考えたこと2

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戦争体験
こないだ、柴田錬三郎のことを書いた。

ぼくの中で、時代小説といえば、もう一人池波正太郎がいる。
こちらもだいぶ読んだ。
鬼平犯科帳、剣客商売、その他いろいろ…。

ほぼ同じ時代だが、柴田は1917年生まれ、池波は1923年生まれで、6年違う。
それによって、二人の戦争の体験が違う。

柴田錬三郎は、船で南方戦線に行く途中、敵襲に遭い撃沈され、7時間漂流し、奇跡的に助けられたという経験がある。
一方池波正太郎は、勤労訓練所に行った後、東京で旋盤工、岐阜の工場に転勤、ついに招集されたが結局内地で終戦となっている。

この体験の違いが、眠狂四郎と鬼平の差になっているのだと思う。

眠狂四郎のニヒリズム。
体制に組み込まれない一匹狼で、円月殺法というミステリアスな剣法を使う。

一方で、鬼平は火消し盗賊改という体制の長である。
たくさんの部下と密偵を率い、凶悪犯には容赦はしない。

柴田錬三郎は文化人としてテレビにも出演していたので、子供心に覚えている。
その雰囲気は、70年代くらいまでたくさんの文士や知識人が持っていたと思う。
反体制びいきであり、なんとなく退廃的な雰囲気を持っていた。
ぼくの勝手な想像だが、彼の戦争体験がそれの元になっているのではないか。

池波正太郎は、柴錬とは違った雰囲気。
もともと、テレビなどに出演しなかったので、はっきりしないが、あまり政治的な立ち位置は明確にしなかったと思う。
ダンディで美食家というイメージ。

戦争の体験というのは、作家の作風までも変えてしまうのだと思う。
そういう体験をした人が、たくさん日本にいた。

ぼくらはそういう人たちが存在したことを、知っている。

そういう事をちゃんと伝える努力をしないといけないと思う。

第二次対戦で日本と戦った国はどこか?と聞く若い人がいるという。
冗談ではない。

グローバル化の中で、日本は取り残されるのではないか…。


| | 考えたこと | 21:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
過去の自分
養老孟司が過去の自分というものは、今の自分とどれくらい同じか?という話をしていた。

http://www.kms.ac.jp/~hsc/izumi/diet/necessity/speed.htm によると、

  入れ替わりの早い成分 遅い成分
脳 1ヵ月で約40% 約1年
胃の粘膜 3日  
腸の微絨毛 1日  
肝   臓 1ヵ月で約96% 約1年
腎   臓 1ヵ月で約90% 約1年
筋  肉 1ヵ月で約60% 約200日
皮   膚 1ヵ月  
血  液 4.5〜5Lの血液は100〜120日間ですべて入れ替わります.
骨 幼児期では1年半,成長期2年未満,成人2年半,70歳以上は約3年で入れ替わります.

ということらしい。

養老孟司も言っていたが、1年経てば身体の中身で同じものは残っていないということだ。

身体を構成するものは全部変わっても、自分は自分。
結局そう思っているのは、自分の脳みそらしい。
しかし、その脳みそを構成している成分も1年で入れ替わる。

よく考えると、本当に不思議な事実。

細胞が入れ替わっても、考えていることは同じ。
昔の事も覚えている。

寝ているときに脳が消費する酸素量は、起きている時と同じらしい。
休んでいるのは意識であり、脳は寝ている時もずっと仕事をしている。

こう考えると、人間はどういう生き物かわからなくなる。
意識のあるのは2/3程度。
意識のないときの人間は動きはしないが、何かしているらしい。

それでも、この身体は自分の身体だとわかるのは、なぜだろう。
どうやって引き継がれるのだろう。

養老先生の問いは不思議だ。

| | 考えたこと | 22:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
Garfunkel
アメリカのドラマを見ていたら、懐かしい名前が出てきた。

ちょっとしたことで、脇役になってしまった人が自分の事を「ガーファンクル」、と言っていた。

ガーファンクルと言えば、「サイモンとガーファンクル」のガーファンクルだろう。
解散してだいぶ時間がたって、使われている。
これは、サイモンは頑張っているが、ガーファンクルはしょせん脇役だ、という認識が広がったからだろう。

サイモンとガーファンクルが「明日の架ける橋」をリリースしたのは1970年。
この曲は、ガーファンクルがリードボーカルだった。
あの透きとおったハイトーンはガーファンクルのものだ。
この当時は脇役のことを「ガーファンクル」とは言っていなかっただろう。

ドラマは2000年代。
さすがに、その時期になるとポール・サイモンの活躍の方が目立つ。
だから、脇役のことを「ガーファンクル」というようになったのではないか。

…と思って、Garfunkelを調べてみたが、俗語でも相棒とか仲間という意味しか出てこない。

言葉の意味がどんどん変わっていくのはいずこも同じ。

こういう言葉は時代とともになくなっていくんだろう。

ぼくには身近な言葉なんだが…。


| | 考えたこと | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
運と確率
ぼちぼち、この土日あたりから関西の私学の試験が始まる。
1月に1回~2回、2月に1回~2回、3月に1回くらいは実施される。

しかし、受験も様変わりした。
予備校や塾が入試成績を層別して難易度の順位を偏差値という形でつけた。
当時はまだ推薦やAO入試は少なかったので、一般入試だけで大学の順位がほぼ決まった。
それもこれも、センター入試のおかげ、というかセンター入試をやった結果だ。

偏差値が出ると、確率が出る。
だいたい、入試の前に、合格する確率がわかる。
そのために有力な模試をみんな受ける。
たくさんの生徒を集めて模試をやることで、予備校を代表とする受験産業が、大学の難易度のデーターを正確にする。

しかし、所詮確率は確率だ。
客観的に見ている。
合格率30%ということは、10回受けたら3回通るということだ。
この数字は、たくさんの受験生を対象にして成り立っている。

この、「たくさん」というのが確率の成り立つポイント。

実際に受ける受験生にとっては、あまり関係ない。
もちろん、合格確率は参考になるだろう。
しかし、一人ひとりの受験生には「運」の方を信じたい。
試験は「運」だ。
見たことのある問題が出たとか、ポカミスをしたとか、まぐれで当たったとかいうことがある。
まして、マークシートの問題ならより「運」が多くを占める。

だから、受験生諸君、運を信じて頑張ってほしい。


| | 考えたこと | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
世界に一つだけの花
この歌は大嫌いだ。

あまりにも短絡的でお気楽な歌詞だ。
悪気はないのだろうが、この歌を聞くと個性というのはそのままでよい、というイメージがある。
どうもおかしい。

生まれながらに個性があるのは当然だ。
しかし、それを個性としてみんな野放しにして育っていったら社会は成り立たない。
社会に適応するために、しつけがあるし、学校がある。
人間は本能のままでは滅んでしまうので、代理本能として、社会や文化を作った。
だから、民族によって異なるが、基本的には「型にはめる」ことが家庭や学校の役割だ。
そんなことは当たり前のはずだった。

ところが、それが当たり前だと思わない人たちが出てきた。
きっと戦後民主主義教育を取り違えたのだろう。

幼稚園で好きなようにして育てた子供が、小学校に入って授業中に走りまわる。
当たり前だろう。そう教えられたのだから。
自分の欲求に正直に生きることなど、集団生活でできるわけがない。
まして、それが個性などという馬鹿なことがあるはずがない。

 そうさ僕らも 世界に一つだけの花
 一人ひとり違う種を持つ その花を咲かせることだけに
 一生懸命になればいい

大間違いだと思う。

養老孟司が言っていた。
何年もかけて、型にはめて、それでも型からはみ出るのが個性だ、と。
型にはめるのが教育だろう。
必死に教育しても、どうしても残る部分が個性なのだ。

たかが歌だというなかれ。

こんな歌が流行るのは世も末だと思う。
もうだいぶ前だが…。



| | 考えたこと | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
今年の秋
今年の秋 正宗白鳥 中公文庫

正宗白鳥という人は、作家というより文士という存在。

小林秀雄が、正宗さんの晩年の雑文というものは、本当に素晴らしい、と言っていた。
「あの人は、書いたものを読み直しなどしないんだ、どうして書きっぱなしであんな文章が書けるかね。」
これだけ手放しで褒めるのも珍しい。

どうしても読みたくなって、アマゾンの中古を探した。

23編の随筆集。

どの随筆がどうということではない。
時代は昭和のはじめから三十年代。
戦争末期、正宗白鳥はペンクラブ会長だったが、その時に何もしなかったことが、ペンクラブの歴史を綺麗にしたということが書いてあった。

この人は書くことが自然だ。
何も考えずに書き始めているのではないか、と思わせる。

読んでみないとわからない。

最後に「文学生活の六十年」という講演録がある。
その中に、こういうことが書いてある。

「そうかといって、ドストエフスキーにしても、トルストイとしても、名作にかかわらず、しかし私の求めているものは、そこには出ていない。作りごとではなくて、もう一歩進んだ世界をなにがいったい自分に見せてくれるか。自分はここに偶然生まれた。生まれたくなくても、仕方がない生まれてきたんだから、ほんとうの人生というのはこれだというものを探がさねばならない。それでたくさんの人間を見、小説を読んだわけなんだが、一つの自分だけの人生がそこにできたかというと、それがいつも物足りない、物足りないと思うことは馬鹿なことで、人間はみなわからないことばかりだ。明日の日もわからないで生きているんで、小説などもそのときだけの慰めに読むものにすぎない、それでいいじゃないかと思いながら、いいじゃないかと思えないところが八十年を通してあって、今日に至ったんです。」

正宗白鳥らしい言葉。

この人には、文学に求めるものがあった。
でも、最後まで見つからなかった。

| | | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
己を知ること
己を知ることが、学問の目的だと大滝秀治が映画で言っていた。

自分はなぜこの世に生まれ、存在しているのか、それに答えるのが学問の努めだということだ。
どこかの寺の和尚が寅に言った一言。

小林秀雄も同じだ。

今の学問は研究すればよい。研究成果の本も出版社が出してくれる。研究など簡単なものだ。
昔の学者は研究して、己を知ることの答えを得なければならない。
なぜ生きているのか、人生とは何なのか、どう生きればいいのか…、聞かれたら答えられなければ、学者ではない。
その上、本は自分のお金で出版する。自分が生きている間に、本が出ることなどめったにない。
昔の学者は副業をしながら、お金を貯めて、それで出版していたという。
だから、今の学者は…と小林秀雄が言ったのが40年ほど前。

小林秀雄は当時の学問が、物理学に理想型を求めて、実験や理論に走り過ぎた、というような事を言っている。
本当はそういうものよりも、想像すること、感じることが大事、ということだ。
研究などたいしたことではない。
昔の事は、昔の人の気持ちになりきって、それで考えるということが必要、と言っている。

そういう学問の姿が、どこかに行ってしまった。

研究で競うから、誰もやっていない対象を探す。
誰もやっていないから、それを研究したら「初めて」という価値が少なくともつく。
しかし、それを研究するのは単に「誰もやっていない」というだけだ。
そういう理由で、重箱の隅をつつくような研究が増える。

そんなことよりも、自分で想像すること、感じることが大事ではないか。
たとえやり古されたようなテーマでも、自分が本当に興味を持つことを研究し、そして何かを想像し、感じることが必要とされているのではないか。

小林秀雄が「今の学者」と言ったのは40年前。
今の学者を見ていたら、彼がどう言ったか…。


| | 考えたこと | 22:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
Kodak
コダックが米連邦破産法の適用を申請したという。

130年以上の歴史を持ち、写真撮影にフィルムを導入して写真の大衆化を進めた米国の名門企業とのこと。

黄色い箱のフィルムだった。
サクラカラーが赤、富士フィルムが緑、コダックが黄色。
日本では昭和50年代あたり、カラーフィルムが当たり前になった頃、3つのメーカーが競っていた。
ここ一番の写真はコダックのフィルムを使ったものだ。

サクラカラーを作っていたコニカは、コニカミノルタになり、今はカメラ事業をソニーが引き継いでいる。
富士フィルムはフィルムから撤退し、化粧品やデジタルカメラ、事務機器等の会社になった。最近はサプリメントの宣伝もしている。
こちらは見事に変貌を遂げた。

コダックは、写真のデジタル化に対応するのが遅れ、今回の事態になった。

コダックのフィルムは発色がきれい、という評判があった。
スライド用のコダクローム、エクタクロームというブランドもあった。
ポール・サイモンの「僕のコダクローム」という歌があるくらいだ。

デジタルカメラの第一号は皮肉にもコダックが作った。

作った時点で、こういうカメラが普及すればフィルムはいらなくなり、現像、焼付、引き伸ばしという作業が根本的に変わることはわかっていたはずだ。
おそらく、130年の歴史がジャマをしたのだろう。
戦前の日本の軍艦と同じだ。
変化はいつの時代も嫌がられる。

ニューヨーク州のロチェスターはコダックの本社がある都市。
1980年代は6万人の社員がいたが、今は7000人とのこと。

こういうふうに企業は没落していく。
コニカも同じような道をたどった。

「強いものが生き残るのではない。変化するものが生き残るのだ。」という言葉が身にしみる。

これからも、このたぐいの話は出てくるだろう。

新聞やテレビもぼちぼち変わらないといけないのではないか。

ちょっと前の新聞に誰かが書いていたが、日本に民放は3つあればいい、という。
今の番組のレベルなら、ぼくは賛成だ。


| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
市民
市民というと、ナントカ市に住んでいる人、というふうに思う。
それはそれで正しいのだが、本来の「市民」という概念はそうではない。

「市民」は民主主義の概念である。
wikipediaでひくと、

「市民(しみん)は、政治的共同体の構成員で、主権(主に参政権)を持つ者。あるいは、構成員全員が主権者であることが前提となっている議論では、構成員を主権者として見たもの(現代社会について述べるときはこの意味合いのことが多い)。ここでいう政治的共同体とは、語源的には都市を指しているが(citizenとcityは同語源である)、現代では国家についていうことが多い。」

と書いてある。

要は国家の主権者が「市民」である。

民主主義国家における教育の目的の一つは、この「市民」を育てる、ということにあると思う。

まともな市民を育てないと、衆愚政治になるからだ。
実際、「古代ギリシアの衰退以降は「デモクラシー」の語は衆愚政治の意味で使われるようになった。」と書いてある。

主権者が愚かであっては、民主主義は機能しない。
民主主義というものを成立させるためには、「市民」が必要だ。

そのことを忘れてはいけない。

そういう意味で、今の教育を見直すべきだと思う。
教育だけではない。
メディアも見直すべきだ。

マトモな市民とはどういうものか。
正しいか、間違っているかが、ちゃんと判断できることだろう。
それくらい出来る、という人がいるだろうが、ではその判断は何に基づいているのか、それは信頼できるのか、そして自分の頭で考えたのか、と聞かれるとどうだろうか。

そういうことができる人ばかりなら、選挙のたびに投票率が半分もいかない、というようなことがなぜ起こるのだろうか。
ほとんどの選挙で投票率は40%程度ではないか。
これは、マトモな状態ではない。
つまり、「市民」が育っていないということだ。
それは、教育がうまく機能していないからだ。
メディアがちゃんと機能していないからだ。
くだらないバラエティばかりやっているからだ。

マトモな市民を育てないと、衆愚政治になるぞ。

もうなっているか…。



| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
まちづくり
今年の大河ドラマは平清盛。

神戸はその舞台として、いろいろなイベントを考えているらしい。
NHKを見ていると、まちづくりの専門家とアナウンサーが話していた。

市役所の観光課とか、旅行会社が出てくるのかと思うと、大学の教授が出てきた。

まちづくりが専門の教授がいるのか、とビックリする。
関係している学会が、日本ホスピタリティマネジメント学会、日本観光研究学会というようなもの。
大学の所属は、サービス産業学部 観光学科らしい。

最近いろんな大学に観光とかまちづくりとかいう学部や学科が出来ている。
全国の271の大学で観光学が学べるらしい。
日本観光研究学会は会員数900人ほどだから、そんなものか。

大学は全部で750くらいあるから、約1/3の大学で学べることになる。

観光学とは、「文化交流やビジネスの側面を持つ観光の研究を通じて、観光業で必要とされる知識や技術を学ぶ」ということが、解説のページに書いてある。

こんな学問は昔はなかった。
学会ができて、学部や学科が出来れば学問分野ができる、ということならもう確立した分野だろう。
しかし、観光というのは、経済や経営、法律などと並ぶものにはなりえない。
あまりにも範囲が広すぎるからだ。
観光資源の種類を分析し、どうやってプロモートするか、何と組み合わせるか、アクセスはどうか、誰をあるいはどこをターゲットにするか、といったことを総合的に分析し、それで方針を決めて行かなければならないと思う。

その手法はマーケティングだと思うが、そう簡単にはいかない。

東京ディズニーランドが成功しているのは、バイトも含んだ従業員の教育が一因だという。
結局現場を知らなければ、わからない。

現場というのは細部である。
真実は細部に宿るのである。

それは学問の世界ではない。
実業の世界なのだ。

橋下市長ではないが、学者の出る幕ではない。


| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
1969
由紀さおりが1969というアルバムを出している。

テレビで特集をやっていたのを見た。

ピンク・マティーニというジャズのオーケストラをバックに、編曲はそのオーケストラのリーダーであるトーマス・M・ローダーデールという人がやっている。
このトーマス・M・ローダーデールという人が由紀さおりを見出したらしい。

ちょっと前に、夜明けのスキャットがアメリカでブレイクしていると聞いたが、そういうことだったのか。

彼が歌謡曲を聞いて、その音楽に感動した、ということらしい。

1969年当時の歌謡曲が当時のジャズやボサノバと一緒に歌われている。

ブルー・ライト・ヨコハマ、 真夜中のボサ・ノバ、 さらば夏の日、パフ、いいじゃないの幸せならば、 夕月、夜明けのスキャット、マシュ・ケ・ナダ、イズ・ザット・オール・ゼア・イズ?、 私もあなたと泣いていい?、 わすれたいのに、季節の足音

懐かしい曲ばかりだ。

いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」、黛ジュンの「夕月」など、アメリカ人が聞いたらどう思うのだろう。

メロディアスな感じを、トーマス・M・ローダーデールが気に入ったとのこと。

ぼくは由紀さおりのファンだった。
この人は賢い。
いろんな才能を持っていると思う。
女優としても、コメディエンヌとしても、もちろん歌手としても上手だ。
でも、決定的に秀でた才能ではない。
この人にはいろんな才能が散りばめられている。
それをこの人は理解して、時代によって生かし、生き延びてきたのだと思う。
そして、還暦を越えて、アメリカ人に見出され、アメリカでCDを出し、公演もしたらしい。

めでたいことだ。

今日輸入版の1969を買った。


| | 考えたこと | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
明るい話題
最近暗いことばかり書いているような気がする。

何か明るい話題はないのか。
そう思ってネットで「明るい話題」という検索をすると、「明るい話題を探そう!」が一番に出てきた。

考えると当たり前だが、何か明るい話題はないか、と「明るい話題」と入れたワケで、結果が「明るい話題を探そう!」と出てくると拍子抜けする。

ここらあたりが、AI化してほしいところだなあ。

検索ワードを入れた人の気持ちを察して、内容が明るい話題を探すということができないか。

次は「元気が出るニュース」と入れてみたが、一番は「今日も元気が出るニュースがいっぱい」というサイトが出てくる。
去年の2月から更新がなく、元気も出ない。

どうもうまくいかないので、「最近の明るい話題」と入れてみた。
すると、「最近の明るい話題と言えば」というブログの記事が一番に出てきたが、2011年2月の女子サッカーのことが書いてあった。
まあ、最近の日本の明るい話題というと、スポーツ関係になるか。
なでしこジャパンはすごかったなあ。

いや、最近のぼくの期待の星、橋下市長への期待は明るい話題になっているはずだ、と「橋下改革 期待」と入れてみた。
一番に出たのが、「橋下改革への期待と不安」というブログの記事。
やっぱりダメか。

去年の東北の大震災以降、日本にはあまり明るい話題がない、ということか。

仕方がないから、2011年のニュースを調べてみた。
読売新聞の読者の投票で選んだもの。

一位が東日本大震災はしかたない。
二位がなでしこ、これは明るい話題だ。
三位以下、これは明るい、というものがどれだけあるか…。

1 東日本大震災、死者・不明者約2万人
2 サッカー「なでしこジャパン」世界一
3 福島第一原発事故で深刻な被害
4 大相撲で八百長発覚、春場所中止に
5 新首相に野田佳彦氏
6 スカイツリー「世界一」634メートルに到達
7 大型台風上陸相次ぎ記録的被害
8 大阪ダブル選、「都構想」で共闘の橋下氏が大阪市長、松井氏が府知事に初当選
9 テレビ放送が地デジに移行
10 節電の夏、37年ぶり電力使用制限令
11 電力不足により1都8県で計画停電実施
12 小笠原諸島と平泉が世界遺産に
13 円相場が戦後最高値
14 野田首相がTPP交渉参加を表明
15 島田紳助さん引退、暴力団と交際で
16 「タイガーマスク運動」広がる
17 古川さんが宇宙に5か月半滞在
18 プロ野球日本一にソフトバンク
19 焼き肉店の生肉食中毒で5人死亡
20 オウム真理教裁判が終結、死刑判決13人

まあ、橋下市長当選と紳助引退はぼくとしてはめでたいが、誰にとってもとは言えないだろう。
世界遺産はめでたいが、そう明るいわけでもない。

結局なでしこジャパンだけが、明るい話題と言えそうだ。

うーん、これはあまりよい状況とは言えないなあ…。

| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぼくらの時代
以前小田和正の「僕等の時代」という曲が好きだと書いた。
正確には、オフコースの曲だ。

なぜかあの歌の一節がずっと頭に残っている。

 もうそれ以上そこに 立ち止まらないで
 僕等の時代が 少しずつ今も動いている

 あなたの時代が 終わったわけでなく
 あなたが僕たちと 歩こうとしないだけ

この歌は、いつの時代でも若い人が抱く思いを歌っていると思う。
シングルB面の曲だったが、出だしのサビの部分からハイトーンで歌う、この歌はいい。

Youtubeにライブで歌うオフコースの動画があったが、もう鈴木康博はいなかった。

この曲は小田が鈴木の事を歌った歌ではないかと思う。

 あの頃に戻って やり直したいこと
 誰にでもそれぞれ 心のなかに

鈴木はきっと武道館で10日間のコンサートをやり、そこで自分の音楽と違うことを確信して脱退したのだろう。
もともとギター弾きで、どちらかというとフォーク調の曲が多かった鈴木は、小田の路線についていくのに疲れたのだと思う。

この後、小田はアメリカに行って、レコーディングするが鳴かず飛ばず。
小田には壮大な野望があったと思う。

そういう鈴木への思いを込めて、この曲を書いたのではないか。

去年の「クリスマスの約束」も、一昨年と同じく、若いミュージシャンたちを中心にした30分近いメドレーだったが、今年は鈴木と二人で何かやってほしい。

もう60歳を超えたのだから、笑ってあの頃のハナシをしてほしい。
どちらも口下手みたいに見えるから…。


| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
山口教授
北大の大学院の山口教授という人は、一躍有名になった。

日曜日の番組で橋下市長と討論をしているところをネットで見た。
最近は評判になったものは何でもネットで見られるから、録画する必要もない。
便利な時代になったものだ。

一方的だった。
テレビに出て、あれほど一方的にやられるのも珍しい。
すべて観念論で現実を知らない、ということでコテンパンにやられていた。

「それは学者のいうことで現実がわかってない」
「学者だから、そういうことを言うんですよ」
「現実を知ってますか」
「実際に見たことがあるんですか」
「そんなことは誰でも分かっている」
「それなら、どうして今こんな状態なのか」

そんなことを言われ、ぐうの音も出ない。
失礼な言い方だが、山口教授は典型的な学者だったと思う。

橋下市長に対する批判の本を書いているらしいが、こんな人が本を書いていいのか、と思う。
どうしても、現実を知らないと、的はずれな批判になる。
橋下市長が強いのは、知事時代に勉強して市政の現状を知っているからだ。

「それなら、どうしたいのか」

現実を知らないから、改革の案も出ない。

ボクシングで言えば、1ラウンド開始直後にノックアウトということだろう。

もちろん、学者がみんな山口教授みたいだとは言わない。
しかし、たくさんの学者が、橋下市長の言うとおりであろうとは思う。

大学の中にずっといて、現実の世界を知らないとどうしてもそうなってしまう。
まして、現実の政治を扱う学問であれば、現実を知らないといけない。
それも一番市民に近いところの政治の問題であるから、コテンパンになるのは仕方がない。
問題を知らない人が、答えに近づくような案が出せるわけがない。
自分の範疇にない問題に口を出してはいけない、という見本のようなものだった。

この人、政治家ならこれで政治生命が絶たれる、と思うのだが、北海道に帰って、また象牙の塔の中で教えるんだろうなあ。

だから、橋下市長は学者を批判していたのだろう。
批判本を書いているのだから、甘んじて受けるしかない。

もちろん、立派な人もいる。
しかし、大学の数が今や750校。
ぼくが生まれた昭和32年に4万人程度いた大学の先生は、今や17万人を超えた。

そりゃ、昔に比べると変なのもいっぱいいるわなあ…。


| | 考えたこと | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
震災に思う
1月17日は阪神大震災の日。

去年の東北の大震災もあって、今年はそちらの方への激励もされた。
今でも、朝の6時前に起きたあの地震のことは忘れられない。

中には地震の後、人災もあったと思う。
官僚機構の弊害もあったと思う。

しかし、もっと大きな災害がある。
今の年金だ。
1960年当時、若い人11人で65歳以上の人を一人支えていた。
今は3人ちょっとである。
制度は1960年あたりの数字で設計している。
それでお金が余り、厚生年金会館や国民宿舎、福祉施設などが建てられた。

こうなることは15年以上前からわかっていたことだ。
11人で支えてもらった一人と、3人ちょっとで支えてもらっている一人に、同じ年金制度を適用できるはずがない。
こういう状態が震災のように起こったなら、仕方がない。

しかし、どう考えても予測可能な事だ。
それをようやく何とかしようとしている。

政治家というのは、既得権者が四の五の言っても、未来を考えてちゃんと決断出来る人の事を言う。
みんな老人の票が欲しいから、年金制度改革に反対するひとばかりで、本当の政治家はいない。

これは震災などに劣らぬ人災だ。

若い人が気の毒だと思わないのか。

日本人は震災などが起こったときに、暴動も起こさず、たいしたものだ、と言われる。
それは美徳だと思う。
しかし、今の状況をみて、若い人が黙っているのが不思議である。
国民年金は払わない、という無言の抵抗をしている人はいるが、大多数は黙って払っていると思う。

その状態にあぐらをかいて、厚労省の犯罪的行為は続く。

これでいいのか。


| | 考えたこと | 00:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
人の役に立つ
人の役に立たない仕事とは何だろう。

犯罪的なものを除けば、そんなものはないだろう。
仕事というものが必要とされるのは、誰かの役に立つからだ。
だからお金を見返りとしてもらうことができる。

しかし、見た目でより人の役に立つ仕事というものがある。
それは「困っている人を助ける」という仕事だ。

「困っている人を助ける」仕事というと、福祉施設で働くというケースが多い。
確かに、そういう仕事をする人はえらいと思う。
なかなかそんな仕事に就くのは大変だから。

でも、そういう仕事に就かなかった人が、その人達のために何もしていないか、というとそんなことはない。

普通のサラリーマンになっても、会社が儲けていれば法人税を払う。
もちろん、所得税も自分で払う(というより、勝手に取られる)。
それらの税金で福祉が成り立っている。
教育にも、公務員にも税金が使われる。
国会議員も税金で生活している。

もちろん、その人達も自分の給料から税金を払っているが、忘れてはいけないのは、元になっているのは税金だ。

これらをまかなっているのは、民間企業とそこに勤めるサラリーマンがほとんどだ。
だから、民間企業のサラリーマンがいなければ、こんなことはできない。
それをよく理解することが必要だと思う。

民間企業の中でも、特に外貨を稼いでいる企業は貢献度が高い。
それらのお金を使って、社会保障をやっていた。

調べてみると、1980年には社会保障経費が一般歳出の27%だったが、2008年には48%まで増えている。

社会保障経費とは、医療や年金、介護、生活保護などの総経費だが、実質これらに半分の予算が使われているということだ。

ハナシがそれたが、これは大変なことではないか。

一般歳出の半分が、医療、年金、介護、生活保障の経費?

おまけに、これがどんどん増えていくのだ。
それが、高齢化社会だからなあ…。





| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
眠狂四郎
柴錬というと、言わずと知れた柴田錬三郎。

ぼくが読んだのは、眠狂四郎シリーズ、源氏九郎颯爽記、岡っ引きどぶ、英雄三国志あたり。
時代物ばかりだ。

映画やテレビでやっていた、眠狂四郎シリーズは知っている人が多いと思う。
1978年に亡くなっているから、ぼくが読んだのは亡くなる直前からか…。

この人はもちろん戦争を経験している。
だから当時の文壇の人たちには、何となくお上を信用しないという雰囲気があった。

それを表しているのが、眠狂四郎。
何ともいえない虚無感を醸し出している。
とても強い剣士で、生まれはバテレンとの混血で、放浪の生活をしている。
正義感を感じさせず、無慈悲ですらあるが、でも強い。

円月殺法という剣法で敵をやっつける。
なぜ、刀を回すのか、不思議だ。
たしか、下から上に回していたと思うが…。
回している間に、相手が催眠効果を与えるというような感じだった。
テレビでは田村正和のシリーズを見た記憶がある。

こういう一癖あるヒーローは、今は流行らないのだろう。
この時代、もっと熱血で前向きな正義漢が求められている。

でも、柴田錬三郎が眠狂四郎を書いた1950年代は、こういうヒーローの気分だった。

いつか読みなおそうと思っている。
置いてある文庫本を探そうかな。


| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
忘却の法則
肝心なことはすぐ忘れ、忘れたいことは容易に忘れない。

池波正太郎の剣客商売という小説で、主人公がこんなことを言っていた。

人間はものや出来事を記憶し、原則的にはそれを覚えている。
しかし、それを忘れないと、憶えることができない。
忘れる、ということは完全になくなることではない。
頭のどこかに入れておくことを忘れる、という。

だから、一度憶えたことを何かの時に思い出す事がある。
ああ、これはあの時のあれと同じことか…、というようなことだ。

それが記憶のメカニズムだと思う。

肝心なことは、というのは憶えなくてはいけないことをだろう。
忘れたいこと、というのは強烈なエピソードがあって、忘れたくても、忘れられないことだ。

憶えなければいけない、と思っている間は覚えられないという気がする。
「憶えなければいけないということ」を忘れた頃に憶えられる。
そんな気がする。

忘れても、それは何かの拍子に思い出す。
だから、忘れることを気にしないことだ。
忘れてもかまわない。

忘れよう、と思うのもよくない。
結局そういうことを覚えているのだ。

結局、忘れたいとか、憶えたいとか、ある年齢になったら余計なことは考えないことだろう。

人間は何一つ忘れない、思い出さないだけだ、ということが忘却の法則だ。

| | 考えたこと | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
国境はどこにある
SKY-FMというインターネットラジオのFM局のことはこないだ書いた。

この局はジャズ、ロック、ポップス、クラシック、サルサ、ボサノバ、JポップなどをほとんどCMなしでオンエアしている。
正確にはOn the Air ではなく、On the Internet というべきか。

Vocal smooth jazzというのを聞きながら、これを書いている。
こういうのは、考えるジャマにならないから、なかなかいい。

これ以外にもたくさん局はある。
聞きたい音楽のジャンルに合わせて選べば良い。
アメリカはもともとFM局がたくさんある国だから、インターネットのラジオもたくさんあるのか。

インターネットでこんな曲が聞けるというのは、まあ言えばネット環境があれば、BGMのために有線放送など契約する必要はないということだ。
その気になったら、録音もできる。
インターネットラジオ専用のタイマー録音とか、いろんな局を回って、ジャンル指定で録音できるソフトもできているようだ。

日本にもラジコというラジオ局がある。
ぼくのところからアクセスすると、朝日放送、毎日放送、ラジオ大阪、FMCocoro、FM802、FM大阪、KissFM、ラジオ関西、ラジオ日経という、本物のラジオで聞ける局だけが表示される。

アメリカの局が自由に聞けるのに、どうして日本のラジオ局はこうなるのか?
FM東京のホームページにアクセスしたら、放送が聞けるのかと思ったら、そうはなっていない。

どうも、IPアドレスで居住地を判断して、その居住地域で聞けるラジオ局を表示するというややこしい方法で局は選ばれているらしい。
抜け道はいろいろあるようだが、ややこしい。
どうしてこんなややこしい事をするのか?

どうも、地方局では、人気のあるオールナイトニッポンや人気DJの番組を買っていて、それを製作した局(ニッポン放送やFM東京など)で直接聞けてしまうと、地方局のスポンサーが離れてしまうから(当たり前)らしい。

要は電波の放送なら届かなかったのに、いまさらインターネットで世界中同じ状態になっても、困るということだ。

なるほどなあ。

理屈はわかるが、それがインターネットだから、仕方がないような気もする。

地方のラジオ局は、それなりに面白い放送を作ればいいのだが…。

今なら、DJの人気に頼らなくても、企画さえよければ、面白い番組を作れると思う。

| | 考えたこと | 21:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
人はパンのみにて…
新約聖書「マタイ伝」第4章に書いてある言葉。

「人はパンのみにて生くるに非ず」という。
その意味は、大辞泉によると、「人は物質的満足だけを目的として生きるものではない」ということだ。

長いこと、この言葉の具体的な意味を思いつかなかった。
具体的な意味とは、例えばこういうことだ、と言えるもの。

これは「何のために働くのか」という問いに対して、「お金のため」とか「家族を養うため」「生活するため」などの答えが出たときに言う言葉だと思う。

「人はパンのみにて生くるに非ず」

社会生活を営むのに必要なもの−お金−を儲ける、ということは、パンに相当する。
まさに物質的なもの、と言っていい。
それは必要なものだが、それだけで生きていけるというものではない…ここが難しい。
中には仕事は仕方なくやるもの、というふうに思う人もいる。
しかし、きっとそれだけではないと思う。

お金のために働くというのは当然のことで、それは改めて働く理由を尋ねる意図ではない、ということだ。

お金以外の理由を持っているか、何も考えていないか、という事を問っている。

みんなのために働きたいとか、社会の役に立ちたいとか、自分の力を試したいとか、答えは何でもよい。

要は「人はパンにみにて生くるに非ず」ということだ。
本当に社会に出て働けば、お金以外の目的を見つけざるを得ない。
また、それは仕事に真剣に取り組んでいると見つかるものだ。

人の役に立っているとか、何かのために生きるとか、そういう感覚。

キリストは、おそらくそういう事を言いたかったのではないかとぼくは思う。


| | 考えたこと | 01:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
過剰な自信
過剰な自信というのは要注意だ。

ある程度の自信は必要だが、それが過剰になると判断を間違う。
自分を疑う余裕がなければならない。

緊張する場面では、適度な緊張をしないといけないのだろう。
適度な緊張、というのは話し始めに緊張している、という事になる。
何かを話すとき、話す方と聞く方は一体である。
したがって、話し手が適度に緊張していると、聴衆も適度に緊張する。

亡くなった桂枝雀の理論に、「緊張の緩和が笑いを生む」というものがある。
ぼくはこれを信じているのだが、緊張がなければ、笑いも生まれない。
笑いは、聴衆と話し手の一体感を醸成する。
一回笑いを取れば、一気に聴衆との距離は近づき、話は成功に近づく。
だからこそ、適度な緊張がちょうどいい。
それが自然な姿だろう。

過剰な自信は、聴衆に、どれだけいい話をしてくれるのか、と思わせる。
要は自分でハードルを上げていることになる。

過剰な自信というのは、持つべきではない。

緊張しすぎて失敗する方が、過剰な自信で失敗するよりも罪が軽い。

緊張しすぎて失敗するのは、聴衆も許容してくれる。

しかし、ぼくらのような人前で話すことが商売ではない人間が、過剰な自信で失敗すると、聴衆は聞いて損をしたと思う。

謙譲の美徳と言うではないか。


| | 考えたこと | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
Lubuntu その2
Lubuntuをインストールして以来、古いPCを使っている。
なかなか快適だ。

システムのフォントを変えて、ナントカGothicにすると感じがいい。

リナックスは、システムを構成しているファイルの更新がしょっちゅうある。
アップデートマネージャーというのがあって、更新をチェックし、あればそれを一覧表示して、変更することができる。
これも、世界中で日々改良されているのだろう。

このLubuntuのバージョンは11.04である。
Ubuntuで11にすると、このPCでは動かなくなる。
しかし、Lubuntuなら大丈夫のようだ。

デスクトップの壁紙を変え、「ルックアンドフィールの設定」という画面で、ウィンドウの色やデザインを変えることもできる。
グーグルのクロームというブラウザを使うこともできるし、ファイアフォックスも使うことができる。

グーグルカレンダーやグーグルメール、グーグルドキュメントなどを使うのなら、これで十分だ。
日本語入力はMozcという、グーグル日本語変換が使える。
キーボード操作も、MS-IMEかAtokを選べる。

グーグルやSunが考えているように、すべてをインターネットの中でやる、と決めたらパソコンはブラウザだけで良いということだ。

この文章も、グーグルドキュメントで書いているし、テキストさえ打てればそれで問題ない。

オフィスで作った文書がグーグルメールに届く。
Word、Excel、PowerPointを持っていなくても、フリーソフトのオフィスで開けるファイルがほとんど。
世の中のほとんどの人は、そんなにややこしい機能を使っていない。
ちょっと体裁が変わっても、意味は伝わる。

リナックスというOS、いろんな種類ができて本当に便利になった。

非力なPCには非力なりに、強力なPCには高機能に…。


| | 考えたこと | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
マルサスの人口論
父の言っていたことで、耳に残っているのが、マルサスの人口論。

特にその中で、「人口は等比級数的に増えるが、食料は等差級数的にしか増えない」ということ。
どういうわけか、このことを何度か聞いた。

なぜ、マルサスの人口論のことをそんなに覚えていたのだろうか。

著作としては、1800年のものであり、すごく古い。
この本はダーウィンが進化論を生み出すヒントを提供した本。
それにしても、1927年生まれの父がどうして1800年の本の内容を覚えていたのか。

調べてみると、マルサスの初版人口論が日本語訳で出たのは1948年。
それなら、父が戦後の学生生活を送っている時に、ちょうどこの本が出たということになる。
父は経済学部だったから、そこでテキストで使われたのかもしれない。

調べてみると、なんと青空文庫にあった。
もう著作権が切れているから、ボランティアの方がアップしてくれているのだ。
これはいつか読もう。

そんなワケで「人口は等比級数的に増えるが、食料は等差級数的にしか増えない」という言葉はまだ耳に残っている。

等比級数とは、掛け算で増えていくということだ。
それに対して、等差級数とは、足し算で増えていくということ。
どうしても、どこかの時点で、食料の増え方が人口に追いつかない、ということになる。
したがって、食料が増えなくなったら、人口は抑制されるということ…だと思う。

このリクツ、よくできていると思う。

だから得意げに、等比級数、等差級数という言葉を使っていたのかもしれない。

おかげで、ぼくはこの2つの言葉を学校で習うよりも早く覚えた。



| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
風邪薬
風邪薬をのむと、眠たくなる。
特に、鼻水止め。

今日は朝から鼻水が出て、薬を飲んだ。

少しましになったので、映画館にMission Impossibleを見に行った。
薬を飲んでいたのを忘れてしまっていたのだ。

2回目の上映ギリギリに着いて、入って座って上映が始まり、導入のエピソードが済んだところから、寝てしまった。
後半のアクションシーンは見たが、何のことやらわからない。

テレビでやっている、ビルのぼりのところは見た。
すごいなあと思ったが、さすがにストーリーがわからないと、どうしようもない。

最後に、トム・クルーズがMission completeとさけんで、スイッチを切る場面があったが、そのスイッチを切ることに何の意味があるのか、何が達成されるのかわからないと、感激もない。

映画館で10分や15分程度は寝ることはあるが、さすがに半分くらい寝てしまうと、何がなんだかわからない。

来月、イタリア映画で、精神病をテーマにしたものがある。
2/18に封切り。

これは風邪薬を飲まずに見たい。

まあ、映画館で寝るのも気持ちのいいものなのだが…。

それなら、ちゃんと寝たほうがマシ。


| | 考えたこと | 21:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
イヤならやめればいい
当たり前のことだ。

イヤならやめればいい。

自分で決めて入ってきたのだ。
サラリーマンにはいつでもやめる自由がある。
それだけは保証されている。
その権利を行使すればよい。

その権利を行使せず、文句を言っていても仕方がない。

ある程度はわかるが、一線を越えて文句を言っても仕方がない。

自分で選んだのだから、諦めてそれを受け入れるか、自分で努力して変えようとするしかない。
変えようとしても、誰も自分についてこないということなら、それは諦めるしかない。

諦めて自分だけでも頑張るのか、それとも努力を放棄してそのまま残るのか、それとも、辞めるのか、その3つに一つの選択だ。
人に文句ばかり言っていても仕方がない。

そんな組織に入ってしまった自分の責任はどこに行ったのか。

きついことを言うようだが、自分で頑張らないと組織は変わらない。
そういう人がたくさんいて、初めて変わる。
それが無理だと思ったら、決断するしかない。

往々にして、変わることは既得権を犯すことになる。
だから、変わらない方にエネルギーは流れる。

だから、自分で頑張らず、変わらないとぼやくなら、やめればいいとしか言いようがない。


| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
2050年の日本
日本は少子高齢化だというが、どれくらいのペースで進むのだろうか。

65歳以上を高齢者と呼ぶ(以前は60歳だったが)とすると、現在は1億2000万人の人口で、だいたい3000万人が高齢者になる。
2050年には人口が9000万人に減って、高齢者は相変わらず3000万人。
つまり、今は4人に一人が高齢者だが、2050年には3人に一人となる。

しかし、実際に働ける人何人で高齢者を支えていくのかをみると、エライことになる。
実際に働ける人を15歳~64歳とするらしい。これを生産年齢人口という。
この数で高齢者を割ると、今は3人に一人の割合だが、2050年には1.7人に一人ということになる。

15歳からを生産年齢人口にしているのは、ちょっと無理があると思うが、高校生でもアルバイトをしている生徒が多い、ということなのかもしれない。
しかし、いくら何でも生産年齢人口は20歳くらいからだと思うので、実際には2050年にはだいぶ1に近い数字になるだろう。

働く人が一人に高齢者が一人。
もちろん、男女問わず、15歳から64歳までの人が働いて、それで高齢者一人に若い人が一人。
若いといっても、60歳を超えても若いのだが…。
どれだけ年金がかかるかはわからないが、1対1で養うとすると、かなりお金がいるだろう。
これは大変だ…というか、今の制度では無理だろう。
いますぐ何とかしないといけない。

一方、世界の人口は今の70億人から90億人になるらしい。

主にアジアとアフリカが増えるとのことだが、今の人口が3割増えるとどうなるのだろうか。
当然、石油、レアメタル、水、食料など、有限のものは値段が上がるだろう。
食料は未耕作地を開拓して、収穫を増やすことはできるかもしれない。
単位面積あたりの収穫を増やすような遺伝子組み換えもある。
しかし、いずれにせよ人口増には追いつかないだろう。

飽食のぼくらが、食生活の変更を余儀なくされるかもしれない。

2050年というと、おそらくぼくは生きていない。
今の30代、40代くらいがどうなるかというところ。

2050年に向けて、今からちゃんとしておかないと、困ったことになると思う。

思うのだが…。

| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
為替レート
正月にテレビでスイスの事をやっていた。

プライベートバンクという個人資産の運用専門の銀行があって、世界のお金の20%以上が集まっているという。
スイスはEUに参加していないから、まだスイスフランというお金がある。
ユーロ危機で、スイスフランが高くなり、今困っているらしい。
個人は国境を出て、ドイツなどの外国で日用品を買う。
毎朝、為替レートをチェックして買い物をするらしい。
スイス国内で買うよりもだいぶ安くなる。

同じリクツで言えば、日本もそのはずだ。
これだけ円高でユーロ安だから、ヨーロッパからの輸入品は安くなるハズだが、そんなに変わらないような気がする。
実際に外国に行かないと、円高のメリットは享受できない。

アメリカの品物もアウトレットなどでは安くなっているが、円高を享受できるほど安くならない。
為替のリスクヘッジのために、いろんな手を使っているから、ということか。
国内ではなかなか安くならない。

だから、スイスでも国外に出かけていくのか。
残念ながら、日本では電車で海外に出て行ったり、パスポートなしで簡単に出ることもできない。

島国のデメリットだ。

この為替レートでお金の価値が増えたり減ったりする。

今の円高は、ドルとユーロが怪しいから、一時的に通貨が円に避難しているということらしい。

どんどん世界は狭くなっているが、まだ国はなくならない。

「エントロピーは増大する」という原理に従うと、国境もなくなって、世界中同じような状態になるはずだが、それには無限の時間がかかる。

しかし、世界を統一できるとしたら、お金の力かもしれない。
もうすでに、国の意思とは関係なく、お金は動いている。

ひょっとしたら、人間の発明で一番のものは「お金」かもしれない。


| | 考えたこと | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
フーテンの寅
「男はつらいよ」を見ていたら、次男が寅を見て、こいつはどういう生活をしているのか?と聞く。

普段は旅から旅への暮らしだ。
どこへ泊まるのか。
安い旅館だ。
どうやって金を稼ぐのか。
テキ屋をしている。
テキ屋とはなにか。
祭りや縁日でいろんなモノを売っている人だ。
それはセールスか。
そうとも言える。
品物はどこから仕入れるのか。
土地土地に元締めがいて、そこから仕入れると思う。
それは商売になるのか。
まあ、ヤクザな商売だ。
寅はヤクザなのか。
ヤクザと言っても、暴力団のヤクザではない。
ということは、チンピラか。
そうではない。昔はちゃんとしたヤクザもいた。
それはどういうものか。
うーん、それは説明しにくい。

といった会話になった。

フーテンの寅も、もう理解が難しい時代になった。

ヤクザ=暴力団ではない、ということや、テキ屋という商売の成り立ちなど、物語の前提条件がわからない。

それでも、見ていて面白いと思えれば、自然とわかってくるのだが…。


| | 考えたこと | 22:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
西洋の結婚式
西洋の結婚式では、来ているお客さんに牧師が語りかける。

「この結婚に異議のあるものは、今申し出なさい。さもなくば、永遠に沈黙を。」

よくよく考えてみると、この言葉はかなりシビアな言葉だ。
異議のあるものが申し出たら、どうするんだろうか。

そういえば、そういう場面もドラマで見たことがある。
花嫁の友達が、異議ありと言って、花婿の悪事をバラすという場面。

そういう機会を与える、ということが大事なのだろう。

今言わないと、もう言う時はないよ、ということだ。
結婚してからは、黙っておきなさいという「永遠の沈黙を」という言葉も重い。

これも、基本的には神との契約だろう。

「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」

これも、厳しい言葉だ。
そう簡単に誓うことはできないだろう。
何が起こるか、わからないからだ。

こういう契約関係で結婚するから、離婚が多いのかもしれない。
裏切りは配偶者が信じられないだけでなく、神との契約も破ることになるからだ。

その点、日本式は楽だ。
自分で誓いの言葉を読んで、玉串を捧げる。
その時に、神主が何か言うが、「この結婚に異議のあるものは、今申し出なさい」などとは言わない。
神さんと自分の契約、という感じではない。(実際はそうなのだと思うが…)
「はらいたまえ」などと言う。
これは借金を返せ、という意味ではない。

日本で挙げる西洋の式の時に、「異議のあるものは…」という言葉は飛ばしている事も多いのではないか。
あまり聞いたことはないような…。

だから、やっぱり一神教の国は厳しいのだ。

所詮、ぼくらは多神教の民族で、神さんもいい加減なものだ、と思っているのだろう。

みんなで酒盛りするような神さんだからなあ。


| | 考えたこと | 12:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
Lubuntu
古いデスクトップパソコンはペンティアムでメモリが512MBという仕様。

それにUbuntuを入れると、さすがに動きが遅い。

正月に帰ってきた長男が、Ubuntuマガジンという本を持っていて、それで調べると非力なマシンでも動くUbuntuがあるということらしい。
その名をLubuntuという。LightなUbuntuということだろう。

そういうわけで、そのライト版をインストールして使うことにした。

無事今までのものをすべて消して、インストールが完了した。

長男が、途中で何かややこしいコマンドを打っていたので、なにをしているのか聞いたところ、日本語環境を整えているとのこと。
見ると、トップディレクトリにはLubuntuしかなく、230GBの空きがある。

ついに、このお古のパソコンも生まれ変わった。
2012.1.2。
Windows XPの残骸は全て消して、Ubuntuの重たいのも全て消して、1からやり直しになった。

けっこう軽々と動き、使い勝手もよい。

使うのは、インターネットとテキストファイル程度だが、今のウィンドウズならもう使えないマシンが、Lubuntuで使えるバソコンになる。

必要なら、オフィス互換ソフトも入れられるし、MP3プレーヤーもある。

これは使わない手はないと思う。



| | 考えたこと | 20:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
元旦雑感
1月1日というのは、国民の祝日。

2日、3日というのは、暦の上では何でもない。普通の日に、慣例で休んでいるだけだ。
ローソンやブックオフ、ドトール、ダイエーなど、元旦から営業している店は多い。
そのおかげで、便利になったが、正月情緒はなくなった。

昼前に年賀状が届いた。
年齢がいくと、定年も近づいてくる。
何人かの先輩は定年後の仕事も終える、という状況だ。
年賀状に書かれた一言、ふた言の言葉でそれがわかる。

元旦のテレビはどこもレギュラーの番組の特番みたいになった。
そのほうが安くあがるんだろう。
寄席の番組も減った。
みんなバラエティになった。
どのテレビを見ても、出てくる人は同じようなもの。

昼過ぎに近所の神社に初詣に行ったら、お参りの人が神社の外まで列を作っていた。
こんな光景は初めて見た。
みんな神頼みの時代なんだろうか…。
毎年おみくじを引く。
去年のおみくじを返して、今年も引いたら、1番が出た。
1番は大吉。今年は春から縁起がいい。

今年はおみくじのように縁起がよければいいのだが…。

悪化しそうな事はいくつも挙げられるが、よくなりそうなことは思いつかない。

でも、まだまだ日本にはいいところがある。

期待して2012年の一日目を終えよう。


| | 考えたこと | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
港町ブルース
さっき紅白が終わったところ。

今年は震災の関連が多かった。
まあ、それはそうだろう。
まだまだ復興の道は遠い。

その中で出色の選曲だったのは、森進一。
港町ブルースを歌った。
宮古、釜石、気仙沼が出てくる。

この歌は1969年に出た。
昭和44年。ぼくが小学校6年。とにかくよく聞いた。

カレッジフォークが出はじめの頃。
森山良子が「禁じられた恋」を歌った。

まだまだシンガーソングライターも、ニューミュージックも影も形もないころだ。

森進一の声は、今でこそ聞きなれたが、当時はけったいな歌手だと思っていた。
美声ではない。しかし、あのちょっと歌詞をずらして歌う唱法と相まって、耳に残った。

 背伸びしてみる海峡を 今日も汽笛が遠ざかる
 あなたにあげた夜を返して
 港 港函館 通り雨

今日聞いたのがおおかた40年ぶり。
40年経っても、歌いだしの歌詞は出てくる。
さすがミリオンセラーの曲だ。

あの声で歌手になろうと思った森進一もえらいが、それを歌手にしたナベプロもえらい。

後に襟裳岬を歌ってちょっと路線を変えるが、ド演歌の全盛期。
森進一の代表的な曲だ。

こういう曲は、ぼくらの身体に刷り込まれている。

いい曲を聞いた年越しだった。

2012年もよろしくお願いします。
| | 音楽 | 01:06 | comments(0) | trackbacks(0) |