考えたこと2

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大晦日雑感
今年も今日で終わり。
あと何回そういう思いができるだろうか。

今日は梅田に行ってきたが、31日というのに結構道が混んでいた。
トラックがたくさん走っており、物が動いている。
ちょっとは景気がマシなのかと思った。
今年は元日に休むところも増えたらしい。
コンビニやスーパーも休みのところがあるという。
ぼくらが子供のころは元旦から3日まで休みだったから、お年玉を持って4日の日に欲しいものを買いに行ったものだ。

昭和30年代の後半。
そんな時代に戻ろうとしているのだろうか。いいことだと思う。
70年代にエコノミックアニマルと揶揄された日本人。
サービス業はその時よりも休みが少なくなった。
非正規社員やパートが増えて、格差も大きくなった。
働き方改革と言っているが、まだまだ。

そういえば、梅田の百貨店のエスカレーターの速度がめちゃ遅かった。
こんなにゆっくりだったかなと思ったが、気のせいではない。
高齢化の事故を防ぐためかなと思う。
こんなところにも、社会の変化が反映されている。

白書によると、日本の平均年齢は、1960年は約29歳、1980年は約34歳だった。
2020年の推定は48歳だ。
分布を見ると当たり前だが、上が重い。
下すぼまりの分布。

ベトナムで働いている友人が、平均年齢は29歳だと言っていた。
若い人ばかり。
日本に帰ってきて、本当に年寄りが多いとびっくりしていた。
今日の梅田はさすがに若い人が多かったが、あのエスカレーターの遅さには呆れた。
これが高齢化社会なんだろう。

紅白歌合戦を見ながら、これを書いているが、何だか感動の押し売りをしているようだ。
頑張った人たちにはお疲れさまと言いたいが、ちょっと演出のわざとらしさに引くなあ。
でも、松田聖子は前髪を下ろしてきて、よかった。
竹内まりやもユーミンも、時代を感じさせる。
なんか、嵐の解散が国民的な行事みたいになってるジャニーズ臭いのはちょっとなあ。

でも、平和というのは、こういうことができることだろう。
戦後70年。
アメリカの核の傘の下でぬくぬくと生きてきたのが現実だ。
いつまでそんな時代が続くのだろうか。
最後は重くなった。

2019年も終わる。

来年もよろしくお願いします。

| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
化石賞
小泉環境大臣が出席したCOP25(国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議)で化石賞を受賞した。
温暖化対策に消極的な国に贈られる、どちらかというと不名誉な賞だ。
国内で、経済産業大臣が「石炭火力発電など化石燃料の発電所は選択肢として残していきたい」と述べたことが理由らしい。

日本は東北の震災で福島第一原発の事故があり、それ以降原発が止まって大幅に火力発電を強化した。
それは原発の安全性の再チェックのプロセスで、仕方なかったのだろう。
一時は太陽光の発電を推進したりしていたが、その電力の買取価格も改定され、ビジネスにならなくなった。
それはやむを得ないものだったと思う。
所詮昼間しか発電せず、曇りや雨の日には電力が落ちるような発電には頼れないからだ。

一方で、マスコミの反原発のキャンペーンはひどかった。
「福島はチェルノブイリになる」とか、「東京が放射能で住めなくなる」とかいうセンセーショナルな報道がされた。
一般の人たちがガイガーカウンターを持って、真剣に身の回りで放射能を測っていた。
その騒ぎを煽ったマスコミは、だんまりを決めこんでいる。
検証番組でも作ればいいのだ。

福島の人たちも、その報道に煽られ、たくさんの人が全国に避難した。
気の毒なのはその人たちだ。
一時避難は仕方ないとしても、もう帰れない人もいる。
本当の災害は「過度の避難」で引き起こされたものもあると思う。

国連の報告書が出ても、その内容はほとんど報道されない。
その報告書に基づいて、政策も決定されない。
雨が降って、溜まった水に汚染水という名前を付けて、いまだにタンクに入れている。
どれだけの労力が無駄にされたらわかるのだろうか。
非人道的ながん検診も行われている始末。
「科学」はどこに行ったのだろうか。

再生エネルギーの開発や蓄電技術の開発をすれば、クリーンなエネルギーを作ることはできる。
しかし、それはまだ絵に描いた餅なのだ。
日本がGDPを維持しようと思えば、安い電気代も大事だし、止まっている原発を動かすことも必要なのだと思う。

世間はそうは思っていないようだが…。


| | 考えたこと | 02:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
M1に思う
今年はM1を見てみた。
去年はM1で落ちた芸人が、ツイッターで審査員の悪口を言って炎上したりして話題になったが、それが逆にバカバカしくて見る気はなかったのだが、子供が見るので見てしまった。

審査員は史上最高のM1だ、とか言うが、昔のチュートリアルやフットボールアワーの方が面白かったとぼくは思う。
いろんな芸人がいて、いろんな漫才があって、それでいい。
たった5分足らずの漫才で、良し悪しを測ることには興ざめだ。
そんなものに普遍性があるわけがない。

審査員もどこまで真剣なのか、わからない。
どういう視点で、どこを評価しているのか、採点ポイントと得点表を公表すればいい。
審査員も権威付けをしているようにも見える。
自分たちは笑いに関してプロである、という傲慢さが見え隠れする。
笑いなんて、所詮自分の体験に基づいたものであり、どうとでもなるものだ、という諦観もない。

ぼくが一番違和感を感じるのは、当初シャレでやっていた(ように見えた)漫才グランプリが、今やお笑いの権威がある賞みたいになっていることだ。
若手の漫才師たちに目標を与える、ということが趣旨だったようだが、それはあくまで楽屋の内側の話。
年を経るごとに、それがどんどん権威主義的になっているように思う。
そんなことは、楽屋うちでやってくれればいい。

お笑い芸人というのは、桂枝雀が「地球滅亡」の枕で言っていたように、別に生活に必須ではない。
芸人がいなくても、笑いは存在するし、「地球滅亡」に際して役に立つ人を宇宙船に乗せるのに、わざわざ人を笑わすだけの商売の人は要らない。
笑いを生業にしている人は、そう思っているはず。
だから、笑いについて真剣に話をするのは、同業者の間のみだろう。

楽屋の外に出たら、もっと謙虚になるべきだとぼくは思う。
そういう芸人が、逆にみんなに尊敬されるのだ。

世の中が豊かだから、芸人という仕事が存在する。
食うや食わずの時代には、誰もお笑いなどにお金を払わない。
昔は河原乞食と言われて、卑しい商売だと言われた。

M1を見ていて、そういう思いがなくなっているように思う。
安いバラエティ番組全盛の時代に、M1王者の扱いは以前のレコード大賞にようになっているようだ。
昔なら、寄席で出番が増える程度だった思うが、今や民放のバラエティの仕事が増える。
だから、賞を与える方も権威が必要になる。

しかし、たった5分程度の漫才で、どんな優劣がつくんだろうか。
ついたとしても、その日限りのことだ。
それなら、観客に投票させるとか、笑いの音圧でも測定すればいいのだ。

2010年に一度M1は終了したが、そのまま終わるべきだったと思う。
所詮、お笑いなのだから。

ぼくは、そういう思いが、本当に面白い笑いを生むのだと思う。


| | 考えたこと | 17:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
アイドルという仕事
昨日、ミュージックステーションは11時間の特番だった。
地上波で11時間の歌番組はなかなかチャレンジングだ。
よほど日本は平和なのだろう。
やってる方も、開き直っている感じだった。

夜の7時、8時あたりのゴールデンタイムはジャニーズ枠になっていた。
嵐、V6、Kinki-kids、関ジャニ8、Sexy Zone、Six Tonesなど、総出演。
しかし、見ていて痛々しかったのは、みんな年をとっているということ。
若いメンバーでも二十歳は超えている。
ベテランはだいたい40歳あたりだ。

V6が歌っているのを見ていたが、なんか元気がない。
やってる方も、50歳近くになって、こんなんやるか、と思っているように見える。
Kinki-kidsは片方が難聴とのことで、ヘッドフォンをしていて、気の毒だった。
病気でも出ないといけない、というのはエコノミック・アニマル時代のサラリーマンだ。

それもこれも、ジャニーズ事務所がタレントたちを終身雇用しようとしているからだ。
終身雇用という事を決めているわけではないが、会社の方針としてそうなんだろう。
みんな、ジャニーズ事務所に「就職」しているのだ。
強固なファンクラブを作って、ファンを続けさせる工夫もしている。
そのために、ファンも高齢化して、結果的にアイドルも高齢化した。

昔はある年齢になったら、アイドルは卒業だった。
女性の場合は、キャンディーズや南沙織のように、明確に卒業する人もいたし、だんだんと立ち位置を変えて「脱アイドル」していった。
男性の場合も、新陳代謝があって、人気だけのアイドルは消えていったと思う。
実力があれば残れるし、引退もあるし、俳優になったりする道もあった。
それこそ、運と才能次第だったと思う。

それがジャニーズではサラリーマン化してアイドルが「仕事」になった。
「仕事」だから、食うためにやらないといけない。
会社の言うことを聞いていれば、いつまでも「アイドル」を続けることができる。
去年、それに嫌気がさして、分裂したグループもあった。

みんな、小さい頃からジャニーズ事務所に「就職」することを目指して就活する。
その就活が後ろで踊っているダンサーなのかもしれない。
いかにも日本らしい、「アイドルという仕事」だ。

今の日本、会社に寄りかかっている中年が多いという。
技術革新を阻み、自分のやってきたことを変えられない。

どうも同じような図式になっているのではないか…。


| | 考えたこと | 00:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
おかえり寅さん
「男はつらいよ」の最新作、「おかえり寅さん」を見てきた。
第1作から50周年の50作目。
高校1年のときに近所の3本立ての映画館で見てから、46年経つ。

今もう一度やるなら、このスジになるだろう、というシナリオ。
主演の吉岡秀隆が49歳だから、ほぼリアルタイムでこの映画と育った世代。
といっても、子役で出演したのはさくらの息子、満男が小学生になってからくらい。
中学、高校、大学、就職してサラリーマンになるまで、この映画と育った。

主演女優は後藤久美子。現在45歳。
F1ドライバーのアレジと結婚して、96年に引退してフランスに行った。
今回がカムバック。
当時の満男の恋人役で帰ってきた。
実生活と同じく、ヨーロッパに行って暮らしているという設定だ。

マドンナの一人、浅丘ルリ子はリリー役のままで、暗いジャズバーの女主人役で出てきた。
もう79歳。79歳とは思えない役作りだった。
薄暗くしたのは演出の親心だったのかもしれない。

3人目のおいちゃん役の下條正巳と、おばちゃん役の三崎千恵子は仏壇の中に写真があった。
満男の両親役、倍賞千恵子が78歳、前田吟が75歳。まだまだ元気そうだった。
タコ社長は亡くなって、その娘役で何作か出た美保純がその代わりの役だった。
美保純も59歳だ。
夏木マリが後藤久美子の母親で、67歳。

柴又の近辺も都会になって、参道の風景もだいぶ変わった。
柴又駅も自動改札になっていた。
回想シーンがだいぶあるが、昔の映画の場面を使っている。

そうそう、帝釈天の住職は2代目になって、笹野高史が演じた。
源公の佐藤蛾次郎は75歳で健在。

新しい役者が、満男の娘役の桜田ひよりと、作家をやっている満男の担当編集者、池脇千鶴。
二人とも好感が持てる演技。

でも、高齢の役者のオンパレードだ。
50周年の映画だから、当時の人たちを使うと、そうなる。
それでも、俳優はだいたい10歳以上は普通の人より若い。

あの作品のあの場面が出てくる。
もちろん渥美清も出てくる。

こういう作品が作れるのも、約30年かけて作品を撮り続けたからこそ。
さらに、それを支えた人気があったということだ。
昭和の世相や景色、女優の記録でもあった。

「男はつらいよ」を見てない人でも楽しめるようにはなってはいるが、観客はほとんど高齢者だった。

もう帰ってこないことはわかっている寅さんに、会いに来たのだろう。



| | 考えたこと | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
祝着至極に存じます
時代劇を見ていたら「祝着でございました」というセリフがあった。
よく聞いたのは「祝着至極に存じます」だが、祝着だけでも使われる。

これは完全に死語だろうなあ。
Webの辞書では、

【祝着】[名・形動]喜び祝うこと。うれしく思うこと。満足に思うこと。また、そのさま。「無事ご帰国の由、祝着に存じます」

と書いてあった。

ぼくも「祝着」は書き言葉でも使わない。
辞書には青空文庫(著作権が切れた昔の小説等のWeb文庫)の中の例文があったが、泉鏡花や宮沢賢治のものだった。
いずれも、文語体のものだ。

時代劇で使われるだけあって、古い時代の言葉であるのは間違いない。
それでも、ぼくが見る時代劇はだいたい80年代以降のもの。
そこで使われているということは、今の70代あたりには余裕で通じていたということだ。

ぼくらの習った小学唱歌の中には「夏は来ぬ」や「故郷」「おぼろ月夜」など、文語体の歌がたくさんあった。
卒業式の定番だった「蛍の光」も「仰げば尊し」も文語体だった。
意味もわからず歌っていて、だいぶ経ってから本当の意味を知ったりした。

このことは以前「係り結び」「夏は来ぬ」に書いた。

日本が漢字を取り入れて、漢文の読み方を工夫して作った文化も文語体だ。
したがって、文語体の響きを知ることは、漢文にもつながると思う。
ちょっと前に蘇東坡のことを書いたが、漢詩はみんな文語体で読み下すから、文語体が消えていくということは、漢文も消えていくということだろう。

本格的に文語体が消えていったのは、1999年の学習指導要領の改訂だ。
これ以降、古文や漢文は必修科目として履修されなくなったということだ。
もったいないことだと思う。
日本語の成り立ちや漢字の事を考える上でも、古文や漢文は必要だと思うのだが…。
この頃に、音楽の教科書からも、文語体の唱歌は消えたのだろう。

この原因は、教員養成課程を持った新設の大学で、社会の教員免許が爆発的に増えて、その影響で他の科目が圧迫されたのだと思っている。
実際、平成28年の統計で、中学校では1種免許の数で、国語:社会:数学:理科=5:7:5:5、高校では、国語:地歴:公民:数学:理科が6:6:7:5:6となっている。
高校に至っては、地歴と公民を合計すると13となり、国語と数学の合計を超えて、圧倒的に社会の免許が多いことがわかる。

この無計画な教員免許の構成も、カリキュラムの時間数などに影響しているんだろう。
社会よりも国語(英語)や数学の方が大事なはずだ。
ぼくのいた大学では、臨床心理学を修めて、倫理社会の教員免許が取れた。
何でもアリなのだ(もちろん、真面目な学校は臨床心理で教員免許の課程はおかず、免許は出していない)。

結局文部科学省の省益(先生を増やす)ことばかり考えて、何を身につけるべきかという議論はされていなかったのだろう。

文語体がなくなったことと、仰げば尊しや蛍の光が歌われなくなったことは関係がありそうだ。

ぼやきばかりになってしまった。

もっと国語を大事にしろ。




| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
クリスマス
今日はクリスマス。
今年は長男が帰ってきていて、3人で迎える。
迎えると言っても、別に何も用意はない。
プレゼントもないし、ケーキもない。
もうクリスマスとは縁がなくなった。
サンタクロースも長いことご無沙汰だ。

それでも、街はクリスマス。
イルミネーションもきれいだし、やっぱりちょっと気分が高まる。
昨日の夜は梅田に行ったが、人が多かった。

それでも、心なしかアベックが少なかったような感じ。
アメリカではイブとクリスマスは家族と過ごすのが普通らしい。
そういえば、ドラマなどでもそういう感じで話している。
日本では若い人たちは、カップルで過ごす人が多いというと、驚くそうだ。

昔は子供がほしいプレゼントを探し回ったこともあった。
今はなんの変哲もないただの日になった。

同時に昨日は午前中膝が痛いから整形外科に行ったら、注射で水を抜かれた。
7ccたまっていた。
膝に水がたまることがあるという事実は知っていたが、自分がそうなるとは思わなかった。
思わぬクリスマスプレゼントになった。

今年のクリスマスは、膝にたまった水を抜いた日だ。

来年は膝を治していいクリスマスになりますよう。

メリークリスマス!



| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
レアアース
中国でレアアースが採れる。
世界シェア7割だという。

電池でおなじみのリチウムもそうだし、磁石で使われるネオジムもレアアース。
中国のシェアが高い理由を日経が書いていた。
一つはレアアースを取り出しやすい鉱石が集中していること、もう一つはレアアースを取り出す時に使う化学薬品などに対する環境面の規制が緩やかなことだという。

実際にはレアアースはレア(希少)とはいうものの、そんなにレアではない。
レアではないが、普通の岩石などからは取り出すのが難しい。
花崗岩にもたくさんのレアアースが含まれているが、取り出すのにはコストがかかる。
ところが、中国にはそれらを容易に取り出せる岩石が多いということだ。

さらに、鉱石から取り出すときの化学処理のコストもある。
前述の、環境への悪影響をあまり気にせず危険な化学薬品も使うことができるということ。
それはあまりいいことではないが…。
そういう理由で、中国のシェアが高い。

レアアースの埋蔵量はその他の世界も含めて650年分あるらしいから、当面は枯渇を気にしなくていい。

希少ではないが、取り出しが難しい(というか、環境問題がある)ということだ。
カナダやアメリカ、オーストラリアなどにも資源としてはあるらしい。

鉱石からレアアースを簡単に取り出す技術ができれば、もっと安くなる。

しかし、いつまでも中国で環境を気にしなくていいとは限らないだろう。
昔の日本の公害問題みたいなことが起こるかもしれない。
それがリスクだ。

半導体を作るのにはシリコンが使われているが、シリコンは地球上で手に入りやすく、作るのも簡単で安いから、これだけ半導体が広まった。
リチウムがシリコン並みに安価になれば、EVも安く作ることができるだろう。
しかし、それにはイノベーションが必要らしい。

電解液を使わない「全固体電池」というのも開発されているが、これもリチウムを使う。
一方で、リチウムを使わない電池も開発されている。
もっと手に入りやすい、ナトリウムやマグネシウムを使う電池らしい。
それ以外にもいろんな可能性があるとのこと。

お金を注ぎ込んで研究する価値はある。

そういうことにもっと補助金を出してほしい。




| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
眠気覚ましの方法
若いころは車に乗っているときに眠くなるのが困ったが、最近は仕事中に睡魔が襲うのが問題。
特に昼ご飯を食べた後は眠い。
消化に血液が回るから、眠くなるという理屈。
これは実際にそうなのかどうかは知らないが、昼を食べた後は鬼門だ。

何かすることがあれば、眠くなったりしないが、何もすることがない時は困る。
相談者が入っていないときは、することがない。
自己啓発的なことをすればいいのだが、そんなに勉強熱心でもない。
ついついボーっとしていると、眠気が襲う。

コーヒーなど、何の効き目もない。
飲みながら、眠くなる。
カフェインが眠気覚ましに効果があるというのはウソではないかと思う。

眠くなった時に効果があるのは、何かを口に入れること。
最近はタブレットや飴を食べる。
これは確かに一時的に効果はある。

けれど、「おかき」のように食べていると音がするものは、具合が悪い。
バリバリ音を出していると、迷惑だ。

昔の映画などではどこかをつねるというのもあった。
これは確かに痛いから効果はあると思うが、あまり現実的とは言えない。
眠いからといって、ずっとつねり続けるわけにもいかないだろう。

オフィスに電話がしょっちゅうかかってくる時代は、電話で助けられた。
誰かと話をするというのは眠気覚ましには特効薬だ。

今も電話はあるが、ほとんどかかってこない。
ぼくが会社に入ったころは、ほとんど電話だった。
それがファックスができて、ちょっと減り、メールになって、大幅に減った。

かかってくるのは外からの電話。
営業などはまだかかってくる電話は多いのではないかと想像する。

今の若い人たちは、昔のうるさいオフィスなど想像できないだろう。
しょっちゅう電話がかかってきた時代。
あの頃に比べると、今のオフィスは静かで、眠ってくれと言っているようなものだ。

みんなパソコンの画面に向かって黙々と仕事をしている。
本当に仕事をしているんだろうか。
あれだけ黙々と仕事をしているのなら、もっと生産性は高いはずだと思うが…。

このあたりに問題が潜んでいるのかもしれない。



| | 考えたこと | 01:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
現金離れ
上海ではキャッシュレスが進んで、現金を持たなくても生活できるそうだが、アメリカでも若い世代はそうなってきているらしい。
ウォール・ストリート・ジャーナルにそういう記事があった。

20歳の大学生の子供が家の仕事を手伝ったのだが、父親から50ドルを渡されると、アプリ経由でスマホに送金して欲しい、と頼まれたとのこと。
形のある現金よりも、電子マネーの方がいいということだ。

そのためのサービスが「ベンモ」や「キャッシュアップ」というもの。
アメリカの大学のキャンパスでお金を借りて、会ったら返すと言うと「Just Venmo me!(ベンモで返してくれたらいいよ)」と言われるのが日常になっているらしい。
ネットで調べると、ベンモにはソーシャル機能があって、大学のサークルの集金などに使えるということで一気に広まったらしい。
上海は言うに及ばず、アメリカでも若い人たちの間ではそういう状態。

しかし、アメリカの年寄りにはまだまだ現金信仰がある。
親の世代は、現金に勝るものはないと思っている。

一方で、国自体は現金離れが進んでいるとのこと。
ベンモのアクティブユーザー数はアメリカに4000万人いる。
教会の寄付集めをベンモでやることもあるらしい。

若い人たちはスマホでお金を送りあって、そのままスマホで使う。
現金は却って不便だから、そのほうがいい、ということだ。
「Vemmo」というアプリの名前が、動詞になっているくらいだから、かなり一般的になっているということだろう。
検索するのを「ググる」というのと同じだ。

このままいくと、何十年か先にはこの世から現金がなくなるかもしれない。
今でも流通している以外のお金はほとんどデジタルになっている。
以前亡くなった代議士のように、隠し部屋に現金で持っている人などもういないだろう。

預金は今は通帳があるが、ネットがメインになれば通帳はなくなる。
ソニー銀行は通帳レスだ。
もう形のあるものはなくなりかけている、といえばそうなのだが…。

ぼくは現金派とは言わないが、半分は形のあるもの派。
まだメガバンクの通帳を持っている。
でも、その他は形がない。
証券会社は最初は株券という形があったが、合理化のためになくなってしまった。
効率化してコストを下げようとすると否応なく、そうなってしまったのだ。

日本でも、いずれ現金はなくなるのだろう。
世の中の必然だから…。

| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
They are a nice person
こないだ朝のワールドニュースを見ていたら、ニューヨークの今年の単語は「They」だという。
2015年にWall Street Jounalで「単数のthey」というのが紹介されていたが、これがいよいよ一般に浸透したということだろう。
今までとは違う意味でのTheyの使い方が「新しい」ということだ。

例文は「They are a nice person.」というもの。
おそらく意味は、彼または彼女はいい人だ、ということになる。
なぜ単数のTheyができたかというと、性別を表す言葉を嫌う人が増えたからだ。
自分の性をheやsheというように表してほしくない、という人が多くなったということだ。

このtheyは一応複数扱いで、いわゆる三単現のsはつかない。
そうであっても、補語に単数の「a」がついてもOKということだ。
They are a nice personというと、間違い探しの例文みたいに思うが、これが最先端の英語。

日本では「彼」「彼女」という言い方をあまり使わないから、そういう話は出てきていないが、さすがアメリカは動きが早い。
70年代のヒッピー文化と底流ではつながっているんだろう。
どちらかと言うと、反体制、自由というところがルーツという気がする。

時代は「性別多様化」だ。
従来のように、「男」「女」だけで性別が分けられない時代になった。
身体的には男だが、心は女というような自覚が社会的に認められたということになる。

高校生の頃、近所の映画館でイージー・ライダーを見た。
細かいストーリーは覚えていないが、自由の国アメリカにはいろんな価値観があるという映画だった。
ラストシーンでバイクが大破して、黒煙を上げていたのが印象的。

あの当時からすると、だいぶアメリカ社会も進歩?した。
女性の社会進出も進んだし、何より性的マイノリティに対する理解も進んだ。

しかし、そういう動きの反対側でトランプ大統領が選ばれたという事実は、ある意味でそういう自由の動きに多くの人たちが「行き過ぎ」を感じているという面もある。
実際、男女の区別が嫌だ、という人がいるのはわかるが、そういう言葉を使わないというのは「行き過ぎ」だとぼくも思う。
そこまで自由になっていいのか、という気もする。

時代は性別多様化だから、それを拒否しているわけではないが、一方で「どうもなあ」と思う気持ちも捨てきれない。
そういう人たちがトランプ大統領を支持している面もあると思う。

というわけで、単数のtheyは定着し始めた。

英語の教科書はどうなるんだろうか。

| | 考えたこと | 18:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
Youtubeが先生
最近、ギターを教えている人たちのYoutubeのチャンネルを登録して見ている。
本当に便利になったものだ。
先生たちはだいたい20代から30代。
若い人たちだが、理論もテクニックも素晴らしいと思う。

すごい人はフォロアーが数万人いたりする。
こういうのが商売になるところが、Youtubeのすごいところ。
実際、どれくらいの儲けになるのかは知らないが、そうでもないとほとんど毎日動画をアップするのは大変だろう。
お気に入りはTakeda先生だが、この人は話も、とりあげるトピックも、教え方もうまい。
三拍子そろっている。

リアルのギター教室の先生もやっている(どっちが本業かわからないが)し、自分のバンドでCDも出している。
まあ、セミプロといったところか。
実際、プロで活躍している人たちも、この先生のように教える技術は持ってないかもしれない。

いつからかは知らないが、ギターの専門学校(いろいろある)に行って、一時は毎日ギター漬けの日々を送ったようだ。
スケールの説明や、モードの説明、テンションの使い方など、上手にしてくれる。
聞いていて、なるほど、というのもある。

今の若い人たちは、本当に便利になったと思う。
Youtube上に無料のギター教室があふれている。
ギタ女の先生もいる。
気に入った先生を選んでチャンネルを購読すればいいのだ。
逆に、Youtubeで気に入った先生の教室に、リアルで通う、というのもアリかもしれない。

ぼくが習っている先生も、若かったらこういうのをやっていたかもしれない。

これらが広告で成り立っている。
ほとんど、広告など気にしないが、だいたい1回再生して0.1円いかないらしい。
1万回再生して、1000円以下ということだ。
十万単位になって、初めて数千円〜万円になる。
それでも、一度アップしてしまえば、それは消去しない限り残るから、後から儲けが出るかもしれない。
だからこそ、毎日アップするのだろう。
本当にチリも積もればの商売だ。

でも、結局は先生と生徒がWin-Winの関係になっている。
ぼくらが動画を見ると、少ないがなにがしかのお金が先生に入るからだ。

自分の得意なことをやって、お金を儲ける。
これこそ、理想の仕組みだ。

小学生がなりたい職業がYoutuberだったのが話題になったが、これからはそれもアリかもしれない。

| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
部活の犠牲者
就職指導をやっていると、いろんなことに気がつく。
定番の質問に、学生時代に頑張ったこと、というのがある。
そこで、多くの学生が中学や高校時代に頑張っていた部活を、大学では続けないことが多い、ということに気づいた。

部活の強豪校というのがある。
強豪校とはいかなくても、そこそこ強い部活、というのもある。
学校が力を入れているものだ。
ウチの近所の市立高校はスポーツに力を入れているが、そんな部活だ。
学校の前を通りかかると、ノボリが出ていて「全国大会出場」とか書いてある。

強い部活は野球やサッカー、バレー、バスケット、吹奏楽などいろいろある。
相談に来る学生は、大学で頑張ったことを聞くと、たいがいはアルバイトという。
中高では何をやっていたのかと聞くと、スポーツ系の部活が出てくる。
誰でも知っているような強豪校だったところもある。
おそらく、そういう学校ではレギュラーになれなかったり、ちょっと試合に出た程度だったのかもしれない。

吹奏楽で頑張ってたという女子もいる。
なんで大学で続けなかったのか?と聞くと、あまり要領を得ない答え。
自分でもはっきりさせられないのだろう。
人前で話せない過去になっているのだ。
せっかく頑張ったのに…、とぼくは思う。

高校時代の周りのオトナに原因があるのではないかと思う。
自分たちで一生懸命頑張って続けるのではなく、部活担当の教員や学校側に頑張らされているのだ。
もちろん、入部したときはそんなことはわからない。
3年間かけてやってきた結果、そう思うからこそ、続けるのをやめるのだろう。
もったいないと思う。
彼らはそういう部活の犠牲者なのだ。

学校にも事情がある。
少子化の今日、生徒を集めるためには知名度をあげないといけない。
そのために強化する部活を決めて、そこを強くして県大会や全国大会に行く。
語弊を恐れずに言うと、生徒たちはそれに利用されるのだ。
学校は実績のある指導者を雇い、設備を準備し、道具を揃え、強化を図る。
昨今の高校野球など、まさにそういうビジネスになっている。

そこまでいかなくても、学校側の事情でやらされてしまうのだ。
もちろん全員が止めてしまうわけではない。
中にはスター扱いされて、その道を進む人もいるとは思う。
しかし、その裏側にはスターを支える人がいる。
言い方は良くないが、部活に使い捨てされる人たちもいるのだ。
良くも悪くも、そうしないと強豪にはなれない。

部員たちは必然的に全生活をその部活に捧げることになる。
当然、勉強をする時間はない。
学校のためにやっているのだから、その状態は放置される。
結局あとで困るのは自分なのだ。

全部が全部とは言わないが、そんなふうにして、部活の犠牲者が出てくる。
「部活=善」というのは間違っている。

早くそれに気づくべきだと思う。


| | 考えたこと | 19:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
2025年の崖
経済産業省の2018年のレポートで、日本は世界と比較するとデジタル化が遅れている、ということだ。
それは本当にそう思う。
特にL(Local)の世界(国内相手の世界 特に役所や学校)はホントに遅れていると思う。

レポートの題名は「DXレポート〜ITシステム「2025年の崖」の克服とDXの本格的な展開〜」という。
よく「壁」という言葉は使われるが、「崖」というのは珍しい。
「2025年の崖」とは一体何のことを言っているのか。

DXというのは、デジタルトランスフォーメーションの略。
デジタル技術を使って、新たなビジネスモデルを作るような競争相手が出てくる、ということだ。
要は従来のメガバンクが今苦しんでいるのは、ネットの仕組みを使って、店舗を持たず、コンビニのATMを使うネットバンクや、個人からお金を集める融資の仕組みを提供するところが出てきているからだ。
こんな風にデジタルの仕組みを使って、既存の強者が新規参入者にやられていく、ということが起こる。
例えば、ネットでドライバーを集め、自家用車をタクシーの代わりにするウーバーや、ネットで泊り客を集め、一般の人たちの空き部屋や空き家を宿にするAirB&Bのような会社がDXの主役になる。

そういうことが、あらゆる業界で起こってくるというのが、経産省のレポートらしい。
今のように、今までの実績にあぐらをかいている企業は、市場競争の敗者になると警告している。
まことに、その通りだと思う。

では、2025年の崖というのは何かというと、既存の古いシステムが老朽化、肥大化、ブラックボックス化する、ということだ。
内容を確認しようにも、それらの古いシステムのコードを読める人がいなくなる。

こないだ、国の統計の問題でも、COBOLという古い言語を読める人がいなかったのが原因とも言える。
経産省のお膝元でもすでに起こっているのだ。
大学勤務時に文科省から送られてきたエクセルシートは「エクセル方眼」というわけのわからないもので、これならワープロを使えという代物。

国のシステムからしてこれだから、地方や公立の学校はもっと悲惨。
ようやく、コンピューター一人一台、という目標が示されたが、まだまだ遠い。
役所や学校に使える人がほとんどいないからだ。
バカみたいに、何十年か前の採用試験をやっていて、そこではコンピューターのことなど全く試されない。

経産省は危機感を持つのなら、まずそういう人材を育てる事を考えるべきだと思う。
一にも二にも人材育成だ。
自分たちの天下りしか考えていないような文科省や、問題先送りの厚労省に期待してはいけない。

経産省が旗振りをして、早くそういう人材を育成する政策がまず必要だと思う。
学校で育てることと、社会人の学び直しだ。

早くやらないと、崖から落ちるぞ。

| | 考えたこと | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
初めての不運
キャリアサポートという課に行くことになったのが2007年。
最初の半年は課の人たちが相談をするのを見て、要領を覚えた。
だいたい毎日学生が相談に来ていたが、それを後ろで仕事をしながら聞いているという感じ。

当時の大学の人事は4月に発令だが、4月は新入生が入って何かと忙しいので、実際の異動は6月1日だった。
ぼくのやっていた仕事は、課がなくなったので、一緒の部屋の人に引き継ぎ、キャリアの建物に変わった。

普通の事務なら、始めたころは失敗しても上が直してくれるが、カウンターで1対1でやる仕事や、医師の手術などはどうしても「初めて」がある。
そして、「初めて」に当たった人は不運だ。
ぼくも相談業務を始めたときに失敗した。

エントリーシートに書いてあることで、本人がすごくこだわりがあることに気づかず、それはちょっと不利かもしれないなどと言ってしまって、大泣きされた。
周りの人たちはみんな「仕方ない」と言ってくれたが、あれは気の毒なことをしたと今でも思う。
もう一人、家庭のことで苦労していて、遅い就活を始めた学生。
遅くなってもまだまだ求人はあるから頑張ろう、などと励ますと大泣きした。
その時も、ちゃんと相談できてなかったのだろう。

そういう人たちは、相談に来なければよかったなどと思うかもしれない。
こんな事になるなら、やめた方がまし、というやつだ。

でも、そういう失敗を重ねて、一人前になっていく。
ビギナーというのは、そういうものだ。
不幸にしてビギナーに当たってしまった人は、不運としか言いようがない。
1対1の仕事をする人たちは、みんなそういう経験を持っているはず。

どんな名医でも、初めての手術は必ずある。
どんなカリスマ相談員でも、初めてのクライアントは必ずいるのだ。
逆に、ビギナーの時に失敗することが、自分の勉強になったりする。

もちろん、最初から上手にやる人もいるだろうが、なんせ初めてのことだからわからなかったり、間違えたりすることもある。
それは仕方がない。
どんなシステムを作ろうと、それは避けられない。
経験が人を育てる、ということだから、どうしようもない。

だからと言って、対面したときに「私はビギナーです」などと言ってはいけない。
そのこと自体が相談業務を阻害するからだ。

そういう意味では、対面業務をする人たちは、みんなすねに傷を抱えている。
今はベテランになって、何食わぬ顔をしている人も、同じだ。

そういう「傷」を常に意識している人が、逆にいい相談員になる。

それが、「初めての不運」を経験した人に対する罪滅ぼしなのだとぼくは思う。



| | 考えたこと | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
家にパソコンがない会長
NHKの新会長に、みずほフィナンシャルグループの元社長で名誉顧問、年齢74歳の前田さんという人がなった。

新会長の記者会見の様子がニュースになっているが、これはひどい。

「インターネット常時同時配信が来年4月から始まることについて質問されると「実はインターネットとかパソコン持っていないんですが…」と告白。「相当古い人間で、常時配信がどんなものかも分かっていない。これも1月までもうちょっと勉強させてほしい」と苦笑いし、会見中、何度も「勉強中です」と繰り返した。」

とのこと。

NHKのようなメディア産業は、変革期だと思う。
日本は遅れているのだ。
ブロードバンドのインフラは整って、動画コンテンツのストリーミングサービスも始まっているのに、テレビ放送は電波にこだわっていて、常時配信など全く考えていないようだ。

オリンピックを期に、ネット配信を進めようとしていた前会長に変わって、新会長はこのありさま。
いくら74歳と言っても、家にはインターネットもないし、パソコンも持っていないという化石みたいな人物を何故選んだのか。
IT担当大臣といい、今回の人事といい、日本のスタンダードは本当にガラパゴスだ。

みずほと言えば、システムのトラブルで信用をなくした銀行。
いまだに失敗事例として語られる。
2019年の3月にも、システム関連の損失で4600億円を計上している。
16年かかっても、システム統合ができなかった、ということだ。
そのころの社長だったんだろう。

こういう人が社長になっている、ということがその原因だと思わないんだろうか。
大蔵省の護送船団に守られて、ぬくぬくと生きられた時代が終わるとともに凋落している銀行だ。
さもありなん、と思わざるを得ない。

もう余生を過ごすべき人だと思う。

あらゆるところでネットのビジネスが、既存のビジネスを破壊していっている。
その現実を見ないと、世界に取り残されてしまう。

NHKのようなメディアがその先鋒を切らないといけないはず。
このあたりが、自民党のネット音痴内閣の限界かもしれないなあ。

きっと、他国のメディアは大笑いしているだろう。


| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
黒木華
土曜日に「澪つくし料理帖」のスペシャルをやっていた。
黒木華のはまり役。
渥美清が「車寅次郎」であったように、黒木華は「みお」だ。

ぼくは澪つくし料理帖を見てから、黒木華が出るドラマは見ないようにしている。
見てしまうと、「みお」のイメージが崩れるから、もう見られないのだ。
これは役者にとってはどうなんだろうか。

はまり役を得ることは、役者にとっては千載一遇のチャンス。
でも、あまりにはまってしまうと、ぼくのように他の役は見られないということも起こる。
やっぱり、良し悪しかもしれない。

小説も読んで、やっぱり「みお」は黒木華だと思った。
小説のイメージそのものなのだ。
作者がテレビのドラマを見てから書いたと思うくらいだ。

渥美清はある時期から車寅次郎しかやらなかったが、黒木華はまだ若いからいろんな役が来るのだろう。
才能のある役者だから仕方ないが、ぼくは黒木華のファンではなくて、みおのファンだからどうしようもない。

今回のスペシャルは、みおが思う人と一緒になれる、という話。
それでも、その思いを振り切って、料理人として生きることを選ぶ。
いつも迷ったときは料理人をとる。
料理人の道こそが「心星」なのだ。

来週は後編がある。
また見るぞ。


| | 考えたこと | 20:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
リズム楽器
最近フェイスブックの宣伝にタンドラムというのが出てくる。
なんの関連かわからないが、宣伝をクリックして動画をみると、中南米のスチールパンのような音がしている。
見たものは金属製で、たたく部分が舌のように切り目が入っていて、そこが振動するというもの。
宣伝の動画では、なかなかいい音がしていた。
Youtube上にも動画があって、手でたたいたり、バチでたたいたりして音程付きのリズムを演奏する。
なんか、中近東やインド風の音がする。

タンドラムのタンはTongueのこと。
牛タンのタンだ。音の出るところが舌状になっていることから、そういう名前になったんだろう。
切れ目が入っていることから、スリットドラムともいうらしい。
数万円のものから、小さな1万円以下のものもある。
癒やし系の音がする。

もともとは木でできていたらしい。
今でも木のものもある。
伝統楽器という感じか。

音程がついていても、たたく楽器は打楽器だ。
オーケストラでも、木琴や鉄琴はパーカッションの担当。
タンドラムは音程が不安定で、あんまり合奏するものではないと思うが…。
リズムは人間の音楽の基本だ。
それを刻むのは主に打楽器の役割。
そのせいか、打楽器のバリエーションは広い。

もう一つ、変わった打楽器がある。
木の箱のようなもので、その上に座って、箱の前面を叩くカホンという楽器。
ペルー発祥の楽器。

数年前から時々見る。
小さなコンサートでたたいているのを見ただけだが、なかなか面白い。
箱の中に針金を張って、スネアドラムのような音をだすものもある。
要はたたく位置によって、音が違うから、コンガのような叩き方ができる。

Youtube上にカホンのレッスン動画がある。
カホンと併用して、足にタンバリンを付けたりしてリズムをとる。
上手な人のものを見ると、一人でやっているとは思えない。

楽器のバリエーションが増えることはいいことだ。

リズム楽器もやってみたい。



| | 考えたこと | 20:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブレクジット
ブレクジットを賭けたイギリスの総選挙が終わり、ボリス・ジョンソンが率いる保守党が大勝した。
もっと接戦になるかと思っていたが、予想外の大勝。
若い人たちがEU残留を希望していて労働党に入れるのではないか、という予想もあったが、全くそんなことはなかったようだ。

国民投票のあと、若い人たちが投票に行ったらよかった、と嘆いていたのを見たが、そういう人は多かったはず。
ただ、あまりにも長い議論に、国民も嫌気がさしていたのだろう。
どっちでもいいから、早く決めてくれというふうに思える。

メイ前首相は傍目にも本当によく頑張ったが、自分の気持ちは残留だったからか、結果的にバランス感覚がありすぎて保守党の中からも批判されてしまった。
時には政治家として「バランス感覚」はジャマになるのかもしれない。

メイ前首相と敵対していた労働党のコービン党首は印象が悪い。
いかにも揚げ足をとってやった、という感じで(言ってる内容はわからないが)話す。
単に反対のための反対で、単なる文句言いに見えた。
こいつは信用できない、という感じ。
今回の大敗は、きっとコービンの意地の悪さも災いしたのだとぼくは勝手に思っている。

しかし、これでイギリスの離脱が確実なものになった。
イギリスから日本企業が出ていく、というニュースもあるし、本当にイギリスの人たちは離脱を望んでいるのだろうかと思っていたが、本当だった。
移民の問題だけでなく、EUができたことで不利益を被った人たちがいたのだろう。

理想を掲げてEUを設立し、市場的にもアメリカに匹敵する人数を抱えて、文字通り欧州の強さを見せるのかと思っていたが、EUはどうなるんだろうか。
何度もお互いに戦争をした過去と決別しよう、という理想はどうなるのだろうか。

戦後の日本は欧米を理想としてきた。
しかし現在、欧州ではイギリスがEUを離脱し、アメリカは一国主義になって、世界平和の理想というのはどこに行ったのかわからない。

アジアではロシア、中国という2つの国がややこしい。
中近東はいろんなところで不安定になっている。

日本は平和だが、これからどうなっていくのかはわからない。
ぼくらは幸せな時代を生きている。

後世の歴史家は、その時結果論になったこの時代をなんと表すのだろう。

| | 考えたこと | 20:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
cat whisperer
ネコの気持ちが分かる人のことを「キャット・ウィスパラー」と呼ぶ。
欧米の大学ではこの手の研究が多い。よく記事になる。
今回はカナダの行動生物学者の論文。ナショナルジオグラフィックに出ていた。

犬の訓練士のことをドッグ・ウィスパラーという(そういう海外のテレビ番組もあった)。
イヌにささやきかけて、カリスマトレーナーが問題犬を訓練するものだ。

そのネコ版で、キャット・ウィスパラーだ。
論文の著作者は、自分でも2匹のネコを飼っていて、明らかにネコ好きの学者。
まあ、自分の趣味の延長でこの論文が出来たということか。

一般的にイヌは人間と仲良しで、気持ちを伝える方法(しっぽを振る)があるし、わかりやすい。
でも、ネコは何を考えているのかわからない、という意見も多くて、ネコ好きとしてはそれに対抗したかったのかもしれない。

中に短い動画を8つ見せて、ネコがポジティブか、ネガティブかというテストがあった。
ぼくもやってみたが、6つ正解して、まずまずの成績。
もともとネコが好きだったからか、一時ネコ動画ばかり見ていたからか、わりと成績がよかった。

研究チームはネット利用者をランダムに選び、85カ国から6329人を被験者にして、短い映像を見せてネコの期限が良いか悪いかを答える、というテストを行った。
その平均値は20点満点で11.85点。
でもその中の13%は15点以上の正解率。
ぼくと同じ正解率だ。
その人達は「キャット・ウィスパラー」になる。

多くの動物は表情でもコミュニケーションを取る。
もちろん、視覚よりも聴覚の方が大きいかもしれないが…。
ネコも人間の表情を見ているらしい。
そういう研究結果もある。

まあ、ぼくは75%の正解率で満足。

キャット・ウィスパラーの仲間入りだ。



| | 考えたこと | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
入試の公平性?
もめていた次期センター試験。
英語の民間試験に続いて、記述式の試験の採点をアルバイトがやるということで、入試の採点の公平性の点から、反対意見が相次いで、結局全部見直しになった。

もともと、正解を「選ぶ」のと、自分で正解を「考える」ことはだいぶ違うということで、やはり記述式にするべき、ということだったと思う。
この意見は正しい。
どう考えても、「選ぶ」よりは「考えて答えを自分で書く」方が本当の読解力が試せる。
それでも、センター試験の規模でやるのは無理だったということになる。
それなら、どうして今までそう言わなかったのか…。

国語の教育法が悪いのか、本を読まなくなったのか、ネットの影響かよくわからないが、学生の読解力は下がっていると思う。
計算はできるが、文章題がわからないのは、算数と言うより国語の問題だと思うこともしばしば。
これはセンター試験がマークシートでやってるから、ということで、他の多くの試験も右へ倣えでマークシートにしたからだと思う。
記述式を残した学校はエライ。
学校単位の入試なら、記述式でできるからだ。

英和辞典で「often」の意味を調べたが、「しばしば」という言葉の意味がわからなかった、という笑い話もある。
センター試験対策ばかりやっていれば、どれを選ぶかというテクニックはつくと思うが、本当に「何が書いてあるか」はわからないという批判もあったはず。
だから、国語の記述式が必要ということになったんだと思う。
その志は正しかったということだ。

そもそも2013年にセンター試験の改革をやろうとして最初に出ていた話は「高校までの到達度テスト」にして、その試験結果を入試の参考に使う、というものだったはず。
当時の教育再生会議で話し合われた。
当時から高校から反対意見は出ていたが、センター試験改革としては、ぼくはこれが一番いいと思った。
入試は各大学でやればいいのだ。
本来やるべきは、初等、中等教育の結果をはっきりさせることだと思う。
そこがはっきりしないから、多くの大学が「学び直し」の授業をしないといけなくなるのだ。

それと、今回の議論で最もオカシイと思うのは、「入試の公平性」が今ごろ取り沙汰されていることだ。
入試の公平性、というのなら、「人物本位」の「面接重視」の試験など、公平性のかけらもない、という評価になるはず。
人が人を選ぶのは難しいからこそ、筆記試験という「客観テスト」が重視されてきた。
今の改革の方向は、「AO入試」や「調査書重視」の方向であり、全く公平性が担保されない方向だ。
いろんな人が面接をして、それで選ぶことのどこに公平性があるのだろうか。
客観テストの方が公平に決まっている。

コンマ以下の点数が足りなかったから、志望校に落ちたという状態は良くない、というのなら、それこそどれだけ「面接選考」が公平なのかということだ。

さらに、国もAI人材が足りないと危機感を持っているが、文系私学では入試に「数学」がないところがほとんど。
こちらを改革するほうが先だろう。

ついでに、ギャーギャー言っている「共通テスト」を使っていない学校はどうなるのか。
そもそも、一般入試を受けずに「AO入試」や「推薦入試」を受けて半分以上の学生が入っている私学の現実をどう考えるのか、その議論も全く無い。

今の学校関係者、文科省のやり取りを見ていて、心底オカシイと思う。

もっと他に言うことあるやろ。




| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
70歳まで働く
寿命が長くなれば、働く時間も長くなるのはものの道理。
老後の時間をどれだけ取るかだが、これを10年程度とすると、今の男性なら70歳前後まで働かないといけなくなる。

平均寿命−老後の時間=働く時間 という式だ。

1970年代は平均寿命が65歳だったという。
この頃の定年は55歳位が多かったということだから、だいたい上の考え方に合っている。
この頃は年金制度は健全だった。
高度成長期だったし、まだまだ少子化、高齢化が進んでいなかったからだ。

少子高齢化が進んでも、働く時間を長くすれば実質的に働く人が増えて、年金や医療は今よりはマシになる。
だから、今の平均年齢が80代になっていることから、70歳まで働くというのは正しい。
もともと年金制度が始まった頃は働く人10人程度で、1人の老人を支えていたというのだから、これなら持続可能だと思う。
財務省の統計では、2014年の時点で、20歳から64歳の人が2.2人で65歳以上の人1人を支えるという構造になっている。
2025年には1.8人で支えることになるらしい。
要は働く人たちは独立した世帯を持っている扶養者を0.5人抱えているようなものだ。

だから、厚生年金に入っている人は給料の天引きがどんどん増える。
それでは働く気力が失せるので、高齢者の年金を減らそうということになった。
これがマクロスライドというやつだ。
当然といえば、当然の処置。
効果はしれているが、こうなるまでになんとかならなかったのか…。

先進国はたいがい同じような状態。
所得が増え、豊かになったら少子化、福祉の負担に耐えられなくなる、というサイクルだ。
欧州の国々は移民を入れて解決を図っている。
日本はほぼ単一民族国家であり、そこには手を付けていない。
高度成長期の蓄えがあったからだろう。

福祉国家になるときは上り調子の時で制度はできるのだが、少子化によってどんどん破綻の方向に進む。
もう手遅れの感はあるが、日本の年寄は昔より10歳は若返っているということもあるから、70歳までは働く、というのは正解だ。

憲法では、労働は権利であって、義務であるらしい。
「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 」と27条に書いてある。
要するに、働くことができ、働かなくてはならない、ということだ。

これからの人たちにとっては、年をとってからの労働というものを、どういうものにしたいか、という視点を持つことが大事になる。
昨日も学生と話しをしていて、今の若い人たちは70歳を超えても働かないといけないかもしれない、と言ったら、彼らは笑っていたが、福祉国家である限り、寿命が伸びたらそれは当たり前のことなのだ。

もちろん、福祉国家をやめる、という選択肢もあるにはあるが…。

大学で勤めている時、役職定年という制度を持ち出したことがある。
65歳が定年だったが、55歳で役職定年して、若い人たちに上に行ってもらう、という制度だ。
中に、自分はどうしても今まで部下だった人の下になるのは嫌だ、という人もいた。
そういう人は、これからの世の中を生きにくいと思う。
結局、役職定年という制度は学校法人では見向きもされなかった。
完全な年功序列賃金体系だったからなあ。
ただ、そこにいて、評価もされず、業務をこなしているだけで、給料が上がる仕組みだった。
ぼくは、珍しい仕組みだと思ったが、中にいる人たちは当然だと思っていたのだろう。

話がそれた。

少子化対策としても、若い人たちの所得が上がらないといけない。
結婚できない若い人もいるのだ。

そのためにも、70歳まで働く(70歳定年ではない)ことを実現しないといけない。
一つの会社に留まるのではなく、働く中で、自分でやれること、やりたいことを作っていくのが理想だ。

そういう社会にすべきだと思う。

| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
連帯責任
教育界は連帯責任が好きだ。
何でも連帯責任にすればいいと思っている。
誰の責任か、ということを明確にして、その人を処分するということはない。
これが委員会機構の悪いところ。

今回の東須磨小学校の問題は明確だ。
加害者ははっきりしている。
組織上、加害者たちを管理できなかった管理職も明確だ。
普通の会社なら、責任者と実行者(加害者)は引責するのが当然。
それをするから、次からはちゃんと管理するインセンティブができる。

それが関係者320人の連帯責任だという。
みんなでちょっとずつ責任を取るということらしい。
それで、組織としての責任は取ったことになるのだろう。
赤信号、みんなで渡れば怖くない、の世界。

大学の教授会と同じだ。
大学の教授会もみんなで決める。
学部長や学科長が何と言っても、合議だから多数決。
多数決が必ずしも正しいとは限らない、ということは往々にしてある。
日本の非営利組織がダメなのは合議で決めるからだ。

学生のレベルが下がると教えられないから、あまり成績や評定平均の低い人は入れないようにしよう、という方針を出しても、合議で通らなければダメ。
それなら、入った人たちをどう教育するか、ということを考えて、こういう科目を置こうと言ってもダメ。
自分たちの授業の内容を変えたくないのだ。
そういう事例はたくさんあるはず。

民間企業なら、経営責任は社長をはじめ経営陣が持つ。
その責任を取るから、高い給料をもらう。

市は「市教育委員会全体のガバナンスの欠如が問題の要因」等と説明しているとのこと。
それなら、ガバナンスを取るべき最高権威である教育委員を処分すればいい。
それをちゃんとしないから、同じことが何度も起こる。
いじめの隠蔽など、いくら言っても繰り返される。

いつまでことなかれ主義を続けるのだろうか。

こんな事をやっていては、いつまで経っても問題は解決しないぞ。


| | 考えたこと | 21:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
二分の一成人式
こないだ見た2018年の邦画の中で、小学生が「半成人式」というのをやっていた。
調べてみたら、最近小学校で行われているらしい。
10歳になる小学生がやる。
成人である20歳の半分で10歳だ。
「二分の一成人式」の方がよく言われているらしい。

壇上に次々と子供が上がって、親への感謝の言葉を述べる。
無理やり言わされているような気がして、気持ちの悪い場面だった。
どうしてこんな会が開かれるようになったのか。

Wikipediaによると、

「学校で行われる場合には、小学校中学年の4年生を参加者として、子供から親への感謝の手紙の発表、校長や保護者代表による祝いの言葉、「2分の1成人証書」の授与、合唱等が行われる。開催時期は多くの場合1-2月、3学期」

と書いてあった。

小学校は親へのサービス業になったようだ。
運動会で何段もの組体操をするのも、卒業式で呼びかけをするのも、親へのサービスか、教員の自己満足としか思えない。
親へのサービスの最たるものが「二分の一成人式」だろう。
こんな妙ちきりんなイベントをやる意味がわからない。

各学校の裁量で実施しているとのこと。
小学校の行事として定着しつつある、と書いてあった。

一方で、ぼくが映画のその場面を見ていて「気持ち悪い」と思ったように、批判する人も多いようだ。

「2分の1成人式を廃止した学校では、保護者から苦情が寄せられたものの子供からの文句はなく、インタビューに応じた教諭は「子供にとっては『面倒くさい行事がなくなった』ぐらいのものだった。」と答えた。」

それはそうだろうと思う。
よく義務教育の「義務」を間違えている人がいるが、あれは親の義務だ。
子供に教育を受けさせるのが義務であって、子供にとっては権利なのだ。
子どもたちは教育を受けているが、それは憲法で保証された当然の権利であって、親に感謝しなさい、などというのはオカシイと思わないのだろうか。

子どもの感情まで管理しないと気がすまないのだろうか。
管理教育もここまで来るとバカバカしい。

塾に頼ってないで、もっと真面目に教育することの方が大事だと思う。




| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
オレサマ化
終身雇用の崩壊がすでに始まってる。
そのせいで、40代、50代の中高年転職者が増えているとのこと。
徐々に雇用の流動化は始まっているということだ。

しかし、今まで動いてなかった人が転職を始めると、どうか?と思う人も出てきたらしい。
人数が多くなると、玉石混交になってくる。

その人たちは「オレサマ社員」と呼ばれる。
一見丁寧だが、自分の思い通りにならないと急に居丈高になるらしい。
思い通りの求人案件がないと、そういう態度になる。

前にも、キレる中高年について書いたが、同じようなものだ。
何となく情けない気持ちになる。

記事は転職サービスの会社の経営者が書いている。
それによると、オレサマ社員になる人は、人間関係を上か下かでしか見ない。
しかし、今どき上下でしか関係性を作れない人はどこに行っても厳しいという。
大企業であっても、外部と対等の立場で付き合うとか、下請けをちゃんと協力企業として扱う、という人が望まれているからだろう。
必要なのは、上下だけでなく左右の関係だという。

たしかに、一つの企業でエラくなってしまうと、「上下」の関係しかなくなる。
大企業では、現在はなかなか昇進はできないものの、ある程度の年齢になれば周りはちゃんと敬ってくれる(たとえ表面的であっても)から、どうしても「左右」の関係に気づきにくい。
また、そういう人には外部との対等な関係を任すことができないから、逆にどんどん「上下」だけの関係になっていく。
そういう風にして「オレサマ社員」ができていく。

大学のセンセイの中にも、オレサマ教員はいる。
大学という社会から隔離された中で、先生ー生徒の関係に長いこと浸っていると、そうなるのだろう。
自分の研究領域はよく知っているかもしれないが、それ以外のことは標準以下の人がそうなりがち。
本当にエライ先生は、教養があるから、ちゃんと周りを見ることができる。
下位の大学にはそういうエライ先生は少なかったが…。

最近、いろんなところでキレる中高年を見る。
道端で怒り顔で何かをブツブツ言っている人や、スーパーのレジで怒っている人もいる。
ぼくも同じような年代だから、困ったものだと思う。

基本的には自己評価が高すぎることが原因。
年をとっても、謙虚であれということか。

実るほど頭を垂れる稲穂かな

これだ。

| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
キャリアの資格
ぼくはキャリアの資格としてCDAというのを取った。
CDAとは「キャリア・ディベロップメント・アドバイザー」というもの。
特定非営利活動法人日本キャリア開発協会(JCDA)がやっている、民間の資格だ。
2019年現在で18000人の資格取得者がいる。

それとは別にキャリアコンサルタントという資格もあった。
当初は民間資格で、CDAと同じような扱い。
こちらはNPO法人のキャリアコンサルタント協議会が与えていた。
2015年で48000人の資格取得者数。
こちらの方が断然多い。

今の大学は7年おきに第三者評価を受ける。
その時に、就職支援などをやっている部署はキャリア関係の資格を持った人がやっているか?などと聞かれるので、できれば資格を取ったほうがいい、ということになっている(と思う)。
実際、ぼくがCDAを取るために講習を受けていたときも、キャリア関係の職員が来ていた。

そして、2016年にキャリア・コンサルタントが国家資格になり、ぼくは移行措置を受けてCDAと併せて国家資格の標準レベルのキャリア・コンサルタントというのになった。(上級もあるので、標準レベルというのをつけている)
だから、キャリア・コンサルタントというのが、これからは主流になっていくと思っていた。

思っていた、というのは、2019年になっても別の名前の資格があって、統一の動きがないからだ。
もともと、キャリア・コンサルタント(以下、キャリコンと略す)とCDAはだいぶ違う資格だった。

CDAはどちらかというとカウンセラーの流れ。
だから、相談者に寄り添って、傾聴して解決を図るというスタンス。
面接試験では、いかに相談者に寄り添うか、という点が評価される。

一方、キャリコンの方は文字通りコンサルティングだから、相談業務になる。
いかに有効な提案ができるか、というようなところが評価される。

ぼくは最初のCDAの面接試験はダメだった。
クライアントにより添えなかったというか、焦って状況を聴くために質問をしすぎたのが敗因だったと思う。
状況を聞かないと、どんな選択肢があるか提案できないからだ。

半年後の面接試験に向けて、いろんな人がやっている塾に行った。
いろんな商売があるものだ。
いくつか行ってみた。
そこでは、クライアントに寄り添うことが最重要視された。
ああ、なるほど、そうやるのか、という感じだった。

でも、人づてに聞くと、キャリコンの面接は全く違うという。
寄り添うことよりも、具体的な行動を示すことが重要だ、ということになる。

CDAがやっている面接対策の塾に、キャリコンの受験者が来てしまって、周りの人たちがビックリした、というハナシがある。
来た方から見れば、同じ面接試験だから、同じように対策してくれると思ったのだろう。

CDA志望の人たちは、その様子を見て呆れたということだ。
塾の先生がどうしたかまでは聞かなかったが、周りは同じキャリアの仕事で、この違いはどういうこと?と思ったという。
キャリコン志望者は、クライアントの状況もそこそこに、こういう行動をすべきだ、という提案をしたからだ。

CDAのやり方で面接をしたら、キャリコンは間違いなく落ちる。
キャリコンのやり方で面接をしたら、CDAは間違いなく落ちる。
それらが、国家資格化で、同じ「標準レベルキャリア・コンサルタント」になるのだ。

ぼくは以前CDAの資格を出している、JCDAの会長にメールを送ったことがある。
そういう状態をいつまで放置するのか、ということだ。
残念ながら返事は来なかった。

この状態を放置してはダメだろう。
ぼくは両者の中間くらいに答えはあると思う。
寄り添うだけでもダメだし、あまり行動をせかしてもダメだと思うからだ。
そういうことはみんなわかっているはず。

今年の12月のJCDAの大会は定足数が足りないので、参加してくれというメールが来た。
5年間で100ポイント分の講習受講義務があり、それを維持するのが大変なので、みんなキャリコンに移行してしまうのだろう。
そのために、国会資格ができたのだから。

国家資格化で喜んでいたが、それは取りも直さずCDAが将来なくなる、ということだったのだ。
ぼくなら、一刻も早く発展的に解消してキャリコンの方に行くのだが、もはやJCDAがいろんなところで受益しており、協会の人たちはこれを潰せないのだろう。

来年の5月に更新の時期が来るのだが、CDAはもう更新しない。
年会費がもったいない。



| | 考えたこと | 00:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
セッション
今日は昼から会社の先輩2人と三宮のスタジオでギターのセッション。
というと聞こえはいいが、まあ暇にもなったし、一度ギターを持って集まろうという話になってやってみたという程度。

家宝のマーチンをハードケースに入れて持っていく。
やっぱり重い。
年をとってくると、ギターを持って移動するのが大変だ。

学生時代に軽音をやっていた人がリーダー格。
一番年上だ。
その他2名は家で好きで弾いている程度。
今日はとりあえず2曲の課題曲を決めて集まった。

1曲は「500miles」。
ピータ・ポール&マリーの曲だが、ブラザーズ・フォアもやっている。
もう1曲は、モンキーズの「Day dream believer」。
ぼくは高音のパートの担当。

一応練習はしていったのだが、合わせて弾くのは難しい。
500milesはバージョン違いでコードの思い違いもあった。
みんなでやると、こういうこともある。

「Day dream believer」はキーが高すぎた。
1音下げてやることに。

いろいろやって、とにかく楽しかった。
やっぱり楽器は一人でやっていても面白くない。

また集まるぞ。

| | 考えたこと | 21:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
自己肯定感
年が明けると、就職筆記試験がぼちぼち現実になるから、だんだんと学生も熱が入ってくる。
そのせいか、相談窓口を訪れる学生も増えてきた。

実は、質問に来やすいように、週に2回講義をしている。
1回は昼休み30分。これはプリントを渡して、駆け足で説明する。
もう1回は90分のコマを使ってやっている。
そこで伝えられることはしれている。
学生がどこまでできるかの幅も広い。

結局、これらは顔見知りになって、質問に来やすいようにということが目的の一つ。
みんな、なかなか質問に来ない。
何やかや言っても、直接質問に来にくいのだろう。

時々、意を決して質問に来る学生もいる。
思いつめたような厳しい顔つきで来るから、よくわかる。
よほど重大な決心なのだろうと思う。

そういう顔つきの学生は、切迫したように「小学生のレベルができない」という。
分数の計算や小数の計算、歩合やパーセントの計算ができない、という相談だ。
自分でも恥ずかしいと思っている。
だからこそ、厳しい顔つきになる。

そういう人たち向けのプリントも用意してあって、3段階くらいでやらせてみる。
ぼんやりとはわかっているのだが、自信が持てない。
もちろん使っているのは、小学生用のドリル教材。
ネット上でフリーのものを見つけた。

いきなりリクルートが開発したSPIというテストなどできない。
これは時間制限があって、考えたらできる、というレベルでは無理。
余裕でできる、という段階までいかないと、いい点数はとれない。
だから、そういう人たちには得意なところを1つ作ってそれだけはやろう、と励ます。

本当にやりたいのは試験対策ではなく、世の中に出る前にこれだけは知っておきたい、という数の知識を伝えること。

学生たちがつまづいている一番の難所は、全体を表す「1」だ。
1/2の「1」と1,2,3の「1」は同じ「1」でも意味が違うということだ。
小学校で習う割合の一番のキモだと思う。

彼らの「恥ずかしい」という思いをつのらせた顔を見るにつけ、どうして今まで、小学校のつまづきをそのままにしてきたのだろうと思う。
自分はできないと思うから、自己肯定感は必然的に低い。
90年代にすでに「分数ができない大学生」という本が出て、文科省も教育委員会もわかっていたはず。
何度も書くが、この事態は深刻だ。

これは彼らが悪いのではない。
硬直化した教育界が悪いのだ。

一人の学生は、高校の時に数学の先生に「このままやったら、ヤバいぞ」と言われたとのこと。
その先生はエライと思うが、そういう生徒たちを救う仕組みを作ろうと思わなかったのだろうか。
学年ごとに教えることを決めて、そこから外れられないという仕組みを変えて、もっと柔軟に運用すべきだと思う。

そういう学生に会うたびに、日本の初等、中等教育の破綻を感じて、腹が立つ。

小学校の先生同士でいじめをやっている場合ではないぞ。


| | 考えたこと | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
Amazon Transcribe
今度はアマゾンだ。
Amazon Transcribeというサービスが出た。
録音したデーターを文字に起こすことができる。
なんと1時間のデーターで150円。時間は20分くらいとのこと。
これはスゴイ。

昔、学生の座談会をCD-ROMに焼いて送ったが、値段が1万円ちょっとで1週間くらいかかったと思う。
それが150円で20分。
これを価格破壊と言わずして何というのか。
さらに、10人までの話者なら、一人ずつの文を文字起こしできる。

こういうことが起こると、既存の業者はどうしようもない。

アマゾンの料金表のページにはこういう表がある。(料金は1$=110円で換算)

料金の例
例    音声の長さ  料金
ソーシャルメディアビデオ ~ 10 秒  0.7円
ラジオのコマーシャル   ~ 15 秒  0.7円
ビデオ トレイラー   〜2 分 30 秒 7円
録画版ウェビナー    〜30 分  80円
平均的な長さの経営会議の録音 ~ 120 分  316円

こうなると、記録のための議事録など必要なくなる。
ICレコーダーで録音して、アマゾンで文字にして、そのファイルを置いておけば良い。
音声データーに比べて、3桁くらい小さなデーターになる。
それにかかる費用が、たったの300円ほど。
まだまだ改良の余地があるみたいだが、どんどんよくなるのだろう。

そのうち、リアルタイムで口述筆記もできるようになる。
アメリカではタイピストの仕事など、なくなっているのだろうか。

何度も聞き直して、テープ起こしをした数年前が懐かしい。

本当に人間のスキルをコンピューターが食っていく。




| | 考えたこと | 22:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
新聞の凋落
新聞の軽減税率の記事に部数が出ていて、ちょっと驚いた。
2018年は3990万部で、1年間で222万部減少。
実は14年連続で減少し続けて、ピークは1997年の5376万部だったとのこと。
2018年は4000万部を割り込んだ記念すべき?年になったらしい。
21年かけて、約3/4になったということだ。

この20年間はインターネットが普及した20年だった。
最初は海のものとも山のものともわからなかった。
ぼくはインターネットを通じて、オックスフォード大のコーヒーサーバーを見て喜んでいたのだが、これがこんなに世の中を変えるとは思わなかった。

日本の新聞業界もそんなことは考えてなかっただろう。
もともと少子化で減るのはもっと先だったから、まさかネットにここまで食われるとは思ってなかったということだ。

日本の新聞・雑誌業界は、ネット対応も遅れている。
唯一頑張っているのは日経新聞だけだと思う。
ニューヨーク・タイムズやウォール・ストリート・ジャーナルなどと比べると、見劣りする。

今やスマホがあれば、新聞は要らないという時代。
もう2010年になる前から、大学生に聞いても「新聞はとっていない」ということだった。
今や新聞を取っていない現役世代の家庭の比率もだいぶ増えたと思う。

ぼくは新聞はあったほうがいいと思うが、世の中の動きは止められない。
日本はどんどん貧しくなっているから、軽減税率を適用されても月に4000円から5000円の新聞代を、スマホのニュースで代替えする人たちは多いだろう。
結果的に紙の新聞の講読者層はどんどん年齢が上がっている。

戦前に新聞は国民の戦意を煽った。
そんなことは全く言わないが、戦争の威勢のいい記事をみんなが読みたがったから、売るために戦争を煽ったのだ。
今は憲法9条を金科玉条のように言っている新聞も、結局は売るためには何でもしてきたのだ。

紙媒体の新聞、雑誌などは読者層の高齢化に伴って、どんどん高齢者寄りの報道になっていると思う。
最近は日経が社会保障の増大や医療費の問題を言うようになったが、ちょっと前まではそういうことはニュースにならなかった。
高齢者には耳の痛いニュースになるからだ。
日経はWebにも力を入れているので、そういうことを取り上げていると言ったら言い過ぎか。

いずれにせよ、紙の新聞というメディアは終わりかけのコンテンツだ。
今の発行部数だって、販売店で捨てているものも含んだものだから、もっと少ないのが現実。

「社内に部長が4割」という毎日新聞もいずれ潰れるだろう。

新聞が潰れた後、世論を形成するためのマスコミはどうなるのだろうか。

ネットがその重責を担えるのだろうか…。




| | 考えたこと | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
一万人の第九本番
今年の第九の歌い納め。
朝から大阪城ホールに行って、通しのリハーサル(ゲネプロhttp://suzy.blog.bai.ne.jp/?eid=223748という)をやって昼3時前から本番。
今年のゲストは東儀秀樹、山崎まさよしというところ。
もう一人、大阪出身のシンガーソングライターが歌った。
山崎まさよしと同じ事務所だから、抱合せだったのかもしれない。

今年はだいぶ若返った。
小学校の合唱部がたくさん来ていたし、お笑いのゲストが霜降り明星。
プロ野球ではないが、年寄ばかりになっては未来がないと思ったのだろう。
周りの人は霜降り明星の一人がやったシラーの詩の朗読は良かったと言っていたが、ぼくはげんなりした。
若い人たちには人気があるようで、喜んでいたらしいが、シラーの詩の朗読をお笑いにしてはいけない。
きっとシラーが草葉の陰で泣いている。

合唱団の中にはオーストリアから来た人もいたが、あれは本当にわけが分からなかっただろう。
佐渡裕が選んだらしいから、まあ仕方がない。
時代の流れなんだろう。
ぼくは長いものには巻かれないぞ。

山崎まさよしは3曲歌ったが、ガットギターを持って出てきた。
サムピックで弾いていて、いい音していた。
ガットギターもいい。

3曲目にセロリを歌って、合唱した。
昨日のリハで、ハモるのはやめてユニゾンにしたのはちょっと残念。
王道のC-Am-Dm-G7のコード進行で、ベースをやったらいいハーモニーだったのに。

その後、ようやく第九のスタート。
本当に待ち時間が長く、疲れる。
それでも、第4楽章が始まって、起立の場面になると、だんだん緊張してくる。
待ち時間が長く、やっぱりリズムが走ってしまう。

でも、最後まで歌いきった。
何とも言えない感じ。
これはやったことがないとわからない。
心地よい疲れと達成感。

梅田で打ち上げをして帰る。

また来年も行こう!

| | 考えたこと | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |