泣いた顔などを何千万枚か読み込ませれば、困っているか、怒っているか、泣いているかがわかるようになるかもしれない、ということだ。

また、ビッグデーターという、その名のとおり大量のデーターを扱えるようになって、さらにかしこくなった。
IBMのワトソン研究所が作った「機械学習を採用した質問応答(Q&A)システム」を「ワトソン」という。
ここでやっているのも、大量のデーターからコンピューターが勝手に学習して、答えを出すということらしい。

ワトソンは「2011年に米国の人気クイズ番組「ジョパディ」で人間のクイズ王に勝利したことで知られる。大量の文献を読み込み、内容を理解することで、質問の答えを自動作成する。」というかしこいコンピューターだ。

これが進むと、「機械学習を応用すると、人間を超える判断力や知性を身に付けたプログラムが開発できる。人間の行動履歴を分析することで、多くのプロフェッショナルの「勘」や「直感」をモデル化できるからだ。このモデルを使えば、人間にしかできないと思われている「プロの仕事」さえも、プログラムによって代替可能になる。」ということだ。

これはエライことだ。
もはや、いいことなのか、悪いことなのかわからない。
人間の考える仕事を代わりにできるようになる。
おまけに、人間よりも優秀だ。

英語でシンギュラリティというと特異点という意味だが、コンピューターが人間並の知性を持つ世界が来る時、という意味もあるらしい。
ある学者によると、2045年にそのシンギュラリティが来る、という。

人間並みの知性を持って、インターネットに常時接続されたりすると、それこそターミネーターの映画みたいに、人間を征服しようとするということにもなりかねない。

まだ仕事がなくなるだけならマシだが、人類を滅亡させようとすると、えらいことだ。

幸い、ぼくはその世界をみないで済むが…。


| | 考えたこと | 07:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
科学リテラシー
伝統的な力学は、主にニュートンから始まったのだが、目の前で起こっている現象を解明するのに役立つ。
だから、力学といえば、ニュートン力学だと思っていた。
それは今の理系の中年以上の人たちの常識だろう。
ぼくらの学生時代には、もう量子力学はあったが、それはまだ「なんだかわからないもの」だった。

時代は変わって現在。
山口栄一という人が「死ぬまでに学びたい5つの物理学」という本を書いている。
その中で、こんなことを言っている。

「教授会で文系の教員と話して愕然(がくぜん)としました。私が「経営で技術を教えるなら科学を教えなければいけないし、科学を教えるなら柱となる量子力学の思想は教えた方がいい」と話すと、みんな「えっ、量子力学? 現実世界とは全然関係ないじゃないか」と唖然(あぜん)としている。げらげら笑い出す経済学者もいました。」

恥ずかしながらぼくも量子力学については、現実世界とあまり関係がない、と思っていた。
一応何冊か本は読んだが、ほとんどわからない。直感的に理解ができないようなリクツなのだろう。
その結果、量子力学は、ミクロの世界の出来事を表すもので、ぼくらの住んでいる普通の世界には関係がない、と思っていた。
しかし、それは誤りだったようだ。

山口氏は書く。

「この人たちは携帯電話やパソコンをはじめ半導体などを扱うミクロの世界が量子力学に従って動いていることなど何も知らないのだということに気づいて愕然としたのです。私はそのときからイノベーション論を語る際には、並行して「科学の魂」、すなわち科学者たちがどうやって彼らの理論に行き着いたのかを語りたいと思っていました。それで「科学者の魂物語」を書いてみようと思ったのです。」

「この人たち」を何とかしないとイケナイ、ということだ。
量子力学そのものを理解しなくてもいいが、それがあるから、携帯電話が動いている、ということは知っておいたほうがいい。

科学リテラシーがないと、いろんな問題が起こる。

福島の原発の事故の問題も、リテラシー不足が原因だという。
ただひとつ、原子炉内の水位を保つことだ。
それが経営陣の反対で出来なかった。

「せめて東電の経営陣が、原子炉は物理法則に基づく物理限界を超えた瞬間、コントロール不能になるということをきちんと知っていればよかったと思います。それは経営上も一番重要なことでしょう。経営者が海水注入を拒んだのは科学リテラシーが欠如しているからで、そこが問題です。」

福知山線の事故にしても、経営者に科学リテラシーがあればあのカーブは作らなかったということだ。

残念ながら日本の閣僚に理系出身者はほとんどいない。
理系出身者はそんな職業に就きたがらない、ということもあるんだろうが…。
そんなワケで、文系であっても、理系であっても、科学リテラシーは必要だ。
ぼくもそう思う。
文系の入試から数学や理科をなくしてしまったのは大きな間違いだ。
理系の入試からも地理や歴史をなくしたのも間違いだが…。

現在、高校の卒業程度の試験をセンター試験に変えて作ろうとしているが、それで文理すべてを網羅するような知識を問うようになればいいと思う。

理科離れと言われ、科学リテラシーがないと言われ、今どんどんそういう人が増えている。
知らないものは怖いから止めよう、というような短絡的な思考に走ったりすることもある。

人間は感情の生き物であると同時に、理性の生き物でもある。
感情に理性のブレーキを効かせるためには、それらの知識をつけなければならない。

それは無謀な戦争をした反省でもある。


| | 考えたこと | 00:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
新卒一括採用
日本では大学を卒業する時に同時に就職するというシステムができている。
それが新卒一括採用。
経済はグローバル化しているが、日本企業はそれに遅れをとっている。
その原因の一つが、新卒一括採用である、という記事が日経電子版に出ていた。
「革新阻む新卒一括採用  石田潤一郎 大阪大学教授 」という記事。

今の労働市場での新卒一括採用の位置づけは、まだまだ高い。
その証拠に「就活」という言葉は学生にとって大きな意味を持っている。

キャリア採用(中途採用)もだんだんと増えてきているし、外国人採用も枠を増やしつつあるが、それでも新卒一括採用は多く、それは日本の特徴となっている。

フォーチュン誌のグローバル500という企業群がある。
アメリカのフォーチュン誌が、グローバルで活躍する企業として選んでいるものだ。
日本企業は、2000年に100社以上あったが、2014年には57社に減った。
つまり国際的な企業が減っている(他国の会社が増えている)ということだ。

このフォーチュンの結果を招いたのには、いくつかの要因があるのだが、一つは新卒一括採用があるおかげで、転職意欲が低くなること、と記事はいう。
転職の労働市場はまだまだ小さいからだ。
今まではそのメリットもあった。
新卒で就職した会社に骨を埋めよう、という気持ちで入る人も多かったから、転勤は厭わないし、会社の組織に忠実な人が多かった。
これは年功序列賃金などと相まって、日本の長期雇用のシステムを支えてきたのだろう。
要は、日本人の企業に対する忠誠心が高いわけではなく、そういう労働市場のシステムをとっていた、ということだ。

でも、それもぼちぼちほころんできた。
企業はグローバルでの競争にさらされ、新興国や他の先進国から追いつかれている。
海外にも出て行かないといけないし、日本で余剰の人員を雇っている余裕もなくなってきた。
だから、非正規雇用が増えて今や4割に達そうとしている。
IT化や機械化がそれに拍車をかけている。
実際、人がいらなくなったのだ。

今の企業の大きな問題は、中高年を中心とした高給取りの正社員(の一部)である。
パイは一定だから、中高年の正社員がたくさん取っていると、若い人に回らない。
だから、非正規を増やして対応しているが、それでは社会保障などのシステムが回っていかない。

おまけにもう高度成長の時代ではない。
国内市場は縮小していくのだ。
伸びていくのは高齢化が進むから、すぐに思いつくのは、介護の分野とか、多死の時代が来るので、葬祭や終活の分野などだろう。

新たな産業領域を作る、という意味では「イノベーション」というものが大事だという。
そして、それにはベンチャー企業の方が向いている、ということらしい。

「組織の論理が支配する大企業と異なり、ベンチャー企業の多くは市場の圧力により強く面している。真に革新的なイノベーションはより市場に近いところで生まれやすいといってもよいであろう。」

ちょっと長くなるが、最後の結論の部分を引用する。

「新卒採用は、この人材供給の面で大きな足かせとなっている可能性が高い。自分を売り込むタイミングが新卒時にほぼ限られるなら、そこでの選択が安定志向となるのもやむを得ないであろう。
 一度の失敗を取り戻すことが難しい環境では、起業をすることはもちろん、経営が軌道に乗っていないベンチャーを就職先として選ぶことさえ大きなリスクを伴う。人材はベンチャー企業の生命線だが、新卒採用が生み出す規範と硬直的な労働市場は、新しい企業が実績のある大企業に対抗して優秀な人材を獲得することを極めて困難にする。
 大ざっぱにいうと日本社会は「成功する」ことより「失敗しない」ことに価値を置く減点主義社会である。決められたレールを外れないように注意深く生きることに対するリターンが高い一方、レールを外れて新しいことに挑戦するコストが相対的に高い。
 こうした構造は、経済が発展途上にあり、均質で勤勉な労働者が多数必要な経済では極めて有効だった。しかし現在では、皆がただ失敗しないようにリスクを避けるだけでは、新たな価値や市場を創造することはできない。
 豊かさは人間にとっての普遍的な価値であり、ある段階までは経済発展が全てに優先する目標である。しかし、ある程度の豊かさを達成した社会は、多様性を許容する方向へシフトしなければならない。年齢を基準にして皆で一斉に何かをしないといけないような前近代的な規範からはそろそろ卒業すべきだろう。」

ぼくも今の日本はとても豊かだと思う。
よくテレビでアフリカの栄養失調の子供が出てくる。
あれを見ると、自分でもどうしようかと思う。
結果的に何かをするわけでもない。
でも、やり切れない気持ちになる。

だからといって、これからは、成長しなくてもいいなどとは思わない。
みんなで我慢しましょう、というような意見は絵空事だと思う。
子供が病気にかかれば治したいと思うし、教育を受けることが出来なければ、受けさせたいと思う。
それらを実現するのが、豊かさだろう。

戦後の焼け跡から立ち上がった人たちは、日本を焼け跡の状態から豊かにしたいと思っていた。
それで必死に働いた。
東京オリンピックもやって、新幹線も動き、名神も開通して、やっと日本は世界の国々(これは先進国だが)と肩を並べられるようになった、と喜んだ。

その人たちと、それに続く人たちがいたから、今がある。

もう残りは少ないが、ぼくは日本にイノベーションがたくさん起こるようになってほしいと思う。

そして、少なくとも、リーズナブルな豊かさが維持できるだけの成長は続けてほしいと思っている。

| | 考えたこと | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
ステレオカメラ2
ぶつからないクルマの実車試験の様子が記事になっていた。
予想通り、スバルのステレオカメラの成績がよい。

今回の試験には、歩行者に対するブレーキの試験も入れたので、ステレオカメラの成績がよかった、ということらしい。
人間を認識する、ということでは、レーダーよりもカメラの方が圧倒的に有利だろう。
一部のデジカメではもう当たり前になっているが、人が笑ったときにシャッターを切るというようなこともできるようになっているのだから、カメラなら人の認識は楽だ。

もちろん、今までのミリ波レーダーを使ったシステムは、転機が悪い時とか、遠方に障害物があるときなどは有効なんだろうが、人が飛び出してきたときなどは、弱いと思う。
スバルのシステムの記事をみると、

「EyeSightに使う日立オートモティブシステムズ製のステレオカメラは、歩行者を高い精度で認識した上で、自車の約100m先と比較的遠くにある物体までの距離を測れることが特徴で、これが最高得点の獲得につながった(図3)。約30万画素の二つのモノクロCCD(電荷結合素子)カメラで物体の大きさや形、移動速度などから車両に加えて歩行者や二輪車、自転車を識別できる。例えば大きさと形が人に似ており、移動速度が数km/hであれば“歩行者らしい”と推定するようだ。」

カメラは日立製だった。
日立もデジカメなどの個人向けの商品は出していないが、クルマの部品としては商品化している。
先日出ていたソニーもこのあたりに参入しようとしているのだろう。
これを見ると、部品(カメラ)の差が自動ブレーキ性能に大きく影響を与えていることがわかる。

日立はこういうところで、家電の穴を埋めているのか。
なるほどなあ。
産業用のカメラの用途を考えると、いろいろ考えられる。
要は人間の目の代わりをするのだと考えたらいいわけだから。
ロボットで自動化するときにも、きっと役に立つ技術だろう。
人間は目で見て判断することが多いからなあ。

2013年度の日立の有価証券報告書を見てみると、売上高約9兆円のうち、民生機器は1割程度だった。
もともと日立は重電メーカーだったから、産業用も多かったが、この20年ほどで日立というブランドを見る機会は減った。
プラズマテレビも早々に撤退したし、パソコンもやめた。
オーディオもなくなったし、細かい電子機器はもうないと思う。
いつの間にか、産業機械メーカーになっていた。

松下もそっちの方向に舵を切ったし、日本では家電では食えないということなのか…。

自動車の自動運転の話がそれてしまったが、日本の家電業界は再編の時期(というより、もうすぐ再編は終わり?)なのだろう。

これからは、人気のある家電製品の中に日本製の部品が入っていたり、日本製の機械で加工したり、というような時代になってくるのだろう。

結果的に、ぼくらは日本の家電の最盛期を生きたことになる。

ステレオも、冷蔵庫も、掃除機も、エアコンも、洗濯機も、ビデオも、どんどん新製品が出てきた時代。
そして、どんどん便利になった時代。

いい時代だったと思う。

でも、もう終わったのだ。

ステレオカメラの技術、頑張ってほしい。


| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカの参戦
刑事フォイルという第二次大戦中のイギリスを舞台にした刑事ドラマのことは、こないだ書いた。

このドラマ、第二次大戦中のイギリスとアメリカの関係がよくわかる。
第4シーズンからは、アメリカが参戦した時期になる。

アメリカがイギリスに来て、ドイツと戦うために駐留する。
アメリカの軍隊は遠くイギリスまで来たくない、というのが本音。
イギリス人に対しては、来てやったと思っている。
そんなことは、いままで考えてもみなかった。
アメリカはイギリスを助けようという思いが強かったのだと思っていた。

日本の真珠湾攻撃がなければ、アメリカはヨーロッパ戦線には来なかったかもしれない。
ドラマの中でイギリス人が言っていた。
「真珠湾がなければ、アメリカ人は来ていないだろう」

チャーチルは日本が真珠湾攻撃をしたことを聞いて、とても喜んだらしい。
これでアメリカを参戦させることができる、ということだ。
それほど、ドイツは強かった。
イギリスとフランスが束になってかかっても、全く相手にならなかったようだ。

ドラマの中では、食糧難のイギリスに突然出来た米軍基地には、たくさんの食べ物があった。
戦後の日本と同じく、アメリカは豊かだった。
豊かだったから、アメリカ国民はややこしい戦いに巻き込まれたくなかったのだろう。
アメリカ兵士の中には、どうしてアメリカ人がイギリスを守らないといけないのか、という人もいる。

結果的に、連合軍にアメリカがいたから、第二次大戦は連合軍の勝利となった。

アメリカのルーズベルト大統領は、真珠湾の奇襲があったから、アメリカの世論を第二次大戦に巻き込むことができた、とも言えるだろう。

日本の第二次大戦は、太平洋でのアメリカとの戦いだった。

でも、ヨーロッパのフランスやイギリスは実質的にはドイツとの戦いだった。
だから、日本のことをそんなに嫌っていない。

会社にいた時には、イギリス、フランス、ドイツの3国と付き合ったが、日本を嫌っている、という人はいなかったと思う。

結局日本の第二次大戦は、対米戦だったということだ。

そんな事情がよくわかる刑事フォイルの第4シーズン。

第二次大戦のヨーロッパ戦線のことがよくわかる。

一番驚くのは、今、イギリスやフランスとドイツが、仲良くしている(ように見える)ことだ。

今の日本と中国・韓国の関係を考えると、やっぱり欧州は大人だと思う。
あれだけの戦争をしても、それは過去のこととして、仲良くできるのだ。

やっぱり、彼らはエライ。


| | 考えたこと | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
Economistの記事
Economistの記事を見ると、日本の新聞に書いていないようなことが書いてある。
最近は日本語で訳してくれているサイトもあるから、便利だ。

Economistだけに経済関係の記事が多い。
今回はアベノミクスについてのコメント。
なかなかわかりやすい。

アベノミクスについては、こう書いてある。

「安倍氏とそのアドバイザーたちの謳い文句は、賃金が上昇し、消費支出を押し上げ、それが今度は企業の投資を促す好循環が生まれる、というものだった。そうすれば、大当たり、日本はデフレから脱却する、というわけだ。だが、それは実現せず、1つのナゾになっている。
 その一方で、労働市場は逼迫している。その一因は、例えば建設業界などで労働力に対する強い需要があることだ。だが、急速な人口減少も影響している。現在1億2700万人を数える日本の人口は、2060年までに9000万人を切ると予想されている。生産年齢人口は毎年、およそ100万人ずつ減っていく。現在の失業率はわずか3.7%だ(スペインにとっては夢のような話だ)。
ところが、労働市場が逼迫しているにもかかわらず、実質賃金は減り続けている。」

要は、金融緩和でお金があふれ、円安が進み、日銀が国債を買って市場にお金が回り、インフレ気味になり、景気がよくなって消費税3%程度上げても大丈夫、と関係者は思っていた。
人手不足にもなったし、ニュースでも給料は上がったと言っているし、大丈夫なはずだった。
それでも、株価は下がり、GDPは下がり、どうもうまくいかない。

Economistはその原因は実質賃金は減り続けていることにある、という。
人手不足になれば、人を雇おうとして賃金は上がるはずなのに、なぜだろうか。
実質賃金とは実際の賃金でどれだけものが買えるか、といった値で、物価が上がれば減る。
要は10万円もらっても、実際に買えるものが減れば減るということになる。
だから、給料は上がったかもしれないが、買えるものは減り、給料の値打ちは目減りしたということだろう。

なぜ実質賃金が下がったか。
Economistはこう書く。

「実質賃金の低下に寄与している1つの要因は、根が深い。日本の労働市場は、給料が高く、身分が保障されている正規労働者と、社会の最下層を構成している低給の非正規労働者に二分されている。6月には雇用全体に占める非正規労働者の割合が、過去最高水準に近い36.8%を記録した。
 安倍氏が政権を取ってから新たに創出された雇用の大半は非正規労働者の仕事だ。そうした人たちは通常、年次交渉の対象にならない。その多くは女性で、彼女たちは男性より稼ぎが少ない結果になる。
正社員の手厚い保護に切り込めるか?」

そうなんだと思う。
アベノミクスで創出された仕事は、ほとんど非正規雇用の仕事だったのだろう。
非正規労働者が増えていることで、それはわかる。
一方で、日本の雇用慣行で手厚く保証されている正社員の給料は上がった。
人手が足りないのは、パートやアルバイトが足りないということだ。
正社員は余っている。
給料の高い(高すぎる)正社員が余り、非正規の社員が足りない、という現象が起こっているのだ。
証券会社の人も言っている。

「企業はもっと多くの正社員を採用し始めなければならない。だが、大手企業は既に、過剰な給料を得ている生産性の低い正社員を大勢抱え過ぎているとモルガン・スタンレーMUFG証券のロバート・フェルドマン氏は指摘する。いま必要なのは、非正規労働者の賃金と身分保障を手厚くすると同時に、正社員に与えられた過剰な保護措置を削減することだ。」

過剰な給料を得ている生産性の低い正社員、というのはきつい表現だが、当たっていると思う。

そういう社員の給料を下げて、非正規社員の若い人たちの給料を上げ、身分保障を手厚くしないと、GDPも上がっていかないのだろう。

外食産業で、夜間勤務を1人でやっていた会社が、1人勤務は止めるという。
24時間開けるための人件費が、時給1200円程度だったのが、1400円〜1500円にしても集まらないからだ。
よほどきついのだろう。
危ないということもある。

アベノミクスで必要なのは、正社員の枠を緩め、非正規社員の枠を正社員に近づけることだと思う。
そうしないと、若者が消耗する。

そんな社会は長続きしないのではないか。



| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学のガバナンス2
宮内義彦オリックスシニアチェアマンが日経電子版にブログを書いている。
今年の6月の改正学校教育法と改正国立大学法人法のことだ。

経営者の立場で大学に関わってきて、ガバナンスの不在に驚き、これらの改正法が大事だという記事。

改正学校教育法では、以前書いたが、教授会の役割を大幅に縮小し「学長に意見を述べる」という役割に制限した。
また、国立大学法人法では、外部委員の意見を大きくするため、「経営協議会」における外部委員の数が1/2以上から過半数に変更され、学長の選考基準や結果の公表も義務付けられる。

しごく真っ当な意見だと思う。
大学の自由が守られないというような論調もあったし、大学内部に批判もあるようだが、それに対してはこう書いている。

「一部の先生からは「学長の権限が強くなりすぎて独裁につながる」との反発がでているようですが、先生方が変化を嫌い、教授会を通じて様々な改革提言を潰してきた実態を直視する必要があります。権限集中の弊害を指摘するのであれば、それは教授会にこそ当てはまるはずです。」

実務を知っている人の意見。
一部の大学の先生方は、自分たちのことしか考えられないのだろう。
自分の意見が反映されないからダメだ、というのはコドモの言うこと。
大学という組織を考えれば、自由自由と言っていられないのはアタリマエのことだと思う。

そしてこうも書く。

「先生方は「財務などの経営は理事会にお願いしますが、教学、つまり大学の運営は我々に任せてほしい」と言います。が、そもそも経営と教学を分離するという考えに無理があるのです。こんなすばらしい教育をしたい。そのために良い先生を集めたい。学部、学科の新設や研究設備の増強にも取り組みたい。そのためには資金の裏付けも含めてどのような経営戦略をとるべきか――。このように教学と経営は一体なのです。よりよい教学の為の経営なのです。理事会で経営方針を決め、学長が中心となって執行する。大学改革を実行するためには、こうしたシンプルなガバナンスが必要で、今回の法改正がそれに道筋をつけるはずです。」

思わず拍手をしたくなる。
いくらこんな風に考えても、それが出来なかったのが現実。
それを痛いほど宮内氏も経験したのだろう。

これで国立大学はマトモなガバナンス体制ができると思う。
少なくとも、そのための法整備はできたということだ。
これからの国立大学を見守りたい。

しかし、私学の方はまだまだほったらかしである。
一部の私学は国立よりも進んでいる部分があるが、大多数はまだまだだ。
入学式をタレントにプロデュースさせるというような改革は論外だが…。
たしかに、人さえ集まりゃ食っていけるのは事実だが、肝心の教育の部分がマトモでなければどうしようもない。
どんどん国立に対して遅れていくのだろう。

しかし、これは「大学」なのだ。
昔は最高学府と言われ、教養のある人達が集まっている場所だと思ってきたところだ。
それが今や管理体制を問われる時代。
宮内氏もこう言っている。

「私が少し残念に思うのは、結局は官主導、政府主導で改革が動き出すという事実です。改革の必要性は分かっているはずなのに、大学関係者は最後まで自分から動こうとしなかった。私が理事長を仰せつかっている私立大学の経営のあり方を考える会、「21世紀大学経営協会」の年次総会が7月1日にありまして、文科省の下村大臣と大学振興課課長に講演をお願いしたのですが、その際の質疑応答で、ある大学の学長さんがこんな質問をされました。「改革をしなかったら、何か罰則があるのですか」――。
 あまりに正直な質問で、苦笑いするしかありませんでした。民間といいますか、在野の力を信じている者にとっては、実につらい現実です。」

結局外圧がかからないと、大学は何もしない。
自己点検にしても、同じことだ。
そのくせ、入試の科目を減らして受験生が増えたとなると、すぐに右に倣えをする。
どこに良識があるのだろうか。

この「改革をしなかったら、何か罰則があるのですか」という質問をした私立大学の学長は、何の悪気もなかったと思う。
単に「やりたくない」という意識だけなのだ。
宮内氏は改革の必要性はわかっているはず、と好意的に書いているが、本当にわかっていない人たちの方が多いと思う。
その学長は「私たちは一生懸命やっているのだ。何で変えないといけないのか。」と思ったのだろう。

そこに根本的なくいちがいがある。
一生懸命やっていても、ダメなものはダメなのだ。
出来ないからやらない、というリクツが通るところが大学。
そんなことで、どうやって理想に近づくことができるのか。

文部科学省もいろんな事例を見て、もういい加減に動かないとダメだと思ったに違いない。

それにしてもなあ。

「罰則があるのですか」と言われたら、苦笑いするしかなかっただろうなあ。

宮内シニアチェアマン、ご苦労さまです。



| | 考えたこと | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校野球
高校野球もちょっと見ない間にだいぶ雰囲気が変わった気がする。

聞いたことがない学校が増えたのはこないだ書いたが、学校名の宣伝に野球を使うという学校法人が増えたのは大きな変化だ。
それは、県外枠が事実上撤廃されたことで、野球留学が増えたこともあるだろう。
比較的簡単に強くする方法があるから、お金さえあれば何とかなる、ということだ。
これは地域差を縮めるということでは役に立っている。
しかし、○○県の代表校だが、内実はほとんど出身者がいない、という例もある。
でも、東北や北陸、北海道が強くなった要因の一つはそれもあるだろう。
解説者は一切言わないが…。
もちろん、雪が降っても練習できる設備ができたのもある。

もう一つは、学校の宣伝のためにやっているために、選手を酷使するという面があるということ。
これは主にピッチャーだ。
選手としての寿命を考えた指導は、とにかく勝つことを使命とする監督にはやりにくい。
勝たないとクビになるからだ。
だから、いいピッチャーは投げすぎて肩や肘を壊してしまう。

産経新聞によると、現レンジャーズのダルビッシュ投手はツイッターで提案したと書いてあった。
記事によると、

「今春の選抜高校野球大会でも、準優勝した済美高校(愛媛)のエースが5試合で772球も投げたことをめぐり、球数制限導入などの改革論が沸騰。米大リーグ・レンジャーズのダルビッシュ有投手は4月2日、自身のツイッターで球数制限や球場変更などを提案したが、「ただ壁は歴史」と改革の難しさを漏らした。」

たしかに、規則で球数を制限したり、甲子園をやめてドーム球場に変えれば、夏の大会はだいぶ改善されるだろう。
予選でも、選手や応援の生徒が熱中症で病院に搬送されるという例がたくさんあるらしく、開催自体の時期をずらす、という案もあるが、授業との関係で難しいと思う。
ナイター設備がないと、予選の時間を遅くすることもできないし、この時期にやるというムリが出てきた。

第一、こんなに暑くなるとは思っていなかったからなあ。

それに、選手の酷使も大リーグあたりでも指摘されているから、ピッチャーなら直接アメリカという道もある。
そういえば、マイナーリーグに行った人も何人かいた。

いずれにせよ、高校野球はもう曲がり角に来ているような気がする。

と思っていたら、今年の夏の大会に出た高校で、おにぎりを2万個握ったという女子マネージャーの話があるらしい。
昔なら、美談になるところだが、2年間で2万個はちょっと多い。
この手の話が増えている。

今の日本の夏は、屋外でスポーツをやる気温ではない。

春だけでいいのではないか。

| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
MITのロボット
ソフトバンクに続いて、MITもコミュニケーション型のロボットを作った。
これをみると、どんなものかわかる。

特長は人間型ではないこと、動かないこと、顔の部分がディスプレイになっていて、いろんな表情を出せること、英語での会話だが、動画を見るかぎりpepperよりもだいぶ流暢だということ、そしてなにより価格が6万円ほどで安いことだ。
もちろん、カメラを装備しており、人の動きを目で追って、ロボットらしさを伝えることができる。

そして表面にあるタッチセンサーを触ることによって、こちらの気持ちを伝えることができるようになっているとのこと。

当面は英語版だろうが、日本語版ができたら面白いと思う。

子どもの就寝時の話し相手になったり、家族の写真をとってくれることもできる。
おそらく、インターネットに無線で常時接続しているのだろう。
pepperの頭脳の部分を独立させたような感じだ。
もちろん、これならアマゾンでこれ買っといて、などということも可能になるだろう。

よく出来ていると思うのは、ボディの部分と頭の部分が回転して身体をくねくねさせるような動きもできること。

たしかに19万というpepperの値段はちょっと高いし、考えたら置いておく場所も困る。
それを考えると、pepperの頭脳だけを独立させたら、これはなかなかいいと思う。

英語は文法からして日本語よりも解析しやすいのかな、と思う。
動画で見るかぎり、反応が早いし、自然だ。
そのあたりがマサチューセッツ工科大学の技術なのだろうか…。

クラウドの技術が発達し、インターネット上に蓄えられた知識やデーターを使うことで、人工知能みたいな会話もできるようになってきた。

日本は人間型のロボットにこだわりがある。
西洋も人間型のロボットにこだわりがある。
日本はポジティブで、西洋はネガティブだが…。

でも、このこだわりを捨てて、ちょっとマンガ的な見方をすると、あのMITのロボットもありだろう。

ロボットの分野は裾野が広い。
今まで肉体労働の部分を代替してきたが、今後はコミュニケーションの部分もできるようになる。

そのうち、アパレルの接客などもロボットができるようになったりして。

「この洋服、似合うかしら」
「なかなかいいチョイスですね。その洋服を着ているあなたはこんなふうになりますよ」
「(ディスプレイを見て)ちょっと地味かな」
「それなら、これはどうですか?(別の商品に変える)」
「ふーん、ちょっといいかも」
「これだと、今なら3割引ですよ」

というような会話も可能だ。
デジカメで写真をとって、来ている姿をシミュレーションで見せることができると、選択の幅が広がる。

しかし、一つ問題がある。

人間はいったいどんな仕事をするんだろうか…。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(1) | trackbacks(0) |
親父ギャグ
福井新聞によると、福井県の病院の院長が、エボラ出血熱の対策に関するFacebookへの投稿で「ちなみにエバラは焼き肉のタレです」と書き込んでいたことが16日、福井県への取材で分かった、とのこと。

また、投稿のコメント欄に「ズボラは私ですね」とも書き込んでいた、ということで、外部から指摘を受け削除したとのこと。

気持ちはわかる。
エボラ出血熱は遠いアフリカの出来事だから、まだまだ福井県には来ないだろうということで、早々に対策チームは立ち上げたが、遠い異国の出来事でもあり、油断があったのだろう。
エボラ、エバラ、ズボラというダジャレだ。
それ自体、会話の中で言ったのなら、雰囲気によっては笑える場合もあるし、また不謹慎だと怒る場面もあるだろう。

ぼくはこういう類の出来事にはすごく寛容だ。
時と場合によるが、たいがいの場面では容認すると思う。
もちろん、目の前で人が死んでいるというのに、そんなことは言ってはいけないのは理解しているし、そんなことをいう人は知り合いにはいないと思う。

でも、人間は気が抜けた時にしょうもないことをするものだ。
ダジャレを思いついたら、言ってしまったり、書いてしまったりするのも仕方ないことだ。
これは性格だろうと思う。
それをどこまで許せるか、ということだ。
自分もそういう傾向がある人は、許しがちになるのだろう。

Facebookなどというものがあるから、こんなことが起こる。
書いて残ってしまうから、不謹慎だという人が出てくる。
この院長も会議の席で言っていれば、それで済んだのに、ついつい書いて残してしまう。

こういう人はFacebookなどは向いていないのかもしれない。

いろんな関係者が見て、中にこれはダメだという人がいるのは自然なことだ。
会議ならガマンして流しているかもしれないが、書いて残るとなるとややこしい。

向いていないから、この院長、気をつけてほしい。
悪い人ではないのだ。
きっと仕事はできる人だと思いたい。

これに懲りずに、頑張ってほしい。


| | 考えたこと | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
頑張れソニー
ソニーが自動車分野に参入するという。
自動車の「目」である画像センサーを供給する計画だ。

ソニーはどちらかというと一般消費財を作ることで、いままで伸びてきたが、ウォークマンで敗退し、液晶テレビで負け、最近は出口が見えない。
かろうじてゲーム機で頑張っているが、これもスマホゲームに追われている。
そのスマホも採算が苦しいという状況だ。
要は八方ふさがりに見えているし、株価もそれを表している。

今回の決断はとってもいいと思う。
ソニーのビデオカメラやデジカメ、その中心部であるCCDという素子の技術などを、自動車の「目」としてチューニングしたり、新たな機能をつけたりして、売り込むのだ。

日経にも「自動運転技術の中核部品であるセンサーをソニーが生産することで、自動運転車の実用化に弾みが付く。日本の電機大手が得意技術を生かせる新たな成長市場として開拓する。」と書いてある。

すでに、車載カメラ用のセンサーを開発したとのことである。
レーダーに比べて劣るという、暗くなった時の識別度を上げるというのが車載カメラの課題だから、自動車メーカーも喜ぶだろう。

パナソニックも家電というBtoC(個人消費者相手の商売)からBtoB(法人相手の商売)に舵を切って復活したと思う。
グループ会社にオートモーティブ&インダストリーズ社という会社を作って、車載カメラや電池をカーメーカーに供給しているのだ。

遅まきながら、ソニーも家電で培った技術を自動車や他の産業で使っていけば、まだまだ生き残れると思う。
電池の技術もあるし、画像デバイスの技術もあるし、いざとなればロボットの技術もあるはずだ。

きっと社内で部品会社として生き残るのか、という議論があったと思う。
今まで最終製品を作っていて、要はピラミッドのトップだった。
でも、部品会社になると、ピラミッドの下の方に落ちる。
だから、納入先の言うことを聞かないといけないし、無理難題もクリアしないといけない。
要は営業が大変なのだ。
頭を下げる営業ができないと、BtoBはできないと思う。

でも、圧倒的に強い部品を作れば別だ。
ここの部品を使わないと、この性能が達成できない、ということになると立場を逆転することもできる。
ちょっと前までのインテルがそうだった。
パソコンの銘柄よりも、インテルが入っているか、ということが一部の消費者の見る点だった。

ソニーなら、そんな部品メーカーにきっとなれると思う。
ぼくらが小学生のころ、先生が言った、アメリカ人はソニーをアメリカの会社だと思っている、という言葉にすごく勇気づけられた。
子ども心にほんとに嬉しかったのを覚えている。
ウチの初めてのトランジスタラジオも、テープレコーダーもソニーだった。

きっともう一度、復活できると思う。

頑張ってほしい。



| | 考えたこと | 07:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
趣味
今日、気になって「ギター」という言葉が入っているブログの記事はいくつあるのか、調べてみた。
全部で2821の記事のうち、「ギター」という言葉が入ってるのは190。全体の6.7%だった。
「音楽」が202だったから、7.2%。
まあ、妥当なところか、と納得した。

ぼくは無趣味な人間だと思っている。
若いころ、趣味を書く欄には、読書、ギター、落語と書いてきた。

学生時代、友だちがスキーに熱中したりしていても、行ったことがない。
あれは位置エネルギーの無駄遣いだと思う。
麻雀も熱中したが、向いていないとやめた。ギャンブルには適性がない。

本は人並みに読む程度。特に最近は活字をインターネットでたくさん読むようになって、本が減った。自分でも残念なのだが、どこかで変えないといけない。
ネット中毒になっているのだと思う。

落語はもう趣味とは言えなくなった。
最近はもっぱら漫才を聞くことが多い。
落語は、デビュー当時の仁鶴、襲名以降の枝雀で終わっている。

「お笑い」には興味があるのだが…。
最近のバラエティには閉口している。
あれは単にテレビ局が安い予算で番組を作っているだけで、もうお笑いとも言えない。
何というか、笑っているのではなく、つきあいで笑わされているのだろう。

そういう意味では細く長く続いているのがギター。
中学2年だから、14歳からずっと続いている。
かなり熱中して練習した時期もあったなあ。
でも、まだ趣味といえる程度には弾いていると思う。

ぼくはギターには助けられたと思っている。
単に家にあったから弾き始めたのだが、どういうわけか弾き始めた頃からフォークソングのブームが来て、猫も杓子もフォークギターを持って歩く時代になった。
中高の時代、家の近所の甲南大学の学生がたくさん持って歩いていた。
なかにはケースだけの人もいたのではないかと思うほど多かった。

中3から高校にかけて、友だちに教えたりしたこともあった。
弦が6本あって、指が5本しかないのに、どうやって6つも押さえるのか?という質問も受けたことがある。
一本の指で複数押さえたらいい、というだけの話だったが、当時のブームはそんな質問が出るほどの勢いだった。
あの当時、チューニングマシンがなかったから、音感の悪い人はギターはできなかった。
音が合わないからだ。
チューニングの仕方は教えられても、音の高さは音感だから、教えられない。

今のバンドブームというのは、実はチューニングマシンに負うところが大きいのではないかと思っている。

当時、ギターが弾けるというのはちょっとしたものだったと思う。
今でもギターを背負った(最近は背負うのが多い)学生を見かけるが、当時はもっと多かった。
ただし、フォークギターのケースを持って歩いていたのだが…。

人前で弾いたことは数度しかなかったが、それでも「ギターが弾ける自分」というのは「ありたい自分」だった。
心理学では「自己効力感」というらしい。
これが高いと、自我が安定するということになっている。
そういう意味で、ぼくの自我が安定するのをギターは手伝ってくれた。

そして、音楽にもちょっと詳しくなった。
学生時代は洋楽にも詳しかったと思う。
土曜日のポップスベストテンをチェックしたりしていた。

一貫して言えるのは「ウルサイ」音楽はダメだったこと。
ハードロックとか、メタルロックというのは全く興味がなかった。
それよりも、黒人のリズム・アンド・ブルースの方がよかったし、コーラスが好きだった。
ビートルズ、サイモン&ガーファンクル、5thディメンション、キャロル・キング、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエルなど。
ビートルズのジョンとポールの三度のコーラスは見本だったなあ。単純だけどきれいだった。
今でも当時の曲が流れると、三度上のコーラスを歌ってしまう。

ギターもクリーンな音が好きだった。
学生時代は、エレキギターというとハードロック系の音だったが、そういうのは聞かず、もっぱら西海岸のシンガー・ソングライターあたりを聞いていた。
邦楽なら、ガロ、チューリップ、オフコース、ユーミン、ハイ・ファイ・セット、山下達郎、竹内まりやあたり。
もちろん、エレキだけではなく、アコースティックも好きだ。
ただ、弦を押さえるのがシンドくなってきた。

…こんなことも何度か書いているような気がする。

趣味というのは、商売にはならない。
好きでやっているということだから、お金は払う方だろう。

死ぬまでに、あと1台、ギターがほしい。
そのためにはもうちょっとうまくならないといけない。

それ以外はもう十分。

これからはもう趣味は増えないだろう。

| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
働けない若者
ネットに『なぜ、「働けない若者」が増えたのか『無業社会 働くことができない若者たちの未来』を読む』という記事があった。

詳細は読んでもらえばわかるのだが、とにかく「若年無業者の数は200万人を超え、15歳から39歳までの若者のうち16人に1人となっている」ということである。
それでなくても、生産労働人口が減っていくのに、若い人で働かない、働けない人が200万人も存在するのが日本の現状ということだ。

日本のセーフティネットは高齢者の側にシフトしていて、若い人は結果的に放ったらかしになっている。
なぜかといえば、それまで若い人たちは、ほっておいても何とかなった時代だったからだ。
それが変わったのが90年代後半。

「若年世代の失業率は、全世代の失業率より高い水準にあり、90年代後半の就職氷河期以降、正規雇用の就労は悪化の一途だ。しかも日本社会は人材育成の機会を学校と企業が独占してきたので、一度そのルートを外れると再び労働市場に戻ることはとても難しいのだという。」

これは一因だが、もっと根が深い問題があると思う。
労働市場が変わったのだ。
90年代初頭にバブルが崩壊して、90年代後半に就職氷河期が来て、それと同時に機械化・IT化が進み、「だれでも出来る仕事」は機械がするようになったということだ。
それに合わせて、非正規社員が増え、逆に正規社員が減っている。
そういう、「仕事の高度化」がこの時期に起こってしまったということではないか。

ぼくが会社に入った1979年、工場には人がたくさんいた。
工場の中をコマネズミのように、人が動き回っていた。
それが2000年を過ぎると、単純労働はどんどん機械化され、しまいにはロボットが働くようになった。
ロボットといっても、人間型ではない。自律型のクルマ型ロボットだ。
引かれたラインの上を動いて、モノを運ぶ。

そして、経理や庶務やあらゆるところで伝票を打ち、計算していた社員がいなくなった。
伝票はコンピューターで処理され、集計までされるからだ。
その時期が重なったのだと思う。

そして、学校がその変化に対応していない。
特に義務教育だ。
小学校、中学校でちゃんと教えないと、それ以降ではどうにもならないことがたくさんある。
基礎ができていないと、その上は教えられない。
ちょうど積み木でいえば、土台のところが歯抜けになっていたり、面が揃っていなかったりするのが今の状態を表している。
いくら高校以降に積もうとしても、崩れてしまって積めない。

「生きる力」というものがあるとすれば、それは何かを一生懸命に学ぶところからしか生まれてこないのではないか。
今の教育は、それを忘れて「生きる力」そのものを教えようとしているようにみえる。
ぼくは、そんなものは教えられないと思う。
「生きる力」は、結果的につくものであって、それを目的に教えることなど出来ない。
生徒を集めて、「さあ皆さん、生きる力とはなんでしょうか?」とみんなの意見を聞いても、出てくるわけがない。
だからこそ、昔の人たちは学校を作り、勉強を教えたのだと思う。
伝統的な教育の中にしか、そんなものを学ぶ方法はない。
もしもそれを直接教えることができるのなら、人類の歴史の中でとっくにやっているだろう。
世界で、「生きる力」を教えようとしているのは、日本の学校くらいではないか。

だから、小中学校で基礎を教える。
そこがいい加減だから、みんな崩れてしまう。

若者の就業の問題を解決するためには、遠回りだが、義務教育を何とかしないといけないと思う。

一朝一夕ではムリだろう。

| | 考えたこと | 00:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
場違い
今日の夜、「FNSうたの夏祭り」という番組で伊勢正三と南こうせつが、ももいろクローバーZとナントカいう若い女の子と一緒に歌っていた。
伊勢正三はちょっと恥ずかしいなあ、という感じだったが、南こうせつは派手なステージ衣装でノッていた様子。
曲は「七色のスターダスト」という南こうせつが作った曲。

他にもいろんなコラボレーションがあったが、これはちょっとひいた。

何か気持ち悪いという感じ。

若い女の子たちは10代から20代。
もちろん、ミニスカートの派手なステージ衣装。

そのなかで、伊勢正三と南こうせつがアコースティックギターを弾きながら歌っている。
ものすごい違和感がある。

南こうせつが65歳、伊勢正三が62歳。
伊勢正三はきっと南こうせつに頼まれて、出ないわけにはいかなかったんだろう。
しかし、南こうせつはこのためにステージ衣装を作ったんだろうか。
気合が入った衣装だった。

彼らはどうしてもフォークのイメージがある。
それと相容れなかったのかもしれない。
完全に浮いていた、とぼくは思う。

だからといって、神田川などを歌うのはムリだ。
懐かしのメロディになってしまう。

その後出た玉置浩二が55歳。
彼が限界かな。
夏の終わりのハーモニーはよかった。

渡辺美里も出ていた。
なつかしい。彼女は48歳。
マイ・レボリューションはいい曲だ。
作曲者の小室哲哉と歌っていた。彼が55歳。

小室哲哉はリアルタイムではほとんど知らない。
彼が一世を風靡していた頃は、あまり流行歌を聞かなかった。

きっと伊勢正三と南こうせつの二人は、出て失敗だったと思っているだろう。

違うかな。

| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロビン・ウィリアムズ
ロビン・ウィリアムズというと、アメリカの俳優。
やっぱりコメディ俳優という位置づけなんだろうか…。

今日訃報が届いた。
63歳とのこと。
重いうつ状態だったという。

グッドモーニング・ベトナムという映画で、ベトナムの兵士向けのラジオ局でDJの役をやっていた。
あの早口でまくし立てるDJの役は見事だったと思う。

それから、パッチ・アダムス。
病人を笑わせる、という医師の役だったと思う。

そして、アンドリューNDR114。
気持ちを持ったアンドロイドの役だった。

他にもあったと思うが、いい役者だったと思う。

コメディを演る人は、長生きしない、というイギリス人の話を聞いたことがある。
コメディ俳優は、人を笑わすために、自分の身を削っているのかもしれない。
もちろん、そんな人ばかりではないが…。
天性のコメディアンというのは、自分の才能をそういうふうに発揮せざるを得ないのかもしれない。

映画俳優で63歳なら、まだまだ若かったのに、残念だ。

Rest in peace.




| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
限界集落
知り合いに徳島県の出身の人がいて、話をしていた。

自分は違うのだが、ご主人が徳島の出身でこのお盆も徳島に里帰りするという。

何でも、実家のあるところはもうほとんどの家が出て行っており、帰ってくる様子がない。
一応、徳島市内にいる家族が、親の墓の面倒は見るとのこと。
でも、ご主人もやっぱり盆や法事は徳島に帰りたいらしい。
帰っても、自分の実家は台所の底が抜けて使えず、もう住める状態ではないとのことだ。

そこは、もとは郡だったのだが、今は統合して市になったらしい。

先日の大雨で、がけ崩れが起きて、道が通れなくなっているから、と電話がかかってきたとのこと。
したがって、里帰りのためには、迂回して倍ほどの時間がかかる、とボヤいていた。
統合する前なら、近所の土建屋さんに頼んで、比較的早く公共工事は出来たらしいが、今は統合して市になったので、入札制になったらしい。
ただ、どういうわけか誰も入札しないとのこと。
安くてペイしないような価格が設定されているのかもしれない。

そこが通れるようになって、助かるのは何人くらいいるのか聞いてみると、その集落10戸程度とのこと。
経済的にみて、この工事は苦しいだろう。

高度成長の時代は豊かだったし、人口も多かったので、日本中にトンネルや道が整備され、電気やガスもひくことができた。
でも、少子高齢化になり、少産多死になり、特に地方は人口が減っていく。
その市の人口の年齢構成を見てみると、明らかに高齢者が多く、生産年齢人口が少ない。
これからもっと減る予定なのだ。

こういうのを限界集落というのか、と思った。

Wikipediaによると、「過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になっている集落」と書いてある。

まさにそういう集落が増えてきている。
21世紀は都市の時代というが、それはそうしないとやっていけない、という意味だ。
ありていに言えば、道路や電気、ガスなどのインフラの整備ができなくなる、という意味での限界なのだろう。

それによって、住み慣れた故郷がなくなる人も出てくるだろう。
それを何とかするためには、人が減るのを食い止めなければならない。

そのためには、もう海外からの移民の方々を受け入れるくらいしか手がないと思う。

難しい問題だ。

| | 考えたこと | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
台風11号
今回の台風11号は、ウチの近所では今シーズン初めて台風らしい台風だった。

どういう具合か、阪神間は今年はあまり被害にあっていない。
近くを通ったりしているのだが、さほどきつい雨風はなかった。
でも、今回は台風らしい風雨があった。
運がいいのだと思う。

台風でなくても、ゲリラ豪雨が増えたので、時々大雨が降ったりする。
夏場は気温が高く、大気が不安定になることが多い。
雷も頻度が増えたし、竜巻も報告されている。
何となく不穏な雰囲気だ。

温度が上がるということは、それだけでエネルギーが増えたことになる。
海上の水温が上がると、その分、台風の規模が大きくなる。

昔は温度は高くなかったが、被害の大きな台風があった。
1959年、ぼくが2歳の時に伊勢湾台風が来て、大きな被害があったらしい。
小学校の庭に、2メートル程度の高さがある三角すい状の岩があった。
その岩は伊勢湾台風の時に山の方から流れてきた、ということを先生に聞いた。
当時のことだから、山から学校まであまり障害物がなかったのかもしれないが、相当な被害だったことが想像される。

でも、その伊勢湾台風以降はデーター上は当時ほど強力な台風が来ていないらしい。
それくらいの台風が来たら、どうなるのかわからない。
伊勢湾台風は気圧が895hpaだったというから、強烈だったろう。

そういえば、昔は東北の方はあまり台風の被害はなかったと思う。
でも、最近はちょっと台風のルートが変わって、東の方に行くのが増えた。
これも温暖化の影響だろう。

そういえば、最近あまり梅雨らしい雨が降らない。
降らないうちに梅雨明けになる。
今年などは梅雨が明けてからのほうがたくさん雨が降ったような気がする。

梅雨前線が南方で止まっていて上がって来られない。

地球の歴史から見たら、この数十年の変化などしれているんだろう。
でも、人間は自分が生きている時間とちょっとしか想像できないから、その範囲で考えてしまう。
ぼくが生きてきた時代は、工業化が進み、世界の3つの地域(アメリカ、西欧、日本)で石油を燃やしてきた時代だ。
人間の経済活動が、地球規模で飛躍的に大きくなった時代。
だから、人間の活動で地球の気温が上がったのかもしれない。

22世紀にはどうなっているんだろうか。

ぼくは生きてはいないが、ちょっと心配だ。

どうして心配しても仕方ないことを心配するのか、不思議な気がするが…。


| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
コーヒー
最近、コーヒーを飲みだした。
牛乳を入れて飲む。
一日に2〜3杯飲んでいる。

インスタントで十分。
豆を挽くとか、ドリップするとか、そんなことはやらない。
でも、コーヒーというのはクセになる。
コーヒー中毒というのがわかった。

蕎麦屋や和食屋、カレー屋などでどうしてコーヒーがメニューにあるのかと思っていたが、あれらはコーヒー中毒者向けの対策だとわかった。
食事のあとはコーヒーで、というのがクセになっているのだろう。
コーヒーがメニューにあれば、客を逃さなくてすむ。
客の方も、喫茶店に行かずに済む。
食事をすると、割安になっていたりする。

しかし、味にこだわる人もいる。
そういう人をつかまえるのが、スターバックスやドトール、タリーズなどのコーヒーチェーン店。
持ち帰りもできるので、ランチの後のコーヒーはスタバで、というのもありだ。
だから、スタバはオフィス街に出店しているのだろう。

アメリカのコーヒーチェーン店があるのなら、どうしてイギリスのティーチェーン店がないのだろうか。

そう思ってネットで調べてみたが、イギリス人も最近はコーヒー党が多く、スタバなどでコーヒーを飲んでいるらしい。
だいいち、イギリスで飲まれる紅茶の96%がティーバッグだ、ということだ。
お茶の葉をポットに入れて、カップを温めて飲むというようなことはめったにないらしい。
それなら、ちゃんと葉で入れる紅茶を飲ましてくれる店があってもいいと思うのだが…。

でも、30年ほど前にイギリスのオフィスで、お茶の時間があったのは事実。
今はどうなっているのだろうか。
もちろん、職場によって違うのだろうが…。
ぼくの行ったところは研究所みたいなところだったから、時間はある程度自由がきいた。

紅茶にはあまり中毒性はないが、コーヒーにはあるらしい。
その差は大きい。

アメリカの深夜放送の司会者、クレイグ・ファーガソンもコーヒーを飲んでは「また飲んでしまった」と思うらしい。
この適度な中毒性がクセになる。

それがコーヒーの魅力なのかもしれない。

| | 考えたこと | 01:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
Pepperというロボット
ソフトバンクが出したPepperというロボットは、今までのロボットとちょっと違うと思う。

このロボットの狙いはどうも「会話を楽しむ」ことにあるようだ。
その他、若干役に立ちそうな場面はあるが、それも「会話」できることが前提での使い方だろう。

吉本興業が協力しているとのこと。
うーむ、なるほど。
適度なボケとツッコミは会話を進めやすくするから、吉本なのか。
声のトーン、目線、手振り、会話の間など、細かく調整しているのかもしれない。

これがちょっと前のソニーのロボットAIBOのように、単体なら難しかったのだろう。

無線のインターネットが進み、常時接続できるようになったのは、大きな進歩だ。
クラウドに接続して、質問されたことについて調べたりできるようになった。
株価や天気などは聞いたら答えてくれるので、便利だろう。
会話のデーターベースを持っていて、知識の部分と、会話の部分を分けたところがミソだと思う。

ソフトバンクの宣伝によると、「Pepperは常時ネットワークに接続されているので、インターネット上の様々な情報に自らアクセスして最新のニュースや天気、株価などを教えてくれます。
さらに、膨大な会話データベースとも連携しており、幅広い話題に答えてくれます。
クラウド・ネットワークと連携することで、これまでのロボットができなかったような情報活用が可能となり、人によりそうロボットとしての可能性が一気に広がります。」とのこと。

なるほどなあ。
そのうち、アマゾンでこれ買っといてとか、楽天でこれ頼んどいてとか、そんなことも原理的には可能だろう。
カードリーダーをつけておいて、その都度カードを読ませれば安全だ。

インターネットの便利さはわかるけど、キーボードがややこしいとか、パソコンが苦手、というような年配の人にもやさしい使い方ができるかもしれない。
要は、人とインターネットの間に入って、使いやすくする、という用途だ。

会話を楽しむ、という用途ではまだまだだと思う。
YouTubeで会話するところを見たが、やっぱり反応が遅く、こちらがわかりやすく話さないといけないし、間がちょっとできる。
それでも、あのまばたきしない目だが、色が緑になったり青になったりして、わりと眼力がある。
あれはなかなかよく出来ていると思う。

しかし、2014年にここまで出来たというのはスゴイと思う。

インターネットに常時つながっている、という事のメリットは大きい。

ぼくが70歳を超えるころ、2027年くらいには、もっともっと進んでいるだろう。
その頃にはもうこっちもボケているから、けっこう話し相手になったりして…。

これで20万円を切る価格というのは安いのではないだろうか。
出始めのコンピューターみたいなものだ。

そのうち、介護用のロボットも出てくるだろう。
もちろん、関西弁にセットして使う。

「えーと、今日は何曜日やったかな」
「今日は金曜日やで。ボケてんのちゃうか」
「そら、毎日日曜みたいなもんやから、ボケるで」
「まあ、しゃーないな」
「明日は土曜か」
「当たり前や」
「阪神はどことやるんや」
「広島やで」
「ああそうか 勝つかな」
「データーではこの季節の広島戦は55%の確率で勝つことになってる」
「そんな理屈どおりにいくかい」
「あくまで確率やからな」
「あ、なんか、胸が苦しい…」
「… ご臨終ですわ」

というようなことも十分にあり得るだろう。

話し相手になれるようになると、ボケ予防にもなる。
もちろん、インターネットを介しているから、救急車も呼べる。

この分野は可能性が大きいと思う。

掃除機ロボットでは負けているが、会話型ロボットでは頑張ってほしい。

ぼくはソフトバンクは嫌いだが、このpepperは可能性があると思う。
でも、まだまだ今は買わないけど…。


| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
石油はなぜできたのか
ぼくが小学校の頃、石油は動物の死骸が地層の中にたまってできた、と教えてもらった覚えがある。
一方、石炭は植物がたまって出来たものだった。

でも、どうして一部の地域に固まっているのかはよくわからなかった。

あれが1960年代の初頭。
今はちょっと説が違っている。

プランクトンの死がいが変化したものらしい。
もちろんそれに地中のバクテリアと地下の熱が働くことが必要だし、油田ができるためにはそれなりの条件がある。
だから、中東に偏在している、ということらしい。

Wikipediaからの孫引きになるが、「地球物理学者の石井吉徳は、発表している論文のなかで、「2.25億年前に超大陸パンゲアが次第に分離、現在の姿になるまでの過程で2億年前の三畳紀(Triassic)以後に存在したテチス海(Tethys)が地球史上の石油生成に極めて特異だった。中生代は二酸化炭素の濃度が今より10倍も高く、気温は10℃も高かった。つまり地球温暖化で、植物の光合成は極めて活発であった。しかもこのテチス海は赤道付近に停滞し、海水は攪拌されず長く酸欠状態が続いた。このため有機物は分解されず、石油熟成に好条件であったことが中東油田の始まりである。石油は探せばまだまだあるという単純な発想は地球史から見て正しくない。」と有限性を強調している。」とある。

要は今とはだいぶ異なる気象条件、地勢条件で石油ができたという説だ。
もともと大陸は一つだったが、それが分かれ始めたときに、テチス海、という海があったらしい。
その海底にたまったプランクトンの死骸が、石油になった、というのがこの人の学説。
そこが、今の中東だという説明。
なんとなく、正しそうな気がする。

もう恐竜の死がい、というのはなくなったらしい。
知らぬ間に学説が変わっていた。
石炭は植物、石油は動物、というのは何となくわかりやすかったのだが…。

一度、Webで隕石が衝突して、石油ができた、というのを読んだ覚えがある。
その時は、なるほど、だから偏在しているのか、と腑に落ちたのだが、それはどうもマイナーな説らしい。
実際、Webを見ると、アメリカに隕石が落ちた跡があるのだが、その付近で石油が採れるらしい。
それは隕石が当たって、地中深くに眠っていた石油が地表近くに吹き出したという説明があった。

でも、中東でも、ちょっと掘ったら簡単に石油が出るということはもうないのだろう。
石油は地球でできて、採れるのだから、有限だろうと思う。
作り続けるメカニズムがあればいいのだが…。

有限であるとすると、もうぼちぼち苦しいのかもしれない。
産出は、ピークを過ぎたという説もある。

だから、電気自動車の開発を急いでいるのだろう。

石油は恐竜が残してくれたものではなかったのか。
そのほうがちょっとロマンがあったのに、残念だ。

地球科学を勉強しないといけない。


| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
原爆追悼式典
今日は広島に原爆が落ちた日。

うちは父の実家が広島なので、なんとなく追悼式典をやっていると見てしまう。
前にも書いたが、祖母は原爆が落ちた後広島市に行ったと聞いた。

今日の式典で広島市長が、平和宣言の中で「我が国を取り巻く安全保障状況が厳しさを増している今こそ、日本国憲法の崇高な平和主義のもとで、69年間戦争をしなかった事実を重く受け止める必要があります」と言っていた。

その事実を軽く受け止めている、という人などいるのだろうか。
今現在、進んで戦争をやりたい、と思っている人などいないと思うのだが…。

新聞、テレビなどのマスコミは嫌韓・嫌中を煽っているが、だからといって、戦争を仕掛けるということなどないと思う。

特に中国に戦争を仕掛けるということなど、自殺行為だと思う。
きっと誰も望んでいないはずだ。
戦前はアメリカに戦争を仕掛けるというバカなことをやったのは事実だが…。

冷戦が終わって、中国が台頭し、今や日本を抜いてGDP世界2位になった。
中国の覇権主義というものを南シナ海や東シナ海で感じる。
特に南シナ海では本気で自国の海域を広げようという野心を持っているように見える。
ベトナムやフィリピンは頑張っている。
どう考えても、中国の言っていることはムチャだろう。

この69年間、戦争をしないで済んだのは、もちろん日本が戦争をしない国だと宣言していたからだが、それはアメリカと安全保障条約を結んでいて、日本を攻めることはアメリカを敵に回すことになったからとも言えるのではないか。

そのアメリカがぼちぼち「世界の警察」をやめようとしている。
お金がないからだ。
その分、中国などが台頭してきている。

アメリカが背後にいるのと、いないのとではだいぶ違うと思う。

強い用心棒がいたから、いじめられなかったのではないか。
ぼくはケンカなどできないから、学生の頃、それはいい考えだと思った。

でも、ぼちぼちその強い用心棒が、弱くなってきた。
となりにはどんどん強くなろうとしている、昔の敵(かたき)がいる。

そうなると、日本は集団的自衛権というものを使いますよ、と言っておかないとイケないと思う。

それは戦争をしたいから言っているのではなく、戦争を防ぐために言っているのだ。

何度も言うが、今の日本に戦争をしたいと思っている人などいないと思う。

でも、今の中国を見ていると、そう言っておかないとイカンと思う。

それは間違っているのだろうか…。



| | 考えたこと | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
刑事フォイル
刑事フォイルというイギリスのドラマを見ている。

原題は"Foyle's war"という。
第二次大戦中のイギリスが舞台。
イギリスが第二次大戦中、こんな状態だったのかとわかる。

ぼくは昭和40年代にティーンエイジャーだったが、この頃はたくさんの戦中のドラマがやられた時期でもある。
戦勝国が作った洋画は多かった。
邦画の戦艦大和など、太平洋戦争を舞台にした戦艦ものも多かったが、ノルマンディー上陸作戦などのヨーロッパ戦線を舞台にしたものもあった。
もちろん、戦争漫画もあった。
「零戦はやと」や「ゼロ戦レッド」など、負けたはずの日本だが、ゼロ戦の人気はすごかったと思う。
同時に、日本の連合艦隊ものや、軍部が悪いというプロバガンダ風の映画も作られた。
戦敗国はどこも同じだが、悪者は軍だった、ということで軍に全責任を押しつけて、国民が安心したかったのだろう。
この時に、軍とマスコミが悪かった、というふうにしておけば、マスコミも少しは反省したかもしれない。
もちろん、国民全体で責任を感じるべきだったのだが…。

ぼくは単純に戦勝国が正しくて、戦敗国が間違っていたとは思わない。
戦争は抑止すべきだが、人間の歴史には戦争がついて回っている。
人類に戦争がつきものなのは事実だ。
日本の軍部、特に陸軍はバカだったと思うのだが…。

その戦争がイギリスではどう思われていたかというのが、この刑事フォイルで描かれている。
もちろん、事件が起こって、解決をしていくのだが、舞台が戦争中であり、イギリスの人々が戦争をどう見ていたのかが、一般人の気持ちとして描かれているのを見るのはこれが初めてだ。

ドイツと英仏が戦っているのだが、もうフランスは占領されてしまっている。
イギリスは孤軍奮闘状態だったのだろう。
商船を沈められ、食料は入ってこず、一部のイギリス人はドイツのシンパになったりしている。
スパイが摘発され、みんな疑心暗鬼で生活している。
時には爆撃され、制空権も失っているようだ。
チャーチルがアメリカを説得して、参戦させるまでは本当に苦しかったのだと思う。
それだけドイツが強かったのだ。
日本が真珠湾攻撃をしたのが、アメリカが参戦を決めるきっかけになった、という説もあるらしいが、それが本当ならイギリスにとっては、日本サマサマだっただろう。
それ以外にもイギリスはアメリカから膨大な借金をしていて、イギリスが戦争に負けるとチャラになってしまうとか、いろんな理由が言われているらしいが…。

結果として、アメリカが参戦し、連合軍が勝った。

そんな第二次大戦中のイギリスの日常がわかる刑事ドラマだ。

これは面白い。



| | 考えたこと | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ステレオカメラ
自動で車間距離を調整して、加速・減速するシステムは、これからどんどん普及するだろう。
フォルクスワーゲンのゴルフは、比較的高価なこのシステムが標準に近い形で採用されている。
メルセデスやBMWのような高級車はもちろんだ。

日本の軽自動車にも誤発進を防いだり、衝突防止のためのシステムが搭載され始めている。

この自動制御を実現するためには、クルマの「眼」に当たるものが必須だが、現時点では2つの可能性がある。
1つはミリ波レーダーであり、もう一つはステレオカメラだ。
各々得意、不得意があるのだが、ステレオカメラがコスト的には有利だと思う。
雨などで視界が悪いと、「眼」が効かなくなるのだが、考えたらそんな状況なら怖くて運転自体ができないだろう。

ぼくのストリームにはミリ波レーダーが付いている。
7年前で20万程度のオプションだった。
あの当時はカメラを使うのはまだ市場に出ていなかった。
それを思うと、技術の進歩はスゴイ。

スバルの開発したアイサイトというのは、ステレオカメラのみを使うシステム。
だから比較的安くできる。

ステレオカメラの強みは、カラーになって、ブレーキランプがわかるとか、路面の白線がわかるとか、レーダーよりも情報量が多い、ということがある。
それらの情報をどう処理するか、というところが難しいのだが、それもスバルはクリアできたようだ。

最近、自動運転の記事がよく出てくるが、ハード的に不可欠なのはこのクルマの「眼」の技術だろう。

コストをかけずに、ステレオカメラのデーターをどう解析するかというところで勝負するというのがスバルの技術だと思う。

メルセデスなどはカメラもレーダーも搭載して、かなりコスト高なシステムになっている。
まあ、メルセデスを買う人はお金に糸目はつけないだろうが…。

でも、こういう仕組みは安全に関わるので、できたらコストを下げて、すべてのクルマに搭載してほしい。

スバルの技術開発に期待。

日本発の安全技術になってほしいと思う。

| | 考えたこと | 00:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
微生物発電
発電というと、ぼくが小学校で習った時は水力と火力がメインだった。
ダムを作って、水力発電というのは、その頃多かったんだと思う。
黒部ダムとか、すごいダムだというような事を習った気がする。

しかし、ダムによる環境破壊問題などで水力が減って、次第に火力の時代になった。
石炭から石油というところだった。
今は天然ガスもある。
要は熱エネルギーでタービンを回して発電するのだから、熱があればいい。

そして原子力が増えた。
しかし、震災後原子力は止まった。
関電などは原発比率を上げていたから、今は苦しいのだろう。
あわてて火力に切り替えている。
電気代が上がり、また本格的に上がるらしい。

いろんな問題があって、再生可能なエネルギーというのが必要になっている。
厳密な意味で再生可能ではないのだが、要は太陽や地球の自然エネルギーを電気に変えるということだ。
いろいろと研究されているが、日経によると微生物での発電、ということが研究されているらしい。

用途は廃液処理。
廃水を浄化しながら発電できるというシステムを考えている。

化学工場などの廃液処理を微生物にやらせ、それらが有機物を分解する時に発生する電気を蓄える、ということだ。
リクツはわからないが、カーボンナノチューブなどを使って、効率を上げたらしい。

この研究は微生物の研究者だけでは進まず、触媒や素材の研究者も必要になってくるとのこと。

なかなか面白い。
微生物だから、すごく微弱な電気しか作れないのだろうが、それを集めると実用化も見える。

こういうのを見ると、発電も用途別にコストの安いやり方を考えないといけないと思う。

分解する有機物がある時は、微生物での発電がいい。
夏場の家庭の電気は、屋根の上の太陽電池でやる。
たくさんできた電気は、リチウム電池にためて夜に使う。
海辺では波力、温泉では地熱、風の強いところでは風力というようにならないのかな。

要るものを要るだけ、適材適所というやり方だ。
それなりに合理的な気もするのだが…。

しかし、電力会社がベースになる電力を供給してくれるのが前提だろう。

そのベースをどうやって供給するかは問題だが…。


| | 考えたこと | 00:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
高齢ミュージシャン
楽器を弾くと、手と頭を同時に使うのでボケない、とテレビで言っていた。

そう言われると、ぼくらが60年代後半から70年代にかけて聞いていたミュージシャンがぼちぼち70を過ぎて、ボケてもおかしくない年齢に入ってくるが、そういう話は聞かない。

海外では、麻薬の中毒などは昔はよく聞いた。
有名なミュージシャンで過去に中毒だった人もいる。
アルコール依存や中毒もいる。
もう克服した、というミュージシャンも知っている。

最近は日本でも麻薬中毒はいるようだが、あまり聞かない。
ガンは最近多くなった。
やっぱりタバコを吸う人が多いからだろうと思う。

よく懐かしのメロディというような番組で、古い人が出てくるが、一様にみんな元気だ。
まあ、元気な人しか出てこないのだろうけど。

今のところ、ミュージシャンの天敵は、タバコの吸い過ぎによるガンみたいに見える。

それにしても、「あの有名歌手がボケている」というようなニュースは聞かない。

海の向こうではレーガンやサッチャーがアルツハイマーになった。政治家という頭を使う商売でもアルツハイマーになってしまうというところが怖い。

でも、70を過ぎても、ビートルズのポールやリンゴはすごく元気だ。

やっぱり楽器を弾いていると、ボケないのだろう。
ポールはベースやギター、キーボードだし、リンゴはドラムだ。70歳を過ぎてもすごく元気そうに見える。

歌を歌うのもいいのかもしれないなあ。

と思ってWebで調べてみた。
このページによると、一番いいのはピアノということだ。
ギターも、指を刺激するのでいいらしい。
歌をうたうのもいいとのこと。

やっぱり歌もいいのだ。

踊りながら、楽器を弾き、歌をうたうというのが最強だということだ。

なるほど。

やっぱり楽しいことをやらないと、脳に効かないんだろうなあ。

だから、政治家はボケてしまうのかもしれない。

| | 考えたこと | 02:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
聡明な学長
こないだの日経の社説に、「聡明な学長ばかりならいいが」というのがあった。

文科省は教授会の位置付けを下げ、「改正法ではこれを限定し、教授会は「教育研究に関する重要事項」について学長が決定をする際に意見を述べる機関と位置づけた」と書いてある。
長年、教授会が大学改革を阻害してきたから、今回大なたをふるったというのが実態だろう。

ぼくが見たかぎり、教授会というのは労働組合みたいなものだった。
自分たちの利権、既得権を陰に陽に守ろうとする、そんな権利を行使しようとしているとしか思えないような会議体だ。
それは、学校教育法で定められているから、というのが根拠だったが、これが崩れた。
とにかくなんでも反対、俺は聞いてないぞ、などという意見が通る。
もちろん、もっとまともな教授会もあったかもしれないが、今回新聞等で見るかぎりは、そんな側面があるから、大学改革が進まないという阻害要因の方が多かったのだと思う。

どこの大学も、事務に聞けば「教授会」の逸話はいくつか出てくると思う。
オトナの社会では考えられないような逸話だ。
それらを防ぐためには、今回の学校教育法の改革は仕方がないものだろう。

私立大学の事務の人たちはたいがい「教授会」というと「あー」という反応だと思う。
この「あー」には、「しゃーないなー」という嘆きや「センセイのことだから」という諦めが込められていることが多い。
そういう慨嘆は日本中で聞くことができると思う。
私立大学は、すでに教授会の権限が制限されているところが多いが、それでもまだまだ嘆きはあるだろう。

実際、大学に関して、これほどまでに欧米に後れをとったのは、あまりにも保守的な教授会の存在が大きかったと思う。
要は変化に対しては「何でも反対」「とりあえず反対」というスタンスだからだ。
大学教授という「学問の自由」に守られた人たちが、その自由を履き違えている。
自由だからこそ、自らに厳しく、変化を受け入れなくてはならない時は、受け入れなければならない。

実際には、とにかく、自分たちがシンドくなる方向には反対だ。
組織として、よりも自分のことが大事。
まあ、組織に属しているという意識すら持っているとは言いがたい人たちが集まっているのだから、仕方がない。

でも、おおかたの「改革」というものは所属するメンバーに痛みを伴うものだ。
だから、意識が変わり、改革らしい改革になる。

今回の改正について、社説では学長の聡明さを心配しているが、そんなことはいっこうにかまわない。
学長が暗愚なこともあるだろう。
それなら、学長を交代させればよいだけの話。

今までの「教授会」という集団無責任体制を続けるよりはよっぽどマシ。
ダメだったらダメといって責任を取らせないと、反省すらしない。
いつまで経ってもオトナにならない。
だから、失敗したら失敗したでかまわない。
失敗を経験して、人はオトナになっていくのだ。

会社員と違って、少なくとも教授という身分が保証されているんだから。

ぼくはそう思う。



| | 考えたこと | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギブソン
ギブソンというとフェンダーと並んでアメリカの、というか世界の2大ギターメーカー。
ソリッドタイプのエレキギターの基本の形を作った会社の1つだと思う。

一つはギブソンのレスポール。
もう一つはフェンダーのテレキャスター。
断っておくが、これはぼくの偏見だから、そのつもりで。

フェンダーは工業製品という感じで当たり外れがあまりなく、ギブソンはある意味「いい加減な」作りで、当たり外れが大きい(その分、当たった時は大当たり)という話を聞いたことがある。
たしかに、フェンダーのギターよりも、ギブソンのギターの方が工芸品の趣きがある。

例えば、ギターのボディとネックがまっすぐつながっていなかったり(13度の傾きがテンション等でベストらしい)、音を拾うピックアップもコイル2つをセットにしたハムバッキング(ノイズが少なく、出力が大きい)のタイプが使われている。

そして、ギブソンはセミアコースティックとかフルアコースティックという、ジャズなどで使われるタイプのギターもたくさん作っている。(昔の漫才師が持っていたギターといえばわかるだろう)
あれなどは工芸品の粋だ。色のバリエーションも多い。

そのギブソンが7月に東京に直営ショールームを開いたという。
そういえば、最近のギブソンは自動チューニングマシンの採用など、エレクトロニクス方面に力を入れている。(チューニングマシン自体はドイツの会社のOEMだが…)
フェンダーはアンプや電子機器の分野にも進出しているが、そこに追いつこうと頑張っている感じだ。

知らなかったが、ギブソンは日本のオンキョーに出資したり、ティアックを子会社化したりしている。
ティアックは録音機器などで有名な会社。
本業での儲けも新しいCEOの元で拡大しているらしく、鼻息が荒い。
日本発のギブソンブランドのエフェクターなど、出てくると面白い。

ショールームの写真を見たが、70種類のギターが飾ってあって、何台か弾ける状態になっている。

ギブソンとフェンダーの一番大きな違いは、やっぱりピックアップだ。
ギブソンのハムバッカーは音が太く、音圧がある。その分、ちょっと丸い音になる。
フェンダーのシングルコイルのシャリシャリした、軽めの音とは明らかに違う。

ぼくは最初はハムバッカーだった。グレコという会社の、レスポールモデルが最初のエレキギターだった。コイルが1つより2つの方がいい、と単純に思っていた。実際にノイズが出ないこともよかった。
それで、レスポールに似たヤマハのSGというモデルを買った。

でも、ここ10年ほどはシングルコイルのファンになった。
シャリシャリした高音が魅力的だった。
それでテレキャスを買った。

今はちょっとハムバッカーに回帰している。
あの暖かい音がまた良くなってきた。

いろんなミュージシャンを見ても、二つに分かれている。

個人的にはまたギブソンの時代が来たなあ。
東京のショールームにはいつか行ってみたいと思う。



| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |