考えたこと2

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ネットの意見
フェイクニュースが問題になるが、これはSNSの発達とセットで出てきた問題だろう。
要は、人々の噂が拡散しやすくなった、ということだと思う。

福島の原発の問題は、どうしてこんなに根が深くなったのか不思議だ。
たしかに、事故直後はみんなが心配したし、どうなるかわからなかった。
その中でたくさんの情報が出された。
どちらかというと、センセーショナルな意見が取りざたされた。
「福島には人が住めない」というような報道もされて、それについての本も出された。
放射能の専門家という人が書いた本もあり、そのせいで避難をした人も多かったと思う。

しかし、今になってみればそのほとんどはデマだったと思う。
原発周辺にも人は住める。
除染の仕事をしている人も、普通の格好でやっている。
国道に据えられた線量計で値は出ているが、もちろん致死的な値ではない。

どちらかというと、あれだけ騒いだから、用心しよう、という状態のように見える。
あれらのデマを流した専門家やマスコミの人たちは、今の状態を見てどう思っているのだろうか。
まだ自分の言っていたことは正しいと思っているんだろうか。

こういう噂は、SNS上で生き残っているように思う。
生まれたのもSNS、それが生きながらえるのもSNSの上だ。

イタリアのIMTルッカ高等研究所のウォルター・クアトロチョッキという人が、SNS上での情報がどのように広まって、社会に消費されているのか、ということを調査http://wired.jp/2016/10/16/conspiracy-theory/した。
彼は、情報が伝わるためには「同質性」、「エコーチェンバー」「確証バイアス」がカギだという。

SNS上では同じような考えの人が「いいね!」をし合っている。
要は同質的な仲間なのだ。
そこでエコーのように情報が共鳴する。
ネズミ算的に「いいね!」の情報が広がっていく。

記事によると、「SNSプラットフォームは、あたかも自分自身の声が反響しているかのような“類友同士”の場となる。これが「エコーチェンバー(共鳴室)」と呼ばれる空間だ。つまり、パーソナライズされたSNS上の空間とは、自分の脳内をアイデンティティの許容範囲にまで拡張させた、自分自身の境界ともいえる場となるのである。」と書かれている。

そこに認知の歪の一つである確証バイアスが加わる。
確証バイアスとは、「人々が、ある情報の真偽に対するリサーチをする目的は、すでに自分のなかで決まっている“答え”を確認する行為でしかない。ゆえに、最初から信念に反論する情報には目を通すことをしない。これが「確証バイアス」であり、偏った思考をつくり出してしまうものだ。」ということだ。

結局は「自分の中で決まっている答え」があって、それに対する科学的な反証があってもそんなものは見ないのだ。
それは誰にでもある傾向だが、不特定多数の参加するSNSではその影響は大きくなるんだと思う。
一部のマスコミはまだその共鳴室の中にいて、思い出したように情報を流す。
それがまた「いいね!」を生んで共鳴しているんだろう。

共鳴室の中では、感情の影響が大きくなる。
放射能の科学的な分析よりも、「放射能は怖い」という感情が心の中を占めてしまう。
そうなったら、科学的な分析など見ていても、目に入らないのだ。

インターネット、SNSの発達で、フェイクニュースが問題になるようになった。
サイバー部隊が活躍して、世論を誘導できるようになったとも言える。

学校ではもっと科学のリテラシーを教えないといけない。
それが、フェイクニュースを食い止め、民主主義を正常にできるのだと思う。

道は遠いと思うが…。


| | 考えたこと | 21:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
Amazing Innovation
人工知能はマスコミの関心も高くて、いろんな記事が出る。
中に、AIとはArtificial Intelligenceの略ではなく、Amazing Innovation(驚くべき進化)の略だ、という人がいた。
アメリカの会社のリサーチ部門の責任者(Vice President)だ。

それによると、人工知能の一番のメリットは、従来人間が問題を細かく分類し、それらをまとめる、という手順を取っていた解決の手法を、適切な「機械学習」のための入力と出力を準備することであり、問題の中身について考える必要がないということだ。

記事によると、

「機械学習は、入力と出力の関数を自動作成するものだという。例えば、ローンの申請では、申請されたデータと返済結果のデータを大量に集めて学習させれば、申請データを見るだけで返済能力を判断できる。

 他にも、需要予測(製品がいくつ購入されるか)、自律走行車(ブレーキ、アクセル、ハンドル)、購入性向(顧客の買う・買わない)、故障予測(4週間以内に故障が起きるか)、顧客の離脱(解約するのか)、医療診断(病気になるのか)、広告(ユーザーは広告をクリックするか)――などに利用できる。

 機械学習のポイントは2つあり、それは「質問が正しいこと」(出力が正しく定義されること)と、「適切なデータを探すこと」だという。」

もちろん、データーサイエンティストの役割として、「適切なデータを探すこと」というのは、出力に影響を与えるであろうと思われるファクターのデーターを準備することだろう。
たとえば、天候のデーターや経済の指標を表す株価のデーターなど、どれが出力に影響を与えているかといったことだと思う。

そのためにはデーターサイエンスのチームを作ること、という。
まずは機械学習のインフラを理解し、それができる環境を作るためのソフトウェアの技術者がいないと、どうにもならない。
そして、どういう形でデーターを扱えるかということなど、結局は計算なのだから、数値でないものをどう数値化していくか、というようなことも必要だ。

そう考えれば、AIは単なるソフトであり、人間の代わりにならない、という彼の意見も納得できる。
人間はもっと複雑だ、と彼は思っている。
だから、AIは「知能」というほどのものではなく、「進化」だと言っているのだ。

ただ、優れたAIの力を借りれば、よそよりも先んじて行動することができ、それに負けたところは淘汰される、ということも起こりやすくなるということだ。

データーサイエンティストの需要はこれからどんどん増えていくだろう。

しかし、どの意見が本当なのだろうか…。



| | 考えたこと | 20:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
地方のスタンド
自動車のエンジンがなくなって、EVが増えるということはこれからの時代の流れだが、その影響を受けるのは、石油業界も同じ。
一番身近なところでは、ガソリンスタンドだ。
ウォールストリートジャーナルにその記事があった。

それによると、「一部の石油会社は、給油プロセスをスピードアップするモバイル端末アプリを実験している。また、ガソリンスタンドを通さず、燃料を消費者に直接届けるサービスもテストしている。さらに、カーシェアリングや自動運転車の普及を見据えて新たなビジネスチャンスを探ってもいる。」とのこと。
やっぱりアメリカは動きが早い。
日本ではまだそういう動きはないと思う。

コンサル会社のレポートでは、2035年までにガソリンの需要が5〜20%縮小するという予測が出ているらしい。
いろんな会社が、充電ステーションを作ったり、食品スーパーを併設したりしている。
イギリスのBPではすでに半分のユーザーが給油をせずに、食品だけを買って帰るらしい。
もう時代は変わっているのだ。

この調子でいくと、日本でもおっつけ同じことが起こる。
日本では、コンビニ業界とスタンドが手を結ぶという感じかもしれない。
いや、新たに石油業界がコンビニを作るということもあるかもしれないなあ。
しかし、新車はどんどん電化されていくが、古い車はまだまだガソリンがいるので、そう簡単にスタンドはなくならないし、なくなっては困るだろう。

たしかにスタンドの数はだいぶ減った。
セルフのスタンドも増えたし、働く人もどんどん高齢化している。
今のスタンドで、若い従業員に会うことはあまりない。
高齢者が若い人の仕事を取っているのか、若い人がやりたがらないか、どちらかだ。
日本ではハイブリッドが増えて、ガソリンの需要は減っている。
20年ほど前に比べると、スタンドの数は半分になっているそうだ。
高速道路上でも100キロ以上スタンドがないところがあり、日常生活に不便が出始めたところもあるとのこと。
そんなことになっているのか…。

となると、近い将来、スタンド不足でEVやPHVに乗り換えざるを得ない地域も出始めると思われる。
地方の限界集落と同じことだ。
給油がネックとなって、人が住めないところも出てくる。

豊かさと豊富な働き手をバックにインフラを整えてきた日本だが、これから先はそれを縮小しないといけない方向だ。
それをどうソフトランディングするか。

これからの地方行政は、そういう課題を解決していかないといけない。

でも、そういう人材が行っているとは思えないが…。

| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
アルファ碁完勝
中国でGoogleのアルファ碁と世界1位の棋士が対戦して、アルファ碁が完勝したとのこと。
3戦3勝だった。
アルファ碁は、CPUサーバを1202台、GPUサーバを176台使用する構成。
すごい計算量だ。

人間の脳を真似た「深層学習」という手法と、自分で自分を鍛えるという「強化学習」の手法を組み合わせ、過去の膨大な棋譜を学習して強くなった。
それはそうだろう。
人間が今までに記録した碁の打ち方をすべて学習して、さらに自ら何度も碁を打ってどういう局面でどう打ったらいいかということを学んだんだから、これは強いはず。
それこそ、人間わざではないからだ。
まさに、それが立証されたのが今回の対戦の意味だろう。

これでアルファ碁は引退するとのこと。
世界一の人間に勝って、これ以上やる相手がいない。
負けた棋士は「アルファ碁は完璧すぎた。苦しくてたまらなかった」とのこと。
人間代表という重い荷物を背負っていたのかもしれない。

これで、囲碁というゲームについて、人工知能が考えるということが有効であることが立証された。
既に、それ以外の分野でも実績を上げている。
グーグルのデーターセンターで、サーバーの冷却に使うエネルギーを40%も削減したとのこと。

まだまだ、定められた条件の中で最適な手法を考える、というような形だろう。
ゲームの世界のように、よそとつながっていない世界だ。
結果が明確で、必ずどちらかが勝つ。
そんな世界では、人工知能が強い。

現実の問題は、いろんな要因があって、「強化学習」もしにくい。
棋譜のようなものもない。

しかし、何か覚えるものがあって、それを元に何かを決めるというような仕事は人工知能が強いだろう。
判例や法律の仕事や、過去の記録を元に何かをする仕事など。
今回の勝利は、それらの領域では、人工知能が人間の仕事を取るという前触れだ。

コンピューターが人間に勝つという時代。

ターミネーターの世界もウソではなくなるかもしれない。

ちょっと恐いなあ。

| | 考えたこと | 07:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
メジャーセブンスコード
メジャーセブンスのコードに最初に出会ったのは、加藤和彦の曲だったと思う。
中学校の頃は、ぼくが聞いている音楽では、メジャーセブンスの音はあまり使われていなかった。
ビートルズでも、あまり使われていない。

メジャーセブンスとは、和音のルートの半音下の音だ。
Cのコードでいうと、シの音になる。
つまり、ドミソシという音を積み上げると、Cメジャーセブンスというコードになる。

このコードはCのコードとは明らかにちがって、ほんのりした響きがある。
普通のセブンスコードの音は、Cならメジャーセブンスのシの音から半音下がったシのフラットになって、これはちょっとブルースっぽい感じになる。
それとは全く違う、柔らかみを感じるコードだ。
半音違いでこんなに変わる。

コードを記譜するときは、CMaj7とか、CM7、C△7とか書く。
このコードがよく出てきたのは、山下達郎の曲だった。
キーがCなら、ベースの音がファミレドと下がっていくパターンで、コードはFM7、Em7、Dm7、CM7というものなど。

1980年代になって、ポップスにも複雑なコードが増えてきたが、メジャーセブンスコードはその代表だ。
初めて弾いたとき、6本しかないギターの弦からこんな音が出るのか、という感激があった。

こういうコードはPPM(ピーター・ポール&マリー)やポール・サイモンなどのやっていた、フィンガーピッキングという弾き方ではイマイチだ。
ボサノバみたいにコードの音を同時に指で弾くような弾き方や、エレキギターならカッティングという、山下達郎の得意な弾き方が似合う。

この先にはディミニッシュやセブンスフラットフィフスなどというコードがある。
そこはぼくにとってはジャズの入り口という感じ。

中2の頃にギターを始めて、46年。
下手の横好きで、思えば遠くに来たもんだ。

そこからディミッシュ、裏コードに行ったあたりをウロウロしている。

年を取ってから、新しいものを覚えるのは難しい。


| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
認知症と仕事
認知症の高齢者がカーディーラーで洗車の仕事をして、謝礼(給料ではない)をもらう、ということをやっているところがあるらしい。
NPOの介護施設で、そういう事をやっているのだ。
具体的には地域密着型通所介護のデイサービスで、認知症と診断された人が、施設で行うレクリエーションに「仕事」を取り入れているとのこと。

興味深いのは、その施設に来たときには精神的に不安定で、口数も少なかった人が、笑顔を取り戻したこと。
仕事を取り入れることで、無表情だった人が笑顔になる、という。

この施設は仕事の報酬をもらっているわけではない。
厚労省からデイサービスの免許をもらっているのだから、その利用者に仕事はさせられない。
だから、厚労省に何度も足を運び、「2011年から介護保険制度でサービスを利用する人が仕事をすること、および、活動による謝礼を受け取ることが認められるようになった」とのこと。
今は仕事をした報酬は、地域の最低賃金を超えない額で、直接利用者に謝礼を渡される。

洗車のメンバーで、4年目になる人は当初気分の波が激しく、怒ったり落ち込んだりしていたが、今は大笑いすることも多くなり、今は「認知症になってもこわくないよ」というまでになったとのこと。

厚労省に足を運んで、そういうサービスもありにさせた人はエライと思う。
仕事をして誰かのためになることは、やりがいにもつながるし、それが笑顔を生むのは自然なこと。
こういう介護サービスはいいと思う。

認知症という病気はあるが、まだ原因がわかっていない。
脳の中のナントカという物質が増えるとダメだとか、原因を調べているが、今のところはっきりとした因果関係はまだわからない。
認知症になった人は脳のナントカが増えているが、なってない人で増えている人もいる、ということだ。

こういう事例を見るにつけ、認知症には外部要因もあるんだと思う。
人間は関係の中で生きているから、それがなくなるとおかしくなるんだろう。
人間関係の質とか量が関係しているのではないか。

若い頃にたくさんの関係の中で生きていて、それが急に減ったりすると悪いのではないか。
もともと少ない関係の中で生きている人は、なりにくいとかあるかもしれない。
ペットを飼うのもいいとか、ありそうだ。
その意味では、AIを使った話し相手のロボットなど有望だと思う。

認知症患者のヒストリーを調べて、関係の増減を見てみたら、なにかわからないのだろうか。
医者に任せていたら、器質的なことばかり調べて、大事なところが忘れられるような気がする。

こここそ、社会学者の出番ではないか。


| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
統計リテラシー
統計リテラシーを持たないと、実際に生活する上で困る。
平均、最大、最小、中央値、分布というような概念。
さらに、バラつきまでいくといろんなことがわかると思う。

最近はメディアの記事を見ていても、編集者も含めてこの記事を書いた人は統計のリテラシーがあるんだろうか、と思うことが多い。
だからこそ、リテラシーがないとだまされる。

今の日本、増えた高齢者は問題になりがちだ。
切れやすいとか、事故が多いとか、高齢者はこうなる、という断定の記事も中にはある。
たいがい、そういう記事には高齢者のデータは載っているが、そこに高齢者の人口比率は出ていない。
今は昔と違って、高齢者の人数は増えているのだ。
だから、何かの事象に当てはまる人数は多くて当たり前。
その両方の数字を入れて、記事は書くべきなのだ。

テレビでいえば、コメンテーターという役割の人が増えた。
そういう人は、大衆の代表みたいになっており、「ホントにそうだ!」というばかりのように見える。
だいたい、コメンテーターというのは、お笑い芸人であったり、単なる歌手であったり、分けのわからないタレント?だったりする。
ワイドショーなどは、出演者のコストを下げるために、ずっと同じ人が座っている。
そんな人にニュースをコメントされても、聞く値打ちがない。
あんな番組を昼間ずっと垂れ流すくらいなら、昔のドラマでも再放送するべきなのだ。

マスコミ自体、そういうウソのニュースを流しているという気持ちがない。
表面だけ見て、「これはこうだ」と断定して放送しているように見える。

精神科医の和田秀樹が高齢者の免許の問題について書いていた。
それによると、アクセルとブレーキの区別がつかなくなったような認知症の患者なら、そもそも車を動かすのにキーを使うということもわからないそうだ。
つまり、認知症=事故と考えるのは妥当ではない、という専門家もいるということになる。

人は何かの判断をするときには、正ー反の2つの意見が必要だろう。
その両方の意見を聞いて、どちらかを考えるというのが通常の判断のプロセスになる。
今のマスコミを見ていると、どちらか一方しか報道しないことが多い。
もちろん、事実は一つであり、それを報道するのは本来の姿だが、それに付随した判断も同時に報道していることがある。
例えば、人を殺したらダメ、というように、その判断が自明な場合はいいのだが、そうでないケースも多い。
どう考えても、マスコミが勝手に判断していると思う。

賢いマスコミならそれでいいが、バカなマスコミの場合、そんなことをされたらおかしくなる。
それは、日本が戦前戦争に突っ走っていった時のマスコミの行動だ。
それを自分たちが進んでやったという歴史を、マスコミはもっと認識すべきだ。

そうしないと、またやってしまうぞ。

| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 ロジャー・ムーア
ジェームズ・ボンドでおなじみのロジャー・ムーアが89歳で亡くなったとのこと。
ショーン・コネリーが降りた後、彼がボンドになった。
1973年から85年まで、007の映画に出たのは7本で史上最多らしい。

ショーン・コネリーを出演回数で上回っていたとは知らなかった。
どうしてもジェームズ・ボンドというと、ショーン・コネリーが出てくる。
どちらかというとバタ臭い007がショーン・コネリーで、少し軟弱にしたのが、ロジャー・ムーアというイメージ。

なんとなく、アメリカっぽいイメージがあったが、イギリス生まれでクイーンズイングリッシュを話したらしい。
よく考えたら、アメリカ人にはジェームズ・ボンドは似合わないだろう。
その辺は、英語を話す人たちは敏感だ。

"Live and let die"とか、"For Your Eyes Only"、"Octopussy"、"Moonraker"など、初代の頃よりも大がかりになって、宇宙まで活躍の場を伸ばした。
今見ると、まだまだ特撮が稚拙だったりするが、それでも当時は娯楽大作だった。
1989年にベルリンの壁が崩れ、91年にソ連が崩壊して東西冷戦が終わり、従来の意味でスパイ映画は作りにくくなったが、幸いその前でまだまだ「スパイ」という仕事?が存在感を持って語られていた頃だ。

今や諜報活動がネット上に推移して、どちらかというとサイバー部隊が主流になっているような気がする。
黒いスーツに身を包み、銃を持ち、偽りの身分で海外で活躍するという従来のスパイとは違い、ハッカー然とした人たちが国に雇われて、小さなオフィスで暗躍するという感じだ。
そんな活動には、007は似合わない。

これから、007の映画はどうなっていくんだろうか。
初代ボンドのショーン・コネリーも、もう86歳。
今のボンドのダニエル・クレイグが49歳。

そういえば、最新の007映画は見てないなあ。
だんだんリアリティがなくなってきたような気がする。

若い人たちにとって、スパイってどんなイメージなんだろうか。

そういうことを思いつつ、合掌。

| | 考えたこと | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
警察アプリ
アメリカの新しいドラマを見た。
ハイテク会社の大富豪が友人を殺され、その捜査に警察署を一つ買って、古くさい装備を一新し、ハイテク装備の警察を作る、というものだ。

無料のスマホの「警察アプリ」を宣伝して、一般の人たちにインストールさせる。
そのアプリを起動したら警察につながり、テキストで通報ができる。
自動的にGPS情報も伝わるから、場所もわかる。
パトカーも最新型に変え、本部への通報と同時に最寄りのパトカーに連絡がいくようになった。

ちょうど配車アプリのUberみたいな仕組みだ。
向こうではもうUberが広まっていたはずだから、そこからヒントを得て作られたドラマなんだろう。

こういうことを本気でやるのが、アメリカだ。
そのうち、本当にこういうことになるのではないか。
通報すると同時に、GPSで場所もわかる。
なんなら写真も付けて送ると、状況もわかる。
初動捜査は大事だが、それをその場でやるようなもの。

ドラマの中で大富豪はまさにそういうことを言う。
人も足りない、予算もない警察を変えるのだ。
こないだ書いたCSIといい、今回のハイテク警察といい、ドラマの世界では日本の警察はだいぶ遅れている。

相変わらず何かというと捜査本部に集まって、会議だ。
ひどいのは教室形式で、前にエライ人が並んでいて、二十人以上はいようかという捜査員が、それぞれが捜査の進捗を報告する。
みんな、紙とペンの世界だ。
未だに実際にそんなことをやっているとは思えないが…。

でも、確実に未来の警察はそういうものになるんだろう。
科学を使って、犯人を特定するのだ。

しかし、今の警察の公務員試験を見ていると、とてもそんな人材を集めているとは思えないが…。

まず、人数ありきというところ。
鑑識官になるには、まず警察の試験を通って、刑事にならないといけないらしい。
そんな採用方式ではとても科学に精通した鑑識官は育たない。
もっと近代化しないといけない。

民間の研究所などと協力しないと…。

| | 考えたこと | 19:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
ノモフォビア
ノモフォビアというのは、スマホ依存症という意味。
アメリカのドラマの中で、検視官が言っていた。
この言葉は香港の地下鉄でスマホが動かなくなってパニックを起こし、大声をあげて最後にはスマホを投げ捨て足で踏みつける、という動画が広めたらしい。

ネットの解説によると、「ノモフォビアとはNo-Mobile-Phobiaの略であり、携帯電話がないことへの恐怖症、携帯電話依存症のことを指します。症状としては、「スマートフォンから隔離された状態に置かれると、パニック状態になったり絶望感を味わう。仕事が手につかなくなり、スマートフォンの通知が気になって仕方がない」といったものです。ノモフォビアは携帯電話を自宅に忘れたり、紛失したり、バッテリーが切れるなど、「携帯電話がない(使えない)!」と意識した途端、恐怖や不安に襲われ、体調を崩したり、倒れることもあるそうです。」ということだ。

明らかにノモフォビアの人を見たことはないが、「自分は依存症だ」という若い人は時々見る。
さすがに、スマホが離せなくて、常に持っていないといけないというレベルの人には会ったことはないが、常に手に取れる状態にしておかないといけないらしい。

ひどくなると、シャワーを浴びているときもスマホを使うとか、スマホをポケットに入れていると、鳴ってもいないのに鳴っているように感じる、幻想振動症候群に陥っているという研究結果もあるらしい。

確かに、若い人たちは何をするのにも携帯だ。
今の大学生の年代はスマホ世代。

いろんなものが、スマホを前提に作られ始めた。
フェイスブックやインスタグラムは、スマホで使うほうが優先されているように思う。
スマホのカメラで撮った写真はすぐアップできる。
インターフェースもスマホ前提で作られているように思う。
ラインなどは完全にスマホ前提だ。

IoTというモノのインターネットというのも、消費者にとってはスマホが前提の部分がある。
フィンテックなどの金融の技術もスマホでの決済を前提に作られている。
だから、これからの人たちは、みんなスマホを持つことで、自分もインターネットの端末になる、という感じだ。

今の子どもは、生まれたときから親がスマホをいじっている姿を見て育つから、スマホをいじるのは当然という感覚になるのかもしれない。
そういうふうに、スマホが自分の一部分になることが、IoTの完成形なのかもしれない。
家電のリモコンもスマホになり、電子レンジの設定やエアコンの温度などもスマホ、目覚ましもスマホ、車に乗ってもスマホのアプリで車をコントロールし、家の鍵もスマホになって、しまいにマイナンバーみたいな公的なものもスマホになる。

結局、人間がそうなることが、IoTの完成形なのかもしれない。
Internet of Humanだ。

人間は道具を作り、機械を作り、どんどんできることを増やしてきた。
その道具や機械との接点がスマホになるということだろう。

ノモフォビアの人たちは、その第一歩なんだろうか。


| | 考えたこと | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
寅さんのハガキ
「男はつらいよ」は松竹が作った大衆娯楽作品だが、今見ると当時の日本の文化がしのばれる場面がよくある。
なかでも、寅次郎がマドンナにふられ、旅に出たあとにマドンナに出すハガキは、いつも作品の最後を締めくくるものだ。
その内容はいつも同じようなもの。

味わいのある悪筆で、こんな内容が書いてある。
どういうわけか、文語調だ。
当時の極道の教養なのかもしれない。

拝啓 その後お変わりございませんか。柴又にありし時を思いおこせば恥ずかしきことの数々、今はただ反省の日々をすごしておりますれば、あなた様にもどうかお許しのほど、お願ひ申し上げます。なほ、柴又におります私の妹さくら、年老いた伯父伯母、いずれもかけがいのない肉親でございますれば、何卒ご指導ご鞭撻のほど、ひれふしてお願ひ申し上げます。末筆ながら旅先からご多幸を心からお祈り申し上げます。  車寅次郎拝

この映画は1995年に48作目を撮って、その後主役の渥美清が亡くなって終わった。
95年というと、まだまだパソコンの普及前で、メールや掲示板というものが一部のマニアのものだった頃だ。
もちろん、当時はFAXも携帯電話も普及率が10%以下。
だから、まだまだハガキが通信手段として使われていた。

自分の年令でいうと、40歳になる前だ。
ぼくらの世代は結果的に、アナログからデジタルに変わっていく、その現場を見ることができたことになる。
といっても、自分が95年当時、どんなことをしていたかは忘れてしまったが…。
このころはまだ会社の技術部には、一人一台のパソコンなどなかった。
95年当時から、2000年代の初頭がパソコン化が大きな企業で進んだ時期だ。

その直前に、「男はつらいよ」シリーズは終わった。

おかげで「男はつらいよ」でハガキから、メールや携帯、そして今のスマホに至る時代を見ずに済んだ。
渥美清の死期が偶然その時期にあたったということだ。
言い方はよくないが、それは幸せなことだったのかもしれない。
今の、ラインなどを使ってやりとりし、それがイジメにつながるというような時代は、寅さんには似合わない。

ぼく自身、そんなに筆まめな方でもなかったし、ハガキといえば年賀状を出すくらいだったから、ハガキに思い入れがあるわけではない。
それでも、あのハガキをもらったマドンナは、生涯それを大事に思い出として取っておくだろうと思う。
メールではなく、形のあるものが届くことはいいものだ。

そんなハガキを何度も書いた寅次郎は、やはり世の男性のあこがれだと思う。



| | 考えたこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
音を合わせること
ぼくはあまり誰かと一緒に楽器を弾いたことがない。
でも、CDなどに合わせてギターを弾くことはよくあるので、人に合わせることはできると思う。
この合奏が合うというのはどういうことか、という記事を読むと、これは結構大変なことなのだということがわかった。

音楽を聞いていて、ちゃんと合っていると感じるのは、ズレが数十ミリ秒でないとダメらしい。
つまり、百ミリ秒=0.1秒狂うと、もうズレていると感じるのだ。
また、出だしのところではもっと感度が高くなるとのこと。

二人や三人ならともかく、たくさんの人がこの精度で音を出すというのは、結構厳しいと思う。
0.05秒以下という感じだから、普段意識するスケールの時間ではない。
これが小学生の合奏などのレベルでも合うのだから、人間の持っているリズム感は本能としてあるんだろう。
息が合う、というのは素晴らしいことだ。

またメロディは伴奏よりもちょっと(1/1000秒のオーダー)早くしたほうが際立つし、ジャズのグルーブはベースとドラムのほんの少しのズレが生み出すとも言われている。
たしかに、"Danny boy"などの単純なメロディでゆっくりした曲でも、グルーブ感のある演奏ができるのは、そういう感触を持ったプレイヤーがやるからだろう。
ああいうゆっくりした曲で、グルーブ感を出すのはかえって難しい。

実際、同じ演奏でも、すごく陳腐に聞こえるものもあれば、ゆったりしているが、素晴らしいグルーブ感があるものもある。
以前、谷村新司の「昴」の演奏を聴いたことがあるが、あれもグルーブ感を出すのが難しい曲だ。
単にギターで一つずつ音を出す、アルペジオというスタイルだったが、何ともいえずちぐはぐな感じがする演奏だった。
ギター1本と歌でも、グルーブ感が出せたり出せなかったりする。
これも不思議だが、分析すれば答えは出るんだろう。

普段人間が意識することのないスケールの時間で「合奏」が完成しているということと、それを意識しないでできてしまうということが、人間の素晴らしさだろう。
だからこそ、人は音楽を聴いて感動する。
そのもっともプリミティブなところは、きっと人の意識を超えた時間にある。

合奏は奥が深い。
人と一緒に演奏して、自分でも「合っている」と思えるときは快感なんだろう。

だから、音楽はやめれらない。


| | 考えたこと | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
雨は手のひらにいっぱい
こないだ宴会の帰りに、先輩と話していて「やっぱり、若いころに聞いた音楽はええなあ」ということになった。
その先輩は最近レコードをもう一度聞けるように、ちゃんとプレーヤーをつないで環境整備をしたらしい。
結構オーディオに凝っていた人だったから、機材は置いてあったんだろう。
「ターンテーブルは?」と聞くと、ダイレクトドライブだった。
ベルトドライブだとベルトをかけかえないといけないが、ダイレクトドライブならそのまま動く。

今日は電車の中で山下達郎の70年代の音楽を聴いた。
デビュー当時の達郎の音楽は、やっぱりいい。
あのポップなレコードジャケットを思い出す。
彼がシュガーベイブというグループで出した、「雨は手のひらにいっぱい」という曲が、一日中頭の中で流れていた。

ソロになって、アメリカに単身わたってレコーディングしたものは、すごいミュージシャンを使っていて、当時日本人離れした音を出していたが、この曲はその前。
山下のソロと比べると、アマチュアっぽい音楽。
でも、そのアマチュアっぽさがいい。

イントロのエレピのきらびやかな音と、エレキギターのシンプルなオブリガードの絡みがバッチリはまる。(バッチリはまる、という表現も時代を感じる)
ああいうエレピの音はあまり今は聞かない。
時代時代で流行りの楽器があって、70年代以降は電子楽器の勃興期だったから、音を聞くと時代がわかる。
70年代のエレピやシンセ、80年代のFM音源、サンプリングしたドラムスや電子ドラムなんかだ。
それらの開発競争が終わって、落ち着いたのは2000年代に入ってからだろう。
結局、「シンセの音」というものはほとんど残らず、生楽器をシミュレートしたものに戻った。

ギターのエフェクターも、歪ものだけでなく、フェイザーとかフランジャー、コーラスというような、音の位相をずらせるようなものも出てきた。
当時、よく雑誌を買って見ていたなあ。

若いころにいいと思ったものは、やっぱりいい。
達郎の音楽は、やっぱり結婚前だ。
竹内まりやと結婚する前、吉田美奈子のコーラスが入っているものがベスト。

シュガーベイブ時代のレコードは、また別の味わいがある。
若さの勢いがあるんだろう。

うちの次男も、山下達郎はほとんど初期しか聞かない、と言っていた。

その通り。

| | 考えたこと | 20:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
犯罪捜査の科学
科学の進歩によって、犯罪を犯しても捕まりやすくなったと思う。
アメリカのドラマでずっとやっていたCSIなどは、科学捜査の実態を視聴者に伝えるため、という側面もあった。
犯罪現場に残された犯人の証拠を追って、鑑識のメンバーが活躍するドラマだった。

DNAは言うに及ばす、靴やタイヤの跡、血痕の付き方、現場に残された微量の土などの組成、画像の解析など、従来は考えられなかった捜査が可能になっている。
それだけではなく、SNSなどが一般的になり、それらを通じて人が追えるようになってきた。
被害者の特定や、犯人の行動パターンなど、デジタルに強い捜査官がすぐに割り出す。


いろんなものがデーターベースになっていて、指紋などは現場ですぐにインターネット経由で照合できるし、いたるところにある防犯カメラのデーターから、特定の人物の顔やクルマを探すことも簡単だ。
実際にはどれくらいの手間なのかは知らないが、理論的にはできるんだろう。

今では現場に残された髪の毛などから、DNAをとって、そこから犯人がどんな人種で、どんな顔立ちをしているかなどまで推定できるらしい。
これはDNA表現型解析という。
アメリカでは、もうその技術が犯罪捜査に使われているらしい。

インターネットというインフラができて、カメラも増えた。
自前で線をひかなくても、ネット上にカメラを接続するだけでどこからでも見られるようになる。
これからはIoTの時代だから、あらゆるものがインターネットにつながる。
今はクルマにもドライブレコーダーがつく時代だから、いずれはそれが進化して、いたるところで見張っているのと同じことになる。

SFの近未来モノの映画などで、コンピューターで管理された社会などが出てくるが、あながちそんな絵空事ではなくなってきた。
人間がある場所で何かをしたら、必ず痕跡を残す。
ロカールの法則だ。

科学の力をフルに使えば、警察はもっともっと近代化できるだろう。
そのために必要な人材と機材をどうやって装備していくかだ。
お金はかかるだろうが、そういうモデルを作ってやったらいいと思う。

警察の公務員的な体質では無理かもしれないが…。

| | 考えたこと | 22:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
キレる中高年
論語に「四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う(したがう)、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」とある。
少なくとも40歳を超えたら、自分の生き方について迷いがなくなる、ということだ。
なんせ孔子の時代だから、平均寿命は何歳くらいだったかわからないが、40歳というと今よりは晩年だったんだろう。

しかし、最近は孔子の時代よりも20年ほどは長生きだと思う。
となると、「四十にして惑わず」というのは60歳あたりの話かもしれない。
少なくとも、60歳になったら、自分の生き方について迷いがなくなる、という感じだ。

それでも最近は、その中高年がキレることが多いらしい。
こないだのWeb記事によると、2015年の鉄道職員に対する暴力行為は792件で、20代以下は127件(16%)、30代は149件(18.8%)、40代は140件(17.7%)、50代は153件(19.3%)、60代以上は188件(23.8%)、不明は35件(4.4%)となっている。

人口は20代以下が3462万人、30代が1581万人、40代が1861万人、50代が1563万人、60代以上が4242万人だから、人数的には60代以上が件数が多くて当たり前、という感じだ。
今の60代以上は元気もある。

高齢者の人数が増えているから、キレる人も増えたと言える。

どちらかというとぼくはそう思うが、年齢を重ねて分別があるはずだから、分別があるはずだ、という気持ちもわからなくもない。

しかし、今の年金の問題や世代間格差を放置する高齢者を見ていると、少し情けない。
若い人たちはどんどん貧困になっている。
子どもの貧困も6人に1人だという。
ぼくも含めて、高齢者が何とかしないとイケナイと思う。

時代の変化は激しい。
その激しさが、高齢者の適応を邪魔しているとも言える。
そのために、キレることが多くなっているのかもしれない。

それでも、若い人たちのためにちょっとは何かしないと。

そう思う人が増えることを祈る。


| | 考えたこと | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
うんこ漢字ドリル
こないだ電車の中の広告に気になるものがあった。
「うんこ漢字ドリル」というものだ。
例文が出ていて「まさかその位置からうんこをするつもりですか」など、面白いものや、「うんこを水玉もようの長ぐつで踏みつける」というような普通?のものも載っていた。
一つ目の例文は位置の「位」のドリルであり、二つ目の例文は水玉の「水」のドリルである。
こんな調子で「うんこ」を題材にしてドリルができるようになっている。

これは面白いと思っていたら、日経トレンディに作った人の記事があった。
なんせ、小学校1年から6年までで習う感じすべてのドリルを「うんこ」を入れて作るという快挙?をなしとげている。
もとは「うんこ川柳」をネット上でやっていて、それを出版したかったらしい。
さすがに、それはストップがかかり、漢字ドリルに転換したとのこと。

うちに小学生の子供がいたら、絶対に買っていたところだ。

若い頃、スカトロジー(糞便学)についてどこかで読んだ覚えがある。
筒井康隆がらみだったと思う。
さすがに今は書かないが、昔ぼくらが読んでいたころはよくその手の短編を書いていた。
壺にいっぱい羽毛を入れて、その上でうんこをする、という話があったような気がする。
そこにふわりと落ちるうんこの模写があったかもしれない。

人間、生きていたらかならず誰もがする営み。
ある年齢になったら、常識的には抑制がかかるが、小さい子供は例外なく「うんこ」の話が好きだ。
精神病になったら、壁にうんこをなすりつけて自分の名前を書くというような症状もあるとのこと。
人間の存在と切っても切れない関係にあるのだろう。

そういう「うんこ」をテーマにして漢字ドリルを作った。
小学校で習う1006字について、一文字3つずつ例文を作り、なんと3018個も例文を考えたという。
「嫌悪感をなくすこと、生々しさを薄めること、ポジティブな例文にするという3つの工夫」が入っている。

なんと発売して2か月でトータル148万部のヒットになった。

やっぱり子供も大人も「うんこ」が好きなんだ。

大人版も出してほしいと切に願う。


| | 考えたこと | 21:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
コネクティッドカー
クルマは自動運転の時代が来ると言われているが、その先にはコネクティッドカーという時代が来るらしい。
トヨタなどがその動きを先取りしてやろうとしている。
実際KDDIと組んで開発をするとのこと。

今でも一部のクルマは通信で渋滞情報を取っているが、それがもっと大規模になるのだろう。
自動運転では車同士が通信できるようになれば、衝突を回避することができる。
ひょっとしたらスマホを持っていたら、それを認識して避けるというようなこともあるかもしれない。
そうなると、スマホは必需品になる。

日本の都市部では車通勤は少ないが、アメリカやヨーロッパは多い。
そういうところでは、自動運転になれば通勤時間にも仕事ができたりする。
昔、アメリカの映画で、車に乗ったまま見る映画館があった。
あれも、ビデオ・オン・デマンドでクルマの中で見られるようになる。

そういえば、最近は阪急電車でも最新の車両は液晶で動画広告をやっている。
あれもどんどん導入が進んでいるということは、初期費用は高くても儲かるんだろう。
中吊りの広告が減った分を、取り返そうとしているのだ。
調べてみると、三菱電機や日立、ソニーなどが参入している。
電車も動くインターネット端末になろうとしているということだ。
あれも、地上からサーバー経由で送っているらしい。

将来、シェアしているクルマで通勤をする場合には、広告もアリだろう。
地元のレストランなど、その地域だけで宣伝すればいいのだから安く宣伝できる。
店が近くなったら、スポットの宣伝を入れるなどの広告もある。
そんなつながり方も考えられる。
となると、その広告費は誰がもらうんだろうか…。

携帯電話のキャリアは、これからの市場として期待しているらしい。
たしかにクルマが通信するとなったら、大きな投資が必要だし、それをやって金が動く。
逆に自動車会社にとっては、自動運転で自動車を所有する価値が減って、利用する価値が上がるので、台数的には3割減という予想もあるらしい。
所有から利用へ、というのは21世紀のキーワードになるだろう。
音楽などもうそうなりつつある。
ストリーミングなどはまさにそのサービスだ。
音楽を所有せずに、聞きたいときだけ利用するということだ。
日本ではまだまだだが、アメリカではすごい勢いで伸びている。
インフラさえ整えば、便利だからなあ。

ぼくが生きている間に、どこまで行くんだろうか。
コネクティッドカーの未来はどうなるのか。

しかし、そうなればなるほど、サイバー戦争の価値は上がるだろう。
未来の戦争は、物理的に戦わなくても終わるかもしれないぞ。

| | 考えたこと | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
地磁気逆転
千葉に地磁気の逆転がわかる地層がある、という記事が今朝の日経にあった。

現在の地球上で磁石をおくと、N極が北を指す。
北を指すからN極というのか、N極が指す方向を北と名付けたか、どちらが先かは定かではないが…。
人類の歴史が20万年くらいだから、ぼくらはずっと磁石でNが北の時代だった。

前にも一度書いたが、その地磁気が逆転するということが過去に何度か起こっている。
それが最後に変わったのが77万年前、という証拠が千葉県で発見されたとのこと。
今までは78万年前と言われていたが、1万年ズレていたということだ。

解説によると、地球の中にマグマが渦巻いているが、その中の液体になった鉄がぐるぐる回っていて、それによって磁気が発生している。
その流れが何らかの理由で変わると、地磁気の逆転が起こる。
過去360万年で11回も方向が変わったとのこと。

ということは、逆転の周期を倍ほど超えていることになり、いつ逆転が起こってもおかしくないということになる。
まあ、いくら急に変わるといっても、人間の時間のスケールでみたら何百年という単位になるんだろう。
過去200年間、地磁気の力は弱まっているとのこと。
これは地磁気の逆転の前触れなのかもしれない。

実際、逆転が起こるときには地磁気がゼロになるときがある。
磁気があるおかげで、人間にとってはいろんなメリットがある。
その一つが、太陽風というものの影響を受けないようにしてくれていることだが、ゼロになったら、もろにそれを受ける。
となると、今のままなら電子機器などが壊滅したりする。

NASAによるといったんゼロになったら、その状態が200年ほど続くらしい。

宇宙の時間で見たら、もうすぐだ。

人間同士で争っている場合ではないぞ。




| | 考えたこと | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
フェイクニュース
今朝の日経に、大学生の3人に1人が内定、という記事が出ていた。
あれはマチガイなく、本当ではないと思う。

この手の統計は毎年出るが、前年との比較で見るべきだ。
それをちゃんと伝えていないのは、マスコミの手落ちだと思う。

就活生はそういう情報に敏感だ。
時事問題対策もあって、普段新聞を見ない人も見ている。
そして、新聞には正しいことが書いてあると思っている。

3人に1人というと、スゴイ率だ。
6人いたら2人が内定取得という状況になる。
そんなはずがない。

大手企業は6月からという約束で、それに縛られない企業はどんどん内定を出していると言うが、いくらなんでも3人に1人は言いすぎだ。

就活関連の情報会社は、いずれも6月には新年度のインターンなどの情報サイトをオープンしようと思っているんだろう。
だから、もう新年度という事を煽らないといけない。
そういう事情もあって、どうしても大きな数字を出したいんだと思う。

それらの会社は新聞社と関係があるところが多い。
これぞ、フェイクニュース。

これでどれだけの就活生が不要な焦りを覚えるのか、わかっているんだろうか。

マスコミは自分たちの利益のためなら、平気でウソをつく。
厳密に言えばウソではなく、統計的真実なんだろうが、その元データーを少なくとも示すべきだ。

毎年これで焦る学生が気の毒だ。

| | 考えたこと | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
Facebookの連絡
Facebookに個人情報を登録していると、それに従って案内が来る。
誕生日を登録していると、友だちに連絡が入る。
入らないようにもできるかもしれないが…。

ここ数日で3つほど連絡が来た。
誕生年を入れていると、何歳になったかも連絡される。
ご本人が意識しているかどうかはわからないが、何歳になりました、という表示が出る。

他の人がそういうことになるのを見て、ぼくは生年月日を入れるのをやめた。
なんとなく余計なおせっかいのような気がしたからだ。

Googleの検索はどんどん手を伸ばしている。
Facebookのアカウントを持っていれば、名前で検索したらアカウントが出てくる。
アメリカのFBIのドラマを見ていたら、被害者や容疑者の情報を得るのに、担当のハッカーが検索をする。
すぐにいろんな写真が出てくる。
Facebookの友だちのリンクや、インスタグラムなどの写真サイトなどからも情報が出てくる。
あっという間に、ターゲットの志向や行動パターンなどがわかる。
ドラマとは言え、エライものだ。

そう思って見返すと、自分の考えていることは、Facebookでシェアした情報の中に入っていたりするし、「いいね」をクリックしたものを並べると、交友関係や好みがわかったりすると思う。

自分が悪いことをする予定もないし、誰に探られても別にかまわないのだが、なんとなく気持ちが悪い。

そう思うのならFacebookのアカウントなど消したらいいのだが、それも気が進まない。

ということで、中途半端な状態。

どうしたものか。



| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
字が下手になった
何度かワープロについて書いたが、考える速さで書けるようになると、キーボードで打つ方が圧倒的に便利だ。
その副作用で、従来通りペンで書くときは、意識してゆっくり書かないと、字が汚くなる。
もうペンで読める字で早く書くことはできない。

NHKのドラマ10で、「ツバキ文具店」というのをやっている。
現代の代書屋の話だ。
舞台は鎌倉。両親を亡くし、代書屋の祖母に育てられた娘がその店を継いだという話。
手紙を代筆する代書屋なんて、今はもう流行らない。
それでも、鎌倉の田舎で細々と先代の祖母を継いで、誰かのために手紙をしたためる。
その短編集をドラマにした。

ドラマの中に、依頼の内容によって、紙やペン、インクを選ぶシーンが出てくる。
どの紙を使うのか、それに合うペンはどれなのか、インクの色はどうするのか、そこから代書屋の仕事は始まる。
その上で、依頼者になりきって手紙を書く。
代書屋に手紙の依頼に来るような人は、何かある。
そこにドラマがあるということだ。

それを見ていると、昔のように字がかけたらいいと思う。
ぼくは字が綺麗ではなかったが、自分でも読みやすい字は書いていたと思う。
手書きのレポートを会社時代はよく書いた。
それももう30年ほど前の話。

読みやすい字を早く書けなくなったのは、ワープロの弊害だ。
自分でも情けない。

ゆっくり、キレイに書くという気持ちで書かないと、まともな字は書けない。

そこに戻ろうとすると、90年代まで戻らないといけない。

紙と鉛筆の時代が懐かしい。



| | 考えたこと | 21:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
Sさんを偲ぶ会
Sさんは2004年の5月に亡くなった。
一人暮らしで病死だった。

ぼくが会社を辞めた後だった。
Sさんとは縁があった。
会社に入った時の先輩だった。

そして、ぼくが会社を辞めるときの部署でも一緒だった。
机を並べて座っていた。
そんな関係で、仲良くしてもらった。

Sさんは礼儀正しくて、いい人だった。
学園紛争で東大の入試がなかった年に入試だったので、名大に行ったんや、と話していた。
本当なら、東京外大に行きたかったのだが、親父さんが工学系で、その道に進んだとのこと。
外国語の才能はすごかった。
英語はネイティブの発音だったし、ドイツ語、フランス語も分かっていたようだ。
趣味は推理小説と、英語の辞書を読むことだった。

Sさんが亡くなって3年後に実家から形見をもらった。
厚さ15センチはあろうかという英和翻訳表現辞典。
ここにも一度書いたが、スゴイ本だ。
本当に翻訳のプロが使うような本。
ところどころに線が引いてある。
本当に読んでいたんだなあと思う。

ユーミンが来るというレストランでよく奢ってもらった。
美味しい店だった。
その店に初めて連れて行ってもらった時、Sさんはすでに大のなじみ客だった。
店内に入ると、ウエイトレスさんが二言三言話しかけていた。
ぼくは一人やから、時々贅沢するんや、と言っていたのを思い出す。

お父さんを53歳で亡くしたので、自分がその年になった時、親父の年を超えたなあと話していた。

今日はゆかりの人が12人ほど集まって、Sさんを偲んで飲んだ。
毎年5月にやっている。
海外駐在も長かったので、その関係者が多い。

亡くなって、まる13年。

草葉の陰で喜んでくれているだろう。


| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
中2問題
東大とベネッセが「子供と生活と遊び」の実態調査を行って、小学校1年生から中学校1年生までは学習時間が増えるが、中2にで初めて減少する、ということがわかったらしい。
小学校1年生から高校3年生約2万1千組が対象とのことだから、まあそこそこ正しいのだろう。

ぼくは勉強が好きではなかった。
嫌いというより、面倒くさかったというのが一番大きい。
ぼくらの時代は、俗に言う「詰め込み教育」の時代だったから、やたらドリルが多かった。
分数の通分や約分、式の移項や変数を求めるもの、因数分解や2次方程式の根の公式など、小学校や中学校のころの算数が一番面倒くさかった。
そのへんが表に出てくるのが、中2なんだろうと思う。

調査によると、勉強が「嫌い」(「まったく+あまり好きではない」)と回答した子どもは、中学2年生で約6割に達したとのこと。
外聞を気にせずに言えば、勉強が嫌いだという子どもが6割しかいない、というのがぼくの感想。
もっと多くてもおかしくない。
子どもは勉強が嫌いなものだ。
でも、やらないと仕方ないと思っているから、やっている。
そういう大人の意識がないのが不思議だ。
調査した大人の人たちは、自分たちが勉強が好きだったと言うんだろうか。
そう思っているとしたら、そっちの方が問題だと思う。

今も昔も、子どもは勉強が嫌いなものだ、という前提に立って議論をしたほうがいい。
何でも、導入のところはシンドイのだ。
ギターを弾こうと思って頑張るが、Fのコードでつまづくのと同じこと。
最初のハードルを超えないと、楽しくなどない。
小中高の勉強など、全て導入のところばかりだ。
だから、面倒くさいし、やりたくないのだ。

今の先生は子どもは勉強が好きなものだ、という態度で教えているのだろうか。
自分を振り返れば、そんなはずはないとわかるはず。
さすがに現場はそんなことは思っていないような気がする。

ぼくは割合や分数でつまづいている大学生を見ていて、今の小中学校の教育は間違っていると思う。
積み上げ型の算数、数学といった科目は、基礎がわからないと先に進めない。
でも、現場の先生方は学習指導要領のとおりに教えようとする。
全くわからなくても、理解させようとするのだ。
とにかく、「理解」第一というのが間違いだと思う。
理解は後でもいいから、とにかく数をこなすことだ。
そうやってやっているうちに、理解できるようになってくる。

自分の経験から言っても、そういうものだと思う。
分数の割り算は、分子と分母をひっくり返して掛け算する、と覚えて何度もやる。
そうすることで、分数の割り算とは何か、ということなどわからなくても、計算はできるようになる。
でも、それが今はできないまま大学に入る。
きっと授業では理解したんだろう。
それでも、苦労している学生を見ていると、それを忘れてしまって、計算はできないままだ。

分数の割り算を理解することと、計算ができることは別だと考えて、とにかく身体で覚えるしかないと思う。
自分が受けた教育を正しいと思うのはバイアスだが、これは正しい。

小学校で覚えることは覚えてしまわないと先に進めない。

そこが問題だ。

| | 考えたこと | 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
お金と音楽
音楽業界の構図が変わっている。
従来ほどCDが売れなくなって、アーティストはライブで稼ぐようになった。
また、音楽のダウンロード販売やストリーミングが増えている。
これらは全て、音楽がデーターになったことから起こった。
それを先導したのがiPod、iTunesというインターネットを使った仕組みだろう。

それと同じようなことが、お金でも起ころうとしている。
インドでは高額紙幣を廃止し、電子マネーを増やしているらしい。
闇経済をクリーンにするという目的もあったようだが、それによって電子決済のシステムが増えている。
ATMがなくなる勢いだ。
中国でもスマホ決済が増えているらしい。
日本人はやっぱりお札が好きなんだろうか。

iPodが世に出たのは2001年。
当時はまだソニーのウォークマンが優勢だった。
しかし、16年経って完全に形勢は逆転してしまった。
インターネットで音楽データーを流通させる仕組みができて、ウォークマンは敗退した。
iPodの時代になったのだ。

それがお金という媒体で起ころうとしている。
お金もリアルなものから、データーになろうとしているのだ。
日本ではまだまだだが、それこそインドや中国、アメリカなどではそういう動きになっている。
Fintech(Financial Technologyの略語)という金融のテクノロジーが進んでいる。
やっぱりアメリカが中心だろう。
スマホのアプリでお金が使えるようになる。

そういうテクノロジーが進むと、本当にお金がデーターになる。
毎月の給与振り込みは、すでに現物ではなく、通帳のデーターになっている。
ただし、それらは銀行という安全な仕組みの中で行われているのだが…。
今はそれを現金に換えて、使っている。
でも、通販やカード決済を多用する人なら、今でも現金はほとんど使わないだろう。
全てはデーターのやり取りで済む。
それらの仕組みをもっと手軽にするのがFintechのテクノロジーだ。

ぼくにもイメージがわかないが、そういう時代が来る。
それに乗り遅れまいとして、メガバンクは投資し始めている。
やらなければ、やられる、と思っているのだろう。

これから銀行に就職する人は、テクノロジーの進歩に注意しよう。
定年まで今の規模の銀行があるかどうか…。

| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
水戸黄門再び
今年の10月から、また水戸黄門をテレビでやるらしい。
放送はBS-TBSでやるとのこと。
地上波でなくなった時代劇が、BSで復活するということになる。

時代劇は製作コストが高く、視聴者が高齢者に偏っているから、スポンサーがなくなり番組が消えていったというのがこれまでの歴史だろう。
今の20代、30代は時代劇など見ない世代だ。
アメリカの西部劇と同じような感じだろう。
実際、京都の東映太秦映画村のホームページを見ると、ここ数年毎年リニューアルを重ねていて、大変なんだろうと思う。

ぼくらは水戸黄門、遠山の金さん、銭形平次、必殺シリーズ、鬼平犯科帳などのテレビ時代劇シリーズが全盛のころに10代、20代を過ごした。
中学の同級生に水戸黄門の大ファンがいて、クライマックスの「助さん、格さん、もういいでしょう」といった後に「この紋所が目に入らぬか」という、わかりきった場面が嬉しくて仕方がない、と言っていた。
ある種、勧善懲悪、決まった手順、大団円の印籠というカタルシスに中毒になっているという感じだった。
ウチはそんなに時代劇のファンではなかったので、そこまでの思い入れはなかったが、それでも夕方にやっていた「遠山の金さん」の再放送はよく見ていた。
あれも、金さんが桜吹雪の入れ墨を見せる場面が似たような感じだった。

話がそれたが、今の60代であるぼくらが、時代劇に親しんだほぼ最後のジェネレーションではないかと思う。
しかし、それをなぜ今やるのか。
ほとんど、高齢者しか見ない時代劇にどういう変化があったのか。

一つはCGの技術が発達して、撮りやすくなったということがあるだろう。
「JIN-仁」というドラマで江戸の風景が出ていたが、あれはCGだった。
あの頃から、CGが多用されるようになって、撮りやすくなったんだと思う。
電線が写っていても、消してしまえるし、セット以外のところはCGでできたりする。

さらに、テレビCMに影響を受ける購買層が上がっている。
若い人はお金がない。
日本の可処分所得はずっと減少を続けているし、若い人はお金を使わないし、使えないのだ。
結局テレビCMを見て財布の紐を緩めるのは、中高年になる。

化粧品を見ればわかる。
資生堂やカネボウのような若い人向けのブランドの宣伝が減り、富士フィルムやサントリーのような新規参入組が中高年向けの化粧品を宣伝している。
若い人たちはもうテレビなど見ない。
ネットで情報を集めて、コンビニで化粧品を買ったりしている。
だから、中高年向けの番組はターゲットしやすい。

きっと水戸黄門のスポンサーは、中高年向けの商品の宣伝をする。

でも、また時代劇が始まるのはいいことだと思う。
どこを見ても、昼間のワイドショーに毛の生えたようなバラエティ番組ばかり。
楽屋落ちばかりのお笑いなど、ほんとに見苦しい。

武田鉄矢が黄門をやるらしい。
それが、ちょっとなあ。
助さん、格さんは誰がやるんだろうか…。


| | 考えたこと | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
眠らない脳
人間の脳は夜も眠らずに働いている。
脳は体重の2%程度の重さだが、エネルギーは18%も使う。
眠っている間も体温を調整したり、身体の基礎的な代謝をし続けないと生きられないから、脳幹はその活動をしている。
さらに、大脳は昼間の間に仕入れた情報を整理する仕事もしている。

昼間の脳は、いろんなところから過去の記憶を引き出し、新しい情報を取り入れ、例えていえば図書館で読んだ本を散らかして、今日入った新しい本も片付けず、積んでいる状態みたいなものらしい。
養老孟司が講演で言っていた。
それを脳は眠っている間に片付ける、ということだ。

ということは、新しい情報が増えれば増えるほど、古い記憶が増えれば増えるほど、片付けは大変になる。
小さい頃によく眠るのは、日々新しい情報が入ってくるからだろう。
毎日新しいことの連続だ。
物心ついてからも、いろんな体験をして大きくなっていく。
その整理が大変だから、脳は忙しい。

年をとって、またよく眠るようになるのは、記憶が増えたからだろうか。
何かを見たり聞いたりした時に、無意識にでもいろんな事を思い出していると思う。
意識の上でも、最近はいろんなことを思い出すことが多い。
頭の中の引き出しが年とともに増えているのだ。

誰かが話しているのを聞いたら、あいつみたいだとか思う。
ステレオタイプに勝手に置き換えたりしている。
過去の記憶に当てはめようとする。
年をとってガンコになるのは、そのせいかもしれないなあ。

そんな眠らない脳が人間をコントロールしている。

最近よく眠るようになったのはそのせいか。

| | 考えたこと | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
クモが1年間に食べる食料
スイスのバーゼル大学の先生の、クモが地球上で1年間に食べる量が、3億トン〜8億トンもある、という記事があった。

そこに人間が食べる食物の量も載っている。
74億人の人類が1年間に4億トンの肉や魚を食べるらしい。
世界中の人間の体重を合計しても4億トンになるとのこと。
つまり、だいたい1年間に自分の体重と同じだけの肉や魚を食べている、ということになる。
たぶん、先進国ではもっと食べているだろうし、飢餓に苦しんでいる人たちはもっと少ないんだろう。
穀物を除いて、1日200グラム程度。
豊かな国や貧しい国を平均すればそんなものなのかもしれない。

それに対して、クモは全世界で2500万トン生息しているらしい。
これこそフェルミ推定だが、「The Science of Nature」に発表するくらいだから確からしい数字なんだろう。
2500万トンのクモが、少なくとも3億トンの昆虫を食べる。
体重の10倍以上だ。
これはスゴイ量だ。
記事によると、これらのクモの大半は人里離れたジャングルなどにいるらしい。

ほんまかいな、という感じだが、記事によるとクモを駆除するとそのエリアの昆虫が異常に増えるとのこと。
地球環境のエコシステムにおいて、クモの役割は大きいということが論文の主旨らしい。

たしかに、クモは一般の昆虫と違って、足が8本ある。
身体で糸を作ってクモの巣を作り、それを張って一般の昆虫を捕食する。
ちょっと違った進化を遂げた生物だ。
分類上も昆虫類には入らない。

どんな経緯でクモが地球上に現われたのかはわからないが、大事にしないといけないということだ。

しかし、大きなクモはやっぱり気持ちが悪い。
ヘビと並んで苦手な人も多いだろう。

ウチでよく見るのはほんの小さな黒いクモだが、あれはネットでみると「アダンソンハエトリ」という名前で、クモの巣は作らないがハエや小さなゴキブリを捕食するらしい。

これは見つけてもほっておこう。

| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和の工場
昨日は学生時代の友だちと3人で飲んだ。
ぼく以外の2人は電気関係の会社に就職した。
一人は家電、もう一人は通信機だった。
二人とももう今はその仕事はしていない。

朝ドラの話になった。
昭和30年代の工場はあんな感じだったろう、という話。

朝ドラの舞台は向島電気という会社。トランジスタラジオを作っている。
そこでの基盤の組立ラインだ。
基盤が動いていく間に、トランジスタやコンデンサーなどの部品を人が手で所定の位置にはめ込んでいく仕事。
人が椅子に座って並んで仕事をする。
本当に労働集約的だったことがわかる。

後工程の人が何かミスを見つけると、非常停止のボタンを押して、ラインを止める。
主人公は高校を出て、集団就職で工場で働いている。
不器用でミスばかりしているというのが今朝のドラマ。
東京オリンピックの後だから、ぼくらが小学校の高学年というところだろう。

ちょうどそのころ、ソニーのトランジスタラジオが家にあった。
9Vの電池一つで動く、手のひらサイズのラジオだ。
AMだけのラジオだったが、当時各家庭にあったようなもの。
ちょうどその時代が、朝ドラの今だ。
基盤の上に、むき出しの抵抗やコンデンサ、3本足のトランジスタなどが並んでいた。

家電メーカーに勤めていた友人は、あれの進んだかたちが、ちょうど自分たちが就職した頃だったという。
あれほど人はいなかっただろうが、似たような感じだったらしい。

通信機の会社に入った友人は、1000人規模で採用していたので、「あ」の名前の人から工場実習の場所を割り当てていって、自分はちょうど検査の部署でめちゃ楽だったと言っていた。
出来上がりを見ていて、ダメなものだけハネるという仕事。
当時は人間の眼で確認していたということだ。
名前順で自分の次の人からは、メッキの工程で大変だったらしい。

ぼくはゴムの工場だったから、臭いがすごかった。
二人と違って、熱を使う装置産業だったから夜勤があった。
工場実習で3交代勤務をやった。
きつかったけど、工場の人たちのしんどさは身にしみた。

昨日はそういう話で盛り上がった。

今となっては古き良き時代。


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ツバメ その4
今年もいつもの通り、お弁当屋さんの軒先にツバメが帰ってきた。
しばらく前からその辺りを飛んでいる。

ツバメの平均寿命は短いが、生き延びて大きくなった個体は10年ほど生きるという。
鳥類は長生きだ。
前にも書いたが、ツバメは人を怖がらない。
だから、人間の家の軒先に巣を作ることで、他の鳥から攻撃されずに済む。
人間とツバメの歴史はどちらが長いのかはわからないが、長い間にそういう関係になったのだろう。

ツバメはあの小さな身体で時速200キロを出すことができる。
おまけに何千キロも離れた所に渡っていき、場所を覚えている。
まさに生命の不思議だ。

宮本武藏と決闘した佐々木小次郎の得意技に、ツバメ返しというのがある。
柔道の投げ技にもあるらしい。
いずれも、ツバメの素早い動きを由来にしている。

ツバメを見るようになると、もうすぐ暑くなる。
春が短くなって、夏が長くなった。
温暖化の影響だろう。

日本に滞在する期間も延びているのかもしれない。

農家にとっても、虫を捕獲してくれるから嬉しい鳥だという。
残念ながら広い空を飛び回るツバメはペットにはならない。
あの優雅な飛行の姿を眺めて感心するしかない。

秋になって、無事に巣立ってほしい。


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大学の丸投げ2
2月24日に「大学の丸投げ」について書いた。
その続き。

入試業務以外でも、業者に丸投げしている大学は、大部分が新設校だと思う。
90年代に小泉改革で規制緩和され、91年に大学設置基準が緩和され、新設校が続々とできた。
それらの学校はだいたい今は苦しい学校だ。

90年代に新設校が増えたことを裏付ける数字が、大学進学率。
91年には25.5%だったものが、2009年には50.2%まで上がっているのだ。
それら新設校は、今まで大学に入っていなかった学生25%を吸収したのだから、順当に考えてレベルは下る。
もちろん、大学教員も今までなっていなかった人たちがなるのだから、レベルは下る。
また、レベルは下がったとはいえ、大学教員の免許なるものはないから、そこでの先生は従来のアカデミックルートを通って教員になる。
教員は旧来の大学での研究というイメージを持っているが、入ってくる学生は従来のように研究するセンセイの背中を見て勝手にやれるというような学生ではない。
したがって、下位の大学では教育が成り立たない事が増える。
だから、ミスマッチが起こる。

それと併行して少子化が進展し、2000年代に入って「全入」ということが起こる。
大学志願者の数よりも、入試の定員の方が大きくなった。
つまり、入れる水よりも、入れ物のほうが大きくなったのだ。
実際、1992年には3人に一人いた浪人生が、今や8人に一人になっている。
80年代までは、入りたくても入れないから浪人していた受験生が、90年代になって大学が増え、志願者が減り、入れるところに入るようになった、ということだ。

それに合わせて、大学の入試も多様化する。
何度も書いたが、推薦、AOという選抜も増え、一般入試の回数も増えた。
関西の大手私大では、一つの学部に入ろうとすると、14回のチャンスがある、ということだった。
ぼくらの世代では、「推薦」というと「勉強ができる人」という感じだが、今はそうではない。
学校推薦は、一般入試を受けて入らない人が先生からもらうもの、という側面があるし、公募推薦となると校長の推薦をもらえばいい。
「評定平均」というこないだ書いた内申書の類を満たせばOKだ。

さらに、下位の学校ではAO入試を多用する。
なぜAOかというと、AOは一般入試の枠になっているからだ。
四年制大学は、推薦入試は半分まで、という文科省のルールがある。
だから、残り半分をAOで来てもらおう、ということだ。
つまり、定員を埋めるために、できるだけ易しい入試を増やしているということだ。
そして、一般入試は実施はするが、偏差値を上げるためにできるだけ上の方だけを合格させる。
それが下位の大学の実態。
これでは従来の教育の在り方では苦しいのが明らかだろう。

少子化と全入化で、受験産業の性格も変わってくる。
主に浪人生の面倒を見ていた河合塾などの予備校は、現役生にシフトし、さらに高校から中学、Z会などは小学校や幼稚園まで広げている。
その過程で、小さな予備校は大手に吸収されたり潰れたりした。
逆に小学生をやっていたベネッセは今は大学のビジネスにも入っており、生涯学習などもやっている。
それだけ子どもが減って、過当競争になったということだ。
今はネットのインフラも整備され、カリスマ予備校講師を集めて授業配信をやるところも出てきた。
そのうち、大学もそういうかたちになるかもしれない。

そんな変化が90年代以降起こって、今のような状態になったと思う。
だから、大学は従来の大学教育と学生のミスマッチを解消するために、教員では対応できない部分を「丸投げ」することになった。

長くなったので、「大学の丸投げ」の実態についてはまた今度。

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ゴールデンウィーク
今年もゴールデンウィークがやって来た。
元は天皇誕生日だった4月29日が昭和の日になって、1日のメーデー、3日の憲法記念日、4日のみどりの日、5日のこどもの日へと続く。
今年は4月30日が日曜、5月6、7日が土日なので長い休みになる人も多い。

会社に入った頃は、月に一度テストコースに出張していた。
たいがい5月の出張は、ゴールデンウィークと重なる日程だった。
きっとその期間はあまり予約が入らないので、取りやすかったんだろう。

ぼくらの出張はクルマで移動だったので、ゴールデンウィークと重なると大変だった。
とにかく、東京に入って、出ていくのが大変だった。
今のように首都圏の交通網は整備されていなかったし、車線の数も少なかった。
だから、高速道路はメチャ混みだった。

数十キロにわたって高速道路が駐車場にような状態になる。
今の渋滞とはだいぶ違う。
夜中に帰る、というような手を使ったこともあった。
宿舎を午前4時とかに出て、早めに帰るのだ。
それで、東京を抜ける渋滞はちょっとマシになるが、大津や天王山で渋滞に引っかかるのは仕方なかった。

というわけで、会社に入って6年ほどはゴールデンウィークは出張だった。
その後、自前のテストコースができたり、部署を変わったりして、ゴールデンウィークは休めるようになった。
とはいえ、80年代は「モーレツからビューティフルへ」の時代ではあったが、まだまだエコノミック・アニマルの時代でもあったから、休出も多かった。
自動車メーカーから、連休明けを納期に指定されると、部品メーカーは働かざるを得ない。
連休に出て、試験をやって、報告書を書く、というパターンだった。
当時は設計にいたから、そういう仕事が多かった。

90年代に入ると、海外とのやり取りが出てくる。
最初に、Golden weekとFaxに書いて、それは何だ?と聞かれたのは新鮮だった。
和製英語だから通じないのは当たり前なのだが、それを確認できたということだ。
英語の単語を使うから、意味まで通じるというものではない。
ホントに海外とのコレポン(コレスポンデンス=やり取りのこと)が多くなった。
それに巻き込まれた企業は、とても「ビューティフル」などではなく、会社に来たら海外からFaxが来ていて、こちらが返事を出すとまた夜の間に返事が来る、という具合で貧乏暇なしだった。
あの頃は本当によく働いた。

2000年になって、部署を変わってから、ゴールデンウィークは休めるようになった。
でも、2004年に学校法人に転職して、また休めなくなった。
メーカーを辞めて、始めて5月1日のメーデーが一般的には休みではないことがわかった。
ぼくのいた会社では、それまで常識的に休んでいたからだ。

そんなこんなで60歳。

人生は長い。

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