考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< June 2015 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
ギリシャ問題
ギリシャの問題が進展せず、EUはえらいことになっている。

ぼくらは、ギリシャが借金をして、それを踏み倒そうとしている、と思っている。
実際そうなのだが、日経によるとそこには地域性があるらしい。

ドイツ等のヨーロッパの北側の国では、貸した金は返すもの、と考える。
しかし、ギリシャ等のヨーロッパの南側の国では、返せない金を貸すほうが悪い、と考えるらしい。

ヨーロッパの北の方は、気候があまりよくない。
寒いし、日照時間は短いし、厳しい自然の中にいる。
そういうところだから、厳しい自然と対峙して、マジメになるのだと思う。
日本でも東北の人たちはマジメだという傾向があると思う。

対してギリシャに代表される、南の方はエーゲ海や地中海の海の幸も多く、のんびりしている。
自然が優しいから、人間は寛容になる。
だから、経済的な規律も緩くなる、と思う。
たしかに、返せないほどの金を貸したら、貸したほうが悪い、というリクツも成り立つ。

そういうような経緯もあって、ギリシャの債務でもめているんだろう。

ウクライナの仇をギリシャで、とロシアは思っているかもしれない。
ギリシャは人口の1割程度が公務員と言われているので、社会主義の方が合うのかもしれない。
プーチン大統領は手ぐすね引いて待っているだろう。

しかし、NATOにとっては、ギリシャがロシアと仲良くなると、ちょっと具合悪いだろう。
アメリカも同じことを考えているはずだ。
金を踏み倒されるのはイヤだが、ロシアに援助を申し出られたりしたらもっとイヤだ、というところかな。

そのへんもわかっていて、ギリシャはロシアに近づいている。
中国にも近づくぞ、ということらしい。
小国の知恵だ。

デモクラシー誕生の地。
どうなるのか、わからない。
こういうのを予断を許さないというのだろう。

エライことだ。



| | 考えたこと | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
手がかかる家電
ロボット掃除機は「手がかかる家電」だという。

実際、ウチのルンバは掃除のたびに中に溜まったゴミを取って、フィルターを掃除している。
そのフィルターや本体のゴミをとるために、ハンディクリーナーを使う。
そして、掃除の前には部屋に置いてあるものを動かし、家具を動かして掃除しやすくする。
アメリカ生まれのロボット掃除機は、きっと狭くて家具が多い日本では、ちょっと違う見られ方をしているのだと思う。

「手がかかる家電」というのは、人間に気を遣わせる。
それがコミュニケーションを生むという。

それも実感する。
掃除が終わったあと、いつもは緑のランプが黄色になって点滅して充電しているのを見ていると、「おお、掃除が終わって、疲れているんやなあ」と思う。
中には絆創膏を貼ったり、新品に変えるというと、「直してあげて」という人もいるという。

シャープが掃除をしながら話す掃除ロボットを出したが、売れ行きはどうなんだろう。
ルンバはドミソドという音を出して掃除を始める。
トラブルがあって止まると、ランプが黄色に点滅する。
それだけで、コミュニケーションは成立する。
却って、言葉を話すと思い入れの幅が狭まるんではないかと思ってしまうのだが…。

普通なら、これくらいのことで止まるとは、ということでクレームになるところが(実際にクレームにもなるのだろうが)、手がかかるから愛着が湧くという方向に進んでいく。
記事もそのことを書いている。

でも、それは日本の高齢化が大きな役割を果たしているのだと思う。
ロボット掃除機が買える条件というのは、比較的掃除場所の面積のわりに家具が少なく、経済的に余裕がある、ということになる。
所狭しとものが置いてある家庭では、おそらく買わない。
値段が高いから、経済的に余裕がないと買わない。

そして、もう1つは、ロボット掃除機にコミュニケーションを求める余裕がある、ということだ。
寸暇を惜しんで掃除の時間を捻出しているのではない。
ロボット掃除機が動いているのを見る余裕があるのだ。

これらをすべて満たすのが、高齢者である。
子供が独立して部屋に余裕ができて、ものが少ない。
時間はあるが、かがんだり、コードを引き回したりするのがつらい…。
たぶん、子供二人の4人家族では、そんなにロボット掃除機を使いたいとは思わないだろう。
買ってもあまり役に立たない。

これからどんどん高齢者が増えていく日本は、ロボット掃除機のような「手がかかる家電」の大きな潜在市場なのだ。

第二のロボット掃除機は一体何だろう。



| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
コンダラ
どこかで読んだ覚えがあるのだが、小学生の頃に効いた歌の歌詞の勘違いの話だ。

「巨人の星」の主題歌の出だしに、「思いこんだら試練の道を…」というのがある。
これを「重いコンダラ試練の道を…」と勘違いしたという話。

それはそれで面白い勘違いで終わるのだが、この話はそれで終わらない。

なぜ勘違いをしたのかというと、コンダラというものがあるという。
グラウンドをならすために、引いて歩く鉄製の丸いローラーのことをコンダラという…、というのがくっついた。
だから、重いコンダラ、という歌詞になったという話になった。

コンダラというのがもともと存在したのか、それとも歌詞を間違えた人が、きっとあの重いローラーをコンダラというのだ、と思い込んだのか、どちらが先か、それはわからない。

Wikipediaには「コンダラは、日本の俗語の一つ。グラウンドの整備などに使う「手動式の整地ローラー(手動式整地用圧延機、転圧ローラー、グラウンドローラー)」を指し、「コンダラ」が手動式整地ローラーの正式名称であるとする都市伝説が広まるに連れて、俗語として定着していった」と書いてある。

あのローラーが、今では「コンダラ」と呼ばれているらしい。

ま、いかにも「コンダラ」という語感ではある。
だれかが、これは「コンダラ」というものだ、と聞いたら、「思い込んだら」の勘違いで「重いコンダラ」からできたものだとはなかなか想像できない。
第一巨人の星を知らない人たちは、信じてしまうんだろう。

恐るべき勘違い。

ほんまかいな…。



注1)Wikipediaにはこういうことも書かれている。

都市伝説では「オープニングの『思い込んだら』の箇所で飛雄馬が整地ローラーを引いていた」とされる場合もあるが、実際に放映されたオープニングアニメーションでは整地ローラーは一切登場せず、一徹・飛雄馬親子が雪の中でランニングをしているだけである。テロップ上の歌詞も漢字で書かれている(ただし、「こんだら」の部分は平仮名)。その一方で、第12話「鬼の応援団長 伴宙太」の劇中に整地ローラーが登場した際のバックグラウンドミュージックは「ゆけゆけ飛雄馬」であった。 また、コンダラには砂の詰まったタイヤというバリエーションもあった。

注2)高島忠夫の「お言葉ですが」(日本語について書いたシリーズ)の中に「コンダラ」というのが出ていた。


| | 考えたこと | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
まだ夢を見ることを許された時代
ドラマの最後にこのフレーズが流れた。
「まだ夢を見ることを許された時代」という言葉。
もうすぐ還暦という自分を振り返ると、この言葉がちょっと重い。

夢を見ることが許された時代、というのは夢を人に語っても、聞いてくれた時代という感じだろう。
年をとるともう聞いてくれないか、聞いてくれたとしても、真面目には聞いてくれない。
お互いに夢を語ることができた時代、ということかな。

そうなると、学生時代ということになる。
学生時代には夢があった。
将来、望めば何にでもなれると漠然と思っていた。
今となってはバカみたいだ。

ぼくは高校の頃左翼シンパだったので、「革命」という言葉に憧れがあった。
何となく、世の中が変わることに、わけもない期待があった。
それを夢と呼べば呼べるかもしれない。
実際、漠然と夢見ていただけで、何もしなかったのだ。
今となっては、それでよかったと思っている。

会社に入るときは、「いちご白書をもう一度」の世界だった。
就職が決まってうれしいというより、何だか自由な世界から別れるような気持ちだった。
あの頃の、左翼シンパの学生はみんなそんな感じだったと思う。
まだ学生運動の残り火が残っていたころだった。

会社に入って仕事をするうちに、だんだんと革命の夢は消えていって、30代の頃には、完全に消え失せた。
あれは、社会に対して何の責任もなく、義務も意識せず、勝手なことを夢見ていたのだと思う。
時代の雰囲気もあったのだろう。
回りのせいにするわけではないが…。

そういう時代を経て、60歳近くまで生きてきた。

ベルリンの壁が崩れ、ソ連はなくなり、中国は市場経済を導入して今やGDPが世界2位になった。
9.11が起こり、アメリカの一人勝ちは終わり、世界でテロが多発し、イスラム国ができた。
人間の活動が地球の規模で気候を変えているのかもしれない、という状況もでてきた。

結局何が正しいのかはわからない。
人の数だけ正しいことはある。

ぼく1人があがいても、世の中何も変わらない。
そんな諦めもある。

しかし、もう少しだけはあがいてみようと思う。

もう夢は見ないが…。



| | 考えたこと | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
スクールカースト
和田秀樹の記事にスクールカーストに関するものがあった。
この人は本当にいいことを書く。

スクールカーストというのは、今の小中高の学校で子どもたちが勝手に作っている序列のこと。
インドのヒンズー教のカースト制にちなんで名付けられた。
スクールカーストの実態は「友達が多く、クラスのリーダー格の人間が一軍などと呼ばれ、そのフォロワーで一見みんな仲良くやっている人たちは二軍、その仲間に入れない、あるいは、入れてもらえない人は三軍ということになったりする。」というもの。

このスクールカーストがいじめの原因になることもあるという。
なぜ、このスクールカーストができるのか。
和田氏は、この元は「他人と自分を比べるべきではない」という考えにあるという。
あの、「世界に一つだけの花」の世界だ。

「人と比べてしまう、人と勝ちたいというのが、人間の普遍的心理であったとすれば、このような形で競争を抑えつけてしまうと、別の形で、人と比べたり、競争したりしないのかということである。
私は、それが、現実にいびつな形で起こっていると考えている。
それが「スクール・カースト」と言われるものだ。
勉強やスポーツでの競争はいけないことであったとしても、人と競争しないで、みんな仲良くしているほうがいいという価値観や文化であれば、友達が多いほうがいいということになってしまうだろう。
すると、友達の多さで優劣を競い、それによって、自分は人に勝っている、負けていないと思うようになる。
逆に友達が少ない、仲間外れということは、負けを意味するし、人間性が悪いというレッテルまで貼られかねない。
そこで、生じてきた序列がスクール・カーストと言われるものだ。」

人と比べることがよくないのなら、友だちの数も比べなければいいのだが、友だちだけは多いほうがいいと思っている。(というか、人類みな友だち、という考えなのだろう。)
では、友だちの数が少ないこどもが出てきたらどうするのか、というと、そこで思考停止するのだ。
「友だちは多いほうがいい」という絶対的な基準ができる。
それがスクールカーストの元だという。

また、人と比べない、ということから、いろんないびつなことが起こる。
要は、余計なお世話なのだ。
傷つけまいという行為が、こどもを傷つけるということなど考えもしないのだろう。

「確かに、人と比べること、あるいは(特に子供時代の)競争を否定する論者の多くは、負けた際の心の傷つきを問題にする。勉強ができる子をほめたり、その成績を貼り出すと勉強ができない子供の心を傷つけてしまう、だからそれをやめようということだ。
しかし、子どもの心を傷つけまいとすると、それがどんどん援用されてしまう。
運動会で1等賞の子供をほめたり、表彰したりすると、足の遅い子供の心を傷つけてしまう。だから手をつないでゴールインなどと言う話になってしまう。あるいは、1等の子とビリの子があまり差がついてしまうと、ビリの子の心を傷つけてしまう。だから、予選をやって、クラスで速いほうから6人で競争させ、7番から12番で競争をするというようなことをやる。すると、クラスで6番の子がビリになるのに、クラスで遅いほうから6番の子はトップというおかしなことが起こってしまう。
学芸会で主役を決めないで集団劇をやるとか、主役のシンデレラが場面ごとに変わる、などというのも同じ論理だろうし、学級委員を決めないという地域まであるそうだ。」

学校の先生たちは、実社会で競争を経てきているはずだ。
試験の点数を気にし、資格を取るために勉強し、採用試験で通ろうとしたはずだ。
それが現実だ。
卒業生総代は成績がトップだったからこそ、総代の栄誉を担える。
足の速い生徒は、運動会でスターになることができる。
実際の舞台で、主役が場面の数だけいる、というようなことはありえない。
学級委員はみんながふさわしいと思った人を選挙で選ぶのだ。

それが実際の世の中だ。

学校はある意味で、世の中の縮図でないとイケナイ。
そうでないと、生徒たちは世の中を誤解する。
和田氏はアドラーやコフートという心理学者の考えを紹介し、この「世界に一つだけの花」的な考えを間違いだという。

アドラーは「要するに人と比べた際に、それですねたり、あきらめたりするのでなく、それを頑張る原動力にできればいいと考えるのだ。」と言っているし、コフートは「(他人と比べることで)人に認められたり、ほめられたりする体験が、心理的な安定や成長を促し、人間をさらに野心的にすると論じた。」とある。

今のいじめは、露骨にいじめるのではなく、「仲間はずれ」にすることだという。
そうやって、いじめられる本人に、「自分が仲間はずれである」ことを認めさせる。
そういう陰湿ないじめがスクールカーストの後ろに広がっているらしい。

「自分が仲間外れであると認めてしまうと、友達の数が多いほど、人間性が素晴らしいと思われている若者文化の中で、自分を欠陥品と認めたようになってしまうからだ。」

今の若い人たちにとって、「友だちがいること」は何よりも価値がある。
大学生が入学して一番心配なのは、「友だちができるかどうか」ということだし、一緒に昼ごはんを食べる仲間がいないと、それを誰にも見られないようにトイレで食べる方がマシだという。

いい加減に、友だちの数が多い方がいい、などという考えは捨てて、ある程度の競争は認めたほうがいい。

和田氏が言っているように、「他人と比べない生き方」では幸せになれない、とぼくも思う。

そんなことをしている先生も、それはわかっているはずだ。

| | 考えたこと | 00:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
働き方の変化
高度成長がバブル崩壊で終わり、みんなの貯金も社会保障費の高騰でチャラになりそうで、時代は本格的に変わってきたと思う。

いつまでも昔のやり方をしていられない。
働き方もその例外ではない。
だんだんと時代の流れとともに変わらざるを得ないし、実際に変わってきた。

今や非正規社員が4割を越えた。
好むと好まざるに関わらず、若い人も年寄りも、非正規が増えている。
パートやアルバイト、派遣などだ。

大企業は海外での雇用も増えている。
ある会社は部門まるごとシンガポールに移すというようなこともやっている。
グローバル展開している企業は、アジアの隆盛にしたがって、アジアでの雇用を増やすだろうし、移転も増やさざるを得ない。

中小企業も大企業の展開にしたがって、アジアに出て行くところが多い。
従業員100名程度の会社でも、中国やベトナムに支店を持っているというところが増えた。
国内市場は少子高齢化で縮小せざるを得ないからだ。
生き残るためには必死である。

これから国内で右肩上がりの産業といえば、シルバー産業だろう。
でも、その産業がどれだけの富を生み出すのか、疑問だ。
外貨も稼がない。

結局、国内市場は縮小する方向だろう。
どこまでそれを食い止めることができるかだ。
規制緩和等によって新たなサービスや新たな製品を生み出す会社を作っていくしかないと思う。
そのためには、きっと雇用を流動化する必要があるのだろう。

しかし、若い人ほど転職を嫌がっているという統計を見た。
全体を通してみても、6割以上が終身雇用を望んでいる。
もう終身雇用制度は終わりに近づいていると言われて久しい。
去っていく制度には、郷愁がある。

リクツの上では流動化を受け入れなければならない。
でも、感情的には終身雇用を求める。

当分の間、多様な働き方を認めていかないといけないだろう。
それは若い人だけでなく、年寄りも含めての話だ。

そうしないと、産業を活性化することはできないような気がする。

難しい問題だ。


| | 考えたこと | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動運転車
自動車メーカーのアウディと、グラフィックスプロセッサーのNVIDIAという会社が、自動運転車を開発している。

既に、ホンダのジェイドでも高速道路ならそこそこ自動運転できるのは体験したのだが、一般道は何が起こるかわからないから、難しいと思う。

しかし、アウディは2015年1月に、シリコンバレーからラスベガスまで、約900km自動運転で走ったらしい。
これには一度に12台ほどのカメラを処理できる、NVIDIAのチップを積んでいると思う。

テスト車のA7は、レーザースキャナー2個、中距離レーダー4個、トップビュー用カメラ4個、長距離レーダー2個、3次元ビデオカメラ1個、超音波センサー4個、GPS1個、近距離レーダー2個の20個のセンサーを積んでいるとのこと。
すごい装備だ。

これだけのセンサーを積まないと、リアルワールドの一般道は走れないということだろう。
そう考えると、人間の目と脳はすごい。
センサー類はクルマの前と後ろに付いていて、3次元ビデオカメラだけがフロントウィンドウに付いている。
後ろにも目があるということになって、自動運転の方が安全という気もする。

実際に走るときには、交通標識を認識したり、車線を認識したりするのはもちろんのこと、信号や矢印を認識して止まったり、発信したりする必要がある。
そして、自転車やバイク、そして歩行者をよけたり、止まったりもしないといけない。
誰も走っていない夜中に走破したわけではないのだ。
スゴイ技術だ。
それも、もう開発済みだ。

飛び出してきたものが人間のなのか、自転車なのか、イヌなのか…、それを学習するのがディープ・ラーニングというシステム。
人工知能で自ら学習する。
教えるよりも、機械に自分で学習させたほうが早いということだ。

まあ、アメリカだから、歩道を歩いている人も少ないし、自転車なども少ないだろう。
だから、900km行けたのかもしれない。
クルマ社会だからなあ。

それにしても、ナビで行き先を告げたら、あとは自動でいけるという時代がもうすぐそこまで来ている。
技術的な問題というより、法的な問題をクリアしないといけないだろう。

一番簡単なのは、人が乗って、見ていることだ。
自動モードは人が介入した時点で切れる。
そうすると、責任が明確になるし、法的には自動化しやすい。

とりあえず、運転を知っている人がドライバー席に座って、監視しながら自動運転で…、という形ならもう数年以内に実用化しそうな勢いだ。
それにどれだけの価値を見出すかだが…。

無人運転はまだ難しいかもしれない。
それは、技術的というよりも、法的に難しいような気がする。

しかし、そういう未来がもうすぐそこに来ているということだ。

エライ時代や。



| | 考えたこと | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロボットに対抗する方法
ロボットが職場に増えてくる時代がもうすぐ来る。
今までは製造現場に来ていたが、そうではなく今度はオフィスに来るのだ。
つまり、ホワイトカラーの仕事がロボットに取って代わられようとしている。

そういう時代に生き残ろうと思ったら、どうしたらいいか。
ハーバードビジネスレビューによると、5つの方法があるという。

・「上を目指す(step up)」コンピューターができない仕事を探す(自動化に対する伝統的な対処法)

これは、今までもやってきた方法。
製造業の人たちがサービス業などに移るというようなことだろう。

・「視点を変える(step aside)」人間の特性(例えば共感すること)が必要なキャリアを選ぶ

これは、ニュアンス的にはもうちょっと高度な感じ。
「共感することが必要なキャリア」というと、教育分野とか、医療分野、介護/福祉分野などだろう。
今から必要とされるところでもある。
しかし、ここも一部ロボットが入っているが…。

・「入り込む(step in)」コンピューターの仕事を監視、修正する

こうなるためには、コンピューターをある程度理解し、修正できる技術的スキルが必要になる。

・「ニッチを探す(step narrowly)」自動化が採算に合わない職を探す

自動化が採算に合わない職、というと、単価が安い仕事か、それとも高すぎる仕事になる。
安い方は小売の対面販売が必要なもの。化粧品や身につけるものの販売などかな。
高い方は、高度にカスタマイズされていて、ややこしい嗜好品を扱う仕事。
要は、対面の価値が高い仕事だ。

・「さらに進める(step forward)」次世代のコンピューターや人工知能(AI)を開発する

これがいいのはわかっているが、高度なITの知識が必要になる。

要するに、あまり有効な策はない。
でも、人間がやる仕事は確実に減る。
ロボットができることが増えるからだ。

今の就活でコミュニケーション能力が求められるのも、対面の仕事の重要性が相対的に上がっているからだと思う。
昔なら、「まじめにコツコツやる」ということがもう少し評価されたはずだが、今はそんなに評価されない。

こういう世界が予想される時に、何をすべきか。
社会の基礎の部分を変えていかないといけないのかもしれない。
でも、その部分は長い間の伝統や風習で、そう簡単には変わらない。

ぼくらが若い人たちにしてあげられるアドバイスは、あるのだろうか…。



| | 考えたこと | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
英語のニュース
英語のニュースのサイトを探したが、The Japan Times STというのが良さそうだ。

単語はちょっと難しいのもあるが、短いニュースでわかりやすいのがいい。
エッセイも週に1本ある。
こちらは音声ファイルも聞ける。

もうちょっと長い記事だとVoice of Americaのサイトもいい。
ゆっくり読んでくれている音声もついている。

インターネットができて便利になった。
昔なら教材としてお金を出していたところ。
でも、無料で英語のニュースと日本語訳が見られて、音も聞ける。
本当に英語の学習は安くなった。

昔に比べると日本はお金持ちになったというのに、英語学習にはお金がかからなくなった。
これだけ環境が整ったのに、日本人が英語が不得手なのはどうしてだろう。
どんどん英語の力は下がっているという。

英語の先生の英語力が問題なのかもしれないなあ。

先生のレベルを上げないと…。



| | 英語 | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
英会話を身につける方法
ネットに「今すぐできる英会話を身につける方法」というのがあった。
5つの項目が書いてある。

(1)海外ドラマを英語字幕で観る
 これだけはいつもやっている。ケーブルテレビで吹き替え版と字幕版があれば、字幕版を見る。
 ちょっとしんどくなっているが…。
 これをやると、ながら仕事ができない。
 見ていないと、わからなくなるからだ。
 しかし、本当に効果があるのかないのか…。

(2)手帳に英語で書き込む
 これはやっていないが、やってもいいかと思う。
 ただし、手帳は使っていなくて、グーグルカレンダーなんだが…。

(3)簡単な英文を音読する
 なかなか英文を読むという機会がない。
 簡単なニュースを読めと書いてある。1日5分でいいらしい。
 
(4)“R”と“L”の発音を聞き分ける
 これは難しい。これができたら言うことはない。

(5)単数形と複数形を区別する
 これも難しい。単数と複数の違いは日本人には意識できない。
 間違えても違和感がないのだ。

身につける方法と言っているが、4と5は方法というより能力だろう。
そうするために、何をするか、ということなんだが…。

でも、2,3はやってみる価値はありそうだ。
5分で読めるニュースを見つけて、やってみるか…。

英語は10年間使っていなかったら、本当にわからなくなった。
昔はもっと言っていることがわかったし、聞き取れていたと思う。
書いたり、話したりはもっとひどくなった。

よし、心を入れ替えて、2,3をやってみることにするか。

ニュースのサイトを探そう。




| | 英語 | 21:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
教員課程にインターン?
今朝のニュースで教員免許をとる学生にインターンという記事があった。
これはいいことだ、と思ってよく見たら、教職課程をとる学生に小中学校でインターンシップ(就業体験)を行うということだった。
まあ、それも大事なんだろう。
しかし、それよりももっと問題視すべきなのは、今の教員が、ほとんど学校の世界しか知らずに教員になっている、ということだと思う。

当たり前のことだが、学校を出た学生たちはほとんど社会に出ていく。
この社会のシステムが、学校と全く違うことが問題なのだ。

学校の世界しか知らないということなら、ほとんどの大学教授も同じこと。
彼らを見ていると、社会一般で通用している「義務」とか「責任」、「組織」というような概念が普通の社会人とは違う。
何でも合議で決めようとするし、自分が大学の一員であっても、自分の都合によっては立ち位置が変わるように見える。
それが、民間企業で25年働いて、10年大学で働いたぼくの結論。

もちろん、そうでない人もいるが、それは希少だ。

今の小学校から高校まで、先生が先生のリクツで運営している。
それが一概に間違いだとは言わないが、社会の通念と乖離している部分があるのは事実。
だから、いじめ問題への対応や、学校不祥事への対応などで、おかしなことが起こる。
ご丁寧に教育委員会まで、教員で固めている。

今の学校に必要なのは、社会一般の考え方を導入することだ。

今回のインターンというのは、せめて企業でのインターンにしてもらわないと、何も改善しない。
個人的なミスマッチは減るだろうが、それで学校がよくなるとは思えない。

今の学校に、何らかの形で「社会人」を入れることが、改善につながるんだと思う。

文科省はいい加減にその事実を認め、教員になる道の複線化を進めるべきだ。
普通の社会人から、教員になる道である。
そして、学校の事務員を増やし、その事務員は社会人の中途採用にするべきだろう。

仕組みをいくらいじっても、人が変わらないとダメだ。

そうすることが学校改革の一番の方法だとぼくは思う。




| | 考えたこと | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
朗読CD
アメリカでは、いろんな文学作品の朗読CDというのは一般的らしい。

ドラマでFBIの捜査官が、事件がフィラデルフィアで起こり、そこまでドライブするのに「銀河帝国の興亡」の3本セットのテープを持っていく、という場面があった。
同乗の捜査官は渋い顔をしていたが…。

そういえば、前に見た映画バーブラ・ストレイザンドの映画でも、西海岸から東海岸までドライブするのに朗読の作品を持っていっていた。
アメリカは長距離ドライブが日本よりも多いから、そういう需要があるのかもしれない。

Amazonのアメリカ版でナレーションCDで調べると、聖書の朗読CDがあった。
なんと64枚のCDのセットで、27ドル。
充分楽しめそうだ。
子供向けのミュージカルのCDもある。
実にたくさんのオーディオCDが出ている。

やっぱり、長距離ドライブの頻度と、オーディオCDの売れ行きは関係あるのだろう。

アメリカ人の好みの問題もあるだろう。
映画では家でも朗読テープを聞いていた。
読むより聞くほうが楽だということだ。
何かをしながら、聞くことができるというのもメリット。
編み物をしながらとか、体操をしながらとか、一度に2つのことができる。
アメリカ人らしい。

日本人は読書というと、ちゃんと座って、本とにらめっこという感じなのだろう。
何かをしながら朗読を聞くことで、読書の代わりにする、などという考えはないと思う。
しかし、そこは合理的なアメリカ人の考えだ。
銀河帝国の興亡、面白そうだ。

ぼくは毎週日曜日にやっている、新日曜名作座と文化講演会をインターネットラジオで録音している。
それをクルマに乗って聞いたり、寝るときに聞いたりしている。
朗読のCDを持っているのは、古事記とか平家物語。
日本でもアマゾンで見てみると、そこそこある。
でもあまり一般的ではないと思う。
テレビや映画で聞いている場面を見たことがない。

でも、ぼくは聞くのが好きだ。
ロングドライブなら、FMシアターのラジオドラマもいい。
テレビを何度も見るのはシンドイが、ラジオドラマなら何度でも聞ける。
聞いていて、あまり神経を使わないでいいからだろう。不思議なものだ。

アメリカは、車社会だからだろうか。
英語がわかれば、もっといろいろ聞けるのに…と思う。

ハリー・ポッターなど、長距離ドライブに持って行ったら楽しいだろう。

たくさん朗読CDがあって、アメリカ人が羨ましい。




| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
スマホの時代
スマホで何でも出来る時代になった。

まず、写真をが撮れる。
結婚式で携帯をかざしていたのが懐かしい。
スマホのカメラはどんどんよくなっている。
現実にデジカメが売れなくなってきている。

動画も撮れる。
ちょっとした動画なら、スマホで充分という時代。
ニュースに視聴者がスマホで撮った動画が使われている。

ボイスレコーダーになる。
会議や音声を残しておきたい時、スマホで録音できる。
今は容量も増えたので、長くても安心だ。

電子辞書や電卓にもなる。
英和辞典や漢和辞典、国語辞典の代わりになる。
そういうサイトに接続してもいいし、アプリもある。
もちろん、電卓のアプリを入れたら電卓になる。

万歩計になる。
アプリでなるのもあるし、最初から内蔵されているのもある。

電子手帳になる。
メモも取れるし、写真も撮れるし、音も入れられる。
日付で検索することもできる。

携帯音楽プレーヤーになる。
スマホが音楽を聞く道具にもなる。
これからはストリーミングになったら、余計にスマホで聞く機会が増えるだろう。

リモコンになる。
これはまだ一部だが、アプリを入れれば赤外線リモコンになる。
そういえば、ドローンのリモコンにもなる。

クレジットカードになる。
おサイフケータイと言っていたが、その機能はスマホに引き継がれた。
海外製でも決済機能が追加されつつある。

楽器のチューナーになる。
ギターの音を合わせるのに、チューニングマシンにもなる。
もちろん、音が出るものなら何でもいい。

クーポンになる。
お店でちょっと安く食事がしたければ、スマホでインターネット予約してクーポンをゲットし、お店で見せればOKというところも増えてきた。

ナビになる。
地図で目的地を入れると、そこまでナビゲーションしてくれる。
徒歩でも、自転車でも、クルマでもOKだ。

要は何がいいたいかというと、スマホができたために、要らなくなった商品がたくさんある、ということだ。
ぼくらはスマホの時代に生まれていないから、辞書はアナログだったり、電子辞書専用機を使うことも多いが、今の10代はスマホの時代に育った。
だから、スマホで代用できるものは買わない。

そういう時代になってきた。


| | 考えたこと | 01:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
チョコとのりの煮込み
人工知能が発達している。
レシピまで考案するようになった。

いろんな料理のデーターを学習して、新しいレシピを考えることができる。
「チョコとのりの煮込み」というのは、人工知能が考えたレシピ

9000の料理のレシピを学習して、チョコ、のり、和風煮込料理という指定をしてIBMのWatsonという人工知能が考えた。
実際に指定の材料を揃え、指示通りに作ると、そんなにまずくないものができたという。

料理などはわりと組み合わせが楽なんだろう。
学習すればパターンがわかるのかもしれない。

しかし、人工知能はどこまでいくのだろう。
聞けば何でも教えてくれるようになるのかもしれない。
小さなロボットを介して、インターネット上の人工知能に聞けば、すぐさま応えてくれるようになる。

今日の献立などは簡単だ。
学生なら宿題を聞けば楽勝だろう。
先生も知識の部分については、人工知能に勝てない。
教え方の部分も改良されていくだろう。
そうなると、そもそも先生が要るのか、ということになるかもしれないなあ。

それでも、対面で何かをすることの価値というものは変わらない。
というか、人工知能が発達したら、その価値は上がるだろう。
…と思うのだが、それもロボットで代用できるということになったら、どうなるのだろうか。

それが「チョコとのりの煮込み」というような新しいものも作れるとなったら…。

想像以上に人工知能の進化は早い。

人間はうかうかしていられないぞ。


| | 考えたこと | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラブソングができるまで
WOWOWでやっていた。
2006年。ヒュー・グラントとドリュー・バルモアが主演。

このブログを書き出した時に、ノッティングヒルの恋人、という映画でヒュー・グラントのことを書いたのを思い出す。

彼は、意外としょぼいおっさん役が似合う。
この映画では、80年代に売れていたバンドのメンバー。
ピアニストで作曲家でもある。

今は80年代の懐かしのメロディーという感じ。
遊園地や同窓会のドサ回りをやっている。
カラオケで昔の歌を歌って踊る。踊って腰を痛めたりしている。
実にしょぼいおっさんである。

ドリュー・バルモアは文学を志す女性。
大学時代に文学の教授と深い仲になってフラれ、それを悪しざまに小説にされて傷ついている。
文学の道はあきらめ、姉の痩身エステを手伝っている。

その二人が知り合い、売れっ子の若いシンガーの曲を作ることになる…。

思いっきりベタな邦題と、それにふさわしい内容。

でも、この映画はよかった。

こういうふうに、ラブソングが作られる、という夢をもらえる。

"Way Back into Love" というのが原題。
英語でもベタだ。

ヒュー・グラントとドリュー・バルモアが歌っている"Way Back into Love"のサイトがあったので、リンクを貼っておきます。

http://www.azlyrics.com/lyrics/hughgrant/waybackintolove.html

映画を見てからこの曲を聞くと感動するんだが…。


| | 映画・舞台 | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
職業訓練校
大学の業界に、大きな変化が訪れようとしている。
首相が議長の産業競争力会議で、「経済成長に向けた人材を育成する高等教育機関を設立」する方針が決まった。
平成31年度に開校を目指すとのこと。
「実社会のニーズに合わせた職業教育を行う新たな高等教育機関制度を創設し、学校間の競争を促す」というのが趣旨。

今の大学では、産業界が求める実務的な教育ができない、ということから、ITなどの成長分野で職業教育をするということらしい。
もちろん、社会人の入学も可能にして、キャリアアップへの活用を促すということだ。
でも、これ以上大学を増やすことは得策ではないから、大学や短大や専門学校からの移行を進めるのだろう。

これは既存の大学には大きなインパクトがあると思う。
すんなりと決まるとは思わないが、方針としてはアリだろう。
専門学校は移行するところも多いし、短大も長期的には厳しいから移行するだろう。

問題は大学だが、これで影響を受けるのは主に下位校になる。
今定員割れしている、あるいはここ数年で定員割れの恐れがある大学は、どうするか迷う所だと思う。
ここで問題になるのは、新たな大学(どういう名前になるのかは知らないが)のカリキュラムには、ほとんどの大学教員が要らないということだろう。
下位校の大学教員にとっては、仕事がなくなるというピンチなのだ。

現実を見ると、大学はどんどん専門学校化している。
多くの看護学科・学部が新設されているのは、その現れだ。
看護師が足りないこともあるが、専門学校でできることを大学が取り込んでいる。
受験生も出口のことを考えるて、そこに集まるからだ。

ということで、一番割を食うのは、文系の弱小私学だろう。
1990年代以降に開設された、比較的小規模の大学は、少子化で経営が苦しい。
制度設計にもよるが、一部のマンモス私学も不採算部門を切り捨てて、移行するかもしれない。

しかし、この移行には前述したように、多数の大学教員の入れ替えが必要だ。
ここに、教授会の壁が立ちふさがる。
自分たちの仕事がなくなるような移行は、教授会は許さないだろう。
多くの大学で、ガバナンスの強化が行われており、教学以外のことは学長や学部長を主とする会議体に移行しているが、それでもまだ教授会の力は強い。

一体どういう形で決着がつくのか、想像もつかない。
たくさんの揉め事が起こり、不毛な議論が続くと思う。
ワンマンの学長や理事長がいるところは、比較的スムースだろうが…。

実際、下位校では職業訓練校に移行したほうが、いい教育ができるところがほとんどだろう。
今の初等・中等教育が変わらない限り、大学は変わらざるを得ない部分がある。
それを強行するのが今回の意図だろう。

どのみち、変わらなければ潰れるのだ。

きっとすんなりとは決まらない。
「学問の価値」とか「高等教育の重要性」とかいう話題になるのだろう。

でも、本当に生徒のことを考えたら、結論を出すべきだと思う。

どうなっていくのか、興味深い。



| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
パルロ
歳をとって会話がなくなると、認知症になりやすくなる。
会話が感情を刺激し、脳に神経細胞を作る。
それが認知症を防ぐということだ。

しかし、高齢者になるとなかなか会話の相手がいない。
いても会話が続かなくなったりする。
ペットも効果があるが、話が一方的になる。
そこで、新たに出てきたのがロボット。

介護現場ですでに導入されているロボットがある。
パルロという。値段が67万円。
このロボットは顔と声を認識して名前を覚えるらしい。
そして、人が話したことを記憶し、次に会った時にそれに基づいて話すことができる。
言ったことに対して0.4秒で反応する。
インターネットにつながっているから、ニュースを伝えたり、天気予報を聞いたり、メールをチェックしたり、カメラを内蔵しているから写真を取ったりできる。
ちょっと高いが、高齢者施設ですでに活躍しているとのこと。

MIT(マサチューセッツ工科大学)でも研究している。
今年の12月に5万円くらいで発売される予定のロボットもある。
ジーボという名前。
形がユニークで、顔がスクリーンになっていて、その時々の気持ちを表す。
これはこれで、とてもよく出来ているように見える。
残念ながら英語なので、英会話の練習にはなるだろう。
日本語版が出れば、これはほしい。

そして、タカラトミーとdocomoが開発して、10月に1万9800円で発売されるのが、「OHaNAS」というロボット。
会話ができる小さなロボットとしては、破格の安さだ。
docomoの会話解析技術を使って、スマホ経由でネットにつないで使う。
本体からBluetoothでスマホからサーバーに行って、答えはサーバーから返す。
スマホに機能を分担させる分、安くできるんだろう。
安い分、ちょっと不自然な感じもあるが、かなり賢い。

やっぱりパルロが機能的には一番すごいが、値段も高い。
MITの日本語版は難しいだろうなあ。
OHaNASは安いが、まだちょっと…。

でも、この機能がもっと進めば、安くてもっとまともに会話ができるロボットというのは10年後には実現しそうだ。

ということは、歳をとっても話し相手には困らない。

これはいいことだ。

認知症は減るのではないか。



| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校生の英語力
平成26年度に初めて高校3年生の英語力を、読む・聞く・書く・話すという4つの能力別にテストした結果が、文科省から発表されている。

対象は国公立480校の7万人。(ただし、話す能力は各校1クラスになっており、1.7万人)
今回のテストの売りは、高校生の英語力を幅広く測定するため、世界標準となっているCEFR(Common European Framework of Reference for Languages:ヨーロッパ言語共通参照枠)のA1から B2までのレベルを測定できるように設計した、ということだ。

結果は想像がつくが、まさに想像通りの結果である。
4つの能力全てに問題があるが、特に「書く・話す」が悪い。
読むこととリスニングは、まだそれに比べるとマシだそうだ。
共通一次みたいな試験ばかりやっている弊害が出たのかもしれない。
「書く・話す」はマークシートでは試験できないからなあ。

もちろん、英語が好きかと聞かれると、「英語が嫌い」、という結果が半分以上。
しかし、昔と違って、話すことの点数が高い生徒は「英語での討論やプレゼンテーション」の経験があるらしい。
そんな授業はぼくらの頃は全くなかった。

しかし、実際の点数を見ると、かなりシビアだ。
読むことが320点満点で、平均が129点、聞くことが320点満点で平均120点、書くことはなんと140点満点で平均が27点、話すことが14点満点で2.2点となっている。
聞く力はリスニングのテストや、英語の教育課程の変化で以前より上がっているんだろう。
しかし、書くことは2万人の生徒が0点だった。

この結果なら、文科省がしきりに小学校から英語を、という気持ちもわかるが…。

日本に住んでいる高校生は、大学入試を目的として考えると、読む・聞く能力は試験で問われるのでやっているが、書く能力は記述試験が主になるので、マークシート受験の生徒はほとんどやっていないし、話す能力は英語での面接でしか問えないから、全くやっていない。

自発的な学習意欲は大事だとは思うが、入試というインセンティブも大事だから、英語力を上げようと思うと、大学入試で大学が汗を流して頑張るというのが1つの方法。
簡単な話、文科省が各大学に英語のマークシート試験は廃止して、記述式にして、英語の面接を必修にしなさい、と言えばいい。
まあ、面接は大変だから、高校の英語課程に「話す」能力を入れて、その点数を絶対値にして、入試に加算するという手もある。

少子化なんだから、入試に手をかけてもバチは当たらないだろう。
今やほとんどの私学がAO、推薦で半分以上の学生をとり、一般入試はマークシート入試だ。
サボりすぎだと思う。
もうちょっと真剣に選抜しないと…。

それと、ぼくらの世代はまだ日本が貧しく、アメリカのドラマを見て、洋楽を聞いていた世代。
もちろん、ドラマは日本語の吹き替えだったが、豊かな海外に憧れがあった。
ベストテンは半分洋楽で半分が邦楽。
英語の歌を聞いて育った。意味など分からないが、かっこよかったからだ。
だから、今よりは英語に対する「わかりたい」という欲求は強かったと思う。
進んだものは海外から来るし、それは英語がわからないとダメだと思っていた。

今は日本が豊かになって、地上波を見ていると海外のドラマなど見ることはない。
ベストテンも全部日本の歌だ。
ラジオでも洋楽がかかることは少ない。
日本は一人前の国になった。
1億人もいるから、日本語の国内市場が成り立つ。
だから、英語は以前より遠くなった。

韓国の方が英語ができるのは、国内市場の大きさと関係があると思う。

しかし、日本は少子高齢化で市場は縮小する。
遅ればせながら、外国語をやらないといけなくなってきた。

英語の先生が英語を話せない、という状況を何とかしないとイケナイ。
結局は、そこにかかっていると思う。


| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
地上波のテレビ
地上波をほとんど見ないが、最近の地上波は野球中継が減った。
サッカーが出てきたからかと思ったが、サッカーも一時ほど番組はない。
気がついたらほとんどなくなっていたのが、ゴルフの中継。
土日は必ずといっていいほどやっていたが、最近はあまり見ない。

デジタル化で増えたチャンネルで、やってはいるようだ。
NHKもBSを契約していたら、ナイターやサッカーの中継を見ることができる。
民放系もBSでやっていることもある。

結局、野球やサッカーは専門のチャンネルに行ったという感じだ。
ゴルフもケーブルテレビでは専門チャンネルがある。
昔は野球をやっている期間はナイター中継があって、野球以外を見たい人とぶつかっていたのが、今やそんなことはおこらない。
まあ、今はテレビが複数台あるし、パソコンでテレビを見たりもするから、そもそもチャンネル争いという言葉が死語か…。

そんなわけで、スポーツ中継を見るためには、ちょっと前までのように地上波でチャンネルを回していたら見つかる、というような状態ではなくなった。

地上波の編成が変化したのだろう。
若い人たちは、Webという選択肢が出てきて、テレビへの需要が減っている。
したがって、地上波のターゲットは中年以上の高齢者になったのだろう。

たしかに6時、7時台の編成は変わった。
昔は子供向けのアニメなどをやっていたのに、今やそんなものはほとんどない。
その時間は、バラエティ番組がほとんど。
子供は録画したビデオで見るのだろう。

昼間のワイドショーの時間が長くなった。
今は「情報番組」というらしい。
昔はテレビというものは、専門家だけが出られるものだったが、今は素人以下の人でも出られるようになった。
視聴者代表という位置づけらしいが、あれでは視聴者をバカにしているとしか思えない。

紳助がおバカの番組をやってから、特にひどくなったような気がする。
クイズ番組なども、かなりひどくなった。
わかりきった問題を出したりして、それでも間違うヤツが出ている。

大宅壮一が、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」と言って、ぼくが生まれた1957年に「一億総白痴化」という言葉を残したが、58年経ってなるほどそうなったと思う。

特に今の地上波のワイドショー(情報番組というのか)や一部のニュース番組はひどい。

何とかならないのかと思うが、ああやらないと視聴率が上がらないのなら仕方がない。
地上波はスポンサーがお金を出すから、視聴者はタダである。

タダのものは、いくら質が落ちても安かろう悪かろうで、どうしようもない。
テレビを見ない人が増えれば増えるほど、質は落ちていくのだろう。

これは止まらないだろうなあ…。




| | 考えたこと | 00:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラスベガス
ラスベガスというと、アメリカのカジノを思い出す人がほとんどだろう。

でも、日本のデイケア施設にそういうのがある。
なんでも、リハビリをして、ポイントを貯め、そのポイントを使って麻雀やカードゲーム、パチンコなどをやれる、という施設。
デイケアセンターだから、要介護1から使える。

聞いた話だが、普通のデイケアに行くと、何の意味もなく机の上で転がされたボールを転がして返す、というリハビリがあるらしい。
それをやっていたおじいさんが、「あんなおもろないもん、やってられるか」と言っていたとのこと。

しかし、ラスベガスなら、それをやればポイントがもらえ、それを元手にトランプや麻雀ができる。

インセンティブ、というやつだ。
やる気にさせる要因がある。
だから、必死になってやる。

たしかに、ラスベガスのビデオを見ていると、みんな元気だ。
きっと内臓系の病気で要介護になっているんだろう。
車いすも見えない。
嬉々としてカードやスロット、パチンコなどをやっている。
手も動かすし、頭も使うし、時には人とのコミュニケーションや駆け引きもあって、認知症の予防にもなる。

高齢化して、ボケる人もいれば、ボケない人もいる。
ボケない人は、ボケた人と一緒のことをやりたくない。
ところが、施設はそんなにリハビリのバリエーションを持っていない。
だから、どうしてもチイチイパッパみたいなリハビリになってしまう。
人手や場所の問題もあるのだろう。
そうなると、ボケてないが、要介護の人たちの行き場がなくなる。

介護施設のバリエーションを増やさないといけない。
比較的元気な人向けの介護施設を作らないといけないと思う。

賭け事でもいいし、音楽でもいいし、何かの創作でもいいし…。

そういう施設を増やさないといけないだろう。

そこには、ビジネスチャンスがあると思う。


| | 考えたこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
Fake Suger
人工甘味料を辞書で引くと、"artificial sweeteners"と出ている。
人工的な甘味料というそのままの訳。

これをドラマでは"fake sugar"と言っていた。
これなら意味はわかる。
"fake"は「ニセモノの」という意味だ。
ニセの砂糖が人工甘味料になる。
セリフの主は真面目なFBIの捜査官だったから、面白かった。

毛皮風の衣料のことを"fake fur"、偽札のことを"fake bill"、仮病を"fake illness"、入れ歯を"fake tooth"、愛想笑いを"fake smile"などというらしい。

fakeというのは、なかなか便利な単語だ。
この調子でニセモノを作ることができる。

fake marriage で偽装結婚。
fake passport で偽造パスポート。
fake hair でかつら。
fake diamond で人工ダイヤ。
fake marble で人工大理石。

fake marriage は結婚詐欺という意味があったが、他の4つは正式にはない。
でも、fake sugarが使われるところを見ると、きっと意味は通じると思う。

fake、なかなか便利な単語だ。


| | 英語 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
年金機構
年金機構の個人情報が漏洩した。
漏洩して20日間も隠していたらしい。
役所のやりそうなことだ。
セキュリティ監視をしているところから、おかしなやり取りがあった、という警告もされていたのに、発生した。
気が抜けているんだろう。

民間企業なら、不買運動が起こったりするから、すぐに発表する。
年金機構はどれだけ不満があっても、それを使わざるを得ないから、いくら発表が遅れても損しない。

悪いハッカーは先に公開アドレスにメールを出して、非公開のアドレスを入手し、その上で非公開の職員にあててウィルスメールを送った。
それに引っかかって、メールを開いて添付ファイルをクリックしてウィルスに感染し、個人情報が漏洩したらしい。

これでマイナンバーなど扱わせていいのだろうか。
マイナンバーは地方自治体も扱うのだが、ここがまたひどいと思う。

もともとパソコンは効率化のために導入された。
インターネットが今ほど発達する前のことだ。
だから、効率化を図りたい民間企業はこぞって導入した。

それに反対していたのが、社保庁に代表される役所だろう。
パソコン操作は45分したら、15分休憩とか、一日5000キータッチ以内とか、そんな状態だったらしい。
仕事のやり方を変えるのが嫌なのだろう。
変わったら、また覚えないといけないからだ。
それに耐えて、民間企業の労働者はパソコンを入れて、仕事のやり方を変えた。
それが当たり前なのに、役所は嫌がった。
日本のサービス業の生産性を下げているのは、公務員の仕事も大きいのではないか。

でも、これだけインターネットが発達して、ようやく役所の仕事も追いついてきたのが現実。
民間から10年ほどは遅れているが…。

形はようやくできたが、人はそう簡単には変わらない。
セキュリティのイロハも知らない。

そういう人の教育をする人もいない。

トランプなら、総替えなんだが…。



| | 考えたこと | 02:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドッジボール禁止?
小学校の頃、よくドッジボールをした。
体育の授業でもやったと思う。
ぼくらの世代はそうだった。

でも、ある人がツイッターで「ドッジボールはいじめを助長するから、禁止すべき」という声をあげて激論があったとのこと。
この人は30歳前半だ。

世代が違うし、今の学校の状況がわからないから何とも言えないが、あのドッジボールが禁止?という感じだ。

たしかに誰かをターゲットにして、集中的に狙うなどの行為ができるし、それをいじめというのならそうだろう。

彼によると、

「他人にボールをぶつける野蛮なスポーツであり、イジメにも繋がりやすい」
「義務教育で全員参加させるべきではない」

ということらしい。
じゃあ、何が義務教育で全員参加させるべきなのか、ということだ。

6月4日のテレビ番組でも取り上げられたそうだが、その時のアンケートでは「禁止すべき」が3751票だったのに対し、「すべきでない」は37849票だったとのこと。
それはそうだろう。
テレビを見ている世代はだいたい高齢者だから、10対1くらいで「禁止すべきではない」になるだろう。

ぼくは、ドッジボールがいじめを助長するというが、その元にはいじめがあるわけで、そっちを何とかしないと、ドッジボールのせいにしてもなあ、という感じ。
当てられるのが嫌なら、外にでて当てる側に回ればいいし。
何をやっても、得意な子もいるし、不得意な子もいるし、それが好きな子もいるし、嫌いな子もいる。
助長するからといって、禁止はないだろうと思う。

逆に、いじめが明確になったのなら、それで注意するとか、そっちの方に考えられないのだろうか。

コメントは禁止を支持する声が多かったそうだが、アンケートの結果は明らかだ。
反対の人はコメントを書くのも馬鹿らしいと思ったのだと思う。

そんな風に何でも禁止と言っていたら、それこそテストをすることも禁止になる。

学校というのは子どもに社会に出る前に社会とは何かを教える場でもある。
そこにはイヤなこともあるし、嫌いなこともあるし、実際凹むことも経験していかないといけない。
そして、それを上手にやり過ごす術を学ばないといけない。
全く嫌なことがない学生生活を送ったら、社会には出られないだろう。当たり前だ。
そういう機能が不全になっているのではないか。

だいたい、いじめがあったとしたら、ドッジボールを禁止してもなくならない。

なんかオカシイ。

そんな考え方でいると、よけいに社会に出られず引きこもる若者を増やすことになるぞ。



| | 考えたこと | 22:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
親子関係
最近、何となく亡くなった父に似てきたのではないかと思う。

歳をとるまで「父」という人間がよくわからなかった。
誰でもそうなのか、それとも自分だけなのかはわからない。
親子関係と一口に言うが、その家庭ごとに違うものだ。
本などを読んでいても、当たっていると思うこともあれば、外れていると思うこともある。

書いたような気もするが、ウチの父はほとんど親子関係を知らなかったのだと思う。
そのことを理解したのはいつ頃だったか…。

小さい頃に職業軍人だった父親が満州に行き、母と妹も行ったので、日本で一人祖父の家で育った。
父親はそのままフィリピンに行き戦死したので、ほとんど父親を知らない。
父親が亡くなった後も、たぶん寮に入っていたはずだ。
もうちょっとで戦線に行くという所で、終戦を迎えた。

終戦後すぐに広島から神戸に出てきて、学校に行き、大阪で就職した。
祖母は広島から離れることはなかったので、長い間一人暮らしをしていたことになる。
そして結婚して、神戸に住んだ。
祖母は広島から冬の時期2ヶ月ほどだけ、ウチに来ていた。
ウチの母はいろいろとしんどかっただろうが、それが二十年間ほど続いたと思う。
それが父と祖母の関係だった。

だからかどうかは知らないが、ぼくは小さいころ、父とあまり遊んだ記憶がない。
昭和ヒトケタだから、エコノミックアニマルと呼ばれた世代。
学校の行事など、休みの日の運動会くらいしか来なかった。
あの頃のサラリーマンはみんなそうだったと思う。
トランプだけはよくしてくれたなあ。

でも、孫の面倒はよく見てくれた。
それは、父が祖父に育ててもらったということと関係があるような気がする。

必然的に親子関係は繰り返される。
でも、今ごろになって似てきたと思うのは、それを理解するのに相当な年月が必要だということだろう。
本当は似てきたということではなくて、似ているのだろう。

それは遺伝子ではなく、育ってきた歴史に負うものだ。

遺伝子だけでは人間は理解できないのは、そういうことだ。

だから、人間は面白い。



| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
モノのインターネット
ちょっと前のクローズアップ現代でやっていたが、小松製作所のクレーンやブルドーザー、その他の重機には各部分にセンサーが取り付けられており、全世界からデーターが東京の本社に飛んでくるとのこと。
それを解析して、メンテナンス情報を得たり、製品のどこが壊れやすいかを解析したり、どこでどう使われているか知ることで、新機種の提案をしたりできる。
さらに、地形データーを組み合わせて、地面を掘って何かの工事をするときには、作業の順序などを指示したりまでするらしい。

アメリカのジェネラル・エレクトリック(GE)は、メーカーはすべてソフト会社になるべきだ、という。
売った商品から、自社にデーターを送り、それを使う。
GEの場合は、ジェットエンジンが例に挙げれていた。
小松製作所の重機と同じように、飛行機のエンジンのデーターが本社に飛んでくる。
それを解析して、燃費の良い飛行ルートを提案したりできる。
実際に台湾の航空会社はそれで燃費がよくなった、と言っていた。

さらに工場のライン等でも、インターネットを使って効率を上げる仕組みを作ろうとしている。
アメリカとドイツが規格化をめぐって争っているということだ。
モノのインターネットとは、こういうことなのだろう。

日本は応用は得意だが、仕組みを標準化するということはからっきしダメだ。
技術を公開して(オープン化)、共有し、みんなで改良していく、というような文化がない。
もちろん、そういう利益を度外視したいい面ばかりではなく、本音のところはちゃっかり儲けているのだが、そういう文化があるからこそ、オープン化の動きができる。

これから、どこまでそういう動きができるかで、力関係が決まってくると思う。
携帯電話の通信方式も、テレビのハイビジョンも日本に技術はあったが、世界標準にするのに失敗した。
単に「いいもの」を作っていればいいというのではない。
それを広げていく努力をしないとイケナイ。

工場の合理化は日本の得意な分野だった。
今もそうかもしれない。
でも、生産機械どうしが通信してものを作ったり、ものと生産機械が通信して仕様を決めたりする、そういう仕組みも考えないといけないのだろう。

インターネットの進化は恐ろしい。



| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
オンライン脱抑制効果
SNSや掲示板などで、よく炎上という言葉を聞く。
記事によると、これには理由があるらしい。

心理学者のジョン・スラーという人が命名した、「オンライン脱抑制効果」というものだ。
これは、「対面や電話では言ったりしたりしないことを、ネット上ではしてもいいと思ってしまう現象」のこと。
つまり、ネット上では相手の顔が見えないことで、言動が抑えられなくなる、という現象だ。

これは、自分が誰だと名乗らずに済む匿名性や、相手から見えないこと、言うだけ言って二度と関わらない事ができること、相手の性格を勝手に想像で作ることができること、いざとなったら「ただのネットだ」と開き直れること、失礼なことをしてもかまわないと思えることなどの要因で起こるとのこと。

まあ、そういうものだろう。
だから、フェイスブックやツイッターは実名でやりなさい、ということになっている。
ネチケットという言葉があった、というか今もあるはずだ。
Wikipediaで調べると、やっぱりあった。
そこに、「他人に対する配慮」としてこんなことが書いてある。

・すぐに質問せず、自分で調べる。むやみに教えるのもダメ。
・大きなデーターをむやみに送らない
・ウィルスに感染していると思われるPCを使わない
・同報メールをToやCcにしない

このネチケットという言葉はだいぶ昔にできた。
まだネットを使う人が不特定多数になる前だ。
だから、ネチケットの中に「オンライン脱抑制効果」はあまり考慮されていないのだろう。
ネットの人口が増えるにしたがって、炎上が増えてきて、今や日常茶飯時になっている。

匿名というのが、オンライン脱抑制効果の災いの元になっているんだと思う。
実名でやるのが原則のFacebookではあまりそんなことは起こらない。
大体は匿名の掲示板だし、ニックネームでやっているツイッターやブログのコメントなどだ。

今はスマホで若い人たちはほぼ全員ネットユーザーになっている。
年寄りも、勤めていた人は会社で使わざるを得なかったりして、ネットの住人になった。
ネットを過信したり、知識不足で、自分が知っている人しかみていないという勘違いなどが原因になる。
バイトテロとか言われて、アルバイト先でわけの分からない写真をとって、ツイートして炎上ということもあった。
明らかにネットに関する知識が足りない。

運営側も簡単には削除できない。
もともと2ちゃんねるのように、管理しないという掲示板もある。
ネットで匿名なら、何でも書き放題と思っている人もいる。
それが有用な場合もないわけではない。
だから難しい。

ネットの利用者が、何かを書くときには、注意するしかないんだろう。

学校で教えられることはあると思う。
利用者教育をしないとイケナイだろう。

しかし、学校のネット環境はひどい。
特に、ぼくが知っている学校の職員室はひどかった。
先生方は新しいことを覚えるのがイヤなのかと思ったのだが…。

結局、元から絶たなきゃダメということだ。

ぼくらネットユーザーは、自分で守るしかない。




| | 考えたこと | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ミュージックセラピスト
アメリカにはミュージックセラピストという職業があるらしい。
FMシアターというラジオドラマでやっていた。

病院などで、死の床についた人に音楽を聴かせる。
人が最後まで持つ感覚が聴覚であって、寝たきりになった人でも音楽に反応することがあるらしい。
死ぬ前は何かを聞くことしかできないのだろう。

ミュージックセラピストは何回かのセッションを患者に提供する。
思い出話を聞き、音楽をチョイスする。
そして、病室で歌う。

原作は「ラスト・ソング 人生の最期に聴く音楽」という、日本人でアメリカにわたって、実際にミュージックセラピストとして活躍している人が書いた本だ。
セラピストは患者に癒やしを与えるだけでなく、患者から多くのことを学ぶという。

ぼくは音楽が好きだが、最期に聴く音楽は何がいいだろう。
洋楽なら、霧のサンフランシスコだが…。
でも、やっぱり日本の音楽だろう。
年をとると、昔の歌謡曲に戻っていくんだろうか…。
物心ついた時には加山雄三とか、グループサウンズが流行っていた。
しかし、その頃は音楽にそう興味がなかった。

音楽に興味を持ちだしたのは、中学になってから。
最初にファンになったのは吉田拓郎だった。
でも、あんな理屈っぽい歌詞を死ぬときに聞きたいとは思わない。

最初のアイドルは天地真理。
今はもう一つだ。

やっぱりスローなバラードがいいだろう。
あんまりアップテンポの曲は死ぬ前にはそぐわない。

小田和正の「静かな場所」などいい感じだ。
歌詞の最後も「いま時のたびに また出ていく」という、死出の旅にふさわしい。

歌詞ということならマイウェイもいいのだが…。

あまり知られていないが、Hi-Fi Setの「遠くからみちびいて」という曲が好きだ。
一度このブログにも書いたことがある。
あの曲は聞きたいなあ。

でも、その時聞いた歌が、いい歌だと思えるんだろう。
最期の歌を聴かす、ミュージックセラピストか。

いい仕事だと思う。



| | 考えたこと | 00:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
新型電池
電池がどんどんよくなって、昔ならコードレスでは使えなかったものも使えるようになってきた。

これも充電電池の容量が上がり、何度充電しても性能が落ちないなどの効果が上がったからだ。
今の最先端はリチウムイオン電池。
容量が大きく、充電をくり返しても性能劣化しない。
ハイブリッドカーから、パソコンやスマホなどに使われている。

でも、リチウムは希少金属で供給に不安がある。
価格競争も厳しくなって、日本発のこの製品もシェアが落ちている。
追い上げているのは中国韓国勢。

しかし、巻き返しがあるらしい。
今度はナトリウムイオンを使う。
ナトリウムとは塩のことだから、海水の中にいくらでもある。
リチウムイオン電池の製造ラインが使えるから、実用化も便利ということだ。

今頃、世界中で技術開発が競争になっているんだろう。
リチウムイオン電池の場合は、旭化成が開発して、ソニーが製品化したらしい。
当たれば大きい。
コストが3割減だという。

そうなると、もっと電池の需要が増える。
今まで電池で使えなかった製品が、充電電池で使えるようになったり、コストが下がって大容量になって使える時間が伸びたりするだろう。

掃除機などはコードレスが主流になるだろうし、扇風機も部屋から部屋へコードレスで簡単に持っていけるようになるかもしれない。
自転車だけでなく、電動バイクも増えてくるだろう。
LEDと組み合わせれば、昼間に太陽電池で充電して、夜に光るサインボードなども可能になる。
太陽光は大規模発電には向かないし、ムダになるが、個別に使えば有用だと思う。
電気を引けない地域ではとても便利だ。

大きな発電所を作って、大量に電気を作る時代から、その場で発電し充電する時代へと向かっていくのだろう。

ぼくが生きている間はまだまだムリだが、未来の人類はそうなっていると思う。

きっとそうなるぞ。




| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
テレビは世に連れ…
こないだ地上波を見ていたら、大竹まことが出てきたが、彼も65歳だという。
気がついたら、ぼくらの上の世代はみんな還暦を過ぎている。
当たり前といえば、当たり前だが…。

明石家さんまが59歳、ビートたけしが68歳、タモリが69歳。
高齢化が進んで、みんな昔でいうとおじいさんになった。
若作りのおじいさんだ。

しかし、さんま、たけし、タモリという主力3人のうち2人が65歳以上の高齢者。
長い収録などは厳しいだろうなあ。
ダウンタウンもコンビで50歳を超え、笑点の大喜利メンバーは若返ったとはいえ、過半数が60歳以上。

今日歩いていたら、お母さんに手を引かれた幼稚園児の女の子が「40歳はおじいさん?」と聞いて、「いや、おじさん」という会話が聞こえた。
幼稚園児にとっては、40歳はおじいさんと勘違いしてもいい年齢。
でも、40歳がおじいさんなら、母親もあと10年足らずでおばあさんだろう。

現実には日本人の平均年齢は46歳。
高齢化が進んでいるなあ。
ちなみに、1970年は31歳、80年34歳、90年37歳、2000年が42歳らしい。
ぼくらが若い頃は、日本人の平均年齢は30代だったということだ。
70年代頃は、テレビに出てくる人たちは若かった。

スター千夜一夜の石坂浩二が30代だった。(今は73歳)
夜のヒットスタジオの芳村真理が40代か。(今は80歳)
だいたい、番組の司会なんかは30代から40代くらいだったような気がする。
そのころ、60歳はおじいちゃんだったような…。

だから、若者がテレビ離れをしているのか…。
年寄りばっかり出てきたら、面白くないだろうなあ。

テレビは世に連れ、世はテレビに連れ…だ。


| | 考えたこと | 23:59 | comments(2) | trackbacks(0) |