考えたこと2

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遙かなるケンブリッジ
遙かなるケンブリッジ 一数学者のイギリス 藤原正彦著 新潮文庫

藤原正彦の本は読みやすく、面白いので買ってあった。
この本は若いころアメリカに留学した著者が、結婚して大学の教授になり、そしてイギリスのケンブリッジ大学に1年間の研究滞在した時の紀行記。

寝ながら読んで、今日は大阪に電車で出張だったので、電車の中と喫茶店で読み終えた。

ケンブリッジ大学はオックスフォードと並んでイギリスの頭脳と言ってもいい。
数々の近代の自然科学分野での発見をした学者たちが、ここの出身。

家主と話をしていたら、祖父の話になり、話を聞いていたら家主の祖父はノーベル賞をもらっていた、ということだ。
イギリス紳士は自慢することを毛嫌いし、慎み深さを尊ぶという。
威張れることがあったら素直に威張る、アメリカ人とは対照的とのこと。
また、必死に頑張るのは性に合わないらしい。
実績のあるケンブリッジの教授にして、半分の力でしか研究していないのではないかという。

この本の一番のクライマックスは次男がいじめにあったことだろう。
イギリス人の人種差別について、実際の経験に基づいて語られる。
ロウアークラスの人々の、アッパーミドル以上の人に対する敵意もすごいものがある。
これらのロウアークラスの人々をどうしていくかが、イギリスの問題だ、という。
平成3年の刊行だから、今から22年前。
サッチャーが首相の頃である。

結局は校長に直談判し、解決を見る。

でも、そこに至るまで家族の葛藤がある。
異国の地で大変だったろうと思う。

この当時は日本はまだ豊かだった。
豊かさのちょうど終わりの時期。
ある意味絶頂期だったのかもしれない。

だから、著者も日本と比べて、イギリスの凋落を憂いている。

しかし、今の日本も同じこと。
もちろん、経済的にはまだイギリスよりもマシ。
ただ、生活の質や伝統を考えると、イギリスはまだ豊かかもしれない。

色々と問題を抱えた国ではあるが、しぶとい国だと思う。

それには、ユーモアが絡んでいるのかもしれない。


| | 考えたこと | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の会議
日本人の会議には2種類あるらしい。
どちらが普通の会議かはわからないが…。

一つは討議するための会議だ。
何か課題、問題があって、それを討議するために会議をする。
辞書で「会議」をひくと、「関係者が集まって、相談をし、物事を決定すること」と書いてある。
文字通りこれが会議だろう。
長らく、それが会議だと思っていたのだが、どうもそうではない会議もあることに気がついた。
これが二つ目の会議。
それは、何といったらいいのか、議事が最初から決まっていて、それを決めていく会議とでも言うか…。

それらの議事について、本気で議論してはいけない。
本気で議論しようとすると、異端者と思われ、排除されるというようなメンバーが集まっている会議だ。
それらの議事について、カタチだけ話し合ったという記録を残すための会議と言ってもいい。
その目的を達するために、会議に先立って議題整理という準備がある。
この会議でどんな議題が話し合われる予定か、ということを議長に説明する。
そこで、根回しの状況などが確認される。
つまり、会議の前に合意形成が行われる。
それがちゃんとしていたら、別に構わないのだが、これがすべてのメンバーの知恵を出し合って討議した結果とはとても思えず、一部のメンバーだけで決めた筋書き通りに進めるために行われるということが特徴だ。

会議は何のためにあるか。
それは関係者が集まって、知恵を出し合うために行うのだろう。
いろいろな視点から問題を見つめ、立場を超えたところで合意を形成するのが目的だ。
そういうふうにして、最も効果的な策を打つ。
そのためには、会議のメンバーが等しく討議しないといけない。

そういう会議の役割を無視しているのが、二つ目の種類の会議。

みんなの知恵、立場の違いを超えて、どうするべきかを話し合わない会議だ。

そういう会議がある。

多くの民間企業のサラリーマンには関係がない。

しかし、こういう会議もあるのだ。

残念ながら。


| | 考えたこと | 01:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
Guts
ぼくが中学〜高校の頃は、フォークギターの全盛期だった。

通学の途中に大学があったが、そこの学生がたくさんフォークギターのケースを持って歩いていた。
中身が空のものもあったのではないか、という人もいた。
それくらいのブームだった。

高校の頃は毎日ギターを弾いていた。
「Morris持てばスーパースターも夢じゃない」というコピーが懐かしい。
あの頃が一番よくギターに触っていた頃だと思う。
毎晩、勉強の合間にギターを出してきて弾いていた。

中学の頃はサイモンとガーファンクルのフィンガーピッキングをやっていた。
俗にいうスリーフィンガーというやつ。
最初はドナドナから入り、おとなしくアルペジオで弾いていたが、ポール・サイモンが出てきてこっちや、と乗り換えた。

あの頃出ていたギターの月刊誌がGutsとYoung guitar。
他にもあったが、ぼくはだいたいこれだった。
毎月、どちらかの雑誌を買って、気に入った曲を弾いていた。

Gutsは1969年創刊、いつか廃刊になった。
たくさんスコアが載っていて、たまに気に入った曲のギター譜が載っていたりした。
ポール・サイモンの曲もこれで覚えたような気がする。

この頃の邦楽はまだJ-popと呼ばれるようなジャンルはなく、フォーク、歌謡曲が一緒に載っていた。
と思ってWebで調べてみたら、Gutsの古本を売っているサイトがあった。
創刊3号は18000円もする。
内容はこんなもの。

1969/9 NO.3 集英社 創刊三号
表紙:岡林信康 // 裏表紙〜風が落した涙:小川ローザ〜 // 『 アルペジオ奏法をマスターせよ〜山羊にひかれて、フランシーヌの場合 、禁じられた恋 、ボクサー〜 』 // 『 シューベルツ・杉田二郎くんが作った新曲:朝日の前に』フォーク・ソングはどこへ行く:杉田二郎にインタビュー // 友よ夜明けは近くない:表紙の人・岡林信康に聞く // 新ドラム教室〜リズムの研究:田畑貞一“宮間利之とニューハード”〜 // 今月の最新LP・シングル評// 『 新曲パーフェクト・スコア 』すてきなミュージック:モンキーズ / レッツ・ダンス:オーラとジャングラーズ / 平和を我等に:プラスティック・オノ・バンド / 可愛いあなただから:ズー・ニー・ヴー / 帰らなかったケーン:テンプターズ / 蒼い砂漠:シルクロード / 美しい誤解:トワ・エ・モワ / 悲しみは駆け足でやってくる:アン真理子 / みち:ジャック & ベティー / ミッドナイト東京:川辺妙子 / 涙でいいの:黛ジュン / ガイコツの唄:岡林信康 / 貝殻節:五つの赤い風船 / 死んだ男の残したものは:高石友也 //ジャズの名曲シリーズ:A列車でいこう // 『 マンモス・スコア特集 』昭和ブルース:ブルーベル・シンガーズ / 希望:フォー・セインツ / 七つの水仙:ザ・ブラザーズ・フォア/ アクエリアス・輝く星座:フィフス・ディメンション // オーディオへの挑戦〜エレキ・アンプのQ & A:高橋健二“ブルー・コメッツ”〜 // 『 新連載:野坂昭如のガッツ天国 』 // ジャズ・ギターへの挑戦〜知らないコードをなくそう:沢田駿吾〜 // MUSIC GUIDE // 作曲添削ルーム // *綴込PIN-UP〜ブラザーズ・フォア 、弘田三枝子 、YAMAHA MISIC CAMP〜付

小川ローザ、懐かしい。ミニスカートが風になびくCMは名作だった。
シューベルツ、岡林信康、五つの赤い風船、高石ともやなどフォークも健在だ。
モンキーズが現役だった。テレビでやっていたなあ。
ズー・ニー・ヴー、テンプターズなどグループサウンズも残っていた。
トワ・エ・モアも上手だった。解散してしまったが…。
昭和ブルースも流行った曲だ。
「うまれた時が 悪いのか それとも俺が 悪いのか 何もしないで 生きてゆくなら それはたやすいことだけど…」
なんとも言えない退廃的な歌詞。まだまだ経済は成長していたが、なんか世の中に不満がたまっていたのだろう。
洋楽はブラザーズ・フォアとフィフス・ディメンションが載っている。

おまけにブラザーズ・フォアと弘田三枝子のピンナップが付いている、というのが時代を表している。
この時代、洋楽と邦楽はあまり分けられていなくて、どっちも普通に聞かれていた。

たくさんGutsを持っていたが、みんな捨てた。
必要な物は切り抜いて、箱に大事に入れていたのだが、引っ越しを繰り返してなくなった。

今持っていたら、どうするだろう…。

| | 考えたこと | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
希望のない時代
バブルがはじけて以降、日本は活力をなくし、失われた20年と言われている。

デフレ、デフレだというが、貯蓄率は高くて、中高年はお金を持っている。
ただ、それを使う気にならない。
将来が心配だからだろう。

今の中高年は高度成長の時代を生きてきた。
明日は今日より豊かだという確信があった時代。
給料は毎年上がり、部署は増え、管理職も増えた。
しかし、この20年は低成長で日本というシステムがおかしくなっている。
高度成長を支えてきた、終身雇用、年功序列賃金という制度がもう崩れている。
それを維持しようとするために、非正規雇用が増えて、今や労働者の半分近くがパート、派遣、バイトなどの労働者になった。

IT化がそれを促進した。
スキルが必要な仕事は簡略化され、だれでもできるようになった。
だから、非正規が増えた。

そんな状態で、将来に希望が持てるわけがない。

安部首相は「強い日本」をもう一度取り返そうとしている。
そんなことは可能なのか。
とてもそうは思えない。

20年かけて、高度成長のストックを使い果たし、1000兆円の借金を将来に残している。
日本のGDPの2倍だ。
日本の借金は日本人の貯蓄で返せると言っているが、みんなが国債を売ったらどうなるのだろうか。
財政が破綻してしまう。

これで希望を持てというほうがおかしい。

希望のない時代だということを認識したほうがいい。

下手に希望を持たせるようなことは逆効果だ。

高度成長時代のシステムを早く入れ替えて、低成長に対応しないといけない。
年金や社会保険の制度など、払う人よりもらう人のほうが多いのだから、持つはずがない。

そんなふうにみんな考えないだろうか。

日本はもう世界2位の経済大国ではない。
将来にわたって、世界3位を維持できるとも思えない。

でも、世界にとって必要な国になることはできると思う。

そのためには、日本の現実を認識しないといけない。


| | 考えたこと | 01:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
卵かけごはん
卵かけごはんというのは、日本独自のメニューだと思う。

実際、「卵かけごはん」をWikipediaで調べてみると、「日本以外の文化圏で育った人にとって、生卵を食する習慣はカルチャーショックであり、時にはゲテモノ食と映る可能性もある。」と書いてあった。
生卵をそのまま食べる国はほとんどない。
ロッキーの映画で、ジョッキに生卵を割って3つほどを丸呑みにする場面はあったが…。

ぼくは苦手だ。

高校の時、どこかに泊まりに行って朝ご飯というと、生卵が出てきた。
これが出てくるのがイヤだったのだが、仕方なく食べていた。
あれが好きな人がいるのだから、困る。

卵を割って器に入れ、箸でかき回し、白身と黄身を混ぜる。
完全に混ざるまでかき回す人もいるし、ある程度分離したままでもOKの人もいる。
醤油を先に入れる人もいるし、後で入れる人もいる。
醤油の量も人それぞれであり、多めの人もいれば、さっとかけるだけの人もいる。
ご飯に箸で穴を開けて、卵を入れるところを作る人もいれば、そのままかける人もいる。
ご飯にかけた後も、完全にご飯が黄色くなるまでかき混ぜる人もいるし、かかった部分とかかっていない部分がまだらでもOKという人もいる。
そのまま食べる人もいるし、味付け海苔を一緒に食べる人もいる。

こう考えると、卵かけごはんほど人によってバリエーションがある食べ物はないのではないかと思えてくる。

会社に入って、長らく出張続きの日々を送ったが、ビジネスホテルの朝ご飯が生卵だった。
これは目玉焼きにしてほしい、というとしてくれたのでラッキーだった。
めんどくさい客だと思われたのだろう。

しかし、日本は卵が新鮮だから、生で食べることができるのか。

ぼくらはいい国に生まれたと思う。

ぼくは嫌いだが、卵かけごはんが食べられる国だ。

新鮮な玉子が食べられる国、日本。


| | 考えたこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
定年
会社にいたら、あと3年ちょっとで定年という年になった。

大多数のサラリーマンは定年を迎えるとき、何が懸念事項だろう。
とりあえず、経済的にどうするかという問題はある。
その場合は再雇用を希望するなり、別のところで働くことを考えないといけない。

それは定年とはちょっと違う。
定年とはこの先働かなくてもいい、という状態だ。
そういう制度がいつまで続くかどうかはわからないが…。
少子高齢化で労働人口が減るから、働ける人はもっと働かなくてはならない、ということだ。

しかし、いつかはもう働けないという時が来る。
あるいは、もう働いてもらわなくてもよい、という日だ。

それを喜ぶ人もいるし、それは困るという人もいるだろう。
これは難しい。

もう働かなくてもいいということと、働きたくないということが一緒ではないからだ。

一日24時間、そのうち8時間は仕事だが、それがなくなると何をしたらいいか。
今までたくさんの定年する人を見てきたが、本当に仕事をやめてからのことははっきりとはわからない。
たいがいは定年とは名ばかりで、まだ仕事を継続するからだ。
でも、何人か第二の定年を迎えた人もいる。

趣味は一番の暇つぶしだろう。
園芸とか、スポーツとか…。
でも、趣味を1日8時間やれば、それは趣味ではなくなるから難しい。
仲間と山歩きという人もいる。

NPOの団体で活躍する人もいる。
そういう活動が出来る人はいいと思う。
自分の仕事時代の特技を活かして活躍する人もいるらしい。

いずれにせよ、人間は社会的な動物だから(というより社会的でなければ生きられないシステムを作ってしまったから)、ある年齢までは社会とつながって生きていきたいものだろうと思う。

仕事をしている時には、こんな仕事もう辞めたいと思うこともあるが、いざ仕事がなくなるとこれは大変だとも思う。
しかし、仕事がなくなると大変だから続けようと思うのも、今ひとつの考えだろう。

やっぱり、世の中から必要とされている、という感じがいるのだろう。

会社や組織で働いている時には、それがあるのだが、一人になったら必要とされているという感覚はなかなか得られないと思う。

さて、ぼくは何をすべきか。
ぼちぼち考えないといけない。


| | 考えたこと | 00:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
メガネと腕時計
会社をやめた時に退職金をもらった。

その退職金で腕時計を買った。
それまで自分で買った腕時計といえば、カシオのデジタル時計くらい。
ちょっと高かったが、文字盤が凝っている時計を買った。

まだ目がよくて、細かい字が見えた。
2005年だった。
でも、すぐに老眼がきつくなって、文字盤が見えなくなった。
時刻はわかるのだが、細かい日付や曜日の文字は見えない。

もちろん、デジタル時計でも小さな文字は苦しいので、大きな文字で時刻だけを表示するものを普段用に買った。

しかし、老眼がきつくなって、文字が見にくい。
そこでアナログの時計に変えた。
日付の文字が大きなダブルデイトというタイプのものだ。

曜日はなく、2つのまどで日付が示される。
1日は01、2日は02、10日は10というふうになっていて、31の次は32になるのが面白い。

そうこうするうちに、本当に普段からメガネを掛けないとしんどくなってきた。
そこで、遠近や中近のメガネを作った。
そうなると、老眼のメガネをかけなくても腕時計が見えるようになる。

また、自分の好きな腕時計を使うことができる。
見える、見えないを考えなくても腕時計を決めることができる。

年をとると、メガネと腕時計の関係はなかなか深い。


| | 考えたこと | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学校の教師
文科省の学校基本調査によると、小学校の数は20837校。
そこに650万人の小学生がいて、41万人の先生がいる。

平成22年には、「懲戒処分を受けた学校教諭の数は905人。訓告等及び諭旨免職まで含め、懲戒処分等を受けた数は4,304人に上る」という。

41万人で4304人ということは、全体の1%が懲戒処分を受けている、ということになる。

これははたして正常な数字なのだろうか。
よく教師の不祥事がニュースになるが、それは教師だからニュースになるのだろうか。
一般人なら取るに足らない?ことでも、教師がやるから取り上げられるんだろうか。

ぼくの感覚ではちょっと違う。

2000人の会社なら、1年に2人の勘定。
ぼくの25年の会社生活で、懲戒など見たことがない。
就業規則に規定はあるが、そんなものは書いてあるだけだ。

懲戒にあたるのは、警察のお世話になるとか、よほど会社の評判を傷つけるとか、犯罪にはならないがそれに近いことをしたとか、そんなケースだろう。
普通は1%もないはずだ。
懲戒とは業務上のことではなく、それを超えた社会的な問題を起こした時に与えられる。
業務上の失敗なら、始末書で済む。

盗撮、わいせつ、飲酒運転など。

なぜそんなに懲戒が与えられるのか。

わけがわからない。

小学校というところが、社会の常識からかけ離れた職場なのかもしれない。



| | 考えたこと | 01:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
バブルの時代
バブルの時代というのは1986年から1991年あたりを言うらしい。

この時代は世間に金が溢れた。
土地が馬鹿みたいに値上がりし、そこに銀行が先を争ってお金を突っ込んだ。
正確には銀行が突っ込んだのではなく、突っ込もうとする輩に融資したのだが…。

世間はそうだったが、ぼくのいた会社では金が溢れたりはしなかった。
少なくとも社員には回ってこなかった。
会社は、流行りのコーポレート・アイデンティティというのを、コンサルを入れてやったり、相次いで海外の会社を買収したりしていた。
やっぱり日本にお金が溢れていたんだろう。

娘が証券会社に入ったという人が、そのボーナスの額を聞いて驚いていた。
まじめにメーカーで働いているのがバカバカしい、という感想だった。

銀行や証券会社は馬鹿みたいに儲かり、文系だけでは足りず、理系の学生もたくさん入っていた。
この時にシーマやセルシオが発売され、金融系のサラリーマンが乗っていた。
600万、700万というクルマに乗れた時代。今なら考えられない。
山一證券と北海道拓銀が潰れたが、その他は救われた。
名前は変わったり、合併したりしたが…。

ゴルフの会員権の値上がりもすごかった。
こんなところでゴルフをするのか、というようなところにもゴルフ場ができて、売り出しとなると高値がついた。
まだできていないゴルフ場まで、会員権を売っていた。
もちろん、そんなゴルフ場は後日不良債権となって、処分されたのだが…。

日本中が喧騒の中で踊っていた。
六本木のマハラジャというような店で、文字通り毎夜踊っている人もいた。

バブルの元はアメリカの要求だったかもしれないが、資本を回転させ、再生産するところに投資をせず、銀行の役割を忘れた所業だったと思う。
大蔵省が主導で銀行や証券会社が踊った。
この時、金融でムチャをした人たちが何一つ責任を取らず、結果的には税金を投入して国が後始末をした。
このことが日本人がマジメで、勤勉だ、という常識を変えたと思う。

ここから失われた20年が始まった。
それまでかろうじて3%台の成長を保っていたが、低成長、マイナス成長の時代に入った。

その影響は経済的なものより大きいと思う。

これがバブルの時代。




| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
何のために宿題をするのか
長男が中学だったか、「お父さん、宿題するのは何のためか知ってるか?」と聞いた。

いきなりそんなことを聞かれても、なかなか答えられない。
長男は「宇宙のためにやるねんで」と言った。

担任の先生が言ったらしい。
その時彼が理解していたかどうかはわからない。
先生がどういう意図で言ったかどうかもわからない。

しかし、「宇宙のために宿題をする」というのはすごい言葉だ。

先生はどういう意味で言ったかわからないが、想像するに「宇宙のため」というのは「全存在のため」ということだ。
全存在のために宿題をする、というのは「より善く生きるために宿題をする」という意味だろう。

普通の先生は「宿題をするのは自分自身のため」というところだろうが、この先生はそうではなかった。

中学生にとっては、なんだか分からないが、自分が宿題をすれば宇宙のためになる、ということで何となく納得したのかもしれない。

自分自身のためではなく、自分を超えたもののために宿題をする。

教育の本当の目的は、自分の利益や損得を超えたところにないといけないと思う。

本当の教育をしていれば、道徳など教えなくてもいい。

こういうことを言える先生はエライ。


| | 考えたこと | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
愛の街から
鐘の音・・・
「Cite de l'amour... 愛の街。L'amour de la ville... 街の愛。ね、どちらがお好み?」
「私たちは今、数限りない愛の物語を知っています。そしてまた、数多くの未知の物語も持っています。さわやかな旅の街にそんなスケッチを求めて、愛の街から・・・」

このナレーションを覚えている人がどれくらいいるか…。

「愛の街から」という番組のアーカイブサイトができている。
http://aimachi.net/sitemenu.html
確かによくできた番組だったと思う。
毎回、男女をテーマにしたラジオドラマで、一話聴き切りで放送。
毎回違う土地が舞台になっていた。

萩尾みどりと久富惟晴がキャスト。
ぼくの中では、「愛の街から」というと、この二人しかいない。
萩尾みどりの舌足らずな話し方と、久富惟晴の渋いがコミカルなところもある役作りがこの番組の魅力を作っていたと思う。

アーカイブサイトを見てみると、ラジオドラマとしては大成功だったらしく、トップ3に入る時もあったらしい。

FMはぼくが中学校の時に本格的な放送が始まった。
ステレオで放送される、というのが画期的だった。
それまではラジオといえばAMだけだった。
1970年にはFMラジオがたくさん発売された。FM大阪が開局したからだ。

この年、マイラジオを買ってもらった。
ソニーのソリッドステートIC11というモデル。
電界効果トランジスタ(FET)とICが採用されたモデルだ。

ウチでは電気製品はソニーが良いとされた。
ソニーはまだ世界のメーカーにはなっていなかったが、ぼくの小学校の時に父が買った手のひらサイズのソニーのトランジスタラジオが初代だった。
もちろん、その前は真空管ラジオだ。

そのFMで77年から始まったのがこの番組。
ぼくが聴いていたのは、79年あたりから80年。ちょうど会社に入った頃だ。
80年の3月で萩尾みどりが降板し、ちょうど仕事が忙しくなってきたこともあって、聞くのをやめた。

ライミーとヨージというカップル名。
時々違う名前でもやっていたが、ライミーとヨージというとあの番組を思い出す。
萩尾みどりがいろんな女性をうまく演じ分けていた。
ただし、大阪弁のドラマはもうひとつだった。

ドラマの中に音楽が挿入される。
ほとんどが洋楽だった。
時にユーミン特集などがあった。

日曜日の朝、鐘の音が鳴って始まる。

音楽もよかったし、二人のキャストも魅力的だった。
新しいFM時代のラジオドラマだったと思う。

最近やたら昔が懐かしい。

| | 考えたこと | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
石油の時代
石油の時代はいつから始まったのだろうか。

石油がエネルギー源として利用されるようになったのは、1900年あたりから。
第二次大戦後には石油を原材料として化学製品を作るという、石油化学工業が発展したとのこと。
ぼくらは石油がエネルギー源としても、化学製品としても使われるようになった時代に生まれた。

今石油がピークアウトしようとしている。
埋蔵量が減ってきているのが明らかになってきたのだ。
これをピークオイルという。

石油の寿命はあまり長くないのだろう。
1900年から数えて100年ちょっとで、ピークアウト。
このまま地球の人口が増え続け、石油の需要も増え続けたら、2100年まで持たないだろう。

ぼくが生まれたのは1957年。
おそらく2030年くらいには死ぬ。
石油に不自由しなかった時代。
プラスチック等の石油製品を使いまくって、消費した時代。
クルマに乗ってガソリンを使いまくった時代。

この時代はひょっとしたら人類が石油という富の元を手に入れ、それを浪費した時代として後世から位置づけられるかもしれない。

残り少ない富の元である石油を、どう使っていくのがいいのか。
単に燃やして使うのはもったいないような気がする。
石油を原料として作っている、石油化学製品の方がマシか。

そういう意味では、世界中で走っているクルマはハイブリッドから、電気自動車になっていかないとイケナイ。

燃料電池はまだまだ実用化されないから、とりあえずは家庭の電気を蓄電して走るタイプだろう。
その家庭の電気を作るのは、石油ではダメだ。
公害を考えると石炭でもダメだ。

当面は原子力、早い時期に地熱や風や波や光で発電するようにならないといけない。
それらの効率を上げる技術は不可欠だ。

急がないと、石油の時代が終わってしまうぞ。

| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
人は見かけによる
子供が高校の頃、保護者会に出たら、ちゃんと制服を着ていない生徒(異装)の話があった。
その時に先生が言った言葉が印象的だった。

異装の学生を注意すると、「人を見かけで判断してはいけない」という事を言う生徒がいる。
しかし、それは端折った言い方で、正しくは「人を見かけで判断したら1割くらいは間違える。だから見かけで判断したら間違うかもしれない。」というのが正解だ、という。
つまり、9割は人は見かけで判断して正解だという。

ぼくもそう思う。

海外に行くとそれはもっと顕著だった。
フランスにいるとき、アラブのテロが頻発しており、空港で爆発などがあった。
その時は空港近辺には警察がたくさんいて、道行く人で怪しいと思った人を検問していた。
一目見てフランス人という人はOKだったが、ラフな格好でウロウロしていると目をつけられた。
でも、スーツ姿でネクタイをしていると、フリーパスだった。
不特定多数の中から、誰か怪しいやつを見つけようとすると、どうしても見かけで判断することになる。そして、それはかなりの確率で正しかったのだろう。

だから、TPOに合わせて服装や身だしなみを整えることは大事だ。
海外で異邦人状態でいるなら、日本より少し身だしなみを気にしたほうが安全だ。

それは相手を理解しているというコミュニケーション能力であるとも言える。

「いちご白書をもう一度」という歌で、「就職が決まって髪を切ってきたとき、もう若くないさと君に言い訳したね」と歌われる。
ぼくもこの歌詞に共感した一人。
誰しもリクルートカットはしたくない。
それは自由な学生から不自由な社会人になる、ということの象徴だろう。
しかし、通らなければならない道だ。
嫌なこと、しなくてはいけないことができるのか、ということがそこで問われる。

人生は「自分がしたいこと」だけで成り立ってはいない。
圧倒的に「自分がしなくてはならないこと」の方が多いのだ。

今の教育は「自分がしたいこと」を見つけなさい、という問いが多すぎると思う。
そうではなく、「自分がしなくてはならないこと」はどういうことか考えなさい、という問いを増やすべきだと思う。

そうでなければ、社会に出る時にハードルが高すぎて超えられない。

権利も大事だが、義務も大事なのだ。



| | 考えたこと | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラジオドラマ
NHKでやっているラジオドラマが、新日曜名作座。

以前は森繁久彌と加藤治子がやっていた。
長編小説を二人で何役もこなし、効果音を入れてドラマ仕立てで聴かせる。
何度か聴いたことはあるが、長らく耳にすることはなかった。

実家の母に聞くと、今は西田敏行と竹下景子でやっているという。

今はパソコンで録音できる時代。
幸い、通勤はクルマで片道1時間弱かかるので、聞く時間はいくらでもある。
ラジカというフリーのソフトで毎週自動で録音することにした。
パソコンをスリープ状態にしておけば、ほっておいても録音できる。

テーマソングは変わっていない。
古関裕而の作曲。
今は「森浩美 家族小説短編集」というのをやっている。
毎週1回の聴き切りだ。
これはなかなか味わい深いラジオドラマ。
淡々と語られる、という感じ。
西田と竹下の二人で毎回5役くらいを演じ、ほんのりさせる。

今の下手なテレビドラマより、たった二人のラジオドラマの方がいいと思う。
声と効果音だけで、あとは想像に任せる。
下手に視覚の情報がない分、想像が広がる。

ラジオドラマというと、「一丁目一番地」が最初。
ぼくが幼稚園に上がる頃だったか。
内容は全く知らないが、テーマソングは覚えている。
夕方にやっていた。
うちにテレビが来たのが、たしか1960年くらいだったから、それまではラジオが主役だった。

一丁目一番地は1957年〜1965年の放送だから、ぼくが生まれた年に始まって、小学校3年までやっていたことになる。
母が夕飯の支度をしながら聞いていた。
昭和30年代の前半まで、ラジオは生活の中心だった。
今の若い人はテレビのない時代を知らない。
ぼくらもほとんど知らないが、かろうじてそういう母の姿を見て育った。
昭和一桁の人たちにとっては、青春時代は戦争だったが、ラジオの時代を30歳前まで過ごしている。

ラジオドラマというと、大学の時にFMでやっていた「愛の街から」が秀逸。
今でもいくつかカセットテープに録ってある。
これも1時間の聴き切り。
久富惟晴と萩尾みどりがやっていた。
この二人の雰囲気が好きで、メンバーが変わってもこの番組は続いたのだが、他のメンバーになってからはほとんど聞いていない。
調べてみるとWikipediaに立派なページが出来ており、アーカイブサイトもできていた。
これはまた日を改めて書こう。

ラジオドラマは言葉のチカラだと思う。

想像力も聴き手に必要になる。

時代遅れかもしれないが、新日曜名作座はずっと続けてほしい。


| | 考えたこと | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
道徳の教科化
道徳の教科化がニュースになっている。

それによると、「文部科学省の有識者会議「道徳教育の充実に関する懇談会」は11日、会合を開き、正式な教科でない小中学校の「道徳の時間」を教科に格上げするべきだとする報告書案を示した。」ということだ。

ぼくらが小学校の時、文字通り「道徳の時間」というのがあった。
この時間は教育テレビの道徳教材を見て、みんなで話し合うという内容だった。
ぼくの小学校は放送教育全国大会に出たことがある、放送教育の先進校だったから、そういう授業のやり方をしているのかと思っていたが、今でも道徳の時間はあるらしい。

しかし、教科にするということだが、「道徳の時間」から教科にすると何が変わるのか。

ニュースの続きによると、「文科省は中教審の議論を経て平成27年度にも教科化する方針。報告書案では、教科化した後の道徳授業で使う教材について他教科と同様に民間会社が作成し、国の検定に合格した教科書を使用するべきだと主張。記述式で子どもの取り組み状況を評価するのが適当としている。授業は小中ともに担任が受け持ち、教員免許は設けない。」とある。

そうか。教科にすると、教科書が使えるのか。

教科書が使えるということは、学習指導要領というのもできて、指導のポイントなどが文科省で決められるのかもしれない。

今のいじめなどの問題を見ていると、道徳教育は必要かもしれない。

しかし、もっと優先順位が高いものがあるはずだ。
読み書きをどうするのか。
理科をどう教えるのか。
算数でつまずいた生徒をどうするのか。
そちらの方がはるかに大事だと思う。

まず、読み書きできないと、本が読めない。
だから教養が育たない。
教養が育たなければ、道徳が育つわけがない。

中教審の人たちは、何か大きな勘違いをしている。

ちゃんと本を読んで、教養らしきモノを身につけた生徒はほっておいても道徳は身につく。

理科の実験を通して、不思議なものに好奇心を持たせ、算数を教えることで抽象的な考え方を身につけていく。
そんな事をすっ飛ばして、道徳教育など成り立たない。

そうではないだろうか。

| | 考えたこと | 01:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
中央フリーウェイ
中央フリーウェイというと、ユーミンの曲。
この曲は1976年のリリース。
中央自動車道の風景を歌った歌だ。

Wikipediaによると、「中央道を八王子方面へ向かう際に見える在日米軍の調布基地(1974年に全面返還)、サントリー武蔵野ビール工場、東京競馬場など東京都府中市近辺の風景が歌詞に出てくる」と書いてある。

ユーミンは八王子出身。
東京近辺で八王子というと、どういう雰囲気なのだろうか。
大阪でいうと、どこになるのだろうか。

ぼくは関東は全く不案内だが、中央フリーウェイという曲のおかげで、中央道のイメージができた。
東京の人が持っているそれとは違うかもしれないが…。

中央道は都会から自然豊かな郊外へ行く道だと思う。
実際に東京と長野や山梨をつないでいる。
夕方に東京を出て、中央道に入る。
夕闇の中を走っているとユーミンの歌詞の世界。
町の灯がやがてまたたきだして、この道はやがて滑走路になるという情景。

会社に入った頃は毎月茨城県まで、クルマで行っていた。
その時に、何度か中央道を走ったことはある。
東名が何かのトラブルで、渋滞が予想される時だ。
80年代の前半だった。

帰り道、首都高のトンネルの中で、中央道方面に入る。
確かお堀の下だったと思う。
関西の田舎者にとって、首都高は大変だった。
間違えるとワケがわからないところに行く。

実際に走ったのはたいがい昼間だ。

ああ、ここがユーミンの歌に歌われているところか、とは思ったがどこに何があるかわからない。
結局は早く帰りたいと思って、飛ばしていて、なんの情緒もなかった。

 初めて会った頃は毎日ドライブしたのに
 この頃はちょっと冷たいね
 送りもせずに

この曲、たくさんのシンガーがカバーしている。

メロディラインとコード進行が、なんとも言えない心地よさを生み出している。

あの頃はよかったなあ。



| | 考えたこと | 01:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
ウナウナ
この言葉も昭和の名残の言葉。

30代後半でも知らない。
FAXを打つときに、「ウナ」と書くと急ぎという意味。
緊急なら「ウナウナ」と書く。

前の会社にいたときはFAXの全盛期だった。
今の40代〜50代は、まさにアナログの時代とデジタルの時代の両方を体験した最後の世代だと思う。
FAXが電子メールに取って代わられる時代に立ち会った。

FAXの全盛期、ひどいときは「ウナウナウナウナ」とウナを4つくらい書いた。
なんでもそうだが、たまにウナがたくさん書いてあるのを見ると、あっと思うのだが、いつもウナウナウナウナを見慣れるともうダメだ。
効き目がない。
ちょっと急ぎかな、という程度。

goo辞書によると、『「ウナ」はurgent(至急)のu・rをモールス信号の仮名にあてた読み、至急電報。昭和51年(1976)廃止』と書いてある。

若い人たちはこれを見ても???という目になるだろう。

ウナはurgent(至急)の意味だが、それがなぜウナになるのか、ということだ。
urgentの最初の2文字uとrをモールス信号で打った時、仮名で読むとウナになるということだが、これはモールス信号がわからないと、意味がわからない。

昔はアマチュア無線の電信級というのがあって、それはこのモールス信号を覚えて打った。

モールス信号はアメリカで発明された符号。
電話ができるまえに通信するために作られた。
ツーとトンの組み合わせでできている。
ツーはひとつのキーを長く押さえること、トンは短く押して離すことだ。

有名なのはSOS。
Sはトントントン(・・・)でOはツーツーツー(−−−)で表される。
だから、SOSはトントントンツーツーツートントントンになる。
緊急信号だから、間違えないようにこの文字を使った。
だから、SOSには意味はない。

話がそれた。
uはトントンツー(・・−)で、rはトンツートン(・−・)になる。
同じモールス信号で、仮名も表されており、このトントンツートンツートンは「ウ」と「ナ」になるということだ。
だからurgentがウナに化けた。

この秘密は、日本でも知っている人は少ないと思う。

これも、そのうち意味不明になるんだろう。

これこそ死語だ。



| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しいクルマ
今のクルマはまず軽自動車。

国内の新車販売の統計を見ると、販売総数が254万台で、そのうち100万台が軽自動車になっている。
つまり4割が軽自動車。
ホンダは去年軽のライナップを一新したし、ついに日産も軽自動車を作ることになった。
今の軽自動車は安全装備も備え、だいぶ高くなった。
売れ線を見ると、120万〜170万くらいだ。

そして、もう一つの特徴は女性の進出。
実際に運転する女性が増えたことと、クルマの購買に女性の影響が大きくなったこと。
昔はクルマはお父さんの買い物だった。
しかし、今は家族の力が強くなって、家族に対する影響はお母さんの方が強いのが現代の実情。
よると、決定権の6割を女性が持つということだ。

車に対する価値観が変わってきた。
これにはいろんな要因があるが、流れは止められない。

家族中心で考えると、経費が安いこと、スペースが広いこと、取り回しが楽なこと、乗り降りしやすいことなどがクルマの購入ポイントになる。
だから、経費と取り回しの点で軽自動車になるし、その上で背が高く、スライドドアという選択になる。
それでオデッセィもそういうスタイルになった。
背が高くなって、スライドドアだ。
以前のスタイリッシュさはなくなって、家族での利用を意識した作りになった。

軽自動車で売れているダイハツのタントもそうだ。
広くて、背が高く、スライドドア。

スライドドアを採用しようと思うと、デザインの制約が大きい。
流線型にはできない。
どうしても箱型にならざるを得ない。
だから、新型車はみんな同じような格好になる。

燃費を良くしようとしても、空気抵抗は大きくなるから不利だ。

最近、クラシックカー・ディーラーズという番組で、欧州の古い車をリストアしているのをよく見るのだが、昔の車は個性的だ。
居住性や利便性を無視したクルマもある。
デザインありきで作っている。

ぼくはクルマにはカリスマ性を求めてしまう。
どちらかというと、嗜好品だと思っている。
アメリカの男性が家族ができて、それまで乗っていたどちらかというとスポーティなクルマから、ミニバン(日本ではワンボックス)に乗り換えるときに、あーあ、と思うその気持はわかる。

結局日本のように公共交通機関が完備していて、狭い国ではクルマは普通の耐久消費財になってしまうのだろう。

残念だが、仕方がない。
みんなオデッセィの運命をたどる。



| | 考えたこと | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
動物愛護
動物愛護が出てくるドラマを見た。

“animal rights activist”という言葉が使われている。
”animal rights”という言葉は、直訳すると「動物の権利」となる。
というか、そういう意味にしか取れない。

「動物の権利」とはどういうことか。

動物には本能があるだけだ。
もちろん本能に従った意志もある。
人間をリーダーと認め、群れを作ることもあるし、人間を親と思って従うこともある。
だからといって、それを権利だと考えることはないだろう。
もちろん、義務も感じない。

牛や鶏や豚のように、人間が食べるために育てる動物もある。
そんな動物に権利もクソもあったもんではない。
いずれ殺すのだから。

ここでいう「動物」とは、人間の社会の中で生きているもののことだろう。
自然界での人間は、動物の権利を愛護するほど強くない。

結局はペットの権利を愛護するということになる。
ただ、ペットの動物たちが、権利を主張しているわけではないので、勝手に人間が守ってやらないといけない、と思っているのだ。

全ては人間中心の思い込みと言っていいと思う。
ヒューマニズムというやつだ。
西洋では人間が特別なものという考えがある。
そういう立場から出てきたのが、動物愛護という考え方だ。

日本にはヒューマニズムという考え方はない。
動物も人間も同じ生き物だ。

人間が特別で、動物を愛護するという考え方と、人間も動物も同じ生き物だという考え方の、どちらがしっくりくるだろうか?

ぼくは東洋人なので、人間も動物も同じ生き物だ、という方が腑に落ちる。

そういう前提で考えることこそが、真の愛護だと思うのだが…。


| | 考えたこと | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
もうすぐ来るクリスマス3
ユーミンが荒井由実の時代の名曲。
12月の雨。

 もうすぐ来るクリスマス
 想い出の日には
 また会おうと云った
 もう会えないくせに

過去のブログを調べてみると、この題名で2回書いていた。
12月が近づくと、いつもこの曲を思い出す。
イントロのリフがとてもいい。

ユーミンは、この曲をクリスマスソングのつもりで書いたのではないだろう。
12月に別れた恋人を思う歌だ。
雨音に気づいて遅く起きる、というのは休みの日のシチュエーション。
せっかく遅寝しようと思っていたのに、雨の音で目が覚めてしまった、あーあという感じだ。

そういう雰囲気の中でこの歌は歌われる。
この気だるさが好きだ。

12月というと、冷たい雨が降る。
冷たい雨という曲もある。
こちらの曲は、もっと悲しい歌だ。

 彼女の名前教えないでね
 うらむ相手はあなただけでいい

どちらかというと、もう忘れたい、という想い出だ。

でも、12月の雨ではもう少し軽くて、暖かい。

だから、この歌はいい。

| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
オトナのセリフ
ケーブルテレビに時代劇専門チャンネルというのがあって、最近よく見る。

古い時代劇のドラマをハイビジョン化して放送したりしている。
昔はたくさん時代劇をやっていた。
アメリカの西部劇みたいなものだ。

ぼくらの世代なら、水戸黄門を筆頭に、遠山の金さん、大岡越前、銭形平次など知らぬ人はいないだろう。
それくらい時代劇は身近なものだった。
今のドラマのように、出演者の年代が若くない。
10代の出演者など一人もいない。

北大路欣也が主演していた、関八州捕物控えというシリーズがある。
2007年に8回シリーズで放映されたらしい。
もっと続けるつもりが視聴率が低かったんだろう。
いま見ても面白いのだが…。

オトナが出てくる番組では、オトナのセリフが語られる。
最終回で主人公はこう語る。

「人はいつか己の生業のためだけに生きていけなくなる」

ほとんど出張で、関東の諸藩を回るという仕事だが、主人公には幼い娘が一人いる。
母親は早くに亡くなった。
叔母がほとんど娘の面倒を見ている。
そんな娘がいじらしくて、ぼちぼち仕事を辞めようという時のセリフだ。

好きでやっている仕事だが、娘のことを考えるといつまでもやっていられない。
家庭と仕事の葛藤に悩む。

結局は娘が今の仕事を続けてほしい、ということで、めでたしめでたしとなるのだが、今のテレビで「生業」という言葉を聞くことは珍しく、新鮮だった。

時代劇というか、ドラマは予算がかかるということで、今はものすごく少なくなった。

77年には週に32本もあったらしい。
どこのチャンネルを回しても、作るのが楽なバラエティ番組ばかり。
たまにドラマをやっていても、出演者のほとんどは役者とはいえない、素人みたいな芸人や歌手ばかり。

日本では、まともなドラマは映画でしか見られなくなった。

もう地上波のテレビは終わっているのだろう。


| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
海外出張8
最後に海外出張したのはルクセンブルグとアメリカ。
ルクセンブルグには1回、アメリカには3回行った。

アメリカに本社を置く会社と提携したからだ。

一度だけ、日本→ルクセンブルグ→アメリカ→日本というルートで世界を一周した。
全部格安の切符だったが、さすがに往きの便をアップグレードしてくれた。

最初にアメリカに行ったときは、お互いの調査の一環だった。
アメリカ人は、日本人のビジネスマナーを学んで、名刺交換の仕方なども練習したらしい。
向こうでは普通片手で渡すビジネスカードだが、相手が日本人の場合は、両手でお辞儀しながら渡す、というのがマナー。

ずっと見学と会議。
日本から3人ほど行ったが、消耗する出張だった。
最後にゲストハウスでバーベキューをしてくれた。
この時はぼくがリーダーだったので、挨拶をした。
ぼくらの世代にとって、アメリカというのは良くも悪くも一番なじみの国。
その国で、スーツを着て、大勢の人の前で挨拶をする、という事は何となく気恥ずかしく、でもうれしかった。

次にルクセンブルグのヨーロッパ支社に行った。
ヨーロッパ人は名刺交換のマナーなど習わない。
アメリカとは全く違うリアクション。
文化の歴史が違う。
欧州人は長い歴史の中で、他国と交渉することで生き残ってきた。
資本の上ではアメリカにはかなわなかったし、第二次大戦の時の連合軍というのはアメリカ抜きには語れない。

この時は、ブラックボックスだったコンピューターのプログラムの話で行った。
担当者はいい人で、日本が興味を持ったと言うことを喜んでいる様子だった。
ぼくらは素直に、彼らの技術は素晴らしいと伝えた。

ぼくが以前の会社でした最後の仕事の一つが、この技術移転だった。
大変だったが、やりがいもあった。

懐かしい。

これでぼくの海外出張の記録は終わり。

| | 考えたこと | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
海外出張7
インドネシアに行ったのは1997年。

初めてイスラム圏に行った。
と言っても、インドネシア人によるとかなりいい加減なイスラムらしいが…。

ジャカルタのそばに会社の駐在員が住む、ビバリーヒルズみたいなところがある。
そこに駐在の日本人が住んでいた。
お手伝いさんがいて、家のことはやってくれる。
駐在の人は運転してはいけない事になっていた。
アメリカやヨーロッパとはだいぶ違う。

この時も2週間くらいいた。

インドネシアは第二次大戦で戦場になったところだ。
そういう土地に行く、ということが何となく心にわだかまる。
こういう気持ちは、不遜なのかもしれない。

2億人がいる国。
人の命が、日本に比べてだいぶ軽いと感じた。
日本は恵まれている。

仕事はともかく、宿舎に帰ってからと休みの日がややこしかった。
どこに行くにも、運転手の人に来てもらわないといけない。
なんだか気の毒で気をつかった。

衛星放送でNHKのBSを見ることができた。
日本の若い歌手たちはインドネシアでも人気だった。
お手伝いさんの娘が見たいと言って、テレビを見ていた。
日本の駐在員は、朝のドラマを見てから出勤だ。

いろんな事を考えた。

そんな2週間だった。

| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
海外出張6
冬にカナダに行った。
1996年のこと。

極寒の地でテストをするためだ。
トロントに着いて、まっすぐ北上する。
2日間のドライブだった。
その行き止まりがコクランというところ。
これ以上北には行けない。

冬と言っても3月だったか。
それでもマイナス20℃は超えていた。
晴れた日の朝は空気が冷たく、息が痛い。

この時は3人で行った。気のあう仲間で楽しかったことを覚えている。
2週間くらいだった。
ほとんど日本語ばかりだったが、最後の2日ほどはアメリカからお客さんが来て話をした。

カナダの景色は雄大そのもの。
トロントから北上する道の景色はすばらしい。
クルマで移動して、途中でモーテルに泊まるという、北米らしい旅だった。
当時、ぼくはカメラが嫌いだったから、写真は撮らなかった。
今もあまり好きではないが、それでもあれは撮っておけばよかったと思う。

たしか、Northan Lightsというモーテルだったような気がする。

何せもう17年も経つからなあ。

コクランで買った白熊の置物は、阪神大震災で棚から落ちて土台の部分が壊れた。
それでも、白熊はそのまま残っている。

毎日結果をFAXで送った。
泊まっているモーテルの近所の文房具屋でFAXを使わせてもらった。
もちろん、お金は払う。

文房具屋のおじさんがストーンブラックのジーンズを履いていた。
あれを見て、帰国してぼくもその色のジーンズを買った。

とりとめのない事ばかり書いたが、いい出張だった。

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海外出張5
日本人にとって一番なじみのある国がアメリカだと思う。
小中学校の頃見ていたドラマの半分くらいはアメリカのものだったし、深夜放送のヒットチャートの半分くらいはアメリカのものだった。

最初に行ったのはロスアンジェルス。当時会社ではLAと呼んでいた。1987年か88年だったと思う。

3人で行って、着いて最初の日の朝駐在の方に迎えに来てもらったが、カーラジオが日本語で交通情報をやっているのに驚いた。
「ワンテン(110号線)は混んでいます」
一緒に行った若い人が当たり前のように聞いているので、「これはオカシイやろ」と言ったら初めて気がついた。

当時のLAは日本企業の力が強く、番組の枠を買い取って日本語で放送してくれているとのこと。
今もやっているのだろうか…。
ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた時代だった。
夜は夜で、当時人気があった「なるほど・ザ・ワールド」などの番組を放送していた。
仕事はアメリカにいる日本人と主にやっていたので、ほとんど日本語しか話さなくてもよい、という出張だった。

唯一、休みの日に遊びに行ったとき、ヒスパニックがたくさんいるのに驚いたのを覚えている。

どこに行ったのか忘れたのだが、そこの入り口で入場料を聞いたとき、「フォルダラ」と言われ難儀をした。
フォルダラはフォーダラーで4ドルのことだったが、スペイン語訛りで話されると難しい。
当時すでにロスアンジェルスの人口の多くがヒスパニックだったはずだ。
ダウンタウンには行かないように、という注意もあって、危ないところは危ないという街だった。

今から思うと、いい時代だった。

LAは乾いた街だった。
本当に空気が乾燥している。
カリフォルニアの青い空という歌で、It never rains in Californiaと歌われるだけのことはある。
乾いた街には黄色が似合う。
日本の道では黄色いクルマはあまり似合わないのだが、ロスアンジェルスは違う。
こういう空気が西海岸を形作っている。
西部劇の乾いた空気はここから来ているのだろう。

その次のアメリカは横断の旅だった。
アラバマに着いて、東海岸に行き、デトロイトからフェニックス、ロスアンジェルスとプレゼンをして回った。
1995年。阪神大震災の年だった。
震災で潰れたので、仮の事務所で準備をしたことを覚えている。

最初にアラバマの工場に行き、当時FAXでやりとりしていた担当者と会った。
彼とのFAXは当時2日に1通くらいだったから、初めて会っても他人とは思えなかった。
そこの事務所で練習をして、出発した。

東部とアリゾナと西海岸はそれぞれ違った風土だった。
今は自治体として、破産申請したデトロイトだが、当時はまだ元気だったと思う。
シカゴの空港に着いたが、そこではたくさんの黒人が働いていた。
西海岸の明るい感じではなく、ちょっと重くて暗い感じ。
Tシャツよりスーツがよく似合う。
街も古くて重々しい感じだった。
この街なら、ハードボイルドがよく似合う。

そこからアリゾナに行った。
アリゾナは砂漠の街。
ワニや蛇やサソリがいる。
スーツでプレゼンしようとすると、今日はカジュアルデーだと言われ、とりあえずノータイでやった。
若いアメリカ人が、終わった後で「よくわかった」とお礼を言いに来たのが印象的だった。

そして、最後はロスアンジェルス。
やっぱり乾いた空気の街だった。
忙しい出張だった。

| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
猫ヘルパー
アメリカにはいろんな番組がある。

「猫ヘルパー」という番組は、ジャクソン・ギャラクシーというスキンヘッドのギタリストが、問題を抱えた猫を何とかするという番組。
ペットの番組はイヌのもあるし、猫のもある。さすがペット大国アメリカ。

猫は基本的には穏やかだと思っていたが、番組に出てくる猫はだいぶ違う。

人を選んで攻撃する猫、他のイヌや猫を攻撃する猫、家中にマーキングする猫、全く懐かない猫…。
そういう問題行動には理由がある。
それを見つけて正すのがジャクソンの役目。

猫によって、ケースは様々だ。

猫自身がおびえている場合もあるし、運動不足でストレスがたまっている場合もある。縄張りを主張している場合もあるし、自信を失っている場合もある。

この番組を見ていると、猫の凶暴さがよくわかる。
イヌよりも攻撃的だ。

腕に派手な入れ墨をしているギャラクシーは、実は涙もろい。

野良猫だったスコティッシュフォールドを検査したところ、ガンが見つかった。
手術には2600ドルかかる。
飼い主と相談するが、2600ドルはそう簡単に右から左に払える金額ではない。
ギャラクシーの見立てでは、この猫は更生する余地があった。
飼い主にそのことを話し、手術することを勧める。
結局手術をすることになったのだが、その決断を聞いたときのギャラクシーの目には涙が浮かんでいた。

このスコティッシュフォールドは、その後家の中に入ってきて、人間の手からえさをもらって食べるようになり、だいぶ生活が変わった。
人間を恐れないようになったということだ。

イヌでも猫でも、こういう番組は面白い。

彼らにテレビに出ているという気持ちはなく、遠慮もないから、毎回真剣勝負になる。

さすがペット大国アメリカだ。



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海外出張4
その次には中国に行った。

1988年のはず。
世の中がバブルに浮かれていた頃。
日本がぼちぼち中国市場について、考え始めた時期だ。

ぼくは生きて中華人民共和国の土が踏めるとは思っていなかった。
どちらかというと左翼系だった高校時代。
だいたい、小中高の先生も左がかっている人が多かった。
1988年にはもう左翼かぶれは終わり、まとも?な中道になっていた。
それでも、中華人民共和国に行ける、というのはちょっとした感動だった。
そういう話を飛行機の中で3,4年違いの若い人にしていた覚えがある。

山本七平の著作でだいぶ左から脱皮できた。

この時に、今の中国に対する考え方が決まったと思う。
今の中国では毛沢東はどう評価されているのだろうか。
建国の英雄でいるのだろうか。
それとも、文化大革命で晩節を汚し、知識人を大量虐殺し、むちゃくちゃをした人、ということになっているのだろうか。
中国共産党はそんなことは言えないだろうが…。

何が真実かはわからない。
それを経験した人だけが真実と思われるものを語ることができる。

ぼくはワイルドスワンという小説は、真実を書いていると思う。
この本を読めば、いかに彼が無茶をしたかということがよくわかる。
そんな国に行ったということだ。

上海の街を歩いていると、何となく微妙な感じだった。
はっきりと敵視されるわけではないが、かといって良くも見られない。
中には明確に敵視する人もいたが…。
今はもう中国側に余裕があるので、そんなことはないかもしれない。

今や国民総生産は日本よりも中国の方が上だ。
国際社会での存在感も圧倒的に中国が上。
日本の存在感は驚くほど薄い。

88年当時はそんなことはなかった。
何せ日本が世界第二位の経済大国だと言われ、東京の地価総額はアメリカ全土より高いと言われ、ゴルフの会員権が数千万になり、ゴルフ場がいたるところにオープンした。(今はほとんどつぶれたはず)
サラリーマンが700万のクルマに乗り、銀行や証券会社がバカみたいに新卒を採っていた。
メーカーで数十年勤めた人よりも、証券会社の新入社員の方が給料が高かった時代。
今から思うと、なつかしい。

不勉強にもぼくは中国の人はみんな共産党員だと思っていた。
向こうに行って、そのことを聞くと、現地の通訳の人が逆に驚いていた。
共産党員というのは、中国の特権階級のことだ。
共産党=特権階級という図式は言葉の意味からはオカシイが、中国人はわかっている。

いろんな驚くべき事があった。

いい勉強をさせてもらったと思っている。

| | 考えたこと | 22:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
海外出張3
その次は香港に行かせてもらった。
アジアの出張は初めてで、バブルの最盛期だったと思う。

香港のお客さんに商品の説明をする、という出張。
ついでに現地の事情も見てこよう、というものだった。

このときは海外サービスの人と2人で行った。
何せホテルに着いて、フロントで何か聞かれているのだが、全く分からない。
一緒に行ったIさんが受け答えをしているのを聞いて、Iさんは中国語が話せるのだと思った。
しかし、Iさんが話していたのは英語だった。それほど、中国訛りの言葉だった。

香港の人たちは屋台で食べる事が多いということだった。
だから、女性が働くことができる。
屋台があるおかげで、安く食べる事ができるのが香港のいいところと言っていた。

しかし、あれからイギリスの統治が終わって、中国に返還されてしまったが、どうなったのだろう。

たしか、1987年。

当時はまだまだ香港というと、免税品の買い物の街だった。
向こうもそれを知っていて、夜になると海外からの客を狙って、ワゴンに腕時計やサングラスをいっぱい積んで回ってくる。
ちょうど今の中国の状態だろう。
ロレックスやオメガなどの腕時計が安く売られていた。
もちろん、違法だ。
こういうのを「バッタもん」と言う。
一流品の模造品のことだ。
冷静になって考えたら、夜中に道で一台のワゴンに総額数千万円になろうかという商品を入れて回っているのがオカシイ。

このときの帰りの飛行機の中で、バッタもんを買わされた2人の犠牲者を見たが、この話は「着陸間際」という題名で書いた。

また、お客さんのところに呼ばれて、宴会に行ったのだが、このときは遠方からの客ということで、来賓扱いされて、料理を一番にふるまわれて困った。
ぼくはゼラチン質を食べられないのだが、スッポンの料理があり、これは精力がつくからたくさん食べろと言われて、鍋から取りわけられた。
これを口に含んで飲み込もうとしたら、吐きそうになったのを覚えている。

それと、漢文を習っていて良かったと思った。
ぼくらは同じ孔子を学び、老子や孟子を学んだ。
ナプキンに学而習之と書くと、おお、お前もそれを知っているのか、と言われた。
当時の香港だからできた会話。
今の香港なら難しいかもしれない。
中国共産党は孔子を認めていないはずだ。

お互いに共通言語がある、というのはいいことだ。
漢字、漢文という共通言語でわかりあえる。

このときに、ああ、同じアジア人なんだなあ、と思った…、と思う。

昔の事なので忘れたが、たぶんそうだったんだと思う。

もう台湾だけになってしまったが、今でも同じような漢字を使っている国がある。
台湾が親日であることと、同じ文字を使っていることとはあながち関係がないとは言えない。
親近感があるのだと思う。


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