考えたこと2

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二極化
今日安部総理が話していたが、若者に夢を、というようなフレーズが何度も出てきた。

若者に夢をというなら、地方にお金をばらまくのはやめて、社会保障を何とかすべきだと思う。
あの作文は誰が書いたのか知らないが、もうちょっとまともなことを言ってほしい。

社会保障の重荷を軽くしないと、若い人たちが夢など持てない。

アベノミクスで株価、株価と言っているが、株価が上がって喜ぶのは直接的には株主だけ。
円安、円安と言っているが、こちらは輸出企業が喜ぶだけ。
その輸出企業も、原材料や電力費は円安で上がるから、どうなんだろう。
輸出をやっていない中小企業は苦しいにきまっている。
一般的には輸入に頼っている部分は値上がりして、消費が落ち込む。

エネルギーは原発を止めて、ほぼ火力に頼っているから、円安でどんどん電気のコストは上がる。
これで経済は持つのだろうか。

今の図式は、輸出企業の株を持っている人が一番儲かって、株を持っていない人は、エネルギーコストが上がることや、輸入商材の値上げでシンドイということではないか。
まあ、中には給料が上がってよかったという人はいるだろうが、ごく一部だろう。
要は二極化が進んでいるということだ。

そんな中で、また公共事業で地方にお金を持って行こうとしている。

地方の農業を活性化するには、農業の市場経済化をするしかないと思う。
減反などやめて、コメを輸出するとか、そういうことはできないのか。

たしかに、これから農業は大事だと思う。
だからこそ、守るのはやめて攻めないといけないと思う。
何もせず、コメを作らなかったらお金をあげますというような状態では、誰もやる気にならない。
苦しんで頑張ってきた産業が、今まで日本を支えてきた。
そういう産業をもっと作らないといけない。

人のやる気や、お金の動きや、どんなものが売れるかなど、政府にはわからない、というか誰にもわからない。
やってみるしかないのだと思う。
だからこそ、自由が大事なのだ。
やってみる人が出てくるような状態こそが大事なのだろう。

年金や医療費の問題は、払う人がどんどん減って、貰う人が増えてくると、今まで貯めたお金は減っていくということだ。
介護も急増していて、健康保険組合もシンドイ。
どう考えても、今みたいなやり方では先が見えている。

そんなアタリマエのことが、目先のことではないというだけでわからない。
若い人たちから取って、年寄りが使う。
厚生年金は、2030年には枯渇するという人もいる。
早く手を打たないと、ホントに困ることになると思う。
GDPもドルベースで比較するから、円安で下がる。
日本は貧しくなる。

いつまでも国債で借金するわけにはいかない。
いつかは信用がなくなり、いくら国債を発行しても誰も買わないどころか、今までたまった国債をどんどん売る人が出てくるだろう。

きっと国の役人はそんなこともわかっているはずだ。
地方議員の中にはロクなのがいないことは今回判明したが、国の役人はそれなりの試験を通って採用されている。
だから、計算はできるはずだ。

このままでいいのかと思う。

そう思っているのだが、そんなことを考えていると暗くなる。

ヒマだから、そんなことを考えるのだろうか…。

どうしてみんなそう思わないんだろう。


| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
国語調査
今週文化庁が発表した「国語に関する世論調査」で、「名詞+る」という形の言葉(一部は外来語)の利用についての結果があった。

結果は以下のようになっている。
数字は「使うことがある」というパーセンテージ。

(1)愚痴る 「愚痴を言う」という意味で 48.3
(2)事故る 「事故を起こす,事故に遭う」という意味で 52.6
(3)告る 「(好意や愛を)告白する」という意味で 22.3
(4)きょどる 「挙動不審な態度をする」という意味で 15.6
(5)サボる 「なまける」という意味で 86.4
(6)パニクる 「慌ててパニックになる」という意味で 49.4
(7)タクる 「タクシーに乗る」という意味で 5.9
(8)ディスる 「けなす,否定する」という意味で 5.5
(9)チンする 「電子レンジで加熱する」という意味で 90.4
(10)お茶する 「喫茶店やカフェなどに入る」という意味で 66.4

こういう言葉はたしかに増えている。
ぼくが使うことがあるのは、愚痴る、事故る、サボる、チンする、お茶する、あたりだ。
だいたい、50%以上の人が使う言葉を使っているという結果。
まあ、平均的な日本人ということか。

告る、はテレビの中で芸人が使っているのを聞いた。
きょどる、は意味がわからない。
パニクる、はもうちょっとで使うかな、という感じ。
タクる、は聞いたことがない。
ディスる、は子供が使っているのを聞いた。

サボるが元祖であるが、外国の言葉に「る」をつける言葉はまだ理解できる。
これからも増えるかもしれない。
メモるなどももうOKだろう。

聞いたことがあるのでは、写メる、は意味はわかるが、あまり使わない。
ググるはぼくはOKになった。

エコる(環境にいいことをする)とか、スマホる(スマホを使う)とかは、これから出てくるかもしれない。

生き残るか、消え去るかは、その言葉の響きで決まるような気がする。
その意味では、告る、タクる、きょどる、というのは消えていくと思う。
あまり響きがよくない。

やっぱり話したり、聞いたりして、すっと入ってくるものが残るんだろう。

5年後に「告る」「きょどる」「タクる」は残っているだろうか。

わからんなあ。

| | 考えたこと | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
御嶽山
御嶽山が噴火した。

過去に何度か噴火しているらしい。
Wikipediaによると、「2008年の調査では、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている」とのこと。
地層を調べることで、噴火の記録がわかるんだろう。

最近の噴火は、1979年、1991年、2007年の3回。
水蒸気爆発で、マグマ噴火ではない。
水蒸気爆発は地中のマグマが地下水に接して、噴火が起こること、という。
マグマの温度は1000度くらいある。
だから、水が触れたらすぐに水蒸気になって体積が増え、爆発を起こす。

地球の中はまだ熱いマグマが対流している、ということだ。
地球は約45億年前に生まれた。
宇宙が生まれたのが138億年前と言われているから、宇宙が生まれて93億年後に地球ができたことになるから、まだまだ若い方だろう。

それでも45億年というと想像を絶する時間。
それだけ経ってもまだ1000度の熱があるということだ。
地球ができた頃の大気は水素とヘリウムだったらしい。
酸素などなかったのか。
酸素は二酸化炭素を吸い込んで、酸素を吐き出す植物が出てきて、大気中にできたらしい。
水中の藻などが出す酸素の量などしれているが、それがたまって、酸素ができた。
膨大な時間が経っている。

要は地球上に人間が出てきてまだ10万年程度。
まだまだぼくらは地球の新参者だ。

大変な状態で、関係する人はえらいことだと思う。

でも、申し訳ないが、ぼくにはそんなことを思い出させる噴火だった。


| | 考えたこと | 20:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
2018年問題
大学の2018年問題の記事があった。

それによると、「18歳人口はしばらく横ばいで推移した後、18年度(118万人)から再び減少に転じ、国立社会保障・人口問題研究所の将来推計では31年度には99万人と、ついに100万人を切る。あくまで予測だが、10年余りで約20万人も減るというのだ。」とのこと。

ピーク時(1992年)には205万人いた18歳人口が半分以下になる。
これは大変なことだ。
18歳人口というのは、大学に入る入学者の数の基礎と言ってもいい。
このだいたい半分強が、大学、短大、専門学校の入学者になる。
要は、その人数が2018年にドンと減るということ。
高等教育の市場は縮小する。

ところが、この間大学の数は増えている。
私学の数でみると、ピークの1992年に384校あったのが、2002年には500を越えて、今年度は603校になった。
市場は小さくなるのに、参入者は多いのだ。
短期大学から大学に変更というのも多いのだが、高校まで持っている学校法人が大学を作る、というのもある。
新しく作るところは、自信を持って作るのだろう。それでなければ作れない。
それでも、文科省の発表によると、学部を作った初年度に定員割れというところも多い。
いい加減な学校法人も多く、予測が正しくないのだ。
だから、設置基準を厳しくしようという動きになっている。
最近はとにかく看護、という状況。
看護さえ作れば、受験生は来る、ということらしい。
これが危ないのは、こないだも書いた

現在、私学の4割以上が定員割れの状態だが、それに拍車がかかる。
今までは、進学率が上がって何とかなってきた面もあったが、その神通力も危ない。
記事には「進学率50%として10万人、1大学の入学定員を1000人とすれば、実に100大学分の入学者が消えることを意味します」とも書いてあった。

2018年というと、今の中学2年生が入学する時になる。
あと4年、いや3年半。
ここが生き残りをかけた大学の知恵の見せ所になる…と言いたいところなのだが、有効打は看護しかないようだ。

これからの社会保障や医療制度を考えたら、そんなにたくさん看護婦をおけないことは明白だと思うのだが…。

当然、地域でいうと、人口が少ない地域の大学は苦しいだろう。
秋田国際大のように、成功している例もあるが…。

それと、経済的な問題もある。
NHKのニュースでは「大学や短大などを中退した若者は1年間に7万9000人余りに上り、「経済的理由」で中退する人が最も多くなっていることが、文部科学省が5年ぶりに行った調査で分かりました。」と報道されている。

ぼくは日本の教育の一番の問題は、義務教育の劣化だと思うが、大学もひどい。

経済的に苦しいから、バイトばかりする学生が増える。
それでも、4年で卒業できてしまう大学は、ダメだろう。
勉強よりもバイトの方がやりがいがある、ということだし、それでも卒業出来てしまうというシステムになっているからだ。

これでは、グローバル化、IT化が進んだ社会を生きていけない。
だから、正社員での就職が苦しくなる。
4年間大学に行ってバイトをするのなら、企業も採れない。

この流れを何とかしないといけないと思う。
そうなると、社会保障をやめて、教育に、ということになるのだろう。
果たして、それができるのか…。

この記事はこう締めくくっている。

「河合塾勤務の経験がある教育ジャーナリストの後藤健夫さんは事の本質を次のように喝破する。「分数がわからないなど義務教育を終えていないような学生もいる現在の大学を、本当の意味での高等教育の場に戻せるかどうか。高等の名に値しないような大学はつぶれても仕方がない」
 大学生の学力低下は、少子化で短大を含めた入学者数が志願者とほぼ同じになる「全入時代」のマイナス面と指摘されている。関西の私大を取材した際、ある教授がつぶやいた言葉が忘れられない。「大学はワンダーランド(不思議な国)になってしまった。大学に入学しながら何をしていいのか分からない学生が増えた。図書館の使い方を知らず、勉強もしない」。学部数の少ない地方の国公立大だって安閑としてはいられない。」

その通りだと思う。


| | 考えたこと | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
またバラマキ?
若いころ、よく田舎を走った。
走ったといっても、クルマでドライブしたということだ。

兵庫県のまんなかヘンや、奈良の端の方やいろんなところを通ったことがある。

田舎に行ってびっくりするのは、突然立派な建物が出現することだ。
道を走っていると、すごくモダンな建物が出てきたり、一体何に使うんだろう、というような建物がそこここにあった。
ナントカ公会堂であったり、ナントカ記念館であったり、ナントカ推進会館であったりする。
たいがい、大きな駐車場があって、その奥に建物がある。

だいたいが利用されているようには見えず、建ててはみたものの、どう使っていいかわからない、というような外観だった。
そういうのが日本中にたくさん出来たのだろう。
儲かったのは政治家と役所と土建屋だけ、というバラマキだった。

それを見て、民主党がハードからソフトへ、箱モノから人へという政策を出した。
実際それがされたかどうかはわからないが、このキャッチフレーズだけはいいと思った。

田中角栄が日本列島改造をして、竹下登がふるさと創生事業をして、バブルが崩壊した。
バブル崩壊後はわりと収まっていたが、またここに来て地方自治体が消えるというショッキングなニュースがあって、お金もないのにバラマキをしようとしているように見える。

大前研一もブログで言っている。
「世界を見渡してみても「国が主導して」田舎を再生できた例はほとんどありません」

あの建物たちは、そのままずっと建っているのだろう。
あの建物がそれを象徴している。

奇しくも今日のクローズアップ現代では子どもの貧困をやっていた。

そちらにお金を使うほうがいいと思う。

おなかいっぱい食べられない子供が日本にたくさんいるという事実。

これを何とかしないといけないと思う。

ことは急を要するのだ。


| | 考えたこと | 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
知能テスト
小学校のころ、毎年知能テストがあった。

昭和30年代後半、神戸市立の小学校ではたしかにあった。
何年か続いた覚えがあるが、中学校ではやった覚えがない。

言語のテストと、計算、図形などがあったと思う。
言語のテストは同義語や反対語など。
計算は足し算や引き算があったような気がする。これは定かではない。
図形は三角形の内部にいくつも線が引いてあって、全部でいくつの三角形があるか?というような問題が多かったと思う。

ぼくは、言語は得意だった(と思う)。
時間が余って、余裕があったからだ。
反対に図形は苦手だった。
三角形の中にいくつ三角形があるか?というような問題は特に苦手だった。
だからよく覚えている。
たいがい時間切れで全部はできなかった。

Wikipediaによると、昭和40年代には全国で知能テストをやっていたようだが、その後やめたらしい。
たしかにぼくは小学校でしかやった記憶がない。

でも、Webでは、今30歳くらいの人も小学校で知能テストをやった、という人もいる。
また1980年代にやったんだろうか。

しかし、あれはどういうことだったんだろうか。
何かに活用されたんだろうか?
単なる確認で、ちょっと低すぎるとか、高すぎる人だけ、学校で先生が注意して見たんだろうか。

高校までのテストは、いつもやったら採点して返してくれた。

唯一返さず、どうだったかわからない試験が知能テストだったなあ。

やめたのは、あんまり結果が使えなかったからだろう。
使えていたら続けているはずだ。

あれはあれで楽しかったような気もする。

結果が返されないというのは、ミステリアスでよかったかな。

| | 考えたこと | 00:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
燃料電池
次世代のクルマの動力源として有力なのが燃料電池。
今の電気自動車に使われているリチウムイオン蓄電池よりも長持ちするらしい。

家電にも使われようとしていて、見本市などには出てくる。
メタノールを使った燃料電池で、リチウムイオン蓄電池の数倍の電力が取り出せるとのこと。

まだまだコストが高いようだが、来年トヨタが燃料電池車を発売する予定だ。
値段は700万円。
テスラのモデルSが800万円以上だから、それよりは安い。
ただし、1台200万円の補助金が出ての値段。
脱ガソリンを進めるためには、国も出費して燃料電池化を進めるつもりだ。

それでも、トヨタの見立てでは、10年後に今のハイブリッド並に普及できたらいいということだ。
まだまだ技術開発しないといけないんだろう。
一番コストがかかるのが、水素と酸素の化学反応をさせるために、触媒として白金を使うところらしい。
この値段が高い。
だから、必死で別の材料で出来ないかを探っているとのこと。

でも、一番の問題は水素ステーションを作ることらしい。
燃料電池車は水素を補給して走るので、ガソリンスタンドを水素スタンドにしないといけない。
今のガソリンスタンドがだいたい1億円でできるらしいが、水素ステーションは5億円もかかるらしい。

水素といえば、ガソリンよりも火気厳禁だ。
漏れたら爆発する。
クルマの方の水素タンクも、衝突したらおそらく即爆発だろうから、タンクの材質などは難しいだろう。

それらを見込んで、テスラモータース(電気自動車を作っている)がこれからは電気自動車の時代、と言っている。
そのために、テスラの持っている電気自動車の特許も開放したらしい。
インフラを変えていくのは大変だ。
電気自動車なら、最悪家でも充電できるから、それもアリかもしれない。

パナソニックはテスラと組んで電池の開発をする。

電池の進歩が先か、それとも燃料電池の開発が先か…。
インフラはどうなるのか…。

ぼくが生きている間はまだ内燃機関が主流だろう。
でも、子どもたちの時代は変わるだろうなあ。

石油がなくなるんだから、仕方ない。

早く脱石油をしないと、石油争奪戦の戦争が起こって、巻き込まれてしまうぞ…。

| | 考えたこと | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
旅行を終えて
今回の旅行を終えて、一番の感想は自分の英語力が落ちたこと。特に話すほうが全くダメ。
言いたいことは頭に浮かぶけれど、それが言葉にならない。
この「言葉にならない」はオフコースと違って、シャレにならない。

10年前なら、そんなことはなかったと思う。
仕事を変わって、全く英語を使わなくなったので、話せなくなった。
仕事と能力は結びついている。

帰ってから、教育テレビの英会話を録画して見ている。
今さら習っても遅いというか、何のためにやるのかはわからないが…。

感想の2番めは、ロンドンにもケンブリッジにも年寄りが少なかったということ。
イギリスの平均寿命は81歳で、日本と同じ80代。
でも、明らかに年寄りが少ないと思う。
たしかに移民は多いのかもしれないが、街を歩いている人も、地下鉄に乗っている人も、地上の電車に乗っている人も、ホテル周辺で歩いている人も、日本より若いような気がする。
ロンドンは首都で、ケンブリッジは大学の街だから、年寄りが少なかったのかもしれないが…。
実際、日本は平均寿命が高いし、それは事実だから年寄りが多いのはわかるんだが、イギリスに比べたら多すぎる。

3番めは、ロンドンは首都だが、背の高いビルはほとんどない。
東京や大阪のように新しいビルが見られない。
家はレンガ造りで伝統的なものが多い。
首都だから、ナントカ省の類もたくさんあると思うが、それも見たところは古い建物だ。
彼らは古いものを使う。
新しいものがいいとは思っていない。

4番目は駅に人が少なかったこと。
少ないというか、ほんとに人がいない。
電子化が進んでいて、日本のICOCAみたいなカードがあるのだが、よくできている。
地下鉄もバスも共用で使える。
駅でチャージできるようになっている。
電子化はロンドンの方が上だと思った。

5番目はさすがにLadies and Gentlemenの国だということ。
地下鉄に乗っていてもマナーがいい。
ロンドンの地下鉄は日本より狭い車内だが、ベビーカーや自転車を持って乗ってくる人がいる。
それでも嫌な顔はしないし、プライオリティシートに座っている人が、ちゃんとお年寄りが乗ってきたらすぐに席を譲る。
移民が増えたと入っても、さすがいイギリスだと思った。

もう一度ロンドンに行けるかどうかはわからない。

でも、やっぱりイギリスはよかった。

それが総括。



| | 考えたこと | 01:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハリー・ポッター
ロンドンのキングス・クロスという駅には、ハリー・ポッターのグッズを扱う売店がある。
ぼくらが行った時も、たくさんの人で賑わっていた。

売店のすぐ隣には、ハリー・ポッターでホグワーズの魔法学校に行く時に乗る電車のホーム、9と3/4番線の看板が出ていて、子どももオトナも混じって、順番に写真を撮ってもらっていた。
さすがハリー・ポッターだ。

そこから電車に乗って、ワーナー・ブラザーズ・スタジオのハリー・ポッターツアーに行くのが、今回の旅行の目的の一つだった。
結構混んでいて、予約をインターネットで取っても、夕方の18時半~というツアーがやっと取れたという状態。
次男はもろにハリー・ポッター世代で、1巻から7巻まで全部読んで、映画も見ていたから、よかったんだろう。
ぼくも映画はテレビでやったのも入れて4つほど見た。
最後の方は見ていないのだが…。

駅で電車の時刻表を確認せずに乗ったので、鈍行に乗ってしまって、ギリギリに着くという状態だったが、タクシーを飛ばしてスタジオに行き、ようやく間に合った。
とにかく、駅には人がいないし、アナウンスもない。
自己責任の国だ。
自分でちゃんと見て、ちゃんと乗らないと、エライことになる。
日本ではこんなことは出来ないだろうなあ、とサッチャーの偉大さを思った。

ツアーの客はみんな一部屋に集められて、まずは説明。
何かよくわからないが、お兄ちゃんがYeah!と言って、みんなもYeah!という、というノリで話があった。
次の部屋でもツアーの説明のスライドを見て、そこからツアー。
ツアーといっても、ハリー・ポッターの映画に使ったセットとか、小道具、大道具などが展示しているのをずっと順路に沿って歩く、というもの。
写真はいくらとってもいい、というもので、みんな撮りまくっていた。
5ポンドほど出して、説明を聞く機械を借りていたので、ちゃんと番号のところで番号を押すとその部分の話が聞けた。
なかなか良く出来ている。

魔法学校の毒薬の部屋や、食堂、談話室など、映画で見た覚えのある部屋のセットが並んでいる。
魔法グッズを売っている商店街もあった。
ほうきも、ふくろうも、気味の悪い小人もいた。
ラジコンで動くようにしていた。けっこうアナログだった。
何でも1作目あたりの時にはCGがあまり進んでなかったので、魔法学校の大きなセットを作り、それを最後まで使って撮影したようなことを言っていた。
実際に大きなお城のセットが置いてあった。
さすがイギリスの職人だと思う。
図面なども置いてあり、なかなか興味ふかい展示だった。

ツアーの終わりは外に出て、バタービアーを飲んで帰った。

日本のUSJでもフロリダでもやっているようだが、本家のイギリスで見たというのが値打ち。

2001年に最初の映画ができて、2011年に完結。
8本の映画が制作された。

10年間にわたって、子供だけでなく大人も魅了した作品だ。

ぼくはハリー・ポッターの1作目から3作目まで、原書で読んだ。
後にも先にも英語で読んだ本はこの3冊だけ。
面白かったからだ。
わからない単語は飛ばしたので、だいぶ意味は抜けているだろうが、それでもページをめくるのが待ち遠しくなった本だった。

4巻目の途中で挫折してしまったが、それでもあの3巻を読めたのはうれしかった。

そんなハリー・ポッターのふるさとを見ることができて、よかったと思う。

| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロンドンの博物館
イギリスのエライところは、博物館の類は入場無料であること。
寄付は募っているが、任意でよい。

サウスケンジントンには博物館がたくさんある。
自然史博物館に行きたかったのだが、たくさん並んでいて、いっぱいだった。
だから、向かいの科学史博物館に行った。

ここには蒸気機関がたくさん展示してある。
イギリスが世界の最高の技術を持っていた1700年代〜1800年代だ。
大きな汽船のエンジンも展示してあった。
あの頃のイギリスは世界一の技術国だったんだろう。

アポロ宇宙船も展示してあった。
アメリカから持ってきたんだろうなあ。
世界最大のタイヤも展示されていた。
ぼくの背丈の倍ぐらいある。
そこで次男に記念写真を撮ってもらった。
今はやりのドローン(ラジコンヘリコプターみたいなやつ)も展示されていた。

しかし、何といっても感激したのは、T型フォードが見られたこと。
世界最初の量産車として有名だ。
意外と小さかった。
どういうわけか、多摩ナンバーの日野コンテッサも置いてある。
日野がルノーと提携していたころのクルマだろう。

そして、有名な大英博物館にも行った。
エジプトやメソポタミアのものがたくさん展示されている。
象形文字が書かれた石や、洞窟から剥がしてきた石もあった。
無料で見せている訳は、ほとんどのものはイギリス以外から持ってきたものだからだろうと思う。
日本の鎧兜や浮世絵、はにわもあった。
ぼくらが小学校のころ、ミイラだとかツタンカーメン王だとかの展示があった。
たしか少年マガジンで見た覚えがある。

イギリスが世界の富を集めたころ、7つの海を支配していたころに、これらの博物館のものを集めたのだろう。
イギリスはスゴイ国だ。

そんな時もあった。

日本も1980年代にジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた時期があった、と言われるようになるんだろうか。
その時代を過ごせたぼくらは幸せだったんだろうか…。

イギリスの博物館を見て、そんなことを思った。


| | 考えたこと | 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
イギリス料理
イギリス料理はまずいというが、ホテルのイングリッシュ・ブレックファストは豪華だ。
ビュッフェ形式で食べ放題。
それなりに値段もするが…。

ベーコン、焼きトマト、ソーセージ、野菜ソーセージ、目玉焼き、スクランブルエッグ、サラダ、たくさんのフルーツ、ポテト、ヨーグルト、各種ジュース、紅茶、コーヒー、パン、トーストなどが食べられる。

イングリッシュトーストはロンドンで食べると、どういうわけか美味しい。
10センチ角くらいの正方形の薄いトースト。厚みは1センチもない。
あれをコンベア式のトースターに入れて焼く。
上に置いたら、コンベアで赤外線の下を通って、下から出てくる。
入れておいて、別のものを取りに行く人もいるから、順番がややこしい。

34年前に初めての海外出張をした時に、当時の上司にホテルのことを教えられた。
コンチネンタルタイプのホテルは、とにかく暗くて、朝飯もパンとコーヒーだけだったりする。
部屋が暗く、気分が沈む。
欧州人は目の色が薄いので、明かりはそんなに必要ないらしい。(当時の上司の説)
だから、今回はホテルIbisというチェーン店のホテルにしたが、正解だった。
イングリッシュ・ブレックファストも食べられたし…。
それでも、天井には明かりはない。
壁についている部屋の明かりを全部つけると、ようやく明るくなる。

夜の食事は初日はホテルのレストラン、インド料理が2日間、ホテルのパブが2日間。
昼はピザ屋やCosta(コーヒーチェーン)、スタバのサンドイッチや中華のファストフードなど。
インド料理はイギリスで美味しい物の一つだが、本格的なインド料理なので、ちょっと味が日本人には合わないかもしれない。
ぼくはよかったが…。

ホテルのパブで飲んだイギリスのビールは美味しかった。
ロンドン・プライドとジョン・スミスというやつ。
息子たちはマズイという。
冷えてないとか、芝生の味がするとか言っていた。
もともと、イギリスのビールはそんなに冷たくない。
これでも、冷えている方だと思う。
オトナの味がわからないのだ、と思って飲んだ。

パブの料理は美味しかった。
ハンバーガーとか、イギリス名物のフィッシュ・アンド・チップスとか、適当に頼んだ。
サッカーの中継を見ながら食べる。
これがロンドンの楽しみだろう。

となりにいたドイツ人の年配のおばさんが、どれを頼んだのか?と聞きにきたのがおもしろかった。
やっぱり彼らも人が頼んだものを見て、今度はこれにしよう、とか言うのだ。
きっと日本人だとわかっていたのだろう。
ドイツ人は親日だ。

今回の旅行では、料理は満足。


| | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
Wifi事情
ロンドンではWifiがいたるところで使える。
だから、日本のスマホを持っていけば、ほとんど困らない。

店に入れば、たいがいWifiがある。
空港でもWifi、サインインするのにメールアドレスが必要だったりするが、それを厭わなければ駅などでも無料のWifiがある。
ホテルにチェックインしても、カードキーと一緒にWifiのパスワードがついてくる。
それを入れると、Wifiが使える。

今やWifiは当たり前だ。
通話さえ必要なければ、キャリアは必要ない。
ずっと都会にいれば、それもアリだろう。

スターバックスのWifiなどは、店の近くにいれば使うことができる。
店もどうせ機械を置いたらあとはタダだから気にしない。

そのおかげで、スマホさえ持っていれば、メール、ツイッター、フェイスブックなどに関しては日本と同じことができる。
時差があるだけだ。
Wifiのおかげで、そんなことが可能になる。

28年前は違った。
日本への連絡といえば、もっぱらFAXだけ。
電話も時差を考慮してかける。
それも高いから、なかなかできなかった。

この差は大きい。
海外でのストレスを解消するために、日記を書いていたが、そんな必要もない。
友達にぼやくことができる。

地球は狭くなった。
それもこれも、インターネットのおかげ。

亡くなったコラムニストの山本夏彦が、ワープロは世の中を変えないが、インターネットは世の中を変えると言っていた。
蓋し、名言。


| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
グローバル化
グローバル化の定義にはいろいろあるが、移民が増える、というのもグローバル化の一つと言っていいと思う。

安い労働力を求めて、企業が世界中に工場を作るのと似ている。
仕事が少ない国から、多い国に働きに出てくる労働者が先進国では増えている。
日本はその例外だが…。

欧州でも移民が増えている。
ロンドンに着いて、ホテルに連れて行ってくれるガイドさんが、ロンドンの人口の半分が移民だという。
イギリスはEUには加盟していないが、EUができて移民が増えたらしい。
そう思ってみると、見るからにイギリス人という人は少なく見えてくる。
アフリカ系や中東系の人たちが多いと思ってしまう。

イギリスはヨーロッパでも経済的には成功している国らしい。
だから、稼ぐために海外から人が来る。
そうすることによって、安い賃金で働く人が増え、また経済が活性化する。
それがイギリス人にとって良いことかどうかはわからない。
どこの国でも、移民に反対する人がいるのはそういうこともあるのだろう。

ガイドの人は、移民が増えたために、古き良きロンドンがだいぶ変わったという。
イギリスの伝統である、マナーが悪くなったのが第一。
次の人のために、ドアをおさえて待っていたり、いいサービスをしてもらった時にチップを渡したり、交通ルールを守ったりするというマナーだ。
たしかに28年前に比べるとそうかもしれない。

それでも、街なかでクラクションは聞かないし、電車では席をちゃんと譲る。
地下鉄は日本より一回り小さいが、混んでいても自転車を持って乗ってきたり、ベビーカーを持って乗ってきたりするが、みんな嫌な顔をしない。
お年寄りが立っていると、ちゃんと声をかけて席を譲る。
それが当たり前、という社会のコンセンサスができている。

28年前は地下鉄になど乗っていなくて、もっぱらクルマだった。
訪れた街もバーミンガムというところだった。
それでも、クルマのマナーは良かったし、20メートルくらい離れた廊下でもドアを手で押さえて待っていてくれた。
それがイギリスなんだといたく感動したのを覚えている。

今回のロンドンでも、それは本質的には変わっていないと思った。

例えは悪いが、腐っても鯛だ。

さすが、グレート・ブリテン。



| | 考えたこと | 01:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
新聞の未来
この夏ロンドンに旅行した。
その時に感じたことを書く。

ロンドンでは地下鉄の駅で、タブロイド版の新聞をタダで配っている。
配っているといっても、人がいて配布しているわけではなく、スタンドに入れて置いてあって、自由に取って行っていい、という格好だ。

METROとLondon Evening Standardという2つの夕刊紙をもらってきた。
どちらもFree(無料)と書いてある。
長男がちょっと早めにロンドンに行っていたのだが、地下鉄に乗ったら新聞を持っていた。
「これはタダや」というので、見てみるとたしかに無料と書いてある。

ぼくも次の日スタンドから取った。
London Evening Standardには「毎日200万人以上に読まれている(READ BY MORE THAN 200MILLION PEOPLE EVERY DAY)」と書かれている。
別にタダだからといって、手を抜いている様子もない。
64ページもある、カラーの新聞だ。
スポーツの写真や特集記事、ビジネス、株価、天気予報、中東関係、エボラ出血熱、書評、趣味(クロスワードパズルや数独)、テレビ番組など、盛りだくさんだ。
これをタダで配るというのはスゴイことだと思う。
もちろん、もう一つのMETROの方も同じような構成。
METROの方には、「世界一ポピュラーな無料新聞(The world's most popular free newspaper)」と書いてある。

タダで配っている一方、地下鉄に乗っている人たちがそんなに取っていくわけではない。
みんなスマートフォンを見ている。
要はスマートフォンでニュースをタダで見ているのだ。
そういうことだ。

もちろん、元は有料だったんだろう。
でも、インターネットに押されて、だんだん買う人が少なくなった。
そこで、広告料で儲けることにして、新聞自体はタダにした、ということだ。
インターネットと同じビジネスモデルにせざるを得なくなった、ということになる。

新聞を作るコストは、IT化によって安くなったんだろう。
記事のテキストとデジカメの写真があれば、紙面はコンピューター上で編集できる。
それを印刷する、ということで従来の印刷の手間は激減されている。
記者もいちいち本社に帰らなくても、出先からメールで入稿できる。
カメラマンと兼ねることも可能だ。
極論すれば、スマホひとつあればOKだから。

だから、新聞社はスリムになって、広告料だけでもやっていけるようになったのだと思う。

これはぼくの想像だが、そんなに外れていないと思う。

ロンドンではそういうことが起こっている。
ということは日本もいずれそうなる。

まず、夕刊紙かな。
夕刊フジが無料で駅のスタンドに置いてある日が来るだろう。

それがいつになるか…。

でも、確実に来る未来だろうと思う。
もうロンドンには来ているのだから。


| | 考えたこと | 00:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
やがて哀しき外国語 村上春樹
やがて哀しき外国語 村上春樹 講談社文庫

「やがて哀しき外国語」という本をアマゾンで中古で買って読んだ。
村上春樹は今まで読んだことがなかったが、今回初めて読んで、なかなか面白かった。
ただし、これはエッセイ集。

尊敬する先生から、この本の中の「大学村スノビズムの興亡」というのを読めば、海外の大学の雰囲気がわかる、ということで推薦された。

この本は村上春樹がプリンストン大学に滞在していた期間、アメリカやプリンストンについて書いたエッセイ。
期間は91年の初めから2年半。
アメリカに来る前はヨーロッパにも住んでいたことがあると書いてある。

Wikipediaで調べてみると、高校の8年先輩だった。
現在65歳とのこと。もっと若いのかと思っていた。
ぼくはどうも自分より若い作家の小説を読む気がしなくて、村上春樹は敬遠していたのだが、だいぶ年上だった。
たぶん、作品の名前とか雰囲気が自分より年下だと思わせたのだろう。
大きな勘違いだった。

このエッセイを読むと、この人は大学を出てジャズバーをやっていた時期があったとわかる。
当然、ジャズにも詳しい。
映画の脚本が書きたかったということもわかった。
この時代、大学に長いこといて、好きなことをするのはよくある話だった。
特に文学好きな人はそういう人が多い。

外国に住むということは、ストレスフルなことであろうと思う。
言葉の問題もあるし、文化の問題、習慣の問題など、いろいろなことがツーカーではいかない。
いちいち意味を考えたり、役割を考えたりしないといけない。
でも、この人はプリンストンの前にイタリアやギリシアに住んでいたということなので、だいぶ耐性ができていたのだろう。
それと、英語も得意だったのだと思う。
フィッツジェラルドやレイモンド・チャンドラーの翻訳などをやっているのは、ぼくも知っていた。

海外に住むと、いろんなことでフラストレーションがあるから、エッセイとしては長いものを書けるのだろうと思う。
だいたい、一つの作品が文庫本で12ページくらいある。

このエッセイを読むと、作者は市民ランナーでもあり、ジャズフリークでもあり、車好きでもあり、映画好きでもあるという多才な人である、ということがわかる。
そうした自分の趣味を通じて、異国に住んでいてわかる体験などを書いている。

「大学村スノビズムの興亡」を読むと、アメリカの有名大学の教授たちのコミュニティがどんなふうになっているのかがわかる。
教授たちはそれなりにエライ人ばかりなのだろうが、「プリンストンではこういうふうに言う」とか、暗黙のルールがある。
飲むビールの銘柄も、これがいい、というものがあるらしい。
地元のビールではなく、海外のビールを飲むと「正しい」ということらしい。

それもこれも、大学というところはある種「特別なところ」ということを彼らは言っているのだと思う。
「そこには何かがある」と入学者に対して思わせる、よく言うと「夢」がないとイケナイんだろう。
それが、大学の内部ではそういう特殊性を持つことになるのだと思う。

村上春樹という人がちょっと身近になった。

もうちょっと読んでみようかなと思う。


| | | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
アジア大会サッカー
韓国でアジア大会が始まった。
日曜日にサッカーの中継を見たが、若い選手たちはほとんど君が代を歌っていない。
クゥエートの選手たちが大きな声で歌っていたのとは大きな違いだった。

平成生まれの選手たちだ。
ウチの息子たちと同世代だろう。

たしかにウチの子供たちは、小学校の頃、君が代をあまり知らなかった。
君が代というとサッカーやボクシングの前にかかるもの、という認識だったと思う。
若い人たちはあまり相撲を見ないから、相撲は入らない。

ぼくらの頃は入学式や卒業式というと、必ず君が代を歌ったものだった。
それに何の疑問もなかったような気がする。
大学のことは覚えていないが…。

今は卒業式ではみんなに台詞を割り当てて、順番に話させたりしている。
あれのどこがいいのか、わからない。

ワールドカップなどを見ていても、多くの国は国歌を歌っている人が多い。
日本のように、口を開けずにモゴモゴしている人はそれほど多くない。
海外の場合、歌えない人は外国から来た人だろう。
自国を強くするために、ヨーロッパや南米のリーグから引き抜いてきた人だと思う。

日本のように島国で、民族問題もあまりない国だからこそ、国歌を歌えない人が増えているのかもしれない。
国歌に対しては、戦後は屈折した気持ちを持っている人も多い。

昔はもっと景気のいい歌に作りなおしたらどうか、とか言っている人もいたと思う。

いずれにしても、胸を張って国歌を歌えない若い人たちを育ててきたのはオトナの世代だ。

クゥエートに試合は勝ったが、何となく割り切れない気持ちが残った。

| | 考えたこと | 01:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
テスラ モデルS
アメリカにテスラという会社があって、そこが電気自動車を作ってる。
なんでも、アメリカの金持ちのヤッピーたちが、続々とポルシェやフェラーリから乗り換えているという噂だ。

それが日本に輸入されることになった。
試乗記を読んだが、かっこいいスポーツセダンで値段は800万以上する。

このクルマはモデルSというのだが、ボンネットを開けても何もない。
エンジンの場所にそれに相当するものがないのだ。
モーターは後ろの車輪の場所についている。
もちろん、2輪とも別々になっている。

ガソリンエンジンの部品は一般的に1万点〜3万点とのこと。
でも、テスラのモーターは100点しかない。
それでいて、航続距離が500キロ、最高速度が200キロという性能。
電池は座席の下の部分にあって、それとモーターを2個つければいい、ということらしい。

もちろん、インターネットに常時接続で、グーグルマップでナビゲーションもできる。
そのうち、自動運転もできるようになるだろう。

量産の壁になっているのは、電池の値段らしい。
それも、そのうち大量生産と技術革新で下がるかもしれない。
パナソニックなどは、そこに参入しようとしている。

こうなると、自動車産業の参入障壁が一気に下がるかもしれない。

エンジンを作るのは経験とノウハウが必要だが、モーターと電池ならそんなものは簡単になる。
ボディはお金があれば型を作ってプレスで作れる。
操舵の機構もエンジンの複雑さに比べたらマシだろう。

新しい会社が自動車メーカーになるかもしれないなあ。
電機メーカーと機械メーカーの提携もあるかもしれない。
東芝と新日鉄が提携して、自動車を作るというようなこともあり得る。

ちょうど複雑精緻なアナログウォークマンがiPodに取って代わられたように、自動車も変わるかもしれない。
そのへんの危機感もあって、BMWが電気自動車を出したし、来年トヨタが燃料電池車を出すのだろう。

でも、いずれエンジンを始めとする内燃機関は、モーターに取って代わられる日が来そうな気がする。
ガソリンがなくなるからだ。

作るのが簡単になれば、いろんなところが作るようになる。
当たり前のことだが、自動車は日本の基幹産業だから、これは恐い。

ぜひともこの波に負けず、生き残ってほしいと願う。

| | 考えたこと | 00:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
終活
終活とは就活のマチガイではない。
文字通り終わりの活動のことだ。

ちょっと前から、この言葉が聞かれ始めた。

Wikipediaによると、「終活とは「人生の終わりのための活動」の略であり、人間が人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括したことを意味する言葉。主な事柄としては生前のうちに自身のための葬儀や墓などの準備や、残された者が自身の財産の相続を円滑に進められるための計画を立てておくことが挙げられる。」

葬儀会館の垂れ幕に大きく「終活」という文字が踊っているのを見たこともある。
日本は少子高齢化と同時に、少産多死化でもあるから、これから陽の目を見る商売かもしれない。

今の日本は世界一の長寿を達成しており、長い余生があるわけだから、これは当然かもしれないなあ。

この春からぼくも終活をした。
大量のVHSと8ミリビデオを捨てたのだ。
まだデッキはあるので、見ることはできるのだが、若い頃にエアチェックした番組やダビングした映画などが対象。
こういうのは、残されたほうが処分に困るだろう。
ぼくらの生きた時代は、アナログからデジタル、そしてデータへと変わってきた時代なので、そういう古いメディアが残っている。
これはぜひとも捨てておかないといけないと思う。
まあ、残されたら、残されたほうが捨てるに決まっているのだが…。

でも、まだ全部は捨てられない。
ぼくらの世代の親は、子供を撮ったビデオをどうしているのだろうか。
うちの場合、最初はVHS-Cだった。
その次にデジタルビデオになった。
人によっては最初はベータで、VHS、8ミリ、デジタルビデオという人もいるだろう。
メディアの覇権争いの犠牲者だ。

時代はちょうどデジタルが進んでいく時だったから、その途上でいろんなものが出た。
だから、ややこしい。

でも、子供時代のビデオなど、子ども自身はあまり見たくないような気もする。
いくらか、DVDに落としておけばいいと思う。

小学校の運動会など、みんなビデオカメラを持っていた。
あれだけの人がビデオを撮って、今はどうしているのだろうと思う。

今は、ビデオで撮っても、すぐにデータになる。
メディアはSDカードでもいいし、マイクロSDでもハードディスクでもいい。
それをコンピューターで見る。
友だちとも共有することができる。
もちろん、写真も同じことだ。
大量のデータをネット上に保管しておくこともできる。

まだ全く処分できていないのが、音関係。
カセットとレコードだ。
カセットはどうしても残したいものだけ、デジタル化しようと思っている。
でも、実際聞くことがあるだろうか…とも思う。

レコードは捨てられない。
プレーヤーもまだあるから、これは置いておこうと思うが、でも残されても困るだろうなあ。
となると、いつかは捨てる時が来るのかもしれない。
まあ、まだ余生はあるから…。

うちの子どもたちは、もうCD以外のアナログなメディアはほとんど持っていない。
ちょっとMDが残っている程度だろう。

本来の終活のごく一部でしかないが、それでも思い出に類するものだから、ややこしい。

そういえば、本もそうだなあ。
残されて、読むだろうか…。
でも、昭和のSFなどはもう今は売っていないから、貴重だと思うのだが、そう思うのは持ち主だけで、残された方はそうは思わないかもしれない、というか、はっきり言ってジャマだろう。
それなら、捨てたらいいのだが…。

ウチの亡くなった父親が晩年言っていた。
「本があるんやけど、それを捨てたら頭の中が空っぽになるような気がして…」
まあ、その気持ちもわかる。
まだ捨てていないのが現実。

でも、自分の時にはもうちょっとスッキリさせようと思う。
いくらいいものでも、古いものは古い。
大事とかいう価値観は主観的なもので、押しつけられない。

まだまだ、要らないものがある。
終活しないと…。

| | 考えたこと | 00:45 | comments(2) | trackbacks(0) |
木曜時代劇
地上波では長らくレギュラーで時代劇をやっていなかったが、NHKが木曜日の8時からまたやっている。
吉原で用心棒みたいな事をやっている夫とその連れ合いが主人公。
「吉原裏同心」という。

調べてみると、土曜時代劇というシリーズもあり、そのあと木曜時代劇のシリーズになっている。
今回で木曜時代劇として5シリーズ目ということだ。

テーマソングが小田和正の「二人」という曲。
静かな曲だ。

ここ3週ほど見ているが、なかなか良く出来ている。
大河ドラマのように、肩肘張ったものではなく、江戸時代の吉原を舞台とした娯楽時代劇。

義理と人情の物語。
今日は亭主が仇討ちの助太刀に行くというストーリー。
内儀役の貫地谷しほりが「生きて帰ってこないと承知しない」という。
こういう場面があるから、時代劇は好きだ。

普通のドラマよりもコストが高い。
セットと殺陣の指導や小道具、大道具など、カネがかかることばかり。
だから、NHKでしか作られない。

でも、時代劇には時代劇の良さがある。
余計なものを取り去って、必要なものだけを描くことができる。
現代劇にあるようなややこしいものは時代劇にはない。
そこがすばらしい。

次週で最終話。
なかなか面白かったのに、残念。

こういう時代劇は作り続けて欲しい。


| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
スコットランド
ぼくらはイギリスはユニオンジャックの旗のもと、一つの国だと思っているが、実際に住んでいる人たちはそうでもない。
自分はイングランド出身だという人がいるかと思えば、自分はスコットランド出身だという人もいる。

そもそも、国名のイギリスというのはイングランドから来たのだと思う。
高校の時には、「グレート・ブリテン北大西洋連合王国」という名前を習った覚えがある。
時どきクルマに貼ってある「GB」という楕円形のシールはこのグレート・ブリテンを表している。

会社に入ってからは、「UK」というのが通称だった。
United Kingdom、連合王国、の略称だと思う。

つまり、実際にはイギリスとひとまとめで呼んでいるが、王国でいうと、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの国から成っている。
だから、イギリスに住んでいる人に、君のCountryは?と聞くと、イングランド、という人もいれば、スコットランドという人もいるという塩梅になる。

だいぶ言葉も違う。
一応、ぼくらの習ったのはイングランド語であって、それを英語としている。
でも、バーミンガムに行った時、「ぼくはクイーンズ・イングリッシュを習った」と言うと、おまえの英語は訛っている、と言われたことがある。
トゥデイをトゥダイというか、どうかというところだ。(もちろん、トゥダイが正しいと言われたのだが…)

ケーブル・テレビでやっている、Late Late showでも、司会のクレイグがスコットランド出身なのだが、ゲストにスコットランド出身者が来ると、スコットランドの話題になる。
イギリスではなく、スコットランドだ。
だから、彼らのアイデンティティは、昔ながらの王国になっているのではないかと思う。

ときは変わって、今、スコットランドが独立しようとしている。
住民投票で決めるのだが、当初はいろいろと問題があり、独立はしないだろうと言われていたが、投票前のここに来て、ひょっとしたら、ということになっているようだ。

反対派は通貨の問題(独立したらポンドは使わせない、と政府は言っている)があるから、やめとこう、というのが大きなポイントらしいが、賛成派は「今がわれわれの時間だ」と言っているとのこと。

どうなるのか、わからない。
スコットランドは1707年から連合王国に入ったらしい。
賛成派が勝つと、307年ぶりの変更になる。

これは日本でいうと、大阪が東京から独立する、というような感じかな。
まあ、それはあまり現実味がないが…。

しかし、今の政治を見ていると、対立点がない。
自民党も民主党もみんな同じだ。
だから、民主党にやらせてみたら、むちゃくちゃになったから、自民党が指示を得ていると思う。

いっその事、関西が独立して、別の政治をやってみたらいいのではないか。
今の日本にはいろんな問題が山積しているから、知恵を出し合うためにも政府を2つ作るのだ。

けっこう面白いと思うのだが…。

橋下さんも、都構想などと言っていないで、西日本独立、くらい言ってみたら面白いのに。

| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロジャー・フェデラー
ロジャー・フェデラーというテニスプレイヤーがいる。
スイス出身のアスリートである。

このフェデラー、ちょっと前までは無敵だったが、ナダルやジョコビッチ、マレー、バブリンカ、そして今回のUSオープンのチリッチというような人たちが出てきて、なかなか4大大会では優勝できなくなってしまった。
でも、世界ランキング1位 連続在位記録「237週」という数字が示すように、過去の強者達の記録を抜き去り、名実ともに最高のテニスプレイヤーになった。
もちろん、まだ現役だが、たいがいの大会でベスト8以上に入っている。
怪我も少なく、とにかくプレイがきれいだ。

数年前までのフェデラーは本当に負ける気がしなかった。

バックもシングルハンドで返す。合理的なプレイスタイル。
テニスはこうやるんだ、というプレイ。
どんな難しい球が来ても、イージーに返しているように見える。

そして、一番感心するのが、相手にショットを決められても、自分がミスをしても、平然としている(ように見える)ことだ。
審判に食ってかかることもない。
微妙な判定で、カッとくることもあると思うが、いつも紳士であり、これが一番立派だと思う。
それは、マナーやフェアプレイを評価して、ツアーの選手同士で選ぶ賞を、9度も受賞していることからもわかる。

このフェデラーも若い頃はついカッとして、怒りの感情に支配されていたことがあるらしい。

アンガー・マネジメントという言葉がある。
怒りとうまく付き合って、それをプラスに持っていくための管理手法、とでも言ったらいいのか。

このアンガー・マネジメントについての記事によると、

「1980年代、子供だったフェデラーは、試合中に自分の感情がコントロールできなくなる事が度々あり、ミス・ショットの後は、必ずと言っていいほどフェンスにラケットを投げつけた。
しかし、ピーター・カーターという人物と出会い、試合におけるメンタル面について議論することで、フェデラーは、怒りの爆発によって、どれほど多くのエネルギーを無駄にしてきたかに気付いた。
以来、フェデラーは怒りを爆発させることがほとんどなくなり、ジミー・コナーズやジョン・マッケンローといったキレやすい先人達とは一線を画すようになる。」

とのことだ。そして、

「2005年4月、ナスダック100オープンの決勝戦で、最大のライバルであるラファエル・ナダルに最初の2セットを取られた後、第3セットの9ゲーム目にブレークポイントをミスしたフェデラーは、怒りを爆発させて地面にラケットを叩き付けたことを以下のように述懐している。
「僕は凄く怒って、ラケットを投げたんだ。ミスを続ける自分にガッカリしていて、終わりのない上り坂のような状況でプレーしていたところ、やっと現れたチャンスさえも失って……でもこの怒りが、自分の目を覚まさせてくれたんだ」。

ここに、フェデラーが若い頃に見せていた単なる短気とは大きな違いがある。フェデラーは怒りの奴隷だったのではない。彼は激昂する感情さえ、彼自身を奮い立たせる力として捉える様になっていたのだ。プレー再開後、フェデラーは試合に勝利し、2005年のナスダック100オープンでの優勝を果した。」

と書いてあった。

まさに、怒りをコントロールして、自分の味方につけたということだろう。

アメリカの心理学は、実用的なところでうまく使われている。
その一つが、アンガー・マネジメントということらしい。

フェデラーこそ、それを身につけた最高のテニスプレイヤーと言っていいと思う。

もう一度、優勝するところを見たい。

もちろん、錦織にも優勝してほしいとは思うが…。


| | 考えたこと | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の博士
日本の博士(ドクター)は、大学院重点化以降課、人数が増えた。

大学院重点化とは1991年に大学の設置基準の大綱化に続いて、翌1992年に行われたとされる。

これは「一般的には、大学の教育研究組織を従来の学部を基礎とした組織から大学院を中心とした組織に変更することを指す。」とWikipediaには書いてある。
しかし、多くの人が、ぶっちゃけて言うと、この重点化は、大学院生を増やすという事意外にビジョンがなく、たくさんの大学で1992年以降、教育体制は変わらないまま大学院が粗製乱造され、大学の学部は大学院の付け足しみたいな存在になり、学部の空洞化を招いたという人もいる。

亡くなった秋田国際教養大の中嶋学長はコラムの中でこう書いている。

「理想の大学の在り方とは学部で十分な外国語運用能力と教養教育を身につけ、大学院で専門的知識を突き詰めることだと思っております。ですので、大学院重点化によって研究者の養成や大学院を学術研究推進の中核と位置付けるという期待が持てたはずです。

ところが、学内措置として教員の所属を大学院に変えただけの学部や研究科も見られ、本来の意味の重点化にはつながらないどころか、学生の質の低下につながる結果となりました。前述のとおり学部は空洞化して、教員は大学院に籍を移してしまった。国立大学の場合は大学院に籍を移すと手当が数%増えるということも相まって、教員は挙って院に移ろうとしたのでした。学部へは大学院から教員が出向していくような形になってしまった。」

当然、空洞化した学部では良い教育ができないから、大学院のレベルも下がらざるを得ない。
そして大学院の博士課程も同じこと。
これが大量の博士が職を得ることができない、という現状につながっている。
今回の早稲田の小保方さんの問題で、この問題がちょっとマシになることを祈るのだが…。

ぼくは何人かの博士を見てきたが、日本の博士と海外の博士はだいぶ違うと言わざるを得ない。(もちろん、素晴らしい人もいるのだが…)

何というか、ぼくが見てきた日本の博士はひと言でいうと、「頼りない」のだ。
自分の専門領域のことだけをやりたい、という感じ。
仕事というのは、時によっては、成り行きでどんどん範囲が広がっていくものだ。
そうなった時に、すぐに「ここまではわかりますが、ここからは範囲外」というような線を引く。
博士なら、自分の専門領域をちょっと外れても、常識を持って判断できるのではないか、とぼくらは思う。
しかし、どうもそうではない人が多かった。

一方、海外の博士はスゴイと思った。
どれだけの比率で博士になるのかはよくわからないが、経営陣が博士だったりする。
もちろん、ぼくの知っている人たちだから、工学系の博士だ。
分からないことは聞いて、それをすぐに理解して、表を作ったりできる。
ああ、この人カシコイなあ、と思うような人たちが博士になっている。
当然、味方にすれば「頼りになる」のだ。
彼らが異国人だったから、そう思うのかもしれないが…。

近頃はなんと年に1万6千人も博士が増えているそうだ。
この数は90年の5割増し。
まあ、こんな人が博士?と言いたくなるような人も出てくるだろうなあ。

どこが違うのか、というと、やっぱり一般教養だろうなあ。
自分の専門外のことでもよく知っているからこそ、「頼りになる」のだろう。

大学でいうと、一般教養というのはリベラル・アーツと呼ばれる。
ここが弱いのがどうしようもない。

通常の大学では、一般教養はパンキョーと呼ばれ(蔑視の言葉だと思う)、専門の先生方からは疎外される。
予算等も潤沢には使えないだろう。

ぼくは今の高校以下、義務教育の状況や大学入試のことを考えると、一般教養こそ大事だと思う。
実際、前出の故中嶋学長がいた秋田国際教養大などはリベラル・アーツに力を入れて、成功している。
そういう成功例は少ないながらもあるのだ。

でも、それを実行できない大学がほとんどだ。

大多数の教員が、自分の教えている科目に執着するのが根本原因だと思う。
博士問題と同じように、自分の専門にこだわる人が多いと思う。

根は同じところにあるのかもしれない。

だから、博士の就職難の問題も、多くの場合、その人たちを教えている先生を変えないと難しいと思う。


| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
心のケア
少し前になるが、佐世保の高校生の殺人事件の話。

長崎県の教育委員会は、平成16年にも同様の事件があり、重点的に教育に力を入れてきたらしい。
教委のコメントとしては、「命を大切にする心」を育む教育に取り組んできたのに…、ということだ。
そして、今回の事件を踏まえ、「これまでの取り組みが十分ではなかった」などと述べて、改めて再発防止策を検討していく考えを述べたらしい。

その上で、お決まりの「心のケア」への対応である。

誤解をおそれずに言えば、ぼくはこのような「心のケア」を専門にする人が増えて、安易にその人たちに相談を任せてしまうような風潮が、事件の再発を生むのではないかと思う。

心のケアをする人たちは、外部の人たちだ。
それを専門にしている。
要は学校の外にいて、客観的に見ている。
それはそれでやったらいいが、あくまでも「ついで」の話である。
学校の内部でそれをやらないといけないのではないかと思う。

でも、学校では生徒たちの心のケアは専門家に任せ、「命や心の教育の指導方法について話し合う」らしい。

はたして、「命や心の教育」などできるものなのだろうか。
人類はいままで、そんなことを教えられてきただろうか。
それは個別のケースでやるしかないと思う。
一般化などできない。
だから、その事件を経験した当事者たちでないとできないのだと思う。

そして、本当の意味で「命や心の教育」をするためには、生徒一人ひとりが教養をつけるしかないと思う。

命は大切だ、ということは、小学生ならわかっていると思う。

何かあればマスコミも含め、命は大切だ、と言っているのだから。

| | 考えたこと | 00:41 | comments(2) | trackbacks(0) |
女性車掌
昨日阪急電車に乗ったら、停車駅のアナウンスが女性の声だった。
長らく電車に乗っていなかったが、阪急の車掌さんは女性もいたんだ。

「次はー、西宮北口」という声が優しい。
よく漫才のモノマネでやっているような、特徴ある話し方ではなく、普通のアナウンスだ。

今まで男性だけだった職場だと思うが、女性も入ってきた。
知らなかったが、2013年から採用されているらしい。
YouTubeにも載っていた。

あの、特徴的な話し方は、代々伝えられてきたのだろうか。
男性の場合は、普通のアナウンスとはちょっと違う。

「つぅぎはー、ぁにっしのみやきったぐちぃー」というようなアナウンスが多い。

でも、今日のアナウンスはごく普通の話し方だった。
あのヘンなアナウンスは伝統ではなかったのか。
だいたい、阪急はまだマシだったが、もっと特徴的な会社もある。
そういうところで女性の車掌が出てきたら、あのアナウンスを伝えるのだろうか。
そもそも、なぜ特徴的でないといけないのか…。

考えてみたら、車掌のアナウンスというのは、謎の部分が多い。
あの不思議な話し方がなくなるだけでも、ユニバーサル化が進んでいいと思う。
日本に来た外国人など、あのアナウンスを聞いてもわからないと思う。

あれがなくなって困るのは、ものまね芸人くらいだろう。

そういう意味でも、女性の進出はいいことだ。
あの不思議なアナウンスをなくしてほしい。

だいいち、進んでいるところはアナウンスも自動だからなあ。

きっと女性が進出したことで、不思議な伝統がなくなっていっているのだろう。

ぼくはいいことだと思う。

| | 考えたこと | 02:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
スタジオジブリ
スタジオジブリが長編アニメをしばらく制作休止するという記事があった。
ちょっと残念。
いつまで休止するのかはわからないが…。

「思い出のマーニー」が今の体制での最終作になるということだ。

やっぱり宮?駿監督の存在は大きかったんだろう。
記事によると、ジブリはアニメーターをたくさん社員として雇っていたとのこと。
ただ、そうすると制作費が上がる。
「風立ちぬ」でも赤字だったらしい。
あの細かい作業を延々と続ける作業は、思いの外時間もかかるし、制作費がそれにつれてアップするのだろう。

宮崎監督の作品でようやくやってこれていた、というのが実情。
興行収入でみても、宮崎作品を超える他の人の作品はなかったらしい。

たしかに、テレビでやっていたが、すごく細かいアニメーションだと思う。
どうしてもアウトソーシングや派遣アニメーターなどを使うと、その細かい打ち合わせができなかったりする。
それを宮崎監督は嫌ったのだと思う。

ジブリ以外の作品を見ると、エンドロールに沢山の協力者が出てきたりする。
中には中国の会社や人もいたりしたと思う。
そういう安価なところで作るアニメもある。
それなら黒字化ができるが、どうしても細かいところは諦めざるを得ない。

アニメがデジタル化されて、色の指定が数値でできるようになって、アウトソーシングができるようになったと聞いたことがある。
それまでは外部で作ると微妙に色が変わったりして、難しかったのだろう。
デジタル化されても、細かいところはうまくいかなかったり、何度もやり直しができなかったりしたのだと思う。
ジブリのやり方は極めて日本的だったのだ。
丁寧な仕事、職人を揃えて初めてできる手法だろう。

それがグローバル化の波に飲まれて、採算がとれなくなってしまった。

ハリウッドはもうトイ・ストーリー以降、3次元に走っていると思う。
2次元のアニメーションには興味が無いのではないか。

でも、3次元のアニメにはない魅力が2次元の絵にはあると思う。

日本のアニメの技術を残してほしいところだが…。

グローバル化の動きには勝てないのだろうなあ。

残念。

| | 考えたこと | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
小田和正の話
BSで11時過ぎから吉田拓郎と小田和正の対談をやっていた。

番組中で30代の小田の歌が流れたが、やっぱり今とは声が違う。
楽に出ていたんだなあと思う。

オフコースで「さよなら」でブレイクして、キャーキャー言われるのが嫌だったという。
30にもなって、キャーキャー言われている年じゃないだろう、ということを言っていた。

翻って今、小田和正はもう66歳。
こないだの小田日和というアルバムでは「そんなことより幸せになろう」という曲で、「楽しく生きよう」と歌っている。

小田の「楽しく生きよう」という歌詞を聞いたのは、初めてのような気がする。

66歳になって、やっと「楽しく生きよう」と思えたのか。
この人、やっとちょっと楽になったんだなあと思う。

小田和正は残された時間をどう使おうと思っているのか。
吉田拓郎と70歳になったら、もうシンドイだろう、ということを言っていた。
ただ、一年後くらいのことは考えないと、事務所が困るというようなことは言っていた。

彼は体力を落とさないように、ランニングして身体を鍛えている。
これも番組の中で走っている姿が映っていた。
やっぱりストイックだ。
だからこそ、あれだけアリーナで走りながら歌えるんだろう。

「君を抱いていいの」というYes-Noの歌詞をだいぶ吉田拓郎にからかわれていたが、あの甘いラブソングを歌っているのとはだいぶ違う本人がいる。
どちらかというと、義理とか、義務とか、裏切らないとか、そういうところを大事にする、体育会系だと言われていた。

ぼくはきっと付き合えないタイプの人だ。

ぼくは二人ともずっと聞いてきた。

これからどれだけ聞けるかわからないが…。

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筋肉
ジムでボディ・コンディショニングというのをやっている。
週に1回、コーチが見てくれるのだが、ここ30年ほどサボっていた筋肉がよくわかる。

「腹式呼吸は知っていますか?」と聞かれ、知っていますと答えたが、やってみるとできていないらしい。
もっとお腹に力を入れて、とコーチは言うが、こちらは入れているつもりでも、力が入っていない。
あまりにできていないので、やり方を訓練することになった。

それで毎日、腹式呼吸の練習をしている。
ゆっくり下腹で呼吸して、しばらく止め、ゆっくり吐くだけなのだが、呼吸する時に膝を90度曲げて、ボールを挟んでやる。これが最初のうちはキツイ。
だいぶ慣れたので、最近は楽になった。
コーチは「これは腹筋のインナーマッスルを鍛えることになります」と言っていたが、まさにその通りだ。
この部分の筋肉は、今までまったく使われておらず、今回初めて鍛えられたようだ。
文字通り、下腹に力が入るようになった。
この感覚は初めてなので、感激した。

それができるようになると、手と足のつながりを改善しましょうという。
右手と左足、左手と右足が交差してつながっているとのこと。
寝転んで、右のひじで左足の膝を触るのを5回、反対を5回やると情けないほどシンドイ。
たしかに、バランスが悪いのはよくわかる。

コーチも呆れたようで、水中でももを上げて歩く練習をすることになった。
それから、水中もも上げ歩きを始めたが、これはなかなか効果がある。

人間の筋肉というのは、意識しないとほったらかしになっているようだ。
もちろん、普段から運動をしている人はそんなことはないのだろうが、ぼくのように運動はできたら避けたいと思っている人にとっては、ほったらかしだ。
クルマ通勤がそれに輪をかけた。

それを何とか元に戻したいと思っている。

目標は大学時代に買って置いてあるジーンズが履けること。

そこまでいけるかどうか…。

でも、今回は頑張る予定。


| | 考えたこと | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生の役割
ドナルド・E・スーパーという人はアメリカのキャリアについての学者だが、人生の中で人が演じる役割についてまとめている。
スーパーの「ライフロール」というものだ。

人は生まれた時は、誰でも「息子・娘」の役割を演じる。
まあ、人は誰でもどこかの親から生まれるわけで、誰かの息子か娘としての役割を演じなければならないことになる。
生まれてから成人になるまではとりあえず「息子・娘」として生き、独立した時点でその役割はちょっとお休みで、歳をとって親の介護などが必要になった時にはまた「息子・娘」に戻る。

二つ目の役割は「学生」だ。
保育園、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学など、今の社会では教育は必須だから、その歳に応じた学校で「学生」になる。
この時期が短い人は「息子・娘」の役割も短かめになるのだろう。

その次は「職業人」だ。
独立するためには仕事をしないといけない。
このあたりが、アメリカ的かもしれない。

次に「ホームメーカー」という役割になる。
家のことをする人、ということだ。
独立して家を構えたら、ホームメーカーになる。

そして、「余暇を楽しむ人」。
仕事と生活必需時間以外の余暇を楽しむ、という役割。
これを役割というところが、アメリカらしい。
本を読んだり、テレビを見たり…、これもたしかに役割だ。
定年したら、この役割が増える。

そして、「市民」。
選挙に行って国民の権利を遂行したり、ボランティア活動などはこの役割にあたるだろう。

これが全てだという。
「え、これで終わり?」という人もいると思う。

「親」の役割はどうなるの?ということだ。
必ずしもみんなが「親」になるわけではないから、スーパーは「ホームメーカー」という役割をそれに当てたんだと思う。
たしかに、独立しても独身でいたり、結婚して二人になったり、子どもが出来て親になったりする。
ここのところは表現が難しい。

でも、生まれた時は「息子・娘」であるのなら、「親」の役割もあっていいと思う。

「ホームメーカー」には「親」の役割は明確には書いていないようだ。
アメリカでは、親の役割はあまり大きくないのかな。
スーパーがこのライフロールを発表した1950年代後半は、まだアメリカの離婚率は低かったろうし、親の役割はそこそこあったと思うのだが…。

キャリアに関する限り、「親」の役割は小さいのかもしれない。
スーパーはキャリアの学者だったから、「親」の役割を作るよりも一般化をしてそれを「ホームメーカー」にしたのだと思う。

たしかに、アメリカでは成人になったら、家を出て、自分で暮らすというのが普通だと聞いた。
今は不景気でそうでもない人もいるらしいが…。
でも、ひきこもりはいない、というのは本当らしい。
ひきこもっていたら、誰も面倒を見ないので餓死するからだ。

このへんの社会の差は大きいと思う。

スーパーが日本人の学者なら、「親」をホームメーカーの役割に書いていただろう。


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「学校は変」
もう一つ、学校の話題。

「学校は変」という記事を読んだ。

さすが保護者は東大の教授である。
大学教授というのは比較的時間が自由になるから、PTAに関わることができる。(こういう発言も職業差別的にはダメなんだろうなあ)

実際に行ってみると、保育園の時と違って、PTAは女性の集まりだったという。
この人、ジェンダー論研究者だから、性差別には敏感だ。
自分がいる場で、先生が「あとはお母さん方で適当に決めていただいて」という「差別発言」があったりする、という。
まあ、自分でも変人だとわかっているので、それはかまわない。

それにしても、おかしなことが、自分の子供が行っている公立の小学校で起こっている、という。
「ワケのわからない規則」が多い。
ちょっと長くなるが、引用すると、

「まず戸惑ったのが、わけのわからない規則の多さです。6年生の保護者会の場で、担任の先生が「シャープペンシルは認めません」と言うので、「なぜですか?」と聞くと、「正しい字を書けるようにするためです」。
「シャーペンでは正しい字が書けないという科学的な根拠があるのですか?」と聞くと、「ありません」。「根拠もないのに、なぜそういう規則を課すのですか?」「キャラクターものなどもありますから」「それはなぜダメなのですか?」「値段が高かったりして……」「ならば、図柄のないシャーペンならよいのではないですか?」。
もう禅問答です。「それは規則では許されません、なぜならばそれは規則だからです」という同義反復。どう考えても教師自身が、自分の頭で考えて発言しているとは思えません。
これは子どもに向かって「ものを考えるな、黙って従え」というメッセージを発するもの。フーコーの指摘するような、思考停止をさせての規律訓練です。軍隊や刑務所がとるやり方で、学校という教育の場でこんなことをやるというのは、子どもを画一化された「工業製品」としてしか見ていないことの証左です。出る杭を打って、潰して、均(なら)していく、というのが実態と言わざるをえません。
日本の大学生が、日本でも、海外でも、ゼミの討論のときに黙ってしまうのは、こうした思考停止と関係しています。規則や現状を追認するのではなく、「問題点に気づき、論理的に考え、言語化し、議論する」というトレーニングをさせない環境を、日本の公教育自体が作り出しているからです。これでは独創的な発想は生まれず、一歩世界に出ると、沈黙するだけです。」

普通の人なら、まあ仕方ないか、と聞き流すところに引っかかり、突っ込むところはさすがである。
この人の言っていることは正しいと思う。
この後は、家庭における役割とジェンダー(女性がやるか、男性がやるか)という話になって、講演で聞いた女性の教育長を批判している。

申し訳ないが、ぼくはジェンダーの話より、この話の方が問題だと思う。

義務教育の問題は教科書や教える内容の問題よりも、教師の質の問題であり、そこを底上げしないと日本の将来はないと思う。
特に、現代のように「考えること」を要求する仕事しか、正社員としてはなくなってきた時代だからこそ、そこを何とかしないといけないように思うのだが…。

ぼくらの小学校の頃は、そんなに校則はなく(あったかもしれないが、意識しなくてもよかった)、シャープペンを持って行ってもよかった。
世の中では先生はえらいものだ、と思っていて、年配の先生も多かった。
ウチの親父は「でもしか教師」という言葉を使って、あまり先生のことをよくは言っていなかったが、子供心にそういうことは言ってはイケないのではないか、と思っていた。
世の中にそういう空気があったんだろう。

そのせいか、学園ドラマも先生が主人公で、生徒は脇役だったなあ。
もう今は学園ドラマもなくなってしまったが…。
「青春とは何だ」「これが青春だ」は日曜日のゴールデンタイムにやっていた。

つらつらと、小学校の時の先生の顔を思い出してみると…

小学校1年生の担任は女性のT先生。当時40歳くらいだったろうか。
2年生はM先生。こちらも女性だった。
3年生の時の先生は思い出せない。誰だったかな…。
4年生の時はK先生。女性の年配の先生だった。
5,6年生はI先生。男性の当時30代だったと思う。今でも年賀状のやりとりをしている。

当時(昭和37年〜43年)の小学校の先生は、旧制の教育を受けた先生がほとんどだっただろう。
高度成長の時代の入り口で、子供の数が多く、クラスの人数も45人程度が普通だった。
今の小学校のように、大学生がお手伝いで入ってくることなどなく、全く一人で教えられていた。
年に2週間だけ、教育実習があったと思うが、ほとんど覚えていない。
ぼくが6年生の時に、初めて学校を出たての女性の先生が1年生の担任になって、何となくこんな若い人も先生ができるのか、と思った事を覚えている。

世の中が、先生がエライものだという雰囲気があったから、授業中に騒ぐやつなどいなかった。
ちょっとやかましくなっても、先生が一喝すれば黙った。
先生は怖かったのだ。
給食費や教材の費用、修学旅行の積立などは、事情があって出せない人もいたかもしれないが、お金があるのに滞納するような家庭はなかった(と思う)。

今のように、その子の頑張りに応じて成績をつけることなどしない。
その子なりに頑張ったから、5がつくなどということはあり得なかった。
世の中はそんな優しい評価で動いていないからだ。
第一、そこには先生の主観が入る。どうしても先生の好き嫌いが入ってしまう。
どんなにエライ人でも、完全に公平にはできない。それが人間というものだ。
だから、客観評価(要はテストの点数)で評価する。
主観評価は別のところに書いてあった。

この記事を書いた先生は不満かもしれないが、ジェンダーの問題も無視されていた。
運動会は男女別に種目があったし、出席簿は男性が先だった。
そんな、今の教育からすれば、おかしなこともされていたが、そんな時代だった。
ぼくはそれでよかったと思う。

話は戻るが、この人が言っている「どう考えても教師自身が、自分の頭で考えて発言しているとは思えません」という事が深刻なのだ。
ぼくも子供の小学校に何度か行って、オカシイと思ったことがある。
考えたら、わかるはずなのに、考えてないのだ。

学校というところに長くいると、思考停止になってしまう。
そんなシステムになっているのではないか。

それは根が深い問題だろう。


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