考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< July 2009 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
まぎゃく
この頃テレビでタレントが使う言葉。
NHKに出ていた歌手も使っていた。

真正面とか、真横とかで使われる「真」を逆につけて「真逆(まぎゃく)」。
正反対という意味になる。

今日は「北海道は沖縄のまぎゃく」という使い方をしていた。
北海道は日本の北の端で、沖縄は南の端という意味のことを言っていたのだが、それが正反対という意味になるかどうかはむずかしい。
しかし、まぎゃくと言われてしまうと、何となく納得してしまう。
正反対というよりも、意味はぼやけているのだろう。
「北海道は沖縄の正反対」というと何が?という感じだ。
これも平成の新語だろう。

まぎゃくという言葉を聞いて、すぐに真逆という漢字を思い出すワケではないが、使われるシチュエーションが逆に真がついたものだろう、と思わせる。

そういう意味ではわかりやすい新語だ。

正反対よりも、使用範囲は広そうだが…。

| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
セミの死骸
朝クルマの横にセミの死骸が落ちていた。
クマゼミだ。

クマゼミはもともと南方系のセミらしく、以前は本州には少なかったと言われている。
しかし、最近の温暖化に伴い、西日本でも増え、現在生息分布が東日本から東進しているとのこと。

たしかにぼくらが小学校の頃、クマゼミは珍しくて、見つけたらラッキーだった。
その頃はアブラゼミが一番多くて、木の電信柱でよく見つけたものだ。

そういえば、クマゼミのシャシャシャという鳴き声をよく聞く。
セミはみんなそうだが、あの小さな身体でどうやってあんな大きな鳴き声を出せるのか、不思議だ。
なんかの間違いで家の中に飛び込んだセミが鳴くと、びっくりする。
身体全体が共鳴して鳴いているのだろう。

英語ではあのセミの鳴き声を区別する擬音語がないらしい。
ミーンミーンもシャシャシャもツクツクホーシも区別されない(というか、されるのだろうが表す共通の言葉がないのだ)。
これも面白い。
それを表す言葉がなければ、それは存在しないのと同じ…ということになる。

しかし、今朝のクマゼミは、せっかくこれから暑くなるのに、もう死んでしまうのか。

前にも何度か書いたような気がするが、何年も土の中で暮らし、地表に出てきて2週間や3週間で死んでしまう(1週間というのは間違いらしい)セミの一生。

だから、あの小さな身体であんなに大きな鳴き声を出して必死で生きるのか。

自然は不思議だ。


| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
なぜ気になる
久しぶりに電車に乗った。

携帯電話で通話をする人はいない。
ようやくマナーとして定着してきたらしい。

それにしても、電車で携帯電話で話されると、なんでイライラするのだろうか。
そんなにやかましく話しているわけではない。どちらかというと、静かに話している。
それでも、なぜか気になる。

もっと大きな声で話している人がいても、携帯電話の方が気になる。

面白い。なぜ気になるのか。

会話の内容がわからないからではないか。

一人だけで話していて、何の話をしているかわからない。
わからないから、気になる。

たまにオジサンが大きな声で携帯電話をとって、「おー、おまえか、よう場所がわかったなあ」などと話しているのはあまり気にならない。
みんなに気をつかって、ひそひそ話されると気になるのだ。

誰かわからない人と、わからない会話をしている…それが原因だと思う。

違うかな…。


| | 考えたこと | 21:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
梅雨
今日は7月27日。
インフルエンザ騒ぎはあったが、学校はもう夏休みになっているところが多いだろう。
今週末はもう8月になる。

何度も書くが、月日のたつのは早い。
昔なら、夏休みが始まったところで、のんびりムードだ。
プールに入って、外で走り回っていた。

しかし、現実にはまだ梅雨が明けず、九州は豪雨が降った。
梅雨明けが8月になるらしい。

いったいどうなっているのか?

今や日本は亜熱帯になりつつあるのではないか。

そのうち、本州でパイナップルやバナナが育ち、東北でミカンが、北海道でリンゴがとれる日が来るかもしれない。

しかし、その前に陸地が水没するかもしれないなあ…。


| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
マッハGo Go Go
ストーリーは近未来が舞台。主人公がレース界の腐敗を暴くというもの。
スピードレーサーという題名。

まるでゲームの舞台を見ているようなCG。
目が回る。昔のアニメに比べると、すごい技術だ。
車と車がぶつかり合って出る火花や、ドリフトしてカーブを曲がるところもホンモノのように見える。
砂漠を走ったり、空中のコースを走ったり…。

最後のタイトルバックがやたら長くて、Visual Effectsを多用していることがわかる。
お金はかかったのかもしれない。

しかし、昔のマッハGo Go Goとは違う。
サンダーバードはよくできていたが、これはちょっとやりすぎだ。
昔のマッハGo Go Goを知らない人にはいいかもしれないが、あれを期待して見たらちょっと違う。

たかがアニメ、されどアニメ。
もともと、アニメを再現しようとして作られたのではないのだろう。
最後にテーマソングがかかって、ゴールインする。
でもなあ…。
アニメを覚えている人には、オススメできない映画だった。

全く別のものだと割り切って見るならイイと思う。



| | 映画・舞台 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
脳の研究
脳がおかしくなる、という事はいろいろな病気の後遺症でよくある。

脳の血管が詰まって、一部の組織が死んでしまう。
そこはCTで撮ったら白くなっている。

でも、どこが死んだら、どうなるかは難しい。
左側なら、言語障害が起こるとか、右側なら認知障害が起こるとかそういうことは症例が示している。
それ以上のことだ。
言語障害になって、それは復活するのか?

脳の機能は膨大で、どこかが壊れても、そこの代わりをする場所ができるという。
生きている間にぼくらは脳の全部の機能を使えていないともいう。
だとしたら、どこかの部位がその機能を代行することも可能だろう。

でも、左脳は主に言語を、右脳は主にイメージを司っているとすると、どちらかが全部壊れてしまったらどうなるのだろう。
右脳が壊れたら、左脳でイメージ認知をするのだろうか。
どうもよくわからない。
これから研究が進んでいくのだろう。

研究が進み、言語障害が起こっても、こういうリハビリをしたら治るとか、イメージ認知ができなくなっても、こういう訓練をしたら治るとか、そんなことがわかる日がいつか来る。
コンピューターで脳の断層を詳細に見られたり、言葉を話す時はどこが反応しているとか、泣いた時や怒った時はどうなっているか、そんなことがわかる時代だ。
脳に効くクスリもできるかもしれない。

しかし、一人一人経験が違うぼくらの脳が全て理解できるわけはないとも思う。
ニューロンやシナプスというものが個人を作っているというが、それの一つ一つまで意味づけするのは不可能だろう。
記憶のメカニズムさえわからない。
第一、何かを思い出しているとして、その時に脳のメモリーの何を使っているのか、本人もわからない。
何かのきっかけで思い出せたりする。

脳の研究が進めば進むほど、わからなくなるのではないか。

最先端の研究者は、どんな気持ちで研究しているのだろう。


| | 考えたこと | 01:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
決断
人生は選択の連続で、つまり決断の連続だ。
自分でも知らぬ間に決断をしている。
その場その場でそんなに可能性があるわけではないが、それでも何気なく決断している。
決断したという気がなくても、そのことによって、そう決断していない自分の可能性を捨てているのだ。

ああ、あの時こうしていれば…。

そんなふうに思うことがある。

でも、あの決断は間違いだった、と明確に思えるものはまだマシなのかもしれない。

本当に後悔すべきことは、日頃の何気ない決断の中にあるのではないか。

何気なく「はい」と返事した時、何気なく「そうや」とうなずいてしまった時、何気なく「そんなことない」と否定してしまった時。
そんなことの積み重ねが、本当の後悔を生む。

「あの時、こうしている自分」を作っているのは、普段の何気ない決断の結果だろう。

だから、「あんな間違いは二度としない」と思っていても、また同じ間違いを犯す。
一度、二度、三度…。

いくら間違えても、なおらない。

それはきっと後悔すべきことを間違っているのだ。

でも、それに気づくのはむずかしい。
それは、「生き方」の問題になる。

だから、後悔せず、それを受け入れた方がいい。

最近、つくづくそう思う。


| | 考えたこと | 12:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
父親の威厳
こないだ話をしていたら、ゴキブリの話になった。

4人家族で家にゴキブリが出たら、どうするのか?という話。
そこの家は大騒ぎだという。
冷蔵庫の後ろに入ってしまって、どうしようという場面。

奥さんと子ども二人は別の部屋に逃げてしまって、ふすまを細めに開けて見ているだけ。
ゴキブリ捕りはお父さんの役目になっている。

1時間汗だくで探し回り、即効性のスプレーをかけて、捕ったとのこと。
しかし、飛んだ時はドキッとしたと言っていた。
ゴキジェットと、ゴキブリを凍らすスプレーを常備しているらしい。

一応、ぼくから電気ネット(当たったら、バチッと感電して死ぬラケットみたいなもの)は便利だと言っておいた。

彼が言うには、ゴキブリを捕った時に、子供らが「お父さん、スゴイ」と言ってくれることが救いだとのこと。

なるほど。なさけない話だが、これが今の父親の威厳の最も大きいものかもしれない。

もう一つ、その類の話。
女性はだいたいゴキブリがキライだが(ぼくもキライだ)、もしも一人暮らしでゴキブリが出てきたらどうするのか?と聞いたことがある。

そのうち一人は「見なかったことにする」とのこと。
これはスゴイ。

その存在を消してしまうのだ。

「え、それでどうするんですか?」
「え、だから、もう、いないのです。」

これはこれで、納得した。



| | 考えたこと | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
Have a style
ドラマを見ていたら、「彼は粋ですよ」というセリフがあった。

どんなふうに言うのかなと思ったら、"He has a style."という。
この場合のaは「たくさんあるウチのひとつ」という意味だろう。

彼には一つのスタイルがある。
彼には一つの流儀がある、と言うべきか。

「粋」というのは、関東の言葉とされる。
意味は、「身なりやふるまいが洗練されていて、格好良いと感じられること。また、人情に通じていること、遊び方を知っていること」。

鬼平犯科帳を読んでいると、主役の長谷川平蔵のふるまいを粋だと思う。
密偵へのいたわり、仕事へのこだわり、役職に対するいさぎよさ…、ひと言でいうと、粋だ。

作者、池波正太郎が愛したものだろう。

styleという言葉で表せるとは思わないが、このドラマではいい感じだった。

He has a style.

そんなふうになりたいが、なりたいと思ってなれるものではない。

何か、ゆるぎない生き方の哲学を持っていないといけないと思う。

それが"style"の元になるものだ。

ぼくはまだまだそんな境地にはいけない。

一生かかっても、ムリだろう。

でも、中にはいける人がいる。
どこに違いがあるのか…。




| | 英語 | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
なにげに
「なにげに○○する」、という言葉、ぼちぼち市民権を得てきたようだ。
テレビで若いタレントが、「なにげに」という言葉を使う。

元は「何気なく」で、そこからできた言葉だろう。
「大した意味もなく」というような意味か。

こないだ次男が使っているのをとがめたら、「そんなことゆうても、言葉は変化するもんやから、いつかは多数になって正しくなるねんで」という返事が返ってきた。

たしかに、いくら間違っているといっても、みんなが同じ意味でそれを使い続けていれば、それは正しいことになる。

「ぶっちゃけ」というのも、「ぶっちゃけた話」とか、「ぶっちゃけていうと」という使い方だったが、最近「ぶっちゃけ」という言葉になった。
横山やすしがよく「ぶっちゃけたハナシ…」と言っていたのが、ぼくらが知っている正しい使い方。

もちろん、ぼくらが若い時は中年から見ればオカシイ言葉を使っていたのだろう。
「最近の若い者は…」というやつだ。

だから、言葉が変わるのは仕方がない。

しかし、何気なく…という言葉はどうなっていくのだろう。

両方とも存在するのか、それとも、「なにげに」になってしまうのか…。


| | 考えたこと | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校1年生
昨日から、高校1年生が3人泊まりに来ている。

みんなで夜中にDVDを見て(たぶんホラーだ)、人生ゲーム(ボードゲーム)をやって、コンビニに行き、テレビゲームをやって、ギターをいじり、音楽を聞き、だべる。

もう夏休み気分で連休を楽しんでいる。
高校1年生、16歳だ。

中学生と高校生は違う。
自分を確立し始めるのが高校生。
大人への一歩を踏み出す。
この3年間をどんなふうに過ごすのかが一生を決める、といっても過言ではない(というと、言い過ぎか)。

なつかしい。

ぼくらの高1の頃は、どんなことをしていただろうか。
似たようなことをしていたかもしれない。

ただ、友だちとダベっているのが楽しかった。

ティーンエージャーとして一番いい頃だ。

せいぜい、楽しんでほしい。

君らの未来は、残念ながらぼくらの時ほど明るくないような気がする…。


| | 考えたこと | 16:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
過ぎ去りにし
弘田三枝子の歌を聴いていると、歌詞の中に「過ぎ去りにし季節」というのが出てくる。

これは、「過ぎ去りし」というのではないか…、と思っていたが、そうでもない、と思い当たった。

「過ぎ去りにし」、は「過ぎ去る+ぬ+し」で「過ぎ去る+し」とは意味が違う。

「過ぎ去りにし」が「過ぎ去ってしまった」で、「過ぎ去りし」は「過ぎ去った」という意味。
英語でいうと、過去完了と過去の違いになるのか…。

過ぎ去りにし日々というのは、過ぎ去ってしまった日々という意味だとすると、ふんふん、なるほど…という感じになる。

「過ぎ去りぬ」と「過ぎ去る」の違いは明白だが、「過ぎ去りにし」と「過ぎ去りし」の違いはぱっとわからない。
もう、使わなくなって久しいからだろうか。

過ぎ去りし日々、というのは、どこかの歌詞で聞いたような気がする。
でも、過ぎ去りにし日々、というのは「あれ?」と思う。

過ぎ去りにしは、もう古語になっている。
日本語なのに、意味が伝わらないのだ。

昔の人は、このニュアンスの違いをはっきりわかっていたのだろうか。

文語体が使われなくなって、その細かいニュアンスがわからなくなった。

でも、わかってみると「過ぎ去りにし季節」という文語、なんだか締まった日本語で好きだ。

文語体、いいと思う。

小学校の頃、唱歌は文語体のものが多かった。
椰子の実、おぼろ月夜、村の鍛冶屋、春の小川…。

前にも書いたような気がするが、こんな歌に親しんで、ぼくらは文語の響きを覚えた。
こういう経験をなくしてはいけないと思うのだが…。



| | 考えたこと | 11:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
お疲れさまです
最近、夜遅く帰ろうとして、顔見知りの学生に会うと、決まって「お疲れさまです」という。

彼らがぼくの仕事を知っていて、疲れているとわかっているはずがない。
だから、お疲れさまです、は単なる挨拶言葉だ。いわゆる、バイト言葉だろう。

しかし、あたりかまわず「お疲れさまです」はないだろう。
まだ「お疲れさまです」ならいいが、「お疲れさまでーす」になると、ちょっと待てと言いたくなる。

一日ずっと仕事をしてきたのを見ていた人から言われるのはかまわない。
そういう意味ではバイトの帰りがけに使うのは、正しい使い方だと言える。

しかし、それが転じて、とにかく仕事を終わった(らしい)人に会ったら、「お疲れさまです」ということになったのだと思う。
さらに、どう考えても、「さようなら」の変わりに「お疲れさまです」を使っているケースもある。
これは間違いなく誤用だ。

それでも、言葉というのはみんなが使うと正しくなるから恐ろしい。



| | 考えたこと | 20:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
ニューファミリー
平成の死語の一つ。
こないだ職場で子どもの話をしていてわかった。

子どもの入学式や参観日などに行く父親に代表される、ニューファミリー。
1974年の流行語になっている。
1980年代にはまだ通じていた。
1990年代も、通じていたかな…。

ニューファミリーというのは、今までなかった、新しい家族のカタチという意味。
核家族化が進んで、個人がどんどん切り離され、その分だけ家族の重要性が増した。
だから、子どもの入学式や卒業式には父親も行く。
有給休暇を使って、「明日は子供の入学式なので…」というのが流行った。

ちょうど会社の家族主義が崩れ、成果主義が始まり、年功序列という制度がきしみだした頃からかもしれない。

それまでは、そんな理由で休むやつは(ほとんど)いなかった。
別に休むのを悪いといっているワケではない。事実を言っているのだ。

ぼくらが、ニューファミリーとオールドファミリーの端境期かもしれない。

今では当たり前の時代になり、ニューファミリーというのは死語になった。
今の20代から30代の前半あたりには通じない。

「明日は子供の発表会で、昼から休みます」
「ほー、ニューファミリーやなあ」
「はぁ?」

という会話になる。

「君のお父さんは来てくれたか?」
「いや〜、そんなん来たことなかったですワ」

という会話が続く。

「ニューファミリー」が当たり前の時代。

寄りかかるものが、会社から家族になっただけのことだろう。
有給をとって、子どもの発表会に行くのは、いいことだ。
行ったらいいと思う。

でもなあ…、ウチの父はそんなことなどしなかったし、来ないのが当たり前だと思っていた。
「父親は仕事で忙しい」から来ることができない。
それは、それでいいのだと思う。
ぼくには、ぼくの経験でしか考えられない。

父親の権威がすたれて久しいと言われているが、それとニューファミリーが死語になったことは関係があるのではないか。

だれか、調べてほしい。



| | 考えたこと | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
あたし
社会人になると、一人称で「私」というのを使うのだが、女性の場合は「あたし」というのもある。

この、あたし、というのは私が転じてできた言葉で、主に女性が使う、ということになっている。

少しくだけた感じで、公式の場では使わない方がよい、ということ(らしい)。

でも、あたし、というのは人によって似合う、似合わないがあると思う。

女性が主人公のミステリで「私が愛したリボルバー」というのがあった。(以前書いたが…)
ステファニー・プラムというのが主人公なのだが、小説の中ではすべて「あたし」で通している。
題名だけ「私」になっていて、単に文字数が多くなって表紙に入りきらないので私に変えたのか、それとも打ち合わせ不足か、それともわざとか…、原因不明だ。
この主人公には、「あたし」が似合っている。

このシリーズはドタバタものなのだが、もっとハードボイルドな小説の女探偵では、どうも似合わないような気がする。
たとえば、サラ・パレツキ-のV.I.ウォーショースキー。
この探偵は「私」でなければならない。
映画の題名も「私はウォーショースキー」だった。

…でも、この話、ちょっとおかしいと思いませんか?

もともと翻訳の文章だから、一人称は「I」しかない。

翻訳者の意図が入っているのだ。

最初にステファニー・プラムという主人公に対して「あたし」と言わせたのはこの本の翻訳者。
原文を読んだことはないが、翻訳の方の大ヒットだと思う。

ステファニーが「私」というのは、今ではオカシイ。
やっぱり「あたし」でないといけない。

あたしが似合う人…、どんな人なんだろうか。

難しいところです。




| | 考えたこと | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
史上最速のインディアン その2
前に見た映画だが、もう一度見た。
ただし、テレビで…。

やっぱりこの映画はいい。

はるばるニュージーランドから、バイクをひっさげてやってきた主人公。
もう中年をはるかに過ぎて老年だ。

アメリカのボンネビルが目的地だ。
塩の平原。
最初は、こんなバイクで走れるのかと言われ、バカにされているが、それでも必死で走ろうとするモンローの姿に打たれ、テスト走行を許す。
回りのアメリカ人はみんなモンローの姿に打たれ、本気で応援する。
みんなのヒーローだ。

320キロオーバー。

彼が打ち立てた1967年の記録はいまだに破られていないという。

アメリカに着いてすぐに知り合ったゲイの女性。
整備工場を貸してくれた中古車屋のオーナー。
行く途中で会ったネイティブアメリカンや年を取っても若い女性、ベトナム帰りの兵士…、みんないい人だ。

こういう映画には、いい人しか出てこない。

そういう人に囲まれるモンローはやっぱりイイやつだ。
年を取っても、挑戦する気持ちを忘れない。

そんな老年になりたい。

この映画を見ると、そんなことを考える。



| | 考えたこと | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
中味の時代
ワープロが全面的に普及して、もう10年ちょっとたつ。

会社の文書は、もう手書きがなくなって久しい。
学校でも、手書きの文書は少なくなっている。

ワープロを使いはじめた初期は、文字の大きさを変えられるとか、フォントを変えられるとか、見出しはアンダーラインでとか、タブで頭を揃えるとか、表を挿入するとか…、いろいろな機能を使いこなす、というところが重要だった。
ものめずらしさがあって、見た目をきれいにできる…という機能を使うのが、ワープロを使いこなすということだった。
まあ、内容からいったら、どうでもいいようなところにこだわったりしていた。

ワープロも、どんどんこんな機能がある、あんな機能もある、というふうに変わっていった。
二段組みもできるし、索引も作れるし、原稿用紙にも縦書きできるし…、DTP(デスクトップ・パブリッシング)ソフトに近いものにまでなっている。
それが、今ワープロが当たり前になってくると、実際にはそれほどの機能はいらないなあ、ということになった。

世の中のほとんどの人は、今のワープロの機能のうち20%くらいしか使っていないのではないか。

よく、「俺はワープロが使える」という人がいるが、そんな人に限って、スペースキーを使って行を揃えていたりする。
それはな、Tabキーでやるねん、といってやり方を教えて、君が使っている機能はほんの少しだけや、と教える。
例えていえば、2000ccのツインカムエンジンを載せて、時速30キロで走っているようなもの、というとよくわかる。
なるほど、そんな機能があったのか…、ということになる。

かくいうぼくも、到底Wordの機能を全て使いつくすことなどできない。

2000ccのエンジンで30キロのクチだ。

でも、ワープロが定着して、ちょっと世の中変わってきた。

そんなに外観にこだわってどうするのだ。
肝心なのは、中味。
だから、Wordなんていらない。
最低限の機能があればいい。

最近流行っているなんとかオフィスという製品群。これでも充分だ。
ただで使えるものもある。

Googleのドキュメントというワープロは、ネット上で使えるものだ。
これなど、できることはしれているが、それでも充分。

会社にWordがあれば、家は互換のプログラムでもいい。
そんな時代になっている。
だから、ネットブックというネットにつなぐだけのノートPCが売れているのだろう。

この調子でいくと、ホントにGoogleの時代になるぞ…。


| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
テールゲート・パーティ
サンフランシスコ・コンドルズというプロフットボールチームの試合を見に行く…、というドラマを見た。
試合前から駐車場でバーベキューのドンチャン騒ぎ、これは想像以上にスゴイ。
あのドンチャン騒ぎを、テールゲート・パーティという。

以前書いた、大リーグの試合の時に駐車場で見た大騒ぎがそれだ。

ドラマの中で、「これはアメリカの文化だ」と言っていた。

「スイッチをオフに」しないといけない−何度も言っていた。
普段の仕事やしがらみを、スイッチをオフして、忘れてしまえということだ。

一般的に「自分の意見を主張しないといけない」、と言われているアメリカ。
やっぱり、それはシンドイ部分もあるのだろう。
誰もが自分のことを言いだすと、軋轢もあるし、それに負けないでおこうという気持ちを維持するのは大変だ。

それをこのドンチャン騒ぎで一時的に開放する。

コンドルズ・ファンはみんな仲間。
普段の仕事など関係ない。
試合が始まる前から、駐車場で車の後ろのドアを開けて、バーベキュー。
ビールを飲んで、ハメを外す。
試合のチケットが手に入らず、スタジアムに入れない人も外でモニターを見ながら試合に一喜一憂する。

日本では考えられない…。
これぞアメリカの文化だろう。

しかし、あの大量のビールを飲んで、どうやって車で帰るのだろうか。

警察の取り締まりも、「スイッチをオフに」しているのだろうか…。



| | 考えたこと | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
ワープロ
会社に初めて業務用ワープロが入ったのが何年だったか…。

キャノンのEZPSという機種だった。
イージー・パブリッシングという言葉の略だと思う。
この機械は白黒だったが、非常に良くできた機械で、講習会に行ってきた社員が説明してくれるのを聞いて、「ほー」と驚いた事を覚えている。
当時、スキャナとプリンタがセットになっていて、ワープロ自体の機能もすごかったが、既にある図表とかを取り込んで使えるというのがすごかったと思う。

長いこと、そのEZPSが会社の主力機だった。

当時、印刷業界ではMacintoshの独占状態だったが、あのEZPSは機能が充実していて「白黒」ということを除けば、すごい機械だった。
まだ、ワープロ専用機というものが巷で使われていた頃。

「文豪」とか「ルポ」とか「オアシス」とかそんな名前でたくさん売られていた。
まだパソコンがそれほど普及する前に咲いた、あだ花のような機械だった。

最初は二行くらいしか表示できないディスプレイに、感熱紙のプリンタが付いた、まるでタイプライターのお化けのようなものだった。
それから、だんだんとディスプレイが大きくなっていって、結局、液晶ディスプレイがA4一枚を表示できるようになった頃、パソコンにその地位を取って代われれてしまった。
日本でしか作っていないワープロ専用機が、世界中で作れるパソコンに価格で太刀打ちできるわけがないのだ…。

当時「一太郎」というワープロソフトがでた。
これは、家電メーカーではなく、ソフト会社が作った「ワープロソフト」だ。
これが出なかったら、もうちょっとワープロ専用機の寿命は長かったかもしれない。

最初に一太郎を見た時は感心した。
日本語変換で、あめりかと打ったら、アメリカと変換される。てれびならテレビ。カタカナ語でもひらがな入力できた。
なんや、そんなこと…、と思うかもしれないが、当時のワープロ専用機にはそんな機能が無かった(と思う)。
atokという日本語変換のソフトが秀逸だった。

今はもうWordにその地位を譲って、一太郎は学校や特定のユーザーしか使っていない(と思う)が、atokだけは生き延びている。
Wordの攻勢ははすごかった。
若い人は知らないかもしれないが、ちょっと前まではワープロソフトと言えば、一太郎のことという時代があった。

そんな時代を経て、現代のパソコンの時代になっている。

今ではマルチディスプレイでスキャナをつけてA3まで出せるカラープリンタを装備しても、40万円もあれば買えてしまう。
夢のような時代。ちょっと前の印刷屋さんのような仕事が家でもできる。
デジタルカメラを買えば、写真の貼り付けも簡単だ。

今や素人でも十分な機器が使える時代。

えらい時代になったものだ。


| | 考えたこと | 16:55 | comments(2) | trackbacks(0) |
プログラム その2
プログラムについて、昨日書いたが、その続き。

一生一度のプログラムの後の話。

会社で小さなプログラムはちょこちょこ作っていた。
プログラム電卓、というやつだ。これはBASICという言語で書いた。
これはパソコンがこんなに普及する前に、プログラムを学習するためにぴったりだった。

BASICという言語は、取っつきやすいもので、比較的簡単だった。(もちろん、簡単なプログラムしか作っていない)
統計計算とか、制動距離の計算とか、短い計算のためのものが主だ。

そのうち、エクセルが出てきて、関数を使ってやるようになったので、プログラム電卓は引き出しの中で電池切れの状態となった。

これでぼくのプログラミングの人生は終わる。
それ以降は作っていない。
エクセルのマクロという機能はちょっと使ったが、あれは動作を覚えさせる程度の使い方で、ぼくの場合はプログラミングとは言えない。

機会があれば、作ってみても面白いとは思う。

あの、自分がプログラムしたものが、予想通りに動いて、プロッタ(グラフを描く機械)が動くのは感動的だった。

プログラムには2つの法則がある。
一つはSさんが言っていたもので、もう一つはぼくが思っていることだ。

一つ目の法則は、「美しいプログラムは、機能的に優れている」というもの。

同じことをするのにも、人によってコーディング(プログラムを書くこと)の癖がある。
コメント行といって、ここは何をする部分だ、という説明を書いたり、変数を意味あるもの(例えば、重さの変数ならWeightというように)にすると、後でプログラムを見直す時にわかりやすい。(この作業をデバッグという)

他人の書いたプログラムほどわからないものはない。
それでも、美しいもの(コメント行や変数の使い方がちゃんとしているもの)はそれなりに解読できる。
ところが、コメント行がなく、変数も行き当たりばったりでつけているようなプログラムはわかりにくい。
そういうのを、「美しくないプログラム」というふうにSさんは言っていた。
たとえ、動作をしても、美しくないプログラムはダメだという。
これは、他人のプログラムを見たことがある人なら、うなづけると思う。

もう一つは、プログラムは90%完成するのにかかる時間と、残りの10%にかかる時間はほぼ同じ、というもの。
これは、ぼくだけが当てはまるのかもしれないが…。
最初は動かすまでが大変だ。
文法エラーがあったり、変数の型(整数型とか、実数型とか…)が合っていないというエラーが出る。
それらを一つずつ潰していって、それで動くかというとそうではない。
根本的なエラーが一つ二つある。
それを見つけて直す。
それで、ようやく動くのだが、思い通りには動かない。
いろいろデバッグする。

このあたりで、プログラムは9割方完成している。
やっと動いたけど…、というところ。
そこからが長い。
なぜ長いかというと、曲がりなりにも動くようになると、欲が出てここはこうしよう、あそこはこう変えよう…、という事になってくる。
自分が生み出した子供のような気がするのだ。
それで、完成までの時間とそれまでの時間が一緒くらい、ということになる。
どうでもいいところが、どうでもよくなくなる。
こだわり、というやつだ。
それが、完成までの時間を長くするのだが、それはやっていて楽しい時間でもある。
だからこそ、そこに時間をかけてしまう。
これが、全体のプログラムをせずに、分担でパートだけを作るのなら、話は違ってくるだろう。
でも、そういう経験は、一つのプログラムを作った人なら、あるような気がするのだが…。

まあ、後の方はさておいても、「美しいプログラムは機能的だ」、というのは今でも真実だと思う。

プログラムなどしなくなった今でも覚えているのは、やっぱり正しいからだろう。



| | 考えたこと | 17:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
プログラム
プログラムといっても、行事の事ではない。

コンピューターを動かす言葉のこと。

学校でならって、一度課題のプログラムを作った。
アセンブラというプログラミング言語を使ったものだった。
面白かった事を覚えている。

そして、以前ここにも書いた、台風の降雨予測のプログラムを作った。
作ったといっても、先輩が作っていたものに手を加えただけのもの。
この時は、フォートランという言語を使った。
まだ、オンラインにはなっていなくて、一行ずつカード一枚に打つ、というものだった。
そのカードの束を持って、電算機センターに行って、それを通す(読み取り機にかける)のだ。
今から考えると、すごい手間だが、当時はそれが当たり前だった。
まあ、よくわけの分からない学生に、そんな代物を使わしてくれたものだ…と感謝する。

そして、会社に入り、タイム・シェアリング・サービスを使うようになった。
TSSといって、コンピューターの時間を分割して使う、というシステム。
まるで、自分が占有しているようにして使えるのだが、実はたくさんの人が分けて使っているというもの。
当時、青い文字のディスプレイで、ログインして使っていた。
これは使っただけで、プログラムはしていない。
亡くなったSさんのプログラムを使っていたのだ。

いよいよ、ぼくの人生最大のプログラムであった、力のセンサーの出力を読み込んで、それをグラフに描く、という仕事をする。
あれは、25歳くらいだったか。
当時のミニコンというのを使って、これもフォートランで書いた。
電圧が何ボルトの時に、力が何キログラムということになっていて、それを取り込み、平均して波形を出す。
X-Yプロッタという機械で書かすのだが、仕様書を見て、どういう命令をしたらどういう動きをするのか、というところからやった。

テレタイプという機械を使って、幅5センチくらいのテープに打ち出す。
それをミニコンで読ませ、そしてコンパイルする。
懐かしい。コンパイルというのは、フォートランで書いたプログラムを機械語に翻訳する、というような作業(だったと思う)。
何度も、何度も、うまいこといかずにやり直した。
遅くまで会社に残ってやった事を覚えている。
そして、ついに完成し、便利になった。
それまではグラフを描くために、解析機を借りてきて、毎回線をつないでやっていたのだ。
それが計測すると同時に、グラフができる。

こう書くとぼくが一人でやったようだが、Sさんに教えてもらいながらやった。
実際にはSさんがいなければ、それを作ろうとさえしなかっただろう。

そして、創意工夫提案制度に応募して、賞金をもらって、課の宴会で使った。

これがぼくの人生最大のプログラムだ。

このプログラムはその後数年間は現役で稼働した。
そして、ラボの近代化に伴って、廃棄された。

新しい機械を使えば、それ1台で計測とグラフ作成が同時にできるから、プログラムなど必要なくなったのだ。

それでも、ぼくがラボに額に入れて飾っておいた創意工夫提案制度の賞状は、その後も数年間はそのままだったと思う。

今はどうなっているのだろうか…。

もう捨てられただろうなあ。

老兵は死なず、去りゆくのみ…。


| | 考えたこと | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
CSI
CSIとは科学捜査班と訳されている。
英語ではCrime Scene Investigationとなっていて、犯罪状況捜査という意味か。

ぱっと見は、”S"はScienceの”S"かな、と思っていたのだが、ハズレ。

アメリカで好評のテレビシリーズだ。

毎回犯罪を現場に残された手がかりから、DNA鑑定をやったり、物質の構成要素を検査したり、指紋のデーターベースを使ったり、犯罪場面をCGで再現したり…、ありとあらゆる手段で犯人を特定し、自白させる。

このドラマ自体は面白いのだが、アメリカではちょっと困ったことが起きているという。

それは、裁判の陪審員がCSIでやっているような高度な科学捜査を要求するようになった、ということらしい。

たしかに、テレビではあっという間に答えが出て解決するが、実際には機械の順番待ちや精度の問題があるだろう。
それ以前に、そんなふうに犯罪の現場を調べる事ができる人がいるのか?という問題もある。
一つの事件にだけ関わっているわけではないから、大変なことは予想できる。
それについては、日本もアメリカも同じだろう。
警官の数とCSIみたいな組織のメンバーの数は全く違う。

ただ、一つ救いなのは、日本では理科離れが起こっていて、Scienceがわからない人が増えているということだ。

それが、救いなのか、災いなのかは別として…。



| | 考えたこと | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
地球温暖化
NHKでアフリカの小さな国をテレビで取材していた。

地球温暖化というより、砂漠化といった方が早い。
直径10キロもあった湖がもうほとんどない。

もちろん農業はもうできないので、湖の魚を捕っている。
11人家族で、捕れた魚は数匹。それを少量の塩で煮た料理を食べる。

他の村では、金を掘っていた。
40mも50mもあるたて穴に手足を使って降りていき、そこから横に掘る。
全て手作業だ。
素手と素足で全てをやる。

10歳にも満たない子どもが、みんな働いている。
炎天下で10時間以上、休みなく働く。
25人も家族がいるのだ。
一日一食。
学校に行くことなど考えられない。

アフリカの砂漠化は、アジアにインドが衝突してできた、ヒマラヤ山脈のためだと言われている。
それに、今の地球温暖化が影響しているのか。

我々一人ひとりの行動が、それを食い止めることができる(かもしれない)という。

どうしたらいいのか…。


| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
七夕
七夕の「たな」は「七」と書く。

これ以外に七をたなと読む単語はないだろう。
なぜ七が「たな」になるのだろうか?

もともと、これは「しちせき」と読んだらしい。
七夕だから、しちせきと読むのは当然だろう。
これは宮中の行事であり、五節句の一つ。

ところが日本には、織女の伝説があり、はたおりのことで「棚機」と書いて「たなばた」と読むとのこと。

この棚機(たなばた)が、五節句の一つの七夕(しちせき)が民間に広まった時に混同され、たなばた=七夕になったという説がある。

だから、七をたなと読むというよりも、七夕を「たなばた」と読むといった方がいいだろう。

全く違う意味の言葉が入れ替わったのだ。

小さい頃、七夕の短冊に願い事を書いて、笹の葉につけた。

うちの近所のダイエーの通り道に、近所の子供会や幼稚園の笹が飾ってある。
いろんな短冊がある。
「さか上がりができるようになりますように」とか、「25メートルクロールで泳げますように」とか、かわいらしいことが書いてあった。

ぼくらが幼稚園の時も、うちの子が幼稚園の時も、今の幼稚園の子も、短冊に願い事を書いてつっている。

天の川銀河は生まれて100億年以上経っているかもしれないが、その年数と比べたら、人間の一生など一瞬だ。
というより、人類の歴史が一瞬というべきか。

そんなとてつもない時間の中で、人間は生まれたり死んだり…、いつまで続くのだろう。

たまには、そんなことも考えながら、夜空を見上げたい。



| | 考えたこと | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
アボガドロ
高校の時に習ったアボガドロの法則。
これは、どういうことかというと、「同温同圧のもとでは、全ての気体は同じ体積中に同数の分子を含む」というもの。

書けば簡単だが、これを発見したアボガドロという人はスゴイ。

全ての気体は同数の「分子」というところがミソ。
水素H2でも、酸素O2でも、1リットルの中に入っている分子の数は同じだというのだ。
分子量が異なる気体でも、同数の分子になる。
つまり、大きさや重さが違う気体でも、同じ体積中に同数の分子を含むということ。

一見、理不尽なように見える。
大きさが違うハズなのに(水素や酸素の分子を見たわけではないが)、どうして同じなのか?
それが不思議だ。

この体積が22.4リットルの時、気体分子が1モルあるという。
この1モルの分子の数がアボガドロ数。
6.02x10^23個。
あらゆる気体について、これは成立する。

なぜ、こうなるのか…。

それはわからない。

世界がそうなっている。

こういう不思議がたくさんある。



| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
飛行機
生まれて初めて飛行機に乗ったのは22歳の時。

どうも、飛行機に乗るのは苦手だ。

あの、滑走路からふわりと浮き上がった時の感じ。お尻がもぞもぞする。
窓の外の家や道路がどんどん小さくなっていく。
それを見ていると、何となく落ち着かない。

飛行機の事故は、離陸直後か着陸直前に起こることが多い。
クリティカル11ミニッツという言葉があるくらいだ。
「航空事故の発生が離陸後の3分間と着陸時の8分間に多い」という意味。

水平飛行に入ると、何となく落ちつく。
それでも、席にいる時はずっとシートベルトはしている。

しかし、着陸の時はまた居心地がわるい。
シートベルト着用のサインが出て、着陸態勢に入る。

何度経験しても、この着陸するまでの時間はダメだ。

たいていの時は、寝ているか、寝たふりをしている。
気がついたら、着陸しているという感じ。

ドン、と落ちる。

もともと、あんな重さのものが飛んでいるのがオカシイのだ。
着陸というのは、上手に落下していくことであり、要は体のいい墜落と同じ…、とラジコン飛行機を長年やっている人が言っていた。

それでも、自動車で走っている方が事故の確率は高いのだから、飛行機に乗る方が安全、という統計がある。

だから、一応それを信じて乗るのだが…。

やっぱり、苦手だ。



| | 考えたこと | 14:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
インターネットの功罪
言い古された話だが、インターネットができて、便利になった。

調べ物、通販、旅行、銀行取引、ピザの宅配、保険の見積もり、病院やクスリの検索、地図の検索、世界の航空写真、動画、歌詞…、知りたいことは何でもインターネットに聞けばいい。
もちろん、何かについて調べるといっても、それについて知らなければ、何を調べたらいいかワカラナイから、インターネットは万能ではない。
人間に知識と知恵がなければ、使いこなせないのは当たり前だ。

個人的なものばかりではない。
今まで1分間のコマーシャルをやっていた企業が、30秒に減らして「続きはこちらで…」とインターネットの検索画面で、キーワードを入れてクリックするところが出る。
テレビはインターネットへの誘導のためにある。
だいぶCMの制作費や広告料も下がっただろう。

欲しいものがあったら、まずインターネットで調べるという人が増えているだろう。
カカクコムというところで、一番安い値段の店を知ることができる。
今までなら、ここが一番安いだろう、と思って買っていたのに、価格情報が瞬時に伝わってしまう。
この「伝わる」という事が店にとっては脅威になる。

今の若い人は新聞を取らない。
これも、インターネットで見られるからだ。言
今の新聞の付加価値は、報道すべき記事にあるのではない。
その新聞だけが載せる記事…社説とか、連載小説とか、文化欄のコラムとか…。
報道すべき記事は、インターネットでみればいい。

だが、その裏でインターネットの匿名性を利用して、人の悪口を掲示板に載せたり、人権侵害を起こしたり…。
そんな事が行われる。
顔をつきあわせて話していると、そんなことにならないのに、インターネットの掲示板などではそんなことが起こる。

それに、爆弾の作り方を懇切丁寧に教えてくれるサイトや、危ないサイトがたくさんある。

だからといって、インターネットはなくすことはできない。
もう過去には戻れないだろう。

人間はどうやってインターネットとつき合っていくのか。

その知恵が問われている。



| | 考えたこと | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
がっつり
最近、がっつりという言葉を聞くようになった。

がっつり食べるとか、がっつりためるとか…。

goo新語辞書でひくと、「しっかり。たっぷり。思いきり。」という意味。
たしかに、そんな意味で使われている。

がっちり、とはちょっと違う。しっかりという意味はあるが、たっぷりという意味はない。

不思議なもので、話している文脈で意味はわかる。
がっちりからの連想で、意味を類推しているのだろう。
あえて、「がっつりってどういう意味?」とは聞かなくても会話は通り過ぎる。

今の30代くらいの人も使っている。
結構幅が広い。

北海道の方言が広まったという説がある。

昭和54年といえば、1979年。その年の11月に釧路に1ヶ月滞在した。
でも、その時にその言葉は聞かなかったような気がするなあ…。

北海道新聞のHPでサイト内検索で「がっつり」と入れると、22件出てきた。
やっぱり、北海道では使うようだ。

北海道でも新語だったのではないか?

何となく、「がっつり」と北海道が結びつかない。

北海道というと、ほぼ標準語なのだが、「〜べ」という語尾と「こわい(シンドイのこと)」が思い出される。

当時がっつり食べた、とか言っていたら、覚えていると思うのだが…。

とりあえず、平成の新語としておこう。



| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
七月
七月は「しちがつ」と打たないと七月に変換されない。

七は「しち」という。
関西人のぼくとしては、ひちがつ、と発音しているのに、そのままでは日地月とか、比地月などと変換されるのは不本意である。

七は「なな」ともいう。
なながつと打つと、七月に変換される。

「ひち」というのは、全く認められていない。

いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅうというのが、普通の数え方。
関西では母音を引っぱって、いいち、にいい、さあん、しいい、ごおお、ろおく、ひいち、はあち、きゅう、じゅうという感じ。

やっぱり七は「ひち」だ。

秀吉が死んで、家康が長生きして、大阪冬の陣、夏の陣を経て、江戸時代になり、東京が首都になった。
秀吉が生きていたら…、というのは大阪人の願望か。

まあ、大阪が首都になっていたら、標準語は環状線の付近で話されている言葉になったかもしれない。

そうなると、「ありがとう」は東京弁で、標準語は「おおきに」となっていた。

仮定のハナシだが、そうなっていたら七は「ひち」だっただろう。

今となっては、大阪弁が標準語になるのは、ちょっと気がひける。
やっぱり、大阪には大阪弁が似合うだろう。

だから、「ひち」は単語登録しないとしかたない。


| | 考えたこと | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
話しながら
何かを話しながら、それについて新しい考えがでてくることがある。

話している何かが、思わぬことにひっついたり、話している途中で、なるほど、そうかと思うようなことに気がついたり…。
話すということには、頭の中にあるごちゃごちゃしたものを、整理する働きがある。
話されるまでは、整理などできていないのだ。
それが、言葉を選んで、口に出すことで整理される。
話し手本人にも、話の結末は(厳密には)わからないのだ。

だから、人と話すのは大切なんだろう。

結論を予想して、話し出す。
でも、話している途中でこういう場合もある、ああいう場合もある、というような説明をしていて、しゃべりながら「あ、これはおかしいぞ」と思い、結論を変えてしまう…ということもたまにあるだろう。

だから、何かについて話し始めた時には、その何かについて分かっていないのだ。

話し手自身も考えつつ話し、結局出てきたものが、「その人が考えていたこと」になる。
話している本人さえ、それがわかっているつもりでも、実際にはわかっていない。

だから、話ながら考える、というのではなくて、考えなければ、話せないということだ。

難しいことについて、わかろうと思えば、まずそれについて書かれている本を読み、そしてそれについて話すことだ。
読んだだけではわかったつもりになることしかできない。

話すことで、はじめてわかることができるのだと思う。

もちろん、この話すという行為は書くことでも代用はできるだろう。

でも、一番いいのは、よい聞き手を相手に話すこと。

よい聞き手…、これが得がたい。

リラックスした雰囲気、適度な相づち、的確な質問…、そう、そんな人と話すのが一番だ。



| | 考えたこと | 21:58 | comments(0) | trackbacks(0) |