考えたこと2

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4月も終わり
今日で4月も終わり。

明日から5月。もう始まっている人もいるかもしれないが、ぼくはカレンダー通りなので、いよいよゴールデンウィークが始まる。

季節も春になり、過ごしやすい季節。
理想的な休みの環境だ。

特に計画はない。
家でのんびり過ごすことにする。

読みたい本もたくさんあるし、家の近所で行きたいところもある。
ギターの練習もしないといけないし、録りだめた映画もあるし、片づけもしないといけない。
古いTシャツやもう着ない冬物は思い切って捨てようと思う。
古本屋に持っていきたい本もある。
飾らないといけない写真もあるし、観葉植物の水やり用に霧吹きも買ってこないといけない。
洗車もしないといけないし、運動もしないといけない…

意外とやることがあるのか…、のんびり過ごせそうにないような気がしてきた。

とはいっても、休みは休み。

何もしなくても、時間は経っていく。

あと1日、頑張ろう。


| | 考えたこと | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
観葉植物
買い物に行って、ついでに観葉植物を買った。

直径10センチ、深さ8センチくらいの瀬戸物の容器に人工の土みたいなものに植えられている。

小学校で朝顔の観察をして、クロッカスの球根を育てた。
それ以来だ。

全然興味はなかったのだが、何となく目にとまって、ほしくなった。
よく日のあたる窓際に置いて、今日から世話をすることにする。
1センチくらいの丸い葉がたくさん生えている。

世話をするといっても、何日かに一回水をやるだけだ。

葉っぱだけとはいえ、たくさん並んでいる中から選んだのは、何かの縁だろう。
植物というカタチの命。

地球上に酸素があるのは、長い間かかって植物が酸素を出してくれたおかげ。
それがなければ、今の形の動物はいない。

1カ所にとどまって、動かない。
心があるのかどうかもわからない。

でも、何となく観葉植物を育てる人の気持ちはわかったような気がする。



| | 考えたこと | 21:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
明るさの価値
しばらく暗い話題が続いたので、今日は明るい話題でいこう。

「明るい」という事の価値は今も高いと思う。
暗いという言葉は、どちらかというとネガティブなイメージであり、明るい、というのはその反対にポジティブなイメージだ。
「明るい人」というのはほめ言葉だし、「明るい性格」というとよい方に見られる。

これはぼくが小学校の頃から変わらない。

「明るい」というイメージは、「親切」と重なりやすい。
「明るくて親切な人」というのはありだが、「暗くて親切な人」というのはどうもぱっとしない。
明るい人が親切とはかぎらないし、暗い人が不親切ともかぎらないのだが、イメージはそうだ。

明るいというのがいいイメージなのはなぜだろう?

初対面でも話しやすい、つきあいやすい、というのはあるかもしれない。
楽しそうだ、というのもあるだろう。
でも、ゼッタイにこれ、というのはない。

さらに日本人だけでなく、洋画などを見ていると、やっぱり明るい方がよい、という価値観がありそうな気がする。

結局、理由は何にせよ、人間は明るい方がいいのだ。

それは、人間が社会で生きているからなのかもしれない。
人間は一人では生きられない。
明るさの価値は、そんなところから来ているのだろう。
結局明るい方が社会に適応しやすいということだ。

別に明るい話題ではなかったが…。



| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和32年
昭和32年というと、ぼくが生まれた年。

よく考えたら、終戦が昭和20年だから、戦争が終わってから12年しか経っていない。

ぼくがものごころついた時には、戦争などあとかたもなかった。

阪神大震災から10年、神戸の街はきれいになったが、当時の神戸は震災どころではない状態だっただろう。
神戸も空襲があった。
それから思うと、よく復帰したものだ。
重機も少なかっただろうし、人手だって足りなかっただろう。

ものごころつくのに4年かかるとして、16年か。
いまだに、本当に戦争があったということが信じられない。

昭和20年に終戦を迎えた。
ぼくらは戦争を知らない子どもたちだ。

でも、今は戦争を知らない子どもたちを知らない子どもたちの時代。

しかたがない事だが、これでいいのだろうか。

おとなりの韓国や中国はそれを語りついでいるのに、日本では教育もしない。
第二次大戦に対するスタンスも決まらない。

この状態でアジアとうまくやっていけるのだろうか。

謝るとか、もう終わったとか、そういうことではない。

日本人があの戦争をどう位置づけるのか、それが問題だろう。

戦争は悪いとか、平和が大事だとか、そんなことではないのだ。

それが問題だろう…。


| | 考えたこと | 01:19 | comments(2) | trackbacks(0) |
続 夢のない時代
ぼくらが会社に入った頃は、明日は今日より豊かになる、という漠然とした了解があった。
とにかく、待遇がよくなるのだ。
無邪気にそう思っていた。
だから、何となく明るかった。

欲しいものは、いつか手に入る、という気がしていた。
もちろん、クルマ、クーラー、カラーテレビは当たり前の時代。
1980年〜90年代。右肩上がり。
しんどかったが、会社は仕事をやればやったで、どんどん規模が大きくなった。

そんな時代に「夢があった」、と言えるのかどうかわからない。

バブルを迎えて、地価が上がり、ゴルフの会員権が上がり、株が上がり…、何となくオカシイと思いはじめたが、もう止まらない。
世の中が狂騒状態だった。

金融機関が人をとった。理系もたくさん銀行や証券に行った。今ごろどうしているのだろう。

そしてバブル崩壊。
公的資金が注ぎこまれる。

銀行は反省すべきだ。
土地自体は何も生み出さない。
何も生み出さないものに投資し続けて、はじけてしまった。
もちろん、アメリカの言いなりになって、お金をだぶつかせるという政策もあった。

飯田経夫という経済学者がいたが、これだけ豊かになって、これ以上何を求めるのだろう…と言った。

あの時代、夢があったのだろうか。

本当の夢はなかったのかもしれない。
みんなが浮かれて、それこそ泡のような夢を見ていた。

そう思えば、本当の夢はいつの時代も同じだ。

夢に向かって本当に努力する人だけが、夢を口にできる。

その数は今も昔も変わらないのではないか。

夢は個人のものだ。

暗い時代に押しつぶされてはいけない。




| | 考えたこと | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
夢のない時代
今は社会に夢のない時代。

ぼくらが小さな頃は、末は博士か大臣などと言われ、博士や大臣になるのが夢とされていた。(ぼくらがそう思っていたワケではない。)

今、博士も大臣も夢とはされていないだろう。

博士は1万6000人がちゃんとした仕事に就けずにいる。
というか、ちゃんとした仕事に就けない人が、博士になる…という逆説も成り立つだろう。
今の博士には、昔の博士のような意味はない。
課程を済ませ、論文を書いて、いい加減な査読を経て博士になる人もたくさんいる。
本人は悪くない。回りが悪いのだろう。

大臣もそうだ。
テレビで出てくる大臣といえば、酔っぱらって会見したり、謝っていたり…、
とてもエライとは思えない。
これは、エライ人が大臣になっていないということか。
二世議員の規制など言われているが、選ぶ人がいるのだからしかたがない。

核家族化が進み、夢も拡散してしまった。

ぼく自身が子どもの頃は、マンガ家になりたかった。
プロダクションを作って、アトムのようなSFのアニメをやりたかったのだ。

それから、ギタリスト、シンガーソングライター、作家…、二十歳をちょっと超えたところであきらめて、サラリーマンになった。
それでも、まだ社会に夢があった。
明日は今日より豊かになる。
マジメにやっていれば、きっといいことがある。

夢というのは、結局その時一生懸命にやってれば、何かしらあるものだろう。
意識などしなくてもいい。
結局「夢」なんて、考える時はろくな時ではないのかもしれない。

今は社会に夢がない。
明日は今日より豊かとは限らない。

それを何とかするべきなのが、博士と大臣だと言われていたのだが…。



| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
つばさ
朝のドラマが変わった。

つばさという20歳の女の子が主人公。

でも、主人公よりもつばさを引っぱるオジサンがいい。
世を拗ねたようなオジサンだが、心に秘めたものがある。
官僚が前例にとらわれて、本気で何もやらない…ということがイヤになり、役所をやめたという設定。
よくあるパターンだが、役者がうまい。
ひょんなことから、そのオジサンの手伝いをすることになるつばさ。
オジサンは言う。

「人は変わるために生きている」

夢を実現したい、という若い人たち。
自分は変われるかなあ…と悩む。

「簡単だ。オレみたいに自分が絶対にやらないことをやってみればいい」

そういって、コミュニティFMの開局にこぎ着ける。

つばさのことをイモと呼んでいるのだが、ラジオ局の名前が「ラジオポテト808」。
ポテトがイモのことだと気づくつばさ。

「オマエがいなかったら、ここまで来られなかったからな」

こういう展開。

今回は東京の制作。「若者の夢」というのがどうもテーマらしい。

それで、題名が「つばさ」なのか。

今は夢のない時代。
この時間、あまり若い人は見ないだろうが…。

夢をどう描くのか、楽しみだ。


| | 考えたこと | 11:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
Ladies and gentlemen
英語でオープニングの決まり文句は、Ladies and gentlemen。
お集まりの紳士淑女のみなさん…という意味だ。

これがなぜ紳士淑女なのか。
おかしいと思いませんか。

英語の語順は、淑女紳士なのに、普通は紳士淑女という。
これは、明治時代の名残なのだろうか。
明らかに、順序が逆転している。
女性に参政権がなく、男性が強かった時代。(本当の事はわからないが…)

今までLadies and gentlemenを、紳士淑女と訳していて、おかしいと思わないといけない。
でも、淑女紳士と訳したら、バツをつけられそうな気もする。

そんなに深い意味はない、という人もいる。
単にGentlemen and ladiesとは言いにくいだけ、ということらしい。
まあ、確かに逆は言いにくいような気がする。
でも、耳になじんでないだけで、どっちでもいいような気もするけど…。

紳士、淑女という言葉は、元々の日本語になかった言葉ではないか。
英語が先にあって、その訳語としてできた。
もしそうなら、やっぱり意図的に紳士が先、という事になったんだろう。

こういうちょっとした訳語に、文化は表れるのだと思う。
そして、それは気づきにくいものだ。
ぼくも長いこと紳士淑女と訳していて、何の疑いもなかった。
こういうところに、すっと気づく人になりたい。

それが、語学のセンスなのかもしれないなあ。



| | 英語 | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
歯医者
数日前から気になっていたが、だんだんと痛みが出てきた。
左の奥歯。歯医者に行かないといけない。

こないだ新聞に出ていたが、歯医者が多すぎて、歯科医になろうとする人が減り、歯科医大が困っているとのこと。
学生が半分くらいのところがたくさんある。

コンビニの数よりも歯医者の数の方が多いらしい。
ほんまかいな…と思うが、たしかに歯医者の数は増えた。
ウチの近所でも、つい最近開業した。
コンビニは田舎に行くと少ないから、総数でいうと歯医者の方が多いのだろう。

潰れるところも多いと聞く。
設備投資が大きいからなあ。

あの上がったり下がったり、ねたり起きたりするイス。
コンプレッサーとその空気で動いて歯を削る機械。
先につけるヤスリも種類がたくさんある。これは消耗品だ。
レントゲンもいるし、歯科助手が使う機器もある。
そして、詰め物や型どり、麻酔もある。
けっこうな値段だろう。

おまけに、うまい下手がわかる。
入れた詰め物がすぐにとれたり、かみ合わせが悪かったり、痛みが止まらなかったり…。
一度エライ目にあったら、二度と行かない。

そういえば、代わりの歯医者はすぐに見つかるなあ。
やっぱり歯医者の数は多いのだ。

今行っている歯医者は15年くらい前から通っている。
抜くのがうまい。

ただ、先生が年を取って、講釈が多くなったのがちょっと…。

まあ、しかたがない。

土曜日に予約するか。




| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
原因は不明
昨日突然インターネットの回線が切れた。

何度メールのパスワードを入れても「エラー」と言われるし、どないなっとんねん、と思い、インターネットにつなげようとしたら、つながらない。

線を抜き差ししたり、スイッチを切ったり、ルーターという中継の機械の電源を落としてみたり…、どうしてもつながらない。

こういう時には、「問題の切り分け」が必要だ。
ウチはケーブルテレビの回線だから、そこの機器が悪いのか、ルーターが悪いのか、それとも配線が悪いのか、はたまたパソコン本体が悪いのか…、どこが悪いのかをつきとめなければならない。

いろいろ調べた結果、どうもパソコンがおかしいということになった。
システムの復元をやってみたり、立ち上げなおしたり…、どうしてもうまくいかない。
これはソフトが悪いのかな…、と思いつつ昨日は寝た。

今日もう一度やってみた。
やっぱり昨日と同じだ。
古いノートパソコンを持ってきてつないでみようとするが、そのパソコン自体がおかしくなっている。
もうダメかな…、と思って、コードをノートパソコンから抜いて、デスクトップのパソコンに差した。

なんと、つながったのだ。

原因は不明である。

でも、直ってしまったら、当たり前のように動く。

何となくこわい。こういう時は故障の前兆だ。

明日はバックアップを取ることにして、今日は終わり、

何となく納得がいかないが、パソコンの世界ではよくあること。

しかたない…。




| | 考えたこと | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
知識と知恵
知識は書物を読んだり、勉強したりして得ることができるもの。
知恵はそれらをどうやって使うかというもの。
知識は読書や勉強というパターンに従って得られるから、入手の方法としては楽である。
知恵はパターンが決まっていない。経験が重要である。
ずっと部屋にこもって、同じことばかりしている人が知恵を得るのは難しい。
だから、知識と知恵を両方持つのは難しい。

人間は一定のストレスがかかった状態でないと、知恵が得られないのではないか。
できるだけ多方面のストレスが望ましい。
それで潰れてしまうほどのものではなく、さりとて軽いものでもない。
使命感とかやりがいにつながるものが望ましい。
そこから知恵が生まれるような気がする。

知恵と知識は両方とも重要だ。

でも、ぼくはどちらかというと知恵の方を重視したい。


| | 考えたこと | 21:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
Q.E.D.
Q.E.D.という言葉、数学で使われる。

意味もわからず使っていた。
きっと、説明されたのだが、忘れたのだと思うが…。

証明をして、それが終わったら、Q.E.D.と書く。
これは、ラテン語でクォド・エラート・デモンストランドゥムと読む。

wikipediaによると、意味は「それが証明すべき事であった」ということ。
英語に文字通り訳すと「which was to be demonstrated」になる。

demonstrateというと、示威運動するとか、実演するという意味だけではなく、証明するという意味もあるらしい。

なぜラテン語のQ.E.D.という言葉だけ、数学で習うのか、よくわからない。
日本語で「証明終わり」と書いてもいいのだ。

これ以外に、ラテン語が出てくることはないのではないか。
このQ.E.D.だけなんで使うのだろう。

むかし、数学者が中学の教科書を作る時に、これは外せないと言ったのだろうか。
それとも、証明というものに特別な思いがあったのだろうか。

ネットでいろいろ調べたが、理由はわからなかった。

今の教科書にも載っているはず。

誰か、知っていたら教えてほしい。

それにしても、なんとなくエレガントな言葉だ。



| | 考えたこと | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
机の上に升がある。

以前勤めていた会社で、あるイベントの記念で配られたものだ。
職場を変わってからもずっと置いてある。
不思議なもので、机の上に升を置いていても、誰も不思議がらない。

当然、木でできた升で、一合升。
そんなに大きなものでもないし、かれこれ20年以上机の上に載っている。

底が赤くなっているところをみると、一時はハンコを置いていたのだろう。
何を入れていたかも定かでない。

当時は、平社員だった。
そのイベントでは、ぼくは3人のチームになり、長期ビジョンというものを作らされた。
工場関係の部長、営業関係の課長、そして技術の平社員のぼく。
そんなメンバーで作る長期ビジョンなど、いい加減なものだ。

それでも、あれこれ調べものをして、色々な統計をみて、需要予測をしたり、その時に我が社のシェアはどうなっているかというような事も調べた。
この時期にこれだけシェアをとるためには、もう2つ3つ工場がいるなあ、とリーダーの部長。
そしたら、どこに作りましょうか、と営業の課長。
日本ではないなあ、労働コストが高いから…、思えば当時はバブルが始まっており、中国やアジアの国々はまだ今ほど工業化が進んでいなかった。

思えばあの頃から、日本の企業は海外進出をはじめたのか…。

資本主義のリクツでは高くても、良いものは売れるはずだ。
もしもあの頃、日本の企業が結託して、やっぱり日本国内で留まっていよう、日本製品を海外で作るのはやめよう…、と言っていたらどうなっただろう。
もちろん、競争の原理で、誰かが労働コストの安いところに行って、日本で設計された製品を作り、逆輸入し始めるからそんなことは起こらないが…。

日本の製品は、高くても、買い手がついただろうか。
いつまで、もっただろうか。
Made in Japanはすごい、Made in Chinaより高くても、買おう…、ということにならなかっただろうか。

実際には、日本人はあれから海外進出して、苦心して日本のレベルの製品を海外で作ろうとしてきた。
その結果、ある程度はそれは成功した。
しかし、技術も流出した。

そして、今に至っている。
輸出産業が打撃を受けて、青息吐息になっている。
結果的には海外に進出して正解だった、ということになる…。

でも、日本でしか作れないものなら、輸出産業の打撃は小さかったのではないだろうか。

今でも、真のナンバーワンの製品は、日本製だと思っている。
その、モノ作りを支えてきた人たちが定年し、後を継ぐ人がいないという問題はあるが…。

ここで途切れてはいけない。
モノ作りは必要だと思う。
日本が高い生産性を誇り、同時に高い品質を誇れるものは、いま打撃をうけている輸出産業のモノ作りしかない。

頑張ってほしい。




| | 考えたこと | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ふたりうた
茉奈・佳奈の「ふたりうた」というCDを買った。

朝のドラマ「だんだん」で歌っていた曲が入っている。
カバーの曲ばかりだ。
「赤いスイートピー」「恋のフーガ」「渚のシンドバッド」「守ってあげたい」「白い色は恋人の色」「上を向いて歩こう」「あの素晴らしい愛をもう一度」「恋のバカンス」「待つわ」「けんかをやめて」「M」「やさしい悪魔」「secret base 〜君がくれたもの〜」、そしてボーナストラックの「シジミジルのテーマ」。

ドラマでは双子ならではのハーモニーでヒットする、という設定だった。
たしかに双子のハーモニーはイイと思う。

「赤いスイートピー」と「やさしい悪魔」が秀逸。
赤いスイートピーは松田聖子のイメージを残して、ハモリがいい。

やさしい悪魔はキャンディーズの曲だが、スゥイングでやっていて、この曲のイメージが変わった。
こんな曲だったのか、という印象。

全体にドラムが出しゃばって、レトロな感じがする。
オカズのフレーズが多いのだ。
昔の曲はそういうアレンジが多かった。

今の曲は、ビートを刻むという役割にもっと徹している、…と思う。

ただ、そんなにうまいというワケではない。
ドラマのとおり、双子だから売れる…、一人では売れないということだ。

本人たちは、どう思っているのだろう。
二人揃って、初めて魅力がある。

双子の宿命みたいな感じかな。

でも、それに満足しているような歌だ。



| | 音楽 | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホームドラマ
一体、ホームドラマというのは何を指すのだろうか。
定義は難しいけれど、一応現代の家庭風俗をテーマにしたドラマである、とする。
すると、おかしなことがいっぱいある。

まず、食事の場面。
テーブルに背を向けて座っている人がいない。
コの字型に座って食べている。
どう考えても不自然だろう。
カメラを置く場所を考えると仕方がないのはわかる。
暗黙の了解というヤツか。

また、テレビを見ている場面がほとんどない。
一般家庭では家族そろっている時間には、たいがいテレビがついているだろう。
だいたい、テレビという家具もあまり出てこない。
置いてあるのが普通なのだが…。
1人1台という家庭もあると聞く。

そして、今や90%以上の世帯普及率を超えたインターネットだが、これも出てこない。
テレビというメディアにとっては、仇だからだろうか。
まあ、だまってパソコンの前に座ってネットに接続しているところは、絵にならないだろう。
しかし、数人でワイワイ言いながら囲むとしたら、テレビよりもネットの方が絵になる。

でも、そのうちホームドラマはなくなるのではないか。

家族のステレオタイプがなくなるからだ。

いろいろな家族がある。

だから、万人に共通の家庭像がなくなる。

1人1台のテレビに1人1台のパソコン。

コンビニの弁当、カップラーメン。

そして、みんなの共通の理想像がなくなれば、ホームドラマは成立しなくなる。

そんな時代が来なければいいのだが…。


| | 考えたこと | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
むずいとはずい
最近の若い人(この言い方は何となくイヤだが)は、言葉を省略するのが好きだ。

「むずかしい」というのを「むずい」という。

ウチの子どももよく使う。最初は「むずかしい」と言い直していたが、最近はあきらめた。

こないだ、漫才を聞いていたら、「はずかしい」のことを「はずい」と言っていた。
「むずかしい」が「むずい」、「はずかしい」が「はずい」…、そういうことか。

〜かしい、というのが略される。

だからといって、「おかしい」が「おかい」「おしい」になるわけではない。
「おしい」になったら、意味が通らないし…。

「〜ずい」というのが言いやすいのではないか。
「まずい」というのと同じだ。

そうなると、「○ずかしい」という言葉が対象になる。

ということは、2つしかない。
「むずかしい」と「はずかしい」だけだ。

「むずい」を聞いて、どんどん新しい略語ができると思っていたが、このパターンはこれで終わり。

「むずい」と「はずい」。

そのうちにこれも辞書に載る日が来る。



| | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
A3用紙
会社にいたころ、机の上にA3の紙をよく置いていた。

A3のプリントアウトを失敗したり、コピーを間違ったりしたら、それを裏向きに置く。

だいたい、机の上をきれいにするのは得意ではない。
ものがあふれている状態が普通だ。
そこにA3の白い紙が載っている。

メリットは何かというと、すぐにメモが書けること。
そして、領域が広いから消さずにどんどん他のメモも書ける。
だいたい、一杯になったら、ざっと見渡して、要るメモがなければ捨てる。
要るメモがあれば、新しいA3用紙に写す。
なんだかばからしい事をやっているようだが、これはこれで良い。

机の上の白い紙。
これはなかなかいいものだ。

仕事を変わってから、何となくそれはやめた。
そんなにメモを書くことがないというのが一つ目の理由。
回りにそんなことをする人がいない、というのが二つ目の理由。

会社にいた頃は、常に机の上がきれいで、すぐに書類が出てくるファイリングがうまい後輩が、このA3を置くというのをやっていた。
それを真似したのだ。
いくらそれだけ真似をしても、机の上はきれいにならないし、ファイリングもちゃんとできない。

きっと見切るのがうまかったんだろうと今は思う。
要らない書類はすぐに捨てる。
自分に関係があると思われる書類はすぐにファイルする。

どうしよう…と迷っているのが一番ダメだ。
どんどんたまっていく。

そこまでわかったが、やっぱりできない。
これは性格だろう…とあきらめている。

でも、A3用紙を置くというのは、またやろう。
それだけなら、簡単に真似できるし、効果もあるのだ。

そんなに大きな効果ではないが…。



| | 考えたこと | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
コンピューターミュージック
コンピューターミュージックといえば、音を数字で表して、それをいろんな音色と組み合わせ、曲を作るものだ。

必ずしも数字で表す必要はないが、結局は数字になる。
音の高さ、音符の長さ、音の長さ、音の強さ…、そういうものを数字で表す。

実際に弾いて、それをそのまま記録するという方法もある。

人間はいい加減なもので、全てをぴったりと数字で割り切れるようにすると、おかしく聞こえる。
四分音符をぴったりのピッチで、ぴったりのタイミングで4つ鳴らすと、文字通り人間らしくない。
だから、乱数を発生させて、ある値を中心に上下させる機能がある。
そんなふうにして、人間らしさを出す。

一時はみんなコンピューターで打ち込んで、演奏するのがはやった。
一人でできるとなると、やってみたくなるのが人情。
音色はどんどん本物に近くなるし、プログラミングして演奏しても、人間が演奏しているみたいになった。
数年前か、10年くらい前まではそれがはやった。
コストダウンもあったのかもしれない。

山下達郎や松任谷正隆などもやっていた。

でも、結局は人間がやった方がいいということになった…と思う。
ひと頃よりも、はやらなくなった。

人間に似せたプレイなら、人間がやった方が早い。

機械には機械の領分がある。
メカニカルなビートや、プログラムでなければできないようなサウンド。

不思議なものだ。

デモテープ作りなどは、すごく便利になった。
プログラミングでいろんな音を足せる。
ミュージシャンがいなくても、何とかなる。

それでも、プロの音はやっぱりプログラミングできない。

音楽はアナログなのだ。




| | 考えたこと | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
最大の娯楽
「人間の最大の娯楽はコミュニケーションだ」…元ソニーコンピューターエンターテイメントの社長、久多良木健氏が99年に言った言葉。

これは真実だと思う。
残念ながら、それを具現化する道をプレステが歩んだとは思わないが…。

誰かに認められること、誰かを認めること、誰かを尊敬すること、誰かとつながること、誰かのためになること…、そんなことが生き甲斐になる。

娯楽もそれに付随するものだ。

一番「楽しい」と思えるのは、気のあった仲間と会ったり、飲んだり、食事したり、おしゃべりしたりすること。
文字通り、最大の娯楽だろう。
これ以上の楽しみは考えられない。

でも、そのためには何かをしないといけない。
認められるもの、尊敬されるもの、ためになること…、何であってもかまわない。
ただ、その目的が、認められようとか、尊敬されようとか…そんなものであってはいけない。
それが、仕事になれば、一番いい。

書くと難しいようだが、そんなに難しいことではない。
当たり前のことだ。

ただ、「人間の最大の苦しみ」もコミュニケーションから来るから難しい。

誰かと行き違うこと、誰かから認められないこと、誰かから尊敬されないこと…。

結局、人は一人では生きられないということだ。



| | 考えたこと | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
98年7月8日
98年の7月8日のメモが出てきた。
なつかしい。
もう10年以上前になる。

なぜ歴史の教科書のはじめに、なぜ歴史を学ばねばならないか、の説明がないのか?

ということが書いてある。

ここにも何度か書いたかもしれないが、歴史を学ぶ意味は何かということだ。
過去にあったことは、ほとんど未来に起こる。

だから、歴史を学ぶのだと思う。

人類は進歩してきたかもしれないが、人間は進歩していない。
人間は同じマチガイを犯す。
そこがなかなかわからない。

いくら時代が進歩しても、生まれた時は同じだ。
1600年に生まれても、2000年に生まれても、生まれる人間は同じ。
ただの赤ん坊だ。遺伝子も今と同じ。
時代が進んでも、それは生まれてからの環境が違うだけだ。

だからこそ、歴史を学ばなければ、同じマチガイを犯す。

新しいものが必ず良いものではない。

だから、歴史は大事だ。

そういうことを知ったうえで、歴史を習わないとイケナイと思う。

| | 考えたこと | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
ごみ箱を空にする
パソコン用語というものがある。

モデムやLAN、メモリ、CPU、ハードディスク、マウス、ポインタ、カーソル、ドラッグ、ドロップ、クリック…。
わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない。
ぼくはパソコンが好きだし、少しは中味もわかるから別に困らないが、本当に困る人には困るだろうなあと思う。

いろんな笑い話がある。

「メモリはどれくらいですか?」
「目盛りというのは、どこの目盛りですか?」

笑い事ではない。

何にせよ、新しいものが生まれたら、新しい言葉が生まれる。
新しい概念や装置を名付けないといけない。
そうしないと不便だからだ。
そして、それが流通しはじめると、最初はオタッキ−な人が覚える。
なんか、気持ち悪いなあ…、と回りは見る。
わけのわからない言葉を話し、悦に入っている。

でも、パソコンのようにこれだけ普及してしまうと、もうそれは市民権を得る。
オタクだけではない。
そのさかいめを越えたのだ。
だれもがその言葉を使わないといけなくなる。

その点、携帯電話はまだマシだろう。
あまりにも早く普及したので、こなれた言葉が使われている。
着うたとか、着メロ、マナーモード、バイブ…、電話として使う分にはそんなにややこしくない。
ボタンもちゃんとわかるような絵がついている。

市民権を得たパソコンは、今や86%の世帯普及率だという。

それでも、気の毒だが、わからない人にはわからない言葉がある。
メモリとハードディスクはどう違うの?
ウィンドウズはアプリケーションかOSか?
デスクトップとはどこのこと…?

こんなの、わからなくて当たり前なのだが、86%の力だろうなあ。
何となく知らない方が悪いような風潮になっている。
ぼちぼち、世間の理解度が上がっていく。本当に遅々たる歩みだが…。

ごみ箱というアイコンがある。

デスクトップの上にあって、それらしいアイコンである。
唯一、誰でもがわかるアイコンだ。
そこにファイルを引っ張っていって捨てると、ごみ箱が一杯になったような絵になる。
じつは捨てていない。
「ごみ箱を空にする」という指令を発しない限り、残っているのだ。

これはよくできた仕組みだと思う。

時々、思い出したように、「ごみ箱を空にする」を実行する。
そうすると、もうサヨナラである。
一般的には、二度と戻ってこない。(色々取り返すソフトは出ているが…)

生活の中にあったらいい、と思うのはこの「ごみ箱を空にする」である。
イヤなこと、面白くないこと、つらいこと…、そういうことを「ごみ箱を空にする」ように簡単に忘れられたら楽だろうなあ。

でも人生はパソコンのデスクトップのように簡単ではない。

ま、それがまた面白いところでもある。




| | 考えたこと | 22:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユーミンも…
NHKのSongsという番組で松任谷由実が出ていた。

ぼくらはリアルタイムでユーミンの音楽を聞いてきた。

彼女が19歳、まだ荒井由美の時代に作った、「瞳をとじて」という曲がある。
この曲は、ある島の分校の生徒が、分校の校歌を作ってほしいと深夜放送に手紙を書いたのがきっかけでできた曲。

この島では、今でも高校を卒業して島を出て行く人を、この曲で送るという。

今のユーミンは、曲作りのために長野県の立科に行くという。
そこで、中学の美術部が写生をしているところに偶然立ち会い、仲良くなったとのこと。
そういえば、ユーミンは多摩美大出身だった。
自分も絵を描いていた時のことを思い出したのだ。

それがきっかけで、中学校の卒業式でユーミンの卒業写真を歌うことになり、そこにユーミンが参加する。
リハーサルにこっそり行って、中学生みんなが歌っているところを見る。
中学生の歌声に、自分も熱くなった…のだと思う。
一緒に卒業写真を歌い、そして本番。

ユーミンが卒業証書授与式に出席し、ゲストとして言葉を述べる。

自分は子どもがいないので、こんな場面に立ち会うとは思わなかった…。

そういって、「おめでとうございます」という。

ぼくらよりも年上のユーミンだが、そんな年齢に見えない。
でも、もう50歳は越えている。
中学生の子どもがいてもおかしくない年齢。

40代は自分で働く時期で、50代はそれを後輩に伝える時期だという。

Songsを見て、そんなことを思い出した。

最新アルバムのタイトルが「そしてもう一度夢見るだろう」。

買ってみようかな…。



| | 音楽 | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
トレイラー・ハワード
トレイラー・ハワードという女優がいる。
名探偵モンクというアメリカのドラマに出てくる。

モンクは主人公。
強迫神経症で異様にきれい好き。
その探偵の助手のナタリー。

ナタリーはモンクを助けて、事件を解決する。
時にはイライラしながら、時には正義感を表に出して。
このトレイラー・ハワードという役者、その加減が実にいい。

モンクが電信柱を一本ずつ触っていったり、いがんでいる置物をちゃんと置きなおしたり、ブロックを敷いてある道をブロックに沿って歩いたり…。

見ていてイライラする場面でも、ほどよいイライラ度でつき合う。

助手だが、時にはモンクを引っぱる名脇役。

この女優のファンになった。


| | 映画・舞台 | 00:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
Good luck and Good bye
"Good luck and Good bye"というと、荒井由美の曲。
これでもうお別れ、という時に使う言葉だろう。
曇ったバスの窓に大きく"Good luck and Good bye"と書く。

フランス語ではアデューという。
"Adieu" 神の御許で…、天国で会いましょうという意味。
次に会う時はあの世だということだ。

日本語にはこんなお別れの言葉はない。

さようならは「左様なら」であり「そういうことなら…」という意味。
これでお別れ、という意味ではない。

一神教の国と、そうでない国の違いだろうか。

英語のGood byeはGod be with meが縮まってできた言葉らしい。
やっぱり神が出てくる。

彼らにとっては、死ぬということは、神のところに行くということ。

日本人の場合は、神はたくさんいる。
輪廻の思想もある。
死は終わりではない。
だから、お別れの言葉がないのだろうか。

そうかもしれない。



| | 考えたこと | 00:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
何を言っているのか
ノンバーバール・コミュニケーションという言葉がある。
非言語コミュニケーションのことだ。

顔つき、声のトーン、声質、態度などによるコミュニケーション。
これが意外と大きい。
言葉でのコミュニケーションは、たった10%程度という記述もある。

9割が非言語コミュニケーションとは、…ほんまかいな。

しかし、そうかもしれない。
北朝鮮のアナウンサーを見ていてそう思う。

あの表情としゃべり方、大きな声、抑揚など、何を言っているのかわからないが、威圧的なことだけはよくわかる。
少なくとも、面白いことや楽しいことを言ってはいない。
知的なことでもないだろう。
そうしてみると、たしかにノンバーバル・コミュニケーションの影響は大きい。

小説を読むというのは、言語コミュニケーションだけかと思ったら、そうでもない。
話す人の特徴や、その話し方、そんなことが書き込まれている。

上手な小説家は、ノンバーバルな部分をうまく書き込んでいるような気がする。

落語家など、同じ話をしても、声の抑揚や話し方、間などで面白い話になったり、退屈な話になったりする。

だから、会って話すのが一番メッセージを伝えやすい。

その次は電話。電話ならだいたい伝わる。
自筆の手紙は、字の大きさやきれいさでニュアンスを少しは伝えることができる。
メールは一番伝わりにくい。
だから、絵文字などを使うのだろう。

ノンバーバルなコミュニケーションに気をつけてみたら、人間関係がよくなるかもしれない。

表情やしぐさなど、無意識にやっているものも多いけど…。



| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
メジャーリーグ3
メジャーリーグという映画がある。
野球をテーマにした映画はたくさんあるが、これもその佳作。
1,2,3とあるが、3をみた。

マイナーリーグのチームがメジャーリーグと勝負して勝つというストーリー。
マイナーといっても、AAA(トリプルA)だから、かなり待遇はマシだ。

アメリカのマイナーリーグは、日本のプロ野球の二軍とは違う。
ほとんどが独立の資本で地域密着型の運営を行っているとのこと。
だから、地域の人たちにコミットし、興業として成立するように必死でやる。

アメリカと日本の違いは何か?
場所が広いのだ。
カリフォルニア州一つが日本の面積の1.1倍。

wikipediaによると、AAAにインターナショナルリーグとパシフィック・コーストリーグが、AAにイースタンリーグと テキサスリーグが、アドバンストAとして、カリフォルニアリーグとカロライナリーグ、フロリダ・ステーツリーグ…。
たくさんのチームがある。

たくさんのチーム数があっても、面積が25倍もあれば、ひいきのチームを応援するのは大変だ。
飛行機に乗って見に行かないといけない。
だから、地元のチームをひいきにする。

メジャーリーグはもちろんのこと、マイナーリーグでも立派な野球だ。
その興業が独立採算で成り立つということは、野球の底辺が広いということだ。

映画の舞台はBUZZというチーム。
ミツバチのマスコットがいる。黄色と黒の縞模様。

はだかで応援している一群や、ペインティングして応援している人、そして、普通の人々。

マイナーリーグだからといって、お客がいないわけではない。
専属の中継アナウンサーもいる。
移動はバスだが、これは仕方がない。

上を目指して、必死で頑張る選手。
若い人を育てようとする監督。

メジャーリーグ3という映画は、そんなことを教えてくれる。


| | 映画・舞台 | 22:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
俺一人でも
荒野の七人を見た。
懐かしい。
黒澤明の原作をハリウッドで作った。

ユル・ブリンナー、スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームス・コバーン、ロバート・ボーン…、おなじみの役者たち。

農民の頼みを聞いて、七人で村を守る。

映画の中のワンシーン。
農民の一人に、出ていってくれと言われ、部屋に戻る七人。

そこで、ユル・ブリンナーが「俺一人でもやる」という。

その時に使われたのが、"with or without you"というフレーズ。

「お前らが、いようがいまいが…」という感じがよく出ている。

字幕では長くなるので、「俺一人でも…」と訳したのだろう。

荒野の七人らしいフレーズ。

I'll do with or without you.


| | 考えたこと | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
MD
いろいろなメディアが開発されて、すたれてきた。

SPレコード、LPレコード、オープンリール、カセット、ベータ、VHS、DAT、8mmビデオ、CD-ROM、MD、DVD、ブルーレイ、そして、メモリ。

そのたびに再生機が変わり、古いメディアをどうしようという問題につきあたる。

それにしても、MDは不幸だったと思う。
ipodが出てきて、短命に終わった。
ぼくは比較的被害が少なかったが、MDを出はじめに買って、録音しまくった人は大変だろう。
気づいたら、MDが再生できる機種は少なくなった。

こないだジョーシンに行ったら、MDのメディアのパッケージがたくさん積まれて、売られていた。

まだMDウォークマンを持っている人はたくさんいるだろう。

インターネットとパソコンとipodにやられてしまった。
まさかこんなに早いとは、ソニーも思わなかっただろう。

インターネットは全てのものを陳腐化させる。
そんな怖さがある。

前にも書いたが、レコードやCDはモノだ。
ところが、メモリに入れるのはデーター。
ダビングしても劣化しない代わりに、すがたかたちがなくて、消える時は一瞬だ。

ぼくらが死んで、孫の、そのまた孫くらいの世代になったら、音楽はモノとして残っているだろうか。

ライブはあるだろうが、記録されるのメディアはデジタルだ。

もしも何かで人類が滅亡し、全てのデーターが消えてしまったら、もう何も残らないだろう。

それは、何となく哀しいことだと思う。

その時に、哀しいと思う人間は残っていないだろうが…。



| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
4月1日
今日はエイプリルフール。
ぼくの回りには、エイプリルフールにふさわしい嘘をつく人はいない。
余裕がないのかもしれない。

それとも、ぼくが無意識のうちにそんなしょうもないことを言ってはいけないというサインを出しているのだろうか。
そんなはずはないなあ。
回りの人に、そういう習慣がないのかな。

昔はエイプリルフールというと、嘘をつかないといけないという感じだった。
そのために、前の日からどんな嘘をつこうかと考えた。
考えてつく嘘はばれる。
難しいのだ。

もっと何気ないことで嘘をつくと、ばれにくい。
そんなことで嘘ついて、何になんネン?というような嘘。

もともと、ほとんどの人は人がいいから、自分のためになるような嘘をつけない。
詐欺師になれるような人は、ある種の才能があるのだろう。

だから、考えてはいけない。

「おい、○○さん、この頃なんかあるんとちゃうか?」
「いや、別にないやろ」
「ほんまか?」
「いや〜、これ言うたらあかんねんけどな…」
「何や、言え言え、言うてしまえ」
「いや、ホンマに秘密やで。○○さん、この頃悩んでんねん」
「何をや」
「さ、それやがな。○○さん、飛行機の出張が恐いネン」
「何でや?」
「何でかわからん。でも、これは言うたらあかんデ…」

というような嘘ならなかなかバレない。
自分が何の得にもならないからだ。

そして、だまされた方も、納得する。

でも、そんな嘘ついてどうするのか?という問題がある。
不謹慎ながら、面白ければいいのだ。

罪のない(この場合は少しある)嘘は面白い。

この話は嘘ですよ。念のため…。



| | 考えたこと | 21:28 | comments(0) | trackbacks(0) |