考えたこと2

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脳のトレーニング
任天堂のゲームボーイDSのソフトで、今テレビで宣伝している脳を鍛えるトレーニングをやった。
最初に、このトレーナーを考案した東北大学の先生の説明が出てくる。

人間が、いろいろな動作をしているときに、脳のどの部分が活性化しているか?という研究結果から、このトレーナーは作られたとのこと。

最初にテレビを見ているときの、脳の活性化部位が出てくる。
活性化している部分(血流が多い)を色づけで図示しているが、テレビを見ているときは、脳のほとんどの部分がお休み状態であり、「へー、こんなに少ないのか・・」とびっくりした。

ソフトの宣伝のホームページを見てみると、テレビを見ているときの図は出ていないが、考え事をしているとき、複雑な計算問題を解いているとき、簡単な計算問題を速く解いているとき、本を音読しているときの4つの状態の脳の図が出ていた。

考え事をしているときの脳は、テレビと同じくほとんど色がついていない。
これはちょっと意外。

複雑な計算問題を解いているときも、あまり色がつかない。

簡単な計算問題を速く解いているときと、本を音読しているときは、驚くほど脳の血流が多くなっている。

詳しく見たい人は、このページを・・。

http://www.nintendo.co.jp/ds/andj/introduction/index.html

だから、脳力トレーナーは、計算問題と漢字の問題が出てくる。たしかに、やっていると頭を使っている、という気はする。

教授の説明によると、このトレーニングで記憶力が上がるとか、結果が出ていた。

でも、何か納得できない・・。考え事や複雑な計算が、脳のトレーニングにはならない??

きっと考え事をしているときや複雑な計算をしているときは、脳の使い方が違うのだ。

このトレーニングは、脳の筋トレだと思えば、少し納得できる。筋トレをいくらやっても、その筋肉の使い方を知らなければ(実際のスポーツを知らなければ)、あまり意味がない。

たしかに、脳の活性化は大事だと思うし、効果があるんだろうけど、これだけでは脳の筋肉バカになってしまわないか?
昨日、読み書きそろばんは大事、と書いたが、それは筋トレの意味ではない。

いろんな事を考えて、心をゆたかにしたり、自分のやっていることの意味を見出したりするためだ。

決して筋トレを軽んじているわけではない。
ただ、考え事や複雑な計算は脳をあまり使わない、と言われると・・・何となくオカシイと思う。


| | 考えたこと | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
読み書きそろばん
昨日「数」はどこにある、と書いたが、「言葉」も同じだ。
実体はない。存在しないものだ。
紙の上に書かれた言葉は、実際には紙の上に乗っているインクや鉛筆の炭素でしかない。
こうやって、見えているものも、実体はディスプレイの上の黒い点の集まりでしかない。

いろいろなものに、人間が名前を付けたり、伝えたりする仕組みの総体が「言葉」になる。

チョムスキーというアメリカの言語学者は、人間の脳にはもともとあらゆる言語に通じる文法が備わっている、と言っている(と思う)。
言葉とそれを操る能力は、人間だけに備わった、高度な脳の仕組みであるという事だろう。

批評家の小林秀雄は、「美しい花がある。花の美しさというようなものはない。」と言った。

実体があるのは、花というモノであり、「美しい花」という言葉は、それを名付けるために人間の頭の中にだけある。
まして、「美しい」というような言葉は、カタチのないものをあらわしている。
考えはじめると、わけがわからなくなる。

人間の発生する言葉も、実体は空気の振動でしかない。

結局「言葉」というものも、「数」と同じく、人間の頭の中にしかないものだ。

「数」と同じく、最も人間らしいものが、「言葉」ということになる。

「読み書きそろばん」とはよく言ったもので、「読み書き」が「言葉」、「そろばん」が「数」につながっている。
本を読むこと、文章を書くこと、計算すること、これがすべての基本だ、と言っているんだと思う。

人間らしさを身につけるためには、やっぱり「読み書きそろばん」である。

昔の人はエライ!


| | 考えたこと | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
「数」はどこにある
最近、「数」というのは、世の中にはないものだ、と気がついた。

子どもにそのことを言ったら、目の前にあったリンゴを指さして、「ここに1個のイチがあるやん」という。
「それは、1個のリンゴで、イチというのはどこにもないやろ、あるのはリンゴだけやん」というと、小銭を指して、
「ここに1円玉がある。これはイチや」という。
「それは、1円玉で、イチはどこにある?」というと、
「わかった。それ以上は聞きたくない」と言って去っていった。

「数」を書いたものはたくさんある。
値段表や番号表など。でも、それは数字であって、「数」ではない。
物差しの目盛りに1、2と書いてある。それも、目盛りとして書かれたものであって、「数」ではない。

純粋な1とか2とかいう「数」はどこにもないのだ。

それは、人間の頭の中にしかない。

「数」が人間が生まれる前からあったのか、それとも人間が作り出したものなのか、それは難しい。

でも、「数」は地球の上では、人間しか持っていない。

だから、「数学」が大事なんだろう。この歳になってわかった。
人間の頭の中にしかないもの・・・最も人間らしいもの、「数学」を教えるのは、計算ができるようになるためだけではない。
人間らしい思考ができるようになるために、やるんだと思う。

数学の教科書に、そういうことも書いておいてほしかった。


| | 考えたこと | 22:45 | comments(2) | trackbacks(0) |
クルマの価値
若いころ、クルマというものは、すごく思い入れの強いモノだった。
エンジン形式や馬力、サスペンション形式、駆動方式などの仕様にこだわったり、その車種がモータースポーツで強かったり・・・というようなこだわりがあった。

もっと下世話なところでは、このクルマは女の子にモテるとか、そんな思いもあった。
むかし、深夜放送で、山下達郎が竹内まりやをプレリュードに乗せて、首都高速を走りながら口説いた・・という話を聞いたことがある。

60年代から80年代の若者は、クルマというと、そんなこだわりがあったと思う。

90年代以降、それは変わってきたのではないか。
要は、動いて、運ぶ、という本来の目的さえ満たせばよい、という風になってきたと思う。

クルマの性能がよくなって、どんなクルマを買っても、本来の目的は充分に満たすし、故障もしないという状況になったという事がある。
もちろん、道路が整備されたこともある。
レンタカーが借りやすくなった事もあるかもしれない。

でも、それだけではないと思う。
クルマというモノのカリスマ性がなくなってきているのだ。
小学校の頃、親戚のおじさんが車を買って、祖母の家に乗ってきたときには、運転席に座らせてもらって、すごくうれしかった。

親の世代がクルマを持っているのがあたりまえの世代になって、生まれたときからクルマに乗っていた人に関しては「クルマを持つ」ということに対する思い入れが減ったんだと思う。
さらに、クルマよりももっと欲しいものがでてきた。

携帯電話、その電話代、パソコン、海外旅行、各種ブランド品・・・など。

既にアメリカでは「欲しいものリスト」の順位で、中古車の方が新車より順位が高いらしい。

こんな風にして、モノの価値は変わっていくのだろう。
いつまで、クルマが日本の産業を引っぱっていく、という時代が続くのだろうか。

移動すること(動くこと)は、動物の本能だし、それは人間の本能でもある。
だから、クルマというモノは、なくてはならないモノであることは事実だけれど。

| | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
ならんだこと
中学校の時に、笑福亭仁鶴が出てきて、関西地方では一世を風靡した。

「どんなんかナー」に代表されるような、流行りのギャグもあった。

中之島のSABホールでやっていた、ヤングOh!Oh! という番組に仁鶴が出ていて、中学2年の時に、友達がハガキで中継録画の席が当たり、一緒に行ったのを思い出す。
朝の10時から並んで、昼の2時頃にようやく整理券もらった。それでもだいぶ後ろの方だったが・・。
ビルのまわりを一周以上行列がならんでいたと思う。

たぶん、11月か12月だった。寒かった。
昼も食べず、よくならんだと思う。

そういえば、その年に万博があった。(今は大阪万博と言わないと、ダメなのかな?)
千里に何度か行ったが、あれもよくならんだ。
何かを見ようとすると、2時間、3時間、長ければ4時間、もっとかな・・よくならんだと思う。

僕は結局ならぶのがイヤで、アメリカ館の「月の石」は見なかったが、あの頃は暑いさなかに、数時間ならんで見た人もたくさんいたハズ。
それでも、とにかくよくならんだことは覚えている。

あの時に、初めてフローズン・コーラを食べた。それをやたらよく覚えている。
生まれて初めてのフローズン・コーラはすごく冷たくて、おいしかった。

それ以降は、それほど長時間ならんだ記憶がない。

遊園地はあまり行かないし、長時間ならんでまで、ということは避けてきた。

そういえば、子どもが小さい頃、新製品のおもちゃを買うために、ダイエーの前にならんだことはあったか。
おー、大阪のポケモンセンターで、ならんだこともあった!

子どものためにはならべても、自分のためにならぼうとすることはない・・。

そんな歳になったと思う。


| | 考えたこと | 01:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
眠れない時は
寝つきが悪い。

小学校の頃は、眠る前に必ず本を読んでいた。同じ本を何度も読んだ。
よく覚えているのは、大岡裁きと狼王ロボ(シートン動物記)。
大岡裁きは、母親と称する二人が、子どもの手を両側から引っぱって、先に離した方が・・というヤツだ。

その後、カセットテープが普及した頃から、スタンドを消して、眠るときには落語を聴いていた。
もう30年以上になる。

仕事をしはじめて、よく出張するようになった頃に、ちょうどウォークマンがでたので、さっそく買った。出張に持っていくのは、落語や漫才が入ったテープがメインだった。

あれこれくよくよ考えるような眠れぬ夜は、聴き慣れた落語や漫才にかぎる。

一時期、講演を聴いたこともあった。遠藤周作などの作家の講演会の録音である。
一本調子で、声が低かったりすると、けっこういい子守歌にはなるのだが、内容を聞いてしまうとダメだ。
考えてしまう。そうすると眠れない。

何度も聴いて、最初から最後までわかっている落語や漫才は、内容が頭に入ってしまっているから、眠れぬ夜にはいいのかもしれない。

だからといって、面白くないものでもいいかというと、やっぱり面白いヤツでないとダメだ。

アロマオイルも効く。
オレンジの香りのオイルを、ティッシュに2〜3滴落として、枕もとに置く。
ラベンダーもやってみたが、これは眠るときには香りが強すぎて、僕には合わなかった。
オレンジは何となく落ち着くような感じ。

眠ろうとすると考え事をしてしまう・・そんなときはこれらの儀式が必要になる。


眠れないときの儀式、寝つきの悪い人はあるでしょう?


| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
落ち着くこと
ギターの弦を張り替えるというのは、ちょっとめんどくさい作業。
でも、やり出すと楽しい。落ち着くのだ。

ギターの弦は、必要な長さよりもちょっと長く作られている。
70年代のフォークの人たちは、余った部分を切らずに、ギターのヘッドのところから伸ばしていた。
ギターの糸巻きのところから、6本のアンテナが伸びているような格好だった。

今は、そんなことをしている人は見なくなった。
あれはアブナイ。
細いスチールの線なので、先がささると出血する。
それでも、当時は弦を切らずに伸ばしていた。こんな事でも流行がある。

張るときには、ちゃんと弦長にあわせて、あまった分を切る。
巻き代をとって、弦を張ってから、あまりを切るのだ。
まずは太い方から3本を外して、ボディのところを掃除し、フィンガーボードを掃除し、それから新しい弦を張る。
続いて、細い方3本も同じように変えていく。

弦を張り替えると、音が変わる。ギターが生き返ったようになる。
張った直後は、すぐに弦が緩むので、弦の真ん中あたりを強く上に引っぱって、離すという作業をする。
これで糸巻きの部分の弛みを取って、音が狂いにくくする。

この作業をしていると、集中して他のことを考えなくなるから、落ち着くのだろうか・・。

日常から離れて、没頭する感じ。

単純だが、気の抜けない作業、でも毎日していることではない・・・。

そういう作業は他にもあるだろうか?
・・・思いつかない。

そういう意味では、貴重な作業なんでしょうね。

誰しも、「私はこれ」というのがあるのかな?


| | 考えたこと | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
朝の連ドラ
クルマで通勤するようになって、NHKの朝の連ドラが身近になった。
8時15分から少しだけ、テレビの音声を聞く。

今やっているのは「風のハルカ」。
湯布院と大阪が舞台で、なかなか面白い。桂文珍が旅行代理店の支店長役で出ていたが、うまかった。
ヒロインにも、好感が持てる。

朝の連ドラといえば「おはなはん」だった。樫山文枝がヒロインを演じた。
NHKのホームページによると、

「おはなはん」は放送がはじまって間もなく人気番組となり、朝8時15分からの放送が始まると、多くの家庭で家事の手を休めてテレビを見るため、水道の使用量が激減するという現象が起きるほどになりました。一年間の平均視聴率は45.8%という記録を残しています。

とのこと。昭和41年だから、1966年。小学校の4年の時だったのか・・・。
こども心に、樫山文枝がきれいだったことを覚えている。

最近のでは、浅野ゆう子が出ていた「てるてる家族」、沖縄が舞台だった「ちゅらさん」などが面白かった。

逆に、「天花」はひどかった。暗くて、うっとうしい場面が多く、朝からやるようなドラマではない・・とNHKに投書を送ったら、ご意見ありがとうございました、という返事が来た。

この頃は、関西と関東で半年ずつ制作している。関西制作の分はお笑い芸人を使いすぎて、中途半端なドラマになることが多い。だいたい、関東制作の方が面白い。脚本もマジメ。最近は関西制作もマシになった。

毎日とはいえ、15分で終わるシリーズを見ていると、始まってすぐに入り込めないといけないから、役者の存在感というのが大事だ。役者のひとことが場面のリアリティを決める、というようなことを「演劇入門」に書いてあったが、まさにその通りだと思う。

今回の風のハルカも、主人公のハルカの両親は、適役を揃えている。
脚本も大事だが、役者(脇役)が締まっている・・というのはもっと大事だ。

15分の勝負のために、NHKもよく考えていると思う。
| | 考えたこと | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
スゲー・ムリ・ビミョー
最近、子どもがよく使う3つの言葉。

何か感心するような事を見ると、「スゲー」。
何かやりたくないことを頼むと、「ムリ」。
何か良くないものを見ると、「ビミョー」。

この3つは僕らが子どもの時には使っていなかった言葉だ。

野球などを見ていて、ファインプレイがでたら、「スゲー」という。
それ自体は「すごい」がなまっただけなのだが・・。何となくニュアンスが違う。
「すごい」には、「すごぉい」「すっごい」や「すごいなあ」のバリエーションがあったし、時によっては「おー、すごい」というように感動を表す感じがあった。
今の「スゲー」は言い方が変わらない。いつも「スゲー」なのだ。
言われた方も、「スゲーで片づけんといて!」と言いたくなる場面がある。

「ちょっと、それ取って」と頼んだら、「ムリ」という。
無理なのではなくて、やりたくないのだ。「イヤ」と言えばいいと思うのだが、「ムリ」という。
自分の意志としてイヤと言っているのではなくて、不可能だ、というニュアンス。
これは、おかしい。
いつも、「ムリなことないやろ」とつっこんでしまう。

歌番組を見ていて、「この曲はどうや?」ときくと、「ビミョー」という。
「ビミョー、てどっちやねん?いいのか、悪いのか?」ときくと、「ビミョーは悪いということや」。
ビミョーというのは「微妙」ということで、どちらか判断がつかない、というふうに思っていたが、そうではないらしい。
良くないことを、良くないと言わず、「ビミョー」というのは、不要な摩擦を避けようという知恵なのか・・。

何となく、この3つの言葉を聞くと、今は人とのつながりが薄くなっているような気がする。

スゲー・ムリ・ビミョー・・どう思いますか?


| | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
プロフェッショナル
昨日、ギターの先生が出ているライブを見に行った。
70年代のフォークを聞いた。懐かしかった。神田川、なごり雪、いちご白書をもう一度、翼をください・・。

ステージが終わった後、店のオーナーが来て、話を聞いた。
ミュージシャン哲学だ。

まず、ミュージシャンである前に、社会人であれ。

ステージを降りたら、普通の人であり、ちゃんと社会人としての常識を持っていること。そういう人が、ステージに上がって、すごい演奏をするからこそ、素晴らしい。

ステージでの演奏は目一杯ではなく、余裕を持ってできること。

目一杯の演奏では、奏者自身が楽しめない。奏者が楽しまなければ、観客は楽しめない。観客を楽しませてこそ、ショーである。奏者がこれを演奏したい、というコンサートではなく、観客が楽しめるショーをやる。

いいこと、言いますよね。
さすがオーナー。

余裕、というのは本当に大事だと思う。

アマチュア落語でも、練習をして、覚えて、何度か人前で演じて、自分のものにして、余裕を持ってできるようになって初めて落語らしくなる。

自分の能力を100%出すことは大事だが、実際に何かをする部分を80%程度にして、残り20%は「それをしている自分を見ている自分」が必要なのだと思う。
だから、ステージの上では80%でやれないといけない。

「20%を残す」・・・これができるのがプロフェッショナルではないか。



| | 考えたこと | 18:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
Bygones!
アリー・マイ・ラブに出てくる、弁護士事務所の経営者の一人、リチャード・フィッシャーの口ぐせが”Bygones!"。

何かあって、落ち込むような場面で、”Bygones!”と言う。
字幕には「前向きに」と訳されている。

Bygonesの意味を辞書で引いてみると、「(複数形で)過去のいきさつ」とあり、
「Let bygones be bygones. 《諺》 過去の事は水に流せ, 過去は過去」と書いてあった。
どうも、この、「過去は過去」ということわざを縮めて、"Bygones!"と言っているみたいだ。

"Let bygones be bygones." というのは直訳すると「過ぎ去ったことを、過ぎ去ったことにさせる」という意味だから、「前向きに」という事になるんだろう。

小さいことにはこだわらない、無邪気、そしてロマンと理想主義の経営者・・という感じの役だが、彼の"Bygones!"には事務所のメンバーが救われているような気がする。

こういう人と一緒に働けたら、楽しいだろうと思う。

"Bygones!" 前向きに!


| | 考えたこと | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
プラモ屋
昔よくプラモ屋に通った。

XX模型というような名前の店。

ガラスのショーウィンドウに、実際に店の主人が作ったプラモを飾ってある。
名人芸で作り、色もプラカラーですごくきれいに塗っている。
ショーウィンドウに頭をひっつけて、見入ったものだ。

小学校低学年の時は、プラモデルというと、戦艦・戦闘機・戦車・潜水艦・自動車など、実在したものが多かった。
高学年になると、アニメの影響で、マンガの主人公などが出てきた。
モーターでちゃんと二足歩行するロボットもあった。一度、誕生日にそんなロボットのプラモをもらって、長いことかけて作った記憶がある。あまり上手に歩けないが、スイッチを入れて動いたときは感動した。

今はプラモデルの金型精度が上がったし、素材もしなやかになったので、部品を接着剤でつけなくても、パチンとはまって、ひっつくようになっている。
昔は精度が悪くて、おまけに接着剤(セメダイン)でひっつけないといけなかったし、つけると、位置がずれたりしていた。
バリも多くて、爪切りで切りとらないと、接着面がきれいに平面にならなかった。
それでも、作るのが楽しくて、小遣いをもらうと、すぐにプラモ屋に走っていった。

細かい部品が多く、きれいに作るためには接着剤の付け方を注意して、じっくりやらないといけなかったし、接着するときに、息を止めてじっと押さえておくなど、かなり難しい作業だったと思う。

プラモデルは、昭和30年代生まれの子どもが、手先が器用になるのに貢献したはずだ。

今の子どもたちは、不器用な子が多いように思う。
数年前、小学生が凧づくりをするのを手伝ったが、たこ糸が上手に結べなかったり、割り箸の中心にたこ糸を結ぶということができなかったりして、驚いた。

いつの頃か、接着剤にシンナーが含まれている、ということでプラモデルは下火になった。
実家の近所のプラモ屋も、今はもうない。

プラモデルの箱がうずたかく積まれていて、その中に初老のおじさんが座っていた。

今の子供らは、店のポイントカードを持って、ゲーム屋に通っている。
古くなったゲームや機械は中古で売る。

プラモ屋が懐かしい。


| | 考えたこと | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
思いつき薬
こないだ読んだ、外山滋比古の「思考の整理学」にも出ていたが、昔の中国のエライ人が、考え事をするのに適した場所を3つ挙げていて、それを「三上」という。

馬上:馬に乗っているとき(今で言うと、電車の中とか、車の中とか・・・)
枕上:寝るとき
厠上:トイレの中

この3つが考え事に適している、という。(いい考えが出てくる)

僕がメモを置いているのはトイレと枕もと。

寝る直前やトイレでゆっくり座って新聞を読んでいるとき、ふと思いつくことがある。

最近はクルマ通勤になったので無理だが、以前電車通勤しているときには、帰りの電車の中では読書かメモ書きだった。
電車通勤の頃には、たくさんのメモを電車の中で書いた。

一昨日、寝るときに、いったん暗くしてから、これはいい、という事を思いついてまたスタンドをつけてメモした。
その時は、メモするまでもなく覚えている、と思っていたが・・・。
今朝、それを思い出そうとして、思い出せず、メモを見た。なるほど。

何かを思いつこうとすると、出てこない。あせると、よけいに思いつかない。

電車、クルマ、寝るとき、トイレ・・・ぼんやりしていると、何かが出てくる。
お風呂につかっているときも、出てくるのだが、お風呂では紙に書けないので難しい。

ぼんやりすると、脳のシナプスが自由になって、いつもと違う回路ができるのか、ほこりをかぶった引き出しが、ゆるんで開くのかもしれない。

脳の研究が進んでいるが、記憶や思考のメカニズムがわかってくると、「思いつき薬」などというものも、できるのか。
何かアブナイなあ。
創作にいきづまって、麻薬に溺れた作家やアーティストもいたし・・。

やっぱり、トイレと枕のメモだ。

| | 考えたこと | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
リセットさん
子どもに聞いたら、「リセットさん」というキャラクターが出てくるゲームがあるという。

何でも、ゲームをやっていて、都合が悪くなって、結果を保存するのをやめてリセットすると、その後ゲームを始めようとすると、「リセットさん」が出てくるらしい。
土の中から、モグラのような感じで出てきて、主人公に説教を始めるとのこと。

リセットさんは、「人生はリセットできないのだから、そんなに簡単にリセットしてはいけない」という事を延々と言う。

エライ!その通り。

おまけに、何回かに一度は、リセットさんの代わりに、リセットさんの兄弟が出てきて、「あいつも、悪気があって言っているわけではない・・」というような事を言うらしい。よくできている。

たしかに、どんなによくできたテレビゲームを作っても、実際の人生とは違う。
ゲームでは、都合が悪くなったらリセットできるのだ。

ウチの子どもたちも、小さい頃、何か失敗したら「あ、しまった」と言って、すぐにリセットしていた。
それを見るたびに、「そんなことしたら、おもしろないやろ」と言っていたが、聞かない。

実際にやってみたら、リセットする気持ちがわかる。
「あ、しまった、くそ・・」とか言いながら、ついついリセットボタンを押す。
言行不一致だった。

誰しも、実際の人生で、リセットしたくなる時はある。
でも、人生では起こってしまったことは戻せない。やり直しはきかないのだ。

人生には、気を取り直してがんばる、という意味で、「リトライさん」が必要だろう。
何かで失敗をしたら、心の中に、モグラのようにむくむくと「リトライさん」が出てきて、説教を始める。
「過ぎてしまったことは仕方ないのだから、前向きに考えないと・・」などと言うのだ。

「リトライさん」とうまくやっていければ、失敗もこわくない。
いい「リトライさん」を育てておかないといけませんね。

「リトライさん」を育てるためには、いい友達をもって、いい経験を積んで、いい本を読むこと。
それが必要だと思う。


| | 考えたこと | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
おかしな言葉
前から、おかしな言葉だと思っていた言葉がある。

こないだ読んだ、池田晶子の「勝っても負けても」にあった、「いまいましいゴミ問題」で思い出した。

「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」という表現だ。
これは、どう考えてもおかしい。

「燃やすゴミ」「燃やさないゴミ」というべきだ。

「燃えるゴミ」というのは焼却炉で無害に燃やせるゴミのことであり、「燃えないゴミ」というのは、焼却炉で燃やすと有害なガスが出るゴミのことだろう。
基本的には、家庭から出るゴミは(資源ゴミは別として)、燃やせるのだ。

燃やすか、燃やさないかは決めごとであり、それは焼却設備の性能に依存しているはず。
焼却炉を新型にすると、高温での燃焼が可能になり、今まで燃やせなかったものが燃やせるようになる。

実際、ウチでも最近プラスチックは「燃えないゴミ」から「燃えるゴミ」に変わった。

どう考えても、おかしいでしょう。
こないだまで燃えなかったのに、燃えるようになった・・そんなアホな。

ちゃんと、「燃やすゴミ」「燃やさないゴミ」という、正しい言葉にすればいいと思う。
そうしないと、子供が間違った認識を持ってしまうだろう。

石油から作ったプラスチックが「燃えない」などという常識を持ってしまったら、火事になったときなど、困るだろう。
「燃えるけど、燃やさないゴミ」というのは長ったらしいし、やっぱり「燃やさないゴミ」が正解だと思う。

ぜひ、正しい呼び名に変えてほしい。

| | 考えたこと | 22:32 | comments(2) | trackbacks(0) |
マフラーの記憶
気に入っているもの、というのがある。
自分自身、今までそんなにたくさんはないのだが、小学校の3年生くらいの時にしていたマフラーのことが忘れられない。

赤と黒のチェックの柄だった。
今なら、そんな色合いのマフラーなどしないのだが、母親が使っていたものをもらった。だから、気に入っていたのかもしれない。子ども心に大人のモノはうれしかったんだろう。

学校から帰って遊びに行くときには、それをして遊びに行っていた。

あるとき、家の近所の雑木林の近所の大きな石のところで遊んでいて、あつくなってマフラーを置いたんだと思う。

夕方、日が暮れかけて、家に帰って、気がついたらマフラーがない。

あわてて遊んでいたところまで行き、探したが、ない。
もう一度家まで戻る道を、まわりに落ちていないか、路肩のみぞの中ものぞきながら、歩いて帰った。
それでもなかった。

親に頼んで、一緒に遊んでいたH君の家に電話をかけてもらったが、彼も知らないという。

あまりに僕が落胆していたからか、親も「仕方ないやん」という感じだった。
たしかに、僕がもらったときには、すでに長いこと使っていて、使い古した・・という感じのものだった。

マフラーの柄も覚えているし、なくしたときに遊んでいた場所もはっきりと覚えている。
どういうわけか、遊んでいた風景すら、マフラーをなくしたことと結びついたからか、思い出せる。

H君は、そのすぐ後に引っ越してしまい、それ以降会っていないが、マフラーをなくした事で、彼のことは忘れられなくなった。

もしも、なくしていなかったら、いつかは汚れて、捨ててしまわれて、気がついたらなかった・・というものかもしれない。
でも、なくしたおかげで、その光景が切りとられて、記憶の中に焼き付いた。

冬になって、マフラーを出すたびに、あの赤いマフラーのことを思い出す。

不思議な記憶ですよね。

記憶というのは、どういう仕組みになっているんだろうか。
あのマフラーは、今でも惜しいと思う。

| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
お母さんは"She"ではない
30代の頃、英会話を習っていたことがある。
習うといっても、その人の家に行って、1時間半ほど世間話をするだけだ。
月謝を交渉して格安にしてもらって、1年ほど通った。

ある時、家族の話をしていて、私のお母さんは・・・という話になった。
"My mother likes cooking. She can make ..."というような会話だったと思う。

僕は、私のお母さんは洋服を作るのがうまい・・というような事を話したと思う。
"My mother likes to make clothes. My mother can make..."というような会話だった。

その時まで気づかなかったが、先生は2回目に My mother が出てきたときは、She になっている。
「え・・My mother が She になるん?」と思った。

僕が話すと、My mother は she にはならない。
My mother は何度出てきても My mother になる。
お母さんは代名詞にはならないのだ。

ふつうに話していて、自分の母親のことを代名詞では言わないですよね。
「彼」とか「彼女」という言葉には、つき合っている相手、というような特別な意味までくっついてしまっているし・・。
もともと、日本語には三人称代名詞というもの自体が無いような気がする。

その時は、僕が英会話の先生に

「あなたは My mother を She と言うのか?」と聞いたら、逆に

「あなたは何度くり返しても、My mother は My mother と言い続けるのか?」と聞き返された。

そう、日本語では、My mother は She にはならない、と答えた。

日本では親子はいつまでたっても三人称にはならない(と思う)。
そうですよね?

西洋では、親でも三人称の代名詞を使う。
これは、西洋の個人主義の現れではないかと思う。

親は親、子は子、ある年齢に達したら、大人として、社会人としての関係が主になるのだろう。(親子の関係は弱い)

だから、ひきこもりもニートもいない、という。
そんなことをしたら、餓え死にするからだ。

日本では My mother は Sheにはならない。

これは親子関係の文化の問題だと思う。

その時から、ずっとそう思っている。違うかな?

| | 考えたこと | 16:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
あちら側とこちら側
この歳になって、葬式に出ることが多くなった。

彼岸と此岸という言葉がある。
彼岸は向こう岸、此岸はこちらの岸ということだ。
三途の川のむこう側とこちら側。死んだ人は彼岸、生きている人は此岸にいることになる。

以前「気づいたら変わっていた・・・」にも書いたが、年とともに、だんだんと自分をだぶらせる先が変わってきている。

だんだんと彼岸に向かって歩いているということだ。
まだ此岸にいるが・・・。

結婚式に出ることがだんだんなくなって、葬式が増えてくる。
もっと年をとると、葬式しかなくなってくる。

おもしろいですよね。

黒い枠に自分の写真が入っていることを想像する。

以前から思っていたが、葬式というのは、せっかく知り合いに来てもらうのに、本人の挨拶がない、というのはちょっと寂しい。
今までだれか自分の挨拶を残した人はいないのか・・・。

葬式という儀式は、残された人たちのためにあるのだから、当人がしゃしゃり出るべきではない、というリクツもよくわかるのだが、生きているあいだに、自分の挨拶文を残しておいて、葬式で読んでもらう、という趣向はどうなんだろうか・・・。

遺言というものには、今のところ興味はないが、葬式での挨拶には興味がある。

 お忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございました。存命中は色々とお世話になりました。
 さて、私という人間にも終わりが来たようでございます・・・。

色々と面白いことを考えたが、家で話すと、「それは悪趣味!」と一蹴されてしまった。

いい考えだと思うのだが・・・。

生前から、そういう企画を作るような葬儀屋さんをやったら、儲かるのではないかなあ。
 

| | 考えたこと | 17:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
ピアノと図形
ピアノを練習すると、図形の問題ができるようになる、と子どもが言う。
半分以上、冗談だが・・。

でも、右脳・左脳の話からいくと、あり得るのかもしれない。

一般的には、右脳はイメージとか音楽とか、感覚的な領域で、左脳は言葉などのリクツの領域・・と言われている。

僕はだいたい図形がダメで、小学校でやらされた知能テストでも、図形の部分は全然できなかった。
三角形の中に何本か線が引いてあって、大きな三角形の中に中くらいの三角形、小さい三角形、上向き、下向きの三角形・・さて、いくつの三角形があるでしょう?というような問題だ。(今でも不得意だ)

でも、反対語を書く問題や、上から順に足し算をしていくような問題は比較的得意だった。

図画もひどかった。
小学校の時、写生に行って、池と木のあるところで、木の絵を描いた。
木の幹と枝と緑の葉と土・・茶色と緑と黒あたりの絵の具を使ったと思う。
画用紙の真ん中に一本の木がマンガのように描けた。
木が一本あるだけの絵・・・。
その学期は、通知簿で図工が2だったと思う。

でも、色の名前を覚えるのは得意だった。12色は今でも覚えている。(中学で覚えた)赤、赤みの橙、黄みの橙、黄、黄緑、緑、青緑、緑みの青、青、青紫、紫、赤紫・・こういう名前の色だった。
色の名前を覚えても、美術は得意にはならない。あたりまえだ。

絵を見ても、善し悪しは全くわからなかった。
名画と言われても、どこがいいのか・・・。

でも、中学2年の時から、ギターを弾きはじめた。
ひょっとしたら、それで図形はマシになったのかもしれない。
高校では幾何はそんなに悪くなかった・・・と思う。

最近、子どもに図形の問題を聞かれても、少しはわかる。
やっぱり、マシになったのかもしれない。
美術館に行っても、少しは「これはいいなあ」と思える絵があったりする。

音楽と右能の発達は関係しているということだ。

ということは、ピアノを練習すると、図形ができるようになる、というのもあながちハズレではないと思う。

でも、方向音痴だけはなおらない。どうしようもないのか・・・。




| | 考えたこと | 21:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
じゃないよね?
英語のドラマや映画の字幕を見ていて、いつも「これはむずかしい」と思うことがある。
前に書いた、標準語の数字のアクセントみたいなものだ。

否定疑問文。これだ。

「君はアメリカ人だよね?」と聞かれたら、「いや違う」と答えればいい。
"No."でいいのだ。

しかし、「君はアメリカ人じゃないよね?」と聞かれたら、「そう」と答えたい気持ちが強い。
つまり、"Yes."と言いたい。「そう、アメリカ人じゃないよ」

ニュアンスがわかりにくいので、関西弁で書くと、
「おまえ、アメリカ人ちゃうやろ?」
「そらそうや、ちゃうがな。」
やっぱり、イエスで答えることが多い。

よく、そんな場面がドラマに出てくる。
ところが、答えは"No."になる。

問いを肯定するのに、答えは"No."という。

「君はアメリカ人じゃないよね?」(Aren't you an American?)
「そう。」(No.)
これが自然な会話になる。

いつも、そういう場面で「え?」と思う。

明らかに犯人ではない人に向かって、「犯人じゃないよな?」というような場面で、相手が「ノー」というと、一瞬「え、この人犯人やった?」と思う。でも、字幕を見ると「違う」という文字が出ている。

こういうのは、なかなか身につかない。

面白い英国人で、日本人が否定疑問文が苦手なのがわかっていて、わざと否定形で聞くヤツがいた。
ついつい、"Yes"と答えると、大げさに"Yes?"と言ってびっくりしてみせる。
いやいや、この"Yes"は"No"のことだ、とあわてて言うと、笑いながら「わかってる」と言われた。

くやしい。

しかし、最近日本語がたどたどしい外国人がよくテレビに出てくるが、彼らは否定疑問文で間違わないのだろうか?
きっと間違うはずだ。

「この答えは、Aではないですね?」
「いいえ」
「ブー。間違いです」
「え、Aではないんでしょ?」

でも、テレビなどでは否定疑問みたいなややこしい質問はしないから、こんな事は起こらないのか。

否定疑問文に自然に答えられるようになったら、英語も一人前かもしれない。

| | 考えたこと | 21:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
Peanutsの会話
トイレに、Peanuts(スヌーピーのマンガ)の文庫本を置いていて、時々読む。(講談社+α文庫 「スヌーピーのもっと気楽に 2のんびりがいい」)

このPeanutsというマンガは、何ともいえず、面白い。
爆笑することはないが、思わずにんまりしてしまうものがたくさんある。

大人向けのマンガだ。

スヌーピー、ウッドストックと、飼い主のチャーリー・ブラウン、妹のサリー、友達のルーシー、ライナス、シュローダー、パティ、マーシー、フランクリンなど・・動物と子どもしか出てこないのが特徴。

中で、何度見ても面白い会話がある。
フランクリンがチャーリー・ブラウンに、おじいちゃんの誕生日のことを話している、3コマのマンガ。

1コマ目「おじいちゃんは、また昨日誕生日だった・・・」

2コマ目「彼がいうには”過ぎ去った年は、私によくしてくれた”」

3コマ目「”だが、過ぎ去った月と週は、ちょっと私に無礼だった!」

やっぱり、絵がないと面白みが伝わらないか・・・。

この感じ、よくわかる。
過ぎ去った年は、いい思い出になるけど、細かいことを思い出しはじめると、イヤだったことや腹が立つことが思い出されてくる・・そういうことだ。

あの頃はよかった・・という思い出があるが「どうよかったのか?」と聞かれ、どんどん細かい部分を突っこまれると、きっと「そういえば、あの時エライ目にあった」などというところにたどり着く。

本当は、「エライ目にあった」ことこそが、いい思い出につながっているのだろう。

Peanutsの中には、そんなことを考えさせるような言葉が出てくるから、面白い。
スヌーピーのキャラクターがかわいいのはもちろんだが、実際のマンガ自体がよくできている。

スヌーピーは知っているけど、マンガは・・という方、ぜひ一度見てみてください。

| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
男女共用トイレ
アリー・マイ・ラブに出てくる、オフィスの社交場(井戸端会議の場所)は男女共用のトイレ(以下、ユニセックスのトイレ)である。

実際に、シカゴの空港内にあった。
あれは2001年だったか・・・。
その時は、男性用、女性用とユニセックスがあったので、男性用を使った。
あとで、アメリカ人の男性に、ユニセックスのトイレは入りにくくないのか?ときいたが、「別に・・・何ともない」とのことだった。

出張で、アメリカの会社に行ったときに、スタッフの中で、男性から女性に変わった人がいる事を聞いた。
そのスタッフは(便宜上、スージーという名前にしておく)、上司に相談して、女性に変わる事を了承してもらったとのことだが、そのことが決まると同時に取締役会を開いて、対応を決めたらしい。
その時に、初めてできたのが、ユニセックスのトイレ。

社内に一つだけあって、スージーはそこを使っているらしい。

なぜかというと、スージーが男性だった事を知っている女性たちが、一緒のトイレはイヤだ、という事になり、一方スージーは女性になったのだから、男性のトイレはイヤだ、ということになるからだ。
そういう経緯で、ユニセックスのトイレができたらしい。

なるほど、そういう事でユニセックスのトイレができたのか・・と納得した。

空港など不特定多数が使う場所で、ユニセックスのトイレを作るのは、純粋に合理的な理由もあるだろう。
片方が空いていて、片方が混む、という状態を防ぐ事ができる。
だいたい、女性用が混むから、全部を個室にして、ユニセックスにしてしまえば、ムダは省ける。

しかし、利用人数が決まっているオフィスのような場所で、ユニセックスのトイレを作るというのは、場所の節約の効果はあるものの、全部を個室にする事のコストの問題もあるだろうし、女性と男性が隣同士で用を足すのもなんやなあ、という事になる。
(第一、アメリカのトイレは扉の下の方が空いていて、下ろしたズボンとか靴が見える。)
だから、一般的には、性転換する人がいる事くらいしか、ユニセックスのトイレを作る動機は考えられない。

日本では、まだ、大きな会社でユニセックスのトイレを持っているところは少ないだろう。(というか、無いのでは?)

もし、自分が上司で、部下から、「すいませんが、私は来月から女性になります。」と相談を受けたらどうします?
「はぁ、そうですか。」としか言いようがない。
「やめときなさい」という権利も、理由もないし・・。

でも、人事部などは大騒ぎになるだろう。
性転換を理由に退職を迫る事もできないだろうし、第一、就業規則に、性別を変わったときの規則など無いのだ。
想定外、という事になる。

聞いたら、スージーには妻も子どももいるとの事。
何ともいえないなあ。

やっぱり、ユニセックスのトイレが井戸端会議の場所になるのは、アメリカでもまだまだドラマの中だけなのではないか。

アリー・マイ・ラブを見ていると、楽しそうだが・・。



| | 考えたこと | 23:22 | comments(2) | trackbacks(0) |
新成人の願い
今日は成人式。1月15日でなくなって、ピンと来なくなったが、3連休はありがたい。
そういえば、駅の近所を振り袖姿で歩いている女性がちらほらしていた。

オリコンが実施した(対象人数はたった100人だが)新成人の欲しいもの・かなえたい事ランキングというのが出ていた。
(http://www.oricon.co.jp/news/ranking/8211/ より)

3位まで結果を借用させてもらうと、

1位:恋人が欲しい
2位:きれいになりたい(かっこよくなりたい)
3位:もっと教養を身につけたい

となっている。男女別に見ても、どちらも1位は「恋人が欲しい」になっていた。

だから、どうやねん?ということだが・・・。
たしかに、20歳の頃は恋人が欲しいだろう。

でも、何となくそれを直接公式に言う事はカッコワルイことだった。
匿名のアンケートだからいい、という事でもない。
仲のいい友達に言うのはアリだったけれど。

恋人を得る事は結果だから、そのために、どうなりたいか?というのが、その頃の望みだったように思う。

落語がうまくなりたい(うまくなる事ともてる事は別だったかもしれない)
ギターがうまくなりたい
車が欲しい
・・・・

少々昔の事をいいように考えすぎているのかもしれない。
もっと即物的だったのか・・?

みなさん、どうでしたか?


| | 考えたこと | 19:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
今どきの歌は
去年の大晦日は子どもも大きくなったので、久しぶりにレコード大賞と紅白歌合戦を見た。

ふだんほとんどテレビを見ないのと、新しい歌をほとんど聞かないので、若い人はほとんど知らない歌手ばかり。
かろうじて、子どもの影響で、ポルノグラフィティ、ミスターチルドレン、aikoあたりは知っている。

レコード大賞は、倖田來未の「Butterfly」に決まった。
倖田來未も「Butterfly」もどっちも初耳だが、えらい格好で歌っていましたね。

ニュースを見ると、「セクシーな衣装と激しいダンスが評判を呼び・・」と書いてあったが、その通りだった。
本人以外にたくさん出てきたが、みんなコーラスをするわけでもなく、ただ踊っていた。
ダンスが売り物になる時代になったんですね。
そう思ってみると、しかし、マイケル・ジャクソンのスリラーなんかと比べると、まだまだ落ちるような気がするけど・・・。(ちょっと古い?)

最優秀新人賞はAAAというグループ。財務状況の格付けのAAA(トリプルエー=優秀)からグループ名にしたのかと思っていたが、違った。Attack All Aroundの頭文字をとったとのこと。
知らなかったでしょう?
8人組で、とにかく、歌よりもダンスの方がメインという感じだったが・・。

グループ名もむずかしくなった。
ラルク・アン・シエルというグループがあるが、これはフランス語で「虹」のことらしい。
L'arc en ciel=The arch in (the)sky・・・「空のアーチ」ということかな。

だいぶ前に、スピッツのロビンソンというのがはやったが、その時は、唄を聞いても、どちらが題名で、どちらがグループ名かわからなかった。ロビンソンがグループ名のような気がしたが・・・逆だった。

時代としては、中森明菜くらいまではよく知っているのだが・・・。

歌番組になると、ギターを出してきて、曲が始まると合わせて弾いたりするのだが、最近の歌はむずかしくなった。

以前、どこかで、カラオケの影響で歌がむずかしくなった、という記事を読んだことがある。

カラオケで歌うためには、もとの歌を聞かないといけない。
もとの歌がむずかしいほど(歌いにくい=覚えにくい)、何度も聞かないといけない。
何度も聞かないといけない歌ほど、CDを買うことになる。
だから、むずかしく作る・・。
ちょっとうがった見方だが、それもあるのかもしれない。

とにかく、やたら転調が多い。
はっきりとした転調ならともかく、曲の一部で、もとのキーからはふつう出てこないような和音になる。

むかし、ポール・アンカが歌った「ダイアナ」みたいに、コードを4つほど覚えたら弾ける、というような歌はほとんどなくなったのではないか。

子どもの歌本を見ると、キーもややこしいのが多くなった。

変ホ長調(Eb)とか、変イ長調(Ab)とか、ロ長調(B)とか・・五線譜にやたらシャープやフラットがたくさん並んだものが多い。
ま、これは歌う人の音の高さに合わせるので、仕方ない面はあるけど、昔の曲は(といっても、1960〜70年代だが)シャープやフラットは2つくらいまでの曲が多かった。

とにかく、今どきの歌は弾くのも、歌うのもむずかしくなったということだ。

それだけ、日本人の音楽に対するウデが上がった、ということなんだろう。

若い人はすごい、ということか。
| | 考えたこと | 18:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジーンズはスリム
ジーンズというと、あまり流行がないのかと思っていたら、そうでもない。

70年代はベルボトムといって、裾が広がっているものがはやっていた。
おそらく、裾の部分が30センチくらいあって、靴が完全に隠れるような幅だったと思う。
当時好きだった、GAROという3人組のグループが、ベルボトムのジーンズをはいていた。

その後、70年代後半から80年代に入ってからは、僕の理解では(あまりその方面には敏感ではないが)、スリムという呼び名で、裾が狭まったジーンズが主流だったと思う。
特に、フォークソングをやっている人たちは、スリムのジーンズをはいていたと思う。

こないだ、ジーンズを見に行ったら、今はブーツカットというタイプが流行っているらしい。
ベルボトムよりも広がっている幅は小さいが、ブーツがはけるように裾が広がっているという意味で、ブーツカットというらしい。
そんな言葉は当時はなかったし、そんなスタイルのジーンズもなかった。

世の中、はやりすたりがあるものだ。

ストレートのジーンズは今も昔も同じようにあるが、驚いたことに、スリムのジーンズはほとんど売っていない。

さすがに、ベルボトムのジーンズが売られていないのはわからないでもない。
あれはちょっと、やりすぎだった・・何がやりすぎか、説明できないが。

でも、スリムのジーンズは今でも格好がいいと思っている。

昨年の秋から、痩せたので昔のジーンズがはけるようになった。
30代の頃のジーンズだから、もちろんスリムのジーンズである。

今の高校生からみると、格好悪い、とうつるらしい。

もちろん、はいている方は、これが格好がいい、と思っているのである。
しかし、長男に、「この、裾が狭いところが、ええんや」と言っても、全く意に介さない。

不思議だと思う。何でこれがいいと思わないのかな?

自分の頭の中には、20年ほど前のかっこよかったフォクシンガーたちが、スリムのジーンズをはいている、というイメージがあって、自分をそれにだぶらせているから、いいと思っているだけなのか・・・。
日本人は足が短いから、裾をだんだん狭くした方が足が長く、スマートに見える、と思うのだが、逆なのかな・・・?

まあ、いい。ファッションというのは所詮そういうものだ。
自分が格好がいい、と思っていればそれでいいのだ。

何がブーツカットだ。ちゃんちゃらおかしい。
やっぱり、ジーンズは死ぬまでスリムでいいのだ。

もう一度、スリムの時代は来ないのか・・・。


| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
名コンビ
名コンビというのがある。フィクションの世界では、

ホームズとワトソン、ポアロとヘイスティングス・・これは探偵。

キャグニー&レイシー(知らない?)、スタスキー&ハッチ、トミーとマツ・・これは刑事。

実在した名コンビでいうと、ジョン・レノンとポール・マッカートニー。
ビートルズの楽曲のほとんどを二人で作った。

解散後二人ともたくさんのアルバムを出したが、やっぱりビートルズを超えられなかったのではないかと思う。(ポールはまだ現役なので、今のところは・・・ということになるが)

曲のリストから、いい曲をざっと抜き出してみると・・

All My Loving, All You Need Is Love, And I Love Her, Because, Can't Buy Me Love, Come Together, Don't Let Me Down, Eleanor Rigby, Fool On The Hill, Get Back, Hard Day's Night, Hello Goodbye, Help!, Hey Jude, If I Fell, In My Life, I Want To Hold Your Hand, I Will, Lady Madonna, Let It Be, Long And Winding Road, Love Me Do, Mother Nature's Son, Ob-La-Di,Ob-La-Da, Please Please Me, P.S. I Love You, Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band, She Loves You, Ticket To Ride, Yesterday...

すごい!

もう一組、実在した名コンビは、藤子不二雄(藤子・F・不二雄と藤子不二雄A)。

おばけのQ太郎、怪物くん、パーマン、忍者ハットリ君、ドラえもんなどのマンガを作った。これも、すごい!

他にもたくさん名コンビはあるだろう。

本当の名コンビというのは、1+1=3みたいな関係を言うんだと思う。
一人ずつよりも、二人で共作した方がいいものができる、という関係。

コンビの強みは、何かの壁にぶつかったときに、お互いに話ができる、ということだと思う。
特に、創作で煮詰まったときというのは、苦しいはずだ。
その時に、同じような経験を持っている相棒がそばにいる、というのは素晴らしいことだと思う。
お互いがぶつかることも多いとは思うが・・。

素晴らしいアイデアは、一人の頭の中から生まれてくるが、それを思いつくためには、一人よりも二人、話し相手がいることは強みだ。

自分でも経験がある。
話をしていると、自分でも思っていなかったようなことが口から出てくる。
話しながら、「あ、これ、いいやん」と思っていたりする。

それは、話し相手が誰でもいい、というものではない。
ある程度、バックグラウンドが共通していること、呼吸が合っていること、信頼関係があること・・そんなことが必要だと思う。

レノン&マッカートニーや藤子不二雄が、そういう関係だったかどうかはわからないが、きっと話をすることで、お互いに助け合ったんだと思う。

そういう仲間にめぐり逢えたら、それは、運がいい。

それは、本当に、運命に感謝すべきことだと思う。


| | 考えたこと | 01:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
SFはどこに行った?
正月にテレビを見ていたら、「日本沈没」がまた映画化されるようで、CMをやっていた。

以前に映画化されたのは1973年。
小松左京のSF小説が原作だ。
田所博士が小林桂樹で、いしだあゆみがヒロイン役で出ていた。
いしだあゆみが女優として出てきたころだったのではないか。きれいだった。(今もきれいだが)

当時、テレビで映画を見たことはあったが、原作は読みそこねてしまった。
何となく読みたくなったし、次男が読みたいというので、近所の本屋に買いに行ったら、無かった。
80年代までは、どこの本屋に行っても、小松左京はあったと思う。
さすがにアマゾンで調べると、入手可能だった。小学館文庫で、24時間以内に発送、となっていた。
上下二巻の大作。
小松左京は長編は少なく、これが代表作になるのかな・・・。

そう思って、本屋の文庫の棚を見ると、SF小説が減っている。
かろうじて、星新一、筒井康隆はそこそこあるが、豊田有恒、横田順彌 、かんべむさし、田中光二、平井和正、眉村卓、光瀬龍などの日本のSF作家の本はほとんどなくなっている。
こんなところにも、理科離れが及んでいるのか・・・。

ミステリは海外作家が好きだが、SFは日本の作家が好きだ。

SFというジャンル自体が、はっきりとは決めにくいジャンルだが、豊田有恒(この人は、アニメのスーパージェッターの脚本も書いていた)や光瀬龍はよく読んだし、面白いと思う。今読んでも、古くないと思うのだが・・。

特に、光瀬龍はしばらく前(といっても1999年だった)に亡くなったが、早川文庫でよく読んだ。
この人の小説は、未来小説だが、それをもっと未来から回顧して書くような歴史小説的なおもむきがあって、当時すごく新鮮だった。
もうページが茶色になった文庫本が何冊か本棚にあるが、捨てることはできない。
「東キャナル文書」という作品は、火星の運河の話で、すごく面白かった事を覚えている。
20代の頃に読んだのか・・。
アマゾンで見てみると、案の定この本は在庫切れで、中古品しか手に入らない。

90年代から徐々に人気がなくなってきたのか。

今はどちらかというと、ハリーポッターのようなファンタジーものが幅をきかせている。
子ども向けの本のところにいっても、ファンタジーばかりだ。
何とかドラゴンや、ライオン何とかとか、海外作家ばかり。
ナルニア国物語も、ディズニーで映画化されるので、また流行るんだろう。
これは読んでみようかと思ったら、1巻目が売り切れていた。

それにしても、SFはどこに行ったのか?
流行らないから、作家自身が減っているのか。
新人が出てこないのか・・・。

調べてみると、1999年から創設された日本SF作家クラブの「日本SF新人賞の創設に際して」というところには、こんな事が書いてあった。

「 1960年代、70年代におけるSF小説の飛躍が、日本におけるSFの繁栄をもたらしました。
しかし今日、SF映画やSFアニメ、SFコミックの大成功の反面、SF小説の影響力が相対的に低下した事実は否定できません。
いまこそ時代は、斬新で独創性にあふれる、読書の楽しみを具現するようなSF小説を求めています。
 才能あるSF小説家、魅力的なSF小説の誕生を求める時代の声に応え、このたびSF作家クラブは、日本SF新人賞を創設することになりました。
この賞を通路として登場する新人作家によって、SF小説界に新風が吹き込まれることを願ってやみません。」

ということは、日本のSFの繁栄期にちょうどSFを読めた僕らは、ラッキーだったということになる。
そして、90年代に入ってSF小説は廃れてきた、という事だ。
(たしかに、この賞を取った作品のリストを見ても、知らない人ばかりだった)

できれば、2006年の日本沈没の再映画化をきっかけに、すごいSF作家が出てくればいいと思う。

「いまこそ時代は、斬新で独創性にあふれる、読書の楽しみを具現するようなSF小説を求めています。」

ホント、その通り!

でも、だんだん現実がSF化してきたからなあ・・・。


| | 考えたこと | 16:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
さすがイチロー
古畑任三郎、テレビでやっていたのを子供が見ていたので、つき合って見てしまった。

初めてオンエアされたときに、出張先でテレビをつけたら偶然やっていた。
てっきり、何かのバラエティ番組のコントのコーナーだと思った。
田村正和がふざけてやっているとしか思えなかったからだ。

ところが、やけに長くて、最後にタイトルが出てきたので、これが本当の番組だとわかった。

あの鼻にかかった話し方、特徴のある語尾、首を傾けた上目づかいの目線、どう考えてもコントとしか思えなかった。

今回見ていたら時々おかしくて笑ってしまうことがあったが、何ともいえない存在感が・・・ないこともない。

やっているうちに、田村正和も身につけてしまったようだ。
でも、こんなはまり役を持ってしまうと、他の役がやりにくいのではないか。(渥美清のフーテンの寅さんみたいなものだ。)

おまけに、今日はイチローが出ていた。すごい。一芸に秀でた人は、何をやってもうまい。
イチローはイチローの役で、イチローをそのまま演じていた。
フェアプレイを愛し、嘘をつかない、という役柄で、これなら本人も納得して本人の役で出てもいい、と思える脚本だったんだろう。

試合に勝つために一番必要なのは平常心、というキーワードも入って、なかなかよかった。(イチローのファンにとっては)

カッコいい人は犯人役でもカッコいい。
田村正和を喰った芝居だったと思う。

今年もメジャーで活躍することを祈る。

さすがイチロー。




| | 考えたこと | 22:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
書き初め
子供の頃、習い事はキライだった。
ヤマハのオルガン教室に一日行って、やめた。これは今でも後悔している。

そんな僕でも、3年間(小学校の2年から4年まで)通ったのが習字。
学校の近所で、おじいさんが一人で教えていた。
畳の10畳くらいの部屋に小さい文机を10個くらい教室風に並べて、書いては、先生のところに持っていって見てもらう、というところだった。

何とか流の免許を持っておられたのかどうか・・わからない。
習字もされるし、水墨画も水彩画も描くし、俳句もひねる、という先生だった。
年に2回ほど、俳句も作って持っていって、見てもらった。

僕が習っていた当時で、60歳くらいだったのか・・もう少し若かったのか・・。

とにかく、落ち着きのない子供だったので、習字を習わせたら少しは落ち着くか・・ということで親は行かせたらしい。

そのせいで、今でも習字は馴染みがある。

数年前、子供の書き初めにつき合って、久しぶりに習字をした。
今年も、同じパターン。
以前、子供が書くのを見てびっくりしたが、今は墨をすらない。一応、習字セットに墨は入っているが、いきなりすずりに墨汁を入れる。
やっぱり、習字をするときには、墨を擦らないとダメ。
墨を擦りながら、心を落ち着ける。

授業の時間が足りないのかもしれないが、小学校でも墨を擦るところからやらないと・・・。
いきなり筆を持って、半紙に字を書くのはちょっとむずかしい。
習字は墨を擦るところから始まるのだ。

おまけに、筆を鉛筆と同じように、ねかせて書こうとする。
ちゃんと、筆の持ち方を教えないと・・・と数年前にぼやいた事を思い出す。

一年に一度、習字もいい。

今年も、書き初めは「一期一会」。

ちゃんと部屋に貼っておくことにする。

習い事、もうちょっと子供の時にやっとけばよかった・・と思ってもあとの祭り。

去年始めた習い事のギター、もっとがんばろう。


| | 考えたこと | 20:31 | comments(2) | trackbacks(0) |
It's a fine day today.
前から面白いと思っていたことを思い出した。

「あー、あー、本日は晴天なり、本日は晴天なり。ただいまマイクのテスト中。」、このフレーズは誰でも聞いたことがあるフレーズだと思う。
何で「本日は晴天なり」というのか、知ってますか?

Wikipediaによると、

「マイクテストで使われる音声の決まり文句として「本日は晴天なり」がしばしば用いられる。これは英語の"It's a fine day."を直訳したものとされている。英語の原文だと音声の周波数成分が満遍なく含まれていると考えられるために用いられたとされるが、これを日本語に置き換えると当初の意味を失ってしまっている。」

とのこと。

最初にこの言葉を聞いたのは、小学校の運動会あたり。
何でこの言葉なのか、初めて聞いたときは不思議に思ったはずだ。
たしかに、運動会の日は晴れていたような気もするが・・・。

「本日は晴天なり」という文語調も聞き慣れない。
でも、ずっとそれを聞いているうちに、マイクテストはこの言葉を使うもの、という回路ができてしまった。

明治時代?に、初めてマイクロホンと拡声器が日本に輸入されたときに、きっと外国の技術者が来たんだろう。
設置し、電源を入れ、おもむろにマイクに向かって、外国から来た技術者は言う。

"Mic test, Mic test. It's a fine day today. Mic test..."

聞いていた日本の担当者(これはきっと政府の役人だったはずだ)は、「これは何をしているのか?」と聞く。
外国の技術者は言う。

「おお、これはマイクのテストをしているのだ。マイクがちゃんと働いて、拡声器から声が出るかどうかを試すときにはこのようにするのだ。」

役人は、通訳に確認する。

「さっきは何といったのか?」
「本日は晴天なり、と言いました。」
「なるほど、マイクのテストの時には、本日は晴天なり、と言うのだな。よし、この手順をちゃんと書きとめておくように・・。」

これは想像だが、こんな瞬間が歴史の中にきっとあったんだと思う。

この時に、「なんで本日は晴天なりと言うのか」と外国の技術者に聞けばよかったんだろう。
それを聞かなかったばっかりに、今や日本中でマイクテストの時には、「本日は晴天なり」と言っている。

日本で最初にマイクテストをした場所はどこなんだろうか。
タイムマシンがあれば、その瞬間を見てみたい。

やっていることの意味をわからずやっていること・・考えてみると面白い。


| | 考えたこと | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
1/365
元旦は朝の5時に起きて、初日の出を見るために山に登ったが、残念ながら見られず。
神戸の夜景はきれいだったが・・・。

神社に行って、鈴を鳴らして、柏手を打って、初詣をした。
日本の神様は、鈴を鳴らさないと出てきてくれない、というところが人間っぽくていい。
鈴を鳴らされると、「もう、じゃまくさいなあ。またか。」などと言いながら、「いったい何を頼むんや?」と拝んでいる人の願いを聞いてくれているような気がする。

いい加減なものだ。
年に1回しか神社に行かないのに、しおらしく、お願いします・・・と手を合わせている。
だいたいは、家内安全、無病息災などとお願いするのだが、今年はギターがうまくなりたいとか、仕事がうまくいくようにとか、いろいろ追加でお願いしたので、お賽銭は少し多めにした。(といっても、お札を入れたわけではない)

当たり前のことだが、元旦といっても、365日ある1年のうちの1日。1年の1/365である。
ほかの364日と全く同じように、日は東から出て、西に沈む。
要は地球が太陽のまわりを1周回ってきて、去年の元旦と同じところに戻ってきたということだ。
旧暦の国では普通の日だろう。
特別な意味は地球上で人間だけが持たせている日だ。

新しい年。初春。正月。
新年が祝えて、初詣ができる時代と場所に生まれたこと。
それが一番神様に感謝しないといけないことかもしれない。

高望みは聞いてもらえないか・・・。
ふだんからの不信心ゆえ、あまり神様には頼らず、自分でがんばらないといけない。

今日で2/365になる。
この1年はどんな年になるのか。
いや、どんな年にするのか・・・。

一年の計をたてないまま元旦は過ぎてしまった。
光陰矢のごとしですね。


| | 考えたこと | 02:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
Dog Year
あけましておめでとうございます。
今年は戌年。Dog Year。

Dog Yearというと、「犬の年」とは別の意味がある。
goo辞書で引くと・・・

「ドッグイヤー【dog year】
情報技術分野における革新のスピードを表す概念。通常 7 年で変化するような出来事が 1 年で変化すると考える。
〔人間の 7 年が犬の 1 年に相当することから〕」

PC Viewというサイトでは、こんな説明があった。

「コンピュータや情報通信、特にインターネットの世界は、ものすごく進化が速い。他の業界の何倍ものスピードで技術が進歩してきた。そのため、インターネット業界の1年は、ほかの業界の7年分に相当するという意味でドッグイヤーといわれるようになった。」

たしかに、パソコンや携帯電話の進歩はすごく早い。(これを進歩というのかどうかは主観の問題だが・・・)
パソコンを立ち上げて、Googleの検索窓にドッグイヤーと入れるだけで、たくさんの関連サイトが出てきて、説明してくれるようになっている。

僕は、携帯電話については、これ以上の「進歩」については懐疑的だが・・・。

でも、情報機器で、一つ早く実用化してほしいものがある。
電子ペーパーだ。

やっぱり、何かをメモするのは、紙だ。字も書けるし、図も、絵も描けるし、線も引けるし・・。
時々試作品が宣伝されている。

A4サイズかB5サイズで、もちろん、曲げたり折ったりしても大丈夫で、表面は紙のようにちょっと摩擦がある方がいい。
厚みは1mm以下でないとダメ。
ペンは専用のものになるんだろうけど、できれば、書くときに適度なひっかかりがほしい。

1枚に書き終わったら、内容が記憶される。
記憶されると、真っ白に戻る。
1枚あれば、何ページでも書き続けられて、紙面を原稿用紙にしたり、レポート用紙にしたり、簡単に変えられる。
これはいいでしょう・・・と思ったが、やっぱりノートには勝てないか。

日記をつけているが、10年ちょっと前からパソコンになった。
それまではA4サイズのノートだった。
めったに出してみることはないが、ノートの良さは、書くときにページをめくっていると、すでに書いたことが目にはいることだ。
つけているあいだに、どこに何が書いてあったか、わかるようになる。
それと、自分の字は、どういうわけか、目から脳への流れがスムースだ。自分で書いたものは覚えやすい。

アナログにはアナログの良さがある。

ほとんど字を書かなくなって久しいが、枕もととトイレにはメモ帳とペンを置いているし、仕事の時はメモを持ち歩いている。
最近は字がきれいに書けなくなったが、やっぱりペンで書くことはいいことだと思う。

いくらDog Yearで「進歩」しても変えられないものもある。

今年はもうちょっとアナログを大事にしよう。



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