考えたこと2

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触覚デバイス
次のiphoneには、タッチした反応を振動でフィードバックする「触覚デバイス」というものが採用されるらしい。

触るとiphoneが振動して、触ったことに反応する。
反応の種類にも何種類かあって、それで何をするかがわかる。
触った圧力によって、変化するのかもしれない。
そういうデバイスらしい。

触覚は五感の中では味覚を除いて、機械の操作にはあまり使われてないところだろう。
一番多いのは視覚。
目で見て変化を確認する。指示を見たりもする。
聴覚もある。
ブザーを鳴らしたり、音が出ることで確認するのはよくある。
嗅覚はないなあ。
これから開発されるのだろうか。
スイッチを押したら、匂いで知らせるというのはちょっと…。
そして、触覚だ。
これがタッチスクリーンと相まって、これから多くなってくるのかもしれない。

日経の記事によると、ナビのスクリーンなどは触覚で振動することでいちいち目をやらなくて済むので、これから使われるだろうと書いてあった。
なるほど。

こういう細かい部品は、日本が強いと思う。
振動させる、というアナログな部品だ。
小さなモーターで振動を起こすんだろう。

今は頼りないタッチパネルのキーボードだが、キーを押して反応があれば、もっと使われるようになるかもしれない。

触ることによって、反応を伝えるというのは、まだまだ増えるんだろう。
そういえば、テスラの電気自動車のメーターは大きな液晶1枚だそうだから、そういうのにも使われていくんだろうなあ。
個別のメーターを作っている会社は、液晶パネルとの価格競争になる。
もうクルマの中はほとんど電気信号になったから、すでに、昔とは違っているが…。

調べてみると、1台のクルマに使われる配線の重さは最低でも20キロの重さになるらしい。
これをインターネットの原理を使って、軽くしようという動きもあるらしい。
イーサーネットというのを使うことになる。

そんなふうにどんどん新しいデバイスが出てくる。

まだまだ進歩するなあ…。





| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
サイバー戦争
日本の国会では安全保障の問題を議論(あまり生産的ではないと思うが)をしているが、世界は従来の安全保障の枠を超えて、サイバー空間で脅威が迫っているという記事を読んだ。

サイバー空間というと、インターネットのことだが、戦争になると(平時でも)これが攻撃の対象になる。
インターネットは今や個人の生活にも欠かせないものになりつつあるし、オレはそんなの関係ない、と言っている人も社会生活を営む上でネットが不可欠になっていることを知らないといけない。

銀行のメインコンピューターが攻撃されると、お金の動きが止まる。
お金の動きが止まると、経済が止まる。
交通システムにもインターネットが使われており、それが攻撃されると制御ができなくなる。
信号が赤のままになったり、逆にみんな青になって混乱が起きるし、電車の踏切なども関係あるかもしれない。

企業は、何でもコストを安くあげようと思うと、インターネットを使うことになる。
それは仕方がないことだ。
セキュリティ対策はあるだろうが、そこにある穴をついて、攻撃するのだ。

だから、攻撃されると、まず市民生活が成り立たなくなる。

そして、情報もダダ漏れだ。
メール、会話など、インターネット経由でやっているものは漏れると思う。
だから、アメリカのエグゼクティブはガラケーしか使わないということだ。

すでに、アメリカ国防総省では、来たるべきサイバー戦争に備えて2010年に専門部隊「サイバーコマンド」を発足しており、2012年には、310億ドル(約3.7兆円)を確保してサイバー・スペシャリストの育成強化に力を入れているらしい。

実際、日本では2014年に250億回強の攻撃を受けているとのこと。

アメリカ、ロシア、中国などがサイバー部隊を持っているらしい。
日本にもあるという。

未来の戦争は、宣戦布告と同時にサイバー攻撃をしかけ、ひょっとしたら闘わずして勝負がつくのかもしれない。
人・モノ・カネ・情報のどれ一つとして動かなくなれば、最初から勝負は決まっている。

だから、アメリカと同盟を結んでおいたほうがいいと思う。
インターネットの世界では、やっぱりアメリカが強いだろう。
グーグルが味方につくか、敵になるかでだいぶ違うと思う。
ホワイトハッカーもたくさんいるだろう。

社会がインターネットに依存すればするほど、サイバー攻撃は現実味を帯びる。
戦争でなくても、テロリズムでも同じだ。

記事の最後はこう書かれている。

「企業活動がサイバー空間抜きには考えにくい昨今において、経営者など決定権を持つ人材がサイバー管理に対する知識を正しく持ち合わせないのは非常に危険だ。
しかし、日本では米国で言うところのCIO(最高情報責任者)そのものが不在である企業がかなり多い。また情報管理を行う担当はいても、知識、スキルが高いとは決していえない。
さらに、経営陣が自らの企業のサイバー情報を何も把握しないまま、外部に全面的にセキュリティの委託をしたり、ウイルスソフト導入等をすることで安心しきっているケース多く見られる。だが、自社を守る責任のハンドルを人任せにするということは、基本的にアメリカではあり得ないと言える。
もしサイバー攻撃によって、いったん情報が漏えいし社会からの信頼が損なわれれば、事業存続にもかかわる問題になりかねないことは、容易に想像できる。サイバー戦争時代を生き抜くのに必要なこととは、それを管理する人間の正しい知識の構築である。」

今やこれだけネットに依存してしまった以上、その危険を理解し、対応するのは企業トップの義務であろう。
日本の企業では、とてもお寒い状況が続いている。
官公庁や役所はもっとひどいと思われる。

これでは、安保体制を議論する以前の状況かもしれないなあ。



| | 考えたこと | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
Big History Project.com
スーパープレゼンテーションという教育テレビ(今はEテレという)でやっている番組で、Big Historyというプレゼンを見た。
デビッド・クリスチャンというオーストラリアのマクアリー大学の先生がやっていた。

もともと、ロシアの歴史が専門だったらしいが、歴史を研究しているうちにもっと大きな視点から歴史を学ぶべきだということを考えたとのこと。
しかし、大きな視点といっても、宇宙の最初であるビッグバンからとは驚いた。

でも、人文系の学者だけのことはあって、ビッグバンから現在の人類までを辿る道筋を「単純なものから、複雑なものへ」というという視点で見ている。
そういう視点を持つと、何もなかったところから、ビッグバンが起き、素粒子ができ、恒星ができて、元素ができ、生物が生まれ…という流れがよくわかる。
今に至るまで、いろんな「敷居」を乗り越えて、どんどん複雑になってきたということだ。
大きな歴史の中では、遺伝子というシステムが生物を発展させてきたことも語られる。
わずか15分ちょっとでプレゼンしたが、見事だった。

コンテンツはインターネット上で公開されており、BigHistoryProject.comというサイトで誰でも見ることができる。
フルコースになると、”The Univers”、”Our Solar System and Earth”、”Life”、”Humans”、”Today and Beyond”という流れになっている。
各々、だいたい60分弱で、5時間ほど。
後半は、生命の誕生、人間、そして現在とこれから、というような構成。

こういう素晴らしいコンテンツがインターネット上にある。
残念ながら英語だけになっている。

文科省は補助金の一部をこういうコンテンツの日本語化に使うべきだ。
下らないことに使われている科研費は、たくさんあるし、報告書もろくに出ていないものも山ほどあるだろう。

そういうプロジェクトをやって、このコンテンツを日本の高校生にも教えるべきだと思う。
宇宙の歴史を俯瞰的に見ることで、自分の立ち位置がわかる。
そういう見方を教えることはできないが、こういうのを見て、考えることができる。
人類の歴史は科学の歴史でもあり、それらを人文社会学的に構成しているということだ。

きっとクリスチャン教授は快く承諾してくれるだろう。

いいものを世界から、ということだ。

ぜひともやってほしい。




| | 考えたこと | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
寅次郎紙風船
BSでやっていたので、久しぶりに「男はつらいよ」を見てしまった。

こういう映画を見ると、ほのぼのする。
親切な人しか出てこない。
何度見ただろう。

この作品は、焼津の漁師の妹である岸本加世子が出てくる。
マドンナではなく、家出先で寅次郎と知り合う娘役。
1981年12月公開だから、彼女が21歳の時。
ちょうどこの頃の岸本加世子のファンだった。
出張で東京ローカルのラジオの放送を聞いて、しゃべりが面白かったのがきっかけ。
今でもこの映画を見ると思い出す。

同業者のテキ屋は小沢昭一がやっていた。
この人も懐かしい。
2012年に亡くなった。
この人もラジオで長いこと「小沢昭一の小沢昭一的こころ」という番組をやっていた。
1973年から2012年まで放送された。
1回10分の番組。
ぼくがよく聞いたのは、フェリーで宮崎に毎週行っていたころだから、1980年代前半。
講談調の小沢の話し方が面白かった。

その女房がマドンナの音無美紀子。
同業者のテキ屋が病死して、故郷の東京に戻り、旅館で働くという役柄。
結構地味なマドンナだったが、魅力的だった。

全作品で、たぶんたった一度だが、寅次郎がネクタイ姿で就職活動をする。
その不採用の手紙で最後のオチが着く。

世間は80年代に入って、高度成長のころ。
5%程度の成長は当たり前の時代だった。
それが、そんなに難しいことだとは思わなかった。
いろんな要因が幸いして起こった僥倖。
自分や会社の将来について、心配など全くなかった。

バブルが崩壊することや、0%やマイナス成長の時代が来るとは誰も思ってなかっただろう。

だから、「男はつらいよ」のシリーズも明るい。
まだ寅次郎もそれほど哲学的ではない。

明るかった日本がここにある。



| | 考えたこと | 21:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
まれ化
今の朝ドラは「まれ」という。
主人公の名前が「まれ」だ。
希望の「希」をあてている。

自分の夢を見つけ、それを頑張るということから、「まれ」ということになったと思う。
それ一本のドラマである。

高校の同級生たちは各々自分の夢を追う。
まれはパティシエ。
いったんは能登で公務員になるが、やっぱり夢を追いかけて横浜に行く。
結婚相手は能登の輪島塗の職人を目指している。
弟はデイトレーダーになって、能登でパソコンで儲けている。
シンガーを目指すやつ、タレントを目指すやつ、漁師を目指すやつなど、友だちはいろいろいる。

まれの父親も夢を追って、いろんなことをやって、家を空けたり、会社を潰したりする。
夢の大安売りだ。

まれは、祖母がフランス帰りのパティシエだったりして、横浜で認められてめでたくパティシエになる。
今週はその職をいったんやめて、能登に帰って輪島塗の職人の家で手伝いをすることにした、というところ。

どうでもいいのだが、世の中なめとんのか、と思う。
そんなことは滅多にない、という意味で「まれ」だろう。

こんな風に簡単に夢をあおっていいのだろうか。
世の中はもっと大きなものだし、殆どの人はやりたい仕事などには就けない。
その中で、自分の場所を見つけ、そしてやりがいを見つけていく。
それが世の中のプロセスだ。

ろくに下積みもせず、有名な菓子店でケーキ作りをやってしまう。
そんなアホな…。

これも、「世界にただ一つの花」の世界なんだろう。

世の中が「まれ化」してきた。
夢を追いかけないと、ダメな人間みたいに描かれる。

NHKが朝からこんなのをやっていたら、げんなりする。

みんなもっと苦労してるのが、わからないのか。




| | 考えたこと | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
幻色江戸ごよみ 宮部みゆき 新潮文庫
宮部みゆきの時代小説短篇集。
捕物帳でもなく、人情噺でもなく、怪談でもないが、それらの要素は入っている。
12話の短編。

宮部みゆきは現代物を読んでも面白いが、時代小説も面白い。
特に短編は時代劇だと場面設定が早くできるので、特にやりやすいのだろう。
宮部ワールドに入りこむことができる。

年をとると、時代小説が面白くなった。
いや、もともと面白かったのだが、時代小説が身近になったのだろう。
ややこしい浮世のことはさておき、物語の世界に入るには時代小説が一番だ。
それも、実在の人物が出てくるような伝記ものではなく、設定が江戸時代、というようなもの。

ぼくの祖母は100過ぎまで生きた。
明治生まれだった。

その祖母の祖母は江戸時代に生まれていると思う。
5代か6代ほどさかのぼれば、みんな江戸時代生まれになる。
実際はそんなに遠い昔ではないのだ。

それでも、地上波では時代劇はなくなった。
長らく続いていた水戸黄門もなくなり、大河ドラマで時々やる程度。
若い人たちは時代劇を見て育っていないから、時代劇といってもピンと来ない。

西洋でも西部劇はなくなった。

時代はコスモポリタンになっていく。

それでも、時代小説は面白い。
いつかはクラシックになっていくんだろうが…。


| | 考えたこと | 23:28 | comments(2) | trackbacks(0) |
デイヴ・バリーの笑えるコンピュータ デイヴ・バリー 草思社
この本は今の本ではない。
日本で1998年に発行された。17年前だ。
翻訳だから、おそらく本国アメリカでは97年以前に発行されている。
マイクロソフトの年表でいえば、Windows95の時代。

コンピューター関係の古い本というのは、実用的には買う価値はないのだが、この本はちょうどインターネットが始まった時代に、コンピュータは便利(なはず)だと思って、コンピュータを使おうと格闘した男の記録だ。
それも、かなり自虐的になって、ギャグにしている。
あの時代、マイクロソフトと付き合って、MS-DOS、Windows3.1、Windows95の時代を過ごした記憶がある人にとっては、懐かしいと同時に自虐的になって笑える本だ。
そう思うと、今は考えられないほど便利になった。

表紙の裏に書いてある。

「パソコンの世界は実にワケがわからん。恐るべき厚さの難解きわまりないマニュアルを解読することにはじまり、人生においてなぜかくも卑屈な思いをせねばならんのかと歯噛みする、ショップ店員やサポート担当者とのやりとり、あるいはネットサーフィンの行く手行く手にとぐろをまく痴性あふれるチャット。何たる世界か−とお嘆きのあなたにとって、本書はまさに福音である。なにしろ、ピュリッツアー賞受賞者(ホント)であるディヴ・バリーが、その持てる力を小出しにしてパソコンの現状とか未来とかそんなものに取り組んだ、サイバー世界の超話題作なのだ!」

90年代後半は、パソコンの普及が始まった年。
ぼくの勤めていた会社も、Windows3.1のパソコンのデスクトップをフロアに1〜2台入れ、使い始めたころだった。

その当時、アメリカのMBAを取ってきた社員にMacを見せられ、一目惚れした。
そして、MacのLC430という機種を買った。
だから、家ではMacを使い、会社ではWindowsを使っていた。
もちろん、ぼくのいた技術部が1人1台のパソコンになるには、Windows98の時代を待たなければならなかったが、それでもかなり早い方だったと思う。
この本は会社のフロアにパソコンが数台という時代の話になる。

当時インターネットは黎明期で、ポータルサイト(ヤフーやグーグル)はなく、ガイドブックを買ってきて、アドレスを打ち込んでみる、というやり方だった。
World Wide Webが始まった頃だ。
わけの分からない英文のサイトを喜んで見たりしていた。(日本語のページはまだ少なかった)
当時話題になったケンブリッジ大学のコーヒーメーカーのサイトも見た。
どこやらの研究室のコーヒーメーカーの様子が映し出されるもので(ただそれだけのことだ)、それを感激して見ていたりした。
何せ家にいたまま、イギリスの大学の研究室を見ることができるのだ!
案の定、この本にも紹介されている。

作者はこの時点までに20台以上のコンピュータを所有してきたとのこと。
かなりのオタクである。

この本を書いた目的が、序章に書いてある。

「わたしは本書で、あしたのビジョンをあなたに提供する。さあ、わたしの手を取って、みずみずしい驚異に満ちたサイバーワールドを一緒に探索しよう。コンピュータのことを何も知らなくても、恐れることはない。こむずかしい専門用語の銃弾をあなたに浴びせたりはしない。わたしが差し出すのは、素朴で、実践的で、秩序正しく、わかりやすい情報ばかりであり、その多くは、書きながら捏造していくのだ。というわけで、この章の原稿をわたしのコンピュータのスペルチェックで推敲するあいだ、少しだけ待っていてほしい。水耕が終わったら、さっそく、より赤るい、より怪敵な、そして、より凄惨的な味蕾への足袋に失発しようではないか。」

最後の文章は、当時のコンピュータのスペルチェックを皮肉ったもの。
原文ではどんな英語になっているのかは知らないが、なかなかよくできている。
あの当時の日本語変換もたいがいひどかった。
なつかしい。

電脳小史という章には、Windows95のことが書かれている。

「ウィンドウズ95の大きな改良点は、それまでのウィンドウズ各バージョンと類似性がほとんどなく、しかも使い方が誰にもわからないというところにある。当然ながら、これはたいへんな人気を呼んだ。みんなが欲しがった。マイクロソフトには、まだ電気の通っていない熱帯雨林に住む人種からも、大量の注文が舞い込んだという。
 これまた当然ながら、消費者たちもそのうち、ウィンドウズ95を使って実際に何かをする方法が少しずつわかってくる。そうなるとソフトウェアの作者たちは、ここでまた、そういうユーザーの裏をかくための新しい手立てを考えなくてはならなくなる。そして、ご安心あれ、彼らはそれをちゃんと考え出すのである。今だって、彼らは、実行している最中に百パーセント互換性のない新バージョンへ自動的にアップデートする画期的なソフトの開発に取り組んでいる。それから、ハードウェアの製造者たちの存在も忘れてはいけない。彼らは常に、より速く、より性能のいいコンピューターを世に送り出し、甘言を弄してあなたに買わせたその機械が、一カ月後には時代遅れのぽんこつと化してしまうよう、たゆみない努力を重ねている。
 そう、有史以前の人類が洞窟の壁につたない数字を書きなぐっていた時代から、われわれは、はるか彼方に来てしまった。その遠い遠いご先祖たちが、最新式のコンピュータを見たら、いったいどういう反応を示すだろう?彼らはおそらく、石で力任せに殴りつけて、コンピュータに言うことを聞かせようとするに違いない。原始人は、われわれが考えているよりずっと賢かったのである。」

万事、こういう調子だ。
いかにも、コンピュータ好きらしい皮肉ではないか。

この気持ちはぼくも思い出した。
90年代後半から、2000年代にかけて、そういう時代だった。
次は、どんな新しいソフトが出るのだろうかとか、次のOSはどうなるのだろうかとか…。
自分が使うことよりも、どうなっていくのかに興味があった。
実際、不便で遅かったから、速くなって便利になってほしかった。
この頃は、ハードもソフトもどんどん進んでいったと思う。
必然的にソフトの互換などは犠牲になったのもあった。
コンピュータの進化のまっただ中の時代だったと、今になって思う。

何かのソフトを入れたら、別のソフトとぶつかって動かなくなったり(メモリを取り合いしたりしたんだと思う)、動いていたらと思ったら、画面が凍りつく(フリーズという)こともよくあった。
大事なデーターが、突然のフリーズでなくなることもよくあった。
夜中に仕事をしていて、「あ」という間にデーターがなくなると、本当にめげる。
それまでの苦労が水の泡になる。
熱中してやっていると、セーブをするのを忘れてしまうのだ。
事務所では、毎晩のように、どこかのデスクで「あ」という声を上げていた(これは言い過ぎ)。

68ページにその様子が書いてある。

「あちゃ〜っ」
「おれのレポート、いったいどうなっちゃったの?」
「あのレポート、ないと困るんだよ!!」
(コンピュータをたたきながら)「レポートを返してくれなかったら、おまえの親友のファックス機を窓からほうり出してやるからな!」
「待った!画面にメッセージが出てきたぞ。なに、なに、”BIOSのROMのオートキャッシュにフォーマットエラーがあります”だって?こりゃ助かった。テクニカル・サポート・ホットラインに電話できるぞ」
(受話器から流れるトム・ジョーンズの「何かいいことないか子猫チャン?」に百七十三分間耳を傾けたあとで)「マニュアルを読もうっと」
「これを書いたの、誰だ?国税庁か?」
「ああ、あった、あった。三百六十七ページね。”BIOSのROMのオートキャッシュにフォーマットエラーがあります”というメッセージは、BIOSのROMのオートキャッシュにエラーが存在することを示しています」と、おちょくってるのか?」

この後、息子に頼んでレポートを出してもらい、バイクを買う約束をしてしまう…という話になる。
こういうことが世界中のいろんな所で、日常的に起こっていたんだろう。
今となってはなつかしい。

そして、この時期のインターネットについても書いている。

「インターネットは、人類のコミュニケーション史上において、”キャッチホン”以来の大発明と言っていいだろう」

さすがにバリーもインターネットのその後の利用がここまで来るとは思っていなかったと思うが(たぶん、ほとんどの人は思っていなかったと思う)、それでも、インターネットの可能性は感じていたんだろう。
もちろん、キャッチホンとは比較にならないのはギャグで言っている。

でも、この頃はまだAOL(アメリカオンライン、日本ならニフティあたりに相当する)のチャットルームやフォーラムなどが、話題になっていた。
そういう時期を経て、ホームページ全盛期になり、グーグルが出てきて、今がある。
今やホームページの無い会社は存在しないのと同じだ(と思う)。

さすがに、このへんはちょっと陳腐化しているが、前半は当時を経験した人にとっては、思わず笑ってしまって、そして、なつかしくなることが多いと思う。

結論のところで書いている。

「本書を執筆するにあたって、わたしは、コンピュータ革命というものの概要を、一般の読者や門外漢にも理解できる形で説明するよう心がけた。ここで言う”門外漢”とは、”斧を使わないと、子ども用アスピリンの瓶のふたをあけられない人”というほどの意味である。
 わかっていたことだが、これはたやすい仕事ではなかった。なぜなら、(a)きわめて複雑な技術的問題が数多く含まれ、しかも、(b)わたしには、取材や調査をするつもりなどまったくなかったからだ。そういう制約にもめげず、実用的にたいへん価値の高い情報をできるだけ多く盛り込むよう努めてきた。ただし、せっかくのその情報が、書いた数分後には時代遅れのものになってしまうという事実は、いかんともしがたかった。読者に対する啓蒙という見地から言えば、本書がスワヒリ語で書かれていたとしても、たいした違いはなかっただろう。コンピュータ革命においては、人間の脳みそでは把握しきれないほどの速さで状況が変化していく。だから、事の本質をちゃんと理解できるのは、十四歳の少年たちだけなのだ。」

「しかし、ハードウェアとソフトウェアの未来がどんなに華々しくとも、本当の”活気”は、インターネットの領域に、とりわけワールド・ワイド・ウェブにある。これを書いている時点で、ウェブには縦横にリンクし合った一千四百万のホームページがあり、ページ製作者の大半を占める大学生たちが、自分はどんな顔をしているかとか、どのロックバンドが好きかとか、どんなスナック菓子を食べるかとか、ブリーフとトランクスのどちらがいいかという情報を、全世界に向けて発信している。そういう情報は、もちろん非常に重要だが、ウェブにはまだまだ、われわれの生活を向上させる大きな可能性が秘められていて、それはひと言で言うなら、ものを売ることである。」

冗談が多いバリーも、さすがにインターネットは将来商売の元になると予言している。
今のアマゾンだ。

この本は面白い本だ。
90年代から、コンピュータに慣れ親しんだ人にとっては。

そして、アメリカ人が単に新しいもの好きであるだけでなく、その機械を進んで使おうとし、そしてワケが分からなくても使っているうちに何とかなる、という楽観的な人種であることがわかる。
ぼくはアメリカの会社にも関わったが、とにかく何でも彼らはコンピュータに記録していた。
それが、当面、使われなくても、いつかは使えるようになるはずだ、と思っていたのだろう。
実際、それは役に立ったのだ。
日本人なら、いま役に立たないのなら入れない、という選択をするところだが、アメリカ人は違う。
そんな違いも思い出した。

ちょっと、世の中全体が躁状態になっていたんだろう。
この状態が突き進んで、90年代後半にITバブル状態になり、2001年にバブルが弾ける。
そんなワケのわからない明るさがあった。

今となってはノスタルジックに笑うしかない。
でも、貴重な記録だと思う。
この本に書かれているギャグを、ギャグとわからないといけないが…。
思い入れがあるので、長くなってしまった。

当然、絶版で古本しかない。
アマゾンの古本を1円で買った。

そういう本だ。



| | | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
変わる大学
文科省が国立大学の公式行事に国歌斉唱の方針を出した。
でも、これはどちらかというと瑣末なことだ。
国立大学の学長の会議で、学長にインタビューするところがテレビに映っていたが、「とりあえず、無視」という答えが多かった。
これはこれで、どうなるのか、興味がわくが…。

しかし、もっとビックリするのは、国立大の既存の学部を見直す、という方針。
和田秀樹氏が「エリートを育成するため大学はどう変わるべきか」という記事を書いている。
それによると、6月8日に、文学部や社会学部など、人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられなければ、廃止や分野の転換の検討を求める通知を出したという。

記事の中に、「現場経験のない理論派が幅を利かせる日本の事情」という項目がある。
長くなるが引用すると、

 「私は長らく精神分析を学んでいるが、3年弱アメリカに留学し 、その後も3カ月に一度、アメリカの尊敬する先生のもとに学びに行っている。
 そのときに痛感したのは、アメリカでは精神分析は患者から高い治療費をいただく客商売なので、患者さんのニーズや社会の背景、悩みの変化などに応じて、理論や臨床テクニックがフレキシブルに変わっていくということだ。一応、創始者なのでフロイトの原著には当たるが、その理論に囚われるより、どのように応用・発展させるかのほうが重視される。
 しかし、日本では、精神分析の学会のある学会ボスが留学経験もなければ、英文の論文もゼロ(私でさえ、査読を受けた英文の論文は3本あるのだが、実は日本人の現役の学者では、英文の論文がアクセプトされているのは、私の知る限り、2〜3人しかいない)という特殊事情もあって、私見では、およそアメリカでは通用しないような古典理論が幅を利かせ、学会に行くと、それに反するようなことを言うと「長老」の学者から非難される。」

とある。
これはもっともな意見。

ぼくも民間企業から大学に転職して、同じ印象を持った。
理論を軽視するのではない。
どちらかというと、ぼくは理論は好きだ。
しかし、社会からの要請で既に出てきている対処法を、「学派が違う」というような下らない理由でカリキュラムに入れなかったりするのを見ると、疑問を抱かざるを得ない。
これなら、象牙の塔で研究していると言われても仕方ないだろう。

ぼくの知っている教員は、昔から言われているリクツを金科玉条のように奉っている人が多かった。
自分は○○派である、というようなことを公然と言っていたりする。
あれは学問ではなく、もうイデオロギーだと思う。
教員はそれでも生活が保証されているが、社会に出ていく学生はどうなるのだ。
こんな状況なら、文科省から「社会に役立たない」と言われても仕方がない。

もっと問題なのは、昔から言われていることだが教育の軽視だろう。
文科省は世界に伍して研究をする大学と、そうでない大学を分けようとしている。
そうでない大学では、研究をするよりも、教育をメインにしなさい、ということだ。
これは正しい。

もちろん、全く研究をするな、と言っているわけではない。
研究内容は教育内容にフィードバックされるから、研究はしてもらったらいいのだ。
従来は「研究・教育」という順序だったのを、「教育・研究」にしようということだ。

どうしても、下位の大学は教員の質も悪く、研究と言っても論文もなかなか出さない。
出しても学内紀要に書くような、どうでもいい論文だ。
ちゃんとした学会誌に論文を書ける教員は、ほんの一握り。
まあ、学会もピンキリだが…。

だから、教育を重視して、学生の教育をメインにやればいい。
でも、なかなかそうもいかない。
教育の方法をわかっていないからだ。
自分で勉強すればいいのだが、自分は研究者だと思っている教員は、自分の研究領域以外は興味もなく、あくまで教育は「ついで」だと思っている。
それでも上位の学校は、学生はついていくのだろうが、下位の学校では「ついで」ではダメだ。

それ以外にも、そもそも自分の教える科目が、学生が世の中に出て、役に立つのか、という問題もある。

すぐに役に立つ知識は、すぐに陳腐化する、という意見はよく言われる。

しかし、これに対して、文科省の資料の元になった冨山和彦氏の反論が新聞に出ていた。

 「アカデミズムから私への反論で、『すぐに役立つ技能はすぐ役に立たなくなる』というのがあります。しかし具体例は聞いたことがありません。簿記会計は、企業の活動を計量的に記述するビジネス世界の基礎言語であり、これなしに企業活動や経営について考えることはできません。その基本構造は数百年にわたって変わっておらず、すぐに役立ち、これからも長く役立つことは間違いありません。実学的な基礎技能こそが、教養中の教養なのです。大学でこのシフトが進まないのは、実務訓練を見下しているからです。おかしなプライドが、役に立たない学生の大量放出をもたらしている。現実を知ろうとしないアカデミズムの人たちこそ、『常識に欠ける』と言いたい。いま法曹、公務員、会計士などを目指す学生の多くが大学と並行して、専門予備校に通っている現実こそ恥じるべきです」

その通りだと思う。実務訓練と理論を並行でやらないといけないのだろう。
そのさじ加減を理解して、ちゃんと普遍的な真実なるものを教えることができれば素晴らしいと思う。
でも、これも難しいのではないかなあ。

和田氏は日本の教員のレベルが低いという。

「要するに、日本の高等教育がエリート教育機関になれないのは、教員のレベルが低いからとしか言いようがない。」

エリート教育機関にならなくてもいい、下位の大学ではもっとひどい。

何をどうやって教えて、それがどう学生の役に立つのかということをちゃんと考えて、学生のレベルも理解して、講義をして、提出物をフィードバックする、というサイクルを回せる人は、申し訳ないがほとんどいなかった。

日本学術会議は「人文・社会科学の軽視は大学教育全体を底の浅いものにしかねない」という声明を出した。

さて、文科省の改革は進むのだろうか。



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ロビンソン・クルーソーと浦島太郎
日本で「浦島太郎」というと、長い間どこかへ行っていて、急に帰ってきて回りについていけない、という状況を表す例えに使われる。
長年の海外駐在から帰ってきて、日本の本社に出てみたら浦島太郎状態だった、というような言い方。

今日翻訳の本を読んでいたら、そういう意味の「浦島太郎」に「ロビンソン・クルーソー」というルビがふってあるのに出会った。

英辞郎Webで調べてみたが、「ロビンソン・クルーソー」を日本語で例えられる「浦島太郎」の意味で使っている用例は載っていなかった。
でも、原本では「ロビンソン・クルーソー」を使っているから、そういうルビをふったんだろう。

ロビンソン・クルーソーは架空の人物だが、無人島に取り残されて28年間過ごした。
きっと28年経って故郷に帰ったら、だいぶ様変わりしているだろう。
だから、ロビンソン・クルーソーという例えになったのかもしれない。

浦島太郎の場合は、竜宮城に何日かいたら、もとの故郷では白髪のおじいさんになるくらいの時間が経っていたという、相対性理論の世界だが、ロビンソン・クルーソーでは、たんに28年経っただけのなので、例えとしては浦島太郎の方がよく出来ている。
読んでいた本がコンピューターの本だったから、ロビンソン・クルーソーでもよかったのかもしれない。

でも、これをロビンソン・クルーソーで例えたということは、それ以外にアメリカには浦島太郎に似た話はないということだ。
フランスには類似の話はあるみたいだが、そんなに有名ではないのかもしれない。

浦島太郎の話は、世界中どこでも同じスピードで時間が経つという、ぼくらが持っている常識を覆すところに面白みがある。
こういう話を聞いていた日本人は、アインシュタインの相対性理論も理解しやすかったのかもしれない。
そういう意味ではなかなかスゴイ昔話だ。

まあ、理解はしても、そういう発見はできなかったのだが…。





| | 考えたこと | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
get KODAKed
「コダック化する」、という言葉ができているらしい。
それが”get KODAKed”という単語。

自分たちの仕事がなくなっていくことに気づくのが遅れて、潰れてしまう、というような意味だろう。
これはもちろん、KODAKというフィルムの会社のこと。
世界一のフィルムメーカーで、色もきれいだった。
「僕のコダクローム」というポール・サイモンの歌にも歌われている。

デジタルカメラが普及のきざしを見せたのが1990年代。
その頃にはまだフィルムカメラがなくなるとは思っていなかった。

でも、ライバルの富士フィルムはフィルムがなくなるのを予想して、新分野に進出した。
それがサプリメントや化粧品など。
KODAKはフィルムに固執して、潰れた。
まさかそんなに早くフィルムがなくなるとは思っていなかったのだろう。

それを称して、「コダック化」という英語の言葉ができた。
日本語でも、ビジネスマンならわかる言葉だろう。

当時の主力商品であるフィルムが、90年代にはまだなくなるとは思ってなかったかもしれない。
でも、2000年代に入って、デジカメの画素数が上がり、フィルムを凌駕する可能性が出てきて、もうダメだ、と思ったら、遅かったのかもしれない。

このブログに書いたが、2012年にコダックは米連邦破産法の適用を申請した。

コダックは世界一のフィルムメーカーだったから、余計に事業転換できなかったのかもしれない。

世界一有名な会社だったから、"get KODAKed"というKODAKという名前を使ってみんなが理解することが出来る言葉になった。

皮肉な結果。
何度も同じことを書くが、

「強いものが生き残るのではなく、変化するものが生き残る」

これは真実だ。

| | 考えたこと | 21:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
量子生物学
量子というと、物理学の比較的新しい分野だが、素人にはわかりづらくて、アインシュタインも認めてなかったという代物だ。

その後の研究の結果、量子力学は正しいとされ、実際に応用も進んでいる。

それが生物学にまで進んできたというのを、ナショナル・ジオグラフィックチャンネルでやっていた。

ヨーロッパコマドリが、渡りをするときに、磁気を感じて方向がわかるのはそういう感覚器官があるということはわかっていたが、その機能に量子の絡み合いというものが関係するという。
この分野は量子生物学と呼ばれて、研究が進んでいるらしい。

ニオイを感じるのも、鼻に化学物質の受容体があって、それにぴったり来るものを識別していると考えていたが、それだけでもないという。
分子を結合している腕の部分の振動を感じているのではないかということだ。
これも量子力学の世界だという。

おたまじゃくしがカエルに変化するのにも、量子のトンネル効果というものが関係しているという。
あまりに変化が早く起こるからだ。

地球上の生物世界を支えているのは、植物の光合成だが、それも量子力学の世界を使わないと原理はわからない。
葉緑素が光を取り込んで、エネルギーに変えるときには、有名な不確定性原理が使われるらしい。
量子は一度に全ての経路を通ることができる、という常識では考えられないことができる。
そういうふうにして、光子を葉緑体の中の反応させる部分に届けているらしい。

量子コンピューターがすごいのは、その原理を使っているからだ。
一度に、全ての組み合わせを試すことができる。
一つひとつやらなくても、一度に全部できるということはなかなか理解できない。
順番にやらないとダメというのが常識だが、それを超えたところに量子力学はある。

人間を含めた生物は、人間が知っている知識だけで生きているのではない。
人間が生まれるずっと前から、不思議な仕組みで生きてきたのだろう。
きっとまだ人間が見つけてない仕組みも使われている。

人間の知恵がいくら進んでも、自然はその上をいく。
常に新しい発見がある。
それが自然科学の歴史だ。

量子生物学はその最後の応用分野かもしれない。



| | 考えたこと | 21:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
いじめの調査
岩手県でまたいじめの事件があったが、これに関して現職の小学校の先生が投稿をしている。

いじめの調査の実態を書いている。

アンケート形式で、質問が書いてある。
「いじめられていると思いますか?」
「最近いやなことをされましたか?」
これらに対して、「そう思う」から「そう思わない」まで○をつける、というやり方だ。
これはストレートだ。
「いじめられていると思う」生徒がいれば、いじめがあることになる。

この先生は、クラスのことは把握しているし、そんなにシビアないじめがないこともわかっていた。
だから、このアンケート用紙に、何の説明もなく書いてもらって、指導の人に渡した。
すると、しばらくして、その指導の人が顔面蒼白になって詰め寄ってきたとのこと。

要は、アンケートに「ちょっとでもいやな思いをしていると、いじめの心配があるので、正直に書いて下さい」と書いてあるので、生徒は正直に書いたのだ。
担任は「生徒の気持ちが把握できてよかった」と思ったのだが、担当は「こんな結果を上にあげたら大変なことになる」という。

そして、無記名のアンケートであるにもかかわらず、筆跡や回収した順序から「いじめられていると思う」と書いた生徒を特定し、校長室に呼び、「いじめられていない」という言質をとった、とのこと。

「このように、「いじめはあってはならない」という立場に立つと、アンケートの使われ方も本末転倒になるのだ。
ちなみにアンケートを書かせる前段階での担任の対応は、「よく考えて、よほどのことがないかぎり『いじめられている』にはチェックしないように」と事前指導するのが正解だそうである。 」

というのが結論。

結局、学校の現場ではこういうことが行われている。
だから、いじめの調査などというものはいい加減になる。
いじめがない、という前提で調査をするからだ。

実社会ではそういうことはない。
そんな前提なら、調査などしないのが普通だ。
あると思うが、わからないから、調査をするのだ。

万事、こういう考えのなかで教育が行われているのが、現実だと思う。

何度も言うが、学校に社会人の目を入れないといけない。
今のシステムでは教員になる、ということは、社会人にならない、ということを意味している。
そして小中高の学校は、基本的に先生が運営している。
だから、こんなことが起こる。

運営は社会人がやらないといけないのだ。
世の中の常識がわからないからだ。

こんな調査をやっているから、何度でも問題が起こる。
いじめなどなくならない。
もともとなくなるものではないのだが、教員はなくさないといけないと思い、実際にゼロという報告をしたいんだろう。

そんなおかしなことが学校では起こっている。

学校運営はまともな社会人に任せるべきだ。


| | 考えたこと | 21:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
デイヴ・バリーの40歳になったら デイヴ・バリー 集英社
デイヴ・バリーというのは、アメリカのコラムニスト。
ユーモア・コラムニストと書いてある紹介ページもある。
1947年生まれだから、ぼくより10歳年上。
だから、今は68歳ということだ。
1988年にはピューリッツアー賞も受賞している。

この本は彼が40歳になった時に書いた本。
アメリカで彼はベビーブーマー世代であり、その世代を中心に売れて、ベストセラーになった。

最初に書いてある。

「もちろん、ぼくひとりのことではない。歳を取るというのは、ひょっとすると、ケーブル・テレビなどより重要なライフスタイルの新潮流なのだ。その数ウン千万人にのぼるわれらベビーブーム世代、つまり「ミッキーマウス・クラブ」に熱中し、フラフープを回し、ビートルズをあがめ、髪を長くのばし、マリファナを吸い、ファンキーな踊りに狂い、愛あるセックスを営み、履歴書を書き、出世を追い求め、保険に加入し、フィットネスに気をつかい、ラマーズ法の講習を受け、母乳で子どもを育て、情報をコンピューターで処理し、住宅ローンを払い、夜間の父母会に出席し、名刺を交換し、CDを所有し、歯をフロスする伝説の大集団が、ついに、ひとり残らず、中年期に突入したのである。」

中年、という言葉は誰でも最初に聞くと、嫌になるものだ。

「問題は、心の準備ができていないという点にある。人生の大半の時間を、ほぼ同年配の連中と過ごしてきたぼくの正直な意見を言うと、集団としてのわれわれには、世の中を切り回していくだけの才知も円熟度も備わっておらず、それに必要な権限さえ与えられていない。自信を持って断定するが、われわれの多くは、ただ大人に見えるだけなのだ。」

こういうバリー節が全面に出ている。

日本には新聞のコラムニストという商売はないが、アメリカでは食えている。
マイク・ロイコやボブ・グリーンなど有名なコラムニストがたくさんいる。
もちろん、国が違ったり、環境が違ったりするので、書いたものにはわかりにくいものもあるが、ぼくは好きだ。

40歳になると、肉体の衰えが目立つ。
それについても書いている。

「四十になるということの最も痛ましい局面は、自分がもう、二十一歳のときと同じ肉体の持ち主ではないと認識させられることだ。少なくとも、ぼくにはその認識がある。シャワーを浴びながら、自分の肉体を見下ろして、ときどきこう叫びたくなるのだ。「おい、こいつは俺の体じゃないぞ!この体はウィラード・スコットのものだ!
 だが、これは極めて自然なことだ。つまり、浴室で叫ぶってのはね。でも、四十になることそのものは、ちっとも自然じゃない。野生動物としての人間の平均寿命は三十五歳前後だ、と、信頼のおける科学的資料が語っている(のを、新聞で読んだような記憶がかすかにある)。このことをよく考えてみてほしい。もし自然界で暮らしていたら、たとえ禁煙地域を選んだとしても、あなたは今ごろ、うじ虫のえさなのだ。」

ウィラード・スコットは太ったコメディアン。
こういうのが、なかなかわからないから、難しい。

この本には体のことや結婚生活、子供のこと、親になること、そして中年の危機、時間のやりくり、財政計画、政治のこと、スポーツ、そして年老いていく両親のこと、最後に偏屈のすすめが書かれている。
そのどれもが、ちょっとやけくそ気味のユーモアに彩られて書かれている。

中年の危機の項では、男の一生における時代区分というのがある。

年齢    区分   興味の対象
0〜2   幼年期   うんち
3〜9   無邪期   鉄砲
10〜13  覚醒期   セックス
14〜20  自立期   セックス
21〜29  充実期   セックス
30〜39  到達期   セックス
40〜65  ここで、中年男の危機が勃発する
66〜死  黙想期   うんち

文字通り、やけくそ気味だ。

「中年の危機は、たいていの場合、ある日の午後二時三十分ごろ、なぜか自分のきらいなものに全人生をささげてきたと気づくことによって引き起こされる。弁護士を例にとってみよう。彼は、たいへんな努力を重ねてきた。ビールを国産のもので我慢するなど、多大な犠牲を払って、法律学校の学資を捻出した。何万時間も勉強し、やっとの思いで試験に合格し、頭を下げて法律事務所に雇ってもらい、共同経営者になるため、何百という靴をなめて、ようやくその目的を達した。そして、ある日の午後、依頼人への退屈きわまりない書状、”願うらくは”だの、”前記の案件に対し”だのという規格化された紋切り型の語句で埋まった書状をしたためているとき、ふと、書いたばかりの部分を読み返してみると、”願うらくは、前記の案件を貴様の患部会議にてご淫蕩くださいますよう”とある。心理学の専門家ではない彼にも、潜在的な敵意がはっきり読み取れる。そこで、じっくりと考え始める。考えれば、考えるほど、自分が弁護士業にまつわる全てを憎んでいることがわかってきた。依頼人が憎い。(言うまでもないことだが)ほかの弁護士が憎い。初対面の人に職業を言うと、相手が”ナチの細菌学者”を見るような目つきになるあの瞬間が憎い。自分の事務所が憎い。法律文書のラテン語が憎い。書類かばんが憎い。とにかく、憎くて憎くてたまらず、彼はついに自分の本当の望みは全然ちがう職業につくことだと結論を下す。もっと楽しくて、のんきで、例えば、ハング・グライダーのインストラクターみたいな…。そう!それだ!一度、休暇のときにハング・グライダーをやってみたが、あれは楽しかった!」

中年の危機は突然やってくる。
そうかもしれない。
突然やってくるのではなく、突然気がつくのだろう。
誰しも一度はそういう思いに駆られたことはあるはず。

笑いの中に、真実が隠されている。
そんなコラム集。

アマゾンの古本を安く買った。

アマゾンの古本は便利だ。




| | | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
心理学的事実
アメリカでは、心理学的に正しいとされている事実があるとのこと。
どの程度正しい証明かはわからないが、とりあえず、正しいとされているらしい。

・人に目標を話すと、たいてい達成できない。

日本には有言実行という言葉があるが、それは心理学的には間違う率が高いということだ。
どうも信じられないが…。
人に話すことで、やらなければならない状態に追い込むのはよくあることだ。

・賢い人たちは自分のことを控えめに評価し、無知な者ほど自分はすばらしいと思いたがる傾向にある。

これは正しいと思う。
実るほど頭を垂れる稲穂かな、ということわざ通り。
最近は学校で人と比べないところが増えたから、正体不明の自信を持っている若者が増えたのは、まさにこのこの事実によると思う。

・自分の思いや意思決定を母国語でない言語で考えたり、しゃべったりすると、より理性的な考えができる

母国語でないということは、脳をたくさん使うということであり、脳をたくさん使うと理性的な考えができるということになる。
これも正しいと思う。

・人は何かを思い出すとき、それが正しくあろうとなかろうと、最後に刻んだ記憶のみを思い出す。

難しい。
本当かもしれない。

・現代の子供は、1950年代の平均的な精神病患者よりも、ストレスに苛まれている。

本当かもしれない。
1950年代の精神病患者は、どの程度のストレスがあったのか、わからないが、今の子供はインターネットというストレスの元を抱えてしまったから、大変だ。

・18歳から33歳がもっともストレスを感じている。

これは真実とは思えない。日本では中年あたりのストレスが最大だろうと思う。
だから、40歳くらいになってからだろう。

・音楽はあなたのものの見方を変えてくれることがある。

まあ、真実かもしれない。ものの見方まで変えるというのはちょっと言い過ぎのような気がするが…。

・お気に入りの曲は、感情的な出来事とつながっているらしい。

これも、難しい。
まあ、つながっていると言えば、つながっているのかもしれない。

・実際にお金で幸せが買えることもある。

これは真実だろう。お金で幸せが買えるという、身も蓋もないことだが、時にはそういうこともある。

・人のためにお金を使うと、幸せになれる。

これは真実。上の項目と同じことだ。誰かにプレゼントを買うことは、自分の幸せのためかもしれない。

・なにかを経験するためにお金を使うことは、物を買うよりも幸せになれる。

これも当たっていると思う。カードの宣伝ではないが、モノより思い出だ。

・瞑想や祈りはストレスをはねのける。

もともと瞑想や祈りをしないから、わからない。

・たとえ眠れなくても、脳にはよく寝たと思い込ませることができる。

そんなことができるかどうかわからない。
やっても、あまり意味がないと思うが…。

・楽しい人たちに囲まれていると、自分も幸せになれる。

これは真実。人が組織で働くのはこういうことがあるからだと思う。

アメリカで心理学的には事実と言われているだけあって、だいたい本当だと思える。
あんまり意味のないものもあったが…。

しかし、どうやって証明したんだろうか。





| | 考えたこと | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
金星探査機
ナショナル・ジオグラフィックのニュースが日経のサイトで見られる。

それによると、「欧州宇宙機関(ESA)の金星探査機「ビーナス・エクスプレス」のデータから、金星が今も活発な地質活動を続けている新たな証拠が得られた。複数の火山が噴火し、温度が815℃を超えているところもあるという。ビーナス・エクスプレスは8年余りにわたって金星を周回し、2014年12月にミッションを終えていた。」と書いてあった。

金星というと、とにかく熱い惑星という印象。
地球の一つ内側を回っている。
記事には想像図が描いてあって、見てきたような絵が書いてあるが、正式発表されたGeophysical Research Lettersを見ると、実際には探査機は金星の回りを周回して温度の分布などを測っただけのようだ。

地球との大きな違いは、地球の場合は地殻が何枚かに分かれていて、その継ぎ目に火山があって噴火するという状態だが、金星はそういう構造になっていないらしい。
よく地震が起こると、何たらプレートと何たらプレートがぶつかって、歪ができていたのを緩和した、というような言い方をする。
あれが地球の地殻の構造だ。

遠くから探査機で観察するだけで、そこまでわかるのかと思うが、どうもそういうことらしい。
現在、次の金星探査機が検討されている。
それが金星の到着するまで、それ以上の詳しいことはわからない。

地球と金星はよく似た惑星だ。
大きさも近いし、軌道も近い。

それでも、自転の速さがゆっくりで、大気がかなり違うから、だいぶ違った様相になっている。
元は同じような状態だったのかもしれない。
地球に生命が誕生したから、この違いができたという説もある。

地球のことを知るためには、他の天体のことを知らないといけないのだろう。

ヨーロッパも経済的には大変だが…。


| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀漢の賦 葉室 麟 文春文庫
NHKの時代劇でやっていたのが面白かったので、原作を買った。

江戸時代、月ヶ瀬藩というところの、どちらかというと貧しい武士、日下部源五と、家老の松浦将監という幼なじみの二人の運命を描いた物語。

テレビでは中村雅俊が日下部源五を演じて、なかなかよかったが、どうも原作ではイメージが違う。
もうちょっと堅いイメージだった。

時代小説というのは、ややこしいところがなくて、読みやすい。
しきたりとか、家とか、武士の守るべきものとか、そういうのは小さい頃から時代劇を見て覚えた。
そういう予備知識がないと、ひょっとしたらわかりにくいのかもしれない。

でも、そういう予備知識が共有されていると、物語は楽だ。

純粋に、人間の気持ちを描くのには、時代劇はぴったりだと思う。

この「銀漢」というのは、漢詩から出た言葉で「天の川」のこと。
物語の終盤で、源五が思う。

「銀漢とは天の川のことなのだろうが、頭に霜を置き、年齢を重ねた漢(おとこ)も銀漢かもしれんな」

その漢たちの物語。

残念ながら、ぼくはテレビの方が原作よりよかった。

でも、時代小説はいい。





| | | 19:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
怒る人工知能
人工知能は賢くなるだけではなく、人間のように感情を示すということもあるらしい。

グーグルの研究者が、映画の脚本のデーターベースを使って学習した人工知能を作った。
それに対して、「道徳」という言葉の定義を指示したら、人工知能が怒りだしたとのこと。
最後は、人工知能が「もう話したくない」と言い出した。
ホントかなと思うが、学んだベースが映画の脚本ということだから、あり得ると思う。
どれくらいの量の脚本を学習したのかはわからないが、結構な数だろう。

映画ではいろんな事が描かれる。
ヒューマンドラマもあるだろうし、刑事ドラマもある。戦争ドラマもあるし、コメディもあるし、ブラックユーモアもあるだろう。
たくさん学ぶほど、何が道徳かはわからなくなるだろうと思う。
いろんな主人公が、いろんな場面で描かれているはずだ。
なかには、殺人を犯すことが道徳的だ、という映画もあるだろう。
学べば学ぶほど、「道徳」なるものを定義するのは難しくなるのは、容易に想像できる。
人間でも同じだ。
ちゃんと学んだ結果だとも言える。

こういう話を聞くと、世の中に正しいものなどないのではないかと思えてくる。

ぼくは「道徳」とは何か?と聞かれたら、「他人を慮って、正しいことをすること」というふうに答えると思うが、それも場合によると思ってしまう。
だいたい、正しいことって、いったい何なのか、よく考えたらわからない。

結局生身の人間にしたって、「道徳」とは何かと聞かれても、なかなか答えられないということだ。

だから、「道徳を定義せよ」と言われて怒るコンピューターは正しいのだろう。

ということは、人工知能は人間並になってきたということだ。
このままいくと、どんどん学習が進んでスーパーマンのような人工知能ができるかもしれない。

その人工知能に、人間はアゴで使われるかもしれないぞ…。


| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
動物と人間の世界認識 日高敏隆 ちくま学芸文庫
日高敏隆は何冊か読んだが、動物行動学の人だ。
人間を知るためには、比較できる何かを知ることが大事。
それが動物になる。

人間は自分の見えている世界を、動物も見ていると思いがちだが、それは違う。
目の構造や知覚の仕方が違うからだ。
そして、人間が客観的に世界を見ているか、という疑問も出てくる。

「もし、われわれ人間が、見て捉えている、把握しているものを現実のものとすれば、モンシロチョウやアゲハチョウが捉えている世界は、それとは違うものである。
 それは客観的なものでなく、きわめて主観的な、それぞれの動物によって違うものであるということになる。それがそのモンシロチョウが構築している世界だとすると、極めて限定された、まさに主観的な世界を構築していることになる。
 では、われわれ人間は本当に客観的な世界を見、客観的な世界を構築しているのだろうか。
 それも違う。後に述べるとおり、人間にも、知覚の枠というものがある。誰でも知っているとおり、われわれには紫外線や赤外線は見えない。そのようなものは現実の世界に存在しているのであるが、われわれにはそれを見ることも感じることもできない。ただ、その作用を受けているだけである。われわれはそれを研究することによって、そのような紫外線なり赤外線なりというものの存在を知る。」

3章で、アゲハチョウがどこを飛ぶか、という研究を紹介している。
これは思ったより単純で、日がよくあたっている木のこずえに沿って飛ぶということだ。
なぜかというと、アゲハチョウが見ている世界では、日の当たっている木のこずえは非常に重要なものとして浮かび上がっていて、チョウにとってはそれしか見えないから、という説明。
つまり、その生物が見えている世界は、行動にも影響を及ぼすということになる。

モンシロチョウはアゲハチョウとちがって、日のあたっている草原が大きな意味を持つ。
というか、それしか見えていないということだろう。

こういう研究は面白い。
動物の数だけ世界はある。
客観的な世界というものはない。
その動物にとって主観的な世界しかないのだ。
人間もその制約を逃れることはできない。

1つの世界をどう切り取って見るか、というようなことだろう。
そういう意味では言語に近いものがある。
言語が違えば、世界が変わるように、動物が変われば世界も変わるのだろう。

「このことはとても重要なことなのではなかろうか。そして、同じ昆虫でもアゲハチョウの見ている世界と、モンシロチョウの見ている世界はもはや同じではない。このように考えてみると、ひとつの環境というものは存在しないことになる。それぞれの動物の主体が構築している世界があるだけであって、この環世界は動物の種によってさまざまに異なっているのである。」

「世界を構築し、その世界の中で生きていくということは、そのような知覚的な枠のもとに構築される環世界、その中で生き、その環世界を見、それに対応しながら動くということであって、それがすなわち生きているということである。そして彼らは、何万年、何十万年もそうやって生きてきた。環境というものは、そのような非常にたくさんの世界が重なりあったものだということになる。それぞれの動物主体は、自分たちの世界を構築しないでは生きていけないのである。」

そして、人間、いやあらゆる動物が世界を構築していると思っているのは、その動物がその時々に持っているイリュージョン(まぼろし)だ、という結論になる。

「重要なのは、前章でも述べたとおり、イリュージョンなしに世界は認識できないということである。「色眼鏡でものを見てはいけない」とよく言われるが、実際には色眼鏡なしにものを見ることはできないのである。われわれは「動物」と違って色眼鏡なしに、客観的にものを見ることができると思っている。そしてできる限り、そのようにせねばならないと思っている。しかし、これは大きな過ちである。」

「学者、研究者たちはいう。われわれは真理に近づこうとしているのだと。
 もし、真理というものが存在するなら、この言は理解できる。そしてたしかに今日のわれわれは、昔よりより多くのことを知っている。けれど、それによってわれわれは真理に近づいたのであろうか?
 物理的世界についてはそうだといえるかもしれない。けれど、客観的な環境というものは存在しないということからもわかるとおり、われわれの認知する世界のどれが真実であるかということを問うのは意味がない。
 人間も人間以外の動物も、イリュージョンによってしか世界を認知し構築し得ない。そして何らかの世界を認知し得ない限り、生きていくことはできない。人間以外の動物の持つイリュージョンは、知覚の枠によって限定されているようである。けれど人間は知覚の枠を超えて理論的にイリュージョンを構築できる。
 学者、研究者を含めてわれわれは何をしているのだと問われたら、答えはひとつしかないような気がする。それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ。そうして得られたイリュージョンは一時的なものでしかないけれど、それによって新しい世界が開けたように思う。それは新鮮な喜びなのである。人間はこういうことを楽しんでしまう不可思議な動物なのだ。それに経済的価値があろうとなかろうと、人間が心身ともに元気で生きていくためには、こういう喜びが不可欠なのである。」

そういうことだ。
人間の営みというのは、結局はイリュージョンに過ぎない。
そう開き直ったところから、謙虚に科学というものを見ないといけないのだろう。

日高敏隆は2009年に79歳で亡くなった。
惜しい人をなくしたと思う。



| | | 01:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
萌家電
こないだ、ロボット掃除機は手がかかるからいいのだ、という話があったが、そういう方向で家電の発展系を考えている人がいるらしい。

それらは、「萌家電」と呼ばれる。
ソニーコンピューターサイエンス研究所でアプリが作られているらしい。
これらは既存の家電に「萌え系」のキャラクターをあてはめ、スマホのアプリとしてコントロール出来るというもの。
ダイワハウスと共同プロジェクトも発表されている。

掃除ロボットは掃除機自体が手がかかる存在であり、人間の関わりを要求するのだが、こちらは家電製品にキャラクターをあてて、コントロールしたり、節電したりする、というもの。
ちょっと掃除ロボットと違うが、要は家電製品の究極の姿は、人間と関わる存在であらねばならない、ということだ。

萌え系ということで、少女キャラが出てきて、ちょっと気持ち悪い派手なしゃべりで話すのだが、まあ、萌え系でないといけないというわけでもないので、いろんなパターンができるだろう。
これらは、あくまで既存の家電製品にリモコンとしてスマホのアプリで会話する、というもので、ロボットという感じではない。

しかし、家電の究極の姿は、使う人とコミュニケーションする、というコンセプトは正しいと思う。

問題は、一つ一つの家電がコミュニケーションするか、小型のロボットがそれをまとめてやるか、という感じ。

身長50センチくらいのコミュニケーションロボットが、人間と話して、そこから各家電を集中コントロールする、という手がもある。
いま話題のスマートハウスというのは、それを家ごとやる、という感じなんだろう。
きっと家電のリモコンは赤外線などではなく、家庭内のインターネットか何かになるだろうから、早めにこの規格を統一して、開発に手をつけなければいけない。

こういうのは日本は得意だ。
クールジャパンで、キャラクターづくりもできる。

値段競争に負けて、白物家電やテレビまでも苦しくなったが、コミュニケーション家電でもう一度取り返せないかと思う。

萌え系というのは、ちょっと抵抗があるが…。

こういうのが新しい産業になると思う。



| | 考えたこと | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
「聴く力」の強化書 岩松正史 自由国民社
CDAという資格を取ったのだが、その2次試験のロールプレイの参考に購入。
1回目の2次試験は落ちて、もっと傾聴をしないといけない、ということだったので、「聴く力」という題名に惹かれた。

この本は読みやすい本なので、一日あれば余裕で読める。
書いてあることも著者が講演でやっていることなので、わかりやすい。

こういう本を読むと、いかに普段人の話を聞いているようで、聞いていないかということがよくわかる。
「傾聴」というのが、難しいということがよくわかるのだ。
耳を傾けて聴けば、傾聴ができると思ったら間違い。
ちゃんとリクツがある。

傾聴は感情にアプローチするものだという。
要は、気持ちを聴くことになる。

対して、アドバイスというものは、認知や行動にアプローチするものだ。
ついついこれをやってしまう。
自分の考えを話すのだ。
これが悪い、というわけではない。
時と場合によってはアドバイスが必要なこともある。
しかし、傾聴はアドバイスとは違うのである。

胸のあたりに「心のバケツ」を想像して、そこがいっぱいになっていると想定する。
感情が、バケツから溢れ出している状態。
そんな状態なら、誰かがアドバイスをしても聞けない、聴く余裕がない、ということだ。
だから、有効なアドバイスをするためにも、傾聴をして心のバケツの水の水位を下げることが必要になる。
たいがいの場合、心のバケツの水位が下がってくると、次の一歩は本人が考える、と著者は言う。
自分で決めたことほど、高いエネルギーを持って向き合えるから、それが大事だという結論。
だから、傾聴は大事だという。

しかし、常に傾聴が必要だと言っているのではない。
傾聴のスイッチを用意しておき、そういう場面では、スイッチを入れられるようになるといい。

「あなたが、もしコミュニケーションで困っていることがあるなら、「傾聴力」のスイッチを持つと、必要な時に傾聴が使えるようになります。
「傾聴」はあなたが楽になるために、いいとこどりして使えるものなのです。」

この本には訓練のやり方や、会話の事例が書いてある。
なかなかためになる。

例えば、事柄と気持ちの違い。
何も意識せずに聞くと、事柄をついつい聞いてしまう。
事柄とは、誰が、いつ、どこで、何を、どうやって…、という類のもの。
事柄はイメージできるから聞きやすい。

しかし、気持ちはイメージできない。
感じて、わかることしかできない。

何も意識せずに聞いていると、ついつい事柄を確認しようとして、話の腰を折ってしまう。
事柄は本人にとってはわかっていることで、どうでもいいことなのだ。
それよりも、気持ちを聴くことが傾聴の第一歩である。

言うは易く、行うは難し。

そういうトレーニングの本である。

1300円は、トレーニングに行ったと思えば安い。

しかし、1つ大きな疑問なのは、仕事でたくさんの臨床心理学者と付き合ったが、あの人たちが傾聴ができているとはとても思えないことだ。
単にスイッチを入れていないだけなのか、もともとスイッチがないのか、よくわからない。
まあ、商売柄、お金をもらえる時だけ、スイッチを入れるのかもしれないが…。

お互いのコミュニケーションもよくない。
要するに仲が悪い。
認めあったらいいと思うのだが、これもなかなかうまくいかない。

だから、仲間づくりが下手だ。
まあ、普通に言うと、人付き合いに関しては下手な人たちが多かった。

そういう疑問は残ったが、まあ、よしとしよう。


| | | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
面倒くさい人
面倒くさい人、というとどういうイメージだろうか。

「障害者の害という字は、漢字で書いたらダメ」などという人を思い浮かべたら、今回は正解。

為末大というオリンピックの元選手が、スポーツコメンテーターをしているらしいが、この人が「障害者に関する世界に行くと、面倒くさい人がいる」とつぶやいて、賛否がまき起こっているらしい。

この人の真意は、「障害者への理解が進まない一番の理由は、そうしたヒステリックな正義の人がいるからだ」ということ。
彼は「障害者の方だけに特別慮らなければならないとは思いません」と言っている。

実際、彼は元アスリートの立場で競技用義足の開発に携わったり、パラリンピック強化のための有識者会議のメンバーとして活動もしている。
彼の意見は、とても納得できる。

もう20年くらい前になるか、筒井康隆が断筆宣言をしたきっかけも、同種の問題だったと思う。
こちらについても賛否両論があるが、きっとひとことで言うと「面倒くさい人がいる」ということなのだ。

そのひとことを彼はつぶやいた。
記事の中で彼は言う。

「ヒステリックな正義の人の例として、「400メートル障害」ではなく「400メートルハードル」と言ってほしいとか、「障害」ではなく「障碍」にしてほしい、などと訴える人たちで、言ってはいけない言葉が多すぎたため「しばらく話すのをやめました」などと説明した。」

「障害」を「障がい」と書けというのも、同じことだろう。
いつの間にかそういう言葉が増えた。
「子供」を「子ども」と書くのも(文科省は正式に「子供」に統一したが)、根っこは同じだと思う。

彼は障害者理解の障害になっているのは、「正義」の人だという。

「障害者に関する世界に行くと、面倒臭い人がいて、それが嫌になって障害者に関する仕事は避けようかなとなっている人がいかに多いことか。障害者への理解が進まない一番の理由はヒステリックな正義の人だと思う」

これは、彼自身がパラリンピックなどの障害者の世界に行って、感じたことだろう。
実際、ヒステリックに怒られたら、やる気がなくなるのも事実。
それが、納得できることならまだいいが、どちらかというと「どうでもいい」ことだとぼくなどは思ってしまう。
単に言い方(書き方)を変えただけではないか。
でも、「どうでもいい」などということ自体が、きっと「ヒステリックな正義の人」の逆鱗に触れるんだろうが…。

実際、大学で仕事をしていた時は、気を遣った。
書いたものは残るし、時代の流れに合わせないといけない。
大学という組織を守るためには仕方がないから、障害は障がいと書くし、子供は子どもと書く。
でも、書きながら違和感があった。
「どうでもいい」ことなので、ヒステリックな正義の声に合わせるのだが、それでも「そんなことを声高に言っても、何も変わらないんと違う」という違和感だ。

為末に賛成の意見として、「当事者達より支援者と名乗る人達の方がはるかに面倒臭かったです。『当事者はかわいそう』というスタンスでの言動をする人が多かった。そういう人って無駄に熱心だったなという印象です」、「障害者の方本人は気にしていないのに、周囲が勝手に嫌だろう、差別的な表現だと決めつけて...。自称支援者が一番差別視していると思うんです」というものがあった。

ぼくもそう思う。
でも、それが「思慮が浅い」とか、「そういうことを言うから差別がなくならないのだ」、と言われたら、黙る。
そして、もう関わるのはやめる。

世の中にどれくらい「ヒステリックな正義の人」がいるのかわからない。
そんなに多くないと思う。
でも、声は大きい。
記事の最後に、反対者への為末の意見として、こう書かれている。

「「深く理解してくれる人しか認めないという姿勢だと、結局世の中の多くの人はめんどくさい事が嫌いなので理解が進まず、その弊害が出ているように私は思います」
と返した。障害者に関する法律や、障害者に対する人々の態度はいくらでも整備できると思うけれども、人の腹の底にある考えは強制ができない。偏見を無くすためには理解してもらおうという努力が必要で、そのためには対話を続けるしかないのだけれど、対話を続けるには残念ながら世の中にはたくさんの問題があり難しい、と説明した。」

こういう問題では、「正義」がややこしい。
「正義」というのは、声高に掲げてしまうと、正義でなくなる場合があるんだと思う。
本当の正義の人は、ヒステリックではないし、正義を声高に叫んだりなどしないと思う。

じっと考えて、「まあ、それでもいいね」という多様性を認める人こそ、本当の正義の人なんだろう。

為末大は、いいことを言ったと思う。


| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
コミュニケーション力 齋藤孝 岩波新書
今の就職で重要なのはコミュニケーション力だといわれている。

この本では、それは「意味や感情をやり取りする」ことだという。
巷では、コミュニケーションというと、情報をやり取りすることのようなイメージがあるが、著者は情報には感情の次元が含まれておらず、人間関係を円滑に進めるためには感情をお互いに理解することが必要であり、そこまで含めて「コミュニケーション力」だという。

これを鍛えるためには、コミュニケーション力のある人と対話することだという。

「テニスの上手な人やキャッチボールの上手な人を相手にすると、気持ちよくできる。自分が上手くなったような気がしてくる。すると、どんどんプレーがよくなり、自分でも思いがけないパフォーマンスが生まれる。これは対話でも同じだ。対話力がある人と話すと、アイディアが生まれやすい。そうした人を会話のパートナーにして、クリエイティブな対話の感覚を積み上げていくことが、コミュニケーション力向上の王道である。」

意外だが、書くこともいい。

「文章を書くという作業は、自分自身を対話する作業である。自分でも忘れていることを思い出し、思考を掘り下げる。長い文章を書いたことがある人ならば、それが苦しくても充実した作業だということを知っている。日記をつけるという行為も、自分自身と向き合う時間をつくることになる。言葉になりにくい感情をあえて言葉にすることによって、気持ちに整理がついていく。言葉にすることによって、感情に形が与えられるのだ。」

若い人たちが「〜ていうか」という言葉を多用するが、それは安易に話題を変えることになり、それに対して警鐘を鳴らしている。
そして、コミュニケーション力は1つの話題を掘り下げる方向にあると言っている。

「自分の身の回りの情報を伝え合うだけでは、コミュニケーション力は向上しない。相手の経験世界と自分の経験世界を組み合わせ、一つの文脈を作り上げていくことで、次の展開が生まれる。それがコミュニケーション力のある対話だ。すなわち、コミュニケーション力とは、一言で言えば、「文脈力」なのである。」

「私は大学生に四百字詰め原稿用紙で十枚以上のレポートを課題として出す。その意図は、文脈力をつけるということにある。四千字以上の文章となると、文章の内容を構築していく必要が生まれる。勢いだけで走り切るには少々長い。原稿用紙一枚を一キロメートルと想定して考えてみるとわかりやすい。一キロ程度ならば、とりたてた準備をしなくても走ることはできる。しかし、十キロともなると、からだの準備を整えておかなければ、走り切ることは難しい。このからだの準備に当たるものが、文章の構成である。事前にメモを作り、どのような順序で論を進めるかを考える。メモなしにいきなり一行目から書き始め、思いに任せて書くというやり方では、長い文章を書き慣れていない者に取って、乾燥するのは難しい。」


「〜ていうか」と同じで、「全然話は変わるんだけど…」というのもヨクナイ。
そういう人の文脈力は高くはないという。
では、どうしたら文脈力をつけることができるのか?ということになる。

「それは会話の最中にメモをとることである。私は、対話中には、ほぼ必ずメモをとる。自分がインタビューされる側であっても、メモをとりながら話をする。相手の質問をまず聞く。できれば相手が用意してきている質問をはじめに全部聞き出す。そしてそれをメモする。それに関する返答も、質問を聞きながらキーワードだけどんどんメモしていく。自分がこれから話す可能性のある事柄を、とりあえずキーワードでマップしていくのである。もちろん全部を話すとは限らない。しかしキーワードをメモしておかないと、言い忘れてしまうことが多くなる。相手の質問をメモしておくことによって、的外れな返答をしにくくなる。また、質問相互の関係も考え合わせて、自分の話を展開していくことができる。」

でも、経験上、メモをする人は驚くほど少ないという。
それを嘆いてこう言う。

「文字こそは、文明を加速させた一番の要因である。文字以前の社会は、言葉は持っていたが、文明はさほどの加速を見せなかった。文字の発明以来、数千年で急速に文明は発展した。それほどに文字の力は絶大だ。にもかかわらず、その文字の大いなる力の恩恵を受けようとしない会話が多いのには驚くばかりだ。」

こんなことが、第一章コミュニケーション力とは、の前半で語られる。

第二章では、コミュニケーション力の基盤として、「目を見る、微笑む、頷く、相槌を打つ」の4つをあげる。
まあ、当たり前のことだ。

最近コミュニケーション力が問題になるのは、戦後の家庭にも問題があるという。

「太平洋戦争後、高度経済成長とともに、各家庭には一つずつ家の風呂がつくようになった。一人ひとりが別々に風呂に入るようになり、個室で眠る子どもも少なくなくなった。他者と関わり合うことを「煩わしさ」とだけ受け取る子どもたちが増えてきた。人と関わらなくても済むのならできるだけ関わりたくない、という引きこもり指向は強まった。泊まりがけの合宿などにおいても、一人部屋でなければ眠れないといった苦情もよく聞かれるようになった。寝食を共にすることは苦痛、と捉えられる傾向が強まったのである。」

社会の個人化が進んだのだろう。
誰かが、日本は西欧の個人主義を間違って真似したと言っていた。
西欧では個人の部屋が与えられるが、ルールがあって、必ずみんな一緒に居なければならない時間は、家族が一緒に過ごすということだ。

場の雰囲気をリラックスさせることも必要だ。
そういう手法も書いてある。

演劇の効用についても書いてある。
今は演劇を就活のセミナーに取り入れているところもあると聞いた。
そういうこともコミュニケーション力に含まれるのだろう。

第三章では、いろいろな技法について語る。

言い換え力やプレゼンのコツ等々について書いてある。

ブックオフで105円で買った。
2004年に初版。
結構売れた本だと思う。

第一章の、コミュニケーション力とは、という章が一番面白かった。

第二章、第三章のいくつかは、実際に使ってみたことがある。
そういう役に立つ本だと思う。

でも、コミュニケーション力とは、というところを押さえておかないと、意味がない。
単なる情報伝達ではなく、感情を言っているところがエライ。




| | | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
卒業予定者数
今朝の読売新聞に、「大学の実力」というのが出ている。
今年で8回目を迎える、読売の企画だ。
日本中の大学にアンケート調査を実施している。
毎年項目が増え、わりとちゃんとしたものになった。
文科省も同じようなことをやろうとしているから、その予行演習みたいなものになったんだろう。
関西版には近大が全面広告を最終面に出している。
結構広告料は高かったんだろうなあ。
お決まりのマグロが、火山から顔を出している。

こういう数字が誰でも見られるようになるのは、いいことだ。
情報公開すれば、淘汰は進む。
実際、今回のアンケートに答えていない大学は、間違いなく経営状態が悪い学校だろう。
だからこそ、文科省も公式に作ろうとしている。
新聞社のアンケートなら、答えないという選択肢もあるが、補助金をもらっている監督官庁なら出さざるを得なくなる。

昔はそんなものは考えられなかったが、それだけ大学数が増えて、質が問題になったということだ。
ぼくが大学に入学した昭和50年には420校だったが、今は781校になっている。
ほぼ倍になったということだ。
もちろん、進学率も上がっているのだが、数年前から入学定員と高校を卒業して大学に進学する希望者の数はほぼ同じ、つまり理論上どこかの大学には入れる、という「全入」状態になっている。
もちろん、これは入試を通ればの話。
だが、悲しいかな、中位以下の大学では入試は機能していないところが多い。
AOや推薦が増えて、学力が問われなかったり、一般入試でも入学定員を優先して合格を出している大学が増えているからだ。

ぼくは大学で就職支援の仕事をしていたから、卒業生のことが気になる。
「大学の実力」には卒業生の進路も出ている。
「卒業予定者数」「卒業者数」「就職者数」「進学者数」の4つ。
この中の「卒業予定者数」だけでもいろんなことがわかる。

卒業予定者数はその年度に最終学年に在籍した学生の数ということになっている。
わかりにくいが、5回生、6回生なども含まれるということだ。

この人数と、卒業者数の差を見てみる。
この差が大きいところは、4回生になるまでにチェックをちゃんとやっていない大学だ。
必修科目があって、厳しく成績をつけ、最低限の勉強をしないと上の学年に上がれないという仕組みを持っていれば、必然的にその差は小さい。
昔は教養と専門で分かれていて、3回生になる時にハードルがあったと思う。
今はそんなものがなかったり、そもそもノーチェックの大学もある。
極論すると、0単位でも4回生になれる大学があるということだ。
なぜ、学年進行時に厳しくしないかというと、退学率が上がったり、それによって学費が入ってこなくなったり(こっちの理由が大きい)するからだ。

今の学生は友だちが一番大事だから、落第、ということを嫌って退学するのを恐れるんだろう。
今は成績はコンピューターで管理されているから、事務的にはやろうと思えばすぐにできる。
なぜそれをやらないのか、ぼくは不思議だったが、ぼくのいた大学の教授会は学生に厳しくすることを嫌った。
本来、学生の自己責任に属することだからだ。
それは学生や保護者に対しては気の毒なことなのだが…。

ちゃんと入試をやって、学生のレベルを把握し、汗を流して学生を育てようとしている学校なら、学年進行時にハードルは設けるだろうと思う。
少なくとも、1回生の必修を落としたまま4回生になる学生はいないだろう。

卒業要件の厳しい学校もあるにはあるだろうが、だいたい、ちゃんと4回生になった学生は卒業出来るようになっているはずだ。
中には、自ら単位を落として留年するという選択肢もあるにはあるが…。

結局、「卒業予定者数」というのは、そういう学校の熱心さも表している。
卒業できなかった学生が多い学校は、汗を流して教育に取り組んでいない、という傾向があるはずだ。

いくらいい加減に入試をやっても、ここでツケを払わないといけない。

先生方がマジメに汗を流して学生を教育すれば、ちゃんと学生は応えるのだと思う。
でも、そんな先生は非常に少ない。

それを表しているのが、実力調査の学習支援のところにある。
「課題添削」という欄だ。
これは、「授業で提出させた小論文等を添削して学生に返却するよう、学部として教員に促しているか」というもの。
実際にやっているかどうかは別として、「促す」だけでいいのだが、ここが空欄の大学が非常に多い。
これをちゃんとやってくれると、就職の時には間違いなく有利。
誤字脱字をなくし、文章の「てにをは」を直し、まともな文章を書けるように指導しておけば、エントリーシートで苦労することもない。

要するに、卒論の添削を除くと、高校を出た後、添削されて答案が返されるという経験をしない学生がほとんど。
だから、「私の成績、なんでこんなにいいのか」と驚く学生がいるのだ。

添削・返却は本当に大変な仕事だと思う。
でも、講義やゼミをやるだけが先生の仕事ではない。
出したもののフィードバックをしないと、成長しない。
特に下位の大学では、小中高の学び直しなのだから、ちゃんとやらないとイケナイ。

と、口を酸っぱく言っても、「何人の授業をやっていると思っているのか」といわれるのがオチ。
中には「面倒くさい」という先生もいた。
そんなことをしていたら、研究ができない、ということだ。
そういう先生に限って、論文は全然書いてなかったりする。
でも、そういう事項は教授会マターなのだ。
よほど強権の理事長がいたり、学長がいたりしないと、「自由の府」である大学ではそういうことはなされない。

だから、文科省は情報公開を進めて、そういう教授会を何とかしようと考えているのだろう。
もう手遅れの感はあるが、やるにこしたことはない。

でも、ぼくはそう簡単に変わらないと思う。



| | 考えたこと | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
杜撰な国立競技場
今日のクローズアップ現代でやっていたが、オリンピックの招致のための国立競技場はサッパリわやになっているのがよくわかった。

だれも当事者意識がない。
デザインのコンテストの段階で、だれもが「きっと東京は選ばれないだろう」と思っていたと誰かが言っていた。
イラン人のデザイナーの絵を見て、建築家たちは建設費がかかるぞ、という議論をしていた。
なかには、そもそも不可能だという人もいた。
でも、斬新なデザインのものでないと、インパクトがない、ということで、建設費の確認がないまま進んでしまった。
きっと委員の人たちは、万が一東京になったら、エライコッチャなあと思っていたんだろう。

だいたい、こんなプロジェクトを文科省がやるのが間違っている。
もっとまともな役所にやらさないと、スポーツだから文科省、という決め方が無責任だ。
今の義務教育の体たらくを見たら、こんな役所に任せられないというのは誰でもわかる(と思う)。

エイヤ、で出した建設費でも、1300億。
それでも、北京やロンドンの倍以上だ。
さらに、その倍の費用がかかるという。

建設する場所の問題もあるそうだ。
ぎりぎりの場所だから、効率が悪い。
おまけに陸上競技だけでなく、サッカー、野球、それにコンサートなどもできるというふれこみだ。
だから、屋根が必要。
でも、屋根は建築費の問題で、設置しなくても2600億くらいかかるらしい。

クローズアップ現代に委員だった東大の先生が出ていたが、リーダーシップの欠如を言っていた。
今頃言うのなら、その時言っとけよ、という感じだが…。

行政の主催する会議というのはこういうのが多い。
みんなで決めたらいいというカタチだ。
委員長はいるが、雇われ委員長で、決めたら終わりという格好。
本来なら主催者がリーダーをやらないといけないのに、裏方に回る。
先生、お願いします、というやつだ。
それらの先生は呼ばれてきただけであり、日を決めて集まっているに過ぎない。
決定事項がややこしくなってきたから、違う日に集まろうとか、1ヶ月に1回だったけど、週に1回でやろうとか、まず言わない。
言っても、みんなが来られない。
所詮は集めた人は集めた人なりのことしかしない。
委員長も同じだ。

だから、集めた役所がリーダーシップを取らないといけないのに、取ろうとしない。
責任を取りたくないから、よけいなことをしたくないのだ。

それが極まったのが、国立競技場。
多かれ少なかれ、行政が集めてやる委員会など、同じようなものだと思う。
同じようにして、70年ほど前、戦争を始めたんだろう。

全く治っていないぞ。


| | 考えたこと | 20:25 | comments(3) | trackbacks(0) |
みんな被害者?
日本で平和のことを語ろうとすると、まず「戦争はヨクナイ」という話になる。
そんなことは、誰だってわかっている。
それは、何かを言っているようで、結局何も言っていないのと同じだ。
今の時代、公の場で「戦争はいいことだ」という人などいないだろう。

教育に携わる人たちは、いかに戦争が悲惨かということを教えようとする。
シベリア抑留された方に話を聞いたり、被爆した方に話を聞いたりする。
それはいいことだと思う。
しかし、一方的過ぎないかと思う。
日本は戦争をされたのではなく、戦争を仕掛けたのだから。
同じ日本人でも、被害者の部分だけを教える。
一億総被害者という感じだ。

加害者はどこにいったのか。
国内がこんな状態なら、被害を受けた国は怒るのは当たり前だ。
侵略をしたのは、日本人だぞ。

なぜ第二次大戦をしたのか、なぜ踏みとどまることができなかったのか、どうして戦火を拡大していったのか、どうして玉砕するしかない作戦をしたのか…、そんな疑問に答える人はいない。
いても、黙っているのだろう。
そういうことを言うと、自分たちは被害者だと思っている人たちからののしられるからだ。

当たり前なんだから、いい加減に「戦争は悪い」というのはやめるべきだ。
その言い方は無責任だと思う。

それよりも歴史と向き合って、どうして戦争をしたのか、ということを教えないといけない。
ぼくら大人も、学ばないといけない。

軍部が悪かったというのは簡単だが、それをマスコミや大衆が支持したから、軍部が強くなったのだと思う。
大衆、すなわち、日本人みんなに罪があるのだ。
それを「私たちは被害者です」というような態度でいれば、アジアで孤立するのは当たり前だ。

マスコミが自らを反省して、そういう大人の意見を言わないと、いつまでたっても日本人は大人になれない。

ぼくはそう思う。


| | 考えたこと | 22:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
女子ワールドカップ決勝
キックオフと同時にアクセル全開という感じのアメリカだった。
いきなり点を取られるとは、思ってもいなかっただろう。
最初は様子見をしてくる、と思っていたのか…。

アメリカは強かった。
このゲームだけ見ると、勝てないなあと思う。
日本チームに奢りがあったわけでもないし、引け目があったわけでもない。
ただ、相手が強かったということだ。

それでも、4年前は勝ったんだから、また勝てる時もあるだろう。

ぼくは素人だから、詳しいことはわからないが、今回のアメリカは4年前の雪辱を絶対に果たすという気合が強かったと思う。
開始と同時にフルスロットルで行こう、という作戦だったんだろう。
大きな試合になればなるほど、相手の出方を見るというような感じがあるが、そんなことは全くなかった。
いつもの調子で始めたら、気がついたら3点取られていたという試合。

だいぶ研究もされたんだろう。
そういうスタッフは、アメリカの方にたくさんいるような気がする。
まあ、場所がカナダだから、アメリカにとってはホームみたいなものだ。

だから、今回はアメリカに花を持たせたということで。

でも、世界で2位だから、たいしたものだ。

男子に比べたら、特に。




| | 考えたこと | 00:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
地方の過疎化
今朝、会社時代の同僚、Y君から電話があった。
約束していた宴会のキャンセルだったのだが、その時に世間話をしていたら、面白いことがわかった。

Y君は九州の出身なのだが、もう来年あたり定年で、どうするのか?という話になったのだ。

「君、九州の実家はどうなってるん?」
「もう、誰もいないから、ぼくの代でたたもうと思ってる」
「どれくらい土地あるんや?」
「700坪と隣に田んぼがある」
「ほー、それは売ったらスゴイ儲けやな」
「誰が買うねん。役所に寄付します言うても断られるのに」
「え、なんでや」
「誰も買うかいな。それでも700坪も宅地があるから、固定資産税だけは高いのに払てるんで、アホらしいて…。役所に土地を寄付します言うても、断られるんやで」
「なるほど。役所に寄付されたら、固定資産税がなくなるわけや」
「そうやがな」
「隣の田んぼはどうしてんの?」
「近所の人にお任せで、耕してもうてる」
「農地は耕してたら、固定資産税かからんから、ええねんな」
「そうそう」
「帰らへんのか」
「帰っても、何もないもん」
「ほう、これで九州の人口は1人減ったわけや」

という会話が続いた。

これで、九州の人口が1人減った。
いや、関西に出てきた時点で減っていたのだが、いつかは田舎に帰るという選択肢がなくなって、名実ともに1世帯の人口がいなくなったということだ。
こういうふうにして、地方に限界集落が増えていくんだろう。
しかし、役所に宅地を寄付すると言っても、断られるのには恐れ入った。
喜ばれるのかと思ったが、寄付されても使いみちを考えないといけないし、固定資産税は減るし、困るということなのだろう。

彼が生きている間に家と土地は処分されるだろうし、戸籍上も九州とは縁が切れるだろう。

地方は集約して、コンパクトな都市を作らないと、生きていけない。

数年前、JR四国を辞めて、地方の合併でできた市の公務員になったという若い人がいたが、あの人たちは10年や20年のスパンで物事を考えていないことがよくわかる。
今の地方の公務員はもはや安定した仕事ではない。
どちらかというと、敗戦処理の負け戦を戦うという感じだ。
これが一番難しい。
自治体の人口が減り、産業がなくなり、限界集落が増えてくると、町には公務員しかいなくなるんだろう。
それをどうやって防ぐか、どういう施策を取るのか、考える公務員がいない。
長らく、国の地方交付税で生きてきたから、何も考えない。
それでも、定員だけは確保してきた。
これからどうするのか、考えないといけない。
でも、考えられない…

農地を集約して、大規模な農業を株式会社ででもやるとか、何か考えないと地方は生きていけないと思う。
国に頼っていても、国も助けるほどの財源がない。

それを規制している法律や、それを阻む農協などを潰していかないと、生き残れないぞ。

そんなことを電話の後に考えた。


| | 考えたこと | 20:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
老いの道 河合隼雄 読売新聞社
心理学者の河合隼雄が1991年の1月から6月まで、読売新聞の夕刊に連載したコラム集。

今から25年ほど前であるが、この頃からもう「老い」が話題になっていたということだ。
今ほど切実ではなくて、まだまだ余裕があった頃だと思う。

最初のコラムが、「話が違う」という題。
現代の老人問題を町内の運動会の500m走に例える。
500m必死で走って、やっとゴールインというところで、役員が出てきて「すみません800m競争のまちがいでした。もう300m走って下さい」というような状態が老いの問題だという。

「人生50年と教えられ、そろそろお迎えでも来るかと思っていたのに、あと30年あるというのだ。そんなことは考えてもみなかったことだ。昔も長寿の人が居たが、それは特別でそれなりの生き方もあった。ところが今は全体的に一挙に人生競争のゴールが、ぐっと遠のいてしまった。」

面白い例えだ。
1991年当時の老いの問題というのは、こういうものだった
今はニュアンスが変わったと思う。
みんな800m走らないといけない、と言われている。
でも、走るために必要な水や靴などは足りないぞ、という状態だろう。

「心はどこに」という項では、死が近づいてきた患者は、部屋に入ってきた人の心がどこにあるか、わかるようになる、ということを書く。
これは講演でも言っていた。
看護婦さんが検温の結果や様子を気にかけてくれるのだが、心が部屋の外に居るままの人がいる。
それに対して、ある看護婦さんは、その人が部屋にはいってくると、「本当に傍らに居てくれている」と感じるらしい。
外見は何も変わったところはないのだが、その人の心がどこにあるか、「こうして寝てばかり居る者には、本当によくわかるのです」ということだ。
死が近くなると、真実が見えるようになるらしい。

こんな話が110話出ている。

河合隼雄は1928年生まれ。
だから、この本を書いた時は63歳だった。
これを書いた1991年の15年後、2006年に脳梗塞を起こして、ほぼ1年後に79歳で亡くなった。

最後は文化庁長官という公職について、高松塚古墳の壁画の劣化問題でストレスがたまって、脳梗塞を起こしたんだと思う。

日本の文化について、これから遠慮なく語ろうというところで亡くなってしまった。

文化庁長官というような役職につかなければ、きっと、もっと長生きしていたのに、と悔やまれる。



| | | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
地上波の劣化
何度か地上波が劣化したという悪口を書いてきたが、今の地上波は一体何を放送しているんだろうか。

ためしに、月曜日のMBSの番組表を見てみた。
だいたい5時くらいから夜中の12時までの番組だ。

5:00-5:30 はやドキ!:朝のエンタメ情報の情報番組。
5:30-8:00 あさチャン!:朝の情報番組
8:00-9:55 白熱ライブ ビビット:ニュース・芸能情報の情報番組
9:55-10:54 よりどりマーケット:情報番組
10:54-11:00 ほし☆おび:通販
11:00-13:52 ひるおび!:業界初!飛び出す新聞 情報番組
13:52-13:55 ごごネタ!美飾くらぶTV
13:55-17:50 ちちんぷいぷい:今を関西目線の情報番組
17:50-18:15 Nスタ ニューズアイ:大型報道番組
18:15-19:00 VOICE:特集ニュース
19:00-20:54 オクノテ:西田敏行率いる「オクノテ商事」バラエティ
20:54-21:00 フラッシュニュース
21:00-22:54 月曜ゴールデン特別企画「水戸黄門スペシャル」ドラマ
22:54-23:53 NEWS23:ニュース

見てみると、5時半から夕方の7時までは情報番組のオンパレード。
情報番組というのは、昔のワイドショーのことだ。
どこの局も似たりよったりなんだろうと思う。

今の情報番組の形式は、司会がタレントであったり、アナウンサーであったりする。
その司会がニュースを紹介する。
番組によっては、別の人が新聞そのものの切り抜きを紹介しながら(取材さえ要らない)、ニュース素材を説明する。
そして、何人かの芸人やタレント弁護士や学者が並んでいて、わちゃわちゃ言う。

この情報番組というやつは、非常に制作費が安いと思う。
よほど地上波は儲からないのだろう。
午前5時半から夜の7時まではニュースと情報番組で占めている。

アナウンサーは専門知識など求められない商売だが、それがまるで評論家のように話している。
局アナはテレビ局の給料で働くから、ギャラは要らない。
だからアナウンサーを使う。
どんな話題であっても同じコメンテーターだ。
専門など問うていない。

コメンテーターとはよく言ったもので、文字通り無責任にコメントをするだけだ。
専門性は却ってジャマになるのかもしれない。
専門的なことを話されても、わからない人が多いのだろう。
それを噛み砕いてわかるように説明できる専門家は、池上彰のようにギャラが高い。
だから、必然的に庶民のレベルのコメントしか出ない人が雇われる。

昔深夜のテレビ番組で、どちらかというとバカな答えばかりしていたタレントがコメントしていたりする。
あれ、いつからこんなお笑い以外のことをしているのか、とビックリする。

そういう情報番組になると、どうしてもポピュリズムに陥ってしまう。

ポピュリズムのWikipediaの記述に、「1990年代以降の日本ではマスコミ等で、「複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始し、真の政治的解決を回避するもの」として、ポピュリズムを「大衆迎合(主義)」と訳したり、「衆愚政治」の意味で使用した例が増加した。」と書いてあるが、まさにそういうことが起こっている。

たまに見ていると、情報番組では、まさにそういうことが言われている。
複雑な問題を単純化して、善悪に分け、善を持ち上げ、悪を攻撃する。
まさに、庶民感覚になる。

世の中はそんなに単純ではない。
そういうことを言うのがマスコミの仕事だと思う。
「戦争より平和の方がいい」というのは誰もが思うことで、何も言っていないのと同じだ。
そこを一歩踏み込んで、平和を保つために何が必要かという議論をしないといけない。

それを怠って、ポピュリズムを煽っている。
真の専門家は、今の地上波の情報番組をバカバカしいと思っているのだろう。
今の国会を見ていても同じことだが…。

国会議員も地上波の情報番組を見ているのかもしれない。

このポピュリズムにどんどん毒されていく。

これと同じことを、マスコミは戦前もやっていた。

世も末だ…。



| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
なでしこジャパン
女子サッカーは、ワールドカップの準決勝を勝って、決勝まで行く。
たいしたものだ。

何が感心するかといって、勝った後のインタビュー。
出てくる選手がみんな変に肩の力が入っておらず、冷静にチームとしてのコメントと、自分としてのコメントを話す。
別に打ち合わせしているわけではないだろう。
こういうコメントを選手たちが言えることが、強さの元なんだと思う。

どうして女子はこういうコメントができるんだろうか。
純粋に勝つことを目標をしているからだろうか。
男子のように、大きなお金が動かないから、肩の力が抜けてコメントできるんだろうか。
それとも、女子のほうがオトナなんだろうか。
必要以上にチームをアピールすることもしないし、もちろん過度に自分をアピールすることもしない。
抑制の効いたインタビューで、聞く方のアナウンサーの方が興奮しているようだ。
聞かれている方に余裕がある。

男子のインタビューを思い出すと、誰ということではないが、必要以上にアピールしていることが多かったと思う。

まあ、女子の方がワールドカップの格上だから、と言ってしまえばそれまでなんだが…。

でも、ぼくはこの強さと、インタビューの受け答えは関係があると確信した。

さあ、いよいよ決勝はアメリカ戦。

ディフェンディング・チャンピオンとして、頑張ってほしい。




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今日から7月
もう今年も半分過ぎた。

ついこないだ正月だった、という感じだが、実に早い。
もうすぐ暑い暑い夏が来て、残暑があり、短い秋があって、冬になって、クリスマス、正月だ。

今日は雨が降って涼しかったが、これも長続きはしないだろう。
今年はいろんなところで噴火もあるし、何となく天変地異が起こりそうな予感もある。
ひょっとしたら、地震もまたあるかもしれない。

そんな状態だが、一応景気はいいみたいだ。
学卒の就職率も上がったし、少子化だからこれからどんどん売り手市場になるはず。
あるレベル以上の学生は、だが。
輸出企業は円安で潤った。
中小企業は円安で原材料が上がり、困っているが、それでも原油安のカミカゼが吹いて、ちょっとはマシだろう。

相変わらず、国の借金は止まる様子がない。
これは心配だ。
新聞によると、骨太の方針を閣議決定したとのことだが、社会保障費は増えていく。

どこかで、ギリシャみたいに信用がなくなって、国債の金利が上がると、きっと地銀や信金は潰れる所も出るだろうなあ。
もっと民間に投資すればいいのに、国債ばかり買っているからだ。
経済成長すればいい、という話だが、そんなに成長するだろうか。
規制をやめるとか、自由化するとか、もっと抜本的なことをしないと、成長など難しいのではないかと思ってしまう。

株はみんなが年金のために積んだお金で買っているから、なかなか下がらないだろう。
でも、年金をもらう人が増えているから、どこかで売らないといけない。
売ったら株は下がる。
どこでどうなるのか、これはわからない。
年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)みたいなところが、そんなに株を買ってもいいんだろうか…。
まあ、よくわかっている人がやっているはずだから、何とかなるんだろう。

ということで、今日から2015年の後半戦。

阪神タイガースはどういうわけか、首位である。
なでしこジャパンは、明日イギリスと対戦。
イギリスは強そうだが、大丈夫だろうか。
錦織は膝に爆弾を抱えながらも、ウィンブルドン2回戦進出。
イチローはマーリンズで控えだが、代打で試合に出ている。

そういえば、新幹線の中で焼身自殺があった。
71歳の男性。
高齢化が進むと、わけのわからないことが起きる。
なんで新幹線の中でやるのだろうか。
迷惑も甚だしい。
窓が開けばよかったんだろうが、開かないから回りの人たちが大変だった。

あんまりいいニュースがない。

昨日BSを見ていたら、どこかの局でアグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」という歌のことをやっていた。
あの歌は松本隆の作詞だが、この歌詞に秘密が盛り込まれていたという話。

あなた草の上
ぐっすり眠ってた
寝顔やさしくて
好きよってささやいたの

この頭の文字をとると、あ、ぐ、ね、す、になるということだ。
アグネス・チャン自身も気づいてなくて、20年ほど経ってから松本隆に言われて感激したとのことだった。

これはちょっといい話だった。

こんな話、年寄りでないと受けないだろうなあ。
だから、BSでやったのか…。

相変わらず地上波はひどいと思う。
朝から夕方まで情報番組かニュース、夜は安い芸人を並べたバラエティか、セットが簡単な安上がりのドラマ、そしてニュース、深夜のバラエティ…。
またこの情報番組というのがひどい。
ほとんど見ないから、別にいいんだが、たまに映っているのを見ると腹が立つ。
年を取って、気が短くなったのかもしれない。

とりとめがなくなってきたので、もうやめる。

みなさん、後半戦も頑張ってください。




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