考えたこと2

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結婚式の司会
今日古い書類を捨てていたら、いろんなものが出てきた。
古い会社の業務のノートや海外出張の時の記録、航空券など…。
中でも、昔の結婚式の司会の資料が出てきたのには驚いた。

ぼくは落研をやっていた関係で、何回か結婚式の司会を頼まれた。
5回位やったはず。
今は知らないが、当時は結婚式場が司会者の手引きをくれて、事前に式場に打ち合わせに行ったものだった。

初めてやった時はけっこう大変だった。
司会の本を買って、結婚式のところを読んで、勉強した。
だいたい、結婚式など出たことがなかったのにやるのだから、いい加減なものだ。
忌み言葉や、いろんなしきたりが書いてあるが、ほとんどそんなものも知らなかった。

初めての披露宴で、式場の外で紫色のモーニングを着て歩いている男性を見て、余興の人かと思っていたら、新郎だった。
そんな格好を好んでした時代。
今はそんなのは珍しいのではないか…。

ぼくは若い頃はいいやつだったので、頼まれたらたいがいやっていた。
1回だけ断ったことがある。
それは田舎の結婚式で、市会議員(当時はエライと思っていた)などが出席する、地元の名士の息子(会社の関係)で、これは勘弁してくれ、といった覚えがある。
そんなことも、記憶の彼方に行っていたが、だんだんと蘇ってきた。

ホテルや会館の司会の手引きや、書き込み式のタイムスケジュールもある。
誰が主賓で、どんな関係の人が挨拶するかなど、書き込んである。
そんなこともやったなあ、と感慨深い。

だいたい、司会が気を使うのは仲人の挨拶、主賓の挨拶、ケーキカットくらいまで。
その先は先輩、友人関係になるので、それほど気を使わなくてもいい。
気を使うのは会社名、役職、名前だけ。
あとは適当にやれる。

司会ではなく、最後に出た結婚式は学校法人に勤めていた時。
最近の式は仲人を立てないものも多く、これも仲人はいなかった。
そのかわり、司会が新郎新婦の生い立ちを紹介したと思う。
結婚式も宗教は関係なく、人前の結婚式だった。

だいぶ司会の仕事も変わってきたようだったが、さすがに30数年経つとそういうことをやったことすら忘れている。
書き込んであるホテルの進行表を見て、ようやく思い出した。

そんなこともあったなあ。




| | 考えたこと | 00:12 | comments(2) | trackbacks(0) |
12月29日
今年も今日を入れてあと3日。
本当に一年が経つのが早くなった。
ついこないだ、正月だったような気がする。

ぼちぼち1年の総まとめの時期。
といっても、何をまとめるかが難しい。

仕事の方では、大学の非常勤講師をやったことがまずは一番だ。
今年の4月から7月。キャリアデザインという授業と、新入生の導入授業。
前半は毎回3コマだったからきつかった。

仕事以外では、2回目の第九の合唱。
今年はパートを変えて、楽に歌えたし、あの終わった瞬間の雰囲気を味わえた。
初めて行った打ち上げパーティは楽しかった。
そういえば、今年はクラシックのコンサートに何度か行った。
ちょっとオーケストラの良さもわかった。

聴いたものでは、ライブのハモンドオルガン。
あれは素晴らしかった。

今年もギターを月に2回習っているが、練習不足で上達しない。
以前に比べたら自由な時間はたくさんあるのに、これは反省。
でも、この歳になって、行くことに価値はある。

今年は近所の幼稚園の評議員を引き受けた。
その関係で、行事があるたびに招待状が来る。
入学式、運動会、図工の作品展示、音楽会など。
これも、年をとった分だけ余裕があって、面白かった。

夏にデスクトップパソコンのハードディスクがクラッシュしたのも大きかった。
リストア用のCD-ROMを作っておいてよかった。
おかげで、SDDを入れてすごく早くなった。
買い換えずに済んでラッキーだ。

台風はすごかった。
まさに暴風だった。
ものが飛んできて車の屋根を直撃。保険で修理してもらった。

そうそう、携帯のキャリアを変えた。
auからY!mobile。
おかげで、端末が新しくなった上に、通信費が安くなった。
変えてひと月ちょっと経つが、通話も問題ないし、快適だ。

あと3日。
刻々と新年が近づいてくる。

| | 考えたこと | 16:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
ツイキャス
ツイキャスという知らない言葉があった。
ツイッターとキャスティングの合成語だと思ったら、そのとおり。
無料で生放送もできるサービスのことだ。
正式にはTwitcasting(ツイットキャスイティング)という。

このツイキャスは、一時だいぶ流行ったらしいが、最近は他のサービスに負けて、オワコン(終わったコンテンツ)の仲間入りをしたらしい。
しかし、終わったコンテンツだから、「ユーザーが激減して、過疎っている今だから、快適に利用できるかも」という人がチラホラ出てきた、というサイトもあった。

このツイキャスは、スマホやタブレットで手軽に動画配信ができるサービスというのを売りしている。
このサービスが始まった2009年当時は、無料で登録できて、誰でも配信者になれる、というのがメリットだった。
ニコニコ生中継(ニコ生)のように、配信中に視聴者がリアルタイムでコメントを入れることもできた。
でも、Youtube Liveというようなサービスが始まり、そちらに客を取られてオワコンになった。
今はLine Liveというようなものもあるらしい。

つまり、誰でもスマホとちょっとした機材があれば、動画配信できる時代になったということだ。

就職の現場では、自分をどうアピールするかという悩みも多いのだが、ツイキャスをはじめとする動画配信の世界では、自分をアピールする動画があふれている。
考えてみれば、「自分がやりたいことを披露する」ことを、世界を相手に動画で配信できるようになった、というのはスゴイことだ。
もちろん、多くの動画は仲間内で連絡して見てもらうためのものだろう。
インターネットとスマホの普及で、日本で言えばほとんどの人たちが理論上そういうことができる時代。

やりやすいのは、カラオケで歌って、それを動画配信することだが、これは違法とされている。
でも、自分で演奏して既存の曲を歌うのはOKということだ。
なるほど、それでギターを弾く人も増えているのかもしれない。

さらに、ツイキャスでは配信実績に従ってレベルが定められ、そのレベルが上がるとラジオやテレビのように何人かで出演して生放送もできるとのこと。

今ではローランドやヤマハといった楽器メーカーも、ツイキャスをはじめとする動画配信用の安価な機材を出している。
スマホと直接つないで、録画しながら録音して、それを配信したりできる。
マイクも楽器もつなぐことができたりする。

いつも書くが、本当にエライ時代になってきた。

スマホのアプリを入れれば、一人で多重演奏も簡単にできる。
こうなってくると、昔プロがやっていて、夢みたいな出来事が個人でも現実になる。

スマホは世界を変えるデバイスだと改めて思った。
遅ればせながら、トライしてみたいと思う今日このごろ…。



| | 考えたこと | 21:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
国語 2
こないだ、国語の教科を20000時間習っているが、国語の教え方は難しいといわれていることを書いた。
そのことを「教科書が読めない子どもたち」の著者、新井紀子氏が立証している。

次の2つの文が表す内容は同じか?という問題を全国の中学生857人にしたとのこと。

「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」
「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」


読んだらすぐ違うとわかるのだが、この正答率が57%だった、というからビックリする。
2択のテストなので、ランダムに選んでも50%は正解するところ、57%だから驚異的に低いということだ。
そこで、新井氏はリーディングスキルテスト(RST)というのを作ったらしい。

RSTは、これまでに学校や企業324機関が参加して、7万人を超える人が受験。
年齢層は小学校6年から社会人まで幅広い。
今回フォーラムがあって、受験者の分析結果が報告されたとのこと。

RSTは以下の6つの能力を測る。

係り受け解析:文節どうしの関係性(主語と述語の関係、修飾語と被修飾語の関係)の理解
照応解決:指示代名詞が指すものや、省略された主語や目的語の理解
同義文判定:2文の意味が同一であるか
推論:文の構造を理解したうえで、常識等を動員して文の意味を理解する力
イメージ同定:文章と図形やグラフを比べて、内容が一致しているかどうかを認識する能力
具体例同定:定義を読んでそれと合致する具体例を認識する能力

リンクのページにはそれぞれの例題が出ているが、いずれもそんなに難しいものではない。
イメージ同定と具体的同定は例題では数学的な内容になっている。
といっても、四角形と円がわかるかどうかとか、偶数と奇数の話だから、そんなに難しくない。
しかし、「イメージ同定」の正答率は中1で約3割、高1で5割弱。「具体例同定」は理数問題だと中1で2割弱、高1では3割強という低い正答率だったとのこと。
図形や数が出てくると、苦手なのは経験的にわかるが、それにしてもひどいと思う。

一部上場企業の社会人にもそういう人はいる。
引用すると、

「新井さんは「面接でとても元気があったから、営業向きだと評価されて採用されたのだと思いますが、約款や契約書が理解できないから、コンプライアンスが守れない危険性がある」と指摘しました。
RSTを導入した一部上場企業全体では、6つのタイプの問題のうち1つ以上のカテゴリーで能力値が中学生の平均を下回る評価を受けた社員が、8%から30%含まれていることがわかっています。」

ということらしい。
たしかに、文章が読めないということは、そういう内容を話されても理解できないということであり、危ない状態だ。

こないだの中沢氏の国語の教育の話にもあったが、指導要領自体にも問題があるように思える。
文章を味わうことも大事だが、ちゃんと読むことも大事だ。

新井氏が問題提起している、教科書が読めない、ということが教育を成り立たなくしている、ということだが、それを一番わかっているのは現場で教えている人たちのはず。

そういう問題がちゃんと共有されておらず、認識されていないのが一番問題だろう。
新井氏が言うように、AIが発達する将来、仕事をしていくためには教科書を読む読解力が必要、というのは真実だと思う。
それが必要十分なのかどうかはわからないが…。

割合がわからないのも、「元になる数」「比べる数」という言葉がわからないのかもしれない。
小学校では、本当に読み書き算盤に力を入れるべきだと思う。
英語やプログラミングなど、そもそも国語が出来なければ教えることもできない。

これは本当に問題だと思う。






| | 考えたこと | 13:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
年賀状
もうちょっと遅いが、今年も年賀状を出す時期。
ようやく今日ポストに持って行った。

日経を見ていたら、終活年賀状という言葉があった。
なんとなく意味はわからなくもないが…。

年賀状に「今年限りで失礼させていただきます」などと書くらしい。
終活として、もう人間関係を整理するという理由。
なるほど。
もうあと何年かしたら、ぼくもそうしようかなと思う。

そういうふうにして、だんだんと整理していかないと、ずるずる残るしスッキリしない。
終活年賀状の文例を紹介するサイトもある。

謹賀新年
○○様におかれましてはお健やかに新春をお迎えのことと存じます。
さて、私も高齢になり、手足の衰えを感じるようになりました。毎年の年賀状も今年限りで失礼させていただきたいと思います。
勝手ではございますが、今後も変わらぬおつきあいのほどお願い申し上げます。

というのが一例。

最後の年賀状だから、ぼくが出すとしたら、もう少しひねりたいと思うが…。

年賀状を出す人は確実に減っている。
若い人たちは、メールやSNSで済ませるようになっているからだ。
うちの息子たちも、数年前まで書いたりしていたが、去年あたりはほとんど出していないようだ。

2019年の年賀状発行枚数は24億枚。2004年がピークで、44億枚だった。
ほとんど最盛期の半分。
これからも、その傾向は続くだろう。
いつか会社の営業でも、「ぼちぼちやめようか」ということになるかもしれない。

年賀状の風習は平安時代に始まったらしい。
今のような年賀状は、明治に郵便制度ができてから。
まあ、100年程度続いたこの風習も、インターネットが駆逐することになる。

人生のちょうど真ん中あたりで出てきたインターネット。
ぼくらはそれが起こす変化を見ることができる。

それはラッキーなことだ。

さて、あと何年年賀状を送るかな。





| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
剣客商売2
池波正太郎の時代小説。
70年代から何度かドラマ化されている。
原作を読んで、何度かここにも書いたこともある。

今時代劇専門チャンネルで再放送されているのは、90年代に藤田まことが主演したもの。
このシリーズは98年から2010年まで、シリーズ化された。
2部あって、藤田まこと以外の俳優が一部変わっている。

この剣客商売を2012年から北大路欣也が主演でやりはじめた。
藤田まこと版もいいのだが、やっぱり北大路欣也の方が風格がある。
このあたりが、さすがに市川右太衛門の息子だけのことはある。

藤田まことが亡くなったから、役を引き受けたのかもしれない。
彼も、それなりに存在感はあった。

北大路欣也の剣客商売は単発の2時間枠。
毎週1時間枠でやっていたのと比べるのは気が引けるが、やっぱり同じ原作でも2時間枠でやると中身が充実している。

最新作はついこないだ地上波で放送された。
だんだんと若い俳優たちの着物の所作など、しっくりこなくなる。
時代劇など見たことがない人が、役を演じているからだろう。
それでも、池波正太郎が生きていたら、きっと膝を打ったはず。

北大路欣也のシリーズは今回が3年ぶりの第5作。
もう彼も75歳。
いつまでも元気で続けてほしい。

でも、時代劇というのも、ぼくらとともになくなっていくのだろう。
アメリカでも西部劇はもうやらないのではないか。
やっぱり、ケーブルテレビなどで「西部劇専門チャンネル」があるのだろうか…。

日本人が知らないだけで、あるんかもしれんなあ。


| | 考えたこと | 19:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
仕事納め3
今年は今日が仕事納め。
会社時代は28日だった。
学校に変わって、会社時代よりは早くなって26日になった。
今の仕事になって、行っている先がキリスト教系の大学なので、さらに早くなった。

大学では、納会などはあまりやらない。
まあ、職場がバラバラだからやりにくいのかもしれない。
大掃除もない。普段から、清掃の人たちが入ってやっているからだ。
だから、ちょっと身の回りを片付ける程度。

会社の時は大掃除があった。
たしか、昔の掃除奉行のことをここにも書いた覚えがある。
昔は床が絨毯ではなかったから、毎年ワックスがけをしていた。
それをやるのが、仕事納めの日。
あれは当時の研究開発部の年中行事だった。

どうやってやっていたか忘れたが、その日は仕事を一切せず、掃除に集中してかなり大掛かりにやった。
ぼくらは、実験室の掃除が先で、それが終わってから事務所の掃除に合流していた。

何年か後に技術のビルが建って、そこに移転して、この習わしはなくなった。
ワックスがけが必要ではなくなったからだ。
そのビルは震災で折れた煙突の直撃を受けて、7階建てを5階建て?に縮めて復活したと思う。
いろんなことが、記憶から薄れているが…。
まあ、古き良き昭和の一コマだ。
今なら、大掃除はぼくらの仕事ではないとかいう人もでてくるかもしれない…。

ここ数年はのんびりした年の瀬だ。
さすがに、授業がなくなると学生の数は激減する。

この時期は、まだ就職先が決まっていない学生のちょっと重たい相談と、就活中またはこれから始める下の学年の相談が並行している。
人手不足もあって、上の学年の学生は少ないが…。

キャリアの責任者だった頃は、次年度の予算建てや計画など考えることも多かったが、今はそれもなくなった。
こんなふうにして、だんだんと仕事から離れていくのだ。
会社にいたとしても、もう再雇用で、責任はなくなっている頃だ。

ぼくはできるだけ、現場の仕事を続けたいと思っている。
とりあえず、来年のクビはつながった感じだが、どれだけ続くだろうか…。

毎年、真剣勝負。

できるだけ、永く働きたいと思う。




| | 考えたこと | 20:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
国語
時々引用する、もと小学校教員の中沢良平氏。
「12年間も勉強して、なぜ国語ができないのか」というブログを書いている。

これは、黒坂岳央氏が書いた「国語力が向上する真の勉強法とは?」というブログを見て書かれたもの。
彼は、アウトプットが大事だという。
文章を書くということだ。

中沢氏の問題意識は、12年間も国語を習って、国語に苦手意識を持つ人が多いのは、国語をちゃんと教えてないからだ、ということ。
12年間というと、小学校、中学校、高校の合計。
時間数にして、20000時間以上になるという。
さらに、国語はさすがに今の入試科目から外している大学は少ない。
ただし、古文や漢文は別扱いにしている学校は多いが…。
しかし、まあそれなりに国語を勉強してきたのは事実。

ぼくは、国語というと、当時入試でよく出題された、難解な小林秀雄の評論文を思い出す。
「美しい花がある。花の美しさと言うようなものは無い。」というような文章。
美とは何か、というようなことを考えていないと、この手の評論はわからない。
こういうのが苦手だった。
大人になってから、これは純粋な国語の問題ではなくて、美学について考えたことがあるか?という問題だとわかった。

また、文章の一部を出して、「作者の考えていることは何か」というような問題もあった。
まさに、ぼくが入試を受けた年の問題だ。
前にも書いたが、ぼくはラッキーにもその文章を読んだことがあったので、情報量が多かった。
だから、すぐに答えはわかったのだが、これもその作者の文章をたくさん読んでいるか?という問題にもなる。
当然だが、読書量が多くなると有利。ある意味、当たり前のことだ。

中沢氏は、国語が国語になっていない、という。
主に小学校だが、「国語の授業が、他の教科、道徳や社会や総合的な学習の時間になってしまっています」ということだ。
テキストの意味を考えるのが国語だとすると、仕方ない面もある。
中沢氏はさらに続ける。

「国語以外のすべての教科は、国語の基礎の上に成り立ってると言っても過言ではないのですが、その国語が、「思考するための方法」ではなく、「なんらかの価値観」を押し付ける教科となってしまっています。
小学校の教員のなかでも、国語が苦手な教員は多いです。なにをどうやって教えていいのかわからないからです。教師が教え方を知らない教科の筆頭が、国語なのです。国語は、まかり間違えると総合学習のようなイメージでとらえられてしまいます。
表やグラフを与え、説明させたり、議論させたりする授業も多いです。算数、理科、社会と思えるような授業も多いです。
しかし、このような授業をやっていては、子供たちに国語の力はつけられないでしょう。」

なるほど。そういうことかと思う。
教員が国語が苦手だと、容易に国語の授業はすり替えが効くということだ。

さらに、学校では、「論理的に思考する方法」を身につけることに頓着していないという。
論理的に思考するためには、まずはテキストを正確に読む、ということだろう。
それを教えていない。
実際、どう教えていいか分からないらしい。
だから、指導書をみるのだが、その指導書には「言語を扱う技術」や「論理的に思考する方法」などは出てこない。
そこに書かれているのは、「この文章はこのように味わうのだ」というようなことで、「文章を正確に読む」ということは書かれていない。

たしかに、文章を正確に読んで「大事なところに線を引く」という能力が低い大学生は多い。
中堅以下の大学では、大事なところに線を引きなさい、というと、全部に線を引く学生も散見されるという。
どこが大事か、わからないのだ。

書く方も然り。

「「こういう方向性で感想文を書くべきだ」ということは書いてありますが、どうしたら伝わる、読んでもらえる文章になるのかということは一切ふれられていません。」

ということらしい。

だから、大人になってから慌てて「ロジカルシンキング」などの本を買って読むということになる。

今授業をやっていても、「ここは大事だから線を引こう」ということを言わないと、せっかくのプリントに線を引く学生はいない。
もったいない話だ。

それは読んでも、どこが大事なのか分からない、ということなのかもしれない。

これはエライことだ。




| | 考えたこと | 19:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
Little Glee Monster
通称リトグリ、リトルグリーモンスターというグループがある。
数年前にデビューして、何度かメンバーチェンジがあったらしい。
今は5人組。

歌がうまい女子中高生をスカウトして集めてきたグループ。
アカペラをやっていたようだ。
2015年に「好きだ」という曲を出している。
この曲をYoutubeで見た。

J-Popか何かのミックスリストをかけていて、かかった1曲。
横浜でのライブの様子が録音されている。
もう何年も前に結成されたグループだが、ぼくはこの曲で初めて知った。

このグループ、本当に歌がうまいと思う。
特にハモリのパートの上下。
けっこう激しく動き回っているのだが、それでもあまり乱れない。
アイドル系のグループならせいぜい2声のコーラスだが、リトグリは3声のハモリとバックのコーラスもやる。
一人ひとり別の音を出している。
もちろんユニゾンやソロのところもあるのだが、ほとんどハモっている。
サビの部分は5つのパートに別れる。
それでもちゃんと聞こえる。

さらに、5人ともリードボーカルをとれる。
日本人には珍しく、リズム&ブルース風のリードボーカルもこなす。
ブルースのフィーリングを持って歌える。

第九の練習の時に、先生が「日本人は土地を耕すリズムだ」と言っていた。
イチ・ニイ・サン・シでいうと、イチとサンが強くなる。
西洋音楽は逆で裏が跳ねる感じになる。
ニイとシが強いということだ。
リトグリの歌を聴いていると、それを自然にやっている、という感じ。
演歌や音頭の要素はなく、西洋音楽で身体ができている。
ぼくらの世代とは違うなあと思う。
本当に日本人も歌がうまくなった。

シャウトするところも、堂に入っていて、実力派だと思う。
こんな歌が歌える若い女性が、けっこういるのだ。
カラオケで練習できるのもあるのだろう。

他の曲も聞いてみたが、残念ながらこの曲ほどハモっているのは見つからなかった。

これだけ歌えたら、きっと楽しいだろうと思う。
それを仕事にしてしまったらどうかはわからないが…。

ということで、アマゾンで1曲だけ購入。

ウォークマンに入れて、今はヘビーローテーションになっている。

最近、バンドを見ても女性がどんどん増えているし、管楽器などは若い女性がどんどん進出している。
ギタ女も多くなるというし、コーラスグループもこんなにうまいのがいる。

つくづく、女性の時代だと思う。


| | 考えたこと | 18:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボイスチェンジ
昨日のハルオロイド・ミナミに出てきたボイスチェンジャーのこと。
楽器メーカーのローランドが新製品を出した。
「VT-4」という名称で、ボイス・トランスフォーマーというもの。

ボイス・トランスフォーマーがそんなに需要があるのかと思っていたら、バーチャル・ユーチューバーが使うことが多いらしい。
男声を女声に変化させるのだ。

もともとの利用は、放送局などでキャラクターの声を作るために使ったりするものだった。
これをソフトウェアでやろうとすると、時間遅れが出たりするのだが、このVT-4はそんなことはないらしい。
単純にピッチを変えるだけでは不自然になるのだろう。
キャラクターの声などはそれでもいいのだろうが、ちゃんとしたかわいい女声にするためには、ピッチを上げるだけではダメだ。

VT-4の商品紹介のページによると、

従来、ピッチ・エフェクトやフォルマント・エフェクトで声を高品質に加工処理するには、PC なしには実現が難しいものがありました。加えてリアルタイムに加工しようとするとレイテンシーに悩まされたり、不快な音が発生してしまったり、といった問題に直面します。ボイス専用のエフェクト・プロセッサーとして開発されたVT-4は高品質かつリアルタイムの音声加工に最適です。トップパネルのピッチ/フォルマント専用スライダーで瞬時に操作、リアルタイムに音に反映されるので煩わしい問題に悩まされることはありません。太くたくましい声や子供の様なかわいらしい声、恐ろしい声など、あなたの思い描いた声へ変貌します。

ということだ。

以前書いたバーチャル・ユーチューバーのキズナアイは、ちゃんとした女性の声優が声を担当している、ということだったが、中には男声がこういう機械で女声に変えて喋っている、というのもあるということだ。
ちょっと気持ち悪い。

3次元のコンピューターグラフィックスだから、姿かたちは思い通りにできる。
セリフも姿かたちに合わせて決めることができる。
でも、声だけは難しいと思っていたら、それも変化させられるということだ。

もちろん、声をメロディに合わせて、ハーモニーを付けたりする本来の機能もある。
その場合は楽器をつないで使うのだが、どうもそれよりもバーチャル・ユーチューバーの需要が多いような感じだ。
発売した当時は、ツイッターで評判になっていた。

可愛らしい姿かたちで、可愛い声で喋っているコンピューターグラフィックスの女性の声を吹き替えているのが、むさ苦しいおっさんだったりすると思うと、なんとも言えない。

このページで実際にバーチャル・ユーチューバーが「VT-4」のレビューをしているので、興味のある人は見てみてください。

しかし、こわい時代になったものだ。




| | 考えたこと | 21:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハルオロイド・ミナミ
三波春夫の声で歌うボーカロイドが、ハルオロイド・ミナミ。
CeVIO Creative Studio Sという音声創作ソフトがあれば、無料で音声データーをダウンロードできる。
このソフトでは歌詞をテキスト入力して、メロディに乗せて歌わせることができるもの。
1万5千円くらいする。

詳細はここでチェックできる。
このソフトにはロック系男声やバラード系女声などのボイスがついている。

ハルオロイド・ミナミの歌のサンプルを聞いてみた。
ちょっと不自然だが、声は三波春夫そのものという感じ。
まだまだ調整して追い込むことができるらしい。
それでも、本当によく似ている。

ボーカロイドもどんどん良くなっている。
初音ミクをはじめ、いろんな人?が出てくる。
女性演歌歌手のデーターも同梱でついているらしい。

そのうち、全部をコンピューターでやってしまうことになる。
全部がデーターで、スタジオも要らなくなる。
そんな曲もアリだろう。

VT-4というボイス・トランスフォーマーでリアルタイムで声を変えることもできるし、今までにない声を作り出すこともできる。
さらに、その声を歌わせることもできる。

声紋という、人の声の特徴みたいなものがあったが、あんなのはどうなるんだろうか。
人工的な声と、人間の声は識別できるんだろうか。
3次元のCGもどんどん良くなるし、こうなると生身の人間と対面しないと、何が本当かわからない時代が来るかもしれない。
電話で話すのも、本人だと思って喋ってしまったら、相手は実は別人だったということも起こり得る。

どんどん対面での話し合いが大事になってくるのだろう。

ややこしい時代になる。


| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
国際看護学部?
うちの近所に大手前大学というのがある。
ずっと女子大だったが、2000年に男女共学になった。
3つのキャンパスを持ち、収容定員2757名だから、小規模の大学。
在校生が2470名なので、1割ほど定員割れをしている。
この規模で西宮、伊丹、大阪にキャンパスを運営して1割不足なら、まあ立派なものだと思う。

そこが新しい学部を作るという。
例によって、看護系だ。
看護系は人気があるということで、どんどん増えているのが実態。
こんなの、医療費削減とか、規則が変わるとどうなるかわからないのに、よくやるなあと思っていたが、ここもそれに手を出したということだ。

どれだけ増えているかというと、平成3年に11校だったものが、平成30年に263校になった。
入学定員で、558名が23667名になっている。なんと40倍以上。
従来の専門学校は減っているのだが、いくら看護師が足りなくなるといっても、増えすぎだ。
臨床心理士といい、看護師といい、大学がやり始めると馬鹿みたいに増える。
みんな右にならえでやるからだろう。
当然、質は落ちていく。

これからは多死社会だが、多死社会が終わると看護師は余るに決まっている。
その前の段階で医療費が足りなくなり、治療型の病院は減り、看護師は7床に一人という基準は緩和せざるを得なくなる。
そういう世の中の変化をあまり大学は考えない。
今志願者が増えることが大事なのだ。
だから、263校にもなった。

当然、今さら普通の看護学科を作っても遅いという議論になる。
何か特色のある看護にしないといけない、というワケでできたのが「国際看護学部」らしい。
もちろん日本初だ。

日本初というものにも2種類ある。
本当に日本で初めてであり、特筆に値するものが1つ。
もう一つは他に誰もやってなかったという日本初。
どうしてそういうものを作らないといけないのか、わからない、というものだ。
もちろん、「国際看護学部」は後者にあたる。

どうして、普通の看護学部にしないのだろうか。
見栄だけで、「国際」をつけるのは、もう時代遅れだと思う。

来年開学予定だが、旺文社の偏差値は50と出ている。

大学の関係者はそれでいいと思っているのだろうか。

困ったものだ…。


| | 考えたこと | 21:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
モノかヒトか
ぼくは、人の顔と名前を覚えるのが苦手だ。
この年になって諦めたが、何でこんなに覚えられないのかと思う。
それが得意な人もいる。
一度会っただけで、顔と名前を覚えてしまう。

誰がどんな本を書いたかということを覚えるのも、それと関係があると思う。
スラスラと引用する人を見ると、感心する。
こういうのは持って生まれたものかもしれない。

人間、モノに惹かれるか、ヒトに惹かれるかという特性の違いはあると思う。
モノに惹かれるのは、何となく理系っぽいし、人に惹かれるのは文系っぽいように思う。
逆の場合もあるし、それとは関係ないかもしれないが…。

名刺をやり取りしただけで、顔と名前を覚える人もいるから、びっくりする。
あれは才能だ。

ぼくが好きなモノは、クルマ、パソコン、オーディオ、楽器、本、文房具などと、その関連のガラクタくらい。
自分では理系だと思っているが、それはプラモデルを作るのが好きだったから。
その程度の理由だ。

結局、仕事では技術営業みたいなことも長いことやった。
その後は文系私学の学校法人だから、文系の仕事だった。
でも、自分では理系だと思っている。
「数字」「論理」「効率」などに価値を置くからだ。

ヒトは嫌いではないが、ややこしい。
気の合うヒトとは付き合いたいが、気の合わないヒトとはつきあいたくない。
当たり前か…。

「根回し」「義理人情」などは大の苦手。
日本の企業では大事なものらしいが、ぼくのいた会社は元は外資系だったから、そういう空気はあまりなかった。
だから、学校法人では失敗した。
大学というところは、もっと論理的に動くのかと思っていたら、大違いだった。
非効率で、統制が取れておらず、バラバラだった。
わかっていたら…というのは、後の祭りだ。

休みの日もどちらかというと、じっとしているのが好きだ。
若い頃は毎週出張だった。
目的があれば、苦にはならない。
うちの父は文系だったが、出不精だった。
そこは似ていると思う。

最近、エライ哲学者たちが「人生には意味がない」と言っているのを聞いた。
なるほど。そうかもしれない。

残りの人生、意味がない時間をどう過ごすか…、と思う今日この頃。


| | 考えたこと | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
黄色いベスト運動
マクロン大統領は、黄色いベスト運動でピンチに陥っている。
なかなか批判が収まらない。

今日WSJ(ウォール・ストリート・ジャーナル)に、『「黄色いベスト運動」にロシア関与か 仏当局が調査』という記事があった。
それによると、「フランスの治安当局は目下、反政府デモ「黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)運動」を煽り、偽情報を拡散したとみられるソーシャルメディア上のやり取りに、ロシア政府が関与していなかったのか調査している。」ということらしい。

SNSが発達した結果、世界のどこからでも、言葉さえわかればその国のコミュニティに参加することができる。
だからこそ、中国は厳しくインターネットを管理しているのだろう。

プーチンはフランスの選挙で、極右のルペン氏の当選を望んでいたらしい。
ぼくらの頭では、極右というと軍国主義を思い出すし、左翼を嫌うというイメージがあるが、そうでもないという。
まあ、今やロシアは社会主義国ではないのだが、どうも古い頭があるから、極右と左翼という関係で見てしまう。
それは間違いだ。

確かに、プーチンはクリミア併合とか、強いロシアを復活させようという意味で、国粋主義者でもあるから、極右のルペン氏と馬が合うのだろう。
ルペン氏が当選していたら、ウクライナの問題もロシアの有利に進んだかもしれない。

古い図式である、ロシア=社会主義=左翼という考えを捨てないといけない。

前にも書いたが、ロシアのサイバー部隊は強力だから、フランス語でSNS上で「黄色いベスト運動」を煽るのは簡単なように思える。
フランス当局が調査しているということだが、どんな攻撃なんだろうか…。

怖い時代になったものだ…。




| | 考えたこと | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
ピアスとサンダル
真珠のピアス、というユーミンの歌がある。
レコードも持っているが、この曲はそんなに気に留めていなかった。
でも最近になって、じっくり聞いてみると、けっこう重い。
彼女の歌詞は、ドロドロした感情もさらりと歌うという感じがあるのだが、これは例外だ。

「最後の夜に、彼のベッドの下に真珠のピアスを捨てた」という歌だ。
なんで捨てたかというと、もうすぐ彼女と引っ越しするときに、ベッドの下から見つかって、私のジェラシーに気づくはず、という。

引っ越しのときに「なんでこんなものが落ちているの」という「彼女」の声が聞こえているのだ。

そして、「どこかで半分なくしたら役には立たないものがある」と歌う。

パールのピアスだから、高価なものだろう。
それを最後の夜にわざと落としていく。
もうそれは使うことができない。
ピアスを犠牲にしても、私はジェラシーを伝えたかったということだ。

1982年のリリース。
ユーミンが28歳の時だ。
この時代の結婚適齢期と言われていたのは、けっこう若い。
ということは、28歳というのは適齢期を過ぎたという感じだろうと思う。
その時期の失恋は、女性にとって重かった。
そういうことも、読み取れる。

一方、同じ失恋でもデスティニーでは「冷たくされていつかは みかえすつもりだった」という。
ふられただけで、彼女は出てこない。
この曲は79年だから、25歳の時だ。
まだ若いから余裕がある、という感じかな。
この辺の若いという感覚は、同時代を生きていないとわからないだろう。

「それからどこへ行くにも 着飾ってたのに どうしてなの 今日にかぎって 安いサンダルをはいてた」

ユーミンは靴フェチかもしれない。
安いサンダルは、他の曲の歌詞でも出てくる。
きっと実際にあったのだろう。
ピアスに比べると、まだ軽いと思える。

ユーミンはこないだ第66回の菊池寛賞をもらった。
そこでのスピーチ内容は、

「音楽は時間をデザインするもの。そう遠くない未来に私が死んで私の名前が消し去られても、私の歌が詠み人知らずとして残っていくことが望み」

と言った。

遅ればせながら、受賞おめでとうございます。


| | 考えたこと | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
幼稚園の音楽会
今日は近所の幼稚園の音楽会。
評議員を頼まれて、行事を見にいっている。

幼稚園の音楽会は二十数年ぶり。
だいぶ曲が変わった。
年中と年長組があったが、年中の方は何となく聞いていて分かる曲。
子供らしい感じだった。
合奏のおもちゃのチャチャチャは唯一知っている曲。
カスタネットやタンバリン、トライアングル、すずを持って、曲に合わせて自分のところで鳴らす。
上手にやるものだと思う。
年中は人数が少なく、1組だけ。

それに対して年長組はやっぱりしっかりしている。
このあたりの1年は大きい。
体格はともかく、人間が発達するということがよくわかる。
顔つきが違う。
この調子でずっと成長したら、どんなに素晴らしいだろうと思うが、残念ながらそんなことはない。
それどころか、年をとったら退化するのだから、困ったものだ。

年長は2組ある。
歌は結構大人っぽい歌詞。
日本人がませてきているのか…。
「勇気」とか「愛」とかいう言葉も出てくる。
何となく、大人が子供が歌うのを聞いて感動する、というのを狙っているような気がした。
あどけない子供が、そういう歌を歌うということが、感動を呼ぶのだろう。
でも、歌っている子どもたちは、教えられたとおり歌っている。
実際、涙ぐんでいるお母さん方もいたが…。

メロディも半音がたくさん出てくる、結構難しいものもあった。
それこそ、コードは結構難しい。
先生のピアノは上手だったが、無邪気に歌うという感じではなかったなあ。

秋に運動会に行ったときも感じたが、大人を感動させるためにやっている感じがある。
何となく、そんな気がした。

ぼくらは「犬のおまわりさん」なんかを歌っていたと思う。
幼稚園の音楽会の記憶はもうないが、そんなものだったはず。
「勇気」や「愛」などという言葉は少なくとも出てこなかった。
そういうものは、幼稚園児が歌う歌詞ではない、というのが当時の常識だった。
今の若い先生とはだいぶ違うんだろうなあ。

最後に年長組全体でハンドベルの演奏もあったし、カスタネットの振り付けもあったし、いい音楽会だったと思う。
それでも、何となく少なくなった子どもたちに来てもらうために、決定権のある大人にアピールするような商業主義を感じてしまった。

年をとると、世の中についていけなくなる。



| | 考えたこと | 16:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
女性ギタリスト
フェンダーのCEOがギタリストの多様化について、話している。
今年の10月、アメリカやイギリスで調査を行ったところ、新たにギターを始める人々のうち、50%が女性であったらしい。
英語圏ではテイラー・スイフトの人気が高いが、それらの効果が持続的にムーブメントになった、という。
ちなみに、テイラー・スイフトはカントリーの女性歌手で、ステージでギターも弾く。

日本でもプリンセス・プリンセス以降、女子だけのバンドやギターを弾くシンガーも増えてきた。
若いところでは、miwaやChayはぼくも知っている。
たしかに、相対的に男子のギタリストが減って、女子のギタリストが増えているのは確か。
駅を歩いていても、高校生や大学生らしき女子がギターのソフトケースを背負って歩いているのを見ることも増えた。
女性ギタリストのロールモデルが増えたのだ。

取材した記事によると、

「女性のギターへの関心の高さは今も持続しており、それどころか上昇しています」とアンディ・ムーニーは『NME』に語っている。「アコースティック・ギターを初めて手に取り、それを習得した女性たちの多くが、『オーケー。次はエレクトリック・ギターが欲しいわ』と思ってくださっています。私がフェンダーに初めて来た最初の数年間はアコースティック・ギターの売り上げのほうが伸びていましたが、今はそれが逆転しているのです」

ということだ。
アコースティックからエレクトリックへ、という動きは男子も同じだった。
それが女子にも起こっているということだ。

それに一役買っているのが、Youtubeなどのオンライン動画教材。
ギターショップは男性が多く、そこで女性がバカにされるのを減らしたという効果があるとのこと。
フェンダー自らもオンライン教材をやっているが、Youtube上にはたくさんの無料のコンテンツもある。
それらを使って、自宅で練習すれば、店員にバカにされることもない。

日本の店ではそんなことはあまりないと思うが、そういう場面も多いのかもしれない。
フェンダーのCEOがこう言っているくらいだ。

「ギターを始めたての人たちは誰しもがバカにされてしまいますが、女性たちにとってはその脅威がさらに増すことになります。私はその光景をこの目で目撃したことがあるのです。熟練した女性のギタリストと一緒にお店に入ったことがあるのですが、店員がその女性のもとへ来て、『旦那さんかボーイフレンドをお探しですか?』と訊いたのです。その質問は、そのお客さんを永遠に失ったことを意味します」

アジアではその傾向はもっと顕著だという。
予想では新たにギターを購入する消費者のおよそ70%が女性だと見込んでいるらしい。
ほんまかいな、と思うがブラスバンドの状況を見れば、それもそうかもしれない。
日本では、今や音楽は女性がたくさん活躍しているからだ。
2つのオーケストラの演奏を年末に聞いたが、弦楽器も、管楽器も、若い人は圧倒的に女性。
ギターも、そうであっても不思議ではない。

まだまだギターの未来は明るい。

フェンダーのCEOはフェンダープレイというオンライン教材で、最も検索されているのは、オアシスの“Wonderwal”という曲だ、と言う。

「そうです、あの曲は3つのコードで作られたシンプルな楽曲なのです」とアンディ・ムーニーは語っている。「ギターを初めて自分のものにできたという瞬間を味わえるような楽曲です。自分にとっての最初の到達地点となるのです」

ぼくらがフォークソングでやりだした頃だって、3つのコードだった。
C、F、G7か、G、C、D7あたり。
キーを変えるときは、カポタストを付けて上げたり下げたりするのが当たり前だった。
そんな時代だったのだ。

フォークからカレッジポップスを経て、ニューミュージックの時代になると、曲も複雑になった。
ユーミンの曲は易しそうな曲でも、結構複雑なコードを使っている。
ぼくらが上達するに連れて、音楽もそういうものになった。
ラッキーな時代に生きたといえる。

今から始める人は、いきなり複雑なコードを覚えないといけない。
達成感を持って、1曲を弾くということが難しくなった。
そういう時に、3つのコードで弾ける曲がまた復活した、ということだろう。

これからは、ギタ女の時代らしい。

ギターの未来はまだまだ明るいということだ。
よかった、よかった。




| | 考えたこと | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
コミュニケーション能力
文科省の追加調査で、いろいろな大学の医学部の入試で不正が行われたことが明らかになりつつある。
中でも順天堂大学の医学部入試で、女子の点を一律下げていた理由がスゴイ。
なんでも、女子は「コミュニケーション能力が高い」から減点していたということだ。

これにはビックリ。
今の企業が学生に求める能力の一番が「コミュニケーション能力」と言われて久しい。
医師という人間相手の商売に、コミュニケーション能力が高いことが悪いことなんだろうか。

第三者委員会の報告書を引用すると、

B 面接試験結果における男女の成績分布差の補正である旨の説明
(A)順大医学部教職員に対するヒアリング調査において、大学受験時点における男女を比較すると、女性の方が精神的な成熟が早く、男性より相対的にコミュニケーション能力が高い傾向があり、また、大学入試時点における女子受験者に対する面接評価の補正を行う必要があった旨の説明が、多数の教職員によりなされた。

と書いてある。

それに関する心理学の論文も提出したとのことだから、事前に罪の意識があったのだろう。
何らかの合理性をこじつけないといけなかったということだ。

くさるほどある心理学の論文を探せば、そういうものも出てくるだろう。
それなら、面接試験の実施要項にちゃんと、女子はコミュニケーション能力が高い傾向があるので、それを考慮した配点をします、と書けばいいのだ。
それを書かないのは、後ろ暗い証拠。
やってる方も、無理があるなあと思っているのだ。

もともと、医学部の入試に面接が採用されたのは、コミュニケーションに問題がある医師が多かったからではなかったか。
患者の顔を見ずに診察するとか、何を考えているのかわからないとか、そんな医者を作ってきた反省に基づいて始まったのだと思う。

それがこういう結果になる。
言うに事欠いて、コミュニケーション能力が高すぎる、とは呆れるほかない。
そんなものは言い訳でしかない。
まだどこかの医大のように、正直に「男子が取りたかった」という方がマシだ。
こんな面接試験なら、やめたほうがいい。

面接試験をやるとこういうことが起こる。
入試に採点者の主観が入るのは良くない。

今の入試改革でも、その点は見直すべきだと思う。




| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
若い歌声
今日は久しぶりに若い歌声を聞いた。
昼休みに、クリスマスソングの練習をしている女子学生たちの歌を聞いたのだ。

曲はマライア・キャリーの”All I want for Chritmas is you"という曲。
1994年の曲だ。
リリースされてまだ20年ちょっとだが、もはやクリスマスのスタンダードの仲間入りという感じらしい。
ぼくは知らなかったが、いい曲だった。

リーダーらしき学生が最初にソロを歌う。
そのあと、みんなで振りを付けて歌う。
メロディと上3度のハモリ、それとコーラスに分かれていた。

若い人の声は、年配者とは違う。
第九のコーラスはほとんど30代以上。
メインはまあ50代以上といった感じかな。
男性もそうなんだろうが、声は年で変わる。
第九の声とは違う。

もちろん、年とともに音域はちょっとずつ下がってくるんだろうが、そんなのではなく、声の色が違うのだ。
声の色が鮮やかな感じ。
ああ、いい声だと思う。
心が洗われるような声だ。

みんな英語で歌うのだが、見てるのは楽譜ではなくスマホやiPad。
時代が違う。

まだまだ本番まで間があるが、どこまで上手になるのだろうか。

ぼくらも若い頃はあんな声が出ていたのかと思う。

過ぎてみなければ、わからないこともある。



| | 考えたこと | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
クリスマスイルミネーション
こないだワールドニュースを見ていたら、スペインのどこかの州では各家庭でやっている派手なクリスマスイルミネーションを指導するとのこと。
基本的には各家庭で飾り付けしているのだが、電力のムダになるので、LEDを使っていなかったり、華美なものは行政が注意して回るみたいな話だった。
ネットで日本語で検索しても載っていないが、そういうこともあるのだろう。
洋の東西を問わず、クリスマスのイルミネーションはだんだんと派手になっている。
これも長いこと平和が続いたおかげだろうなあ。

たしかに、クリスマスのイルミネーションはどんどん派手になっている。
ぼくらが小学校の頃、そんなことをやる習慣もなかったし、誰もやっていなかった。
まだまだ日本も貧しかったからだ。

あれを一般家庭でやりだしたのは、90年代後半くらいからだと思う。
最初は2階の窓に外向けにサンタのイルミネーションをやる、みたいなのが多かった。
そのうち、庭にある木にイルミネーションをしたりして、

そういえば、郊外にできた分譲地で、その一帯はイルミネーションをやっている、というところがあって、評判になったりしたこともある。
東北の震災も遠いところだから、自粛という雰囲気もなく、ちょうどLEDになって省電力にもなったから、今もやってるんだろう。

ルミナリエ以降、いろんな自治体がやり始めたのも大きい。
駅のロータリーみたいなところでもやっている。
個人消費の雰囲気づくりのためだろう。

いつからやっているのか知らないが、キリスト教系の大学ではツリーの点灯式というのもある。
点灯式のインターネット中継もあるとのこと。
キリスト教系でなくても、やってる大学もあるようだ。
仏教にゆかりのある大学でもやっているらしい。
大学も学生を呼び込むためには、なんでもやる時代。
ネットの上では、自分たちの学費がこんなことに使われるのは…、という批判もあった。

ともあれ、どんどんクリスマスは派手になっていく。
これだけ派手になるということは、クリスマスの宗教色が薄れてきたということでもある。
アメリカのドラマを見ていたら、小学生などがクリスマスが近くなるとキリストが生まれる劇をやったりする。
日本でもキリスト教系の幼稚園などではやっているのだろうか。

キリスト教がメジャーな宗教ではない国でも、日本のようにクリスマスをやっているのだろうか。
調べてみると、イスラムの国でもホテルなどでは飾り付けをして、メリー・クリスマスという挨拶になるらしい。
そういえば、メリー・クリスマスの宗教色を嫌がって、ハッピー・ホリデーという言い換えもあるという。

クリスマスがメジャーになったのは時期もあるのだろう。
年末の休みたい時期だ。

いい時代になったものだ。


| | 考えたこと | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
クロームキャスト
こないだクロームキャストを買った。4980円。
グーグルが販売している。
Youtubeなどの動画をテレビに映すことができる。

どうやって使うのかと思ったら、まずスマホとクロームキャストを同期して、それで動画を選び、クロームキャストに送る。
いったん送ったら、あとはクロームキャスト側で通信をするようだ。
スマホの通信量は増えない。

本体に電源をつないで、テレビのHDMI端子差し込むだけ。
だいたい、スイッチも何もなく、テレビに繋ぐだけだ。

クロームキャストで使えるのは、Youtubeだけではないが、ぼくはほとんどYoutube。
これは便利だ。
Youtubeが始まって25年。
集まった動画は膨大だ。
2016年の推定で、21億5000万の動画数、というデーターがある。
1分間に20時間分動画がアップされている、という話もある。
とにかく、すごい量だ。
再生されるのは全体の1%という話もあるが、さもありなん、と思う。

Youtube上にある動画は、テレビよりも面白い。
ときには勉強になるものもある。
見たいものを検索して入れるだけでいい。

最近はもっぱら音楽。
聞きたいミュージシャンの名前を入れれば、曲集が出てくる。
この季節なら、山下達郎のクリスマスイブがオススメで出てくる。

それ以外には、お笑いだ。
芸人の名前で検索すればいくらでも出てくる。
キズナアイなど、バーチャルユーチューバーもたくさんいる。

若い人たちがテレビを見ないというのも、よくわかる。
Youtubeには膨大なコンテンツがあるからだ。

それをテレビで見ているぼくは、やっぱり古いのだろう。

大きいほうが見やすいからなあ。




| | 考えたこと | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
大御所の芸人
関西の芸人を見ていると、大御所と言われるようになりかけると、何となく態度に出る人がいる。
「自分は大御所だ」という雰囲気。
そういう空気を感じると、ぼくはもう見るのが嫌になる。
明石家さんまや上沼恵美子、ダウンタウンの松本、トミーズの雅、中川家など。
鶴瓶もそういう感じはあるが、ギリギリのところ。

そういう意味では、昔の芸人はエラかったと思う。
年はとっても所詮は芸人、という感じがあった。
当時は芸人のランクが低かったからかもしれない。
俳優、歌手の下だったし、本当の文化人等が出ていた頃だ。
だから、所詮は河原乞食という謙遜もあったのだろう。
本当の大御所の人たちは、いくつになっても、謙虚なものだった。

今は民放はお金がないから、相対的に芸人を使う頻度が上がった。
ギャラが安いからだ。
頻度が上がると勘違いする人もいる。
そんな歳になっていなくても、人気が出ると回りもちやほやするんだろう。
何となく、大御所になったような気になるのではないか。

そういう態度は、笑いの対極にあるものだと思う。
それを楽屋落ちでやるのならかまわない。
業界人だけだからだ。
そういう雰囲気を放送で出してはオシマイだと思う。

また、その大御所を持ち上げるように、若い芸人たちが取り入るような場面もある。
自分を使ってもらうために、媚びるのだ。
それを番組の中で堂々とやる。
いわゆる、「イジる」というやつ。
そうなると、いよいよ見る気がしなくなる。

関東の芸人もそういうところはあるのだろうか。
でも、タモリやたけし、所ジョージなどにはあまり感じない。
あまり気にならないのは、見てないからかもしれないが…。

若い頃は、笑いは関西だと思ってきた。
今はそれほど思わない。

「よしもと」は良くも悪くも笑いをビジネスにし過ぎたのだと思う。

寂しい限りだ。




| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
フランスの暴動
フランスで暴動に近いデモが起こっている。
こないだも書いたように、きっかけは燃料税の引き上げだが、今やマクロン大統領への批判になっている。
今まで、この手の現政権批判のデモでは、若い人たち、特に大学生などが中心になっていた。
でも、朝のワールドニュースを見ていると、今回は結構年齢が高い。
若い人の比率は減っているのだと思う。

今朝も、黄色いベストを着ていた人たちにインタビューしていたが、中高年ばかりだった。
言っているのも、「引き下げられた年金を元に戻せ」とか、「孫に小遣いをやることもできない」というようなものだ。

これまでのパターンなら、若い人たちが、仕事がない我々に仕事を与えろというようなメッセージだが、今回は聞かれない。
思うに、フランスでも高齢化が進んで、経済的にその人たちの社会保障を削らざるを得なくなってきているのだろう。
決まったパイの中から、お金を払う人が減って、貰う人が増えたら、これは仕方がない。
フランスのように、ある程度移民を入れ、少子化対策が成功している国でも、こういう事態になる。

ちなみに、フランスの消費税は20%。

こういうデモがこれから増えてくるのではないかと思う。

日本でもどんどん年金は削らざるを得ない。
制度を守ろうとすると、働く人(年金を負担する人)を増やすか、徴収額を増やすか、受給年齢を上げるか、受給額を減らすことが必要だ。
単純計算でそれしかないのだから、どうしようもない。

働いている人たちの負担を少しでも軽くするために、消費税を上げようとしているのだろう。
年金を続けていくためには、年金を払っている人たちからもお金を集めないといけない。
それで相対的に若い人の負担は減るはずなのだ。
貰う人はどんどん増えていくのだから…。
先進諸国がいずれも消費税率が高いのには、理由がある。

今のフランスで、若い人たちは、高齢者が「年金を削ったのをもとに戻せ」というような声をどう思っているのだろうか。

そのあたりのルポを見てみたいと思う。

それは日本の数年後の姿ではないか。


| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
コンビニの値段
コンビニの値段が高いのは、小口で配送するとか、営業時間が長いとか、商品の入れ替えが激しいとか、そういう理由があるのだと思っていた。
ところが、「賞味期限のウソ 食品ロスはなぜ生まれるのか」という本によると、それだけではなく「捨てる費用」もカウントされているからだ、ということだ。

そういえば、近所のセブンイレブンでアルバイトをしている高校生が、時給もさることながら、余った弁当や食材を持って帰らせてくれるから働く、ということを聞いたこともある。
どこまで本当か分からないが、たしかにコンビニのやり方でいくと、いくらかは捨てる食品が出てくるのは仕方ないと思う。

コンビニは名前が示すように便利だ。
欲しいものは置いてあるし、スーパーよりも近かったりする。
その便利さの代償がコストが高いことだが、どれくらいのコストが「捨てる費用」なんだろうか。

コンビニ限定の商品などは、他の店では売れないので、売れ残ったら捨てるしかないという。
週にいくつか以上売れないと、棚から撤去されるというようなこともあるらしい。
棚からなくならないように、メーカーの社員にはノルマがあって買ったりしていたとのこと。
いろいろと、コンビニ特有の事情もある。

この本の筆者は食品メーカーに勤めたあと、フードバンクという、商品として流通できない食品を企業から引き取り、福祉施設や困窮者に無償で分配する会社に勤めたとのこと。
食べ物を捨てるということに、ひとかたならぬこだわりがあったのだろう。
現在は大学で教えていて、学生から話を聞くという。

大学生のアルバイトは、初めてコンビニや宴会場、外食、食品小売などで、大量に食費を廃棄せざるをえない状況に直面して、衝撃を受けたり心の痛みを感じたりするらしい。
それはそうだろう。
一方で食うに食えない人もいるのに、他方では大量廃棄されているのだ。

そんなところを見るのは、あまりいい経験とは思わないが、反面教師ということもある。
豊かな日本の影の側面だ。

しかし、これだけITが進んでも、廃棄食品がなくならないとはどういうことなんだろう。
コンビニの強みは、要るものを要るだけ、タイムリーに売るということだったはず。
まだまだそのあたりの工夫が足りないのか。
損を込みで値付けしているから、経済的には痛くないからか。

ぼくらが、まだまだコンビニは値段が高いということで、スーパーに行けばいいのだろう。
そういう人が増えると、食品廃棄のコストを下げるために、努力するだろう。

便利さの裏には、いろんな不都合がある。
大量の食品が廃棄されるというのもその一つ。

それを減らすためには、消費者の行動も必要だ。

でも、便利だからなあ‥




| | 考えたこと | 20:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
飲めや歌えの第九
昨日は芦屋で第九の教室の打ち上げパーティがあった。
人数は100人ちょっと。約3分の1だ。
会場の都合で、希望しても出席できない人もいたのは気の毒。

去年はメールが届かず、出席できなかった。
事務局はフェイスブックで連絡ということだったのだ。
まぎらわしいGメールのアドレスがあったのが敗因。

今年はアナウンスと同時にフェイスブックで連絡したが、それでも整理番号40番。
なかなか人気の高いパーティだ。

夜の7時スタート。
席はくじ引きでみんなバラバラだが「何回目ですか?」という会話で話が弾む。
やはり毎年の抽選が曲者。
特に女性は厳しいようだ。

絶対数で男性が少なく、それでも4つのパートが必要だから、男性は当たりやすい。
女性ばかりのグループは当たりにくくなる。
まあ、そうだろう。

アルトとソプラノなら、ソプラノのほうが当たりやすいとのこと。
ソプラノは人気があるのだが、声が高すぎてシンドイ。
だから、経験者はアルトに行くらしい。
それでアルトが増える。
同じ理屈で、男性はテナーのほうが当たりやすいのかもしれない。

女性ばかりよりも男性が入っている方が、当たりやすいのは確かなようだ。
そういう声はあった。
どこまで本当かはわからないが…。
主催者としては、男女同数で申し込んでくれるのがありがたいのだろう。

子供と大人のプレゼント抽選のあと、歌唱指導のコダマ先生の歌と、コダマ先生、ピアノの富山先生に記念品贈呈。
そのあと、いよいよ最後の第九を歌う。

ビールを飲んで、リラックスして歌うとすごく声が出る。
少々間違えてもかまわないと思うと、肩の力も抜けて、のびのび歌えるのだ。
歌い終わって、やっぱり酒を飲んで歌わないと…と話していると、本番の休憩のときに飲んでいる人はいたとのこと。
なるほど。
トイレの問題はあるが、なかなかいい考えだ。

飲んで歌うと、楽に歌える。
昔から、飲めや歌えの大騒ぎという。
第九もその調子で歌えばいいのだ。

みんなで飲んで歌えば、きっと1ランク上のコーラスができるはず。

実際、今日のコーラスはよかった。
これでしばらくは第九を歌うこともない。


| | 考えたこと | 18:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
文系にも数学を
今の文系大学生で、数学が不得意な人の特徴は、数字そのものが嫌いだということだ。
見たとたん「嫌い」という気持ちが先に立つ。
だから、意味を考えることができない。

意味を考えたくないから、公式に頼る。
速度は「はじき」、割合は「もくわ」という具合。
「はじき」は「速さ、時間、距離」の関係を図で表すものだし、「もくわ」は「もとになる数、比べる数、割合」の関係を同じような図で表すものだ。
学校でわからなくて、塾でそういうのを習ったという学生もいる。

文系大学生が不得意な速度の問題など、意味を考えたらそんなに難しくない。
速度とは、単位時間に進む距離のことだ。
そんなことは当たり前だと笑うことなかれ。
それがわからないから、簡単な文章題が解けない。

円形の池の同じ場所から、反対に向いて2人の人がある速度で歩く。
出会うのは何分後かというような問題。
池の回りの距離はわかっているし、2人の速度も各々わかっている。
距離を、2人の速度の和で割るだけなのだが、それがわからない。
こちらは何がわからないのか、わからない。

速度の意味は、単位時間に進む距離のこと。
1時間に進む距離なら時速、1分間に進む距離なら分速という具合。
速度の問題がややこしいのは、計算の前処理や後処理。
時速を分速に直したり、逆に分速を時速にしたり、分を時間に直したり、時間を分に直したりという処理。
それが速度の問題のネック。
だから、公式を覚えていても、難しいのだ。
公式といっても、「はじき」という程度。
速さは距離÷時間、時間は距離÷速さ、距離は時間×速さという関係を絵にしたもの。

そんな子供だましの絵を覚えるくらいなら、速度は単位時間に進む距離のこと、とおぼえた方がマシだ。

損益算にしたって、定価、仕入れ値、売価、利益という言葉の定義がわからないのがネック。
要は小学校で「手でさわれないもの」を想像する訓練が足りないのだと思う。
定価や仕入れ値というのは、こういうものという定義はあるが、これが定価だ、というものは具体例しかない。
こちらは国語の問題。
仕入れて、売って、儲かるということがイメージできない。
だから、売上を利益だと勘違いする。

いったいどこで躓いたのだろうか。
10年ほど前に文系の大学生がそんな状態だと知った。
もちろん、みんながみんなではない。
それでも、相当数はいるだろう。

割合や速度の概念がわからない人がたくさんいる。

それをわかっている大学もたくさんある。
実際に、就職筆記試験でそういう問題が出されるが、それができないのだ。
それでも、それを放置している。

今日は文系の大学生にも数学を必須に、という経団連からの提言が正式に出た。

まことに正しい提言だと思う。





| | 考えたこと | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
黄色いベスト運動
パリで暴動が起こっている。
有名なシャンゼリゼ通りはエライことになっているようだ。
何かを燃やしたりして、黒鉛が上がっているところがニュースで映されている。

今朝のインタビューによると、燃料税を上げることに対して、生活していけない、という不満が爆発したという感じだった。
それが今は現政権のマクロン批判に変わった。
あの国は、フランス革命にもあるように、一旦動き出すと過激な方にいく国民性だからちょっとアブナイ。
極右のスローガンが出たりしているということで、今のEUの方針にも反対ということだろう。

ドイツもメルケル首相が退陣予定ということで、どうなっていくのだろう。
EUを推進しているフランス、ドイツの指導者の旗色が悪い。
マクロン大統領はこないだの第一次大戦の記念式典で、ナショナリズムを警告をしたところだが、その後のこの状況だ。

エライコッチャなあ。
EUができたときは、理想に燃えていたのだと思う。
ヨーロッパ大陸の歴史は、戦争の歴史だったから、それをしないためにヨーロッパ全体を大きな大陸として、やっていこう、というのが理想だ。
それによって、経済的にも強くなる。

でも、そんなにうまくいかない。
理想はなかなか現実にならない。

近代科学が生まれたヨーロッパ。
自由や平等の観念が生まれたところでもある。

イギリスはEU離脱でゴタゴタしているし、イタリアは財政赤字で困っている。
ヨーロッパはどうなっていくのだろう。

何となく不穏だ。


| | 考えたこと | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
第九本番
今日は朝から第九の本番にのぞんだ。

去年より一本早い電車で大阪城公園前に着いて、会場にスムースに入った。
今年はアリーナ席。
指揮者を前に見ながら、歌える場所だ。
やっぱり指揮者を見て歌えるのはいい。

1万人が集まるということは、すごいことだ。
それも、男性は特に高齢者ばかり。
去年も書いたが、休憩時間にみんなトイレに行く。
最後の休憩が本番前で一番混む時間。
そこを若い女性が二人通りかかって、並んでいる人達を眺めて「一万人のトイレやな」と言った。
それが言い得て妙で、なんとも言えなかった。

一万人の第九は尿意との戦いだ。
若い人たちにとってはどうってことない。
しかし、年寄りにとっては、深刻だ。

まだ男性は回転が早いからいい。
女性は大変だと思う。

歌を歌うということは、太古の昔から人間の楽しみだ。
集団の心を一つにするために、歌ができたのだろう。
宗教にも歌がつきものだ。
お経も歌みたいなものだ。

そういう歌を1万人が歌う。

佐渡裕は一人ひとりが主役だと言っていた。
1万通りのストーリーがあるのだ。

それが、歌を通して一つになる。
最後に蛍の光を歌って、フィナーレ。
何度もソリストや各教室の歌唱指導の先生が出てきて、みんなに挨拶する。
拍手が鳴り止まない。

これが歌の力だと思う。

来年も応募しよう。



| | 考えたこと | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラバーンとシャーリー
こないだドラマを見ていたら、女性二人が部屋を借りるという話になって、そこで片方が「ラバーンとシャーリーみたいに」というセリフを言った。
それを聞いた方は「それなに?」という。
微妙に年齢が違って、どちらも知っている、というわけではないというオチ。

「ラバーンとシャーリー」は、Wikipediaでは1976年から1983年まで放映と書いてある。
もちろん、アメリカでの放映だ。
日本では一時深夜に放送されていた。80年代だったと思う。
ちょうど、キャグニー&レイシーという刑事ドラマをやっていた頃。

もう放送終了してから35年経っているから、再放送があったとしても、40歳くらいでないとこの番組は知らないだろう。
そういえば、ドラマの中の女性は二人とも30代くらいの設定だったから、生まれたのは放送が終わってからだ。
でも、「ラバーンとシャーリーみたいに」というセリフになるくらいだから、全米でヒットしたドラマだったとわかる。

「ラバーンとシャーリー」は30分のコメディ。
女性二人のアパート暮らし。
二人はビール工場で働く工員。
そんなに裕福ではない設定だ。

Youtubeに何本かアップされていた。
二人が、フォークリフトで運ばれる樽の横に立って、工場の中から出てくる場面など、80年代らしい。
いかにも、ヤンキー娘という感じで、面白かったのを覚えている。

スーパードラマTVのページに「ラバーンとシャーリー」の解説があった。
それによると、

古き良き50年代の小さな町を舞台に、仕事仲間や近隣の人々のドラマを描くコメディ。他愛のない、しかし本人にとっては重要な事件が毎回取り上げられるため、より身近なイメージが人気の秘訣となり、アメリカでは8シーズンものロングランとなった。評論家たちはこのシリーズを賞賛の意をこめて“テレビの中のごった煮料理”と呼んだという。

と書いてある。

ほんとに他愛のないことが、面白く描かれたコメディだった。

ラバーンもシャーリーも演じた女優はまだ存命だが、二人とも70歳を超えている。
あの時、可愛かった二人も、もうおばあちゃんになっているのか。

年をとるはずだ。

ラバーンとシャーリーみたいなものがアップされていると、見てしまうだろうなあ。

Youtubeはそのうち高齢者にとってのエンタメの宝庫になるぞ。




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