考えたこと2

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児童相談所
児童相談所は、Wikipediaによると「児童福祉法第12条に基づき、各都道府県に設けられた児童福祉の専門機関。児相と略称される。すべての都道府県および政令指定都市に最低1以上の児童相談所が設置されている」という組織。

「国民はすべからく、児童虐待を受けたと思われる児童を発見した際は、速やかに市町村、福祉事務所または児童相談所のいずれかに通告しなければならない」と法律で定められているらしい。

しかし、昨今残念ながら虐待に対応するノウハウや専門性が低く、役所仕事になってしまって、事故が防げないことがある。
こないだのニュースでも、何度も児童相談所に保護を求めていた中2の男子が自殺を図り、寝たきりになっていたが亡くなった。

痛ましいことである。
最近家庭内暴力の事件が増えて、どうも児童相談所の機能が果たされていないと思うことが多い。
まあ、人が足りないのだろう。
法律も整備しないといけないだろうし、人も専門性を持った人を入れないといけない、ということだ。

それでも、当時児童相談所に直接保護を求めていた小学生が、保護を見送られて死亡というのはどういうことだろう。
児童相談所は「親の承諾なしに強制的に子供を保護する権限があったが「急迫した状況ではない」と判断して保護を見送っていた。」らしい。

よくアメリカのドラマを見ていると、福祉局かどこかの役人が来て、子供を連れて行くという場面がでてくる。
親が虐待を疑われていたりすると、即座に連れて行ってしまう。
どちらかというと、ドラマではそれを防ぐために関係者が動くということが多いが、日本ほど親の親権を重視していないように思う。

法律的には2012年に、虐待する親への措置として、親権を無期限に剥奪する「親権喪失」に加え、2年以内という期限つきで親権を停止させる親権停止制度も新設されたという。
しかし、それを厳格に運用していないのだろう。

どちらかというと、事なかれ主義でやるのが「役所仕事」。

ぼちぼちその考えを変えないといけないのではないか。
専門家などがいなくても、小学生が保護を求めてきたら、とりあえず保護をするべきだ。

所長は「我々が関わってからは関係改善がみられたので、職権保護をしなければならないような急迫した状況ではなかった。対応は間違っていなかった」と言っている。
それはそうだったのかもしれないが、実際自殺してしまったらどうしようもない。

もっと法律にこういう場合は保護する、という規定を盛り込むべきだ。
そして、役所の裁量で処理することを減らさないと、いつまで経っても「役所仕事」は無くならないと思う。


| | 考えたこと | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
神山町
消費者庁が徳島に移転するという案が出ている。
それも、徳島県の神山町が候補ということだ。
河野消費者担当相が乗り気だという。
にわかに徳島県神山町がスポットを浴びた。

毎日新聞によると、「神山町は自然が豊かなうえにインターネット環境が充実しているため、首都圏のIT企業などが2010年ごろから業務の一部を「サテライトオフィス」として移転しており、これまでに十数社が進出している。」とのこと。

文化庁の京都移転も決まりそうだし、省庁の移転が動き出した感がある。
地方はどんどん人口が減り、限界集落化していくから、それを食い止めようと思うと、何らかの機能を持たさないといけない。
省庁の移転というのは、限界集落化を防ぐという意味では妙案だ。

徳島新聞の社説では賛成の意見を書いている。
しかし、共産党日弁連は消費者庁の機能が果たしにくくなるということで反対している。

ま、今あるモノを移すとなると賛否両論あるだろう。
受け入れ側は地方創生という看板を上げているのなら、移すべきだと言うし、今そこにあることが便利だという団体は反対するに決まっている。

もともと、地方創生で出てきた役所移転の話だ。
不便になるのはわかっていたことだろう。
それでも、地方を活性化するためには民間に頼っていてはダメだということで出てきた案だと思う。

基本的には、東京に集中したほうが便利だ。
ITを使えば、どこでも仕事できる、というのはよく言われる。
でも、そういう時に引き合いに出されるのはシリコンバレー。
どうして、コンピューターの関係者が集まっているのか、ということだ。
やっぱり肝心なことはテレビ会議やIT経由ではやりにくい。
顔を見てやらないといけない。
どれだけ、そういう機能が消費者庁に必要か、ということだろう。

しかし、徳島市ではなくて、神山町というのがなあ…。

どうも、このままいくと、東京にも機能を残して出張所を作るというような話になって、そちらが結局生き残るという形だけの移転になりそうな気もする。
それなら最初からやらないほうがマシだろう。

やるなら本気でやる、やめるならスパッとやめる、で無駄なお金は使わないでほしいと切に願う。

| | 考えたこと | 21:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
6500万年前の隕石
6500万年前というと、大変な年だ。
それまで地球上をわが物顔で歩いていた恐竜が滅んだ。
これは、大きな隕石の衝突によるものだと言われている。
実際、地層を調べるとその年代に衝突がもたらしたと思われる物質がある。

広島に落ちた原爆の10億倍のエネルギーを生んだ衝突は、メキシコのユカタン半島に跡が残っているらしい。
今まで石油絡みで調査できなかったこのクレーターを、今回テキサス大学が研究する費用が出たとのこと。
海底1.5キロを掘削する。

恐竜たちを滅ぼした跡はどんなふうに残っているんだろうか。
衝突したのは1箇所だが、その影響は世界中に広がった。
どんなことが起こったかはまだ解明されていない。
おそらく、地球規模での天候変動が起こり、海中の生き物も、陸上の生き物もそのほとんどが絶滅した。
どんな修羅場が生じたのだろう。

隕石は太陽系の中を飛び回っている。
天文学者たちが見張っているが、衝突するときは衝突するんだろう。
恐竜が絶滅したように、人類も絶滅するだろうか。
するだろうなあ。
まあ、それまで人類が生きていたらの話だが…。

宇宙で隕石が惑星に当たる確率がどれほどのものなのか、わからない。
それは、かなり小さな確率だろうと思う。
その証拠に、直近では6500万年前に1回あっただけだ。

でも、2回目がいつ来るかは謎だ。
太陽の裏側の見えないところから飛んで来るかもしれない。

神さまの思し召しということか…。

| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
保育所問題
保育所の問題が取沙汰されているが、なかに説得力のある記事があった。

これを書いたブロガーはフリーの麻酔科医だが、保育所問題にも辛口のコメントをしているとのこと。
要は、認可を受けた保育所に補助金を出しているのだが、その補助金が児童一人あたり約20万円/月になり(0歳児なら月3〜40万円という試算もあるとのこと)、膨大な補助金が出ているのに、一方で無認可の保育園は放置されており、「認可/無認可」の格差が放置されていることが問題だという。

その上、認可保育園の合格基準が不明瞭であり、「認可保育園合格者の「収入や労働時間の偽装(特に自営業)」「偽装離婚」「偽装うつ病」「偽装児童虐待」「市会議員の口利き」といった噂はオンライン・オフラインを問わず渦巻いている。その結果、「保育園落ちた日本死ね!」というブログ記事が国会答弁で取り上げられたりするが、「東大落ちた、日本死ね!」というブログ記事は見かけない。」と書かれている。
要は、基準が不明確で落ちても納得できないから、「日本死ね!」という気持ちになる、ということだ。

今の国策を「ざっくり言って、子供が1学年約100万人いて、月20万の補助金で20万人分の認可保育園を作って、役所がテキトーに選んだ20万人だけ救って、後は放置しているのが現状」という。
したがって、一旦得た保育枠を占拠したがる家庭が増えるのも当たり前だ。
要は役所が恣意的に決めた子供だけが保育園に入れて、それ以外はほったらかし、というのが現状。
そこにかかるコストに不平等がある。
そうなると、納得できない、という気持ちも生まれるのは当然。
共産党や社民党は格差是正をずっと言ってきたのだから、どうしてここを突っ込まないんだろうか。
今の厚労省のやっている制度を是としているから、待機児童が減らないのではないか。

したがって、ガラリと考え方を変えて、保育バウチャーの制度を入れるべき、という。
そのために、規制緩和を行うのだ。

「保育園も規制緩和して「認可園への補助金をカットして、すべてを等しく無認可保育園にして、保育料はコスト相当(0才20万、1〜2才15万、3〜6才12万など)にする代わり、全ての子供に月4〜5万の児童手当(あるいはクーポン)を配る」ことを私は提案したい。これならばすべての子どもに平等だし、ムダに独占したがる家庭も減って待機児童もなくなるはずだ。」

要は保育事業を民間に移行するということだろう。
バウチャーというのは、実際にそこを利用する本人を補助し、そのお金を本人が望むところに使う制度のことだ。
つまり、保育所には補助しないという制度になる。
0歳〜5歳の子供の人数に応じて、4〜5万円を補助するのだ。

いい考えだと思う。
今現在、潜在保育士は70万人程度いて、不足している保育士が7万人程度らしい。
おまけに、それだけ保育園に子供を預けたい人がいるのに、保育所が足りない。
自由競争であれば、需要過多・供給不足の状態であり、それなら保育士の給料は上がるはずだ。
それが上がらないのは許認可で守られているからだろう。
給料が安い割に、仕事がきついから、辞める人が増える。
だから、潜在保育士が70万人もいるんだろう。

ぼくが行っていた大学に一緒に設置されていた短大では幼児教育学科をやっていた。
定員は200人程度だったが、資格を取った学生は、毎年幼稚園、保育園に就職が決まる。
教育が行き届いているから、決まるというのは本当だと思うが、それでも毎年ほぼ100%で決まるのが不思議だった。
地域の幼稚園、保育園がどんどん増え続けているのならともかく、どちらかというと少子化で減っているのに毎年毎年就職が決まる。
これはどんどん辞めている証拠ではないか、と思ったものだ。
まさに、その通りなんだと思う。

記事の最後の方に出てくるが、保育園の経営母体の多くは社会福祉法人である。
筆者はこう書く。

「日本ではイメージ的に「福祉法人やNPO≒非営利≒善」ということになっているが、その経理や人事制度には不透明な部分が多い。むしろ、「株式会社≒金儲け≒悪」とされる株式会社の方が、「損したくない」という株主の厳しいチェックが入るので、とんでもない不祥事が防げる…というのが、数多くの経営母体の違う病院と長年交渉してきた私の実感である。」

何度か書いているが、ぼくの学校法人の経験からも、同じことが言える。

つまり、「税金を児童手当としてダイレクトに各々の家庭に支払う」ことは社会福祉法人の「医療や福祉を名目に甘い汁を吸う人々」の不正を防ぐためにも有効なんだと思う。
どこか特区を設けてやってみるべきだ。
そういう社会科学的な実験が、日本の役所の認可をめぐる行政に欠けている。

おそらく、既得権を持った業界団体の猛反対にあうんだろうが、そういうところにメスをいれなければ、日本は良くならないと思う。
大学の補助金を削ってでも、保育所に投資すべきだ。

教育投資においては、幼児教育が最も投資効率が高いというのはOECDの結果でも明らかなんだから。

「保育所問題の本質は不足ではなく、硬直化した「認可/無認可」の格差や、「役所の審査に合格した家庭のみを税金で助ける」という「市場や価格を無視した、社会主義的配分システム」である。解決方法は「認可保育園を増やす」ことではなく、格差や規制を解消して保育サービスを多様化・流動化させて、マーケットを活用した適正な分配を促すことである。」

まことに、明快な解決策だと思う。


| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
ベタ
日本語俗語辞典によると、ベタとは「もともと「そのまま」という意味で使われた言葉である。ここから「特別でない」「ありきたり」といった意味を持つようになる(ベタ記事のベタはこの意)。更に「ありきたり」という意味から派生して「面白くない」といった意味でも使われる。ちなみに楽屋言葉の『べたネタ』とは特に面白みのないありきたりなネタ(関西芸人がツッコミで使う「ベタやなあ」はここからきている)、『ベタな客』とは大笑いするといった感情をあらわすことのない、おとなしい客のことをいう。」とある。

どちらかというと、ベタな芸とか、ベタなネタ、というのはあまり褒め言葉では使わない。
いつもの、おなじみのギャグ、というような感じだ。
吉本新喜劇でいうと、古くは平参平や岡八郎がやっていた、出てきたらこのギャグをやる、というパターン。
それをやったら、拍手が出る。
最近なら、池乃めだかが、さんざんやられておいて、「今日はこのくらいにしといたろ」と言ってみんながコケるギャグなどがそうだ。
あ、やった、やった、ということで、見ている方は拍手する。
見ている方も、やるのがわかっていて、待っている感じだ。

若いころは、ベタなネタや、と言って本来の笑いと分けていた感じがある。
やっぱり、新しいネタが面白い。
若い漫才コンビが、やる気満々で作るネタはほんとに面白い。
チュートリアルやフットボールアワーのシチュエーションコントなどは、シュールな面白さがある。

でも、年をとるとともにベタなネタが面白くなってきた。
松竹のベテラン漫才コンビ、酒井くにお・とおるとか、横山たかし・ひろしなど。

「ここで笑わないと、もう笑うとこないよ」
「大金持ちのお坊ちゃまじゃ」

聞いたことがあるだろう。
何十年と同じパターン。
でも、風月に耐えて残るギャグは残る。

いつも寝るときに漫才を聞いているのだが、最近はベタなものがよくなった。
安心感がある。

これも加齢現象かもしれない。

| | 考えたこと | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
スマホ世代
今の若い人たちはスマホの方がパソコンより得意になってきたらしい。

それ自体は別にかまわないが、職場で困ったことになっている。
数年前の新入生から、パソコンのタイピングが片手でしかできない人が増えたとのこと。

大学は最近までノートパソコンを買わせていたが、パソコンの世帯普及率が上がり、ブロードバンドも一般的になって、大学推奨のパソコンを買わせないところも増えてきた。
そこには、高校までで情報教育がなされている、ということもあった。
しかし、実態は情報の授業が入試に役立たないという理由で、実質的に履修漏れしていたり、そもそも情報の授業を教える先生がいない、ということでやれていないという状況だ。
中高が文科省が言うとおりにやっていない一方で、大学はもう済ませているはず、という考えで授業を必修でなくしたり、ノートパソコンを買わせないというような状況になった。

そのつけが回ってきている。
今の25歳から上くらいは、まだ中高でスマホがなく、携帯電話では今ひとつコミュニケーションが取りにくいので、パソコンのキーボードを触らざるを得なかった世代。

しかし、そこから10〜20代前半はスマホネィティブだ。
フリック入力も現れ、通信アプリもどんどん進化した。

記事によると、「東京大学の橋元良明教授による15年の調査で、ネットをする際に「モバイル端末(スマホか携帯)だけ」を利用する人は10代で33.6%、20代で30.1%もいた。「若者はスマホで多くの用が足りてしまうため」とみている。
 日本の若者のパソコン離れが米国などより進んでいることを示す調査結果もあり、企業にも影響が広がり始めている。NEC子会社のNECネクサソリューションズ(東京・港)は昨春、新入社員向けにタイピングの研修を始めた。「新人のタイピング速度が遅くなっている」という社内の声がきっかけだった。」とのことだ。

アメリカはタイプの文化があり、なかなかスマホにはいかないだろう。
教育用のクロームブックという安価な選択肢もある。
だいいち、ぼくが見たアメリカ人はあまりテキストメールを使わない。
ボイスメールを使う。
その方がニュアンスも伝わるからだろう。
打たなくても済むし…。

日本では、パソコンでワードの使い方がわからないとか、コピペのやり方がわからないとか、半角変換のキーがわからないとかいう状況になっている。

そう簡単には企業のPCはなくならないと思う。

若者の間にデジタル・デバイドが起こっている。

当分は、やっぱりパソコンが使えたほうがいいぞ。


| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
プラス思考
こないだテレビでやっていた。プラス思考の実験。
目隠しをしてバスケットボールをゴールに投げ、失敗しても成功しても回りの人は歓声を上げる。
そうしておいて、今度は目隠しなしで投げる。
そうすると、何も無しで投げた時よりも、歓声を受けた後で投げたほうがゴールに入る率が上がる、という結果になるらしい。

アメリカ人の心理実験は面白い。
目隠しして投げているのだから、入ったか入らないかはわからないが、歓声を聞いたらいい気分になる。
だから、普通に投げる時もきっと入ると思えるのだろう。
プラス思考を持つことは大事だ、という結論。

まあ、実験の方法には異論があるかもしれないが、そういう結果は予測できる。
こういうことを、たくさんの人を対象にやるところがスゴイ。

日本人なら、何時間練習して、どうなる、という実験をするんだろう。
毎日1時間練習して、3日目、5日目という具合にテストしていって、練習量が多いと入る、という結果を得る。
だから、練習は大事だ、ということになる。
根性を大事にする国だからだ。

でも、アメリカ人はそれを当たり前だと思っているんだろう。
だから、練習以外の部分で差がつくのは何かと考える。
実際、番狂わせとか、本番に強いとかいう状況はよく見る。
どうしてそういうことが起こるか、ということだ。

そうなると、プラス思考というものが出てくる。
ポジティブに考えるほうが、成功しやすいということになる。
そのうち、脳や筋肉の分析もして、ポジティブに考えると、余計な緊張がなくなるからだとかいう理論も出てきそうな気がする。
それは経験的にわかっていることでもある。

アメリカはオリンピックにもメンタルコーチがついてくるという。
たしか、五郎丸選手のメンタルコーチもアメリカの大学院を出ていたはず。

そういう方面はアメリカが強い。
それは、心理学を科学だと考えているからだろう。
誰がやっても同じ結果になる、という科学的な再現性を持った心理実験。

こういうのは日本にはなかなか広まらないなあ…。

| | 考えたこと | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカの入試
日本のAO入試は問題が多い。
昔、入試についての本を沢山書いている和田秀樹が記事を書いている。

ぼくの理解では、成績下位の大学では、どんどんAO入試を増やして、志願者を集めていると思う。
推薦入試と違って、AO入試は一般入試に分類されるからだ。
推薦は、入学者全体の半分以下という文科省のルールがあるので、ペーパーテストの一般入試で受験生が確保できない大学は、AO入試で取る人を増やすしかない。
それが、高校3年生で受験勉強をしたくない受験生のニーズと合致して、負の連鎖が起こる。
今や成績中位の大学でも、18歳人口の減少に伴ってそういう入試をやろうとしている。

そんな中で、2020年からの入試制度の改革だ。
中教審はすべての大学にAO入試を導入するように要求しているという。
いったいどういう理由なのか、わけがわからない。

日本でAO入試を最初にやったのは、慶応大学の湘南キャンパス。
この時は頑張る学生を選抜するという意図があった。
人物重視、というカッコイイ言葉で隠しているが、これは客観テストを重視しないということだ。
より主観的な評価になる。
主観的ということは、選ぶ人間の考えに左右されやすいということだ。

AO入試の実績があるのは、アメリカ。
しかし、SATという大学進学適性試験という筆記試験のハードルがある。
さらに、AO入試は、Admission Officeという組織に任されている。
和田秀樹がこう書いている。

「AOというのは、admission office(アドミッション・オフィス)の略なのだが、その専門のオフィス、機関がアメリカにはある。入試の選考は、面接も含めて、その専従職員が行うのが原則となっている。日本のように、面接のトレーニングも受けず、また社会の動向もわかっていない(名門大学の教授ほど、大学以外の社会人経験が少ない人が多い)大学教授が面接を行うのではないのだ。

 私が見るところ、アメリカには教授性悪説というか、教授を素直に信じないところがある。教授たちに面接をさせると、教えやすい、言うことを聞く大人しい学生ばかりを採りかねない。しかし、学問の進歩のためには、あるいは、ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグのようなユニークな人材を入学させるためには(今回の大学入試改革はそういう学生を輩出するためということになっている)、教授とけんかする人、教授の理論に異を唱えるような人を入れたい。そこで、あえてそういう人間をアドミッション・オフィスの人間が選考しようという発想だ。」


もしもAO入試をやるのなら、アメリカ方式でやるべきだ。
今のAO入試を増やすのは、改悪以外の何物でもないと思う。

実際、面接者(教授)が違うと全く違う基準が適用されるという事がよくある。
いくらすり合わせしていても、「主観」の問題で、じぶんの気に入った人を選ぶのだ。
教員組織は絶対に選考に関わってはいけない。
アメリカの映画でAO入試の担当者が主人公のものがあったが、本当に厳しいポリシーを持った人が描かれていた。

記事にもあるように、できの悪い教授が揃っていると、自分より実績のある人を取らず、そのために教授のレベルがどんどん下がっていく、という現象が起こる。
実際、そういう姿を見てきた。
さらに、専門以外のことは知識がなく、議論ができない人もたくさんいた。
そういう人たちが「先生」として持ち上げられていると、人間的に「困ったちゃん」ができる。
もちろん、上位レベルの大学なら、いい先生もたくさんいるんだろうが、社会の一般常識という面では不足している人が多い。
もちろん、入試だから面接試験に十分な時間が取れるわけがない。

そういう人が面接で志願者を選ぶくらいなら、客観テストの方が絶対にマシだ。

念のためにいうが、AO入試が悪いわけではない。
日本の大学がやっているAO入試が悪いのだ。






| | 考えたこと | 20:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
Facebook離れ
日経MJが昨年実施した「第4回ネットライフ1万人調査」によると、フェイスブックの利用率減が目立つとのこと。20代と30代が、それぞれ前年比7.5%、4.9%の減少となっているらしい。

その理由を尋ねると、他人の人生が充実していることを見て、「疲れた」とか「イラッとする」とか思うかららしい。
ま、もともとそういう人はたくさんの友達とつながっている人だろう。
だから、Facebook上では友達でも、実際には他人という表現になる。
もともとの友だちが投稿したものだけでなく、友達が「いいね」したものも、自分も見ることになるから、それも見てしまうということだ。
だいたい「いいね」するものは、「どっかにいって美味しいものを食べた」とか、「こんないいことがあった」とか、「こんないい景色があるぞ」とかいうものになる。

よく、友達の数が3桁という人がいるが、その人のFacebookのタイムラインなど、どうなっているんだろうか。
どこかで一度会って話をしただけで、Facebookのアカウントを交換したりして友達にならないと、そんなに増えないだろう。
明らかにリアルな友達の数を超えている。
見るのも大変だ。延々とタイムラインが続く。
何百人かの友達がいて、そのうち何人がFacebookのヘビーユーザーかはわからないが、ヘビーユーザーが何十人かいただけでもすごいことになるんだろう。

ぼくなどは友達は5人ほどで、ヘビーユーザーはいないから、通知も少ない。
前の職場では、出張に行くたびに写真を撮ってアップする人もいた。
ああいうのを見せられたら迷惑だろう、とぼくなら思う。

そういう若い人が増えてきているというのが調査結果らしい。
まあ、そうだろうなあ。
特に熱心にやっていて、友達が多い人とか、職場でFacebookのアカウントが知れてしまって、みんな友達になったりしていると、義理で「いいね」を押さないといけない人は大変だ。

最近は「ひどいね」とか「かなしいね」というボタンが増えてバリエーションが増えたから、余計に大変になったと思う。
リアクションを選ばないといけない。
まして、自分が投稿したものに「いいね」してもらおうとすると、普段から「いいね」しておかないといけない。
若い人たちがうんざりする気持ちもわかる。

実際、Facebookを使っていて、鬱陶しいのは「友達かも」というのが勝手に、それも頻繁に表示されることだ。
そこに確かに知った名前があるのは間違いないのだが、あれはひどい。あんなのジャマだ。
まあ、これを便利だと思う人もいるのかもしれないが…。
繰り返し、何度も何度も表示される。
まるで友達が少ないとダメみたいに表示する。

うるさい、ほっといてくれ、と言いたくなる。
そういう人たちも増えているんだろう。

一方で、60代以上の利用率は年代別で一番高いらしい。
もう仕事が暇になったら、そういうのもいいんだろう。
実際、そんなに更新しないし、「いいね」も押さないんだろうなあ。

世界に広がる、この「友達至上主義」は何とかならないか。
それがあらたなイジメを発生させたりしている。
個人主義が行き渡った欧米ではいいだろうが、和を以て貴しとなす日本では文化が違う。

ザッカーバーグもそこを考えてほしかった。


| | 考えたこと | 20:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
リフレッシュコーナー
リフレッシュコーナーという言葉、ぼくはとても懐かしい。
会社の言葉だから、普通の人には意味も想像の範囲だろうと思う。
要は喫煙コーナーのことだ。
そのころはまだ禁煙が事務所の中だけで、屋内の一角でタバコが吸えた。
偶数階だったか、エレベーターホールの横がリフレッシュコーナーだった。

偶数階のリフレッシュコーナーは事実上喫煙者のたまり場となり、煙害やタバコの臭いで吸わない人は寄り付かなくなった。
当時ぼくは設計の仕事をやっていて、けっこうストレスフルだったから、タバコは一日2箱くらい吸っていた。
スーパーライトという種類のタール1ミリグラムというやつだったが、一日何回もトレーに出先の事務所から仕事のFAXが束になって置かれ、そのたびに書類を見て誰にふるかを決め、メモ書きで指示を書いて回し、自分が担当する分を貯める。
そんなことをやっていて、夕方5時になる。
そこからようやく自分のやるべき仕事をやる、という日々だった。
バブルの頃だったから、とにかく忙しかった。
人生で一番働いた時期だったと思う。
30代の頃だった。

しんどかったが、やりたいことができた時期でもあった。
それをやろうと思うと、夜中の時間まで残らないといけなかったが…。
毎日深夜に自腹でタクシーか社用車で帰る日々だった。

その時は喫煙者も多かったし、リフレッシュコーナーはいろんな部署から人が集まってくる場所だった。
普段なら顔を合わせて話さないような人がいたりする。
そういう人とタバコを吸いながら話をすることで、アイデアがもらえたりする。
タバコでリフレッシュするというよりも、そういう人と他愛もない話をしてリフレッシュする、という場所だった。

非喫煙者から見ると、こいつら仕事もせんと何やっとんねん、という場所だったと思う。
いろいろ不満もあっただろう。
それは今となっては、ごめんなさい、というしかない。

しかし、リフレッシュコーナーの機能は高かったと思う。
普段関係のない人と直接話をすることで、組織のパフォーマンスが上がる、という効果は立証されているはず。
それをやることによって、情報が流通したり、誰が何を知っているかが分かったりする。
これはメールやfax、電話では得られない。
あまり意識してはいないが、目と目を合わせて話すというのは情報量が多いのだろう。
言っていることの真偽やその人自身の思いが目に現れる。
だからこそ、ITの産業はシリコンバレーに集まっているのだ。

今はメールが発達し、何でもメールでやるようになった。
若い人は隣の人にもメールを出す時代。
それと同時に日本企業のパフォーマンスも下がったような気がする。
それに加えて、若い人の喫煙率は低い。
ぼくも病気をして禁煙したが…。

CADが普及して製図台がなくなり、電子帳票化が進んでアナログなものへの接触が減った。
それは飛躍的に生産性を上げたが、なにか大事なものがなくなったのかもしれない。

企業によっては、そういう弊害をなくすために、いろいろな取り組みをやっているとも聞く。

しかし、あのリフレッシュコーナーになかなか勝てないだろうなあ、とぼくは思う。
一日中じーっと座って、電話も減り、メールの連絡をし合う会社は効率という観点ではいいんだろうが、何か欠けているような気がする。

ぼくはリフレッシュコーナーのおかげで、いい時代を経験できたのかもしれない。

| | 考えたこと | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
スマホとレジ袋
おおかたの50代後半以降の人は、スマホでイライラしたことがあるはず。
思うようにタッチできない。
押したつもりのところと違うところが選択されたり、スクロールが動かなかったり、思い通りに止められなかったりする。

あのタッチスクリーンは、指先の静電気を検出しており、指先の水分が少ないと電気が伝わらないというようなことが起こる。
だから、歳をとって指先が乾いてくると反応しにくくなる。
冬場は空気も乾燥しているせいか、特にひどい。
おまけに、ギターを指先で弾いたり、弦を押さえたりすると指先の皮膚が厚くなってよけいにひどくなるのだと思う。

専用のタッチペンを買ってはみたが、これも今ひとつだ。
思い通りにタッチすることはできない。
まあ、日夜改良に努めているだろうが、こないだ買い換えたスマホでもまだまだだ。
ぼくは特にひどいのかもしれない。

レジ袋も同じだ。
若いころはすぐにレジ袋を開くことができた。
製造工程は知らないが、あれは完全に左右がひっついたカタチでできている。
その袋を指先でこするようにしてはがして開く。
それがいくらこすっても開かない。

レジの後ろに買ったものを入れるスペースがあるが、そこにスポンジが置いてある。
昔は気づきもしなかったし、気づいてからはなぜあるのか、と思っていた。
この歳になるとようやくそれがわかる。
あれで指先を湿らせて、レジ袋を開くのだ。

歳を取ると、思いもよらないところで不便が起こる。
そこにビジネスチャンスがある。

高齢者用のタッチスクリーンとか、アクティブ型のタッチペンとか、最初からちょっと開いたレジ袋とか…。
これからの日本はそういう高齢者用の製品を作らないといけなくなる。
そして、それをこれから高齢化していく国に技術輸出すればいいのだ。

速度無制限のアウトバーンを持つドイツのクルマが世界一高速安定性がいいのは、そういう市場があるからだと思う。
大きな高齢者市場を持つ日本は、世界の高齢化の先頭グループだ。
今人口の25%いる65歳以上は、2040年には37%になり、2047年には40%以上になる。
あと30年ほどで人口の半分近くが65歳以上という事態。

それをメリットに変えていかないといけないぞ。

| | 考えたこと | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネコ動画
最近ネコの動画をよく見る。
中にイヌとネコの動画もあるが、両方映っている動画はたいがいネコ優位だ。
お気に入りの寝床をネコに取られて寂しげに佇んでいるイヌや、相手になろうとして猫パンチをくらい、去っていくイヌなど、よくある。
身体はイヌの方が大きいのだが、ネコは堂々としてイヌを威圧する。
どういうことなんだろうか。

ネコは人間を大きなネコだと思っているくらいだから、イヌのこともちょっと大きなネコと考えているのかもしれない。
自分の親戚くらいの意識だろう。

しかし、イヌは人間を別の種族と理解しているらしいし、良い関係を築くには人間をリーダーだと思わないといけない。
そういうイヌは、自分のことを人間と同格に考えているネコには弱いのかもしれない。
リーダーには逆らえない。
まあそんな理屈はどうでもいいのだが…。

世界中でペットして飼われているのは、ネコのほうが多い。
やっぱり、飼いやすいのが効いているんだろう。
散歩は要らないし、食べる量も少ない。

しかし、ネット上の動画はネコが多いように思う。
ロシアのネコ動画など面白い。

一説には、ネット好きな人はネコ好きが多い、ということも言われている。
なるほど、動画をとって、アップロードするにはある程度パソコンなどの知識が必要だ。
インドア派にネコ好きが多く、その人たちがせっせとアップしているのかもしれない。
写真のサイトなら、イヌネコ同じくらいなのかもしれないなあ。

ネコが飼い主の臭い靴下の匂いを嗅いで、悶絶するという動画もあった。
何度も同じことをやって、悶絶するのが愛らしい。

近所の猫カフェに一度行ってみようと思う。
ホームページで見たら、たくさんのネコがうろうろしているようだった。
写真を撮ってもいいらしい。

弟のところにはネコがいる。
さすがに、動画はアップしていないが…。

これも一度見てみたいと思っている。

イヌもいいけど、やっぱりネコがいいなあ。

| | 考えたこと | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
感情の支配
行動経済学では、人間が感情に支配されると考えている。

便器型の水飲み器を作っても、なかなか誰も使わない。
頭ではそれがキレイだとわかっていても、それは使えない。
脳がいつもオシッコをしているところだ、という感情を持つ。
そして、感情は行動を支配することができるからだ。

進化の観点からいうと、感情とは何も考えないことだという。
ジャングルでライオンに会ったら、何も考えずにとっさに逃げないといけない。
それが感情の役割。
考えるということをショートカットして、いきなり行動を起こすためのもの。
そんなふうに感情というものをとらえたことがなかった。

また、感情は回りの環境によって引き起こされるものでもあるし、そんなに長続きしないものでもある。

9.11の後、自動車事故が増えた。
人々が飛行機に乗らなくなったからだ。
事故で死ぬリスクは飛行機に乗るほうが低いのだが、9.11の恐怖の感情が自動車を使わせる。
ここでも感情が行動を支配する。

でも、そんなに長続きしない。
その後、しばらくして飛行機の利用は元のレベルに戻る。
なるほどなあ、と思う。

人々がジャングルで危険に取り囲まれていない現代、もう感情は進化の観点からは不要になっている、というのが教授の考え方。(もちろん、全く不要というのではない)
感情に支配されるのではなく、ちゃんと考えて行動しないとイケナイ。

99%と100%の違いというのもやっていた。
子供がたくさん泳いでいるプールは、99%の確率で子供がオシッコをしている。
そういうもんだろう、と思っているが、だからといってプールに入らないということはない。
しかし、プールサイドから一人の子供がプールにオシッコをしたらどうなるだろうか、という。
それを見たら、プールには入れない。
これが99%と100%の違いだという。

自分で思い浮かべてみても、見てしまったら入らないだろうなあ、と思う。
きっと誰かがオシッコをしているだろう、と思って入るのと、それを実際に見てしまうのは違うということだ。

感情の力は恐ろしい。

感情に流される前に、じっくり考えないといけないなあ。


| | 考えたこと | 00:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
サイバーコマンド
アメリカのIS(イスラム国)に対する戦いは、新たな展開を見せているらしい。
ウォール・ストリート・ジャーナルに記事があった。

なんでも、新たなデジタル兵器を使ってISの能力を無力化するとのこと。
だんだんアメリカも本気を出してきた。
この裏側にはISのメディア戦略があると思う。
今はISといえども、ネットで世界中に宣伝できる時代。
実際ISは動画を使って戦闘員を募ったり、テロを奨励したりしている。
アメリカ国内でもそれに絡んだテロが起きている。

また、ネットさえあれば、離れていてもコミュニケーションがとれたり、部隊に指示を出したりできる。
第二次大戦の頃からは考えられないほど、通信手段は多様化し、発展した。
それをISが使っているということだ。

最新の兵器は最新の部隊が使う。
サイバーコマンド、という専門部隊。
いかにもオタク風の若い人たちがやっているんだろうか。
実際に現地に行ってやっているんだろうか。
それともアメリカの何処かでやっているんだろうか。
記事ではシリア国内で行われている、と書かれていたが…。

もちろん、資金の調達妨害などもあるだろう。
お金がデジタルになれば、サイバー攻撃の対象になる。
決済ができないようにしてしまえば、いくら口座にあっても払えない。

専用のデジタル兵器、というのはどんなものなんだろうか。
それをネットワークにつないだら、何かが起こるというようなものなんだろうか。
当然、ISが使っているサーバーに攻撃をかけ、ダウンさせるというようなことは可能だろう。
しかし、向こうも最新の機器を使っていれば、サーバーへのリクエストが増えた時点で、オカシイとわかるような機器もあるから、難しいのだろうか。

今はアメリカの企業であるフェイスブックやツイッター、グーグルがISの情報拡散に協力している(する気はないんだろうが)という状態。
こういうのを真のグローバル化というんだろう。
ネットの上には国境はない。
だからこそ、難しい。

今の時点でサイバー攻撃を明らかにしたというのは、政治的な意図もあるということだ。
ヨーロッパの移民の問題もあり、アメリカも中東の平和を早期に実現しないといけない。

もともとアメリカの軍で、戦争が起こっても通信が遮断されないという目的で作られたインターネットだから、断ち切るということは難しいのかもしれない。
だからこそ、新たなサイバー兵器ということだ。

どんなものかは明らかにされないだろうが、サイバーワールドでも目に見えない戦争が起こっている。

新しい戦争の形だ。

| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
Dr.モーガンのNY事件簿
こないだ第一シーズンが終わったのだが、ドクター・モーガンのニューヨーク事件簿というドラマシリーズがある。
この主人公、モーガンは不老不死という設定。永遠に30代。
死ぬたびに、生き返る。

死ぬと死体が消えて、裸で川底から上がってくるという設定。
ドラマでは何歳か忘れたが、1800年代から生きていると思う。
このドラマを見ていると、自分だけが年もとらず死ねないとなるとややこしいなあ、と思わされる。
よく出来た脚本だ。

昔結婚しているのだが、もちろん奥さんは年をとって、容姿が衰え自分のもとを去っていく。
息子はもう自分の倍くらいの年齢。
その息子から父さんと呼ばれている。
そういう過去を持っているから、自分が不老不死だということを誰にも言えない。

一度目の結婚?では不老不死だということを妻に打ち明けて、精神病院に入れられた。
そこで殺してもらってようやく脱出する。

だから、なかなか自分のことを話せない。
最終回では、息子に自分もいつまでも生きているわけではないから、だれか支えてくれる人を見つけて打ち明けろ、と言われている。
なんともオカシイというか、物悲しいシチュエーション。

彼は検死官の仕事をしている。
さすがに長いこと生きているだけあって、いろんな事に詳しい。
昔のことをよく知っていて、長生きして勉強すればかしこくなるんだなあ、と思う。
何と言っても経験の量が違う。
普通の人が数十年で終わるところを、百年以上やっているんだから詳しいに決っているが、回りの人はわからない。
経験知というのは大きい。

このドラマを見ていると、普通に死ねることが幸せだと思えてくる。
今の人生は80年くらいで死ぬことが前提。
その暗黙の前提の中でいろんな事が決まっている。
そういう中で不老不死だと生きにくいということだ。

このドラマ、残念ながらシーズン1で打ち切りになった。
キャストの都合だったのか、ギャラが合わなかったのか、人気がなかったのか、わからない。
ひょっとしたら、キリスト教的にダメだったのかもしれないなあ。

面白いドラマだったが、本国では人気がなかったのか。

残念だが、生きることは死を前提にしているということを確認させられたドラマだった。


| | 考えたこと | 01:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
2025年問題
近頃、何年になったら何が問題になるということで○○年問題、という言葉が増えた。
こないだ見た記事は2025年問題というもの。
これは「団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となる」のが2025年ということだ。
あと10年足らずで、人口のボリュームゾーンが75歳以上になるらしい。

当然、病院のベッド数は足りなくなるし、介護やケアというようなものも不足するだろう。
そのために、厚労省は「地域包括ケアシステム」というものを目指しているらしい。
「住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供されるシステム」のことだ。
自宅で生活支援を受けながら病気を予防し、介護サービスも受け、必要なら在宅医療スタッフも関わり、ケアを行って、死を迎えるというようなものだろう。
今は在宅医療というのはあまり一般的ではないが、2025年を迎えるにあたってそんなことは言っていられない。

長らく死は病院で迎えるもの、と思ってきたがそれは贅沢になるんだろう。
「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」という本の著者で、在宅医療をやっている医師の小澤竹俊氏はこれからの医者という職業についてこう語る。

「もちろん9時〜5時診療で、土日休みという楽をしている医者も一部はいるでしょう。でもそういう医者にはこれから間違いなく厳しい時代が来ます。外来ではメシが食えなくなるのは目に見えていますから。問題は2025年問題です。
 少子高齢多死時代は、2025年になったらお終いではなくて、2025年から始まります。今の1億2000万の人口が8000万近くまで人口が減っていきます。多くの方が亡くなられていくということです。
 2025年まであと9年しかないのです。いえ、9年と言うより450週です。週で表現した方が実感が湧くのではないでしょうか。
 2025年問題の解決には人が必要です。ハートを持った人がいなければ緩和ケアは絶対に成り立ちません。対人医療という基本的な考え方ですが、そこにこだわりを持って活動しています。」

そうだろうなあ、と思うのは、死をすぐそこに迎えた人を介護していると、患者の沈黙にどう答えていいのかわからない、ということだ。
長年の経験で彼はこう話す。

「沈黙の前にどう会話していいのか分からないのです。言葉が全く浮かばないんですね。
 普通はいいことを言ってあげたい、励ましたいと思っています。この薬を飲むと病気が治るとか検査の結果が良かったとか。
 治療方法がなくなってから亡くなるまでの間に関わることを得意とする人があまりいないのです。言葉悪く言うと負け戦です。それは従来の病気が治ることが良い、治らないことは良くないという条件にすれば、ですが。非常に残念な物事の見方です。
 22年間、看取りという現場にいて思うことは、比較という考え方には限界があります。苦しみを抱えた人と向き合う魅力をきちんと声にしてみたいです。決して負け戦ではない。ただ単に苦しむのではないのです。
 苦しみを通して人は学びます。健康な時には気がつかなかった大事な自分の支えを。病気や怪我、困難や悲しみから学びます。学ぶのは患者さんだけじゃない。ご家族も、関わる私たちも学びます。そこに魅力があります。
 何気ないことが嬉しんですよ。健康な時には気がつかない家族の手の温かさや友人の言葉が嬉しかったり、聞き逃した音楽に涙を流したり、庭の何気ない花に心を打たれたり。そこで大事な何かに気づくのです。」

重みのある言葉だと思う。

そして厚労省の政策に関してこう話す。

「ただ厚生労働省は、今まで外来しか見ていない9時〜5時の開業医に24時間の往診に行くように求めています。厚生労働省が2025年問題を10年以上前から重要視し、介護保険の導入や在宅医療・介護の推進など様々な対策をとってきましたが、残念ながら動いていませんし、人材は育っていない。
 それは今まで看取りをしてきた緩和ケア病棟の経験値を残念ながら生かせていないからです。批判しても前に進まないので、批判はしません。自分で組織を作り、行動する。そして仲間を作っていく。
 良くしていくためには、トップダウンとボトムアップの両方が必要だと思っています。あとは文化の創造です。「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」はその文化の発信のために出版しました。」

まことにエライ人がいたものだと思う。
実際に看取りをやってきた人だからこそ言える言葉だと思う。

しかし、普通ならこの包括ナンたらシステムの中に宗教家が含まれているべきだと思う。
死の意味付けをどうするのか。
それは古今の宗教の永遠のテーマだったはず。

今の日本の仏教は死んだ後の金儲けを主眼にしている。
そう言うと仏教界には怒られるかもしれないが、大方の人たちは賛同するはずだ。

死刑囚の海外ドラマなどでは、必ずキリスト教の宗教家が最期の時に立ち会う。
日本でそういう場面を見たことがない。
仏教の袈裟は葬儀の時だけだ。

この本を見て、仏教や神道の宗教家はどう思うんだろうか。
ああ、これでまた葬式で儲けられる、と思うんだろうか。
そう思うとしたら、どんどんアマゾンのお坊さん便みたいなシステムが広がっていくだろう。
もうお寺とは関わらない、ということだ。

死を迎える人を受け入れる宗教家が現れないと、日本は精神的に貧しい国になってしまうぞ。


| | 考えたこと | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
おそ松さん
おそ松くんというと、赤塚不二夫のギャグマンガ。
ぼくが小学校の頃流行った。
あの、「シェー」のポーズをする「イヤミ」や、串に刺したおでんを持って走っていた「チビ太」が出てきたマンガ。

おそ松くん、というのは六つ子の兄弟の一人。
六人の名前は、おそ松、カラ松、一松、十四松、トド松、チョロ松。
マンガが進んでいくうちに、あまり六つ子は意識されなくなって、イヤミやチビ太が主役になっていった。
そういえば、縦縞のデカパンをはいた「デカバン」というのもいた。

そういうドタバタギャグマンガだったが、近頃は「おそ松さん」というアニメをネット上で時々見かける。
名前からして、おそ松が大人になったものだと思う。
赤塚不二夫ももう亡くなっているし、なんで今ごろおそ松くんが大人になったアニメが作られたんだろう、と不思議に思ったが、赤塚不二夫生誕80周年記念で作られたとのこと。
なるほど。
おそ松も今では20代後半になっているらしい。
だいたい、リアルタイムでは60代くらいのはずだが、そこはまあよしとしよう。

Wikipediaによると、六つ子はニートな大人になって、「おでん屋になったチビ太からはツケで飲み食いをし、イヤミの紹介する怪しい職を転々としたり、トト子のアイドルになりたいという夢を後押ししたりと、ドタバタを繰り広げる。」とのこと。

制作陣の予想に反して、女性のファンが多いらしい。
それも、昔のおそ松くんを知らない年齢層。

アニメの関係者はこの現象を「女性のアニメ視聴者がイケメンの登場するアニメに疲れてしまったことが一因ではないかと推測しており、馬渕編集長のコメントを掲載したまんたんウェブもシンプルな作画のギャグアニメであるがゆえにイケメンが登場するアニメよりも作画崩壊が起きにくい分、ファンも安心して見られるのではないかと評している。」とのこと。

不思議なことだ。
あのギャグ漫画のおそ松くんが、ニートな大人になって、女性ファンがつくとは。

きっと赤塚不二夫も草葉の陰で驚いているだろう。

| | 考えたこと | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
コミュ障
「コミュ障」という言葉、にこにこ大百科のページによると、「コミュ障(こみゅしょう)とは、コミュニケーション障害の略である。 実際に定義される障害としてのコミュニケーション障害とは大きく異なり、他人との他愛もない雑談が非常に苦痛であったり、とても苦手な人のことを指して言われる。」という定義。
ネット上で使われるのがメインだとも書いてある。

これは若者文化的には自称する形で使われることが多いと聞いた。
つまり、「俺ってコミュ障だから」とか、「私はコミュ障気味で」とかいう風に使われるということだ。
これは軽い意味で、クッション的に自嘲して使われるということだが…。

昔に比べてコミュニケーションに障害がある学生が増えたのか、というとよくわからない。
だけど、若い人を見ていて、世代の差を感じる人が増えたことは事実。
自分が年を取ったということもあるのだが…。

まず、社会の変化などに伴って、コミュニケーションの手段が多様化した。
核家族化は一人一部屋を可能にし、テレビなど電化製品も一人一台になった。
SNSなどが増えて、電話等のコミュニケーションが減った。
機器の発達で、電話は誰かがかけてくるものではなく、誰からかかってきたかが事前にわかるものになった。

実際学生を見ていると、電話が不得意な人が多い。
また、地域の異世代間のコミュニケーションが減って、その分学校や塾での近い世代間での関係が増えている。
結局世代が離れたつながりが減少しているのだろう。
20世紀から21世紀になって、社会の構造が変わり、結果的にコミュニケーションが取りにくくなったということだろうか。

いや、ぼくらの時代にも「コミュ障」のような人はいた。
そういう人はそういう人で存在できたのだと思う。
あいつは、ああいうヤツなんや、という暗黙の理解があった。

現代は友だちがいるかとか、人とうまくやっていけるか、空気を読めるかというようなことに過大な価値が置かれているんだと思う。
今も昔も空気を読めない人はいたが、だからといって蔑んだりはしなかった。
今は空気が読めないことは、大きな欠点だと思われる。

友だちの仲間から外され、場合によっては教師からも疎んじられる。
「世界に一つだけの花」と言って、個性的であることがいいことだ、と言っているが、空気が読めない人はそれだけでダメな人になる。
それも個性であると認めないのだろう。

それだけ、人とのコミュニケーションに価値が置かれている。
だから、自分で「コミュ障」という人が増えているのだと思う。

なんか、生きにくい時代になってきたなあ。

| | 考えたこと | 20:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハンドルがない車
アメリカでは人間と機械、どちらが運転に向いているのかという議論がなされている。
人工知能、センサーなどを装備したクルマと、人間が運転するクルマ、どっちが安全かということだ。

何となく、機械が運転するクルマは危ないと思っているが、本当にそうか、という議論。
たしかに最近の交通事故を見ていると、人がいるのに暴走して突っ込んだり、どう考えても無謀な運転が原因で交通事故が起こっている。
アメリカの統計によると、3万3000人が交通事故で死亡していて、そのうち94%がヒューマンエラーによるものだという。
つまり、ヒューマンエラーがなくなれば、9割の事故死は防げる、ということになる。

昔から、事故は人間の責任だった。
そう言われてみればそうだ。
クルマは人間の意図で動いているから、ヒューマンエラーは仕方ない。
それを機械に任せると、安全になるという。
たしかに、昨今の技術なら人間より安全になるかもしれない。
交通のインフラは整わなければならないだろうが、それさえちゃんとすれば、安全になりそうな気もする。

もちろん、ハンドルやブレーキが壊れていて事故に至ることもある。
しかし、それもクルマが発進前に自分で診断したり、走行途中で不調を感知して自動的に止まったりできるようになったら、防ぐことができる。

だから、アメリカ政府は将来ハンドルのないクルマの認可も考えている。
運転をするのは機械だけという車だ。
人間より機械のほうが安全、というリクツ。
これもアリだろうなあ。
それだけの技術が開発されたからだ。

こないだ、朝のニュースで過疎地の路線バスの自動運転化のことをやっていた。
路線が決まって、あまり交通量が多くなければ、十分現実的な話。
なるほどなあ。
高齢化に伴い、ドライバーも確保できず、経費の問題もあって過疎地ではバスやタクシーが不足する。
それを自動化で補うということだ。

運転する人がいないんだから、ハンドルはあっても仕方ない。
日本でもいよいよそういう事態が起こるんだろう。

日本でもぼちぼちアメリカのように議論を始めないといけない。
T型フォードができて、100年ちょっと。

いよいよ本来の意味での自動運転車が出てきそうな勢いだ。

ハンドルはどうなるんだろう…。


| | 考えたこと | 22:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゴルフ場
亡くなった父はゴルフと麻雀が趣味だった。
典型的な昭和ヒトケタのサラリーマン。
麻雀は最後の入院をする直前まで、テレビゲームでやっていた。

ゴルフは40代後半から始めたと思う。
一時は休みのたびに朝早くから行っていた。
70歳を過ぎて身体がついていかなくなるまでやった。
ゴルフ場バブルの前に宝塚の狭いコースの会員になっていて、年をとってからはもっぱらそこに行っていた。
ぼくはゴルフは全くやる気もなかったし、腰も痛かったので、やったことはない。

1980年代からゴルフはサラリーマンの楽しみになった。
営業ともなれば、接待ゴルフでやらないわけにはいかなかった時期だ。
ぼくは入社してしばらくは寮生活をしたが、当時の独身寮でも休みの日の朝など、ゴルフの素振りをしている先輩がたくさんいた。
今の新入社員たちはどうなんだろうか。
営業なら、酒、ゴルフ、麻雀あたりは付き合いでやらないといけない、という時代だったなあ。
今はもう接待費など削られて、それほどやらなくてもいいのかもしれない。

当時、アメリカでは日本のゴルフボール1個分の値段でコースが回れるということを聞いた。
まだゴルフボールの値段が高かった頃だ。
サラリーマンがやるには、ちょっと値段が高いスポーツだったと思う。
あの当時に比べると、今はやる人が減って、ゴルフ場も安くなった。

ゴルフ場入場者は1992年がピークで1億232万人、去年は8650万人とのこと。
ところがゴルフ場は2028だったのが、308コース増えた。
ゴルフをやる人は高齢者が多いんだろう。
これからどんどん減っていく運命だ。
一時は日曜日の昼は必ずゴルフ中継があったものだが、今はあまりない。
ケーブルテレビなどに移ったということもあるが、人気がなくなったんだと思う。

メガソーラーの発電所に変わったところもあるそうだ。
ゴルフ場という施設そのものが太陽光発電に向いているという。
売電価格と発電量によって儲けは変わるから、みんながみんな変わることもできないようだが…。

バブルの頃、ゴルフ場の会員権も驚くような価格で売買されていたが、今はそうでもないんだろう。

父の遺産で、その会員権があるが、残された家族は誰もやらない。

名義を書き換えたら、使えるのだが、だれかもらってくれないか…。

| | 考えたこと | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハリウッドのアトム
鉄腕アトムの実写版が、ハリウッドで作られるかもしれない。
ハリウッド・リポーターというサイトに出ていた。

コンピューター・グラフィックスも進んだことだし、面白いものができるかもしれない、という期待と、アトムの世界が実写でできるんだろうか、という不安がある。
今やアトムをリアルタイムで知っているのは、日本の50代後半から上だ。
1957年生まれのぼくが、小学校1年の時にアニメは始まった。

実写版を作るとすると、きっと生みの親である天馬博士の人間の子供が亡くなるところから始まるんだと思う。
アトムは天馬博士の子供が亡くなって、その代わりに作られた。
でも、人間の子どもと違うから、天馬博士は離れていった。
そういう不幸な生い立ちのロボットがアトムだ。

後日和解し、天馬博士がアトムを10万馬力から100万馬力に改造する。
実写版ではどのへんまでやるんだろうか。

アメリカのコミックスは、不幸な生い立ちの主人公が多い。
そのパターンにはぴったりハマる。

どういう経緯で、妹のウランや兄のコバルトが作られたかは覚えていない。
でも、アトムの生まれた経緯はきっと映画で描かれると思う。

ちょうど人工知能が話題になり始めたところだし、ロボットが人間の仕事を奪うという社会問題も見えてきたところ。
今アトムを実写版で作る意味はそのあたりにあると思う。
そういう意味で、問題提起も含まれているんだろう。
手塚治虫が作った世界観のままでは作ることはできない。

当時の少年漫画の無邪気な面白さはなくなるような気がする。
まさか、バットマンみたいなダークな雰囲気にはならないと思うが…。

あのアニメのアトムとは別物として考えたほうがいいかもしれない。

見に行くか、それともやめとくか、出来上がってからのお楽しみにしよう。

| | 考えたこと | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
障害者差別解消法
この4月から障害者差別解消法が施行される。
それに伴って、大学でも発達障害などの障害を持つ人には「合理的な配慮」をしないといけなくなる。
国立大学は法的義務となり、私立大学は努力義務になる。

具体的には、教室移動や履修登録ができなかったり、ノートが取れなかったり、グループワークができなかったり、友達が作れなかったりするような、広汎性発達障害や注意欠陥・多動性障害などへの対応が必要になる。
必要になる、といっても、それができるかどうかは別の問題だろう。
どの程度の障害があるか、場合によるからだ。
あまりにひどくて、つきっきりでないとできないというような場合は、実際は対応できない。
だから、「合理的な配慮」が必要になる、という表現になる。

大学入試も一つのハードルであり、みんなができることができないと困る。
教育には効率の観点もあるからだ。
なかには、たくさんの人がいると受けることができないから、別室で受験させてほしい、というような依頼があって、判断に困る。
授業はたくさんの人がいるところでやるからだ。
だから、合理的に考えれば、人がたくさんいるところでは授業が受けられないなら、大学に来ても仕方がないということになる。
しかし、一方で大学受験は学力検査であって、それをちゃんと測るためには配慮が必要だ、という考え方もある。
多くの大学では、そういう要望が出されれば、話し合いのうえで別室受験させているはず。
特に、偏差値が下の方の大学では、一般入試は全入に近い状態で、学生一人いくらという計算も成り立ち、入試そのものが成り立っていないところも多いので、合格してしまうところも多い。

日本学生支援機構によると、発達障害の診断書がある学生が2282名いるらしいが、潜在的にはもっと多いという。
文科省の推定では公立小中学校の約6%に発達障害の可能性があるとのこと。
病気の診断基準がどうなっているのかわからないが、新型うつと同じで、定義がはっきりすると増えていくのだろう。

世の中の病気を増やす傾向は何とかしてほしいと思う。
病気だと診断されると、それは仕方がないと思ってしまうからだ。
それは、「普通ではない」ことを意味して、逆に差別を促進するのだと思う。

昔からそういう人はいた、と言われると、そうかもしれないとは思う。
小中学校の6%というと、40人のクラスで2人ちょっと。
その人たちに発達障害というレッテルを貼っただけのことかもしれない。

そういうレッテル貼りをやった結果、「合理的配慮」が世の中に必要になる。

それだけ、世の中が寛容でなくなったということだろう。
でも、そのレッテル貼りをやっている人たちは、自分たちがその「患者」たちを助け、世の中を良くしていると思っている。

どうもオカシイ。

薬や処置が必要なことは理解するのだが…。


| | 考えたこと | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
免許の更新
59歳の誕生日が来て、免許の更新に行ってきた。
知らなかったが、いろいろと交通法規も変わっている。

更新できるかどうかはわからないが、このまま免許を維持すると、70歳の誕生日を過ぎて更新する時には、実車の講習がある。
自動車学校に更新の試験を委託しているということだ。
なるほど、自動車学校にそういう仕事を委託して、警察のOBが行っているのかもしれない。
団塊の世代が退職して、そういう仕事が増えたんだろう。
まだまだ元気な人はチャレンジ講習、ちょっと不安という人は高齢者講習を受けるというシステムになった。
同時に、動体視力なども検査するらしい。
そういう制度に改正されていた。
たしかに、高齢者が高速道路を逆走したりする事故もあったなあ。

さらに、75歳以上になると、認知症の検査もある。
運転中に認知機能が低下すると、エライことになるからこれも必要だろう。
高齢化社会になってきたのを実感した。

講習を受けている人も、高齢者が多かった。
ぼくももう59歳だから、高齢者予備軍だ。

いつかクルマに乗れなくなる日が来る。
乗りたくても、免許が停止される日が来るんだろう。
21歳で免許を取って、38年。
一時は仕事で毎日クルマに乗っているという時もあった。
10年間、往復100キロほどの所に名神高速で通っていた。

今はそんなにクルマに乗ることはないが、乗るのは好きだ。

後10年ほど生きていたら、更新に自動車学校に行くことになるのだが、今はどうなっているんだろう。
昔は教習所と言っていたが、教官は恐かったものだが、最近行っていた人に聞くとそんなことはなくなった、ということだ。

70歳になった時の更新が楽しみだ。

| | 考えたこと | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
マシュマロテスト
アメリカで1960年代に実施された有名な実験の名前。
行動経済学の講義で紹介されていた。

4歳の子供にマシュマロを見せて、15分待てたら素敵なお姉さんが来てもう一つくれる、という心理学の実験結果があるらしい。
部屋の中に机と椅子だけの状態で、マシュマロが一つ置いてある。
要は子どもが15分食べるのを我慢して待てるか、ということを調べるだけだ。

興味深いのは1988年に行われた、この実験の追跡調査。

ちゃんと待てた子供と、待てずに食べた子供の将来はどうなったか。
待てた子供と、待てなかった子供の大学進学適性試験の点数には、平均で210ポイントの差がある、ということだ。(アメリカの大学進学適性試験は2400点満点)

Wikipediaによると、「ウォルター・ミシェルはこの実験から、幼児期においてはIQより、自制心の強さのほうが将来のSATの点数にはるかに大きく影響すると結論した。2011年にはさらに追跡調査が行われ、この傾向が生涯のずっと後まで継続していることが明らかにされた。」と書かれている。

自制心を養うのは大事なことだと思う。
しかし、この実験結果はスゴイ。
そんなにはっきり結果が出ているとは、ビックリぽんだ。

アメリカも日本もそんなに違いはないだろう。

ということは、やっぱり子供に何でも買ってやるのはよくないなあ。
我慢させることも教育の一つ。

自制心は大事ということだ。

| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
融資しない銀行
こないだ銀行の記事を読んでいて、初めてゆうちょ銀行は融資ができない、ということを知った。
たしかに、郵便局に金を借りに行く、という人は今までいなかったから、なるほどと思った。
しかし、融資ができない銀行を銀行と言っていいのかという疑問が生じる。
朝のドラマでやっているように、銀行とはお金を集めて、必要な人に貸す、という資本主義の役割を担っている。
つまり、今から伸びる産業を見極め、そこでお金がなくて事業拡大できない人にリスクを取って貸すからこそ、拡大再生産が可能になる。
だから、融資こそ銀行の一番大事な仕事と言ってもいいと思う。
その融資ができない銀行が、日本一の銀行というのは、ちょっとおかしい。

したがって、ゆうちょ銀行は有価証券で運用をしている。
なんといっても国債が主力で、41%が国債になっている。
今までは、国が運営していたから、国の借金をゆうちょ銀行が国民から集めたカネを使って支払い、利子をつける、ということをやっていたということだ。
日本国債の価値が高い間はよかったが、さすがにこれだけ借金がかさむと苦しくなってきた。
もちろん、マイナス金利の影響も一番大きい。

もともと、日本銀行は融資を勧めるためにマイナス金利にしているのに、融資ができない銀行ではどうしようもない。
有価証券で運用しようとしても、この株安ではダメージも大きいだろう。
おまけに、今から国債離れを進めて運用しようにも、運用できる人がいないらしい。
リスク分散させようとしても、担当者の数が少なく、どうなるのかということだ。
幸い、ぼくは国債ばかり買うような金融機関は、金融機関ではないと思っていたから全く預けていない。
しかし、ゆうちょ銀行は国がやっていたところだから、根強い人気がある。
だから、一番大きな銀行なのだが、集めたお金は大丈夫なんだろうか。
まして、このさなかに預金の最大枠を1000万から1300万に増やすということらしい。

日銀が国債を買いはじめた時点で、ゆうちょ銀行にも融資を認めておいたらよかったのだ。
大きな片手落ちだと思う。

でも、融資などしたことがなかった銀行が、いきなり民間に融資するのは難しいだろうなあ。
お金を集めるだけ集めて、どこに投資するのかわからないということになると、お金が回っていかないから、資本主義が成り立たなくなる。

郵便貯金というのは、そういう危ない存在だったのかと改めて思った次第。

だから民営化したのか…。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペットのIoT
あらゆるものがインターネットに繋がる時代。
IoT(Internet of Things)という技術。
その技術で、ペットにつけるウェアラブルデバイスというのも開発されている。
テレビでやっていた。

デバイスはイヌの状態をインターネットに送り、そこで判断された結果をスマホに送ってくる。
イヌには首輪がつきものだから、首輪にデバイスを入れるようになっている。
温度センサーや加速度センサーを使って、「遊んでほしい」「休憩中」「トイレに行きたい」といった動物の“気持ち”を表示することができるらしい。
イヌは人間のように気持ちを隠したりしないので、分析しやすいという。

なるほどなあ、という感じ。
人間用も同じように出来るんだろう。
脈拍や体温、血圧、発汗などを計測すれば、うそ発見器と同じだ。
データーをとって、インターネットに送れば、人工知能が分析してくれる。
そういうものも、もう実在するかもしれない。

まあ、技術的には可能でも、それが売れるかどうかは別問題だが…。

そういえば、スマホの加速度センサーで歩きスマホを防止するのも簡単にできる。
歩数計のアプリがあるくらいだから、歩いていることを内蔵の加速度センサーで検出できるだろう。
そういうアプリはもうあるかもしれない。

スマホという情報端末、インターネットというクラウド資産、そして加速度や圧力のセンシング、そしてそこからの無線技術というインフラが揃って、IoTが成り立っている。
日本はアメリカ、欧州などと並んで数少ないそういうインフラが整った国。

開発のスピードを早くすることができる。

まだまだ日本のモノづくりも捨てたものではないはずだ。

| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
党名公募
民主党と維新の党が政党助成金等の関係で、新しい党を作ることになった。
これは比例代表で通った議員は、既存の政党に移ることができないということが原因らしい。
つまり、一緒になろうと思ったら、今までにない党でないといけない、ということだ。
党名で通っているのだから、当然といえば当然のこと。
それでも、人数を稼ぐために、合併して党名変更するということらしい。

党名は公募するということだ。
どう見ても野合というしかない状態で、世論調査でも新党に期待する声は少ない。
そういう世論調査の結果を見ても合併する、ということだから、よほど人数がほしいのだろう。

案の定、ネット上では批判を通り越して、呆れたという思いを公募された党名になぞらえていう人が多い。
早速出ている党名をネット上で見ると、いかにバカにされているかがよくわかる。
この状態を「大喜利状態」というらしい。

「自分たちの生活がいちばんの党」こういう党名がたくさん上がっている。
「移民党」とか、「心中クラブ」「新党出戻り」「本末転党」もいい。「場外乱党」というのもあった。
正直に、「イオンの党」もありだ。(岡田の兄がイオンの社長)

しかし、こういう状態になるというのも、冷静になってみれば悲しい。
日本の政治を支えている片方の政党が、ネット上で笑いものになっている。
政党助成金絡みで、党名変更や新党結成などということをやっているのに、マスコミはそういう批判はしない。
もともと民主党だった人たちが、戻るのだから民主党でいいのに、それだと助成金を返さないといけないから、新党をということだ。
何となく、情けない。

ここまで政治が劣化したら、ダメだと思う。
この問題こそ、政治と金の問題だろう。
みんなそれぞれに賢い人たちが、思いを持って政治の世界に入ったと思いたいが、そうでもないのだろう。

こういうのを見ると、もともと日本は国会議員の数が多すぎると思う。
思い切って、もっと国会議員の数を減らせばいいのだ。

でも、そんなことを言う政党はいないだろうなあ。

ほとんどが、「自分たちの生活が一番の党」党員なんだから。


| | 考えたこと | 16:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
仏教の未来
アマゾンが僧侶の手配サービスチケットを販売し始めたとのこと。
さっそくアマゾンのサイトで「お坊さん」と入れて検索をしてみた。
そこで出てきたのが「お坊さん便」。
法事・法要でお経を詠んでもらうのに、3万5千円とのこと。
途中で移動があったり、戒名も欲しいということになると値段が上がるが、明朗会計でその他の費用は不要。
ちゃんとサービス概要の所に「上記のほかに追加料金は不要です。お車代・お膳料・心づけなども不要です。」と書いてある。

「みんれび」という会社がやっていて、ターゲットは都会に住んでいてお寺と付き合いがない層とのこと。
全国一律料金で、チケットを購入したら法事・法要をしてくれるというシステム。
もともと、みんれびのホームページで2013年から販売していたらしい。
しかし、アマゾンに2015年にアップして、売上は7倍に増えたとのこと。

登録している僧侶の数は450人ほど。
うちの宗派の浄土真宗は対応可能になっている。
登録待ちの僧侶も100人ほどいるらしい。
お寺の核家族化が進んで、食えない坊主が増えたのが要因らしい。
それはそうだろうなあ。
法事や法要の時だけ来てくれれば、後は別に要らないという考えの人は圧倒的に増えていると思う。
それだけ、仏教との接点は減っているということだろう。
逆にいうと、お寺は葬式や戒名で儲けているから、布教という概念もなくなり、それを商売にしてしまったから(無税だが)、こんなことになったとも言える。

しかし、仏教界は反対しているらしい。
全日本仏教会というところが理事長談話を出している。

「お布施を営利企業が定額表示することに(全日仏は)一貫して反対してきた。お布施は、サービスの対価ではない。同様に戒名も商品ではない。アマゾンのお坊さん便僧侶手配サービスの販売は、まさしく宗教行為をサービスとして商品にしているものであり、およそ諸外国の宗教事情をみても、このようなことを許している国はない」

しかし、日本ほど葬儀費用が高い国はないのも事実。
ネットで調べると、アメリカやイギリスなどでは50万以下で葬儀ができるのに、日本はかなり高い。
斎場と坊主のお布施を合わせると100万は軽く超える計算(平均値)。
だから、この談話を裏返すと、諸外国では商業行為というほどぼったくっていない、ということだ。

宗教が人の生死で金を取るというのは、どうかと思う。
また、坊さんの覆面座談会の記事を読んだが、現場の坊さんたちの意見も明確に反対というものはないようだ。
もちろん、食うに困っている坊さんたちだが…。
そらそうだろうなあ。

こういう動きになってくると、いずれは明確に商業行為ということになって、宗教行為とは言えなくなってくる。
そうなると、課税対象になるだろう。
この調子ならその日も遠くない。

そういう形で明朗に残るくらいしか、仏教の未来はないと思うのだが…。


| | 考えたこと | 21:04 | comments(1) | trackbacks(0) |
選ばなかったこと
こないだ見た映画で言っていた言葉。

恋人と別れて仕事を選んだ主人公が、仕事の虚しさを感じて、別れた恋人を思い出し、後悔する場面。
エアラインに憧れて田舎から出てきて、必死に勉強し、せっかくのチャンスをつかまないわけにはいかなかった。
でも、今となっては選ばなかったことの方が大事に思える…。

人生は選択の連続だ。
いろんな可能性があったが、自分で選択して今の自分の人生がある。
選べたのは一つの道だけ。
それ以外は選ばなかったことだ。

もちろん、選べなかったこともある。
いろんな条件や制約があって、決まった部分のことだ。
でもそれは考えても仕方がない。
もっと過去にさかのぼれば選べたかもしれないが…。

後悔が大きいのは、選べたのに選ばなかったことだろう。
結果的に、それが少ない人は満足した人生を過ごすのかもしれない。

しかし、過去は考え方を変えれば変えることができる。
たしかに事実は変えられないし、変わらないが、それを自分がどう思うか、どう捉えるかで解釈は変わる。

選べたのに選ばなかったというのは、変えられない事実。
でも、なぜそれを選ばなかったのかという意味は自分で考えること。
選ばなかった理由は自分で後から変えられるのだ。

老年の人生はそういう過去の組み換えを行う時間でもあるのだろう。

そうやって、自分に納得する時間が老年かもしれない。

| | 考えたこと | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学13年生
ちょっと前の日経の記事に産業界から大学教授に転身した人の話があった。
東大を出た証券会社の方で、長崎大学に転身して10年間大学教授をやって、その後証券会社の研究所に戻ったという経歴。

この人が、文系の学部は要らない、という文部官僚の起こした騒ぎに対してコメントしている。

 「産業界が大学生に求めるのは、学問をきちんとやってきたかどうかで、文系も理系もない。教養教育も含めて、知的な格闘を経験してきた人材が欲しい。研究職は理系の仕事でも、研究所の経営や危機管理、研究員の教育や労務管理は文系の知見やセンスが必要だ。経済、哲学、文学、歴史などをきちんと学んだ研究者が求められている」

この人はぼくより2つ上だから、学園紛争の終わりがけに大学生活を過ごしたことになる。
どれだけ、きちんと学んだかはわからない。
ぼくなどは、落研しかやった覚えがない学生だったから、それに対して文句を言うつもりは毛頭ない。
でも、こういうことを言うときには、自分ことはいったん棚に上げないと言えないのは確か。

産業界で優秀な人は、国立の地方大学に行って、こういうことを考える。

 「この40年ほどで大学の数も学生の数も2倍になり、大学生の学力が低下しているのは事実だ。今や9割以上の大学で1年次に初年次教育と称し、リポートの書き方や図書館の使い方を教えている。高校課程の数学や英語のほか、友人のつくり方まで面倒をみている例もある。関係者はあきれて、これでは小学13年生だとぼやいている」

 「2年次にようやく教養教育に本腰が入るが、3年の後半になるとインターンシップなど就職活動の準備が始まり、4年の4〜6月あたりは就活本番でゼミも開けない。学問に打ち込めるのは実質2年程度しかなく、4年制大学の短大化が進んでいる。6年制にすれば、少なくとも3〜4年次は、じっくり腰を据えて勉強できる。東京大学など有力校が率先して6年制を導入してほしい」

まあ、学費のことも言及せず、大学の6年制などと軽く言ってしまうのは仕方ない。
悪気はないのだろう。
実際、産業界から転身して教える身になったら、大学は短大化していると思うのは確実。
それも、地方の国立大だから、結構苦しいところだ。
そういうところで、ちゃんと教えようと思ったら、昔の教養部を復活させて、その上に専門が4年くらいあってもいい、ということだ。
ただし、その議論をするなら、給付型の奨学金をセットにしないといけないだろう。
日本人はどんどん貧しくなっている。
社会保障を教育に回さないといけない。

それはともかく、「小学13年生」の議論だ。
ぼくの勤めていた大学でも、同じことが言われていた。
初年次教育は、やって当たり前。
転職して赴任した2004年4月に、結婚式場を借りて新入生のオリエンテーションをするという。
「フレオリ(フレッシュマンオリエンテーション)」と業界用語で言っていた。

びっくりしたのは、なんとそこで新入生がグループに分かれて「ハンカチ落とし」や「名前覚えゲーム」をするという。
去年は着ぐるみを着た若い講師もいたらしい。
この先生なら腰を抜かすところだ。
ぼくも耳を疑ったが、それは新入生が友達を作るためにとても役に立つということだった。(形を変えて、それは今も続いている)
それをやって、新入生の定着率が上がれば、学校としてはハッピーだ。
役に立つなら、やったらいいとその時思ったのだが。
それはぼくの過ごした大学生活からは想像もできないことだったし、カルチャーショックだった。
国立長崎大学でも小学校13年生と言っているんだから、偏差値的に苦しい大学は何と言ったらいいのか…。

でも国立だからこそ、初年次教育が高校課程の数学や英語で済んでいる。
苦しい私学は、英語など中学からだし、アルファベットの書き方からやっているところもあった。
もちろん、数学(算数)は小学校だ。
分数や割合の概念からやらないといけない。
もちろん、そんなことを堂々とやっているところは良心的な学校だと思う。
でも、そんなものは授業化できないから、課外でやる。
課外だから強制力は持たせられない。
ぼくは学習支援室、というようなものを作って細々とやった。
だから、本当に来てほしい学生は来ない。

実際、今なら授業でそんなことをやったら、文科省から「大学レベルの授業でない」と文句がつく。
でも、そんな学校は単位を出さないと、受けてもらえないという「マジメな大学」の苦労なのだろう。
本当にそれを学生のためにやっているのだ。

何度も同じことを書くが、小学校のレベルで行き詰っている学生がどれだけたくさんいるか、ということだ。
その人たちが大学に入学を許される、ということももちろん問題だ。
しかし、それも棚に上げよう。
どうして、彼らが高校まで卒業できたか、ということだ。
文科省は、学力が大事だというのなら、学力で義務教育を見直すべきだ。
6年経ったら、小学校の課程は修了ということではないだろう。
3年経ったら、中学校の課程は修了ということではないだろう。

質の保証、と文科省は大学に言っているが、その言葉を小学校にも、中学校にも適用すべきだ。
6年なり、3年なりで最低限これを修得する、ということをきちんとやるべきだろう。
そこが基礎なのだ。
それがわかっていないまま、上のレベルは教えられない。
小学校のところで躓いた彼らにとっては、気の毒に、まったくわけのわからない授業が、増えていくことになる。
そのうえ、上の学校では、下の課程を教えることができないのだ。
それも文科省が決めたルール。
そんな役所のような学校では、落ちこぼれはシンドイ。

結果的に文科省は落ちこぼれをなくすために、真の意味での落ちこぼれを増やしたんだと思う。

この硬直化した状況を何とかしないと、いくら大学を変えても仕方ないと思う。

| | 考えたこと | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
死ぬ順番
こないだ、宴会があって、死ぬ順番の話が出た。
死ぬ順番とは、子供は親より先には死んだらいかんなあ、ということ。
これは自分が子供の時にはあまり意識しなかったが、親になってみるとよくわかる。

1月に父親を亡くした人が、元旦に死んだのだが、子供や孫もみんな集まって、その中で家で死んだと話をする。
それはよかったなあ、という声が周りから出た。
調子が悪いとは言っていたが、デイケアに行く程度で入院もせず、そのまま紅白を見てその後亡くなったらしい。

死ぬ方の立場に立ってみれば(実際にそんなことはできないが)、やっぱりずっと過ごしたところで死にたいと思うのが人情だろう。
まあでも、もう死ぬのだから、そんなことはどうでもいいとも思う。
晩年をどう過ごすかの方が大事な気がする。
生きて残される方がそう思うだけかもしれない。

どう死ぬかというのは、結局どう生きるか、ということだろう。
池田晶子が書いていたが、死というものは存在しないということだ。
誰も経験した人がいない。
経験するときにはもう死んでいるからだ。
だから、死の問題は生の問題ということだろう。

子供がいてよかったと思うのは、結果論かもしれない。
いなかったら、いかなったで、それも良しだと思う。
でも子供がいたなら、子供より先に死にたいと思うのが当然の心理。
というか、子供が先に死ぬというのは勘弁してくれというところがある。
長生きいしたいという人はいるが、いくらなんでも子供より長生きしたいとは思っていないと思う。
それは無意識の前提だ。

もうすぐ還暦という年になってみると、もう自分の人生の冬が近づいてきたという感じ。
今はまだ秋だと思う。
晩秋というところ。
春は学生時代まで。そして社会人になって夏を迎える。中年になって秋。そして還暦を迎えて冬だ。
だいたい、20年ずつ。
人生80年ほどだから、だいたい合う。

しかし、冬にもいいことはあるだろう。

冬を楽しもう。

| | 考えたこと | 22:04 | comments(0) | trackbacks(0) |