考えたこと2

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UNSCEARの報告書
UNSCEARは、United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiationの略。
日本語では、「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」という。

その国連科学委員会が、福島原発の事故の影響をまとめた最新のレポートが2017年に発行された。
日本語でも読める。

その要約が官邸から出ている。

それによると、放射性物質の放出はチェルノブイリに比べて10から20%で、事故直後の避難措置で避難者の被ばく線量は大幅に低減され、甲状腺がん、白血病、乳がんなどの発生は今後検出可能なレベルで増加することは予想されない、ということが書かれている。

原発現場や周辺で作業している人たちの被ばく線量については、不確かさが残るため今後もさらなる検討が必要であり、作業者についても、今後がんの発生率が自然発生率と識別可能なレベルで増加することは予想されないという。

残念なのは、日本のマスコミで2017年以降、この内容がちゃんと伝えられていないということだ。

単に報道した、ということなら、報道はしたんだと思う。
しかし、事故直後のセンセーショナルな報道に対して、地道な調査の結果出てきた報告書の内容が、みんなに周知されているとは思えない。
地味に数行の記事で終わっていたり、ニュースで伝えただけだったりしたのではないか。

未だに原発事故の後遺症の調査をしているところもあれば、それに反対する声もある。
今までの報道はどう考えても事故で原発付近は汚染されている、というものだったと思う。
もっとセンセーショナルに、福島には人は住めないとか、大げさに線量を測ってみせて、不安を煽るようなものもあった。
それらに加担した人たちも多かったはず。
マスコミの人たちは胸に手を当てて、反省してほしい。

結果として間違った報道をしたのだから、それを訂正しないといけない。
汚染のことを言った人たちも、あれは間違いだった、という声明を出さないといけない。

事故直後のことはみんなわからなかったのだから、仕方ないとしても、こういう報告書が出たことは、大きな意味がある。

これをうやむやにするのなら、第二次大戦を煽ったマスコミと同じだ。
何でもセンセーショナルに報道すれば売れる。
しかし、それが間違っていたら、ちゃんと訂正しないといけない。
それがマスコミの責任だと思う。

心ある研究者なら、間違いを認め謝罪するべきだし、マスコミは当時の報道を訂正する特集を組むべきだ。

それが福島に真の復興をもたらすのだと思う。



| | 考えたこと | 20:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
ピンクの帽子
朝行きがけに、駅ですれ違った男性が、ピンクの帽子をかぶって女装をしていた。
顔は完全に男性の顔。
あれは何なんだろう。
なにか罰ゲームでもやっているのかと思って、周りを見てもテレビのクルーはいない。

とにかく、びっくりした。
「LGBT」と世間では言っているが、あの活動はこういう人たちが普通に過ごせる社会を目指すのだろうか。
ぼくはまだまだそれを感情レベルで受け入れられない。
こういうことを書くこと自体がダメなのだろうか。

多様性を尊重するとか、個人の自由だとかいう意見は理屈でわかるし、それに反対するつもりもない。
そういう世の中の流れなのだから、受け入れないといけないと思う。
しかし、その種の問題を感情レベルで受け入れるのはまた別の話だ。
感情をそんなにすぐに変えられない。
理屈と感情は違うものだ。

だから、そういう問題は急激に社会の本当の理解を得ることはできないと思う。
LGBTを声高に訴えている人たちが何を言おうと、見たり聞いたりした人が違和感を感じるものは仕方ない。

理屈ではわかっていても、感情はわからない、という問題はややこしい。

アメリカのポリティカリー・コレクトネスの問題もその類だろう。
伝統的な価値観を否定するものだ。
それが間違っていると言っているのではない。
難しいと言っている。

スチュワーデスをキャビンアテンダント、ビジネスマンをビジネスパーソンくらいはまだマシだろう。
しかし、「メリー・クリスマス」を「シーズンズ・グリーティングス」というのはどうだろうか。
伝統的にクリスマスにメリー・クリスマスというのがキリスト教の価値観だが、それを別の言葉に変えて「クリスマス」を消してしまうことには抵抗があるだろう。
そういう人たちが、トランプ大統領を支持しているのかもしれない。

世の中には伝統的な女性観とか、男性観というものがあって、それは感情のレベルまで降りているものが多い。
だから、ユニセックスのトイレなど理解しにくい。
グーグル日本語変換では、「ユニセックス」と打つと「男女兼用」と出てくる。
手回しがいいことだ。

ぼくも年をとって、だんだんと保守的になって、進歩的な人たちから文句を言われる側になった。
でも、それは仕方ないことだ。
人類の歴史はその繰り返しで進んできた。

こういうのも、吉田拓郎のいう「古い船」なのだろうか。


| | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
心が叫びたがってるんだ
こないだ書いた「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」のスタッフが作ったアニメ。
前作が「あの花」これが「ここさけ」と呼ばれているらしい。

これも「あの花」と同じく学園モノ。
小さい頃のトラウマで言葉が話せない女子と、似たような生い立ちの音楽好きの男子が主人公。
困難を乗り越えて、ミュージカルを上映するという物語。
言葉は話せないが、歌なら歌えるという女子が頑張る。
前作のように、幽霊が出てくるというようなファンタジックなものではない。
ちょっとそういう雰囲気もあるが…。

本当に昔の学園モノみたいに、クラス全員で協力する。
本番でのトラブルも定番だ。
ちゃんとハッピーエンドになる。

とても普通の学園モノなのだが、昔の「青春とはなんだ」などを見ていない若い人にとっては新鮮かもしれない。
こういうのが2015年に作られて、ヒットした(らしい)。
久しぶりにこういうのを見ると、昔を思い出す。
昭和30年代から40年代の学園モノ。

ぼくらの世代にとっては、「青春とはなんだ」「これが青春だ」は外せない。
青春ドラマの原点だ。
その後いろんな学園モノが作られたが、この2つがベストだと思う。

十数年前に再放送があって「青春とはなんだ」を見たが、劇中に「ハイネの詩集」が出てきたはず。
あの頃のドラマには、そういう格調があった。
今は文化部は衰退して、みんな体育会系になってしまった。
文化部を指導する先生がいないのだろう。

「ここさけ」はそういう時代の風潮に対するアンチテーゼかもしれない。

普通にいい話だと思う。



| | 映画・舞台 | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
第九練習2回目
昨日は梅田での練習の2回目。

今回はOITホールのピアノにマイクが立った。
やはり前回みんなで歌ったらピアノが全く聞こえなくなる、というクレームがあったのだろう。
最初の発声練習の時に、ピアノが聞こえるか?と先生からも問いかけがあった。

西宮は音楽目的でも使うホールだったので、ピアノもコンサートグランドだったが、ここは講義目的のホールなので普通のグランドピアノということもあるかもしれない。
伴奏のピアノが聞こえないと、ビートがわからなくなるので、自分が速いのか遅いのかわからない。

西宮との生徒の違いは、まず女性の年齢。
梅田は仕事帰りの人が来やすいらしく、若い人の比率が高い。
おまけに男性の倍くらいいるので、特にソプラノは元気だ。
西宮は圧倒的に年配者が多かったので、ソプラノはちょっとしんどかったが…。
梅田は逆にアルトがちょっとしんどい感じだ。

男性は女性の半分くらいしかいない。
今回練習でパートで起立したら、女性の多さにびっくりした。

男性は西宮と同じような年齢構成だと思うが、心持ち若いかもしれない。
テナーは西宮よりも元気。
逆にバスが頼りない。
低音の響きが足りない感じ。
ホールの音響効果もあるのかもしれない。

加藤先生は、最初に息を吐く練習をする。
最初は1拍ずつ吐き、次に8分音符で吐き、最後に三連符で吐く。
その次に、発声をするのだがコダマ先生ほどは長くない。

筋肉の使い方もちょっとやった。
バンザイした状態で発生し、脇の筋肉を意識するということ。
口を開けて上を向いて、そのまま前を向き、上顎の高さをその位置で歌う、という練習など。
ぼくはやはり「骨盤底筋」を意識して、口にたこ焼きを入れた感じで上顎を意識して歌う、という指導がしっくりくる。
2年やったから、それが染み付いているのかもしれない。

歌詞のリズム読みに続いて、歌詞をつけて歌う。
2つ目のパートまで一応終わった。
歌詞もメロディも覚えているので、余裕であるが、納得のいく声はまだまだ出ない。
精進しないといけない。

9月の1週目が終わったら、2週間練習がないので、先生もそれを心配していた。
もう少し、身体を使って、声を響かせないといかんと思う。

ということで、来週は3回目の練習だ。


| | 考えたこと | 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
異文化体験
日本に来て長いこと暮らしているアメリカ人と韓国人に「日本で気を使っていること」を聞いているサイトがあった。
それによると、携帯電話の通話を禁止しているのは、日本の特徴らしい。
アメリカも韓国も、電話はOKとのこと。

そういえば、ぼくも当初どうしてあれほど禁止するのかと思っていた。
小さい声で話せば別に構わないようにも思う。
たしかに、話し相手の声が聞こえず、一方的に話しているのを聴くのは気になるが…。

さらに、コンビニのレジの早さも気になるらしい。
常に小銭を用意して並ばないといけない。
レジ係も急ぐし、客も急ぐ。
このへんは日本らしいとも思う。

クレジットカードが使えない店が多いことも気になる。
やはり現金志向が強いのか。
ハイテクの割に、そういうところがある。

日本人の意思疎通も気になるらしい。
本音と建前というやつ。
来てほしいのに、「別に来なくてもいい」とかいうところは外国人にはわかりづらい。
行かなかったら怒られてしまった、という経験があるとのこと。

日本人がすぐに「スミマセン」というのもオカシイと思っている。
挨拶みたいなものなのだが、どうして謝るのか、ということだ。
慣れてくると、形だけ謝る、ということができるようになったとのこと。

会社の飲み会でも気を使うという。
アメリカでは一人でいる人に話しかけないらしい。
それは好きで一人でいる、という意思表示。
でも、日本では気を遣って話しかけないといけない。

いろんなことが違う。
これが異文化というもの。

日本でも外国人が増えて、異文化体験ができるようになってきた。

これはいいことだと思う。




| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒートアイランド
夏の暑さがどんどんひどくなっているように思う。

暑くなるとエアコンの使用が増え、その排熱でまた気温が上がり、そうするとまたエアコンの使用が増え…、という悪循環。
時々エアコンの室外機のそばを通ることがあるが、あの廃熱はすごい。
エアコンが密集している都市が暑いのは、このヒートアイランドの効果も大きい。

今朝のワールドニュースでシンガポールの取り組みをやっていた。
やっていたのは、マレーシアの伝統的な住宅設計。
風通しを良くして、部屋を涼しくする、というもの。
その伝統の知恵を生かして、家を涼しくリフォームした事例を紹介していた。
日本は夏だけだが、シンガポールは熱帯に近いから暑い期間が長い。
だから、こういう取り組みをやるのだろう。

気温というのはエネルギーだから、どこかの温度を下げたら、どこかの温度は上がる。
それがエネルギー保存の法則。
エアコンというのは熱の交換をやっているだけだから、熱を下げるだけ、ということはできない。
どこかを下げたら、どこかの温度は上がる。
それがエネルギー保存の法則。
夏の冷房で出た廃熱を、冬の暖房の時まで取っておけるような仕組みができたら、間違いなくノーベル賞だと思うが…。

今朝は涼しかったので朝はエアコンを使わずに済んだ。
みんなが使わないと、廃熱も少なく、暑くならない。

雨が降ったら、それが気化する時に熱を気化エネルギーに変えるから、涼しくなるはずなのだが、一方で湿度が上がりジメジメする。
これがまたうっとうしい。
最近は「不快指数」というのを言わなくなったが、あれは湿度が高くて蒸し暑いと高くなる。
なんで言わなくなったのだろう?

Webで検索すると、今は温暖化でいつも「不快」になったから、出す意味がなくなったとのこと。
やっぱり夏は過ごしにくくなっているのだ。

昔の夏は暑かったと思うが、それでも、エアコンは使わず扇風機を使っていた。
小学校の頃だ。
当時はまだまだエアコンは贅沢品で、一部屋に一台というものではなかった。

あの頃と比べたら、格段に暑くなった。
夏休みも外で遊んだりしていた。
蝉取りをしたり、広っぱ(今はなくなった)で野球をしたり…。

まだ日本の高度成長の前だ。
もちろん、ヒートアイランドという言葉もなかった。

思えば、いい時代だった。
次の世代の子どもたちは、自分が年をとってどう思うのだろうか…。



| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
ダークモード
めったにマイクロソフトオフィスは使わなくなったが、最近のオフィスにはダークモードというのがある。
黒い画面に白い文字を打つ、というモードだ。

聞けばグーグルクロームにもあるらしいが、どうやったら使えるのかわからない。
普通にクロームのアプリで黒い画面を選んでも、文字を入れるところは白のままだ。
タブやウィンドウは黒くなるのだが…。

黒い画面に白い文字というのは、あまり見ない。
でも、ちょっと使ってみると、目に優しいという気もする。
白い画面に黒い文字というのは、紙ならいいがスクリーンだと光を浴びている感じになる。
背景が黒で、文字が白というのは、なんとなく目に優しい。

画面が黒というのも、なかなかいいものだ。
落ち着いて見える。

ダークモードのメリットは、目に優しいということと、バッテリーの節約にもなるということらしい。
Youtubeにもダークモードというのがあり、これにするとバッテリーの持ちがよくなるとのこと。
ただ、普通の画面でダークモードというのはどういうことなんだろうか。
調べてみると、液晶ではなく、有機ELディスプレイなら、黒は全く光らないので電力を節約できるということだ。
液晶は変わらないということなので、ぼくの機種は関係ない。

ダークモードに適したフォントというのもあるだろう。
ぼくは画面の文字はだいたいゴシック系にしているが、これだと見やすいと思う。
逆に明朝体などのフォントは細くて見にくい。

最近は駅などでもデジタルサイネージというやつが置いてあるが、あれは目を引く。
光っているからだ。
同じポスターでも、光っていると全然違う。
あれは目立つためのものだろうが、読ませるためのものなら、黒地に白文字というのもアリだと思う。

ブラウザのクロームでもそのうちサポートされそうだ。

出来るようになったら、試してみよう。




| | 考えたこと | 20:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
辛い鎮痛剤
インドネシアに出張したときに、昼食のレストランできれいな緑のシシトウ状の物が出て、それをまるまる1個食べたら、夕食時も味がわからなかったほど辛かった。
あとで聞くと、細かく切ってちょっとだけ香辛料に使うということだった。
あれはぼくが今まで食べた中で一番辛いものだ。

以前スコヴィル値について書いたが、これは辛さを表す単位。
最も辛いハバネロが30万スコヴィル程度らしい。

しかし、世界一はもっと上。
モロッコのサボテンに似たハッカクキリンという植物の成分に、レシニフェラトキシンというのがあるらしい。
そのスコヴィル値はなんと160億という。
もちろん、これは猛毒になる。
動物が間違って食べると、無事では済まない。

ただ、このレシニフェラトキシンは有望な鎮痛剤になるという記事があった。
エライもので、これだけ辛いと関節痛の痛みを伝える神経末端が破壊されるという。
このレシニフェラトキシンは、痛覚神経に特化して働きかける。
だから、他の神経は無事ということだ。

記事によると、アメリカの国立衛生研究所(NIH)はこのレシニフェラトキシンを末期がんの痛みを緩和するのに応用することを研究しているという。

多くの薬効成分は植物から採れる。
植物はそういうものの宝庫なのかもしれない。
まだ見つかっていないものも、きっとたくさんあると思う。

以前は植物学などという学問は、植物を分類して系統立てるだけのもの、と思っていた。
失礼にも、そこにどんな意味があるのかとさえ思っていたのだ。
でも、こういう地道な学問が、21世紀の製薬を助けることもあるのだろう。

生物は不思議だ。
植物が、人体に影響する成分をどれだけ含んでいるかも未知の領域。
人間は宇宙のことも知らないが、地球のことも知らない。
人間が解明したことなど、微々たるものなのだろう。

そう考えると、基礎研究は大事だ。
しかし、もっと大事なのは、基礎研究をやっている人たちが、それを説明することだと思う。
「こんな夢がある」とか「こんな発見ができるはず」とかいうことだ。
単に、基礎研究は大事だというだけで、研究費は出ない。

大事というだけではなく、もっと夢を語ってほしいと思う。



| | 考えたこと | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
普通の国
米中貿易戦争の本質について、福島香織というジャーナリストが書いた記事を読んだ。

彼女は米中貿易摩擦で、外資が中国から相次いで撤退するのを見て、その本質についてこう書いている。

「これは西側自由社会と中国共産党式管理社会という価値観の衝突、対決であって、米中どちらかが自分たちの価値観を捨てない限り、解決し得ない対立なのだと思う。だが米国や私たちが民主や自由や法治を捨て中国のやり方を受け入れることは考えられないし、中国はこのままの体制であれば、西側社会の言うような法治や自由や民主を受け入れることはない。同じルールでビジネスができなければ、外資企業が中国市場で中国企業を相手に勝てるわけがないではないか。」

「習近平政権になってからは、西側のルール、価値観は全否定。外国のハイテク技術を我が物とし、その国産化を掲げ、その国産ハイテク技術をもって海外市場に進出し、自分たちより国力の弱い国々に、中国式ルールを受け入れよ、という。米国にすれば、それは米国から不当に盗んだ技術だ。しかも中国式ルール、つまり西側の言う法治ではなく、中国共産党が法を使って仕切るルールを拡大することで世界秩序のスタンダードにしようという野望を隠さなくなった。それが「一帯一路」という経済一体化戦略の狙いの1つだ。そのことに気づいた米国が、中国に対し、米国はじめ西側陣営とフェアにビジネスをするならば、中国式ルールでなく米国式ルール、つまり法治を基礎とした自由主義市場スタイルでなければ受け入れられないと主張しているのが、米中貿易戦争の本質だ。」

ぼくもそうだと思う。
オバマ大統領の時代はまだ中国がいつかは自由主義になる、という期待があった。
中国がネコをかぶっていた時期だ。
しかし、今は違う。
習近平・トランプの時代になって、それは待っていても来ないということが明確になった。
だから、そう簡単には譲れなくなった。

美しく言えば、自由主義と社会主義の戦い。
もっと下世話に言えば、アメリカと中国共産党の覇権争い。
どちらの側面もある。

ぼくは民主主義が最良だと教育されたし、実際にそう思っている。
戦後の教育を受けた人たちは、ほとんどそうだと思う。
安保反対と叫んだ人たちもいたが、それは日本がまた戦争しようとしている、と思った人たちだった。
その後の50年の歴史が、それは間違いだったと証明している。

結局、軍備にそんなにお金をかけずに済んで、日本は高度成長した。
その選択が正しかったかどうかはわからない。
しかし、いつまでもアメリカは守ってくれるわけではない。
安保条約は片務的だと言われたら、それはそうだと思う。
その分、日米地位協定で、アメリカを優遇しているとも思う。

ずっと前に、小沢一郎がイラク戦争の時に、日本も「普通の国」にならないといけない、と言った。
普通の国、というのは、

「日本が真の国際国家となるために,(1) 「国際社会において当然とされていることを,当然のこととして自らの責任において行うこと」で, 安全保障に関しても例外としない。 (2) 「豊かで安定した国民生活を築こうとしている国々に対し,地球環境保護の課題について, 自ら最大限の協力をすること」が必要である」

ということだ。

今小沢がどう思っているのかわからないが、こういう考えを「是」とするかどうかが、これからの日本の課題だと思う。

でも、ぼくらの世代では解決できそうにない。議論すらできないと思う。
新しい世代の人たちに託さないといけないだろう。

それはとても残念なことだ。





| | 考えたこと | 00:07 | comments(6) | trackbacks(0) |
3年目の「1万人の第九」
無事3回目の抽選も当選し、今週の火曜日に1回目の練習があった。

当たった時に勘違いした。
今回も西宮Aという今までのクラスを第一志望で申し込んでいたが、てっきりそのクラスだと思っていた。
実際に西宮Aのクラスに行って、「名簿に名前がありません」と言われて、初めて気がついた。
当選の画面を印刷して持っていったのだが、そこにはたしかに第二志望の「梅田A」と書いてある。
書いてあるのに、見落としていた。

そんなわけで、今週が1回目の梅田の教室に行った。
今年はテナーで申し込んだが、やっぱり声が出ないのでバスに変わるつもり。
練習はバスのところに座っている。

梅田Aの教室は大阪工大のロボティクス工学などの入っているビル。
OITビルと書いてある。
OITはMIT(マサチューセッツ工科大学)の向こうを張って決めたのだろう。

ここの4階のホールが練習場所だが、このホールは講義目的のものらしく、音響が西宮とはだいぶ違う。
1回目の練習でステージ上でピアノを弾いているのだが、合唱が始まると音が聞こえない。
次回はきっとマイクで音をひろうと思うのだが…。

梅田Aクラスは加藤先生。
女性の先生で、自分では体育会系と言っていた。
コダマ先生のピンチヒッターで2回ほど西宮に来てレッスンしてくれたことがある。
その時の印象では、女性の先生は、女性に厳しく、男性には優しいような気がした。
次回からどうなるのか、見てみたい。

1回目の練習では、歌詞のドイツ語の読みを一通りやって、最初の部分のメロディを取った。
まだ歌詞をつけて歌うところまではいかない。
それは来週のお楽しみ、ということだ。

加藤先生は特に発生法の説明はなく、思い思いに歌うという感じ。
コダマ先生の「骨盤底筋」は全く出てこなかった。
次回以降どうなっていくのか、楽しみ。

3年目の第九なので、だいぶ余裕がある。

来週の火曜日の2回めが楽しみだ。



| | 考えたこと | 21:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
部分最適
テレビでやっていたが、渋滞時の合流の合理的な方法がある。
これは合流地点のみで、1台ずつ入るというやり方。
明らかにブレーキを踏む回数が減る。

ぼくは大概そういうふうに合流するが、そうすると何だかマナーが悪いように思える。
他の車は合流地点の手前で、めいめい合流するのに、自分だけが一番前まで行って合流している、と思われるからだ。
しかし、実際にはめいめいが思い思いの位置で合流すると、合流される側の車線を走っているクルマのブレーキ回数が増える。
ブレーキ回数が増えるということは、車線の平均速度が落ちるということで、全体の流れが悪くなり渋滞がひどくなる。
一人だけがそうしても意味がないといえば、そうなのだが…。

全体を考えたらわかると思うのだが、早く合流したいという気持ちがあって合流するのだろう。
空いているときなら問題にならないが、渋滞の長さを短くするためには、そういう合理的な考え方を普及しないといけない。

80年代にイギリスの道を走ったとき、この先工事中で片側1車線という標識が出ると、その位置でみんながその車線に入るのに驚いた。
片側が空いていても、その位置で1台ずつ譲り合って1車線になる。
これがイギリスのマナーか、と感心した。

こういうふうに考えるのは、全体の最適を考えて行動する、ということだと思う。
ぼくらの不得意とするところだ。
日本人は自分が見えている部分の最適を取るのはうまい。
しかし、全体の最適を考えて行動するのは不得手だ。
それが渋滞という現象にも現れているような気がする。

戦争中の日本の戦闘機は陸軍と海軍が作っていて、使っているネジの方向も違ったりしたという。
各々が部分最適を考えて、自分の思ったことをする。
それがいかに不合理かということを考えない。

何でも合理的にするのがいいとは言わない。
しかし、社会の利益になることなら、そうすべきだと思う。

平成の自治体の大合併で、たくさんの市ができたが、公務員の数はほとんど減らないままだ。
各々が自分の利益を守ろうとして、全体の利益を考えない。
経済的な合理性と住民の利便性を秤にかけたということだが、減らないなら合併する意味がない。
公務員以外の住民がいなくなったら、公務員は誰にサービスするのだろうか。

民間企業でも、同じような分野の子会社がいくつもあったりする。
これも全体最適を考えれば、統合するべきものもあるだろう。
そういう考え方がなかなかできない。
それはぼくも同じ。

21世紀を迎えて、そこから脱却しないといけないぞ。


| | 考えたこと | 21:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
エンジンの寿命
ドイツのコンチネンタルというと、タイヤの会社だったが、今やM&Aによって世界4位の自動車部品のメーカーになった。
欧州は電動化に向かってまっしぐら、という印象だが、実際にはなかなかそうはいかない。
完全な電動化をするには、まだまだ電池のコストが高いのだ。
長年続いてきた内燃機関には、ガソリンがある限り、それなりの優位性がある。

ただ、完全に電動化するメリットは大きい。
部品の点数は大幅に減るし、スペースも生まれる。

さらに、未来のクルマ社会はシェアリングという脅威(メーカーにとっては)もある。
実際に日本では自家用車の稼働率は3%程度と言われており、シェアリングのメリットは社会的には大きい。
計算では3%の稼働率ということは、シェアリングすると、約1/30の車があればいい、ということだ。
だから、少々高くてもみんなでシェアすれば、電動化は来るかもしれない。
また、誰かが画期的な技術を生んで、バッテリーコストが飛躍的に下がれば、電動化まっしぐらになる。
そういう不確実性を考えると、クルマ業界は大変だ。

そんな中、コンチネンタルは「エンジンの寿命はあと20年」とハノーバーでプレスツアーの基調講演を行った。
それによると、2030年に生産が始まるディーゼル、ガソリンのエンジンが内燃機関の最後の世代になって、2040年以降は内燃機関は順次廃止、ということだ。
つまり、エンジンの寿命はあと20年、ということになる。
コンチネンタル自身は、2025年にエンジンの開発を止めるとのこと。

今の自動車業界は、できればエンジンの時代ができるだけ長く続いてほしいと思っている人が多数だと思う。
エンジンの方が圧倒的に部品点数が多く、たくさんの人たちを食わせられる。
今のサプライチェーンを維持したいのが本音だろう。
理屈では電動化の時代が来るとわかっていても、エンジンをできるだけ長く作りたい。
今エンジンの関係で働いている30歳や40歳の人にとっては、生活に関わる問題だ。

どのメーカーも環境汚染については敏感で、排気ガスの低減には力を入れている。
実際には将来ゼロ・エミッション(CO2ゼロ)を増やすと計画している。
結局どの会社もいずれは電動化の社会が来る、ということを認めているのだ。

ここにも書いたが、部品点数は大幅に減少し、さらにシェアリングで必要台数が減れば、自動車業界自体が縮小する。
そしてそれは、遠からず実現するであろうと言われている。
それでも、20年後と言われると、「えー」という声が出るだろう。
トヨタがハイブリッドの特許をオープンにしたのも、エンジンの寿命を伸ばし、少しでも自社、そして自動車業界のヒエラルキーを守るためだろう。

だからといって、完成車メーカーだけでなく、部品メーカーも生き残る道を探らないといけない。
それがロボットなのか、ドローンや飛行機なのか、他の産業なのかはそれぞれのメーカーが決めることだ。

思えば、馬車や人力車は自動車に駆逐されてきた歴史がある。
90年代後半にインターネットが普及し始めたとき、それが似十数年後にシェアリングエコノミー、というようなものを生み出すと思っていた人はほとんどいないだろう。
内燃機関が下火になるのは、歴史の必然なんだろう。

富士フィルムがフィルムがなくなっても生き残っているように、自動車業界の淘汰で誰が生き残るのだろうか。

幸い、ぼくはそれを見なくて済みそうだが…。




| | 考えたこと | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
落ちこぼれ対策
苫野一徳という若い教育学者が『「学校」をつくり直す』という新書を出した。
「落ちこぼれる子どもをなくす」というのが目的。

彼は1980年生まれの39歳。現在は熊本大学の教育学部の准教授という肩書き。
その紹介の記事を読んで、そのとおりだと思ったが、違和感が残った。

落ちこぼれが発生する原因について、結論としてこう述べる。

「学校に通う子どもたちが、どういうわけだか幸せそうじゃない。もちろん、幸せな子どももたくさんいるには違いありませんが、それでもやっぱり、何かがおかしいと思っている保護者や子どもたちは少なくないはずです。
理由はもちろん、人それぞれです。いじめ、体罰、過度の管理・統率、厳しすぎる校則、空気を読み合う人間関係、落ちこぼれ……等々。
でもこれらすべての問題の根底には、ある共通の本質がある。わたしはそう考えています。
結論から言ってしまいたいと思います。公教育が始まって、約150年。学校教育はこれまで、ずっと変わらず、基本的に次のようなシステムによって運営されてきました。すなわち、「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる」というシステムです。
ところがこのシステムが、今いたるところで限界を迎えているのです。」

ぼくがずっと書いている「割合」がわからない大学生の問題も、もちろん小学校で習うことが身についていないという「落ちこぼれ」の問題になる。
数学という積み上げの学問で、割合の概念が抜け落ちると、その後に習うことの多くがわからないと思う。
それほど割合の概念は基本的な概念。
それがわからないということは、分数の概念がわからない、ということでもあり、それは90年代から指摘されてきた。

苫野氏が言うように、学年で教えることが決まっている、ということがその原因の大きな部分であるのは間違いない。
そのために、以前の単元がわからなかったり、忘れたりしている人は補習をしない限り、学び直しの機会はない。
だから、だめなのだという理屈はわかる。
彼はこうも書いている。

「ある新米先生からも、こんな話を聞いたことがあります。
「授業で時計の読み方について学習をしたんですが、理解できない子どもも少なくありませんでした。だから、その単元を何とか終えたときにはとてもホッとしたんです」
授業時数はあらかじめ決められていますから、その時間内に理解できなかった子どもたちは、結局わからずじまいのまま、次の単元に進んでいかなければなりません。でもその先生からすれば、とにもかくにも、授業自体は予定どおりにやり遂げたのです。
気持ちはよくわかります。でも厳しい言い方をすれば、それは教師としての責任の放棄です。教師の重大な責務の1つは、言うまでもなく、子どもたちの学力──それが何を意味するかについては、またあとでじっくり論じることにしたいと思います──をしっかり保障することにあります。理解できない児童生徒を放って、何とか授業をこなしていけばいいなどということはないのです。
でも、その先生を過度に責めてはならないとも思います。責められるべきは、やはりシステムなのです。「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」学習する、150年も変わらず続く学校のシステムなのです。」

しかし、教育学者として何冊かの本を出してきた苫野氏なら、もっと言えることがあるはず。
そのシステムに甘え、「難しいことは塾で聞け」という先生も実際にはたくさんいる。
部活動がメインの仕事であり、教えることは「ついで」という先生もいる。
定期考査の前になると、「この問題を覚えるように」という数学の教師もいる。
実際に「高校の数学なんて世の中では必要ない」という数学の教師も実際にいた。
学校側にしても、必要な教科の教員を採るというより、「この部活」が指導できる教員を採る、ということもある。
こういう問題に蓋をしてしまってはいけない。

教育のシステムのことを言うのなら、もっと教員養成のシステムのことも言わないといけない。
それこそ、教育学の範疇だ。

学校のシステムにしても、教師が忙しいのは親への対応や事務仕事の面もあり、そのためには学校に事務を入れなければいけない。
きつい言い方だが、教師がその状態を口実に、教えることをサボっているという側面もあると思う。

その上、文科省の問題もある。
この状態で、小学校で英語を正規科目にして、プログラミングもやるという。
なぜ教育学者たちは先生の養成法を変えることが必要だと思わないのか。
日本中の教育学部で、大学院はできたとはいえ、学部では十年一日の如く、同じような教育をしている。
それを目の当たりにしているはずだ。

言っていることは正しいし、もっともだと思うが…。




| | 考えたこと | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
地域差がない?
高校野球を見ていたら、解説をしているどこかの高校の監督が「地域差がなくなっている」と言っていた。
たしかに、北海道、東北あたりの雪国は昭和の時代は弱かったが、平成になって強くなってきた。

しかし、それは野球人口が増えて、地域の野球の質が上がったからではない。
少子化もあるし、他のスポーツもあるし、野球の裾野は狭まっている。
プロ野球の中継はめったに地上波ではやらないし、球場に行っても観客は高齢者が多い。
最近はネット裏のテレビに常に映るところに、子どもたちを招待して映したりしているが、それ自体が野球人口が減っている証だ。
昔は観客席のいたるところに子供がいた。

地域差がなくなっているのは事実だが、その原因をわかっているはずなのに言わない。
今年の青森代表など、地元の生徒はほとんどいない。
山形も福島も同じようなもの。
それを関係者が「地域差がなくなっている」という言葉でまとめるのはオカシイ。

高野連は一度はそれを問題にして、他府県からの流入制限のルールを提案した。
そうしたら、多くのチームが困ると言ったら、なし崩しに何人でもOKにした。
そういういい加減なことをしているから、球数制限などの問題に関してもいい加減になる。

他府県からの野球留学を正式に認めたらいいのだ。
そういうステートメントは一切出さず、関係者は「地域差」という言葉で片付ける。
それは昔の「高校球児は純真な青年である」というような幻想の賜物だ。
今や高校野球はビジネスなのだ。
少年野球が盛んな関西などから、親も指導者も地方で甲子園出場率の高い高校への斡旋をする。
地方の学校法人は高校野球で名前を売りたいから、監督、練習場とセットで人材も確保する。
そういうことだと思う。

ビジネスと割り切れば、球数制限も導入できる。
要は強い野球選手を育てるのだ。
地域のため、という口実ももはや不要だ。
野球に打ち込むのは事実だが、純真でビジネスとは逆のもの、という考えは違う。
短期間で甲子園に出るような学校法人に雇われている監督も同じだ。
野球を通じて人格を形成するというよりは、勝つことが優先する。

もうビジネスライクにやったほうがいいと思う。
その方が正直だ。

一度ウソをつき始めると、どんどん糊塗してウソのかたまりになる。
それは、日本を戦争に動かしたやり方だ。

そういうことはもう止めよう。



| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
中二病でも恋をしたい
京都アニメーションの仕事を知りたくて、WOWOWの「中二病でも恋をしたい」のアニメ劇場版を2本見た。

Wikipediaによると、この映画の「中二病」とは「中学二年生頃の思春期の少年少女にありがちな思い込みよる症状で、本作では自意識過剰の発露としている。いくつかの類型があるが本作の登場人物が患ったのは邪気眼系と呼ばれるもので、自分には特殊な能力があるという錯覚、万能感や、オカルト的な思考に支配されて、設定したキャラになりきるというもの。医学的な治療の必要とされる「病気」または「精神疾患」とは無関係。」と説明されている。

中二病は男子のイメージ。
しかし、このアニメの主人公は中二病の高校2年生の女子。
目に力があるという意識があって、片目にカラコンを入れて、眼帯をしている。
かなりひどい中二病だ。
二作目ではゴスロリ風のスタイルをしている。

男子の方は中2の頃に中二病だったが、高校に入ってそこから抜け出してノーマル。
中二病は中学2年生でも罹患するものと、罹患しないものがある。
その中二病の女子とノーマルな男子が恋に落ちるという映画。

中二病の模写のところは笑うしかない。
よくこのテーマをアニメで描いたなあという感じ。
評価は難しい。

このテーマに思い入れができる人は少ないと思う。
ある程度は笑いで済ませるが、それ以上真剣になると、ちょっと引く。
リアリティがなくなるのだ。

結局は恋愛映画なのだが、そこに中二病が絡む。
どうして中二病を絡めないといけなかったのか。
必然性がわからない。
何となく、中二病賛美という感じもある。

もうぼくらの世代にはわからないのだろうか。



| | 映画・舞台 | 15:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
AI野球
スポーツは目的がはっきりしている。
ルールの範囲内で戦い、相手に勝つことだ。

今、メジャーリーグでは、スタジアムにたくさんのカメラを入れて、選手の動きを解析したり、どんな球を投げて、どんな球を打ったのか、どういう飛球をどういう守備位置で取ったのかなど、全てを数値化することを進めている。
数値化ができれば、過去のデーターをもとに、相手のメンバーに応じて誰を使えばいいか、投げる球に応じてどこを守るべきか、計算で出すことができる。
どの程度試合中にリアルタイムで使われているのか、それはわからないが、こういうことが進むと試合中の作戦や指示も出せるようになるだろう。
そのうち、メジャーの監督もバレーボールのようにタブレットを持って支持を出す時代が来るかもしれない。

もちろん、人間の選手は指示通りに動けるかどうかはわからない。
確実に、不確実だ。
そこが面白いところなのだが、一方で統計や確率でそれなりの結果は出る。

以前、マネー・ボールという本を読んだが、あれがメジャーがコンピューターで解析をし始めたきっかけだ。
新しいマネージャーは、スカウトが今までの経験で選手を選んでいたのだが、統計的にフォアボールを選んで出塁率が高い選手を選ぶ。
理論的にはフォアボールをずっと選べば点が入るし、アウトは取られない。
余計なストライクはファールをすればいい。
極論だが、そういうことだ。

短期決戦では、そういう選択はうまくいかないが、100試合を超えるリーグ戦では統計が力を発揮する。
あの頃よりも、リアルタイムのデーターが増えて、より精度は上がっただろう。

コンピューターが賢くなれば、そのうち監督に指示を出し始める。
勝てるのなら、球団もそれを支持する。
人間の抵抗は大きいだろうが、実質的にはそうなる。

将棋や囲碁でコンピューターが強くなったように、ルールが決まっていて、勝敗がはっきりしているものは、不確実な要素があっても、統計的にはコンピューターが割り出した作戦の成功率は高くなる。
そのためのインフラ(スタジアムのカメラの数など)は整備しないといけないが、そんなものはどうとでもなる。

選手個人のデータもどんどん整備されていくだろう。
上手くなったら、データーでわかる。
極論すれば、コンピューターが監督になることも考えられる。

監督がコンピューターでも、人間がプレイしている限り、面白いだろう。
それは、人間がいい加減だからだ。

30年後のメジャーリーグはどうなっているだろう。


| | 考えたこと | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
安易な共感
阪神大震災は尼崎で被災した。
被災といっても、食器が割れたり、家具が動いたりした程度。
だから、避難もしなかった。
会社までの通勤は最初は自転車で大変だったが、そんな苦労は避難した人達を見ていると何でもなかった。

その時に避難所で暮らしている人たちは、本当に大変だと思った。
どれほどの苦労だったかは、想像できない。
ぼくが経験した地震と、避難所の人たちが経験した地震は違うものだ。
同じ時間を過ごしていても、安易に共感などできない。
安易に共感して「大変ですね」などというのは失礼なことだと思ってしまう。

同時代を過ごして、少し経験していても、そう思うのだ。
ましてや伝え聞きで共感するなど、信じられない。
理解はできても、その思い全てを共感するなど、ありえない。

何が言いたいかというと、去年も書いたが、原爆や戦争の語り部のことだ。
語り部がどんどん亡くなっていくから、それが問題だという。
だから、語り部の喋りを再現する人を新たな語り部として作るという。
よくそんなことが言えると思う。

それなら、語り部が語っているビデオやテープ、文字を使えばいいのだ。
なぜ生身の人間である必要があるのかわからない。
会場でビデオを流せばいいだけだ。
そのために、アーカイブというものがある。

その人になりきって語ることなど無理なことはわかっているはず。
それでも、そういう人を作りたいのだろうか。

これも、行政が今までと同じことを続けたいということの一環ではないか。

即刻そういう活動はやめるべきだと思う。



| | 考えたこと | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
2013年に発表されたアニメ。
脚本家の岡田麿里が手掛けた作品の特集があって、一つ録画して見てしまった。
それが「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」。
「あの花」という略称で語られるようだ。
劇場版、というただし書きがあったから、テレビでもシリーズ物をやっていたのかもしれない。

幼馴染み6人の仲間「超平和バスターズ」のお話。
「今」は高校2年らしいが、時間が行ったり来たりして、難しい映画になっている。
少なくとも、子供向けには作られていない。
内容は、だいぶ違うけど、日本版の「スタンド・バイ・ミー」という感じだ。

夏、花火、幽霊という三題噺だったら、どんな話になるだろうか。
そこに、少年少女から17歳になるティーンエージャーたちの思いが加わる。
亡くなった仲間が一人。
その幽霊がずっと見えている仲間が一人。
そういう話だ。

アニメが先で、漫画化されたというパターン。
脚本家の岡田麿里が小説も書いた。
いかにもライトノベル、という感じの世界。
まあ、ライトというにはちょっと重いが…。

劇場版はある程度テレビを見ている人向けの作品だと思う。
ところどころ、経緯がわからないところが出てくる。
劇場版だけ見てもわかりはするのだが、ちょっと欲求不満が残る感じ。

日本の2次元のアニメーションは、本当に作りが丁寧だ。
アニメでないと描けない世界を描いている。

終わりの方で歌が流れるのだが、聞き覚えのあるメロディー。
調べると、ZONEというグループの「secret base 〜君がくれたもの〜」のカバー。
女性4人のバンドだった。
イントロなしで「君と夏の終り 将来の夢大きな希望忘れない…」のボーカルが印象に残る。
カバーの方は映画の中の声優たちが歌っている。

YoutubeにPVがあるが、そのコメントのひとつに「アニメなんかで泣くかよって思って見たら、めちゃくちゃ号泣したのを覚えてる」というのがあった。
きっと若い人なんだろう。
あの映画を見て、この曲を聴くとちょっと感動してしまう。
さすがに号泣はできないが…。

日本的な若者の成長を描いたアニメ。
なかなかよかった。




| | 映画・舞台 | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
トラックが減った
昨日、今日とクルマで東京に行って、帰ってきた。
毎月東京を通って、茨城県まで行っていたのは1984年まで。
片道700キロくらいあった。
テストカーを運ぶということもあって、一人で運転して朝吹田サービスエリアに集まって出発。
片道12時間くらいは楽にかかった。
ゴールデンウィークや盆に行くこともあって、そんな時は夜中に走って帰ったりした。

あの頃は、高度成長の真っ只中で、交通インフラも整っていないのに、どんどん経済が成長して大変だった。
名神は天王山トンネルのところで渋滞していたし、東名は用賀のところで大渋滞だった。
だいたい、名神、東名という2車線の1本道。
あれでは渋滞も起こる。

今は天王山は3車線が2本になったし、新名神はできたし、新東名もできた。
だから、いくら混んでも昔に比べたらしれている。

昨日は祝日だったが、海老名のインターに寄ったら、アジアからの旅行客がすごかった。
ガムでも買おうと思って入ったら、レジに10メートル以上列ができていて、諦めた。
店の外に出ても、日本語が聞こえないくらいだ。
世の中変わった。

しかし、以前東京にクルマで行くとなると、一日がかり、という感じだったが今は6時間くらい。
ちょっと混んでもそれくらいで行ける。
クルマもよくなったし、道もよくなった。

何より違うのはトラックの数。
昔は盆でもトラックがたくさん走っていて、上り車線などで追い越しをかけるとそれだけで渋滞した。
しかし、昨日も今日もトラックがほとんどいない。
いても、4トンあたりが多い。
物流が合理化されたのか、コンプライアンスなのか…。
結局は物流が減少したということだろう。
やはり経済も停滞しているのだ。

走りやすくなって、よくなったが、なんとなくトラックが減ると活気がない。

東京は近くなってよかったが…。



| | 考えたこと | 21:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
デス・ホット
近所のスーパーで、タバスコの一番辛いのは「デス・ホット」というやつ。
ビンにドクロのキーホルダーがオマケで付いている。
液体というよりも、ドロッとした粘性がある。

これを買ってきて、パスタにかけたらこれがまた辛い。
思い切って多めにかけたら、口がヒリヒリする。
食べたあとも、ちょっと食道が熱い感じも残る。

タバスコはメキシコで生まれたのかと思っていたが、アメリカの南部ルイジアナだった。
メキシコのタバスコ・ペッパーを使っているから、タバスコというらしい。
日本ではピザにかけるもの、という感じだが、アメリカではステーキなどにもかけるらしい。

ぼくは小さい頃、不二家のレストランで、大人のカレーを頼んで辛くて食べられなかった、という苦い思い出がある。
その時に、辛いものが食べられるのが大人だ、という思い込みができた。

それで、なるべく辛いものを食べるようにした。
そのおかげで、うどんにはたくさん唐辛子を入れても大丈夫になったし、辛さが選べるカレーは激辛でも大丈夫になった。
自慢できることでもないが、大人は激辛が食べられる、という変な思い込みがある。

そのせいで、小さい頃からカレー屋に行っても、子どもたちもなるべく辛いのを食べるようになった。
中学くらいまではぼくが勝っていたが、高校ぐらいからは変わらない。
大人は辛さに耐えるもの、という基準は伝わったと思う。

というわけで、唐辛子も要冷蔵の激辛唐辛子を買った。
専用の入れ物に入った、ハウス製。
こちらも、めちゃくちゃ辛い。
でも、それを適量かけると、即席麺のそばやうどんでも、美味しくなる。
これぞ香辛料という感じだ。

大人は辛いものを食べる。

ぼくはそう思っている。

| | 考えたこと | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
死の形
海外の警察ドラマを見ていたら、”suspicious death”という言葉が出てきた。
字幕を見ると「不審死」とある。
なるほど、不審死は英語で「疑わしい死」というのか。

不審死の対義語は自然死や病死だろうか。
死ぬ原因が老衰や病気なら、これは不審ではない。
原因がわからず亡くなった、という場合は「疑わしい死」ということだ。

病気で死んでも、自宅で一人で亡くなったら日本では不審死になる。
それまでどこかで医者にかかっていないといけない。
継続的に診ていた医者が死亡診断書を書けば、不審死ではなくなる。

でも、高齢化が進むと不審死も増えてくるだろう。
孤独死というやつだ。

少子高齢化というのは多死社会ということでもある。
たくさんの人が死んでいく社会だ。
これからは生まれる人よりも死ぬ人のほうが増える。

死の形も変わっていくだろう。
今の流行りは葬儀場の小型化だ。
大きなホールでやるよりも、小さな会場で家族葬という人が増えている。
死者が望んだのか、家族が望んだのかはわからない。

長生きすると、最期の時期は出歩けなくなるし、社会ともだんだんと切れていくから、葬儀に出席したい人が減る。
さらに物理的に葬儀に出席できる人が減る。
結局は家族や親戚、ごく近しい人だけということになる。
だから、こじんまりした家族葬でいい。

葬儀のビジネスは、まだまだいろんなアイデアが出てくると思う。

ブライダルは学生の人気の就職先だが、これからは葬儀の時代。
知り合いのカウンセラーは、いつか葬儀のコーディターネーをやりたいと言っていた。
終活から葬儀へと生前から相談にのる商売もアリだろう。
生前葬も増えると思う。
朝のドラマで松坂慶子がやっていた。

日本の仏教は葬式で金儲けをするシステムだが、これも廃れていくだろう。
戒名やお経に意味を見出す人が減ってくるからだ。
お寺は存続の危機が来ると思う。

今でもアマゾンで葬儀のときだけ4万5千円で坊主を雇う「お坊さん便」という仕組みがあるが、こういうのも増えてくるだろう。
少子高齢化というのは、形式的な伝統が消えていくということでもある。
普段縁のないお経や、死んでからの名前など、どうでもいいと思う人にとっては「お坊さん便」で十分だ。

それでも、何らかのセレモニーは必要とは思う。

新しいサービスが出てくるのを期待しよう。

| | 考えたこと | 20:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
被爆体験の風化
原爆関係のニュースで「被爆体験の風化を食い止めないと」ということをやっていた。
もう原爆が投下されてから70年以上経つのだから、実際に体験した人はほとんど残っていない。
ニュースでは、原爆が投下された時にお腹の中にいた、という人が話していた。

ぼくは、風化するのは仕方がないと思う。
今、日清戦争や日露戦争のことを話す人はいない。
どちらも100年以上経っている。
いずれ、同じようなことになっていくのだろう。

たしかに、原爆が実際に投下された唯一の国だから、その体験を世界に伝えていく、という役割はある。
しかし、国内的に言えば、なぜそれが投下されるまで戦争を止めなかったのか、ということも風化させてはいけないと思う。

日本の軍部は天皇が戦争を終わらせようとしても、終わらせたくなかった、と聞いている。
どう考えても、無駄な戦いだった。
もっと早く降伏する道もあったのだ。

アメリカも原爆を使ってみたかったから、戦争を無駄に長引かせたという意見もある。
しかし、それは他国のことだ。

ぼくらが反省すべきなのは、第二次大戦の軍部のやり方だと思う。
もちろん、軍部だけでなく、マスコミも、国民も戦争をしたがったのだ。

いつも原爆の日に思うのだが、日本人は被害者という言い方ばかり。
それは偏っている。
日本人は加害者でもあるのだ。

対外的には加害者の日本を反省し、国内的には日本を戦争に導いた軍部のことをもっと反省しないといけないと思う。

ぼくは憲法9条は現状に即して改正したらいいと思う。
どう考えても、自衛隊は軍隊だ。

現実を正しく認めることが大事だと思う。

そのためには、原爆に関して風化させないというのなら、被害者の面だけを言ってはいけないと思う。




| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
朝倉あき
ラジオドラマは難しい。
音だけの世界。
声で登場人物を表す。
それでも、毎週聞いていると、気になる声も出てくる。

朝倉あきは、FMシアターに何度か出てきた声優。
やけに存在感のある声なので、ググってみたら女優でテレビにも出ているとのこと。
最近では「下町ロケット」に出演していたらしい。

FMシアターの作品は、そろばん甲子園や、震災のドラマなどだ。
それ以前にも出ていた作品はあったと思う。
特徴的な声、といっても甲高い声とか、おかしな声ではなくて、妙に説得力のある声。

なんとなく、切迫感のある声というと近いかもしれない。
声に意思が感じられる。
ソプラノの声ではなく、アルトの声。

スタジオジブリの「かぐや姫」では主役のかぐや姫の声優に抜擢された。
このアニメは見ていないが、高畑監督が選んだ理由は「声がわがまま」だったからとのこと。
なんとなく言い得て妙だ。
従来のイメージの「姫」の声ではないのは確か。

やっぱり特徴的な声なのだ。
高い声で特徴的な声の人は多いが、この人の声はそれらとは全く違う。
力強さを感じるアルト。
だから、そういう意思を秘めた役になる。

俳優としては知らないが、声優としては有望。

頑張ってほしい。



| | 考えたこと | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
散髪屋
うちの息子たちは、散髪屋ではなく美容院でカットしてもらっている。
昔は散髪屋だったが、知らぬ間に美容院になった。

ぼくはずっと散髪屋さんだ。
社会人になって、4回引っ越しをしたが、その都度近所の散髪屋さんを探して行っていた。
今はちょうど向かいが散髪屋さんなので、とても便利。
空いているのを確認して行くことができる。

去年の秋くらいから、向かいの散髪屋さんの入っているマンションが建て替えだったので、半年ほど休業した。
ご主人によると、このあたりは散髪屋さんが減っているので、休業中も何とかしてほしいという声があって、ご近所で部屋を借りて予約ベースで営業していた。
それくらい、散髪難民がいるということだ。
たしかに、近所を見渡すと、安価なチェーン店の散髪屋さんはあるが、個人営業の店は潰れて減っている。

父が入院して亡くなる直前に、散髪に行きたいというので車で送り迎えをしたが、馴染みの散髪屋はなかなか変えられない。
若い人たちは美容院に行くから、あまり散髪屋には行かない。
向かいのご主人もそう言っていた。

ぼくらの年代は、美容院は女性が行くもの、という常識だったが、今はもう違うのだろう。
なかには散髪屋を利用する若い人もいると思うが、チェーン店を利用するのかもしれない。
こんなところでも、2極化が起こっている。

排泄は人類の永遠のテーマだが、髪や爪もほっておけないから、その処理は死ぬまでつきまとうものだ。
今朝、テレビで「人はいつかはみんな障害者になる」という話を見たが、本当にその通りだと思う。
いつかは、そういうことで、人に面倒を見てもらないといけなくなる。
そうなる前に命が尽きるか、そうならないように体を鍛えるかだが、これは難しい。

当たり前のことを、当たり前にするということが、だんだんと難しくなる。
それが年をとるということだ。

美容院に行っている若い人たちは、美容師を志す。
そっちの方が単価が高い。
だから、散髪屋さんは減っている。

昔は男は散髪屋という時代だった。
時代は変わる。

やはり老兵は去りゆくのみ。



| | 考えたこと | 20:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIの哲学
人工知能の開発者の目線で「哲学」が必要だという記事があった。
今の人工知能が飛躍的に進歩したのは、脳の構造を模して、機会的に学習できる仕組みを作ったからだと思う。
しかし、この記事を書いた日本デジタルゲーム学会理事の三宅氏は、こう書く。

「人工知能という学問の最大の特徴は「基礎がない」という点だ。つまり、「知能とは何か」という基礎が分かれば、数学的に理論を構築できるが、それがあいまいであるため、ど真ん中の問いを保留して、応用として周辺の知的機能や技術にばかり傾注している。
 人工知能の歴史は60年ほどしかない。その間、「外」に向かって人工知能(であろうもの)を実装しつつ、「知能とは何か」という「中心」に向かってようやく学問の基礎も掘り進め始めた、というのが人工知能研究の今の姿である。」

汎用的なAIを作るには、この「知能とはなにか」ということを明らかにしないといけない。
これは大変なことだ。簡単には出来ることではない。
そこで、哲学の出番だということになる。

しかし、知能とはなにかというのは本当に難しい。
そんなことを真剣に考えた人は、今までいないと思う。
人間が考えることが知能であって、それは当然のものだからだ。
人間以外が知能について考えることなど想定していないのだ。
ぼくは今の所、今後のAIを進化させるのは、脳科学の課題のような気がする。

こないだ読んだ進化心理学の本によると、人間は他の哺乳類に比べて、ニューロンの数はそれほど違わないとのこと。
違いが大きいのはシナプスの量だという。
要するに、記憶の量はそんなに違わないが、その繋がりが非常に多くなっているということだ。
いろんなものを関連づけていることが、他の哺乳類との違いらしい。

たしかに、知能というのは、何かと何かを関連づけて考える力だとも言えるかもしれない。
微分や積分を、変位や速度と繋げて考えるなどというのは、まさにそういう事だろう。
そういうアナロジカルな考えが、知能の特徴だと思う。

「人間は考える葦」などという言葉を理解するのも、知能の力だろう。
「人間」「考える」「葦」という3つの言葉をつなげることができるか、という「想像力」みたいなものをどうプログラムするか、という感じだ。
自分でもどういう記憶をどう繋げてそれを理解しているのか、全くわからない。

今も脳に電極をつけて、何かを聴いた時に、どこが働いているか、というような実験をしているんだろうか。
そんな荒っぽいことでは埒が明かないような気もする。

脳の研究が進めば、そういうチップもできるかもしれない。

でも、「その日」は来てほしくないように思うのはぼくだけだろうか。






| | 考えたこと | 01:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
生きる目的
人間はなぜ生きているのか、という問は難しい。
若い頃はとかく忙しいから、そんなことを考えている暇はない。
でも、年をとって暇になってくると、そういうことを考える。

そう考えると、生きる意味などというものは、暇だから考えるもののようだ。
寿命が伸びたから、考えてしまう。
年をとって忙しい人は幸せだ。
そんなことを考えずに済む。

それに、今の時代、インターネットで情報過多になった。
クーポン欲しさにアプリを入れると、バカみたいにニュースが来る。
知るべきニュースだけならまだいいが、ニュースという名の暇つぶしになっている。

SNSもある意味同じだろう。
本当に知りたいものだけならいいが、それ以外の情報も入ってくる。
誰がどこでどんなものを食おうが、そんなことはどうでもいいのだ。

音楽が聞きたければ、なんとかミュージックを立ち上げてストリーミングすればいい。
映画が見たければ、なんとかビデオで、たくさんの映画から適当に選んで見ることができる。
ゲームがしたければ、適当にアプリを入れればいい。
何かについて知りたければ、検索をすれば一発で答えが出る。

こんな楽な生活をしていていいのだろうか。
しかし、これがまぎれもなく文明の進歩なのだ。

一昔前なら、気に入った曲があればレコード屋に行ってレコードを買い、それをターンテーブルの上に乗せて針を落とし、かしこまって音楽を聞いたもの。
それがパソコンで検索して、クリックすれば聞ける世の中。

いろんなことを早く簡単にできるようになった結果、人間は暇になる。

何のために生きているのか、というような問には一般的な答えなどない。
一人ひとりが見つけるべきものだろう。
それを考えずに済む人生は、忙しく過ごし、結果的にはいい人生。

だいたい、こんなことを考えても、仕方ないのかもしれない。
意味があるのは、それを商売にしている哲学者くらいなものだ。

デカンショ節は昔の学生が歌ったもの。
デカンショは「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の3人の哲学者のことだ。

昔の学生は「デカンショデカンショで半年暮らし、あとの半年ねて暮らす」と歌った。
要するに暇だったのだ。

仏教思想に傾倒したショーペンハウエルは本の中でこう書いているらしい。

「人生の答えは、各自が古典や東洋の宗教をひもといて見つけてほしい」

哲学者でも、そういうのだからなあ。

だんだんと、人間には生きる目的などなく、そんなことは考えても無駄だという気になってきた。
そんなことを考えるくらいなら、もっとマシなことを考えたほうがいいのかもしれない。

「人間は考える葦である」と言ったパスカルは、同じ本の中で「人生は暇つぶしだ」とも言っている。
暇つぶしなのだから、好きに生きればいいということだ。
でも、何が好きかがわからないから困る。

結局は堂々巡り。

| | 考えたこと | 21:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
ファッション
ぼくはファッションにはあまり縁がない。
身につけるものに興味はないし、ブランド志向でもない。
だから必然的に服を褒められたこともないし、買いにいってもあまり迷わない。

こないだフェイスブックを見ていたら、シチズンが「AIであなたに合う時計を選んでくれる」という広告をしていた。
面白そうだから、やってみた。
写真が何枚か示され、その中で一番いいと思うものをクリック、というような問が十数問。
選んだら、好みの時計が出てくる。

出てきた結果はまあ好み、という感じだ。
当たらずとも遠からず。

おすすめの時計と一緒に、ファッションタイプの説明も出てくる。
ぼくの説明は以下のようなもの。

あなたのファッションタイプは、モノの価値を流行やブランドイメージにとらわれず判断して購入する「ライフハッカー」です。このタイプは、射幸心を煽る売り文句には惑わされず、自分の人生に必要なものを見極める判断力を備えています。

なんかいい感じだ。
ライフハックというのは「効率良く仕事をこなし、高い生産性を上げ、人生のクオリティを高めるための工夫」という意味らしい。
それをする人が、ライフハッカー。

たしかに、効率や生産性は気になる。
ここでは、いつも学校法人や公務員のことをぼやくが、それは彼らが効率や生産性を重視しないからだ。

同じ仕事は、少ない人数でやるほうが素晴らしい。
目標やビジョンはどういうものであれ、ないよりはあったほうがいい。
前例踏襲は嫌い。毎年同じことをやるのは進歩がない。
強いものが生き残るのではなく、変わり続けるものが生き残る。
そんな価値観だ。

でも、自分の人生に必要なものを見極める、というと、だいぶ違う。
たくさん無駄なものも買った。
そんなに褒められたものでもない。

しかし、時計の写真を何枚か見せて、そんな嗜好までよくわかるものだ。

ライフハッカーは気に入った。





| | 考えたこと | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
芸人のうつ病
こないだ電車で、向かいのおじさんが読んでいるスポーツ新聞の裏側に「名倉 うつ病で休養」という見出しがあった。
名倉というと、ネプチューンという3人組のお笑いのリーダー。

ぼくはネプチューンほとんど知らないし、あまり面白いと思ったこともないが、あの3人組で一番立ち位置が不明確なのがリーダーのように見える。
一人はドラマなどで使われているし、もう一人は完全なボケだ。
リーダーは今ひとつ立ち位置がはっきりしない。

ネプチューンは比較的早い時期にコントを卒業し、看板番組を持ったりして、便利に使われるようになった。
その方が儲かるし、レギュラーになれば仕事も安定する。
ナベプロの力だろう。
ヘルニアの手術後の「侵襲」が原因だというが、ぼくはそれ以外の要因もあると思う。

名倉にとってはコントの方が性に合っていたのかもしれない。
もう50歳。ちょうどこれから先のことを考える時期だ。
あんなバラエティをこれからも続けていっていいのか、という疑問が出てきたんだろう。
今さらコントには戻れない。

今の漫才師は売れるとタレントになる。
番組のMCを任されて、ゲストの俳優などをイジって笑いを取る。
あれは漫才とは全く違う才能。
ある意味、ゲスト扱いがうまいかどうかで決まる。
この「ゲスト」というのはイジられるゲストであって、リスペクトされるゲストではない。
そのギリギリの線でゲストを扱わないといけない。
優しい人はそういうことができない。
ゲストと自分の間に一線を引いてはやれないんだと思う。
きっと彼も優しいんだろう。
だから「うつ」になったのではないか。

チュートリアルの福田も一時うつ病で休んでいて、今も調子が悪いようだが、彼も同じようなものだと思う。
相方の徳井は、マルチタレントのタイプ。
一方福田は昔ながらの漫才師だろう。
徳井のボケは福田のツッコミがあって、初めて面白くなる。
しかし、福田は優しいヤツだから、ゲストにツッコミができない。
漫才ではボケとツッコミという役割があって、約束事にしたがってやっているのだが、それを超えられないのが福田。
そっちが普通なのだ。

彼の場合はまだ関西にいれば、そんなにゲストに気を使わずに済んだと思うが、関東の全国ネットになってしまうと、無理なんだろう。
チュートリアルの漫才は秀逸だが、このままいけば福田は気の毒だ。

役割的にツッコミは難しい。ダウンタウンの浜田のようにだれかれ構わず突っ込む勇気があれば、道も開けるのだろうが、あんな失礼なことは誰にでも出来ることではない。
ギリギリの線で双方が了解しないと、難しいのだ。

彼らはコントなり、漫才なりに戻ったほうが幸せだと思う。
このままいったら、テレビ局に潰される。
所詮、消耗品なのだ。

でも、そこに相方の問題がある。
収入的にはTVの方が儲かる。

板挟みになって、心が病む。
あんなバラエティをやめればいいのだと思うのだが…。


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よしもと問題2
よしもとの芸人の闇営業問題は、芸人対経営陣の争いという問題に矮小化されてしまった感がある。
闇営業をしたお客さんが、反社会的勢力だった、ということはあまり触れないでおこう、というのがテレビ局やよしもとに依存しているマスコミの意図なんだろう。
内輪もめはいくらしてもらっても構わないのだ。

そんな中、デーブ・スペクターがニューズウィークに、日本のテレビ業界と芸能事務所について語っている記事があった。
アメリカから来た彼の目から、この問題をみている。
「日本のテレビが面白くないのは、素人が多過ぎるから」という彼の意見には拍手を送る。
ぼくが地上波を見なくなったのは、まさにそういう理由だ。

彼によると、吉本興業は6000人ものタレントを抱えており、こんな会社は世界にない、という。
1つのエージェントに所属するタレントは20〜30人らしい。
所属するためにハードルがあり、そこで淘汰されているということか。
アメリカでは基本的に芸人が自分でマネジメントを雇う、という。このマネジメントというのが芸能事務所ということだろう。
ギャラは直接芸人に支払われて、そこから事務所がいくらかをもらう。
弁護士もいて、すべてオープンになっている。

吉本興業は給料を払って、芸人を雇っている。
会社が営業をして、仕事を取ってきて、芸人に仕事をさせる。
今回の闇営業というのは、それを通さずに芸人が勝手にやった、ということ。

つまり、アメリカでは芸人はあくまで個人事業主だが、吉本興業の場合は芸人は社員(契約書もないようだが)という扱い。
当然、日本では会社の方が強くなる。

よしもとはそのために大阪だけでなく、いろんなところに劇場を作り、タレント養成所を作って、若い人たちを集めている。
一応、養成所を卒業したら、劇場に出られるようにして、あとは実力ということだろう。
しかし、実力といっても見極めるのは難しいし、ある意味横一線だとすると、誰に目をつけて会社が売ろうとするか、ということになる。
だから、会社にしたら「売ってやった」ということになるし、芸人自身も「売ってもらった」という側面はある。
大阪ローカルの番組など、出てくる芸人よりも、一般の通行人の方が面白いこともよくある。
だから余計に事務所にしたら、「売ってやった」という思いも強くなるのだろう。

デーブ・スペクターのインタビューを、ちょっと長いが引用すると、

「何が問題かというと、日本では吉本のように、あまり実力や才能がなくても事務所に所属できてしまうということだ。これは他の大手事務所にも言えることだが、例えば吉本には「NSC(吉本総合芸能学院)」という養成所があり、お笑いや何かの芸を教えていて、そこを出ると大半は自動的に事務所に所属できてしまう。
専門学校のようなものなので、もちろん学生は自分で安くはない月謝を払って通うわけだが、吉本側もそういう学生を集めるために広告塔としてデビュー前の素人でも何人かテレビに出すということをやっている。
そこで出てくるのが、事務所の力でタレントを使わせるというやり方だ。バーターと言って、テレビ局からAというすごくいいタレントを使いたいと言われたら、Aを使うならBとCも使えという、抱き合わせをさせる。本当はよくないのだが、そうすればあまり面白くない人でも事務所の力で出演することができてしまう。
ある意味でタレントたちが文句を言えないのは、松本人志さんや加藤浩次さんや友近さんなどすごく実力があって価値がある人はいいのだが、そうでもない人が事務所に所属しているだけで出られるという構造があるから。本当にそんな文句が言えるのか、ということになってくる。
これは日本にしかない事情で、吉本だけでなく他の事務所もタレントになりたい人を簡単に入れ過ぎる。だから人数が増えていく。この、所属タレントが多過ぎるということが根本的な大問題だ。
実力が足りないのに、テレビのバーターなどでたくさん出す。だが、そんなのを観ていたら視聴者はしらけるだろう。なんでこんなにつまんない人出してるの、と。人のこと言えないんですけど(笑)。日本にはタレントが多過ぎる、芸人と名乗る人が多過ぎる。「芸NO人」という言い方もあるくらいだ(笑)。」

同じようなことがジャニーズ事務所にも言われているが、関西では圧倒的に吉本興業の力が強く、今や関西ローカルの大半の番組は、よしもとなしでは成り立たないと言ってもいいほど。

一方のアメリカはオーディションが厳しく、100%実力の社会だという。
日本では事務所の力で、素人芸の段階でもデビューできてしまう、ということが問題だという。
でも彼は、日本人はそういう素人が育っていくのを見るのが好きだ、と指摘する。
言われてみると、そうかもしれない。

昔の「アイドル」などはたしかにひどかった。
音程が外れていたり、ろくに演技ができなくてもドラマに出たりしていた。
今でも時々放送事故のようなことがある。
そういう人たちを応援したり、歳を重ねてうまくなるのを見ると、保護者のように喜んだりする。
AKBの総選挙など、そういう側面もあるのではないか。
それは民族性なのかもしれない。

「そもそも日本で「素人」というのは、悪い意味ではない。「新人」とか素人が大好きで、企業だっていまだに新卒を雇う。アメリカは経験がない人を好まない。キャスターになりたい人は必ずジャーナリズムスクールに行く。大学在学中にインターンをしたり、専門的な勉強をして職業訓練をしてから、就職する。
だが日本は漠然とした学歴しかなく、専門学校を出ている人のほうがすぐに役に立つくらいだ。メディアだけではなく商社など一般の企業でもいまだに新卒を雇って、入社してから社員教育をし、人事異動を繰り返して浅く広くいろいろなことを学んでいく。
日本社会がそうなっているので、芸能界はその延長線上にあるに過ぎない。だから違和感も抵抗もない。なぜアイドルとか下手な人たちに抵抗がないかというのは、日本社会にそういうベースがあるからだ。」

ことはやはり日本の文化に行き着くのだ。
日本の新卒文化がここでも生きている。
だから、事務所に入ったら、売れなくなっても大丈夫だ。
事務所が番組を与えたり、営業してくれて食わしてくれる。
デーブ・スペクターが言うように、日本の芸能事務所は「ファミリー」なのだ。
だからこそ、売れなくなっても面倒を見てくれる。
それは、年功序列賃金制と同じ考えなのだろう。
若い人たちは生産性の割には、低い給料で働く。その代わり年をとって生産性が低くなっても雇ってもらえる。

「海外にはタレントを育成する、育ててくれるという文化はなく、既に売れている人や売れそうな人にエージェントが付いて、売れなくなったらばっさり切り捨てる。だからこそ、いい人が残って、才能がない人は淘汰されるのでクオリティーが高い。」

だから、売れるやつしかいなくなる。

「アメリカは月給なんて保障しないから、エージェントにとって負担にならない。稼げなくなったらその分、マネジメントに払わないだけの話だ。
逆にアメリカの場合だと、エージェントがなかなか仕事を探してくれないとか、うまく斡旋してくれないとか、交渉が上手でないとか、オーディション情報や新作映画やテレビシリーズの情報が遅いとか、チャンスを逃したとか、そういうときにはタレントが自分からマネジメント契約を解消して違うところに移籍する。自分が雇っているので、自分で決められる。日本とアメリカでは立場が逆だ。」

芸能界も、やっぱり日本なのだ。

日本でテレビ局と芸能事務所がズブズブの関係になるのは、トップの接待文化があるから。
彼は日本の社会をよくするには、夜間外出禁止令を作ったほうがいいという。
19時前に家に帰るようにさせたり、接待をランチやブレックファストにしたらいい。

たしかに、アメリカでは夜の接待はあまりやらないらしい。
特にビジネスの話は、ビジネスアワーにやるという感じだ。

今のテレビ離れも、彼によれば「訳ありキャスティング」などのおかげで、テレビが面白くないからだという。

「日本のテレビをよくするには、上手い人を使うこと。バーターとか事務所からの押し付けとか、事務所先行のキャスティングを断ること。使いたい人を使う。」

そのとおりだと思う。
でも、テレビ以外の選択肢が増え、若い人がすでにテレビ離れをしている今、もう難しいのではないかとぼくは思う。

ここでは触れられていないが、前にも書いたように「反社会的組織」とのつながりに関しては、社会常識に則って処分すべきだ。

デーブ・スペクターはダジャレばかり言っている変な外人ではなかった。

この問題はこれで終わり。



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ギターの原料
ギターの指板(左手で押さえるところ)は、ほとんどが黒檀という木材。
ピアノの鍵盤などにも使われる。
アフリカで採れる木。
今や希少になってきたとのこと。

テイラー・ギターズという会社がアメリカにある。
カメルーンで採れる黒檀を使っているのだが、この会社がカメルーンの森林再生プロジェクトにお金を出している。
黒檀は実際に木材として利用できるまでに100年かかる。
2018年から5000本の黒檀を植樹したらしいが、それらが使えるのは22世紀だ。
それでも、黒檀を育てるために、2020年までに2万本の黒檀を植える手助けをしている。

このプロジェクトの目的は、持続可能な木材調達について、ギター業界の意識の低さを改めることらしい。
2012年にギブソン・ギターが、マダガスカルやインドから黒檀や紫檀を違法に輸入して、罰金を払わされたことがきっかけ。

今までは100年以上かけて育ってきた野生の木を伐採していたが、育てるのには100年かかるということにようやく気づいたということだ。
カメルーンで植樹している人たちは、子孫のためにやっている。

先進国が欲しい木材を、無計画に伐採していたら、どんどん森がなくなる。
育つのに100年かかる木材は、計画的に使わないといけない。
それに気づいたということだが、汚職や資金不足の問題で伐採は止まらない。
カメルーンでは、すでに四国分くらいの森が伐採でなくなっている。

テイラー・ギターズはギブソンの罰金の事例を見て、危機を感じてカメルーンの支援をすることになった。

一時、ぼくはアメリカの通販サイトからギターを買おうとしたが、ギターの中に使われている木材が希少材であることから、国際取引規制の対象になるということで断念したことがある。
もう加工されてギターになっているのだから、いいではないかとも思うのだが、そういう商品を輸入することに関して規制があるのは、こういう記事を読むと仕方ないとも思う。

黒檀も自然界の食物連鎖の中にあり、アフリカゾウなどの哺乳類が黒檀の実を食べ、種子を散布する役割を持っているとのこと。
それらの動物も狩猟の対象になって、希少になりつつある。
黒檀の森を守ることは大変なことなのだ。
その木を使って作られた楽器に関わる人たちが、黒檀を守る活動をしないと、無計画な伐採は止まらない。

テイラー氏は言う。

「22世紀の音楽愛好家たちが木の楽器の上質な音を楽しむためには、今すぐ木を植えなければならないと、テイラー氏は呼び掛ける。
「100年後も人々が今のようにギターを弾くことができるよう願っています。私たちはカメルーンで行動を起こすチャンスを与えられているのです」」

儲かっている会社だからこそ、こういうことができる。
企業が儲かることは、こういう側面もあって、いいことにつながっている。

ちなみに、テイラー・ギターズをWebサイトで見てみたが、びっくりする値段で、手が出るようなものではなかった。

やはりだいぶ儲からないと、そんなことはできないということか…。



| | 考えたこと | 21:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターを教える
ギターを教えることにした。

長いことジャズギターの教室に通って、教わっているが、もう上達はあきらめた。
それでも、教えられることを通じて、教える難しさを知った。

ぼくはあまりよい生徒ではない。
最初こそ、やる気があったが、そもそもこの歳でそんなにやる気が出ない。
思い通りに弾くなどということは無理。
でも、少しでもフレーズの引き出しを増やして、弾ける音を増やしたい。
月に2回、レッスンに行って先生とギターを弾いて話をするのがいいのだ。

本当にギターは楽しいと思う。
いろんな機器が安くなって、できることが増えた。

以前は一番のハードルだった、チューニングもメーターを合わせればできるようになった。
これは大きなテクノロジーの恩恵だ。

多重録音も簡単にできるし、それをビデオに録ることもできる。
弦の種類も増えて、アコギでエレキギターのような弦も使うことができる。
通販が発達して、いろんなグッズが手に入るようになった。
ギターをきれいにするワックスやオイル、指板のクリーナー、金属パーツを磨くものなどもすぐに買える。

ガットギターの弦(ナイロン製)を使う、フォークギターのような形のものも売られている。
ブリッジにピックアップを内蔵したエレアコというのもある。
もちろん、空洞のないソリッドのエレキギターもある。
音が出せない人のために、サイレントギターなどもある。
2万円弱で、エレキギターの入門セット(アンプもセットだ)も売っている。

弦をはじくのは指でもいいが、大きな音をはっきり出したければ、ピックを使う。
ピックもいつの間にか種類が増えて、アクリル製のものや、ナイロン、新素材などよりどりみどり。
厚いピックも出てきたが、これがまた慣れると弾きやすかったりする。

こないだ、ギターの先生とピックの話になった。
昔はオムスビ型のピックばかりだったが、どんどん種類が増えたということだ。
ジャズの人はティアドロップ型(涙のしずくのような形)をよく使っているが、これがまた大きいの、中くらいの、小さいのとたくさんある。
厚みも特大なら4ミリというようなものもある。
至れり尽くせりだ。

ピックをとんがったところで弾くのではなく、丸いところで弾くのがいい、という人もいる。
ちょっと弦に引っかかって、重めの音が出る。
なるほどと思う。

上手くなりたければ、Youtubeにたくさんのレッスンビデオがある。
こんなのが若いころにあったらなあ、と思う。
気に入った人を見つけて、それを練習すれば自然と上手くなる。
いい時代になったものだ。

ギターの弾き方の種類も増えた。
最近のアコギで多いのは、押尾コータローのようなパーカッションのような弾き方。
ボディを叩いたり、弦や指板を叩いたり、まるでパーカッションのように弾く。
ぼくらが若いころはなかった弾き方だ。
そういうのもできたらいいだろうと思う。

ギターの初心者にそういうことのガイドをするのなら、ぼくにでもできそうな気がする。

ということで、9月からスタート。
どうなることか。



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