考えたこと2

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いじめと道徳教育
道徳教育の充実を図るという。
いじめがあるから、道徳を強化するということらしい。

週1時間程度の時間をとり、担任が授業をし、数値で評価するのではなく文章で評価を書くということを中教審が言っているらしい。
NHKの7時のニュースで言っていた。

ぼくが小学校の頃は、道徳の授業は週1回あった。
テレビで20分ほど教育テレビでやっていた道徳のドラマを見て、その後先生が話をするというものだったと思う。
ただ1つ覚えているのは、道路か何かが通るので家を立ち退かないといけない、という話。
公共の利益のために、立ち退くということだった。
えらいこっちゃなあ、と思った。

何年間道徳の授業があったのか、覚えていない。
ただ、道徳のテレビドラマはけっこう面白かったので、みんな楽しみにしていたのは事実。
ぼくの行っていた小学校は放送教育全国大会の見学があった学校だったし、あの当時ビデオレコーダーも持っていたから、そういうカタチの授業をやっていたのは特殊だったのかもしれない。

しかし、今こんな番組をやろうとすると、いろんな所から文句が来そうな気がする。
公共の利益と私的な利益の折り合うところが変わった、というか、人によって考え方が広がったということだろう。
今は、道路を広げると公害が増えるとか、交通事故が増えるとか、そもそもそんなものを作るのは反対だとか、いろいろ言う人がいる。
そうなると、授業はやりにくいだろう。
その授業でやっていた「道徳」というのは、そういうふうに社会と一体になっている。
今みたいに価値観が多様化すると、それを一括りで表すのは難しい。

今回の道徳教育の主眼は「イジメ」をなくすことだ。
「イジメ」が良くないことだ、ということはきっと誰でもわかっていることだろう。
それは本能的なものだと思う。
子供は意外に賢い。
そんなことをわざわざ「教える」というのはあまり必要だとは思わない。

ぼくは小学校のころ、みんながいじめている人を一緒になって無視したことがある。
もちろん、自分がされたら嫌だと思う。
だから、一緒になって無視してしまった。悪いことをしてしまったと思っている。
「いじめられる人の立場になって考えなさい」ということは、みんなわかっている。
でも、わかっているからこそ、やってしまうのだと思う。
授業をやっても、きっとみんな「わかっている」と言っておしまいだろう。

イジメの対策は、「実践」だと思う。
いじめをしてはいけない、ということをどうやって実践するかだ。
わからないことを教えるのは、まだ簡単だ。
でも、わかっていることを実践させるのは難しい。

本気でやらないと、イジメなどなくならない。
ゼロにはできないまでも、死に至るようなイジメはなくさないといけない。
先生方が本気でイジメはダメだという気持ちを持たないといけない。
本気は大事だ。
生徒は先生が本気かどうかはわかるものだ。

大津市のイジメ事件の対応を見ていると、教育委員会も学校も先生もいい加減すぎる。
というより、先生もイジメの一因であり、教育委員会は事なかれ主義だ。
そんな状態で道徳の授業などやってもダメだろう。

まずは本気で取り組める組織を作らないといけない。
どう評価するかとかいうような問題はまだ先だ。

それができないと、何をやってもダメだろう。




| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
臨死体験
臨死体験というのは、死にそうになって生還した人の体験談のことだ。
人は死ぬ時にどうなるのか、ということを研究している人にとっては、その体験談はとても大事だ。

立花隆が熱心にやっていた。
以前、文庫本を読んだが、自然死の臨死体験者は死ぬ時にすごく気持ちが良かった、ということを言っていて、自殺の場合は苦しかったというものだったと思う。

今回、アメリカの心理学者、Raymond A.Moody博士が臨死体験者150人の証言をもとに、「臨死状態に陥るとどんな感覚になるのか」という事がまとめられたという記事があった。

それによると、体験者は以下の14のステップを踏んでいたらしい。

1、自分の死の宣告が聞こえる
2、これまで経験したことがないような穏やかで愉快な感覚に包まれる
3、不思議な声が聞こえる。中には美しいメロディーという人も
4、突然暗いトンネルの中に引っ張られる
5、魂が肉体から離脱し、外部から自分の身体を観察する
6、懸命に自らの苦境を他人に訴えるが、誰にも聞こえない
7、時間の感覚がなくなる
8、視覚や聴覚が非常に敏感になる
9、強烈な孤独感に襲われる
10、周囲に様々な“人”が現れる
11、「光の存在」と出会う
12、自分の一生が走馬灯のように映し出される
13、先に進むことを遮られる
14、蘇生する

これで13番の時に前に進むと、生還できないということだろう。

そういえば、知り合いで、臨死まではいかなかったようだが、死にかけた体験者に聞いたら、回りのみんながすごく苦しそうにしている、と言っていたようだが、自分はとても気持ちがよかった、と言っていた。
この人は、2番あたりで帰ってきたのかもしれない。

4番〜9番はちょっと怖い。
臨死体験者はこのあたりで死を直感したのだろうか。

10番〜12番はよく聞く話だ。
自分の一生を振り返る。
このときはもう肉体から離脱しているわけだから、自分を見ながら振り返るんだろう。
よく、死んだ後しばらくは魂が肉体の側を漂っているというようなことを言うが、それは真実味があるのかもしれない。

よく映画などで見るシーンは、光の中に入っていくというシーン。
入っていったら、一生が終わるということになると思う。

さあ、はたして自分の時も同じような状況が現れるんだろうか。

ちょっと違う、というような状態になったら、どうしようか。
え、これちょっと聞いてた話と違います、と言うにしても、誰に言ったらいいのか、わからない。

ま、それは死んでからのお楽しみにしておこう。



| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
村上朝日堂 はいほー!
村上朝日堂 はいほー! 村上春樹 文化出版局

村上春樹のエッセイ集。
1983年から5年間に書かれたエッセイを集めたもの。
大部分のものは、ハイファッションというファッション雑誌に「ランダム・トーキング」というタイトルで連載された。
1989年に出版されている。

31本のエッセイが載っている。
どれも面白い。

最初の「白子さんと黒子さんはどこに行ったのか?」というエッセイは、化粧品のCMで白子さんと黒子さんが出てくるアニメのキャラクターが、いつの間にかいなくなった、という話。
そういえば、いつの間にかなくなった。
このCMでは白子さんが黒子さんを救済するということになっていた。

「つまりある特定の知識を有しているが故に救済されている人間Aが、その知識を有していないが故に苦しんでいる人間Bにその知識を分け与え、自分のいる位置までひっぱりあげてやるわけだ。でもそうすることでAはBに対して、決して「救ってやったんだぞ」というような恩きせがましい感情は持たない。それは無償の好意であり、救済なのだ。AはあくまでBがあるべき状態を提示しただけのことなのである。そしてAはBが自分と同じ地平に身を置けたということを素直に「良かったね」と喜べるのである。」
「そんなのリアルじゃないとあなたは言うかもしれない。そうですね。たしかにリアルじゃないかもしれない。ひとことで言っちゃうと、これは実にありし日の戦後民主主義の理想世界である。つまりそこにはあるべき状態というものが厳然として存在し、努力さえすれば人はそこにちゃんと到達できるのである。」

どこまでマジメに書いているのかわからない。
でも、かなりマジメに書いていると思う。
ちょっとハスに構えているように見えて、実は本気なのだ。

「でももちろん今ではそんな幻想は消えてしまった。社会のスピードがそれをすっぽりとのみこんでしまったのだ。そしてその幻想そのものが商品化されてしまったのだ。幻想はいまや資本投下の新しいフロンティアなのだ。幻想は無料でみんなに平等に配られるような単純なものではなくなってしまったのだ。それは多様化し、洗練され、美しいパッケージを与えられた商品となった。そしてそういう世界にあっては白子さんにはもう何が善なのかわからなくなってしまっているかもしれない。」

そういうことなんだろう。
日本の社会に、みんなが善だと思うようなものがなくなってしまった。
そのことを書いている。
なくなってよかったのか、悪かったのかは書いてない。
それはなんとも言えないのだろう。

そして、白子さんと黒子さんはどこに行ってしまったのかという問いに対して、「たぶんどこにも行けなかったんだろう。」と締めくくっている。

「チャンドラー方式」というエッセイでは、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーが小説を書くコツについて書いた文章のことが書いてある。
村上春樹の記憶では、チャンドラーはこう書いていたらしい。

「まずデスクをきちんと定めなさい、とチャンドラーは言う。自分が文章を書くのに適したデスクを一つ定めるのだ。そしてそこに原稿用紙やら(アメリカには原稿用紙はないけれど、まあそれに類するもの)、万年筆やら資料やらを揃えておく。きちんと整頓しておく必要はないけれど、いつでも仕事ができるという態勢にはキープしておかなくてはならない。
 そして毎日ある時間をーたとえば二時間なら二時間をーそのデスクの前に座って過ごすわけである。それでその二時間にすらすらと文章が書けたなら、何の問題もない。しかしそううまくはいかないから、まったく何も書けない日だってある。書きたいのにどうしてもうまく書けなくて嫌になって放り出すということもあるし、そもそも文章なんて全然書きたくないということもある。あるいは今日は何も書かないほうがいいな、と直感が教える日もある(ごく稀にではあるけれど、ある)。そういう時にはどうすればいいか?
 たとえ一行も書けないにしても、とにかくそのデスクの前に座りなさい、とチャンドラーは言う。とにかくそのデスクの前で、二時間じっとしていなさい、と。」

そして、そのチャンドラー方式で実際に書いているらしい。

「僕はもともとぼおっとしているのが好きなので、小説を書くときはだいたいこのチャンドラー方式を取っている。とにかく毎日机の前に座る。書けても書けなくても、その前で二時間ぼおっとしている。」

なるほど。
そういうやり方で書いているのか。

「狭い日本・明るい家庭」というエッセイでは日本の標語のことを書いている。

「世界人類が平和でありますように」という標語の看板を見て、まったく理解できないという。
もちろん趣旨には根本的に賛成するのだが、そんな看板を立ててまわって、いったい何の効果があるのか、ということだ。

「要するに僕が言いたいのは、人々に世界平和を望ませればそれで事足るというものではないということである。必要なのは共通した世界認識と、もっと具体的な細かい行動原則である。それがなければ、何も始まらない。
 僕はそういうタイプの行動原則のない茫漠とした(しかしとりたてて反論のしようのない)主張を「ウルトラマン的主張」と呼んでいる。ウルトラマンならそれを目にとめて「そうだ、世界人類を平和にしなくちゃ」と決意を新たにするだろうが、それ以外にはなんの効果もないという意味である。しかし、こういうタイプの標語はまあ実に多い。「犯罪のない明るい社会を」だとか、「目標・交通事故死ゼロ」なんて、いったい何のためにこんな看板わざわざ出しているのか僕にはもう全然見当がつかない。見ているだけで馬鹿馬鹿しくなってくる。ただ資源と人手を無駄に費やし、街を汚しているだけである。」

そう言われれば、そうだ。
まことに文学者らしい意見。
こういう文章を見ると、この人日本には住みにくいだろうと思ってしまう。
だから、海外での暮らしが長いのか…。

村上春樹という人と、筒井康隆が似ているような気がする。
ぼくは二十代のころ筒井康隆の本をたくさん読んだ。
筒井康隆のエッセイでは、一人称は「オレ」だったが、それを除くと何となく同じニオイがする。
どこが似ているのか、と言われると難しいのだが、何となく同じ種類の人間のような気がするのだから、仕方がない。

こういうエッセイが31本。
バブルのころに書かれているから、何となく明るい。

これはオススメ。


| | | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
NPO法人
当たり前だが、今どきの若い人は、ぼくらの時代とはだいぶ違う。

とりあえず、自分探しをしながら何かの仕事に就く。
SNSを使って自身の発信をしながら、積極的に人的なネットワークを広げていく。
2年、3年仕事を続けて、その後NPOの活動などに転身する。
何か、世の中のためになることをやる。
そういうパターンがあるような気がする。

そこにあるのは、営利企業で働くことは、ある種自分に対する負けみたいな見方だ。
金のために働くことは悪、という見方といってもいい。
営利=金儲け=悪という感じ。

営利を追求することは良くないと思われている。
もちろん、そんな人ばかりではないが、NPOみたいな活動は一つの理想形となっているようだ。

しかし、営利企業がよくない、というのはどういうことだろうか。
儲けることはいいことではないのか。
儲けることをいいことだとしたことから、資本主義は発達したのだと思う。
そのおかげで、今の豊かな生活があると言ってもいい。

NPOで働く人に給料が出ていると言ったら、びっくりする人もいた。
ボランティアではないのか、ということだ。
もしそうなら、今の日本にこんなにNPOがあるはずがない。
補助金や助成金と事業収入がNPOの儲けであり、そこから経費として給料は支払われる。
ただし、余ったカネを分配してはいけないというのが非営利の意味になる。
非営利だけど、実際には経費分は儲けているというのが難しいところ。

もちろん、何でもやっていいわけではない。
主たる目的は特定非営利活動でなければならない。
医療、保険、社会福祉、まちづくり、観光、スポーツ振興、環境保護や人権保護などの活動だ。

たしかに、そういう活動に参画して世のため、人のために力を尽くすというのはいいことである。

だからといって、営利がよくないとは言えない。
だいいち、世の中NPOばかりになったら、補助金や助成金など払えない。
困っている人を助けるのはいいことだが、それは世の中に営利企業がたくさんあって、カネを儲け、税金を払っているからこそ、できることだ。

ぼくは大学で働いてきたが、学校には営利に対するバイアスがあるように思う。
本当にステレオタイプの思考として、営利=儲け主義=悪、という人が多い。
営利、非営利両方で働いてみて、営利企業の方がよほど世の中のことを考えていると思う。

あの、学校の人たちの考えが、NPOに走る若者たちに影響を与えているような気がする。

これはぼくの考えが偏っているのだろうか。

実際、NPOの名を借りた暴力団の商売もある。

非営利であることは必ずしもいいことだとは限らない。


| | 考えたこと | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
村上春樹、河合隼雄に会いにいく
村上春樹、河合隼雄に会いにいく 河合隼雄/村上春樹 新潮文庫

村上春樹と心理学者の河合隼雄の対談。
2回にわたって行われたものを書き起こしたもの。
対談は1995年11月に行われたとのこと。

ちょうど村上春樹が「ねじまき島クロニクル」という作品を書き上げた後の時期。
ぼくは村上春樹の小説は読んだことがないから、どんなものかはわからない。
対談の中にその小説のことが出てくるが、それもわからない。

村上春樹はアメリカにいた時に、河合隼雄と会う機会があったらしい。
その時は小説の執筆中だったので、そのことに触れないよう、気を遣ってもらって話をしたのだが、今回は小説を書き上げたので安心して話ができる、ということだ。

「ねじまき島クロニクル」については、あまりわからないので、この本は結局よくわからない本になった。

でも中に、面白いことも書いてある。

アメリカのことについて、河合が言っている。

「ぼくは教育の世界の人によく言うんですが、このごろの学校教育というのは、個人を大切にしようとか、個性を伸ばそうとか、教室によく大書してあるんですね。ぼくが「こんなこと、アメリカではどこにも書いてない」って言いますと、みんなものすごいびっくりするんですわ。
 アメリカでは個性は大事なんじゃないですかと言われますが、いや、そういうのはあたりまえな話だからわざわざ書く必要はないんだ、と答えるんです。
 日本では「個性を大事にしましょう」と校長先生が言ったら、みんなで「ハァー」というわけで、「みんなで一緒に個性を伸ばそう」ということになってしまうんですね。それほど、日本では個人ということがわかりにくいんですね。
 このあいだおもしろい体験をしました。日本の学校はもっと国際的にならなければいけないと、教育の国際化に取り組んでいる学校の紹介があった。その紹介の文章の中に道徳教育のことがあって、そこには「『すみません』というのは非常に大事な言葉である、自分は悪いことをしていなくても『すみません』と言うことが大事だ」、と教えている。その時に、自分が悪いことをしていないかぎり「すみません」と言わない文化もあるということは全然教えない。そして人間関係をスムーズにするためには「すみません」という言葉が非常に大事だと、道徳の時間に教えているのですよ。
 日本人は、個人ということを体感としてわかることはすごいむずかしいことなんじゃないでしょうかね。」

こういうことが本当にあるんだろうか。
今の時代だから、そんなことはないと思うのだが…。

日本のボランティア活動について、河合の言葉。

「だから、学生運動のころに、ぼくがよく学生を冷やかしていたのは、きみたちは新しいことをしているように見えるけれども、体質がものすごく古い、グループのつくり方がものすごく古い、ということですね。あれはおもしろいですね、みんなが集まるというときに、ちょっとサボっていると、おまえは付き合いが悪いとか。つまり、個人の自由を許さなくなるんですよ。全体にベタベタにコミットしているやつが立派なやつで、自分の個人のアイディアでなんかしようとするやつは、それは異端になってしまうでしょう。
 ところが、その点、欧米のコミットする人は、個人としてコミットしますからね。来るときは来る、来ない時は来ないというふうにできるんですよ。」

たしかに、ボランティアであるにもかかわらず、あまり来ないヤツはダメなヤツになってしまう。
これは日本ではたしかにあるだろう。

湾岸戦争の時にアメリカで感じたことを話す村上の言葉。

「結局、日本人の世界の理屈と、日本以外の世界の理屈は、まったくかみ合っていないというのがひしひしとわかるんですね。ぼくもアメリカ人に何も説明できない。なぜ日本は軍隊を送らないのかというのは、ぼくは日本人の考えていることはわかるから、説明しようと思うんだけれど、まったくだめなんですね。
 自衛隊は軍隊ですよね。それが現実にそこに存在するのに、平和憲法でわれわれは戦争放棄をしているから兵隊は送れないんだと、これはまったくの自己矛盾で、そんなのどう転んだって説明できないですよ。そこからいろいろなことがだんだんぼくのなかでグシャグシャになっていくんですよ。
 そうすると、ぼくらの時代が六〇年代の末に闘った大義、英語でいうと「コーズ」は、いったいなんだったのか、それは結局のところは内なる偽善性を追求するだけのことではなかったのか、というふうにどんどんとさかのぼって、自分の存在意義そのものが問われてくるんですね。すると、自分そのものを、何十年もさかのぼって洗い直して行かざるをえないということになります。
 これはやはり日本にいたら気付けなかったことだと思うのです。理屈ではわかっていても、ひしひしとは肌身に迫ってこなかったんじゃないかと。
 それからすぐ、真珠湾攻撃五〇周年というのがあった。これも、ぼくが生まれる前のことですから、訊かれてもわからないのですが、やはりどうしても問題として出てくる。そうすると、また自分のなかの第二次大戦というものを洗い直さなくてはならないですから、これもけっこうきつかったです。でも、一つひとつ考えていくと、真珠湾だろうがノモンハンだろうが、いろんなそういうものは自分のなかにあるんだ、ということがだんだんわかってくるのですよね。」

湾岸戦争の時は、日本は自由な貿易で国益を上げているのに、それを守る活動には参加しないのか、ということだった。これが1990年の話。
このあたりが起点になって、集団的自衛権の話も出てきているのだと思う。
この対談が持たれた1995年は震災もあったし、オウム真理教のサリン事件もあった年だ。
それから今年で20年。
日本は95年あたりから、高度成長が終わり、低成長になってきている。
この20年ほどは右肩下がりの時代だ。
というか、その前の高度成長の時代ができすぎだったのだろう。
これからの時代をどう生きていくのか、まだ答えは出てない。
安部首相は強かった日本と取り戻す、と言っているが、そんなことはできないだろう。
もうそんな時代ではないのだと思う。

村上が小説を書き始めたきっかけについて。

「なぜ小説を書きはじめたかというと、なぜだかぼくにもよくわからないのですが、ある日突然書きたくなったのです。いま思えば、それはやはりある種の自己治療のステップだったと思うのです。
 二十代をずっと何も考えずに必死に働いて過ごして、なんとか生き延びてきて、二十九になって、そこでひとつの階段の踊り場みたいなところに出た。そこで何か書いてみたくなったというのは、箱庭づくりではないですが、自分でもうまく言えないこと、説明できないことを小説という形にして提出してみたかったということだったと思うのです。それはほんとうに、ある日突然きたんですよ。
 それまでは小説を書こうということを考えたことはまったくなかった。ただ働いてきて、ある日突然「そうだ、小説を書こう」と思って、万年筆と原稿用紙を買ってきて、仕事が終わってから、台所で毎日一時間なり二時間コツコツ書いて、それがすごくうれしいことだったのです。自分がうまく説明できないことを小説という形にすることはすごく大変で、自分の文体をつくるまでは何度も何度も書き直しましたけれど、書き終えたことで、なにかフッと肩の荷が下りるということがありました。」

えらいものだ。
ある日突然書こうと思って、書けるというのがスゴイ。
小説家は何かしら心が病んでいるというが、そういうことがあるんだろう。

人間の死についての河合の言葉。

「人間はいろいろに病んでいるわけですが、そのいちばん根本にあるのは人間は死ぬということですよ。おそらくほかの動物は知らないと思うのだけれど、人間だけは自分が死ぬということをすごく早くから知ってて、自分が死ぬということを、自分の人生観の中に取り入れて生きていかなければいけない。それはある意味では病んでいるのですね。
 そういうことを忘れている人は、あたかも病んでいないかのごとくに生きているのだけれども、ほんとうを言うと、それはずっと課題なわけでしょう。
 だから、いろいろ方法はあるのだけれど、死後に行くはずのところを調べるなんてのはすごくいい方法ですね。だから、黄泉国へ行って、それを見てくるということを何度もやっていると、やがて自分もどこへ行ったらいいかとか、どう行くのかということがわかってくるでしょう。
 現代というか、近代は、死ぬということをなるべく考えないで生きることにものすごく集中した、非常に珍しい時代ですね。それは科学・技術の発展によって、人間の「生きる」可能性が急に拡大されたからですね。その中で死について考えるというのは大変だったのですが、このごと科学・技術の発展に乗っていても、人間はそう幸福になるわけではないことが実感されてきました。そうなると、死について急に語られるようになってきましたね。
 だけど、ほんとに人間というものを考えたら、死のことをどこかで考えていなかったら、話にならないですよね。その点、それこそ平安時代の物語なんかは死ということはずっとある。」

人間だけが、「自分が死ぬということを、人生観の中に取り込んで生きていかなければいけない」というのは、そう思う。
それが「病んでいる」ということかどうかはわからない。
動物には「今」しかないというワケではないとは思う。
イヌやネコにも関係はわかると思う。
親との関係とか、仲間との関係とか、飼い主との関係とか、そういう関係の中で生きているとは思う。
そこには時間の意識もあるだろう。
でも、時間の先にある「死」はそこには入っていないだろう。

戦争についての村上の言葉。

「結局、日本のいちばんの問題点は、戦争が終わって、その戦争の圧倒的な暴力を相対化できなかったということですね。みんなが被害者みたいになっちゃって、「このあやまちは二度とくり返しません」という非常にあいまいな言辞に置き換えられて、だれもその暴力装置に対する内的な責任をとらえられなかったんじゃないか。
 われわれの世代的な問題というのも、そこに帰属するのではないかと思います。ぼくらは平和憲法でそだった世代で「平和がいちばんである」、「あやまちは二度とくり返しません」、「戦争は放棄しました」、この三つで育ってきた。子供のころはそれでよかったのです、それ自体は非常に立派なことであるわけですから。でも、成長するにつれて、その矛盾、齟齬は非常に大きくなる。それで一九六八年、六九年の騒動があって、しかし、なんにも解決しなくて、ということがえんえんとあるのですね。」

「ぼくが日本の社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、だれも痛みをひきうけていないですね。文学者の反核宣言というのがありましたね。あれはたしかにムーヴメントとしては文句のつけようもなく正しいのですが、だれも世界のしくみに対して最終的な痛みを負っていないという面に関しては、正しくないと思うのです。」

これはアメリカが経済的に苦しくて、もう世界の警察をやってられない、という事態になって本当に現実になってきた。
日本という国はどうやって世界の中で存在していくのか、どういう関係を作っていくのか、いまだにコンセンサスを持った立ち位置が決まらない。

部分的には面白い。
けど、小説の話はまったくわからない。

村上春樹の「ねじまき島クロニクル」を読んだ人には面白い本だと思う。




| | | 23:39 | comments(2) | trackbacks(0) |
ジャージー・ボーイズ
クリント・イーストウッド監督の作品。
レイトショーを見に行った。

フォーシーズンズという白人4人のバンドの物語。
60年代のアメリカンポップス満載だ。

Wikipediaによると、「アメリカ合衆国の、1960年代中期に世界規模で成功したロックおよびポップス・バンド。ヴォーカル・グループの殿堂はビートルズよりも以前に最も人気のあったロック・バンドだとしている」と書いてある。
アメリカの田舎から都会に出てきて成功し、ヒットチャートを駆けのぼり、そしてツアー先で仲間割れがあって、そしてバンドは解散、そしてソロで続けるというパターン。

もとはブロードウェイ・ミュージカルだったものを映画化した。

中に出てくる曲で唯一知っていたのが「君の瞳に恋してる Can't Take My Eyes off You」だった。
この曲をトップテナーのフランキー・ヴァリが歌うシーンは素晴らしい。
ペット・ショップ・ボーイズが歌っていたが、こっちがオリジナル。
この場面は泣ける。

そして、圧巻はフォーシーズンズがロックの殿堂入りするということで、オリジナル・メンバーで25年ぶりに歌うところ。
みんな白髪になってしまったが、4人揃って歌う。

ロックの殿堂はオハイオ州クリーブランドにある。
2003年にアメリカに出張した時に行ったが、その時はフォーシーズンズは気にかけていなかった。残念。

映画としては今ひとつだったが、音楽はよかった。

リードボーカルがファルセット(裏声)で歌う、60年代のポップスから生まれたパターン。
黒人の専売特許かと思っていたが、白人のバンドもいたんだなあ。

ちなみに、ジャージー・ボーイズという題名は、ニュージャージー出身の4人組だから。

あの頃のアメリカのポップスは底抜けに明るい。

その事がわかった映画だった。

| | 映画・舞台 | 01:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハッカーと画家
ハッカーと画家 ポール・グラハム著 川合史朗監訳 オーム社

中高年の人にとっては、ハッカーというと人のコンピューターに進入する悪人というイメージ。
でも、この言葉の意味は最近変わってきた。

この作者によると、ハッカーとはクールな(かっこいい)プログラムを書く人というような意味だ。
どちらかというと、学生時代はギーク(オタク)で変わり者で、あまり女の子にもてない。
このへんのイメージは日本と同じだ。
見た目は野暮ったく、外観などかまわないのだが、内面は他の人より先を行っている。
ハッカーが単なるオタクと違うところは、そこだ。
くだらないゲームに「ハマって」いるようなオタクではなく、一歩先を考え、実社会で問題になるようなことを考えているオタク、これがハッカーと作者が呼んでいるものだろう。
ハッカーにとっては、プログラムをコーディング(書くこと)することは、一種の芸術であり、いかに美しく、クールなコーディングができるかということが大事だという。
それは単に書くことではなく、一種のデザインであり、創造である。
だから、それは芸術家が絵を描くのと似ている。
そんなプログラムをコーディング出来る人が、真のハッカーだ。

ポール・グラハムはオタクで、プログラマで、ベンチャー起業家で、フィレンツェで絵画を学んだハッカーである。
起業した会社は今はヤフーの一部になって、自分は独立している。
オンラインショップのソフトを作って、ユーザーに提供する仕組みを構築した。
今グーグルがやっているように、Web上でサービスを構築する。
コンピューターにはインターネットにつながって、Webサーバーと通信できればそれでいい、という先進的なアイデアを、LISPというプログラム言語を使って、世界で最初に作った。

この本はそのグラハムが書いたものをまとめたもの。
前半は社会のことについて書いてあり、後半はプログラミング言語にことについて書いてある。
一番エキサイティングなのは、第7章。「格差を考える」という章だった。
作者の考えは、今の日本に欠けているところだと思う。

そこから抜粋する。

「教授と政治家は直接富を作る現場から一歩離れており、どれだけ頑張って仕事をしても給料は変わらないという、経済に生じる社会主義の渦の中で生きている。」

「実社会では、親にずっと頼って生き続けることはできない。何かが欲しければ、それを自分で作るか、同等の価値あることを他の誰かにしてあげて、その対価を支払ってもらい、それでもって欲しいものを買うしかない。実社会では、富は(泥棒とか山師などの特殊な例を除けば)自分で創り出さねばならないものであって、お父さんに分配してもらうものじゃない。そして、富を創り出す能力と、創りたいと望む欲望は人によって異なるのだから、富は等しく創り出されない。」

「米国では大きな公開企業のCEOは、平均的な人の100倍くらいの給料を受け取る。バスケットボールの選手は128倍、野球選手は72倍くらいだ。」

「誰かの仕事がどれくらいの価値があるのかは、政府の方針の問題ではない。それは既に市場が決めていることだ。

もちろん、人々は間違ったものを望むものだ。そんなことに驚くほうがおかしい。ましてや、ある種の仕事の給料が少なすぎるのは不公正だなんていうのはもっとおかしい。人々が間違ったものを望むのは不公正だと言っているのと同じだからだ。そりゃあ、人々がシェークスピアよりバラエティ番組を、野菜サラダよりアメリカンドッグを好むことは、残念ではある。だが、不公正だって?それはまるで、青色は重いとか、上は丸いとか言うようなものだ。
ここで「不公正」という言葉が出てくるということは、父親モデルが心に刻まれている間違いない証拠だ。でなければ、どうしてこんなとんちんかんな考えが出てくるんだい?未だに父親モデルを信じていて、富は人が欲することをやることで生み出されるのものではなく、共有の源から流れてきて分配されるものだと思っているからこそ、誰かが他の人よりずっとたくさん儲けているのを見て不公正だと思ってしまうんだ。
「収入の不均一な分布」に関して話す時には、その収入がどこから来たのかについても考えなくちゃならない。その収入の多寡が人が創り出した富の多寡による限り、その分布は不均一にはなるだろうが、不公正とは言い難い。」

「父親モデルが現実と最も異なるのは、頑張りの評価だ。父親モデルでは、頑張りはそれ自体が報酬の対象となる。現実では、富は結果で測られ、どれだけ頑張ったかは関係ない。もし私が誰かの家にペンキを塗るとして、歯ブラシを使って頑張っても余分にお金は貰えないだろう。
父親モデルを無意識に信じてる人にとって、とても頑張った人があまり貰えないのは不公平に感じられるだろう。問題をより明確にするために、他の人間を全部取り除いて、この労働者が無人島にいて、狩りと果物の収集をやっているとしよう。彼がそういうことを苦手だとしたら、非常に頑張っても、大した食料は手に入らないだろう。これは不公平だろうか。誰かが彼に対して公平でない行いをしている?」

こういう刺激的な言葉で書かれている。
刺激的だが、正論だと思う。
2004年に発行された本だ。
今から十年前。
書かれていることは、すでにWeb上で発表されたものとのこと。
英語がわかれば、タダで読めるということだ。

ハッカーという生き方は、ある方面ではストイックに生きるということだと思う。
別の方面では、全く気にしないということだ。
インターネットとパーソナル・コンピューターという道具は、ハッカーに向いていると思う。
一人でプログラムをコーディングして、その結果を公開できるし、見る人がみればその優劣は明らかにわかる。

それが何かをデザインすることであり、絵画のようだとポール・グラハムは言うのだろう。

ハッカーはかっこいい。


| | | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドレスコード
ドレスコードという言葉、時々聞くようになってきた。
Wikipediaによると、ドレスコードとは服装規定のことであり、こう書いてある。

「服装規定(ふくそうきてい、英語:dress code)とは社会の中のさまざまな場所と機会、また行事や催し物、パーティなどの場面で当然、その場面でしかるべきとされる服装のことをいう。周囲への配慮から始まったエチケットである。行事によっては主催者側でフォーマル、インフォーマルなどと指定されることも少なくない。英語の表現をそのまま使ってドレスコードと表現されることもある。」

ドレスコードとは、海外の言葉であって、日本ではあまり使わなかった。
でも、最近は西洋化してきて、公的な催しなどの時に使われることがある。
いや、西洋化してきたというよりも、暗黙の了解事項がなかなか通じなくなったからかもしれない。
実際、社会的に公の場ではスーツ着用とか、ネクタイ着用とか、ややフォーマルな格好とか、だいたい想像がついて、それなりの服装でいけることが多かった。
わからなければ、スーツを着ていけばいいのだ。

それでも、最近はネクタイをしなくてもいいとか、クールビズだとか、そもそもカジュアルな姿で働くというような職場も増えているから、ややこしい。

グーグルのような会社は、どんな服装をしていってもOKというのが、売りになっているようだ。
パジャマもジャージもありらしい。
まあ、グーグルだから、どんな格好をしていても信用されるんだろう。

世の中、だんだん変わってきて、判断が難しくなってきた。
わからないから、スーツを着て行ったら、そんなやつは一人しかいなかったという事になっても困る。
一度はクールビズにてお越しくださいと書いてあったから、その通りにして行ったら、主催者はみんなスーツでタイ着用というような事もあった。
こういうのはホントに困る。

そういえば、最近街を歩いていて時々見るのは、スーツ姿でリュックを背負っている若い人。
あれは、ぼくらの世代は違和感を感じるのだが、20代の人たちはあまり違和感を感じないらしい。
ああいうのも、時代が進むとアリになるんだろうか。
スーツでスニーカーもいるなあ。

カルチャーが変わると、ドレスコードもどんどん変わっていかざるを得ない。

温暖化もあるし…。

あと20年経ったら、どうなっているだろうか。

想像がつかない。

| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジニ指数
香港のデモについての記事があった。

その中で、ジニ指数についてのことが書いてあった。
ジニ指数とは、貧富の差を表す数字で、0〜1の間の数。
高いほど、貧富の差が大きいということになる。

日本のジニ指数が0.38で、今の中国が0.73だという。
この0.73という数字はこの7月に北京大学が計算したもの。
0.4を超えると、危険だという数字らしい。
ということは、0.73というのはスゴイ数字。
いつ暴動が起こっても、不思議ではないという数字らしい。
中国政府の2012年の発表では、0.47程度になっている。
どんどん格差は拡大しているということだ。

具体的に言うと、「富裕層の1%が3分の1の富を独占する一方、最下層の3億人の人口の民衆の富をすべて合わせても1%である」という状況らしい。
13億いるとして、1% は1300万人だから、人数でいうと大きいのだが…。

今の香港は中国本土の金持ちの裏金作りの基地となっている、という中国人もいるらしい。
なるほど。
たしかに、香港に金を送ってしまえば、後は何でもありだろう。

そうなってしまった香港の若者がデモをしている。
いろんな不満がたまったところに、選挙のことがあって、火がついたのだろう。

この記事を書いた人は、中国に何度も出張して現地のことを知っている人だ。
デモが年間10万件とか20万件という数字も、それを武装警察の力で押さえ込んでいるというのも、実際に報道されていないが正しいのだと思う。
この状態をいつまで我慢できるんだろうか。
多くの民族がいて、市場経済を一部採用しながら、共産党一党支配という体制はいつまで続くのか。
内陸部と沿岸部の格差はどうなるのか。

懸念は尽きない。

何かあるにしても、平和的にやってほしいものだと思う。

その試金石が香港のデモだろうなあ。


| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
放送禁止用語
何回か書いているが、アメリカの深夜番組「Late Late Show」というのを週に1回やっているのを録画して見ている。

クレイグ・ファーガソンというスコットランド出身のコメディアンが司会をやっている。
アメリカのコメディアンというのは、結構きわどいジョークを言う。
人種差別のクレームが来ないのがびっくり、というようなジョーク。

こないだの放送でも、ドイツ人のオーディエンスを前に並べて、人種に関するネタで笑いを取っていた。
ドイツ人のネタは前から得意で何度もやっていたが、今回は実際にドイツ人を5人ほど並べてやっていたから、ちょっとヒヤヒヤした。

その後、モーガン・フリーマンがゲストでトークをした。
トーク中も、モーガン・フリーマンも一緒になってそのジョークを言っていた。
その言葉が出てくるたびに、Beep音が出て、何を言ったかわからない。
字幕は「$%!#」というような記号が出てきた。

アメリカにはポリティカリー・コレクトネスという言葉がある。
「太っている人」を「gravitationally challenged(重力に挑戦する)」と言ったりする。
それくらい政治家は言葉に敏感だということだ。
ここまでやらなくても…、と思うくらい言葉を変えて作る。

一方で、深夜番組では人種や民族に絡んだジョークを言って、大いに受ける。
観客も喜んでいる。

このあたりの懐はとても深い。

この番組がウィークデーの毎晩続いていて、誰かのクレームで中止にならないのは、アメリカが健全な証拠だろう。

これが日本なら、間違いなく放送中止だ。

恐るべし、アメリカ。


| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
健康寿命
少子高齢化ということは、高齢者が増えるということだ。

歳を取ると、病気になりやすい。
できれば年をとっても、健康でありたいと思うのだが…。

その目安が平均寿命と健康寿命である。
平均寿命は何歳まで生きるかという平均値。
健康寿命は、実際に自立して健康でいられる年齢の平均値。
これがどうなっているかということだ。

平成22年の厚労省のデーターによると、日本の男性の場合は、平均では79.55歳まで生きられるが、健康でいられるのは70.42歳。
女性は寿命は86.30歳で、健康でいられるのは73.62歳とのこと。
つまり、男性は9年、女性は13年、亡くなるまでに不健康な時代があるという。

そういえば、ウチの父の場合は10年ほど病気とつきあったと思う。
実際、病院に入院したりしたのは最後の半年くらいだったが、それまでも何やかや入退院を繰り返していたのは事実。
だいたい合っている。

ということは、健康でいられるのは平均的には男性なら60代までということだ。
ウチの母は、やりたいことや行きたいところがあれば、60代のうちにすましておくこと、と言っていた。
70になると、身体がシンドくなるから、という理由だ。
それはある程度統計的に正しいということになる。
健康でいられるのが、70歳や73歳だから、できれば60代でということになるのだろう。

みんなが思うのは、ずーっと元気でいて、コロッと死んでしまうということだと思う。
でも、残念ながらそう簡単にはいかないだろう。
健康でいるのは難しい。

生活習慣に気をつけて、運動をして、ストレスとうまく付き合って、塩分を控えめに、太り過ぎないように甘いものも控え、煙草は吸わず、酒もたしなむ程度にして、よく寝て早起きし…。

しかし、そんな生活をして生きていて面白いのか。
健康ではいたいと思うが、そんな品行方正な生活では息が詰まりそうだ。
適度にヤクザな生活をしながら、健康でいて、コロッと死ぬ。

これがベストだ。

そうなるためにはどうしたらいいか、これを今から考えないとイケナイ。


| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
野球とベースボール
ショートというポジションは、日米の考え方が違うという点で面白いポジションらしい。

元大リーガーの野球評論家、田口が記事を書いている。
野球では、ショートというポジションは小柄で肩がいいという肉体的制約があるという。
ところが、ベースボールではそんな制約はない。
日本の野球では、すべからくゴロは正面に回りこんで捕るというのが鉄則。
しかし、アメリカではムリをして正面に回りこまなくても良い。バックハンドで捕ったらいいということだ。
その方が無駄なステップが要らず、移動距離も少なく、捕ってから投げるのにかける時間が短い。
だから、肩がそんなに強くなくても名選手になれる。

要は、日本は指導の段階でそれを潰しているとも言える。
田口はこう書く。

「 「ゴロを正面で捕る」ことは日本では疑いようのない鉄則とされているので、たとえばどこかのコーチが「無理せずバックハンドで捕れよ」と教えたら「いいかげんなことを教えてもらっては困る」と周りのコーチや、フロントの人にもいわれるでしょう。この部分の「思想」の根本的な転換がないと、日本の内野手がメジャーのショートの定位置を取る日は残念ながら来ないと思います。」

こういう違いは大きいと思う。
これらの違いが積み重なって、野球とベースボールの違いができているんだろう。
日本人は型を大事にする。
ベースボールを「野球道」にしてしまう。
だから、ショートは小柄で肩が強いという「型」になる。

テレビで大リーグの中継を見ても、日本のプロ野球とは違うスポーツのようだ。
とにかく試合運びが早い。
ピッチャーがどんどん投げる。
だから、試合時間が短い。

まあ、野球には野球のよさがあるのだが、ちょっと長すぎるといえば長すぎる。
もう少しスピード感があってもいい。

そして、選手の個性を大事にするという意味でも、ベースボールの方が上だと思う。
合理性があれば、それでやってみろという懐の深さがある。

日本では指導者の言葉は絶対的に近い。
プロ野球でも、コーチや監督の言うことはたとえ反対であっても聞かないといけない。

このあたりが、野茂が大リーグに行った理由の一つだったと思う。

野球も面白いのだが、ベースボールの方がちょっと勝っているような気がする。

これからは、高校を出てアメリカに行く人も増えるだろう。

| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
阪神タイガース
今日のクライマックスシリーズのファイナルで阪神が巨人に3連勝した。

レギュラーシーズンでは7ゲーム差で2位。
肝心なところで負けてしまって、結局優勝は遠かった。
でも、クライマックスシリーズであれよあれよという間に勝って、日本シリーズの出場を決めた。

巨人ファンはやりきれないだろう。
リーグ優勝しても、日本シリーズには出られない。
でも、そういうシステムになっているから、仕方ない。

阪神ファンもほとんど期待はしてなかったと思う。

個人でみたら、マートンの首位打者とか、メッセンジャーの最多勝とか、ゴメスの打点王とか、タイトルホルダーは多い。
それなりに強かったのだ。

和田監督のクビもクライマックスシリーズ直前につながって、ラッキーだったろう。

そんな阪神がセントラル・リーグの代表として、日本シリーズに出場。

ルール上はこれで何の瑕疵もない。

日本シリーズでは頑張ってほしい。

でも、これでまた良かれ悪しかれ、阪神の体質は変わらず続いていくんだろう。



| | 考えたこと | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジャズとギター
関西の大学生のジャズのコンボを聴きに行った。

みんななかなか上手だ。
残念なのは、楽しんで演奏しているように見える人が少なかったこと。
あれだけ上手なんだから、余裕を出してアイコンタクトして、演奏者どうしでコミュニケーションすればいいのに、と思う。
まあ、ホントは緊張していたのかもしれない。

それにしても、うまい。
基本はピアノトリオだ。
ピアノ・ウッドベース・ドラムス。
これがしっかりしていると、安心して聴ける。

それに管楽器が1人か2人。
サックス、トランペットあたりが多い。

数年前にスゥイング・ガールズの映画を見たが、あの時も高校のブラスバンドというと女性がメイン。
最近はほとんど女性になっている。
ということで、ジャズの管楽器も女性が多い。
ぼくらの学生時代は、女性というとフルートやクラリネットあたりで、その他は男性だったと思う。
男子が草食化したからか…。

聞いた中ではギターがいたのは2組だけ。

管楽器やウッドベースに混じると、エレキギターはやっぱり浮く。
あれは何なんだろうか。
ロック系の曲の歪んだ音のエレキギターなど、いくら大きな音を出しても、まったく迫力がない。
ピアノやウッドベース、ドラムス、管楽器などの音とは全く違う。
ひと言でいうと、存在感がないのだ。
ダイナミックレンジが小さくて、のっぺりした感じになる。
音の大きさというよりも、音のエネルギーの質が違うという感じ。
まさに浮くという表現がぴったりだ。

やっぱり楽器には得手不得手があるのだろう。
電気の力はこの場合マイナスだ。
アコースティックの音で、それを増幅したなら、まだ何とかなったかもしれない。

帰りのクルマでユーミンのアルバムを聴いた。
エレキギターがいい音をしている。
やっぱり楽器は音楽を選ぶのだろう。

いや、音楽が楽器を選ぶというべきか。

残念ながら、楽器にも適材適所というのがあるのだ。

| | 考えたこと | 00:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
村上朝日堂 村上春樹/安西水丸
村上朝日堂 村上春樹/安西水丸 新潮文庫

元の本は1984年に出版された。
今からちょうど30年前。日本が一番調子がいいころだ。
日刊アルバイトニュースに1年9ヶ月にわたって連載されたエッセイを本にしたもの。
文章が村上春樹で挿絵が安西水丸となっている。

おまけを除くと、文庫で2ページ、挿絵付きの87本のエッセイだから、週に1本書いていたのだろう。
書き手も、挿絵も、ある程度脱力した感じで、あの頃の時代の感じをよく表していると思う。

村上春樹の小説は読んだことがないが、エッセイは面白い。
この本にも出てくるが、村上春樹はほとんど海外の小説を読んできたらしい。
ノーベル文学賞の候補になっている今ほど大御所ではなくって、30代の作家として日常で思うことや、読んだ本のこと、ヤクルトスワローズのこと、引っ越しのこと、虫が嫌いなことなどを書いている。

「夏について」という項では、

「夏は大好きだ。太陽がガンガン照りつける夏の午後にショートパンツ一枚でロックン・ロール聴きながらビールでも飲んでいると、ほんとに幸せだなあと思う。
 三カ月そこそこで夏が終わるというのは実に惜しい。できることなら半年くらい続いてほしい。
 少し前にアーシュラ・K・ル=グィンの「辺境の惑星」というSF小説を読んだ。これはすごく遠くにある惑星の話で、ここでは一年が地球時間になおすと約六十年かかる。つまり春が十五年、夏が十五年、秋が十五年、冬が十五年かかるのである。これはすごい。
 だからこの星には「春を二度見ることができるものは幸せである」ということわざがある。要するに長生きしてよかったということだ。
(中略)
シナトラの古い唄に「セプテンバー・ソング」というのがある。
「五月から九月まではすごく長いけれど、九月を過ぎると日も短くなり、あたりも秋めいて、木々は紅葉する。もう時間は残り少ない」という意味の唄である。
 こういうのを聴いているとーすごく良い唄なんだけどー心が暗くなってる。やはり死ぬ時は夏、という感じで年を取りたい。」

と書いてある。

この人、SF小説が好きで、シナトラが好きなのか、と思って一気に親しみがわく。
ふーん、そんなSF小説があったのか、とも思う。

純文学の作家というと、何となく堅い感じで近寄りがたいという雰囲気だったが、夏の午後にショートパンツでロックン・ロールを聴きながらビールを飲むというところが、普通の人だと思わせる。

「あたり猫とスカ猫」という項もある。
この人はネコも好きだ。
あたりの猫にめぐりあう確率は、3.5〜4匹に一匹らしい。

ちょうど84年くらいに、フリオ・イグレシアスが流行った。
どういうわけか、村上春樹はフリオ・イグレシアスが嫌いらしい。

「しかし、僕の個人的な感想を言えば、あのフリオ・イグレシアスという人間は実に不快である。僕のこれまでの経験によると、あの手ののっぺりした顔立ちの男にロクなのはいない。財布を拾っても交番に届けないタイプである。ああいうのは五年くらい戸塚ヨット・スクールに放りこんでおけばいいと思うのだけど、きっと要領がいいから途中からコーチなんかになって他人をなぐる方にまわるに違いない。そういう男なのだ。
 僕はそんな風に言うとフリオ症候群の女性は「ま、村上さんはそう思うでしょうね」と悪意に満ちた言い方をする。そう言われると、なんだか僕がことさら二枚目を嫌っているみたいである。」

こういう書き方は好きだ。
面白い。

この人には共感できる。

| | | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校野球
PL学園の野球部が危機らしい。
来年の4月には1年生の受け入れをしないという方針とのこと。

ニュースによると、今はなんと野球経験がない校長先生が監督になってベンチ入りしている。
高校野球の名門であり、たくさんのプロの選手も輩出している学校だったが、そういえば最近はあまり声をきかない。

ニュースによると、いろいろ問題があったようだ。
暴力事件を起こして、2013年の4月に監督が退任して、その後が決まらない。

PLの野球部には「付き人制度」というのがある。
下級生が上級生の世話をする、という仕組みだが、これが部内暴力の温床になっている、ということらしい。
それを学校側は廃止し、自分のことは自分でやる、という制度に変えようとしている。
アタリマエのことだと思うのだが、これをやめるのは大変らしい。
だから、監督のなり手がない。

でも、記事によると学校側がこの「付き人制度」をやめようと思った原因がスゴイ。

「今の高校野球界は有力な中学生の獲得競争が激化しており、これが成績に直結している。同じ大阪で、甲子園で史上7校目の春夏連覇を達成した大阪桐蔭の寮は「同学年、同部屋」が基本。「自分のことは自分でやる」との方針で下級生の精神的負担を軽減している。時代が変わる中、付け人制度を存続させれば、もはや有力な中学生は入学してくれない。
 さらに、PL教団が関わる高校で、ひんぱんに部内暴力が起きている状態を放置すれば、「宗教法人としてのメンツがつぶれると考えたのでは」と指摘する関係者もいる。」

ということだ。
有力な中学生が入学してくれないから、付き人制度をやめる、という何となく不純な理由。
もちろん、部内暴力をなくすという目的もあるにはあるようだが…。

今の高校野球はいったんリセットしたほうがいいのではないか。
教育の一環とか、地域の代表として出場する、という意義はほとんどなくなって、学校の宣伝になっている。
設備を作り、リトルリーグなどの人脈を使えば、手っ取り早く強くできる。
要はお金があればいいのだ。

勉強も野球を強くするということなら、いくらでも融通が効く。
実質的には、いつ勉強するのかというような毎日だろう。
マジメにやっていたら、なかなか甲子園に出られない。
それならもうセミプロだ。
おまけに付き人制度というような制度まである。
もう学校でやる必要はないのだと思う。

高校野球は全国大会はやめて、大学野球をもうちょっと盛んにしたらどうなのか。
オープンなシステムにしたほうがいいと思う。
野球を強くするというのは、学校法人のやることではない。
大学とは比べものにならないが、私立高校には補助金がおりている。
みんなのお金を使って、チームを強くするのは、どうかと思う。

クラブチームにするとか、やり方はあるだろう。

高校野球は、行き詰まっていると思う。


| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
圧縮空気モーター
パリのモーターショーでは、いろんなクルマが展示されているらしい。

今はプジョーに吸収されたが、シトロエンという会社はユニークな会社だ。
昔から、ハンドルを切った角度に合わせてヘッドライトも回すという仕組みや、バネとダンパーの代わりにガスや油圧を使う、ハイドロニューマチックサスという仕組みなど、面白いクルマを作っている。
ハイドロニューマチックサスのシトロエンは、スイッチひとつで車高が変えられ、そのおかげで空力を考慮した流線型のクルマだった。
今でもC5というグレードで使われている。

欧州のカーメーカーも、今は燃費競争。
排気量を小さくしてターボやスーパーチャージャーを使ったり、ディーゼルエンジンを使ったり、変速機を細かく制御したり、軽量化したりしている。
これからは、モーターも使ったハイブリッドなども出てくると思う。

欧州のメーカーはいろんなアイデアを出してくるから面白い。
今回シトロエンは走行中の空気を取り込み、それを圧縮して保存し、モーターを回すという仕組みを考えてクルマを作ったらしい。
従来よりも100キログラム軽くして、なんとリッター50キロを達成したとのこと。
2リットルで100キロメートルの走行が可能ということだ。

もちろん、これはコンセプトカーで、すぐに発売できるクルマではない。
今までポシャったものもたくさんある。
でも、クルマが走っている時の運動エネルギーをムダにしないで、特に減速する時にそれを貯めるという考えは今のハイブリッド車でも同じだ。
今のハイブリッド車は止まる力を使って発電し、バッテリーを充電する。

日経によると、シトロエンのエンジニアはこう言っている。

「車体フロント部に、最適化した1200?エンジンを搭載し、リア部トランク下には圧縮空気タンクを装備しています。減速時にはエンジンが空気を圧縮し、再発進や再加速する際には、圧縮された空気が力となって車を推進します。したがってエネルギー及び燃料の消費を大幅に減らすことができるのです」

エンジンの駆動力を使わない時に、圧縮のためにエンジンの回転エネルギーを使うということだろう。
それを使って、圧縮空気を作り、それをタンクに貯め、駆動時に使うという仕組みだ。
これは安くていいシステムだという。

「ハイブリッド・エア(HybridAir) 動力伝達系で、圧縮空気をタンクに貯めます。このタンクは同等のリチウムイオン電池に比べ軽量で安価です」と言う。「いままで以上にシンプルで、使用する国を問わず、厳しい悪天候などでも機能し、リチウム電池のような高価な材料を使用しない点において、非常に優れています」

ということだ。

ヨーロッパのメーカーはボルボやアウディがフライホイール(はずみ車)を使って、機械的に運動エネルギーを貯める仕組みを研究しているらしい。
ドイツのVWはディーゼルの2気筒エンジンとモーターを使ったハイブリッドシステムを展示している。
ディーゼルハイブリッドはまだ日本メーカーは作っていない。

さすがに物理学が生まれたところだけのことはある。


| | 考えたこと | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
体育祭の季節
10月は体育祭の季節。
学校では生徒が体育祭の練習をしている。
ウチの近所の私立の女子校の前を通ったら、驚いた。

「オラァ、お前らなにエラそうな顔して立っとんじゃい!」

これにはビックリした。
太い声で、まるでそのスジの人のような感じだった。
それもメガホンを使っていたので、声がでかい。
怒鳴ってから、ここは学校だと気がついたのか、そこから小さな声になったが、回りの家の人たちはみんな聞こえただろう。

学校のグラウンドの回りには、植木があって見えないようになっているのだが、ちょっと覗くと生徒が集まっていて、今から体育祭の予行演習か何かをやるという感じだった。

そこの私立の女子中高はだいぶ前から定員割れしている。
経営は苦しいだろう。
これから子どもが減っていくのに、あまり良くなる希望もない。
学校法人としては、昔は幼稚園から大学まで全部持っていたが、小学校は早くやめてしまって、今は幼稚園、中高、短大、大学になっている。
中学は定員の半分、高校は今年からちょっと編成を組み替えて頑張ったが定員を少し割れた。
去年までは定員の7割程度だったことを考えると、善戦している。
それでも、苦しい学校だ。

その数日後、今度は別の学校の前を通った。灘区にある女子校。
こちらは私立のミッションスクール。
放送部の女子が練習しているのか、丁寧な内容だった。
聞いていて気持ちがいい。
同じ高校でもえらい違いだ、と思った。
案の定、こちらは定員は充足している。

貧すれば鈍するということだろう。
かたや先生が怒鳴って生徒を恫喝し、かたや生徒の自主性を重視しているようだった。
だからどうという訳ではない。
そうだから、そうだ、ということだ。

一時が万事とは思わないが、それでもあんなふうに指導をしていて、生徒たちはどう思うんだろうか。
そのうち、あの声や言い方に慣れてしまって、耐性ができるんだろうか。

昔からそうだったんだろうか。

何となく複雑な気持ちになった。


| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
香港のデモ
香港の学生デモ。
毎日ニュースで報道されるし、各国の反応もデモを支持するような論調だ。

こないだ見たニュースによると、ここ5年くらいで香港の若者のアイデンティティが強くなったらしい。
彼らは自分のことを「香港人」だと思っている。
そして、大陸からくる観光客を見て、違いを感じている。
おまけに大陸からのマネーが大量に香港に入ってきていて、不動産などが高騰している。
若い人は家を買えない。

いろんな不満があって、今回のデモになった。
テレビで学生たちを見ていると、なかなか素晴らしいと思う。

中国の外相は冷たく「内政干渉だ」と言っていた。
でも、中国政府も以前の天安門の時のように思い切ったことはできないようだ。
どこで折り合いがつくのか、それともつかないのか…。

ほんの17年前までイギリスが統治していた香港。
今回のデモの争点は選挙だ。
中国政府は反北京の候補者が出てくることを恐れ、候補者を絞るという仕組みを作った。
その上で、選挙が行われる、ということだ。
一方、若者たちはそれに対して反対した。
自分たちの代表も出したかったのかもしれない。

もともと、北京が許すわけがない、という戦いだ。

それでも、学生たちを中心に、香港人は立ち上がった。

イギリスのファイナンシャル・タイムズが香港についての記事を書いている。
その記事の最後を締めくくっている言葉だ。

「だが、過去10日間の出来事は、永続に消えない心理的な痕跡を残すだろう。今となっては、香港が、いざとなったら北京の支配に服属する中国の都市であることを疑える人はまずいない。
 しかし、それと同じくらい、学生たちが投げかけた根本的な問題がどんな形にせよ決着したと考えられる人もいないだろう。香港の人々は、空虚な形の民主主義というものがどのような姿をしているか、それを見れば分かる。多くの人、特に若い世代はそれ以上のものを求める。
 これは今後何年にもわたって香港が政治的に不安定になることを意味している。我々が知っている香港、つまり、ビジネスが政治に勝り、お金がイデオロギーに勝る街は、もう過去のものとなったのだ。」

香港は2047年まで、中国本土とは違う政治体制を保証されている。
一国二制度というやつだ。
中国政府にとっても、香港は資本主義社会とのつながりを保つための金融基地でもある。

あと33年。
ぼくはおそらくその時を見られないだろう。

その時まで中国が存在するのか、それとも旧ソ連のように分裂するのか。
もっと違うシナリオが出てくるのか。
それはわからない。

でも、今回のデモは記憶に留めておくべき出来事だと思う。



| | 考えたこと | 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
スーパー台風
宇宙ステーションから見た台風19号の写真が出ていた。
真ん中に台風の目があって、回りをうず状の雲が回っている。

宇宙から見ても、こんなすごい台風は見たことがない、ということらしい。
アメリカのニュースでもやっていて、Super Typhoonと言われていた。

スーパー台風とは、最大風速が70メートル前後のものを指す、とのこと。
いつもは40メートルくらいでもすごいのだが、70メートルとなると、形容詞がない。
めちゃスゴイ、ということになるか。

スーパー台風は温暖化が進み、海水温が上がったために発生したということらしい。
温度=エネルギーだから、海水温が高いということはエネルギーが高いということで、そこから生まれる台風もエネルギーが高いのだろう。

前回の台風は高気圧が大陸から張り出していたおかげで、日本の南側を通って行ったが、今回はそれが弱く、もろに日本の上空を通るという予想。
もう沖縄は暴風域に入っている。

温暖化には諸説あるのだが、もしも人類の活動が温室ガスを増やし、そのせいで起きているとしたら、そう簡単にはおさまらない。
長いあいだかけて起こしてきたことは、収まるのにも時間がかかる。
おまけに、まだこれから温室ガスは増えるんだろう。

昨日見たニュースの北京もひどかった。
こちらはPM2.5のスモッグ。
高台からの景色も見えないし、中国政府が呼吸器の弱い人は外出を控えるように、と言っていた。
ということは、きっと中国も温暖化ガスをだいぶ排出しているのだろう。

もしも人為的なことが原因だとすると、100年以上かけて徐々に温暖化してきたことになる。
森林やサンゴ礁も減って、二酸化炭素を吸収する機能も落ちている。

おまけに、これらのことを人類が解決できそうな気がしない。
いろんなところで歪が出てきた。

冷戦時代は東西問題だった。
でも、今は南北問題だ。
先進国対新興国の構図だろう。
先進国がいままでやってきたことを、新興国がやるのは当然、ということだ。

その理屈はわかるのだが、はたして地球が言うことを聞いてくれるかどうか…。



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法科大学院2 本当の問題とは
昨日法科大学院について書いたら、今日日経に記事が出ていた。

法科大学院修了者の司法試験合格率が芳しくないので、一学年終わるたびに「進級試験」をしなさい、という提言を中教審が行ったということだ。
要は、成績が悪いと卒業もできないし、進級もできない、というような体制を作れ、ということらしい。入った学生が気の毒だということだろう。
記事にはこうある。

「テストは「共通到達度確認試験(仮称)」。各法科大学院が試験成績を基に学生の進級を判断する。同大学院修了者の今年の司法試験の合格率は21.2%にとどまっており、特別委は「教育の質の向上を図るべきだ」と指摘した。
 今春の全国の法科大学院の入学者は計2272人で、定員(計3809人)の6割にとどまった。来春に学生を募集する54校は計3175人の入学定員を予定しているが、特別委は3千人以下とするよう求めた。」

別に中教審や文科省が、大学院生のことをケアする必要はないのだが、見るに見かねてということではないかと思う。

要は、この大学院に入ったら、弁護士になれますよ、というような安易な宣伝をして、形だけ入試をやって、定員を稼ぐということをするな、ということだ。
でも、結果的には形だけの入試を行っているのだ。

当然、その入試を通ったら、その大学院での勉強をして、修了して弁護士になれると思うのが受験生の心理。
でも、昨日書いたように、「普通の学生」にはシンドイ試験なのだ。
だから、入試はハードルを上げ、その資格試験に耐えられる人を選別しないといけないという使命がある。
それがその大学院の責任であり、学生に対する良心でもある。

だれでも、この大学院に入ったら、修了して弁護士になれますよ、というわけではない。
当たり前だ。

この中教審の指摘は、「教育の質の向上」ではなくて、マジメに入試をやれ、ということだと思う。
下手をすると20代前半の3年間をムダに使って、一生を棒に振る人も出てくる。
22歳から25歳くらいの時期というのは、職業に就く時期でもあり、それを特定の職業に決めて資格を取るために遅らせて、頑張るわけだから、マジメに学生を選別しないといけない。
だから、本気で選別し、大学院での教育プログラムに耐えられる学生を選ぶのは、その大学院の義務でもある。

ところが、今年の合格率が21%。
まあ、大学院側にも文句はあるのだろう。
当初の話を違う、というようなことだ。
それでも、できてからかなりの年数が経っている。
もうそんな言い訳は通用しないのではないか。
修了生を出した先生方は、どう思っているのだろうか。
専門職大学院だから、一般の就職斡旋などしない。
となると、修了試験に通らなかった人たちはどうしているんだろう。
またお金をとって、研究生とかいう立場で勉強させているんだろうか…。
大学院は金儲けだから、喜ぶだろうが…。

だから、入試は大事だと思う。
その大学や大学院のカリキュラムで想定している予備知識を備えている、あるいは、それを理解できるレベルの学生を取らないと、カリキュラムを変えないといけない。
この場合は、卒業したら資格試験を取らないといけない。
それに合格できるレベルを入試でどのレベルにしたらいいかは、もうわかっているだろう。

なぜ、こんなことになったか。
それは多くの下位の大学では入試が成立していないからだ。
それに大学側も慣れてしまって、その考えでずっと入試をやっているんだろう。
入試の最大の目的は、学生の選別だったのだが、そうではなく下位の大学では定員を確保することにある。
それが法科大学院というところで、惨憺たる結果になって、先鋭化したということだろう。
出口で資格試験があり、またその難易度が高く、それを通らなければ入った意味がない、というような厳しい状況だから、はっきりせざるを得ない。

でも、本当の問題は、同じような考えで多くの学部の入試がやられているということだ。
それが法科大学院ではっきりしただけだ。

そちらも変えないと、問題のごくごく一部しか変わらないと思う。

そんなことをやれば、大学や大学院が潰れてしまうというのなら、マジメに潰れるか、それともマジメにカリキュラムを見なおす必要がある。
その結果、これは大学ではないということになったら、専門学校にするとか、いろんな手はある。
そんなことは教えられない、というのなら、先生もクビにせざるを得ない。
申し訳ないが、学校は学生のためにあるのであって、先生のためにあるのではない。

そのマジメさが大学に求められているのだろう。

それをマジメにしようと思うと、まず義務教育をどうにかしてくれ、という話になる。

この問題は根が深い。

でも、問題がわかっていて、文科省に文句も言わずに入試をやっている大学の罪は重いと思う。



| | 考えたこと | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
法科大学院
文科省が法科大学院を5つに分けた。

法科大学院はあまりにも司法試験などの合格率が低く、その存在価値が問われていた。
アメリカにはたくさんの弁護士がいるのを見て、日本ももっと弁護士を増やそう、ということで鳴り物入りで作られたというのが経緯。

当時、アメリカは訴訟社会だ、という話を聞いた。
ネコを入浴させて乾かすのに電子レンジに入れたら死んでしまった、というのをメーカーに訴えたという有名な話がある。
マニュアルには動物を入れたらいけないとは書いてなかった、というのが訴訟理由だった思う。
そんな社会がいいとはとても思えないが…。

そんな経緯で、いろんな大学が悪乗りしてたくさんの法科大学院ができた。
一部の大学院は、シンドイ学生も入れたんだろう。
司法関係の試験はそんなに易しい試験ではないから、なかなか合格しない。
その結果、一部の大学院は合格率が低くなって、定員割れした。

定員割れして、指導が入り、一番苦しいところは募集停止して法科大学院をやめた。
現状はそんなところだろう。

そこで、2回めの措置として、文科省が司法試験の合格率などを参考にして、法科大学院を分けたのが今回。
最低ランクは補助金が半額に減額される。
その大学が、北海学園大、国学院大、駒沢大、専修大、桐蔭横浜大、愛知学院大、京都産業大の7校。
早くやめろ、と言いたいのだろうが、大学もメンツがあるからなかなかやめられない。
でも遅かれ早かれ閉めるんだと思う。

最低レベルの大学は偏差値が50そこそこの大学。
偏差値が50というと、普通の学生、ということだ。
普通の学生が行く大学の法科大学院では、シンドイ、という結果。
まあ、順当な結果のように見える。

ぼくが知っている司法試験といえば、法学部を出て必死で勉強して、何年か浪人してやっと…というパターンが多かったと思う。
よほどの秀才しか1発で合格はできない。
そんな試験だった。

いくら法曹界の人を増やそうと言って、試験を簡単にするとしても、限度があったということだろう。

大学というところはカネがあると言っていい。
そうでなければ、私学の4割は長いこと定員割れしているのだから、潰れているはずだ。

大きなところは儲かっている。
儲かっている上に補助金が出る。
だから投資をする。
投資の健全性など審査しない。

予定では、優秀な学生がたくさん来て、社会人も来て、試験に合格することになっていたのだろう。

でも、マジメにちょっと考えたら、わかっていたのではないか。

それではなぜ法科大学院を作ったのか。

自分のところは例外だ、と思ったんだろうなあ…。

| | 考えたこと | 00:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
インフォームド・コンセント
いくら聞いてもよくわからない言葉がインフォームド・コンセント。
日本人には馴染みのない言葉だから、英語のまま定着させようとしているんだろう。

Wikipediaでは、「特に、医療行為(投薬・手術・検査など)や治験などの対象者(患者や被験者)が、治療や臨床試験・治験の内容についてよく説明を受け十分理解した上で(英:informed)、対象者が自らの自由意思に基づいて医療従事者と方針において合意する(英: consent)ことである(単なる「同意」だけでなく、説明を受けた上で治療を拒否することもインフォームド・コンセントに含まれる)。説明の内容としては、対象となる行為の名称・内容・期待されている結果のみではなく、代替治療、副作用や成功率、費用、予後までも含んだ正確な情報が与えられることが望まれている。また、患者・被験者側も納得するまで質問し、説明を求めなければならない。」という説明。

Wikipediaの説明が長いのは、日本人にはわかりにくいからだろう。
ひと言でいうと、「説明と同意」というように言われることもあるが、これは本当にわかりにくい。
海外ではどうなっているのかわからないが、ぼくは日本ではうまく運用されているとは思えない。
日本の風土に合わないのだろう。

今回勉強した中にもインフォームド・コンセントは出てきた。
この言葉の中には2つの権利と1つの義務がある、ということになっている。

1.患者またはその家族が、医療行為の性質や結果について十分な情報を得る権利(接近権)
2.医療行為を受けるかどうか自ら判断する権利(自己決定権)
3.それを可能にするための医師による十分な説明義務(還元義務)

この2つの権利と1つの義務をちゃんと果たして、両者が合意することがインフォームド・コンセントということになる。

1つ目の十分な情報を知る権利だが、今はネット上にいろんな情報があふれているので、それを元にちゃんと調べてきて、聞くこともできるようになったから、だいぶマシになっただろう。
でも、書かれていることを理解でいるだけの知識があることが前提だ。
高校時代に生物を履修しない人も増えているので、何のことがわからない、という人も増えているだろう。
それに、技術は日進月歩のところもあるので、必ずしもネットで調べたことが正しいとは限らない。
もともと、ネット上の情報はそういうものなのだ。

情報の非対称性は絶対に埋まらない。
医者のほうが情報量が多い。
だからこそ、接近権がある。

そして、2つ目の自己決定である。
穿った見方をすれば、情報が非対称であるのに、情報が少ないほうが決めろ、というのはムチャだということもある。
しかし、自分のことだから、自分で決めないと仕方ないのだ。
医者が信用出来ないと思えば、医者を変えろということだろう。
でも、そんなことは普通の人には出来ない。
所詮、自己決定したでしょ、と何かあった時に医者が言うためのものではないか、と言われても仕方がない。
結局は医者と患者の間に信頼関係が築けているか、ということになる。

そして3つ目が専門職側の義務である。
これがはなはだ心もとない。
ぼくの経験だが、ひと通り説明を聞いて、わかりました、それで、先生の意見はどっちなんですか?と聞くとお茶を濁される。
こういう場合もあるし、ああいう場合もあるし、そういう場合もあるし…、などと言ってそれで終わりになる。
わかりません、とも言わない。

これがプロの態度なんだろうか。
自分の意見というものがないんだろうか。
どんな手術にしても、やってみないとわからないのは当たり前である。
それでも、画像診断や今までの経験や患者の状況から、これはこうしたほうがいいと思う、という意見を述べるのがプロではないか。
他の業界なら、まったく通用しないことが通用している(というか、させている)。

だいいち、失敗しても文句は言いません、という書類にサインをしているのだ。
何のためにサインするのだろうか。
そんなことなら、サインなど不要だ。
サインした時点で、医師は免責なのだと思う。
なんなら、これにサインをした時点で、何を言ってもムダですよ、と言った上で自分の意見を言えばいい。
こちらは全く経験もないし、わからないから個人的な意見を聞きたいのだ。
それで飯を食っているプロではないのか。

そんなことなら、インフォームド・コンセントなどやめてしまえばいいのだ。

単なる責任の押し付け合いではないか。


| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
自筆で書くこと
昨日の続き。

自分の手で書くということを、この20年以上やってこなかった。
でも、試験は鉛筆かシャープペンシルで自筆で書く。
書かないといけないのは、四者択一の数字が50個と穴埋め問題が10個ほどと400字〜500字の記述問題。
数字と穴埋めはいいとして、400字以上書かないといけないという記述はシンドかった。

まだボールペンなら書きやすいのだが、シャープペンは書きにくい。
おまけに時間を意識してやらないといけないから、よけいに汚くなる。
4日ほど前から、書く練習を始めたが、4日くらいではどうしようもなかった。

自分でももっと読みやすい字が書けていたのに…、と思うのだが本当に字が下手になった。
きれいな字が書ける、とは言わない。
でも、もっと読みやすい字が書けていたのになあ…。
会社勤めをしていた30代の頃は、10ページ以上の報告書を自筆で書いていた。
7ミリ方眼紙だった。
あの頃がなつかしい。

以前から字が下手になったのはわかっていた。
綺麗に書こうとして、ペン習字のドリルもやったが、こういうのは習慣だろう。
文字通り、身体が思い出さないと、マトモな字は書けない。

西洋人はエライ人でも字が下手なのは、タイプがあったからだろう。
あれを覚えたら、字が下手になるのは当たり前だ。
高校でタイプの授業があるとも聞いた。
今は洋の東西を問わず、コンピューターで書くから字が下手になる。

自分でも汚ない字だと思いつつ、答案を出した。

前から買ってあった、「鉛筆で書く方丈記」というドリルをやるか…。

もう遅い。


| | 考えたこと | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
記憶術
昨日の日曜日に試験を受けた。

57歳になって、試験を受けようという気になったのは、過去20年ほど試験を受けたことがなく、その経験を忘れていたからと言っても過言ではない。
それほどシンドかったということだ。

試験は考えるものではなく、暗記ものだった。
年齢が上がると、記憶力が衰えるというが、こんなに実感したことは初めてだ。
テキストがA4で6冊、10センチくらいの厚みになる。
その主要な部分は覚えたほうがいい、とセミナーに出た試験に合格した体験者は言う。
え、そんなんムリやんというのが率直な感想だった。

和田秀樹が人間の記憶について言っていたが、年をとると機械記憶ができなくなるという。
とにかく、読んだり、聞いたり、書いたりして覚える、というやり方ができなくなる。
だから、何も覚えられなくなるか、というとそうでもない。
エピソード記憶というのなら、歳をとっても大丈夫だ、ということだった。
何らかの物語と記憶したいものごとを結びつけると、覚えられる。

ぼくは機械記憶ができなくなる、といっても全くできなくなるとは思っていなかった。
いくらなんでも書いたり読んだりすれば、少しは覚えられるだろう、と思っていた。
しかし、全くダメだった。
読んで、書いて、聞いて、覚えたと思っても、違うことをやり始めるともう忘れている。
情けないほどダメだ。
昔なら、できたことができなくなる。
これほど歳を感じることはない。

しかし、そういうことは日常的に起こっている。
ちょっと別のことをすると、何をしようと思って今ここに来たかわからなくなる、ということがしょっちゅうある。
そう思うと、仕方ないと思える。

短期間の機械記憶がダメだから、方針を変えた。

一つは長期間、それに触れるということ。
教科書を読んで、ボイスレコーダーに入れ、それを何度も聞く。
寝る時に聞くのはもちろん、スポーツクラブで泳ぐときにも聞いた。
感触的には泳いでいる時に聞いたのは、わりと覚えたような気がする。
泳いでいる時というのは、普通はややこしいことは考えられないので、聞いたことを覚えていたりする。
あの時に聞いたなあ、ということでエピソード化されるのだろう。
何か手を動かしている時に聞く、というのはいいと思う。

それと自分の体験に結びつけて覚えるのは、やはり覚えやすい。
これがエピソード記憶というやつだ。

昔は一夜漬けで何とかなったが、もう全くムリだということがよくわかった。
50を過ぎた人で、これから勉強しないといけない人は要注意。

一夜漬けなら、ほとんど全部忘れています。



| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
トレード・オフ
ぼくは25年間メーカーで技術の仕事をしたが、そこで学んだのはトレード・オフをどうするか、ということだった。

トレード・オフとは、「あちらを立てればこちらが立たず」という時に、どうするのがいいか、というような問題だ。

たとえば、ある技術があって、それを使えば問題が解決するのはわかっているのだが、それを使うと製品の値段が上がり、赤字になってしまうというような場合。
これは技術とコストのトレード・オフだ。

燃費性能を上げたら運動性能が落ちる、ということもトレード・オフの一つ。
世の中に二つ良いことはない。
あちらを立てればこちらが立たず、とはよく言ったものだ。

このトレード・オフを打ち破ることができた時、それをブレイク・スルーという。
本当にブレイク・スルーができることはめったにない。
多くの場合はどこで妥協をするか、ということになる。

世の中にはこのトレード・オフの理屈を知らない人が多いということを10年かかって知った。

どちらも良くしたいのだ。
だからどちらも良くならない。
妥協は悪だと思っている。

でも、よく考えたら生活は妥協だらけだ。
それが分かれば、もうちょっと世の中良くなるのにと思う。

こんなにわからない人たちが多いとは思わなかった。

まあ、それに気がつくのが遅すぎたとも言えるのだが…。


| | 考えたこと | 01:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
宇宙エレベーター
宇宙は遠い場所だが、それが近くなるかもしれない。

なぜ宇宙が遠いかというと、地球の重力を振りきって飛び出ていくのに大きなエネルギーがいるからだ。
おまけに、宇宙では酸素がないから、ジェットエンジンは使えない。
今のロケットはその重量の94%が燃料だという。

でも、それを大幅に楽にする方法がある。
宇宙から紐を垂らして、そこを登っていくのだ。
宇宙エレベーターという。
これが実現すると、宇宙は身近なところになってくる。

何が難しかったかというと、その紐である。
だいたい、地上から360キロメートルのところに静止衛星があるから、そこから紐を垂らすということになる。
こういうと簡単に聞こえるが、簡単ではない。
簡単ならもうやっているだろう。

難しいところは飛ばして、要するに破断長(紐が自重で切れてしまう限界の長さ)が5000キロという紐が材料的には必要になるらしい。
鋼鉄でも50キロ、炭素繊維でも250キロで切れるということだ。
つまり、強度がまだまだ足りない。

でも、ここに画期的な材料が出てきた。
それがカーボンナノチューブ。
炭素の原子を円筒状に並べたものだが、理論的には破断長が1万キロらしい。
これはスゴイ。そんな材料があるのなら、すぐに作ればいいと思うのだが、そうもいかない。
今できるカーボンナノチューブは最長で55センチ。
中国の大学の研究者が作った。
ところが、宇宙エレベーターに必要な長さは10万キロらしい。
紐を垂らすだけでは衛星が引っ張られてしまうので、反対側にも伸ばさないといけないらしい。

55センチと10万キロというと、だいぶ差がある。
55対1000万だから、20万倍ほどだ。

でも、考えようによっては、人間が数えられる程度の差だから、どこかでとてつもない技術ができれば、一気にいけるかもしれない。
あと100年もすれば…、という感じだろう。

これで人類にとって宇宙が身近なものになるかもしれない。

22世紀の話だろうなあ。


| | 考えたこと | 01:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
ストレッチ・ポール
スポーツクラブのストレッチをやっているのだが、そこのコーチに聞いてストレッチ・ポールなるものを買った。

何でもこの上に15分寝そべるだけで、背骨の回りがストレッチできる、というスグレモノである。

もの自体は、中身がウレタンか何かでできている、直径20センチ×1メートルほどの円筒状のもの。
ビニールケースが付いている。
9800円ほどだった。

来てから毎日その上に寝そべっているが、なかなか調子がいい。
姿勢が良くなったような気がする。

ポールに付いてきたDVDを見たら、基本の運動が紹介されていた。
ポールの上に寝そべって、腕を動かすとか、回すとか、股関節を開くとか、そういうものだ。
それをひと通りやっていると、15分はすぐに経つ。

今までマッサージに行くと、いつも背中がカチカチです、と言われていたが、ちょっとマシになった。
自分でも肩と肩甲骨の回りが軽くなったのがわかる。
こういうものがあるんだったら、もっと早くやっておいたらよかった。

クラブには、ストレッチ・ポールは直径が10センチくらいのものとか、半分になっているもの(かまぼこ状)の長さ30センチ位のものなど、いろいろ置いてある。
用途によって、いろいろと形状があるんだろう。

そういえば、ボールも買った。
ボールといっても投げる目的ではない。
上に乗ったり、足や手で挟んだりするものだ。
直径25センチくらいのゴムでできたボール。
柔らかいが、かなり丈夫にできている。
空気を吹き込んで、ちょっと凹んだ状態で使う。
挟みやすいようにするのだ。

同じ運動をしても、膝にボールを挟んでしたら、足やお腹の筋肉の使われ方が違う。
そういう風に効果的に使うものらしい。

ぼくはずっと自分の身体は固いものだと思ってきたが、そうでもないらしい。
動かしたり、伸ばしたりできるようだ。
昔から、ストレッチ運動というものは避けて通って来たが、この年になってそうもいかなくなったというのもある。
健康になろうと思ったら、そういう努力も必要なのだと理解した。

生まれてこのかた伸ばさなかったところを伸ばして、ちょっとマトモになろうと思う。



| | 考えたこと | 00:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
格差の問題
資本主義が一番進んでいるのはアメリカだろう。
これがどんどん進むとどうなるのか。
一つの必然が格差が広がるというものらしい。

格差が大きくなりすぎると、大きな問題になるという。

2013年のアメリカの所得を見ると、上位3%の世帯が全所得の30.5%を取っていて、その次に豊かな7%が16.8%を取っているらしい。
つまり、上位10%の人で、ほぼ半分の富を占めているということだ。
前からそんなことは聞いていたが、スゴイ格差である。
一割の人が半分の富を取って、残りの9割で半分を分けている。
たしかに、アメリカの企業の社長や会長の給料は驚くほど高い。
日本と一桁違う、という感じだ。
2010年以降、格差は拡大しているらしい。

この格差の結果、需要は弱くなり、教育水準の向上ペースが鈍化したということだ。
たしかに、購買力は極端な二極化、それも勝ち組が少ない二極化なら落ちていくだろう。
また、貧しい家庭に生まれた子どもたちが、大学を卒業するのが難しい状況になってきているとのことだ。
これは是正すべきだろうと思う。
そうしないと、国力が落ちてしまう。

アメリカという国は、やる時はやる国だと思う。
今は格差が拡大しているが、そのうち、これではダメだという世論が起きるのではないか。
いや、実際そういう世論もある。
ただ、貧しい人たちはそういう声も上げにくい環境にあるのだろう。

翻って、日本はどうなんだろうか。
この国の格差は世代間格差だと思う。
少子高齢化で高齢者の声がどんどん大きくなって、政治家は高齢者の方しか見ていない。
今手当をすべきなのは、若い人たちにどうやって希望を持たせるかということだと思う。
そのためには、社会保障の問題をどうするのか、道筋を示さないといけない。

もう一つは義務教育だ。
これは本当に傷んでいると思う。
塾に行かないと勉強が出来ない、というような状況は何とかすべきだ。
義務教育というのなら、国にはちゃんと教える義務がある。
公教育の義務だ。

それを何とかしないといけないと思うのだが…。


| | 考えたこと | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
弱いロボット
うちにも掃除機ロボットのルンバがある。

よく名前をつけている人がいるというが、そんなことはしていない。
それほど情は移ってないと思う。

それでも、毎回掃除をした後は、ゴミを捨ててフィルターを掃除する。
普通の掃除機なら、毎回ゴミを捨てるほどたまらないが、ルンバはゴミを溜めるところが小さいので、毎回掃除が必要になる。

動いているのを見ていると、なかなかマメなやつだと思う。
何度も行ったり来たりしながら掃除をする。
シャープのロボットのように話したりしないが、動き始めの音楽はなかなかいい。
充電ステーションから出て、また充電ステーションに帰る。

このロボット掃除機には、いろんな珍現象があるという記事があった。

「・テレビや洗濯機などの一般の家電製品が壊れて修理に出す際、「壊れると困る」「なんで壊れるんだ」など苦情を言われるのに、ロボット掃除機はそういう苦情はなく、「直してあげて」と依頼されることが多い。
・製品が壊れて直せないとき、他の家電製品では代替の上位機種と交換してあげると喜ばれるのに、ロボット掃除機については「交換しなくてもいい。この機種でいい」と言われることが多い。ロボット掃除機に絆創膏が貼られたりすることもある。」

その気持ちはよくわかる。
愛着がわくのだ。

その上、ロボット掃除機が掃除しやすいように物をどけたり、家具の配置を変えたり、部屋から外に出したりする。
そういう気持ちにさせる魅力が、ロボット掃除機にはあるのだろう。
記事にはこう書かれている。

「目の前で動き回る健気なお掃除ロボットに『してやられた感』を覚える」との感想を語るのは、岡田美智男 豊橋技術科学大学情報・知能工学系教授だ。ロボット掃除機の内部に集められたホコリや塵の量を見て、思わず「よく頑張ったね」と労いの言葉をかけてしまう。ロボット掃除機との同居を始めてみると、部屋の隅のケーブル類を巻き込んでギブアップしないように、もしくは椅子と壁との袋小路に入り込んでしまわないようにと、いろいろと気を使ってしまい、「これでは主客転倒だ」と思いつつも、これはこれで許せてしまうのだという。
 ロボット掃除機は、自分ですべてを完璧にこなすのではなく、少し力を抜くようにして、半ば周囲に委ねている。人間もロボット掃除機に手を焼きつつ、それに半ば支えられるように、一緒に部屋をきれいにすることを楽しんでいる(人間には、ロボットを世話したり、関わり合いたい、という欲求があるようだ)。
 人間を味方につけながら部屋をきれいにすることを実現してしまうのだが、こうした他力本願とも言える姿勢はなぜか微笑ましく、自分だけで解決することにこだわったやり方に比べるとスマートにも思える。」

これは当たっている。
ロボット掃除機は不完全な掃除機だ。
物理的に掃除ができない空間があったり、脱出に苦労しそうな空間があったりする。
それを理解すると、人間はそういう空間を作らないようにするのだろう。
その時に掃除はロボット掃除機との共同作業になる。
書かれているように、関わりたい、と思う。
だから、感情移入してしまうのだ。

ネコもロボット掃除機が好きだという。
動いている掃除機に乗っている動画もある。
ペットも気に入っているのだ。

ダイソンが満を持してロボット掃除機を出すという。
ムダのない動きで掃除を短時間に終わらせるらしい。
たしかに、ダイソンのモーターは吸引力が素晴らしく、だから電池を使える時間も短いから、充電回数を減らすために必然的にそうなるのだと思う。

ただ、あまりにも無駄なく掃除をしてしまうと、却って可愛げがなくなるのではないか。

この記事の最後にあるように、「自分自身の弱さを自覚しつつ、いかに他との関係性を志向できるか」という発想の大切さや、何か共通の目的(例えば、部屋をきれいにする)を持つことが人と人の関係を作る上での基本であること」をよく考えたほうがいい。

これからの家電ロボットは、そういう弱さを持っているロボットだろうと思う。

ルンバの日本での成功は、そこにもあるのだろう。


| | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドイツ人
ぼくはイギリスも好きだが、ドイツも好きだ。
ぼくの知っているドイツ人は、イギリス人に比べてお茶目なところはないが、有能だし、信頼がおけるという印象。
そして、ドイツ人は親日のイメージがある。
同じ第二次大戦の敗戦国だからというのがあると思う。
何となく親近感があるのだろう。
実際、戦時中にUボートに乗って神戸に来たことがある、というドイツ人もいた。

日本とドイツは似ているところがある。
どちらも勤勉だし、工業製品のレベルが高い。
敗戦後まもなくどちらも復興した。

それでも、ドイツ人のビジネスマンが興味深いことを書いている。
働く時間が全く違うのだ。
彼はこう書く。

「フルタイムでホワイトカラーの仕事があって、毎日夕方5時に定時で帰宅できる日本人を、皆さんは何人知っていますか?夕方7時に帰宅できる人はいますか?私は、東京でそのようなサラリーマンに1人として出会ったことがありません。でもドイツでは、コンサルタントや弁護士などの専門職や経営陣でない限り、従業員は大抵夕方5時か6時に帰宅して、家族と夕飯を食べたり、友達に会ったりします。しかも日本と全く逆で、仕事への責任が比較的少ない若手社員であるほど、これに当てはまるのです。」

それを裏付ける証拠が、OECDの労働時間の比較。
この公式労働時間の比較で、ドイツは日本よりも年間350時間も労働時間が少ない。
なおかつ、日本の値にはサービス残業は入っていないから、実際の差はもっと大きいだろう。

ドイツでは3週間のバカンスがある。
あるというか、これは連邦休暇法とやらで、法的に24日連続でとらないといけない、という休みらしい。
国民の間に、そういう休みがあるというコンセンサスができている。
だから、夏のバカンスで誰それがいない、となって仕事上の問題があっても、文句は言わない。

「経営者でない限り、休暇中のドイツ人に仕事の連絡をすることはできません。これは強く守られた慣行であり、ドイツ人は誰もがこれを理解しています。」

そうだろうなあ。
そうでなければ、なかなか3週間もバカンスが取れない。
今はやりのワーク・ライフ・バランスについても、こんなふうに言っている。

「言い換えれば、ドイツ人は、生きるために仕事をしているのです。日本人はというと、時折逆で、仕事をするために生きているように見える、といっても言い過ぎではないでしょう。「ワークライフバランス」が日本のホットトピックではありますが、日本でのこの言葉の使われ方に、ドイツ人は度々驚くことがあります。

 それは、ほとんどの日本人が、「ワークライフバランス」とは、女性が仕事をしやすくするために、デイケアを提供することなどだと思っているようだからです。つまり、「仕事」と「子育て」をバランスさせるのです。しかし、ワークライフバランスは、女性のためだけではないのはもちろんのこと、より長い時間労働するためにサービスを提供することでもありません。ドイツ人は、はっきりと、40時間を企業に捧げることこそが「仕事」であり、それ以外が「遊び」であると考えています。「ワークライフバランス」というのは、人生をどう、仕事と趣味に分けるかを指しているのです。」

もちろん、豊かでなければこんなことは言えない。
でも、週に40時間働いて、実際にドイツは豊かになっている。
ぼくは会社勤めしていた頃、だいたい週60時間〜70時間ほど働いていた。
いや、働いていたというのは言いすぎだ。
そんなに集中して働けない。
会社にいた、というべきか。
もちろん時間外手当はつかない。

時々、こういう比較の話を聞いて思うのだが、ぼくは会社にいるのが好きだったと思う。
会社が全てという感じだ。
そういう風になってしまうのだ。
会社で気のあった仲間とだべっている間にいい考えが浮かぶとか、どうやったらこれを解決できるかとか、そんなことは就業時間中に考えられなかった。
やることがいっぱいあったからだ。
それらを片付けたらもう5時になる。
だいぶ言い訳が入っているが、そんなところもあった。

だから、社会のシステムも違う。

「長年の間、ドイツのお店の営業時間には厳しい制約がありました。全てのお店は、平日は午後6時30分に、土曜日は午後2時に、日曜日は全日、閉店しなければいけませんでした。現在この制約は改定され、多くのお店はもっと遅くまで開いていますが、いまだに日曜日はお店を開いていません。さらにドイツのお店では、サービスが失礼であることが多いです。午後6時20分にパン屋に着いた場合、パン屋さんに、お店に遅くやってきたことを非難されるかもしれないばかりか、レジが閉まっているからと、何も売ってくれないことさえあります。

 ちなみに、労働時間と閉店時間における制約は、関連しています。スーパーが午後6時30分に閉まるなら、人は自然とそれより早い時間に帰宅し、帰り際にスーパーに寄って夕飯を買うからです。そして、ドイツにはまだ、24時間営業のコンビニはありません。」

日本は便利になりすぎたのだ。
24時間営業のコンビニは言うに及ばす、スーパーでも10時まで開いているし、正月も営業するところも多い。
昔は1月1日から3日までは店が閉まっていて、食料品も買えなかった。
だから、餅とおせちを食べたのだ。
今はそれが食べたくなければ、コンビニに行ってパンを買えばいい。

24時間営業のおかげで、犯罪も増えた。
開いているところがなければ、うろつく人は減るだろう。

手始めに、店は8時には閉める、という法律を作ってはどうか。
もちろん、一部の飲み屋などはOKだが、それ以外の日用品や食料品を売る店は取り締まる。

そうすれば、大学生のバイトも減るから、みんな勉強するし、早く帰らないと買い物ができないから、帰る時間も早くなる。
電気代のムダも減る。

テレビ放送も12時にやめればいい。
今はビデオとかあるから、くだらない放送はやめたらいいと思う。
何ならネットも止めたらいいのだ。
プロバイダ法を作って、12時から5時は止める、という風にすればいい。

いろんなことが不便になる。
でも、不便さをガマンすることで、いいこともあるのではないだろうか。

この際、ドイツ人に習おう。


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